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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 イエメンに停戦監視団
2019-01-17 Thu 01:50
 国連安保理は、きのう(16日)、昨年12月にスウェーデンで行われたイエメン内戦の和平協議での合意を支援し、停戦監視のための特別政治派遣団を半年間配備する英主導の決議案を全会一致で採択しました。というわけで、イエメンと英国の歴史的な関係を示すものとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      南アラビア連邦・カバー

 これは、かつてイエメン南部に存在した英保護領、南アラビア連邦が発行した赤十字100年の記念切手が貼られた国内便のカバーです。

 アラビア半島の南岸、現在のイエメン共和国南部は、かつては群小首長国が割拠する地域でしたが、19世紀、首長国同士の争いに調停者として介入した英国は、インドとのシーレーン上の重要拠点であるアデン港を直轄植民地としたほか、周囲の首長国を保護領としました。ただし、英国はアデン港を確保しさえすればよいとの方針であったため、周辺の首長国に対しては年金を支給して懐柔し、アデンを攻撃しない限りにおいては放任するとの姿勢をとっていました。

 1956年、エジプトのナセル政権がスエズ運河を国有化し、英仏の干渉を退けて第二次中東戦争に勝利すると、ナセルの掲げるアラブ民族主義の権威はアラブ世界で絶大なものとなり、1958年にはイエメン王国(現在のイエメン共和国北部)がアラブ連合に加盟し、“占領されたアデン”の奪還を主張してアデン保護領に駐留の英軍を攻撃し始めます。

 このため、1959年、英国はアデン保護領の首長たちを徐々に組織化し、南アラブ首長国連邦を結成。さらに、1960年の国連総会で「植民地独立付与宣言」が決議されたことを受けて、1962年には南アラブ首長国連邦を南アラビア連邦に発展させました。

 さらに、1962年9月、北イエメンで、イマーム・アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデターが発生し、伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、“イエメン・アラブ共和国”の革命政権が樹立されます。

 王党派がサウジアラビアとの国境を越えた山岳地帯に逃れて抵抗を続けると、革命政権はエジプトに支援を要請。これに対して、サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じて王党派を支援し、イエメン内戦は、エジプトとサウジアラビアの代理戦争として展開することになります。

 このため、内戦が南アラビア連邦に波及することを恐れた英国は、1963年、直轄植民地のアデン港も同連邦に加盟させ、外交と防衛を除く自治権を与えたうえで、1968年までの独立を約束しました。

 ところが、ある程度近代化されたアデンとそれ以外の首長国との間の文化的・経済的格差が大きかったことから、アデン住民は南アラビア連邦に組み込まれたことに強く反発。一部は、占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)や、南イエメン民族解放戦線(NLF)などの武装組織を結成し、英国人の立法評議会議長や親英派アラブへのテロを展開します。

 その後、より急進的な社会主義路線を掲げるNLFが勢力を拡大し、1967年10月、アデン港を占領。11月には英国は南イエメンから撤退して南アラビア連邦は解体され、代わってハドラマウト保護領やカラマン島などを加えた英領アデ ン全域は、NLFの下で社会主義政権の“南イエメン人民共和国”として独立。以後、1990年の南北イエメン統一まで存続することになります。


★★ 昭和12年学会・第1回公開研究会 ★★

 1月19日(土)、14:00-17:30、東京・神保町のハロー貸会議室 神保町で、昭和12年学会の第1回公開研究会が開催されます。内藤は、チャンネルくららでおなじみの柏原竜一先生とともに登壇し、「昭和切手の発行」(仮題)としてお話しする予定です。

 参加費は、会員が1000円、非会員が3000円。皆様、よろしくお願いします。 


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 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

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(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 

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 フダイダ停戦で合意
2018-12-14 Fri 01:21
 スウェーデンで開かれていたイエメン内戦の和平協議で、対立するハーディー暫定政権とシーア派系武装組織のフーシは、きのう(13日)、西部の要衝フダイダ(ホデイダとも)での停戦と同地からの全部隊撤退で合意しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イエメン・フダイダ港

