内藤陽介 Yosuke NAITO
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 <JAPEX>から“反米展”へ
2005-10-31 Mon 14:34
 おかげ様で、第40回全国切手展<JAPEX>は昨日(30日)をもって無事、終了いたしました。

 今回の<JAPEX>のデータについては、追って、主催者の(財)日本郵趣協会事務局より報告・発表がありますが、入場者数は前年比で約一割増(入場券の半券ベース、リピーターをいっさい含まない数字)となったほか、収支面でも大幅に状況が改善されました。いろいろと細かい点では問題も少なからずあったのですが、まずはイベントとして合格点には到達することができたのではないかと自負しております。

 これもひとえに、皆様のご支援・ご協力の賜物です。実行委員長として、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

 さて、<JAPEX>が終了し、明日(11月1日)からは、東京・白金の明治学院・インブリー館 にて「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催いたします。(下記の画像は同展のポスターで、クリックしていただくと、拡大画像で詳細をご覧いただけます)

反米展ポスター

 今回の展示は、国指定の重要文化財であるインブリー館が東京文化財ウィークの期間中、公開されるのにあわせて開催されるもので、6月に刊行した拙著『反米の世界史』(講談社現代新書) の図版として用いた切手・郵便物を中心に展示します。いわゆる切手の展覧会でよく使われるフレーム展示ではなく、アルミのパネルとイーゼルを用いた、ちょっとクラッシクなスタイルの展示となりました。

 会期は11月1日から10日の10:00~16:30(入場は16:00まで)で、入場は無料です。会場の建物が実にすばらしいので、ぜひ、お運びいただけると幸いです。
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 松食鶴
2005-10-30 Sun 14:32
 早いもので<JAPEX >の池袋会場今日が最終日となりました。とはいえ、目白会場の“皇室切手展”は、11月6日まで開催していますので、まだご覧になっていない方は、是非お運びください。

 さて、今回の“皇室切手展”は、逓信総合博物館と明治神宮、それに著名な収集家の方々にご協力をいただき、普段はめったに見ることのできない名品を多数展示することができました。その中でも、ひときわ目を引くのが、大正天皇の銀婚式の記念切手のうち、松喰鶴を描いた1銭5厘ならびに8銭の切手の未裁断の試刷シート(↓)です。

松喰鶴未裁断

松喰鶴

 画像をスキャンしてこのページにもアップしようかと思ったのですが、あまりにも大きすぎて、スキャナーではどうにもなりませんので、雑誌『郵趣』から引っ張ってきました。通常の単片切手のデザインは、右側の画像をご覧ください。

 切手のデザインは、菊花紋章を中心に、2羽の松喰鶴を配して銀婚式を意味する25の星で周囲を囲んだというものです。松喰鶴は、松の折枝をくわえながら飛んでいる鶴の姿をデザイン化したもので、おめでたい時によく使われる紋様です。

 今回の未裁断シートは、ある個人の収集家の方にお願いしてご出品いただいたものですが、とにかく、その迫力には圧倒されます。是非、会場で直接見ていただきたい逸品です。

 なお、この松喰鶴の切手を含め、大正天皇の銀婚式と切手については、拙著 『皇室切手 』でもいろいろと説明していますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

 *11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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 ベルリンのソ連軍
2005-10-29 Sat 14:30
 <JAPEX >は今日が中日です。

 今回、“1945年”の特集で「“戦後”の誕生」を作るにあたって、一番頭を悩ませたのは、最初に展示するマテリアルを何にするかという点です。結局、全体の総タイトルにあたる部分は文字だけにして、悩んだ末に、展示を構成する作品群のうち、冒頭の作品「欧州:東西冷戦の開幕」のトップに持ってきたのが↓の葉書です。

