内藤陽介 Yosuke NAITO
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 紀念八一五
2015-08-15 Sat 14:24
 きょう(15日)は終戦の日です。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      斉斉哈爾地図票(八一五)

 これは、1946年8月15日、中国共産党(中共)支配下の東北・西満区で発行された切手で、中国地図と独立・和平・民主の文字を描く切手に、“紀念 八一五”の文字が加刷されています。

 大戦末期の1945年4月、中共七全大会(中国共産党第七次全国代表大会)で中央委員会主席に就任した毛沢東は「もし、我々が全ての根拠地を失っても、東北(満洲)さえ確保できれば、それで中国革命の基礎を築くことができる」と発言。ソ連軍の満洲侵攻翌日の8月10日には、すぐさま東北の占領を各地の中共軍に指令しています。

 じっさい、日本が降伏した時点で、長江上流の内陸の地・重慶を拠点としていた国民政府(国府)に対して、華北の地にも抗日根拠地という名の“解放区”を設けていた中共には、東北の接収という点に関して圧倒的に地の利がありました。また、東北に進駐していたソ連占領軍も、国府と結んだ中ソ友好同盟条約では「満洲における国府の完全な主権の保持とソ連の優先的利益の擁護」を謳っていましたが、中共軍の東北進駐を黙認します。

 このため、1945年11月3日、東北接収のために国府軍第52軍の輸送船団が営口沖に到着したとき、中共側はすでに営口を占領していたばかりでなく、遼寧省を中心とする地域に約30万人、吉林省及び黒龍江省を中心とする地域に約15万人の部隊を集結させていました。このため、国府軍は11月16日に山海関を占領。そこから、葫蘆島、錦州、古北口、朝陽へと前進します。これに対して、中共側も営口、安東、洮南、吉林をはじめ南満洲一帯に進駐するなど、東北接収をめぐる国境両軍のつばぜり合いは激しさを増していきました。

 これに対して、東西冷戦が進行していく中で、中共の東北進駐が米英との摩擦を増大させ、軍事衝突の危機さえ招きかねないことを危惧したソ連は、しだいに中共と距離を置き、国府と妥協して東北の経済権益を国府との共同経営にゆだねることを模索するようになります。1945年11月19日、ソ連軍が中共軍の林彪らに通知して、長春(満洲国の崩壊に伴い、新京から旧称に復す)の鉄道沿線と長春市内を国府軍に譲り、一時鉄道沿線から地方へと撤退。さらに、ほぼ時を同じくして、米国も国府に対する軍事支援を強めつつも、国府と中共との調停工作に乗り出しました。

 この結果、1946年1月10日、国共両軍は一時的に停戦にこぎつけるのですが、2月上旬には早くも両軍の戦闘が再開。そして、3月10日にソ連軍が瀋陽を撤退し、4月14日に旅大地区を除く全東北から撤退すると、東北を舞台に国交内戦が本格化していくことになります。

 この間、国府と中共のそれぞれの支配地域では別々の切手が使われていました。このうち、中共支配下の各地では、1946年10月1日、東北解放区全体の郵政を統括する機関として哈爾浜に東北郵電管理総局が成立するまで、各地で暫定的な切手が発行・使用されていました。

 今回ご紹介の切手もそのうちの1枚で、斉斉哈爾の印刷所で製造されたモノです。今回ご紹介の加刷切手と無加刷の台切手はいずれも、“八一五”1周年にあわせて、1946年8月15日に発行されました。当時の中国の正統政権である国府にとっての対日戦勝記念日は降伏文書が調印された9月2日ですが、終戦まで満洲国の支配下に置かれていた東北では、日本同様、昭和天皇の玉音放送の日である8月15日が"終戦の日”という感覚が一般的だったのかもしれません。

 ところで、日本語では一般に“記念”と書くところを、中国では“紀念”と表記するのが一般的で、この切手でも加刷の文字は“紀念 八一五”となっています。

 “記念”の語は、唐代初期の張文成の作とされる『遊仙窟』にも「下官瞿然破愁成笑、遂喚奴曲琴取相思枕、留與十娘以為記念」との用例がありますが、“紀念”の用例は古典には見られません。ちなみに、『遊仙窟』などにみられる“記念”の語は「後の思い出にする、かたみ」の意味ですが、Commemorative Stamps の訳語としては“かたみ”というのは不自然ということで、わが国でも、昭和初期までの切手や消印では“紀念”の表記が使われていました。ところが、古典のテキストに用例がないことを理由に、『大漢和辞典』が“紀念”は“記念”の誤りとしたことから、その後の国語辞典では“記念”の表記に統一され、1928年の昭和大礼の切手以降、“記念(切手)”の表示が定着しました。

