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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 切手歳時記:南部鉄器
2018-10-07 Sun 01:23
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年10月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回は、10月6-7日に岩手県奥州市で開催される“南部鉄器まつり”にあわせて、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      伝統的工芸品・南部鉄器

 これは、1985年8月8日に発行された伝統的工芸品シリーズ第5集のうち、“南部鉄器”の切手です。

 南部鉄器は、鉄に恵まれた北上川沿いの岩手県盛岡市、奥州市水沢区で作られる鉄器の総称で、歴史的には、水沢の方が歴史があります。

 奥州の鋳物は、平安時代後期、江刺の地にいた藤原清衡が近江国より鋳物師を招いて始めたもので、それが南下して羽田(現在の水沢)に伝わりました。当初、鋳物師は“歩き筋”と呼ばれ、必要に応じて各地を転々と移動していたため、清衡に従って平泉に移り、中尊寺の備品なども鋳造していました。

 奥州藤原氏は、三代当主の秀衡が、1185年に源頼朝に追われた源義経を匿っていましたが、四代当主の泰衡は頼朝の圧力に屈して、1189年、義経の起居していた衣川館を襲い、義経と妻子を自害へと追いやりました。

 このとき忠臣の弁慶は降り注ぐ矢を受けて仁王立ちのまま息絶えましたが、この故事にちなんでか、鉄器まつりでは“弁慶鉄下駄飛ばし大会”も行われています。弁慶の鉄下駄といえば、五条大橋で若き牛若丸と戦った時に履いていた話が有名ですが、その下駄は、近江の産だろうと思います。ちなみに、清水寺の“弁慶の鉄下駄”は、明治時代に吉野の修験者が奉納したもので、実は弁慶本人とは無関係。そもそも、弁慶が衣川で鉄下駄を履いていたのかどうか…などとくどくど言い出すと、金剛杖で叩かれそうなので、この辺で止しておきましょうか。

 さて、奥州藤原氏の滅亡後、スポンサーを失った鋳物師たちは日常品を細々と作るだけになっていましましたが、室町時代初期、京都聖護院の鋳物師、長田正頼が黒脇千葉家に養子に入り、羽田に到来しました。千葉家は奥州総奉行の葛西氏に召し抱えられ、正頼の弟子や関西から訪れた鋳物師たちも羽田に住み、地域に鋳物業が定着します。

 江戸時代に入ると、1629年以降、水沢伊達氏の当地の下、鉄器は庇護を受けて発展し、幕末には大砲も鋳造されました。

 一方、盛岡では、慶長年間(1596-1615年)、盛岡藩主・南部氏の築城の頃から鉄器の鋳造が始まり、やはり、歴代藩主の庇護を受けて発展しました。

 1884年の盛岡大火災では鉄器工場も大きな被害を受けましたが、焼け跡から見つかった鉄瓶をとりあえず使ってみたところ、錆がでなかったことから、これにヒントを得て、以後、内部を備長炭で焼き付ける“金気止め”の手法が使われるようになります。

 1890年に東北本線が開通すると、南部鉄器の販路は飛躍的に拡大。さらに、1908年、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東北行啓の際に(八代)小泉仁左衛門が鉄瓶の製造を実演したことが話題を呼び、全国的に有名になりました。

 さて、伝統的工芸品シリーズの切手は、オーソドックスな黒色の南部鉄瓶と“波に鯉文富士形鉄瓶”の組み合わせで発行されました。

 このうち、富士形の鉄瓶は、山形・米沢方面から馬を買いにきた馬喰が土産として好んで買い求めたことから “米沢富士”とも呼ばれました。銀色なのは砂鉄を原料としているからで、湯が沸くとちんちんという音がします。

 ちなみに、黒色の鉄瓶は、本来、“金気止め”に加え、表面には漆が塗られていますが、そうした処理を省略した大量生産の“鉄製ケトル”なら、1万円以下の手ごろな値段で購入可能です。一方、砂鉄の鉄瓶を買うつもりなら、十万円単位の出費を覚悟しないとならないでしょう。

 なお、鉄瓶は高級品になればなるほど、良質の鉄を使い、持ち手も中空の“くるみ”になって軽くなるので、鉄瓶は重いなどと不用意にいうと、財布の軽さがばれてしまうことになるのでご用心。


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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

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 切手歳時記:筍
2018-04-11 Wed 02:35
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2018年4月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      近代美術・筍

 これは、1981年6月18日に発行された近代美術シリーズ第10集のうち、福田平八郎の「筍」を取り上げた1枚です。

 筍と日本人のかかわりは古く、『古事記』には、イザナギノミコトが亡き妻のイザナミノミコトを追って黄泉の国を訪ねたものの、彼女の腐乱した体を見て現世へと逃げ帰ろうとする場面があります。その際、イザナギが追手の黄泉醜女をかわすため、髪に刺していた櫛を投げつけたところ、櫛は筍に変わり、醜女が筍を食べている間に現世へと逃げおおせたという物語が伝えられています。