ベルリンのソ連軍

 この葉書は、ドイツ降伏後のベルリンから占領ソ連軍が差し出した軍事郵便です。葉書の書き込みはドイツ降伏の日である“1945年5月8日 ベルリン”となっていますが、実際に押されている消印の日付は5月23日です。やはり、占領直後の混乱の中では、郵便物の処理にもそれなりの時間がかかったということなのでしょうか。なお、葉書にはこの葉書が検閲を受けたことを示す3行書きの印と(非常に薄くて読みにくいのですが)モスクワ到着時の6月何日かの郵便印も押されています。

 第二次大戦に敗れたドイツは米英仏ソの4カ国に分割占領され、やがて東西分断国家が誕生します。その後、1990年の東西ドイツの統一まで、分断国家となったドイツ、なかでも、東ドイツに浮かぶ西側の孤島となった西ベルリンの存在は、ヨーロッパにおける東西冷戦の象徴的な存在となったことは、皆様ご存知の通りです。

 この葉書は、そうした東西冷戦の原点を象徴するものとして、「“戦後”の誕生」では、一番最初に登場するマテリアルとして展示してみました。是非、会場にお運びいただき、作品をご意見・ご感想などをお聞かせいただけると幸いです。

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 国際連盟から国際連合へ
2005-10-28 Fri 14:28
 いよいよ、今日、<JAPEX >が開幕します。今年は、池袋会場では“1945年”と“国際連合(以下、国連)”という二つの特別展示をご用意しました。で、その両方に関わるマテリアルとして、こんなものをご紹介します。

連盟宛カバー

連盟宛カバー着印

 このカバーは、1945年5月、アルゼンチン外務省からジュネーブの国際連盟(以下、連盟)宛に差し出されたものです。途中、経由地のアメリカで検閲を受けたことにくわえ、終戦前後の混乱もあって、逓送に4ヶ月もかかっていることが、裏面に押された連盟内の郵便局の到着印(下の画像です)からわかります。

 1945年4~6月のサンフランシスコ会議によって、連盟に代わる組織として国連の発足が決められましたが、その後も、1946年4月までは、整理業務のため連盟も存続していました。したがって、この時期は連盟と連合が並存しており、連盟から国連への移り変わりを示す郵便物が存在することになります。このカバーも、その一例といってよいでしょう。

 本日スタートの<JAPEX >では、日本における国連切手の収集・研究の第一人者、佐々木謙一さんのコレクションの一部として、国連草創期の郵便をまとめた作品も展示されています。ここでご紹介しているカバーは、おなじく特別展示の“1945年”に並べる僕の作品で使っていますが、これよりもはるかに、国連に関する興味深い資料が並んでいます。めったに見ることのできないマテリアルがテンコ盛りの展示ですので、是非、池袋の会場にお運びください。
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 銀の鳳凰
2005-10-27 Thu 14:27
 いよいよ、明日(28日)から全国切手展<JAPEX >がスタートします。

 すでに、いくつかのブログでも話題になっているようですが、今年から、通常の基金(1口4000円)に加え、一口3万円の特別基金を設け、特別基金のご協力者の方々にはいくつかの特典の一つとして、一般入場(10:30より)に先立ち、10:00よりご入場いただけるようにいたしました。

 切手の面白さ・奥深さを一人でも多くの方に知っていただくためは、僕が毎日このブログに記事を書いているだけではダメで、やはり、しかるべき場を用意してきちんとした内容のソフトを社会に向けて発信することが必要です。日本最大の切手イベント<JAPEX>は、まさに、そのための絶好の機会なのですが、こうしたイベントをやるには巨額の資金が必要です。そこで、いろいろな方に“基金”というかたちでご寄付をお願いしているわけです。(もちろん、ブースをご出店いただいている切手商の方々にも、足を向けて眠れません)

 今年、実行委員長という立場で<JAPEX>に関わってみて、とにかく、多くの方から頂戴した浄財をいかに有効に活用するか、という点を自分なりに一生懸命考えてきたつもりです。そのためには、実行委員・審査委員の謝礼を減額したのをはじめ、とにかく、不十分かもしれませんが、経費面で圧縮できるところは圧縮してみようと努力したつもりです。

