内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 日本人も参加の独立戦争
2017-03-02 Thu 14:01
 28日からヴェトナムをご訪問中の天皇・皇后両陛下は、きょう(2日)、第二次大戦後も現地に残って第一次インドシナ戦争を戦った元日本軍将兵の遺家族とお会いになります。ということで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ヴェトミン加刷カバー

 これは、1946年3月3日、ヴェトナム民主共和国第1期国会(制憲国会)の開会記念カバーで、いわゆるヴェトミン加刷切手が2枚貼られています。

 第二次欧州大戦勃発後の1940年6月14日、ドイツ軍はパリに入城。同22日、フランスは降伏します。これにより、フランス北部と大西洋沿岸はドイツによって占領され、フランス南部は、親独ヴィシー政府が管轄することになりました。

 この結果、現在のヴェトナム・ラオス・カンボジアに相当するフランス領インドシナ(以下、仏印)は、いわば主なき状態に放り出されます。そして、この機に乗じて、日本はヴィシー政府に圧力をかけ、8月30日、フランスのアンリ大使との交渉で、北部仏印に関する協定をまとめることに成功しました。

 この協定に基づき、日本側は、極東におけるフランスの権益とインドシナの領土保全を認めた上で、ハノイ経由での援蒋物資の輸送を停止するため、9月23日、北部仏印に進駐。さらに、翌1941年7月、日本軍は南部仏印にも進駐し、仏印全域を事実上の軍事占領下に置きました。

 その後も、仏印は日本に対して好意的な中立を保つという状況が戦争末期まで続いていましたが、戦争末期になって、東南アジア各地からの撤退を余儀なくされた日本軍は、日本本土と中国戦線の交通が途絶することを恐れ、1945年3月、“明号作戦”を発動し、フランス植民地政府を武力によって解体。ヴェトナムラオスカンボジアに旧王族を担いだ親日政府を樹立します。

 しかし、ほどなくして、1945年8月15日に日本の敗戦が発表されると、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきた越南独立同盟(ヴェトミン。1941年結成)はヴェトナム独立を宣言してハノイで蜂起。9月2日、ホー・チ・ミンを国家主席とするヴェトナム民主共和国臨時政府の樹立が宣言されました。これに伴い、臨時政府の支配地域では、仏印時代の切手に“ヴェトナム民主共和国”を意味する“ Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa”と加刷した切手が発行・視聴されています。今回ご紹介のカバーに貼られている切手も、その一種です。

 1945年9月2日の降伏文書調印に続き、連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサー)の名前で「一般命令第一号」が発せられると、ヴェトナムでは、旧宗主国のフランス軍が本格的に進駐するまでの暫定措置として、北緯16度線以北に中国国民党軍が、以南に英軍が進駐。その後、10-11月にかけて、ようやく、フランス軍が進駐します。なお、この間、日本軍第38軍は連合国軍の進駐に備えて待機していましたが、一部はヴェトミンなどに武器を引渡したり、個人としてヴェトミンに合流する者もありました。

 中英による分割占領時代、ヴェトナム北部では、反共を国是とする国民党軍の下でヴェトミン系労働者の多くが逮捕・追放されたため、臨時政府は非共産主義者を入閣させるとともに、1946年1月6日に総選挙を実施。3月3日には憲法制定のための第1期国会が発足します。今回ご紹介のカバーは、これを記念して制作されたものです。

 さて、1946年2月28日と3月6日、臨時政府はとフランスと予備協定(ハノイ暫定協定)を締結。これにより、フランス連合インドシナ連邦の一国としてのヴェトナム民主共和国独立と、独立後もトンキン地方にフランス軍が駐留することが決められました。しかし、その一方で、ヴェトミンの勢力が及ばなかったヴェトナム南部に関しては、フランスは、プランテーション入植者の既得権益を優先するため、3月26日、親仏傀儡政権として“コーチシナ共和国”を成立させます。

 こうしたこともあって、予備協定の締結後も、ヴェトミンとフランス軍との小競り合いは止まなかったため、6月1日、ヴェトミンは独立戦争の長期化に備え、クァンガイ陸軍中学を設立します。同校の校長はグエン・ソン将軍、政治委員は第5戦区上級軍事幹部ドアン・クエ(いずれもヴェトナム人)でしたが、教官・助教官と医務官は全員、旧日本陸軍将校・下士官で構成されていました。こうした日本軍出身教官の指導の下、ヴェトナム初の本格的な陸軍士官学校となった同校はヴェトナム陸軍をインドシナ随一の精強兵力に育て上げ、フランス、米国、中国との戦争でのヴェトナム軍の勝利に大いに貢献しています。

