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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 2025年の大阪万博開催決定
2018-11-25 Sun 10:35
 博覧会国際事務局(BIE)は、きのう(24日・日本時間)未明、パリで開いた総会で、2025年国際博覧会(万博)を大阪で開催することを決定しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      大阪万博・寄附金つき(15円)

 これは、前回の大阪万博(1970年)の開催1年前に発行された寄附金つき切手で、地球に万博のマークを配した図案になっています。

 支那事変の影響で、オリンピックとともに日本での開催の返上を余儀なくされた国際博覧会(通称・万国博覧会、以下、万博)を、戦後、再び誘致しようという運動は、1964年2月、参議院で旧商工省の事務次官だった豊田雅孝が提案したことから本格的に始まります。その後、同年6月、大阪府知事、大阪市長、大阪商工会議所会頭の連名で、万博の大阪開催が通産大臣に要望され、同年7月22日、万国博覧会大阪誘致委員会が発足しました。

 これを受けて、同年12月、政府は国際博覧会条約を批准し、翌書1965年2月、同条約に正式に加盟します。そのうえで、同年5月13日、国際博覧会事務局に1970年度万博の日本開催の申請書を提出。その後4ヵ月間、1970年度に関しては立候補を表明した国がなかったため、9月14日、大阪万博の開催が自動的に承認、決定されました。

 万博開催の正式決定を受けて、1965年10月9日、大阪市東区の御堂ビル内に、万博の主催団体として日本国際博覧会協会(会長は経団連会長の石坂泰三)が発足。同月25日には「人類の進歩と調和」(PROGRESS AND HARMONY OF MANKIND)とのテーマも決定され、万博開催へ向けての準備が本格的にスタートします。

 ところで、大阪万博の開催にあたっては、1964年の東京オリンピックの3倍にあたる約1200億円の経費が必要と考えられていました。このため、オリンピックの際の先例に倣い、1966年7月、「日本万国博の準備等のために必要とする特別措置に関する法律」(通称・万国博特別措置法)が施行され、経費捻出のために寄付金つき切手を発行できるよう法的な基盤が整えられました。

 これを受けて、1967年12月に開催された郵政審議会専門委員打合会では、昭和43年度に万博の準備に協力するために寄付金つき切手を発行する方針が了承されましたが、この時点では、具体的な切手発行の時期などについては結論が出ませんでした。

 その後、1968年3月8日の閣議後の記者会見で、郵政大臣の小林武治は“日本万国博覧会協賛寄付金つき切手”の発行について閣議了承を得たと発表。郵政省としては、寄付金つき切手は、がん制圧切手の先例を考慮し、額面7円プラス3円のものと15円プラス5円の2種類で総額2億円の寄付金を集める予定で準備を進めることを明らかにします。

 このとき発表されたプランを元に、寄付金つき切手についての具体的な検討が開始され、1968年6月の郵政審議会では、大阪万博の開催1年前に当たる1969年3月15日に、15円プラス5円(寄付金)のものを1500万枚、50円プラス10円(寄付金)のものを750万枚、それぞれ発行し、総額1億5000万円の寄付金を集めることが正式に決定されました。

 これを受けて、切手原画の制作が開始され、15円切手の原画としては、地球に万博のマークを配した木村勝の作品が、50円切手の原画としては、京都・智積院の障壁画のうちの「桜図」(切手としての原画構成は久野実が担当)が、それぞれ、採用となり、1969年1月8日に報道発表されています。

 ところで、今回の切手に関しては、1月8日の報道発表から3月15日の発行日の期間が短かったこともあって、東京中央郵便局切手普及課による通信販売は行われませんでした。このため、いままでの寄付金つき切手が概して不評であったことを踏まえ、ただでさえ売りにくい高額の50円切手に関しては、1シートを「見返り美人」、「月に雁」以来の5面構成とするなどの、販売上の工夫がなされました。

 しかし、50円切手は出来栄えが見事だったこともあって収集家の前評判もよく、一部の郵趣誌には、発行以前からプレミアム付の完封買入広告が掲載されるほどで、関西では早々に売り切れる局も少なくなかったようです。

 ただし、全国的に見ればそれなりの枚数が売れ残っていた ため、郵政省は法律上の募金期間内にこの切手を売り切るため、全国から回収した売れ残りの切手を、5月22日、東京中央局で再発売して売り切っています。

 なお、1970年の大阪万博の切手と郵便については、拙著『一億総切手狂の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください)

 12月9日(日) 東海郵趣連盟切手展 於・名古屋市市政資料館 
 午前中 「韓国現代史と切手」

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


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 明治150年
2018-10-23 Tue 00:37
 1868年10月23日(慶應4年9月8日)に元号が慶應から明治に改められて、きょうで150年です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      明治100年(昌平丸)

