郵便学者・内藤陽介のブログ
 切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。
08 | 2008/09 | 10
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 モカの木
 日本のモカ・コーヒーの98%以上を占めるエチオピア産のコーヒー豆からから基準値以上の残留農薬が検出され、輸入が事実上ストップしているそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 モカ・カバー

 これは、1958年にイエメンの首都サナアから当時は英領だったアデン宛のカバーで、モカ・コーヒーの木を描く6ブガシュ切手が貼られています。この切手は、1947年に製造されたものの、、1958年6月までは正規に発売されなかったといわれていますが、その理由などは調べきれませんでした。なお、今回は切手の向きを優先して、カバーとしては上下逆の画像になっていますが、ご了承ください。

 “モカ”(アラビア語の発音では“ムハ“に近い)というのは、もともとは紅海に面したサナアの外港の地名です。いわゆるモカ・コーヒーの木はエチオピアが原産ですが、アラビア商人たちがそれを世界に広めたため、いつしか、その積出港であったモカの名がコーヒーの名前となりました。現在では、モカの港はすっかり寂れてしまいましたが、かつてこの港からイエメン産・エチオピア産のコーヒー豆が輸出されていたことから、現在でも、両国産のコーヒー豆は“モカ”と総称されています。

 イエメン産とエチオピア産を特に区別する必要がある時は、イエメン産のものを“モカ・マタリ”と呼ぶことがあります。 かつて、“コーヒー・ルンバ”に歌われたのは、このモカ・マタリで、エチオピア産に比べると値段も高めです。したがって、単に“モカ”とだけある場合には、エチオピア産とみてよさそうです。

 ところで、今回の農薬問題に関しては、すでに業界トップのUCC上島珈琲がモカを使った業務用商品の販売を停止し、ブレンドコーヒーの一部もモカ以外の豆で代替し始めたほか、喫茶店チェーンの珈琲館でも先週17日からモカのネット販売を休止するなど、 そろそろ、影響が出始めています。

 もちろん、業界側もこの問題を放置していたわけではなく、今年6月には全日本コーヒー協会が現地に調査団を派遣し、麻袋から残留農薬を検出するなどしましたが、結局、原因は特定できなかったようです。これに対して、エチオピア側は「日本は細かすぎる。他の国は何も言ってこない」などと主張しており、現時点では輸入再開のめどが立っていません。

 このまま行くと、モカ・マタリとフツーのモカの値段が逆転するようなことになるのかもしれませんが、味の実力という点では、やはりモカ・マタリの方が上ですからねぇ。妙な下剋上にならないといいのですが…。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
 『郵趣』今月の表紙:アデンの1番切手
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年6月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 アデンの1番切手

 これは、1937年に発行されたアデンの1番切手で、この地域の伝統多岐なダウ船が描かれています。雑誌の表紙では同時にシリーズの12種類(色違い)をご紹介していますが、ここでは、1ルピー切手を取り上げました。

 古来、イエメンと呼ばれていたアラブあ半島性南岸の地域は、近代以前は群小首長国が割拠する地域でしたが、19世紀に入ると、インド洋のシーレーン確保を目指すイギリスが首長国同士の争いに調停者として介入。重要拠点のアデン港を直轄植民地としたほか、イエメン南部の首長国を次々と保護領としていった。これに対して、イエメン北部の地域はオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、第一次大戦で敗れたオスマン帝国が撤退すると、1918年、イエメン・ムタワッキル王国として独立しました。

 一方、南イエメンの地域では、1937年4月1日、イギリスの影響下にある地域で“アデン保護領”を結成し、この地域で使うための切手12種類が発行されました。これが、今回ご紹介の切手です。

 この切手は、イスラム世界の伝統的な木造帆船、ダウ船を大きく描いたもの。ダウ船は、大きな三角帆と釘を使わず紐やタールで組み立てる構造が特徴で、そのルーツは西暦の紀元前後にまでさかのぼるといわれています。かつては季節風を利用したインド洋貿易の主役として、ペルシャ湾岸のナツメヤシや魚介類、東アフリカのマングローブ木材をはじめ、奴隷や胡椒などを含むあらゆる商品がこの船で運ばれていました。

 切手の左右には南アラビアで成人男子の象徴とされている短剣、ジャンビーヤも描かれています。デラルー社の美しい印刷ともあいまって、海運の要衝として繁栄してきた船乗りの都市、アデンのイメージにふさわしい1枚といってよいでしょう。

