内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 <HONG KONG 2015>終了
2015-11-24 Tue 06:20
 早いもので、20日から開催されていたアジア国際切手展<HONG KONG 2015>は、昨日(23日)、無事終了しました。すでに作品とメダル、特別賞等のピックアップも済ませており、本日午前中の全日空で香港を発ちます。というわけで、無事の帰国を願って、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・日本宛FFC(1936)  香港・日本宛FFC(1936)裏

 これは、1936年2月の香港から東京宛の初飛行カバーです。郵便物を運んだのは英空軍(RAF)で、2月16日にマニラから香港に到着後、18日に香港を発って、厦門、上海を経由して東京に到着しました。このカバーは、RAFが香港を発つ前日の2月17日に引き受けられ、エアメール用の消印(下段にしっかりAIR MAILの文字が入っています)と“BY COURTESY AIR FLIGHT/ HONG KONG CHINA JAPAN/ ROYAL AIR FORCE/ FEB. 18TH 1936.”の角印を押して後、翌18日、香港を出発し、無事、東京に到着しました。東京に到着後、裏面には二重橋を描く当時の東京中央局の風景印が押されています。

 さて、今回の切手展では、審査員の佐藤浩一さん、大原敏正さん、正コミッショナーの井上和幸さんご夫妻、作品の撤去作業をお手伝いいただいた池田健三郎さん、大場光博さん、斉藤環さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。現地滞在中、お世話になった全ての方々に、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。

 なお、この記事をアップしたら、すぐに宿をチェックアウトし、本日午後には、成田に到着の予定です。無事に帰国しましたら、明日(25日)以降は平常通り仕事をするつもりですので、内藤の不在によりご不便・ご迷惑をおかけしている皆様におかれましては、今しばらくお待ちくださいますよう、伏してお願い申し上げます。


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       ペニーブラック表紙 2350円+税

 【出版元より】
 若く美しい女王の横顔に恋しよう!
 世界最初の切手
 欲しくないですか/知りたくないですか

 世界最初の切手“ペニー・ブラック”…名前は聞いたことがあっても、詳しくは知らないという収集家も多いはず。本書はペニー・ブラックとその背景にある歴史物語を豊富なビジュアル図版でわかりやすく解説。これからペニー・ブラックを手に入れたい人向けに、入手のポイントなどを説明した収集ガイドもついた充実の内容です。

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       アウシュヴィッツの手紙・表紙 2000円+税

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 アウシュヴィッツ強制収容所の実態を、主に収容者の手紙の解析を通して明らかにする郵便学の成果! 手紙以外にも様々なポスタルメディア(郵便資料)から、意外に知られていない収容所の歴史をわかりやすく解説。

 出版元のサイトはこちら。各書店へのリンクもあります。

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 香港上海銀行150年
2015-03-03 Tue 12:55
 1865年3月3日に香港上海銀行(HSBC)が開業してから、きょうでちょうど150年です。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       香港・HSBC本店

 これは、1941年に発行された英領香港100年の記念切手のうち、当時のHSBC本館を描いた25セント切手です。

 現在、アジア有数の国際金融都市となっている香港で最初の銀行ができたのは、香港島が英領となって間もない1840年代のことですが、当時の銀行はロンドンやインドに拠点を置く“アングロ・インディアン銀行”でした。このため、彼らの取引はイギリス本国やインドとの決済が優先されており、中国や香港での取引には制約も多く、香港在住の英国商人たちは不満を持っていました。

 さらに、1864年初め、インドにおける金融の中心地であったボンベイの金融業者たちが英本国の勅許を得て、彼ら独自のバンク・オブ・チャイナを創立する計画が浮上します。この計画が実現されてしまうと、香港の経済・金融はますます、英本国やインドに従属することになるため、このことに危機感を抱いたP&O汽船の香港支配人、トーマス・サザーランドは、他地域の利害に左右されない効率的な銀行を香港でも創設することを提案。彼が書き上げたスコットランドの銀行業に関する文献を参考に設立趣意書草案は、香港のイギリス商人たちの圧倒的な支持を得て、数日のうちに香港上海銀行設立準備委員会が結成されました。

 設立準備委員会は、1864年7月、設立趣意書を発表。資本金は500万香港ドルで、1株が250香港ドルの株が2万株、募集されました。こうして、1865年3月3日、地元金融機関の連合体ともいうべきHSBCが香港で営業を開始します。さらに、4月3日には上海支店でも営業が始まりました。初代頭取はパリ割引銀行香港支店長だったビクター・クレッサーです。

