FC2ブログ
内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 大坂なおみ、全米OPで優勝
2018-09-10 Mon 02:37
 テニスの全米オープンは、きのう(現地時間8日・日本時間9日)、女子シングルス決勝で大坂なおみがセリーナ・ウィリアムズに6-2、6-4でストレート勝ちし、日本選手初のグランドスラム制覇の快挙を達成しました。というわけで、日本の女子テニスの切手ということで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      第26回国体

 これは、1971年10月24日に発行された第26回国民体育大会(国体)の記念切手で、潮岬灯台を背景に、軟式テニスの女子選手と開催地和歌山県の県花、梅の花が描かれています。

 1971年の秋季国体は、和歌山県下19市町村の会場で、10月24日から29日までの6日間、1万6689名の参加を得て開催されました。テーマは“黒潮国体”、スローガンは“明るく・豊かに・たくましく”で、開催県の和歌山県は天皇杯を獲得しています。

 切手に取り上げられている軟式テニスは2人1組になって相手チームと対戦しますが、切手に描かれている女子選手はボールを握っていることから、後衛のポジション(当時のルールでは後衛しかサーブ権がなかった)です。また、彼女の用いているラケットは、その形状から、軟式テニスの世界では“幻の名品”と呼ばれているカワサキラケットの“ニューナンバーワン”と思われます。

 背景に描かれている潮岬灯台は、本州最南端に位置する潮岬に設置されているもので、1873年9月に正式点灯されました。1928年に電化され、1957年に90センチの回転式に変更され、現在では光度97万力ンデラ、光達距離十九海里の能力を有しています。

 なお、この切手を含む書状料金15円時代の記念特殊切手については、拙著『一億総切手狂の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。 
 

★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

スポンサーサイト
別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 切手歳時記:甲子園
2018-08-05 Sun 00:32
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      第50回全国高等学校野球選手権大会(連刷)

 これは、1968年8月9日に発行された“第50回全国高等学校野球選手権大会”の記念切手です。

 “夏の甲子園”こと全国高等学校野球選手権大会のルーツは、1915年8月、大阪朝日新聞社主催、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の豊中グラウンドで行われた“第1回中等学校優勝野球大会”です。

 明治の末以降、郊外から都市部への通勤・通学が増えると、彼らを対象に民間の郊外鉄道が生まれました。鉄道会社は、通勤・通学客が激減する休日対策として、沿線に娯楽施設を設け、需要の掘り起こしに努めます。かつて、プロ野球チームのオーナーに、近鉄、国鉄、南海、阪急など鉄道会社が多かったのは、野球がそのための重要なコンテンツだったからです。

 豊中での野球大会も、そうした発想の下、箕面有馬電気軌道が大阪朝日新聞に持ちかけて実現に至ったものですが、肝心のグラウンドが手狭だったため、1917年、会場は阪神電鉄が所有する鳴尾運動場に移されます。

 さらに、武庫川の改良工事で、支流の枝川・申川が埋め立てられると、その河川敷跡を購入した阪神電鉄は、旧枝川・旧申川の分流点があった付近に大野球場を建設。野球場は、1924年、すなわち、十干十二支の始まりにあたる甲子の年に完成したことから、甲子園球場と命名され、同年開催の大会から使用されました。

 以後、“夏の甲子園”は風物詩として定着し、1941-45年の戦争による中断を挟んで、2018年8月5日、第100回大会が開幕します。なお、学制改革に伴い、現在の“全国高等学校野球選手権大会”となったのは1948年のことで、それから20年後の1968年の第50回大会に際しては、優勝旗を背景にした投手と、記念の人文字を描く記念切手も発行されました。(今回ご紹介の切手です)

 ところで、切手に描かれた球児たちは“甲子園の土”を記念に持ち帰ったはずですが、そもそも、“甲子園の土”を持ち帰る習慣がいつ始まったのかは、定かではありません。

 打撃の神様・川上哲治は、熊本工業の投手として出場し、準優勝した1937年、他の選手の真似をして“甲子園の土”をポケットに入れ、母校の練習場にまいたというから、戦前から、すでに、一部で“甲子園の土”を持ち帰ることがあったようです。

 終戦直後の1946年には、準決勝で敗れた東京高等師範附属中(現・筑波大学附属中高)の選手達が、次回また返しに来るという意味で足下の土を持ち帰ったとの記録があります。ただし、当時の甲子園球場は米軍が接収しており、大会は阪急西宮球場で行われたから、これは“甲子園の土”ではありません。