 これは、50年前の1968年10月23日に発行された“明治百年”の記念切手のうち、明治百年のシンボルマークと昌平丸を描く1枚です。

 1968年が明治改元から100周年にあたっていたことから、政府は、この機会をとらえて、「明治元年から百年間にわたり、長い封建制を脱し、泰西の文明を吸収、近代国家完成への道を歩んだ我が国の発展」を祝うとともに、「政治、経済、文化その他すべての面にわたって偉大で強固な基盤を築き上げた先人の勇気と努力に感謝するとともに、このしあわせを、将来への限りない希望をこめて、次の日本の担い手である若い世代に引き継ごうとする覚悟を新たにしなくてはならない」との趣旨で記念行事を大々的に展開することを決定。1966年4月11日、明治百年記念準備会議の初会合を開き、同年9月28日の同会議の事業部会において、①国土の緑化、②青年の船、③歴史の保存と顕彰、④記念切手の発行、の四つを柱とする、記念事業の実施案が定められました。

 これに伴い、同年10月、明治百年記念事業委員会が正式に発足し、1968年10月23日(明治改元の記念日)に日本武道館で開催の明治百年記念式典(中央祝典)をメイン・イベントとして、第23回国民体育大会、第17回全国青年大会、記念植樹と国土緑化運動 、記念講演の整備と建設、青年の船などの各種事業が“明治百年”の冠をつけて行われています。
 
 さて、1966年9月の決定を受けて、1968年10月の明治百年記念式典に先立ち、関連の記念切手として、1月19日には“明治百年記念 青年の船”の切手 が、ついで、5月18日には“明治百年 国土緑化”の紀念葉書が、さらに、10月1日には“明治百年 第二十三回国民体育大会”の記念切手 がそれぞれ発行されたほか、各種イベントにあわせて小型印も用いられています。

 これに対して、“明治百年記念”の直接的な記念切手は、中央祝典当日の10月23日に発行されました。当初、明治百年の記念切手は身体障害者援護事業の寄付金をつけて発売されることも検討されましたが、会計処理の問題から、通常の記念切手を2種類発行するということで決着しています。

 記念切手は、小堀鞆音の絵画「東京御著輦」を取り上げたものと、木村勝のデザインによる、明治百年のシンボルマークと昌平丸を取り上げたもの(今回ご紹介の切手)の2種セットで発行されました。

 明治百年のシンボルマークは、グラフィック・デザイナーの大橋正がデザインしたもので、丸の中に菊花が配されています。マークの使用を管理していた総理府では、①赤味がかった金、②青味がかった金、③さえた赤、④うすい赤味の黄、⑤みどり、⑥明るい青、⑦明るい紫・赤味がかった紫、の7種類をマークの規定色としていましたが、切手には“赤味がかった金”が採用されました。
なお、シンボルマークは切手の発行と同時に用いられた特印(デザインは大塚均が作成)にも取り上げられています。

 一方、昌平丸は、1854年12月、幕府の依頼を受けて、薩摩藩の島津斉彬が建造したわが国最初の洋式軍艦です。翌1855年、鹿児島を出航して品川に入り、島津から幕府に献納され、その後は幕府の練習艦として用いられました。維新後は明治政府に移管され、1869年、北海道開拓使の所管となって北海道沿岸の物資の輸送に用いられましたが、函館から小樽へ向かう途中で難破漂流し、翌1870年3月、北海道桧山郡上ノ国町沖で座礁し、破船しました。切手のデザインは、山高五郎の『日の丸船隊史話』(千歳書房 1942年刊)に収められている挿絵を元に構成されたものと思われます。

 ところで、切手の図案と昌平丸についての説明が郵政省の報道資料によって発表されると、この船を今回の記念切手に取り上げることの必然性に疑問を呈する声が各方面から上がっています。郵政省としては、西欧文明を取り入れた日本の造船技術を象徴するものとして昌平丸を切手に取り上げたということのようですが、そのことを理解できた国民はごく稀だったようです。

 なお、昌平丸を切手に取り上げたことに関しては、調布市在住の学生、宮地竹史の以下のような投書が10月2日付の『朝日新聞』に掲載されています。

 十月二十三日に行われる明治百年記念式典に際して、郵政省は二種の記念郵便切手を発行する予定だそうですが、その中の一つに、明治百年のシンボルマークと太陽に帆船を描いた切手があります。その切手の説明を読んで驚いたことには、この帆船はわが国最初の洋式軍艦「昇平丸(後に昌平丸と改称)」であるということです。
 私は、この昌平丸がどういう軍艦であったかは知りませんが、過去の歴史を振返って、この百年の間、戦争によってわが国がどれだけ他国に迷惑をかけ、またみずからも、どれだけひどい目にあったかを考えると、この戦争で大きな役割を果たした軍艦を、たとえわが国最初のものであろうと描くということは、平和で迎えた明治百年の意義に逆行はしないでしょうか。
 昇平丸の“昇平”を表現する意味は分かりますが、百年もかかって築かれた今日の日本を祝うのにはふさわしくありません。そう思ってみていると、切手に描かれた太陽を背にしたシンボルマークが、まるで原爆のか水爆のせん光に浮かび上がったキノコ雲に思えてくるのです。

