内藤陽介 Yosuke NAITO
http://yosukenaito.blog40.fc2.com/
World Wide Weblog
 7国・地域がカタールと断交
2017-06-06 Tue 11:41
 アラブ首長国連邦(UAE)、バーレーン、イエメン、サウジアラビア、エジプト、モルディブのイスラム圏6ヵ国とリビア東部を支配するリビア臨時政府は、昨日(5日)、カタールとの国交断絶を発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      カタール・ガザの涙

 これは、2009年にカタールが発行した“ガザの涙”と題する切手です。

 パレスチナ自治政府内部では、発足当初から、PLO傘下のファタハとイスラム原理主義勢力のハマース(ハマス)が対立し、各地で散発的な戦闘が発生していました。2007年6月、ハマースがガザ地区を武力制圧。現在に至るまで、ガザ地区はハマースが、ヨルダン川西岸地区はファタハが事実上支配しています。
 
 さて、対イスラエル強硬派のハマスがガザ地区を支配下に置くと、イスラエルはガザへの人や物の出入りを従来にもまして厳しく制限。これに反発したハマースは、2008年1月9日、ブッシュ米大統領のイスラエル・パレスチナ歴訪に合わせてイスラエルへのロケット弾攻撃を敢行し、イスラエルがその報復としてガザを完全封鎖。さらに、同年12月27日から翌2009年1月18日まで、イスラエルはガザ地区に対して大規模な攻撃を行いました。

 今回ご紹介の切手は、そうした状況を踏まえ、イスラエルのガザ攻撃を非難し、ハマス政府を支持する意図を込めてカタールが発行したものです。

 ところで、ハマースの最大の支援国は、かつては、シリアとイランで、サウジも一定の資金援助と軍事支援を行っていました。しかし、世界的に反テロ気運が盛り上がってきたことにくわえ、サウジにとっては最大の敵国であるイランがハマースを支援していることもあり、現在のサウジは反ハマースの立場を船名にしています。

 2011年にシリア内戦が勃発し、諸勢力が血みどろの戦闘を展開する中で、スンナ派原理主義勢力としてのハマスは、シリアのアサド政権(アサド本人はシーア派系のアラウィー派ですが、政権全体としては世俗主義)と距離を置き、スンナ派系の反体制派への支持を表明。この結果、ハマースはアサド政権と決別しましたが、イランがこの“背信”を批難すると、イランとハマスの関係も冷却化します。

 こうした状況の中で、2012年10月23日、カタールのハマド首長(当時)は、ハマースのガザ制圧以来、外国元首として初めてガザ地区を訪問してハマースを支持する姿勢を鮮明にしました。

 もともと、カタールの外交政策は、長年にわたって(事実上の)敵対関係にあるバハレーンに対抗するため、その後ろ盾となっているサウジの影響力をいかに抑え込むかということを基本方針の一つとしています。ちなみに、バハレーンの首長家とサウジ王家は縁戚関係にあり、それゆえ、バハレーンは“サウジの事実上の保護国”と呼ばれることもあります。

 このため、サウジをはじめとする湾岸首長国が、安全保障上の最大の脅威(ちなみに、イランに言わせると「バハレーンは歴史的にイランの領土だった」そうです)としてイラン敵視政策を採る中で、カタール・イラン関係は比較的良好な関係を保ってきました。また、2014年以来のイエメン内戦では、カタールは、シーア派系武装組織“フーシ派”と戦うために結成されたサウジアラビア主導の国際連合軍に参加していながら、フーシ派とも密かに関係を維持していたとされています。ハマースとの関係も、反サウジ勢力とも一定のパイプを維持しておくことで、湾岸アラブ諸国の中で圧倒的なプレゼンスを有するサウジに対抗する切り札として、これを活用したいとの思惑があったものと考えられます。