 同行の創業間もない1866年、米国の南北戦争で綿花栽培が打撃を受けたことに加え、ヨーロッパでの普墺戦争などによって、イギリスの大手信用機関、オーバーレンド・ガーニー・カンパニーが破産すると、ロンドンの金融不安から世界的な恐慌が発生。その結果、多くの金融機関が破綻し、香港でもジャーディン・マセソン商会とならぶ繁栄を誇ったデント商会が倒産に追い込まれました。しかし、HSBCは取締役会メンバー企業の支援もあって危機を乗り切ったばかりか、破綻した金融機関を吸収して成長を続け、この年、日本にも支店を開設しています。

 1870年代に入るとHSBCの経営は次第に安定。1876年、トーマス・ジャクソン(1871~74年のHSBC横浜支店長)が総支配人に就任すると、彼の在任中にHSBCは急成長を遂げ、極東随一の大銀行としてゆるぎない地位を確立しました。

 HSBC本店の所在地は、創業以来、現在にいたるまで皇后大道中の一番地ですが、社屋は何度か建て直されており、切手に取り上げられているのは1935年に建てられた3代目のビルで、現在の本社ビルは、1985年に完成した4代目のものです。

 なお、香港とHSBCの近現代史については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとエピソードをご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:3月3日、3月31日、4月7日、6月2日、7月7日、8月4日、9月1日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は3月3日で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『日の本切手 美女かるた』 3月25日発売! ★★★ 

         日の本切手 美女かるた・表紙 税込2160円

 【出版元より】
 “日の本”の切手は美女揃い!
  ページをめくれば日本切手48人の美女たちがお目見え!
 <解説・戦後記念切手>全8巻の完成から5年。その著者・内藤陽介が、こんどは記念切手の枠にとらわれず、日本切手と“美女”の関係を縦横無尽に読み解くコラム集です。切手を“かるた”になぞらえ、いろは48文字のそれぞれで始まる48本を収録。様々なジャンルの美女切手を取り上げています。

 本書のご注文はこちら(出版元の予約受付サイトです)へ。内容のサンプルはこちらでご覧になれます。


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 旺角の民主派、強制排除
2014-11-27 Thu 22:59
 香港の警察当局は、きのう(26日)、約2カ月にわたって民主派がデモを続けてきた九龍地区の繁華街・旺角(モンコック)の彌敦道(ネイザン・ロード)に設置されたバリケードやテントを撤去し、デモ参加者も強制排除して彌敦道を“開通”させるとともに、2日間で159人を逮捕しました。北京のAPECが終わった途端になんとも露骨なやり方ですが、そうであればこそ、久しぶりの香港の民主派応援企画として、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      彌敦道・絵葉書    彌敦道・絵葉書裏面

 これは、1924年に香港からドイツ宛の絵葉書で、当時の彌敦道の風景が取り上げられています。

 香港の為政者であった英国人が現在の彌敦道の開発に乗り出したのは、まだ、九龍市街地が正式に彼らに割譲される以前の1860年のことでした。はじめは、この通りは当時の香港総督ウィリアム・ロビンソンにちなんで羅便臣道(ロビンソン・ロード)と呼ばれていましたが、香港島にも同じ名前の通りがあったため、20世紀初めになって、やはり当時の総督マシュー・ネイザンにちなんで彌敦道と改名されました。ネイザンはこの通りの大規模な拡張工事に着手したが、当初は意味なく大きな通りだと酷評されたこともあったそうです。

 さて、彌敦道は、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)と香港喜來登酒店(シェラトン・ホンコン)の間の地点を南端として北に延びています。

 この通りの左側を少し歩いて、北京道(ペキン・ロード。のぞきこむと上海料理の名店、滬江大飯店のド派手なネオン看板が見えます)にぶつかる交差点、中国旅行社の看板があるあたりが地下鉄の尖沙咀(チムサチョイ)の駅の一番南側、Eの出口になります。通りの右側に見えるのが南アジア系の連中がたむろしている重慶大廈(チョンキン・マンション)。その隣はガラス張りのカフェが目を引く金域假日酒店(ホリデイ・イン・ゴールデンマイル)があります。

