内藤陽介 Yosuke NAITO
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 岩のドームの郵便学(13)
2014-01-19 Sun 11:17
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』523号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は、第3次中東戦争後のパレスチナ過激派のテロ戦術について取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       クウェート・パレスチナ支援(1970・45f)

 これは、1970年3月6日、いわゆるパレスチナ・ゲリラの活動を称えるためにクウェートが発行した切手で、いずれも、岩のドームを背景にした女性闘士の姿が描かれています。
 
 第3次中東戦争で完敗を喫したアラブ諸国は、1967年9月、ハルトゥーム(スーダンの首都)でアラブ首脳会議を開催し、「(イスラエルを)承認せず、(イスラエルとは)交渉せず、講和せず」の三不政策を基本方針として確認します。しかし、両者の力の差はいまや歴然としていたため、以後、アラブ諸国はイスラエル占領地の返還を主要な政治課題と考えるようになり、イスラエル国家の解体(すなわち、パレスチナの解放)は彼らにとって二義的な問題となりました。

 一方、パレスチナの活動家にしてみれば、こうした方針転換にはとうてい納得できないものであり、祖国解放のためには対イスラエルのテロ活動を放棄することなど受け入れられなかった。そして、そうした彼らの存在は、パレスチナ解放という建前の大義とは裏腹に、多くのアラブ諸国にとって(本音では)重荷になっていきます。

 さて、パレスチナ解放の大義と、それが絶対に実現不可能であるという現実の前に、最も苦しい立場に追い込まれたのはヨルダンでした。

 第3次中東戦争以前、ヨルダン川西岸地区はヨルダンの支配下にありましたが、戦争によってイスラエルが占領しました。このため、イスラエルによる占領を忌避して逃れてきた難民たちは、面積が大幅に縮小したヨルダン領内に集中することになり、ヨルダンにおける“パレスチナ出身者”の人口密度は急増します。

 もちろん、ヨルダン政府は自分たちこそがエルサレムを含むヨルダン川西岸の正統な支配者であると主張し、イスラエルによる西岸地区の占領は無効であると国際社会に訴え続け、国際社会も少なからずそうした主張に理解を示していた。しかし、彼らにとってどれほど不愉快であろうと、イスラエルが停戦協定を無視してヨルダン川西岸に居座り続けており、ヨルダンが自力でイスラエル軍を排除することなどできはしないこともまた冷徹な現実でした。

 そうした現実を十分に認識していながらも、パレスチナ難民を多数抱えているというもう一つの現実にも向き合わなければならなかったヨルダンとしては、PLOやファタハが続ける闘争(=テロ)の“大義”を非現実的と切って捨てることは国内情勢の不安を招きかねません。

 こうしたこともあって、第3次中東戦争の直後、しばらくの間、ヨルダン政府は(少なくとも表面上は)ファタハに対して好意的であり、1968年のカラメの戦いに際しては、ファタハを積極的に支援します。

 当時、アラファトひきいるファタハは、ヨルダン川東岸の寒村、カラメを拠点に川を渡ってイスラエル占領下の西岸地区に出撃し、テロ活動を展開していました。このため、イスラエルはヨルダン領内に侵攻してカラメに対する掃討作戦を展開しましたが、ファタハの逆襲に遭い、撤退を余儀なくされました。

 純粋に軍事的な見地から見れば、カラメの戦いはパレスチナ・ゲリラが一局地戦で小さな勝利を収めただけに過ぎなかったのですが、前年の第3次中東戦争での惨敗の衝撃が大きかっただけに、パレスチナ側がイスラエルに対して一矢を報いたことには政治的に大きな意味がありました。はたして、この戦いの功績により、1969年2月、アラファトはPLO執行部の議長に選出され、アラファトのPLOに対するアラブ諸国の声望は高まった。

