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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 カープが3連覇
2018-09-27 Thu 05:20
 プロ野球のセントラル・リーグは、広島東洋カープが昨年に続き、3年連続で優勝しました。というわけで、カープにちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      魚介シリーズ・こい

 これは、1966年2月28日に発行された魚介シリーズの“こい”の切手です。

 魚介シリーズの企画は、1964年10月頃、郵政省部内では、“お祭シリーズ”に続くシリーズ企画についての打ち合わせが行われた際、芸能、昆虫、果物、魚、(第2次)文化人、日本風俗、童話、国宝、文化財、乗物、美術工芸等の候補の中から採用されました。企画の原案では、コイに関しては、“コイ(またはニシキゴイ)”とされていましたが、1965年1月の郵政審議会専門委員会での討議の結果、“日本国内または近海において人々に親しまれ、かつ漁獲高も多いもの”という基準で絞り込みが行われた結果、“コイ(またはフナ)”に変更され、イセエビ、タイとともに、昭和40年度中に発行することが決められています。

 切手の原画制作を依頼された堅山南風は、当初、多忙と健康状態を理由に原画作成の依頼を断っていましたが、郵政省の重ねての説得にようやく応諾。1965年夏の早朝、井の頭公園で写生した池のコイをもとに2枚の原画を作り、本人の納得した一枚を郵政省に提出しています。

 切手の題材となったコイは、日本全国に分布しており、昔から移植が盛んなため、自然分布の範囲は明らかではありません。名前の由来は、体が肥えている、味が肥えている(旨い)等からきているともいわれています。湖、池、沼、流れの緩やかな川の淵など、砂泥底のところで生活し、冬場は深場に集まります。長短二対のヒゲには触覚と味覚があり、エサを探すのに使われます。日本や中国では、古くから食用魚として利用されてきました。

 今回の“こい”の初日印適応局は、長野県佐久市がコイの養殖で有名なことにちなみ、同地の野沢局が指定されました。これを受けて、長野県佐久市では、収集家で市役所の財政課長であった鈴木正夫を中心に、1966年1月11日、市役所内に“コイ切手発行記念行事推進委員会”を結成。切手発行前日の2月27日から3日間、市が中心になって、県、市、観光協会、市商工会、野沢局、佐久養殖漁業組合等の共催により、記念式典(郵政大臣による切手贈呈式を含む)、コイと切手の展覧会他のイベント開催、花火・提灯・記念アーチなどによる街路装飾など、各種の記念行事が行われました。その経費は総額50万円だったと報告されています。

 また、切手発行日には、野沢局に初日印の郵頼が十数万通殺到しましたが、その押印処理には、9日間にわたり、佐久市役所の職員のべ60名が動員されており、佐久市側が今回の切手発行を観光開発のための重要な契機と位置づけていたようすがうかがえます。

 なお、切手のデザインに関しては、水産学の専門家としての立場から、東京水産大学名誉教授の海老名謙一が「(通常、36枚前後あるはずの)側線鱗が23枚しかないのは問題だ」と指摘して、話題となりました。


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 金足農業、よくやった
2018-08-21 Tue 16:22
 甲子園の高校野球は、きょう(21日)、決勝戦が行われ、大阪桐蔭が、秋田県勢として103年ぶりに決勝に進出した金足農業を13-2で下して史上初2度目の春夏連覇を達成しました。本来であれば、史上初の欠き巨を達成した大阪桐蔭に関連したネタを持ってくるべきなのでしょうが、個人的な心情として、優勝を逃した金足農業の健闘をたたえて、“秋田の農業”に関連する1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      八郎潟干陸式

 これは、1964年9月15日に発行された“八郎潟干陸式”の記念切手です。

 八郎潟は日本海に接する半鹹湖で、かつては、東西12キロ、南北27キロ、総面積は2万2173ヘクタールの琵琶湖に次ぐ日本第1の湖でした。潟内は水深が浅く(最深部でも4.5メートル)、湖底は平坦なため、古くから各所で小規模な干拓や埋め立てが行なわれ、安政年間にも疎水計画が立てられています。明治以降もなんどか八郎潟の土地利用計画が立てられたものの、戦争や財政事情の問題もあってなかなか実施にはいたりませんでした。

 干拓のための本格的な調査が始まったのは1952年のことで、1954年にはオランダのデルフト工科大学教授で干拓の専門家、P・Ph・ヤンセンらが調査の来日。つづいて、世界銀行の調査団や国連食糧農業機構(FAO)の調査団があいついで調査のために来日し、干拓の有用性が認められました。

 これを受けて、1961年、農林省はオランダの対外技術援助機関(NEDECO)と技術援助契約を結び、翌1962年から、国の直轄事業として「国営八郎潟干拓事業」の着工となりました。

 干拓の対象となったのは、潟全体のうち、中央の1万5879ヘクタールと周辺の1560ヘクタールで、その他の部分は調整池と水路です。

 着工翌年の1958年には、試験堤防を施工するほか西部干拓地が干陸され、1959年以降、堤防をはじめとする各種工事は最盛期を迎えます。そして、1961年に防潮水門が、1962年に新生大橋が、1963年に南部および北部排水機場が完成。また、ほぼ同時に中央干拓堤防もほぼ完成し、正面堤防では最終締切を行って中央干拓地のポンプ排水が始まりました。これを受けて、干陸式が行われたのが、1964年9月のことでした。