 『古事記』が編まれた奈良時代には、まだ孟宗竹は日本に伝えられていないので、おそらく、醜女が生のまま丸かじりにしていたのは、孟宗竹よりも旬の遅い破竹もしくは真竹の筍だったと思われます。

 現在、筍として好まれている孟宗竹は、中国・三国時代の呉の国で孫権に仕えた孟宗(271年没)が、病床にあった母親に好物の筍を食べさせようと、真冬の竹林で雪中の筍を掘り出してきたという故事にちなんで命名されたものです。

 わが国に伝来してきた由来については、①平安時代の819(弘仁10)年、唐への留学から帰朝した道雄僧都が現在の京都府長岡京市に海印寺寂照院を創建した際、大陸から持ち帰った孟宗竹を伝えたことを起源とする説(寂照院の境内には「日本孟宗竹発祥の地」の石碑があります)、②江戸時代の初期、明から渡ってきた隠元禅師が、1661(寛文元)年、宇治山田に黄檗山萬福寺を開いた際、孟宗竹を持込み、やがて西山地域で定着したという説、などが広く知られています。

 いずれにせよ、孟宗竹は江戸時代には日本の春の味覚として定着しましたが、なかでも、京都南部、乙訓の孟宗竹の筍は最高級の白子筍に代表される“京たけのこ”として有名です。

 乙訓では、前年の晩秋から初冬にかけて、老いた竹を間引いたうえで、藁を竹藪一面に敷き詰める“敷わら”を行い、その上から良質の粘土を敷く“置土”をしたうえで、3月中旬から4月下旬にかけて、“ほり”と呼ばれる独特の器具を使って、軟らかい筍を明け方近くに掘ります。明け方に収穫を行うのは、空気に触れ、光にあたると、筍が硬くなるためです。

 見慣れた人だと、朝掘りの筍とそうでないものは見た目でも区別がつくのだとか。すなわち、朝掘りの筍の皮は毛で覆われていて、数時間前まで地面の土の中に埋もれていたのがよく分かるぐらい、土を含んでしっとりと黒く濡れているのだそうです。

 今回ご紹介の「筍」の切手を最初に見たとき、僕は、この絵の筍は皮が茶色ではなく、黒々としていることを不思議に思ったのですが、どうやら早朝、地面から頭を出したばかりの様子を描いたということなのでしょう。

 ちなみに、この絵の作者で日本画家の福田平八郎は、1892年、大分県大分市生まれ。画家を志して京都に出て、1918年、京都市立絵画専門学校を卒業しました。以後、1974年3月22日(ちょうど筍の初物の季節ですね!)に亡くなるまで、京都を拠点に活動していました。だから、この切手の筍も、京たけのこをモデルにしていたと見るのが自然なように思われます。

 なお、この作品は、終戦後まもない1947年の第3回日展に出品されましたが、福田は〆切りの数日前に訪ねてきた友人に完成間近の「筍」を見せながら、「もっと黒く、もっと黒く塗らねば」と語っていたそうです。福田としては、朝掘りの筍の質感を再現したかったということなのかもしれませんね。


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 4月21日(土)12:30より、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場内で、5月刊行予定の拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』の事前プロモーションのトークイベントを行います。よろしかったら、ぜひ遊びに来てください。なお、詳細は主催者HPをご覧いただけると幸いです。(下の画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります)

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 切手歳時記:いずれあやめか かきつばた
2017-05-11 Thu 18:33
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2017年5月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      あやめの衣

 これは、1982年8月5日、近代美術シリーズ第13集の1枚で、岡田三郎助の「あやめの衣」が取り上げられています。

 『太平記』には、鵺を退治した源頼政が近衛院に謁見する場面があります。

 近衛院は、褒美として、宮中随一の美女として誉れの高かった“菖蒲前”を頼政に賜るとのこと。ただし、日が落ちかけて少し暗くなってきた中で、菖蒲前と別の美人12人に同じ格好をさせて頼政の前に並べ、頼政がみごと菖蒲前を当てることができれば…という条件を付けました。

 美女たちを目の前にした頼政は、誰が菖蒲前かわからなかったので、次のような1首を詠みました。

 五月雨に沢べのまこも水たえていづれあやめと引きぞわづらふ(大意:五月雨が降り続いて沼の石垣から水があふれ出し、草もすっかり埋もれてしまって、どこに菖蒲があるのか、それを引くのさえ思い悩む)
 
 当意即妙な歌に感心した近衛院は、そのまま、頼政に菖蒲前を妻とすることを許しました。これが「いずれあやめ」の語源ですが、後に、あやめとよく似た燕子花と組み合わせて、甲乙つけがたい美女たちを「いずれあやめかかきつばた」という表現が広く使われるようになったのといわれています。

