内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ロバート・ケネディ没後50年
2018-06-06 Wed 01:43
 ジョン・F・ケネディ元米大統領の弟、ロバート・ケネディ上院議員(当時)が、1968年の米大統領選の民主党候補指名選のキャンペーン中の6月5日、ロサンゼルスで狙撃され、翌6日に亡くなってから、きょうでちょうど50周年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・ケネディ兄弟(1968・不発行)

 これは、1968年、フィリピン名義の“国際人権年”の切手として企画されたものの、結果的に日の目を見ずに終わった“ケネディ・モスデン切手”の1枚で、ジョンとロバートのケネディ兄弟の肖像が取り上げられています。

 1968年4月、フィリピンの公共事業・運輸・通信長官のアントニオ・ラクィザは、高速道路建設のための資金援助を受けるべく、渡米して米政府と交渉を行っていましたが、その過程で、ニューヨークで切手商のエッゼ・モスデンを紹介されます。モスデンは、ラクィザに対して、外貨獲得のために世界の収集家をターゲットとした“輸出用”の切手を制作・発行することを提案。その費用を彼が負担する代わりに、切手の製造と販売権を独占できないかとラクィザに持ちかけました。

 モスデンは、切手の輸出によりフィリピン政府は年間2‐300万ドルの収入が得られるとの見通しを示したため、ラクィザはこの提案に大いに興味を抱き、個人的にこの提案を受け入れ、モスデンがベン・ダンビーと共同経営していたパルコ・インターナショナル社とフィリピン切手の制作・販売についての契約を結びました。その内容は、フィリピン政府はパルコ・インターナショナルを、今後5年間にわたり、フィリピン切手の印刷、プロモーション、フィリピン国外での切手の販売を独占的に扱う代理店とするというもので、パルコ・インターナショナルがフィリピン切手の販売によって得られる手数料は売り上げの20%とされていました。なお、契約の日時については、資料によって、1968年6月24日、同26日、8月19日と諸説がありますが、いずれにせよ、ラクィザの米国滞在中に署名が行われたとみられています。

 ところが、ラクィザが帰国すると、当時の郵便長官、エンリコ・パロマーがパルコ・インターナショナルとの契約に対して、以下の理由を挙げて強硬に反対します。すなわち、

 1)フィリピン切手の製造・販売に関する契約は、いかなるものであっても、公共事業・運輸・通信長官ではなく、郵便長官が署名しない限り無効である
 2)フィリピン切手の製造・販売業者の選定は、公開入札によらなければならない
 3)フィリピン切手のデザインは、フィリピン郵政の切手・郵趣課が制作するか、または妥当なものであると承認したもののみを、正規の手続きを経て印刷しなければならない

 上記の理由から、フィリピン郵政はラクィザがパルコ・インターナショナルと結んだ契約は無効であるとして、これを拒絶しました。

 一方、そうしたフィリピン側の事情を知らないモスデンは、早々とフィリピン切手の製造・販売を請け負う会社として“フィリピン郵趣代理部( Philippine Philatelic Agency Inc:PPA)を設立し、同年のメキシコ五輪および“世界人権年”の記念切手の制作を開始しました。

 このうち、世界人権年の記念切手は、“公民権と人権のために戦った闘士”として、世界的に人気のあるケネディ元大統領とその家族が題材として選ばれました。これがいわゆる“ケネディ・モスデン切手”で、今回ご紹介のモノを含む5種セットと小型シートで構成されています。

 その後、モスデンのPPAは、最初の切手として、10月12日にメキシコ五輪の記念切手を発売しようとしましたが、フィリピン郵政はあくまでも、①ラクィザが結んだ契約はフィリピン郵政の承認を得た正式のものではない、②フィリピン郵政が件の切手の製造に関与していない、③件の切手の印刷枚数について、フィリピン郵政は何も知らされていない、ことを理由にPAAの切手を頑として認めず、最終的に、“ケネディ・モスデン切手”は正規の切手として発行されることのないまま終わりました。

 その後、モスデンらは、これらの“切手”を“不発行切手”として収集家向けに販売することでコストの一部を回収しましたが、実際には、上記のような経緯から、“切手もどき”というのが実態に近いと思います。

 なお、ロバート・ケネディの生涯については、拙著『大統領になりそこなった男たち』で詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

 なお、当初、『チェ・ゲバラとキューバ革命』は、2018年5月末の刊行を予定しておりましたが、諸般の事情により、刊行予定が7月に変更になりました。あしからずご了承ください。


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 フィリピンの慰安婦像?
2017-12-12 Tue 11:49
 フィリピンの首都マニラ市内に「日本軍占領時代(1942-45年)の“慰安婦”を象徴する」とされるフィリピン人女性の像が設置されていたことがきのう(11日)までに分かったとして、在フィリピン日本大使館がフィリピン政府へ抗議したそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・バタアンの戦い25年 フィリピン・女性像実物

 これは、1967年4月9日にフィリピンで発行された“バタアンの戦い25周年”の記念切手で、戦死者を前に悲しむ女性が描かれています。今回問題となった“女性像”(右の画像)と似たようなスタイルということで、取り上げてみました。

