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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 昭和の日
2020-04-29 Wed 02:52
 きょう(29日)は“昭和の日”です。というわけで、“昭和の風景”が描かれた切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・平壌ゴム争議

 これは、1965年に北朝鮮が発行した“平壌ゴム工場労働者の罷業”の切手で、抗議活動を行う労働者たちの背景に、日本統治時代の1930年=昭和5年当時の平壌市内の町並みが描かれています。

 1920年代初頭の朝鮮半島は、日本統治の影響で人々の生活が急速に変化し、西洋風の衣服や日用品が普及。これに伴い、ゴムの需要も急拡大し、各地に小規模なゴム工場が建設されました。なかでも、平壌の大同江東岸の船橋里周辺にはゴム工場が集中していました。

 なお、日本時代の船橋里は、現在の行政区域でいうと船橋区域にほぼ相当しており、同区域内の江岸二洞には、朝鮮戦争休戦後の1956年、中国の支援で作られた“平壌ゴム工場(こちらは固有名詞)”が現存しています。(ただし、稼働状況は不明)。ちなみに、船橋区域の北側の東大院区域には平壌のシンボルとされる主体思想塔が立っており、その対岸が北朝鮮の党・政府の中枢機関が集まる中区域となります。

 さて、朝鮮におけるゴム製造業の中心地となった平壌では、1926年に労働組合として“平壌ゴム職工組合”が結成され、翌1927年に昭和金融恐慌発生を経て、1929年には平壌大同ゴム工場労働者が賃金引下げ反対闘争を展開しました。これに続いて、平壌西京商工株式会社の労働争議をはじめ、無断解雇反対・不良品賠償制度廃止・監督排撃・賛助会の労働者運営などを掲げる争議が各地で頻発します。

 こうした中で、1930年5月、世界恐慌で大きな打撃を受けた朝鮮のゴム工業会は、ソウルで全朝鮮ゴム工業者大会を開き、労働者の賃金を一律1割カットを決定。これに対して、同年7月、平壌のゴム工業者(経営側)は平均17パーセントの賃金引下げを発表しました。このため、平壌ゴム職工組合は緊急大会を開き、賃金引下げに抗議しましたが、経営側は逆に8月14日までに服従しない場合は労働者を新規募集するとの強硬姿勢をとったため、8月11日、平壌の全ゴム工場の労働者1800名余がいっせいにストライキに突入しました。これが、今回ご紹介の切手に描かれている“平壌ゴム工場労働者の罷業”です。

 大規模な労働争議が発生したことを受けて、朝鮮総督府が仲裁に乗り出したため、穏健派の労働者はこれを受け入れたものの、調停案に反対する強硬派が分裂して争議は過激化。このため、警察が介入して弾圧が強化され、63人が検挙されたほか、200人以上が解雇されました。この結果、労働者側も争議の継続は困難と判断し、8月29日、ストライキは終結を余儀なくされています。

 なお、今回ご紹介の切手は、事件から35周年という半端な年回りの1965年に発行されましたが、その背景には、日韓国交正常化交渉が大詰めを迎えるなかで、韓国でも根強かった国交正常化交渉反対論に呼応し、それを煽ろうとの意図があったことは明らかです。この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 4月革命60年
2020-04-19 Sun 01:46
 韓国で李承晩政権を退陣に追い込んだ1960年4月19日の“4月革命(4・19学生革命とも)”から、ちょうど60年になりました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・419革命5周年

 これは、1965年に北朝鮮が発行した“4・19抗争(4月革命の北朝鮮での呼称)5周年”の記念切手です。

 朝鮮戦争が勃発した1950年、米国の国防予算は130億ドルでしたが、休戦の1953年には504億ドルに拡大しました。休戦後の1955年には、いったん407億ドルまで圧縮されたものの、ソ連との核開発競争や在外米軍基地の展開などにより、国防予算は着実に増えつづけ、1959年には465億ドル、すなわち、1950年の3.6倍に急増します。また、政府予算総額に占める国防費の割合も、1950年の32.9パーセントだったものが1959年には57.9パーセントへと拡大しています。

 こうした軍事費の拡大に加え、反ソ包囲網を形成・維持するための対外援助も1950年代を通じて増額され続けたため、米国の政府予算は大いに圧迫され、米国の金保有高も急減。この結果、1950年代末になると、金1オンス=35ドルという公定レートが維持できなくなるのではないかとの懸念が国際市場で急速に高まり、ロンドン市場では金価格が上昇しはじめました。いわゆるドル危機の表面化です。

 このため、対外政策を基本的に見直す必要に迫られた米国は、従来のようなバラマキ型の経済援助政策から、経済開発を支援することによって同盟諸国の支配の安定をはかるよう、政策を転換。その結果、韓国に対する経済援助も大幅に減額され、米国に依存していた韓国経済にも大きなダメージを与えることになります。

 しかし、李承晩政権は、援助削減反対を声高に叫んでいたものの、現実をみすえた効果的な対策を講じることができませんでした。それどころか、反共・反日を金看板とする李承晩政権は、在日朝鮮人の帰還事業をめぐって日本との通商断交を強行したものの、断交声明を撤回するタイミングを逸し、事態を悪化させていました。その結果、1958年に6.1パーセントだった経済成長率も、1959年には4.6パーセントに下落します。

 経済失政に対する国民の不満に対して、李政権は強権支配で乗り切ろうとします。野党・進歩党の指導者で、1960年の大統領選挙の有力候補と目されていた曺奉岩が、1958年1月、北朝鮮から選挙資金を受け取っていたとして国家保安法違反容疑で逮捕され、翌1959年7月に処刑されたのは、その象徴的な出来事といえましょう。しかし、こうした姿勢は、長期政権につきものの各種の腐敗ともあいまって、国民の不満をいっそう募らせることになり、李政権が末期的な状況に陥っていたことは誰の目にも明らかとなっていました。

 こうした状況の下で、1960年1月、野党・民主党の大統領候補だった趙炳玉が、5月の大統領選挙を前に、持病の治療のために渡米。すると、李政権はその留守をねらって、大統領選挙の実施を3月15日に変更します。さらに、趙は手術の結果が思わしくなく、選挙1ヵ月前の2月15日に急死してしまいました。

 こうして、大統領選挙での李承晩の4選はほぼ確実になり、選挙の焦点は副大統領に移ります。(当時の韓国では、大統領と副大統領は別々に選出されていました)

 すなわち、李承晩は与党候補だった李起鵬の当選を希望していましたが、選挙戦では、一貫して野党候補で現職の張勉が優勢でした。このため、政府は露骨な選挙干渉に乗り出し、選挙当日の未明、李起鵬への票を投票箱に前もって入れておくことや、有権者を小人数のグループに分け、組長が組員の記入内容を確認した後、投票箱に入れるようにしたり、投票箱と投票用紙をすり替えたりすることも行われています。

 その結果、大統領候補としての李承晩が963万票を獲得して当選。副大統領に関しては、李起鵬833万票、張勉184万票と発表されると、あまりにも露骨な不正に怒った国民は、各地で糾弾デモを展開しました。

 特に馬山で行われたデモは激しく、警察の発砲により、8人が死亡し、200人余が負傷。さらに、デモに参加した後、行方不明となっていた中学生・金朱烈(当時17歳)が、4月11日、馬山の沖合で、目に催涙弾が突き刺さった惨殺体で発見されると、これを機に、李政権に国民の不満が爆発。4月19日には、ソウルで大規模な学生デモが発生します。