 美女のシンボルとしての菖蒲の花といえば、今回ご紹介の切手に取り上げられた「あやめの衣」を思い出す人も多いのではないでしょうか。

 「あやめの衣」は、1927年、第12回本郷絵画展に出品された作品。池水に見立てた明るい藍地に浮き上がる花模様と、帯状に朱赤を配した衣が、きめ細やかで柔らかな女性の背中から滑り落ちてきそうな光景が切り取られています。

 モデルの女性は、後に北村美術モデル紹介所を設立した北村久だったともいわれていますが、1915年生まれの彼女は、この絵が描かれた当時、わずか12歳。この年齢で、これほどまでに色香が匂い立つというのは尋常ではありません。そこには、彼女の素質ももちろんあったのでしょううが、やはり、岡田の画力によるところが大きいのでしょう。

 現在、この絵はポーラ美術館の所蔵品になっていますが、ながらく、キャバレー・ハリウッドなどの飲食店を手広く経営し、“キャバレー太郎”として知られた福富太郎が所有していました。

 商売柄、文字通り、“いずれあやめかかきつばた”の美女たちに囲まれて生活していた福富は、某銀行の役員室に飾られたこの絵を気に入り、拝み倒してこの絵を5000万円で入手。その後、「あやめの衣」は美人画を中心とする福富コレクションの白眉となっていましたが、ある年、本業で約2億1000万円の赤字を出してしまい、ポーラ化粧品の鈴木常司に売却しました。ちなみに、その金額は2億5000万円。中間決算では会社の赤字を埋めてお釣りが来たそうです。

 ところで、菖蒲と燕子花に花菖蒲を加え、よく似た三種の花の見分け方を紹介する書物等は多いのですが、それによると、菖蒲が乾燥地に生えるのに対して、燕子花は水湿地に、花菖蒲はその中間くらいの場所に生えるとのこと。また、菖蒲の葉が細く葉脈が目立たないのに対して、花菖蒲は葉脈がハッキリしており、燕子花の葉は幅広で葉脈が目立たないのが特徴です。

 そのことを頭において、もういちど「あやめの衣」を見てみると、着物の図柄は、菖蒲を謳っていながら、藍地の水湿地の中で、葉脈もしっかりと見えるから、着物を作った職人は花菖蒲のつもりだったのではないかと考えられます。

 もっとも、画壇の巨匠、岡田三郎助でさえ、菖蒲と花菖蒲を見誤ったというのであれば、それこそまさに“いずれあやめかかきつばた”を地で行くエピソードといえるのかもしれません。
 

 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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 圏央道、茨城区間開通
2017-02-26 Sun 21:42
 首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の茨城県内区間が、きょう(26日)、開通。これにより、圏央道は常磐道や関越道など6つの高速道路とつながり、成田空港から神奈川県の湘南まで、都心を経由せずに高速道路で結ばれました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      つくば博・40円

 これは、1985年3月16日に発行された国際科学技術博覧会(つくば博)の記念切手のうち、テーマ館とシンボルタワーを取り上げた40円切手です。きょう開通した圏央道の茨城県内区間は境古河インターチェンジICとつくば中央ICの間の28.5kmですが、このうちのつくば中央ICと接続するサイエンス大通りは、つくば博の開催期間中、常磐自動車道の谷田部ICから、万博会場を直接結ぶメインアクセス道路として機能していました。

 高度経済成長に伴い、東京の過密状態を緩和させるための具体的な措置として、1963年9月、筑波山麓(現・つくば市および牛久市)に研究学園都市を建設する計画が決定され、1967年、6省庁36機関の移転が閣議了解されます。そして、1970年5月の筑波研究学園都市建設法の施行を機に都市建設と各機関の移転が進むことになりました。

 しかし、筑波研究学園都市には新たな庁舎等が建設され、各機関が移転はしたものの、当初は都市としてのインフラ整備は未整備のままの状態が続き、人口もなかなか増加しませんでした。そこで、新たな研究学園都市のお披露目とあわせて、東京から研究学園都市へのアクセスを改善し、あわせて国際会議場、宿泊施設等を建設する契機として、1977年、国際科学技術博覧会を開催する案が科学技術庁内で浮上。これに国土庁と建設省、通産省が賛意を示したことで、1978年から具体的なプランの検討が開始されます。

 科学技術庁以外の省庁がつくば博の開催に協力的だった背景には、1984年の冬季オリンピック大会の開催地として札幌市が有力視されていながら、最終段階でサライェヴォ市が開催地に決まったことから、東京より北の地域で大型公共事業を展開する契機が別途必要となったとの事情がありました。このため、当初の計画では、つくば博は1984年の開催予定とされていました。

 その後、地元との調整を経て、1978年9月30日、茨城県議会がつくば博誘致を決議。10月5日には筑波六町村が国際科学技術博誘致委員会を設置したほか、11月には国際科学技術博覧会開催促進議員連盟が発足し、当初のプランより一年おくらせて1985年のつくば博開催を目指す動きが本格化します。