 今回の断交の直接のきっかけは、今年5月のトランプ米大統領のサウジ訪問後、タミーム現首長が、米大統領とサウジ国王はイランを世界の主要テロ支援国と名指しし、反イランの機運を醸成していると非難。あわせて、ハマスを支持する発言も行ったとの主旨の報道が流れたことにあるとされています。報道内容について、カタール政府は事実関係を否定し、ハッキング被害に遭ったものだと主張しましたが、サウジや他の湾岸諸国はアルジャジーラなどカタールのメディアを遮断。各国のマスコミはカタールの外交姿勢を痛烈に批判する報道を続けていました。

 ちなみに、今回のカタールとの断交は、まず、長年の宿敵であるバハレーンが5日朝に国交断絶を宣言し、これに、サウジ、エジプト、UAEが続き、さらにイエメン、モルディヴ、リビア臨時政府が加わるというかたちになりました。サウジ外務省は、カタール政府が①国内にテロ組織を住まわせテロを支援している、②報道機関でテロ組織の宣伝を行っている。③カティーフ県にいるイランと関わりがあるテロ行為を支援している、④過激派組織に居住許可を与えている、⑤イエメンのフーシ派を支援している、ことから、“国の治安のため”カタールとの断交に踏み切ったと説明しています。

 今回の断交措置を受けて、サウジ、UAE、エジプト、バハレーンは、カタール籍の航空機や船舶が自国の領空や領海を通過することを禁止し、在留カタール人は2週間以内の国外退去を命じるとともに、自国民のカタールを訪問も禁止しています。郵便史的な関心からすると、上記4カ国経由でのカタール発着の郵便物の取り扱いも停止されるわけで、返戻便や大幅な迂回ルートで逓送されたカバーなど、興味深いマテリアルがいろいろと生まれそうです。

 いずれにせよ、今回の一件は今後もしばらく尾を引きそうですので、状況の変化に合わせて、このブログでもいろいろフォローしてみたいと思います。

 
 ★★★ 内藤陽介 『朝鮮戦争』(えにし書房) 重版出来! ★★★ 

      朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各ネット書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

スポンサーサイト
別窓 | カタール | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 カタールで世界最大の国旗
2013-12-18 Wed 10:32
 きょう(18日)は、1825年12月18日にサーニー・ビン・ムハンマドがカタールの初代首長となったことにちなみ、カタールの建国記念日になっていますが、これに合わせて、同国ではサッカー場7面分の面積に相当する“世界最大の旗”が用意されたそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       カタール・スカウト

 これは、1965年、英保護領時代のカタールで発行されたボーイ・スカウトの切手で、カタール国旗を持つスカウトの少年が描かれています。

 ペルシャ湾に突き出たカタール半島は、19世紀前半まで、半島北部は現在のバハレーン首長家であるハリーファ家が、南部はカタールの首長家であるサーニー家が支配していました。サーニー家が半島全域を掌握するのは、1868年、英国の仲介で、サーニー家がハリーファ家に貢納する代わりに、ハリーファ家はカタール半島から撤退するということが決められてからのことです。なお、1872年、カタール半島はオスマン帝国によって占領されますが、カタール側の抵抗もあり、オスマン帝国はサーニー家による半島支配を実質的に認めていました。

 第一次大戦中の1916年、オスマン帝国と交戦中であったイギリスはサーニー家と条約を調印し、以後、カタールはイギリスの保護領となります。

 これに伴い、それまで赤一色だったカタールの国旗は、白と赤を組み合わせたデザインとなります。なお、現在のカタール国旗は、赤と白ではなく赤茶色と白の組み合わせですが、これは、1936年に改色されたものです。改色の理由には諸説ありますが、太陽の強い日差しで赤茶色に色褪せた国旗を見た首長が「この色も悪くない」と言ったともいわれています。

 郵便に関しては、1950年まではカタール半島内には郵便局は設置されず、カタールからの郵便物は対岸のバハレーンに運ばれ、そこから域外へ配達されるというシステムになっていました。

 首都のドーハに郵便局が開設され、一般向けの郵便サービスが実施されるようになったのは1950年のことですが、当時はカタール独自の切手というものはなく、英国東アラビア郵政庁の加刷切手が使用されていました。ちなみに、カタール2番目の郵便局がウンム・サイドに開設されたのは、1956年2月のことです。

