内藤陽介 Yosuke NAITO
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 切手歳時記:竿燈
2017-08-04 Fri 07:42
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年8月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      大阪万博・竿燈

 これは、1970年6月15日に発行された大阪万博の記念切手(第2次)のうち、竿燈とパビリオンを取り上げた7円切手です。

 毎年8月3-6日に秋田県秋田市で行われる“秋田竿燈まつり”は、竿燈全体を稲穂に、連なる提灯を米俵に見立て、額・腰・肩などにのせ、豊作を祈る祭です。

 秋田には、すでに江戸時代以前から“ねぶりながし”の習慣がありました。“ねぶり”とは“眠り”のことで、黄泉や常夜の意味でもあります。そこから、“ねぶりながし”は「黄泉の穢れを祓いて水に流す行事」として、古くは七夕に笹や合歓木に願い事を書いた短冊を下げ、それを手に練り歩いたうえ、川へ流して邪気を払っていたといわれています。

 その後、宝暦年間(1751-64)になると、蝋燭が普及したこともあって、外町(町人街)の町人が、五穀豊穣や無病息災などを願い、お盆を前に、門前に立てる高灯籠を持ち歩けるようにしたのが、現在の竿燈の原型となりました。

 1789年に津村淙庵が著した『雪の降る道』には、秋田独自の風俗として、陰暦7月6日の“ねぶりながし”が紹介されていますが、同書には、長い竿を十文字に構え、それに燈火を数多く付けて、太鼓を打ちながら町を練り歩くようすが記されています。

 ちなみに、“竿燈”という言葉は、1881年に秋田日報を創刊した大久保鐵作が、中国・北宋の禅僧、道原が11世紀初に編纂した燈史『景徳傳燈録』に記述のある“百尺竿頭須進歩”からヒントを得て命名したもので、江戸時代には、提灯をつけた竿は、作り燈籠、ネブリナガシ、七夕などの名前で呼ばれていました。

 しかし、大久保が竿燈という言葉を考案した頃から、皮肉にも、秋田の竿燈は徐々に下火になっていきます。この頃から、市内に電灯がともり、電線が張り巡らされて物理的に竿燈を掲げることが難しくなったためです。このため、1902年には、発祥の地である外町通りでの竿燈が廃止。翌年からは竿燈は楢山グランドに場所を移して行われたものの、下駄履きで歩き回るためにグランドが荒れることから、グランド側は3年間で竿燈に場所を貸すことを拒否するようになりました。そこで、再び、外町が竿燈の会場となったものの、電線の折損事故が絶えず、1907年には千秋公園二の丸が会場となります。

 こうして、一時は存続の危機に瀕した竿燈でしたが、1908年、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東北行啓の際に台覧の栄に浴し、また、大正時代に入ると他県からの観光客も訪れるようになったことで、次第に活気を取り戻していきます。こうした事情を踏まえて、1931年には秋田市竿燈会が結成されました。

 その後、1937年に日中戦争(支那事変)が始まると、1945年の終戦まで竿燈は中断されましたが、終戦後すぐに早坂吉助会長以下、竿燈会は竿燈の復活に向け動き出し、早くも翌年にはまつりを復活させます。ただし、当時は提灯に必要な紙や油も不足していたため、1946年のまつりの開催は、例年より大幅に遅い、9月29日となりました。

 復活当初は1日だけだった竿燈まつりは、1954年からは2日間、1964年からは3日間に拡大され、1988年以降は、現在と同じ4日間となっています。この間、1970年の大阪万博に際しては、会場内お祭り広場で披露された日本各地の祭りを代表して、記念切手にも取り上げられ、その知名度は全世界に広がることになりました。

 ちなみに、竿燈は大きさにより、大若、中若、小若、幼若に分けられます。提灯の数は、大若と中若が最上段2個、二段目4個、3-8段目6個、最下段(9段目)4個、小若と幼若は最上段2個、2段目-6段目4個、最下段(7段目)2個という構成ですが、今回ご紹介の切手では、デザイン上の都合から、最下段に6個の提灯が下げられています。
 

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 民生委員100年
2017-05-12 Fri 10:16
  民生委員制度のルーツとなる済世顧問制度が、1917年5月12日に設立されてから、今日でちょうど100年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      民生委員制度50年

