内藤陽介 Yosuke NAITO
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 約2週間ぶりに礼拝再開
2017-07-28 Fri 19:02
 エルサレム旧市街にあるユダヤ教・イスラム双方の聖地“神殿の丘(ユダヤ名)/ハラム・シャリーフ(イスラム名)”をめぐり衝突が続いていた問題で、イスラエル警察は、きのう(27日)、今月14日以降新たに設置した全ての警備機器を撤去。これを受けて、約2週間ぶりに敷地内でのムスリムの礼拝が再開されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン・聖地の悲劇

 これは、1969年12月にヨルダンが発行した“聖地の悲劇”の切手のうち、瓦礫越しに見える岩のドームが描かれています。

 神殿の丘/ハラム・シャリーフと呼ばれている場所は、もともとは自然の高台で、紀元前10世紀頃、ソロモン王がここにエルサレム神殿(第一神殿)を建造しました。第一神殿は、紀元前587年、バビロニアにより破壊されましたが、紀元前515年に再建されます。これが第二神殿で、紀元前19年頃、神殿はヘロデ王によって大幅に拡張され、周囲は壁に覆われました。この時の神殿の範囲が現在の“神殿の丘”になります。

 その後、紀元後70年、第二神殿はローマ帝国によるエルサレム攻囲戦によって破壊され、ヘロデ王時代の西壁の幅490m、高さ32m(うち、地上に現れている部分は幅57m、高さ19m)が残るのみとなります。これが、今回ご紹介の切手にも取り上げられた“嘆きの壁”です。なお、この壁に対して各国語で“嘆き”の形容詞が付けられているのは、神殿の破壊を嘆き悲しむため、残された城壁に集まるユダヤ人の習慣を表現したもので、ヘブライ語では“西の壁”と呼ばれています。

 132-135年のバル・コクバの乱(ユダヤ属州でのローマ帝国に対する反乱)の後、ユダヤ教徒は原則としてエルサレムへの立ち入りを禁止され、4世紀以降は1年に1日、例外的に立ち入りを認められるという状況が続いていました。これに対して、638年、いわゆるアラブの大征服の一環として、ムスリムがエルサレムを占領すると、ムスリムの支配下で、ローマ時代以来禁止されていたユダヤ教徒のエルサレムへの立入が認められるようになります。この結果、生活上の権利に一定の制約は設けられたものの、ユダヤ教徒はキリスト教徒とともに、アブラハム以来の一神教の系譜に属する「啓典の民」として、この地でムスリムとともに共存していくことになりました。

 ところで、イスラムでは、エルサレムはメッカメディナに次ぐ第3の聖地とされており、691年には、アラブ系のウマイヤ朝によって、ムハンマドの天界飛翔伝説にちなむ聖なる石を包むように、“神殿の丘”の敷地内に岩のドームが建設されます。当時、メッカはウマイヤ朝の支配に異を唱えるイブン・ズバイルの一派により占領されており、ウマイヤ朝はメッカを回復できないという最悪の可能性も考慮して、ドームの建設を計画したといわれています。

 当然のことながら、“神殿の丘”はユダヤ教にとっての聖地でしたが、正統派のユダヤ教においては、世界の終末に救世主が現れて神殿を再建するまで、ユダヤ教徒は神殿跡に入ってはならないとの教義もあります。したがって、神殿の丘の敷地内にイスラムの聖地としてモスクが建造されても、少なくとも世界の終末までは、ユダヤ教徒にとって実質的なダメージはないというロジックが導き出されることになり、岩のドームを聖地とするムスリムと、嘆きの壁を聖地とするユダヤ教徒住み分けが可能となりました。

 その後、十字軍による侵略はあったものの、ラテン王国(キリスト教徒の占領軍が建国)の消滅後は、キリスト教側も聖地の奪還を断念。聖地への自由な通行権の確保と、現地キリスト教徒の保護を主要な関心とするようになり、エルサレムは三宗教共通の聖地(ただし、その具体的な場所は重ならない)として、ムスリムの支配者の下で、各宗教の信徒が共存する状況が20世紀に入るまで続くことになります。

 神殿の丘を含むエルサレムの旧市街は、第一次大戦まではオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、その後、英国委任統治下のパレスチナに編入され、第一次中東戦争を経て、1948-67年にはヨルダンの支配下に置かれます。ちなみに、ヨルダン支配下の“神殿の丘/ハラム・シャリーフ”には、イスラエル国籍の保有者の立ち入りは禁止されていました。

 1967年の第三次中東戦争により、イスラエルはエルサレム旧市街を占領し、自国領への編入を宣言しましたが、岩のドームのある“神殿の丘(ハラム・シャリーフ)”は歴史的にワクフが設定されていることから、ヨルダン宗教省が引き続きその管理を行い、その域内ではユダヤ教徒とキリスト教徒による宗教儀式は原則禁止という変則的な状況となります。

 ワクフというのはイスラムに独特の財産寄進制度で、なんらかの収益を生む私有財産の所有者が、そこから得られる収益を特定の慈善目的に永久に充てるため、その財産の所有権を放棄すること、またはその対象の財産やそれを運営する組織を意味する語です。一度、ワクフとして設定された財産については一切の所有権の異動(売買・譲渡・分割など)が認められません。ちなみに、パレスチナ、特に、ハラム・シャリーフがワクフであるとの根拠は、638年、第二代カリフのウマルが、エルサレムの無血開城に際してギリシャ正教会総主教と結んだ盟約にあるとされています。

 今回ご紹介の切手も、そうした事情を踏まえ、ヨルダン宗教省はムスリムを代表してワクフ財産としての岩のドーム(を含む神殿の丘)を管理する権限を有するという、彼らの主張を表現したものです。

 さて、今回の神殿の丘/ハラム・シャリーフをめぐる衝突は、今月14日、アラブ系イスラエル人(イスラエル国籍を持つパレスチナ人)3人が警官を銃撃した事件が発端になっています。このため、16日、イスラエル側は治安対策を理由に、神殿の丘/ハラム・シャリーフの入口にムスリム専用の金属探知機を設置しました。

 このことが、ハラム・シャリーフに対するヨルダン宗教省の“管理権”を侵害するものとしてムスリムの反発を招き、21日の金曜礼拝にあわせて、エルサレム旧市街やパレスチナ自治区ヨルダン川西岸各地で大規模な抗議行動が発生。イスラエル治安部隊との衝突でパレスチナ人3人が死亡、約400人が負傷したほか、同日夜にはパレスチナ人がユダヤ人入植地に侵入し、3人を刺殺する事件が起きています。また、23日には、ヨルダンのイスラエル大使館敷地内で、イスラエルへの反発が原因とみられる襲撃事件も発生しました。