 陸軍中学の設立後、ホー・チ・ミン以下、臨時政府の代表団は、フランス本国のフォンテーヌブローでヴェトナムの独立問題についてフランス側と協議したものの、コーチシナの分離問題などで9月には交渉は決裂。同年12月19日、フランス軍がトンキン・デルタ地帯の各要衝やハノイのホー・チ・ミン官邸、その他重要施設を襲撃したのをきっかけに、1954年のジュネーヴ協定まで続く第一次インドシナ戦争が本格的に始まり、現地に残った約600人の旧日本軍将兵が志願兵としてヴェトミンとともに、対仏独立戦争に参加。30名以上が、ヴェトナム政府から勲章や徽章を授与される軍功を上げています。

 
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 ヴェトナム竹紙切手のシート
2015-07-07 Tue 23:12
 ヴェトナム共産党のグエン・フー・チョン書記長が、ヴェトナム戦争後のヴェトナムの最高指導者としては初めて訪米し、きょう(7日)、オバマ大統領と会談しました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヴェトナム・竹切手シート

 これは、1949年頃、いわゆるベトミン(越南独立同盟)の支配地域で発行されたホー・チ・ミンの切手の50面シートです。

 1941年、大東亜戦争勃発の直前にフランス領インドシナ(仏印)全域に進駐した日本軍は、仏印におけるフランス当局の主権を尊重する代わりに、仏印を実質的な軍事占領下に置き、仏印当局は日本に対して好意的な中立を保つという状況が戦争末期まで続いていました。

 ところが、戦争末期になって、東南アジアから日本軍の撤退が相次ぐと、日本本土と中国戦線の交通が途絶することを恐れた日本軍は、1945年3月、“明号作戦”を発動し、フランス植民地政府を武力によって解体。ヴェトナムラオス、カンボジアに旧王族を担いだ親日政府を樹立します。

 その後、1945年8月に日本軍が降伏すると、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきた越南独立同盟(ヴェトミン)はベトナム独立を宣言してハノイで蜂起。ホー・チ・ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が樹立されました。これに対して、1945年9月、英国の支援を受けたフランス軍は、インドシナ半島に再上陸し、ヴェトミンと戦闘状態に突入。こうして、第一次インドシナ戦争が勃発します。
 
 第一次インドシナ戦争に際して、装備の面でフランスに劣るヴェトミン側は独立を求めて必死に抵抗したわけですが、そうした過酷な状況の中で作られ、発行されたのが今回ご紹介している切手です。

 この切手の用紙は竹の繊維を梳いてつくられたもので、実際にはかなりゴワゴワした感じがします。裏糊はなく、シート構成は10×5の50面構成ですが、シートの上下に比べると、左右のマージンが極端に狭いのが特徴です。また、細かく観察すると、印面の細かなヴァラエティがいろいろと観察できるので、製造面の研究でいろいろと遊んでみるのも面白そうだと思って、気が向いたときにはシートをポツポツ買っています。ただし、この切手を貼った実逓カバーというのは非常に少なく、僕自身もまだ入手できていませんので、作品としてきちんとまとめるレヴェルにまではなかなかたどり着けないのですが…。

 まぁ、そうしたことは別にしても、この切手は用紙の質感と素朴なデザインとあいまって、一種の“アジア雑貨”的な趣があって、個人的なお気に入りの一つです。単片については、以前の記事でもご紹介したことはあるのですが、七夕の日に“ヴェトナムの最高指導者”のことが話題になりましたので、ご紹介してみました。

 
 ★★★ 全日本切手展+韓国切手展のご案内 ★★★ 

 7月17-19日(金ー日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびに日韓国交正常化50周年記念・韓国切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである日本郵趣連合のサイト(左側の“公式ブログ”をクリックしてください)のほか、フェイスブックのイベントページ(全日展はこちら、韓国切手展はこちら)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展チラシ  全日展チラシ(裏)

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。

 
 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 “赤いナポレオン”死す
2013-10-05 Sat 11:30
 フランスの植民地支配からヴェトナムを解放し、ヴェトナム戦争を勝利に導いて“赤いナポレオン”の異名を取ったヴェトナム救国の英雄、ヴォー・グエン・ザップ(武元甲)将軍が、きのう(4日)、ハノイ市内の軍事病院で亡くなりました。享年102。というわけで、ザップ将軍を偲んで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       ディエンビエンフー