 1941年12月8日の日米開戦とともに、日本軍は米国の保護領であったフィリピンへの攻撃を開始します。

 アメリカは、日露戦争時より、フィリピンを防衛するため、日本を仮想敵国とするオレンジ戦略案を策定していましたが、現実には日米開戦時には米比軍(開戦直前、フィリピン軍は米極東軍に統合されました)の戦争準備は完了していませんでした。このため、米比軍の司令官であったダグラス・マッカーサーは、マニラの非武装都市を宣言してバタアン半島方面に撤退。日本軍は1942年1月2日、マニラに無血入城しました。

 その後、3月17日にマッカーサーはフィリピンを脱出し、“アイ・シャル・リターン”と語ってオーストラリアで再起を期していましたが、バタアン半島では、米比軍がジャングルの地形を利用して日本軍に激しく抵抗していました。そして、5月6日、ついに日本軍は半島全域を占領。バタアン・コレヒドールでの勝利は、真珠湾攻撃やシンガポール攻略と並び、日本軍の輝かしい戦果の代表的な事例として、大々的に宣伝されました。

 一方、バタアン半島で捕虜となった米比軍8万人は、バターン半島からサンフェルナンドまで約60キロの距離を徒歩で行軍させられましたが、この間、炎熱や疲労、食糧や衣料品の不足などから、1200人の米兵と1万6000人のフィリピン兵、さらに民間人抑留者が亡くなっています。この移送は“バターン死の行進”と呼ばれ、日本軍の残虐行為を示すものとして、いわゆる南京事件などと共に連合国側によって大きく報じられました。

 ただし、いわゆる“死の行進”の実態は、日本軍が積極的に捕虜を虐待したというよりも、食糧・医薬品の不足と無理な行軍スケジュールのゆえに、結果として、多くの犠牲者が生じたと理解すべきものでしょう。もちろん、捕虜の管理者として、多大な犠牲者を出した日本側の責任は免れるものではありませんが、基本的には、重過失という性格のものと考えるのが妥当と思われます。しかし、米国にとっては、敵国日本に対する国民の敵愾心を煽り立てるためにも、“死の行進”は日本軍の残虐性を示す格好の素材として活用されることになりました。 

 さて、今回、問題となった女性像は、マニラ市のマニラ湾に面したロハス通り沿いのベイウォークと呼ばれる遊歩道上にあり、高さは約2メートル。政府機関“フィリピン国家歴史委員会(学者らで構成され、歴史的建造物への碑文設置などを行う)”が、現地の民間団体などの支援を得て建立されました。8日に行われた除幕式では、エストラーダ市長の代理人が「私たちは慰安婦の苦境を忘れない」との声明を読んだそうです。

 もっとも、この像の台座に刻まれているタガログ語の碑文には「1942年から1945年の日本の占領下で虐待の被害にあったすべてのフィリピン人女性の記憶」と記載されているものの、いわゆる“慰安婦”については一言も触れていません。先の大戦で、フィリピンが戦場となり多くの犠牲者・被害者が生じたことや、日本軍の占領下で過酷な生活を強いられたフィリピン人が多数いたことはまぎれもない事実ですから、その中に“慰安婦”を含めるか否かとは別の次元で、そうしたより広い意味での戦争犠牲者の女性を対象とした像を、単純に“慰安婦像”と断定してしまうのは無理があります。

 もちろん、この像の建立に際しては、“フィリピン人慰安婦”の支援団体や中華系財団などが少なからぬ資金を拠出しており、彼らは、“慰安婦問題”で日本を非難するためにこの像を活用しようと考えているのでしょうが、上述のように、それはこの像の本来の趣旨とは一致しません。むしろ、そうした連中のプロパガンダに脊髄反射して、十分な調査もせずに、“慰安婦像”に対して抗議したりすると、かえって、フィリピン政府を当惑させ(なにせ、碑文の通りであれば、フィリピン政府はこの像を“慰安婦像”とは認識していないのですから)、日比間の関係を悪化させようとの悪意を持った連中の術策にはまってしまうのではないかと、僕などはそちらの方に不安を感じます。

 なお、第二次大戦中のフィリピンについては、拙著『大統領になりそこなった男たち』のマッカーサーの章でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。  
 

★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は14日!★★

 12月14日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第12回が放送予定です。今回は、先日のトランプ大統領によるエルサレムの首都認定にちなんで、エルサレムのお話をします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。
 当初予定していた第二次大戦中のノルウェーについてのお話から内容が変更になりました。あしからずご了承ください。

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 マラウィ危機発生1ヶ月
2017-06-23 Fri 11:49
 5月23日、フィリピン・ミンダナオ島中部のマラウィ周辺で国軍とイスラム過激派との戦闘(マラウィ危機)が始まってから、きょう(23日)で1ヵ月となりました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・イスラム伝来600年

 これは、1980年3月28日にフィリピンが発行した“イスラム伝来600年”の記念切手です。
 
 現在のフィリピン国家の領域にイスラムが伝来したのは、1380年 スールー諸島西端のタウィタウィ島にアラブのムスリムが到来したのが最初とされており(今回ご紹介の切手はここから起算して600年になるのを記念して発行されたものです)、これを機に先住民のイスラムへの改宗が進みました。

 1457年、イスラム王朝のスールー王国が成立。同王朝は、最盛期には、ミンダナオ島西部(サンボアンガ半島)からボルネオ島北部(現マレーシア・サバ州)、パラワン島までその支配は及んでおり、彼らの支配地域にはイスラムが定着しました。