 このため、25日、イスラエル側は金属探知機を撤去しましたが、パレスチナ側は14日以前の警備態勢に戻すよう求め、聖地敷地外の路上で数千人が抗議の礼拝を続けていました。 
 
 そこで、28日・金曜日の集団礼拝を前に、27日、イスラエル警察がすべての警備機器を撤去すると、ハラム・シャリーフの入口の外にいたパレスチナ人らがアルアクサ・モスクへと殺到。その際、興奮した群衆の一部が「われわれ自身が犠牲になる」などと叫んで警官隊を挑発したり、建造物の屋根によじ登ってパレスチナの旗を振ったりするなど騒擾状態に陥ったため、警官隊は閃光弾などを使って鎮圧し、ロイター通信によると少なくとも113人が負傷しました。イスラエル当局は、きょう(28日)の集団礼拝を前に、治安部隊を増強して厳戒態勢をとっています。

 さて、ことし(2017年)は、英国がパレスチナに“ユダヤ人の民族的郷土”を作ることを支持するとしたバルフォア宣言(1917年)から100年、イスラエル国家建国の根拠とされる国連のパレスチナ分割決議(1947年)から70年、中東現代史の原点ともいうべき第三次中東戦争(1967年)から50年という年回りになっています。

 これにあわせて、本のメルマガで連載中の「岩のドームの郵便学」に加筆修正した書籍『パレスチナ現代史:岩のドームの郵便学』(仮題)の刊行に向けて、現在、制作作業を進めています。発売日などの詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。  
       
 * 7月27日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第6回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。


 ★★★ ツイキャス出演のお知らせ ★★★

 7月30日(日)22:00~ 拉致被害者全員奪還ツイキャスのゲストで内藤が出演しますので、よろしかったら、ぜひ、こちらをクリックしてお聴きください。なお、告知のツイートはこちらをご覧ください。

 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史”  ★★★ 

 7月27日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」の第6回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、高校野球があるため、少し間が開いて8月24日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。 

 なお、27日放送分につきましては、8月3日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。

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 岩のドームの郵便学(47)
2017-01-18 Wed 10:58
  『本のメルマガ』631号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、1985年のアンマン合意について取りあげました。その記事の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      ヨルダン・フセイン国王50歳

 これは、1985年にヨルダンが発行した国王50歳誕生日の記念切手で、国王の肖像とともに岩のドームが取り上げられています。

 1983年末のエジプトとPLOの和解を受けて、1984年1月、ヨルダンのフセイン国王は議会を再開し、パレスチナ人の有力者である(イスラエル占領下の)ヨルダン川西岸住民代表の政治参加を制度的に復活させることによって、パレスチナ問題解決への積極姿勢を示します。これを受けて、2月にはアラファトがフセイン国王と会談しました。

 ヨルダンとPLOの関係は、1970年9月、PLO内でファタハに次ぐ勢力を誇っていたゲリラ組織、パレスチナ解放戦線(PFLP)がアラブ諸国とイスラエルとの和平交渉を妨害するため、欧米系航空会社の旅客機5機をハイジャックし、うち3機をヨルダンのドーソン基地に強制着陸させ、爆破・炎上させた“ブラック・セプテンバー事件”を機に断絶していました。

 PLO内で反主流派の突き上げにあっていたアラファトは、ヨルダンとの関係修復という功績により、PLO内の権力基盤を維持しようとしたのでえす。

 一方、パレスチナからの難民を多数自国内に抱えるヨルダンとしては、PLOが自国の体制に脅威を与えない穏健組織となったうえで、自らがパレスチナ和平に向けてのイニシアティヴを握ることが外交上、重要な課題となっていました。

 かくして、アラファトとの会談後、フセイン国王は、1984年3月頃より米国の中東政策への批判を強め、ソ連を含む国際会議の開催を提唱するようになります。

 こうした国王の動きを受けて、当事者であるPLO内部では4月下旬にアラファト派と中間派が和解し、9月15日までにパレスチナ民族評議会(PNC)を開催することなどを定めた“アデン合意”が成立します。ただし、反アラファト派はアデン合意に強く反発し、かえって、アラファト派と反アラファト派の反目は強まりました。

 その後、7月にはソ連が中東和平提案を発表して国連の下での国際会議開催を提唱。9月にはイスラエルで対パレスチナ強硬派のイツハク・シャミール政権に代わり、穏健派のシモン・ペレス労働党党首を首班とする労働党・リクード連立政権が成立したほか、ヨルダンとエジプトが外交関係を再開しています。

 こうして、全体に宥和ムードが漂う中、1984年10月、ヨルダンの首都アンマンで第17回PNCが開催されました。

 議場では、フセイン国王が中東問題の解決に向けてのPLOとの共同行動を進める意欲を示したほか、アラファトも自らの指導体制の再確立を図るとともに、エジプトおよびヨルダンとの関係強化の方針を強調。しかし、PLO反アラファト派は、そもそも、このときのPNCを正規の開催とは認めず、議会を欠席。あらためて、PLO内部の亀裂の深さをうかがわせました。

 その後、PLOアラファト派とヨルダンは“共同行動”の可能性について協議を重ね、翌1985年2月11日、両者の間でいわゆる“アンマン合意”が成立します。

 その骨子は、①国連決議第242号(1967年の第3次中東戦争の戦後処理として、イスラエルに占領地から撤退することを求める一方で、アラブ側にはイスラエルの生存権を認め、イスラエルと共存することを求めている)を履行すること、②安保理常任理事国およびヨルダン、PLOを含むすべての関係当事国の参加する国際会議を開催すること、③ヨルダン川西岸地区でヨルダンとパレスチナの連合政府をつくる、の3点です。

 アンマン合意を受けて、エジプト大統領のホスニー・ムバーラクは、2月25日、米国がヨルダン=パレスチナ合同代表団との対話を開始する→合同代表団とイスラエル代表団との対話を行う→国際会議を開催するという、プロセスを示した“ムバーラク提案”を発表しました。

 当時の米国は、PLOを“テロリスト”と認定し、公式にはPLOとの交渉は拒否していましたから、3月12日、ムバーラクは米大統領のロナルド・レーガンと会談し、米国にPLOを含む合同代表団との対話を開始することの必要性を説いています。もちろん、この時の会談のみで米国がPLOのテロリスト認定を解除したわけではありませんが、4月13日には米国務次官補のロバート・マーフィーが中東諸国を歴訪して、和平プロセスの新たな進展を模索するなど、パレスチナ和平には何らかの進展がみられるかと期待されました。