 このときのデモでは、学生と警官隊との衝突で183人が死亡し、6200人が負傷。さらなる騒擾状態が続く中で、米国もついに李承晩に対する不支持を明らかにし、万策尽きた李承晩は退陣を表明してハワイに亡命。また、副大統領に“当選”したばかりの李起鵬は二十八日にピストルで自殺しました。

 これが、いわゆる“4月革命”です。

 今回ご紹介の切手は、その4月革命から5周年というタイミングをとらえて、民衆蜂起によって親米独裁政権が打倒されたことを称揚するため、北朝鮮が発行したもので、ソウルの中央庁(旧朝鮮総督府庁舎)を背景にしたデモ隊と松明を持つ手が描かれています。また、切手が発行された1965年4月は、日韓国交正常化交渉が大詰めを迎えていたこともあり、韓国でも根強かった国交正常化交渉反対論に呼応し、それを煽るため、切手上部の松明の炎の中には「米軍はすぐに出ていけ 韓日会談反対」のスローガンも入っています。

 なお、この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 三一節
2020-03-01 Sun 01:47
 きょう(1日)は、1919年の三一独立運動にちなみ、韓国では“三一節”の祝日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・三一運動(1964)

 これは、1964年に北朝鮮が発行した“三一人民蜂起(45周年)”の切手です。三一独立運動を“人民蜂起”としているあたりが、いかにも北朝鮮っぽいですな。

 李承晩政権下の韓国と日本との関係が冷え込んでいた1950年代末、北朝鮮は韓国の反対を押し切って在日朝鮮人の帰還事業を実現させ、彼らの資金・技術・労働力などを移入することにある程度成功しました。

 ところが、実際に帰還事業が始まってみると、日本国内の“進歩的知識人”らの無責任な言説とは裏腹に、現実の北朝鮮が“地上の楽園”でもなんでもなく、韓国以上に貧しく、抑圧的な体制であることが在日社会でも広く知られるようになったため、1962年には北朝鮮へと渡る在日朝鮮人の数は激減します。

 この間、1961年5月16日の軍事クーデター(516革命)を経て成立した朴正煕政権は、経済開発のための外資導入には日本との関係改善が不可欠との立場から、同年11月、訪米の途上でみずから日本に立ち寄り、日本の首相・池田勇人と会談。以後、中央情報部長の金鐘泌を日本に派遣して秘密交渉を開始し、最大の懸案であった賠償問題については、韓国側の“請求権”に応じ、日本側が無償経済協力3億ドル、政府借款2億ドル等を支払うことで、1962年2月、大筋の合意に到達しました。

 一方、この時期の北朝鮮は、中ソ対立が激化し、ソ連が西側に対する宥和政策をさらに進めていくなかで、対外戦略を根本的に見直す必要に迫られていました。特に、1962年10月、キューバのミサイル危機に際してソ連が米国に譲歩してミサイルを撤去したことで、北朝鮮を含むアジアの社会主義国家は、いざという時には、ソ連は自分たちを見捨てて米国と妥協するのではないかとの不信と不安に駆られることになります。こうした状況の下で、朴正煕の韓国が日本との関係改善を進め、日米韓のトライアングルによって北朝鮮を封じ込めようとする構図は、北朝鮮にとっては悪夢でした。

 このため、金=大平会談後の1962年12月に開催された朝鮮労働党第4期中央委員会第5次全員会議では、「国防建設と経済建設の併進路線」が採択され、すでに開始されていた7ヵ年計画を後退させても、国防力を増強することが決定されます。その具体的な国防方針として採択されたのが、①全人民の武装化、②全国土の要塞化、③全軍装備の現代化、④全軍の幹部化、からなる“四大軍事路線”でした。

 さらに、1964年2月、日韓基本条約の仮署名が行われると、北朝鮮はこれに対抗して“三大革命力量論”を主張するようになります。これは、「南朝鮮(韓国)での革命を達成するためには、北朝鮮の革命勢力、南朝鮮の革命勢力、国際的革命勢力の三者を強化し、結合させよう」というもので、この理論に基づき、北朝鮮はソウルの運輸業者・金鐘泰に工作資金を提供し、“統一革命党創党準備委員会”を結成させるとともに、対外宣伝の一環として、今回ご紹介の切手をはじめ、金日成とは無関係の“抗日闘争”を題材にした切手を盛んに発行するようになります。

 当時の北朝鮮の歴史認識は、金日成らの抗日闘争ソ連による1945年の朝鮮解放を経て、1948年4月、南朝鮮(当時)の代表も出席した南北連会議の結果をふまえて建国されたのが、朝鮮半島唯一の正統政権としての朝鮮民主主義人民共和国であるというものでした。(現在は“ソ連による解放”の部分が削除されています)

 そうした北朝鮮の立場からすると、金日成ともソ連と無関係は三一独立運動は、あくまでも“失敗したブルジョア革命”という位置づけでした。それゆえ、三一独立運動を経て誕生した大韓民国臨時政府は全く無価値な存在であり、李承晩政権が臨時政府の後継者であることをもって大韓民国の正統性を主張することには根拠がないと切り捨てていました。

 これに対して、朴正煕政権は、李承晩時代からの脱却を図るためにも、李が“大統領”を務めていた大韓民国臨時政府についてはあえて無視していましたが、それでも、三一独立運動は大韓民国の原点であるとの認識まで放棄したわけではありません。ただし、李承晩時代に三一独立運動の“歴史的意義”が盛んに強調されてきたことに加え、日本との国交正常化という大目標を達成するためには、日本を不用意に刺激しないほうが得策との判断もあって、1961年の軍事政権発足以降、三一独立運動やその関連の題材を切手に取り上げることもありませんでした。

 そこで、北朝鮮としては、それまでの建前を放棄し、朴政権があえて触れないようにしていた三一独立運動を取り上げることで、朴正煕は国交正常化のために日本に媚びへつらい、変節したではないかと非難し、韓国内の対日国交正常化反対の世論を刺激する意図を込めて、今回ご紹介の切手を発行したものと考えられます。

 なお、日韓国交正常化交渉の過程で、北朝鮮が展開した“反日”プロパガンダについては、拙著『日韓基本条約』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


★★ イベント・講座等のご案内 ★★

 今後の各種イベント・講座等のご案内です。詳細については、イベント名・講座名をクリックしてご覧ください。

・よみうりカルチャー 荻窪
 宗教と国際政治

 * 3月3日の講座は、新型コロナウイルスによる肺炎(COVID19)の感染拡大防止のため、延期されることになりました。あしからずご了承ください。なお、代講の正式な日程が決まりましたら、改めてご案内いたします。

 毎月第1火曜日 15:30~17:00
 4/7、5/5、6/2、7/7、8/4、9/1(1回のみのお試し受講も可)

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 スプートニクとガガーリンの闇(25)
2020-02-25 Tue 00:24
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』第739号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、1959年の北朝鮮について取り上げました。その記事の中から、この切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・ソ連での月に向けての宇宙ロケット発射(1959)

