内藤陽介 Yosuke NAITO
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 元大関・把瑠都が引退
2013-09-12 Thu 12:34
 エストニア出身の元大関、把瑠都が、きのう(11日)、日本相撲協会に引退届を提出しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       エストニア・相撲世界選手権

 これは、2008年にエストニアで発行された世界相撲選手権大会記念の切手つき封筒です。

 世界相撲選手権大会は、国際相撲連盟が主催する男子の世界大会で1992年から原則として毎年開催されています。ちなみに、女子は2001年から、世界女子相撲選手権大会という別名称で開催されていますが、大会の会場は男子と同じです。

 今回の切手つき封筒の第18回大会は、2008年10月、把瑠都の出身地であるエストニア北東部のラクヴェレで開催されました。2008年の把瑠都は、小結、関脇と順調に番付を上げていた時期で(ちなみに、大関昇進は2010年のことです)、彼の活躍がエストニア開催の大きな要因になっていたことは間違いありません。純然たるスポーツ競技としての相撲は体重別の階級制度を取り入れるなど、大相撲とは異なる面も多々あるのですが、封筒の余白に感じで大きく“大相撲”と書かれているのも、かの地での把瑠都人気を反映したものなのでしょう。

 さて、2012年1月場所に幕内優勝を成し遂げ、綱獲りに挑んだこともあった把瑠都ですが、その後は度重なる故障などに泣き、同年11月場所限りで大関から陥落。最近では十両まで番付を下げ、ついには引退となりました。親方として相撲協会に残るための日本国籍を取得していないこともあって、このまま角界を去り、今後は日本とエストニアをつなぐ懸け橋を目指すとのことです。今までお疲れ様でした。そして、これからのご活躍をお祈りしております。


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 大相撲は把瑠都が優勝
2012-01-21 Sat 22:05
 大相撲初場所は、きのう(20日)、千秋楽を待たずにエストニア出身の大関・把瑠都が優勝を決めました。というわけで、きょうはエストニア切手の中から“勝利”がらみの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        エストニア・勝利の日

 これは、2006年6月23日に発行された“勝利の日”の観艦式の記念切手です。

 現在のエストニア国家の領域はロシア革命以前、帝政ロシアの支配下に置かれていましたが、革命後のボリシェヴィキ政権はドイツと単独講和を締結。ロシアはエストニアから撤退し、代わりにドイツ軍が進駐しました。これに対して、エストニアは1918年2月24日、独立を宣言。これを認めないドイツ占領軍と対立します。

 さらに、1918年11月18日、ドイツの敗北で第一次大戦が終結。これに伴い、12月7日、ドイツはエストニア側に主権を移譲しました。しかし、エストニア駐留のドイツ軍政部のフォン・デア・ゴルツ将軍はドイツ本国の命令には従わずに占領を継続します。こうした混乱に乗じて11月28日、ボリシェヴィキ政権がエストニアに侵攻。エストニア独立戦争が勃発します。

 その後、1919年6月23日、エストニア軍がヴェンデンの戦いでドイツ系のバルト連合公国軍に勝利。これにより、エストニアは独立を確保し、翌1920年2月2日のタルト平和条約でボリシェヴィキ政権に対しても独立を無条件で承認させ、独立国家としての地位を確保しました。

 切手の題材となった観兵式は、ヴェンデンの戦いでの勝利を記念して設けられた“戦勝記念日”に実施されたモノで、切手にも“6月23日”の日付が入っています。

 それにしても、久しぶりにモンゴル以外の国籍の力士が優勝したとはいえ、やはり今回も外国人ですからねぇ。そろそろ、日本人力士にも頑張ってもらって、日本人力士優勝にちなんだ切手をご紹介したいものです。


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 エストニア独立回復記念日
2011-08-20 Sat 23:54
 1991年8月20日、ソ連8月クーデターの混乱の中で、エストニアが独立を回復してから、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはエストニア切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        エストニア最初の切手