 今回ご紹介の切手は、こうした情勢を反映して、1985年11月の国王50歳誕生日にあわせて発行されたもので、国王の肖像とともに、1967年までヨルダンの統治下にあった岩のドームをとりあげ、アンマン合意以降、ヨルダンがパレスチナ和平の進展に向けて主導的な役割を果たしていることをアピールしています。

 ところが、肝心のPLO内部では、反アラファト派が国連決議第242号に謳われた“イスラエルの生存権承認”の一項を頑として認めず、調整は難航。結局、アンマン合意から1年後の1986年2月、フセイン国王は合意を白紙撤回し、和平工作の中断を宣言せざるを得ませんでした。

 これにより、ヨルダンとPLOとの関係を完全に断絶したわけではなかったものの、アンマンに開設されたPLOの連絡事務所は閉鎖され、国王は、連合政府構想を撤回したうえで、①西岸地区のパレスチナ人の経済的福祉についてはヨルダンが責任を負う、②ヨルダン政府が実施する5ヵ年計画は西岸地区に対しても適用される、③ヨルダン国会におけるパレスチナ人の議席割り当てを増やす、方針を明らかにします。

 以後、フセイン国王は、イスラエルが存在しているという現実を踏まえたうえで、ヨルダン=パレスチナ=イスラエル3者による統治機構を作り、それによって、西岸地区をPLOから“独立”させ、部分的にせよ、西岸地区に対するヨルダンの主権を回復することを施行するようになりました。

 その後も、PLOはアンマン合意の継続を模索したものの、最終的に、反アラファト派の強硬論に引きずられるかたちで、1987年、アンマン合意を破棄。このように、イスラエルとの共存(=イスラエルの生存権承認)という点で、組織としての意思統一に失敗したPLOに対しては、西岸地区のパレスチナ人の間にも失望の声が大きく、そのことが、やがて、第1次インティファーダの導火線になっていくのです。


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 岩のドームの郵便学(11)
2013-11-14 Thu 03:24
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』517号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、第3次中東戦争前夜の東エルサレムの話を取り上げました。その中から、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       ヨルダン・岩のドーム(1965)

 これは、1964年11月20日、ヨルダンが発行した“岩のドーム(公開)再開”の記念切手で、ドームの全景を大きく描き、国王フサインの肖像を左側に配したデザインとなっています。

 岩のドームの外壁には、1561―62年、オスマン帝国のスルターン、スレイマン1世によってタイル装飾が施されましたが、傷みが激しくなったため、新たにエルサレムの管理者となったヨルダン政府は、1955年以降、アラブ諸国ならびにトルコからの資金援助を得て、大規模な修復作業を行っていました。そのメインの工事にあたる外壁の修復が1964年8月に完成し、一般公開が再開されたことを受けて発行されたのが、今回ご紹介の切手です。

 さて、この切手が発行される半年ほど前の1964年5月、ヨルダン統治下の東エルサレムでは、エジプト大統領ナセルの肝いりで第1回パレスチナ民族評議会が開催され、対イスラエル闘争の統一司令部を設置するという方針の下、パレスチナ解放機構(PLO)の結成が宣言されました。 

 1956年の第2次中東戦争(スエズ動乱)は、英仏の侵攻に屈せず耐え抜いたという点で、エジプトは政治的に勝利を収め、ナセルの権威は絶頂に達しました。しかし、純粋に軍事的な見地から見ると、英仏との密約を背景にエジプト領内に侵攻したイスラエル軍は、いともたやすくガザ地区を占領し、シナイ半島を横断してスエズ運河地帯まで進軍。エジプト軍はそれを阻止することができず、惨敗に等しい状況でした。当然のことながら、イスラエルとの全面戦争になればエジプトには勝ち目はないことをナセルも思い知り、イスラエル打倒の勇ましいスローガンとは裏腹に、本音では、イスラエルとの戦争を回避しなければならないと考えるようになります。

 さらに、アラブ民族主義の理想を体現するものとして華々しく行われた1958年のエジプト・シリアの合邦は1961年9月にはシリアの離反であっけなく崩壊。さらに、1962年に勃発したイエメン内戦に革命政権の要請を受けて派兵したものの、戦況は一進一退の状況が続き、エジプト経済も疲弊していきます。

 PLOの創設は、こうした状況の中で、追い詰められつつあったナセルが起死回生の切り札として持ち出したものでした。

 アラブ諸国としては、さまざまな立場の違いはあっても、「イスラエル国家を打倒してパレスチナを解放する」という原則論には反対できません。したがって、曲がりなりにも、アラブの盟主ということになっているエジプトが、対イスラエル闘争の統一司令部を作るということになれば、賛同・協力せざるをえず、PLOの結成を主導すれば、シリアとの合邦失敗やイエメン内戦への介入などで傷ついた自らの権威を回復する景気となるとナセルは考えました。

 また、統一司令部の傘下にパレスチナ人の武装組織を組み込んでコントロールできれば、強硬派の暴走を抑え、イスラエルを決して本気で怒らせない(=全面戦争には突入しない)程度に“抵抗運動”を継続して、アラブ世論のガス抜きをするという、微妙な調整も可能になるので、まさに、一石二鳥であるというのが、ナセルの本音です。

 もっとも、現実の問題として、武装勢力の中には、ナセルの微温的な姿勢を拒否して、PLOには参加せず、イスラエル領内での武装闘争をエスカレートさせるものも少なくありませんでした。その代表的な存在が、ヤーセル・アラファート(以下、アラファト)ひきいるファタハです。

 当時のアラファトは、テロ活動をエスカレートさせてイスラエルの報復攻撃を引き出せば、アラブ諸国も対イスラエル全面戦争に参加せざるを得なくなると考えていました。このため、ファタハはソ連、東欧はもとより、中国を含む反西側諸国から武器を調達し、戦闘能力を強化していきました。

 かくして、イスラエル国内の世論は次第に“パレスチナ・ゲリラ”への報復を求める強硬論へと傾いていくことになります。イスラエルの政府と国民にしてみれば、PLO傘下の団体であろうとなかろうと、国内の治安を乱すテロリストは駆逐すべき存在にはちがいありません。

 ナセルをはじめ、アラブ諸国の指導者たちは、“反イスラエル闘争”が自分たちの思惑を超えて動き始めたことに困惑を隠せなかったが、そこに、米ソの冷戦がさらなる影を落とします。