 これに対して、中国では、おそらく、和製漢語の一種として“紀念”がもたらされた後、それがそのまま定着して現在にいたっています。この点については、記と紀の使い分けについて、“記”が単発的な出来事の単純な記録等に用いるのに対して、“紀”は糸偏の意味が付されて、連続的で途切れ目がない物・事を(現在の視点から)伝承する場合に使うというニュアンスがあるのだそうです。(出典はこちら

 この説明によると、日本でいう“記念館”が歴史的資料などを、純粋な資料としてそのまま展示する施設であるのに対して、中国の“紀念館”が(時として政治的な)ある種の意図をもって資料を展示する施設という違いになるのですが、なるほど、そう考えると、かの地に数多ある“抗日紀念館”というのも、その性質をよく表しているわけですな。
 
 なお、この切手を含む、満洲・東北の近現代史と切手・郵便とのつながりについては、拙著『満洲切手』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 45歳になりました
2012-01-22 Sun 11:15
 私事ながら、本日(22日)をもって45歳になりました。「だからどうした」といわれればそれまでなのですが、せっかくの機会ですから、昨年刊行の拙著の中から“誕生日”にまつわる切手はないかと思って探してみたら、こんなモノがありました。(画像はクリックで拡大されます)

        スターリン70歳誕生日(旅大)

 これは、1949年12月21日、中国共産党支配下の旅大(=旅順・大連)解放区で発行されたスターリン70歳誕生日の記念切手です。スターリンの誕生日は、現在、歴史的な事実として1878年12月18日(ユリウス暦:12月6日)であることが確認されていますが、1922年にソ連共産党の書記長に就任した彼は、自らの誕生日を1879年12月21日(ユリウス暦:12月9日)に変更。後に、この日が、彼の誕生日としてソ連の祝日となりました。

 第二次大戦直後、社会主義世界の“首領”としてのスターリンの権威は絶大で(余談ですが、1950年代までは社会主義者たちの間で“偉大なる首領”といえば、金日成のことではなくスターリンのことでした)、1949年の彼の70歳の誕生日(とされた日)には、社会主義諸国がこぞって記念切手を発行しています。今回ご紹介の切手もそのうちの1枚で、同図案で色違いの20円切手の2種セットで発行されたものの1枚です。

 さて、今回ご紹介の切手では、スターリンに対して「偉大的世界革命導師 中国人民最親摯的朋友」との賛辞がつけられていますが、これは、シベリアに抑留された日本人捕虜が1949年に作成した“感謝決議”の賛辞ともよく似ています。

 日本人抑留者による“感謝決議”は、1949年5月14日から8日間にわたってハバロフスクで開催された第2回ハバロフスク地方反ファシスト大会で、抑留4年目にして日本人の帰国が進んだことを受けてスターリンに贈ることが結滞されたもので、幅1メートル、長さ20メートルの絹布にシベリア民主化運動の経緯を描き、あわせて、“モスクワ・クレムリン ソヴェート諸民族の偉大なる指導者、全世界労働者の師父にして日本人民最良の友 スターリン大元帥”宛の感謝文が金糸で刺繍されています。

 その文言の一部を引用してみると、「無権利の旧日本軍将兵たりし私たちは、社会主義の国、ソヴェートの国で解放され、初めて自由を得、民主主義を学び知ったのであります」「厳粛に、私たちは宣誓します。私たちはアメリカ帝国主義、日本軍国主義のやからどもが、私たちを再び犯罪的奴隷兵士と化すことをもはや断じて許さぬであろうことを」「帝国主義者どもが歴史の教訓にこりることなく、諸民族の意志に抗し、再び犯罪的冒険をあえて犯すならば、そしてわが日本を世界労働者の祖国ソヴェート同盟にたいする犯罪的戦争の舞台に、植民地奴隷化の兵站基地に化さんとするならば、私たちは必ずや死をもおそれず決然とけつ起し、憎むべき帝国主義者どもの醜悪なる頭がいを打ち砕くべく起ちあがるであろうことを」といった具合です。

 自分たちを不法に抑留し、強制労働に従事させた最高責任者・スターリンに対して感謝し、あろうことか、彼の国のため、場合によっては祖国に対して刃を向けることさえ誓うという“感謝文”に署名した日本人は6万6434人います。その中には、完全に洗脳されてスターリン信者になった者もいたでしょうが、署名をしなければ“反動”“ファシスト”のレッテルを貼られて帰国できないと信じ込まされていた人の方が多かったと思われます。恐ろしい話です。