 ちなみに、文献上の記録では、1949年、準々決勝で敗れた小倉北の投手、福嶋一雄がホームベース後方で無意識に足元の土を摘んでポケットに入れたのを、帰郷後、大会役員からの速達で気付き(本人よりも先に自宅に届いたらしい)、ユニフォームから取り出して自宅の植木鉢に入れたのが“甲子園の土”を持ち帰った最初の例とされています。

 しかし、“甲子園の土”を一躍有名にしたのは、1958年、復帰前の沖縄から初出場した首里の選手たちが、1回戦で敦賀(福井)に敗れ、甲子園の土を持ち帰ろうとしたものの、検疫の関係で沖縄に持ち帰れなかったというエピソードでしょう。

 “外国”の土を持ち込もうとすれば、検疫で没収・処分されるのは万国共通で、当時の沖縄の係官は申し訳なさそうに「規則なので…」といって没収したそうです。しかし、この一件は、沖縄の悲劇を象徴するものとして大々的に報じられ、“甲子園の土”が広く知られるようになるとともに、沖縄の祖国復帰運動を加速させる契機になったともいわれています。

 
★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 郵便番号50年
2018-07-01 Sun 00:24
 1968年7月1日にわが国で郵便番号制度が導入されてから、きょう(1日)でちょうど50年です。というわけで、きょうは今月20-22日に東京・錦糸町すみだ産業会館で開催の全日本切手展での宮崎博司さんの招待展示「郵便番号50周年」のなかから、こんなモノをご紹介しします。(画像はクリックで拡大されます)

      郵便番号初日印・番号簿  郵便番号初日印・番号簿部分

 これは、制度スタート時の『郵便番号住所録』に、郵便番号宣伝の切手(第1次)を貼り、発行初日(=郵便番号制度の初日)の消印を押した記念品です。

 いわゆる高度経済成長の進展に伴い、昭和30年度に48億5500万通だった郵便物の取扱量は、昭和41年度には98億2200万通にまで膨れ上がりました。これに対して、1955年に7万4132名だった郵政職員の数は、1966年の時点で11万3530名までしか増えておらず、従来どおりのやり方では郵便の処理能力は限界に到達することが懸念されていました。

 こうした状況を踏まえ、郵政省は、郵便の機械化を本格的に検討するようになります。

 その作業が本格的に始まったのは1965年のことで、開発を請け負った東芝は、郵政省の指導のもとに、柳町工場(現・機器事業部)と総合研究所(現・研究開発センター)でプロジェクトを編成。まず郵便局内の作業を系統的に分析し、郵便物自動読取区分機(TR)、郵便物自動取揃押印機(TC)、郵便物自動選別機(TS)の順に開発を進めました。

 このうち、郵便物自動読取区分機は、局内作業のうち最も労力のかかる郵便物の区分を機械化するもので、そのために、全国の集配局の配達担当区域に3桁ないしは5桁の郵便番号が割り振られることになりました。機械は、利用者が郵便物に記載した郵便番号を読み取って区分作業を行うというシステムになっていたためです。こうして、1966年、制限手書数字を読取る最初の試作機が完成。さらに、翌1967年には、世界初の手書き文字読取試作機TR-2型が完成します。
 
 一方、番号の割り振りに関しては、当時の郵便輸送の主力であった鉄道郵便輸送の担当部門が担当しました。当初は、郵便番号と電話番号を連動させる(これだと、東京は03になる)ことも検討されましたが、郵務局長の曾山克巳が「第一師団は東京」と主張したことから、東京を“1”で始まる番号とすることが決まりました。ついで、東京を起点として、鉄道路線に沿って、東京-門司線方面の都府県には上1桁に1、2、4、5、6、7、8を、東京-青森線方面の都道県には上1桁に1、3、9、0を割り当てたうえで、全国を97に分けた地域番号が割り振られます。上から3桁目の数字は、比較的大きな規模の集配局の配達担当区域を示すもので、必要に応じて、直接配達を行う小規模の集配局の担当区域に対して2桁の小番号が与えられるという仕組みが取られました。

 こうした経緯を経て、1968年7月1日、日本の郵便番号制度がスタートします。ちなみに、世界で最初に郵便番号制度を導入したのは英国(1959年)で、ついで、西ドイツ、米国、スイス、東ドイツ、フランス、オーストリアの各国がこれに続き、日本での制度開始は世界で8番目でした。