 これは、王制時代のイエメンが1961年に発行した“(近代港湾としての)フダイダ港開港”の記念切手です。

 2011年、チュニジアでのジャスミン革命を発端として、“アラブの春”と称される民主化運動がアラブ世界に拡大すると、イエメンでも1990年のイエメン統一以来(南北分裂時代の北イエメン時代を含めると1978年以来)、大統領の地位を維持していたアリー・アブドゥッラー・サーリフの退陣を求める反政府デモが頻発。当初、サーリフは反政府デモの鎮圧を試みたものの失敗し、2月2日には次期大統領選挙への不出馬を表明しました。

 しかし、サーリフ退陣を求める国内世論は収まらず、5月18日、サーリフは、いったん、1ヶ月以内に退陣すると表明。ところが、同月23日には一転して反対派との全ての和平交渉を破棄すると宣言し、反対派への弾圧を再開しました。このため、6月3日、反政府軍が大統領宮殿を砲撃し、重傷を負ったサーリフは治療のためサウジアラビアの陸軍病院へ移送され、結果的に国外へ一時亡命するかたちとなりました。

 2011年9月23日、サーリフはイエメンに帰国し、大統領に復帰したうえで、11月23日、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに30日以内の権限移譲などが盛り込まれた調停案に署名。2012年1月21日にサーリフの訴追免除を可能にする法律が成立すると、治療目的で渡米します。そして、2月21日に行われた大統領選挙でハーディーが当選したことで、サーリフ政権は正式に終焉を迎えました。

 ただし、ハーディーがサーリフの腹心として政権運営に深く関わり続けたことに加え、サーリフは議会内の最大勢力である国民全体会議の党首の座にとどまり続けたため、大統領退陣後も隠然たる勢力を維持。さらに、サーリフが大統領在任中には弾圧していた反政府勢力のフーシと連携したことで、サウジアラビアが支援する暫定政権とイランの支援を受けるフーシの間で事実上の内戦に突入しました。

 内戦の勃発後間もなく、西部の港湾都市として物流の拠点でもあったフダイダはフーシの支配下に置かれていましたが、2018年以降、暫定政府軍の攻撃が激化。4月には、港に空爆が行われたほか、6月の地上部隊の交戦では39人が死亡しました。戦闘の激化に伴い、フダイダを脱出する市民も急増。9月14日には、世界食糧計画がフダイダに対して砲撃や空爆が行われて350万人に対する食糧支援が脅かされているとして警告を行っていました。

 今回の合意では、ホデイダからの部隊撤退は“数日以内”に開始され、国連を中心とした停戦監視の下、民間人を避難させるための“人道回廊”も設置されるほか、人道援助のルートとなる港湾施設の管理は国連が主導することになっています。次回の和平協議は来年1月に開き、内戦終結に向けた政治プロセスが話し合われるそうです。
 

★★ トークイベント・講演のご案内 ★★

 以下のスケジュールで、トークイベント・講演を行いますので、よろしくお願いします。(詳細は、イベント名をクリックしてリンク先の主催者サイト等をご覧ください) 

 12月16日(日) 武蔵野大学日曜講演会 於・武蔵野大学武蔵野キャンパス
 10:00-11:30 「切手と仏教」 予約不要・聴講無料


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 イエメン前大統領、死亡
2017-12-05 Tue 01:22
 内戦状態にあるイエメンのザイド派(シーア派の一派)武装組織“フーシ”は、きのう(4日)、アリー・アブドゥッラー・サーリフ(サレハ、サーレハとも)前大統領を殺害したと発表しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イエメン・サーリフモスク

 これは、2008年、当時の大統領であったサーリフの名を冠した“サーリフ・モスク”の完成を記念して発行された切手です。

 アリー・アブドゥッラー・サーリフは、1942年、イエメン王国のアフマル市でザイド派ムスリムの家に生まれました。

 1958年、イエメン王国軍に入隊。1960年には王立士官学校で学びました。1962年の革命に際しては軍事クーデターに賛同。革命後は、共和国政府と王党派の亡命政府による内戦が始まると各地を転戦して昇進を重ね、1977年、タイズ州の軍司令官に任命されました。

 1978年6月24日、ガシュミー大統領が暗殺されると臨時召集された最高行政委員会の一員として事態収拾にあたるとともに、幕僚会議議長代理として軍参謀本部を統制したうえで、7月17日、大統領に就任。さらに、国家元首として陸軍総司令官および陸軍参謀総長を兼任しました。