 これは、1959年1月にソ連がルナ1号の打ち上げに成功してから4カ月後の同年5月、北朝鮮が発行した“ソ連での月に向けての宇宙ロケット発射”の切手です。

 第二次大戦後の1945年10月15日に結成された“在日本朝鮮人連盟(朝連)”は、当初、帰国斡旋や生活相談、朝鮮語講習などを行う民族的社会事業団体としてスタートし、必ずしも、政治色が強いわけではありませんでした。しかし、日本共産党(日共)幹部の指導により、急速に左傾化。こうした動きに反発した朝連内部の右派・民族派は建国促進青年同盟(建青)や新朝鮮建設同盟(建同)などを結成。その後、朝鮮半島における南北・左右の対立を反映して、1946年10月、建同を発展的に解消した“在日本朝鮮人居留民団(現在の在日本大韓民国居留民団の前身)”が結成され、以後、朝連と民団の激しい対立・抗争が展開されていきます。

 1948年4月、朝連は“四・二四教育事件”と呼ばれる騒擾事件を起こしたほか、同年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国の成立後は北朝鮮支持の姿勢を鮮明にして占領当局と対立。このため、1949年9月、傘下団体の在日朝鮮民主青年同盟とともに、団体等規制令による暴力団体に指定され、解散・財産没収・幹部追放などの処分を受けました。

 そこで、1949年12月、日共の中央委員候補でもあった朴恩哲が日共朝鮮人部に代わり、同民族対策本部(民対)を組織。以後、朴のイニシアチブの下、朝連の活動は、朝鮮学生同盟、朝鮮女性同盟、朝鮮解放救援会などの傘下団体が継承しましたが、6月25日の朝鮮戦争勃発後、「在日朝鮮統一民主戦線(民戦)」が結成されます。民戦は、祖国防衛隊の結成など、日共の武装革命方針の尖兵として、朝鮮戦争の後方撹乱を目的とした武装闘争を展開しました。

 こうした経緯を経て、朝鮮戦争休戦後の1955年2月、北朝鮮の南日外相が日本へ国交正常化を呼びかけるとともに、金日成は“内政不干渉”の原則を理由に在日朝鮮人に対して日共からの離脱を求める国際指令を発します。その真意は、荒廃した北朝鮮経済を再建するため、日共の影響下から在日朝鮮人を切り離し(そのために、日共民対を仕切っていた朴恩哲と対立し、冷遇されていた韓徳銖が金日成によってクローズアップされる)、その資金と労働力を北朝鮮が直接掌握することにありました。

 はたして、1955年5月24日、北朝鮮政府と韓徳銖の間で綿密な打ち合わせの上、東京・浅草公会堂で開催された民戦六全臨時大会では、韓徳銖、李季伯、李浩然、尹徳昆が議長団として選出され、民戦の解散と日共民族指導部の“指導”を排した北朝鮮直結の在日朝鮮人団体として、現在の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の創立が決議されます。

 朝鮮総連は自らを北朝鮮の在日代表組織と位置づけ、在日朝鮮同胞の共和国政府周囲への結集、南半部同胞との連帯・団結強化、外来侵略者の撤収と手先傀儡の孤立化による平和的統一独立、在日子弟への民主民族教育実施などの八大綱領を掲げ、日共からの“独立”を宣言しました。

 こうして誕生した朝鮮総連は、さっそく、同年7月15日、“朝鮮人帰国希望者東京大会”を開催し、全国の帰国希望者は415名(うち東京に100名)と発表。以後、朝鮮総連は国際赤十字も巻き込んで在日朝鮮人の帰還運動を本格的に展開していきます。

 時あたかも、1956年、フルシチョフによるスターリン批判を契機として、北朝鮮でも金日成個人崇拝に対する批判が発生。また、同年8月には、ソ連国籍を有するなどソ連と関係の深いソ連派の朴昌玉が、中国共産党中央と関係の深い延安派の崔昌益らとともに、党全員会議で公然と金日成批判を行う8月宗派事件が発生しました。

 8月宗派事件を抑え込んだ金日成は、1958年までに、中ソ両国と関係のある“反党分派”勢力を根こそぎ弾圧し、ソ連・中国の影響を排して自主路線を模索。1957年に始まる5ヵ年計画の発動を前にした1956年12月の党中央委員会総会で、「最大限の増産と節約」とのスローガンを掲げ、重工業(中でも製鉄と機械)優先路線の大衆動員運動として“千里馬運動”を展開するとともに、“農業協同化(集団化)”を強行した。しかし、これらの大衆動員は結果として惨憺たる失敗に終わり、北朝鮮の一般国民の生活水準は悲惨な状態のままでした。

 在日朝鮮人の労働力・資金・技術を獲得するための帰還事業は、こうした北朝鮮の国内事情とも連動したものでした。

 さて、1957年10月、インド。ニューデリーで開催の第19回赤十字国際会議で、各国の赤十字に離散家族の再開に向けた責任を果たすよう求める“決議第20”が採択されたことも追い風になって、1958年3月には衆院外務委員会でも在日朝鮮人問題が審議されています。

 こうした地ならしを経て、1958年8月11日、北朝鮮側と事前に打ち合わせたうえで、神奈川県川崎市の朝鮮総連分会が金日成首相に帰国を嘆願する手紙を送ることを決議。これに呼応するという形式をとって、9月8日、金日成が在日朝鮮人の帰国を歓迎すると明言しました。

 こうした在日朝鮮人および北朝鮮の動きを見て、日本社会も在日朝鮮人の帰還事業を好意的に受け止め、1958年11月17日には元首相の鳩山一郎を会長とする“在日朝鮮人帰国協力会”の結成総会が衆院第一議員会館で開催されています。

 帰国者たちの動機はさまざまでしたが、その多くは、朝鮮人を差別する日本での生活苦から逃れたい、日本では発揮できない自分の能力を祖国の発展に役立てたい、故郷は“南”だがまもなく統一されるのだろうからとりあえず“北”に行こう、などというものが多かったといわれています。また、当時の日本社会では、北朝鮮の実態に関する情報がほとんどなかったため、“貧困にあえぐ韓国”に対して“発展する北朝鮮”、“(北朝鮮は)教育も医療も無料の社会主義祖国”、“地上の楽園”という北朝鮮のプロパガンダがそのままメディアでも垂れ流されていただけでなく、親北朝鮮の立場を取っていた日本国内の“進歩的知識人”がさかんに北朝鮮の体制を礼賛していたことも在日朝鮮人の帰国を促す要因となったことは間違いありません。

 じっさい、1959年1月に田村茂が有楽町で開いた写真展「新しい中国と朝鮮」や、同年4月に出版された寺尾五郎の『三十八度線の北』などは、北朝鮮の暗部には一切触れず、“地上の楽園”として極端に理想化した内容で、それらを見て、北朝鮮への“帰国”を決断した在日朝鮮人も多かったとされています。

 また、1957年のスプートニク1号の打ち上げ以降、ソ連の科学技術(特に宇宙開発)は米国を凌駕しているとの俗説が全世界に流布し、ソ連に対する若者の純朴な憧れを喚起していましたが、そうした中で、朝鮮総連が、在日朝鮮人の若者に対して、努力次第で“友好国・ソ連”の大学に留学するチャンスもありうるとの甘言を弄していたことも見逃せません。当時の日本国内では、高校進学さえままならない境遇の在日朝鮮人も多く、ソ連への留学という“人参”は、彼らにとってかなり魅力的なものに映ったのは容易に想像できます。今回ご紹介の切手もまた、こうした文脈の下で、ソ連の科学技術を礼賛する意図から発行されたモノでした。