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 ナセル生誕90年
  エジプトの元大統領、ガマール・アブドゥン・ナーセル(一般に“ナセル”と呼ばれている人物です)が1918年1月15日に生まれてから、今日でちょうど90年です。というわけで、ナセルがらみの切手の中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 イエメン・ナセル表
 イエメン・ナセル裏

 これは、1971年にイエメンで発行されたナセルの追悼切手が貼られたカバーです。消印がハッキリ読めないのですが、上の画像・右下の5B切手の消印では、“21.1.?1”との日付がかろうじて読めますので、おそらく、1971年の使用例だろうと思います。

 エジプト革命を成功させ、スエズの国有化を宣言。さらに英仏の攻撃に屈せず、第2次中東戦争を勝利に導き、アラブ世界の英雄となったナセルでしたが、1958年に行ったエジプト・シリアの国家連合は1961年に破綻し、その威信は大きく揺らぐことになります。

 こうした状況の中で、1962年9月、イエメンで共和革命が発生。これに抵抗する王党派が山岳地帯に逃れ、いわゆるイエメン内戦が勃発します。

 イエメン内戦は、そのまま放置しておけば、いずれ王党派が投降して終わりという雰囲気が強かったのですが、革命政権がエジプトに支援を要請したことから事態は転換。国家連合破綻の失点を回復しようとしたナセルは、ただちにイエメン内戦への介入を決断し、エジプト軍を派遣して、革命政権への全面的支援を約束します。

 これに対して、保守派君主国の雄サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じ、王党派を支援。こうして、イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈するようになります。

 イエメン内戦は、アラブ世界の保守派と革命派を巻き込み、泥沼のアラブ内戦の様相を呈しながら、1970年まで続くことになるのですが、内戦への介入が長引くにつれ、エジプト経済は次第に疲弊していきます。また、イエメンへの派兵により、イスラエルに対するエジプトの軍事力も次第に低下し、ナセルの国際的威信はさらに低下するという悪循環をもたらしました。その帰結が、1967年の第3次中東戦争での惨敗であり、1970年のヨルダン内戦とその調停途中でのナセルの死というかたちでつながっていくことになります。

 こういう経緯もあって、イエメンの革命政権は1971年早々にナセルの追悼切手を発行したわけですが、その実逓使用例は決して多くはありません。その意味では、今回ご紹介したカバーは決して状態の良いものではないのですが、とりあえずのところ、これで我慢をせざるを得ないというのが正直なところです。

 ところで、今回ご紹介のカバーは、“キプロスのニコシア郵便局長”宛になっている点にもご注目下さい。当時、アラブ諸国はイスラエル宛の郵便物を取り扱いませんでしたが、現実には、イスラエル占領地域にはパレスチナ人が多数住んでおり、彼らと海外のパレスチナ人との間では郵便交換が必要でした。このため、海外のパレスチナ人は、イスラエル支配地域宛の郵便物を、いったん“中立国”のキプロスに送り、そこから宛先地まで転送してもらうという方法を取っています。このカバーも、おそらく、そのような事情でイエメンのサナアからキプロスまで送られたものでしょう。

 現在、都内の某大学で“中東郵便学”と題するパートタイムの授業をやっているので、ナセルとその時代に関する切手や郵便物は少なからず集めています。前々から、それをまとめたコレクションを展覧会に出品してみようと考えているのですが、2006年のスエズ運河国有化50年、2007年の第3次中東戦争40年のタイミングには間に合わいませんでした。今年は、ナセル生誕90年とエジプト・シリアの国家連合50年ということでタイミング的にはばっちりなのですが・・・。

 <おしらせ>
 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

 メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
 建設の風景:日干し煉瓦の建築
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の10月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月号はこんなモノを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

アデン・建設現場

 これは、南アラビアの伝統的な建設風景を描いた東アデンのハドラマウト保護領(クアイティー国)の切手です。

 アラビア半島の南岸は、かつては群小首長国が割拠する地域でしたが、19世紀、首長国同士の争いに調停者として介入したイギリスは、重要拠点のアデン港を直轄植民地としたほか、周囲の首長国を次々と保護領としていきます。

 そのうちのハドラマウト保護領を構成していた首長国のひとつ、クアイティー国では、1942年以降、独自の切手が発行されていましたが、今回ご紹介の1枚は、そのうちの1963年10月20日に発行された35セント切手です。もともと、このデザインの切手は1955年にも発行されていますが、今回のモノは、首長の交代にあわせて1963年に肖像部分のみを入れ替えて発行されたものです。

