郵便学者・内藤陽介のブログ
 切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。
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 次はロンドン
 北京オリンピックはようやく昨日、閉幕となりました。で、次の夏季五輪は2012年のロンドンというわけで、オリンピック便乗企画の最後はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 韓国・ロンドン五輪(1948)

 これは、大韓民国発足直前の1948年6月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮で発行されたロンドン五輪の記念切手です。

 朝鮮系アスリートが国際大会に本格的に参戦したのは、植民地時代の1932年に行われたロサンゼルス五輪が最初のこととされています。その後、1936年のベルリン五輪ではマラソンの孫基禎が金メダルを獲得したほか、南昇龍も銅メダルを獲得するなどの好成績を収めるなど、朝鮮系の選手はそれなりに実績を残していますが、当時は、朝鮮そのものが日本の統治下にありましたので、朝鮮系の選手は“日本人”という扱いになっていました。

 1945年の解放により、国際スポーツの世界においても“朝鮮”は独立した存在として認知されましたが、南北の分断が固定化されていく中で、全朝鮮の統一的なスポーツ組織の結成は、事実上、不可能となります。

 このため、1948年7月29日に開幕した戦後最初のオリンピック、ロンドン五輪の際には、“朝鮮”の五輪代表をめぐってさまざまな混乱が生じることになりましたが、結局、アメリカ軍政下の南朝鮮が“KOREA”チームを構成し、“朝鮮”代表を派遣しています。

 当時、李承晩は、国連決議に基づいて、南朝鮮での単独選挙を実施するなど、ソ連軍占領下の北朝鮮地域を除く大韓民国の樹立に向けて準備を進めており、ロンドンへの代表チーム派遣も、そうした政治的な文脈の下、南朝鮮から大韓民国につながるラインこそが朝鮮の正統政府であることを内外にアピールするためのものでした。

 一方、1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を発足させて以来、北半部での単独政権樹立を着々と進めていた北朝鮮にとっても、南朝鮮の一連の動きは、南北分断に向けた自分たちの過去の行動をカムフラージュするとともに、「南側が先に分断を仕掛けたために“やむをえず”自分たちも独自の政府を樹立するにいたった」と主張するアリバイ作りとして好都合でした。このため、北朝鮮は、南側のこうした動きに抗議していたものの、ソウル五輪の時のような妨害行動には出ていません。

 1948年に南北両政府が相次いで発足する前後の動きは、切手や郵便物にもいろいろと痕跡を残していますが、それらについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもまとめていますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 韓国の制憲節
 きょう(7月17日)は、韓国では、いまから60年前の1948年に最初の大韓民国憲法が公布されたことにちなみ、“制憲節(憲法記念日)”になっています。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 憲法公布

 これは、1948年8月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮(大韓民国の発足は2週間後の8月15日です)で発行された「憲法公布」の記念切手の1枚で、中央政庁(旧総督府庁舎)を背景に家族が描かれています。

 大韓民国の正式発足を控えて、1948年7月17日、政府組織法とともに公布された大韓民国憲法は、制憲憲法ないしは第1共和国憲法とよばれており、前文と103条の条文から構成されています。ちなみに、アメリカ軍政終了後の国号を“大韓民国”とすることは、1週間前の7月10日に国会で正式に決めらました。

 当初、憲法の草案では、大韓民国の政体は国務総理を置く議院内閣制とされていましたが、制憲国会議長の李承晩が米国式の大統領制を強硬に主張し、調整は難航。このため、8月15日に予定されていた新国家発足に間に合わせるべく、大統領の下に国務総理を置き、大統領は国会議員の間接選挙で選ぶとする妥協案が出され、ようやく決着しました。

 ところで、今回ご紹介の切手の印面には、憲法公布当日の7月17日の日付が入っていますが、実際の発行日は8月1日までずれ込んでいます。こうした事例は、当時の南朝鮮切手では珍しいことではなく、初代大統領就任の記念切手も8月5日の発行であるにもかかわらず、切手上には7月24日との日付が入っています