 さらに通りを北上すると、九龍公園があり、目の前には大理石のドームを持つ九龍清眞寺(モスク)が公園の緑からくっきりと浮かび上がって見えます。その後ろにショッピング・モールの柏麗購物大道(パークレーン・ショッパーズ)が400メートルほど続いて警察署のある交差点にぶつかります。

 だいたい、このショッピング・モールのあたりまでが、“黄金の1マイル”と呼ばれていて、道路の両側に看板が突き出し、多数の店やホテルが並ぶ、いかにも香港らしい風景として紹介されるエリアです。

 ここまで来ると、地面の下の地下鉄は佐敦駅の近くになりますが、このエリアに入ると、繁華街は途端に地元客を意識した店の割合が高くなります。ちなみに、ナイト・マーケットで有名な廟街(テンプル・ストリート)は佐敦の駅から先のところを、西にちょっと入ったところで、廟街の名前の由来となった天后廟の南側にあるのが九龍中央郵便局です。

 さらに、通りを北上すると、地下鉄の油麻地、そして、今回問題となった旺角の駅の上を通り、次の太子(プリンス・エドワード)駅を越えて3分ほど歩くと彌敦道は、九龍市街地と新界の境界にあたる界限街(バウンダリー・ストリート)とぶつかって終点となります。

 なお、香港・九龍市街地の開発の歴史については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ インターネット放送出演のご案内 ★★★

      チャンネルくらら写真

 毎週水曜日、インターネット放送・チャンネルくららにて、内藤がレギュラー出演する番組「切手で辿る韓国現代史」が配信されています。青字をクリックし、番組を選択していただくとYoutube にて無料でご覧になれますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧ください。(画像は収録風景で、右側に座っているのが主宰者の倉山満さんです)

 
 ★★★ よみうりカルチャー荻窪の講座のご案内 ★★★

 毎月1回(原則第1火曜日:1月6日、2月3日、3月3日、3月31日)、よみうりカルチャー(読売・日本テレビ文化センター)荻窪で下記の一般向けの教養講座を担当します。

 ・イスラム世界を知る 時間は15:30-17:00です。

 次回開催は1月6日(12月は都合によりお休みです)で、途中参加やお試し見学も可能ですので、ぜひ、お気軽に遊びに来てください。


 ★★★ 内藤陽介の最新刊  『朝鮮戦争』好評発売中! ★★★ 

 お待たせしました。約1年ぶりの新作です!

        朝鮮戦争表紙(実物からスキャン) 本体2000円+税

 【出版元より】
 「韓国/北朝鮮」の出発点を正しく知る!
 日本からの解放と、それに連なる朝鮮戦争の苦難の道のりを知らずして、隣国との関係改善はあり得ない。ハングルに訳された韓国現代史の著作もある著者が、日本の敗戦と朝鮮戦争の勃発から休戦までの経緯をポスタルメディア(郵便資料)という独自の切り口から詳細に解説。解放後も日本統治時代の切手や葉書が使われた郵便事情の実態、軍事郵便、北朝鮮のトホホ切手、記念切手発行の裏事情などがむしろ雄弁に歴史を物語る。退屈な通史より面白く、わかりやすい内容でありながら、朝鮮戦争の基本図書ともなりうる充実の内容。

 本書のご注文は版元ドットコムへ。同サイトでは、アマゾン他、各電子書店での注文ページにリンクしています。また、主要書店の店頭在庫も確認できます。

 *8月24日付『讀賣新聞』、韓国メディア『週刊京郷』8月26日号、8月31日付『夕刊フジ』、『郵趣』10月号、『サンデー毎日』10月5日号で拙著『朝鮮戦争』が紹介されました!


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 香港切手150年
2012-12-08 Sat 11:48
 1862年12月8日に香港最初の(というよりも東アジア最初の)切手が発行されてから、今日でちょうど150年です。というわけで、きょうはこの切手です。

        香港12セント(1862)

 これは、1862年に発行された香港最初の切手のうち、12セント切手です。

 アヘン戦争以来の香港の植民地建設がそれなりの体裁を整えるとともに、香港の郵便局が取り扱う郵便物の量も増加。その結果、それまで着払いの郵便物(すなわち、差出時には料金を支払っていない郵便物)が主流を占めていた香港にとっては、郵便物を取り扱うコストの負担が重くのしかかるようになり、1858年5月1日以降、郵便料金は差し出し時に前納することが義務化されます。