 しかし、当時のPLOが掲げていたアラブ民族主義路線には、その本質において、いずれは既存のアラブ諸国と対立せざるを得ません。

 すなわち、アラブ民族主義の信奉者たちの理解によれば、“アラブの大義”としてのイスラエル国家の解体=パレスチナの解放を実現するには、全アラブが大同団結して統一アラブ政府を樹立することが不可欠ですが、現状がそうなっていないのは、第一次大戦後、オスマン帝国が解体される過程で、英仏がアラブの意向を無視して勝手に“国境”を引き、アラブを分断したためです。したがって、アラブの(再)統合を実現するためには、列強の押し付けた“国際秩序”を唯々諾々として受け入れている既存の政府(特に王朝)を打倒し、民族主義の革命政権を樹立すべきというロジックが導き出されます。

 PLOがこうした世界観に立つ限り、親西側のハーシム家が支配するヨルダンの王制は、大義の実現のためには、真っ先に打倒すべき対象ということになります。

 一方、ヨルダンにしてみれば、イスラエルに占領されている西岸地区は、あくまでも、1948年の第一次中東戦争でイスラエルと戦った血の代償として獲得したものであり、イスラエルが解体された暁には、自分たちが西岸地区の支配権を回復するのが当然という理解です。

 それでも、直接、パレスチナの地と接していない(=イスラエルとの直接戦闘の可能性がほとんどない)アラブ諸国の中にも、パレスチナ・ゲリラの活動を好意的に見ている国も少なくありませんでした。今回ご紹介の切手を発行したクウェートもその一つで、パレスチナから遠く離れたペルシャ湾岸という地理的環境にあるクウェートにとっては、“パレスチナ解放”の問題も対岸の火事ですから、(あくまでも他人事として)それが実現できるのなら大変に結構なことだという程度の認識しかなかったのかもしれません。

 しかし、この切手が発行されてから半年後の1970年9月、当時ファタハに次ぐ勢力を誇っていたゲリラ組織、パレスチナ解放戦線(PFLP)がアラブ諸国とイスラエルとの和平交渉を妨害するために欧米系航空会社の旅客機をハイジャックさせ、ヨルダンの空港で炎上させる事件が発生。ここにいたり、ヨルダン政府は国内のパレスチナ・ゲリラ組織の一斉摘発に乗り出していきます。

 こうして、“黒い9月”とも呼ばれたヨルダン内戦が勃発。おびただしい犠牲を払った後、パレスチナ人勢力は敗退し、彼らはパレスチナの北隣のレバノンに脱出ます。この間の9月27日、ヨルダン内戦の調停に奔走していたナセルは、過労により急死してしまいました。かつて、アラブ民族主義の輝ける星であった男は、その理念が現実と完全に乖離したことを見届けたうえで、この世から姿を消したのでした。

 一方、パレスチナ・ゲリラたちは、シリアの支援を受けつつ、より過激なテロ戦術を展開していきます。そして、その矛先は、次第に、イスラエルのみならず、欧米諸国全体へと向けられていきました。

 すなわち、欧米諸国の民間人をテロの標的にすれば国際社会の関心はおのずとパレスチナに向くから、国際社会もパレスチナ問題の解決に本格的に取り組まざるをえなくなるだろうとの見通しの下、彼らは爆弾テロやハイジャック事件を繰り返しました。「これまで何十年にもわたって国際社会は我々を無視するだけだったが、少なくとも現在では彼らは我々について議論している」とのジョージ・ハバッシュ(PFLPの代表者)の発言は、その心性を端的に表現しています。

 こうしたパレスチナ・ゲリラの無差別テロは、次第に、世界各地の反米テロ組織と連携していきました。すなわち、イタリアの「赤い旅団」や西ドイツの「バーデル・マインホフ」、日本赤軍などの極左組織が、共通の敵であるアメリカとイスラエルを攻撃するという一点において利害を共有し、レバノンに集結して破壊工作を展開することになったのです。