 大統領に就任したサーリフは、反対派将校に対する大々的な粛清を行うとともに、1982年8月30日、自らを党首として翼賛連合“国民全体会議”を結成し、同党により2期目を共和国議会に承認させます。以後、イエメンの議会は国民全体会議の一党独裁状態となり、党首であるサーレハの独裁体制が確立しました。

 1990年5月22日、中東やインド洋におけるソ連の拠点となっていたイエメン人民民主共和国(南イエメン)がソ連崩壊で経済的に行き詰まり、イエメン・アラブ共和国に吸収される形で、現在のイエメン共和国が誕生すると、サーリフは初代イエメン大統領に就任。以後、2012年に退陣するまで、イエメンの独裁者として君臨し続けました。

 この間、イエメン国内ではサーリフの個人崇拝・神格化が進められ、その一環として、2008年には今回ご紹介の切手に取り上げられたサーリフ・モスクも建立されました。

 サーリフ・モスクは、イエメンの伝統的な建築様式を取り入れ、6本のミナレット(尖塔)のうち4本は160mの高さがあります。内部は3階建てでメインの礼拝スペースは4万人が収容可能です。6000万ドルもの建設費用はイエメンの経済力からすると、明らかに分不相応なものだったため、サーリフ独裁の象徴として欧米からは批難の対象となりました。なお、今回、サーリフが殺害されたことで、今後、モスクの名前がどうなるかは、現時点では不明です。

 2011年、チュニジアでのジャスミン革命を発端として、“アラブの春”と称される民主化運動がアラブ世界に拡大すると、イエメンでもサーリフの退陣を求める反政府デモが頻発。当初、サーレハは反政府デモの鎮圧を試みたものの失敗し、2月2日には次期大統領選挙への不出馬を表明しました。

 しかし、サーリフ退陣を求める国内世論は収まらず、5月18日、サーリフは、いったん、1ヶ月以内に退陣すると表明。ところが、同月23日には一転して反対派との全ての和平交渉を破棄すると宣言し、反対派への弾圧を再開しました。このため、6月3日、反政府軍が大統領宮殿を砲撃し、重傷を負ったサーリフは治療のためサウジアラビアの陸軍病院へ移送され、結果的に国外へ一時亡命するかたちとなりました。

 2011年9月23日、サーリフはイエメンに帰国し、大統領に復帰したうえで、11月23日、副大統領のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに30日以内の権限移譲などが盛り込まれた調停案に署名。2012年1月21日にサーリフの訴追免除を可能にする法律が成立すると、治療目的で渡米します。そして、2月21日に行われた大統領選挙でハーディーが当選したことで、サーリフ政権は正式に終焉を迎えました。

 ただし、ハーディーがサーリフの腹心として政権運営に深く関わり続けたことに加え、サーリフは議会内の最大勢力である国民全体会議の党首の座にとどまり続けたため、大統領退陣後もサーリフは隠然たる勢力を維持しつづけます。そして、大統領在任中には弾圧していた反政府勢力のフーシと連携して、ハーディー大統領派と事実上の内戦に突入。2015年3月にはサウジアラビアなどが軍事介入を開始し、これまでに民間人を含む1万人以上が死亡したほか、今年に入ってからは、コレラの感染も深刻化していました。

 ところが、2017年12月2日、サーリフは、突如、フーシと敵対するサウジアラビア主導の連合軍と和平協議を行う用意があることを表明し、フーシとの同盟関係が崩れたと発表。これを受けて、翌3日にはサーリフの支持者らが、フーシの攻撃に備えて、首都サヌア中心部の複数の道路を閉鎖し、両者の衝突により、首都全域と国際空港で約60人が死亡する事態となりました。

 きのう(4日)、フーシが行ったサーリフ殺害の発表はこうした状況の下でなされたもので、詳細は不明ですが、ネット上では、すでに毛布にくるまれたサーリフの遺体の画像が出回っており、サーリフが死亡したこと自体はたしかなようです。なお、フーシは、同日、「アラブ首長国連邦で建設中のバラカ原発に向けミサイルを発射した」とも発表していますが、こちらについては、UAE当局はミサイル発射は事実ではないと否定しています。


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 イエメンで内戦の懸念
2015-03-22 Sun 22:25
 昨年(2014年)9月、ザイド派(シーア派の一派)武装組織“フーシ”が首都サヌアに侵攻して以来、混乱が続いているイエメンでは、一昨日(20日)、フーシを狙ったダーイシュ系過激派がサヌアのモスクで140人以上を殺害する自爆テロを敢行。一方、フーシは、きのう(21日)、「総動員体制に入る」と発表し、きょう(22日)、南西部の要衝タイズの空港を制圧しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       イエメン・タイズのミナレット(航空)