 切手のデザインは、この地方の伝統的な建設現場の風景を取り上げたもので、画面の手前には日干し煉瓦を作っていると思しき職人の姿が描かれ、その背景には盛り土を運ぶ二人組や、ゴンドラに乗って作業する人々の姿もみえています。

 アデン地域は、イギリスの保護領から南イエメンを経て、現在のイエメンにいたるまで、めまぐるしく支配者が変わっていますので、郵便史的には非常に面白い対象だろうと思います。ただ、実際に僕自身がそこまで手を広げられるかというと、ちょっと難しそうですが…。
 試験の解説(2006年1月)−4
 さて、試験問題の解説、最終日の今日は次の一問です。

 問題E この切手(↓)について、歴史的背景を踏まえて説明せよ。(試験問題では、封筒の一部のみを図版としましたが、ここでは封筒全体の画像を示します。なお、画像はクリックで拡大されます)

イエメン王党派のカバー

 このカバー(封筒)は、1966年12月、イエメン王党派の切手を貼ってサウジアラビア領内のカラから差し出されたものです。

 1962年9月、イエメンでは、イマーム(君主)アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデタが発生。伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、革命政権が樹立されたものの、王党派は山岳地帯に逃れて抵抗を続けました。いわゆるイエメン内戦の勃発です。

 両派はともに自分たちがイエメンの正統政府であることを主張していたが、その一環として、彼らはそれぞれ独自の切手を発行し、その支配地域で使用させていた。

 このうち、王党派は、従来どおり“イエメン王国”と表示された切手を発行しつづけましたが、現実には彼らが掌握している山岳地帯では郵便の利用者はほとんどなかったため、彼らの「切手」は、実際に郵便に利用するためのものというよりも、政治宣伝のための媒体としての色彩が強いものでした。

 さて、革命政権から支援の要請を受けたエジプトのナセルはイエメン内戦への介入を決断。エジプト軍を派遣し、革命政権への全面的支援を約束します。これに対して、保守派君主国の雄サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じ、王党派を支援。こうして、イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈するようになります。

 こうして、イエメン内戦は、アラブ世界の保守派と革命派を巻き込み、泥沼のアラブ内戦の様相を呈しながら、1970年まで続くことになるのですが、内戦への介入が長引くにつれ、エジプト経済は次第に疲弊していきます。また、イエメンへの派兵により、イスラエルに対するエジプトの軍事力も次第に低下し、ナセルの国際的威信は急速に低下し始めるのです。

 今回ご紹介しているカバーは、こうした状況の中で、サウジアラビア領内の拠点からイエメン王党派が自らの切手を貼ってアメリカ宛に差し出したものです。本来であれば、自国の領内において他国の郵政の切手を貼って差し出した郵便物は料金未納扱いとなるはずなのですが、イエメンの王党派を支援していたサウジアラビアは、領内のカラにイエメン王党派が郵便局を設置し、切手を用いて郵政活動を行うことを黙認。不足料の徴収等を行うことなく、外国郵便のルートに乗せています。また、宛先国のアメリカも、アラブ民族主義の旗手であったエジプトの影響力を削ぐため、サウジアラビアならびにイエメン王党派を支持するという立場から、王党派の切手の有効性を認め、不足料の徴収などは行っていません。

 試験の解答としてのポイントは、今回のカバーが内戦期の王党派のものであることを示した上で、内戦の概要とサウジアラビアの役割について説明しているかどうかがカギになります。もちろん、カバーの宛先国であるアメリカの立場についても触れられていればベターであることはいうまでもありません。

 さて、4回に分けて試験問題の解説を記事にしてきましたが、明日からは通常通りのブログに戻る予定です。今月は、中東切手展があったせいもあって、中東がらみの記事が多くなってしまい、バランスが悪かったので、来月からはできるだけ地域と時代のバランスを取り戻すように気をつけたいと思います。

 イエメンからパレスチナへ
 1月8日の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-223.html)で、イエメン最初の切手のことをご紹介したところ、去年6月にイエメンへ旅行に行かれたというSuuSuu様からコメントを頂戴しました。

 現在開催中の<中近東切手コレクション>展では、イエメンに関しては、櫻井多加志さんが1960〜70年代の革命政権と王党派の切手を展示してくださっているほか(ちなみに、櫻井さんは、イエメンのほか、ヒジャーズ、サウジ、アルジェリア、モロッコについても興味深い展示をしてくださっています)、僕自身もイエメン内戦について少しだけですが自分の作品の中で触れています。

