内藤陽介 Yosuke NAITO
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 大正天皇の絵葉書
2005-08-31 Wed 11:03
 大正天皇の誕生日は1879年8月31日ですが、大正時代の“天長節”の公式祝賀行事は、10月31日の“天長節祝日”に行われていました。これは、祝賀行事を行うなら、残暑の厳しい時期を避けて気候の良い時期にしたほうが良いという大正天皇の意思によるものです。人間の誕生は、時期を人為的にコントロールするのは難しいので、どのような日が誕生日になっても、そのことじたいはやむを得ないのですが、大正時代の“天長節祝日”の例を見ていると、国民生活に多大な影響を及ぼす天皇誕生日に関しては、祝日の設定はフレキシブルに対応しても良いのではないかと、ついつい、考えたくなります。今上陛下に対する敬愛の念とは別の次元で、「年末の12月23日が祝日となっているのはかなわんなぁ」というのが、おそらく多くの国民の本音ではないでしょうか。

 さて、大正天皇に関係する切手は皇太子時代のご成婚・即位の大礼・銀婚式の3回発行されています。このうち、大礼と銀婚式に際しては、当時の逓信省は官製の記念絵葉書を発行しているのですが、銀婚式の絵葉書には、天皇ご夫妻の肖像がしっかりと取り上げられています。(画像は、その絵葉書に記念切手を貼って記念スタンプを押したもの)

大正天皇

 「切手は消印が押されるものだから、天皇の肖像を取り上げるのは不敬だ」というロジックは、天皇の肖像を切手に取り上げることに反対する勢力が常々持ち出す論法です。イギリスでエリザベス女王の肖像が切手になっていることを批判するイギリス人がほとんどいないということを考えれば、こうした論法がいかに馬鹿げているか、よく分かります。少なくとも、皇室に対して自然な親愛ないしは敬愛の情を持っている大半の国民は、皇室の慶事があれば、陛下なり皇太子殿下なりの肖像の入った切手が発行されたほうが良いと思っているのではないでしょうか。

 今回ご紹介しているのは、切手ではなく絵葉書ですが、考えてみれば、絵葉書だって、本来は郵便に使われ、配達の途中で汚損するわけですし、当時はこのように切手を貼って記念スタンプを押すということが広く行われていました。したがって、こうした絵葉書が発行されたということは、戦前期の日本でも、その延長線上に天皇の肖像を取り上げた切手が発行されたかもしれません。少なくとも、大正期のおおらかな時代思潮が続いていたなら、そして、日本が無謀な戦争に突入せず、敗戦もなかったら、昭和天皇の銀婚式の切手あたりで、天皇の肖像切手が発行された可能性は少なからずあったと思います。

 それが潰えてしまったのは、ひとえに、昭和10年前後からのヒステリックな天皇崇拝が世に蔓延してからのことで、現在なお、その頃の皇室イメージが少なからず残っており、それ以前のもっとおおらかだった時代のことが忘れられているのは残念な気がします。
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 連合軍郵便
2005-08-30 Tue 11:02
 マッカーサーがコーンパイプをくわえて厚木の飛行場に降り立ったのは、いまから丁度60年前の8月30日のことでした。これを機に、日本は本格的な占領時代に突入することになります。

 さて、占領中、いわゆる進駐軍は日本の実質的な支配者として君臨していましたが、そのことを象徴的に示している郵便物が下の画像です。

連合軍郵便

 この郵便物はGHQから差し出された公用便で、いわゆる“連合軍郵便”と呼ばれているものです。料金は無料で、速達などの表示はありませんが、実質的に他の郵便物よりも優先して配達されたといわれています。少なくとも、当時の日本人が連合軍の名前に対して無言の圧力を感じ、特段の配慮をしていたことは(それが確たる記録に残っているものではないとしても)間違いないでしょう。ちなみに、封筒の左側には「聯合軍郵便」の朱印が押され、「五日以内ニ配達不能ノ場合ニハ返送セラレ度」との記述が見えます。

 GHQの民間検閲局で宛先は茨城県の出版社。中には、雑誌の刊行に際しては本文が検閲を通過するまで広告を入れてはならない旨の注意書きが入っていました。

 1945年9月、GHQは「新聞記事その他報道取締に関する件」と「プレス・コード(新聞規約)」を相次いで発表。以後、1945年10月から1948年7月まで、新聞・雑誌は占領軍によって事前検閲を受けることとなりました。このカバーも、そうした検閲に際しての実務的な指示を送ったものだったわけです。

 検閲というものの最大の効果は、ある種の言説を力ずくで押さえ込むことにあるのではなく、検閲が行われているという事実を国民に広く知らせることによって、検閲に引っかからないように“自主規制”しようというメンタリティを国民に植えつけることにあると僕は考えています。いいかえれば、いわゆる“自粛”を蔓延させることで、よりスムーズに支配を行うための環境整備の一環として検閲が行われるのだ、と言ってもいいかもしれません。

 まぁ、この辺に関しては書き出すと相当長くなってしまうので、今日のところは、この位で。
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 “チベット自治区”40年
2005-08-29 Mon 11:00
 “チベット自治区成立40周年を祝う業績展示会”なるものが、28日からチベットの中心地ラサのチベット博物館で始まったそうです。

 清朝の滅亡後、チベットは中国からの独立を宣言。中華民国政府はこれを認めませんでしたが、国内の混乱ゆえにチベットを制圧することができず、チベットは実質的に半独立国のような存在となっていました。1949年に成立した中華人民共和国は、「チベットは中国の一部分」とする中国歴代政権の主張を踏襲。1951年、人民解放軍を進駐させ、“平和解放”と称してチベットを武力で併呑しました。

 その後、中国政府はチベットでの社会主義化・中国化を強引に進めましたが、このため、在地のチベット人たちは反発。1959年には大規模な反中国暴動であるチベット動乱が起きましたが、中国側はこれを力ずくで弾圧し、ダライ・ラマはインドへ亡命を余儀なくされました。

 “チベット自治区”の創設は、こうして、中国側がチベットでの独立運動を完全に押さえ込み、一種の植民地支配を完成させた結果として、設立されたものです。これに対して、ダライ・ラマの“亡命政権”は、中国側の人権抑圧を非難し、チベットの“真の自治”を求めて活動を続けています。

 ところで、ダライ・ラマ側は、人民解放軍が進駐する前のチベットは中国から独立していたと主張し、そのことをもって中国に“真の自治”を求めているわけですが、彼らがチベットが中国から独立していたことを示す根拠の一つとしてあげているのが、チベットでは中国本土とは異なる独自の切手が発行・使用されていたという事実です。(↓)

1/3タムカ(ラサ)

 ライオンを描いたチベット独自の切手は1912年から発行が開始されました。土産紙の素朴なデザインがいい感じです。なお、今日ご紹介している画像に押されている消印は、チベットの中心地であるラサのものです。

 もっとも、独自の切手を発行したとは行っても、中国側がチベットの独立を承認しなかったこともあって、チベットは万国郵便連合には加盟できず、それゆえ、チベットの切手はチベット政府の支配が及んでいる地域でのみ有効とされ、外国郵便に使うことはできませんでした。その意味では、切手の発行をもってチベットが完全な独立国であったとするダライ・ラマ側の主張にもいささか無理があります。

 いずれにせよ、こうした中途半端な状況が、現在のチベット問題の混乱の一因となったことは否定できません。

 ただし、現在、多数のチベット人が、中国共産党が過去40年に及ぶ支配によってチベットの伝統的な社会構造を破壊し続けてきたこと、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられていること、そして、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対する中国政府の人権抑圧が日常的に行われていることなどは厳然たる事実なわけで、その点において、国際世論がダライ・ラマ政権に同情的なのは至極当然のことといってよいでしょう。
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 竹島切手:韓国での発売日に見たこと(下)
2005-08-28 Sun 10:58
 (昨日の続きです)

 (郵便局の行列に並んでいる人たちの)中には、愛国心に溢れた人もいたのかもしれないが、話題の切手だから買っておこうかと気楽な気持ちで出かけてきた人のほうが多いため、全体にまったりとしたムード。デザインが綺麗だったため、制服姿のOLもちらほらといた具合で緊張感はゼロだ。

 最初僕は「チョッパリ(韓国語で日本人に対する蔑称)何しに来やがった」ぐらいの罵声を浴びて、ぶん殴られるかもしれないと身構えていたが、韓国語のアナウンスが分からず英語で周囲にたずね、日本人とばれた後も、普通に切手を買えたし、誰からも何も言われなかった。