 これは、1954年、旧王制時代のイエメンで発行されたアフマド1世在位5周年記念の航空切手で、タイズのミナレットが描かれています。タイズの空港のことが話題になりましたので、タイズと飛行機の組み合わせということで、ご紹介しました。

 現在のイエメンの首都はサヌアですが、王制時代の1918-62年には、国の南西部、標高約1400mの高原に位置するタイズが首都でした。タイズを中心とするタイズ県は紅海に面しており、コーヒー豆の輸出で知られるモカ港があるほか、山間部では年間降水量が1000mmを超えるなど、雨量に恵まれているため、綿花やモロコシ、ゴマなどのほか、マンゴーやコーヒーも栽培されています。

 さて、イエメンでは、今年1月以降、フーシが首都サヌアを掌握し、ハディ大統領は南部のアデンへ逃れたため、フーシによる事実上のクーデターが成功。これを受けて、フーシは、2月6日、議会を強制的に解散し、“憲法宣言”を発表しています。その後、イエメンの北部・中部はフーシの実効支配下に置かれているものの、南部・東部のスンナ派は反発を強めており、そこにスンナ派系の過激派組織が関与を強めているという状況になっています。

 ところで、上述のように、タイズは旧王制時代の首都だったわけですが、イエメンの旧王室は宗派的にはフーシと同じザイド派を奉じていましたから、フーシがザイド派の旧王都にまで勢力を拡大したことは、政治的にもきわめて重要な意味を持っているといえましょう。もちろん、大統領を含め反フーシ勢力がこのまま黙っているとは考えられませんから、今後、両者の対立が激化することは避けられません。

 もともと、イエメンの地は、オスマン帝国と英国によって南北が分割統治されていた過去があるうえ、1990年の南北統一まで30年近くに渡って内戦と国家分裂の状態が続いていた過去もありますので、昨今の情勢では、再び、南北に分裂するというシナリオも決して荒唐無稽なものとは言えないでしょう。

 さらに、イエメンでは、数年前から米国がイエメン政府と協力して国際テロ組織“アラビア半島のアルカイダ(AQAP)”の掃討作戦を展開してきましたが、情勢の悪化に伴い、今年1月にはサヌアの米国大使館が閉鎖されたのに続き、昨日までに、米軍も南部のアナド空軍基地に駐留する特殊部隊の撤退を開始しており、フーシやスンナ派系過激派組織に対する“抑止力”も急速に低下しています。

 いずいれにせよ、イエメンは紅海の出口という交通の要衝に位置する国だけに、ここで本格的な内戦が勃発すれば、欧亜間の海運にも悪影響が出るのは必至で、今後の推移が注目されるところです。


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 イエメン新大統領が就任宣誓
2012-02-25 Sat 22:26
 今月21日に大統領選挙の投票が行われたイエメンで、当選者のハディ新大統領がきょう(25日)、国会で就任宣誓を行い、33年余り続いたサレハ大統領の政権が正式に退陣しました。いわゆる“アラブの春”で長期独裁政権が幕を下ろすのはチュニジアエジプトリビアに続き4例目です。というわけで、きょうはこの切手です。

        イエメンアラブ共和国加刷

 これは、1962年のイエメン革命直後、旧王制時代の切手を接収して“イエメンアラブ共和国”並びにその略称であるYARの文字と1962年9月27日の日付を加刷したものです。

 現在のイエメンの領域は、かつて、北部はオスマン帝国の支配下に、南部はイギリスの支配下に置かれていました。1918年、第一次大戦で敗れたオスマン帝国がこの地を撤退すると、現地のザイド派(シーア派の一派)指導者であったイマーム・ヤフヤーはイエメン・ムタワッキル王国の独立を宣言。1930年代に北イエメン全域を征服しました。この王国が1926年に発行したのが、イエメン最初の切手です。

 1962年9月、イエメンでは、イマーム・アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデタが発生。伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、革命政権が樹立されたものの、王党派はサウジアラビアとの国境を越えた山岳地帯に逃れて抵抗を続けました。いわゆるイエメン内戦の勃発です。