 なお、在日朝鮮人に対する差別感情が強い中で、日本社会には、朝鮮人が帰国する(=日本から出ていく)のは結構なことではないかという空気が強かったことも見落としてはならない事実です。

 当然のことながら、北朝鮮の存在そのものを“非合法”として認めない韓国は、在日朝鮮人の多くが朝鮮半島南半部の出身であったこともあって、北朝鮮への“帰還事業”には強く反発しましたが、1959年2月13日、日本政府は在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関して、「もつぱら基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に従つて処理さるべきものである」との原則を閣議了解。これを受けて、同16日には北朝鮮側も内閣決定第16号『日本から帰国する朝鮮公民の歓迎に際して』を決定し、帰還受け入れの体制を着々と固めていきました。

 一方、2月13日の日本政府の閣議了解以降、韓国側は態度を硬化させ、閣議了解の撤回を強く要求。これに対して、日本政府は「(在日朝鮮人の帰還事業は)個人が自由意思によつて北朝鮮に帰還することを妨げないというに過ぎないのであるから、これがすこしも北朝鮮政府承認の如き意味合いをもつものでないことはもちろんであり、韓国の主権の侵害でもなく、また韓国政府に対する非友誼的行為でもない」と説明したものの、韓国側は納得せず、1959年5月28日、駐日韓国代表部の柳泰夏大使は日本政府に対して在日朝鮮人の帰還事業を武力で阻止する旨を申し入れています。

 さらに、6月15日、韓国は、日本政府が“北送事業”を撤回しないことを理由に、対抗措置として、対日通商断交を声明しましたが、8月13日、インドのカルカッタで、日本赤十字社副社長の葛西嘉資と朝鮮赤十字会副会長の李一卿が「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」(カルカッタ協定)を締結。これに対して、8月25日、柳が日本側に申し入れた通り、民団員が“北送”に反対して日本赤十字社本社に乱入。さらに、12月4日には、帰還事業に反対する韓国人テロ工作員二名が新潟日赤センター爆破未遂事件で逮捕されました。

 結局、12月10日には第一次帰国団を運ぶための専用列車が品川駅を出発。同14日、第一次帰国船(ソ連船籍)が新潟港を出港し、16日、清津港に入港し、金日成は在日朝鮮人の帰還運動を“わが党と人民の大きな勝利”と賞賛しています。

 こうして、当時の日朝間の経済格差や社会の現状を隠して、自らの体制を自画自賛することで帰国者を集めた北朝鮮と朝鮮総連でしたが、事前の宣伝とは裏腹に、農業協同化によって荒廃した北朝鮮の生活環境は劣悪でした。さらに、帰国者たちは潜在的な反体制分子もしくはスパイとみなされ、社会的にも苦しい状態に置かれ続けました。

 こうした実態が知られるようになったため、1960年には4万9036名、1961年には2万2801名もいた帰国者数は、1962年には3497名に激減しています。

 なお、この辺りの事情については、拙著『日韓基本条約』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 光明星節
2020-02-16 Sun 06:58
 きょう(16日)は、金正日が1942年2月16日に生まれたとされることにちなみ、北朝鮮では“光明星節”の祝日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      金貞淑帰国記念碑

 これは、1980年2月16日、金正日の誕生日にあわせて北朝鮮が発行した“金貞淑(金正日の母親)帰国記念碑”の切手です。

 金貞淑は、1917年、咸鏡北道・会寧の生まれで、1932年、16歳で朝鮮共産主義青年同盟(パルチザン部隊)に炊事婦として入隊。後に東北抗日聯軍第2軍第6師(師長・金日成)の部隊付となりました。1940年末までにソ連領内に逃れますが、これと前後して金日成と結婚。1942年2月、ハバロフスク近郊のヴャツコエの野営地(ウラジオストック近郊のオケアンスカヤとする説もあります)で金正日を生みました。

 さて、1945年の解放後、北朝鮮に帰国した金貞淑は、1949年9月、金正日が7歳のときに亡くなりましたが、その死因は、一説には、金日成と愛人の金聖愛との関係を悩んで憤死したとも言われています。

 彼女の死後、金日成は金聖愛と正式に結婚。このため、金貞淑についても、“金日成の最初の妻”でともに抗日闘争を戦った女性闘士として、一定の評価はなされていたものの、彼女の存在が大々的に喧伝されることを控える時期がしばらく続いていました。

 しかし、1972年以降、金正日が金日成の後継者としての地位を徐々に固め、金聖愛を圧倒していくようになると、“金正日の母親”である金貞淑の存在が再びクローズアップされるようになります。また、その過程で、朝鮮語では“貞”と“正”が同音であることを利用して、金貞淑の漢字表記も金正日と同じ“正”の字を使った金正淑へと変更されました。

 さて、金正日は、1980年の朝鮮労働党大会以降、金日成の“後継者”として公式の場にも姿を見せるようになりますが、今回ご紹介の切手は、それに先立ち、金正日誕生日の2月16日に発行されました。その意図が、金貞淑の事績を讃えることで、その息子である金正日を権威付けしようとすることにあったことは言うまでもありません。

 ところが、金日成の後継者としての金正日の地位を固めていく過程で、北朝鮮当局は、金日成と金貞淑は、終始、中朝国境地帯にとどまってゲリラ活動を展開しており、その間に白頭山中で金正日が生まれたと主張するようになります。これは、金正日のことを、朝鮮民族の聖地である白頭山の霊気と、金日成の抗日闘争の伝統をともに受け継いで生まれてきた人物として印象付けるための捏造になのですが、その結果、金貞淑の“帰国”という歴史的事実も存在しないものとされ、この切手の存在も北朝鮮の公式切手カタログからは抹消されてしまいました。

 なお、金日成・金貞淑らの抗日闘争の実態については、拙著『朝鮮戦争』でも簡単にまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 2月21日(金)05:00~  文化放送の「おはよう寺ちゃん 活動中」に内藤がコメンテーターとして出演の予定です。番組は早朝5時のスタートですが、僕の出番は6時台になります。皆様、よろしくお願いします。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。

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 帰還事業60年
2019-12-14 Sat 01:55
 1959年12月14日に北朝鮮に“帰還”する在日朝鮮人を乗せた第1次帰国船が新潟港を出港してから、きょうでちょうど60年です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・帰還事業(1960)
      帰還事業・元の写真

 これは、1959年12月に在日朝鮮人の帰還事業(帰国事業)が始まったことを受けて、1960年、北朝鮮が“帰国同胞を歓迎する”と題して発行したプロパガンダ切手とその元になったと思しき写真です。

 第二次大戦が終結した1945年8月の時点で、日本本土には約200万人の朝鮮人がいたとされていますが、終戦直後から在日朝鮮人のためのさまざまな団体が発足。1945年9月10日の“在日本朝鮮人連盟中央準備委員会結成”を経て、同年10月15日には“在日本朝鮮人連盟(朝連)”が結成されました。当初、朝連は帰国斡旋や生活相談、朝鮮語講習などを行う民族的社会事業団体としてスタートし、必ずしも、政治色が強いわけではありませんでした。

