内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 ペレス前大統領、きょう国葬
2016-09-30 Fri 09:46
 おととい(28日)亡くなったイスラエルのシモン・ペレス前大統領(以下、敬称略)の国葬が、きょう(30日)、エルサレムで行われます。というわけで、きょうはストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ベラルーシ・シモンペレス

 これは、2013年、ベラルーシが発行した“ベラルーシ出身のイスラエルの指導者”の切手のうち、シモン・ペレスを取り上げた1枚です。

 1948年に建国を宣言したイスラエル国家は、「全世界に離散したユダヤ人が“民族的郷土”のパレスチナに帰還し、ユダヤ人国家を建設する」というシオニズムを建国の理念としていました。このため、イスラエル建国後にイスラエルで生まれた世代が社会の第一線に出てくるまでは、世界各地からの移民が国家の指導層を構成していたわけですが、その中でも、現在のベラルーシの地域の出身者には、シモン・ペレス(第9・12代首相:1984-86年および1995-96年、第9代大統領:2007-14年)のほか、初代大統領(1948-52)のハイム・アズリエル・ヴァイツマン、第3代大統領(1963-73)のザルマン・シャザール、第7代首相(1977-83年)のメナヘム・ベギン、第8・10代首相(1983-84年および、1988-92年)のイツハク・シャミルなど、そうそうたる顔ぶれがいます。今回ご紹介の切手は、イスラエル建国65周年のタイミングに合わせて、ここに挙げた5人の肖像を取り上げた5種セットで発行されたものの1枚です。

 さて、シモン・ペレスは、1923年、ヴィシェニェフ(現在はベラルーシ領ですが、当時はポーランド領)で生まれました。1934年、家族とともに英委任統治領パレスチナのテルアヴィヴへ移住。同地のゲウラ・スクールおよびベン・シェメンの農業学校で学びました。

 1947年、イスラエル国防軍の前身にあたるハガナーに徴用され、ダヴィド・ベングリオンによって隊員募集と武器購入の責任者に指名されます。イスラエル建国後は1952年に29歳の若さで国防次官となり、1953年には国防大臣に就任し、イスラエル国防軍の武器調達や原子炉購入に尽力しました。

 第4次中東戦争後、イスラエル労働党の党首選挙に出馬したものの、イツハク・ラビンに敗退。そのラビンは1974-77年にイスラエルの首相(1回目)となりました。その後、1984年、右派リクードとの挙国一致内閣が発足すると、ペレスは首相に就任しています。ただし、1992年の党首選ではライバルのラビンに敗れ、そのラビンが総選挙でリクードのイツハク・シャミルから政権を奪還しました。

 1992年に発足したラビン政権では、ペレスを外務大臣に就任し、ヤーセル・アラファート率いるパレスチナ解放機構と和平交渉を進め、1993年には“オスロ合意(暫定自治政府原則の宣言)”を締結。翌1994年にはヨルダンとの平和条約にも調印し、その功績により、ラビン、アラファトとともに1994年のノーベル平和賞を受賞しました。その後、1995年11月4日、ラビンはテルアヴィヴで和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルに暗殺されると、ペレスが緊急閣議で暫定内閣の首相代行を経て2度目の首相に就任。和平の推進を目指します。

 しかし、第2次ペレス政権に対しては、和平に反発するパレスチナの過激派がテロを起こし、リクードのネタニヤフがそれを材料に労働党政権を批判。さらにレバノンのヒズボラもイスラエルを攻撃するなど、治安が急激に悪化したため、1996年の首相公選ではネタニヤフに1%差で敗れ、政権を失いました。

 その後、ペレスは2000年の大統領選にも出馬し、勝利が確実視されながらもリクードの推すモシェ・カツァブに逆転で敗退。2001年の首相公選で、リクードのアリエル・シャロンが政権を獲得すると、同政権下で外務大臣に就任しました。

 当時は、米国の911同時多発テロの影響もあり、右派出身の閣僚たちはアラファトの政治生命を断つべきだと主張しましたが、ペレスはそれに抑えて、パレスチナ側とのチャンネルを維持しようとしました。

