郵便学者・内藤陽介のブログ
 切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。
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 ソフトボールの切手
 昨日の北京五輪といえば、何といっても、女子ソフトボールで日本代表チームが悲願の金メダルを取ったことに尽きるでしょう。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第10弾は、当然のことながら、ソフトボールの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第17回国体(ソフトボール)

 これは、1962年10月、岡山県で開催された第17回国民体育大会(国体)の記念切手です。

 岡山県による国体誘致の活動は、1953年10月、四国で開催された第8回国体に、当時の県知事・三木行治が県選手団の先頭に立って入場行進した際、深い感銘を受け、ただちに関係者に対して、1961年に開催予定の第16回国体を誘致したいと申し出たことから始まります。

 これを受けて、翌1954年1月、三木を会長とする国体誘致委員会が結成され、積極的な誘致活動が展開され、山口県との激しい誘致合戦の末、第16回大会を山口県で、第17回大会を岡山県で開催することで決着しました。この間、1956年7月に赤字県では国体開催を認めない旨の閣議決定がなされたことから、岡山国体の開催も一時はご破算となりましたが、岡山をはじめ開催予定県は地元選出の国会議員を動員して抵抗し、最終的に大会開催にこぎつけています。

 さて、切手に取り上げられたソフトボールの原画作成にあたっては、郵政省のデザイナー、大塚均と長谷部日出男の2人が、日本体育協会の紹介で、ソフトボール協会の専務理事・技術部長の御喜正を、彼の勤務先である神田女子学園に訪ね、同校が優勝した際の八ミリ映画のスチール写真を資料として借り受けています。なお、このスチール写真のネガは、ベースボール・マガジン社が版権を有していたため、郵政省サイドでは、作業を進めるにあたって、同社からネガを買い受け、長谷部が原画を作成しました。

 ところが、新聞紙上等で原画が発表されると、原画のフォームが反則になるのではないかとの指摘が一部からなされます。

 すなわち、当時のソフトボール規則第九条・投球規定第一項には、「投手が打者に対して投球する際は体は本塁に正対(両肩、腰は一塁と三塁を結ぶ線と同方向線上)にあることとし、両手で球を体の前面で保持して両足の爪先及び踵を正しく地につけ、かつプレートに触れて立ち少なくとも一秒間は全く停止していなければならない」とあるのに対して、切手のデザインは違反しているのではないかというのです。

 これに対して、御喜は、国際ソフトボール公式規則の原文を論拠として示しつつ、「原画は、球が手を離れる寸前の状態をとらえたものではなく、モーションを起こしたときのポーズであるから問題はないはずだ」と郵政省に説明。これをうけて、郵政省も、当初の予定通り、長谷部の原画を用いた切手が発行されました。

 なお、この切手を含む1960年代前半の記念切手については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 続・レスリング切手
 昨日の北京のメダルは、レスリングの男子フリースタイル55キロ級の松永共広が銀、同60キロ級の湯元健一が銅メダルという結果でした。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第8弾は、2度目のレスリング切手です。(画像はクリックで拡大されます)

 東京五輪募金(レスリング)

 これは、1961年10月11日、東京オリンピックの資金を集めるための寄付金つき切手(第1次)の1枚として発行されたレスリングの切手です。

 1959年、ミュンヘンで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、1964年に開催されるオリンピック夏季大会を東京で開催することが正式に決定されましたが、多くの国民の間では、当時の日本の経済力では、オリンピックの開催に必要な経費をまかなうことは相当に難しいのではないか、との懸念が強くありました。

 はたして、政府はこの大会を成功させるために担当大臣のポストをつくって準備を進め、国立競技場、武道館、駒沢競技場、国立室内競技場などを建設しましたが、その総工費だけで160億円がかかっており、施設の整備や運営資金については、民間から資金を調達する必要があるのは明らかでした。

 このため、(財)東京オリンピック資金財団(以下、資金財団)が設立され、資金調達のための各種の活動が本格的に行われています。当初、資金財団の計画では、記念切手、記念葉書、電話番号簿(電話帳)広告、タバコ、国鉄(現JR)の広告などが資金調達のための手段として考えられていました。

 このうち、記念切手に関しては、1961年2月に資金財団と郵政省の間で具体的な討議が始まりましたが、その際、最大の論点となったのが、オリンピックの寄附金を調達するために独自の切手・葉書を発行するのか、あるいは、年賀葉書の寄附金をオリンピック資金に充てるのか、という点でした。