 16世紀後半以降、現在のフィリピンの島々のうち、ミンダナオ島以外はスペインが征服しましたが、ミンダナオ島西部は19世紀後半までスペインの統制が及ばず、ムスリムのスルターン(地方君主)が実効支配する時代が長く続きます。そして、1878年にはスペイン=スールー王国条約が結ばれ、スールー王国はスペインの主権を認めることになりましたが、スペイン軍の駐屯地やサンボアンガやコタバトなどの都市部以外は、従来通り、スルターンの統治が維持されています。

 1898年の米西戦争の結果、スペインはミンダナオ島を含むフィリピンを放棄。その後、米国の支配に抵抗する米比戦争の時期には、ミンダナオ島のムスリムも武装蜂起しましたが、1910年代に米軍により制圧されました。以後、米支配下で、ミンダナオ島にもルソン島などからキリスト教徒の入植が進み、ミンダナオ島でもムスリムは少数派に転落していきます。

 1946年、フィリピン共和国が独立すると、フィリピン政府は新国家建設に際して、国民統合の象徴としてカトリックを強調しますが、ミンダナオ島を中心に、ムスリムはこれを“同化政策”として不満を募らせました。さらに、1965年に発足したマルコス政権がミンダナオ島へのキリスト教徒の移民を“奨励”したことへの反発から、1970年、フィリピンからの分離独立を求めるモロ民族解放戦線(MNLF)が結成され、フィリピン国軍との間の武力衝突が発生しました。ちなみに、“モロ”とは、フィリピンのスールー諸島・パラワン島・ミンダナオ島などの島に分布するムスリムの総称です。
  
 1976年、マルコス政権とMNLFとの間で、ミンダナオやスールー諸島の14州の自治を約束するトリボリ協定が締結されますが、この和平協定への対応を巡り、1977年、MNLFはミスアリ派(MNLF議長のヌル・ミスアリ率いる穏健派)とサラマト派(サラマト・ハシムを中心とする強硬派)等に分裂。さらに、1981年には、サラマト派が正式にMNLFを脱退し、モロ・イスラム解放戦線(MILF)を組織します。そして、反米の立場からリビアがMILFを支援するという構図が生まれました。

 1986年のピープル・パワー革命でマルコス政権が崩壊し、コラソン・アキノ政権が発足。アキノ政権は、ムスリムの自治を盛り込んだ新憲法を制定するなど宥和政策を推進し、1989年に成立した「自治基本法」では、ミンダナオでムスリム自治区の設立が決定されます。

 これを受けて、ミンダナオ島西部・南部一帯の州と市で“ムスリム・ミンダナオ自治地域(ARMM)”への加入の是非を問う住民投票が13州9市で行われ、賛成多数となったラナオ・デル・スル州、マギンダナオ州、スールー州、タウィタウィ州の4州で、1990年、ARMM(首府はコタバト)が発足しました。なお、ARMMには、2001年にマラウィ市とバシラン州(ただし、イサベラ市を除く)が追加加入しています。

 ARMMの発足に対して、MNLFは“不完全な自治”に反発し、武装闘争の継続を宣言しましたが、1993年、イスラム諸国会議機構の仲介でラモス政権とMNLFの間で暫定的な停戦合意が成立。和平交渉の末、1996年、ミンダナオ南部などの14州での暫定的な行政機関“南フィリピン和平開発評議会(SPCPD)”の設立やMNLF兵士の国軍統合、ミスアリをARMM知事選の与党候補とすること、教育制度や宗教に関する取り決めなどが合意されました。これに対して、あくまでもARMMへの参加を拒否する勢力はMNLFを脱し、MILFやアブ・サヤフに合流して、武装闘争を継続します。
 
 このうち、アブ・サヤフは、1991年、フィリピン人ムスリムでシリア、サウジに留学経験があり、アフガニスタンのムジャーヒディーン闘争に参加経験のあるアブドラガク・ジャンジャラーニがMNLFから分離して設立した組織で、組織名は、アフガニスタン・ムジャーヒディーン・イスラム同盟議長のアブドゥル・ラスル・サイヤフに由来しています。設立の目的は、ミンダナオ島周辺のイスラム社会をキリスト教徒中心のフィリピンから独立させることで、設立資金はウサーマ・ビン・ラーディンから渡され、アル・カーイダのラムジ・ユセフなどから軍事援助を受けていたとされています。

 その後、1997年には、MILFとフィリピン政府の間で和平協定が成立しますが、2000年、エストラーダ大統領がこれを破棄したことで、MILFはフィリピン政府に対する“ジハード”を宣言。マニラを含むフィリピン各地でテロが頻発し、急速な治安悪化の責任をとって、2001年1月、エストラーダ政権は退陣に追い込まれました。

 エストラーダ政権の後を継いで発足したアロヨ政権は、2001年9月の米国同時多発テロ後の国際的な反テロ気運を活用し、アブ・サヤフらイスラム系過激派のテロに対して、米軍を巻き込んでミンダナオ島などで掃討作戦を展開。これにより、アブ・サヤフは壊滅的な打撃を受けましたが、その後も、MILFの実効支配地域で、ジェマー・イスラミア(JI)メンバーから軍事訓練を受ける一方、暴力的イスラム改宗者組織“ラジャ・ソレイマン・イスラム運動(RSIM)”及びMILF強硬派と連携。2004年には、マニラ湾コレヒドール島近海で旅客船スーパーフェリー14を爆破し、死者・行方不明者116名という、フィリピン史上最悪のテロ事件を引き起こしました。