 2005年、リクードの党首だったシャロンがエフード・オルメルトやツィッピー・リヴニらとともにリクードを離党すると、ペレスも労働党を離党し、両者は「領土の譲歩」と「非武装のパレスチナ国家承認」を基本方針とする中道政党カディマを結成。2007年にはカディマから第9代イスラエル大統領に当選し、2014年まで大統領職を務めました。イスラエル国内の治安状況が悪化する中で、カディマの“理想主義”は必ずしも国民の支持を得られず、2013年の総選挙ではわずか2議席しか獲得できないという歴史的大敗を喫したものの、ペレス個人は、国内における穏健派の重鎮として、亡くなるまで、イスラエルの世論形成にも大きな影響力を持っていました。

 謹んでご冥福をお祈りいたします。


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 10月から毎月第1火曜の15:30より、よみうりカルチャー荻窪(読売・日本テレビ文化センター、TEL 03-3392-8891)で講座「宗教と国際政治」がスタートします。初回は10月4日です。ぜひ、遊びに来てください。詳細は、こちらをご覧いただけると幸いです。

 ・毎日文化センター
 それぞれ、1日講座をやりますので、よろしくお願いします。(詳細は講座名をクリックしてご覧ください)

 10月11日(火) 19:00-20:30 リオデジャネイロ歴史紀行
 11月17日(木) 10:30-12:00 ユダヤとアメリカ 
  

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 エヴフロシニヤの十字架
2015-10-13 Tue 11:07
 おととい(11日)投票が行われたベラルーシの大統領選挙で、“欧州最後の独裁者”とされる現職のアレクサンドル・ルカシェンコ大統領が当選したことが、きのう(12日)、正式に発表されました。大統領の任期は5年で、今回の任期を全うすれば、1994年以来のルカシェンコ政権は四半世紀を超えることになります。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エヴフロシニヤの十字架

 これは、1992年、独立後間もないベラルーシで発行された“エヴフロシニヤの十字架”の切手です。

 エヴフロシニヤはキエフ・ルーシ時代の12世紀、現在のベラルーシ北部のポラツク(ロシア語名ポロツク)公国で活動した修道女です。1127-28年、彼女はポラツクに修道院を建立し、ベラルーシの地から出た最初の聖人となりました。1161年に彼女が作らせた十字架は13世紀までポラツクにありましたが、ロシア帝国の支配下で、スモレンスクを経てモスクワへ送られました。1841年にはポラツクに戻されましたが、第二次大戦中の混乱で所在が不明になっており、現在にいたっています。

 旧ソ連時代はベラルーシでの民族主義(反露・反ソ主義)の台頭につながるとしてタブー視されていましたが、1991年にベラルーシが独立を回復すると、ただちにベラルーシ国民のシンボルとして国章のデザインに取り上げられ、1992年にはベラルーシ国民のシンボルとしてレプリカが制作され他ほか、今回ご紹介の切手も発行されました。

 しかし、独立後のベラルーシでは市場経済への意向がなかなか進まず、経済は低迷を続けたため、しだいに国民の間にはソ連時代を懐かしむ空気が横溢していきます。今回5選を果たしたルカシェンコは、こうした状況をとらえて、1994年の大統領選挙でロシアとの統合を目指すことを公約に掲げて当選。以後、現在にいたるまで強権的な手法により長期独裁政権を維持しているわけです。

 ちなみに、ルカシェンコ政権は発足後まもない1995年、“エヴフロシニヤの十字架”の盾を持つ棋士を描いていた独立後の国章を廃し、旧ソ連時代を思わせるデザインの現行国章を採用しています。今回の彼の5選により、“エヴフロシニヤの十字架”が国章に復活する日もまたしばらく遠のいたというわけですな。


 ★★★ 講座「アウシュヴィッツの手紙」(10月16日)のご案内 ★★★ 

     ポーランド・アウシュヴィッツ解放30年   アウシュヴィッツの労務風景

 10月16日(金) 19:00~20:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「アウシュヴィッツの手紙」と題する講座を行います。

 第二次大戦中、ポーランド南部のアウシュヴィッツ(ポーランド語名・オシフィエンチム)は、ナチス・ドイツの強制収容所が置かれ、ユダヤ人を中心に150万人以上が犠牲となった悲劇の地として知られています。今回の講座では、収容者の手紙を中心に、第二次大戦以前の状況を物語る郵便物・絵葉書、アウシュヴィッツを題材とした戦後の切手などもご紹介しつつ、さまざまな角度からアウシュヴィッツを考えてみたいと思います。

 申込方法など詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、ポーランドが発行したアウシュヴィッツ解放30周年の記念切手、右側は収容者による労務風景を取り上げた戦後作成の絵葉書です) 皆様のご参加をお待ちしております。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』  好評発売中! ★★★ 

        税込2160円

 4月8日付の『夕刊フジ』に書評が掲載されました!