 こうした極左組織のメンバーの大半は、ムスリムでもなければ、歴史的な背景についての知識を踏まえ、パレスチナの領土奪還に強い意欲を持っていたわけでもありません。たとえば、1972年5月、テルアビブのロッド空港(現ベングリオン空港)で日本赤軍のメンバー3人が自動小銃を乱射し、24人の死者が出るという事件が発生しましたが、実行犯として逮捕された岡本公三は、イスラエル当局の尋問に対して「映画『栄光への脱出』(イスラエル建国を扱った親イスラエル的な内容の歴史映画)を観て感動したことがあり、イスラエルの民族主義には好意を抱いている」と応え、全世界を唖然とさせています。それでも、日本赤軍にすれば、テルアビブ空港でのテロ事件は、自らの存在を全世界にアピールし、パレスチナ・ゲリラとの連帯を深めるという点において、所期の目的を達するものと自己評価されました。

 また、この事件の記憶が生々しい1972年9月には、ドイツのミュンヘンで開催中のオリンピック選手村でパレスチナ・ゲリラがイスラエル選手団を人質にとって、イスラエル国内に収監されているパレスチナ人200人の解放を要求する事件が発生。銃撃戦の結果、人質全員が死亡しています。

 こうして、あいつぐ無差別テロにより、国際社会はパレスチナ問題へ関心を寄せるようになりました。しかし、当然のことながら、その反応は、パレスチナ難民への同情とはならずに、パレスチナ・ゲリラに対する憎悪にしかならなりませんでした。

 それでも、強硬な反米の姿勢を掲げる彼らに対しては、東側陣営の盟主であるソ連をはじめ、アメリカ帝国主義を不倶戴天の敵とみなす中国や北朝鮮が、貴重な「敵の敵」として、支援を行いました。この結果、さまざまなタイプの共産諸国の兵器が、レバノンの反米・反イスラエルの武装組織に流入し、彼らの軍事力を強化していくことになるのです。


 ★★★ 本日17:00まで! 展示イベントのご案内 ★★★

 第5回テーマティク出品者の会 1月17-19日(金ー日)
 於・切手の博物館(東京・目白)

 テーマティク出品者の会は、テーマティクならびにオープン・クラスでの競争展への出品を目指す収集家の集まりで、毎年、全国規模の切手展が開催される際には作品の合評会を行うほか、年に1度、切手展出品のリハーサルないしは活動成果の報告を兼ねて会としての切手展を開催しています。僕も、昨年のバンコク展に出品した朝鮮戦争のコレクションを展示します。入場は無料ですので、ぜひ、遊びに来てください。(詳細はこちらをご覧ください)


 ★★★ トーク・イベントのご案内 ★★★

 2014年1月2日より、東京・両国の江戸東京博物館で大浮世絵展がスタートしますが、会期中の1月24日13:30より、博物館内にて「切手と浮世絵」と題するトーク・イベントをやります。

 参加費用は展覧会の入場料込で2100円で、お申し込みは、よみうりカルチャー荻窪(電話03-3392-8891)までお願いいたします。展覧会では、切手になった浮世絵の実物も多数展示されていますので、ぜひ遊びに来てください。

 なお、下の画像は、展覧会と僕のトーク・イベントについての2013年12月24日付『讀賣新聞』の記事です。

大浮世絵展・紹介記事


 ★★★ 予算1日2000円のソウル歴史散歩 ★★★   

 毎月1回、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で予算1日2000円のソウル歴史散歩と題する一般向けの教養講座を担当しています。次回開催は2月4日(原則第1火曜日)で、ついで、3月4日に開催の予定です。時間は各回とも13:00~14:30です。講座は途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


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 日本の兵隊さん、本当にいい仕事をしてくれたよ。
 彼女はしわくちゃの手で、給水塔の脚をペチャペチャ叩きながら、そんな風に説明してくれた。(本文より)