 ただし、その後も工事は続けられ、1966年の全面干陸に伴い、道路・用水路・排水路などの中央干拓地内の工事は最盛期を迎えます。そして、1968年の導流堤が完成し、干拓の基幹建設工事はほとんど完了しました。

 一方、1964年十10月、干陸に伴い、新村“大潟村”が誕生。翌1965年には、八郎潟新農村建設事業団が設立され、中央干拓地の農地整備・農家住宅・役場・学校・上下水道の諸施設および農業用施設の建設なども本格的に始まりました。ただし、しかし1970年、政府がコメの生産調整(減反政策)を開始したため、大潟村への入植者公募は同年を最後に打ち切られています。最終的に、20年の歳月と852億円の巨費を投じた世紀の大事業が完了したのは、1977年3月のことでした。

 なお、1983年5月26日に発生した日本海中部地震で、八郎潟の干拓堤防や防潮水門も破損し、防潮水門の機能が低下したため、2001年、旧水門を破棄して新造する工事が開始され、2007年、旧水門より20m上流に新水門が完成しています。

 八郎潟の干拓事業は、当時の日本としては国家駅な大規模プロジェクトでしたから、その干陸式にあわせて記念切手を発行するというプランは、昭和39年度の切手発行計画には当初から含まれていました。

 ただし、当時の大規模な土木プロジェクトの常として、工事が予定通り完了するか否かは不確実な要素が多かったため、1964年2月6日に昭和39年度の切手発行計画が好評された際には、「なお、9月に予定されている八郎潟干陸式が延期されるような場合は、この記念切手の発行を取り止めることもある」との注記もつけられていました。

 はたして、1964年は、5月7日に東北地震が発生し、八郎潟の干拓工事にも少なからぬ被害が発生しました 。さらに6月16日の新潟地震でも工事に影響が出たため、干陸式は中止になり、記念切手の発行も取り止めになるのではないかとの観測も流れました。

 しかし、最終的に工事は無事に期日までに完了し、9月15日に干陸式は行われ、“稲、りんご、乳牛を描き、モデル農場を象徴した”とするデザイン(長谷部日出男が作成)の切手が、式典当日の9月15日に発行されています。

 また、切手の発行にあわせて、男鹿半島と八郎潟を描き、稲穂を配した特印(こちらもデザインは長谷部日出男)も使用されました。この特印は、全国の主要局に加え、八竜、鹿渡、一日市、八郎潟、秋田県庁構内、大久保、天王、船越、琴浜の地元各局でも使用されています。このうち、船越局では、切手発行にあわせて風景印の図案改正が行われ、男鹿連山を背景に、船越水道にかかる防潮水門と農婦を描いた、新たな風景印の使用が開始されました。


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 切手歳時記:祇園祭
2018-07-17 Tue 02:38
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年7月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      祇園祭

 これは、1964年7月15日に発行された“祇園まつり”の切手です。

 京都・八坂神社の祭礼で、大阪の天神祭、東京の神田祭(山王祭を挙げることもある)とともに、日本三大祭のひとつとされる祇園祭は、毎年、7月1日から1ヵ月間にわたって行われる長い祭りです。

 八坂神社の祭神、もともとは牛頭天王でした。

 牛頭天王は、日本の神は仏教の仏が日本風に姿を変えて現れたものとする“本地垂迹説”の影響を受け、薬師如来が行疫神であるスサノオの姿を借りて現れた行疫神(疫病をはやらせる神)とされています。また、生前の釈迦が説法を行った僧院、祇園精舎の守護神とされているため、彼を祭神とする八坂神社も比叡山に属する“祇園社”と呼ばれていました。なお、八坂神社という社名は、明治の神仏分離令で、神社で仏式の行事を行うことが禁止されたことを受け、神社はスサノオ主祭神とし、社名も、仏教用語の“祇園”から、神社の所在地にちなんで“八坂”に改称されたものです。

 平安時代初期の863年、疫病の流行に際して、朝廷は大内裏の南に位置する神泉苑で、疫神や死者の怨霊などを鎮めるための御霊会を行いましたが、疫病は止まなかったため、あらためて牛頭天王を祀り、御霊会が行われました。

 さらに、864年には富士山の大噴火があり、869年には陸奥で貞観地震が起こり、津波で多数の犠牲者が出るなど、天変地異が続いたため、同年、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立てて諸国の悪霊を移し、神輿三基を送り、牛頭天王を祀る御霊会を執り行いました。

 これが、現在の祇園祭の原型とされており、その経緯から、明治以前は “祇園御霊会”と呼ばれていました。

 なお、八坂神社は、社殿では、656年、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主が創建したとされていますが、現在の学術研究では、876年、僧・円如が寺院として建立したものが、ほどなく祇園神を祀るようになり、祇園社となったと考えられています。これが正しいとすると、八坂神社の歴史は、ほぼ祇園祭と重なっていることになります。