 ただし、もっとも、この感謝文が最終的にスターリンの元へと届けられることはなかったそうです。

 他人を蹴落としてまで独裁者に対する忠誠心を競い合わなければならない社会にあって、“人権”の埒外に置かれていた日本人抑留者がスターリンに対して感謝と忠誠を誓うということにでもなれば、ソ連の一般国民に対しては従来以上の忠誠心が要求されるはずです。そんなことは勘弁してくれ…というのが、この感謝文を受け取ったソ連側の当局者の本音だったのかもしれません。

 なお、シベリア抑留と関連の郵便物については、拙著『ハバロフスク』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ★ TBSラジオ・ニュース番組森本毅郎・スタンバイ(2011年11月17日放送)、11月27日付『東京新聞』読書欄、『週刊文春』12月1日号、12月1日付『全国書店新聞』『週刊東洋経済』12月3日号、12月6日付『愛媛新聞』地軸、同『秋田魁新報』北斗星、TBSラジオ鈴木おさむ 考えるラジオ(12月10日放送)、12月11日付『京都新聞』読書欄、同『山梨日日新聞』みるじゃん、12月14日付『日本経済新聞』夕刊読書欄、同サイゾー、12月15日付『徳島新聞』鳴潮、エフエム京都・α-Morning Kyoto(12月15日放送)、12月16日付『岐阜新聞』分水嶺、同『京都新聞』凡語、12月18日付『宮崎日日新聞』読書欄、同『信濃毎日新聞』読書欄、12月19日付『山陽新聞』滴一滴、同『日本農業新聞』あぜ道書店、[書評]のメルマガ12月20日号、『サンデー毎日』12月25日号、12月29日付エキレピ!、『郵趣』2012年1月号、『全日本郵趣』1月号、『歴史読本』2月号、『本の雑誌』2月号で紹介されました。

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 大連で1万人を超えるデモ
2011-08-14 Sun 00:57
 中国・大連市で、きょう(14日)、化学工場の撤退を求めて市民1万人以上が抗議デモを行い、大連市政府も問題の工場に対して即時操業停止を命じ、工場の移転を確約せざるをえなくなるという事件がありました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        旅大・メーデー

 これは、1949年5月1日、中国共産党支配下の旅大(=旅順・大連)解放区で発行されたメーデーの記念切手で、気勢を上げる工場労働者が描かれています。ちなみに、印刷は大連日報社です。

 さて、大連では、先週8日の台風の影響により、問題となった化学工場の海側にある長さ600mほどの防波堤が決壊。工場から50mの地点にまで水が流れ込み、有毒物質が漏れ出す恐れがあったため周辺住民が避難を余儀なくされていました。

 今回のデモはこうした事態に対して抗議するためのもので、大連市庁舎前で午前中に始まり、午後になると参加者は若者を中心に1万人以上に膨れ上がったそうです。参加者たちは「工場はすぐに出て行け」などと叫び、工場を認可した当時の大連市トップの責任を追及し、動員された警官隊数百人とにらみ合いが続き、騒然となりました。

 おりしも、きょうは、中国が改修している旧ソ連製空母「ワリャーグ」が初めての試験航行を終え、母港・大連港に戻った日でもあり、市政府としては、市民らの抗議が地元政府を公然と批判するまでに発展した現実を踏まえ、秩序回復のため早期の事態収拾を図る必要に迫られ、異例の即時操業停止命令となったということのようです。

 いずれにせよ、中国国内では、急激な経済発展の陰で、共産党の一党独裁体制に対する潜在的な不満も高まってきていることは事実ですから、今回のデモが、今後、ほかの都市に波及することも十分に考えられます。それが、中国の民主化につながっていくのかどうかという点も含め、今後の動きに注目したいですな。


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 中国のデモ
2010-10-17 Sun 18:43
 きのう(16日)、中国四川省成都など3都市で沖縄県・尖閣諸島付近での中国漁船衝突事件に抗議する大規模な反日デモが発生しました。中国での大規模な反日デモは2005年春以来のことです。というわけで、きょうは中国のデモを描く切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         530事件

 これは、1947年に中国東北部の共産党支配地域の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した“5・30事件22周年”の記念切手の1枚で、デモに参加する学生と労働者が描かれています。

 1925年5月14日、上海の日系企業・内外綿で、従業員の解雇問題をめぐる騒動から発砲事件が起こり、1人がなくなりました。さらに同月28日、青島で、日本の要請で出動した軍閥系の兵士が数名を射殺する事件が起こりました。
 