 これは、1954年10月にヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)が発行したディエン・ビエン・フー勝利の記念切手です。切手に記された1954年5月7日は、ザップ将軍ひきいるヴェトミン軍がフランス軍を破った日付です。

 1911年、フランス植民地支配下のクアンビン省に生まれた将軍は、フエの国立アカデミー在学中の1926年、学生組織を組織したことで投獄され、1930年にインドシナ共産党に加入。1939年にインドシナ共産党が非合法化されると中国共産党解放区に亡命し、翌1940年、ホー・チ・ミンと出会い、その側近となりました。

 1945年9月、ホー・チ・ミンによるヴェトナム独立宣言とともに臨時政府の内務大臣に就任。インドシナ支配の再開をもくろむフランスとの間に第1次インドシナ戦争が始まると、ホー・チ・ミン内閣の国防大臣兼ヴェトナム軍総指揮官となり、ゲリラ戦を指揮しました。

 ザップ将軍の名を世界に知らしめたディエン・ビエン・フーの戦いは、第1次インドシナ戦争最大にして最後の戦いで、1954年3月から5月にかけて戦われました。

 インドシナ戦争での劣勢に悩んでいたフランスは、1953年11月、ラオスとの国境に近いベトナム西北部の盆地ディエン・ビエン・フーに要塞の建設を開始し、1954年3月には40門以上の大砲、2ヶ所の飛行場、兵力1万6200名の大要塞を完成させました。
 
 これに対して、ザップ将軍はヴェトミンの兵力をディエン・ビエン・フーに集中し、昼夜兼行の人海戦術を用いて大砲・ロケット砲・対空火器を山頂に引き上げ(山中では重火器類は分解され、人力で担ぎ上げられました)、要塞を見下ろす位置に秘密陣地を構築。フランス軍の要塞を包囲します。

 1954年3月12日、ヴェトミン軍は主滑走路を砲撃し、ディエン・ビエン・フー攻略戦を開始。フランス軍の予想を超えた盆地周囲の山上からの砲撃のもと、塹壕で接近して複合陣地を順次攻め落とし、5月7日の総攻撃により、フランス軍の全要塞を陥落させました。ディエン・ビエン・フーでのヴェトミンの勝利はジュネーヴ和平会談にも大きな影響を与え、7月21日のジュネーヴ協定締結とインドシナからのフランスの全面撤退へとつながりました。

 その後も、ザップ将軍はヴェトナム人民軍総司令官として北ヴェトナム軍を指揮し、1975年のヴェトナム再統一の原動力となり、統一後は、文字どおり建国の元勲として副首相兼国防相に就任。1978年には、国際的な非難を浴びたカンボジア侵攻に反対したほか、引退後の2009年には中国主導での国内ボーキサイト採掘事業に環境や国防面で苦言を呈し、“真の愛国者”として尊敬を集めました。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 10月17日19:00より、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店ふらっとすぽっとにて、おくればせながら、拙著『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークをやります。

 入場無料でプレゼントもご用意しております。今年の11月は世界切手展<Brasiliana 2013>へ参加のため、ブラジルに行っており、恒例の<JAPEX>でのトークはできませんので、この機会に、ぜひ遊びに来てください。

 なお、出版元の告知ページもあわせてご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

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 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 * 出版元特設ページはこちらをご覧ください。

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 日越友好列車がスタート
2013-05-09 Thu 17:22
 今年(2013年)はヴェトナムとの外交樹立40周年を記念して“日越友好年”に指定されていますが、その記念イベントのひとつとして、日越友好年記念のバナーをつけた“日越友好列車”が、きのう(8日)から、ハノイ=ホーチミン(旧サイゴン)間を結ぶ南北線(通称:統一鉄道)で運行を開始しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       北ヴェトナム・国土再統一のために

 これは、1958年に北ヴェトナム(ヴェトナム民主共和国)で発行された“祖国再統一のために”と題する宣伝切手で、ハノイ=サイゴン間の鉄道路線図と鉄道再建工事を行う人々が描かれています。

 ヴェトナムの南北線は、仏領インドシナ時代、延べ37年の歳月をかけて建設され、1935年に全長1726kmが全線開通しました。1945年に始まる第一次インドシナ戦争により鉄道路線は大きな被害を受けたほか、1954年のジュネーヴ休戦協定で北緯17度線を境界としてヴェトナム民主共和国とヴェトナム国の南北両政府が成立したことにより、全線通しての運行は不可能となりました。今回ご紹介の切手はこうした状況を踏まえて北ヴェトナム側が発行したもので、南北にまたがるハノイ=サイゴン鉄道を国土再統一の象徴として描いたものです。