 イエメン内戦は、そのまま放置しておけば、いずれ王党派が投降して終わりという雰囲気が強かったのですが、革命政権がエジプトに支援を要請したことから事態は一転。保守派君主国の雄サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じ、王党派を支援したからです。こうして、イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈するようになり、1970年まで続きました。

 一方、イギリスの支配下に置かれていたイエメン南部では、1967年、ソ連の支援の下、南イエメン人民共和国(後にイエメン人民民主共和国に改称)が独立。イエメン社会党の一党独裁体制によるアラブ世界初の社会主義国として、中東やインド洋におけるソビエト連邦の拠点となっていましたが、ソ連崩壊で経済的に行き詰まり、1990年5月22日、北のイエメン・アラブ共和国に吸収される形で南北統一が実現し、現在のイエメン共和国が誕生しました。

 1962年の革命から半世紀のうち33年間、南北統一からの22年間だとその全期間、権力の座にあったサレハ大統領の退陣は、イエメンの現代史にとってはきわめて重要な事件であることはいうまでもないのですが、それが、どういう形で切手や郵便に痕跡を残しているのかは、残念ながら、現時点では把握できていません。ただし、昨年来、サレハ大統領の退陣と、その後継者として当時のハディ副大統領が唯一の候補者として大統領選挙に出馬し、新憲法制定を行うための任期2年の暫定大統領に就任するということは既定の路線になっていましたから、今回の新政権発足に際しては、50年前の革命のときのような暫定加刷切手が登場するということは、おそらくないでしょうね。


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 ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、CBCラジオ「朝PON」(1月26日放送)、『スタンプマガジン』2月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。

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 イエメン、サレハ大統領が帰国
2011-09-23 Fri 23:46
 ことし6月の暗殺未遂事件で重傷を負い、サウジアラビアで治療していたイエメンのサレハ大統領が、きょう(23日)、およそ3ヶ月半ぶりに首都サヌアに帰国しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         イエメン王党派・国際協力年

 これは、1965年にイエメン王党派政府が発行した国際協力年の記念切手で、国際協力年のシンボルマークを挟んで、左上にサウジアラビアのファイサル国王の、右上にイエメンのイマーム(君主)ムハンマドの肖像が掲げられています。

 1962年9月、イエメンでは、イマーム・アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデタが発生。伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、革命政権が樹立されたものの、王党派はサウジアラビアとの国境を越えた山岳地帯に逃れて抵抗を続けました。いわゆるイエメン内戦の勃発です。

 両派はともに自分たちがイエメンの正統政府であることを主張し、その一環として、それぞれ独自の切手を発行していましたが、このうち、王党派は、従来どおり“イエメン王国”と表示された切手を発行しつづけます。ただし、現実には彼らは事実上の亡命政権で、その根拠地となっている山岳地帯では郵便の利用者はほとんどなかったため、彼らの「切手」は、実際に郵便に利用するためのものというよりも、政治宣伝のための媒体としての色彩が強いものでした。

 さて、革命政権から支援の要請を受けたエジプトのナセルはイエメン内戦への介入を決断。エジプト軍を派遣し、革命政権への全面的支援を約束します。これに対して、保守派君主国の雄サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じ、王党派を支援。こうして、イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈するようになります。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で、イエメン王党派が発行したもので、彼らの後ろ盾となっていたサウジアラビアの“国際協力”に感謝する意図が込められています。

 さて、今年1月のテュニジア・ジャスミン革命以来のアラブ民主化の流れのなかで、イエメンでも、ことし1月から反体制デモが続いており、大統領の帰国説が浮上した今月18日からは、治安部隊とデモ隊の衝突が再燃して約100人が死亡しています。今回の大統領の帰国により、辞任を求める反体制派のデモ激化など国内対立が深刻化するのは必至で、内戦突入の危機さえささやかれています。

 仮に内戦突入となった場合、今回もまた、両派がそれぞれ別個に切手を発行するようになるのかどうか、個人的にはそのあたりが気になりますな。


  ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

    5月29日付『讀賣新聞』に書評掲載
  『週刊文春』 6月30日号「文春図書館」で
  酒井順子さんにご紹介いただきました !