 これは、1967年5月12日に発行された“民生委員制度50年”の記念切手です。

 民生委員とは、民生委員法に基づき市町村の区域に配置されている民間のボランティア委員で、その職務は、①住民の生活状態を必要に応じて適切に把握しておくこと、②援助を必要とする者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように生活に関する相談に応じ、助言その他の援助を行うこと、③援助を必要とする者が福祉サービスを適切に利用するために必要な情報の提供その他の援助を行うこと、④社会福祉を目的とする事業を経営する者又は社会福祉に関する活動を行う者と密接に連携し、その事業又は活動を支援すること、⑤福祉事務所その他の関係行政機関の業務に協力すること、などとされています。

 民生委員制度のルーツは、1917年5月12日に設立された済世顧問制度です。

 1916年5月、大正天皇ご臨席の下で行われた全国地方長官会議の際、天皇から岡山県知事笠井信一に対して、県下の生活困窮者の状況についてのご下問がありました。これを受けて、笠井が調査したところ、県民の約一割が極貧層である事実が判明。驚愕した笠井は、恒久的な防貧対策として、翌1917年5月、済世顧問制度を実施しました。

 翌1918年には、これにならい、東京府が慈善協会救済委員措置を施行するとともに、悲惨な夕刊売りの母子の姿に同情した大阪府知事の林市蔵が方面委員制度を設け、これが各府県に普及。1928年には方面委員制度は日本全国をカバーするようになりました。

 方面委員は、現在の生活保護法の前身にあたる救護法の制定に尽力したほか、戦時中は母子保護法、医療保護法、軍事扶助法などに協力。戦後の1946年には民生委員として改組されました。

 1947年に児童福祉法が制定されると、民生委員は児童福祉法による児童委員(地域の児童および妊産婦の健康状態、生活状態を把握して、必要な援助を受けられるようにしたり、福祉サービスを行なう者との連絡調整を行なったりする民間ボランティア委員)を兼ねるようになり、地域の社会福祉事業の最前線の担い手となっています。
 
 今回ご紹介の記念切手は、済世顧問制度の発足から50周年になるのを記念して発行されたもので、切手発行日の1967年5月12日には、制度発祥の地の岡山市民会館で記念式典が行われました。

 切手に描かれているのは民生委員の記章です。このデザインは、1960年の公募作品のうちの優秀作品をもとにつくられたもので、幸福をあらわす四葉のクローバーの中に図案化されたハト(児童委員としての双葉=児童と、民生委員の“み”の意味も兼ねています)が描かれています。


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 切手歳時記:春雨じゃ 濡れてまいろう
2017-04-20 Thu 06:20
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年4月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      文通週間・駅逓寮

 これは、1970年に発行された国際文通週間の切手で、三代広重の『東京府下名所尽』の中から「四日市駅逓寮」が取り上げられています。

 きょう(20日)は「雨が降り百穀を潤す」とされる二十四節季の“穀雨”ですが、毎年、この時季は春雨の日が多くなります。

 もともと、春雨は“はる”と“さめ”を意味する「春小雨」と書かれていましたが、なるほど、小ぬか雨とも呼ばれるだけあって、穀雨の頃の雨は雨粒が小さく、柔らかに降るイメージがありますね。

 芝居の月形半平太は、京・三条の宿を出るときに、馴染みの舞妓、雛菊から「月様、雨が…」と声を掛けられ、「春雨じゃ 濡れてまいろう」と応ずるのが定番です。半平太のような色男の口から出ると、何とも粋な雰囲気になる台詞ですが、国語学者の金田一晴彦に言わせると、「これは春の京都に多い霧雨なので、傘をさしたところで濡れてしまう」ということなのだとか。

 身もふたもない説明ですが、それなら、春雨の街角には傘を差す人と差さぬ人が同じくらい歩いている風景というのがあってもよさそうなもので、なにかないかと考えていて、ふと思いついたのが、今回ご紹介の切手に取り上げられている「四日市駅逓寮」だったわけです。

 『東京府下名所尽』は1874年5月に刊行された作品。“駅逓寮”は、明治4年3月1日(1871年4月20日)に日本の近代郵便が創業されたときの“駅逓司”が同年8月に昇格して生まれた組織で、切手に取り上げられた庁舎はこの絵が刊行される前月の1874年4月に完成したばかりでした。

 郵便創業当時、駅逓司(後に駅逓寮)と東京郵便役所(現在の中央郵便局に相当)は四日市、すなわち、現在の東京都中央区の江戸橋南詰付近に置かれていました。当初の駅逓司の建物は、旧幕府の老朽化した魚納屋役場を改造したもので、駅逓頭・前島密の机も押入れを改造した中に置かれているというありさまでした。