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 出版元のサイトはこちら、内容のサンプルはこちらでご覧になれます。ネット書店でのご購入は、アマゾンboox storee-honhontoYASASIA紀伊國屋書店セブンネットブックサービス丸善&ジュンク堂ヨドバシcom.楽天ブックスをご利用ください。


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 世界の国々:ベラルーシ
2015-02-10 Tue 17:22
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2015年2月11日号が、先週刊行されました。僕が担当しているメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はベラルーシを取り上げています。その記事の中から、こんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       ベラルーシ・ソ連混貼カバー

 これは、ベラルーシ独立宣言直後の1991年11月9日、ソ連切手とソ連切手に加刷した暫定切手が貼られたミンスク市内便(書留便)です。

  ドニエプル川中流域、現在の国名でいうとロシア・ベラルーシ・ウクライナにまたがる地域は、古来、ルーシと呼ばれていました。

 13-16世紀のモンゴルの支配を受けていた時代、ルーシの地には方角を色で呼ぶ語法が持ち込まれ、南部の赤ルーシ(現在のウクライナ西部)、西部の白ルーシ(現在のベラルーシ。狭義にはベラルーシ東部・ロシアとの隣接地域)、北部の黒ルーシ(モスクワ周辺)などの地名が生まれましたが、“白ルーシ”以外は、いつしか死語となりました。ちなみに、ベラルーシという国名は“白ロシア”を意味するベラルーシ語で、ロシア語をカタカナ表記にすると“ベロルシア”になります。

 このうち、白ルーシの地は長らくロシアとポーランドの両国が支配を争っていましたが、18世紀末、列強諸国によりポーランドが分割され消滅すると、ロシアの支配下に置かれます。そして、帝政ロシアの支配下で、ベラルーシは次第にロシアと同化していきました。

 1917年のロシア革命で帝政ロシアが崩壊すると、翌1918年3月、ベラルーシ人民共和国の樹立が宣言されましたが、同国はほどなく消滅し、1919年には白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国(BSSR)が創設されます。
 
 その後、ポーランド・ソヴィエト戦争により、1920年、BSSRは東西に分割され、西部はポーランドに編入されました。一方、東部ではBSSRが存続し、1922年末に発足したソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)に参加します。

 1939年9月、第二次大戦が勃発し、独ソ両国がポーランドを分割占領すると、これに伴い、西部ベラルーシはソ連に占領され、BSSRに編入されました。さらに、1941年6月、独ソ戦が勃発すると、ベラルーシはドイツ軍に占領されました。その後、住民の3分の1が犠牲になるという壮絶な戦いの末、1944年、ドイツ軍はベラルーシから撤退。1945年7-8月のポツダム会談の結果、ソ連=ポーランド国境は西に移動し、ベラルーシ全域がBSSRとしてソ連の一部となりました。

 ところが、1985年にソ連でペレストロイカ政策が始まり、翌1986年にはチェルノブイリ原発の事故でベラルーシが甚大な被害を被ったこともあり、ベラルーシでもモスクワからの自立を志向するナショナリズムが台頭。1988年にはベラルーシ人民戦線が結成されます。

 その後、1990年7月には、ベラルーシ共和国最高会議が国家主権宣言を行い、翌1991年8月、前年の国家主権宣言を“憲法的法律”とする立法が行われ、ベラルーシは、事実上、ソ連から独立しました。9月15日には国名が白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国からベラルーシ共和国に変更されるとともに、新国旗・新国歌も採用されます。そして、同年12月8日、ベラルーシ最西部のベロヴェーシの森で、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三国首脳がソ連の解体に合意。同年末、ソ連が正式に消滅したことを受けて、ベラルーシも完全な独立国となりました。

 さて、『世界の切手コレクション』2月11日号の「世界の国々」では、帝政ロシア時代から現在のルカチェンコ政権にいたるベラルーシ近現代史の概説を中心に、幻に終わったベラルーシ人民共和国の不発行切手、民族衣装の切手、ナチス占領時代の加刷切手の使用例などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、本日発売の2月18日号(通常は水曜日発売なのですが、今週は祝日と重なるため、火曜日発売となりました)では、「世界の国々」はソロモン諸島を特集していますが、こちらについては、来週、このブログでもご紹介する予定です。 
  