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 イエメン統一20年
2010-05-22 Sat 21:44
 1990年5月22日に南北イエメンが統一されて、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      イエメン統一

 これは、1990年5月22日に発足した統一イエメンが発行した統一の記念切手です。

 現在のイエメンの領域は、かつて、北部はオスマン帝国の支配下に、南部はイギリスの支配下に置かれていました。1918年、第一次大戦で敗れたオスマン帝国がこの地を撤退すると、現地のザイド派(シーア派の一派)指導者であったイマーム・ヤフヤーはイエメン・ムタワッキル王国の独立を宣言。1930年代に北イエメン全域を征服しました。この王国が1926年に発行したのが、イエメン最初の切手です。

 その後、1962年9月、北イエメンで共和革命が発生し、イエメン・アラブ共和国の樹立が宣言されました。これに抵抗する王党派が山岳地帯に逃れ、いわゆるイエメン内戦が勃発します。

 イエメン内戦は、そのまま放置しておけば、いずれ王党派が投降して終わりという雰囲気が強かったのですが、革命政権がエジプトに支援を要請したことから事態は一転します。保守派君主国の雄サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じ、王党派を支援したからです。こうして、イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈するようになり、1970年まで続きました。

 一方、イギリスの支配下に置かれていたイエメン南部では、1967年、ソ連の支援の下、南イエメン人民共和国(後にイエメン人民民主共和国に改称)が独立。イエメン社会党の一党独裁体制によるアラブ世界初の社会主義国として、中東やインド洋におけるソビエト連邦の拠点となっていましたが、ソ連崩壊で経済的に行き詰まり、1990年5月22日、北のイエメン・アラブ共和国に吸収される形で、現在のイエメン共和国が誕生しました。
 
 イエメンといえば、今年(2010)年1月、アルカイダ系組織の活動が活発化して治安の悪化が懸念され、一時、日本を含む西側諸国の大使館が領事業務を停止したことが記憶に新しいところですが、首都サヌアは、『旧約聖書』の「ノアの方舟」の物語の故地ともされる歴史都市で、現在でも、旧市街には、6000棟以上の古い家屋と103のモスク、64本のミナレット(尖塔)が建ち並んぶ世界遺産の都市としても有名です。かつて、治安が比較的良かったころにイエメンを訪れた友人たちは、口々に、のんびりしていて良いところだといっていましたので、一度は訪ねてみたい場所です。

 ちなみに、首都サヌアに関しては外務省の危険情報は「十分注意してください。」のレベルですが、地域によっては、「渡航の延期をお勧めします。」となっています。これは、騒乱時のバンコクと同レベルですから、残念ながら、漫郵記の取材でイエメン国内をぶらぶらしてみるというのは、現状ではちょっと難しいでしょうねぇ。

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 サヌアの消印
2010-01-06 Wed 15:23
 アルカイダ系組織の活動が活発化し、イエメンの治安悪化が懸念される中、サッカーのアジア杯最終予選の日本×イエメン戦が、こんや(6日)首都のサヌアで行われます。というわけで、きょうはイエメンがらみの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      サヌア消印

 これは、サヌアで使用されたオスマン帝国の1ピアストル切手です。

 現在のイエメンの領域は、かつて、北部はオスマン帝国の支配下に、南部はイギリスの支配下に置かれていました。1918年、第一次大戦で敗れたオスマン帝国がこの地を撤退すると、現地のザイド派(シーア派の一派)指導者であったイマーム・ヤフヤーはイエメン・ムタワッキル王国の独立を宣言。1930年代に北イエメン全域を征服しました。この王国が1926年に発行したのが、イエメン最初の切手です。

 さて、オスマン帝国時代の(北)イエメンに近代郵便制度が導入されたのは、1868年、サヌアにオスマン帝国の郵便局が設けられたのが最初です。当時の消印は、ここに示すように、二重の円の中にアラビア語で地名が入っているもので、日付の表示はありません。なお、主要都市での郵便局の開局は、タイズが1871年、フダイダが1873年、モカが1895年です。

 サヌアは、『旧約聖書』の「ノアの方舟」の物語の故地ともされる歴史都市で、現在でも、旧市街には、6000棟以上の古い家屋と103のモスク、64本のミナレット(尖塔)が建ち並んでおり、数百年前から変わらぬままの古い街並は“生きた博物館”とも称されています。旧市街全体がユネスコの世界文化遺産にも認定されているため、フツーであれば世界中から観光客が訪れているのですが、現在はどうなんでしょうかねぇ。

