内藤陽介 Yosuke NAITO
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 マザー・テレサ列聖
2016-09-05 Mon 19:26
 インドのカルカッタ(コルカタ)で貧しい人たちを助ける活動に生涯をささげたカトリック修道女、マザー・テレサがきのう(4日)、列聖されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      アルバニア・マザーテレサ没後1周年(1998)

 これは、1998年9月5日にアルバニアが発行したマザー・テレサ没後1周年の追悼切手です。

 マザー・テレサ(本名アグネス・ゴンヂャ・ボヤヂウ)は、1910年、オスマン帝国コソヴォ州のスコピエで生まれました。ちなみに、オスマン帝国のコソヴォ州の領域は、現在のコソヴォ共和国とは一致しておらず、彼女の生まれたスコピエも現在はマケドニア共和国の領土です。ただし、現在のコソヴォ政府は、彼女の母親の出身地のジャコヴァがコソヴォ共和国の領内にあることをもって、彼女はコソヴォゆかりの人物であると主張しています。ちなみに、父親の出身地であるミルディタは現在はアルバニア領です。

 血統的にいうと、アグネスの両親はアルバニア人(異説もあり)で、彼女もアルバニア語を母語として育てられました。また、彼女の家庭は、ムスリムが多数を占めるアルバニア人コミュニティには珍しく、カトリックでした。

 彼女の幼少期については不明な点が多いのですが、18歳の時に、故郷のスコピエを離れてアイルランドでロレト修道女会に入り、1931年、修練女としてインドに赴任。そこで、テレサの修道名を得ます。1929年からはカルカッタの聖マリア学院で地理の教師を務め、1944年には校長に任命されましたが、1946年、汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたため、スラム街での救貧活動に専念することを決意。1948年、教皇・ピウス12世からの特別許可を得て、スラム街での活動を開始しました。

 彼女の活動が世界的に知られるようになったのは、1971年、教皇パウロ6世が自ら制定した“ヨハネ23世教皇平和賞”の最初の受章者としてテレサを選んだのがきっかけです。受賞の理由としては、彼女の活動を文字通りに顕彰するということもさることながら、彼女がアルバニア人だったということも重要視されたと考えるのが自然でしょう。

 すなわち、当時のアルバニアは、エンヴェル・ホッジャ独裁体制の下、1967年にはすべての宗教を完全に否定する“無神国家”の宣言がなされたのをはじめ、中国の文化大革命に影響を受けた急進社会主義路線が採られていました。当然のことながら、こうした状況の下で、“アルバニア人”であるマザー・テレサに世界的な賞を授与することは、ヴァティカンとしてアルバニアの“無神国家”の体制に対する批判の意図を示すことになります。

 ヨハネ23世教皇平和賞以降、彼女には、ケネディー賞(1971年)、アルベルト・シュバイツアー賞(1975年)、ノーベル平和賞(1979年)、米国大統領自由勲章(1985年)などが授与されましたが、アルバニア政府はこれらをことごとく無視し、家族訪問のための彼女のアルバニア入国申請を却下し続けました。

 その後、1989年の東欧民主化の影響を受けて、1990年以降、遅ればせながら、アルバニアでも徐々に改革開放が進められていく過程で、1990年12月、アルバニア政府はマザー・テレサに対して初めて入国許可を出しました。この時点では、アルバニア政府は公式には“無神国家”の立場を維持していましたが、翌1991年、“無神国家”の建前が放棄されると、以後、アルバニア政府は、マザー・テレサを“世界一有名なアルバニア人”として、自分たちは“マザー・テレサの祖国”であるとアピールしはじめます。その一環として、1992年、アルバニア政府は彼女にアルバニア市民権を授与したほか、普通切手の図案は、彼女の肖像を描くものに変更されました。

 1997年9月5日、マザー・テレサが亡くなると、生前、「私はインド人、インドは私の国」と語っていた彼女の遺言により、彼女はインドに埋葬されることになりました。インド政府は、生前の彼女の功績をたたえて、国葬の礼をもって彼女を送りましたが、実は、それに先立ち、“マザー・テレサの祖国”を標榜していたアルバニアのレヂェブ・メイダニ政権は、インド政府に対して、彼女をアルバニアに埋葬するよう要求し、断られています。

 いずれにせよ、現在のアルバニア国家は、マザー・テレサという“資源”を最大限に活用することで、対外イメージを向上させ、諸外国からの支援や投資、観光客などを増加させ、低迷する経済状況を打開したいという明確な意図を持っており、切手もまた、そうした国策の一翼を担わされているわけです。


★★★ トークイヴェントのご案内 ★★★

 拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の刊行を記念して、東京・青山の駐日ブラジル大使館で下記の通り、トークイヴェントを開催いたします。ぜひ、ご参加ください。

 ・日時 2016年9月23日(金)18:00~20:00(17:30受付開始)
 ・会場 駐日ブラジル大使館 セミナー・ルーム
  〒107-8633 東京都港区北青山2丁目11-12 (地図はこちらをご覧ください)
 ・参加費 無料
 ・定員 30名(申込多数の場合は先着順)

  * 9月16日(金)までに、お名前・ご連絡先・ご所属を明記の上、電子メール、ファックス等で下記宛にお申し込みください。(お送りいただいた個人情報は、大使館へ提出する以外の目的には使用しません)
  申込先 えにし書房(担当・塚田)
  〒102-0074 千代田区九段南2-2-7-北の丸ビル3F
  Tel. 03-6261-4369 Fax. 03-6261-4379
  電子メール info★enishishobo.co.jp (スパム防止のため、★の部分を半角@に変えてご送信ください)