 すなわち、エジプトやシリアの民族主義政権は、手持ちの外貨が乏しいこともあって、ソ連からバーター取引で武器を購入していましたが、イスラエルからの要請を受けた米国は、1965年以降、イスラエルに大量の戦闘機や戦車を売却。イスラエルの軍事的保護者としての立場を鮮明にしていきました。

 かくして、パレスチナの地をめぐる緊張は高まり、1967年6月、ついに第3次中東戦争の簿発へとつながることになるのです。


 ★★★  絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩  ★★★

 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説)

 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。

 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は12月3日(原則第1火曜日)で、以後、1月7日、2月4日、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

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 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 岩のドームの郵便学(10)
2013-10-23 Wed 10:55
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』514号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、ローマ教皇のエルサレム訪問について取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       教皇と総主教の会談

 これは、1964年9月18日、ヨルダンが発行した「ローマ教皇とコンスタンティノープルのエルサレム会談」の記念切手です。
 
 1956年のナセルによるスエズ運河の国有化宣言とそれに続く第2次中東戦争(スエズ動乱)の結果、英仏軍の攻撃をしのぎ切ったエジプトのナセル政権とそのイデオロギーであるアラブ民族主義はピークに達し、ナセル政権を支援してきたソ連に対するアラブ諸国(特に、民族主義政権の)親近感は急速に増大しました。

 こうした事態を憂慮した米国のアイゼンハワー政権は、1957年1月、議会に対して中東基本政策(アイゼンハワー・ドクトリン)を提出します。

 アイゼンハワー・ドクトリンは、「中東の聖地が無神論的唯物主義を讃える支配のもとに屈するのを座視することはできない」としたうえで、①国家の独立を支える経済力を確立させるため、中東のいかなる国にも援助を与える、②希望する国に対しては軍事援助のための計画を立案する、③国際共産主義に支配されている国々からの武力による侵略に対して、支援を求める国に米軍を派遣する、④経済的・軍事的援助供与のための大統領の権限を強化する、ことを主要なポイントとしていました。

 はたして、アイゼンハワー・ドクトリンの発表から間もない1957年4月、まさに聖地エルサレム(旧市街)を支配下に置くヨルダンで、政府軍の一部による反国王の反乱が発生します。

 この反乱の本質は、1954年に反欧米を掲げてシリアで発足したアラブ民族主義連合政権がヨルダンの王制転覆を狙って企画したものでした。アラブ民族主義の究極の目標は、西洋列強によって分断された現在のアラブ諸国を再統合し、イスラエルを解体してアラブの統一国家を建国することにありましたが、そのためには、既存の(アラブ世界の)国際秩序を受け入れている親西側政権を打倒しなければならないというロジックが導き出されます。この文脈においては、英国による中東分割の過程で誕生したヨルダンの親英王制は、まさしく格好の標的でした。

 これに対して、国王フサインは反王制クーデターを国際共産主義による介入として米国に支援を要請。冷戦思考に凝り固まっていた米国は、ヨルダンからの要請に何ら疑念をさしはさむことなく、アイゼンハワー・ドクトリンを発動し、地中海の第6艦隊を派遣。さらに、サウジアラビア(アイゼンハワー・ドクトリンを支持し、米国の軍事援助を受け入れていた)もヨルダンを支援し、反乱はまもなく鎮圧され、ヨルダンは“中東の聖地”の管理者として、西側社会からのお墨付きを得ることに成功します。

 こうした経緯をふまえて、1964年1月4日、ローマ教皇パウロ6世が、エルサレム、ベツレヘム(ヨルダン領)、ナゼレ(イスラエル領)の3聖地を訪問しました。現地滞在時間はわずか11時間でしたが、教皇自身による聖地訪問は、史上初のことであり、さらにいえば、現職の教皇がイタリアを離れたのも、さらには、飛行機に乗ったのも、このときが初めてのことという、歴史的な出来事でした。

 パウロ6世は1897年、北イタリアのサレッツォ生まれ。1920年に司祭となり、第二次大戦中は、バチカン国務長官ルイジ・マリオーネ枢機卿の下、イタリアのファシスト党やナチス・ドイツとの交渉などを担当する一方で、1944年にマリオーネ枢機卿が亡くなると、国務長官の代行としてレジスタンスの保護にも尽力。1953年にミラノの大司教に、1958年に枢機卿に任じられ、1963年、教皇ヨハネ23世の死去により教皇に選出されました。

 前任のヨハネ23世は、1962年からカトリック教会の近代化と刷新のため、第2バチカン公会議を開催。公会議は、第1会期(1962年10月11日-12月8日)、第2会期(1963年9月29日-12月4日)、第3会期(1964年9月14日-11月21日)、第4会期(1965年9月14日-12月8日)に分けて行われましたが、ヨハネ23世は1963年6月に亡くなったため、第2会期以降は、後を継いだパウロ6世が取り仕切っています。

 教皇の聖地訪問は公会議の第2会期が終わった直後の1963年12月、“純然たる個人の巡礼”として電撃的に発表されましたが、実際には、当時はバチカンとの間に正式の国交がなかったヨルダン、イスラエル両国(ちなみに、バチカンとイスラエルの国交樹立は1993年、ヨルダンとの国交樹立は1994年です)との間で、教皇の即位直後から入念に準備が進められ、その結果として、1964年1月4日の教皇の聖地訪問当日にヨルダンでは記念切手も発行されています。

 ところで、教皇がこのタイミングでエルサレムを訪問したのは、もちろん、“純然たる個人の巡礼”ではなく、東方正教会の最大の権威であるコンスタンティノープル総主教(全地総主教)のアシナゴラスと会談することにありました。

 アシナゴラスは、1886年、ギリシャ北西部のイピロス地方のヴァシリコ生まれ。1910年に輔祭(主教・司祭の助手)になり聖職者としてのキャリアをスタートさせ、コルフ主教、南北アメリカ大主教を歴任し、1948年にコンスタンティノープル総主教となりました。

 総主教就任後のアシナゴラスは、キリスト教の宗派を超えた結束を目指すエキュメニズムに積極的に取り組んだことで知られています。
 
 エキュメニズムは、もともとはプロテスタントにおいて始まった運動ですが、1937年、この運動を促進するための組織として、正教会を含む世界教会協議会設立の合意が成立しました。ただし、カトリックは世界教会協議会には参加せず、第2次世界大戦の勃発もあり、協議会の成立は戦後に持ち越されています。