 また、植民地の行政機構が整備されていく過程で、1860年5月1日、それまでロンドン中央郵便局の管轄下に置かれていた香港の郵便業務も、現地の総督府の下部組織である香港郵政局の管轄に移管されました。

 こうしたことから、香港でも郵便には切手を使う必要が生じ、1860年8月、香港総督のH・ロビンソンは本国の植民地大臣のニューキャッスル公に、香港でもイギリス本国の切手を使用したいと申し出ます。しかし、ロンドン中央郵便局は、植民地政府は自前の郵政を持っているではないかと指摘して、香港独自の切手を発行するよう指示。そこで、このため、ロビンソンは1861年3月に本国植民地省に対して、自らの考えたデザインの雛形とともに、香港独自の切手の製造を委託しています。

 香港総督から新たに発行する切手のデザインの雛形を受け取った本国では、植民地省、大蔵省、中央郵便局、王室関係者などが約1年間かけてこれを検討し、最終的にトーマス・デ・ラ・ルー社に切手製造の実務を発注。デ・ラ・ルー社は、1862年9月10日に最初の香港切手(2セント、8セント、12セント、18セント、24セント、48セント、96セントの7種)を製造し、香港に発送しました。そして、切手は、同年11月に香港に到着し、12月8日から発行されることになったというわけです。

 ちなみに、当時の香港では英本国に倣い12進法の通貨が流通していましたので、今回ご紹介の12セントはキリのいい額面だったこともあり、7額面中最多の1345シートが印刷されています。また、12セントという額面は、4分の1オンス以下のサウザンプトン経由英国宛の郵便料金に対応したものでした。

 なお、香港で最初の切手が発行された当時の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 “香港返還”15年
2012-07-01 Sun 15:49
 1997年7月1日の“香港返還”から、きょうでちょうど15年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       香港大学多数貼りカバー

 これは、1941年2月26日に発行された英領香港100年の記念切手のうち、香港大学本部大楼を描く5セント切手15枚ブロックが貼られたカバーです。15周年にちなみ、景気よく15枚貼りのカバーを持ってきました。

 20世紀初頭、人口の急増に対応してインフラの再構築が進められていた香港では、ハード面での対応と並行して、行政機構を拡充すべく、エリートの人材育成に乗り出す必要にも迫られていました。

 このため、1908年、香港総督のフレデリック・ルガードは、聖士提反書院(セント・ステファン・カレッジ)の卒業式で新大学設置の意向を表明。これを受けて、1910年3月16日、香港島の西部、西營盤エリアの丘陵地の16ヘクタールの敷地に香港初の総合大学である香港大学の建設が開始されました。翌1911年には、大学の運営の基本方針として「香港大学堂憲章」が公布され、香港大学は香港政庁に隷属するものでなく、イギリス政府に直接帰属すること、校長は総督が任命すること、実際の職務は副校長が担当し、理事会によって意思決定がなされること、などが定められています。

 ただし、イギリス政府による財政支援は年間300ポンドのみで、建築費用等は各界の寄付によって賄うものとされました。このため、インド系の大商人でルガード総督とは家族ぐるみの付き合いがあったホルムスジー・ノウロジー・モディは15万香港ドルもの大金を気前よく払っています。この功績により、モディは大学起工式の後、イギリス本国のナイトに叙せられたほか、九龍市街地の通には麼地道(モディ・ロード)との名前がつけられ、麼地廣場(モディ・スクエア)もつくられました。

 なお、香港大学本部大楼をはじめ、20世紀初頭の香港で続々と建てられたエドワード・スタイルの建造物については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。
 
 ★★★ 内藤陽介・韓国進出! ★★★

   『韓国現代史』の韓国語訳、出ました
    
       韓国語版・韓国現代史
     우표로 그려낸 한국현대사
    (切手で描き出した韓国現代史)

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    米国と20世紀を問い直す意欲作

   切手、歴史を送る
       우표,역사를 부치다
       (切手、歴史を送る)

      延恩文庫より好評発売中!