 ちなみに、1968年という年は、いわゆる東大紛争をはじめ、全国で大学紛争が繰り広げられており、学生の間ではいわゆる左翼的な価値観が主流を占めていました。上述の宮地の投書も、そうした時代の空気を反映したものとみなすことができるでしょう。

 もっとも、宮地のように、今回の記念切手を思想的な理由から批判的にとらえていたのは少数派で、今回の記念切手は一般には非常に人気を博し、発行初日の東京中央局では雨天にもかかわらず長い行列ができ、1人各5シートずつの販売制限も行われたほどでした。

 
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 大坂なおみ、全米OPで優勝
2018-09-10 Mon 02:37
 テニスの全米オープンは、きのう(現地時間8日・日本時間9日)、女子シングルス決勝で大坂なおみがセリーナ・ウィリアムズに6-2、6-4でストレート勝ちし、日本選手初のグランドスラム制覇の快挙を達成しました。というわけで、日本の女子テニスの切手ということで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      第26回国体

 これは、1971年10月24日に発行された第26回国民体育大会(国体)の記念切手で、潮岬灯台を背景に、軟式テニスの女子選手と開催地和歌山県の県花、梅の花が描かれています。

 1971年の秋季国体は、和歌山県下19市町村の会場で、10月24日から29日までの6日間、1万6689名の参加を得て開催されました。テーマは“黒潮国体”、スローガンは“明るく・豊かに・たくましく”で、開催県の和歌山県は天皇杯を獲得しています。

 切手に取り上げられている軟式テニスは2人1組になって相手チームと対戦しますが、切手に描かれている女子選手はボールを握っていることから、後衛のポジション(当時のルールでは後衛しかサーブ権がなかった)です。また、彼女の用いているラケットは、その形状から、軟式テニスの世界では“幻の名品”と呼ばれているカワサキラケットの“ニューナンバーワン”と思われます。

 背景に描かれている潮岬灯台は、本州最南端に位置する潮岬に設置されているもので、1873年9月に正式点灯されました。1928年に電化され、1957年に90センチの回転式に変更され、現在では光度97万力ンデラ、光達距離十九海里の能力を有しています。

 なお、この切手を含む書状料金15円時代の記念特殊切手については、拙著『一億総切手狂の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 
 

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 切手歳時記:甲子園
2018-08-05 Sun 00:32
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      第50回全国高等学校野球選手権大会(連刷)

 これは、1968年8月9日に発行された“第50回全国高等学校野球選手権大会”の記念切手です。

 “夏の甲子園”こと全国高等学校野球選手権大会のルーツは、1915年8月、大阪朝日新聞社主催、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の豊中グラウンドで行われた“第1回中等学校優勝野球大会”です。

 明治の末以降、郊外から都市部への通勤・通学が増えると、彼らを対象に民間の郊外鉄道が生まれました。鉄道会社は、通勤・通学客が激減する休日対策として、沿線に娯楽施設を設け、需要の掘り起こしに努めます。かつて、プロ野球チームのオーナーに、近鉄、国鉄、南海、阪急など鉄道会社が多かったのは、野球がそのための重要なコンテンツだったからです。

 豊中での野球大会も、そうした発想の下、箕面有馬電気軌道が大阪朝日新聞に持ちかけて実現に至ったものですが、肝心のグラウンドが手狭だったため、1917年、会場は阪神電鉄が所有する鳴尾運動場に移されます。

 さらに、武庫川の改良工事で、支流の枝川・申川が埋め立てられると、その河川敷跡を購入した阪神電鉄は、旧枝川・旧申川の分流点があった付近に大野球場を建設。野球場は、1924年、すなわち、十干十二支の始まりにあたる甲子の年に完成したことから、甲子園球場と命名され、同年開催の大会から使用されました。

 以後、“夏の甲子園”は風物詩として定着し、1941-45年の戦争による中断を挟んで、2018年8月5日、第100回大会が開幕します。なお、学制改革に伴い、現在の“全国高等学校野球選手権大会”となったのは1948年のことで、それから20年後の1968年の第50回大会に際しては、優勝旗を背景にした投手と、記念の人文字を描く記念切手も発行されました。(今回ご紹介の切手です)