 このため、5月30日、上海でこれらの事件に抗議する学生デモが発生。租界の警察はデモ隊に対して一斉射撃を行い、死者13名、負傷者数十名、逮捕者53名を出すという事件になりました。これが、いわゆる5・30事件のあらましです。

 翌31日、中国の全国的な労働組織である中華全国総工会の地域組織として上海総工会が成立。総工会の呼びかけに呼応して、上海全市はゼネストに突入し、労働側は列強諸国や北京政府に対して17ヵ条の要求を突きつけました。その後、事件は南京、北京、天津、さらには広州と香港にも飛び火しました。

 さて、きのうの反日デモに関して、中国政府は「一部の大衆が日本側の誤った言動に義憤を表明した」(外務省スポークスマン)なとと説明しています。しかし、中国においては、政府の許可なしデモを行うことが不可能ですから(無申請のデモを行えば、即逮捕されます)、当然のことながら、今回のデモも官製デモであることはほぼ間違いありません。すでに、香港のメディアでは、今回のデモが各大学の学生会によって周到に準備されたものであるとのデモ参加者の証言が報じられています。中国の大学学生会はすべて政府や共産党の指導下にあり、自主的な政治活動は一切認められていませんから、まさに、馬脚を現したということになりましょう。

 なお、中国側が16日という日を選んだのは、東京の中国大使館前で、文字通り、“中国側の誤った言動に義憤を表明”するための大規模デモが行われることを察知し、同日の対抗デモを組織したためという見方が有力なようです。で、その日本側のデモについての報道が、日本の新聞・テレビでは極端に少ないように感じられるのですが、気のせいでしょうかねぇ。大手マスコミの多くが、左翼系の団体が天皇誕生日などに抗議行動を行うと参加者が数十人規模でも喜んで取り上げるのに、反中デモに2800人が集まってもあまり注目しないというのは、いったい、どういう理由なのでしょうか。取捨選択の基準があるというのなら、ぜひ、ご教示いただきたいものです。


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 中華人民共和国60年
2009-10-01 Thu 09:16
 1949年10月1日に中華人民共和国が建国を宣言してから、きょうでちょうど60年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 新中国成立(旅大)

 これは、1949年11月1日、中国共産党支配下の旅大(=旅順・大連)解放区で発行された“中華人民共和国成立”の記念切手で、毛沢東と新中国の成立を歓迎する人民が描かれています。

 第2次大戦後の国共内戦の結果、中共が国府(国民政府)を打倒して中国大陸を制圧し、中華人民共和国が建国されたわけですが、1949年10月1日に北京で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したときには、北京政府が現在の中華人民共和国の領域をすべて掌握していたわけではありません。

 すなわち、建国宣言の時点では、国府はまだ大陸に残って中共との戦いを続けており、国府も重慶に残っていました。ちなみに、中共が重慶を占領したのは11月30日のことで、国府が台北を臨時首都とすることを決議したのは12月4日(正式な移転は7日)のことでした。

 また、中共側がすでに“解放”していた地域でも、1949年10月以降も北京政府の発行する人民幣ではなく、現地のローカル通貨がしばらく使われていたケースがあり、そうした地域では、当然のことながら北京の中国人民郵政が発行するものとは別の切手が使用されていました。

 今回ご紹介の旅大地区では、1949年10月の時点では関東幣と呼ばれるローカル通貨が使用されていましたが、1950年7月以降、関東幣は東北地域全体に共通の東北幣に吸収されることになります。この東北幣が、中華人民共和国の成立後もしばらくは流通していたことは、初期の新中国切手に“東北貼用”の切手が存在することからも実感としてご理解いただけるものと思われます。

 さて、切手では、人民が共産中国の成立を歓呼して迎える図が描かれています。たしかに、国共内戦末期、国府の支配下ではハイパーインフレが進行し、政府関係者の腐敗も深刻な状況でしたから、ともかくも国府はやめてほしいという空気が中国大陸に蔓延していたことは事実でしょう。ただし、国府に代わって大陸を支配した毛沢東の中共の下で、人民の生活が国府の時代に比べて改善されたかというと、そのあたりは判断に悩むところです。まぁ、国府が遷移した台湾に関しても、1980年代までは戒厳令が敷かれており、国民党の一党独裁体制下で言論の自由などはかなり制限されていましたが、それでも大躍進の失敗による飢餓の蔓延や、社会的な大混乱を巻き起こした文化大革命などはありませんでしたから、民主化以降はいうに及ばず、戒厳令下であっても、大陸にくらべればかなりましだったといえるでしょう。

 なお、現在の中国共産政府は、抗日戦争に主導的な役割を果たした中共が、その余勢をかって国府を破り、中華人民共和国を建国したという歴史観に立っており、この文脈に沿って“日本軍国主義”ないしは“日本帝国主義”を非難し続けているわけですが、かつて、毛沢東は次のように述べています。

