内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ダライラマが国会内で講演
2012-11-13 Tue 13:29
 来日中のチベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世猊下が、きょう(13日)、国会内の参議院議員会館で文化講演会を行い、140名を超える国会議員が参加しました。というわけで、猊下の求めるチベットの“高度な自治”に関連して、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         チベット加刷

 これは、1911年に発行された“チベット加刷”の切手です。

 チベットと中国中央政府との「国交」は唐代にまでさかのぼることができますが、宗主国と保護国という両者の関係が確立されたのは一七世紀中葉の清朝初期のことです。その後、清朝は、チベットに駐蔵大臣を派遣し、チベットの財政・外交・軍事などに強い影響力を行使するようになりました。もっとも、この段階では、チベット政府の独自性も確保されており、両者は国境の確定もあいまいなまま、共存する状態にあったといえます。まぁ、そもそも、清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでしたから、それも当然のことと言えましょう。

 しかし、こうした状況は、1858年にインドを植民地化したイギリスが中印国境地域に侵食していくことで、変容を迫られます。この結果、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、チベットをめぐって、清朝とイギリスとの対立が生じることになりました。

 両者の対立は、1907年のシムラ会議により、チベットにおける清朝の主権が確認されたことで、いちおう決着し、清朝はチベットの近代化改革に着手します。ただし、この間、当事者であるチベットの意向が真剣に考慮されることはありませんでした。

 この近代化改革の一環として、1908年、清朝はラサに郵政総局を設置し、シガツェ、ギャンツェ、ヤートンなどに郵便局を開設。本土と同じ切手を持ち込んで郵政活動を展開し、チベットが自国の領土であることを郵政面でも主張するようになります。

 もっとも、清朝がどれほどチベットは自国領であると主張しようとも、実態としては、必ずしも清朝中央政府の統制がチベットに行き届いていたわけではありませんでした。

 その一例が、通貨問題です。
 
 すでに1792年いらい、チベットでは独自の現地通貨として銀貨が鋳造されており、清末の時点でも流通していました。これに加え、清朝やイギリスがチベットへの影響力を強めるにつれ、清朝の洋銀や英領インドのルピーも流通するようになっていました。この結果、当時のチベットでは3種の通貨が混在しており、清朝がチベット経済を掌握しているとはいいがたいのが実情でした。

 これら3種の通貨は、1910―11年頃のレートで、1タムカ(チベットの基準単位)が洋銀の15分もしくは英領インド・ルピーの6アンナに相当するといった具合で、折合計算が不便でした。当然、清朝政府が本土と同じ切手をそのまま発売し、使用させようとすれば、現実にはさまざまな不都合が生じることになります。

 このため、1911年3月、清朝政府は本土の切手に中国語・英語・チベット語の3ヶ国語で、それぞれに対応する額面を加刷した切手を発行し、チベット発の郵便物に貼付させるようにしました。今回ご紹介しているのは、そうした清朝のチベット加刷切手の1枚です。

 ところで、清朝を打倒した孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としていました。したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴル・ウィグルの各民族からすれば、自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由はまったくないわけで、清朝の滅亡後、チベットは中華民国に対して分離・独立を宣言します。

 これに対して、中華民国側は自分たちが清朝の継承者であるとの建前から、チベットの独立を認めず、中国領チベットの支配を継続しようと目論見ます。しかし、革命後の混乱により、中国中央政府の統制はチベットには及ばず、チベットは実質的に中国とは別の国になりました。そして、これに伴い、ライオンのデザインのチベット独自の切手が発行され、チベット域内の郵便に使用されました。ちなみに、現在のチベット亡命政府は、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして、独自の通貨・切手を発行していたことを挙げています。

 もっとも、独自の切手を発行したとは行っても、中国側がチベットの独立を承認しなかったこともあって、チベットは万国郵便連合には加盟できず、それゆえ、チベット切手は外国郵便に使うことはできませんでした。ただし、かつての清朝も万国郵便連合には加盟できなかったわけですから、このことをもって直ちにチベットの“独立”が否定されることにはならないでしょう。