 結局、竹島切手は当日10時半ごろ売り切れた。

 日本の総務省は「竹島の切手を貼った郵便物は郵送しないことも検討する」と話していた。ソウルから友人あてに切手を貼って数通、送ってみた。全部無事、配達された。留守がちの家にわざわざ書留で、いやでも郵便局員の目に触れるように工夫してみたのだけれど・・・。

竹島切手カバー


 <補足>
 上の画像が実際に日本宛に送ってみた封筒の実例です。個人宛のものもつくったんですが、ここでは、切手関係の雑誌の編集部宛に送ったもののご紹介です。

 1954年に韓国が最初に竹島切手を発行したときも、日本の郵政省は、竹島切手を貼った郵便物は取扱を拒否するといっていましたが、現実には、膨大な郵便物の中から竹島切手を貼った郵便物だけを抜き出して竹島切手の分だけの料金無効の措置を取ることなどできるはずもなく、実際には、今回同様、竹島切手を貼って日本宛に送られた郵便物は無事に届いています。そのカバーが欲しくって、何年も探しているのですが、なかなかご縁がありません。お譲りいただける方、ご連絡いただけると幸いです。

 なお、明日(29日)の東京新聞夕刊の文化面に「切手というメディア」という題名の拙稿が掲載される予定です。よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

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 竹島切手:韓国での発売日に見たこと(上)
2005-08-27 Sat 10:57
 日韓外交文書が公開されて、日韓条約交渉の過程で、日本側の関係者が「竹島なんか爆破してしまえばよい」と発言していたことが明らかになったとのニュースが報じられました。この種の発言は韓国側の金鐘泌中央情報部長官(当時)も行っていますから(後に撤回)、案外、当時はそのように(本音では)考えている人が少なくなかったのかもしれません。

 去年の竹島切手騒動のとき、僕は問題の切手を郵便局で並んで買うためにソウルに行きましたが、今年の3月、そのときのことを書いたエッセイを『朝日新聞』(チョンイル新聞ではなく、アサヒ新聞です。念のため)に寄稿しました。久しぶりに竹島のことがニュースに出てきましたので、今日・明日の2回に分けて、転載してみます。肩のこらない読み物としてご覧ください。


************

 島根県議会が「竹島の日」条例を可決するなど、最近、竹島問題が話題となっている。昨年1月、韓国が“独島(竹島の韓国名)の自然”と題する切手を発行したこともきっかけになっているのだろう。

 実は竹島切手が発行された日、切手を買うためだけに僕はソウルにいた。市内の郵便局で行列に並んだときのことを書いてみよう。

 午前9時、横断幕を掲げ演説する韓服姿の男性がいた。横断幕には“独島”は韓国領であると大書されており、小泉首相の“妄言”を非難するため、口の部分にXしるしをつけた首相の写真もついている。(写真)

活貧団

 もっとも、彼はマスコミのカメラが向いていると熱弁を振るうのだが、カメラが別の方向を向くと途中でも演説を中断。また、カメラが近づくと演説を再開するといった具合で、マスコミ向けパフォーマンスの色彩が濃いように見えた。心なしか、行列の人たちも「またやってるな」といった感じで冷ややかな視線を向けていたようだ。(つづく)


 <補足>
 僕が並んだのは、ソウルの中央郵便局ではなく、2番目に大きい光化門郵便局でした。写真の男性は、韓国の民族主義団体“活貧団”のメンバーで、竹島切手を貼った書簡を小泉首相宛に送るというパフォーマンスも行っています。なにかというと、マスコミのカメラがあるところに出てくる“お騒がせ団体”のひとつとして、その筋では知られた存在とのことでした。なお、朝日新聞に掲載された元のコラムには写真はついていません。

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 たたかう切手たち
2005-08-26 Fri 10:52
 筑摩書房のWebサイトWebちくま で「たたかう切手たち」という不定期連載をしています。

 連載は、古今東西の戦争や紛争などをシャッフルして、国と国との対立が激しくなって戦争が起こり、最終的に戦争が終わるまでの一般的な流れを、切手や郵便物を使ってみてみようというもの。登場させる時代や地域にできるだけバラエティを持たせて、より一般的な“戦争”の姿を考えてみようというアプローチになっています。

 先日、第7回目として「銃後だって戦争だ!」と題する原稿をアップしましたが、実は、9月から筑摩書房のウェブサイトが大幅にリニューアルすることになり、僕の連載も強制終了となりました。そこで、あと1回残っていた連載の原稿を急遽しあげて、火曜日頃にはアップできるよう、編集部の方に作業をしてもらっています。

 最後のお題は「そして、たたかいは終わった」。さまざまな角度から、終戦のかたちを読み解いていく内容としたつもりです。その中には、たとえば、こんな切手も含まれています。

中国の戦勝

 この切手は、いまから10年前、中国が「抗日戦争勝利50年」を記念して発行したセットの1枚です。中国の勝利を祝うという趣旨で発行された切手ですが、勝利を喜ぶ中国人民が描かれているわけではなく、米兵たちの好奇の目にさらされる敗戦国日本の代表団の姿が取り上げられています。

 江沢民政権下の中国は、1995年の抗日戦争終結50年を機に大々的な“愛国教育”キャンペーンを開始します。その“成果”が、最近、少なからぬ中国の若者の間で蔓延する、行き過ぎた反日の空気であることは、皆さんも良くご存じの通りです。この切手は、そうした“愛国教育”のスタートを飾る時期に、日本が負けたということを改めて強調する意図を持って発行されたものと見てよいでしょう。

 「たたかう切手たち」の最終回は、この切手以外にも、一つの戦争の終結がどのような形でメディアとしての切手や郵便物に記録されているのか、イスラエル、フィリピン、フランス、韓国、そして日本などの例をご紹介しながら文章を構成しました。

 上記のような理由で、ネット上での掲載期間はごく短期間に終わってしまうことになりそうです(最悪、間に合わないということもあるかもしれません)が、機会があれば、ご覧いただけると幸いです。
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 ウルグアイの内親王殿下
2005-08-25 Thu 10:52
 今日はウルグアイの独立記念日だそうです。で、ウルグアイの切手といえば、紀宮内親王殿下の肖像を取り上げた2001年の1枚を外すわけにはいかないでしょう。

ウルグアイの紀宮

 この切手は、2001年9月、日本とウルグアイの国交80年を記念して発行されたものです。

 この年、ウルグアイでは日本との国交80年を記念して首都のモンテビデオに日本庭園を造り、9月24日の開園記念式典に殿下をお呼びする予定となっていました。切手に殿下のお顔が大きく取り上げられているのはこのためです。

 ところが、9月11日に米国での同時テロが発生し、アメリカ大陸という“危険地帯”への殿下のご訪問は延期されてしまいました。結局、用意された記念切手はそのまま発行されたものの、24日の式典当日は殿下のメッセージを現地の日本大使が代読しています。

 その後、2003年11月になって、殿下のウルグアイご訪問は実現されましたが、このときは殿下の肖像切手は発行されていません。

 さて、今年の秋に刊行を予定している皇室切手についての本(現在、初校が出た段階です)では、当初、この1枚を最後に取り上げる予定でしたが、最近、ホンジュラスが発行した日本との国交樹立70年の記念切手にも殿下の肖像が取り上げられたとのことで、現物の手配が間に合うようであれば、そちらも掲載したいと考えています。
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 台湾民主国
2005-08-24 Wed 10:49
 台北で行われていたアジア国際切手展も今日が最終日。せっかく、会期初日の日記 で台湾のカバー(封筒)をご紹介したのですから、最終日の今日も台湾がらみのものをご紹介しようかと思います。

 1895年、清朝が日清戦争で負けて、台湾を割譲することが決まると、台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部は清朝の判断に反発して“台湾民主国”を作り、これに抵抗しようとします。しかし、台北に進軍した日本軍が現地を制圧すると、組織としての台湾民主国はあっけなく崩壊してしまいます。

 さて、その台湾民主国は、自分たちの存在を諸外国にアピールするため、1895年8月、下の画像のような切手を発行しています。

台湾民主国

 切手は民主国の黒旗軍の象徴であるトラを薄い手漉きの紙に手押しで印刷したもので、30銭(緑)・50銭(朱)・100銭(紫)の3種類があります。

 民主国そのものの寿命が短かったことから、実際に現地の住民が郵便に使った例は非常に少なく、現存するカバー(封筒)の大半は、コレクターを意識して作られた記念カバーです。ご紹介しているのも、そうした記念カバーの一部分です。押されている消印は1895年9月12日の台南のもの。ちなみに、民主国の壊滅は同年10月のことでした。