 郵便番号制度の導入にあわせて、新制度を宣伝するための切手を発行するというプランは、1968年1月12日に昭和43年度の記念・特殊切手の発行計画が大臣決裁を受けた段階では、関係者の間でも具体的には固まっていなかったようで、1月18日に発表された新年度の切手発行計画には、郵便番号宣伝の切手についての記載はありません。

 その後、年度が改まった4月1日から、郵政省は本格的な郵便番号普及のキャンペーンを開始しますが、4月25日、全日本切手展(全日展)の表彰式に郵務局長として出席した曾山克巳は、挨拶の中で郵便番号制度の実施に触れ、制度を宣伝するための“普通切手(本人談)”を発行すると発言。5月23日には、7月1日の制度開始にあわせて7円および15円の宣伝切手を各2種(計4種)発行することが正式に発表されました。

 切手の原画は久野実が制作し、いずれの額面も、数字で描いた日本地図に郵便番号のシンボルマークである“ナンバーくん”を配したデザインになっています。なお、今回ご紹介の『住所録』の表紙イラストの地図と郵便番号と比べてみると、切手の地図に配された番号を郵便番号の配置は、関係があるような無いような、微妙な感じですな。

 また、切手の下部には「あて名には郵便番号を」と「あなたの住所にも郵便番号を」の スローガンが交互に入れられました。郵政省が発表した原画写真を詳細に検討すると、切手の原画としては、15円の「あて名には郵便番号を」の切手がオリジナルで、あとは、文字部分を差し替えたほか、15円切手と7円切手で刷色が変更されただけであることが分かります。

 切手に取り上げられたナンバーくんは、もともとは、前年の1966年7月に導入された定型郵便制度をアピールするためのキャラクターとして、木村恒久をディレクターに迎え、イラストレーターの松野のぼるが制作したものです。1966年8月11日から1ヶ月間、東京・大阪で週4回、テレビに登場しました。これが好評だったため、郵政省は、引き続き、1976年以降、このキャラクターを郵便番号の宣伝のために積極的に活用していました。

 その後、1968年に入ってから、地域ごとの郵便番号の割り当てが完了したことを受けて、キャラクターの胴体に当たる封筒の左下にあった“456101”の数字が削除され、デザインが確定しています。ただし、切手の発行が発表された5月23日の時点では、このキャラクターには決まった名称がなく(そのため、民間ではさまざまな名前で呼ばれていました)、郵政省の報道発表でも“郵便番号シンボルマーク”と説明されています。

 ちなみに、“ナンバーくん”との呼称は、1968年4月20日から6月20日までの間に行われた愛称公募の結果、1103通を集めて1位になったものが採用されたもので、その発表は、切手発行後の7月5日のことでした。

 さて、7月20日からの全日本切手展で展示予定の宮崎コレクションでは、郵便番号宣伝の切手のみならず、当時の関連資料などを展示する予定です。ぜひ、会場にて実物をご覧いただけると幸いです。


★★★ 全日本切手展のご案内  ★★★ 

 7月20-22日(金-日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにチェコ切手展が開催されます。主催団体の一つである全日本郵趣連合のサイトのほか、全日本切手展のフェイスブック・サイト(どなたでもご覧になれます)にて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2018ポスター

 *画像は実行委員会が制作したポスターです。クリックで拡大してご覧ください。


★★★ 近刊予告! ★★★

 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。 

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 三の酉
2017-11-30 Thu 00:17
 【謹告】 本日(30日)16:05~  NHKラジオ第1放送で放送予定だった「切手でひも解く世界の歴史」は、国会中継のため、放送が休止となりました。あしからずご了承ください。なお、次回の「切手でひも解く世界の歴史」は、12月14日の予定です。

 というわけで、きょうは三の酉でもありますし、国会議事堂と3羽の鳥の組み合わせということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      議会開設80年

 これは、1970年11月29日に発行された“議会開設80年”の記念切手です。

 1970年は、1980年11月29日に第1回帝国議会の開院式が行われてから80周年にあたっていました。

 このため、これを記念して衆参両院では記念式典が行われました。80周年といういささか半端な年回りで記念式典が行われたのは、沖縄の祖国復帰が決定されたことを受けて、1970年11月に戦後初の沖縄の国政参加選挙が行われ 、次回国会からその代表が審議に加わることを記念する意味合いも込められていたためです。