 その後、郵便事業の発展とともに、駅逓寮の局舎も近代的なものに改築する計画が持ち上がり、1874年4月30日、瓦葺き木造漆喰仕上げ二階建ての洋風建築が完成します。入口上部の切妻中央に設置された直径4尺の舶来時計は時を知らせ、文明開化のシンボルとして、東京名所の一つでした。ただし、この建物は1888年2月の火災で焼失。現在、その跡地には日本橋郵便局が建てられ、その正面玄関には“郵便発祥の地”と記された石碑がはめ込まれています。

 三代広重の作品を見ると、玄関脇に満開の桜の木が一本植わっています。さすがに、4月末の竣工時には桜は散っていたでしょうから、あるいは、建物の外観ができあがった時点で絵筆をとったのではないかと推測できます。

 往来には傘を差した人物が3人ほど歩いていますが、画面手前の丁髷と思しき男衆(1871年に断髪令が出された後も丁髷を結ったままの人は多く、8割が断髪するまでには10年近くが必要だったそうです)は傘を差していません。

 新国劇で『月形半平太』が初演され、「春雨じゃ~」の名台詞が生まれたのは1919年のことでしたから、丁髷の彼らは、雛菊・半平太の物語など知る由もなく、春雨に濡れて歩いていたということになります。

 穀雨が過ぎると、だんだんと雨量が多くなってきて、傘なしで雨中を歩くのはしんどくなってきますから、そうした点からも、やはり、この絵も4月末より少し早い穀雨の頃の風景と考えるのが妥当でしょう。

 ちなみに、年によって若干の差があるものの、今年を含め、穀雨はたいてい4月20日です。“郵政記念日”と同じ日というのは偶然でしょうが、三代広重が描いた駅逓寮の絵をみていると、彼がその場所にいたのは、まさに穀雨の4月20日でなかったかと、ついつい根拠もないままに想像してみたくなるのでした。


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 日本近代文学館50年
2017-04-11 Tue 09:34
 1967年4月11日に日本近代文学館が開館してから、今日で50年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      日本近代文学館開館

 これは、1967年4月11日に発行された“日本近代文学館開館”の記念切手です。

 明治維新からほぼ一世紀が過ぎた1960年代に入ると、明治以降の近代文学に関する資料の散逸が各方面で問題視されるようになりました。このため、作家の高見順や小田切進らの間で、1961年頃、近代文学に関するあらゆる資料を広く収集・保存し、一般の閲覧に供するために“日本近代文学館”を設立しようというプランが持ちあがります。

 その実現に向けて、1962年7月、高見順、伊藤整、小田切進、久松潜一、稲垣達郎らを発起人として「日本にはまだ近代文学の関係資料を保存する専門図書館がありません」との書き出しで始まる「日本近代文学館設立趣意書」が発表され、文学館建設に向けての具体的な活動が開始されました。この呼びかけに対しては、早くも1962年末までに1100万円の基金や4万点の図書雑誌類が寄贈され、翌1963年4月、これを基にして財団法人・日本近代文学館が設立されます。

 こうして、本格的な文学館建設のための準備作業が本格的に開始され、その第一段階として、1964年11月、東京の上野図書館(国立国会図書館支部・上野図書館)内に日本近代文学館文庫が設けられました。

 文学館の建物の建設は、翌1965年8月16日から東京・目黒区の東京都立駒場公園内で工事が開始されました。その後、2年弱の年月と7億円の総工費をかけて、1967年4月11日、地上2階・地下3階で閲覧室・書庫(収容能力50万冊)・資料室(収容能力10万点)・ホール・研究室などを備えた、わが国最初の近代文学専門図書館として“日本近代文学館”が開館しました。なお、初代理事長は作家の伊藤整でした。

 日本近代文学館の開館に際して記念切手を発行することは、1967年1月22日に開催された郵政審議会専門委員会打合会で正式に決定されましたが、発行期日を勘案すると、切手制作のための準備はその前から内々に進められていたと見るのが自然でしょう。

 記念切手は、文学館の全景を描いたもので原画作者は久野実です。一方、切手発行と同時に用いられた特印は、夏目漱石の『吾輩は猫である』初版本の表紙に森鴎外と樋口一葉の印影を配したもので、こちらは大塚均がデザインしました。

 今回の記念切手に関しては、文学館の建物をストレートに描いた図案が安易だとの批判も一部にありましたが、文学館そのものへの社会的な関心の高さもあって売れ行きは好調だったようで、発行早々、売り切れとなった郵便局も少なからずあったと報告されています。