 その後、日本領となった台湾では日本切手が使われるようになりますが、しばらくは現地住民の反乱がしばしば発生しています。そうした反乱を鎮圧する際に、日本側は緊急時の通信を確保する目的で料金無料の“非常郵便”の制度を行います。そのカバーは、機会があれば手に入れたいと思っているのですが、なかなかご縁がありません。
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 ガザ
2005-08-23 Tue 10:47
 イスラエルが22日、ガザ地区中部のユダヤ人入植地ネツァリムの入植者を退去させ、ガザからのすべての入植者の撤退を完了しました。軍の施設などがまだ残っているため、完全撤退は9月末頃になるとのことですが、実質的にはイスラエルのガザ撤退は完了したと見て構わないでしょう。

 ガザ地区がイスラエルの占領下に置かれたのは、1967年6月の第3次中東戦争の時のことでしたから、占領の期間は実に38年に及んだことになります。ちなみに、僕は1967年の生まれですから、オギャーと生まれた赤ん坊がお腹周りを気にする中年男になるまでの時間の長さというものを改めて実感させられます。

 そんなわけで、今日は、イスラエルの占領直後のガザのマテリアルをご紹介してみましょう。

ガザ捕虜郵便

 このレターシートは、1967年6月(裏面に日付の記載がある)の第3次中東戦争に際して、イスラエルの捕虜になったアラブ兵がガザから差し出したものです。捕虜の通信は無料で取り扱うことが国際的に決められているため、切手は貼られていません。赤十字のマークや、ダビデの星の入ったイスラエル側の検閲印などが当時の状況を生々しく伝えています。宛先はイスラエル国内の郵便局の私書箱となっていますから、おそらく、戦前はエジプトなりヨルダンなりの領土だったものの、戦争の結果、イスラエル側に占領された地域だろうと考えられます。

 ガザの郵便は、オスマン帝国時代→イギリス委任統治時代→エジプト時代→イスラエル時代→パレスチナ自治政府時代、といった具合に、この100年でさまざまに変化していますので、郵便史コレクションをつくってみると面白いのではないかと常々思っています。そんなわけで、ガザ関係のカバー(封筒)は、気の利いたものがオークションに出るとポツポツ買ってはいるのですが、なかなかまとまったコレクションにはならないのが頭の痛いところです。

 そうはいっても、少しは面白そうなカバーも手許に溜まってきたので、いずれまた、このブログでも気まぐれにご紹介していくつもりです。
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 北方領土切手の発行
2005-08-22 Mon 10:45
 今日、ふるさと切手の北海道版として「最北の自然・北海道」が発行されました。(下の画像は報道資料によるものです)

北方領土

 日本郵政公社のHPでは、今回の切手発行を以下のように説明しています。

 「最北の自然・北海道」は、日本列島の最北の地である北海道の自然に息づく「ハマナス」、「ラッコ」、「チシマザクラ」、「エトピリカ」を題材としたふるさと切手です。北海道の地図を背景に最北の自然をデザインしました。
 ハマナスは、「純朴、野性的で力強い」「花の色が鮮明で、葉も美しい」など、北海道にふさわしい花という多くの意見により、昭和53年7月26日に北海道の花として指定されています。背景には択捉島に現存する旧逓信省紗那郵便局をデザインしています。
 ラッコは、主に北海道東部の太平洋沿岸に生息しています。子供を腹の上に乗せた親子などかわいい姿を見ることができます。一部には舟に近づいてくるかわいらしいラッコもいます。
 チシマザクラは、寒さの厳しい北国や高山などに咲く桜で主に北海道東部や北部で5月末頃から6月にかけてと、本州よりも遅い時期に薄紅色の花をつけます。ソメイヨシノとは違った北国ならではの美しさをもっています。
 エトピリカは、北海道東部に生息する潜水性の海鳥です。エトピリカと言う名前はアイヌ語で「美しいくちばし」という意味で、その名のとおり黒い身体に美しいオレンジ色のくちばしが特徴の海鳥です。

 択捉島の旧逓信省紗那郵便局以外は、“北方領土”とすぐに分かるような説明はありませんが、今回の切手は、北方領土返還運動を担当する内閣府が日本郵政公社に要請して発行の運びとなったもので、今年の日露修好通商条約150年(日本とロシアの千島での国境を画定した条約)を記念する意味合いも込められているようです。

 このような切手の発行というと、昨年、韓国で発行された竹島切手の事例を持ち出して、「切手の政治利用はいかがなものか」という意見が出ると思います。しかし、そもそも、国家というものは自分たちの政策なり主張なりをあらゆるチャンネルを通じてアピールするのが本来の姿なのですから、北方領土の返還を求めている日本の郵政が(公的機関である限り)北方領土が日本固有の領土であることを、切手というメディアを通じて内外に発信するのは当然のことであり、それを非難するのは完全な筋違いです。切手において表現されている主張そのものに反対するということなら、郵政公社に対する国民的な抗議活動をするなりして、発行中止を求めればよいだけのことです。日本は言論の自由が保証されている国なのですから、合法的な活動である限り、郵政の切手発行政策を正面から批判してもなんら問題はないはずです。

 これまで、日本の記念切手は、「国家的に重要な出来事を記念し、あわせてその周知・宣伝を図るために発行する」という建前とは裏腹に、国家ないしは政府として切手というメディアをどう活用するかという大局観も意思もないまま、各省庁から申請された題材を調整するだけという安直な姿勢で発行されてきました。これでは、切手や郵便のメディアとしての側面をむざむざ捨ててしまっているようなもので、非常にもったいない。

 その意味では、今回の北方領土切手は、デザインその他については改善の余地はあるものの、日本の切手としては珍しく、国家のメディアとしての機能を果たしうるものとして、僕は評価したいと思います。

 なお、国民運動や公共広告機構のようなかたちで切手をメディアとして活用するのであれば、たとえば、地球温暖化防止のためのチーム-6%だとか、覚醒剤乱用防止キャンペーンなど、誰もが納得できる題材はまだまだ沢山あるはずです。

 ポケモンやガンダムの切手をやめろとは良いませんが、もう少し、日本の郵政にはメディアとしての切手の役割を真面目に考えてほしいというのが僕の意見です。

 *今日の内容は、純粋に内藤一個人の意見で、僕の関係している組織・団体の見解とは全く関係ありません。
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 57年前の夏:帝銀事件
2005-08-21 Sun 10:42
 甲子園の高校野球は、駒大苫小牧高校が57年ぶりに夏の連覇を達成したとのことですが、いまから57年前の1948年の夏の話題は、帝銀事件一色でした。

 帝銀事件ホームページ (平沢貞通氏を救う会が管理している)には、「帝銀事件概要の概要」として、以下のように事件のことが説明されています。

 1948年1月26日午後3時過ぎ、一人の男が帝国銀行椎名町支店に現れ、近くで集団赤痢が発生したといって16人の行員を集め、予防薬と称する毒物を飲ませ、12人が死亡した事件。つづいて、他の銀行でも2件の未遂事件が発生。その際に犯人は「厚生省技官松井蔚」という名刺を残した。松井氏は実在の人物で、名刺を交換したものの捜査がすすめられた。捜査本部は、毒物に深い知識を持っていることに注目し、青酸毒物の人体実験をおこなっていた731部隊など旧陸軍関係者の捜査を進めたが、捜査は一転、毒物に知識も経験もないテンペラ画家の平沢貞通氏を逮捕した。平沢氏は公判で無実を訴えたが、一審、二審とも死刑判決が出され、1955年5月7日、死刑が確定した。平沢氏は再審を訴えつづけたが、1987年5月10日、獄死した。享年95歳。3回忌にあたる1989年5月10日、平沢氏の養子となった平沢武彦氏によって第19次再審請求が東京高裁に提出された。

 さて、平沢(このブログでは原則として一切の敬称を省略していますので、僕の記述では“氏”はつけません)は1948年8月21日(ちょうど57年前の今日です!)に逮捕されてから1987年5月10日に亡くなるまで、実に40年近く、獄中にいたわけですが、その間、膨大な量の書簡をやり取りしています。ここでは、そのうちの1通をご紹介します。