 なお、この切手では、日付表示の年号が西暦ではなく、“檀紀(伝説上の朝鮮の始祖・檀君に由来する暦年。西暦に2333年をプラスする)4281年”となっています。制憲憲法の前文は、「悠久の歴史及び伝統に光輝く我が大韓国民は〜」との文言で始まり、「檀紀4281年7月12日この憲法を制定する」との一節で終わっていますので、切手もこれと平仄を合わせた形になっています。これは、アメリカ軍政の終了と新国家のスタートに合わせて西暦を廃し、自国の伝統とナショナリズムをより前面に押し出すことが必要と判断された結果といえましょう。

 なお、1945年の“解放”後、1948年に大韓民国が正式に発足するまでの、アメリカ軍政下の南朝鮮に関しては、いろいろと面白いマテリアルがあるのですが、その一部については新刊の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいくつかご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 切手の中の日本と韓国:解放切手
 雑誌『表現者』の第18号が出来上がりました。僕の連載「切手の中の日本と韓国」という連載では、1946年発行の南朝鮮(大韓民国ができるのは1948年のことです)の正刷切手である“解放切手”と(画像はクリックで拡大されます)と日本との関係について取り上げました。

 解放切手

 1946年5月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮で“解放切手”と称する6種類の切手が発行されました。解放切手は、オフセット印刷で、3銭、5銭、10銭、20銭、50銭、1円の6種類で、低額4種には上の画像に示すような家族と太極旗が、高額2種には太極文様が、それぞれ描かれています。

 解放切手は、名目上は“(米軍による南朝鮮)解放の記念切手”でしたが、総計4470万枚発行され(うち、1946年の製造数は3000万枚)、実質的に通常切手として用いられました。ちなみに、1946年に南朝鮮郵政が発行した他の記念切手の発行枚数は30万枚もしくは50万枚ですから、解放切手の発行枚数は突出しています。

 当時の南朝鮮内には、これだけの量の切手を短期間に確実に製造しうる印刷所はありまsんでしたから、解放切手は、デザイナーの金重鉉がソウルで作成した原画をもとに、日本の印刷局の彫刻課長・加藤倉吉が原版を彫刻し、印刷局で印刷するという方式で調製されました。ただし、当時は日本国内でも、切手には目打や裏糊がないのが当たり前でしたから、解放切手も日本で印刷された後、目打作業は現地で行われています。

 ところで、日本側が南朝鮮の切手の印刷を受注した背景には、一種の賠償のような意味合いがあったと説明する人がときどきいるのですが、むしろ、当時の日本人の多くは、敗戦後の朝鮮で資産を没収ないしは接収されたことに対して、賠償を求めるのは自分たちのほうだという意識のほうがはるかに強かったとおもわれます。実際、1953年の日韓国交正常化交渉に際して、日本側首席代表の久保田貫一郎は「日韓併合は負の側面ばかりではなく日本は朝鮮半島の工業・農業基盤を整備し、日本は年間2000万円も朝鮮半島に持ち出した時もあった。韓国側が“日帝36年”についての請求権を要求するなら、日本も朝鮮半島に投資し、戦後、接収された日本資産についての請求権の行使を要求する」という趣旨の発言をしていますが、おそらくこれが、当時の日本人の標準的な認識だったのではないでしょうか。

 したがって、日本の印刷局が解放切手を製造することになったのは、当時の朝鮮内では大量の切手を短期間に調整できないという現実に直面した米軍政庁が、日本を占領していたマッカーサー司令部に対して支援を求めた結果と考えるのが自然ではないかとかんがえられます。いずれにせよ、日本時代の過去と訣別するために発行されたはずの“解放切手”が、実は、日本の印刷局によって製造されたものであったというのは、なんとも皮肉な話ではありますが…。