 祇園祭のハイライトとなっている山鉾行事も、もとは、行疫神を慰め和ませることで疫病を防ごうとしたものでした。

 今回ご紹介の切手には、東山の遠景と八坂神社を背景に、山鉾の中でも最も有名な“長刀鉾”が描れています。

 長刀鉾の矛先に付けられている大長刀は、もとは、永延年間(987-989)、名工と謳われた三条小鍛冶宗近が娘の病気平癒を祈願して奉納したものでした。鎌倉時代には、力自慢で知られた武士、和泉小次郎親衡は、一時、この太刀を愛用したものの、いろいろ不思議なことが起こったため、神仏を私する非を悟り、再び返納したと伝えられています。

 その後、宗近の刀は1522年には三条長吉作のものと取り替えられ、さらに1675年には和泉守来金道作のものとなりました。現在は竹に銀箔貼りの模造品が使用されています。

 長刀鉾は“くじとらず”と呼ばれ、毎年、巡行の先頭にたち、現在では生稚児の乗る唯一の鉾となっており、まさに祇園祭りの象徴ともいうべき存在として、切手にも取り上げられました。ただし、お祭りシリーズの切手では、肝心の長刀の部分がぼかされています。病気平癒を祈願しての長刀の姿が曖昧では、御霊会としての有難味も薄れてしまうようで、ちょっと残念ですね。


★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。

 なお、会期中の21日、内藤は、以下の3回、トーク・イベントをやります。
 13:00・9階会議室 「国際切手展審査員としての経験から テーマティク部門」
 14:30・8階イベントスペース 「アウシュヴィッツとチェコを往来した郵便」
 16:00・8階イベントスペース 『世界一高価な切手の物語』(東京創元社)


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 <Bandung 2017>終了
2017-08-08 Tue 07:15
 早いもので、3日からインドネシア・バンドンで開催されていた世界切手展<Bandung 2017>は、昨日(7日)、無事にすべての日程を終了しました。すでに、日本からの出品作品の撤去も完了してインドネシアの税関当局に預けております。きょうは、この後ジャカルタに向かい、空港で作品をピックアップの後、現地時間で22時前の飛行機で成田に向かいます。というわけで、無事の帰国を願って、毎度恒例、2都市間のエアメールの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      日本航空・ジャカルタ宛FFC(仮)

 これは、1962年7月16日、東京(羽田)からジャカルタ宛に差し出された日本航空の初飛行カバー(FFC)で、カシェには日本をイメージした舞姿の女性が描かれています。ジャカルタでの留置期間を経過した後、無事に日本に返送されたものですので、僕も作品ともども無事に日本に返送されますように…との思いを込めて選んでみました。また、貼られている切手が、たなばたあさがおなど、季節を感じさせるものとなっているのも良いですな。ちなみに、今回の僕のフライトも日本航空です。

 さて、今回の切手展では、コミッショナーの山崎好是さん、審査員の正田幸弘さん、同アプレンティスの井上和幸さん、ご出品者の有吉伸人さん、池田健三郎さん、伊藤純英さん、伊藤文久さん、榎沢増祐一さん、山三郎さん、吉田敬さん、日本からご参観の菊地恵実さん、杉原 正樹さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、自身の作品が従前どおり金賞を維持できたことをはじめ、いろいろと実りの多い滞在となりました。その成果につきましては、追々、皆様にもご報告して参りますが、まずは、現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 なお、成田到着は明朝の予定です。内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。
 

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      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 ガールスカウトの日
2017-05-22 Mon 11:37
 きょう(22日)は、1947年5月22日、第二次世界大戦で中断されていた日本の“ガールスカウト”を再興するためにガールスカウト中央準備委員会が発足したことにちなみ、“ガールスカウトの日”だそうです。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ガールスカウトアジア大会(1963)

 これは、1963年8月1日に発行された“ガール・スカウトアジア大会”の記念切手です。ガールスカウト関連の切手は各国から発行されていますが、日本では、今回ご紹介の切手が最初の1枚となります。

 英国のロバート・ベーデン・パウエルによってボーイスカウト運動が正式に始められたのは1908年のことでしたが、翌1909年、ロンドンのクリスタル・パレスでボーイスカウトの大会が行われたとき、参加者の中には少女の一団も含まれていました。

 この一団に注目したパウエルは、翌1910年、少女のためのスカウト活動を組織化すべく、妹アグネスに協力を依頼。さらに、パウエルは1912年に結婚した妻オレイブ・ソームズとともに、少女を対象としたスカウト活動の組織化に力を注ぎました。

 なお、当初、英国では、この運動は“ガールガイド”と呼ばれていましたが、1912年に米国に紹介された際、ガールスカウトという名称が用いられ、以後、英国系ではガールガイド、米国系ではガールスカウトという呼称が用いられるようになります。

 さて、ガールガイド運動は、1919年、東京の香蘭女学校に教師として赴任した英国の宣教師、ミュリエル・グリーンストリートによって日本にも伝えられました。グリーンストリートは、英連盟の一支部として香蘭女学校に日本女子補導団東京第一組を設立。英本国のガールガイドにならい、“やくそく”と“おきて”を唱え、同連盟のハンドブックと、会員ピンを使用しました。