 ところで、切手に描かれた球児たちは“甲子園の土”を記念に持ち帰ったはずですが、そもそも、“甲子園の土”を持ち帰る習慣がいつ始まったのかは、定かではありません。

 打撃の神様・川上哲治は、熊本工業の投手として出場し、準優勝した1937年、他の選手の真似をして“甲子園の土”をポケットに入れ、母校の練習場にまいたというから、戦前から、すでに、一部で“甲子園の土”を持ち帰ることがあったようです。

 終戦直後の1946年には、準決勝で敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中高)の選手達が、次回また返しに来るという意味で足下の土を持ち帰ったとの記録があります。ただし、当時の甲子園球場は米軍が接収しており、大会は阪急西宮球場で行われたから、これは“甲子園の土”ではありません。

 ちなみに、文献上の記録では、1949年、準々決勝で敗れた小倉北の投手、福嶋一雄がホームベース後方で無意識に足元の土を摘んでポケットに入れたのを、帰郷後、大会役員からの速達で気付き(本人よりも先に自宅に届いたらしい)、ユニフォームから取り出して自宅の植木鉢に入れたのが“甲子園の土”を持ち帰った最初の例とされています。

 しかし、“甲子園の土”を一躍有名にしたのは、1958年、復帰前の沖縄から初出場した首里の選手たちが、1回戦で敦賀(福井)に敗れ、甲子園の土を持ち帰ろうとしたものの、検疫の関係で沖縄に持ち帰れなかったというエピソードでしょう。

 “外国”の土を持ち込もうとすれば、検疫で没収・処分されるのは万国共通で、当時の沖縄の係官は申し訳なさそうに「規則なので…」といって没収したそうです。しかし、この一件は、沖縄の悲劇を象徴するものとして大々的に報じられ、“甲子園の土”が広く知られるようになるとともに、沖縄の祖国復帰運動を加速させる契機になったともいわれています。

 
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 郵便番号50年
2018-07-01 Sun 00:24
 1968年7月1日にわが国で郵便番号制度が導入されてから、きょう(1日)でちょうど50年です。というわけで、きょうは今月20-22日に東京・錦糸町すみだ産業会館で開催の全日本切手展での宮崎博司さんの招待展示「郵便番号50周年」のなかから、こんなモノをご紹介しします。(画像はクリックで拡大されます)

      郵便番号初日印・番号簿  郵便番号初日印・番号簿部分

 これは、制度スタート時の『郵便番号住所録』に、郵便番号宣伝の切手(第1次)を貼り、発行初日(=郵便番号制度の初日)の消印を押した記念品です。

 いわゆる高度経済成長の進展に伴い、昭和30年度に48億5500万通だった郵便物の取扱量は、昭和41年度には98億2200万通にまで膨れ上がりました。これに対して、1955年に7万4132名だった郵政職員の数は、1966年の時点で11万3530名までしか増えておらず、従来どおりのやり方では郵便の処理能力は限界に到達することが懸念されていました。

 こうした状況を踏まえ、郵政省は、郵便の機械化を本格的に検討するようになります。

 その作業が本格的に始まったのは1965年のことで、開発を請け負った東芝は、郵政省の指導のもとに、柳町工場(現・機器事業部)と総合研究所(現・研究開発センター)でプロジェクトを編成。まず郵便局内の作業を系統的に分析し、郵便物自動読取区分機(TR)、郵便物自動取揃押印機(TC)、郵便物自動選別機(TS)の順に開発を進めました。

 このうち、郵便物自動読取区分機は、局内作業のうち最も労力のかかる郵便物の区分を機械化するもので、そのために、全国の集配局の配達担当区域に3桁ないしは5桁の郵便番号が割り振られることになりました。機械は、利用者が郵便物に記載した郵便番号を読み取って区分作業を行うというシステムになっていたためです。こうして、1966年、制限手書数字を読取る最初の試作機が完成。さらに、翌1967年には、世界初の手書き文字読取試作機TR-2型が完成します。
 
 一方、番号の割り振りに関しては、当時の郵便輸送の主力であった鉄道郵便輸送の担当部門が担当しました。当初は、郵便番号と電話番号を連動させる(これだと、東京は03になる)ことも検討されましたが、郵務局長の曾山克巳が「第一師団は東京」と主張したことから、東京を“1”で始まる番号とすることが決まりました。ついで、東京を起点として、鉄道路線に沿って、東京-門司線方面の都府県には上1桁に1、2、4、5、6、7、8を、東京-青森線方面の都道県には上1桁に1、3、9、0を割り当てたうえで、全国を97に分けた地域番号が割り振られます。上から3桁目の数字は、比較的大きな規模の集配局の配達担当区域を示すもので、必要に応じて、直接配達を行う小規模の集配局の担当区域に対して2桁の小番号が与えられるという仕組みが取られました。