 しかし、朝連は、敗戦により出獄した日本共産党(日共)幹部の指導により、急速に左傾化。1945年12月1-3日に代々木の日本共産党本部で開催された日本共産党第4回大会では、在日朝鮮人のうち、金天海が中央委員ならびに政治局員(定員7名)に選ばれたほか、金斗鎔、朴恩哲、李浩明(日本名・保坂浩明)、宋性澈の4人が中央委員候補(定員20名)となったほか、党中央には、金天海を部長、金斗鎔を副部長とする朝鮮人部が設立されています。ちなみに、当時の共産党員6947人のうち、在日朝鮮人は約1000人でした。

 こうした動きに反発した朝連内部の民族派は建国促進青年同盟(建青)や新朝鮮建設同盟(建同)などを結成。その後、朝鮮半島における南北・左右の対立を反映して、1946年10月、建同を発展的に解消した“在日本朝鮮人居留民団(現在の在日本大韓民国居留民団の前身)”が結成され、以後、朝連と民団の激しい対立・抗争が展開されることになります。

 1948年4月、朝連は“四・二四教育事件”と呼ばれる騒擾事件を起こしたほか、同年9月9日の朝鮮民主主義人民共和国発足後は北朝鮮支持の姿勢を鮮明にして占領当局と対立。このため、1949年9月、傘下団体の在日朝鮮民主青年同盟とともに、団体等規制令による暴力団体に指定され、解散・財産没収・幹部追放などの処分を受けました。

 そこで、1949年12月、朴恩哲が日共朝鮮人部に代わり、同民族対策本部(民対)を組織。以後、朴のイニシアチブの下、朝連の活動は、朝鮮学生同盟、朝鮮女性同盟、朝鮮解放救援会などの傘下団体が継承しましたが、1950年6月、全国組織を復活させるため、「在日朝鮮民主民族戦線全国結成準備委員会」が発足。6月25日の朝鮮戦争勃発後、「在日朝鮮統一民主戦線(民戦)」が結成されました。この時期の民戦は、祖国防衛隊の結成など、日共の武装革命方針の尖兵として、朝鮮戦争の後方撹乱を目的とした武装闘争を展開していました。

 朝鮮戦争休戦後の1955年2月、北朝鮮の南日外相が日本へ国交正常化を呼びかけるとともに、金日成は“内政不干渉”の原則を理由に在日朝鮮人に対して日共からの離脱を求める国際指令を発します。その真意は、荒廃した北朝鮮経済を再建するため、日共の影響下から在日朝鮮人を切り離し(そのために、金日成は日共民対を仕切っていた朴恩哲と対立し、冷遇されていた韓徳銖を抱き込んでいます)、その資金と労働力を北朝鮮が直接掌握することにありました。

 はたして、1955年5月24日、北朝鮮政府と韓徳銖の間で綿密な打ち合わせの上、東京・浅草公会堂で開催された民戦六全臨時大会では、韓徳銖、李季伯、李浩然、尹徳昆が議長団として選出され、民戦の解散と日共民族指導部の“指導”を排した北朝鮮直結の在日朝鮮人団体として、現在の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の創立が決議されました。

 朝鮮総連は自らを北朝鮮の在日代表組織と位置づけ、在日朝鮮同胞の共和国政府周囲への結集、南半部同胞との連帯・団結強化、外来侵略者の撤収と手先傀儡の孤立化による平和的統一独立、在日子弟への民主民族教育実施などの八大綱領を掲げ、日共からの“独立”を宣言します。

 こうして誕生した朝鮮総連は、さっそく、同年7月15日、“朝鮮人帰国希望者東京大会”を開催し、全国の帰国希望者は415名(うち東京に100名)と発表。以後、朝鮮総連は国際赤十字も巻き込んで在日朝鮮人の帰還運動を本格的に展開していきました。

 1958年8月11日、神奈川県川崎市の朝鮮総連分会が北朝鮮本国と打ち合わせたうえで、金日成首相に帰国を嘆願する手紙を送ることを決議。これに呼応するという形式をとって、9月8日、金日成が在日朝鮮人の帰国を歓迎すると発言。日本社会も在日朝鮮人の帰還事業を好意的に受け止め、1958年11月17日には元首相の鳩山一郎を会長とする“在日朝鮮人帰国協力会”の結成総会が衆院第一議員会館で開催されました。

 帰国者たちの帰国の動機はさまざまでしたが、その多くは、朝鮮人を差別する日本での生活苦から逃れたい、日本では発揮できない自分の能力を祖国の発展に役立てたい、故郷は“南”だがまもなく統一されるのだろうからとりあえず“北”に行こう、などというものが多かったといわれています。また、当時の日本社会では、北朝鮮の実態に関する情報がほとんどなかったため、“貧困にあえぐ韓国”に対して“発展する北朝鮮”、“(北朝鮮は)教育も医療も無料の社会主義祖国”、“地上の楽園”という北朝鮮のプロパガンダがそのままメディアでも垂れ流されていただけでなく、親北朝鮮の立場を取っていた日本国内の“進歩的知識人”がさかんに北朝鮮の体制を礼賛していたことも在日朝鮮人の帰国を促す要因となったことは間違いありません。さらに、在日朝鮮人に対する差別感情が強い中で、日本社会には、朝鮮人が帰国する(=日本から出ていく)のは結構なことではないかという空気が強かったことも事実です。

 当然のことながら、北朝鮮の存在そのものを“非合法”として認めない韓国は、在日朝鮮人の多くが朝鮮半島南半部の出身だったこともあって、北朝鮮への“帰還事業”には強く反発しましたが、1959年2月13日、日本政府は在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関して、「もつぱら基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に従つて処理さるべきものである」との原則を閣議了解。これを受けて、同16日には北朝鮮側も内閣決定第16号『日本から帰国する朝鮮公民の歓迎に際して』を決定し、帰還受け入れの体制を着々と固めていきました。

 韓国側はこうした動きに態度を硬化させ、閣議了解の撤回を強く要求。このため、日本政府は「(在日朝鮮人の帰還事業は)個人が自由意思によつて北朝鮮に帰還することを妨げないというに過ぎないのであるから、これがすこしも北朝鮮政府承認の如き意味合いをもつものでないことはもちろんであり、韓国の主権の侵害でもなく、また韓国政府に対する非友誼的行為でもない」と説明しましたが、韓国側は納得せず、1959年5月28日、駐日韓国代表部の柳泰夏大使が日本政府に対して在日朝鮮人の帰還事業を武力で阻止する旨を申し入れ、6月15日には、韓国政府が対日通商断交声明を発しました。

 しかし、8月13日、インドのカルカッタで、日本赤十字社副社長の葛西嘉資と朝鮮赤十字会副会長の李一卿が「日本赤十字社と朝鮮民主主義人民共和国赤十字会との間における在日朝鮮人の帰還に関する協定」(カルカッタ協定)を締結。これに対して、8月25日、柳が日本側に申し入れた通り、民団員が“北送”に反対して日本赤十字社本社に乱入。さらに、12月4日には、帰還事業に反対する韓国人テロ工作員2名が新潟日赤センター爆破未遂事件で逮捕されました。

 結局、12月10日には第一次帰国団を運ぶための専用列車が品川駅を出発。同14日、第一次帰国船(ソ連船籍)が新潟港を出港し、16日、清津港に入港し、金日成は在日朝鮮人の帰還運動を“わが党と人民の大きな勝利”と賞賛ました。

 今回ご紹介の切手は、これを受けて、1960年に発行されたものですが、その元になったと思われる写真と比較してみると、いくつかの点で興味深い修正が施されていることがわかります。
      