 さて、昨日(20日)、韓国の李明博大統領が来日しました。“実利主義”を掲げる現大統領は、就任直前の外国メディアとの会見では、「私自身は新しい成熟した韓日関係のために、“謝罪”や“反省”は求めない」、「日本は形式的であるにせよ、謝罪や反省はすでに行っている」、「こちらが要求しなくても、日本は(謝罪と反省を)言うくらいの成熟した外交をするだろう」と述べ、 未来志向の関係構築に向け、歴史認識問題で日本に謝罪を求める考えはないことを明らかにするとともに、日本側の自発的取り組みを促すという姿勢をとっていますが、先代の盧武鉉も就任当初は、さかんに“未来志向”と言っていましたからねぇ。韓国の歴代政権には、国内の政局運営がうまくいかなくなると“反日”でガス抜きを図ろうとする悪癖がありますが、李政権がそれを克服できるかどうか、我々としても注視していきたいところです。

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 60年前の韓国総選挙
 韓国では今日(9日)、国会議員総選挙の投開票が行われています。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 南朝鮮・第1回総選挙

 これは、大韓民国成立直前の1948年5月10日、アメリカ軍政下の南朝鮮で行われた第1回総選挙の記念切手が貼られたアメリカ宛の初日カバーです。

 日本の敗戦後、連合国軍最高司令官一般命令第1号により、朝鮮は米ソにより北緯38度線で南北に分割占領されます。これは、当初はあくまでも暫定的な措置とされていましたが、その後、東西冷戦の進行により、5年間を限度とする信託統治の後、南北統一の政府を樹立するというモスクワ協定(1945年12月)のプランは実現が困難になっていきます。

 米ソ間の調整が難航する中、アメリカは自力での問題解決をあきらめ、1947年9月17日、朝鮮問題を第2回国連総会に上程。国連臨時朝鮮委員会を設置し、1948年3月末までに、同委員会の監視下に総選挙を実施するとの決議を採択させます。

 しかし、すでに北朝鮮のソビエト化をほぼ完成させていたソ連は、朝鮮半島からの米ソ両軍の同時撤兵を主張。選挙監視のために国連委員会が北緯38度線以北に立ち入ることを拒絶しました。このため、1948年2月、国連総会中間委員会は、“選挙の可能な地域”、すなわち南朝鮮での単独選挙を決議。こうして、同年5月10日、米軍政下の南朝鮮で第1回総選挙が実施されました。

 総選挙が行われた当時、南朝鮮の人口は2000万人で、選挙前日の5月9日までに選挙登録を行ったのは、全有権者の8割弱にあたる783万7504名でした。選挙は1区1人の単純小選挙区制で総定数200です。

 日本の植民地支配下では、ながらく、朝鮮を含む“外地”に関しては選挙区が設定されておらず、その結果、住民の選挙権もありませんでした。終戦直前の1945年4月になってようやく、朝鮮・樺太・台湾で男子住民に対する選挙権が与えられたものの、選挙が行われる前に終戦となってしまいます。

 このため、1948年の総選挙は朝鮮史上初の本格的選挙というべきもので、それを記念し、あわせて周知するための切手として、投票日当日の1948年5月10日に発行されたのが、今回ご紹介の切手です。なお、切手のデザインは2種類ありますが、このうちの20ウォンおよび50ウォンの切手には投票する男女の姿が描かれており、日本時代には認められていなかった婦人参政権も認められるようになったことがアピールされています。

 ただし、このときの選挙に関しては、南北統一政府の樹立を主張する金九や金奎植が、単独選挙は南北分断を固定化するとの理由から投票をボイコットするなど、総選挙をめぐる国内情勢は非常に不安定でした。また、済州島では大規模な武装蜂起が起こったため選挙は実施されていません。

 ちなみに、選挙の投票率は90・8%で、投票の結果、済州島の2選挙区を除き、198名が当選。このうち、53議席を獲得して第1党となったのは、大韓独立促成国民会(1946年2月に米軍政庁の支援を受けて組織された李承晩系の組織)で、29議席を獲得した韓国民主党(韓民党)がこれに続くという結果になりました。