 その後、米国とのヴェトナム戦争で多くの橋梁が破壊されたほか、1975年の南北統一後も中国による侵略戦争(中越戦争)等があってメンテナンスが行き届かず、老朽化による鉄道の劣化は深刻な事態となっていました。

 このため、ヴェトナム政府の要請を受けたわが国は、円借款事業による南北線63橋梁の改修・架け替え事業を実施。その結果、1994年から2005年にかけてはヴィン=ニャチャン間の19橋梁が、2012年10月までにドンハ=クアンガイ間の10橋梁の改修事業が完成し、現在は、残る34橋梁の改修事業が続けられています。

 現在、ハノイ=ホーチミン間の鉄道での所要時間は、最短30時間ということで、ぶっ通しで乗っていても2泊3日になる勘定ですが、どうせなら、途中、フエあたりで下車して世界遺産の旧市街を散策するなどしたりして、1週間くらいかけてのんびりと楽しみたいですな。きのうスタートした日越友好列車は9月23日までの間に30往復程度の運行ということですので、この機会に、一部区間だけでも乗りに行こうかなぁ。


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 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。開催日は6月4日、7月2日、7月30日、9月3日(原則第一火曜日)で、時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 ヴェトナムで3週続けて反中デモ
2011-06-20 Mon 12:05
 政府が集団の抗議活動を厳しく制限しているヴェトナムの首都ハノイで、きのう(19日)、市民ら数十人が南シナ海の領有権問題で強硬姿勢を強めている中国に反発しデモ行進を行いました。これで、ヴェトナムの反中デモは3週連続となりました。というわけで、先週先々週に続き、今週もヴェトナムの反中切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        グエンチャイ

 これは、1962年9月19日にヴェトナム民主共和国(北ヴェトナム)で発行された民族的英雄、グエン・チャイ(阮廌)の切手です。

 グエン・チャイは、1380年、タンロン(現ハノイ)で生まれました。父親のグエン・フィー・カイン(阮飛卿)とともに、ヴェトナム・胡朝に役人として仕えていましたが、1406年、胡朝は明の侵略により滅亡。グエン父子は捕虜となり、明へ連行されることになりましたが、グエン・チャイは脱走に成功しました。

 明によるヴェトナム支配は苛烈なもので、徹底した同化政策の下、ヴェトナム独自の文化や風習は禁止されたほか、ヴェトナム人には過重な土地税、人頭税、軍役や労役などが課されました。まぁ、現在のチベットウイグル内蒙古(南モンゴル)でも似たようなことが行われているわけですから、それが、中国中央政府による少数民族民族政策の本質なのでしょう。

 これに対して、1416年、タインホア省ラムソンのルンニャイ村で土豪のレ・ロイ(黎利)が反明独立のために蜂起すると、明の追及を逃れて国内を放浪していたグエン・チャイは、レ・ロイの軍に参謀格として参加。10年間の独立戦争の後、1427年に明の永楽帝が亡くなり明軍の勢力が衰えた機に乗じて、祖国の解放に成功しました。

 1428年、レ・ロイが後黎朝を建てると、グエン・チャイは宰相として太祖となったレ・ロイを補佐し、諸制度の整備に努めるとともに、明との国交回復にも尽力しました。しかし、太祖の死後、後を継いだ次男の黎太宗の代になると、建国の功臣であるが故に疎まれ、隠居しましたが、1442年、太宗が閲兵式の帰りに彼の屋敷に立ち寄った際、たまたま急死したため、太宗暗殺の罪を着せられて処刑されました。

 なお、グエン・チャイは詩人にして諸学に通じた学者でもあり、その悲劇的な最期もあって、ヴェトナム民族の英雄として尊敬を集めており、ホーチミン市(旧サイゴン)には彼の名を冠したグエンチャイ通りがあります。


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 ヴェトナムで大規模な反中デモ
2011-06-06 Mon 12:47
 きのう(5日)、ヴェトナムの首都ハノイで「中国によるベトナム侵略に抗議する」等の横断幕を掲げたデモが行われたほか、南部の最大都市ホーチミンでも1000人以上が中心部で反中デモ行進を行いました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        チュン姉妹