 ところが、1947年末の国連によるパレスチナ分割決議を機に英領パレスチナが内戦状態に陥り、1948年5月にはイスラエルが建国を宣言して第一次中東戦争が勃発。キリスト教にとっての聖地も紛争の直接的な危機にさらされることになったこともあり、1948年8月23日、協議会は急ぎ設立されることになりました。ちなみに、「1948年のイスラエル建国以来、聖地の平和のために努力してきた」というのが、協議会の自己認識です。

 一方、当初、エキュメニズムとは距離を置いてきたカトリックですが、1958年に教皇に就任したヨハネ23世は、エキュメニズムに熱心に取り組んでいます。

 すなわち、ヨハネ23世は、1500年代以来、初めて英国教会大主教をバチカンに迎え、正教会へも公式メッセージを送ったほか、東西冷戦の解決を模索し、1962年のキューバ危機においても米ソ双方の仲介に尽力しています。カトリック教会の近代化をめざして、第2バチカン公会議を開催したのも、こうした流れに沿ったものでした。

 ヨハネ23世の後継教皇となったパウロ2世は、前教皇の遺志を継いでエキュメニズムにも取り組み、1963年、アシナゴラスに親書を送っています。何でもないことのようですが、ローマ教皇がコンスタンティノープル総主教に親書を送ったのは、実に、1584年、教皇グレゴリオ13世がイェレミアス2世に対して、グレゴリオ暦の採用に関しての書簡を送って以来、約380年ぶりのことでした。

 その後、バチカンとコンスタンティノープル総主教庁との水面下での接触は頻繁に行われるようになり、1963年末、パウロ6世の聖地訪問が発表されると、これに呼応するかたちでアシナゴラスがエルサレムを訪問し、旧市街の東に位置するオリーブ山での歴史的な直接会談が実現。パウロ6世とアシナゴラスとの会談では、1054年の相互破門(総主教ミハイル1世と教皇レオ9世が互いに相手を破門したとされる事件)の解消が宣言されました。

 もちろん、教皇と総主教が相互破門の解消を宣言したところで、長年にわたるカトリックと正教会の溝が直ちに埋まることはなく(実際、正教会内の保守派はこの点に関してアシナゴラスを厳しく批判しています)、あくまでも儀礼的なものではありましたが、キリスト教史に残る事件であることには違いないでしょう。

 教皇と総主教の会談を受け、ヨルダン郵政は、急遽、会談の成功を記念する切手の制作を開始し、9月18日、今回ご紹介の切手を発行しました。切手のデザインは、オリーブ山から眺めたエルサレムの旧市街を背景に、左から、パウロ6世、フセイン、アシナゴラスの3人の肖像を配しています。パウロ6世とフセインの間にはアクサー・モスクが、フセインをアシナゴラスの間には岩のドームが描かれているのがミソです。

 イスラム世界では、二大聖地であるメッカ・メディナの管理者として、毎年イスラム歴12月のメッカ大巡礼を無事に取り仕切ることができる者こそが“イスラムの盟主”であるとする考え方があります。かつてのアッバース朝しかり、オスマン帝国しかり、さらに、現在のサウジアラビアしかり、です。

 こうした思考回路に基づくのなら、“巡礼者”としてエルサレムにやってきた教皇を受け入れ、無事に帰還せしめたヨルダン政府は、そのことによって、自分たちが聖地エルサレムの正統な管理者であることを証明したことになります。

 当然のことながら、ヨルダン政府としては、そのことを広く内外にアピールするための手段として、国家のメディアである切手を最大限に活用したわけですが、その際、イスラム教徒が国民の多数を占めるという環境を考えれば、聖地エルサレムのアイコンとして、“岩のドーム”が優先的に選ばれるのは自然な成り行きといえましょう。


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 岩のドームの郵便学(9)
2013-09-21 Sat 10:35
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』511号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、岩のドームを含むエルサレムがトランスヨルダンの支配下に入った直後について取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       ヨルダン強制貼付切手・郵便加刷

 これは、1953年6月、1947年に発行されたパレスチナ救援のための強制貼付切手にアラビア語と英語で“郵便”を意味する加刷を施し、普通切手として再発行されたもので、岩のドームが描かれています。

 第一次中東戦争の結果、トランスヨルダンはエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を併呑し、1949年にヨルダン・ハシミテ王国が誕生しました。しかし、早くも1951年7月20日、国王アブドゥッラーはエルサレムのアクサー・モスク(このドームの北側130メートルの場所にあるのが“岩のドーム”です)で金曜礼拝の最中に暗殺され、息子のタラールが第2代国王として即位します。

 ところが、翌1952年8月11日、タラールは精神分裂病を理由に議会によって廃位されてしまいます。タラールの廃位により、王位は息子のフサインが継承しますが、この間の混乱の影響で、ヨルダンでは深刻な切手不足が生じています。

 英領時代を含むトランスヨルダンの時代、この地域で流通していた通貨は英委任統治下のパレスチナ(英領パレスチナ)と同じくパレスチナ・ポンドでした。ところが、第一次中東戦争が勃発し、英領パレスチナが消滅したことによって、パレスチナ・ポンドも無効となり、新生ヨルダンの発足にあわせて、新たに新通貨としてヨルダン・ディナール(1ディナール=10ディルハム=100ピアストル(カルシュ)=1000フィルス)が導入されます。

 このため、1952年2月、ベイルートのカトリック・プレス社でトランスヨルダン時代の切手に対して、新通貨に対応した額面が加刷され、同月26日から発売されます。また、これと並行して、とりあえず、初代国王アブドゥッラーの肖像を描く従来の通常切手と同じデザインで、額面表示のみをヨルダン・ディナール表示に変更した切手の製造が、ロンドンのブラッドバリー・ウィルキンソン社に発注されました。

 国王アブドゥッラーの図案でヨルダン・ディナール額面の切手、当初、新国王タラールの肖像を描く新切手(額面表示は、当然、ヨルダン・ディナールである)が発行され、流通するまでの暫定的なものと考えられていましたが、タラールの廃位によって、その後も使用されることになります。

 しかし、ヨルダン川西岸地区の併呑によって従来よりも大量の切手が必要になっていたことに加え、ブラッドバリー・ウィルキンソン社に発注された切手の数は、あくまでも当座の需要を満たすためのものでしかなかったため(最も大量に製造された5フィルス切手でさえ、わずか8万4100枚しか印刷されていません)、ヨルダン国内ではすぐに切手の在庫が底をついてしまいました。

 このため、1953年5-6月にかけて、首都のアンマンとエルサレムでは、料金収納済み”の印を郵便物に押すことで対応。これと並行して、1952年4月1日に発行されたものの、比較的在庫が残っていた“ヨルダン統一”の記念切手の記念名を棒線で抹消して、1953年5月18日以降、普通切手として流通させることになりました。