 こうした経緯を経て、1968年7月1日、日本の郵便番号制度がスタートします。ちなみに、世界で最初に郵便番号制度を導入したのは英国(1959年)で、ついで、西ドイツ、米国、スイス、東ドイツ、フランス、オーストリアの各国がこれに続き、日本での制度開始は世界で8番目でした。

 郵便番号制度の導入にあわせて、新制度を宣伝するための切手を発行するというプランは、1968年1月12日に昭和43年度の記念・特殊切手の発行計画が大臣決裁を受けた段階では、関係者の間でも具体的には固まっていなかったようで、1月18日に発表された新年度の切手発行計画には、郵便番号宣伝の切手についての記載はありません。

 その後、年度が改まった4月1日から、郵政省は本格的な郵便番号普及のキャンペーンを開始しますが、4月25日、全日本切手展(全日展)の表彰式に郵務局長として出席した曾山克巳は、挨拶の中で郵便番号制度の実施に触れ、制度を宣伝するための“普通切手(本人談)”を発行すると発言。5月23日には、7月1日の制度開始にあわせて7円および15円の宣伝切手を各2種(計4種)発行することが正式に発表されました。

 切手の原画は久野実が制作し、いずれの額面も、数字で描いた日本地図に郵便番号のシンボルマークである“ナンバーくん”を配したデザインになっています。なお、今回ご紹介の『住所録』の表紙イラストの地図と郵便番号と比べてみると、切手の地図に配された番号を郵便番号の配置は、関係があるような無いような、微妙な感じですな。

 また、切手の下部には「あて名には郵便番号を」と「あなたの住所にも郵便番号を」の スローガンが交互に入れられました。郵政省が発表した原画写真を詳細に検討すると、切手の原画としては、15円の「あて名には郵便番号を」の切手がオリジナルで、あとは、文字部分を差し替えたほか、15円切手と7円切手で刷色が変更されただけであることが分かります。

 切手に取り上げられたナンバーくんは、もともとは、前年の1966年7月に導入された定型郵便制度をアピールするためのキャラクターとして、木村恒久をディレクターに迎え、イラストレーターの松野のぼるが制作したものです。1966年8月11日から1ヶ月間、東京・大阪で週4回、テレビに登場しました。これが好評だったため、郵政省は、引き続き、1976年以降、このキャラクターを郵便番号の宣伝のために積極的に活用していました。

 その後、1968年に入ってから、地域ごとの郵便番号の割り当てが完了したことを受けて、キャラクターの胴体に当たる封筒の左下にあった“456101”の数字が削除され、デザインが確定しています。ただし、切手の発行が発表された5月23日の時点では、このキャラクターには決まった名称がなく(そのため、民間ではさまざまな名前で呼ばれていました)、郵政省の報道発表でも“郵便番号シンボルマーク”と説明されています。

 ちなみに、“ナンバーくん”との呼称は、1968年4月20日から6月20日までの間に行われた愛称公募の結果、1103通を集めて1位になったものが採用されたもので、その発表は、切手発行後の7月5日のことでした。

 さて、7月20日からの全日本切手展で展示予定の宮崎コレクションでは、郵便番号宣伝の切手のみならず、当時の関連資料などを展示する予定です。ぜひ、会場にて実物をご覧いただけると幸いです。


★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


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 三の酉
2017-11-30 Thu 00:17
 【謹告】 本日(30日)16:05~  NHKラジオ第1放送で放送予定だった「切手でひも解く世界の歴史」は、国会中継のため、放送が休止となりました。あしからずご了承ください。なお、次回の「切手でひも解く世界の歴史」は、12月14日の予定です。

 というわけで、きょうは三の酉でもありますし、国会議事堂と3羽の鳥の組み合わせということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      議会開設80年

 これは、1970年11月29日に発行された“議会開設80年”の記念切手です。

 1970年は、1980年11月29日に第1回帝国議会の開院式が行われてから80周年にあたっていました。

 このため、これを記念して衆参両院では記念式典が行われました。80周年といういささか半端な年回りで記念式典が行われたのは、沖縄の祖国復帰が決定されたことを受けて、1970年11月に戦後初の沖縄の国政参加選挙が行われ 、次回国会からその代表が審議に加わることを記念する意味合いも込められていたためです。

 なお、記念事業の一環として、1960年に開館した尾崎記念館の北側に憲政記念館を建設することが決定されました。憲政記念館は、1972年3月に開館し、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示するほか、特別展などが開催されています。なお、憲政記念館の開館に伴い、尾崎記念館は同館に吸収・統合されることになりました。