 これは、1959年にヴェトナム民主共和国(北ベトナム)が発行したチュン姉妹の記念切手です。

 チュン姉妹(チュン・チャック:徴側、チュン・ニ:徴弐)は、現在のハノイ北西部にあった峯州麋冷県の武将の家に生まれました。

 前漢の武帝が南越を征服するまで、ヴェトナムでは各地の武将や領主が住民から税を徴収していましたが、漢の支配下では徴税権が彼らから剥奪されたばかりか、後漢が派遣した交趾郡太守は悪政の限りを尽くしていました。

 このため、チュン・チャックは国内の有力者を取りまとめ、徴税権を南越側に移管するよう、後漢政府に要求。西暦40年3月、南越内の合浦・九真・日南各郡65の県の有力者の賛同を得て、みずから“徴王”を称し麋冷県に宮廷を構えて、妹のチュン・ニとともに、後漢に抵抗しました。

 これに対して、後漢の光武帝は、“反乱”鎮圧のため、馬援を伏波将軍として南越に派遣。42年、浪泊で南越軍を破り、数千のヴェトナム人を殺害し、1万人以上を捕虜としました。なお、チュン姉妹は捕らえられた末に殺害され、その首は43年初めに洛陽へと送られました。

 こうして、“反乱”は3年ほどで鎮圧されてしまいましたが、現在でも、チュン姉妹は中国の侵略に正面から戦った民族の英雄として、多くのヴェトナム人の尊敬を集めています。

 さて、先月26日には、南シナ海でヴェトナムの石油会社の探査船が中国の監視船に活動を妨害された事件が起こり、ヴェトナム側が中国側を非難した事件がありましたが、同31日には、それをあざわらうかのように、中国船がヴェトナム漁船に対して威嚇射撃を行っています。中国同様、一党独裁体制のヴェトナムでは、2007年12月にも、南シナ海問題をめぐり2週連続でハノイの中国大使館前などでの抗議デモが起きていますが、その後は当局が厳しく取り締まっていました。それだけに、今回のデモは異例の出来事とみられており、ヴェトナム国民の怒りのほどがわかろうというものです。

 ヴェトナムの歴史は、近代以降のフランス支配の時代といわゆるヴェトナム戦争(抗米戦争)、それにごく短期間の日本による占領の時期を除くと、基本的には、中国による侵略とそれへの抵抗の繰り返しでした。したがって、ヴェトナム切手には、しばしば、民族の歴史を彩った“反中の英雄”が登場します。

 今後も、南沙諸島・西沙諸島問題をはじめ、さまざまなレヴェルで中越間の対立が頻発するでしょうが、そうした機会をとらえて、このブログでもヴェトナムの“反中切手”をいろいろとご紹介していくつもりです。
 

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 ベトナム戦争の英雄、敗れる
2008-11-05 Wed 14:16

 アメリカの大統領選挙は、民主党のバラク・オバマが当選を決めました。というわけで、フツーだったらオバマがらみのマテリアルをもってくるべきなんでしょうが、『大統領になりそこなった男たち』の著者としては、共和党のマケインのほうを取りあげるのが筋でしょうから、こんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 北ベトナム・米軍機撃墜カバー

 これは、1967年4月、ベトナム戦争下のベトナム民主共和国(北ベトナム)・ハノイから中国・上海あてに差し出されたカバーで、ベトナム側に撃墜される米軍機のイラストが入った封筒が使われています。ベトナム戦争中、北ベトナムは撃墜した米軍機の数がキリ番に達すると記念切手を発行していたことはよく知られていますが、このカバーの封筒も、それと同じような趣旨で作られたものです。なお、貼られている切手は、1965年12月に発行された“第1次5ヵ年計画超過達成”の切手です。

 今回、大統領選挙に敗れたマケインは、父・祖父ともに海軍提督という軍人一家の出身で、自身も海軍航空士官としてベトナム戦争に従軍。1967年に北ベトナム上空を飛行中に撃墜され、5年半に渡って捕虜となり、最初の2年は厳しい拷問を受けながらも耐えたというエピソードの持ち主です。まさに、今回ご紹介の北ベトナムのカバーに描かれている米軍機はマケインのものだった可能性もあるわけですな。

 1973年に帰国後の彼はベトナム戦争の英雄としてアメリカ社会で尊敬を集め、1981年に海軍大佐で退役した後、1983年に連邦下院議員に当選して政界入り。1987年以降は上院議員を務めています。