 私は日本の友人に話したことがあります。彼らは言いました。誠に申訳ありませんでした、日本皇軍は中国を侵略しましたと。(1964年7月に日本社会党左派グループの代表団が訪中し、後に同党委員長となる代表の佐々木更三が、日本の過去の中国侵略について「非常に申し訳なく思っております」と頭を下げたことを指す)わたしはいったのです。

 いいや!あなたがた皇軍が中国の大半を侵略しなかったら、中国人民は団結して、あなたがたに対抗することはできなかったし、中国共産党は政権を奪取することができなかった。したがって、日本皇軍はわれわれにとって、ひじょうに優れた教員であったし、あなたがたの教員でもあったと」

 毛沢東の発言は逆説的な表現ではありますが、それでも、旧満洲国の遺産が、1949年以降の新中国建設にとって重要な役割を果たしたことなどを考えると、単なる皮肉と切り捨てるわけにはいかないでしょう。この点については、拙著『満洲切手』でもいろいろと論じてみたことがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 打破専制枷鎖 争取民主自由
2009-05-04 Mon 21:49
 1919年に中国でいわゆる“五四運動”が起こってから、きょうでちょうど90年です。というわけで、五四運動がらみのモノということでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 五四運動(解放区・タテ目打もれ)

 これは、“五四運動”28周年にあたる1947年5月4日、中国東北部(満洲)における“解放区”(共産党支配地域)の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した記念切手です。このとき発行された切手は10円・30円・50円の3種で、デザインはすべて抑圧の象徴である鎖を断ち切る斧を描くモノで、両脇に「打破専制枷鎖 争取民主自由」(専制の鎖と枷を打破して民主と自由を奪い取ろう)とのスローガンが入っています。まぁ、きょうは“みどりの日”でもありますし、そのうちの10円の切手のタテ目打もれのペアを持ってきました。

 いわゆる“五四運動”は、第一次大戦中、ドイツに宣戦布告した中華民国は“戦勝国”であるにもかかわらず、パリ講和会議において旧山東省の旧ドイツ権益が中国側に返還されず、大戦中の既成事実をもとに日本に譲渡することが認められたことに対して、北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をしたり、曹汝霖宅を焼き討ちにしたりした事件です。

 現在の中国共産政府は、中国共産党が五四運動の影響から誕生したこともあって、この事件をナショナリズムが真に大衆化した転機として高く評価しています。しかし、実際に五四運動のときのように、学生たちの矛先が体制批判に向かうことに対しては容赦のない弾圧が繰り返されています。

 たとえば、いまから20年前の1989年5月4日は五四運動の70周年にあたっていましたが、その直前の4月の胡耀邦(元総書記)の死を悼むかたちで、政府・党幹部の腐敗と汚職、小平による人治(超法規的な君臨)への不満から、民主化を求める学生運動が北京を中心に発生しています。これに対して、中国政府は5月19日に北京に戒厳令を布告。6月3日深夜から4日未明にかけて、北京の天安門広場前に集まっていた学生・市民に対して人民解放軍が無差別に発砲し、民主化運動を力ずくで鎮圧したことはご記憶の方も多いことでしょう。

 いわゆる1989年の天安門事件に限らず、共産党政権の下で自由や民主を求めてきた人々がたどってきた運命を思い起こしてみると、今回ご紹介の切手に印刷されている「打破専制枷鎖 争取民主自由」というスローガが、なんとも強烈なブラック・ジョークにしか思えないのは、決して僕だけではないだろうと思います。


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 西安事件70年
2006-12-12 Tue 00:51
 今日(12月12日)は、1936年に張学良が、抗日よりも反共を優先していた蒋介石を幽閉して説得し、共産党との内線の停止を約束させた西安事件から70周年の記念日にあたります。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

西安事件10周年

 これは、1946年12月、中国東北部(旧満洲に相当)の中国共産党(中共)支配地域の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した“双十二節(いわゆる西安事件の中国側の呼称)10周年”の記念切手です。

 西安事件のあらましについては以前の記事でもご説明しましたが、この事件は、蒋介石にとっては屈辱的な事件であった半面、国府軍の攻撃で崩壊寸前の危機にあった中共にとっては、抗日戦争という文脈においてみずからの基盤を確立させるうえでの起死回生の出来事となったものです。

 それゆえ、中共側が事件から10周年の節目にあたり、自らの支配地域で西安事件の記念切手を発行するのも当然といえるのですが、実際に発行された切手のデザインは、非常に興味深いものです。