 その後、日本のガイド運動は、1923年に英連盟の支部から独立し、日本女子補導団が結成されました。当初、女学校におかれたガイド部門は、小学校にも広がり、少女団(ブラウニー団)も設立されています。また、南満州鉄道の附属地であった大連、長春にも、日本女子補導団の支部が作られています。

 その後、1928年に、ガールガイド/ガールスカウト世界連盟の創設が決まると、日本は26ヶ国の創立会員の一国として、1939年まで世界連盟に加盟していました。しかし、戦況の悪化に伴い、連盟からの脱退を余儀なくされ、太平洋戦争開戦後の1942年には、日本女子補導団そのものが解散の憂き目にあってしまいます。

 戦後、連合国の占領下で、ボーイスカウト運動が再開されると、これにあわせてガールスカウト運動の再建も進められ、1947年5月22日、GHQ民間情報局(CIE)少年教育顧問のラッセル・ダーギンの援助によってガールスカウト中央準備委員会が発足。さらに、翌1948年には、世界連盟からの資金援助が開始され、米連盟からマルグリート・テュウイが世界連盟のトレイナーとして来日しました。そして、彼女の滞日中の1949年4月4日、ガールスカウト日本連盟が成立し、日本国内のガールスカウト運動の組織は完全に復活しました。

 このように、戦後の運動はGHQの下で再興されたため、名称はガールスカウトとなり、プログラムの内容も米国の影響が強いものとなりました。その後、1952年8月、ノルウェーで開催された第14回世界会議で日本のガールスカウト連盟は準加盟を承認され、1960年5月、ギリシャでの第17回世界会議で、世界連盟への正式加盟を果たしています。
 
 1963年は、上記のような日本のガールスカウト活動の再出発(テュウイの来日から起算した場合)から15周年にあたっており、また、ガールガイド・ガールスカウト世界連盟への正式加盟から3周年にあたっていました。

 そこで、これを記念して7月31日(ただし、開会式は8月1日)から8月7日までの会期で、長野県の戸隠高原で、ガールスカウトの国際キャンプ大会(アジア大会)が行われ、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、カナダを含むアジア・太平洋地域の21ヶ国から4000名(うち日本から3500名)が参加しました。

 このアジア大会に際して切手を発行することについては、著名な収集家でボーイスカウト東京連盟理事長でもあった村山有が文部省に働きかけ、1962年8月、郵政省から次年度の記念切手にふさわしい題材についての照会があったときに、ガールスカウトアジア大会を申請するよう、根回しをしています。はたして、文部省側は、村山の働きかけに応じて切手発行の申請を行い、それを受けて、1963年1月28日に開かれた郵政審議会の専門委員会では、記念切手の発行が正式に決定されています。

 切手発行の決定を受けて、1963年2月から3月にかけて原画の制作が行われ、3月27日、三指の敬礼をするガールスカウトとガールスカウト連盟期を描いた大塚均の作品が切手の原画として採用されました。原画は、翌28日に印刷局へ渡され、6月11日の試刷完成を経て、開会式当日の8月1日、切手発行の運びとなっています。


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 栄螺は“新種”だった
2017-05-20 Sat 12:23
 岡山大学は、きのう(19日)、同大の福田宏准教授が、日本で広く知られている貝類の栄螺は学名のない“新種”であったことを突き止め、新たに“Turbo sazae(トゥルボ・サザエ)”と命名したことを発表しました。というわけで、きょうは栄螺の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      さざえ

 これは、1967年7月25日、魚介シリーズの最後の1枚として発行された“さざえ”の切手です。

 この切手に関しては、発行を前にした1967年7月3日付『朝日新聞』朝刊社会面の「青鉛筆」と題するコラム欄には、次のような記事が掲載されています。

  ▽…「動物学的に明らかな誤り」「いや芸術として立派な作品」――この二十五日発売予定の郵政省の記念切手魚介シリーズ最終回の「サザエ」(十五円)をめぐって、動物学者と郵政省の間でひともんちゃく、▽…誤りを指摘したのは国立科学博物館動物第二研究室長の波部忠重さん(五二)。実物と比べるとサザエの二列のトゲがくっついている、トゲの裂け目が反対向き、フジツボの形がおかしい――と、同省に修正を求めた。▽…日本画の山口蓬春氏に生きた動物の姿を描いてもらった“芸術作品”だ。多少のデフォルメは覚悟のうえ。サザエに見えないわけではなし…」と同省。すでに二千四百万枚印刷して各郵便局へ発送ずみで、あくまで“芸術”でつっぱるそうだ。

 1966年から発行が開始された魚介シリーズ(切手発行当時の名称は“お魚シリーズ”)は、それまでにも世界各国で発行された魚介関連の切手とは一線を画し、日本独自の切手を作りたいという意気込みから、当代一流の日本画家に原画の制作が委嘱されました。ただし、画家の芸術作品は、必ずしも、生物学的に魚介類の生態を正しく表現するものではありませんでしたので、その点で、いくつかの切手に関しては“不正確”という批判が浴びせられましたが、今回ご紹介の“さざえ”もその1枚だったわけです。