 なお、記念事業の一環として、1960年に開館した尾崎記念館の北側に憲政記念館を建設することが決定されました。憲政記念館は、1972年3月に開館し、国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介するとともに、憲政の歴史や憲政功労者に関係のある資料を収集して常時展示するほか、特別展などが開催されています。なお、憲政記念館の開館に伴い、尾崎記念館は同館に吸収・統合されることになりました。

 さて、当時の郵政省には、周年記念切手を発行する場合には、原則として四半世紀ごとの節目にあわせるという基準がありました。このため、80周年という年回りは、本来、記念切手発行のタイミングとはならないはずなのですが、衆参両院は、1960年に“議会開設七十年”の記念切手が発行された先例 を理由に、7月10日、郵政省に対して記念切手の発行申請を提出。郵政省にこれを呑ませています。なお、国会側は“議会開設七十周年”の時の先例に倣って、今回の記念切手も2種類発行することを希望していましたが、製造日数の関係からそれは不可能なため、一種のみの発行となりました。

 11月29日の記念式典当日に発行された切手は国会議事堂と祝賀のテープをくわえた鳩を描くもので、武荒勧嗣が原画を制作しました。発行枚数は、当初は2100万枚と発表されましたが、後に増刷されて最終的に2400万枚となっています。

 ちなみに、今回ご紹介の切手を含め、書状基本料金15円時代の記念切手については、拙著『一億層切手狂の時代』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。


別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 切手歳時記:竿燈
2017-08-04 Fri 07:42
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      大阪万博・竿燈

 これは、1970年6月15日に発行された大阪万博の記念切手(第2次)のうち、竿燈とパビリオンを取り上げた7円切手です。

 毎年8月3-6日に秋田県秋田市で行われる“秋田竿燈まつり”は、竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈る祭です。

 秋田には、すでに江戸時代以前から“ねぶりながし”の習慣がありました。“ねぶり”とは“眠り”のことで、黄泉や常夜の意味でもあります。そこから、“ねぶりながし”は「黄泉の穢れを祓いて水に流す行事」として、古くは七夕に笹や合歓木に願い事を書いた短冊を下げ、それを手に練り歩いたうえ、川へ流して邪気を払っていたといわれています。

 その後、宝暦年間(1751-64)になると、蝋燭が普及したこともあって、外町(町人街)の町人が、五穀豊穣や無病息災などを願い、お盆を前に、門前に立てる高灯籠を持ち歩けるようにしたのが、現在の竿燈の原型となりました。

 1789年に津村淙庵が著した『雪の降る道』には、秋田独自の風俗として、陰暦7月6日の“ねぶりながし”が紹介されていますが、同書には、長い竿を十文字に構え、それに燈火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩くようすが記されています。

 ちなみに、“竿燈”という言葉は、1881年に秋田日報を創刊した大久保鐵作が、中国・北宋の禅僧、道原が11世紀初に編纂した燈史『景徳傳燈録』に記述のある“百尺竿頭須進歩”からヒントを得て命名したもので、江戸時代には、提灯をつけた竿は、作り燈籠、ネブリナガシ、七夕などの名前で呼ばれていました。

 しかし、大久保が竿燈という言葉を考案した頃から、皮肉にも、秋田の竿燈は徐々に下火になっていきます。この頃から、市内に電灯がともり、電線が張り巡らされて物理的に竿燈を掲げることが難しくなったためです。このため、1902年には、発祥の地である外町通りでの竿燈が廃止。翌年からは竿燈は楢山グランドに場所を移して行われたものの、下駄履きで歩き回るためにグランドが荒れることから、グランド側は3年間で竿燈に場所を貸すことを拒否するようになりました。そこで、再び、外町が竿燈の会場となったものの、電線の折損事故が絶えず、1907年には千秋公園二の丸が会場となります。

 こうして、一時は存続の危機に瀕した竿燈でしたが、1908年、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東北行啓の際に台覧の栄に浴し、また、大正時代に入ると他県からの観光客も訪れるようになったことで、次第に活気を取り戻していきます。こうした事情を踏まえて、1931年には秋田市竿燈会が結成されました。

 その後、1937年に日中戦争(支那事変)が始まると、1945年の終戦まで竿燈は中断されましたが、終戦後すぐに早坂吉助会長以下、竿燈会は竿燈の復活に向け動き出し、早くも翌年にはまつりを復活させます。ただし、当時は提灯に必要な紙や油も不足していたため、1946年のまつりの開催は、例年より大幅に遅い、9月29日となりました。