 これに対して、大蔵省は、巨額の経費が必要な博覧会の実施に否定的な立場でしたが、科学技術庁の担当課長であった福島公夫が同年11月、博覧会国際事務局(BIE)のリード議長に直接接触し、つくば博の構想を相談して好感触を得ると、科学技術庁は、自民党国会議員の後押しもあって大蔵省との折衝で国際的科学技術博覧会調査費の名目での予算獲得に成功し、翌1979年3月、土光敏夫を会長とする国際科学技術博覧会推進協議会を発足させ、つくば博開催は実現に向けて大きく前進します。

 こうして、つくば博の開催は1979年11月27日に閣議で了解事項となり、翌28日のBIE総会において日本政府としての正式開催通告がなされたのを受け、1980年9月のBIE調査団が来日。1981年4月22日の総会での正式承認により、“人間・居住・環境と科学技術”(BIEに提出された“Dwellings and Surroundings ―Science and Technology for Man at Home”を日本語訳したもの)をテーマとする国際科学博覧会の開催が決まりました。

 今回ご紹介の記念切手は、つくば博会期初日の3月17日が日曜日だったため、前日16日に発行されました。図案となったテーマ館は、日本政府出展のパビリオンで、高さ42mの透明なタワー(郵政省が発表した図案説明では“シンボルタワー”)と左右に広がる2棟のガラス張りの建物です。内部では、「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに、13×20mのスクリーンを使っての日本の四季、国土の映像上映が行われたほか、譜面を見て演奏をするロボット“WASUBOT”やトマトとジャガイモを掛け合わせた“ポマト”などの展示が注目を集めました。切手の原画作者は清水隆志です。

 ちなみに、つくば万博のメイン会場は、Dブロックの跡地に“科学万博記念公園”が作られたほかは、工業団地(筑波西部工業団地)に転用され、切手に描かれたテーマ館も取り壊されましたが、科学万博記念公園内には、42mのシンボルタワーを4分の1に縮小した高さ10mの“科学の門”が建てられています。

 なお、つくば博関連の切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 切手歳時記:あらまき
2016-12-14 Wed 10:36
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2016年12月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      高橋由一・鮭

 これは、1980年2月22日に発行された近代美術シリーズ第5集のうち、高橋由一の「鮭」を取り上げた1枚です。

 僕が子供の頃は、年末になると、誰かしら新巻鮭を送ってくれる人がありました。

 もともと“あらまき”というのは、塩漬けの魚を藁や竹の皮などで包んだものを指す言葉で“苞苴”と書き、塩漬けにする魚も鮭とは限らなかったようです。長野県の佐久地方で現在でも“新巻鯉”が作られているのは、その名残だと考えられています。

 江戸時代には“あらまき”には“荒巻”の字を当てるのが一般的でしたが、その語源は、①荒縄で巻いたから、②荒く巻いたから、③藁で巻いた“藁巻”に由来する、④塩を粗くまい“粗蒔き”に由来する、などの諸説があります。また、年末年始の贈答品に荒巻鮭を送る風習が広まったのも江戸時代後半のことだといわれています。

 その後、明治も中頃になると、鮭の収穫時期からほどなくして、年末に荒巻をやり取りすることから、新しく収穫された鮭、新物の鮭の意味で、現在のように“新巻”の文字があてられるようになりました。ただし、今回ご紹介の切手に取り上げられた「鮭」は、1875-77年頃の作品ですから、この鮭に充てる漢字は“荒巻”だったと思われます。

 作者の高橋由一は、文政11年2月5日(1828年3月20日)、下野国佐野藩士の長男として江戸大手門前の藩邸で生まれました。

 12-13歳の頃から狩野洞庭らに日本画を学びましたが、西洋の写実的な版画に感激して洋画を志し、1862年、蕃所調所(幕府直轄の洋学研究機関)の画学局に入り、川上冬崖の指導を受けます。さらに、1866年以降、英字紙の特派員として横浜に在住していたワーグマンに実技を学び、1876年には工部大学校(現東京大学工学部)付属の工部美術学校教授として来日したイタリア人画家A.フォンタネージの指導を受け、西洋の写実主義を自家薬籠中のものとしました。また、1873年、日本橋浜町に画塾、“天絵楼(のち天絵舎、天絵学舎)”を開設し、油絵の普及と弟子の育成に努めました。

 由一の自宅兼画塾があった日本橋浜町から、当時の魚河岸があった本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町一丁目から日本橋室町一丁目付近)までは目と鼻の距離です。江戸時代の浜町には大名屋敷や蔵屋敷が立ち並んでいましたが、明治維新後は、地の利を活かして、大名屋敷の跡地を利用して多くの料亭や飲食店が開業しました。

 由一は、油絵に対する世間の理解を得るため、日本人にとって身近な題材を積極的に取り上げましたが、彼が特に鮭を選んだ背景には、そうした土地柄もあったのでしょう。

 さて、由一が描いた鮭は、鼻の曲がり具合から、荒巻の定番、シロサケだとわかります。口から鰓に縄を通した鮭を上から吊るしているので、身の重みで尾の方に皺が寄っており、、鮭は半身の腹部が切り取られた状態になっています。