 1951年、中国人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに武力進駐し、以後、半世紀近くにわたって中国共産党政権はこの地域を支配し続けています。この間、漢族の急激な流入により、チベットの伝統的な社会構造が破壊され続けていることもあって、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられています。また、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行っており、絶望したチベット人による抗議の焼身自殺が相次いでいることに対して、国際社会が厳しく指弾しているのは周知のとおりです。

 こうした中で、チベットの高度な自治を求めるダライラマ14世猊下が国会内の施設で講演会を行い、少なからぬ国会議員が参加するとともに、今日(13日)付で、チベット族を支援する超党派の議員連盟が結成されるということは、他国に比べると遅すぎる感は否定できないものの、歓迎すべきことであるのは間違いありません。

 なお、猊下は、今月5日、横浜での記者会見で、尖閣諸島を中国側通称の「釣魚島」ではなく尖閣諸島の名で呼ばれたほか、中国で発生した反日的動きの原因として極端な反日教育と大陸社会の閉鎖性などを挙げておられましたが、こういうご発言は、もっと多くの日本人にも知られて良いのではないかと思います。


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 チベット正月
2012-02-21 Tue 15:38
 明日(22日)は、チベット暦の新年に相当するロサルの日です。というわけで、チベットの年越しにちなんで、きょうはチベットの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        1タムカ(ラサ)

 これは、1912年にチベットで発行された1タムカ切手です。以前の記事では、色違いの1/3タムカ切手2/3タムカ切手をご紹介しましたが、今回はロサルにあわせて朱色の1タムカ切手のオンピース(消印はラサ)を持ってきました。ちなみに、伝統的なチベットのお正月では、窓に赤い紙を貼ったり、新年用の蒸しパンには赤い飾りをつけるのだそうです。

 さて、かつての清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでした。これに対して、孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としていました。

 したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴルウィグルの各民族からすれば、自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由はまったくないわけで、清朝の滅亡後、チベットは中華民国に対して分離・独立を宣言します。

 これに対して、中華民国側は自分たちが清朝の継承者であるとの建前から、チベットの独立を認めず、中国領チベットの支配を継続しようと目論見ます。しかし、革命後の混乱により、中国中央政府の統制はチベットには及ばず、チベットは実質的に中国とは別の国になりました。

 こうした状況の下で、今回ご紹介しているようなライオンのデザインのチベット独自の切手が発行され、チベット域内の郵便に使用されることになりました。現在のチベット亡命政府は、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして、独自の通貨・切手を発行していたことを挙げていますが、この切手は、まさにその証拠ともいうべきものです。

 もっとも、独自の切手を発行したとは行っても、中国側がチベットの独立を承認しなかったこともあって、チベットは万国郵便連合には加盟できず、それゆえ、チベット切手は外国郵便に使うことはできませんでした。ただし、かつての清朝も万国郵便連合には加盟できなかったわけですから、このことをもって直ちにチベットの“独立”が否定されることにはならないでしょう。

 1951年、中国人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに武力進駐し、以後、半世紀近くにわたって中国共産党政権はこの地域を支配し続けています。この間、漢族の急激な流入により、チベットの伝統的な社会構造が破壊され続けていることもあって、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられています。また、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行っており、そのことが国際社会から厳しく指弾されているのは周知のとおりです。

 さて、チベット(四川省のエリアを含む)では、昨年から20人以上のチベット人が中国政府に対して抗議の焼身自殺を行っています。今からおよそ半世紀前の1963年6月11日、南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権の仏教徒に対する高圧的な政策に対して抗議するため、ベトナム人僧侶のティック・クアン・ドックがサイゴンのアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺したのを機に、ゴ政権と同政権の保護者であったアメリカに対する世界的な非難の声が上がりました。かつて、ベトナム戦争の時代に反戦・平和を叫んでいた人たちやその流れを汲むリベラル派の諸氏は、なぜ、現在、抗議の焼身自殺を行うチベット人の苦しみに思いをいたし、中国政府の人権弾圧を非難しないのでしょうか。