 その反面、資金面でご協力いただいた方、特に、大口のご協力者の方に、いかに喜んでいただけるサービスを提供できるだろうかと頭を悩ましました。特別基金ご協力者の入場を(30分だけの内覧会ですが)早めたのも、いかに経費をかけずにご協力いただいた方に報いることができるか、僕たちなりに一生懸命考えた結果の一つです。

 ただし、今回は実験的な試みなので、10:00~10:30の時間帯は展示スペースのみの内覧会で、切手商ブースのスペースへは従来どおり10:30からのご入場となります。一般公開に先駆けて、展示をごゆっくりとご覧いただければ幸いです。(この点、僕の説明不足で一部に誤解を招いたようで、申し訳ありませんでした)

 さて、今年の<JAPEX>では、目白会場(切手の博物館)での“皇室切手展”、池袋会場(サンシャイン文化会館)での“1945年”と“国連切手展”の3つを柱にイベントを組み立てましたが(もちろん、全国から寄せられた競争出品と切手商ブースも例年通り、たっぷり楽しめるものとなっています)、全体のシンボルとしては、↓の切手を前面に押し出しました。

大正銀婚

 この切手は、1925年に行われた大正天皇の銀婚式を記念して発行されたもので、銀色のマージンにグリーンの鳳凰がすごく格好いいと思います。

 当時、大正天皇は病床にあり、銀婚式そのものが無事に行えるかどうか危ぶまれていましたが、最終的に銀婚式が行われることになり、記念切手も突貫作業で作られました。実際の切手は平版印刷ですが、原版は、原画を凹版で彫刻した後、それを平版で印刷するというスタイルをとっています。また、周囲の目打ちの銀色部分は、すべて手作業(!)でアルミ箔を貼り付けたもので、さすが、大日本帝国の天皇の銀婚式を祝うだけに、気合いの入った作りになっています。

 今回の<JAPEX>の凹版カードを作るとき、さすがに“1945年”の切手ではしまらないので、目白会場の“皇室”にちなんだものから題材を選ぼうと言うことになりました。そのなかで、候補としては、1959年の皇太子(今上陛下)ご成婚ということも考えないではなかったのですが、やはり、単純に格好いい切手ということで、大正銀婚の鳳凰に軍配が上がりました。

 で、せっかくならということで、この切手は凹版カードのみならず、Pスタンプや小型印のデザインにも使って、全体のシンボルマークのような扱いにしています。いずれも、近年の<JAPEX>のグッズの中では一番できがいいと思いますので、展示をご覧いただいた後、お時間があれば記念グッズのコーナーにもお立ち寄りいただけると幸いです。

 なお、<JAPEX>の基金に一口以上ご協力いただいた方には、もれなく、精巧な凹版印刷による、この切手の墨一色の模刻(↓ 画像は部分)を贈呈します。ホンモノと見比べてみて、その確かな技術を味わっていただければ幸いです。

大正銀婚凹版カード

 *大正天皇の銀婚式と切手に関しては、新刊の拙著『皇室切手 』をご一読いただけると幸いです。

 また、上述の通り、10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、出版元である平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。会期中の僕の予定としては、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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 解放後の収容所
2005-10-26 Wed 14:19
 第二次大戦を語る際に避けて通れないのが、ナチス・ドイツによるホロコーストの問題ですが、今週金曜日(28日)からスタートの<JAPEX >に出品する僕の作品「“戦後”の誕生」では、↓のカバーを持ってきて、「戦後、収容所の実態が明らかになり、世界は戦慄した」というかたちで表現することにしました。

ベルゲンベルゼン

 これは、ベルゲンベルゼン強制収容所(アウシュビッツから移送されたアンネフランクが亡くなった収容所です)から解放されたユダヤ系元収容者のために、米軍が提供した無料郵便のカバー(封筒)です。宛先はニューヨークのユダヤ系団体です。角型の赤い印は薄くて読みづらいのですが、“PAID”の表示(実際には無料ですが)は画像でも見えることと思います。9月9日の記事 でご紹介した上海の事例と似たようなものとお考えいただいても良いかもしれません。