 復活当初は1日だけだった竿燈まつりは、1954年からは2日間、1964年からは3日間に拡大され、1988年以降は、現在と同じ4日間となっています。この間、1970年の大阪万博に際しては、会場内お祭り広場で披露された日本各地の祭りを代表して、記念切手にも取り上げられ、その知名度は全世界に広がることになりました。

 ちなみに、竿燈は大きさにより、大若、中若、小若、幼若に分けられます。提灯の数は、大若と中若が最上段2個、二段目4個、3-8段目6個、最下段(9段目)4個、小若と幼若は最上段2個、2段目-6段目4個、最下段(7段目)2個という構成ですが、今回ご紹介の切手では、デザイン上の都合から、最下段に6個の提灯が下げられています。
 

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 民生委員100年
2017-05-12 Fri 10:16
  民生委員制度のルーツとなる済世顧問制度が、1917年5月12日に設立されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      民生委員制度50年

 これは、1967年5月12日に発行された“民生委員制度50年”の記念切手です。

 民生委員とは、民生委員法に基づき市町村の区域に配置されている民間のボランティア委員で、その職務は、①住民の生活状態を必要に応じて適切に把握しておくこと、②援助を必要とする者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように生活に関する相談に応じ、助言その他の援助を行うこと、③援助を必要とする者が福祉サービスを適切に利用するために必要な情報の提供その他の援助を行うこと、④社会福祉を目的とする事業を経営する者又は社会福祉に関する活動を行う者と密接に連携し、その事業又は活動を支援すること、⑤福祉事務所その他の関係行政機関の業務に協力すること、などとされています。

 民生委員制度のルーツは、1917年5月12日に設立された済世顧問制度です。

 1916年5月、大正天皇ご臨席の下で行われた全国地方長官会議の際、天皇から岡山県知事笠井信一に対して、県下の生活困窮者の状況についてのご下問がありました。これを受けて、笠井が調査したところ、県民の約一割が極貧層である事実が判明。驚愕した笠井は、恒久的な防貧対策として、翌1917年5月、済世顧問制度を実施しました。

 翌1918年には、これにならい、東京府が慈善協会救済委員措置を施行するとともに、悲惨な夕刊売りの母子の姿に同情した大阪府知事の林市蔵が方面委員制度を設け、これが各府県に普及。1928年には方面委員制度は日本全国をカバーするようになりました。

 方面委員は、現在の生活保護法の前身にあたる救護法の制定に尽力したほか、戦時中は母子保護法、医療保護法、軍事扶助法などに協力。戦後の1946年には民生委員として改組されました。

 1947年に児童福祉法が制定されると、民生委員は児童福祉法による児童委員(地域の児童および妊産婦の健康状態、生活状態を把握して、必要な援助を受けられるようにしたり、福祉サービスを行なう者との連絡調整を行なったりする民間ボランティア委員)を兼ねるようになり、地域の社会福祉事業の最前線の担い手となっています。
 
 今回ご紹介の記念切手は、済世顧問制度の発足から50周年になるのを記念して発行されたもので、切手発行日の1967年5月12日には、制度発祥の地の岡山市民会館で記念式典が行われました。

 切手に描かれているのは民生委員の記章です。このデザインは、1960年の公募作品のうちの優秀作品をもとにつくられたもので、幸福をあらわす四葉のクローバーの中に図案化されたハト(児童委員としての双葉=児童と、民生委員の“み”の意味も兼ねています)が描かれています。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 切手歳時記:春雨じゃ 濡れてまいろう
2017-04-20 Thu 06:20
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年4月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      文通週間・駅逓寮

 これは、1970年に発行された国際文通週間の切手で、三代広重の『東京府下名所尽』の中から「四日市駅逓寮」が取り上げられています。

 きょう(20日)は「雨が降り百穀を潤す」とされる二十四節季の“穀雨”ですが、毎年、この時季は春雨の日が多くなります。

 もともと、春雨は“はる”と“さめ”を意味する「春小雨」と書かれていましたが、なるほど、小ぬか雨とも呼ばれるだけあって、穀雨の頃の雨は雨粒が小さく、柔らかに降るイメージがありますね。

 芝居の月形半平太は、京・三条の宿を出るときに、馴染みの舞妓、雛菊から「月様、雨が…」と声を掛けられ、「春雨じゃ 濡れてまいろう」と応ずるのが定番です。半平太のような色男の口から出ると、何とも粋な雰囲気になる台詞ですが、国語学者の金田一晴彦に言わせると、「これは春の京都に多い霧雨なので、傘をさしたところで濡れてしまう」ということなのだとか。