 ★★★ 講座「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」(2月20日)のご案内 ★★★ 

       ミズーリの消印

 2月20日13:00~14:30、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、「切手と郵便物に刻まれた“終戦”」と題する講座を行います。

 2015年は第二次世界大戦の終戦から70周年にあたります。終戦の年の1945年はあらゆる意味で社会が激変した年ですが、その影響は切手や郵便物にもさまざまな痕跡を残しています。今回の講座では、当時の切手や郵便物を読み解いていくことで、一般の歴史書では見落とされがちな終戦の諸相を、具体的なモノの手触りとともに明らかにしてみたいと思っています。

 詳細は、こちらをご覧ください。(画像は、日本の降伏文書調印が行われた米軍艦ミズーリ号から降伏文書調印日に差し出された郵便物の一部分です) 

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は3月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 “欧州最後の独裁者”4選
2010-12-21 Tue 09:52
 おととい(19日)に大統領選挙の投票が行われた旧ソ連のベラルーシでは、“欧州最後の独裁者”と呼ばれる現職のアレクサンドル・ルカシェンコ大統領が4選を決めました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ルカシェンコ

 これは、1996年にベラルーシが発行したルカシェンコの肖像切手です。

 ルカシェンコは、1954年8月30日、ソ連を構成していた白ロシア共和国のヴィテブスク州オルシャンスク地区コピィシ(コプイシ)村で生まれたとされています。1975年、モギリョフ教育大学歴史学部を卒業し、通信教育で農業アカデミー経済学部を卒業した後、ソフホーズの支配人を経て、白ロシア共和国最高会議代議員に当選。独立後の1993年、汚職追及委員会議長に就任し、政治家の汚職を厳しく糾弾して知名度を上げました。

 生活必需品の価格統制に熱心で、医療も一定の水準を保っていることから、とりあえず国民の過半数の支持は維持しているともいわれるルカシェンコですが、とにかく権力欲が強く、「プレジデントは自分一人で十分」との理由から、民間会社の社長などの呼称として“プレジデント”を使用することを禁じたとの逸話もあります。また、ヒトラーやスターリンを賞賛しており、反ユダヤ的な発言を繰り返していることでも有名です。“欧州最後の独裁者”と呼ばれているのも、こうした言動によるもので、その髭はヒトラーを真似たものとも言われているようですが、切手の肖像をはじめ、公開されている写真などを見てみると、髭のかたちは、ヒトラーよりスターリンに近いような気もします。

 1994年の大統領選挙で初当選を果たすと、2004年、国民投票で大統領の多選を禁じる憲法を改正し、2006年と今回の選挙で当選を果たしました。今回の選挙でも、さっそく、野党側は不正を追及する抗議デモを行いましたが、大統領は「民主主義者ではなく、ならず者たちだ」と述べて639人を拘束。今回の選挙に立候補した野党候補9人のうち7人も逮捕されました。

 今年8月に刊行した拙著『事情のある国の切手ほど面白い』では「奇妙な独裁者がいる国」との1章を設けましたが、同書の続編を作るとしたら、やっぱりルカシェンコも加えないといけないでしょうな。


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 出身はベラルーシ
2006-07-03 Mon 23:40
 今日(7月3日)は、1990年にベラルーシがソ連(当時)からの独立を宣言した日ということで、ベラルーシの独立記念日なんだそうです。というわけで、独立後のベラルーシが発行した切手の中から、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

チェルノブイリ10周年

 この切手は、1996年、ベラルーシで発行された「チェルノブイリの悲劇10周年」の記念切手です。

 1986年4月26日にベラルーシ国境に近い旧ソ連のウクライナ共和国北部で発生したチェルノブイリ原発の事故では、放出された放射性物質の約70%がベラルーシ領内に降り注いだといわれています。そして、その結果、ベラルーシの国土の23%(耕地の5分の1と森林の22%を含む)が汚染され、ベラルーシ政府は放射能汚染対策のため、1989年から現在までに計177億ドル(約2兆900億円)の支出を余儀なくされたというのが、ベラルーシ政府の公式見解です。

 このように、原発事故で甚大な被害を被ったベラルーシとしては、その悲劇を風化させないために、事故から20周年にあたる今年4月にも下の画像のような記念切手を発行しました。

チェルノブイリ20年

 おそらく、現在なおベラルーシの人々にとって、チェルノブイリ原発の事故は非常に大きなトラウマになっていることでしょう。実際、事故によってその後の人生が大きく変わった人も相当数いるはずです。そして、その中には、世界的なプロ・テニス選手であるマリア・シャラポワの一家も含まれていたことは、案外知られていないようです。