 ただし、MILF主流派は、2003年に創設者のサラマト・ハシムが亡くなってから徐々に穏健化。2012年10月には、フィリピン政府とミンダナオ和平に関する「枠組み合意」に署名し、2014年3月には包括和平協定に調印しましたが、和平に反対のアブ・サヤフ、バンサモロ・イスラム自由戦士(BIFF。MILF強硬派司令官アメリル・ウンブラ・カトが2010年、MILFを脱退して設立)、マウテ(2012年、アブドゥッラーとオマルのマウテ兄弟が“ダウラ・イスラミヤ”として設立)などは2014年頃からダーイシュの影響下に入ることで勢力を維持・拡大。ここに、2010年にインドネシア政府の掃討攻撃を受けて大きな打撃を受けたインドネシアのジェマー・イスラミア(JI。1993年、元アフガン義勇兵を中心に結成)の残党の一部がミンダナオに流入、合流しているとの報告もあります。

 こうした中で、2017年5月23日、アブ・サヤフ幹部のイスニロン・ハピロンがマラウィに潜伏しているとの情報を得たフィリピン国軍が、アジトへの奇襲攻撃を敢行するも失敗。これを機に、フィリピン国軍とアブ・サヤフ、地元テロ組織のマウテとの間で戦闘に発展し、ドゥテルテ大統領がミンダナオ島に戒厳令発令して、いわゆるマラウィ危機が発生しました。

 ミンダナオ島での戦闘は、ほぼマラウイ周辺に限定されているものの、軍によると死者は市民26人を含め360人、避難民も30万人にのぼっています。また、フィリピン空軍がマラウィ市内の一部に空爆を行うと、アブ・サヤフとマウテは市民を“人間の楯”にして抵抗しているだけでなく、彼らの実効支配地域では、極端な原理主義的政策による人権侵害も横行しています。

 フィリピン政府は米軍の支援も受けて鎮圧に躍起になっていますが、マラウィ周辺の内戦地域には、各地のテロ組織から“兵士”が流入していることもあって、事態の長期化に対して懸念が高まっています。

 なお、このあたりの事情については、22日配信の「チャンネルくらら」でもまとめてみましたので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  次回は29日!★★★ 

 6月29日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第5回目が放送予定です。今回は、7月1日の香港“返還”20周年を前に、香港にスポットを当ててお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 わが最後の別れ
2016-12-30 Fri 17:06
 フィリピン独立運動の志士、ホセ・リサールが1896年12月30日に処刑されてから、きょうでちょうど120年です。というわけで、ただ単にリサールの肖像切手を持ってきても芸がないので、ちょっとひねってこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・独立小型シート  フィリピン・独立小型シート(部分拡大)

 これは、1943年10月1日、日本占領下でフィリピン第2共和国が独立したことを記念して、同月14日に発行された独立記念切手の小型シートです。小型シートは3種の記念切手を収めていますが、切手の下に、リサールの辞世の詩として有名な「わが最後の別れ(MI ULTIMO ADIOS)」の手稿の一節(右側にその部分を拡大した画像を貼っておきます)が印刷されているのがミソです。

 リサールは、1861年6月19日、スペイン領時代のルソン島カランバで生まれました。幼少時から神童の誉れ高く、1877年、16歳にしてマニラのアテネオ学院(現アテネオ・デ・マニラ大学)に入学して農学を学び、さらに同校で土地測量の技術を学びつつ、サント・トマス大学で医学を学びました。また、在学中の1879年にはスペイン語の詩のコンテストで最優秀賞を獲得しています。

 1881年にアテネオ・デ・マニラ専門学校を卒業、翌1882年にサント・トマス大学医学部を修了した後、宗主国スペインの国立マドリード大学医学部および哲文学部の両学部に入学。1885年、マドリード大学の哲文学博士と医学士の号を取得した後、フランス、ドイツの各大学でも学び、ドイツ滞在中の1887年、ベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ(私に触れるな)』を出版し、同年8月、フィリピンに帰国しました。

 帰国後のリサールは、故郷のカランバで医者として働いていましたが、ドイツで出版した『ノリ・メ・タンヘレ』がスペイン修道会の怒りを買い、再び“留学”の名目で日本、米国経由でヨーロッパに逃れました。

 1891年には帰国しようとしたものの、スペイン当局は彼の帰国を認めなかったため、香港で眼科医を開業したものの、望郷の念発ちがたく、1892年6月に帰国。帰国後は、スペインの統治を認めたうえで、穏健な改革を求める“フィリピン同盟”を結成しましたが、これを危険視したスペイン当局は彼を逮捕し、ミンダナオ島のダピタンへ流刑としました。

 1896年7月、刑期の満了後、彼は軍医としてスペイン海軍の巡洋艦「カスティリア号」に乗り込み、スペイン領キューバへ向かいましたが、船が地中海に入ったところで、フィリピンで“1896年革命”が勃発したことから、革命への関与を疑われて逮捕され、マニラへ移送の後、同年12月26日、軍法会議で銃殺刑の判決を受け、30日に処刑されました。享年35歳。その死は多くの人々に衝撃を与え、1898年に成立したフィリピン第1共和国大統領のエミリオ・アギナルドは、リサールが処刑された12月30日を“リサールの日”に指定。現在でも、この日はフィリピンの祭日となっています。

 処刑前日の1896年12月29日、獄中のリサールの元へ、彼の母親と2人の妹、2人の甥が面会に訪れ、アルコールストーブを託されます。そのストーブの中には、2枚の紙に無記名・無題、日付のない詩が書かれたメモが入っていました。この詩は、リサール処刑後の1897年、「わが最後の別れ」との題名とをつけて香港で発表され、国際的に広く知られるようになりました。

 「わが最後の別れ」は、「さようなら、愛する祖国、懐かしい太陽の地よ(Adiós, Patria adorada, región del sol querida)」の一節で始まる長編詩で、小型シートには、詩の第4連部分のリサールの手稿が取り上げられています。

 Mis sueños cuando apenas muchacho adolescente,
 Mis sueños cuando joven ya lleno de vigor,
 Fueron el verte un día, joya del Mar de oriente,
 Secos los negros ojos, alta la tersa frente,
 Sin ceño, sin arrugas, sin manchas de rubor.