 今回ご紹介の第1回総選挙を含め、アメリカ軍政時代末期から大韓民国成立までの重要な出来事は、南朝鮮の切手にことごとく取り上げられているので、それらを並べてみると、この時期の政治の流れを把握することができます。ただし、この時代の切手は未使用は多いのですが、気の利いたカバーなどが少ないので、リーフとしてまとめようとすると、ここに挙げたような初日カバーも使わざるを得なくなってくるのが、辛いところですが・・・。

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 切手の中の日本と韓国:日本切手の戦後使用
 雑誌『表現者』の第17号が出来上がりました。僕の連載「切手の中の日本と韓国」という連載では、前回に引き続き、1945年に米軍による南朝鮮(大韓民国ができるのは1948年のことです)の占領が始まった当時の話ということで、こんなモノも取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

 昭和切手の戦後使用

 これは、アメリカ軍政時代の1946年3月8日、朝鮮殖産銀行の統営支店(慶尚南道)からソウルの朝鮮貯蓄銀行宛の郵便物です。貼られているのは、日本時代に使われていた東郷平八郎元帥の5銭切手ですが、この料金は、日本時代末期のものがそのまま踏襲されています。また、消印も年号こそ昭和から西暦に改められているが、それ以外は日本時代のものがそのまま使用されています。

 1945年9月9日、南朝鮮占領のため、ソウルに入城したアメリカ第24軍(司令官はジョン・R・ホッジ中将)は、軍政開始後の第一声として、阿部信行総督を含む全ての日本人・朝鮮人は現職に留まったまま、従来どおり、朝鮮総督府の機能を継続させるとのプランを発表します。

 日本の降伏は1946年以降にずれ込むものとながらく考えていたアメリカは、1945年8月の時点では、戦後の朝鮮占領について、なんら具体的なプランを策定していませんでした。そもそも、ホッジひきいる第24軍が南朝鮮に派遣されたのも、彼らが朝鮮に近い沖縄に駐留していたからというのが最大の理由だったほどです。このため、とりあえず南朝鮮に上陸したホッジにしても、とりあえずは“現状維持”からスタートするしかなかったというのが実情でした。

 一方、朝鮮内では、日本の降伏イコール朝鮮の独立という空気が充満しており、敗戦で茫然自失となっていた日本の総督府の威令は急速に地に堕ち、治安が悪化します。このため、上陸したホッジは、なによりもまず、社会秩序の維持という占領の大原則を守るためにも、米軍の進駐に協力的であった日本人の支配機構を活用しておくのが便利だと考えたわけです。

 ところが、独立を期待していた朝鮮人は、こうした米軍の対応に猛反発します。住民からの予想外の反発に当惑したホッジは、本国国務省やマッカーサーの指示もあり、9月11日、軍政の施行を宣言。翌12日、朝鮮総督府を廃止して阿部総督以下の日本人官吏を解任し、占領行政のための新たな機関として、アーノルド少将を長官とする軍政庁を設置しました。

 もっとも、事前に十分な準備もせずに上陸した米軍が、ただちに、独自の統治機構を用意できるはずもなく、結局のところ、軍政庁の基本的なシステムは旧総督府をそのまま継承したものでしかありませんでした。また、日本人の元植民地官僚の中には、追放後も、軍政庁の顧問的な存在となっていた者も少なからずいましたし、日本人官吏追放後、軍政庁において部長職に就任したのは、多くの場合、旧総督府の官吏でした。アメリカ軍政下においても、当面、日本切手が使用されていたのは、こうした文脈によるものです。

 こうして、建前はともかく、実態としては日本時代の継承というかたちで朝鮮の戦後史は始まるわけですが、日本の降伏イコール朝鮮の解放というイメージが強いためか、こうした“連続性”は往々にして無視されがちです。しかし、今回ご紹介したような郵便物を見てみると、南朝鮮においても“戦前”と“戦後”は間違いなく連続しているということがお分かりいただけるのではないかと思います。
 出来レースの選挙
 韓国では、今日(12月19日)、大統領選挙の投開票が行われます。というわけで、韓国の大統領がらみのネタのなかから、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