 *どちらも書名をクリックすると出版元の特設ページに飛びます。なお、『우표,역사를 부치다(切手、歴史を送る)』につきましては、7月以降(現物を入手次第)、このブログでも刊行のご挨拶を申し上げる予定です。


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 香港から震災後初の団体客
2011-05-17 Tue 16:23
 きのう(16日)午後、首都圏の空港を利用した海外からの団体旅行客としては東日本大震災後初めて、香港のツアー客が成田に到着しました。これを契機に海外からの観光客が回復し、7-8月に横浜で開催予定の国際展には、海外からも多くのお客さんが参加してほしいものです。というわけで、きょうは香港から日本宛てのカバーの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        省港スト・カバー

 これは、1926年1月18日、香港・西半山の西摩道から東京宛に差し出された書留便です。それだけなら、だからどうしたという話なのですが、このカバーが差し出された時期、香港ではいわゆる“省港スト”の最中であったというのがミソです。

 1925年5月14日、上海の日系企業・内外綿で、従業員の解雇問題をめぐる騒動から発砲事件が起こり、1人が死亡。さらに同月28日、青島で、日本の要請で出動した軍閥系の兵士が数名を射殺する事件が発生しました。

 このため、5月30日、上海でこれらの事件に抗議する学生デモが発生しましたが、租界の警察はデモ隊に対して一斉射撃を行い、死者13名、負傷者数十名、逮捕者53名が出ました。いわゆる五・三〇事件です。

 ときあたかも、翌5月31日には中国の全国的な労働組織である中華全国総工会の地域組織として上海総工会が成立。総工会の呼びかけに呼応して、上海全市はゼネストに突入し、労働側は列強諸国や北京政府に対して17ヵ条の要求を突きつけました。

 その後、事件は南京、北京、天津などへと飛び火しましたが、中でも凄まじいまでの勢いを示したのが、広州と香港の省港ストでした。ちなみに、省港の省とは広東省ないしはその省都である広州、港は香港の意味です。

 1925年6月19日、香港の労働者十数万人は、共産党の劉少奇、蘇兆徴、李立三らの指導の下、大規模なストライキに突入。上海での17ヵ条に加え、香港政庁に対して、政治的自由、法律上の平等、普通選挙の実施、労働立法、家賃引き下げ、居住の自由の六項目をつきつけ、さらには不平等条約撤廃の運動も展開しました。

 これに対して、香港政庁は戒厳令を実施。このため、労働者は国共合作の拠点であった広州に走り、6月23日には、国民党も党大会を開いて胡漢民、汪兆銘、廖仲らが反英を訴えます。しかし、集会後、デモ隊が広州の外国人居留地、沙面の対岸、沙基に差し掛かったとき、イギリスとフランスの両軍が群集に向かって機関銃を連射。このため、多数の死者が発生しました。いわゆる沙基惨案です。

 このニュースは瞬く間に中国全土に伝わり、広東政府は香港に対する経済封鎖とイギリスに対する経済断交を宣言。香港の労働者は次々と広州に引き上げ、6月28日までにほとんどの業種で香港と広州の労働者はストライキに突入しました。

 広東政府による香港の封鎖は厳重で、労働者側は糾察隊をつくってスト破りを防いだほか、イギリス商品のボイコットも徹底して行われたといわれています。
 
 その後、ストライキは翌1926年10月まで1年4ヵ月にわたって続き、香港経済は壊滅的な打撃を受けました。また、清掃業者のストライキにより、ゴミや屎尿の回収も行われなかったため、街中は悪臭が満ち溢れ、香港は臭港になったとまで呼ばれました。文革中、香港のことを、帝国主義の腐臭漂う都市として“臭港”と呼ぶ者がありましたが、そのルーツは、案外、こんな所にあったのかもしれません。

 ちなみに、省港ストについて書かれた文献では、たいてい、「香港はゼネスト状態になり…」といった類の記述があるのですが、郵便に関しては、今回ご紹介のカバーを見ると、なんとか“ゼネスト”の対象外として機能していたようですな。

 その後、1926年7月、蒋介石が孫文の遺志を継いで北伐を開始すると、国民政府はこれに力を注ぐようになって、ストライキを顧みる余裕を失います。このため、後ろ盾を失った罷工委員会は、10月10日、民衆大会を開いて、イギリスに対して一方的にストライキの終息を宣言。その後も、香港海員工会によるストライキが散発的に続けられていましたが、最終的に、香港政庁と罷工委員会によって、ストライキ期間中の16ヵ月間に対して、労働者には10ヵ月分相当の賃金が支払われることで省港ストは最終的に決着しました。