 ちなみに、今回ご紹介の切手の原画を担当した山口蓬春は、1893年、北海道松前町生まれ。東京美術学校を卒業後、1924年、「秋二題」で帝展に初入選を果たし、以後、日展を中心に活動しました。伝統的日本画を探求する一方、西洋画の技法を取り入れるなどの新しい試みを実践し、独自の新日本画の世界を築き、1965年には文化勲章を受賞しました。また、皇居新宮殿の壁画「楓」を担当したほか、代表作の一つ「榻上の花」は1992年の趣味週間切手にも取り上げられています。1971年没。

 栄螺は日本、韓国沿岸の種と、中国南部沿岸の種(ナンカイサザエ)に大別され、とげの長さや並び方など外見で区別できます。ところが、1995年までは、両者は学問的には同一のものとして区別されておらず、日本の栄螺は、ながらく1786年に英国の博物学者が命名した“Turbo cornutus(トゥルボ・コーヌトス)”とされていました。

 そこで、福田宏准教授は、1786年から1995年までの欧州の文献を精査し、これまで“Turbo cornutus”と呼ばれていた貝のすべてが中国産のナンカイサザエであったことを明らかにしたうえで、日本沿岸の栄螺には正式な学名がないことを論証。日本沿岸の栄螺を“トゥルボ・サザエ”と命名し、これが16日発行の国際学術誌に掲載されて正式名になったわけです。

 これまで、約230年もの間、日本産の栄螺に学名がなかった理由としては、(1)英国人が中国から持ち帰った標本を中心に研究が進められた、(2)18世紀当時の日本はいわゆる“鎖国”の時代で、欧州人には日本産の栄螺は入手困難だった、(3)ネットが普及するまでは古い文献を網羅的に渉猟することが非常に難しかった、ことなどが挙げられています。

 今回の“発見”について、福田准教授は「すべてを疑い、うのみにせず一度検証することだと改めて感じた」と話しているそうですが、そのお言葉、あらためて肝に銘じておかねば…と思った次第です。


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 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

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 鬼に金棒 小野に鉄棒
2016-10-29 Sat 10:42
 きのう(28日)、平成28年度の文化勲章・文化功労者が発表され、文化功労者の1人に体操男子で黄金期の礎を築いた小野喬氏が選ばれました。スポーツの体操分野での文化功労者選出は初めてのことです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      第16回国体(鉄棒)

 これは、1961年10月8日に発行された“第16回国民体育大会(以下、国体)”の記念切手のうち、男子の鉄棒を取り上げた1枚です。この鉄棒選手のモデルが、今回、文化功労者に選ばれた小野氏です。

 1961年の国体秋季大会は、秋田県内の各地を会場として、10月8-13日の日程で行われました。

 秋田県が国体の誘致に名乗りをあげたのは、1955年のことで、以来、秋田県よりも早く国体誘致の活動を開始していた新潟県との間で激しい誘致合戦が展開されています。

 当時、秋田県の財政は深刻な状況にあり、民間企業であれば破産に相当する財政再建団体に指定されていました。財政再建団体の指定を行うための「地方財政再建促進特別措置法」の施行は1955年のことでしたから、秋田県は同法の施行後ただちに財政再建団体の指定を受けていたことになります。

 また、当時の秋田県には、秋田市内に山王体育館やラグビー場はあったものの、それ以外には全国規模の大会を行うための正規の基準をクリアーしたものはありませんでした。さらに、国体競技種目のうち、ハンドボール、ウェイトリフティング、フェンシング、馬術、ホッケー、ヨットに関しては、県の競技団体が結成されていなかったほか、宿泊施設の収容力も、とうてい、国体参加者をカバーしうるものではありませんでした。

 したがって、秋田県国体の開催は、通常の感覚からすれば、明らかに無謀な計画でしたが、県側では1955年8月に国体誘致委員会(会長は秋田県知事の小畑勇二郎)を結成。県の体協関係者や市町村長らを動員して強引な誘致運動を展開し、1954年10月24日の国体委員会で開催の決定を取り付けました。これは、東北初の単独開催であると同時に、赤字再建団体としての開催という前代未聞の事柄でした。

 無謀ともいえる国体の開催に秋田県側が執念を燃やしていた背景には、国体のもたらす莫大な社会的効果がありました。

 すなわち、秋田空港の開港をはじめ、道路網の整備や地方体育施設の建設といった大型土木プロジェクトが国体に合わせておこなわれたほか、県産品を広くアピールする機会がうまれたことで、地元では「(国体開催によって)秋田県は20年の遅れを一挙に取り戻した」との声もあったといわれています。

 とはいえ、赤字財政の中での大会であったため、開催の基本方針として“金のかからぬ質素な国体”ということが強調されました。“明るい国体”というスローガンの下、県民運動の一環として、県民の住居を関係者の宿泊先として提供する民泊が奨励されたのは、その典型的な事例といってよいでしょう。

 なお、大会の競技数は28、参加者数は1万4547名で、天皇杯・皇后杯はいずれも東京都が獲得。秋田県は天皇杯2位(前年は9位)、皇后杯4位(前年は10位)という好成績を収めています。

 記念切手に関しては、例年どおり、年初の1月23日に開かれた郵政審議会専門委員会で発行が決められていましたが、大会秋田県実行委員会会長(小畑勇二郎)名の発行陳情書が仙台郵政局長を通じて本省の郵務局長と郵政大臣(小金義照)宛に提出されたのは1月27日のことでした。