 身もふたもない説明ですが、それなら、春雨の街角には傘を差す人と差さぬ人が同じくらい歩いている風景というのがあってもよさそうなもので、なにかないかと考えていて、ふと思いついたのが、今回ご紹介の切手に取り上げられている「四日市駅逓寮」だったわけです。

 『東京府下名所尽』は1874年5月に刊行された作品。“駅逓寮”は、明治4年3月1日(1871年4月20日)に日本の近代郵便が創業されたときの“駅逓司”が同年8月に昇格して生まれた組織で、切手に取り上げられた庁舎はこの絵が刊行される前月の1874年4月に完成したばかりでした。

 郵便創業当時、駅逓司(後に駅逓寮)と東京郵便役所(現在の中央郵便局に相当)は四日市、すなわち、現在の東京都中央区の江戸橋南詰付近に置かれていました。当初の駅逓司の建物は、旧幕府の老朽化した魚納屋役場を改造したもので、駅逓頭・前島密の机も押入れを改造した中に置かれているというありさまでした。

 その後、郵便事業の発展とともに、駅逓寮の局舎も近代的なものに改築する計画が持ち上がり、1874年4月30日、瓦葺き木造漆喰仕上げ二階建ての洋風建築が完成します。入口上部の切妻中央に設置された直径4尺の舶来時計は時を知らせ、文明開化のシンボルとして、東京名所の一つでした。ただし、この建物は1888年2月の火災で焼失。現在、その跡地には日本橋郵便局が建てられ、その正面玄関には“郵便発祥の地”と記された石碑がはめ込まれています。

 三代広重の作品を見ると、玄関脇に満開の桜の木が一本植わっています。さすがに、4月末の竣工時には桜は散っていたでしょうから、あるいは、建物の外観ができあがった時点で絵筆をとったのではないかと推測できます。

 往来には傘を差した人物が3人ほど歩いていますが、画面手前の丁髷と思しき男衆(1871年に断髪令が出された後も丁髷を結ったままの人は多く、8割が断髪するまでには10年近くが必要だったそうです)は傘を差していません。

 新国劇で『月形半平太』が初演され、「春雨じゃ~」の名台詞が生まれたのは1919年のことでしたから、丁髷の彼らは、雛菊・半平太の物語など知る由もなく、春雨に濡れて歩いていたということになります。

 穀雨が過ぎると、だんだんと雨量が多くなってきて、傘なしで雨中を歩くのはしんどくなってきますから、そうした点からも、やはり、この絵も4月末より少し早い穀雨の頃の風景と考えるのが妥当でしょう。

 ちなみに、年によって若干の差があるものの、今年を含め、穀雨はたいてい4月20日です。“郵政記念日”と同じ日というのは偶然でしょうが、三代広重が描いた駅逓寮の絵をみていると、彼がその場所にいたのは、まさに穀雨の4月20日でなかったかと、ついつい根拠もないままに想像してみたくなるのでした。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 日本近代文学館50年
2017-04-11 Tue 09:34
 1967年4月11日に日本近代文学館が開館してから、今日で50年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      日本近代文学館開館

 これは、1967年4月11日に発行された“日本近代文学館開館”の記念切手です。

 明治維新からほぼ一世紀が過ぎた1960年代に入ると、明治以降の近代文学に関する資料の散逸が各方面で問題視されるようになりました。このため、作家の高見順や小田切進らの間で、1961年頃、近代文学に関するあらゆる資料を広く収集・保存し、一般の閲覧に供するために“日本近代文学館”を設立しようというプランが持ちあがります。

 その実現に向けて、1962年7月、高見順、伊藤整、小田切進、久松潜一、稲垣達郎らを発起人として「日本にはまだ近代文学の関係資料を保存する専門図書館がありません」との書き出しで始まる「日本近代文学館設立趣意書」が発表され、文学館建設に向けての具体的な活動が開始されました。この呼びかけに対しては、早くも1962年末までに1100万円の基金や4万点の図書雑誌類が寄贈され、翌1963年4月、これを基にして財団法人・日本近代文学館が設立されます。

 こうして、本格的な文学館建設のための準備作業が本格的に開始され、その第一段階として、1964年11月、東京の上野図書館(国立国会図書館支部・上野図書館)内に日本近代文学館文庫が設けられました。