 さて、当時の郵政省には、周年記念切手を発行する場合には、原則として四半世紀ごとの節目にあわせるという基準がありました。このため、80周年という年回りは、本来、記念切手発行のタイミングとはならないはずなのですが、衆参両院は、1960年に“議会開設七十年”の記念切手が発行された先例 を理由に、7月10日、郵政省に対して記念切手の発行申請を提出。郵政省にこれを呑ませています。なお、国会側は“議会開設七十周年”の時の先例に倣って、今回の記念切手も2種類発行することを希望していましたが、製造日数の関係からそれは不可能なため、一種のみの発行となりました。

 11月29日の記念式典当日に発行された切手は国会議事堂と祝賀のテープをくわえた鳩を描くもので、武荒勧嗣が原画を制作しました。発行枚数は、当初は2100万枚と発表されましたが、後に増刷されて最終的に2400万枚となっています。

 ちなみに、今回ご紹介の切手を含め、書状基本料金15円時代の記念切手については、拙著『一億層切手狂の時代』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 切手歳時記:竿燈
2017-08-04 Fri 07:42
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      大阪万博・竿燈

 これは、1970年6月15日に発行された大阪万博の記念切手(第2次)のうち、竿燈とパビリオンを取り上げた7円切手です。

 毎年8月3-6日に秋田県秋田市で行われる“秋田竿燈まつり”は、竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈る祭です。

 秋田には、すでに江戸時代以前から“ねぶりながし”の習慣がありました。“ねぶり”とは“眠り”のことで、黄泉や常夜の意味でもあります。そこから、“ねぶりながし”は「黄泉の穢れを祓いて水に流す行事」として、古くは七夕に笹や合歓木に願い事を書いた短冊を下げ、それを手に練り歩いたうえ、川へ流して邪気を払っていたといわれています。

 その後、宝暦年間(1751-64)になると、蝋燭が普及したこともあって、外町(町人街)の町人が、五穀豊穣や無病息災などを願い、お盆を前に、門前に立てる高灯籠を持ち歩けるようにしたのが、現在の竿燈の原型となりました。

 1789年に津村淙庵が著した『雪の降る道』には、秋田独自の風俗として、陰暦7月6日の“ねぶりながし”が紹介されていますが、同書には、長い竿を十文字に構え、それに燈火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩くようすが記されています。

 ちなみに、“竿燈”という言葉は、1881年に秋田日報を創刊した大久保鐵作が、中国・北宋の禅僧、道原が11世紀初に編纂した燈史『景徳傳燈録』に記述のある“百尺竿頭須進歩”からヒントを得て命名したもので、江戸時代には、提灯をつけた竿は、作り燈籠、ネブリナガシ、七夕などの名前で呼ばれていました。

 しかし、大久保が竿燈という言葉を考案した頃から、皮肉にも、秋田の竿燈は徐々に下火になっていきます。この頃から、市内に電灯がともり、電線が張り巡らされて物理的に竿燈を掲げることが難しくなったためです。このため、1902年には、発祥の地である外町通りでの竿燈が廃止。翌年からは竿燈は楢山グランドに場所を移して行われたものの、下駄履きで歩き回るためにグランドが荒れることから、グランド側は3年間で竿燈に場所を貸すことを拒否するようになりました。そこで、再び、外町が竿燈の会場となったものの、電線の折損事故が絶えず、1907年には千秋公園二の丸が会場となります。

 こうして、一時は存続の危機に瀕した竿燈でしたが、1908年、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東北行啓の際に台覧の栄に浴し、また、大正時代に入ると他県からの観光客も訪れるようになったことで、次第に活気を取り戻していきます。こうした事情を踏まえて、1931年には秋田市竿燈会が結成されました。

 その後、1937年に日中戦争(支那事変)が始まると、1945年の終戦まで竿燈は中断されましたが、終戦後すぐに早坂吉助会長以下、竿燈会は竿燈の復活に向け動き出し、早くも翌年にはまつりを復活させます。ただし、当時は提灯に必要な紙や油も不足していたため、1946年のまつりの開催は、例年より大幅に遅い、9月29日となりました。

 復活当初は1日だけだった竿燈まつりは、1954年からは2日間、1964年からは3日間に拡大され、1988年以降は、現在と同じ4日間となっています。この間、1970年の大阪万博に際しては、会場内お祭り広場で披露された日本各地の祭りを代表して、記念切手にも取り上げられ、その知名度は全世界に広がることになりました。

 ちなみに、竿燈は大きさにより、大若、中若、小若、幼若に分けられます。提灯の数は、大若と中若が最上段2個、二段目4個、3-8段目6個、最下段(9段目)4個、小若と幼若は最上段2個、2段目-6段目4個、最下段(7段目)2個という構成ですが、今回ご紹介の切手では、デザイン上の都合から、最下段に6個の提灯が下げられています。
 

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 民生委員100年
2017-05-12 Fri 10:16
  民生委員制度のルーツとなる済世顧問制度が、1917年5月12日に設立されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      民生委員制度50年