 結局、年賀葉書の寄附金については、当時、「お年玉つき郵便葉書及び寄附金つき郵便葉書等の発売並びに寄附金の処理に関する法律」(昭和24年法律第224号)の第5条が「社会福祉の増進を目的とする事業を行う団体、風水害、震災等非常災害による被災者の救助を行う団体、がん、結核、小児まひその他特殊な疾病の学術的研究及び治療を行う団体又は原子爆弾の被爆者に対する治療その他援助を行う団体の当該事業の実施に必要な費用に充てることを寄附目的とするものでなければならない」と定められていたため、別途、6月15日に「オリンピック東京大会の準備等に必要な特別措置に関する法律(以下、五輪準備特措法)」が公布・施行され、寄附金つき切手の発行も同法によって処理されることになりました。

 こうして、1961年10月11日に発行の第1次寄附金つき切手が発行されたわけですが、当初はその題材として、柔道も候補に挙がっていました。しかし、同年6月に切手デザインの制作作業が行われていた時点では柔道がオリンピックの正式種目として採用されるかどうか不透明だったため、見送りになったことは以前の記事でもご紹介したとおりです。

 まぁ、最初の寄附金つき切手に柔道が取り上げられていたら、格闘技が重なるという理由でレスリングは第2次以降に回ったのかもしれません。しかし、レスリングだって、1952年のヘルシンキ大会以来、日本不参加のモスクワ大会(1980年)を除いて半世紀以上もメダルを取り続けている(今回の切手が発行された時点でも3大会連続のメダル競技ということになりますな)お家芸ですから、寄附金つき切手のトップを飾るのにふさわしい題材だったと思います。

 なお、今回の切手を含む一連の東京オリンピックの寄附金つき切手と、この寄附金つき切手が火付け役となった切手ブームについては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 続・柔道の切手
 北京オリンピックの柔道は、昨日、柔道の男子100キロ超級で五輪初出場の石井慧が金メダル、女子78キロ超級の塚田真希が銀メダルという形で有終の美を飾りました。というわけで、きょうはメダル獲得競技シリーズの第5弾、シリーズ2度目の柔道切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 東京五輪募金(柔道)

 これは、1962年6月3日、東京オリンピックの資金を集めるための寄付金つき切手(第2次)の1枚として発行された柔道の切手で、跳腰の場面が描かれています。

 東京オリンピックの寄附金つき切手は、1961年10月11日に第1次分の3種が発行されましたが、このときのは、やり投げ、ランナー、水泳、レスリング、女子飛び込みの5点の候補の中から、最終的に、やり投げ、レスリング、飛び込みの3点が切手に採用されました。

 実は、郵政省側は最初の切手に柔道を取り上げることを検討していたのですが、最初の寄附金つき切手を10月中旬に発行するためには、6月20日までに原画を印刷局へ渡さねばなりませんでした。ところが、柔道をオリンピックの正式種目に採用するか否かを決めるアテネのIOC総会は6月19日からの開幕で、さらに、東京大会の競技種目を柔道を含む20種目とし、大会の会期を10月11日(開会式は10日)から25日とすることが正式に決定されたのは、6月21日のことでした。

 こうしたことから、東京大会からの正式種目採用は確実視されていたとはいえ、万一、採用見送りとなった時のことを考えて、とりあえず1961年10月発行の第1次の寄附金つき切手からは柔道は外されることになったのです。

 ちなみに、第2集以降の切手の題材が決定されたのは、第1次の寄付金つき切手が発行された後の1961年12月6日のことで、このとき、第1次のときと同様、女子競技を取り上げた切手を毎回1点ずつ入れるという方針が確定されるとともに、ペンディングになっていた柔道のほか、平均台と水球が第2次発行の切手に取り上げられることが決定されました。

 さて、切手の発行当日、東京中央局(中郵)に早朝から並んでいた人の証言によると、午前6時半の時点では並んでいたのは15人程度でしたが、時間とともに行列は数を増し、8時に切手の発売が始まった時には、局の中央入口から通りに沿って建物を北に流れ、さらに左側に迂回して三菱銀行の前まで延びていたそうです。このため、銀行側からは、中郵に対して、業務に支障が出るとの苦情も出されたとか。