 僕の記憶では、わが家に届いた新巻は祖母や母がすぐに3枚におろし、塩抜きしてから冷蔵庫にしまっていましたが、由一の家では軒に吊るしたまま、その日に食べる分だけを切りだしていたようですな。西洋の生ハムやサラミと同じような消費の仕方ですが、それだと、尾の身を食べる頃にはかなり塩が回っていたはずで、その部分はお茶漬けにでもしないと辛くて食べられたものではなかったと思います。

 新巻が届いて数日後、忘年会でしたたかに酔っぱらった由一が帰宅し、鮭の尾の身を少し削って、火鉢であぶり、ご飯に載せてお茶をかけてすすっている…忘年会の季節になると、連日連夜、酔眼朦朧で帰宅するわが身に引き付けて、そんな後日談の風景も想像してみたくなる1枚です。


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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 波斯
2016-10-06 Thu 19:26
 奈良文化財研究所は、きのう(5日)、1966年に平城京跡から発掘された8世紀中頃の木簡を改めて調査した結果、ペルシャを意味する“破斯(波斯と同音)”の名字を持つ“破斯清通”という人名と、“天平神護元年(765年)”という年号が書かれていたことが明らかになったと発表しました。というわけで、きょうは“波斯”がらみでこの切手です。(画像はクリックで確認されます)

      雪柳と海芋に波斯の壺

 これは、1983年1月24日に発行された近代美術シリーズ第15集のうち、児島善三郎の「雪柳と海芋に波斯の壺」を取り上げた1枚です。

 現在のイランの古名にあたる“ペルシャ”は、もともとは“騎馬の者”を意味する“パールス”にちなんだパールサ地方(現代イランのファールス地方)のことで、これがギリシャ語ではペルシスと呼ばれ、中国語では“ファンシー”と呼ばれて波斯の字があてられました。

 文献上の記録としては、唐代の629年に成立した『梁書』(502-557年に存在していた王朝、梁の歴史書)の列伝第四十八諸夷の中に“波斯国”が採りあげられており、これらの記録を通じて、日本にも波斯の情報が伝えられました。

 たとえば、『日本書紀』には、斉明6年(西暦660年)の秋七月の庚子の朔乙卯(旧暦7月16日)の条に「覩貨邏人乾豆波斯達阿、本土に帰らむと欲ひて、送使を求ぎ請して曰さく、『願はくは後に大国に朝らむ。所以に、妻を留めて表とす』とまうす。乃ち数十人と、西海之路に入りぬ。」として、日本にいた乾豆波斯なる人物が、一時帰国する際に、日本に再訪する意思を示すため、妻を日本に残して行ったとの記述があります。

 また、『続日本紀』巻第十二には、天平8(736)年の出来事として、「八月庚午、入唐副使従五位上中臣朝臣名代ら、唐の人三人、波斯一人を率ゐて拝朝す」、「十一月戊寅、天皇、朝に臨みたまふ…唐の人皇甫東朝・波斯人李密翳らに位を授くること差有り」として、8月23日に遣唐副使・従五位上の中臣朝臣名代らが、唐人3人・ペルシャ人1人を率いて、帰国の挨拶のため天皇に拝謁したこと、11月3日にペルシャ人の李密翳らに位階が授けられたこと、が記されています。ただし、ここで取り上げられているペルシャ人の李密翳がムスリム(イスラム教徒)であったか、あるいは、ムスリムによる征服活動を逃れて中国経由で亡命してきたゾロアスター教徒ないしはマニ教徒(もしくはその子孫)であったか、そのあたりは定かではありません。

 さらに、900年頃に成立したと推定される『竹取物語』には、かぐや姫が求婚の条件として阿部右大臣に火中に投じても燃えない「火鼠のかはぎぬ」を求める場面がありますが、この「火鼠のかはぎぬ」は中国の商人がペルシャなどから取り寄せていた石綿で織った布のことと考えられており、唐土・天竺のさらに西に波斯が存在するということは(少なくとも知識人・上流階級の間では)漠然と知られていたことが伺えます。

 ちなみに、国名としては、1935年3月21日、パフラヴィー朝のレザー・シャーが国名をペルシャからイランに変更した後も、なかなか新国名のイランは一般には定着しませんでした。このため、1959年、モハンマド・レザー・シャーはイランとペルシアは代替可能な名称とし、両者の併用を認めましたが、1979年のイスラム革命によって樹立されたイスラム共和国は国名を“イラン”に統一しています。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた「雪柳と海芋に波斯の壺」は、第二次大戦後の1956年に開催された第2回現代日本美術展に出品された作品ですので、正式な国名としてはイランの時代です。ただし、作品に描かれた壺は、左右対称の絵付けがエキゾチックな雰囲気を醸し出していますが、1935年に国名がイランと改称される以前に制作されたものなのか、それとも、同時代の新しいものなのかは、確認できませんでした。まぁ、作者の児島善三郎は明治生まれですから、やはり、カタカナのペルシャではなく(ましてやイランではなく)、伝統的な日本語の“波斯”が作品のタイトルとしては相応しいと考えたのかもしれません。