 ナチス・ドイツによる強制収容所の実態は、ドイツの敗戦まで、なんとなく囁かれてはいたものの、外部ではうかがい知ることのできないものでした。それだけに、終戦と同時に、悲惨な実態が明らかになるにつれ、世界は戦慄し、欧米ではホロコーストの被害者に対する贖罪意識が社会全体に浸透していくことになります。

 そのことじたいは、人間として当然の反応だと思いますが、問題は、そうしたホロコーストに対する贖罪意識が、安直に“パレスチナでのユダヤ人国家建設は善である”というロジックと結び付けられたことにあります。その際、イギリスの委任統治下にあったパレスチナには、もともと多くのアラブ系住民が住んでおり、ユダヤ系移民の急増で、アラブ系とユダヤ系の軋轢が深刻な社会問題となっていたという事情は、ほとんど顧慮されることがありませんでした。その結果、国連では、実際にパレスチナに住んでいるパレスチナ人の意向を完全に無視して、パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家に分割する決議案が採択され、中東戦争につながっていくことになるのです。

 その意味では、ヨーロッパでの第二次大戦の終結は、東西冷戦を生み出したのと同時に、アラブ世界にも極めて大きな影響を与えたという点も見落としてはならないのですが、今回の「“戦後”の誕生」では、割り当てられたスペースの都合や僕の能力的な問題もあり、残念ながら、そこまで踏み込むことはできませんでした。他日を期したいところです。
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 台湾名と日本名
2005-10-25 Tue 14:23
 今日(10月25日)は、日本の植民地だった台湾が中国側に接収されてから60周年の日に当たります。これを記念して、北京では抗日記念イベントが大々的に行われるとのことで…。

 中国国民政府が台湾を接収した根拠は、1943年のカイロ宣言ですが、これはあくまでも“宣言”であって、法的な拘束力はありません。したがって、本来であれば、1951年のサンフランシスコ講和条約で日本が台湾の領有を放棄した後、台湾の次の帰属を正式に決める必要があったのですが、1949年の共産中国の誕生により、敵対する国民政府が台湾に逃げ込んだことで、そうした手続きが行われず、台湾の正式な帰属は宙に浮いたまま現在にいたっています。したがって、現在の中国政府の台湾に対する領有権の主張は、厳密にいえば、国際法上の根拠はなにもありません。そもそも、中国の正統政権がどの政府であるのかということと、その政府が台湾を支配するのか否かということは、まったく別の次元の話なのですが、そういうことをいっても、まぁ、現在の中国共産党政権は聞く耳を持たんのでしょうがね。

 さて、終戦直後の台湾に関しては、こんなカバー(封筒)があるので、ご紹介しておきましょう。

台湾数字カバー

 終戦直後の台湾では、終戦直前の日本時代に製造された切手を接収して「中華民國 臺灣省」の文字を加刷した切手が使われていました。このカバーに貼られているのも、そうした1枚です。

 さて、このカバーでご注目いただきたいのは、宛名に改名(日本名)と旧名(台湾名)が併記されている点です。

 台湾では、戦時中、苗字を日本風に改める改姓名運動が行われました。このカバーの名宛人もそれに従って日本名“吉川秀雄”を名乗り、日本兵として出征したものと思われます。ところが、終戦後、台湾が日本の植民地支配から解放されると、“吉川秀雄”は旧名の“戴晩”にもどります。もっとも、このカバーが差し出された時点では、戴晩氏は復員してきておらず、周囲の人々は彼を“吉川秀雄”としてしか認識していません。このため、差出人は、手紙が確実に届くように、日本名と台湾名を併記したものと思われます。