 ★★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” スタート! ★★★ 

 4月13日(木)から、NHKラジオ第1放送で、隔週木曜日の16時台前半、内藤がレギュラー出演する「切手でひも解く世界の歴史」スタートがします。初回は、13日がタイの水かけ祭“ソンクラーン”の日なので、16:05から、タイの切手のお話をする予定です。みなさま、よろしくお願いします。番組の詳細はこちらをご覧ください。


 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

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 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
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 切手歳時記:ホタルイカ
2017-03-07 Tue 10:47
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年3月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ホタルイカ

 これは、1966年7月1日に発行されたホタルイカの35円切手(普通切手)です。

 ことしも、3月1日、富山湾のホタルイカ漁が解禁になりました。

 ホタルイカの水揚量が日本で最も多いのは浜坂漁港をはじめとする兵庫県ですが(富山県は第2位)、富山湾のものは身が大きく、ミソも詰まっていて美味なので、人気があります。

 富山湾の常願寺川の河口左岸から魚津港までの15 km、満潮時の沖合1260 m までの海域では、毎年春の宵、 ホタルイカの雌が産卵のため深海200-600 m から浮上して浅瀬に密集し、翌未明には沖へ帰っていきます。これが、国の特別天然記念物に指定されている“ホタルイカ群遊海面”です。ちなみに、天然記念物に指定されているのは、ホタルイカそのものはではなく、ホタルイカのいる海面なので、ホタルイカを食べることはなんら問題ありません。

 富山湾のホタルイカ漁は、こうしてやってきたホタルイカを、夜間、定置網で獲るため、網にかかるのはほとんどが雌になります。ちなみに、ホタルイカは雄よりも雌が大きく、味も雌が美味。また、定置網漁だと、小さく繊細なホタルイカの身が他の魚に傷つけられることも少ないというメリットがあります。

 一方、他の地域のホタルイカ漁は、日中、底引き網でごっそり獲るので、雌雄が半々になるだけでなく、他の魚が網に入ってホタルイカの身が傷むことも少なくありません。

 富山産のホタルイカが人気を集めているのは、こうした事情によるものです。

 ホタルイカはすぐに傷んでしまうため、産地以外でも春の味覚として楽しめるようになったのは、冷蔵・運搬技術が発達した近年のことです。このため、かつてのホタルイカは肥料として使われることも多く、富山地方では、このイカを松の肥料として使っていたため“マツイカ”と呼んでいたとのだとか。ちなみに、ホタルイカとの名前は、1905年、生物学者の渡瀬庄三郎が命名したもので、学名は渡瀬にちなんでWatasenia scintillansといいます。

 僕が子供の頃は、東京でホタルイカというと、沖漬けの瓶詰くらいしか手に入りませんでした(少なくとも、わが家ではそうでした)から、大学生になって、居酒屋で初めてホタルイカの酢味噌和えを食べたときは、今回ご紹介の切手の印象とだいぶ違うことに、ちょっと面食らった記憶があります。切手のイカは、いかにもイカらしくスリムな体型で、画面の印象からも、スルメイカ程度の大きさがあるような雰囲気ですが、実際に出てきたイカはかなり小ぶりで、ぷっくらと丸みを帯びた胴が印象的でしたから…。いまから思うと、あるいは、切手のイカは富山湾で獲れた雌ではなく、他の地域で獲れた雄がモデルになっていたのかもしれません。

 切手ではわかりづらいが、ホタルイカの触手の先には、それぞれ、3個の発光器がついていて、なにかに触ると光る仕組になっています。また、体表の海底側(腹側)にも細かい発光器がありますが、これは海底側にいる敵に対して光る姿を見せ、海面からの光に溶け込んで敵の目をくらますためのものです。

 海中のホタルイカは月の光を目印に自分の位置を把握しているらしく、月明かりのない新月の夜は、方向を見失って、棲家である深海へ戻ることができなくなります。このため、産卵を終えて力尽きた雌は光を放ったまま砂浜に打ち上げられ、“ホタルイカの身投げ”と呼ばれる光景が見られます。

 もっとも、ホタルイカを肴にちょっと一献のつもりが、ついつい杯を重ねすぎ、風呂も入らずテカリ顔のまま、自宅の玄関先でひっくり返っている僕の場合は、さしずめ“ホタルイカ身投げ”ということになりましょうか。