 まず、オリジナルの写真では、中央の帰国男性がスーツにネクタイの上に仕立ての良いコートを着ているのに対して、彼と抱き合って再開を喜ぶ父親は粗末な古いコートを着ています。また、父親の頭髪はすっかり薄くなっており、彼が体験してきたであろう苦難の人生を髣髴させます。このように、オリジナルの写真では、老いてやつれた父と立派になった息子とを対比させることで、在日朝鮮人の帰国が「故郷に錦を飾る」ものであるとの印象を見る者に与えています。

 これに対して、切手では、両者のコートは除去され、父親に豊かな頭髪を付け加えるなど彼を若々しく見せる工夫が施されており、彼らの服装から日本と北朝鮮との経済格差や、父親の体験したであろう苦難の人生を切手上から連想することは困難となっています。また、中央の男性からはメガネが除去されているが、これは、メガネ=日本人(北朝鮮では金日成・正日父子や一部の特権層を除き人前ではメガネをかけないのが通例とされているそうです)というイメージを取り除き、中央の男性を純粋な朝鮮人として描くための操作と思われます。なお、背後に掲げられている横断幕上のスローガンは、「在日同胞の帰国を熱烈に歓迎する!」との意味です。

 こうしたイメージ操作は、北朝鮮当局が当時の日朝間の経済格差や社会の現状を隠して、自らの体制を自画自賛することで帰国者を集めたことの傍証ともいえるでしょう。

 じっさい、事前の宣伝とは裏腹に、農業協同化によって荒廃した北朝鮮の生活環境は劣悪であった。さらに、帰国者たちは潜在的な反体制分子もしくはスパイとみなされ、社会的にも苦しい状態に置かれ続けました。こうした実態が知られるようになったため、1960年には4万9036名、1961年には2万2801名もいた帰国者数は、1962年には3497名に激減しています。

 さて、現在、2014年に刊行した拙著『朝鮮戦争』の続篇として、1953-65年の韓国現代史を扱った拙著『日韓基本条約』を刊行すべく作業を進めています。すでに、本文の原稿は脱稿し、編集作業も最終段階に入っておりますので、近々、詳細情報もご案内できると思いますので、よろしくお願いします。

 * 昨日(13日)の文化放送「おはよう寺ちゃん 活動中」の僕の出番は、無事、終了いたしました。お聞きいただきました皆様には、この場をお借りして御礼申し上げます。なお、次回の出演は12月27日の予定(仮)ですので、引き続き、よろしくお願いします。

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 習近平国家主席、訪朝
2019-06-21 Fri 01:30
 今月25日の朝鮮戦争開戦記念日を前に、中国の習近平国家主席が、きのう(20日)、国賓として平壌を訪問し、金正恩朝鮮労働党委員長と会談しました。中国の最高指導者の訪朝は、2005年、当時の胡錦濤国家主席以来、14年ぶりのことです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。

      朝鮮人民軍・軍事郵便(中国寄贈)

 これは、朝鮮戦争中、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の兵士が差し出した軍事郵便です。使われている封筒は、北朝鮮を支援するために中国が派遣した“中国人民赴朝慰問団”が援助物資の一環として北朝鮮側に贈ったもので、北京の天安門の図と、“抗美援朝 保家衛國”のスローガンが入っています。なお、紫色の印には、ハングルで“朝鮮/軍事郵便/人民軍”の文字が入っています。

 1950年6月25日、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の南侵によって始まった朝鮮戦争は、当初、奇襲攻撃の利を活かした朝鮮人民軍が優勢でしたが、同年9月の仁川上陸作戦により形成は逆転。韓国・国連軍は38度線を越えて北進し、北朝鮮は国家壊滅の危機にさらされます。このため、同年10月、中国は「唇滅べば歯寒し」として北朝鮮を支えるための“人民志願軍”を派遣しました。その際、中国国内で盛んに強調されたスローガンが、今回のカバーにもある“抗美援朝(米国に抵抗して朝鮮を支援する)”です。

 ゲリラ戦に秀でていた中国側は人海戦術を展開し、銅鑼を鳴らし、ラッパを吹いて、歓声を上げながら波状攻撃を繰り返して国連軍を包囲分断。中国の参戦を予期していなかった国連軍は総崩れとなり、2週間ほどの間に、38度線以南まで後退し、計3万6000名もの損害が発生しました。さらに、12月31日、中国側は正月攻勢を発動。このため、韓国・国連軍は再び後退を余儀なくされ、翌1951年1月4日にはソウルを放棄し、平沢=丹陽=三陟を結ぶラインまで撤退を余儀なくされました。

 もっとも、作戦区域を急激に拡大したことで中国の補給も伸びきり、1951年2月、国連軍は中国・北朝鮮軍の撃退に成功。以後、攻勢に転じ、3月15日にはソウルの再奪還に成功し、月末までに38度線以南の要地を確保します。

 以後、戦況は38度線を挟んで一進一退の膠着状態に陥りますが、1953年7月27日の休戦協定成立までに、中国・北朝鮮側は、約39万の米軍兵士、66万の韓国軍兵士、2万9000の国連軍兵士を戦場から“抹消”したとされています。

 なお、朝鮮戦争への中国の関与については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

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      チェ・ゲバラとキューバ革命 表紙カバー 本体3900円+税
 
 【出版元より】
 盟友フィデル・カストロのバティスタ政権下での登場の背景から、“エルネスト時代”の運命的な出会い、モーターサイクル・ダイアリーズの旅、カストロとの劇的な邂逅、キューバ革命の詳細と広島訪問を含めたゲバラの外遊、国連での伝説的な演説、最期までを郵便資料でたどる。冷戦期、世界各国でのゲバラ関連郵便資料を駆使することで、今まで知られて来なかったゲバラの全貌を明らかする。

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 スプートニクとガガーリンの闇(10)
2018-08-24 Fri 00:27
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、7月25日、『本のメルマガ』第688号が配信されました。僕の連載「スプートニクとガガーリンの闇」は、今回は、国際地球観測年の期間中に東側諸国が発行した切手のうち、北朝鮮について取り上げました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・国際地球観測年(地球)

 これは、1958年3月、北朝鮮が発行した国際地球観測年の切手のうち、地球の周りを周回するスプートニク1号を取り上げた1枚です。

 北朝鮮は、もともと、ソ連が極東の防波堤として樹立した衛星国でした。ソ連の支援と承認を得た北朝鮮は、1950年6月25日、38度線を越えて韓国領内に侵攻し、朝鮮戦争を起こしましたが、10月20日に国連軍の反攻によっては国家壊滅の危機に追い込まれます。これに対して、米国との直接対決を回避したかったソ連は北朝鮮を積極的には支援せず、金日成政権の崩壊を前提に極東政策を再検討し始めました。結局、1950年10月末、中国が人民志願軍を派遣して戦争に介入したことで、北朝鮮はなんとか国家として存続することになりましたが、このことは、後年、ソ連に対する北朝鮮の不信感を醸成する要因となります。

 1953年7月の朝鮮戦争休戦後、北朝鮮の戦後復興に際しては、ソ連48.8%、中国30.9%、東欧20.3%の割合で、総額5億5000万ドルの直接無償援助(ただし、西側諸国の推計では、7億1900万ドルのローンを含む10億4000万ドル)が行われたとされています。また、これとは別に、中国人民志願軍の無償労働による鉄道復旧事業も行われました。