 なお、当時の規則では、旧外地・戦地で復員を待っている将兵宛の郵便物は葉書に限って認められており、封書の差出は認められていませんでした、このため、このカバーも規則違反として差出人に返送されています。

 いずれにせよ、国家の制度的な帰属がどのように変わろうと、そこに生きている人々の生活は、そうそうデジタル的に切り替わるものではなく、旧制度が残存する中で緩やかにしか変わっていかないのは当然のことです。年表式に歴史を考えると、どうしても、その辺の感覚が希薄になってしまいますが、このカバーはそうした当たり前のことを目に見えるかたちで示してくれているといってよいでしょう。

 さて、今週金曜日10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品しますが、作品では、このカバーも含め、日本や中国の終戦前後の状況をさまざまな角度から再構成しようと考えています。是非、週末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。
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 国連デー
2005-10-24 Mon 14:17
 今日は国連デー。国連憲章が発行して正式に国連が発足した日です。というわけで、こんなモノを引っ張り出してきました。

 国連総会

 このカバーは、第1回の国連総会にあわせてイギリスで使われた宣伝の標語印が押されたものです。

 国連というと、我々は条件反射的にニューヨークと思ってしまいがちですが、ジュネーヴとウィーンにも事務局はありますし、ニューヨークの本部ビルが完成する以前の第1回総会はロンドンで開催されています。

 当初、第1回の総会は1945年12月からスタートの予定で、それにあわせて、イギリスでは宣伝の標語印を使い始めました。ところが、実際には準備が遅れて、総会は1946年1月10日スタートとなりました。このため、12月1日から使われていた標語印の試用期間も当初より延長され、1月19日まで使われています。なお、標語部分には、“1945”の文字が入っていますが、これは1946年になっても修正されず、そのまま使われています。

 さて、10月28日スタートの<JAPEX >では、日本における国連切手の収集・研究の第一人者、佐々木謙一さんのコレクションの一部として、国連草創期の郵便をまとめた作品も展示されています。ここでご紹介しているカバーは、おなじく特別展示の“1945年”に並べる僕の作品で使っていますが、これよりもはるかに、国連に関する興味深い資料が並んでいます。めったに見ることのできないマテリアルがテンコ盛りの展示ですので、是非、池袋の会場でご覧いただけると幸いです。
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 英國大使舘情報部からニュージーランドへ
2005-10-23 Sun 14:16
 今日は、国際異文化学会の大会で「切手の中の1945年」という発表をします。タイトルを見ていただければお分かりのように、10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >に出品予定の「“戦後”の誕生」の前宣伝を兼ねた発表です。

 僕の場合、学会発表や学会誌への投稿というのは、自分の活動のプロモーション活動の一環と考えています。すなわち、新しく本が出るとか、何か大きなイベントをやるとか、そういう機会の前に宣伝を兼ねて、本なりイベントなりの“おいしいところ”を紹介するために、学会という場を利用するわけです。こうした学会の使い方には異論をお持ちの方もおありでしょうが、(少なくとも現状では)僕の本業はあくまでも本を書くことですから、全ての社会活動は何らかのかたちで本業とリンクさせたいと考えるのは当然のことと僕は考えています。

 発表の題材は、11月1~10日の「反米の世界史」展の中からとっても良かったのですが、申し込みの時点では、発表の時点ではブツが展示用のパネルにセットされている可能性があったため(現実には、まだパネルの制作作業は完了していません)、安全を見て、“1945年”を選びました。

 さて、国際異文化学会の方々は、英米文学系の方が主流ということなので、ぜひとも取り上げたかったのですが、結果として時間切れで取り上げられなかったマテリアルが↓です。

ニュージーランドカバー

 このカバー(封筒)は、第二次大戦の終戦後まもなく、1945年9月に業務を再開した東京のイギリス大使館から差し出されたニュージーランド宛の軍事公用便です。残念ながら、中身は入っていなかったのですが、左下の“英國大使舘商務官”や右上の“英國大使舘情報部”などのスタンプからすると、日本の状況についてのレポートのようなものが入っていたのではないかと推測されます。