 さらに、これでも切手の不足を解消することが抱きなかったため、1953年6月には、今回ご紹介のように、強制貼付切手に“郵便”を意味する加刷を施した切手も発行されたというわけです。

 このように、過去に発行された切手の売れ残り在庫をかき集め、各種の加刷を施すことで急場をしのぐという状況は、1954年2月9日から、ブラッドバリー・ウィルキンソン社製の新たな普通切手が発行されるまで続きました。

 なお、1954年から発行された新普通切手は1フィルスから1ディナールまでの全13種で、国王の肖像やヨルダン国内の名所旧跡などが取り上げられましたが、このうちの10フィルス、15フィルス、20フィルスの各額面には岩のドームが描かれています。

 このように、トランスヨルダンからヨルダン・ハシミテ王国への体制変革に伴う一連の混乱の時代を通じて、ヨルダンの切手に岩のドームが頻繁に登場している事実は、この国の成立過程を考えるうえで記憶にとどめておいてよいでしょう。エルサレムを含むヨルダン川西岸を版図に加えることによって成立したヨルダン・ハシミテ王国にとって、西岸地区の象徴として、切手という国家のメディアにおいて全世界に発信するための素材としては、やはり、岩のドームに勝るものはなかったのです。

 * 昨日、カウンターが126万PVを越えました。いつもご覧いただいている皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 岩のドームの郵便学(8)
2013-08-19 Mon 11:07
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』508号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は1948年の第一次中東戦争の結果、岩のドームを含むエルサレムがトランスヨルダンの支配下に入り、その結果、トランスヨルダンが現在のヨルダン・ハシミテ王国になったという話を取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       トランスヨルダン・強制貼付切手

 これは、1947年5月31日、トランスヨルダンが発行したパレスチナ救援のための強制貼付切手で、エルサレムの岩のドームが描かれています。

 1948年5月の第一次中東戦争開戦当時、アラブ側は兵員・装備ともにイスラエルを圧倒しており、緒戦の戦局はアラブ側有利で推移していました。特に、トランスヨルダンの精鋭部隊、アラブ軍団は、イラク軍とともに、“岩のドーム”があるエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を占領。終戦までこの地を保持しています。

 エルサレム旧市街を占領したトランスヨルダンは、第一次大戦後の旧オスマン帝国領の分割の過程で、1921年、イギリスがヨルダン川東岸地域に委任統治領として設定した区域です。トランスヨルダンという名は、もともとは“ヨルダン川の向こう”という意味で、英国を基準に見ればヨルダン川東岸を意味しています。

 第一次大戦中、英国はメッカの太守であったシャリーフ・フサインに対して、英国と組んでオスマン帝国と戦えば、戦後、“アラブ国家”を樹立するとの密約を結びました。これに応えて、アラブ叛乱を起こしてオスマン帝国と戦い、アラブの英雄となったのが、フサインの息子のファイサルとアブドゥッラーです。

 しかし、大戦後、旧オスマン帝国領は英仏の密約であったサイクス=ピコ協定に沿った形で両国の委任統治領というかたちで分割されてしまったうえ、ファイサルがダマスカスに樹立したアラブ王国はフランスによって解体されてしまいます。当然、ファイサルとアブドゥッラーは大いに不満で、アブドゥッラーは手勢を率いてフランス委任統治領のシリアに攻撃を仕掛けようとしました。

 そこで、兄弟を慰撫する必要に迫られた英国は、ファイサルをイラク王として擁立し、ヨルダン川東岸の地域を“トランスヨルダン”としてパレスチナから切り離して、アブドゥッラーをトランスヨルダンのアミール(首長)として、アンマンに政府を樹立させました。

 その後、トランスヨルダンは1946年にイギリスから独立しますが、時あたかも、隣接するパレスチナではシオニストとアラブ系の対立が激化し、多数のアラブ系難民がトランスヨルダン領内へと押し寄せてくるようになります。こうした状況の下で、1947年5月31日、トランスヨルダンが発行したのが、今回ご紹介の強制貼付切手です。

 日本ではこうした事例はありませんが、諸外国では、戦争や災害などへの義捐金を集めるため、一定の期間、郵便物を差し出す際には、郵便料金とは別に、一定の額面の切手を添付することを義務づけることがあります。そのために用いられるのが強制貼付切手で、1947年のトランスヨルダンの場合は、郵便料金の半額相当の強制貼付切手を郵便物に貼ることが義務づけられていました。

 この時発行された強制貼付切手は、1ミリームから1ポンド(=1000ミリーム)までの12額面。いずれも、英国のトマス・デ・ラ・ルー社製で、デザイナーのヤークーブ・スッカルの制作した図案は、低額面の1、2、3、5ミリーム切手がヘブロンのモスク、中額面の10、15、20、50ミリーム切手がエルサレムの岩のドーム、高額面の100、200、500ミリームおよび1ポンド切手がアッカ(アッコ)の風景、です。

 これら強制貼付切手に取り上げられた風景のうち、地中海に面したアッコは別として、ヘブロンと岩のドーム(があるエルサレム旧市街)は、いずれも、1948年5月に第一次中東戦争が勃発するや否や、トランスヨルダンのアラブ軍団が進駐し、占領しているのは興味深いといえましょう。

 そもそも、第一次中東戦争に参戦したアラブ諸国の大義名分は、ユダヤ人国家イスラエルの建国を阻止し、パレスチナを解放することでした。しかし、現実には、ガザ地区を占領したエジプトと同様、ヨルダン川西岸を占領したトランスヨルダンは、混乱に乗じ、パレスチナの犠牲の上に自国の権益を拡大しようという意図をもって参戦していました。

 彼らが、いつから英国撤退後のパレスチナ(の一部)を占領してしまおうと企図していたかは、定かではありません。しかし、強制貼付切手に取り上げられたヘブロンと岩のドームが、切手の発行からわずか1年後にはトランスヨルダンによって占領されたという事実を見ると、すでに、1947年5月の時点では、トランスヨルダン政府には英国撤退後のパレスチナに進攻して、ヨルダン川西岸地区を占領してしまおうという目論見があったのではないかと思えてなりません。

 その場合、「シオニストの暴虐からパレスチナのアラブ同胞を救え」というスローガンは、自国の領土拡張の戦争にトランスヨルダンの国民を動員するうえで、一定以上の説得力を有することになるでしょう。また、戦争の結果として、パレスチナに独自のアラブ国家が建国されなければ、トランスヨルダンが“同胞のために”パレスチナの占領地を管理するのは正当な行為であるというロジックも導き出されることになります。1947年の強制貼付切手は、まさに、トランスヨルダンによるヨルダン川西岸地区占領を準備するためのプロパガンダの一環として発行されたとみるのが自然でしょう。