 まぁ、彼らが行ってきた“反核運動”は、アメリカの核は侵略目的の“悪い核”だが中国やソ連の核は自衛のために認められる“良い核”だという詭弁の上に成り立っていましたから、その延長線上で考えれば、中国の人権弾圧は“良い弾圧”ということなんでしょうな。きっと。


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 ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、CBCラジオ「朝PON」(1月26日放送)、『スタンプマガジン』2月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。

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 亡命政府25周年のラベル
2008-05-07 Wed 13:15
 中国の国家主席・胡錦濤が昨日(6日)来日しましたが、これにあわせて、都内ではチベット弾圧に抗議する集会やデモが都内であり、主催者発表で4000人のデモ参加者がチベット国旗を手に「チベットに自由を」とシュプレヒコールを上げて行進したのだそうです。

 というわけで、つい先ほど、我が家に届いたこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 亡命政権25周年ラベル(ポタラ)

 これは、1984年に作られたと思われるチベット亡命政府25周年記念の切手状のラベルです。デザインはチベット国旗とポタラ宮を組み合わせたもので、下部には“チベット1984 闘争と再建の25年”との文字が入っています。額面(といっていいのかどうかわかりませんが)は、10タムカとチベットの独自通貨で表示されていますが、実際の売価がインド・ルピーなり米ドルなりでいくらだったのかはよくわかりません。

 このラベルが、いかなる団体によって作られたのか、その詳細については現時点では調べきれていないのですが、オンピースの右側にはインド切手の断片(1982年に発行された灌漑の10パイサ切手のようです)が見えますので、インド国内でプライベートな義損証紙のようなものとして販売され、郵便物に貼られたものではないかと思います。

 ちなみに、今回入手したのは4種セットで、他には、中国によって破壊される以前の建築物と現状を並べて、中国の侵略をストレートに攻撃するようなデザインのものもあります。

 チベット亡命政府がらみのプロパガンダ・ラベルというと、今回ご紹介のモノが作られる10年前、1974年の万国郵便連合100年にあわせて作られたモノが有名ですが、どちらも実際の郵便には使えません。それでも、国連に議席を持たない(持てない)チベット側にとっては、こうしたラベルも、独立チベットの存在を内外にアピールするメディアとしては重要な意味を持っています。ちなみに、現在のチベット亡命政府は、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして、独自の通貨・切手を発行していたことを挙げているわけで、彼らにとっての“切手”の意味はわれわれが想像する以上にはるかに重いものといってよいでしょう。

 今回ご紹介のモノ以外にも、チベットのプロパガンダ・ラベルに関しては、欧米で作られたと思しきモノもいろいろとあります。それらと、中国側がチベット支配を正当化するために発行してきたプロパガンダ切手を組み合わせて、チベット=中国関係史の本を作ってみたいのですが(ご興味をお持ちの編集者の方は、ぜひ、ご連絡ください)、さすがに、8月の北京五輪には間に合わないでしょうねぇ。それでも、来年3月の亡命政府50年の機会までには、なんとか形にしたいものです。

 ご案内
 5月10日(土)10:00より、東京・池袋の桐杏学園にて開催の切手市場にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の即売・サイン会を行います。当日は、切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。 
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 チベット遠征軍の野戦局
2008-03-30 Sun 22:50
 14日の暴動以来、緊張が続くチベットで、昨日(29日)午後、首都・ラサ中心部にあるラモチェ寺前のほか、近くのジョカン寺前などで大規模なデモ(ダラムサラの亡命政府によると数千人規模、アメリカ系のラジオ自由アジア(電子版)によると数百人規模)が発生したそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ラサ・イギリス局