平沢の手紙

平沢カバー裏

平沢カバー

 この書簡は、1966年に仙台拘置所(死刑囚は拘置所に収監される)の平沢が支援者宛に差し出したもので、上の画像は、書簡の冒頭部分で彼の絵と和歌が書かれています。スキャナーの大きさの関係で省略しましたが、この後ろに、支援者宛に自分の無罪と裁判の不法を訴える内容の手紙が続いています。

 書簡の右下に押されている桜型の印は、拘置所の検閲印です。通信の秘密は憲法でも保障された基本的人権の一つですが、監獄(拘置所や刑務所などの総称として、ここでは便宜的に用いる)の在監者の通信に対する検閲は特殊な例外として法律でも認められています。この書簡は、まさにその一例です。

 大分前のことになりますが、通常の郵便法とは別に、さまざまな制約が定められており、また、特殊な取扱がなされている在監者発着の郵便に興味を持って調べてみたことがあります。その成果の一部は展覧会などで発表したこともありましたが、そのときの作品を見てくれた友人の1人が譲ってくれたのが、今日の画像の書簡です。

 その後、監獄と郵便のことについては何も発表する機会がなかったので、この書簡もずっと僕の手許で眠っていたのですが、たまたま“57年ぶり”のニュースが出てきたので、虫干しを兼ねてご紹介したという次第です。
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 サハリン棄民
2005-08-20 Sat 10:40
 終戦間際に日本に対して宣戦布告をしたソ連の非道を物語るエピソードとしては、満州での在留日本人に対する暴行・略奪やシベリア抑留などが広く知られていますが、南樺太での8月15日以降の戦闘のことも忘れてはならないでしょう。

 玉音放送から5日後の8月20日、ソ連軍は樺太南最北の不凍港・真岡への攻撃を開始。数隻の大型軍艦で町中に艦砲射撃を行った後、上陸したソ連兵は山へ逃がれる人々を背後から機関銃や自動小銃で虐殺。厚生省の資料によれば、およそ1000名の民間人が犠牲となりました。

 その後、ソ連軍は南樺太全域を占領。日本人の大半は日本へと引き揚げましたが、朝鮮半島出身者の多く(ほとんどが、炭鉱で働いていた)が帰国できないまま現地に留め置かれます。これは、当時の日本側がGHQとの話し合いの過程で、旧植民地である朝鮮半島出身者の南樺太からの引き揚げの問題を取り上げなかったことに加え、戦後復興の労働力として炭鉱労働者を活用したがっていたソ連側が、アメリカ占領下の南朝鮮(このときは、まだ大韓民国はできていない)の出身者が大半を占めていた南樺太在住の朝鮮人の帰国をできるだけ妨害しようとしていたことなどが、複雑に絡み合った結果でした。

 その後、東西冷戦が激しくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発する中で、南樺太在住の朝鮮人は、旧宗主国の日本からも、ソ連からも、そして祖国・韓国からも“忘れられた”存在として、出身地に帰国できない“サハリン棄民”として苦難の戦後史を歩むことになりました。

 今日、ご紹介したいのは、そんな“サハリン棄民”の差し出したカバー(封筒)です。

サハリン棄民

 このカバーは、1950年6月15日、旧本斗郡内幌町(現ゴルノザヴォーツク)在住の朝鮮人から韓国(カバー上の表記は“南朝鮮”)宛に差し出されたものです。差出人の住所は“炭山内”となっており、彼が日本統治下の南樺太で炭鉱労働者として働いていたことはほぼ間違いなさそうです。

 さて、このカバーは6月27日にはウラジオストックに到着していますが、その2日前の25日に朝鮮戦争が勃発していたため、韓国宛には配達ができなくなってしまい、7月1日に平壌に到着したところで留め置かれてしまいました。その後、朝鮮戦争の過程で平壌が国連軍に占領された際、その他の資料類とともに押収されたことで保存され、市場に出てきたものと思われます。

 いずれにせよ、1940年代後半の日本・ソ連・朝鮮半島の歴史の一断面が凝縮されたようなカバーとして、非常に興味深いものなのであることは間違いありません。
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 朱徳と毛沢東を殺せ!
2005-08-19 Fri 10:38
 今日(19日)から24日まで、台北でアジア国際切手展が開催されます。残念ながら、僕は現地へは行けず、東京に残ってひたすら溜まった仕事をこなさなくてはならないのですが、せめて、すこしは台湾気分を味わおうかなと思い、手許のストックを探していたら、こんなものを見つけました。

朱毛

 画像は、1952年(?消印がよく読めません)に台北から香港宛に差し出されたカバー(封筒)の裏面ですが、以下のようなスローガンがデカデカと印刷されています。

 救国家 国家を救え
 救同胞 同胞を救え
 抗俄寇 ロシア(ソ連)の侵略に抵抗せよ
 殺朱毛 朱徳と毛沢東を殺せ

 大陸を追われた国民政府が中共政権に対する敵意をあらわにする気持ちは良く分かりますが、さすがに、特定の個人を殺せというスローガンを、郵便局で売っている封筒(この封筒は、印面はついていませんが官製のものです)に堂々と印刷するのはいかがなものかとも思ってしまいます。まぁ、そこら辺が、日本人と中国人の感覚の違いないでしょうが…。

 ちなみに、貼られている切手には、満州族の王朝である清朝を打倒がして漢人の王朝を復活させるべく、台湾で活躍した鄭成功の肖像が描かれています。もちろん、この題材は、大陸反攻を呼号していた国民政府の意思に沿って切手に取り上げられたものであり、その意味でも、この封筒にぴったりの1枚と言ってよいでしょう。
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 第二次満州国?
2005-08-18 Thu 10:36
 1945年8月18日、既にソ連軍の侵攻によって事実上崩壊していた満州国は、溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、名実ともに地上から消滅しました。

 その後、中国東北部(旧満州)はソ連軍に占領されますが、1946年4月、蒋介石の国民政府に返還されます。しかし、旧満州国ないしは日本軍の武装解除と接収をめぐって、東北各地に“解放区”を設けて実効支配地域を拡大していた中国共産党(中共)と、国際的に認知されていた中国中央政府としての国民政府の対立が激化。農村部を拠点とする中共・八路軍のゲリラ戦が活発化し、中国は国共内戦の時代に突入していくことになります。

 さて、そうした状況の中で、1947年9月18日、東北部における解放区の郵政を管轄していた東北郵電管理総局は、下のような切手を発行しています。

満州事変16年

 この切手は、満州事変(柳条湖事件)の起こった9月18日にちなんで、“918(満州事変)”の16周年を記念して発行されたものですが、切手の両脇にかかれているスローガン「反對蒋美反動派・製造第二次満州國」がポイントです。

 中共側は、この切手を通じて「蒋介石とアメリカ(中国語では美国)の反動派が第二の満州国を作ることに反対する」と主張。アメリカの支援を受けた(というより、中共にいわせればアメリカの傀儡の)国民政府が東北を支配することは、日本の傀儡だった満州国の焼き直しに過ぎないとアピールしようとしたわけです。

 現実の政治的な状況を語るときに、歴史的事件を引き合いに出してくるという手法は、かの国にとって、1949年の建国以前から抜きがたく染み付いた習性なのではないか、と思わせるような1枚といってよいでしょう。
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 テロリスト図鑑:尹奉吉
2005-08-17 Wed 10:34
 韓国で独立運動の義士とされている尹奉吉は、1908年、忠清南道礼山に生まれました。1930年、上海に移った彼は、工場で働きながら、金九が組織していた独立運動「愛国団」に参加。1932年4月29日、日本人居留地の虹口公園で第一次上海事変の勝利と天長節の祝賀会が行われていた機会をとらえて爆弾テロを実行。上海派遣軍司令官の白川義則らが死亡したほか、上海駐在公使の重光葵、第3艦隊司令官の野村吉三郎らが重傷を負いました。

 犯行後、尹は現行犯逮捕され、1932年5月25日に上海で死刑判決を受けます。そして、同年末、金沢に移送されて処刑されています。


尹奉吉

 1945年の解放後、韓国では尹奉吉の行動は独立のための義挙として大いに顕彰されており、かの国の歴史教科書では特筆大書される偉人として記載されているほか、1992年には“義挙”の60周年をたたえるため、尹の肖像を取り上げた上のような切手も発行されています。