 南方占領時代の郵便資料から、蘭印の戦跡が残る都市をめぐる異色の紀行。
 日本との深いつながりを紹介しながら、意外な「日本」を見つける旅。

 出版元特設ページはこちらです。また、10月17日、東京・新宿の紀伊國屋書店新宿南店で行われた『蘭印戦跡紀行』の刊行記念トークの模様が、YouTubeにアップされました。よろしかったら、こちらをクリックしてご覧ください。


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 人権救済法案を閣議決定
2012-09-20 Thu 00:41
 日本政府は、きのう(19日)、法務省の外局に“人権委員会”の設置を柱とする人権救済機関設置法案(人権救済法案)を「次期国会の提出を前提として法案の内容を確認する」とした閣議決定を行いました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       人権宣言50年(クウェート)

 これは、1998年にクウェートが発行した世界人権宣言50年の記念切手です。

 “基本的人権の尊重”ということに異議を唱える人は、まずいないだろうと思います。しかし、人権の尊重や用語といった場合、その内容についてはさまざまな議論があり、容易に結論が出るものではありません。

 たとえば、イスラム世界における女性の問題などは、その典型的な事例と言えましょう。

 すなわち、コーランでは、女性は保護されるべき存在であるとされています。この“保護”の考え方は、たとえば、戦争などで男女の人口バランスが崩れた場合などに経済的に余裕のある男性が“平等に愛する”との前提で複数の妻をめとることが認められるというロジックや、未婚女性の純潔を守ることが一族の名誉となるという考え方に結びついています。

 ただし、現実には“保護”の名の下に男性が女性を恣意的に扱ったり、女性の権利が著しく制限されていたりすることも珍しくありません。たとえば、未婚女性の純潔を守ることが一族の名誉であるということは、裏を返せば、未婚女性がセックスを体験したことが明らかになると一族の名誉が失墜するという発想につながります。このため、かつてのエジプトの農村では、新婚初夜に花嫁が処女でなかったことが判明すると、翌朝、ナイル川にウェディング・ドレス姿の死体が浮かんでいるという悲劇も少なからずあったようで、そうしたことを防ぐためと称して、未婚女性を男性の目の届かない環境に置く、すなわち、一般社会から隔離して、学校にも行かせなければ、町への買い物にも行かせない、それゆえ、お金もほとんど渡さないというようなことも珍しくありませんでした。かつてアフガニスタンのほぼ全域を支配していたタリバン政権下で、女性の権利や教育、社会進出が極端に制限されていたのは、こうした発想によるものです。

 当然のことながら、こうした女性の“保護”は西側世界の人権感覚からすると非難の対象となるわけですが、それでは、イスラム社会のすべての女性が抑圧の下で苦しんでいるとみなしうるかというと、ことはそう単純ではありません。

 たとえば、イスラム教徒の女性が公衆の面前で髪を隠すのは、髪を男性に見せると男性の劣情を刺激し、貞操の危機につながりかねないとの考えによるものですが、ベールの着用を疎ましくいる女性がいる半面、イスラム教徒であることを強く自覚し、公衆の面前で髪を見せることを“恥ずかしい”と感じているがゆえに、自らの意思でベールを着用したいと考える女性も少なくありません。こうした状況を無視して、一方的にベールの着用イコール女性の人権侵害と短絡的に非難しても、結果的に、いわゆる人権屋さんの自己満足にしかならないということも十分にあり得ます。

 もちろん、世界の多くの国や地域において男女に等しく認められている権利を、“保護”を理由に女性には与えないままにしておいてもよいということにはならないのは当然で、そのあたりをどのように伝統的な価値観と折り合いをつけて行くかはなかなか難しい問題です。

 今回ご紹介のクウェートの切手が、ヒジャブ姿の女性の上に大きくクエスチョン・マークを書き、“我々の人権”と左上に記しているのも、まさに、こうした状況を反映したものと言ってよいでしょう。