 これは、1967年5月12日に発行された“民生委員制度50年”の記念切手です。

 民生委員とは、民生委員法に基づき市町村の区域に配置されている民間のボランティア委員で、その職務は、①住民の生活状態を必要に応じて適切に把握しておくこと、②援助を必要とする者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように生活に関する相談に応じ、助言その他の援助を行うこと、③援助を必要とする者が福祉サービスを適切に利用するために必要な情報の提供その他の援助を行うこと、④社会福祉を目的とする事業を経営する者又は社会福祉に関する活動を行う者と密接に連携し、その事業又は活動を支援すること、⑤福祉事務所その他の関係行政機関の業務に協力すること、などとされています。

 民生委員制度のルーツは、1917年5月12日に設立された済世顧問制度です。

 1916年5月、大正天皇ご臨席の下で行われた全国地方長官会議の際、天皇から岡山県知事笠井信一に対して、県下の生活困窮者の状況についてのご下問がありました。これを受けて、笠井が調査したところ、県民の約一割が極貧層である事実が判明。驚愕した笠井は、恒久的な防貧対策として、翌1917年5月、済世顧問制度を実施しました。

 翌1918年には、これにならい、東京府が慈善協会救済委員措置を施行するとともに、悲惨な夕刊売りの母子の姿に同情した大阪府知事の林市蔵が方面委員制度を設け、これが各府県に普及。1928年には方面委員制度は日本全国をカバーするようになりました。

 方面委員は、現在の生活保護法の前身にあたる救護法の制定に尽力したほか、戦時中は母子保護法、医療保護法、軍事扶助法などに協力。戦後の1946年には民生委員として改組されました。

 1947年に児童福祉法が制定されると、民生委員は児童福祉法による児童委員(地域の児童および妊産婦の健康状態、生活状態を把握して、必要な援助を受けられるようにしたり、福祉サービスを行なう者との連絡調整を行なったりする民間ボランティア委員)を兼ねるようになり、地域の社会福祉事業の最前線の担い手となっています。
 
 今回ご紹介の記念切手は、済世顧問制度の発足から50周年になるのを記念して発行されたもので、切手発行日の1967年5月12日には、制度発祥の地の岡山市民会館で記念式典が行われました。

 切手に描かれているのは民生委員の記章です。このデザインは、1960年の公募作品のうちの優秀作品をもとにつくられたもので、幸福をあらわす四葉のクローバーの中に図案化されたハト(児童委員としての双葉=児童と、民生委員の“み”の意味も兼ねています)が描かれています。


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 切手歳時記:春雨じゃ 濡れてまいろう
2017-04-20 Thu 06:20
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年4月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      文通週間・駅逓寮

 これは、1970年に発行された国際文通週間の切手で、三代広重の『東京府下名所尽』の中から「四日市駅逓寮」が取り上げられています。

 きょう(20日)は「雨が降り百穀を潤す」とされる二十四節季の“穀雨”ですが、毎年、この時季は春雨の日が多くなります。

 もともと、春雨は“はる”と“さめ”を意味する「春小雨」と書かれていましたが、なるほど、小ぬか雨とも呼ばれるだけあって、穀雨の頃の雨は雨粒が小さく、柔らかに降るイメージがありますね。

 芝居の月形半平太は、京・三条の宿を出るときに、馴染みの舞妓、雛菊から「月様、雨が…」と声を掛けられ、「春雨じゃ 濡れてまいろう」と応ずるのが定番です。半平太のような色男の口から出ると、何とも粋な雰囲気になる台詞ですが、国語学者の金田一晴彦に言わせると、「これは春の京都に多い霧雨なので、傘をさしたところで濡れてしまう」ということなのだとか。

 身もふたもない説明ですが、それなら、春雨の街角には傘を差す人と差さぬ人が同じくらい歩いている風景というのがあってもよさそうなもので、なにかないかと考えていて、ふと思いついたのが、今回ご紹介の切手に取り上げられている「四日市駅逓寮」だったわけです。

 『東京府下名所尽』は1874年5月に刊行された作品。“駅逓寮”は、明治4年3月1日(1871年4月20日)に日本の近代郵便が創業されたときの“駅逓司”が同年8月に昇格して生まれた組織で、切手に取り上げられた庁舎はこの絵が刊行される前月の1874年4月に完成したばかりでした。

 郵便創業当時、駅逓司(後に駅逓寮)と東京郵便役所(現在の中央郵便局に相当)は四日市、すなわち、現在の東京都中央区の江戸橋南詰付近に置かれていました。当初の駅逓司の建物は、旧幕府の老朽化した魚納屋役場を改造したもので、駅逓頭・前島密の机も押入れを改造した中に置かれているというありさまでした。