 なお、省港スト前後の香港の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 英王・愛華七世
2010-05-06 Thu 09:53
 1910年5月6日にイギリスのエドワード7世(漢字で書くと愛華七世)が亡くなってから、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      香港・エドワード7世

 これは、1903年1月に香港で発行された1セント切手で、国王エドワード7世の肖像が取り上げられています。

 19世紀の大英帝国を象徴する存在であったヴィクトリア女王は、20世紀が幕を開けて間もなくの1901年1月22日に崩御し、イギリス王室で最も長きにわたって皇太子であり続けたエドワード7世がようやく国王の座に就きます。

 新国王の即位後も、香港ではしばらくの間、女王の肖像を描いた切手が使われていましたが、今回ご紹介の切手を皮切りに、新国王エドワード7世の肖像を取り上げた切手が登場します。新国王の切手は、大英帝国の威光を誇示するかのように、少なからぬ額面で肖像部分と周囲の枠の色を変えた二色刷という豪華なものでした。

 エドワード7世は1910年5月6日に亡くなり、息子のジョージ5世が後を継いだため、エドワード朝と呼ばれた彼の治世はわずか一〇年で幕を閉じることになります。しかし、先代のヴィクトリア朝の時代が、大英帝国の栄華と引き換えに、生真面目かつ抑圧的で“切り裂きジャック”などのネガティヴなイメージも強いのに比べると、20世紀初頭のエドワード朝の時代の空気は、はるかに明るいイメージがあるとされています。ちょうど、日本でも明治の後の大正という感じでしょうか。

 香港に関していうと、エドワード朝の時代は、コロニアルな雰囲気の優美な建造物が多数建てられた時代として知られています。

 たとえば、絵葉書などにも取り上げられることの多い旧香港中央郵便局の庁舎や、旧灣仔郵便局の局舎香港大学本館のほか、1996年に発行された“香港市區傳統建築物”の切手にも取り上げられた上環街市(ウェスタン・マーケット)や舊醫理學院などは、いずれも、香港におけるエドワード様式の代表的建造物です。

 2007年に刊行の拙著『香港歴史漫郵記』では、そうしたエドワード朝の歴史的建造物をめぐる歴史散歩についても記していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 ★★★ 内藤陽介の最新刊 ★★★

  総項目数552 総ページ数2256  
  戦後記念切手の“読む事典”(全7巻) ついに完結!

      昭和終焉の時代  『昭和終焉の時代』 日本郵趣出版 2700円(税込)

 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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 飛行艇さながら
2009-01-17 Sat 12:34
 きのう(アメリカ時間15日)、ニューヨークのラガーディア空港を離陸した飛行機のエンジンが鳥を吸い込み、出力が急低下したため、ハドソン川に不時着水し、乗客が全員無事に助かったという出来事がありました。というわけで、飛行機の着水にちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 香港=サンフランシスコFFC

 これは、1937年4月29日、香港からサンフランシスコ宛に差し出された初飛行カバーで、カバー左下には、パンアメリカン航空(パンナム)の飛行艇チャイナクリッパーのカシェが押されています。

 パンナムのチャイナクリッパーは、1935年11月22日、太平洋横断定期第一便として就航しました。当初は、サンフランシスコを出発した後、ホノルル、ミッドウェー、ウェーク、グアムを経由して4泊5日の日程でマニラに到着するというスケジュールで、マニラから香港へと航路が延長されたのは1937年のことでした。今回ご紹介のカバーは、その香港から戻ってくる最初の便に搭載されていたモノで、裏側には5月4日のサンフランシスコの着印が押されています。

 飛行艇は、海面や湖面などの水面を利用して発着できるため、滑走路などの大規模な飛行場設備が不要であることに加え、長距離飛行中の機体にトラブルがあった場合にはとりあえず着水して対処することが可能です。このため、長距離飛行の技術が十分に発達していなかった第二次大戦以前の時代には、大洋横断航路などで盛んに用いられていました。

 ちなみに、英領時代の1984年に香港で発行された「香港航空事業」と題する切手には着水時のチャイナクリッパーの姿が取り上げられているので、参考までに画像を張り付けておきます。

 チャイナクリッパー(着水時)