 どうせ発行するなら、50周年というキリのいいタイミングを狙って発行したほうが良いようにも思うのですが、あえて60周年という年回りが選ばれたのには何か理由があったものと思われます。ただ、この点については、現時点では調べきれていないところもありますので、何か分かったら、改めてご報告することにしたいと思います。
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 授業の一環として
2005-08-16 Tue 10:32
 8月10日の日記 にマッカーサー宛の葉書のことを書いたところ、ある方から、この種の葉書は組織的に差し出されたのではないか、というコメントを頂戴しました。

 マッカーサー宛の葉書については、愛知県を中心とする中部地方や東北・北海道などで、国民学校や女学校などで、(往々にして授業の一環として)組織的に旧日本兵の早期復員を求める葉書を出す運動が行われたという話を聞いたことがあります。ただ、具体的にどの地域の学校で、どういうスタイルでこうした運動が行われたかということは、僕自身は不勉強でよくわかりません。

 洋の東西を問わず、児童・生徒に対して、学校などが組織的にある種の嘆願書や政治的な主張の手紙などを書かせるという例は珍しくありません。たとえば、7月4日の日記 でご紹介したレオナード・ペルティエの釈放を求める封筒なども、その典型的な事例といえます。

 日本の場合では、下のような事例が良く知られています。

連盟宛葉書

連盟宛葉書ウラ

 この葉書は、1932年末、いわゆるリットン調査団の報告書(日本の満州における権益は認めたものの、満州事変と満州国の建国は日本の侵略の結果という評価を下していた)が出された後、国際連盟の事務総長宛に差し出されたもので、内容は、前年の満州事変いらいの日本の軍事行動の正当性を訴え、国際連盟が“正しい判断”をするよう求めた嘆願書です。

 当時、この手の葉書は、群馬県内の中学校や女学校などで、英語もしくは英習字の授業の一環として、生徒たちが書いて送りました。葉書の宛名や差出人の氏名欄の“GUMMA PREF., JAPAN”などの表示は印刷されており、当時、こうした葉書を書く運動が相当の規模で行われていたことをうかがわせます。

 さて、肝心の文面は3~4種類程度の雛形がありますが、いずれも、内容的には「日本が正しいことを分かってください」といった情緒的なものです。嘆願書なり陳情書なりを出して相手を説得しようというのなら、何故日本が満州を占領しなければならないのか、あるいは、満州国の建国は何故認められなければならないのか、といったことを説得力のある根拠を示しつつ具体的に述べないと効果はないと思うのですが…。

 結局、群馬県の少年・少女の願いもむなしく、リットン報告書は連盟の理事会で採択され、これを不服とする日本は1933年3月、連盟を脱退し、国際的な孤立の道を歩むことになったのは、広く知られている通りです。
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 “終戦の日”の葉書
2005-08-15 Mon 10:29
 今日は、なんといっても戦後60年の終戦記念日ですから、それにちなんで、“終戦の日”当日に差し出された1枚の葉書をご紹介しましょう。

終戦の日の葉書

終戦の日の葉書ウラ

 葉書は、当時、日本の植民地であった朝鮮の木浦から同じく朝鮮半島内の槐山宛に差し出されたものです。日本統治下の朝鮮では、日本本土と全く同じ切手・葉書が使われており、料金体系も同じです。したがって、この葉書も、当時、日本国内で使われていたものと基本的には同じものです。なお、画像では見にくいのですが、当時の葉書料金は5銭だったので、葉書の額面との差額分の2銭の料金を収納したことを示す赤い印が薄く押されています。

 差出人の姓は日本風に“山木”となっていますが、名宛人は差出人の父親であることが裏側の文面からも分かりますから、もともとは“朴”だったことは間違いありません。文面は日本語で書かれており、「御陰様にて毎日の軍務に精勵なる故御放念下さいませ」との記述も見られます。おそらく、この差出人は、葉書を書いた時点では、戦争はしばらく続くものと考えていたのでしょう。

 その後、朝鮮半島は米ソによって分割占領されますが、米軍占領下の南朝鮮(1948年の大韓民国成立以前は、この呼び名が正式名称です)では、しばらくの間、日本時代の切手がそのまま使われています。

 現在の我々の感覚では、どうしても8月15日=終戦の日というイメージが強くて、8月14日と8月16日とではまったく別の世界になったような錯覚を持ってしまいがちですが、実際の人々の生活というものは、そうそうデジタルに割り切って変化するものではありません。終戦後も朝鮮半島で使われていた日本時代の切手や葉書を目にすると、そうした当たり前の現実を再認識させられます。

 さて、今朝起きてパソコンを立ち上げたところ、このブログへのアクセスカウンターが1万を越えていました。毎日遊びに来ていただいている皆様には、改めてお礼申し上げます。

 これからも、5万アクセス、10万アクセスをめざして、皆様にお読みいただけるよう努力していきますので、なにとぞ、よろしくお願いいたします。
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 靖国神社の1円切手
2005-08-14 Sun 10:27
 明日は終戦記念日ですが、小泉首相は結局、靖国神社に参拝するんでしょうか。そんなことを考えながら、こんなモノを引っ張り出してみました。

靖国神社

 これは、靖国神社の1円切手が貼られた電報頼信紙です。当時(この頼信紙に押されている消印の日付は1946年4月1日)郵便局が電信・電話も扱っており、電報料金は切手で納めることもできましたので、こうした事例が登場するというわけです。

 さて、この頼信紙に貼られている靖国神社の1円切手は、当初、終戦以前に発行される予定でした。しかし、実際には終戦までには発行が間に合わず、敗戦後の占領下でお蔵入りになるはずでした。

 しかし、中央と現場の連絡の不徹底から、1946年3月下旬、この切手は一部の郵便局から売りに出されてしまいます。このため、逓信院(現在の日本郵政公社に相当)は、4月15日、この切手が正規に発行されたものであることを示すために切手発行の告示を出しました。

 ところが、こうした逓信院の措置は、1945年12月15日に神道の国家からの分離を日本政府に指令していたGHQの意向を(結果的に)無視するものとなったため、GHQは激怒。GHQ側は、5月13日付で、この切手を即時発売停止にしたうえ、在庫分については破棄するよう、逓信院に指令し、およそ1ヶ月で靖国神社の1円切手は完全にお蔵入りとなりました。

 こうした事情から、この切手が郵便に使用された例は多くはありません。僕の場合も、とりあえず、今日ご紹介している頼信紙でお茶を濁しているといった状況です。

 なお、ご紹介している電報頼信紙の銘は“通信院”となっています。戦時中の1943年から終戦後の1946年までの間、終戦前後の混乱の中で日本の行政機構は猫の目のように変化していきますが、郵政を管轄する機関も、逓信省→通信院→逓信院→逓信省、といった具合に変化しています。この頼信紙が使われた時はすでに逓信院の時代だったわけですが、モノ不足の時代ということもあって、あまっていた通信院時代の用紙がそのまま使われたのでしょう。

 貼られている靖国神社の1円切手の物語とあわせて、当時の郵政職員の現場の苦労が目に浮かぶようです。
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 エピルスのドクロ切手
2005-08-13 Sat 10:25
 お盆ということで、怪談話やお化け屋敷には欠かせない、ドクロの切手をご紹介しましょう。

エピルス

 この切手は、1914年に北エピルスの自治政府が発行したものです。

 エピルスは、ギリシャとアルバニアにまたがる地域で、長らく、オスマン帝国の支配下に置かれていました。1911年、アルバニアでオスマン帝国に対する独立運動が発生し、翌年、アルバニアは独立を宣言しますが、このとき、新生アルバニアはエピルスの北部地域の領有権を主張しました。

 ところが、この地域で多数派を占めていたギリシャ系の住民は、ムスリム(イスラム教徒)のアルバニア人の支配を歓迎せず、1912年10月、マケドニアの解放を争点とする第一次バルカン戦争が起こると、その混乱に乗じて、自治政府の成立を宣言しました。もちろん、自治政府樹立の背景には、バルカンでの影響力拡大をねらうギリシャの画策があったわけですが…。

 こうして発足したエピルスの自治政府は、自らの存在を内外にアピールするため、1914年2月、ドクロと双頭の鷲を組み合わせた紋章をデザインした切手を発行します。なお、 切手に書かれているギリシャ語は、 “ギリシャ自治のエピルス:祖国を防衛せよ”との意味です。