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 高橋みなみのこれから何する?
2016-11-28 Mon 13:37
 本日(28日)13:15すぎから、TOKYO FMのラジオ番組「高橋みなみのこれから何する?」に内藤が電話生出演いたしました。テーマは「年賀状1月2日配達取りやめ」について。というわけで、きょうは“1月2日”の消印が押された切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      1月2日・伏見局機械印

 これは、1970年1月2日の機械印が押された7円切手です。

 1月2日の年賀状の配達は、1974年から2004年まで休止されていましたが、2005年から“民営化”を前にしたサービス向上のために復活していました。しかし、年賀状の数がピークから大幅に減少したうえ、昨今、人件費も上昇していることから、コスト削減のため、2017年から、1月2日の年賀状の配達は再び休止されることになりました。なお、郵便物の集荷や書留便などの配達、郵便局内の処理作業などは、従来通り、1月2日も行われます。

 ちなみに、1974年から1月2日の年賀状配達が休止されたのは、1973年に全逓信従業員組合(全逓)が展開した“73年末闘争”の結果です。すなわち、この時の闘争で、全逓側は、インフレ手当0.5ヶ月、週休2日制、1月2日・3日休配を中心的な要求として掲げ、突如、意図的に郵便物を滞留させる“電撃的物ダメ”戦術を展開。この結果、インフレ手当0.5ヶ月、1979年9月から4週間に1回の非番日を実施、1月2日の休配が労働者の権利として認められ、2004年まで、1月2日には年賀状の配達が行われないという慣行が続いていたわけです。

 かつて、春闘が盛んだったころには、毎春のように、国鉄をはじめとする鉄道・バスのストライキがありましたが、全逓は、郵便事業の一番の書き入れ時である年賀状の時期を闘争の重要な時期と位置付けており、戦後の年賀状の歴史にもさまざまな影響を及ぼしています。

 たとえば、戦時中および終戦直後の年賀郵便の特別取扱が中断されていた時期を除き、1935年末から、指定の期間内に差し出された年賀状には絵入り年賀印が押されていました。ところが、1956-57年の年末年始、全逓は年末手当2ヵ月分の獲得と特定郵便局長の官制化、特別職法案に対する反対などを主張し、要求が入れられない場合には「年賀はがきを超勤拒否によりストップする」として賜暇戦術をとったため、1957年の年賀状には絵入りの年賀印は使用できませんでした。この結果、翌1958年の年賀状からは、櫛形印・機械印ともに毎年使用できるよう、時刻欄に“年賀”の文字が入ったものが使われるようになりました。その後、1962年の年賀状からは、年賀郵便特別取扱期間(当時は12月15-28日)に引き受けた官製年賀はがきへの消印そのものも省略されるようになります。

 また、全逓の年末闘争が特に激しかったのは、1959年と1978年の年末で、1960年と1979年には元日に配達されなかった年賀状がかなりの数に上りました。特に、1979年は年賀状の遅配が相当数に上ったため、お年玉くじの抽選会も当初予定の1月15日から同31日に延期され、小型シートの交換開始も、1月20日から2月5日に変更されたほどでした。

 なお、このあたりの事情については、拙著『年賀状の戦後史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 番組が無事に終了しましたので、記事内容を告知から、放送内容を補足するものに変更して再アップしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 切手歳時記:山鳥の尾
2016-10-11 Tue 12:24
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2016年10月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヤマドリ・ローマ字入り

 これは、1971年12月1日に発行されたヤマドリの80円切手です。

 秋分の日を過ぎると、日の暮れるのが急に早くなったような気がして、“秋の夜長”を実感します。

 小学生の頃、柿本人麻呂の「あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」の歌の意味するところは下の句の「ながながし夜をひとりかも寝む」だけで、上の句の「あしひきの~」は「ながながし」を導く序言葉で特に意味はないと学校で教わりました。

 ちなみに、昔の人は、山鳥の雌雄は峰を隔てて寝ると信じていて、それゆえ、歌の世界では山鳥は“ひとり寝”の比喩になるのですが、“ひとり寝”の意味も分からぬ小学生にそんな話をしても仕方がありませんから、先生も授業では省略したのでしょう。じっさい、子供だった僕は、なんだかつまらない歌だと思いつつも、山鳥の尾がどれほど長いものなのか、学校帰りに、郵便局の窓口で買った山鳥の80円切手を眺めていた記憶があります。

 山鳥の80円切手には、1965年に発行された“NIPPON”の表示なしのものと、1971年に発行された“NIPPON”の表示入りのものがあるが、僕が見ていたのは、今回ご紹介の後者の方です。