韓国・初代大統領就任

 これは、大韓民国成立直前の1948年8月5日にアメリカ軍政下の南朝鮮で発行された“初代大統領就任”の記念切手の初日カバー(新切手を封筒に貼って、発行初日の消印を押したもの)で、韓服姿の李承晩が描かれています。

 1948年7月17日、大韓民国の樹立を間近に控えたアメリカ軍政下の南朝鮮で公布された憲法(第一共和国憲法ともいう)では、大統領の下に国務総理を置き、大統領は国会議員の間接選挙で選ぶことになっていました。

 当時の国会(憲法草案の審議が最大の議題だったため、制憲国会と呼ばれる)では、李承晩系の大韓独立促成国民会が53議席で第1党となっていましたが、これは全198議席のうちの4分の1しかありません。このため、大統領を目指していた李は多数派工作を開始し、第2党の韓国民主党(韓民党)と連携。7月20日、念願の初代大統領に選出されました。

 李承晩は、1875年3月、現在は北朝鮮の支配下にある黄海道平山郡の李朝の王室ともつながる名家に生まれました。戦前は、主として、ハワイ、アメリカで独立運動家として活動し、日中戦争期のアメリカの対中支援政策と絡めて、朝鮮独立に対する支援を訴えています。特に、1941年3月に発表された著書『私の日本観(原題はJapan inside out: the challenge of today)』は、同年末に太平洋戦争が勃発したことでいちやく脚光を浴び、李は自称「大韓民国臨時政府・大統領」の肩書をもって、日本の“極悪非道ぶり”を宣伝しながら朝鮮の独立を訴える積極的なロビー活動を展開していました。

 解放後の1945年10月、李はアメリカ軍政下の南朝鮮に帰国。1946年5月に米ソ共同委員会が無期休会となった時点では、南朝鮮代表民主議院(米軍政庁の諮問機関)の議長として、東西冷戦という国際環境を睨みつつ、アメリカとのパイプを最大限に活用し、政治権力を拡大していきました。

 このように、李承晩は、長年にわたってアメリカを拠点に独立運動を展開してきたというキャリアゆえに国際的な知名度を獲得し、国内では米本国が最も支持する政治家との印象を植え付けることで権力を掌握したこともあって、現在残されている彼の写真は、伝統的な韓服姿ではなく、背広姿のもの圧倒的多数を占めています。

 しかし、彼の権力基盤であったアメリカとの関係は、民族独立を果した新国家の長としては、“事大(韓国・朝鮮の政治的文脈では大国追従の意味を持つ)主義”とのマイナス・イメージとも重なり合う危険性もありました。このため、李は、切手の肖像を伝統的な韓服姿とすることによって、李朝の王室とも血縁関係にある名家出身の民族主義者という自己演出を企図したのではないかと考えられます。(ちなみに、大韓民国政府術の記念式典でも、李は韓服を着ています)

 ところで、今回ご紹介の切手は1948年8月5日の発行です。大統領就任式は7月24日でしたから、切手の発行はそれからわずか12日後ということになります。仮に国会での間接選挙が行われた7月20日から数えたとしてもわずか半月後のことで、おそらく、デザインの大半を事前に準備しておき、実際に大統領に選出されるのを確認してから、日付のみを加えて印刷に回すという方式を採ったのではないかと思います。まぁ、このときの選挙が出来レースみたいなものだったからこそ、可能だったんでしょう。

 さて、今回の大統領選挙では、野党の李明博が圧倒的に優勢で、日本のテレビだったら開票即当確という報道になる状況のようです。まぁ、最初から結果がわかっているようなものなのとはいえ、いわゆる八百長的な色彩はなさそうですから、これを“出来レース”といってしまうのは李明博に気の毒でしょう。ただ、年明けの就任式にあたって発行されるであろう“新大統領就任記念”の記念切手に関しては、韓国郵政は李の当選は堅いと見て、すでに制作作業が始められているかもしれませんけどね。
 信号機カバー
 今日(8月20日)は、1931年に日本で初めて赤・黄・青3色の交通信号機が設置されたことにちなんで、“交通信号の日”なんだそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