 その後、第一次大戦が始まると1916年にこの地域はギリシャによって占領され、自治政府も崩壊してしまいました。

 エピルスの名が日本でも話題となるとすると、宝飾ブランドとして名高いブルガリの創業者、ソティリオ・ブルガリ(彼の家は、代々、銀細工職人であった)がこの地の出身ということでしょうか。この切手は、素朴ながらもカッコよくって、昔から切手収集家の間では人気がありますが、かのブルガリをはぐくんだ土地で作られたと聞けば、さもありなん、と納得してしまいます。
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 外国切手の中の中国:仏印切手のミャオ族
2005-08-12 Fri 10:22
 現在、「NHKラジオ中国語」のテキストで連載している「外国切手の中の中国」の原稿(9月18日発売の10月号分)を書こうと思って、いろいろとアイディアを練っています。その過程で、使えそうな題材を見つけたのでちょっとご紹介してみましょう。

 インドシナ

 この切手は、1919年、フランスの租借地であった広州湾で使うために発行されたもので、フランス領インドシナ(仏印)の切手に額面の“捌角(8角)”と地名の“KOUANG-TCHEOU”の文字が加刷されています。

 広州湾租借地は、広東省南西部の海南島に近い雷州半島東側の付け根の部分の湾の一帯で、現在の行政区分では広東省湛江市にあたります。香港ちかくの“広州”からは大分離れています。

 さて、この地域は、1899年、フランスの租借地となり、ハノイのインドシナ総督の支配下で、実質的に仏印の飛び地として支配されていました。仏印で発行されていた安南幣がこの地で使用されていたのも、そのためです。

 郵便に関しては、1901年に仏印当局は郵便局を開設し、1906年からは仏印切手に地名を加刷したものを発行しています。当初、地名の加刷は“KUANG TCHEOU-WAN”となっていましたが、1908年からは、この切手と同じく“KOUANG-TCHEOU”となっています。

 今回ご紹介している切手の台切手(加刷される前の切手)は、1907年に仏印で発行されたもので、ミャオ族の女性が取り上げられています。

 ミャオ族というのは、中国・貴州省(同省のミャオ族はミャオ族総人口の約50%を占めている)を中心に、雲南省、湖南省、広西チワン族自治区、四川省、海南省、さらに、インドシナ半島の北部、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどに渡って分布している民族で、中国では苗族として少数民族に指定されています。当然、海南島に近い広州湾租借地でも、それなりの数のミャオ族を見かけることができたのではないかと考えられます。

 1907年に仏印で発行された通常切手のシリーズでは、75セント以上の高額面に、仏印内の各民族の民族衣装姿の女性が取り上げられています。それらの切手は、いずれも、ここでご紹介しているものと同じように広州湾租借地で加刷されて発行されています。もっとも、仏印の切手に取り上げられている民族衣装のうち、実際に、広州湾租借地で目にすることのできたものは、どれだけあったのでしょうか。たとえば、カンボジア人の女性などをこの地で見かけることはほとんどなかったのではないかと思います。

 その意味では、ミャオ族の女性を描いたこの切手は、デザイン的にも、広州湾租借地とよくマッチしていたといえるのかもしれません。

 なお、18日発売の9月号に掲載の「外国切手の中の中国」では、今年の9月がポーツマス条約100年ということで、関東州(旅順・大連を中心とした遼島半島の先端部)に関する日本切手を取り上げてみました。こちらの方も、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
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 アラブの都市の物語:シャルム・シェイク
2005-08-11 Thu 10:20
 今日は午前中までにNHKのアラビア語講座のテキストで連載している「アラブの都市の物語」の原稿を仕上げて編集部に送りました。

 NHKのアラビア語講座の年間スケジュールは若干変則的で、4~9月はラジオでの放送、10~3月はテレビでの放送となっており、隔月刊のテキストもそれにあわせて模様替えし、僕の連載も移動します。

 今回、送ったのは9月18日までに発売の10・11月号で、7月23日に大規模なテロが起こったことで話題になったシャルム・シェイクを取り上げました。

 シャルム・シェイクは、紅海につながるアカバ湾の出口、チラン海峡の対岸にあるシナイ半島の東南端の観光地です。20世紀前半まではひなびた漁村でしたが、イスラエルが建国されると、同国と紅海・インド洋を結ぶチラン海峡の要衝として脚光を浴びるようになります。

 1967年の第3次中東戦争でシナイ半島全域を占領したイスラエルは、この地の開発を進めましたが、なかでも、紅海の自然を活かしたマリン・リゾートとしての観光開発に力を注ぎます。砂漠に囲まれた紅海は河川が流れ込まないことから水がとても綺麗で海洋生物も豊富です。ここに目をつけたイスラエルは、シャルム・シェイクを、紅海沿岸の代表的なリゾート地として育成することにしたのでした。

 その後、シャルム・シェイクを含むシナイ半島は、1982年、エジプトに全面返還されますが、エジプト政府のイスラエル時代の観光開発政策を引き継ぎ、現在では、シャルム・シェイクはエジプトのみならずアラブ世界でも有数のリゾート地として多くの観光客を集めています。

シャルムシェイク

 ここでご紹介しているのは、2002年、“シナイ半島解放20年”を記念して発行された切手ですが、そのデザインとしては、マリン・リゾートとしてのシャルム・シェイクを宣伝するものとなっており、かつての対イスラエル戦争を想起させる要素はありません。(ダイバーやウィンド・サーフィンを楽む人がイスラエル人だという可能性も否定はできませんが…)

 現在のエジプト政府にとっては、パレスチナ解放というアラブの大義よりも、まずは、外国人観光客を誘致して外貨を稼ぎ、経済状況を好転させることが優先、ということなのでしょうか。政府のそうした姿勢が、いわゆるイスラム原理主義者たちの反感を招き、外国人の多いシャルム・シェイクがテロで狙われたという面は否定できません。もっとも、テロの犠牲者は、大半が外国人ではなくエジプト人だったこと、また、主要産業である観光に大きな打撃を与えたことなどから、エジプト社会では、政府に対する不満とは別に、今回のテロ事件の犯人たちに対する厳しい処罰を望む声が大きいのも当然といえましょう。

 それはともかく、メディアとしての切手というと、どうしても、『反米の世界史 』のなかでご紹介したようなどぎつい政治宣伝のモノを連想しがちですが、切手がこういうかたちで自国の観光資源をアピールする役割こともあるのだ、ということは頭の片隅にとどめておいても良いかもしれません。
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 マッカーサー宛の葉書
2005-08-10 Wed 10:18
 昨日の日記 では、シベリア抑留者の葉書をご紹介しましたが、そのつながりで、今日はこんなものをご紹介しましょう。

マッカーサー宛葉書

マッカーサー宛葉書ウラ

 この葉書は、終戦後まもなく、おそらく女学生ぐらいの年代の女性が、兄の早期復員を求めてマッカーサー宛に差し出したものです。文面には、「私の兄が満州の方(へ)行って今だ帰ってきません。これからだんだん寒く成って来ますので家中心配して居ります。どうか貴男様のお力に依って一日も早く帰れます様、どうぞ宜しく御願ひ致します」と書かれていますが、“私の兄”は満州からシベリアに抑留され、強制労働に従事させられていた可能性が高いものと思われます。

 概して、西側諸国が武装解除を担当した地域からの復員がスムースに進んだのに対して、シベリアへの強制連行が行われていたソ連占領地域からの復員は大幅に遅れました。このため、復員を待ちわびる家族は、事情がよくわからず不安を抱えたまま、マッカーサー宛に肉親の早期復員を求める陳情の葉書を大量に書きました。今日ご紹介しているのもその1枚です。

 日本占領の司令官としてのマッカーサー宛の葉書や手紙類は、戦時下の日本社会を知るうえでの重要な資料として、時々、メディアなどにも取り上げられています。そこでは、天皇や憲法、戦犯や占領改革などを論じた目立つ葉書がしばしば取り上げられていますが、実際には、マッカーサーのもとに寄せられた郵便物の大半は、このような個人的な陳情の内容のもの、特に、肉親の早期復員を嘆願するものでした。

 新憲法のことや天皇の戦争責任といった問題もたしかに重要ではありますが、当時の一般国民にとっては、なにが本当に大切なことだったのか、あらためて考えさせられます。
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 シベリア抑留者の葉書
2005-08-09 Tue 10:16
 いまから60年前の1945年8月9日といえば、ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻してきた日であり、極東でのソ連の影響力拡大を恐れるアメリカが、日本をできるだけ早く降伏させるために長崎に原爆を投下した日です。