 文学館の建物の建設は、翌1965年8月16日から東京・目黒区の東京都立駒場公園内で工事が開始されました。その後、2年弱の年月と7億円の総工費をかけて、1967年4月11日、地上2階・地下3階で閲覧室・書庫(収容能力50万冊)・資料室(収容能力10万点)・ホール・研究室などを備えた、わが国最初の近代文学専門図書館として“日本近代文学館”が開館しました。なお、初代理事長は作家の伊藤整でした。

 日本近代文学館の開館に際して記念切手を発行することは、1967年1月22日に開催された郵政審議会専門委員会打合会で正式に決定されましたが、発行期日を勘案すると、切手制作のための準備はその前から内々に進められていたと見るのが自然でしょう。

 記念切手は、文学館の全景を描いたもので原画作者は久野実です。一方、切手発行と同時に用いられた特印は、夏目漱石の『吾輩は猫である』初版本の表紙に森鴎外と樋口一葉の印影を配したもので、こちらは大塚均がデザインしました。

 今回の記念切手に関しては、文学館の建物をストレートに描いた図案が安易だとの批判も一部にありましたが、文学館そのものへの社会的な関心の高さもあって売れ行きは好調だったようで、発行早々、売り切れとなった郵便局も少なからずあったと報告されています。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” スタート! ★★★ 

 4月13日(木)から、NHKラジオ第1放送で、隔週木曜日の16時台前半、内藤がレギュラー出演する「切手でひも解く世界の歴史」スタートがします。初回は、13日がタイの水かけ祭“ソンクラーン”の日なので、16:05から、タイの切手のお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 切手歳時記:ホタルイカ
2017-03-07 Tue 10:47
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年3月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホタルイカ

 これは、1966年7月1日に発行されたホタルイカの35円切手(普通切手)です。

 ことしも、3月1日、富山湾のホタルイカ漁が解禁になりました。

 ホタルイカの水揚量が日本で最も多いのは浜坂漁港をはじめとする兵庫県ですが(富山県は第2位)、富山湾のものは身が大きく、ミソも詰まっていて美味なので、人気があります。

 富山湾の常願寺川の河口左岸から魚津港までの15 km、満潮時の沖合1260 m までの海域では、毎年春の宵、 ホタルイカの雌が産卵のため深海200-600 m から浮上して浅瀬に密集し、翌未明には沖へ帰っていきます。これが、国の特別天然記念物に指定されている“ホタルイカ群遊海面”です。ちなみに、天然記念物に指定されているのは、ホタルイカそのものはではなく、ホタルイカのいる海面なので、ホタルイカを食べることはなんら問題ありません。

 富山湾のホタルイカ漁は、こうしてやってきたホタルイカを、夜間、定置網で獲るため、網にかかるのはほとんどが雌になります。ちなみに、ホタルイカは雄よりも雌が大きく、味も雌が美味。また、定置網漁だと、小さく繊細なホタルイカの身が他の魚に傷つけられることも少ないというメリットがあります。

 一方、他の地域のホタルイカ漁は、日中、底引き網でごっそり獲るので、雌雄が半々になるだけでなく、他の魚が網に入ってホタルイカの身が傷むことも少なくありません。

 富山産のホタルイカが人気を集めているのは、こうした事情によるものです。

 ホタルイカはすぐに傷んでしまうため、産地以外でも春の味覚として楽しめるようになったのは、冷蔵・運搬技術が発達した近年のことです。このため、かつてのホタルイカは肥料として使われることも多く、富山地方では、このイカを松の肥料として使っていたため“マツイカ”と呼んでいたとのだとか。ちなみに、ホタルイカとの名前は、1905年、生物学者の渡瀬庄三郎が命名したもので、学名は渡瀬にちなんでWatasenia scintillansといいます。

 僕が子供の頃は、東京でホタルイカというと、沖漬けの瓶詰くらいしか手に入りませんでした(少なくとも、わが家ではそうでした)から、大学生になって、居酒屋で初めてホタルイカの酢味噌和えを食べたときは、今回ご紹介の切手の印象とだいぶ違うことに、ちょっと面食らった記憶があります。切手のイカは、いかにもイカらしくスリムな体型で、画面の印象からも、スルメイカ程度の大きさがあるような雰囲気ですが、実際に出てきたイカはかなり小ぶりで、ぷっくらと丸みを帯びた胴が印象的でしたから…。いまから思うと、あるいは、切手のイカは富山湾で獲れた雌ではなく、他の地域で獲れた雄がモデルになっていたのかもしれません。