 さて、今回、政府が閣議決定した人権救済法案ですが、その内容たるや、今回ご紹介の切手もびっくりの大きな疑問符のつくものとして問題視されています。

 まず、法案は「不当な差別や虐待で人権侵害を受けた被害者の救済」を目的としたものですが、“人権侵害”の定義がきわめて曖昧です。すなわち、法案の第2条では「人権侵害とは、不当な差別、虐待その他人権の侵害をいう」とされていますが、これだけではどのようにでも解釈できてしまいます。極論すれば、人権委員会が認定しさえすれば何でもアリということになりかねません。

 つづいて、法案では人権委員会はいわゆる“3条委員会”として設置することになっています。3条委員会は、政府の管轄下ですが、裁判所や警察とは無関係の組織であるため、その運用は極めて慎重でなければなりません。ところが、法案(第11条第2項)では、委員の要件として「委員長及び委員の任命に当たっては、委員のうちに人権の擁護を目的とする団体若しくは人権の擁護を支持する団体の構成員、または人権侵害による被害を受けたことのあるものが含まれるよう努めなければならない」とされており、“人権侵害の被害者”が優先的に選ばれることになっています。“人権侵害”の定義があいまいなうえに、その被害者と称する人が、彼らによって加害者とされた人を一方的に告発するということは、明らかにフェアではないでしょう。被害者(と称する人)が加害者(とされた人)に対して一方的に復讐するのではなく、専門家が第三者の立場で法に照らし、客観的な証拠に基づき、公正に裁くというのが近代法の大原則であるはずですが、人権委員会は、まさにこうした原則を捻じ曲げたものでしかありません。

 さらに、法案では、人権委員についての国籍条項がありません。このため、外国人が自国の利益に反する日本人を“人権侵害”の名目で告発し、圧力をかけることも可能です。また、一般国民の言論や行動を規制しようとする一方で、マスメディアに対する規制は設けないとしている点も、“法の下の平等”に反する重大な問題点です。

 こうした内容の人権救済法案が通ってしまうと、たとえば、「北朝鮮による日本人拉致事件を糾弾することは在日朝鮮人の名誉を傷つける人権侵害である」とか「中国共産党政府によるチベットやウイグルでの人権侵害を批判することは、中国に対する差別的言動である」などという理由で告発される可能性が出てきます。なにせ、法案では、差別された(と称する)在日朝鮮人や中国人が個人として訴えれば良いわけですから…。当然、僕のブログも閉鎖に追い込まれ、僕自身も身柄の拘束や家宅捜索を受ける可能性は否定できません。まぁ、そうなったらそうなったで、以後、僕はそのことを“勲章”とし、物書きとしての活動を続けて行こうと思いますが…。

 当然のことながら、こうしたトンでも法案については与野党をとわず批判が強く、政権内でも、松原仁国家公安委員長は反対の立場をとっていました。それを、松原委員長が海外出張中で閣議に出席できない隙を突くようなかたちで、今回、閣議決定をしてしまったというのは、それじたい、法案のいかがわしさを裏書きしているようなものです。法案の内容が真実に国民のためになると自信を持っているのなら、法案に反対しているという理由で松原委員長を堂々と罷免し、そのうえで、閣議決定すればよいのですから。

 昨今の中国や韓国のように、国内の不満から目を逸らすために、対外的な強硬手段に訴えるという事例は枚挙に暇がありませんが、対外的な危機で国民の目がそちらに向いている隙に、国民にとって不都合な法案をごり押ししようとするのは実に卑劣なことだといわざるを得ません。そういえば、“社会保障と税の一体改革”と称していながら、結局は消費増税だけしか決まらなかったことや、解散・総選挙を行うための定数是正はほとんど手付かずの状態であることなども、竹島と尖閣の問題で吹っ飛んでしまったかの感がありますな。