 ちなみに、「わが最後の別れ」の日本語訳としては、リサールの生誕100周年にあたる1961年、加瀬正治郎が「ホセ・リサール/一八九六」の邦題で発表したものが有名で、小型シートに引用されている部分は、加瀬訳だと以下のようになっています。

 私は夢みた はじめて生命のひらかれたとき
 私は夢みた 若き日の希望に胸の高鳴ったとき
 おお 東の海の宝石よ きみの晴れやかな顔をみる日を
 憂愁と悲しみよりとき放たれて
 きみの顔にかげはなく きみの眼に涙のない日を


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 マルコス、英雄墓地に埋葬へ
2016-11-08 Tue 21:34
 1986年のピープル・パワー革命で亡命し、ハワイで客死したフィリピンの独裁者、フェルディナンド・エドラリン・マルコス元大統領の遺体について、フィリピン最高裁は、きょう(8日)、マニラ首都圏の“ボニファシオ・シティー”にあるリビンガン・ナン・マガ・バヤニ(通称・国立英雄墓地)への埋葬を認める決定を出しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      在比米軍・フォートマッキンリー・カバー(1946)

 これは、第二次大戦直後の1946年3月19日、マニラ近郊のフォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地内の第925野戦局から差し出された軍事郵便のカバーです。今回、マルコスの遺体が埋葬されることになった国立英雄墓地は、もともとは、同基地の敷地の一部でしたので、関連のマテリアルということで持ってきた次第です。

 フォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地は、米比戦争中の1901年、マニラ首都圏を流れるパシッグ川の南岸に開設されました。日米開戦を前に、軍事的緊張が高まるなかで、1941年7月26日、アメリカ極東陸軍が創設されると、その司令部が設置された基地でもあります。

 第二次大戦後の1946年7月4日、フィリピンが独立したことを受けて、1949年5月14日、フォート・ウィリアム・マッキンリー米軍基地はフィリピン政府に返還され、フィリピン陸軍の本部が置かれることになります。また、それにあわせて、基地の名前も、フォート・ウィリアム・マッキンリーから、19世紀末の独立革命の英雄、アンドレス・ボニファシオにちなんで、フォート・ボニファシオをと改称されました。

 英雄墓地は、フィリピン独立直線の1947年5月に設置され、独立後の1948年6月、フィリピン政府の管轄となりました。敷地面積は142ヘクタールで、もともとは、第二次大戦のフィリピン戦線での戦没者を埋葬するための施設で、各地で収集された無名兵士の遺骨が全体の8割を占め、それらは、バターンやタルラック、マニラ市内のフォート・サンチャゴなど地域ごとに整理され、埋葬されています。また、朝鮮戦争やヴェトナム戦争で亡くなったフィリピン人将兵の遺骨や、国内の共産ゲリラ(NPA)や分離独立を求めるイスラム勢力との戦闘で亡くなった将兵たちの遺骨も埋葬されています。

 さて、マルコスは、日本軍のフィリピン侵攻時、米比軍第21歩兵師団の戦闘情報局員として中尉の階級で従軍し、「18歳だった3人の新兵と共に、後方の日本軍前線を突破し敵兵の50人を殺害、同師団を釘付けにしていた日本軍の迫撃砲を破壊し、さらに日本軍の捕虜となった際、拷問をかけられながらもこれに反撃し脱出した」と主張し、その結果、大尉に昇進しています。しかし、実際には、マルコス本人は“バターン死の行進”から脱出することに成功はしたことまでは確認されているものの、その後の“軍功”を裏付ける資料や客観的な証言はなく、米公文書館の記録によれば、彼の戦時中の“抗日活動”の実績はほとんどなかったことが明らかになっています。

 それでも、マルコスは捏造した軍功により、自らを“抗日戦争の英雄”として人々に印象づけることに成功。そのことが、彼のその後の政治的な成功の出発点となったことは言うまでもありません。

 現在でも、マルコスの“抗日神話”はフィリピン国内では根強く信じられており、1998年に発足したエストラーダ政権は、遺族の希望もあって、マルコスの遺体を“抗日の英雄”として英雄墓地に埋葬する意向を表明。以後、マルコスの政治的評価をめぐり、彼の遺体を“英雄”の名を冠した墓地に埋葬することの是非をめぐって、長年にわたり、論争が続いていました。

 ことし5月に就任したドゥテルテ大統領は、もともとマルコス一族と親しかったこともあって、9月、北イロコス州に安置されていたマルコスの遺体を英雄墓地に埋葬する方針を表明。これに対して、“独裁政治の美化”と反発する声も強く、マルコス時代に人権侵害を受けた被害者らが差し止めを求め、最高裁に提訴していました。