 ちなみに、サヌアの治安悪化に伴い、今月3日にはアメリカ、イギリス、フランス等が大使館を閉鎖したため、わが国も4日に大使館での領事業務の対外窓口を閉鎖しています。ところが、きのう(5日)になって、イエメン北部でのテロ掃討作戦が一定の成果を上げたことを受けて、アメリカ、イギリス、フランスが業務を再開。日本大使館も近々に業務を再開するとのことですが、なんとなく、対応が後手後手に回っている印象は否めませんな。まぁ、日本代表が6日にサヌアで試合をやることは、かなり前からわかっていたわけですから、彼らが無事に帰国するまでは日本大使館も通常業務を続けていれば、こういう格好の悪いことにはならなかったのでしょうが、そこまで要求するのは酷なのかもしれませんな。


 ★★★ イベントのご案内 ★★★

 1月10日(日) 切手市場 
 於・桐杏学園(東京・池袋) 10:15~16:30
 拙著『昭和終焉の時代』の即売・サイン会(行商ともいう)を行います。入場は無料で、当日、拙著(現在、ネット書店では品切れが相次ぎ、ご迷惑をおかけしております)をお買い求めいただいた方には会場ならではの特典をご用意しておりますので、よろしかったら、遊びに来てください。詳細はこちらをご覧いただけると幸いです。

 1月15~17日(金~日) 第1回“テーマティク出品者の会”切手展
 於・切手の博物館3階(東京・目白)
 僕も、「マシュリク近現代史」と題して、スエズ以東のアラブ世界の近現代史をたどるコレクションを出品する予定です。詳細はこちらをご覧ください。


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 * おかげさまで大変ご好評をいただいており、ネット書店でも在庫切れの場合が多く、皆様にご迷惑をおかけしております。6日正午の時点で、上記ネット書店のうち紀伊国屋書店BookWebには在庫がございますが(ただし僅少です)、その他では品切れの模様です。今週中には問題が解決されると思いますので、いましばらく、ご容赦ください。
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 イエメンの人質解放
2009-11-25 Wed 10:37
 イエメンの首都サヌア近郊で地元部族民に8日間誘拐・監禁されていた日本人技師、真下武男さんが、日本時間のきのう(24日)未明、無事解放されました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 サヌア=ホデイダ道路

 これは、1961年、サヌア=フダイダ(紅海沿岸の港湾都市)を結ぶ高速道路の開通を記念してイエメンで発行された記念切手で、近代的な港湾都市フダイダと山々に囲まれた標高2200メートル古都サナアのイメージが対比して描かれています。今回、真下さんが運転手ともども誘拐されたのは、サヌア北東・アルハブの現場に車で向かう途中だったそうです。今回ご紹介の切手の高速道路は、フダイダからサヌアまで北東に向かって走っていますので、事件の現場は、切手ではサヌア市街地の右後方、山の稜線と赤い背景の境目くらいの位置という感じになりましょうか。

 イエメンの首都・サヌアは、“ノアの方舟”伝説の故地で、イスラム以前から、香料の貿易で繁栄する南アラビア有数の都市でした。もっとも、交通の要衝であったがゆえに、周辺勢力の侵入も絶えず、人々は城壁を築いて防衛に努めました。このことが、東西約1・5km、南北約1kmの城壁に囲まれた街の輪郭を形成する大きな動機となります。

 西暦7世紀になってムスリムの支配下に置かれるようになると、サナアにあったイスラム以前の神殿はすべて破壊され、その上に、モスクを中心としたイスラム都市の体裁が整えられていきます。現在、サナアの旧市街には、6000棟以上の古い家屋と103のモスク、64本のミナレット(尖塔)が建ち並んでいますが、数百年前から変わらぬままの古い街並がそのまま残っており、街全体が“生きた博物館”とも称されています。このため、1986年にはユネスコの世界文化遺産にも認定され、異国の観光客のエキゾチシズムを大いにくすぐる存在となっています。

 その一方で、国全体としては非常に貧しく、サヌアやフダイダなどの都市部とその他の地域の経済格差は相当に大きなものがあります。じっさい、イエメンでは石油を産出しないわけではないのですが、その量は決して多くはなく、コーヒー以外の食糧の輸入(砂漠地帯のため、農業生産はほとんど期待できない)などでほぼ帳消しになってしまい、隣接する石油大国・サウジアラビアへの出稼ぎに相当程度頼らざるを得ないのが実情です。