 “ロシア人”といわれることの多いシャラポワですが、両親はベラルーシ・ゴメリの出身です。ゴメリはウクライナとの国境に近いベラルーシ南東の都市で、チェルノブイリ原子力発電所に程近いソジ川の右岸に位置しています。当然のことながら、原発事故では大きな被害を被りました。

 このため、シャラポワ一家は故郷のベラルーシを捨てて、西シベリアにあるニャガンへと移住。そこで、事故からほぼ1年後の1987年4月19日にニャガンで生まれたのがマリアだったというわけです。

 その後、マリアは4歳の時からテニスを始め、6歳の頃マルチナ・ナブラチロワに才能を見い出されたのをきっかけに、7歳の頃父親とともに渡米。その才能を開花させて2001年に14歳でプロデビューし、以後の活躍は皆さんもご存じの通りです。

 最近、彼女が趣味で切手を集めていることがマスコミでも取り上げられて話題になりましたが、イギリスのスタンレー・ギボンズ社が発行しているGibbons Stampmonthly誌によると、彼女は渡米後の9歳か10歳の頃から切手に興味を持っていたのだそうで、母方のひいおばあさんのコレクションを受け継いでいるほか、現在では郵便局で切手を買ったり、水はがしを楽しんだりしているといいます。彼女のような著名人が、切手の魅力をいろいろなところで語ってくれたら、フィラテリーのプロモーションとして非常に大きな効果があることは明らかで、そうなってくれれば良いな、と素直に思います。

 ところで、スタンレー・ギボンズの報道は、切手関係の雑誌なのでシャラポワの切手収集に対して好意的なのですが、その他のメディアでの報道を見ていると、なにやら切手や切手収集に対する悪意と偏見が感じられて、僕は非常に不愉快な気分になりました。

 たとえば、6月30日付のyahooニュースを見ると、彼女が切手に興味があることを“告白”した結果、切手収集の専門誌から取材が殺到し、彼女は趣味を告白したことを公開した、という内容の記事が掲載されています。

 そもそも、シャラポワが切手を集めていることは、実は関係者の間ではかなり昔から有名な話で、何でいまさらこの話題がロイターで取り上げられたのか、非常に理解に苦しむところです。

 いわゆるマニアックなコレクターというと男(の子)の趣味というイメージのある切手ですが、綺麗なモノ・かわいいモノを集める女性はたくさんいるわけで、その文脈から、郵便局で気にいった切手を見つけて買ったり、自宅やオフィスに来た手紙の切手を切り取って小箱に入れて保存している女性というのは珍しくもなんともありません。実際、日本でもかわいいグッズの一つとして切手に興味を持つ女性が増えて来ているのは、このブログを時々遊びに来てくれている人なら、皆さん、良くご存じのことと思われます。さらに、普段は切手に興味を持っていなくても、外国に出かけていけば、絵葉書を出す分に加えて、お土産用にも現地の買ってみるという人はかなりいます。

 したがって、彼女が切手に興味を持ち、気にいったものを集めていたとしても、そのこと自体は別に不思議なことでもなんでもありませんし、それゆえ、機会があれば、切手に興味を持つと発言する可能性も十分にあるはずです。

 その発言を、わざわざ“告白”したという表現で報じたロイターの記者の意図はなんなのでしょうか。問題のロイターの原文では、告白という単語で“confess”を使っています。大修館の『ジーニアス英和大事典』によると、この語は、「(悪事などを)白状する、告白する、(秘密などを)打ち明ける、(司祭に)懺悔する」などの意味が出てきます。これを読む限り、切手に興味を持っている、または切手を集めているのは、悪事だとか他人にいえない秘密だというのが、記者の理解のようです。ということは、かの記事が最初に配信された国(そういえば、世界で最初に切手を発行した国でもありましたね)の国家元首であるエリザベス女王も、ポルトガルを代表するサッカー選手のフィーゴも、IOC元会長のサマランチも(そして、もちろん僕自身も)、件の記者の理解では、世間に顔向けのできない“恥ずかしいヤツ”ということになるんでしょう。
 