 なお、トークヴェベント終了後、20:30より近隣のブラジルレストラン「イグアス」にて懇親会を予定しております。(イグアスの地図はhttp://tabelog.com/tokyo/A1306/A130603/13048055/ をご覧ください) 
 会費は、『リオデジャネイロ歴史紀行』1冊の代金込みで6500円(書籍不要の場合は5000円)の予定です。参加ご希望の方は、トークイベントお申し込みの際に、その旨、お書き添えください。なお、懇親会のみの御参加も歓迎いたします。


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       リオデジャネイロ歴史紀行(書影) 2700円+税

 【出版元より】
 オリンピック開催地の意外な深さをじっくり紹介
 リオデジャネイロの複雑な歴史や街並みを、切手や葉書、写真等でわかりやすく解説。
 美しい景色とウンチク満載の異色の歴史紀行!
 発売元の特設サイトはこちらです。

 * 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 外国切手の中の中国:アルバニア
2006-08-22 Tue 00:58
 ご報告が遅くなりましたが、18日付で、NHKラジオ中国語講座のテキスト9月号が刊行となりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」では、今回はバルカンの国、アルバニアを取り上げました。その中から、こんな1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

アルバニアの文革礼賛切手

 これは、1969年10月1日に発行された“中華人民共和国建国20周年”の記念切手の1枚で、『毛主席語録(毛語録)』を手にした紅衛兵と労働者が描かれています。

 第二次大戦中、ムッソリーニのイタリアに占領されていたアルバニアでは、レジスタンス闘争と内戦の時代を経て、共産主義者が実権を掌握。1946年にはエンヴェル・ホッジャを最高指導者とする共産主義政権、アルバニア人民共和国が樹立されました。

 ホッジャのアルバニアは、“正統派マルクス・レーニン主義”の名の下、スターリン主義を忠実に自国に導入しようとしました。すなわち、ソ連の“指導”の下、共産党の独裁政権を確立して秘密警察による恐怖支配を行い、農業・軽工業・国民の生活水準向上を無視して重工業化を推し進めようとしたのです。

 当初、アルバニアの国家建設に際しては、隣国のユーゴスラビアが多額の経済援助を行っていましたが(一時期、アルバニアの国家予算のほぼ半額にあたる援助をユーゴスラビアから受けていたこともある)、ティトーを首班とするユーゴスラビアが独自の社会主義路線を歩んでソ連と対立し、1948年にコミンフォルムから追放されると、アルバニアは、ユーゴスラビアと国交を断絶し、親ソ路線を鮮明に打ち出します。

 その後、アルバニアはコメコンとの関係を強化し、ソ連・東欧諸国からの借款を受けて順調に経済発展を続けましたが、1953年にスターリンが亡くなり、1956年にフルシチョフによるスターリン批判が行われると、スターリン主義の忠実な僕を自認していたアルバニアは大いに動揺します。そして、フルシチョフの対米宥和路線を“修正主義”として、これを激しく非難した中国の主張に賛同。中ソ対立が深まる中で、親中国の姿勢を鮮明にし、ソ連・東欧諸国との関係を断絶します。

 当然のことながら、ソ連・東欧諸国からの経済援助が打ち切られたことでアルバニア経済は大きな打撃を被りましたが、それに代わって中国が本格的なアルバニア支援に乗り出しました。

 こうした状況の下で、1966年、中国でプロレタリアート文化大革命(以下、文革)が起こります。

 文革の本質は、大躍進政策と呼ばれる無謀な社会主義建設が失敗し、その責任を問われて毛沢東の権威が大きく傷ついたという状況の下で、人民解放軍の林彪らが毛の権威を利用して(同時に、毛自身も林彪らを利用して)劉少奇・小平らの実務派の政治指導部を“実権派”として攻撃し、その追い落としを図った権力闘争でした。

 ただし、権力闘争は全国民を巻き込んだ“階級闘争”として展開されたため、“実権派”の同調者とされた人々はさまざまな迫害を受け、紅衛兵による暴行や殺戮が横行。極端な平等主義や知識軽視、“自力更生”の名による経済面での自給自足指向など、“原理主義”的なマルクス主義理解に基づいて、宗教や伝統文化が徹底的に否定され、教会や寺院などの宗教施設や貴重な文化財が多数破壊されました。

 ソ連の“修正主義”を敵視していたアルバニア国家の指導部は、こうした中国の文革に大きな刺激を受け、中国以上に、ブルジョア文化の排除と思想の純潔強化を国民に対して強要。1967年には宗教を完全に否定する“無神国家”の宣言がなされたのをはじめ、幹部・知識人の肉体労働の強化、英雄をたたえる文化活動、軍隊内での政治学習の強化などが中国以上に徹底して行われていきました。

 特に、1968年にソ連がチェコスロバキアに軍事介入すると、ソ連の軍事介入をおそれたアルバニアは、ワルシャワ条約機構から脱退。ソ連を実質的な仮想敵国とする軍事政策を展開し、ほぼ全国民にいきわたる量の銃器を保有する国民皆兵政策が導入され、中国との軍事的な関係も強化されていきます。

 こうした状況は、国家のメディアである切手にもさまざまなかたちで反映され、この時期のアルバニアは、中国との友好関係を強調するため、文革と毛沢東を礼賛する切手を次々と発行していくのです。

 今月の「外国切手の中の中国」では、そうしたアルバニアの文革礼賛切手をいくつかご紹介しています。ちょっと変わった角度から、社会主義プロパガンダ美術のキッチュな面白さを楽しんでみたいという方は、是非、ご一読いただけると幸いです。
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