 さて、第一次中東戦争は、最終的にイスラエル有利の戦局が確定。1949年2月23日、イスラエルとエジプトの間で休戦条約が調印されたのを皮切りに、3月23日にはレバノンが、4月3日にはトランスヨルダンが、7月20日にはシリアが、それぞれ、休戦条約を調印します。これら各国とイスラエルとの停戦ラインは事実上の「国境」としてイスラエル国家の存在が認知され、同年5月、イスラエルは国連に加盟します。

 エルサレムに関しては、すでに述べたように、旧市街を含む東エルサレムはトランスヨルダンの支配下に置かれ、20世紀以降に建設された新市街の広がる西エルサレムがイスラエルの領土となりました。

 すでに1948年12月1日、アラブ軍団の占領下に置かれていたヨルダン川西岸地区では、現地の親ヨルダン派のパレスチナ人指導者が死海北西岸のイェリコで「パレスチナ・アラブ評議会」を開催し、トランスヨルダン国王アブドゥッラーを「全パレスチナ人の王」とし、同国王に対して西岸地区のトランスヨルダンへの併合を要請する決議を採択。これを受けて、同月13日、トランスヨルダン議会はイェリコでの評議会の決議を全会一致で承認するなど、トランスヨルダン川は西岸地区の併合に向けて着々と準備を進めます。

 そして、イスラエルとの休戦協定成立後の1949年6月、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区と東エルサレムを併合し、新国家「ヨルダン・ハシミテ王国」の建国を宣言しました。これが現在のヨルダン国家です。

 しかし、パレスチナ人の中には、ヨルダンへの併合を潔しとしない者も少なくなかったうえ、戦争を通じて一人大幅に版図を拡大したヨルダンに対して周辺アラブ諸国は大いに反発。1951年7月には、国王アブドゥッラーがパレスチナ人青年に暗殺される事件まで起こりました。

 いずれにせよ、第1次中東戦争の結末は、その契機となった1947年11月の国連決議第181号と比べて、パレスチナのアラブに対して、はるかに大きな犠牲を強いるものでした。

 すなわち、国連決議ではパレスチナを分割し、アラブ国家とユダヤ国家を創設することになっていましたが、アラブ国家は実際には創設されず、国家として成立したのはイスラエルのみでした。また、エルサレムを国連の信託統治下に置くというプランも、東西エルサレムがイスラエルとヨルダンによって分割されることにより、実現されないままに終っています。

 その後、アラブとイスラエルは4次にわたる中東戦争を展開することになりますが、アラブ側が掲げていた“パレスチナ解放”の大義を当初から踏みにじっていたのは、ほかならぬアラブ諸国の側であったことは、しっかりと記憶にとどめておくべきでしょう。
 

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 聖誕教会が世界遺産に
2012-07-03 Tue 22:02
 ロシア・サンクトペテルブルクで開催された国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第36回世界遺産委員会は、きのう(2日)、26件の新規登録を決定。そのうちの1件として、昨年10月にユネスコ“加盟国”となったパレスチナから申請のあったヨルダン川西岸ベツレヘムの聖誕教会が“危機遺産”として認定されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       聖誕教会

 これは、1963年にヨルダンで発行された聖誕教会の切手です。聖誕教会のあるベツレヘムは、いわゆるヨルダン川西岸地区にあり、1967年の第3次中東戦争でイスラエルに占領されるまではヨルダンの支配下に置かれていました。その後、イスラエルの占領時代を経て、1995年以降、パレスチナ自治政府の管理下に置かれています。

 今回、世界遺産に登録された聖誕教会(を含むベツレヘムの史跡群)は、イエス・キリストが生まれたと伝承される洞穴を中心に、その上に立てられている聖堂で、カトリック・東方正教会・アルメニア使徒教会が共同管理しています。2002年にはパレスチナ人活動家が教会に逃げこみ、それをイスラエル軍が約1カ月にわたり包囲しているさなかに、事件を知らずに日本人観光客がここを訪れて世界の失笑を買うという事件も起こりました。

 その後も、聖誕教会を含むベツレヘムの史跡群は、パレスチナ自治区の常として、イスラエルの攻撃をしばしば受けていることもあって、パレスチナ側は、通常の世界遺産の登録のプロセスではなく、「緊急の保護を要する物件」として世界遺産(危機遺産)に申請。当然のことながら、そもそもパレスチナのユネスコ加盟に反対していたイスラエルとアメリカはこれに強く反発していましたが、今回の委員会では賛成多数で登録が認められたというわけです。

 パレスチナに関しては、以前、拙著『中東の誕生』でそれなりにまとまった原稿を書いたのですが、あれから10年近くたちますからねぇ。そろそろ、アップデート版を作ることを真面目に考えないといけませんな。


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    米国と20世紀を問い直す意欲作

   切手、歴史を送る
       우표,역사를 부치다
       (切手、歴史を送る)

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 *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。なお、『우표,역사를 부치다(切手、歴史を送る)』につきましては、7月以降(現物を入手次第)、このブログでも刊行のご挨拶を申し上げる予定です。


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 試験問題の解説(2009年1月)-2
2009-01-31 Sat 11:57
 昨日に引き続き、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 ヨルダン成立

 これは、1952年4月1日、“ヨルダン統一”を記念して発行された切手で、地図を背景に、エルサレムを象徴する岩のドームと、旧トランスヨルダンを象徴するペトラの遺跡が描かれており、中央には“ヨルダン統一記念 1950年4月24日”との意味のアラビア語が印刷されています。

 第一次大戦後の旧オスマン帝国領の分割の過程で、1921年、イギリスはヨルダン川東岸地域に委任統治領としての“トランスヨルダン(ヨルダン川東岸を意味する)”を創設。大戦中、いわゆるアラブ叛乱でオスマン帝国との戦いで重要な役割を果たしたハーシム家のアブドゥッラーをアミール(首長)として、アンマンに政府を樹立しました。

 その後、トランスヨルダンは1946年にイギリスから独立。1948年5月に第一次中東戦争が勃発すると、イスラエルの独立を阻止するとして参戦し、イギリス撤退後のヨルダン川西岸地区を占領しました。エジプトによるガザ地区の占領と同様、“パレスチナ解放”の大義とは裏腹に、アラブ諸国が混乱に乗じてパレスチナの犠牲の上に自国の権益を拡大しようという意図をもって参戦していたことを象徴的に示している事例といってよいでしょう。