 で、そうしたイエメン内戦関係のものをご紹介できれば良いのですが、いつものごとく段取りが悪くって、現物は展覧会の会場に行ってしまってスキャンが取れません。というわけで、今日はイエメンがらみのもののうち、今回の展覧会には使わなかったものの、ちょっと毛色の変わったものをご紹介しましょう。

イエメン→パレスチナ

 このカバー(封筒)は、1933年5月、サナァからテルアビブを経てジャッファまで送られたもので、裏面にはアラビア語とヘブライ語で宛名が書かれています。

 アラブとユダヤというと絶対に交わることのないもののように考えている人も多いのですが、アラブとはアラビア語を母語とする人たちのことであり、ユダヤ人の定義が「ユダヤ人の母から生まれた者もしくはユダヤ教徒」である限り、その両方を兼ね備えたアラブ系ユダヤ教徒という人も存在します。1948年にイスラエルが建国される以前、イエメンには、そうしたアラブ系ユダヤ教徒の人々が少なからず住んでいました。このカバーも、そうしたイエメン在住のアラブ系ユダヤ教徒が差し出したものと見て間違いないでしょう。

 貼られている切手は、1926年のものと比べると、かなり切手らしくなっていますが、それでも、文字と幾何学文様のみのシンプルなデザインです。こうした切手を発行していたイエメンで、1960年代に入ると、欧米系のエージェントにそそのかされたとはいえ、外貨の獲得を目指した輸出向けのけばけばしい切手を発行するようになるのですから、変われば変わるものです。

 さて、ご好評をいただいております<中近東切手コレクション展>も、いよいよ後半戦に突入しました。14・15日(土・日)の両日は、14:00〜と15:30〜の2回、僕が展示解説を行いますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。

 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。

 PS 今日ご紹介しているカバーは、会場には展示しておりません。あしからずご了承ください。



 イエメン最初の切手
 今週水曜日、11日から、東京目白の“切手の博物館”で<中近東切手コレクション展>を開催します。というわけで、今日から何回かに分けて、その予告編として、会場で展示する切手やカバー(封筒)の中から、ご興味を持っていただけそうなものをご紹介して行こうかと思います。

 第1回目の今日は、まずこんなものからご紹介してみましょう。

イエメンのカバー

 画像(クリックで拡大されます)は、1926年に発行されたイエメン最初の切手が貼られたカバーです。

 第一次大戦以前、イエメン北部はオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、第一次大戦で敗れたオスマン帝国がこの地を撤退すると、1918年、現地のザイド派(シーア派の一派)指導者であったイマーム・ヤフヤーを首長としてイエメン・ムタワッキル王国の独立を宣言します。その後、ヤフヤーは1930年代に北イエメン全域を征服します。

 その過程の1926年に発行された最初の切手は、イエメンで成人男性の証であるジャンビーヤとよばれる短剣を交差させ、その間に“ムタワッキル・イスラム政府”の文字を枠で囲んだデザインとなっています。また、切手の上部にはサナアの文字が、右下には、為政者“ヤフヤー”の名前が記され、左下には“(ヤフヤーに対する)神の庇護”を意味するアラビア語が記されています。

 サナアといえば、世界遺産にも登録された中世そのままの街並みが残る都市ですが、この切手や押されている消印も、そうした土地柄をしのばせる素朴な味わいが見る者を楽しませてくれます。

 ぜひとも、11日からの<中近東切手コレクション展>にお運びいただき、実物をじかにご覧いただければ、と思っております。



アクセス数 (2005年6月1日〜)

プロフィール

内藤陽介 (ないとう・ようすけ)

Author:内藤陽介 (ないとう・ようすけ)
 1967年、東京都生。東京大学文学部卒業。郵便学者。日本文芸家協会会員。切手の博物館・副館長。切手などの郵便資料から、国家や地域のあり方を読み解く「郵便学」を提唱し、研究・著作活動を続けている。
 主著:<解説・戦後記念切手>シリーズ(日本郵趣出版、現在、第6巻まで刊行)、『北朝鮮事典』、(竹内書店新社)、『外国切手に描かれた日本』(光文社新書)、『切手と戦争』(新潮新書)、『反米の世界史』(講談社現代新書)、『皇室切手』(平凡社)、『これが戦争だ!』(ちくま新書)、『満洲切手』(角川選書)、『香港歴史漫郵記』(大修館書店)、『タイ三都周郵記』(彩流社)ほか著書多数。最新作は『韓国現代史:切手でたどる60年』(福村出版)

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