南朝鮮・原符

 これは、1946年4月8日、米軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ成立していません)で、差出人が郵便物をまとめて差し出しされた際、その料金を徴収した原符で、乃木希典の2銭切手、富士桜の20銭切手、金閣寺の50銭切手が貼られています。金閣寺の切手の刷色は、正確には灰味茶・黄味茶ですが、まぁ広い意味での“黄色”と捉えて、赤・黄・青の信号機の3色の切手が貼られた“信号機カバー”の一種とみることも可能かもしれません。

 日本の敗戦により、朝鮮半島は北緯38度のラインを境として、米ソによって分割占領されました。このうち、米軍政下に置かれた南朝鮮では、1946年2月に“朝鮮郵票”を意味するハングルと新額面を加刷した切手が、さらに同年5月には“解放切手”と呼ばれるオリジナル・デザインの切手が発行されましたが、同年6月30日までは日本時代の切手もそのまま有効とされていました。

 今回ご紹介している原符は、そうした時期の南朝鮮での日本切手の使用例で、原符の用紙は日本時代のものがそのまま使われているほか、光化門局の消印も(年号こそ西暦表示になっていますが)日本時代のものが使われています。当時の南朝鮮において、日本時代の“遺産”を無視しては郵便事業が成立しえなかったことを物語る資料といってよいでしょう。

 信号機カバーというのは、ただ単に貼られている切手の色あわせでしかないので、それがどうしたと言われれば身もフタもないのですが、単純素朴に見ていて楽しめるという面は否定できないと思います。

 今年は間に合わないでしょうが、来年以降、毎年8月20日の交通信号の日にあわせて、ウェブサイトなりブログなりをやっている切手収集家の皆さんが、それぞれ自分の手持ちの信号機カバーを1通ずつ披露するというようなことをやってみたら、いろいろとバラエティに富んだ画像が見られて楽しいかもしれませんね。
 丙戌
 今日は立春。というわけで、干支の世界では、今日からが正式に丙戌の年ということになります。

 で、60年前の丙戌の年に発行された切手・葉書の中で、犬が登場する印象的なものということで、今日はこの1枚をご紹介します。

韓国の解放1周年の絵葉書

 この絵葉書は、1946年8月15日、米軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していませんので、当時はこの呼び名が正式なものです)で“解放1周年”を記念して発行されたもので、太極旗を掲げて、日章旗を踏みつけながら行進していく朝鮮の人々の姿が描かれています。

 まぁ、分かりやすいといえば非常に分かりやすいデザインなのですが、画面の左側に↓な感じで犬が描かれているのは、案外、見落としている人も少なくないのかもしれません。

犬の部分

 デザイナーとしては、この犬は行進する人々のところに駆け寄ってきているつもりで描いたのでしょうが、見ようによっては、行進の人々と袂をわかって逃げていくようにも見えないこともありません。ひょっとして「“日帝の走狗”はとっとと出て行け」という寓意ではなのでしょうか。まさかねぇ。

 さて、現在、ちくま新書の1冊として3月上旬に『これが戦争だ!』を刊行すべく準備を進めているのですが、この葉書は、そのカラー口絵でご紹介する予定です。(もちろん、犬がらみの話題ではありません)

 また、刊行が間近になりましたらいろいろとご案内申し上げますが、なにとぞよろしくお願いします。
 朴憲永
 今朝のテレビは、昨日行われた朝鮮労働党60周年記念式典のニュースがトップで、パキスタンの地震も、ドイツのメルケル政権の発足も、なんとなく影の薄かった感じです。

 現在の北朝鮮の支配政党である朝鮮労働党は、当初、朝鮮共産党(太平洋戦争後、在地の共産主義者であった朴憲永がソウルで結成した共産党組織)の“北朝鮮分局”として発足しました。これが、1945年10月10日のことで、今回の60周年というのは、ここから起算した年周りです。