 長崎の原爆に関しては、広島の罹災戻に相当するような郵便資料(たとえば、8月5日の日記 をご覧ください)は非常に少なく、残念ながら、僕の手許にもありません。今年の1月でしたか、『週刊新潮』の新潮掲示板に登場した際にも、「長崎の原爆関連の郵便物を譲っても良いという方がおられたら、是非、ご一報ください」と呼びかけたのですが、いまのところ、何の反応もありません。

 一方、ソ連の対日参戦にからむマテリアルはさまざまなものが残されているのですが、今日はとりあえず、シベリア抑留者の差し出した葉書をご紹介します。

シベリア抑留

 ご承知のように、ナチス・ドイツとの血みどろの死闘を戦ったソ連は、戦後復興のための労働力を得るために、旧満州や北朝鮮、千島・樺太を占領すると、各地の男性を“戦犯”として逮捕し、シベリアに強制連行して重労働を課しました。いわゆるシベリア抑留です。

 シベリアに抑留された人たちは、日本の家族との連絡には、上の画像のような専用の往復はがきを使うことを義務づけられていました。葉書は、名宛人に届けられるまでの間に、ソ連ならびに日本を占領していたアメリカの双方から検閲されましたが、中には、ソ連側の検閲で文面を塗りつぶされたりしたものもあります。

 日本から抑留者宛の通信は、往復はがきの返信部を使うことを義務づけられていたため、現存する資料は、シベリアから日本宛の往診部のみというケースが大半で、この葉書のように返信部が残されているものは多くはありません。当時の通信事情では、抑留者から日本の宛先に葉書が届けられるまでに半年以上かかることもザラでしたから、この葉書の場合は、差出人のほうが葉書よりも先に日本に帰国できたため、返信部が使われずに残ったということなのかもしれません。

 専門的には、抑留者用の葉書は用紙や形式などにさまざまなバラエティがあるので、それらを集めて分類・整理してみると、興味深いコレクションができあがるのではないかと思います。来年(2006年)は、抑留者の最後の一団が帰国してから50周年になりますので、それまでに、なにか簡単な記事でもまとめられたら良いのですが…。
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 残暑お見舞い申し上げます
2005-08-08 Mon 10:14
 昨日と一昨日は、東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で行われたサマーペックスに出かけていって、展示解説をやってきました。以前の日記にも書きましたが、イベントの会期が広島の被爆60周年にあたる8月6日だったので、原爆・終戦がらみの特別展示をやっていたため、『切手と戦争―もうひとつの昭和戦史 』の著者として呼ばれたというわけです。もちろん、会場では、本の販売もやらせてもらいました。

 ところで、今回のイベントには、“元祖クール・ビズ”と称して、浴衣を着て出かけていきました。(浴衣がビジネス・ウェアにならないことは承知していますが、まぁ、固いことは言わんでください)で、会場で撮った写真が↓です。(ちなみに、隣の女性は“切手の博物館”のスタッフです)

浴衣

 僕は現在38歳(来年、年が開けると早々に39歳になります)ですが、前々から、40歳になったら時々和服を着るようにしたいと考えていました。で、そのための準備運動というか、予行演習というか、そういう感じで、今回、浴衣からチャレンジしてみたのですが、思った以上に快適なのでビックリ。もう、スーツとネクタイには戻りたくないですね。これなら、8月いっぱいは、夕方からの打ち合わせなどには、日常的に浴衣を着て出歩いても良いかもしれないと思ってしまいました。まぁ、まだまだビギナーなので、粋に着こなすという感じにはなりませんが、追々、慣れていくようにしたいものです。

 さて、今日は立秋。暦の上では今日から秋ということなのですが、実際には残暑がきつく、これからが1年で一番暑い時期になります。

 くれぐれも、ご自愛ください。
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 大日本帝国の終焉:予告編(9・最終回)
2005-08-07 Sun 10:12
 今回、サマーペックス に出品した「大日本帝国の終焉」では、作品の終わりになにを持ってくるかでそうとう悩みましたが、結局、“大日本帝国”が制度的に否定され、“日本国”となった区切りとして、1946年の日本国憲法公布をラストに持ってくることにしました。

 で、そのことを表現するために展示したのが、下のマテリアルです。

憲法案内状

憲法案内状カバー

 これは、日本国憲法公布の記念式典の案内状で、受取人は憲法学者の佐々木惣一です。佐々木は、近衛文麿の恩師で、実際には採用されませんでしたが、新憲法の草案も作っています。佐々木案は、天皇の地位を国民投票によって決めるとしていた点がユニークですが、これは、国民投票をすれば、天皇制を維持するという世論が圧倒的多数を占めるということを予期したもので、GHQの“民主化”圧力を逆手にとって日本人の心情を憲法に反映させようという高等戦術といってよいでしょう。

 新憲法の施行により貴族院は廃止され、佐々木も貴族院議員としての身分を失うわけですが、その意味でも、歴史の因縁を感じさせるマテリアルといってよいかもしれません。

 さて、東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で開催中のサマーペックス は、本日が最終日です。僕は、このカバーを含め、終戦前後の日本の状況をたどった作品「大日本帝国の終焉」を展示しています。14:30からは展示の簡単な解説も行いますので、是非、お運びいただけると幸いです。
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 大日本帝国の終焉:予告編(8)
2005-08-06 Sat 10:10
 昨日(5日)は、広島の原爆に関する定番モノというべき“罹災戻”の葉書をご紹介しましたが、今日はそれとは違ってちょっとひねったものをご紹介しましょう。

原爆で転送

 この葉書も、昨日ご紹介したものと同じく、被爆直後の広島宛に差し出されたものです。こちらも、記載されている宛先の白島は原爆で壊滅状態になったのですが、名宛人は何とか生き延びており、葉書も避難先に転送されています。

 “罹災戻”の印が押された葉書や封筒に比べて見た目は地味ですが、広島の原爆に関する郵便物の中では、差出人に戻されたものよりも、無事に相手に届けられたもののほうが残存数が少ないような気がするのですが、いかがでしょうか。

 それはともかく、被爆直後の広島でも郵便がきちんと機能していて、名宛人の避難先を探し出して郵便を転送することが行われたというのは、ちょっと驚きです。姿勢の人々の間に、こうした高い職業倫理が保たれていたからこそ、戦後の日本は驚異的な復興を遂げることができたのだと、いまさらながら思わずにはおれません。

 さて、今日・明日(8月6・7日)の2日間、東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で開催のサマーペックス では、この葉書を含めて、終戦前後の日本の状況をたどった作品「大日本帝国の終焉」を展示しています。両日とも、14:30からは展示の簡単な解説も行いますので、是非、お運びいただけると幸いです。
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 大日本帝国の終焉:予告編(7)
2005-08-05 Fri 10:09
 いよいよ、明日から東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)でサマーペックス が開催されます。

 今回のサマーペックスは、広島の被爆60年ということで、原爆関連の企画展示が充実しているのですが、僕がゲストで出品している作品「大日本帝国の終焉」も広島の原爆関連のブツを2点、展示していますので、今日・明日はそれを一つずつご紹介しましょう。

 今日は、広島の原爆といえば定番の↓の葉書です。

罹災戻し

 この葉書は、被爆直後の8月11日、金沢から爆心地に近い猫屋町宛に差し出されたものですが、そもそも広島市街地がほぼ壊滅してしまったため、宛先に配達することができず、差出人に返送されたものです。かすれていて読みにくいのですが、“罹災戻”の赤い印が惨禍を生々しく伝えています。

 この罹災戻の印の押された郵便物は、単に切手や郵便物のコレクターの世界だけではなく、日本の近現代史の重要な資料ともいうべきものですから、以前から、コレクターの間では非常に人気があるのですが、現存数は10数点といったレベルではないかと思います。

 明日からの サマーペックス では、ここに挙げたものを含め、広島の“罹災戻”の印が押された葉書や郵便物が少なくとも5~6点は出品されています。1通でもめずらしい“罹災戻”を、一度にまとめてご覧いただける機会は、そうそうないと思いますので、是非、お運びいただけると幸いです。

 ところで、昨日の日記にも書きましたが、今朝6:20ごろから約5分間、TOKYO FMの6Senceの電話インタビューに登場しました。話の内容は、メディアとしての切手、資料としての切手ということについて、5分くらいで簡単に説明するというものでしたが、メディアとしての切手についての一般論の話がちょっと長くなってしまい、戦後60年ということからするとバランスが悪かったかもしれません。