 政治家としてのマケインについては、いろいろと書くべきことがあるのですが、とりあえず、今日のカバーとの関連でいうと、彼は北ベトナムの捕虜になっていた経験から、捕虜や囚人の人道問題に最も熱心に取り組む議員として知られています。イラク戦争やアフガニスタン戦争そのものは支持しつつも、アブグレイブ刑務所などで問題化した捕虜・囚人等の拷問・虐待問題を厳しく批判し、「敵に対する態度こそ、アメリカ自身の姿をはっきりと描き出す」として、キューバのグアンタナモ米軍基地を含む収容所での囚人への非人道的扱いを禁止する法案修正などを主導し、グアンタナモの閉鎖も主張しているのはそのためです。

 また、プーチン=メドベージェフ体制のロシアの言論弾圧や覇権主義を厳しく批判し、G8にはロシアを外してインドとブラジルを外すべきと主張したり、ビルマ(ミャンマー)の軍事政権への支援をめぐっては、日本の川口順子外相(当時)を名指しで糾弾したこともあるなど、同盟国を中心とした民主国家との連携を重視する姿勢などは、もっと評価されてもよかったのではないかと思います。

 アメリカでは原則として存命中の人物は切手に取り上げないことになっていますので、マケインの切手は発行されていないのですが、いまから何年か後に、彼の切手が発行されるようなことがあれば、そのときには僕も『大統領になりそこなった男たち』の続編を作ってきたいものです。

 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★     

 アメリカ史に燦然と輝く偉大な「敗者たち」の物語    
 『大統領になりそこなった男たち』 中公新書ラクレ(本体定価760円+税)
 
 出馬しなかった「合衆国生みの親」、リンカーンに敗れた男、第二次世界大戦の英雄、兄と同じく銃弾に倒れた男……。ひとりのアメリカ大統領が誕生するまでには、落選者の累々たる屍が築かれる。そのなかから、切手に描かれて、アメリカ史の教科書に載るほどの功績をあげた8人を選び、彼らの生涯を追った「偉大な敗者たち」の物語。本書は、敗者の側からみることで、もう一つのアメリカの姿を明らかにした、異色の歴史ノンフィクション。好評発売中!

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 試験問題の解説(2008年2月)-3
2008-02-03 Sun 11:31
 都内の某大学でやっている『反米の世界史』をテキストにした授業の試験問題の解説、最終回の今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げます。

 北ベトナム・三国友好

 この切手は、1954年2月、ベトナム・ソ連・中国の“三国友好月間(1950年1月18日に中ソ両国がベトナム民主共和国を承認してから4周年になるのを記念して設定された)”を記念するために発行されたもので、ホー・チ・ミンを中央に、左右にマレンコフと毛沢東の肖像が掲げられています。また、肖像の背後には、各国の国旗も掲げられています。

 1945年3月、日本軍は明号作戦を発動してインドシナ全域を軍事占領下に置きましたが、同年8月には降伏してしまいます。こうした混乱の中で、フランスに対して植民地解放闘争を戦ってきた越南独立同盟(ベトミン)はベトナム独立を宣言してハノイで蜂起。ホー・チ・ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が樹立されます。

 これに対して、1945年9月、イギリスの支援を受けたフランス軍は、インドシナ半島に再上陸し、ベトミンと戦闘状態に突入。こうして、第一次インドシナ戦争がはじまりました。

 当初、インドシナ戦争は国際共産主義運動と無関係に推移していました。これは、東欧や北朝鮮の共産党政権が現地に進駐したソ連軍によって樹立されたのに対して、ベトミンの政権がソ連の支援を受けずに樹立されたためです。

 ところが、1949年10月に中華人民共和国が成立し、翌1950年6月に朝鮮戦争が勃発するという国際情勢の中で、インドシナ戦争は否応なしにアジアの冷戦構造に巻き込まれていくことになります。

 すなわち、朝鮮戦争勃発直前の1950年5月、アメリカはフランスに対して1000万ドルのインドシナ戦費の援助を開始。第一次インドシナ戦争が終結した1954年には、インドシナでのフランスの戦費の8割弱を負担するまでになっています。その背景には、インドシナが共産主義者の手に落ちれば、周辺諸国は連鎖的に共産化してしまうのではないか、とのドミノ理論の強迫観念がありました。

 一方、ベトナムの共産主義者たちにしても、戦況を好転させるためには、隣国となった中国の共産党政権の支援が必要でした。かくして、1951年2月、インドシナ共産党がベトナム・ラオス・カンボジア3国の共産党に分割された際、新たに誕生したベトナム労働党の党規約は、マルクス・レーニン主義とならんで“毛沢東思想”を党の思想的基盤・行動の指針として掲げ、彼らは自らを東南アジアにおける社会主義陣営の前進基地をして売り込んでいくことになります。