 ヤマドリの尾の節は、最初の1年で5節できて、その後は毎年1節ずつ伸びていくのだとか。80円切手の節の数を数えると、印面の範囲では9節あるように見えますから、この鳥は最低でも5歳ということになります。ただ、尾の先端は明らかに画面の外にはみ出していますから、切手のモデルになった鳥の尾には、実際には、もう1節か2節あったのかもしれません。

 言い伝えでは、9歳を超え、尾が13節以上になったヤマドリには特殊な霊力が宿り、人間を騙したり、闇夜に光を発したりするとされてきましたが、長野県に伝わる「八面大王」の民話には、じつに33節という、とてつもないヤマドリの尾羽が登場します。

 その昔、信濃国・有明山中の“魏石鬼の窟”には八面大王と称する鬼が棲み、村人に乱暴狼藉を繰り返していました。

 その村の若者、弥助は、ある年の暮れ、ヤマドリが罠にかかっているのを見つけ、持っていたお金を罠に結わえるのと引き換えにヤマドリを放ってやります。それから3日後の大晦日、道に迷った美しい娘が弥助の家を訪ね、2人はそのまま夫婦になりました。

 それから3年後、蝦夷の討伐に向かう途中の坂上田村麻呂は八面大王のことを聞きつけ、鬼退治に乗り出したものの、大王の魔力は強く、田村麻呂の軍勢は歯が立ちませんでした。そこで、観音堂で一心に祈りを捧げたところ「33節のヤマドリの尾を矢にすれば、きっと退治できよう」とのご託宣が下ります。

 そこで、田村麻呂は信濃の国中に33節のヤマドリの尾を探すよう命じたが、だれも見つけることができませんでした。

 このことを知った弥助の妻は、自分がかつて弥助に助けられたヤマドリであることを明かし、「自分の尾を鬼退治に使ってほしい。これでやっと恩返しができる」と書置きと尾を残して姿を消してしまいました。

 はたして、弥助が残された尾で矢を作り、田村麻呂に献上すると、田村麻呂はその矢で八面大王を射殺し、村には平和がもたらされます。この結果、弥助は田村麻呂から多額の恩賞を得ましたが、妻を失った悲しみは癒えることなく、毎日、彼女の帰りを待ちながら亡くなりました。

 ヤマドリを愛した男は、結局、金や名誉と引換に彼女を失い、ヤマドリの比喩が意味する“ひとり寝”の生活でその生涯を終えたというわけですが、その物語は、人麻呂の山鳥の歌の景色と妙に重なり合っていて、大人になってから読み返すと、“ひたぶるにうら悲しい”気分にさせられます。


★★★ イヴェントのご案内 ★★★

 10月29日(土) 13:45-15:15 ヴィジュアルメディアから歴史を読み解く

 本とアートの産直市@高円寺フェス2016内・会場イヴェントスペースにて、長谷川怜・広中一成両氏と3人で、トークイヴェントをやります。入場無料ですので、よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。(本とアートの産直市@高円寺については、主催者HPをご覧ください)


★★★ 講座のご案内 ★★★

 11月17日(木) 10:30-12:00、東京・竹橋の毎日文化センターにてユダヤとアメリカと題する一日講座を行います。詳細は講座名をクリックしてご覧ください。ぜひ、よろしくお願いします。 
 

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       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

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 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 ノーベル医学生理学賞に大隅良典氏
2016-10-04 Tue 09:37
 スウェーデンのカロリンスカ医科大は、きのう(3日)、今年のノーベル医学生理学賞を、東京工業大の大隅良典・栄誉教授に授与すると発表しました。授賞理由は「オートファジー(自食作用)の仕組みの発見」で、日本のノーベル賞受賞は、昨年(2015年)の医学生理学賞の大村智・北里大特別栄誉教授物理学賞の東京大宇宙線研究所長の梶田隆章教授に続き25人目です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      第7回国政生化学会議

 これは、1967年8月19日に発行された第7回国際生化学会議の記念切手で、細胞内部の細胞質の模型が取り上げられています。今回の授賞理由となった“オートファジー”は、細胞が細胞内部の劣化したタンパク質などを分解し、栄養源などとして再利用する仕組みということなので、“細胞”にフォーカスをあてた切手をご紹介してみました。