 切手の図案としては、4月10日、漕艇・鉄棒・ラグビー・射撃・バドミントン・ハンドボール・弓道・馬術等、地元の特色を活かしてほしいとの要望が小畑から出され、これに沿って、同月13日、男子の鉄棒と女子の漕艇(ただし、記念切手の対象となる秋季大会ではなく、夏季大会での競技であった)が取り上げられることが決まります。原画作者は

 このうち、鉄棒の図案は、「鬼に金棒、小野に鉄棒」とよばれた当時の日本体操界のエース、小野氏の演技写真を元に構成されましたが、これは、小野氏が地元・秋田県能代市の出身だったことによるものです。

 小野氏は1931年生まれ。東京教育大(現筑波大)在学中の1952年、ヘルシンキ五輪に出場し、1956年のメルボルン五輪の鉄棒で日本体操界初の金メダリストとなりました。その後も、1960年のローマ五輪、1964年の東京五輪に出場し、4大会で計13個のメダル(金5、銀4、銅4)のメダルを獲得し、日本体操界に一時代を築きました。1958年には、女子体操界のエースだった大泉清子(後、参議院議員、国家公安委員長)と結婚。東京五輪後の1965年、体操を中心とした総合スポーツクラブの先駆けとなる池上スポーツ普及クラブを夫婦で設立し、ソウル五輪代表の小西裕之らを育てるなど、指導者としても実績を上げました。

 なお、今回ご紹介の切手を含む昭和時代の国体切手の詳細については、拙著『解説・戦後記念切手』(全7巻)でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00 
 毎日文化センターにて、1日講座、ユダヤとアメリカをやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください) 
  

★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

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 切手歳時記:梅にウグイス
2016-02-04 Thu 11:50
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2016年2月号ができあがりました。今回は立春(今日ですな)の時期に合わせて、僕の連載「切手歳時記」も、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      鳥切手・うぐいす

 これは、1964年2月10日に発行された鳥切手の“うぐいす”です。

 ウグイスといえば我々の感覚では“ホーホケキョ”と鳴くものと相場が決まっていますが、万葉の人々はその鳴き声を“ウーウグピ”と聞いていたようです。

 もともと、大和言葉では、鳥の名前には鳴き声にスをつけるという命名法があり(その典型的な例がカラス)、ウグイスの名前も、そのルールに従って、万葉仮名では“宇具比須”と書かれていました。ちなみに、当時の“比”の字の発音は、ピとビの中間のような音で、それが後にウグヒス、さらにウグイスとなったのだといわれています。

  一方、漢字の鶯は、中国語では、日本語でいうウグイスとは全く別種の鳥である“コウライウグイス”を意味していますが、この鳥は日本には棲息していませんでした。

 このため、中国大陸ではありふれた鳥である“鶯”は漢詩にもしばしば登場するものの、そのままでは日本語には訳しようがありません。

 そこで、杜牧の『江南春』冒頭の一節「千里鶯啼いて緑紅に映ず」を持ち出すまでもなく、“鶯”が春の訪れを告げる鳥として漢詩に詠まれていることをふまえ、当時の日本人は“鶯”をあえて自分たちにとって馴染みのある“ウグイス”と訳しました。これが、ウグイスを鶯と書くようになった始まりで、万葉集の時代には、宇具比須と鶯の表記が混在しています。

 ところで、ウグイスと言えばやはり梅を思い浮かべる人も多いとおもわれます。ただし、しばしば誤解されがちなことですが、梅にウグイスの組み合わせは、春の訪れを告げる鳥と花を組み合わせた吉祥のシンボルともいうべきもので、天然自然の現象としてウグイスが梅の木を好むということではありません。

 すでに万葉集の中には、「梅の花咲ける岡辺に家居れば乏しくもあらず鴬の声」のように、梅とウグイスを組み合わせたものもあり、両者の組み合わせが古くから日本人に親しまれてきたことがわかるのですが、季節の風流譚としては、僕は、『大鏡』に記されている“鶯宿梅”のエピソードを挙げたいですね。

 村上帝の御世(946-67)、帝が愛でておられた清涼殿前の梅が枯れたことがありました。臣下の者たちが八方手をつくして新たな梅を探したところ、西の京のとある家の庭で立派な紅梅を見つけたので、これを掘り起こして御所に運ぶことにしました。すると、作業をしていた者たちに、家主からの言伝として、梅の木の献上にあたっては短冊をひとつ枝に結びつけてほしいという要望がありました。

 御所に運び込まれた紅梅を一目見るなりお気に召した帝は、すぐに枝の短冊に気づかれ、中を開いたところ、「勅なればいともかしこし 鶯の 宿はと問はばいかに答へむ(勅命とあれば畏れ多いことで、謹んでお受けいたしますが、毎春この木に訪れる鶯が、私の宿はどうしたのかと尋ねたら、どうに答えたらよいのでしょう)」との歌が書かれていました。

 この歌に深く感じ入った帝が改めて、紅梅の元の持ち主を問うと、紀貫之の娘、紀内侍が父の形見として梅を大切に育てていたことがわかったため、帝は自らの行為を深く恥じ、この木を鶯宿梅と名付けて紀内侍に返した伝えられています。