 結局、ベトナムの共産主義者は中国・ソ連の支援を受けて戦況を好転させ、1953年11月に始まるディエンビエンフーの戦いに勝利を収めます。この結果、ベトナムの国土の4分の3がベトナム民主共和国の支配下に入り、共産主義者によるベトナム全土の“解放”が現実味を帯びて語られるようになりました。

 今回の切手は、こうした状況の下で発行されたものです。当時のベトナムは、インドシナ戦争の最終勝利、すなわち、全土の解放を達成するためにも、中ソ両国からの支援を引き続き得ていくことが不可欠でしたから、中ソ両国との友好関係を内外にアピールすることは重要な課題であり、その一環として“友好月間”が設定され、国家のメディアとしての切手もその宣伝に一役買うことになったというわけです。

 ちなみに、この切手では、中央のホー・チ・ミンの肖像は、正面ではなく右側、すなわち、毛沢東の方向を向いています。当時のベトナムにおいては、このスタイルのホー・チ・ミン像が広く用いられていましたから、切手上にこのスタイルの肖像が取り上げられても、それじたいは不思議なことではありません。ただし、当時、中国がソ連をはるかに凌駕する支援をベトナムに対して行っていたことを考えると、毛沢東の方を向くホー・チ・ミンという構図は、なんとも暗示的ではあります。

 もっとも、どれほどベトナムが“最終勝利”をめざそうとも、この切手が発行された1954年初頭の時点では、周辺の大国、なかでも中国はそれを望んでいませんでした。

 中国にしてみれば、ベトナム全土の共産化によってアメリカの軍事介入を招くことは、まさに、朝鮮戦争の悪夢の再現であり、なんとしても避けたいというのが本音でした。特に、朝鮮戦争の後遺症を癒しつつ、国内の社会主義建設を安定的に進めていくためには、中国の国境沿いに米軍が出現する可能性を排除し、安全保障を確保することが絶対に必要でしたから、インドシナ半島を分割して、アメリカを刺激しない程度の“北ベトナム”という緩衝国をつくることがベストとはいえなくともベターな選択でした。
 
 この結果、1954年7月、インドシナ戦争は停戦協定(ジュネーブ協定)にこぎつけ、ベトナムは北緯17度線を軍事境界線として、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に分断されます。当時、インドシナ停戦の実現は中国が以降の勝利と喧伝されましたが、その内実は、中国が自国の安全保障のために小国ベトナムに犠牲を強いた結果でしかなかったのです。まぁ、かの国の語る“平和”なんて、所詮はそんなものだといってしまえばそれまでですが…。

 さて、試験の答案としては、この切手が第一次インドシナ戦争時のベトナム(共産側)で発行されたものであることを示した上で、①第一次インドシナ戦争の概要について触れる、②第一次インドシナ戦争と東西冷戦の関係を説明する、③第一次インドシナ戦争に対する中ソ、特に中国の思惑を説明する、といった点がポイントになります。

 以上で、『反米の世界史』をテキストにした授業の試験問題のうち、切手を題材としたものについての解説はオシマイです。切手以外の、一般的な歴史的事象についての問題に関しては、学生諸君が自分で調べることも可能でしょうから、このブログでの解説は省略します。

 なお、明日(4日)には、『中東郵便学』と題する授業の試験もあって、こちらでも切手を使った問題をいくつか出しているのですが、それらの解説については、明後日(5日)以降にこのブログに掲載する予定です。
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 味噌と醤油は大丈夫か
2007-04-10 Tue 00:34
 千葉県の市原刑務所で食中毒が発生したのだそうです。このニュースを聞いて、そういえばこんな切手もあったかな、と思い出して引っ張り出してきたのがこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

フーロイ事件

 これは、1959年5月15日に北ベトナム(ベトナム民主共和国)が発行したフーロイ事件糾弾の切手です。

 フーロイ事件というのは、1958年12月1日、南ベトナム(ベトナム国)支配下のサイゴン(現・ホーチミン)のフーロイ監獄で、監獄当局によって毒入りの食事が配られ、北ベトナム側の主張で1000人を越える死者が出たという事件で、当時、南ベトナムのゴ・ディン・ジエムとそれを支援するアメリカの非道を象徴する出来事として大きく喧伝されました。この切手もそうしたプロパガンダ戦略の一環として発行されたもので、毒物に苦しんで斃れていく収容者の姿が取り上げられています。