 切手は、ミトコンドリア(右上から中央下にかけて描かれているゾウリ型)を中心に、小胞体やゴルジ体とおぼしきものと分子構造模型が描かれています。切手に取り上げられた細胞小器官のうち、ミトコンドリアは細胞内のエネルギー発生の場で、小胞体は一重の生体膜に囲まれた板状または網状の膜系で、タンパク質や脂質の合成、代謝、カルシウム貯蔵など、多くの細胞機能に関わる器官、 ゴルジ体は扁平な袋状の膜構造が重なっており、タンパク質の糖鎖修飾などを行います。

 一方、分子構造模型はタンパク質構造(ペプチド構造)の一部を表現したもので、球の色ごとに分子が描き分けられており、黒が炭素、灰味青が水素、赤が酸素、青が窒素、黄が硫黄、となっています。

 切手の題材となった生化学は、生命現象を化学的側面から研究する学問分野で、タンパク質や脂質、糖質、核酸、カルシウムイオンなど、目的の分子を生体から取り出して主として試験管内で実験を行うものです。(生体内の化学反応を研究する学問は、生理学として区別されます。)

 生化学の知見が人間の生活に応用された事例としては、約5000年前に、パンを膨らませるために酵母を用いたことにまでさかのぼることができますが、近代的な生化学のルーツとしては、1828年にフリードリッヒ・ヴェーラーが発表した尿素の合成に関する論文(それまで、生体内でしか作ることができないと考えられていた有機物が人口的に合成できることを証明した)や、1833年のアンセルム・ペイアンによるジアスターゼ(酵素)の発見、などに求めることができます。

 その後、生化学の発展に伴い、この分野での国際的な学術交流も進み、1949年には第1回の国際生化学会議がイギリスのケンブリッジで開催されました。以後、国際生化学会議は3年ごとに世界各都市で開催されています。

 今回ご紹介の切手の題材となった1967年の第7回会議は、東京のプリンスホテルとホテル・ニューオータニを会場に、8月19-25日の日程で約4000名(うち日本人参加者は約1500名)の参加を得て開催されました。

 なお、国際生化学会議は、1991年にエルサレムで開催された第15回会議から国際生化学・分子生物学連合(IUBMB)と名称を変更し、現在にいたっています。


★★★ 講座のご案内 ★★★

 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 10月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。初回は10月4日です。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。

 ・毎日文化センター
 それぞれ、1日講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください)

 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行
 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ 
  

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 中宮寺半跏菩薩像、海を渡る
2016-05-24 Tue 20:07
 日韓でそれぞれ国宝に指定されている仏像の半跏思惟像を1体ずつ共同で展示する“韓日国宝半跏思惟像の出会い”展が、きょう(24日)から、ソウルの国立中央博物館で始まり、日本からは、奈良・斑鳩の中宮寺の本尊、半跏菩薩像が展示されています。中宮寺の半跏菩薩像が海外で展示されるのは、今回が初めてのことです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      中宮寺仏像(実験用)

 これは、1966年頃、郵便自動化の実験用に作られた“切手”です。中宮寺の半跏菩薩像は、1951年に50円切手(ゼロ付)に取り上げられて以来、1980年10月1日にソメイヨシノの切手が発行されるまで、約30年にわたり、5種類の50円切手の題材として使われ続けました。

 すなわち、1951年5月1日に発行された最初の半跏菩薩像切手は当時の書留速達料金(書留料金30円+速達料金20円)に対応したもので、1952年6月20日には、刷色はそのままに、1円以下を示す00を省略した円位の切手が発行されています。ついで、1966年12月26日には、万国郵便連合の規定に従って“NIPPON”とのローマ字表記を入れ、刷色を小豆色に変更した切手が発行されました。このときの料金体系では、50円は外信書状の基本料金、簡易書留料、速達料金等に対応しています。

 翌1967年7月1日、郵便物の機械処理が開始されるのに伴い、速達料金に対応する通常切手には赤系統の色の枠を印刷することになったため、切手の刷色を赤色に改めたものが発行されました。今回ご紹介の切手は、それに先立ち、実験用につくられたもので、刷色がオレンジ色(1967年に発行された切手は赤)で、額面表示は“0円”となっているほか、読み取り用の横線が入っているなど、実際の切手とは図案も異なっています。

 なお、1976年1月25日、書状の基本料金が50円に値上げされると、書状基本料金用の切手には緑色の枠を印刷する必要から、緑色に刷色を改めたものが発行されます。なお、緑色の50円切手に関しては、自動販売機用のコイル切手や切手帳も作られました。