 これは、英領切手にイギリスのチベット遠征軍の野戦郵便局の消印を押したものです。

 1858年にインドを植民地化したイギリスは、インド防衛のために周辺諸国を侵食していくことになりますが、その過程で、チベットをめぐって、これを保護国とする清朝と対立します。
 
 こうした状況の中で、1903年3月、イギリスはフランシス・ヤングハズバンド大佐率いる遠征軍(チベット辺境使節団)の派遣を決定。同年7月、遠征軍はチベットに到着し、現地のチベット軍を破って進軍し、8月3日、ラサに到着しました。この間、6月にはダライラマ13世がガンデン・ティ・リンポチェおよびロザン・ギャルツェン・ラモシャルの2人を摂政に任じてラサを脱出してモンゴルに亡命しています。

 ラサに到着したヤングハズバンド一行は、9月7日、ポタラ宮で摂政とラサ条約(イギリス・チベット条約)を調印。同条約には、①チベット-シッキム間の国境確定、②ギャンツェ・ガントク・ヤトンでの通商解放、③外交的に重要な案件(領土の譲渡・売却・租借、外国によるチベット内政への干渉、外国代表団の受け入れ、外国への鉄道・鉱山・電信などの利権の供与など)にはイギリスの同意を必要とすることなどが含まれており、清朝のチベットに対する宗主権を実質的に否定するものでした。

 その後、清朝は1906年の「チベットに関する条約」でラサ条約を追認させられますが、翌1907年の英露協商で、イギリスのチベット特権は否定されましたが、清朝のチベットに対する宗主権の問題は英露の協議の対象とはなりませんでした。

 さて、ヤングハズバンドの遠征軍は、ラサ条約の調印後、9月23日にはラサを出発して撤退を開始しますが、この間、彼らは野戦郵便局を設置し、英領インド切手を持ち込んで使用しました。これが、チベットにおいて、切手が用いられた最初の事例となります。

 今回ご紹介のモノは、彼らがラサに到着した1904年8月3日の消印が押されたもの(おそらく、“記念品”として作られたものでしょう)です。当時はすでにエドワード7世の切手が使われていましたが、ここでは、ヴィクトリア女王の3パイス切手(折れ目のあるものが貼られているのが残念ですが)が使われています。消印の表示は、現在、一般的に見られるLHASAではなく、LAHSSAです。

 さて、今回のデモは日米欧の15カ国の北京駐在各国外交団の訪問に合わせて行われたと考えられていますが、中国当局は治安部隊を投入し、主要な寺院を包囲・封鎖したほか、戦車や装甲車両などを投入しデモを鎮圧したそうです。中国の圧政に徒手空拳で抵抗しているチベットの人たちのニュースを聞くたびに、つい5年ほど前、“自由なイラクの実現のために”という大義名分を掲げてイラク戦争を起こした人たちや、人道介入の名目でコソボへの空爆を行った人たちの間から、自由なチベットの実現のために、チベット遠征軍を派遣しようという声が上がってきてもよさそうなものなのに・・・と、ついつい思ってしまうのは僕だけなんでしょうかねぇ。
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 独立チベットの切手
2008-03-16 Sun 22:39
 一昨日(14日)、チベットで中国人民解放軍の装甲車が群集に突っ込み、多くの市民が負傷ことを発端として、中国共産政府の強圧的な支配に不満を持っていたチベット市民の抗議デモが大規模な暴動へと発展。これに対して、中国共産党政府は暴動を武力で鎮圧し、ダライ・ラマ14世の支持者らとの“人民戦争”を戦う姿勢を鮮明にしたそうです。

 というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 2/3タムカ(ギャンツェ)

 これは、1912年にチベットで発行された切手です。以前の記事では、ラサの消印が押されたオンピースを持ってきましたので、今回は、ギャンツェの使用例をお見せします。

 かつての清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでした。これに対して、孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としていました。

 したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴル・ウィグルの各民族からすれば、自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由はまったくないわけで、清朝の滅亡後、チベットは中華民国に対して分離・独立を宣言することになりました。