 まぁ、現在からは想像もつかないような切手ブームの時代の光景ですが、そもそも、東京駅の周りでも、中郵そのものが建て替えとなり、三菱銀行も三菱東京UFJ銀行となってしまいましたからねぇ。昨日の終戦記念日が63回目を数え、平成生まれの若者が五輪でメダルを取るご時世ですから、昭和も遠くなりにけり、というのも無理からぬことなのかもしれません。

 なお、東京オリンピックの寄付金つき切手に関しては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 男か女か
 北京からは連日、日本人のメダル獲得のニュースが届き喜ばしい限りですが、それに連動して、このブログのメダル獲得競技シリーズも第4弾です。昨日の午後から今日の午前中までの日本人選手の獲得メダルは、柔道女子70キロ級の上野雅恵が五輪2連覇の金、フェンシング男子フルーレの太田雄貴が日本人としてこの種目初の銀、競泳男子200メートル平泳ぎの北島康介が2大会連続の2種目連覇となる金、という結果ですが、ここはやはり初ものということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 東京五輪募金(フェンシング)

 これは、1962年10月10日、東京オリンピックの資金を集めるための寄付金つき切手(第3次)の1枚として発行されたフェンシングの切手です。

 日本でフェンシングの切手が発行されたのは、1959年10月の第14回国体の記念切手が最初のことで、この切手は日本のフェンシング切手としては第2号ということになります。ただし、切手の制作に際しては、第14回国体の記念切手の制作時に撮影された資料写真が使われました。切手のモデルとなったのは慶応義塾大学の女子選手です。注意深く切手を見ると、マスクの後ろから長い髪が出ているので女性であることがわかるのですが、素人がパッと見た限りでは男女どちらか瞬時に判断するのは難しいんじゃないでしょうか。

 ところで、この切手が発行された当時は、東京オリンピックを控えた好景気の中で、空前の切手ブームが日本全体を覆っていました。このため、この切手に関しても、値上がりを見越した業者筋による買占めがあいつぎ、多くの局では発行初日に切手は完売となっています。

 こうした状況のなかで、日本郵趣協会(以下、郵趣協会)の機関誌『郵趣』は、切手発行後の1962年12月号で「記念切手はナゼ買えない? 制限発行をみんなで打ち破ろう」と題する特集を組み、日本の経済成長率や各種消費財の延びから推計して、記念・特殊切手の発行枚数は平均1400万組(この切手の実際の発行数は500万組)が妥当であるとの提案し、それに賛同する各界著名人の声を掲載しています。

 さらに、『郵趣』1963年1月号の巻頭には、「全郵普の買占めを許すな!! 五輪切手の配給数5分の1を独占」と題する記事が掲載され、波紋を呼びます。

 記事によると、通常、切手普及課は、1000万枚程度発行される記念切手の場合、郵趣協会に1万2000組(このほか、郵趣協会では各局に手配して、合計2万組を確保していたという)、全日本郵便切手普及協会(全郵普)に1万組弱となっていました。このため、400万組の発行となった第1次の募金切手については、郵趣協会への切手普及課からの割当は、通常よりも少ない1万組とされました。

 ところが、全郵普に対する割当量は、通常よりも減らされるどころか、大幅に増やされて8万組にも上っています。東京中央局への配給が40万組ですから、実に、その2割が全郵普に回された勘定です。

 それでも、この全郵普への配給分が市場に放出されていれば良かったのですが、『郵趣』によると、全郵普は、郵政省の関係者が切手を横流しして個人的な利益を得るために、切手をストックとして抱え込んでおり、「新橋のガード下のTというキャバレーで、切手係の某が頭文字だけでよばれて大金を使って遊んでいる」事実を挙げ、募金切手をめぐる全郵普のやり方には「利権と汚職の臭いがプンプンしています」とのことです。

 いずれにせよ、募金切手の品薄状態は深刻で市価も暴騰しています。たとえば、第3次の募金切手が発行されてまもなくの業者間の取引では、発行されたばかりの切手3種のシートには、一時、1750円(郵便局の窓口売価は、寄付金分を入れても3種シートで600円)の値がつけられたとの報告もあったほどで、当時の『読売新聞』朝刊には、「切手業者への優先横流しを摘発:東京中郵普及課の慣行を読売暴露」と題する記事も掲載されたほどです。