 復興援助の開始にあたって、1953年9月、金日成はソ連を訪問し、ソ連から受けることになっていた10億ルーブルの経済援助の使途と、過去にソ連から受けていた借款の償還問題について協議。その結果、ソ連からの経済援助のうち、かなりの部分が、戦争によって被害を受けた旧設備の復旧・拡張に加え、“以前はわが国になかった新工場”として消費財生産のための工場建設に充てられることになりました。これは、国際分業路線を採用していた当時のソ連の意向に沿ったものでしたが、重化学工業建設を優先したい金日成の意向とは必ずしも一致するものではありませんでした。

 とはいえ、戦後復興のために、ソ連などからの援助が不可欠であった北朝鮮は、当面、自立的民族経済論と社会主義的国際分業とは必ずしも矛盾せず、むしろ、自立的民族経済を建設することが国際分業に参加できる道であることを強調して、ソ連との対立を回避しようとします。

 こうした事情を踏まえて、北朝鮮が策定した“戦後復興三ヵ年計画”は、重工業を優先したうえで、同時に軽工業と農業を発展させるとの方針の下、造船、製鉄、鉱業、電力、化学、建設などの分野に重点的な投資が行われ、(公式の統計数字によれば)石炭の生産は1953年の70万トンから1956年には390万8000トンに、鋼鉄の生産は同じく12万2000トンから36万5000トンに、発電能力も同じく101万7000キロワットから512万キロワットへと、飛躍的に向上しました。これにより、北朝鮮は戦後復興を達成したとされていますが、一般国民の生活水準は“復興”の名とはほど遠い低いままに留め置かれています。

 ところが、計画最終年の1956年、フルシチョフによるスターリン批判を契機として、北朝鮮においても金日成個人崇拝に対する批判が起こると、事態は一変。同年8月には、ソ連国籍をもつなどソ連と関係の深いソ連派の朴昌玉が、中国共産党と関係の深い中国派の崔昌益らとともに、党全員会議で公然と金日成批判を行う“八月宗派事件”が発生します。

 事件の背景には、自立的民族経済建設のために重化学工業路線を優先する金日成ら抗日パルチザン出身グループと、軽工業・消費財生産を優先し、ソ連を中心とする国際分業体制への積極的参加を主張するソ連派・中国派との路線対立がありました。

 結局、八月宗派事件は金日成らの勝利に終わり、朴・崔の二人は逮捕され、党から除名されます。その後、ソ連第一副首相のミコヤンと中国国防部長の彭徳懐が訪朝し、朴・崔に対する除名処分は撤回されたものの、金日成は、1956年末からソ連派・延安派に対する本格的な粛清を開始。1958年までに両国と関係のある“反党分派”勢力は根こそぎ弾圧され、北朝鮮と中ソの関係は冷却化しました。

 八月宗派事件を機に、北朝鮮はソ連・中国の援助を当てにせず、自力で社会主義建設を行う必要に迫られたことから、金日成は、1957年に始まる5ヵ年計画の発動を前に、1956年12月の党中央委員会総会で、「最大限の増産と節約」とのスローガンを掲げ、重工業(中でも製鉄と機械)優先路線の大衆動員運動として“千里馬運動”を展開します。さらに、5ヵ年計画実施の過程で強調されたのが“農業協同化(集団化)”でした。

 ただし、この段階では、軍事境界線をはさんで米韓と直接対峙している状況の下、ソ連を盟主とする東側諸国の団結を後ろ楯とせざるをえないという基本構造に変化はなく、経済的にもソ連からの支援が大きな比重を占めていたため、北朝鮮はソ連に対して(少なくとも表面的には)臣従の姿勢を示す必要がありました。今回ご紹介の切手も、そうした文脈に沿って発行されたものです。

 さて、北朝鮮当局にとって、農業協同化運動の真の目的は、資本不足に悩んだ北朝鮮当局が、重工業の育成に必要な資金を農民から徴収することにありました。このことを裏付けるかのように、農業協同化は、北朝鮮がソ連・中国と距離を置き「自力更生」を強調するようになった1956年以降、急ピッチで進められましたが、農民の生活を無視した過酷な収奪や強制的な大規模移住が強行されたことで、1950年代末には10万人規模の餓死者が発生するなど、農村の荒廃は深刻なものでした。

 こうした状況の下で、金日成は在日朝鮮人(の労働力・技術・資金)に目をつけ、それが北朝鮮の現実を“地上の楽園”の美名の下で糊塗し、多くの在日朝鮮人を地獄に突き落とすことになる帰国事業につながっていくことになります。


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 えにし書房より、拙著『チェ・ゲバラとキューバ革命』が近日刊行予定です!
 詳細につきましては、今後、このブログでも随時ご案内して参りますので、よろしくお願いします。

      ゲバラ本・仮書影

(画像は書影のイメージです。刊行時には若干の変更の可能性があります) 
 

★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

      パレスチナ現代史・表紙 本体2500円+税

 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
 世界遺産、エルサレムの“岩のドーム”に関連した郵便資料分析という独自の視点から、複雑な情勢をわかりやすく解説。郵便学者による待望の通史!

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 切手でひも解く世界の歴史(15)
2018-02-08 Thu 03:36
  本日(8日)16:05から、NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第15回が放送される予定です。(番組の詳細はこちらをご覧ください)。今回は、明日(9日)が平昌五輪の開会式ということで、この切手もご紹介しながら、、平昌のある江原道にちなみ、金剛山の切手についてお話する予定です。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・金剛山(1950頃)

 これは、1950年頃に北朝鮮が発行した金剛山50チョン切手の田型です。

 北朝鮮最初の切手は、1946年3月12日に発行されたムクゲの20チョン切手と金剛山の50チョン切手ですが、このうちの50チョン切手にはさまざまなバラエティがあり、刷色違いだけでも黄緑・赤・紫の3種に大別(さらに細かいシェード違いもありますが)されます。このうち、紫色で無目打のものは、1950年頃に出現したと考えられています。 

 金剛山は、中朝国境の白頭山(中国側の呼称は長白山)とともに朝鮮を代表する名山とされており、その大半は、現在の行政区域でいうと、軍事境界線(北緯38度線)近くの北朝鮮の江原道の東海岸に位置しています。ちなみに、江原道は、もともと、朝鮮王朝(李氏朝鮮)の時代の行政区画として朝鮮半島中東部に設置された“朝鮮八道”の一つでしたが、第二次大戦後、その範囲は南北に分割されました。ただし、江原道の名前の由来になった江陵と原州は、いずれも、韓国領内にあります。

 金剛山一帯は、最高峰の昆盧峰(1639メートル)をはじめ、1万2000もの峰からなるダイナミックな渓谷地帯で、その範囲は東西40キロ、南北60キロにも及んでおり、その範囲を一番広くとった場合には、南端の一部が韓国領内にまたがることになります。また、毘盧峰がある中央連峰の西側が内金剛、東側が外金剛、東端の海岸部が海金剛と呼ばれています。

 花崗岩が長い年月をかけて風化・浸食された奇岩の数々は、古来より多くの伝説の舞台となるなど、朝鮮民族にとっては単なる景勝地にとどまらず、民族の象徴ともいうべき存在となってきました。旧朝鮮王朝時代は交通の便が悪く、訪れる人も少なかったのですが、日本統治時代に金剛山電気鉄道ならびに朝鮮総督府鉄道・東海北部線が開通し、一大観光地となりました。