 ラジオの電話取材は今年に入ってから2回目ですが、生ということもあって、テレビの収録よりもずっと緊張します。出来るだけゆっくりと話すように心がけたつもりですが、早口ゆえ、聞き取りづらい、あるいはわかりにくいところもあったのでは、と反省しています。なによりも、郵便学者という商売は、基本的に、実物の切手や郵便物を見せてナンボというところがありますので、映像・画像の使えないラジオという媒体に登場するときは、テレビ出演の時と比べてはるかに周到な用意をしておかなければ、と痛感した次第です。

 なにはともあれ、聞いてくださった方がいらっしゃったら、是非、今日の放送についてのご意見・ご感想をお聞かせいただけると幸いです。
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 大日本帝国の終焉:予告編(6)
2005-08-04 Thu 10:04
★★★★ お知らせ! ★★★★

 明日(5日)の早朝6:15頃より、TOKYO-FM(周波数80.0)の6 Sense という番組の電話インタビューを受けることになりました。話題は“戦後60年と郵便”の予定ですが、生放送なので、どう転がるか、やってみないとわかりません。

 聴取可能な地域にお住まいの方で早起きの出来る方、なおかつご興味をお持ちの方は、是非、お聞きいただけると幸いです。


★★★★★★★★★★★★★★

 1945年、戦争に負けた日本は連合国によって占領されました。日本に進駐した“連合軍”の圧倒的多数は米軍でしたが、少数ながら、英本国やオーストラリア、インドやニュージーランドなどの部隊からなる英連邦軍も広島県を中心に進駐していたことは案外知られていないようです。

 この英連邦軍は、1946年10月11日、オーストラリア切手に“BCOF JAPAN 1946”と加刷した切手3種類(1/2ペニー、1ペニー、3ペニー)を発行します。ただ、このときの切手発行はオーストラリア郵政の許可を得ていなかったため、10月13日、加刷切手はいったん発売が停止されます。そして、翌1947年5月8日に、あらためて、先の3種の切手を含む7種の切手が発行され、使用されました。ちなみに、BCOFとは、“British Commonwealth Occupation Forces(英連邦占領軍)”の略です。

 下のカバーは、そのBCOF切手7種を貼ったもので、1948年9月18日にビクトリア州宛に差し出された書留便です。ただし、日本に進駐したことの記念品として作られた色彩の濃いもので、貼られている切手の合計金額は正規の金額を大幅にオーバーしています。

BCOF

 BCOF切手は、1949年3月28日、日本に進駐していた英連邦軍の野戦郵便局が閉鎖されたことで使用が停止されます。

 太平洋戦争は、日本がアメリカ・イギリスと戦った戦争ということになっていますが、その“イギリス”のなかには、いわゆる英本国だけではなく、オーストラリアやニュージーランドの兵士たちも少なからず含まれおり、彼らは戦後の日本占領にも関与していたことは見落とされがちです。

 しっかりと“JAPAN”の文字が入ったBCOFの切手は、そうした見落とされがちな歴史の一こまを語る資料といえるのです。

 さて、今度の土・日曜日、8月6・7日に東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で開催のサマーペックス では、このカバーを含めて、終戦前後の日本の状況をたどった作品「大日本帝国の終焉」を展示する予定です。両日とも、14:30からは展示の簡単な解説も行いますので、是非、お運びいただけると幸いです。
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 サウジの米野戦郵便局
2005-08-03 Wed 10:00
 昨日は一日バタバタしていて、ようやく、寝る前に朝刊を読むという有様でしたが、その1面にサウジアラビアのファハド国王が亡くなったという記事が出ていました。そこで、今日は、こんなカバー(封筒)をご紹介したいと思います。

 サウジの米軍基地

 このカバーは、湾岸戦争から4年以上が経った1995年10月、クウェート駐留の米軍関係者からサウジアラビア駐留の米軍関係者宛に差し出されたもので、差出人・名宛人の住所はそれぞれ、米軍の野戦郵便局となっています。

 1991年の湾岸戦争に際し、サウジアラビアのファハド国王は、国土防衛のために米軍の駐留を認めました。これに対して、聖地メッカ・メディナのあるアラビア半島に異教徒の軍隊が、湾岸戦争の終結後も10年以上にわたって駐留し続けていることを不愉快に思うイスラム教徒(決して、いわゆる原理主義者には限定されない)は多く、“聖地の守護者”としてのサウジアラビアの立場は微妙なものとなります。実際、いわゆるイスラム原理主義者たちは、米軍が直ちにアラビア半島から撤退することを求めており、そうした主張を掲げての反米テロも後を絶ちません。ちなみに、かのビンラディンは、米軍のアラビア半島駐留を認めているサウジ王室に対する激しい非難を展開したことで、サウジアラビアを追放されています。

 サウジへの米軍駐留の証拠ともいうべきこのカバーは、現代のサウジアラビアの一つの側面を切り取ったものとして興味深いものといえるでしょう。そのため、拙著『反米の世界史』でも、このカバーについては簡単に触れました。

 さて、『反米の世界史』についての書評・新刊紹介の類が、ぽつぽつ、各種のメディアに掲載されています。記録の意味も込めて、僕が把握しているものを、掲載の日付順に、以下、列挙しておきますので、何かの機会にでもご覧いただけると幸いです。(*をつけたものは、共同通信配信記事で、同内容です)

 ・産経新聞(6月18日付)
 ・河北新報(7月10日付*)
 ・人民の星(7月12日付)
 ・京都新聞(7月17日付*)
 ・しんぶん赤旗(7月24日付)
 ・信濃毎日新聞(7月31日付*)
 ・郵趣(8月号)
 ・週刊現代(8月13日号)
 ・諸君!(9月号)

 上記以外にも拙著の書評・新刊紹介の掲載情報をご存じの方は、お手数ですが、ご一報いただけると大変助かります。ご協力、よろしくお願いいたします。
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 大日本帝国の終焉:予告編(5)
2005-08-02 Tue 09:54
 1945年8月10日、日本政府はポツダム宣言受諾の方針を連合国側に伝えますが、このとき、連合国側の圧倒的多数の人々は、まだまだ日本との戦争はしばらく続くものと思っていました。このため、彼らにとって日本の降伏は唐突なものとして受け止められ、準備も整わないまま、急遽、日本占領のために動員されるということも少なくありませんでした。

 そうした連合国側の混乱を物語っているのが、このカバー(封筒)です。ちょっと大きいので、肝心の部分が見えるように折りたたんでお見せしましょう。

チリ宛カバー

 このカバーは、戦争末期の1945年7月25日、アメリカの商船ジョン・ビッドウェル号はチリのバルパライソ(サンティアゴの外港)に向けてニューヨークを出港します。船は、郵便物を含むあらゆる種類の荷物を積み、南米各地に寄港した後、8月30日にバルパライソに到着する予定でした。

 ところが、航海途中の8月15日、日本の降伏が公式に発表されます。このため、アメリカは、急遽、大量の人員と物資を日本占領のために振り分けなければならなくなり、多くの商船がそのために徴発されます。ジョン・ビッドウェイ号もその1隻でした。

 こうして、突如として行き先を変更することになったジョン・ビッドウェル号ですが、その際、どういうわけか、積荷の中の郵便物は船内に取り残されてしまいました。その後も、このとき搭載されていた郵袋(郵便物の入った袋)は忘れられたまま放置されます。こうした状況は、アメリカによる日本占領が1952年に終わった後、さらに、第二次大戦の英雄だったアイゼンハワーの政権(1953年に大統領に就任)が終末を迎えようとしていた1960年まで続きます。

 さて、1960年になって、老朽化したジョン・ビッドウェル号は取り壊されることになりましたが、その際、船内をチェックしたところ、ようやく、1945年7月に積み込まれた郵袋が発見されました。そして、忘れられていた郵便物も、15年ぶりに配達されることになりました。

 郵便物の配達に際して、チリ郵政は受取人に対して事情を説明するため、「この郵便物は、ジョンビッドウェル号に搭載されていたため、1945年から1960年まで、配達が遅れました」という趣旨の角型のスタンプを郵便物の上に押しています。

 程度の差こそあれ、日本だけでなく、アメリカもまた、終戦時には大いに混乱していたのだということを教えてくれる興味深いマテリアルといってよいでしょう。

 さて、今度の土・日曜日、8月6・7日に東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で開催のサマーペックス では、このカバーを含めて、終戦前後の日本をめぐる状況をたどった作品「大日本帝国の終焉」を展示する予定です。両日とも、14:30からは展示の簡単な解説も行いますので、是非、お運びいただけると幸いです。
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