 それにしても、解放後の記者会見で、真下さんは、休養のため一時帰国するものの「会社とも相談する必要があるが、自分としては戻って学校のプロジェクトを仕上げたい」と話したのだとか。その責任感たるや実に立派なもので、こうした方々が海外で活躍されることが、わが国の国際的な評価を高めていくことは間違いありません。それだけに、海外の治安悪化地域で、民生支援の日本人スタッフがある程度まとまって活動するような場合には、安全確保のため、自衛隊が警備員として同行するなどの国の施策があっても良いように思うのですが、自衛隊の海外派遣に絶対反対の“9条教”信者だとか、目先の経済効率の低い“無駄”を削減することに血眼になっている仕分け人だとか、そういう人たちが政府を構成しているうちは無理なんだろうなぁ。


 ★★★ 出版記念パーティーのご案内 ★★★

 『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』の刊行を記念して、ルーマニア民主革命20周年の記念日にあたる12月22日、下記のとおり出版記念パーティーを開催いたします。ちょっと変わったオフ会あるいは忘年会としていかがでしょうか。当日は、僕のトークのほか、楽しいアトラクションを予定しております。

 ・日時 2009年12月22日 18:30~

 ・会場 レストラン・ルーマニア(本格的ルーマニア料理のレストランです)
     *東京都中野区本町1-32-24(東京メトロおよび都営地下鉄中野坂上駅1分)
      tel: 03-5334-5341 地図などはこちらをご覧ください。

 ・会費 7000円(『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』1冊つき)
     *当日会場にてお支払いをお願いいたします。

 ・参加ご希望の方は、12月18日までにキュリオマガジン編集部まで、電子メール(info@fujimint.com)にてお申し込みください。たくさんの方々のお越しを心よりお待ちしております。
 

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 イエメン航空
2009-06-30 Tue 21:59
 現地時間の昨日(29日)午後9時半、乗員乗客150人以上を乗せてイエメンの首都サヌアからコモロに向かっていたイエメン航空機がインド洋に墜落し、乗員乗客の生存は絶望的と見られていましたが、きょうになって、同航空は子供1人が救助されたと発表しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 イエメン航空

 これは、1951年、王制時代のイエメンで発行された航空切手で、首都サナアの上空を飛行機が飛んでいる風景が描かれています。イエメン最初の航空切手は1947年の発行で、この切手は第2次発行分です。

 旧約聖書の創世記に登場する「ノアの方舟」の物語は、ノアとその一族だけが、方舟に乗って神が人間を罰するために起こした洪水から逃れるというものですが、ノアの息子のセム(アラビア語ではサーム)はアラブをはじめとするセム族の祖と見なされています。現在、イエメンの首都となっているサナアは、このセムが、東のヌクム山から盆地を切り開いてつくったとの伝説を持つ古都で、イスラム以前から、香料の貿易で繁栄する南アラビア有数の都市でした。

 もっとも、交通の要衝であったがゆえに、サナアには周辺勢力の侵入が絶えず、人々は城壁を築いて防衛に努めました。このことが、東西約1・5km、南北約1kmの城壁に囲まれた街の輪郭を形成する大きな動機となります。

 西暦7世紀になってムスリムの支配下に置かれるようになると、サナアにあったジャーヒリーヤ時代の神殿はすべて破壊され、その上に、モスクを中心としたイスラム都市の体裁が整えられていきます。現在、サナアの旧市街には、6000棟以上の古い家屋と103のモスク、64本のミナレット(尖塔)が建ち並んでいますが、数百年前から変わらぬままの古い街並がそのまま残っており、街全体が“生きた博物館”とも称されています。

 今回ご紹介の切手にも、そうしたサナアの町並みの一部が描かれていますが、ユネスコの世界文化遺産にも認定された町並みは、異国の観光客のエキゾチシズムを大いにくすぐる存在となっています。

 ちなみに、今回の事故を起こしたイエメン航空(イエメン・エアウェイズ)は、1961年8月4日に“イエメン・エアラインズ”として創立され、1962年から運行を開始しました。“エアウェイズ”への改称は1972年のことです。したがって、きょうの切手が発行された1951年の時点では会社としてのイエメン航空は影も形もないのですが、古都の上空をプロペラ機がのんびりと飛んでいる風景というのも、なんとなく風情があってよいでものですな。

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