 これに対して、中華民国側は自分たちが清朝の継承者であるとの建前から、チベットの独立を認めず、中国領チベットの支配を継続しようと目論見ます。しかし、革命後の混乱により、中国中央政府の統制はチベットには及ばず、チベットは実質的に中国とは別の国になりました。

 こうした状況の下で、今回ご紹介しているようなライオンのデザインのチベット独自の切手が発行され、チベット域内の郵便に使用されることになりました。現在のチベット亡命政府は、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして、独自の通貨・切手を発行していたことを挙げていますが、この切手は、まさにその証拠ともいうべきものです。

 もっとも、独自の切手を発行したとは行っても、中国側がチベットの独立を承認しなかったこともあって、チベットは万国郵便連合には加盟できず、それゆえ、チベット切手は外国郵便に使うことはできませんでした。ただし、かつての清朝も万国郵便連合には加盟できなかったわけですから、このことをもって直ちにチベットの“独立”が否定されることにはならないでしょう。

 1951年、中国人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに武力進駐し、以後、半世紀近くにわたって中国共産党政権はこの地域を支配し続けています。この間、漢族の急激な流入により、チベットの伝統的な社会構造が破壊され続けていることもあって、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられています。また、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行っており、そのことが国際社会から厳しく指弾されているのは周知のとおりです。

 ちなみに、現在の中国政府は、「アヘン戦争から中華人民共和国の成立まで、中国は日本を含む列強によりひたすら侵略され続けてきた」と主張しているわけですが、その中国はみずから、チベットでかつての帝国主義列強もびっくりの苛烈な強権支配を行っており、そのことを指摘されると「内政干渉するな!」と逆ギレするのがいつものパターンになっています。

 日本でも、大日本帝国の“中国侵略”を批判する人たちの中には、「足を踏んだ者には踏まれた者の痛みはなかなかわからない」としたり顔でお説教する人が時々いますが、そういう人に限って、現在のチベットの痛みについて鈍感なケースが多いのは不思議な現象です。もっとも、“足を踏んだもの”である中国政府がチベット人の痛みをわからなくても仕方がないのだ、といわれればそれまでなのですが…。

 *お知らせ
 12日午後から不通になっていたメール環境ですが、本日夕方とりあえず復旧し、従来どおり、y-naitoで始まるアドレスにお送りいただいたメールも読むことができるようになりました。この間、多くの方々にご不便とご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
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 英雄/テロリスト図鑑:ダライラマ
2007-12-03 Mon 09:16
 ご報告が遅くなりましたが、『SAPIO』12月12日号が発売となりました。僕の連載、「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は先ごろ訪日したダライラマ14世を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

ダライラマ

 チベットの宗教的・政治的最高指導者であるダライ・ラマの地位は、世襲や選挙ではなく、先代が亡くなった後に、次の生まれ変わり(化身)を探す「輪廻転生制度」によって決定されますが、ラモ・ドンドゥップ少年は、2歳のとき、ダライ・ラマ13世の転生者、すなわちダライラマ14世であると認定され、6歳のときから僧院での学習を開始しています。

 1949年10月に成立した中華人民共和国は、1950年10月、チベットを中国の一部とし、国防は中国が担当することをチベットに対して一方的に“提案”。チベットがこれを拒否すると、人民解放軍はチャムド(昌都)に侵攻して、チベットの“解放”を宣言します。翌1951年5月には、「チベットの平和解放に関する17ヵ条協定」をチベットに押し付け、チベットを“自治区域”として強引に中国の主権下に組み込んでしまいました。