 もっとも、それだけ人気を集めた五輪の募金切手ですが、日本の切手マーケットの規模からすると、500万組の発行でも決して少なくなかったというのが実情でした。このため、多くの切手が未使用のまま退蔵され続けた結果、現在では、未使用の切手には額面相当の価値しかなく、換金しようとすれば手数料分を差し引かれて額面以下にしかならないのが現実ですから、郵便に使うのがベストでしょう。

 ただし、この時代の記念切手に関しては、ほとんどが未使用で退蔵された結果、発行当時の消印が押されている使用済みは、かえって希少価値が出てそれなりの値段で取引されていますので、押し入れの中などに、この時代の記念切手が貼られたはがきや封筒が眠っていたら、捨ててしまわず、大事に保管されるなり、ヤフオクあたりで処分されることをお勧めします。

 なお、そうした東京オリンピック前後の切手バブルの状況については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 10日遅れの朝顔市
 毎年、7月6〜8日に開催される東京・入谷の朝顔市ですが、今年は、サミット開催のため今日(18日)から3日間の開催だそうです。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 あさがお

 これは、1961年8月1日に“花切手”の第8集として発行された“あさがお”の切手です。

 四季折々の花を切手に登場させようという花切手の企画が最初に持ち上がったのは、1955年のことで、郵政省の事務方と郵政審議会・切手図案審査専門委員の一人で植物学者(東京大学名誉教授)の小倉謙は、昭和31年度に花切手を発行すべく、審議会に提案しています。しかし、このときは、時期尚早との理由からこの企画は採択されませんでした。

 いったんお蔵入りしていた花切手の企画ですが、1961年が郵便創業九十年にあたっており、その記念行事の一環として発行されることが決まり、1960年10月以降、シリーズ発行に向けての具体的なプランが決定されます。その結果、1961年1月の“すいせん”を皮切りに、毎月1種ずつ、季節の花を題材として発行する花切手のシリーズがスタートしました。

 8月の花に選ばれた“あさがお”の原画は、印刷局の中島桂が以前に描いていたものをシリーズの企画に合わせて描きなおしたもの(1961年2月6日に完成)と、郵政省の大塚均が制作したもの(2月16日に完成)を比較・検討したうえで、中島の作品を修正のうえ採用することとされました。これは、大塚の作品が、半開きの花と全開きの花が並んでいるという、現実には起こりえない状態であったためです。

 ちなみに、朝顔といえば、東京・入谷の朝顔市が有名であることから、下谷入谷局が初日押印を担当することとなり、同局では、8月1日の切手発行に先立ち、朝顔市初日の7月6日から、鬼子母神と朝顔を描いた風景印が使用されています。

 なお、この切手を含む“花切手”については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 魚屋さんの切手
 燃料費の高騰で、漁に出るほど赤字になり、このままでは3割の漁師が廃業しかねないとして、昨日(15日)、20万隻の漁船が漁業の窮状を訴えるために全国一斉に休漁しました。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 日本橋

 これは、1962年の国際文通週間に発行された切手で、広重の「日本橋」が取り上げられています。1958年の「京師」に始まる「東海道五十三次」の文通週間切手では、それまで、逓信博物館の所蔵品として原画に用いられていましたが、今回の「日本橋」に関しては、国立博物館の所蔵品が用いられています。これは、逓信博物館所蔵の版画は初版ではない上に、刷りも不鮮明だったためです。

 さて、江戸時代、日本橋の南側には高札場や晒場があり、また北側には下流の江戸橋との間に魚市場が並び、日本橋魚河岸といわれていました。切手の元になった浮世絵に天秤棒を担ぐ魚屋さんの姿が見えるのも、このためです。

 この市場は、家康の招きで摂津佃島の名主森孫右衛門が佃村・大和村の漁師33名とともに現在の佃島を開拓した際、漁師たちが、漁を営む権利を与えられた謝礼に幕府へ魚を上納し、その残りを一般に売っていたことから始まり、江戸・東京の魚河岸として定着しました。ちなみに、現在の築地の魚市場は、1923年の関東大震災の後、復興計画の一環として日本橋の市場が移転してできたものです。

 昨日の一斉休漁のニュースをテレビで見て初めて知ったのですが、水産物の値段はセリによって決められ、魚をとってきた漁業関係者は基本的に値段を決めることができないのだとか。これに対して、仲卸は小売価格が上昇し、消費者の魚離れが進むことを恐れて、どうしてもセリの値段を抑え目にしますから、燃料高騰のしわ寄せは漁業関係者がかぶることになるという構図になっているようです。