 なお、児島善三郎は、1893年、福岡市中島(現・博多区中洲中島町)生まれ。長崎医学専門学校(現・長崎大学医学部)を中退し、1913年に上京して本郷洋画研究所に入りました。1921年、第8回二科展に初入選し、翌1922年の二科展で二科賞を受賞。1925-28年に渡欧し、帰国後の第15回二科展に「立てるソニア」ほか滞欧作品22点を特別出品して翌1929年には二科会員となりましたが、1930年、二科会を脱退し独立美術協会を結成。1935年頃から、西洋人の模倣ではない“日本人の油絵”の確立を目指して奮闘し、1962年に亡くなるまで、画壇に大きな影響を与えました。


★★★ 講座のご案内 ★★★

 ・毎日文化センター
 下記の通り、1日講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください)

 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行
 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ 
  

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 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
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 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

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 切手歳時記:夕顔の香り
2016-07-12 Tue 11:58
 ご報告が遅くなりましたが、公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2016年7月号ができあがりました。僕の連載「切手歳時記」は、今回はこの1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      見立夕顔

 これは、1981年の切手趣味週間の切手で、鈴木春信の「見立夕顔」が取り上げられています。

 『源氏物語』の「夕顔」は、ある夏の日、17歳の光源氏が、六条の御息所のもとに通う途中、五条に立ち寄り、病身の大弐の乳母を見舞う場面から始まります。

 当時の五条は庶民が生活している地域で、貴族の邸宅とは比ぶべくもない貧相な家が数多くありましたが、そうした家の垣根には白い花が美しく咲いていました。

 源氏が従者に花の名前を問うたところ、「あの白い花を夕顔と申します。人間のような名でございまして、こうした卑しい家の垣根に咲くものでございます」とのこと。そこで、「気の毒な運命の花だね。一枝折ってこい」と従者に命じ、隣家の夕顔を取りにやらせたところ、その家の女性は自分の扇に花を乗せて源氏に贈ってきました。

 見舞が終わって、あらためて源氏が夕顔の載せられていた扇を見てみると、きれいな字で「心あてにそれかとぞ見る白露の 光添へたる夕顔の花」との歌が書かれています。これを見て、彼女に興味を持った源氏は、「よりてこそそれかとも見めたそがれに ほのほの見つる花の夕顔」との歌を返しました。

 これが縁となり、乳母の息子、惟光の橋渡しで源氏は彼女(=夕顔)のもとに、身分を隠して通うようになります。

 その後、2人の関係はしばらく続いたが、旧暦8月15日、中秋の逢瀬の際に、六条御息所の怨霊が現れて恨み言を言い、夕顔はそのまま意識を失って、明け方に息を引き取ってしまいました。

 『源氏物語』の原文には、源氏が夕顔と初めて出会った日付についての記述はありません。ただ、夕顔の命日となった旧暦8月15日が陽暦の9月半ばくらいであり、夕顔の花が咲くのは陽暦の7月から9月にかけてのことですから、2人の出会いは7月の中下旬、ちょうど今頃の時季だったのではないかと思います。

 さて、今回ご紹介の切手にも取り上げられた、鈴木晴信の「見立夕顔」は、上述の源氏と夕顔の出会いの場面から着想を得て描かれた見立絵です。

 見立絵というのは、王朝文学や古典の詩歌などを主題としながら、そのモチーフを当世風俗で描いたもの。「見立夕顔」では、画面左の娘が手にする扇には、夕顔の花ではなく、恋文が載せられており、若者の供の子供が持つ虫かごが御所車のかたちをしていることで、『源氏物語』にちなむ見立絵であることが示されています。

 さらに、切手では少しわかりにくいのだが、若者の着物の袖に家紋を模した文様が入っていますが、これは「源氏香の図」の“夕顔”で、これがあることで、この見立絵が『源氏物語』の「夕顔」にちなむものであることが(わかる人には)わかるという仕掛けです。

 源氏香は、5種の香木を各5包、計25包用意したうえで、その中の5包みをとって、順に香を聞いていき、その異同を紙に記して楽しむという遊びで、異同の組み合わせが52通りあることから、それぞれのパターンを『源氏物語』54巻のうち桐壷と夢浮橋の巻を除いた52巻にあてはめるというものです。

 それぞれのパターンを、5本の縦線の頭のつなぎ方によって図示したのが「源氏香の図」で、“夕霧”の場合は、右から2番目と3番目の縦線の頭のみをつなぐことで、2番目と3番目の香が同じで、他は異なるという組み合わせを表現しています。具体的には、下の画像のような図です(隣に、袖の部分の拡大図も載せておきます)