 切手ではわかりづらいが、ホタルイカの触手の先には、それぞれ、3個の発光器がついていて、なにかに触ると光る仕組になっています。また、体表の海底側(腹側)にも細かい発光器がありますが、これは海底側にいる敵に対して光る姿を見せ、海面からの光に溶け込んで敵の目をくらますためのものです。

 海中のホタルイカは月の光を目印に自分の位置を把握しているらしく、月明かりのない新月の夜は、方向を見失って、棲家である深海へ戻ることができなくなります。このため、産卵を終えて力尽きた雌は光を放ったまま砂浜に打ち上げられ、“ホタルイカの身投げ”と呼ばれる光景が見られます。

 もっとも、ホタルイカを肴にちょっと一献のつもりが、ついつい杯を重ねすぎ、風呂も入らずテカリ顔のまま、自宅の玄関先でひっくり返っている僕の場合は、さしずめ“ホタルイカ身投げ”ということになりましょうか。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 高橋みなみのこれから何する?
2016-11-28 Mon 13:37
 本日(28日)13:15すぎから、TOKYO FMのラジオ番組「高橋みなみのこれから何する?」に内藤が電話生出演いたしました。テーマは「年賀状1月2日配達取りやめ」について。というわけで、きょうは“1月2日”の消印が押された切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      1月2日・伏見局機械印

 これは、1970年1月2日の機械印が押された7円切手です。

 1月2日の年賀状の配達は、1974年から2004年まで休止されていましたが、2005年から“民営化”を前にしたサービス向上のために復活していました。しかし、年賀状の数がピークから大幅に減少したうえ、昨今、人件費も上昇していることから、コスト削減のため、2017年から、1月2日の年賀状の配達は再び休止されることになりました。なお、郵便物の集荷や書留便などの配達、郵便局内の処理作業などは、従来通り、1月2日も行われます。

 ちなみに、1974年から1月2日の年賀状配達が休止されたのは、1973年に全逓信従業員組合(全逓)が展開した“73年末闘争”の結果です。すなわち、この時の闘争で、全逓側は、インフレ手当0.5ヶ月、週休2日制、1月2日・3日休配を中心的な要求として掲げ、突如、意図的に郵便物を滞留させる“電撃的物ダメ”戦術を展開。この結果、インフレ手当0.5ヶ月、1979年9月から4週間に1回の非番日を実施、1月2日の休配が労働者の権利として認められ、2004年まで、1月2日には年賀状の配達が行われないという慣行が続いていたわけです。

 かつて、春闘が盛んだったころには、毎春のように、国鉄をはじめとする鉄道・バスのストライキがありましたが、全逓は、郵便事業の一番の書き入れ時である年賀状の時期を闘争の重要な時期と位置付けており、戦後の年賀状の歴史にもさまざまな影響を及ぼしています。

 たとえば、戦時中および終戦直後の年賀郵便の特別取扱が中断されていた時期を除き、1935年末から、指定の期間内に差し出された年賀状には絵入り年賀印が押されていました。ところが、1956-57年の年末年始、全逓は年末手当2ヵ月分の獲得と特定郵便局長の官制化、特別職法案に対する反対などを主張し、要求が入れられない場合には「年賀はがきを超勤拒否によりストップする」として賜暇戦術をとったため、1957年の年賀状には絵入りの年賀印は使用できませんでした。この結果、翌1958年の年賀状からは、櫛形印・機械印ともに毎年使用できるよう、時刻欄に“年賀”の文字が入ったものが使われるようになりました。その後、1962年の年賀状からは、年賀郵便特別取扱期間(当時は12月15-28日)に引き受けた官製年賀はがきへの消印そのものも省略されるようになります。

 また、全逓の年末闘争が特に激しかったのは、1959年と1978年の年末で、1960年と1979年には元日に配達されなかった年賀状がかなりの数に上りました。特に、1979年は年賀状の遅配が相当数に上ったため、お年玉くじの抽選会も当初予定の1月15日から同31日に延期され、小型シートの交換開始も、1月20日から2月5日に変更されたほどでした。

 なお、このあたりの事情については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 番組が無事に終了しましたので、記事内容を告知から、放送内容を補足するものに変更して再アップしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


★★★ ブラジル大使館推薦! 内藤陽介の『リオデジャネイロ歴史紀行』  ★★★ 

       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


 ★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインよろしくポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | 日本:昭和・1966~1971 | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ | NEXT
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/