 幕府なり大名家なりへ納めた残りを一般向けに販売していた時代であれば、こうした流通システムでも、十分、漁業関係者はやっていけたんでしょうが、幕府や大名家はとっくに存在しませんからねぇ。漁業関係者の廃業が相次いで日本の漁業が衰退してしまえば、結局、困るのは僕たち消費者なのですから、そろそろ、彼らの生活が成り立つように、水産物の流通システムの変更をまじめに検討しなければならないように思います。

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 駒沢体育館
 私事で恐縮ですが、今日は娘の運動会で東京・世田谷の駒沢体育館(駒沢オリンピック公園総合運動場体育館)に行ってきました。で、なんか見覚えのある建物だと思って家に帰って確認したら、やっぱり、この切手に取り上げられていました。(画像はクリックで拡大されます)

 駒沢体育館

 これは、1964年10月10日に発行された東京オリンピックの記念切手で、オリンピックの際にはレスリングの会場となった駒沢体育館が取り上げられています。

 駒沢体育館は、都立駒沢オリンピック公園の一部で、駒沢陸上競技場に隣接して作られました。

 駒沢オリンピック公園は、もともとは駒沢ゴルフ場の跡地で、1940年に行われるはずだった幻の東京オリンピックのメイン会場として利用される予定でした。第2次大戦後の1953年、あらてめてプロ野球の東急(東映)フライヤーズの本拠地として、東京急行電鉄などが建設した駒沢球場として開設されたましたが、1964年の東京オリンピックの開催に伴うスポーツ公園の整備(サブ会場としてサッカー、バレーボールなどが行われました)を行うため東京都に用地が返還され、1962年に工事がスタート。オリンピック直前の1964年に完成しています。

 切手に取り上げられている体育館は、観客席は3000席、2面のバスケットコートをもつ正方形平面の体育館で、施設全体が地盤よりも低い位置にあり、観客席の上部に直接アプローチできるようになっています。設計は、芦原義信が行いました。ただし、切手の制作時には体育館は完成していませんでしたので、原画担当の渡辺三郎は完成予想図をもとに作業を進めたものと思われます。ちなみに、現在の駒沢体育館はこんな感じです。

 駒沢体育館(写真)

 なお、この切手が貼られたオリンピック選手村局の消印が押されたカバーなんてのも以前の記事で紹介したことがありますが、東京オリンピックにまつわる切手については、拙著『切手バブルの時代』で詳しくご説明しておりますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 祝・女子バレー五輪出場決定
 バレーボール女子の北京五輪世界最終予選兼アジア地区予選で、昨日(23日)、日本は韓国を3−1で降して無傷の5連勝となり、アジア4カ国中1位を確定。2大会連続の五輪出場が決定しました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 東京五輪・女子バレー

 これは、1963年6月23日に発行された東京五輪募金切手(第4次)のうち、女子バレーボールを描いたものです。
 
 1964年の東京オリンピックを前に、大会資金を捻出する手段の一つとして、1961年10月から1964年6月まで6次に分けて20種類の切手が発行され、さらに、大会直前の1964年8月には小型シートも追加発行されたことは広く知られています。このうち、第4次発行分の題材は、当初の予定では、“蹴球(サッカー)”、“ヨット”、“ボクシング”の3種が考えられていましたが、実際には、第6次発行に予定されていた“バレーボール”と“蹴球”が差し替えになりました。

 切手に取り上げられている“バレーボール(六人制・女子)”は、東京大会から正式種目に採用されたもので、原画の作成に際しては、担当デザイナーの渡辺三郎のみならず、管理課長も同行して大阪へ出張し、日紡貝塚チームを取材したそうです。まぁ、原画の政策に直接関係のない管理課長の同行というのは、かぎりなく公私混同に近い物見遊山という感じがしないでもありませんが…。

 日紡貝塚(現・ユニチカ)の女子バレーボールチームは、当時名実ともに日本一のチームで、監督の大松博文の下、日本代表として1964年の東京オリンピックに出場し、金メダルを獲得。“東洋の魔女”と賞賛されたことは有名です。

 郵政の取材を受けた日紡貝塚側は、自分たちの切手が出るということで大喜びし、当時、世界一と謳われた河西昌枝(主将)・宮本恵美子の両選手をはじめベストメンバーによる模範試合を行い、その様子は一般のメディアでも大きく取り上げられました。切手に取り上げられている選手のモデルは、アタックを打っているゼッケン3番の選手が宮本、その脇に立っているゼッケン1番の選手が河西だろうと思うのですが、いかがでしょうか。なお、郵政省側が資料用に撮影した写真を見てみると、短パンの選手とトレーナーの長ズボンの選手が混じっており、いかにも練習風景といった感じです。