 その後、紀貫之の邸宅跡には、応永25(1418)年正月、将軍・足利義満により相国寺の塔頭として林光院が建立され、鶯宿梅は林光院のシンボルとなりました。その幹は何度か枯れてしまいましたが、そのたびに、接ぎ木によって受け継がれています。

 現在、鶯宿梅の花は36枚の花弁を有しており、つぼみの間は真紅、開花後は淡紅に変じ、最後に純白へと移りゆく変化が楽しめます。そこへ実際にウグイスが飛んできて、今回ご紹介の切手のような光景が拝める確率は、おそらく、宝くじ以下でしょうが、そうであればこそ、この組み合わせのありがたみもいや増すというものですな。


 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 2月9日(火)から、毎月第2火曜の19時より、東京・竹橋の毎日文化センターで新講座「宗教で読む国際ニュース」がスタートします。都心で平日夜のコースですので、ぜひ、お勤め帰りに遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 125年前の女性交換手
2015-09-29 Tue 22:55
 1890年9月29日、わが国の電話創業に先立ち、“女子電話交換手”の募集が始まってから、きょうでちょうど125年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      電話創業75年

 これは、1965年12月16日に発行された“電話創業75年”の記念切手で、当時の電話のダイヤルの枠内に、創業時の電話交換機に向かう女性交換手のようすが描かれています。まぁ、僕の世代だと、相手先によっては電話を交換台でつないでもらうという体験もしているわけですし、もちろん、ダイヤル式の電話は日常的に使っていましたから、この切手を見てもすぐに電話のことを描いているとわかるのですが、現在の20代くらいの人がみたら、説明がないと、このデザインから電話を連想するのは難しいかもしれません。

 グラハム・ベルがテレフォンを発明したのは1876年のことでしたが、翌1877年には、早くも、その機械がわが国にもたらされています。当時の工部省 は、ただちに、その研究を始め、1878年にはテレフォンの機械を模造することに成功。これを“電話機”と名づけました。

 その後、工部省電信局を引き継いだ逓信省は電話の実用化にこぎつけ、1890年12月16日、電話の実用化にこぎつけ、東京=横浜間の電話交換を開始するわけですが(今回ご紹介の切手は、ここから起算して75周年になるのを記念して発行されました)、これに先立ち、9月29日には“女子電話交換手”の募集を開始しました。その時の応募条件は、「小学校高等科出で夫なく家事に関係せざること。品行方正なこと。視力聴力善良にして言語明瞭なること。筆算に優秀なこと。交換局所在地に居住すること」でした。

 切手に取り上げられている電話交換のようすは、東京電話交換局(現在の東京都千代田区丸の内1丁目、工業クラブの場所にあった)内で撮影されたものです。当時、東京交換局の交換手は女性9人、男性2人、横浜交換局の交換手は男性4人でした。女性交換手は、羽織に日本髪、耳にレシーバーをかけているのが特徴です。
 
 電話創業に際して、当初、逓信省は東京300、横浜100の加入者を見込んでいましたが、実際の加入数は東京155、横浜42と、予想の半分程度でした。これは、電話を雇うよりも“小僧”を雇って直接メッセージのやり取りをするほうが割安という感覚があったことに加え、おりしもコレラが蔓延していた京浜地区では、電話回線を通じてコレラ菌が感染するという噂を信じていた人が相当数いたことによるものと見られています。

 ちなみに、東京の電話番号は、東京府庁が1番、日本鉄道会社(現・JR)が15番、三菱財閥の祖・岩崎弥太郎が160番で、郵便の父・前島密は248番でした。
 

 ★★★ トークイベント「切手に見る美女たち」のご案内 ★★★ 

 10月8日(木) 18:30-20:30 東京・飯田橋の東京ボランティアセンター(JR飯田橋駅横・ラムラ・セントラルプラザ10階)で、日本ガルテン協会主催のリレー講座に内藤が登場。『日の本切手 美女かるた』の著者として「切手に見る美女たち」と題するトークを行います。

 参加費は、ガルテン協会会員の方2000円(一般3000円)で、お茶とお菓子がつきます。詳細はこちらをご覧いただくか、NPO日本ガルテン協会(講座担当宛・電話 03‐3377-1477)までお問い合わせください。皆様のご参加をお待ちしております。  

 ★★★ 講座「アウシュヴィッツの手紙」(10月16日)のご案内 ★★★ 

     ポーランド・アウシュヴィッツ解放30年   アウシュヴィッツの労務風景

 10月16日(金) 19:00~20:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「アウシュヴィッツの手紙」と題する講座を行います。

 第二次大戦中、ポーランド南部のアウシュヴィッツ(ポーランド語名・オシフィエンチム)は、ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人を中心に150万人以上が犠牲となった悲劇の地として知られています。今回の講座では、収容者の手紙を中心に、第二次大戦以前の状況を物語る郵便物・絵葉書、アウシュヴィッツを題材とした戦後の切手などもご紹介しつつ、さまざまな角度からアウシュヴィッツを考えてみたいと思います。

 申込方法など詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、ポーランドが発行したアウシュヴィッツ解放30周年の記念切手、右側は収容者による労務風景を取り上げた戦後作成の絵葉書です) 皆様のご参加をお待ちしております。