 まぁ、監獄であれ刑務所であれ、英語で“prison”と呼ばれる施設に入っている人間は自由に外を行き来できないわけですから、そこで出てくる食事というのは信頼して食べるしかないわけで、毒入りの食事を(ましてや意図的に)提供したとあらば、世の非難を浴びるのも無理からぬことといえましょう。

 今回の市原刑務所の件は単純な管理ミスによる食中毒なんでしょうが、ここは、交通事故の加害者が収容されており、下手をすると誰でもお世話になる可能性があるところですからねぇ。それに、この刑務所で作られている味噌や醤油が全国の刑務所で使用されているというのも、ちょっと気になるところです。

 まぁ、刑務所に入れば、厳しい生活が待っているだけでなく、食中毒になるおそれもあるのだから、そうならないように気をつけようと思う人が増えれば、抑止効果があがるといえなくもないのかもしれませんが、やはり、食の安全に関してはいかなる立場の施設であれ、十分な配慮をしてほしいものです。

 なお、今日ご紹介の切手をはじめ、北ベトナムのプロパガンダ切手については、拙著『反米の世界史』でいろいろとご紹介しておりますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

 <お知らせ>
 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。入場無料ですので、是非、遊びに来てください。
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 英雄/テロリスト図鑑:ホーチミン
2007-04-05 Thu 00:22
 ご報告が遅くなりましたが、現在発売中の『SAPIO』4月11日号で僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」ではホーチミンを取り上げてみました。雑誌の記事では、以前ご紹介した竹の切手を取り上げましたが、せっかく、香港滞在中ですから、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

若きホーチミン

 これは、1970年5月19日に当時の北ベトナムで発行されたホーチミンの切手で、香港滞在中の1930年の肖像が取り上げられています。ホーチミンというと、あの独特のアゴヒゲのある顔のイメージが強いのですが、彼にだって、ヒゲのない若い時代というのもあったわけです。(当然といえば当然ですが)

 ホー・チ・ミンに関しては、出自や青年時代の行動についてハッキリとわかっていないことも多いのですが、とりあえず、一般的には1890年5月19日、中部ベトナムのゲアン省で生まれたといわれています。

 15歳の頃から愛国運動の地下組織に関わっていた彼は、いったんはフランス植民地政府の官吏を養成する学校に入学するものの、1908年に退学。その後、ごく短期間、民族主義者の設立した小学校で教鞭をとった後、1911年、フランス船のコック見習いとして、マルセイユ、チュニジア、アルジェリア、セネガル、コンゴ、米国、ブラジル、アルゼンチン、ロンドンなどを経て、1917年にパリに移住します。

 パリでのホー・チ・ミンはフランス社会党に参加し、1919年に行われた第一次大戦の講和会議(いわゆるベルサイユ会議)の際には、フランス在住のベトナム愛国者グループとして“グエン・アイ・クォック”(阮愛国)を名乗り、独立を求めて「ベトナム人民の要求書」を提出しています。

 その後、彼はフランス共産党の創立(1921年)にも関わるなど共産主義への傾斜を強め、1923年にはドイツを経由してソ連に入り、翌1924年、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に就任。1941年までヨーロッパとアジアを往復しながら革命家として活動しました。この間、1930年には香港での第1回インドシナ革命会議に参加するとともに、ベトナム共産党の創立に関わり、九龍のサッカー場で開催された同党創立大会を主催しています。

 その後、1931年6月にはコミンテルンの工作員としてイギリス当局に逮捕・勾留されますが、結核を病んでいたこともあって、1932年8月に追放されました。このときの追放に際して、コミンテルンは「帝国主義者の恐怖政治によって香港の刑務所の病院に監禁されたインドシナ共産党創設者、グエン・アイ・クォックの死亡」を発表。ホーは完全な地下活動に入ります。

 なお、翌1933年にも、ホーは香港に上陸していますが、このときも逮捕され、アモイへと追放されています。

 その後、1941年2月、およそ30年ぶりに帰国したホーは、ベトナム独立のための民族統一戦線、ベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、フランス当局からは共産ゲリラ、テロリストの頭目として恐れられるようになります。そして、1945年の独立宣言からフランスの干渉による第1次インドシナ戦争を戦い、アメリカの介入したいわゆるベトナム戦争最中の1969年9月3日に亡くなりました。

 なお、2005年に刊行の拙著『反米の世界史』では、切手や郵便物をからめて、ベトナム戦争の概要をまとめていますので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。

 <おしらせ>
 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。
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