 さて、今年1月に発表された女子バレーの世界ランキングによると、日本は8位ということなので、冷静に考えると、北京でのメダル獲得はかなり厳しいのが現実でしょう。ただ、短期決戦の場合は運や勢いというのも大きく作用しますから、僕らとしては、幸運な“番狂わせ”を期待したいところです。

 なお、東京オリンピックの時代の記念切手については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書としてとんでもない高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 源氏物語絵巻
 『源氏物語絵巻』の巻頭部分が見つかり、昨日(21日)から、名古屋市東区の蓬左文庫で公開が始まったそうです。今回公開されているのは、江戸時代の1655年に完成のものだそうですが、『源氏物語絵巻』といえば、平安時代後期、白河・鳥羽上皇の院政期(1120〜1140頃)に作られた“隆能源氏”でしょう。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 宿木

 これは、1964年の切手趣味週間切手で、『源氏物語絵巻』のうち「宿木」の場面が取り上げられています。切手に取り上げられた『源氏物語絵巻』は、かつては、作者は藤原隆能といわれていましたが、最近では、4人程度の宮中の画家と書家の分担作業によって作られたものと考えられています。

 絵巻の内容は、題名どおり、『源氏物語』54帖の各帖から1ないしは3場面を選んで絵画化し、対応する本文の1節を料紙に書写した詞書として添えられています。当初は、80〜90場面が10〜12巻くらいの絵巻に構成されていたようですが、現在では19段の画面と20段の詞書が徳川黎明会と五島美術館とに分蔵されているほかは、詞書の断簡8種、絵の断簡1種が伝えられているだけとなっています。

 切手に取り上げられた「宿木」の帖は、『源氏物語』の「宇治十帖」のひとつ(第49帖)で、光源氏の子供・孫である薫・匂宮と宇治の八宮の姫君たちの物語です。中君(八宮の姫君)は匂宮に愛され二條院に迎えられたものの、肝心の匂宮は夕霧左大臣の六君と結婚後、六の君に惹きつけられ、中君の許に通ってきません。次第に離れていく匂宮の心に悩む中君は宇治にいた頃を思い出し、薫と文を交わすようになります。これに対して、匂宮は薫と中君の関係を疑うという、複雑な人間関係が展開されています。

 切手に取り上げられている場面は、そういう状況の中で、秋の夕暮れ、中君をなぐさめるために琵琶を奏でる匂宮と几帳の端で脇息にもたれながら、その音色に聞き入っている中君の姿を描いたもので、原作では以下のように描写されています。

 かれがれなる前栽の中に、尾花の、物より殊に手をさし出て招くが、をかしく見ゆるに、まだ穂に出でさしたるも、露を貫きとむる玉の緒、はかなげにうち靡きたるなど、例の事なれど、夕風なほあはれなる頃なりかし。
 穂にいでぬもの思ふらししのすすき 招くたもとの露しげしくて
 なつかしきほどの御衣どもに、直衣ばかり着たまひて、琵琶を弾きゐ給へり。黄鐘調のかきあはせを、いとあはれにひきなし給へば、女君も心に入れ給へる事にて、物怨じもえい果て給はず、小さき御几張のつまより、脇息に寄りかかりて、ほのかにさし出で給へる、いと見まほしくらうたげなり。

 さて、今回の趣味週間切手は、オリンピック直前の切手ブームの中での発行であっただけに、発行以前から収集家の高い人気を呼び、東京中央局の切手普及課には通信での申込が殺到しています。

 このため、郵政省としても、当初の発行枚数は前年の趣味週間切手を大きく上回る1800万枚と予定していましたが、実際には1000万枚も多い2800万枚の発行となりました。

 また、切手ブームが加熱していく中で、鹿児島県串木野市では、串木野小学校の児童274名(生徒数の約1割)、同中学校の生徒383名(生徒数の約2割)が、新切手購入のため、切手発行日の4月20日に授業をサボって(または遅刻して)郵便局前に行列。なかには、午前4時40分から郵便局に並んでいた児童も現われる始末でした。