 民主党政権による中韓両国への過剰なまでの配慮が今回のような事態を招いたという指摘が盛んに行われていますが、結果的に、昨今の両国の対日攻勢が民主党政権の非道をアシストしているというのが現実でしょう。その意味では、民主党政権は大いなる“外交的成果”をあげているわけで、実に腹立たしいことです。


 ★★★ 内藤陽介、カルチャーセンターに登場 ★★★
   
 10月から、下記の通り、首都圏各地のよみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)で8月の韓国取材で仕入れたネタを交えながら、一般向けの教養講座を担当します。詳細につきましては、青色太字をクリックしてご覧いただけると幸いです。皆様のご参加を心よりお待ちしております。(掲載は開催日順)

 T-moneyで歩くソウル歴史散歩 
・よみうりカルチャー荻窪
 10月2日、10月30日、12月4日、1月29日、2月5日、3月5日 13:00-14:30

 * 10月2日は公開講座として、お試し聴講も可能です。
 
・よみうりカルチャー北千住
 10月17日、12月19日、1月16日、2月20日、3月20日 13:00-15:00


 ★★★★ 電子書籍で復活! ★★★★

 歴史の舞台裏で飛び交った切手たち
 そこから浮かび上がる、もうひとつの昭和戦史

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 クウェート独立50年
2011-06-19 Sun 15:06
 1961年6月19日にクウェートがイギリスから独立して、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        クウェート1番切手

 これは、1923年、インド切手に加刷して発行されたクウェート最初の切手です。

 現在のクウェート地域では、近代以前にはペルシャ湾の重要都市であるバスラとの間でラクダを使った飛脚便が行われていました。この制度は1775年にはシリアのアレッポにまで拡大されています。

 1899年、イギリスは、この地域の主権者であったオスマン帝国の頭越しに、サバーフ家の支配地域としてのクウェートを保護国とする条約を調印。その内容は、クウェートがイギリスの軍事力によって保護される代わりに、イギリスの許可なく他国と交渉したり、他国から援助を受けたりしないというもので、これに基づき、1904年2月28日、イギリスはサバーフ家と郵便協定を調印。クウェート域内において郵便局を独占的に開設する権利を獲得し、非公式の郵便取扱所を設置して、無加刷のインド切手を販売し、クウェート域内およびブシェールまでの郵便物を取り扱いました。

 正式な郵便局の開局は1915年1月21日のことで、今回ご紹介の加刷切手が発行される1923年までは、無加刷のインド切手がそのまま使われていました。その初期の消印は、局名表示が、現在のように“KUWAIT”ではなく“KOWEIT”となっているのですが、当時のクウェートでは郵便物の取扱量が少なかったためか“KOWEIT”消の残存量も少なく、残念ながら、僕自身は入手できていません。

 なお、クウェートでは、今年、独立50年を祝う式典が2月26日に行われましたが、これは、湾岸戦争によりイラク軍の占領から解放された記念日(ちなみに、今年はちょうど解放20周年でした)にあわせたものです。
 

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 クウェート侵攻から20年
2010-08-02 Mon 14:03
 湾岸戦争の原因となったイラク軍のクウェート侵攻が1990年8月2日に起きてから、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはこんな切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      クウェート6

 これは、1992年8月2日、クウェートが発行した“クウェート侵攻2周年”の切手で、クウェート侵攻時ならびに湾岸戦争時のようすを描いた児童画が取り上げられています。

 さて、イラクのサダム・フセイン政権がクウェートに侵攻した理由は概ね、以下のようにまとめることができます。

 まず、現在のイラク国家の国境線は1932年にイラクが独立国としてスタートした際に定められましたが、これは第一次大戦の戦勝国であるイギリスの意図に沿って定められたものでした。すなわち、現代イラクは旧オスマン帝国のバスラ州・バグダード州・モスル州を継承するものとされていましたが、クウェートの領域はもともとはバスラ州の一部でした。ところが、1899年、イギリスがオスマン帝国の頭越しにクウェートを保護国化したことから、イラク国家の成立に際しては旧バスラ州からクウェートを除いた部分がイラク領とされました。「歴史的に見てクウェートはイラクの一部である」というイラク側の主張は、こうした過去の史実に基づいており、1957年のイラクの共和革命に際して革命政権がクウェートに侵攻する可能性が危惧されたのもそのためです。