 当然のことながら、チベットでは中国に対する抵抗運動が発生。1956年以降、各地で反中国のゲリラ活動が展開されていきます。

 こうした状況の下で、1959年、23歳になったダライ・ラマがラサのジョカン僧院でラランパの学位(最高位のゲシェーの学位で仏教哲学の博士号)を取得し、チベット仏教の修行をすべて修了すると、同年3月、中国側は彼を観劇に“招待”しました。これに対して、ラサ市民は、観劇を口実にダライ・ラマを拉致しようとの中国側の意図を察知し、抗議のためにダライ・ラマの宮殿を包囲。解散を求める中国軍との間で衝突から、大規模な暴動(ラサ暴動と呼ばれる)が発生します。

 結局、“暴動”は3月中に鎮圧され、騒乱の中でダライ・ラマはチベット臨時政府の樹立を宣言してインドに脱出。以後、半世紀近くにわたって、インド北部のダラムサラを拠点とした亡命生活を余儀なくされています。

 ダライ・ラマ法王部日本代表部事務所によると、1959年以降、中国政府の弾圧で亡くなったチベット人はチベットの全人口の2割に相当する約120万人。また、6000ヵ所以上もの寺院が破壊されているとのことです。当然のことながら、国際社会は中国によるチベットの人権侵害をたびたび問題にしていますが、中国側がこうした批判を内政干渉としてことごとく退けているのは周知のとおりです。

 ダライラマ14世は、このような中国政府と、チベットの“高度な自治”を求めて非暴力の運動を展開し、ノーベル平和賞まで受賞した人物ですが、中国政府に言わせると、中国の分裂を狙うテロリストの一味ということになるようです。

 たとえば、今年の10月17日、アメリカ議会がダライ・ラマ14世に対して、民主主義・人権問題で功績のあった市民を対象とする最高勲章“ゴールド・メダル”を授与すると、“チベット自治区”の張慶黎・共産党委員会書記は、記者団に対し「憤りを感じる」、「ダライ・ラマがそんな勲章を与えられるなら、世界に正義や善人は存在しななくなる」、「(ダライ・ラマは)母国を分割する目的でその試みを確立するために、台湾独立軍や、東トルキスタンのイスラム勢力、民主主義運動に法輪功と同盟し徒党を組んでいる」と強く非難しています。まさに、ダライ・ラマは反中国のテロリスト集団と“徒党”を組んでいる一味という中国側の認識が明らかにされています。

 まぁ、客観的に見るとどちらが“テロ”の名にふさわしいかは明白だと思うのですが、現実には、インターネット検索エンジンの最大手グーグルが、中国政府の求めに応じて、“ダライ・ラマ14世”を中国語での禁止ワードとするなど、“中国様”のご意向に気兼ねして、なかなか本当のことを言えない人たちも少なくないようです。

 なお、雑誌の記事では、ダライラマとチベット地図をえがく亡命政府の“切手”を取り上げたのですが、こちらは以前の記事でもご紹介しましたので、今回は、同じセットの中から、ダライラマとチベット国旗を取り上げたものを持ってきました。ちなみに、この“切手”は万国郵便連合(UPU)100周年を記念して発行されたものですが、チベット政府がUPUに加盟したことはありません。このため、かつてチベット政府が発行した切手を貼って海外に差し出すときには、インド切手とのコンビネーションカバーができあがるのですが、その辺の事情については、いずれ機会を改めてご説明することにしましょう。
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 ダライ・ラマの“切手”
2007-10-18 Thu 09:52
 昨日(17日)、アメリカ議会が、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世に対して、民主主義・人権問題で功績のあった市民を対象とする最高勲章“ゴールド・メダル”を授与しました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ダライ・ラマ

 これは、1970年代にチベット亡命政府が発行した“切手”の1枚で、ダライ・ラマとチベットの地図が描かれています。

 1911年の辛亥革命以降、チベットは中国中央政府の支配が及ばない地域となっており、域内ではチベット政府が独自の切手も発行していました。

 1949年に建国を宣言した中華人民共和国は、1951年、“平和解放”としょうしてチベットに軍事進駐し、チベットに対して「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる17ヵ条協定)を押し付けます。その後、1955年から、まずはチベット北半部(アムド地方、カム地方東部)における社会主義化が開始されていきました。当然のことながら、チベットでは中国の侵略に対する抵抗運動が起こることになります。