      源氏香図・夕顔  見立て夕顔・部分

 したがって、この絵が「見立夕顔」であることを理解するためには、『源氏物語』の知識だけでなく、香道にも通じていなければならないわけですが、江戸の通人たちは、この絵を見てぱっとそれがわかったんですよねぇ。いやはや、己の不明を恥じ入るばかりです。


 ★★★ 全日本切手展(+内藤陽介のトーク)のご案内 ★★★

 7月22-24日(金ー日) 東京・錦糸町のすみだ産業会館で全日本切手展(全日展)ならびにオリンピックとブラジル切手展が開催されます。詳細は、主催団体の一つである日本郵趣連合のサイト(左側の“公式ブログ”をクリックしてください)のほか、フェイスブックのイベントページにて、随時、情報をアップしていきますので、よろしくお願いいたします。

      全日展2016チラシ

 *画像は全日展実行委員会が制作したチラシです。クリックで拡大してご覧ください。

 会期中の7月23日15:00から、すみだ産業会館9階会議室にて「リオデジャネイロ歴史紀行」と題するトークイベントを行います。ぜひ、ご参加ください。


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 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

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 仁和寺ブラック
2016-04-14 Thu 12:03
 世界遺産・仁和寺が運営する宿坊の元料理長の男性が、過酷な長時間労働で抑うつ状態になったとして、寺を相手取り損害賠償などを求めていた訴訟で、京都地裁は、原告の主張を認め、仁和寺に総額約4253万円の支払いを命じました。というわけで、きょうは仁和寺がらみでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      応挙・深山大沢図

 これは、1979年の国際文通週間の切手で、仁和寺所蔵の「深山大沢図屏風」の一部が取り上げられています。「深山大沢図」は円山応挙による紙本淡彩、六曲一双の屏風絵で、「深山図」と「大沢図」から構成されています。切手に取り上げられているのは右隻の「深山図」の三扇目上部、杉の梢に停まるフクロウの部分です。

 作品は、水墨画に近い淡彩色の画面に、樹葉の微妙な明暗がいかにも山の冷気を感じさせ、フクロウの羽毛の描写も濡れているような感触を伝え、ことに瞳の描写に精彩があると言われています。

 切手では、そうした原画の持ち味を生かすため、明るい灰、うす黄茶、灰味赤紫、うす茶、黒の5色が用られました。すなわち、最初に“明るい灰”で前面にベタがけした上に、オリジナルの屏風の汚れやしみも忠実に再現するため“うす黄茶”と“灰味赤紫”が用いられました。“うす茶”はフクロウの部分を中心に、黒色は線の部分に用いられています。一見、単純な墨一色の作品と見られがちですが、よりリアルに墨跡を表現するために、さまざまな工夫がなされていたわけです。

 さて、今回の判決によると、原告の男性は2004年から仁和寺の宿泊施設“御室会館”の食堂に勤務し、翌2005年からは料理長として働いていましたが、2011年以降、時間外労働が月140時間を超えるのが常態化し、月約240時間に及ぶこともあったほか、2011年は356日出勤し、うち349日は連続して勤務していたそうです。この結果、男性は2012年に抑うつ神経症を発症し、同年から休業しており、提訴にいたったそうです。判決文の通りだとすると、仁和寺というのはとんでもないブラック企業だったということになります。

 仁和寺の法師といえば、『徒然草』では、鼎をかぶって踊っていたら頭から抜けなくなったり、石清水八幡宮に詣でたものの肝心の本宮をお参りせずに帰ってしまったりといった、おバカなエピソードが紹介されていることで知られています。もっとも『徒然草』のエピソードは、バカな奴だなぁと笑って済まされるものが多いのですが、今回の料理長に対する一件は全く笑えません。

 判決を受けて、仁和寺側は「主張が認められず残念。判決文を精査し、今後の対応を決めたい」とする談話を出しており、控訴する構えだそうですが、どうやら、“仁和寺の法師”が非常識なのは、いまも昔も変わりはないということなのでしょうな。


 ★★★ 講座のご案内 ★★★

 ・よみうりカルチャー荻窪 「宗教と国際政治」
 4月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。
 

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 切手歳時記:栃の木と老猿
2016-01-03 Sun 10:02
 公益財団法人・通信文化協会の雑誌『通信文化』2016年1月号ができあがりました。今回は新年号ですから、僕の連載「切手歳時記」も、干支にちなんで、猿切手の中からこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      老猿

 これは、1983年3月10日に発行された近代美術シリーズ第16集のうち、「老猿」の切手です。

 1892年の春、彫刻家の高村光雲は、農商務省から、翌年のシカゴ万国博覧会への出品の依頼を引き受けます。

 光雲は、以前、高級木材である栃を用いてオウムの彫刻を作り、それが宮内省お買い上げとなった経験がありました。そこで、シカゴ博覧会の出品も栃で白猿を作ろうと思いつき、さっそく、神田南乗物町(現在の千代田区鍛治町1)の材木屋を訪ねてみると、材木屋は「栃木県の山中に栃の良材があるのだが、東京までの運搬コストがかかりすぎて商売にならない」とのこと。そこで、光雲は友人で軍人の後藤貞行を伴い、まだ寒さの残る3月のある日、材木の買い出しに出かけます。