 こうした状況を“目にあまる”と考えた市の教育委員会は、ついに、翌4月21日付で、生徒・児童間の切手の売買・交換を禁止。さらに、この串木野市教育委員会の措置と前後して、『中部日本新聞(中日新聞)』が「狂っている収集熱」「少年犯罪が危険」などの脇見出しとともに報じたことから、おなじように、加熱する切手ブームを苦々しく思っていた愛知県豊田市の教育委員会は、4月28日付で、児童・生徒相互の切手売買は勿論、彼らが切手商から切手を購入することまでも禁止する通達を発したほどでした。

 なお、この時代の切手ブームのすさまじさについては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書としてとんでもない高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 みどりの日
 きょうは“みどりの日”です。というわけで、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 緑化運動(1965)

 これは、1965年5月9日に発行された“国土緑化運動”の切手です。

 日本における全国規模の組織的な緑化運動としては、1934年に“愛林日”が設けられ、4月3日の“神武天皇祭”を中心にさまざまな活動が行われたのが、最初です。愛林日の各種行事は、戦争によって一時的に中断しますが、戦後の1947年に復活。全国緑化運動が多角的に展開され、1948年にはキャンペーンのための特殊切手も発行されました。この全国緑化運動は、翌1949年、国土緑化運動(以下、緑化運動)に発展し、このときもキャンペーン切手 が発行されています。

 もっとも、この時期の緑化運動は、森林愛護連盟や全日本観光連盟がそれぞれの事業の一環として担っており、かならずしも緑化運動そのもの専門とする団体が責任を持って行うという体制にはなっていませんでした。

 このため、1950年1月、緑化運動を国民運動として盛り上げ、推進する母体として、衆議院議長(幣原喜重郎)を長とする国土緑化推進委員会(現・国土緑化推進機構)が結成されました。国土緑化推進委員会は、同年4月、山梨県で昭和天皇夫妻臨席の下、ご夫妻によるお手植えを中心とする「第一回植樹行事および国土緑化大会」を開催。これが、現在の緑化運動の直接的なルーツとなります。

 1965年は、そうした国土緑化推進委員会による緑化運動の開始から15周年にあたっており、委員会として、郵政省に対して記念切手の発行を強く要望していました。この結果、1月28日に開かれた郵政審議会専門委員会では、5月9日に鳥取県で開催される「植樹行事および国土緑化大会」にあわせて記念切手を発行することを決定します。

 したがって、この切手の題目は、“国土緑化運動”となっていますが、実質的には、キャンペーン切手というより、“(国土緑化推進委員会による)緑化運動15周年記念”という色彩が強いものと考えてよさそうです。実際、3月19日付の郵政省の報道発表では、「国土緑化運動にちなむ郵便切手」の“発行の趣旨”は「鳥取県において行われる『植樹行事および国土緑化大会』にちなむ」と説明されており、“緑化運動の啓蒙・宣伝”という文言は見られません。その後、1971年の全国植樹祭まで、緑化運動切手の空白時期があるのも(ただし、記念葉書は1968年から発行されていましたが)、今回の緑化運動切手が“周年”モノとしての性格が強いことの傍証といえるのかもしれません。

 さて、この切手のデザインは、樹木と陽光を描くものということですが、当時、女性に好評だったようです。そういわれてみれば、“かわいい切手”が好きな女性に受けそうな雰囲気がありますな。

 なお、今回の緑化運動切手を含め、昭和40年前後の記念切手に関しては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読ください。(アマゾンでは古書としてとんでもない高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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プロフィール

内藤陽介 (ないとう・ようすけ)

Author:内藤陽介 (ないとう・ようすけ)
 1967年、東京都生。東京大学文学部卒業。郵便学者。日本文芸家協会会員。切手の博物館・副館長。切手などの郵便資料から、国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し、研究・著作活動を続けている。
 主著:<解説・戦後記念切手>シリーズ(日本郵趣出版、現在、第6巻まで刊行)、『北朝鮮事典』、(竹内書店新社)、『外国切手に描かれた日本』(光文社新書)、『切手と戦争』(新潮新書)、『反米の世界史』(講談社現代新書)、『皇室切手』(平凡社)、『これが戦争だ!』(ちくま新書)、『満洲切手』(角川選書)、『香港歴史漫郵記』(大修館書店)、『タイ三都周郵記』(彩流社)ほか著書多数。最新作は『韓国現代史:切手でたどる60年』(福村出版)

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