 カタール独自の切手としては、1957年4月1日、英本国の切手にカタールの地名とインド・ルピーでの額面表示(英領インド帝国以来、この地域では、インド・ルピーが通貨として用いられていました)を加刷した切手が発行されたのが最初です。なお、今回ご紹介の切手の額面は、インド・ルピーではなく、1959年5月に導入されたガルフ・ルピー(インド・ルピーと連動した不換紙幣)によるものです。

 現在のカタール経済を支えている石油産業は、1935年に英蘭仏米の共同国益会社「カタール石油会社(Qatar Petroleum Company)」に対して、カタールでの75年間の石油掘削権を承認したところから本格的に始まります。その後、1940年には高品質の石油が半島西岸で発見されますが、第2次大戦の影響で1949年までカタール産の石油が輸出されることはありませんでした。石油の輸出により、それまで小さな港町だったドーハは急速に都市開発が進められるようになったのは、1950年代以降のことです。

 さて、1968年、英国の労働党政権が1971年末をもってスエズ以東から軍事的に撤退することを発表すると、カタールを含むペルシャ湾岸の9首長国が連邦を結成するというプランが浮上します。しかし、実際には、カタールは連邦に参加せず、1971年9月3日、単独で独立し、国際連合とアラブ連盟に加盟しました。このため、カタールでは長年にわたって9月3日が独立記念日としてナショナル・デーになっていましたが、2007年以降、ナショナル・デーは建国記念日の12月18日に変更され、現在にいたる、というわけです。


 ★★★  絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩  ★★★

 2014年1月11日・18日・2月8日のそれぞれ13:00-15:00、文京学院大学生涯学習センター(東京都文京区)で、「絵葉書と切手でたどる世界遺産歴史散歩」と題する講座をやります。(1月18日は、切手の博物館で開催のミニペックスの解説)

 新たに富士山が登録されて注目を集めるユネスコの世界遺産。 いずれも一度は訪れたい魅力的な場所ばかりですが、実際に旅するのは容易ではありません。そこで、「小さな外交官」とも呼ばれる切手や絵葉書に取り上げられた風景や文化遺産の100年前、50年前の姿と、講師自身が撮影した最近の様子を見比べながら、ちょっと変わった歴史散歩を楽しんでみませんか? 講座を受けるだけで、世界旅行の気分を満喫できることをお約束します。

 詳細はこちら。皆様の御参加を、心よりお待ちしております。


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は1月7日(原則第1火曜日)で、以後、2月4日と3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新作 『蘭印戦跡紀行』 好評発売中! ★★★

 『蘭印戦跡紀行』広告

 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


 ★★★ ポストショップオンラインのご案内(PR) ★★★

 郵便物の受け取りには欠かせないのが郵便ポストです。世界各国のありとあらゆるデザインポストを集めた郵便ポストの辞典ポストショップオンラインは海外ブランドから国内製まで、500種類を超える郵便ポストをみることができます。

別窓 | カタール | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 2022年W杯はカタール
2010-12-03 Fri 22:08
 サッカーW杯2022年の開催地がカタールに決まりました。日本が落選したのは残念ですが、気を取り直して、きょうはカタールの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        カタール・1957年加刷

 これは、1957年、英本国の切手に加刷して発行されたカタールの10ルピー切手です。

 カタールが正式にイギリスの保護領となったのは第一次大戦中の1916年のことでしたが、1950年まではカタール半島内には郵便局は設置されず、カタールからの郵便物は対岸のバハレーンに運ばれ、そこから域外へ配達されるというシステムになっていました。

 ドーハに郵便局が開設され、一般向けの郵便サービスが実施されるようになったのは1950年のことですが、当時はカタール独自の切手というものはなく、イギリス東アラビア郵政庁の加刷切手が使用されていました。ちなみに、カタール2番目の郵便局がウンム・サイドに開設されたのは、1956年2月のことでした。

 カタール独自の切手としては、1957年4月1日、英本国の切手にカタールの地名とインド・ルピーでの額面表示(英領インド帝国以来、この地域では、インド・ルピーが通貨として用いられていました)を加刷した切手が発行されたのが最初のことで、今回ご紹介の10ルピー切手は、その最高額面となります。