 こうした大義名分論に加えて、イラクには、対イラン戦争(イラクは、この戦争により湾岸諸国を革命イランの脅威から守ったと自負しています)によって疲弊した国内経済の再建に対して、クウェートが非協力的で阻害要因となっているとの認識がありました。

 すなわち、対イラン戦争の終結後も引き続き湾岸諸国からの資金援助を希望するイラクに対して、湾岸諸国の反応は極めて冷淡で、特に、クウェートの場合、対イラン戦争中に同国から借り入れた資金(金額的には諸説ありますが、300-600億ドルといわれています)の全額返済免除や新規融資など、イラク側の要求をことごとく一蹴し、両国関係は急激に冷却化していました。

 さらに、イラクは戦後復興のための資金源として石油輸出の拡大をめざしていましたが、当時、世界の原油価格は低迷を続けていました。すなわち、原油価格は、イラン・イラク戦争のはじまった1980年に1バレルあたり35ドル台でしたが、同戦争の終結時には1バレルあたり10ドル台に低迷、さらに、イラク軍のクウェート侵攻直前の1990年4-5月には1バレルあたり6ドル前後にまで急落していました。原油価格が1バレルあたり1ドル上下するだけで、年収が10億ドル上下するといわれるイラクにとって、原油価格の急落はまさに死活問題でした。このため、イラクは原油価格維持のために産油国による生産調整を主張しましたが、クウェートとアラブ首長国連邦はOPEC(石油輸出国機構)の定めた国別生産割当量を無視して増産を続けていました。

 そのうえ、そのクウェートは、かねてからイラクが領有権を主張しているルマイラ油田からも石油を採掘していました。クウェートがイラクの石油を盗掘しているとの主張はこのためです。

 こうして、イラクとクウェートの関係が極端に悪化する中で、1990年7月31日、サウジアラビアが両国代表をジェッダに招き、話し合いによる解決を求めましたが、交渉は決裂。さらに、イラクが駐在アメリカ大使に対して武力行使を含む問題の当事者間解決を示唆したところ、アメリカ側はこれを黙認すると取られかねないような反応をイラク側に示したとされています。

 以上のような要素にくわえ、野心的なサダム・フサインの領土欲や「アラブの盟主」の座をねらう名誉欲などが絡み合い、1990年8月2日、イラク軍はついにクウェートに侵攻し、即日、クウェート全土を占領したというわけです。
 
 なお、このあたりの事情については、拙著『なぜイスラムはアメリカを憎むのか』でまとめてみたことがあります。現在、同書は紙の本としては“版元品切れ”ですが、電子書籍としては生き残っていますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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 クウェート発の飛行機
2008-12-18 Thu 12:13
 昨日(17日)、イラクの復興支援のため、2004年3月から多国籍軍の物資の空輸などを担当してきた航空自衛隊の撤収式典がクウェート市郊外のアリ・アル・サーレム空軍基地で行われ、式典後、最後まで同基地に残っていた1機が隊員14人を乗せて日本に飛び立ったそうです。というわけで、きょうはこんな1枚をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 クウェート加刷(航空切手)

 これは、1933年に発行されたクウェートの航空切手の1枚です。

 ペルシャ湾の北端に位置するクウェートの歴史は、西暦18世紀にアラビア半島内陸から移住してきた部族がこの地域に移住してきたところから始まります。その後、現在のクウェート市を含む地域一帯は、現在のクウェート国家の首長家であるサバーフ家が完全に掌握しますが、サバーフ家はオスマン帝国の宗主権を認め、その支配地域は、名目的に、帝国のバスラ州に属することになりました。