 これは、1918年11月に発行されたエストニア最初の正刷切手です。

 ロシア10月革命で誕生したボリシェヴィキ政権はドイツと単独講和を締結。この結果、ロシアはエストニアから撤退し、代わりに、エストニアにはドイツ軍が進駐することになります。これに対して、エストニアのナショナリストは1918年2月、独立を宣言。その後、同年11月11日にドイツが降伏すると、エストニアは名実ともに独立国となりました。

 ロシア撤退後のエストニアでは、暫時、ドイツ占領当局が郵便を担当していましたが、1918年11月13日、首都タリンでエストニア側が郵便電信局を掌握してエストニア郵政が発足。エストニア最初の切手として、花模様の5コペイカならびに15コペイカの切手が発行されました。今回ご紹介のものは、そのうちの5コペイカ切手です。

 その後、1939年に第2次大戦が勃発すると、1940年にソ連はエストニアを再占領。1941年に独ソ戦が始まると、一時的にエストニアはドイツの占領下に置かれましたが、最終的には、ソ連が奪還し、第2次大戦後は1991年8月まで、ソ連を構成する15の共和国の一つとされていました。

 エストニアを含むバルト三国に関しては、その複雑な歴史を反映して郵便史的にもいろいろと興味深いマテリアルがあるのですが、エストニアでは2007年施行の法律で公の場での“鎌と槌”ならびに“ハーケン・クロイツ”の使用と掲揚が禁じられているのだとか。ということは、かの国の国内展では、たとえば「エストニア郵便史 1940-1945」なんて作品は展示できないんでしょうかねぇ。ちょっと気になりますな。

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 把瑠都の大関昇進
2010-03-31 Wed 13:05
 大相撲のエストニア出身力士、把瑠都が大関に昇進しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      エストニア・レスリング

 これは、1993年にエストニアが発行した第1回バルト海競技大会の記念切手で、レスリングの選手が描かれています。

 バルト海競技大会は、アジア競技大会などと同様の総合地域競技大会で、第1回大会は1993年にエストニアのタリンで、第2回大会はリトアニアのカウナスで開かれましたが、2001年の第3回大会は開催国が決まらず、中断してしまいました。参加国は、いわゆるバルト三国に加え、ポーランド、ロシア、ベラルーシ、フィンランド、スウェーデンなどです。

 切手に取り上げられたレスリングは、エストニアのお家芸ともいうべきもので、過去、同国が獲得したオリンピックのメダル31(金9、銀8、銅14)のうち、10(金5、銀1、銅4)を占めています。かつて、エストニアのレスリング選手が、日本の国体切手のモデルにもなったというのも頷ける話です。

 ちなみに、今回、大関昇進を果たした把瑠都はレスリングではなく柔道の経験者だそうですから、日本の武道独特の礼や品格などの考え方にもなじんでいることでしょう。とまれ、今後の活躍に期待したいところですな。
  
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 ナチス・ドイツこそ解放軍?
2007-01-21 Sun 02:08
 バルト海沿岸のエストニアで、首都タリンの中心部にある旧ソ連兵の記念碑を撤去して別の墓地に移転する計画が進んでいることに対して、ロシア側は「エストニアをナチスから解放したソ連軍への冒涜」と激しく反発し、ロシア下院はプーチン大統領にエストニアへの経済制裁を検討するよう求める決議まで採択したのだそうです。

 というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ドイツ占領加刷

 これは、第二次大戦中、ドイツ占領下にあったエストニアのペルナウで発行された加刷切手です。

 第二次大戦以前のエストニアは、反共を掲げるコンスタンティン・ペッツ政権が共産党を弾圧する一方、親ドイツ外交を展開しており、ソ連にとっては厄介な隣国となっていました。

 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、「独ソ不可侵条約」に基づき、独ソ両国はポーランドを分割しますが、その後もスターリンはエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国に食指を動かし、翌1940年6月、新政府樹立の最後通牒を突きつけます。エストニアとしては、ソ連の侵略に対してドイツの支援を得て対抗したかったのでしょうが、肝心のドイツはソ連との不可侵条約を理由にエストニアを見捨ててしまい、その結果、エストニアは他の2国とともに1940年6月17日、ソ連軍に占領され、ソ連に編入されてしまいました。