 すなわち、切手には、満洲を拠点とする狼になぞらえられた日本軍と、獅子になぞらえられた共産党(と同党を支援する人民)の双方から責められて右往左往する蒋介石が描かれています。このデザインは、蒋の採っていた“安内攘外(先に共産党を打倒してから、日本軍と戦う)”政策を皮肉ったものだが、抗日戦争の終結後、蒋介石が共産党攻撃(内戦)を再開したことを非難する意図も込められているのは一目瞭然です。

 したがって、見方によっては、この切手は中共にとっての目下の最大の敵である蒋介石を前に、“敵の敵”である中共と日本軍(ないしは満洲国)が手を結んでいる構図に見えないこともありません。実際、逆説的な意味ではあるのですが、毛沢東は次のように述べて、“日本軍のおかげ”論を展開しています。

 私は日本の友人に話したことがあります。彼らは言いました。誠に申訳ありませんでした、日本皇軍は中国を侵略しましたと。(引用者註:一九六四年七月に日本社会党左派グループの代表団が訪中し、後に同党委員長となる代表の佐々木更三が、日本の過去の中国侵略について「非常に申し訳なく思っております」と頭を下げたことを指す)わたしはいったのです。
 いいや!あなたがた皇軍が中国の大半を侵略しなかったら、中国人民は団結して、あなたがたに対抗することはできなかったし、中国共産党は政権を奪取することができなかった。したがって、日本皇軍はわれわれにとって、ひじょうに優れた教員であったし、あなたがたの教員でもあったと」
(毛沢東「日本社会党人士と会見したときの談話」一九六四年七月十日 『毛沢東 外交路線を語る』より)

 こうしたことを考えると、満洲国を作って中国を侵略した日本軍が一方的に悪で、これに抵抗した中国の人民は純粋に善であるといえるほど、歴史の実相は単純なものではないのだということをあらためて思い知らされます。

 さて、今年9月に刊行の拙著『満洲切手』では、そうした満洲国をめぐる複雑な歴史の諸相を切手や郵便物を使って読み解いてみました。ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 明日から<JAPEX>
2006-11-02 Thu 01:02
<JAPEX06>ブルテン表紙

 明日からいよいよ全国切手展<JAPEX>が開幕します。

 今年は、①国際切手展凱旋展示(2005~6年の国際切手展で金賞を受賞した作品の招待展示)、②ローマ字入り切手40年、③小判切手130年、④オーストラリア切手展(日豪交流年記念事業)といった盛り沢山の特別展示をご用意しているほか、全国の収集家の方々による競争出品も多数集まり、例年にない見応えのある内容となりました。会期中は作品解説や講演会のプログラムも多数ご用意しておりますので、一人でも多くの皆様のお越しをスタッフ一同、心よりお待ち申し上げております。

 トップの画像は、会場にお越しいただいた皆様にお配りするブルテン(パンフレット)の表紙画像(クリックで拡大されます)で、「ローマ字入り切手40年」の企画出品の中から、郵便自動化の実験用に作られた模擬切手を拡大して掲載しています。

 ところで、今回の<JAPEX>では、僕は実行委員長を仰せつかっているのですが、今年の6月にワシントンで開かれた国際切手展<WASHINGTON 06>で金賞を受賞したコレクション「昭和の戦争と日本」も招待出品の対象となっていますので(勧進元の親分が自分の作品を“招待する”というのも、なんだか変な気分です)、その作品を展示するほか、9月末に刊行した『満洲切手』にからんだトーク・イベントを、明日3日の16:00より、会場内の特設コーナーで行います。

 というわけで、今日は、その予告編として、展示とトークの両方に登場するマテリアルで、なおかつ、過去の記事に取り上げていないものとして、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

東北加刷

 これは、1946年3月25日、満洲国崩壊後の中国東北部、哈爾浜道裡郵便局から差し出された書留便で、満洲国時代の切手に“中華民国”と加刷した切手が貼られています。

 満洲国の崩壊後、東北各地の“解放”をめぐっては国民政府(国府)と中国共産党(中共)が激しくしのぎを削っており、それぞれの支配地域では別々の切手が使われていました。このうち、国府支配下の各地では、中華郵政が配給する切手と併行して、満洲国時代の切手を接収し、郵便局ごとに“中華民国”の文字などを加刷して暫定的に使用するということも行われています。

 今回ご紹介しているのはその一例で、差出人の住所氏名を表すスタンプがロシア語表示となっているのは、白系ロシア人が多く住んでいた哈爾浜ならではの雰囲気を感じさせます。