 また、シャラポワほどの有名人であれば、毎日、おびただしい数の取材・インタビューを受けていると思われるのですが、その中で、切手関係の専門誌の取材依頼というのは、はたして、何件あったのでしょうか。僕の推測では、せいぜい10件程度だろうと思います。シャラポアの広報担当とアポイントメントを取って、正規に取材できるだけの切手メディアの数というのは、世界的に見てもその位しかないでしょうから。だとすれば、“殺到”というには、あまりにも寂しい数字でげないでしょうか。少なくとも、僕は彼女の記事が掲載された切手関係の媒体は、現時点では、先のスタンレー・ギボンズ1件しか確認できませんでした。(日本郵趣出版も突撃取材を試みたというのなら、天晴れというべきですが…多分、やってないでしょうねぇ)

 さらに、yahooの日本語記事では「試合後の記者会見でも切手に関する質問攻めにあい、趣味を明かしたことを後悔している様子だった」とありますが、プロのテニス選手に対して、試合後、試合内容に関係のない質問をしたら、嫌な顔をされるのは当たり前のことです。そのことと切手収集を趣味としていることを“告白”したこと、さらには、彼女が切手を集めていることと強引に関係づけているのは、明らかな印象操作といわれても仕方ないように思います。

 それでも、日本語の翻訳はかなり言葉を選んでいるのですが、ロイターの原文は本当にひどい内容です。相互リンクをお願いしている井上和幸さんのY2net?の6月30日の日記の記事にも紹介されていますが、ロイターの記事タイトルは、Sharapova the stamp-collecting nerdというもので、文中には「切手アルバムに熱中していることは彼女のイメージを間違いなく損ねる」旨の記述まであります。

 記事のタイトルで使われているnerdという単語は、日本語の“オタク”と言うよりもはるかに侮蔑的な表現で、先ほどの大修館の辞書によると「1粗野な(気の利かない、退屈な)人;ばか、まぬけ、低能力なやつ;ガリ勉、2(社会性がなくて何かにのめりこんでいる)…狂;専門ばか」という訳語があてられています。実際、英語圏の学生たちの間では、nerdのレッテルを貼られることは“クラスメートからいじめられても仕方のないヤツ”とみなされることと同義です。こういう単語を切手収集と結びつけようとする記者に対して、僕は激しい憤りを感じます。

 たかだかあの程度の記事で大人気ない、という人もあるかもしれません。また、たしかに、切手収集家の中には僕を含めて変わり者が多いのも事実でしょう。しかし、だからといって、個々の収集家のキャラクターとは別に、150年以上の歴史と伝統を誇る趣味であり、知的生産活動としても認知されているフィラテリー(郵便学者としての僕の活動に対して、さまざまな官庁・団体が、その社会的意義を認めて助成金を支給してくれたことは一度や二度ではありません)に対して、明らかに悪意を持って誹謗・抽象しようとすることが許されていいはずはありません。そういう輩には、断固たる態度で抗議し、こちらの姿勢をきちんと示さないと、つけあがるばかりというのが、世の常です。

 いまから約20年前、ある若者向け男性誌が「切手収集は根暗なオタクの趣味」「女の子にモテナイ(嫌われる)趣味の筆頭は切手と鉄道」ということを何度か取り上げたことがあり、それが引き金になって、それから10年以上もの間、切手に対する世間の風当たりが非常に強くなったという時期があります。実際、中学校などでは、切手を集めているということがいじめやからかいの対象となったという例は枚挙に暇がありません。さらに、ある時期、ドラマの登場人物の設定として、物語の本筋とは関係のないところで、“切手を集めている”ということを、その人物のネガティブな側面を表現するための手段としているケースもありました。

 そういう時代に、非常に悔しい思いをしながら、歯を食いしばって生きてきた僕は、ああいう思いを二度としたくない、そのためには、切手の面白さを一般の人にもきちんと伝えなければならない、という思いを胸に刻んで現在の仕事をしています。その結果、1996年に最初の単行本を出版してから10年かけて、少しずつではありますが、僕の仕事を通じて切手の面白さを認めてくれる人たちも増えてきたようで、最近では、大手の出版社から新書を刊行し、それが大手書店の店頭に当たり前のように並ぶところまでやってきました。

 それだからこそ、今回のロイターの記事を、僕は絶対に許すことはできません。フィラテリーを愛する人たちが胸を張って「自分は切手に興味・関心を持っている!」と公言することがはばかられるような雰囲気を作り出そうとする人がいるなら、その芽は早目に摘んでおく必要があります。そのために、いまの自分には何ができるのか、ちょっと落ち着いて考えてみるつもりです。

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