 しかし、1941年に独ソ戦が勃発すると、ドイツ軍がバルト三国に侵攻。これに対して、ソ連軍による占領に抵抗していた人々は、ドイツ軍を“解放軍”として歓迎し、多くのエストニア人が武装SS隊員に志願しています。

 ソ連領への編入後、エストニアではソ連切手が使われていましたので、独ソ戦勃発後、この地を占領したドイツ軍は、現地で用いられていたソ連切手を押収し、粉のような加刷切手を発行することになったわけですが、まさに、この1枚は、独ソ両国に翻弄されたこの時代のエストニアの悲劇を象徴的に示すものといえます。

 結局、第2次大戦末期の1944年、エストニアはソ連によって“解放”されてしまい、1991年までソ連の構成国であることを強いられていました。

 このような事情を考えると、首都タリンにある旧ソ連兵の記念碑は、エストニア人にとっては、暗黒のソ連時代を象徴する忌まわしいものでしかないように思われるのですが、話はそう単純ではありません。実は、エストニアの人口の4分の1はロシア系で、彼らはソ連によるナチスからの解放を肯定的に評価しています。そうした声は、決して国内の世論として無視できません。また、いくらソ連が憎いからと言って、こんにち、ナチス・ドイツを解放軍として迎えた過去を積極的に評価するのは、やはり無理があります。

 もっとも、そうした事情を別にしても、「ナチス・ドイツから解放してやったんだから、お前ら感謝しろ」と叫んで経済制裁までちらつかせるロシア側の姿勢には、何とも厭な気分にさせられます。好むと好まざると我が国のお隣さんはそういう国なのだ、ということは記憶にとどめておいたほうが良いのかもしれません。
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 危うく切り取るところだった・・・
2006-03-30 Thu 21:26
 今日(3月30日)は、1990年にバルト三国の一つ、エストニアがソ連に対して独立宣言を突きつけた日だそうです。というわけで、エストニアがらみのものということで、こんなカバー(封筒)をご紹介します。

エストニアのカバー

 雑誌『郵趣』の4月号によると、2004年5月にEUに加盟したエストニアでは、2007年1月1日のユーロへの通貨統合を目指して、今年(2006年)1月から、従来のエストニア・クローンとユーロを併記した切手を発行するようになったそうです。

 で、このカバー(画像はクリックで拡大されます。なお、住所部分は画像では隠してあります)では、上段中央に貼られているトリノ・オリンピックの記念切手が、そのクローン・ユーロ併記切手で、残りはクローン表示のものとなっています。

 ちなみに、トリノ・オリンピックの切手の右側に貼られているのは、エストニア出身の帝政ロシアの海軍将校、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの切手です。彼は、1803-06年に世界一周航海を行い、そのときのことを『世界周航記』という本にまとめたことでヨーロッパで走られた人物で、1804年には、かの遣日使節レザノフの護衛として来日しています。近年、韓国政府が日本海のことを“東海”と呼ぶように国際社会に訴えていますが、フォン・クルーゼンシュテルンの著作では、日本海はしっかり“日本海”と記されており、歴史的にも“日本海”という呼称のほうが定着していたことがうかがえます。

 実は、このカバーはインターネット・オークションe-bayの落札品(このマテリアルについては、そう遠からず、このブログでもご紹介することになるかと思います)を送ってもらったときのものです。普段は、自宅宛の封筒は切手の部分だけ切り取ってしまうことも多いのですが、何気なく、『郵趣』を読んでいて、上段左の切手のことが記事の写真に取り上げられていた(記事では、同じ図案のクローン・ユーロ併記切手と並べられていました)のに気がついて、切手部分を切り取るのを止めたというわけです。

 なお、郵趣の記事では書かれていなかったのですが、ユーロの導入後も、おそらく一定期間はクローン額面表示の切手が使われることになると思います。せっかくですから、来年の年明け早々、今回の業者から何か買って、両通貨の切手が混貼されたカバーで品物を送ってもらうことにしましょうか。でも、万事に飽きっぽく忘れっぽい僕が、それまでこの話を覚えているかどうか…それが最大の問題になりそうです。

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