 押されている消印は、日付の表示こそ、年号を満洲国時代の康徳年号から中華民国表示の35年として、満洲国時代の“年.月.日.”の順から“日.月.年”の順に変更されているものの、それ以外の形式に関しては、満洲国が日本に倣って採用したものがそのまま使われています。

 このように、当時の切手や郵便物を見てみると、満洲国が崩壊しても、かつて満洲国があった地域の切手や郵便は、満洲国を引きずる形で再出発せざるをえなかったことがわかります。

 今回のトークでは、今回ご紹介してような、満洲国崩壊後の中国東北で用いられた切手や郵便物を通じて、満洲国の“遺産”が、いわゆる新中国にどのように受け継がれていったのか、お話してみたいと考えていますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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 満洲国の遺産
2006-09-29 Fri 06:32
 昨日(28日)は、著名な韓国切手のコレクターである飯塚悟郎さんのご紹介で、飯塚さんが会長を務めておられる東京江北ロータリークラブで「満洲国の遺産」と題するテーブル・トークをしてきました。トークでは、刊行されたばかりの拙著『満洲切手』の中から、こんなカバー(封筒)を取り上げて、のなかから、僕なりに考えていることをお話してきました。(画像はクリックで拡大されます)

 中ソ同盟条約(東北)カバー

 1945年8月に日本が降伏すると、蒋介石は「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と演説して中国人に日本人への復讐をしないよう戒め、毛沢東も「日本軍国主義に罪があり、日本人民には罪はない」と繰り返し強調していますが、これらは、いずれも、戦後復興に向けて日本人の能力を活用したいという思惑から発せられた発言で、彼らが寛大な人格者であったからなされた発言というわけではありません。

 じっさい、国共内戦の過程で、国共両陣営に動員された日本人は三万人をくだらないといわれていますが、特に、終戦時に旧満州にいた日本人の医師や看護婦をはじめ、技術者たちの中には、さまざまな口実を設けて帰国することをなかなか許されず、数年にわたって中国人同士の内戦に駆り出される者が多かったことは広く知られています。
 
 そうした中で、1948年2月、東北最大の工業施設であった鞍山製鉄所を支配下に収めた中共は、同年11月以降、安東に破格の待遇で“幽閉”していた日本人技術者約100人(家族をあわせると約280人)を鞍山に送り、中国人労働者に対する本格的な技術指導を行わせました。

 1949年10月に中華人民共和国の建国が宣言されると、その歴史的な興奮が中国全土を覆う中、鞍山の街には、長年の戦乱で荒廃した製鉄所を復興しようとする熱意があふれ、中国各地から優秀な人材がこの地に送り込まれていきます。

 その際、指南役を担った日本人技術者は、製鉄所の技術指導のみならず、中国人技術者に技術の伝承を図り、積極的に新たな技術革新を提言するなど、大きな成果を挙げました。同時に、一般の中国人労働者が、各種の訓練組織で高度な製鉄技術と専門知識を学ぶことを許され、昇進と昇格の機会を与えられたのも、おそらく、このときが最初のことです。

 その後、1950年6月には朝鮮戦争が始まり、同年10月には中国も派兵しますが、鞍山では製鉄所を復興し、生産を軌道に乗せるための努力が営々と続けられました。この間、中国政府は、日本人ならびに旧国民党系の中国人技術者といった“仇敵”の過去を実質的に不問に付したばかりか、彼らに対して、当時の中国の生活水準からすると破格の待遇を与え、技術面での指導と協力を仰いでいます。
 
 今回ご紹介しているカバーは、そうした状況の下で、1951年3月、鞍山にいた日本人が日本宛に差し出したカバーです。“鞍山市鞍鋼外籍職工科”という書き込みからすると、差出人は、製鋼所で働いていた日本人労働者ないしはその家族と見て間違いないでしょう。

 ところで、カバーに貼られている切手は、1950年2月に調印された「中ソ友好同盟相互援助条約」の調印を記念して、同年12月に発行されたものです。この条約は、両国が“日本または日本と連携するその他の国(具体的にはアメリカを指す)”による再侵略や平和の破壊を阻止するためにはあらゆる措置を取ることを謳っており、中ソ両国のどちらかが“日本または日本と連携するその他の国”から攻撃を受けて戦争状態に陥った場合には、もう1ヵ国は「直ちに全力をつくして軍事上その他の援助を与える」として、“日本または日本と連携するその他の国”への警戒感を露わにしていました。

 しかし、そうした建前としての日本脅威論が、国家建設の実利の前には容易に骨抜きにされるという現実は、ほかならぬ中ソ友好同盟相互援助条約の記念切手を貼ったカバーを、鞍山在住の日本人労働者が差し出していることにも象徴的にあらわれているように思えます。