 さて、今回、ソウルで展示されている半跏菩薩像は、奈良・斑鳩の中宮寺の本尊ですが、じつは、飛鳥時代の作という以外に、その伝来等についてはよくわかっていません。中宮寺の寺伝では“如意輪觀音”とされていますが、わが国では、この名称が使用されるようになったのは密教が本格的に伝来した平安時代以降のことですので、当初は弥勒菩薩像として作られたものと考えられています。

 こうしたこともあって、国宝としての指定名称は“木造菩薩半跏像”ですが、1951年5月1日、この仏像を取り上げた最初の50円切手が発行された際、郵政省の報道発表では像の名を“中宮寺 如意輪観音”となっています。

 なお、中宮寺の半跏菩薩像とその切手については、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
 ★★★ アジア国際切手展<CHINA 2016>作品募集中! ★★★

 本年(2016年)12月2-6日、中華人民共和国広西チワン族自治区南寧市の南寧国際会展中心において、アジア国際切手展<CHINA 2016>(以下、南寧展)が開催されます。同展の日本コミッショナーは、不詳・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を6月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。

 ★★★ 内藤陽介の新刊  『ペニー・ブラック物語』 のご案内 ★★★ 

       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

 発売元の特設サイトはこちら。ページのサンプルもご覧いただけます。


 ★★★ 内藤陽介の新刊  『アウシュヴィッツの手紙』 のご案内 ★★★ 

       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

 【出版元より】
 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

 インターネット放送「チャンネルくらら」にて、本書の内容をご紹介しております。よろしかったら、こちらをクリックしたご覧ください。


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 市松と石畳
2016-04-26 Tue 11:48
 2020年東京五輪・パラリンピックの大会組織委員会は、きのう(25日)、大会エンブレムについて、4案の候補作品の中から、市松模様をモチーフにした「組市松紋」を選出したことを発表しました。というわけで、市松模様にちなんで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      春信・文読み

 これは、1969年10月1日に発行された「第16回万国郵便大会議」の記念切手のうち、鈴木春信の「中納言朝忠(文よみ)」を取り上げた50円切手で、右側の箒を持った女性が市松模様の帯を締めています。

 国際的な郵便交換の組織である万国郵便連合(UPU) は、原則として5年に1度、全加盟国政府の全権委員を集めて、万国郵便連合憲章をはじめとする郵便関係の条約改正について討議する会議を開催しています。これが、万国郵便大会議で、1874年の第1回会議(UPU創立会議)と1878年の第2回会議がパリで開催された後、各国の持ち回りで開催されてきました。1969年の第16回会議は、10月1日に昭和天皇ご臨席の下、国立競技場で開会式を行った後、11月14日までの45日間にわたり、東京のプリンスホテルを会場として討議が行われました。

 切手に取り上げられた鈴木春信の「中納言朝忠(文よみ)」は、オリジナルの錦絵では、小倉百人一首にも採録されている中納言朝忠の「逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし」の歌を上部に書き、その下に、なかなか会うことのかなわぬ恋人からの手紙を読む娘と、箒を持ったまま、掃除をする手を止めてそれを覗きこむ女性が描かれています。また、この構図は、中国の古典的な画題である“寒山拾得”で、寺男として箒を持つ拾得と、巻物を持つ寒山の組み合わせに見立てて美人画としたものです。

 さて、市松模様は2色のタイルを交互に並べたようなデザインで、日本古来の文様として、もともとは“石畳”と呼ばれていました。ところが、1741年、歌舞伎の初代佐野川市松が「心中万年草」の主人公・粂之介を演じた際、紺と白の“石畳”の衣装を着用して評判となり、以来、彼の名を取って市松模様と呼ばれるようになったとされています。ただし、その後も、市松模様を、明らかに古名の“石畳”のイメージで使っているケースもあるので(その代表格が「ビードロを吹く娘」)、市松という名称が完全に定着するまでにはそれなりの時間がかかったのではないかと思います。

 ちなみに、初代市松(1722-62)と春信(1725-70)は同時代の人物ですから、彼の時代には、模様の名前も石畳と市松が混在していたのではないかと思います。今回ご紹介の切手の「中納言朝忠(文よみ)」のような多色刷りの錦絵は、春信が“紅刷り絵”と呼ばれる単色から数色の版画技法を発展させて1765年に完成させたものですから、1741年の「心中万年草」上演以降に制作されたものです。したがって、箒を持った女性の帯の模様を“市松”と呼んでも間違いではないのでしょうが、彼女の“元ネタ”が寺男の拾得だったことを考えると、ここは“石畳”とする方が良いのかもしれません。


 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。
 

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 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

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       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

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 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

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