 今回の裁定で、マルコスの遺体は英雄墓地に埋葬されることになったわけですが、本当に日本軍と戦ったフィリピンの英霊たちが、新入りのマルコスを見て「あれ、見たことのない奴だな。どうしてここにいるんだ?」と不審に思い、安らかな眠りを妨げられたりはしないか、僕などはそちらの方が心配ですな。


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 11月17日(木) 10:30-12:00 
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 テニスの錦織が銅
2016-08-15 Mon 17:56
 リオデジャネイロ五輪10日目(現地時間14日)は、レスリング・グレコローマン男子59kg級で太田忍が銀、テニス・男子シングルスで錦織圭が銅のメダルを獲得しました。日本勢のメダルは、1920年のアントワープ五輪での熊谷一弥が男子シングルスで、熊谷と柏尾誠一郎組がダブルスでともに銀メダルを獲得して以来96年ぶりのことです。というわけで、 きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・極東選手権(テニス・1934)

 これは、1934年に米領時代のフィリピンで発行された第10回極東選手権大会の記念切手で、テニスが描かれています。

 極東選手権大会は、現在のアジア競技大会の前身で、1913年、“東洋オリンピック大会”の名の下にフィリピンで第1回の大会が開催されました。

 以後、日本・中国・フィリピンの3ヶ国が持ち回りで主催者となり、1927年の第8回までは、2年ごとの開催でした。その後は、オリンピックの中間年に行われることになり、第9回大会は1930年に東京で開催され、この大会からインドが参加国に加わりました。ついで、1934年にマニラで開催された第10回大会からはオランダ領東インド(現インドネシア)も参加しましたが、いわゆる日中戦争(支那事変)の影響で、1938年に予定されていた第11回大会は中止とされます。ちなみに、1940年に開催が予定されていた東京五輪の返上が決定されたのも1938年のことでした。

 以後、戦争の影響で中断されていたアジア諸国のスポーツ交流は、1948年、アジア競技連盟の結成により再開され、1951年3月、戦前の極東選手権大会に西アジア競技大会を統合するかたちで、第1回アジア競技大会がニューデリーで開催されました。このときの参加国は、アフガニスタン、ビルマ(現ミャンマー)、インド、フィリピン、セイロン、インドネシア、ネパール、タイ、シンガポール、イラン、日本の11ヶ国で、日本が優勝しています。

 ちなみに、1929-32年に米国のフィリピン総督を務めたドワイト・フィリー・デイヴィスは、1899-1901年にかけてテニスの全米選手権の男子ダブルスで3連覇、1901年にウィンブルドン選手権で男子ダブルス準優勝を果たした名選手で、男子テニスの国別対抗戦・デヴィスカップを創設したことでも知られています。

 後に、テニスを引退したデービスは、故郷のセントルイスで政治に関わるようになり、第一次大戦中は第69歩兵連隊の参謀長として従軍。フランスでの戦闘を評価されて、レジオンドヌール勲章を授与されました。大戦後は、ワシントンD.C.で戦時金融公社の取締役、陸軍次官補、陸軍長官を経て、フィリピン総督に就任しましたが、往年の名選手が総督として着任したことで、フィリピンでもテニスが本格的に行われるようになり、彼の退任後、今回ご紹介の切手が発行されることになりました。


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 フィリピン新大統領にドゥテルテ氏
2016-05-10 Tue 12:02
 きのう(9日)、投開票が行われたフィリピン大統領選挙は、ミンダナオ島ダヴァオ市長を務めたロドリゴ・ドゥテルテ氏(以下、敬称略)の当選が確実となりました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・密輸防止FDC

 これは、1966年5月1日にフィリピンで発行された“密輸防止キャンペーン”の加刷切手の初日カバーです。

 切手は、前年(1965年)12月30日に発足したフェルディナンド・マルコス政権が、政権公約の一つであった治安改善のいkごみを示すモノとして、1964年に発行されたホセ・リサールの6センタヴォ切手に“Help Me Stop Smuggling Pres. Marcos (密輸防止のため私に協力してください 大統領マルコス)」の文言が加刷されています。また、カバーの封筒にはマルコスの肖像が印刷されているほか、“HELP MAKE THIS NATION GREAT AGAIN (この国をもう一度、偉大な国にするよう、協力してください)”との文言と正面を指さすマルコスの肖像のカシェが押されています。なんだか、顔や名前をドゥテルテに入れ替えれば、そのまま現在でも通用しそうな雰囲気ですな。

 さて、今回、フィリピンの新大統領に当選したドゥテルテですが、1988-98年および2001-10年にダヴァオ市長を務め、治安政策に辣腕をふるったことで知られています。

 ただし、その手法はかなり攻撃的で、「もし、君が私の町で違法行為を働いた場合、犯罪組織の一員とみなす。善良な市民の暮らしを脅かすならば私が市長である限り、その人物は報復(暗殺)の対象となるだろう」との本人の発言通り、ダバオ・デス・スクワッドと呼ばれる自警団を組織し、麻薬の密売人を中心とした“犯罪者”を私的に(正規の法手続きを経ずに)処刑しています。また、海賊やイスラム過激派組織のモロ・イスラム解放戦線に対しても容赦のない討伐作戦を展開。この結果、かつては治安が劣悪で“フィリピンの殺人都市”と呼ばれたダヴァオ市は、“東南アジアで最も平和な都市”と呼ばれるまでに激変しました。