 鞍山に残った日本人の技術者・労働者の活動は、1949年から1952年にかけてのいわゆる“三年恢復期”が終わり、1952年後半に第1次5カ年計画が始まるまで続きます。第1次5ヵ年計画がスタートすると、日本人に代わり、ソ連人の技術者が中国人の指導にあたることになり、日本人技術者はようやく“お役御免”ということで帰国が許されたからです。満洲国の崩壊から8年が過ぎた1953年のことでした。

 旧満洲国が、基本的には、日本によって日本のために樹立された国家であり、現在の中国人の視点から見れば、“偽国”とのレッテルを免れ得ない面が多々あったことは、否定できない事実でしょう。しかし、その後の中国が、(その是非善悪は別にして)かつて現実に存在していた旧満洲国の“遺産”から完全に無縁な状態で存在しえなかったこともまた事実です。現在の“中国人民”が好むと好まざるとにかかわらず、1949年以降の国家建設に際して、中国政府が旧満洲国時代の“遺産”が活用し、当時の中国の指導層もそのことを充分に認識していたという歴史の現実を見落としてはならないでしょう。

 さて、先日刊行した拙著『満洲切手』では、こうした満洲国と現代中国との連続性についても、切手や郵便物の背景をたどりながら読み解いてみようと試みました。機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 エラー印
2006-08-19 Sat 00:18
 昨日(18日)は、急にフジテレビから呼び出しがあって、夕方のニュースにビデオでコメントを寄せることになりました。なんでも、相模原の郵便局で、機械印の日付を“8月16日”としなければならないところ、誤って“8月91日”として押印してしまったとのこと。で、「こういうものは値打ちがあるのか」とか「お前も何か、この手のエラー印を持っていないのか」ということで話を聞きたいといわれて出かけていったわけです。(放送は無事に終わりました。ご覧いただいた方には、この場をお借りしてお礼申し上げます)

 まぁ、いわゆるエラー印の類は、好きな人は非常に好きなのでしょうが、あいにく僕はほとんど興味がありません。手持ちのストックをゆっくりと探せば、いろいろと面白いものも出てくるのでしょうが、なにせお昼頃に最初の電話をもらって、14:30には撮影開始、17:20ごろ放送というスケジュールでしたから、とりあえず、すぐに出てきたものということで、こんなモノを持っていきました。(画像はクリックで拡大されます)

東北・マオ切手カバー

 これは、中国での国共内戦末期の1949年6月15日、共産党支配下の東北(かつて“満洲”と呼ばれていた地域です)の安東から北平(現・北京)宛に差し出されたカバー(封筒)で、“東北郵電管理総局”の国名表示が入った毛沢東の切手が貼られています。

 東北郵電管理総局は、1946年10月1日、東北解放区全体の郵政を統括する機関として哈爾浜(ハルピン)に設けられた機関で、東北郵電管理総局が成立。東北解放区共通のデザインの切手として、同年11月22日、毛沢東の肖像を描く管理総局として最初の切手を発行しました。以後1949年まで、管理総局は、国共内戦下のインフレに対応した新たな額面を加えながら、毛沢東の切手を発行し続けていくのですが、今回のカバーには1948年8月発行の第4版1000円切手1枚と1949年3月発行の第5版1500円切手2枚が貼られています。

 宛先の北平には、既に1949年1月に中国人民解放軍が入城しており、同年10月には、中華人民共和国の成立とともに北平は北京の旧称にもどります。それでも、東北では満洲国時代の櫛型印が使われているのがちょっと面白いところです。

 もっとも、そうした話は撮影とは全く関係がなくって、今回は、消印の日付部分が、年月日すべて完全に上下逆になっているというのが肝です。時刻表示の部分ははっきりと読めますから、比べてみていただくと、よくわかると思います。まぁ、僕個人としては、このカバーを買ったのは、押されている消印が“エラー印”だからというわけではないのですが…。

 さて、以前のブログでもお話しましたが、現在、9月25日に角川選書の一冊として刊行予定の『満洲切手』の制作作業が大詰めを迎えています。今回のカバーも同書の中で使っている関係で、最近は机の周りのすぐ手の届くところにあって、そのことが、撮影に連れて行く決め手となりました。

 ちなみに、『満洲切手』の元の原稿では、消印の日付部分が上下逆になっているということは特に触れなかったのですが、今回はそのことで公共の電波に乗せてしまいましたからねぇ。週明けに版元に戻すことになっている校正ゲラには、消印の日付のことを書き加えるべきか否か、ちょっと迷っています。

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