 ところで、当時のクウェートは地の利を生かした港町だったため、イラン方面への南下政策を取っていた帝政ロシアや、イスタンブールとバグダードを結ぶ鉄道建設を進め、いずれはその路線をペルシャ湾岸まで延長しようとしていたドイツなどにとって、魅力的な存在でした。このため、インド防衛の観点から両国の進出を警戒したイギリスは、1899年、主権者であるオスマン帝国の頭越しに、サバーフ家の支配地域としてのクウェートを保護国とする条約を調印します。その内容は、イギリスの軍事力によって保護される代わりに、イギリスの許可なく他国と交渉したり、他国から援助を受けたりしないというものでした。

 こうして、クウェートを保護国化したイギリスは、1904年8月、ブシール(ペルシャ湾岸のイランの港町)経由での郵便サービスを開始します。当初、この地域で使われていたのは英領インドの切手で、1915年1月には英領インド郵政が常設の郵便局を開設。その後、1923年からは英領インド切手に“KUWAIT”の文字をプリントしたクウェート独自の切手が使われるようになりました。今回ご紹介の切手も、その1種で、1929年発行のインドの航空切手に“KUWAIT”の文字を加刷したものです。

 切手を見ている分には、こういうクラシックな複葉機での優雅な飛行も良いものだなと思ってしまいますが、実際のクウェート上空をオープン・エアの状態で飛んでみたら、暑さや砂埃で、かなりしんどい思いをしそうです。

 それにしても、新聞の報道では、今回、クウェートを撤収した空自の輸送機は、19日から21日ごろにかけて小牧基地(愛知県)に到着だとか。あらためて、遠い異国の地で過酷な任務を果たされた隊員の皆さんには「お疲れ様でした」と申し上げたい気分です。


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 アラブの都市の物語:クウェート亡命政権のラベル
2006-01-16 Mon 23:18
 東京・目白の切手の博物館にて開催しておりました、<中近東切手コレクション>展(以下、中東切手展)は、昨日をもちまして無事に終了いたしました。会場にお越しいただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。おかげさまで、展示内容については概してご好評を頂戴できたようですので、今後も機会を見つけてこうした展示を行っていきたいと考えております。

 さて、中東切手展の会期中は、展示に関連する話題ということで中東・イスラムがらみの切手の話が続いておりましたので、そろそろ、別の話題を記事にしようかと思っていたのですが、今朝のニュースでクウェイトのジャビル首長の亡くなったと報じられていましたので、もう一日だけ、中東ネタにお付き合いください。

 ジャビル首長は前首長の死去で1977年に即位し、1990年のイラク・フセイン政権によるクウェート侵攻時には隣国サウジアラビアに逃れ、亡命政府を作った人物です。で、その亡命政権に関しては、こんなマテリアルがあります。

クウェート亡命政府のラベル

 これは、クウェート亡命政府が作った“自由クウェート”のラベルです。正規の切手ではありませんが、湾岸危機および湾岸戦争の時期に、クウェートを支援する湾岸諸国では切手と一緒に郵便物に貼られることもありました。画像(クリックで拡大されます)の場合は、バハレーンから差し出された郵便物に貼られた例(部分)で、ラベル部分にも、バハレーンの首都・マナーマの消印が押されています。

 ジャビル首長の訃報で湾岸危機・湾岸戦争のことを思い出した人もあるかと思いますが、実は、国連が定めたイラク軍のクウェート撤退起源は1991年1月16日で、翌17日が多国籍軍による空爆の始まった日(=湾岸戦争開戦の日)でした。いまからちょうど15年前の出来事です。

 というわけで、NHKテレビアラビア語講座のテキストに連載している「切手に見るアラブの都市の物語」では、明後日18日発売の2・3月号では、クウェートを取り上げてみました。記事では、今日ご紹介しているモノだけでなく、クウェートの人々の暮らしが分かるような切手も取り上げていますので、是非、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。

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