 カタールといえば、2012年には首都のドーハで世界切手展が開かれることになっています。2012年まではまだまだ間がありますし、まずは、切手展にあわせてドーハに行き、そこから湾岸諸国周りをしてみるのも、悪くはないかもしれません。
 

* 本日午前中、カウンターが78万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。


  ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

        マカオ紀行・表紙カバー

   マカオ紀行:世界遺産と歴史を歩く
       彩流社(本体2850円+税) 

   マカオはこんなに面白い!
   30の世界遺産がひしめき合う街マカオ。
   カジノ抜きでも楽しめる、マカオ歴史散歩の決定版!
   歴史歩きの達人“郵便学者”内藤陽介がご案内。

 全国書店・インターネット書店(amazonbk1boox storeconeco.netDMM.comHMVJBOOKlivedoor BOOKSYahoo!ブックスカラメル紀伊国屋書店BookWebゲオEショップジュンク堂セブンネットショッピング丸善楽天ブックスなど)で好評発売中! 

別窓 | カタール | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 アラブの都市の物語:ドーハ
2007-01-20 Sat 00:47
 NHKのアラビア語会話のテキスト2・3月号が出来上がってきました。僕の連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回は、先ごろおこなわれたアジア大会にちなみ、カタールのドーハを取り上げました。

グランドモスクと時計塔

 ドーハは、ペルシャ湾に突き出た半島の国、カタールの首都で、同国東岸の中央よりやや南に位置しています。

 カタール半島では紀元前3000年から紀元前2000年頃の遺物も出土しているのですが、近代以前の歴史はほとんどわかっていません。都市としてのドーハの歴史も比較的新しく、現在のカタール王家にあたるサーニー家がビーダとして都市を建設したのは1850年のことでした。

 当時のサーニー家はカタール半島全域を支配していたわけではなく、半島の北部はバハレーンのハリーファ家が支配していました。サーニー家が半島全域を掌握するのは、1868年、イギリスの仲介で、サーニー家がハリーファ家に貢納する代わりに、ハリーファ家はカタール半島から撤退するということが決められてからのことです。なお、1872年、カタール半島はオスマン帝国によって占領されますが、カタール側の抵抗もあり、オスマン帝国はサーニー家による半島支配を実質的に認めていました。

 第一次大戦中の1916年、オスマン帝国と交戦中であったイギリスはサーニー家と条約を調印し、以後、カタールはイギリスの保護領となり、ビーダはドーハと改称されて保護領カタールの首府になりました。

 現在のカタール経済を支えている石油産業は、1935年に英蘭仏米の共同国益会社「カタール石油会社(Qatar Petroleum Company)」に対して、カタールでの75年間の石油掘削権を承認したところから本格的に始まります。その後、1940年には高品質の石油が半島西岸で発見されますが、第二次大戦の影響で1949年までカタール産の石油が輸出されることはありませんでした。

 1950年代に入り、石油の輸出が本格化すると、それまで小さな港町だったドーハは急速に都市開発が進められ、いまからちょうど50年前の1957年にはランドマークとしてのグランド・モスクと時計塔が建てられています。今回ご紹介の切手は、1973年発行の“独立2周年”の記念切手で、グランド・モスクと時計塔が描かれています。(画像はクリックで拡大されます)

 1968年、イギリスの労働党政権が1971年末をもってスエズ以東から軍事的に撤退することを発表すると、カタールを含むペルシャ湾岸の9首長国が連邦を結成するというプランが浮上しました。しかし、実際には、カタールは連邦に参加せず、1971年9月3日、単独で独立し、国際連合とアラブ連盟に加盟しました。