 当然のことながら、人権団体などはドゥテルテによる“人権侵害”を激しく非難していますが、一般市民の中には治安の劇的な改善という“業績”を高く評価する人が多いのも現実で、今月7日、投票日前の最後の選挙演説では「人権に関する法律は忘れてもらう」、「(犯罪者は)八つ裂きにしてやる」とドゥテルテが叫ぶと、30万人の支持者が大喝采するという光景が見られました。

 なお、新大統領の就任式は6月30日だそうですが、まずは、「大統領に選ばれれば犯罪者10万人を処刑してマニラ湾に投げ捨てる」との選挙公約が本当に実行されるのか否か、注目したいところです。

 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

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 ピープル・パワー革命30年
2016-02-25 Thu 15:37
 フィリピンでフェルディナンド・マルコス独裁政権が崩壊し、コラソン・アキノ(コリー)政権が成立した“ピープル・パワー革命”から、きょう(25日)で、ちょうど30年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・ピープルパワー革命

 これは、革命から1ヶ月後の1986年3月25日に発行された小型シートで、アキノ大統領、ラウレル副大統領の肖像と、革命の群集がデザインされています。

 1965年に大統領に就任したマルコスは1972年9月21日に戒厳令を布告。従来の憲法を停止し、翌1973年には大統領職と首相職を兼任することを認める新憲法を制定するなど、次第に独裁傾向を強めていきました。こうした中で、野党政治家に対する弾圧も強化され、野党の有力政治家だったベニグノ・アキノ(ニノイ)は、政府転覆の陰謀と武器の不法所持、殺人などで逮捕され、1977年に死刑宣告を受けています。ただし、マルコス政権も、国民的な人気のあったニノイを実際に処刑することはできず、1980年、米国で手術を受けさせるとの名目で、彼を国外追放処分にしました。韓国の金大中を連想させるエピソードですな。

 米国でも、ニノイはフィリピン民主化運動の闘士として反マルコス運動の先頭に立っていましたが、1983年8月21日、逮捕覚悟で帰国したところ、飛行機を降りた直後に暗殺されました。暗殺事件の容疑者としては、国軍参謀総長のファビアン・ベール大将らが容疑者として起訴されたものの、1985年には無罪判決が下ったことで、国民の反マルコス感情が爆発。反政府デモが頻発したことで社会情勢は不安定になり、海外からの闘士も激減してフィリピン経済は低迷することになります。

 こうした状況の中で、国民の不満を解消し、あわせて国際社会からの非難をかわすため、マルコスは任期半ばの1986年初頭に大統領選挙を行うことを発表。この選挙には、マルコスの対抗馬として、野党候補としてコリーが立候補し、徹底的な反マルコス・キャンペーンを展開しました。

 投票は2月7日に行われ、民間の選挙監視団体“自由選挙のための全国運動”や公式な投票立会人らが「アキノが約80万票差で勝利した」と発表したにもかかわらず、マルコスの影響下にあった中央選挙管理委員会の公式記録では「マルコスが160万票の差で勝利した」と発表。この露骨な開票操作に対しては、野党のみならず、カトリック教会や米国もマルコス政権を非難。多くの国民がこれに同調し、フィリピン国内各地ではコリーのシンボルカラーであった黄色のシャツを着た人々による反マルコスデモが沸き起こりました。

 さらに、2月22日、エンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀長ら軍首脳もマルコスから離反したことで、米国もマルコスを完全に見放しました。その後、同月25日、コリーが大統領就任宣誓を行い、マルコス夫妻は多くのマニラ市民に包囲されたマラカニアン宮殿から、米軍のヘリコプターで脱出し、マルコス政権は崩壊しました。

 ちなみに、ピープル・パワー革命が起きた当時、僕は卒業間近の高校3年生でしたが、マルコスが失脚して、主不在となったマラカニアン宮殿から、イメルダ夫人の大量の靴が出てきたときの映像は未だに鮮明に記憶に残っています。


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 リサール記念碑
2016-01-28 Thu 11:51
 フィリピンご訪問中の天皇・皇后両陛下は、きのう(27日)、マニラ市内のリサール記念碑と無名戦士の墓を訪れ、供花されました。というわけで、リサール記念碑が描かれた切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン独立・1943年(17セント)

 これは、第二次大戦中の1943年10月1日、日本軍占領下でのフィリピン第2共和国の“独立”記念切手で、フィリピンの女性を中心に、リサール記念碑とフィリピン国旗が描かれています。

 ホセ・リサールは、スペイン統治時代のフィリピンで活動した独立運動の闘士でしたが、1896年、志半ばにして捕らえられ、銃殺されました。しかし、彼の遺志は人々に受け継がれ、現在でもフィリピン独立の英雄として尊敬を集めている人物です。

 リサールが処刑された翌年の1897年、フィリピンでは独立派によりフィリピン共和国(ビアクナバト共和国)の独立が宣言されます。ビアナバクト共和国は半年ほどで事実上崩壊しましたが、1898年には米西戦争が勃発。米国は独立派の支援を名目にフィリピンに出兵し、最終的に、フィリピンを併合して“友愛的同化”をスローガンとする植民地支配をスタートさせました。