 こうした中で、1959年、中国側がダライ・ラマ14世を観劇に“招待”すると、そのまま、ダライ・ラマが中国に拉致されることを恐れたラサ市民による暴動が発生。中国側が暴動を武力で抑え込む中、ダライ・ラマはチベットを脱出し、“チベット臨時政府”(いわゆるチベット亡命政府)の樹立を宣言しました。

 今回ご紹介の“切手”は、この亡命政府が1970年代に作成したもので、4種セットのうちの1枚です。もっとも、“切手”といっても、チベット亡命政府には領土もありませんし、彼らが独自の郵便サービスを提供することは現実の問題として不可能です。したがって、この“切手”も実際には切手としての効力はなく、一種のラベルのようなものなのですが、独立チベットの存在を内外にアピールするメディアとしては重要な意味を持っているものといえましょう。

 なお、現在のチベット亡命政府は、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして、独自の通貨・切手を発行していたことを挙げていることを付記しておきます。
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 “チベット自治区”40年
2005-08-29 Mon 11:00
 “チベット自治区成立40周年を祝う業績展示会”なるものが、28日からチベットの中心地ラサのチベット博物館で始まったそうです。

 清朝の滅亡後、チベットは中国からの独立を宣言。中華民国政府はこれを認めませんでしたが、国内の混乱ゆえにチベットを制圧することができず、チベットは実質的に半独立国のような存在となっていました。1949年に成立した中華人民共和国は、「チベットは中国の一部分」とする中国歴代政権の主張を踏襲。1951年、人民解放軍を進駐させ、“平和解放”と称してチベットを武力で併呑しました。

 その後、中国政府はチベットでの社会主義化・中国化を強引に進めましたが、このため、在地のチベット人たちは反発。1959年には大規模な反中国暴動であるチベット動乱が起きましたが、中国側はこれを力ずくで弾圧し、ダライ・ラマはインドへ亡命を余儀なくされました。

 “チベット自治区”の創設は、こうして、中国側がチベットでの独立運動を完全に押さえ込み、一種の植民地支配を完成させた結果として、設立されたものです。これに対して、ダライ・ラマの“亡命政権”は、中国側の人権抑圧を非難し、チベットの“真の自治”を求めて活動を続けています。

 ところで、ダライ・ラマ側は、人民解放軍が進駐する前のチベットは中国から独立していたと主張し、そのことをもって中国に“真の自治”を求めているわけですが、彼らがチベットが中国から独立していたことを示す根拠の一つとしてあげているのが、チベットでは中国本土とは異なる独自の切手が発行・使用されていたという事実です。(↓)

1/3タムカ(ラサ)

 ライオンを描いたチベット独自の切手は1912年から発行が開始されました。土産紙の素朴なデザインがいい感じです。なお、今日ご紹介している画像に押されている消印は、チベットの中心地であるラサのものです。

 もっとも、独自の切手を発行したとは行っても、中国側がチベットの独立を承認しなかったこともあって、チベットは万国郵便連合には加盟できず、それゆえ、チベットの切手はチベット政府の支配が及んでいる地域でのみ有効とされ、外国郵便に使うことはできませんでした。その意味では、切手の発行をもってチベットが完全な独立国であったとするダライ・ラマ側の主張にもいささか無理があります。

 いずれにせよ、こうした中途半端な状況が、現在のチベット問題の混乱の一因となったことは否定できません。

 ただし、現在、多数のチベット人が、中国共産党が過去40年に及ぶ支配によってチベットの伝統的な社会構造を破壊し続けてきたこと、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられていること、そして、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対する中国政府の人権抑圧が日常的に行われていることなどは厳然たる事実なわけで、その点において、国際世論がダライ・ラマ政権に同情的なのは至極当然のことといってよいでしょう。
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