 潤沢な石油収入を背景に急成長を遂げてきたカタールですが、近年は石油依存型の経済構造を改善すべく、産業の多角化に力を注いでいます。

 中でも注目すべきはスポーツ産業でしょう。1993年10月のFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア地区最終予選の日本対イラク戦で、日本代表がロスタイムで同点に追いつかれてワールドカップへの初出場を逃した“ドーハの悲劇”はご記憶の方も多いかもしれません。このほかにも、テニスのドーハ・カップや二輪ロードレースのモトGP、昨年の陸上競技グランプリやアジア競技大会などの国際スポーツイベントが、アスパイア・ゾーンにあるハリーファ国際競技場をはじめ、市内ならびに近郊で行われています。また、アスパイア・ゾーンには、世界クラスのアスリート養成を目指して設立されたスポーツ学校のアスパイア・アカデミー(ASPIRE Academy)が2004年に開校し、ドーハは世界的にも重要なスポーツ産業の拠点としての地位を確立しています。

 また、1996年に国王から1億5000万米ドルの支援を受けて設立された衛星放送、アル・ジャジーラの存在も見逃せません。ウサーマ・ビンラディンのメッセージの映像を独占放映や、アフガニスタン国内からの戦争の実況中継、イラク戦争に関する独自の報道などで世界的にも注目を集めたことは有名ですが、アラブ世界では「公正で政治的圧力を受けない、中東の唯一の報道機関」として高く評価されています。実際、多くのアラブ諸国では政府批判がタブー視されているため、アラブの一般市民にとってはアル・ジャジーラが貴重な情報源となっています。したがって、アル・ジャジーラの本社が置かれているドーハは、アラブ世界への情報発信基地としてもきわめて重要な存在だといえるのです。

 今回の「アラブの都市の物語」では、そうしたドーハの過去と現在を物語る切手をいくつかご紹介しています。機会があれば、是非、ご一読いただけると幸いです。

別窓 | カタール | コメント:0 | トラックバック:0 | top↑
 誦め!
2006-12-02 Sat 00:52
 アラブ圏では初、カタールの首都ドーハで行われるアジア大会が開幕しました。というわけで、カタールの切手の中から、ちょっと面白いものを拾ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

識字の日

 これは、1984年にカタールが発行した国際識字の日の切手で、黒板に「誦め(声に出して読め)」という意味のアラビア語を書いて識字教育を行っている場面が取り上げられています。

 「識字キャンペーンの切手で“誦め”という単語が出てくるのは当たり前じゃないか、それがどうした」といわれそうですが、実は、この“誦め”というアラビア語は、イスラムの預言者ムハンマド(マホメット)に対して神が下した最初の啓示の文言とされているものというのがミソです。

 たとえば、かつてイランは大天使ガブリエルが啓示を下したイメージを表現した切手を発行したことがあるのですが、この切手にも、しっかり、ガブリエルを表す翼の間に“誦め”というアラビア語が記されており、ここからコーランの歴史が始まったという認識が示されています。

 さて、イスラム教徒はコーランを神の言葉として理解していますが、それはコーランがアラビア語として完成されたものであるから、すなわち、人間には真似することのできない韻律を備えたものであるから、ということが根拠になっています。そもそも、コーラン(アラビア語ではアル・クルアーン)という言葉自体が「声に出して読まれるもの」という意味であって、コーランの真の魅力はアラビア語で朗誦してこそ味わうことができるというのが彼らの主張です。

 ちなみに、預言者ムハンマドは文字が読めなかったとされていますが、そのことはイスラム世界では肯定的にとらえられています。というのも、文字が読めないがゆえに、ムハンマドが密かにアンチョコを見てコーランの章句に相当する文言を唱えることは不可能であり、それゆえ、彼の口から発せられたコーランの章句は、まぎれもなく、神から下された啓示に他ならない、と彼らは理解しているからです。

 こうしたことを考えると、文字の読めない人に対しては、まず、“誦め”という単語の読み書きから覚えてもらおうというのも、イスラム教徒の発想としてはごくごく自然なものなのかもしれません。

 なお、この辺のコーランの話については、以前『コーランの新しい読み方』という本(表紙には切手を使っています)を友人との共訳で出版したことがありますので、機会があれば、ご覧いただけると幸いです。

別窓 | カタール | コメント:3 | トラックバック:0 | top↑
| 郵便学者・内藤陽介のブログ |
copyright © 2006 郵便学者・内藤陽介のブログ all rights reserved. template by [ALT-DESIGN@clip].
/