 第一次中東戦争は、結局、イスラエル側の勝利に終わりましたが、トランスヨルダンのアラブ軍団は1949年4月の休戦までエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を維持します。この間、1948年12月1日には、現地の親ヨルダン派のパレスチナ人指導者が死海北西岸のイェリコで“パレスチナ・アラブ評議会”を開催し、トランスヨルダン国王アブドゥッラーを“全パレスチナ人の王”とし、同国王に対して西岸地区のトランスヨルダンへの併合を要請する決議を採択。これを受けて、同月13日、トランスヨルダン議会がイェリコでの評議会の決議を全会一致で承認するという形式を取りながら、トランスヨルダンは西岸地区の併合に向けて着々と準備を進めてきます。

 そして、イスラエルとの休戦協定成立後の1949年6月、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区と東エルサレムを併合し、新国家“ヨルダン・ハシミテ王国”の建国を宣言し、ここに、現在のヨルダン国家が誕生したのです。

 試験の答案としては、この切手が、旧トランスヨルダンと西岸地区の統合を記念したものであることを踏まえ、旧トランスヨルダンが現在のヨルダンハシミテ王国へと変貌していく過程が要領よくまとめられているかどうかがポイントとなります。


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 年賀状の末等賞品、年賀お年玉小型シートは、誰もが一度は手に取ったことがある切手。郷土玩具でおなじみの図案を見れば、切手が発行された年の出来事が懐かしく思い出される。今年は戦後の年賀切手発行60年。還暦を迎えた国民的切手をめぐる波乱万丈のモノ語り。戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズの別冊として好評発売中!

 1月15日付『夕刊フジ』の「ぴいぷる」欄に『年賀切手』の著者インタビュー(左の画像)が掲載されました。 こちらでお読みいただけます。また、日本郵政本社ビル・ポスタルショップでは、『年賀切手』の販売特設コーナー(右の画像)も作っていただきました。 *写真はいずれも:山内和彦さん撮影

 夕刊フジ(イメージ)   日本郵政特設コーナー 
 
 
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 フィラデルフィア違い
2007-10-09 Tue 11:32
 新聞を見ていたら、明日(10日)から東京・上野の東京都美術館で「フィラデルフィア美術館展」が開催されるという記事が出ていました。というわけで、ちょっと毛色の変わった“フィラデルフィア”ネタとして、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

アンマンのモザイク

 これは、1989年にヨルダンで発行された切手で、首都アンマンの古代の風景を描いたモザイク画が取り上げられています。モザイク画の上部には、アンマンの旧称である“フィラデルフィア”の文字がギリシャ語でしっかりと入っています。

 現在のアンマンの地に人々が定住するようになったのは、およそ9000年前の石器時代のことと考えられています。

 古代エジプト王朝は、アメン神の名を冠した“アンモン”という名の都市を建設しましたが、旧約聖書の時代、この地は“アンモン人の都”の意味でラバト・アンモンと呼ばれていました。その後、ラバト・アンモンは、アッシリア、ペルシャ、マケドニアの征服を経て、ギリシャ語でフィラデルフィアと呼ばれるようになります。そして、紀元前1世紀にはローマ帝国の支配下に置かれ、ビザンツ時代には主教区としてキリスト教文化が栄えました。ちなみに、アラビア語のアンマンという地名は、西暦5世紀末から7世紀はじめにかけてシリア一帯を支配したガッサーン朝の下で使われてから定着した名前です。

 アラブの大征服によってイスラム世界に編入された後も、ウマイヤ朝の時代は首都のダマスカスに近いこともあって、アンマンはそれなりに繁栄していました。しかし、アッバース朝の時代にバグダードが帝国の首都になると、首都から離れたアンマンは次第に衰退。19世紀半ばまで、ローマ時代の遺跡しかない寒村として、忘れられた存在となっていました。

 ところが、1887年、北カフカスのチェルケス人が帝政ロシアの弾圧を逃れて、当時オスマン帝国の支配下にあったシリアに亡命し、フィラデルフィアの廃墟周辺に居住するようになったことで、アンマンにはふたたび街区がつくられはじめます。

 そして、第一次大戦後、オスマン帝国が崩壊し、英仏が帝国のアラブ地域を分割していく過程で、東地中海南部を勢力圏に収めたイギリスが、1921年にヨルダン川東岸地域に委任統治領としての“トランスヨルダン”を創設すると、アンマンはその首都となりました。

 その後、パレスチナ問題が深刻化すると、パレスチナの地に隣接するヨルダンとアンマンの重要性が増し、郵趣的にも面白いマテリアルがいろいろと登場してきます。そのあたりについては、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあるのですが、その後いろいろとマテリアルも増えましたから、近いうちに改訂版を作れれば良いな、と考えている今日この頃です。
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 ヨルダン初期のカバー
2007-05-25 Fri 00:36
 今日(5月25日)はヨルダンの独立記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

エル・ホスンのカバー

 これは、1926年6月7日、ヨルダン(当時はトランスヨルダン)北部のエル・ホスンからカイロ宛に差し出されたカバーで、エジプト遠征軍の切手に“東ヨルダン(=トランスヨルダン)”を意味するアラビア語を加刷した切手が貼られています。

 以前の記事でもご紹介しましたが、第一次大戦後の旧オスマン帝国領分割の課程で、イギリスの政治的意図から人工的に創設された国家、トランスヨルダンは、当初、総人口が約40万人しかおらず、自立した独立国の運営をまかなえるだけの資源もなければ産業もありませんでした。このため、1927年にいたるまで正刷切手(オリジナル・デザインの切手)を発行することができず、イギリスのエジプト遠征軍の切手やヒジャーズ(アラビア半島北西部、紅海沿岸に樹立された国家)の切手に“東アラブ政府”または“東ヨルダン”といった文字を加刷した暫定的な切手が用いられていました。

 今回ご紹介しているカバーはその実例というわけですが、なにせ人口40万の小国ですから、実際に郵便に使われたカバーで気の利いたものはなかなかありません。特に、首都のアンマン以外の消印が押されたカバーは数が少ないので、入手には苦労させられます。というわけで、このカバーは僕のお気に入りの1枚です。

 なお、第一次大戦後、旧オスマン帝国領が分割されて、現在の“中東”の枠組ができあがっていく過程については、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあるのですが、このカバーを含めて、その後いろいろとマテリアルも増えましたからねぇ。いずれ、改訂版を作れれば良いな、と考えている今日この頃です。
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