 さて、金剛山は、日本統治時代の1939年、当時の7銭切手の図案に“日本有数の名山”として取り上げられています。この7銭切手は濃い青緑色の精巧な凹版印刷で製造されており、戦前日本の国力のピークを示すものでした。

 その後、いわゆる太平洋戦争の時代を通じて日本切手の品質も大いに劣化していますが、終戦前後、最も品質が劣化したとされる普通切手でさえも、今回ご紹介した北朝鮮の切手に比べればかなりましな出来ばえです。

 終戦直後、旧満州に進駐したソ連軍が日本人の資産を大量に接収していったことは広く知られていますが、それと同様に、北朝鮮の場合も、旧満州ほどではなかったにせよ、機械や施設、食料などがソ連軍によって大量に奪取されていきました。この結果、ソ連による北朝鮮の“解放”は、北朝鮮経済、特に一般民需に大きな打撃を与えることになりました。北朝鮮の粗悪な金剛山切手には、そうした当時の状況が反映されているわけです。

 ちなみに、金剛山の萬物相は1949年には発足後まもない韓国の20ウォン切手にも取り上げられています。北朝鮮領内にある金剛山を、韓国があえて通常切手の図案として取り上げたのは、自分たちこそが朝鮮半島を代表する唯一の正統政府であることを、切手を通じて内外に示すためです。ただし、韓国の切手は、日本時代の切手には及ばないものの、北朝鮮の切手に比べると印刷物としては上質です。

 現在でも、しばしば、1960年代までは韓国よりも北朝鮮の方が豊かだったとの記述が歴史の本などでは見かけられます。たしかに、北朝鮮の発表した公式の統計データがすべて正しいとすれば、国家全体のGDPレベルにおいては北朝鮮が韓国を凌駕していたということになるのかもしれません。しかし、GDPがどれほど大きかろうと、富の再分配が適正に行われなければ、国民の日常生活は決して豊かにはならないのです。

 一般国民が日常生活で使用する切手(や郵便物に使われす紙類)の品質は、時として、そうした公式の統計数字には表れない国民生活の実態をあぶり出す資料として、重要な意味を持っていると言えましょう。

 なお、このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” 次回は8日!★★

 2月8日(木)16:05~  NHKラジオ第1放送で、内藤が出演する「切手でひも解く世界の歴史」の第15回が放送予定です。今回は、平昌五輪の開幕前日ということで、平昌のある江原道にちなみ、金剛山の切手についてお話する予定です。なお、番組の詳細はこちらをご覧ください。


★★★ 世界切手展< THAILAND 2018>作品募集中! ★★★

 本年(2018年)11月28日から12月3日まで、タイ・バンコクのサイアム・パラゴンで世界切手展<THAILAND 2018>が開催される予定です。同展の日本コミッショナーは、不肖・内藤がお引き受けすることになりました。

 現在、出品作品を3月12日(必着)で募集しておりますので、ご興味がおありの方は、ぜひ、こちらをご覧ください。ふるってのご応募を、待ちしております。


★★ 内藤陽介の最新刊 『パレスチナ現代史 岩のドームの郵便学』 ★★

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 【出版元より】
 中東100 年の混迷を読み解く! 
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 三池淵の位置
2018-01-16 Tue 15:08
 韓国と北朝鮮は、昨日(15日)、板門店の統一閣(北朝鮮側の施設)で実務者協議を行い、北朝鮮が過去最大規模の140人以上で構成する芸術団“三池淵管弦楽団”を平昌五輪期間中に派遣し、ソウルとスケート競技会場のある江稜で公演することで合意しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・茂山地区戦闘50年

 これは、1989年5月19日、北朝鮮が発行した“茂山地区戦闘勝利50年”の記念切手で、戦闘に関連する地域の地図を背景に、戦闘場面をイメージした銅像と記念碑が描かれています。

 切手に描かれている地図は、朝鮮半島北東部、現在の両江道の中朝国境地帯を中心としたのもので、国境線から近い北西の△が白頭山で、三池淵は、そこから南東方向の赤い楕円形の場所になります。

 三池淵は、もともとは、白頭山麓の三つの池がつながってできた湖(周囲12.4キロ)ですが、行政単位としての三池淵郡は、1961年3月、両江道内の普天郡鯉明水労働者区・胞胎里、咸鏡北道延社郡新徳労働者区・駕洞労働者区・新興労働者区・三上労働者区・老隠山労働者区をあわせて設置されました。

 冬季はシベリア高気圧の影響を強く受ける位置にあることに加え、標高1381mの高地にあることから、過去には氷点下39.7℃を記録(高山地帯では非公式に氷点下45.1℃を観測)するなど、朝鮮半島最寒の地とも言われています。

 北朝鮮当局の説明によると、1939年5月、パルチザンを率いて満洲から朝鮮に進軍した金日成らが最初の宿営地としたのが三池淵の湖畔で、このため、同地は“革命の聖地”とされています。三池淵から北上した一行は満洲国との国境地帯で日本側官憲を攻撃したため、日本側の国境守備隊と警察隊は南下して逃げるパルチザンを追撃。これに対して、6月に入ると、パルチザン側は大紅湍(切手では大きな赤旗の下の丸印の場所)の小高い丘に伏兵陣を張り、追撃してくる日本側に対して一斉射撃を行い、大きな戦果を挙げたと言うのが、北朝鮮側の主張です。

 こうしたこともあり、1979年には、“茂山地区戦闘勝利40周年”を記念して、金正日の指導により、三池淵には、巨大な金色の金日成象を中心に、祖国・宿営・進軍などテーマごとの彫刻群像が配置されました。また、この時点では、金正日の生誕の地は、単に白頭山中というだけで、その具体的な場所については説明がありませんでした。

 その後、1987年2月16日の金正日45歳の誕生日にあわせて、抗日武装闘争中、金日成が拠点としていたとされる白頭山中の秘密アジト(密営)が三池淵郡内で捏造復元・公開されましたが、この段階でも、北朝鮮当局は、密営の場所については白頭山中とだけしか述べておらず、捏造復元された密営の所在地が、かつての密営の所在地であるか否かについては明言を避けていたのですが、いつしか、その場所がそのまま金正日の出生地であるかのように宣伝されるようになりました。報道などで、“北朝鮮が金正日の出生地としている三池淵”との表現が用いられるのは、こうした事情によるものです。

 なお、歴史的な事実関係を言えば、金正日は父親の金日成と母親の金貞淑(正淑)がソ連領内で軍事訓練を受けていた時に生まれたことが確認されており、彼が白頭山中で生まれたとする北朝鮮当局の主張は事実と異なります。ちなみに、実際に、金正日の生誕の地とされるハバロフスク近郊のヴャツコエ(異説もあります)に関しては、拙著『ハバロフスク』にて現地の訪問記を書いておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


★★ NHKラジオ第1放送 “切手でひも解く世界の歴史” ★★

 1月11日(木)に放送の「切手でひも解く世界の歴史」第14回は無事に終了しました。お聞きいただいた皆様、ありがとうございました。次回の放送は、大相撲のため1回スキップして、2月8日(木)16:05~の予定です。引き続き、よろしくお願いいたします。
 
 なお、1月11日放送分につきましては、1月18日(木)19:00まで、こちらの“聴き逃し”サービスでお聴きいただけますので、ぜひご利用ください。


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