 当然のことながら、スペインがいなくなれば独立できると思っていたフィリピン人は米国に抵抗し、米比戦争が勃発。こうした中で、フィリピン・ゲリラの討伐とあわせて、フィリピン人に対する懐柔策を取る必要から、1901年9月28日、米国のフィリピン群島政府は第243号法令を発し、マニラ市内に“スペインと戦った独立の志士 ホセ・リサール”の顕彰施設を建設するために公有地を提供することが決定され、その具体的な作業のために委員会が組織され、市民からの募金活動が開始されました。

 顕彰施設の核となる記念碑については、1905年から1907年にかけて、欧米の彫刻家を招いてのコンペが行われ、1908年1月8日、イタリアの彫刻家カルロス・ニコリのプランが1等に選ばれ、ニコリは賞金500万ペソを獲得しました。しかし、ニコリのプランは本体だけで高さ18m、台座を含めると30mの巨大なもので、実際の塩蔵は予算上の制約から不可能とされ、実際の記念碑には2等となったスイスの彫刻家、リチャード・キスリングのプランが採用されることになりました。

 最終的に記念碑が完成し、除幕式が行われたのは、リサールの命日にあたる1930年12月30日のことで、今回ご紹介の切手にみられるように、当時は背後に国旗掲揚のための支柱はありませんでした。

 ちなみに、リサールは、白人(スペイン人)の支配に抵抗して処刑された独立の志士というだけでなく、一時期、日本に滞在し、日本人女性の臼井勢似子と恋愛関係にあるなど、日本とも因縁浅から存在でした。このため、“日本を盟主とする大東亜共栄圏の建設”という大義名分でフィリピンを占領した日本軍にとっては、リサールは非常に使い勝手の良いシンボルだったわけで、当時、リサールには日本人の血が流れているとの噂(事実関係を言うと、リサールの家系は中国系とフィリピン人の混血)がまことしやかにささやかれていました。

 その後、リサールの生誕100年にあたる1961年には、記念碑本体の背後に、国旗掲揚のための金属の支柱が建てられ、現在の景観となりました。皇太子・同妃時代の両陛下がフィリピンをご訪問され、リサール記念碑に供花されたのは、その翌年の1962年のことです。

 この記事を書いていて気付いたのですが、今年(2016年)は、日本とフィリピンの国交60年というだけでなく、リサール生誕120年でもあるんですねぇ。これを機に、なにかフィリピンがらみの書籍が作れないかなぁ。ご興味をお持ちの編集者の方、ご連絡をお待ちしております。


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 両陛下、フィリピンご訪問
2016-01-26 Tue 22:39
 日本とフィリピンの国交正常化60周年にあたり、天皇皇后両陛下が、きょう(26日)からフィリピンをご訪問なさっています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・モンテンルパ監獄カバー

 これは、1952年1月、いわゆるB級戦犯としてフィリピン・モンテンルパのニュービリビット監獄に収監されていた横山静雄中将が差し出したカバーです。

 横山元中将は、1890年、福岡県生まれ。1912年5月、陸軍士官学校(24期)を卒業し、日中戦争では歩兵第2連隊長として出征。1942年6月、第8師団長に親補され、満洲の鶏寧県に駐屯していましたが、1944年12月、戦局の悪化に伴いフィリピンに派遣され、第41軍司令官として山岳地帯に籠り、持久戦を展開しながら終戦を迎えました。

 終戦後は、軍司令官という立場から戦犯容疑に問われ、1949年5月、銃殺刑の判決を受けています。なお、1946年7月4日、フィリピンが独立したことを受けて、1947年6月、フィリピンでの戦犯(容疑者)の身柄はフィリピン政府に移管されており、元中将もフィリピン政府によって収監されていました。

 元中将が銃殺刑の判決を受けたころ、フィリピンでは戦犯の処刑は一時休止されていたため、そのまま詩形から減刑されることを期待していた人たちも少なくありませんでした。ところが、1951年1月、突如、14名が絞首刑を執行され、“戦犯”たちは再び暗澹たる思いにとらわれるようになります。

 1952年4月28日、対日講和条約が発効し、フィリピンと日本の間で国交の樹立と賠償問題が政治日程に上るようになりましたが、“戦犯”たちの釈放のめどは立ちませんでした。こうした状況の中で、ニュービリビット監獄で教誨師を務めていた加賀尾秀忍は、死刑判決を受けて収監されていた代田銀太郎と伊藤正康の二人に歌を作ることを勧めました。こうして作られたのが、「あゝモンテンルパの夜は更けて」で、当時の人気歌手、渡辺はま子が歌って大ヒット曲となりました。

 今回ご紹介のカバーはこの時代のモノで、監獄の検閲を受けた後、そのことを示す円形の紫印が押されています。検閲印は色が薄くて読みにくいのですが、“BUREAU OF PRISON/ CENSORED/ MAILING CLERK”の文字があり、その上に担当者のサインがあります。

 ニュービリビット監獄での検閲を受けた後、元中将の手紙は新聞記者もしくは外務省の担当者に託されて日本国内に持ち込まれ、東京・市ヶ谷の引揚援護庁復員局に引き渡された後、“法務調査課 植木信吉”の名義で日本国内の名宛人に郵送されました。日本国内の郵便料金は復員局の負担です。

 この手紙が差し出されてから1年半後の1953年7月4日、フィリピン政府は収監中の日本人戦犯死刑囚全員を終身刑に減刑。これを受けて、同年12月、元中将も特赦によって帰国しています。

 ちなみに、「日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定」が調印され、日本とフィリピンの戦争状態が正式に終結したのは、1956年5月9日のことで、今年はここから起算して60周年ということになります。


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