 朝鮮共産党北朝鮮分局という形式が取られたのは、当時はコミンテルンの一国一党原則が生きていたことに加え、朝鮮に南北両政府で分断されるということが想定されていなかったためです。ただ、北朝鮮を占領したソ連当局としては、この地に衛星国を建設するためには、なんとしても自分たちの息のかかった金日成が主導する共産党組織を作る必要があったわけで、彼らとしては“分局”を実質的に朝鮮における共産主義の本家として育成するつもりが当初からあったことはいうまでもありません。

 さて、朴憲永の朝鮮共産党は、1945年末からはじまった反託闘争(信託統治反対闘争。詳しくは10月4日の記事 もご覧ください)の混乱の中で、米軍政庁に抵抗する姿勢を鮮明に打ち出していました。このため、占領当局は共産党の弾圧に乗り出し、1946年9月6日、朴ら党幹部には逮捕状が出ます。このため、幹部が北へ逃れるとともに、同年11月、朝鮮共産党を中心に、南朝鮮新民党・朝鮮人民党の左派勢力が合併し、南朝鮮労働党が発足。一方、北朝鮮では、これに先立つ1946年8月、朝鮮共産党北朝鮮分局が朝鮮新民党を吸収して北朝鮮労働党をつくっていました。この南北の朝鮮労働党が、1949年6月に合併して誕生したのが、現在の朝鮮労働党の原型です。

 この時期の、朝鮮内の混乱を良く示すマテリアルとしては、こんなものをご紹介してみましょう。

朴憲永嘆願書

朴憲永カバー

 これは、朴憲永に対する逮捕令が発せられた後の1947年1月、南朝鮮(このときはまだ大韓民国は成立していない)占領の最高司令官であったホッジ中将宛に、朴の逮捕令を取り消すよう求めた嘆願書です。この時期、すでに朴は越境して北朝鮮に逃れていましたが、そのことを知らない一般の南朝鮮市民の中には、北朝鮮に突如(ソ連から帰国して)現れた金日成のような若造ではなく、戦前からの共産主義運動の指導者として名高かった朴に、統一朝鮮の政治指導者としての役割を純粋に期待していた人も少なからずいたのです。この手紙の差出人も、まさに、その一人だったのでしょう。

 ちなみに、北朝鮮に渡った朴憲永は、1949年6月に朝鮮労働党が成立すると、その中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任し、その後も、北朝鮮国家の副首相や外相を歴任します。しかし、朝鮮戦争の休戦後、金日成らとの権力闘争に敗れ、朝鮮戦争での半島統一の失敗の責任を負わされたうえ、アメリカのスパイとして処刑されるという悲劇的な運命をたどっています。

 さて、10月28〜30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品する予定です。朝鮮半島に関しては、この嘆願書も含め、1948年に南北両政府が発足するまでの歩みを切手や郵便物でたどります。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。


アクセス数 (2005年6月1日〜)

プロフィール

内藤陽介 (ないとう・ようすけ)

Author:内藤陽介 (ないとう・ようすけ)
 1967年、東京都生。東京大学文学部卒業。郵便学者。日本文芸家協会会員。切手の博物館・副館長。切手などの郵便資料から、国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し、研究・著作活動を続けている。
 主著:<解説・戦後記念切手>シリーズ(日本郵趣出版、現在、第6巻まで刊行)、『北朝鮮事典』、(竹内書店新社)、『外国切手に描かれた日本』(光文社新書)、『切手と戦争』(新潮新書)、『反米の世界史』(講談社現代新書)、『皇室切手』(平凡社)、『これが戦争だ!』(ちくま新書)、『満洲切手』(角川選書)、『香港歴史漫郵記』(大修館書店)、『タイ三都周郵記』(彩流社)ほか著書多数。最新作は『韓国現代史:切手でたどる60年』(福村出版)

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