 宇都宮を経て鹿沼の村はずれまで来た一行は、栃の木がある山中の発光路まで人力車を頼もうとしたものの、車夫たちは誰もしり込みして行きたがりません。

 やむなく、険しい山道を苦心惨憺して進み、材木を売るという長谷川栄次郎なる人物とようやく接触。長谷川は、直径七尺以上の栃の巨木は崖に生えていて、一本3円だといいます。東京の相場からするとタダ同然でしたから、光雲は早速購入を決めましたが、その後、宿の者には“ぼったくり”だと笑われてしまいました。

 この地域では、かつては穀物が取れないため、栃の実で餅を作って主食にしていました。ところが、足尾銅山の開発に伴い、人々は現金収入の機会を得て穀物を買うようになったっため、栃餅はすたれ、栃の木は場所ふさぎの厄介者となっていました。だから、わざわざ東京から栃の木を買いに来るなんて、なんて物好きな…と話題になっていたのだというのです。

 さて、次なる問題は材木の運搬でした。

 長谷川の目論見では、5月までには発行路から光雲の仕事場がある浅草の花川戸岸に運べるだろうということで、光雲は運賃30円、さらに木を切り出す費用として10円、計40円の半額の20円を手付金として長谷川に渡して帰京し、そのまま到着を待ち続けます。

 ところが、約束の五月になっても材木は到着しません。

 これは、丸太のままであれば材木を転がして運べたものを、長谷川が丸太を半分に割ってしまったため、かえって運搬に人手と時間がかかったことが最大の理由でした。さらに、途中、材木の通路にあたる畑の持ち主をなだめるため、地元の学校・生徒に学用品を配って懐柔しなければならなくなったり、運搬のために小川に架かる橋を壊さなければならなくなったりして、結局、材木が花川戸に到着したのは8月後半でした。もちろん、費用の面でも当初予定の40円を大幅に上回り、200円以上にもなってしまいました。

 こうして材料は到着したのですが、すると今度は、光雲の娘、咲子が9月9日、わずか16歳で病死してしまいます。

 すっかり落胆した光雲でしたが、クライアントの農商務省からは、そんなことはお構いなしに、ともかくも年内に作品を完成させろと矢の催促です。

 そこで、とりあえず、光雲が受け取ったままになっていた材木にノミを入れてみたところ、木地は純白ではなく、茶褐色でした。これでは、当初の計画通り、白猿を作るのは不可能です。そこで、光雲は,急遽、浅草奥山の猿茶屋の猿をモデルに野育ちの老猿を彫ることにして、必死にノミをふるうことにしました。もっとも、このことは、結果として、光雲の悲しみを紛らわせることになったそうです。

 とはいえ、さすがに作品は年内の〆切には間に合わず、農商務省に納品されたのは年が明けた1893年になってからのことでした。

 こうして世に出た「老猿」は、シカゴ万博で優等賞を獲得。光雲の代表作として、後に国の重要文化財に指定され、切手にも取り上げられたというわけです。

 なお、この切手を含む近代美術シリーズの切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でもまとめて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 春日若宮社の銀鶴
2015-12-17 Thu 12:15
 きょう(17日)は、春日大社の摂社(本社に縁故の深い神を祀った神社)、若宮社の祭祀である春日若宮おん祭の日です。というわけで、春日若宮社といえば、この切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

      銀鶴・見本

 これは、1981年7月10日に発行された100円切手の見本で、春日若宮社の銀鶴が取り上げられています。

 若宮社は、1135年に創建で、春日大社の主神の天児屋根命(建国神話の岩度隠れに際して、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに八咫鏡を差し出した神)に対して、摂社として御子神(親子関係にある神のうちの子の神)の天押雲根命を祀っています。その創建には、藤原摂関家がこれに深く関わっています。この年から1137年にかけ、右大将藤原頼長(のち左大臣)らが中心になり、古神宝を本社の春日大社に奉納しました。それらを総称して若宮御料古神宝類といい、そのうち、今回ご紹介の銀鶴を含む49点が国宝に指定されました。

 切手に取り上げられた銀鶴は高さ13センチ、胴部は上下2枚のやや厚手の銀板を槌出して作られたもので、翼など羽毛の線には鋤彫が施してあり、頭部と両足は別材で継ぎ足しています。足の下には柄(ものを継ぐとき、一方の材に作った突起状のもので“ほぞ”と読みます)のある留金が突出しており、室内の飾りとして何らかの台の上に置かれていたものと考えられています。また、御子神の玩具として納められたともいわれています。


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