 ちなみに、飛行艇としてのチャイナクリッパーは、このほかにも、英領香港100年の記念切手にも取り上げられていますが、こちらは、本来の“チャイナクリッパー”である快速帆船と並んで取り上げられているため、切手上の説明文は“チャイナクリッパーと飛行艇”となっています。

 なお、1930年代の古き良き香港については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。


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 香港上海銀行
2008-03-05 Wed 11:05
 かねてご案内のとおり、今日(5日)は夕方18:30から開催の日本香港協会の春節パーティーで、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。というわけで、会場となる香港上海銀行(HSBC)に敬意を評して、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 香港上海銀行・穿孔(裏側)

 これは、ヴィクトリア女王時代の香港切手で、香港上海銀行を意味する“H&S BC”の穿孔が施されています。上の画像は穿孔を見やすくするため、裏側から穿孔されたものをお見せしていますが、これとは別に表面から穿孔を施された切手のイメージはこんな感じになります。

 香港上海銀行・穿孔

 切手を大量に使用する企業などが、社用の切手の盗難や従業員による私的流用を防ぐため、切手に会社の頭文字や屋号などの文字を入れる例は、戦前では、洋の東西を問わず良く見られた現象である。香港では、1878年に社用の切手にそうした表示を行うことが公認され(それ以前にも、実際には一部で行われていたが)、1890年ごろから広く行われるようになりました。当初、社名などの表示はスタンプを押す方式が採られていましたが、消印類との混同を避けるため、後に印を押すことは禁じられ、今回ご紹介の切手のように穿孔を施すことがルールとなりました。

 現在、アジア有数の国際金融都市となっている香港で最初の銀行ができたのは、香港島が英領となって間もない1840年代のことですが、当時の銀行はロンドンやインドに拠点を置く“アングロ・インディアン銀行”でした。このため、彼らの取引はイギリス本国やインドとの決済が優先されており、中国や香港での取引には制約も多く、香港在住のイギリス商人たちは不満を持っていました。

 さらに、1864年初め、インドにおける金融の中心地であったボンベイの金融業者たちがイギリス本国の勅許を得て、彼ら独自のバンク・オブ・チャイナを創立する計画が浮上します。この計画が実現されてしまうと、香港の経済・金融はますます、イギリス本国やインドに従属することになってしまうため、このことに危機感を抱いたP&O汽船の香港支配人、トーマス・サザーランドは、他地域の利害に左右されない効率的な銀行を香港でも創設することを提案。彼が書き上げたスコットランドの銀行業に関する文献を参考に設立趣意書草案は、香港のイギリス商人たちの圧倒的な支持を得て、数日のうちに香港上海銀行設立準備委員会が結成されました。

 設立準備委員会は、1864年7月、設立趣意書を発表。資本金は500万香港ドルで、1株が250香港ドルの株が2万株、募集されました。こうして、1865年3月3日、地元金融機関の連合体ともいうべきHSBCが香港で営業を開始する。さらに、翌4月3日には上海支店でも営業が始まりました。初代頭取はパリ割引銀行香港支店長だったビクター・クレッサーが任命です。

 同行の創業間もない1866年、アメリカの南北戦争で綿花栽培が打撃を受けたことに加え、ヨーロッパでの普墺戦争などによって、イギリスの大手信用機関、オーバーレンド・ガーニー・カンパニーが破産すると、ロンドンの金融不安から世界的な恐慌が発生。その結果、多くの金融機関が破綻し、香港でもジャーディン・マセソン商会とならぶ繁栄を誇ったデント商会が倒産に追い込まれました。しかし、HSBCは取締役会メンバー企業の支援もあって危機を乗り切ったばかりか、破綻した金融機関を吸収して成長を続け、この年、日本にも支店を開設しています。

 1870年代に入るとHSBCの経営は次第に安定し、1876年、トーマス・ジャクソン(1871~74年のHSBC横浜支店長)が総支配人に就任すると、彼の在任中にHSBCは急成長を遂げ、極東随一の大銀行としてゆるぎない地位を確立しました。

 HSBC本店の所在地は、創業以来、現在にいたるまで皇后大道中の一番地ですが、社屋は何度か建て直されており、現在の本社ビルは、1985年に完成した4代目のものです。