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 10月から毎月1回(原則第1火曜日:10月6日、11月 3日、12月1日、1月5日、2月2日、3月1日)、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で下記の一般向けの教養講座を担当します。(下の青い文字をクリックしていただくと、よみうりカルチャーのサイトに飛びます)

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 初回開催は10月6日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 ちすじの黒髪
2015-07-27 Mon 14:09
 ご報告が遅くなりましたが、7月15日付で刊行の(公財)日本近代文学館の館報『日本近代文学館』第266号に、「ちすじの黒髪」と題するコラムを寄稿しましたので、以下、その全文を転載いたします。(画像は、エッセイの題材となった1966年の趣味週間切手「蝶」です。クリックで拡大されます)

      蝶(藤島武二)

 今年の3月、『日の本切手 美女かるた』と題する拙著を上梓した。

 内容は、明治以来、日本で発行された“美女”を描く切手の中から48点を選んで、そこに、いろは47文字(+ん)のそれぞれで始まる読み札をつけた“かるた”形式のエッセイ集だ。このうち、“く”の札については、鳳(与謝野)晶子の『みだれ髪』のなかから「くろ髪の千すじの髪のみだれ髪 (かつおもひみだれおもいみだるる)」を持ってこようとすぐに思いついたが、それに対応する切手はどうしようかと大いに頭を悩ませた。

 こういう時は、やはり『みだれ髪』の初版本を手元に置いて考えたい。とはいえ、東京新詩社が明治34(1901)年に刊行した『みだれ髪』の初版の実物を入手しようと思えば、数十万円単位、下手をすると7桁の買い物になるから、ちょっと手が出ない。そこで、日本近代文学館の名著複刻全集の1冊として、昭和43(1968)年に刊行されたレプリカを探し出してきて入手した。

 名著複刻全集がオリジナルをかなり忠実に再現したつくりになっているであろうことは、以前、ふとした拍子に入手した夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』のレプリカで経験済みだった。なにしろ、オリジナル通りにフランス装のアンカットになっていて、発行記念の“青銅紙刀”までついていたほどだから。

 さて、『みだれ髪』の表紙画は木版画で、ハープのデザインされた口絵をめくると、「表紙畫みだれ髪の輪郭は戀愛のハートを射たるにて、矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」との説明文がある。なお、この表紙画では、書名が“みだれ髪”ではなく“ミだれ髪”となっていることも、恥ずかしながら、復刻版を実際に手に取ってみて初めて気が付いた。

 藤島武二のデザインした表紙画は、千々に乱れる黒髪を、緑色に縁どられた桃色の髪が神話のメドゥーサさながらにうねっているデザインで表現している。もちろん、これはこれで完成されたデザインで、僕も大好きなのだが、表紙の木版画を手に取ってじっくりと眺めていたら、ふと、藤島の作品の中では、切手にも取り上げられた「蝶」の方が、あるいは、『みだれ髪』のイメージを忠実に再現しているのではないかとも思うようになった。

 「蝶」は、『みだれ髪』の刊行から3年後の明治38(1904)年9月22日から11月13日まで、東京・上野公園で開催された第9回白馬会展覧会に出品された作品で、昭和41(1966)年の切手趣味週間の切手に取り上げられた。

  『みだれ髪』(のレプリカ)の表紙の上に「蝶」の切手を置いてみると、なるほど、二人の少女の横顔はよく似ているが、『みだれ髪』の表紙の少女が接吻を待っているかのような風情であるのに対して、「蝶」の少女は実際に花に唇を寄せ、蜜を吸っている。

  「蝶」の画面では乳首こそ描かれていないもものの、胸元を大胆にははだけた「蝶」の少女からは、何とも言えない色香が漂ってくる。まさに、これこそ「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」の“やは肌”そのものではあるまいか。ある意味、元祖“着エロ”の世界と言えるかもしれない。

 ところで、『みだれ髪』の表紙の少女の髪の毛の線は木版特有のベタッとした刷り上がりになっているが「蝶」の切手では、髪の毛の部分には、その質感を出すために局式凹版という特殊な印刷方式が用いられている。

 局式凹版は日本の印刷局が開発したことからその名がつけられた。紙幣などに用いられる彫刻凹版の細かい画線を手工的な彫刻によって行うのではなく、写真的に画線を形成し、腐食によって凹画線を得た版を用いてグラビア印刷機で凹版印刷を行うというもので、通常の凹版よりもツヤがあり、インクの盛り上がりが良く、細線に線切れがないなどの特徴があるので、まさに、髪の毛の表現には最適だ。切手を発行した郵政省や印刷局も、「蝶」という作品における“髪”の重要性を十分に認識していたということなのだろう。

 今回の一件に限らず、やはり、実際に印刷物としての本や切手を手元に置いて眺めていると、いろいろなことが見えてくるものだ。どれほど精巧なデジタル・データであっても、実物が発するオーラにはかなわない。 
 (以上転載終わり)
    
 なお、拙著『日の本切手 美女かるた』では、今回ご紹介の「蝶」の切手だけでなく、『みだれ髪』初版本の表紙を取り上げた20世紀デザイン切手も合わせてご紹介しておりますので、機会がありましたら、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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