 その後、郵便事業の発展とともに、駅逓寮の局舎も近代的なものに改築する計画が持ち上がり、1874年4月30日、瓦葺き木造漆喰仕上げ二階建ての洋風建築が完成します。入口上部の切妻中央に設置された直径4尺の舶来時計は時を知らせ、文明開化のシンボルとして、東京名所の一つでした。ただし、この建物は1888年2月の火災で焼失。現在、その跡地には日本橋郵便局が建てられ、その正面玄関には“郵便発祥の地”と記された石碑がはめ込まれています。

 三代広重の作品を見ると、玄関脇に満開の桜の木が一本植わっています。さすがに、4月末の竣工時には桜は散っていたでしょうから、あるいは、建物の外観ができあがった時点で絵筆をとったのではないかと推測できます。

 往来には傘を差した人物が3人ほど歩いていますが、画面手前の丁髷と思しき男衆(1871年に断髪令が出された後も丁髷を結ったままの人は多く、8割が断髪するまでには10年近くが必要だったそうです)は傘を差していません。

 新国劇で『月形半平太』が初演され、「春雨じゃ~」の名台詞が生まれたのは1919年のことでしたから、丁髷の彼らは、雛菊・半平太の物語など知る由もなく、春雨に濡れて歩いていたということになります。

 穀雨が過ぎると、だんだんと雨量が多くなってきて、傘なしで雨中を歩くのはしんどくなってきますから、そうした点からも、やはり、この絵も4月末より少し早い穀雨の頃の風景と考えるのが妥当でしょう。

 ちなみに、年によって若干の差があるものの、今年を含め、穀雨はたいてい4月20日です。“郵政記念日”と同じ日というのは偶然でしょうが、三代広重が描いた駅逓寮の絵をみていると、彼がその場所にいたのは、まさに穀雨の4月20日でなかったかと、ついつい根拠もないままに想像してみたくなるのでした。


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 日本近代文学館50年
2017-04-11 Tue 09:34
 1967年4月11日に日本近代文学館が開館してから、今日で50年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      日本近代文学館開館

 これは、1967年4月11日に発行された“日本近代文学館開館”の記念切手です。

 明治維新からほぼ一世紀が過ぎた1960年代に入ると、明治以降の近代文学に関する資料の散逸が各方面で問題視されるようになりました。このため、作家の高見順や小田切進らの間で、1961年頃、近代文学に関するあらゆる資料を広く収集・保存し、一般の閲覧に供するために“日本近代文学館”を設立しようというプランが持ちあがります。

 その実現に向けて、1962年7月、高見順、伊藤整、小田切進、久松潜一、稲垣達郎らを発起人として「日本にはまだ近代文学の関係資料を保存する専門図書館がありません」との書き出しで始まる「日本近代文学館設立趣意書」が発表され、文学館建設に向けての具体的な活動が開始されました。この呼びかけに対しては、早くも1962年末までに1100万円の基金や4万点の図書雑誌類が寄贈され、翌1963年4月、これを基にして財団法人・日本近代文学館が設立されます。

 こうして、本格的な文学館建設のための準備作業が本格的に開始され、その第一段階として、1964年11月、東京の上野図書館(国立国会図書館支部・上野図書館)内に日本近代文学館文庫が設けられました。

 文学館の建物の建設は、翌1965年8月16日から東京・目黒区の東京都立駒場公園内で工事が開始されました。その後、2年弱の年月と7億円の総工費をかけて、1967年4月11日、地上2階・地下3階で閲覧室・書庫(収容能力50万冊)・資料室(収容能力10万点)・ホール・研究室などを備えた、わが国最初の近代文学専門図書館として“日本近代文学館”が開館しました。なお、初代理事長は作家の伊藤整でした。

 日本近代文学館の開館に際して記念切手を発行することは、1967年1月22日に開催された郵政審議会専門委員会打合会で正式に決定されましたが、発行期日を勘案すると、切手制作のための準備はその前から内々に進められていたと見るのが自然でしょう。

 記念切手は、文学館の全景を描いたもので原画作者は久野実です。一方、切手発行と同時に用いられた特印は、夏目漱石の『吾輩は猫である』初版本の表紙に森鴎外と樋口一葉の印影を配したもので、こちらは大塚均がデザインしました。

 今回の記念切手に関しては、文学館の建物をストレートに描いた図案が安易だとの批判も一部にありましたが、文学館そのものへの社会的な関心の高さもあって売れ行きは好調だったようで、発行早々、売り切れとなった郵便局も少なからずあったと報告されています。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” スタート! ★★★ 

 4月13日(木)から、NHKラジオ第1放送で、隔週木曜日の16時台前半、内藤がレギュラー出演する「切手でひも解く世界の歴史」スタートがします。初回は、13日がタイの水かけ祭“ソンクラーン”の日なので、16:05から、タイの切手のお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。


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