 なお、拙著『香港歴史漫郵記』では、19世紀以来、アジアの金融都市・香港の顔であり続けた香港上海銀行とその社屋の歴史についてもいろいろとご説明していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 香港からのエアメール
2007-12-07 Fri 09:42
 今日(12月7日)は、国際民間航空デー 。1944年12月7日に国際民間航空条約(通称シカゴ条約)が結ばれ、国際民間航空機関(ICAO,International Civil Aviation Organization)が組織されたのを記念して、1992年のICAO総会で決められ、1994年から記念行事などが行われているそうです。というわけで、今日はエアメール・ネタということで、こんなモノを持ってきました。

香港発ロンドン宛FFC

 これは、1936年3月26日、香港からペナン経由でロンドンまで全線航空便で送られたエアメールの第1便(FFC)で、封筒にはそのことを示す“FIRST THROUGH FLIGHT”の表示の入った角型の印が押されています。ロンドンの世界的な切手商スタンレー・ギボンズ社宛のもので、販売目的の記念品として作成されたモノですから、封筒の余白には当時の香港島のウォーター・フロントの写真が刷り込まれており、イギリス人のコレクターに対して、極東の植民地からはるばる運ばれてきたエアメールというイメージを与える工夫もなされています。

 香港にやってきた最初の航空郵便は、1928年、コロンボからマニラを経て香港までイギリス空軍が運んだものといわれていますが、一般人も利用できるものとしては、同年11月、ロンドンとマニラを結ぶイギリスの極東飛行の延長線として、マニラから香港まで郵便物が運ばれたのが最初です。

 こうして、香港にもエアメールがやってくるようになりましたが、最初のうちは、定期便はなく、単発のフライトに郵便物が搭載されて香港と世界各地を往来するという状況が続いていました。当時は、飛行機の航続距離が長くはなかったので、アジアとヨーロッパを結ぶ便になると、途中で何ヶ所かを経由するのが一般的でした。

 イギリス本国と植民地・香港とを結ぶ航空路線を開発した航空会社はインペリアル・エアウェイズですが、同社は1924年3月31日に設立され、翌4月1日にロンドン=パリ線の運航を開始。これを皮切りに、ロンドン南郊のクロイドン空港を拠点に、当初はヨーロッパ各地への路線を拡大していました。アジア・アフリカ地域での営業については、1925年9月末までに行われたカイロ=カラチ間の航路の調査の結果を踏まえて、まず、1927年1月にカイロ=バスラ(イラク)線が開通。この路線を延伸するかたちで、1929年3月30日までに、ロンドン=カラチ線が開通します。

 その後、1931年になると、ロンドン=オーストラリア間のエアメールの取り扱いが試験的に始まります。このときのエアメールは、オランダ領東インド(現インドネシア)まで運ばれた後、小型の飛行機に積み替えてオーストラリアまで運ぶというもので、ロンドン=シドニー間の所要日数はおおむね26日間でした。

 ロンドン=オーストラリアのエアメールが成功すると、1933年末にはロンドン=シンガポール線でのエアメールの取り扱いが始まり、1934年末にはシンガポール=ブリスベン(オーストラリア)線でのエアメールの取り扱いも開始されます。これに伴い、香港からは、シンガポールまでは船便、シンガポール以遠はエアメールという郵便物を差し出すことができるようになりました。

 そして、1936年3月14日、オーストラリア=ペナン(現マレーシア)線の支線としてペナン=香港線が開通。これにより、それまでシンガポールまでは海路で運ばれていた香港からロンドン宛のエアメールは、ペナン経由でロンドンまで全線、航空便で送ることが可能となりました。また、これと時を同じくして、ペナン以遠、アフリカ方面への航空便も全線開通となり、香港もようやく本格的なエアメール時代に突入していきます。

 今年7月に刊行した拙著『香港歴史漫郵記』では、当初、香港のエアメールに関する1章を設ける予定だったのですが、紙幅の関係から該当部分は割愛せざるを得なくなりました。今回は、年末の在庫整理といった感じで、そのお蔵入りになった原稿の一部を掲載してみたという次第です。

 それにしても、昨日のニュースによると、年末年始(12月21日~1月7日)に成田空港から出入国する旅客が、前年同期を0.7%上回り、過去最高の約140万人になる見込みだとか。このブログの読者の方々の中にも、年末年始は海外でという方も多いと思いますが、香港へお出かけの方は『香港歴史漫郵記』を、タイへお出かけの方は『タイ三都周郵記』を、ぜひとも、旅のお供に連れて行ってくださると幸いです。
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