 8月4日の記事 でも書きましたが、終戦後、日本に進駐した“連合軍”の圧倒的多数は米軍でしたが、少数ながら、英連邦軍も広島県を中心に進駐していました。この英連邦軍の中には、もちろん、イギリス本国の部隊も含まれていましたが、オーストラリア、インドやニュージーランドなどの部隊が相当数を占めていました。これは地理的な関係を考えてみれば当然のことで、以前の記事でご紹介したBCOF切手がオーストラリア切手に加刷したものであったのも、その必然の帰結といえましょう。

 ところで、日本に進駐した英連邦軍関係のマテリアルの大半はオーストラリア関連のモノで、ニュージーランドがらみのものとなると、とたんに残存数が少なくなります。そうしたこともあって、戦後すぐのニュージーランド宛のこのカバーは、BCOFのカバーとペアで見せると非常に収まりがよく、展示などの際には非常に重宝しています。

 いずれにせよ、太平洋戦争は、日本がアメリカ・イギリスと戦った戦争ということになっていますが、その“イギリス”のなかには、いわゆる英本国だけではなく、オーストラリアやニュージーランドの兵士たちも少なからず含まれていたわけで、こうした視点から、あの戦争を見直してみると、従来とは違った歴史像が見えてくるような気がします。来年は日豪交流年ということなので、なにか、そういうかたちの仕事ができればいいな、とぼんやり考える今日この頃です。

 さて、くどいようですが、今週金曜日10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品しますが、作品では、このカバーも含め、大日本帝国の終焉をさまざまな角度から再構成しようと考えています。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです
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 キューバから手を引け!
2005-10-22 Sat 14:13
 10月22日は、1962年にアメリカのケネディ大統領がキューバを海上封鎖し、いわゆるキューバ危機が本格的に始まった日です。というわけで、今日はこんなモノを引っ張り出してきました。

キューバから手を引け

 これは、1962年10月に東ドイツのマグデブルグ(中学校の理科の教科書に出てきた真空実験の半球で有名な町です)から差し出された郵便物で、「キューバから手を引け!」とのスローガンが入った消印が押されています。

 6月10日の記事 でも書きましたが、もともと、カストロの革命は、あまりにも極端な社会的不平等を是正するためのもので、必ずしも社会主義的なものではありませんでした。しかし、農地改革などの政策が、キューバに莫大な利権を持っていたアメリカの逆鱗に触れたことで、アメリカによるカストロ暗殺未遂事件など革命つぶしの工作が本格化。これに対抗するために、カストロはソ連に接近していくことになります。

 その一環として、1962年、カストロは、兵器提供の代りに核ミサイルをキューバ国内に配備するというソ連の提案(アナディル作戦)を受けいれ、これに従ってソ連製の核ミサイルがキューバに配備されていきます。

 これに対して、アメリカは偵察飛行により、同年10月14日、キューバにアメリカ本土を射程圏内とするソ連製ミサイル(MRBM)が配備されていることを発見。ケネディはエクスコム(国家安全保障会議執行委員会)を設置し、海上封鎖でソ連線のキューバ入港を阻止。10月22日には、テレビ演説で国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難しました。

 結局、キューバ危機は、米ソ両国の間で妥協が成立し、アメリカがトルコのミサイルを撤去する代わりにソ連もキューバのミサイルを撤去することで決着。世界は核戦争の脅威から救われました。

 キューバ危機は、世界史的に見ても非常に重要な出来事なのですが、実質的な期間が13日間(そういえば、そういうタイトルの映画もありましたね)しかなかったことに加え、直接的な戦闘が行われたわけではないので、当時の切手や郵便物にその痕跡を探すのは決して容易なことではありません。

そういうわけで、今回の消印は、キューバ危機が表面化する直前の時期のものではありますが、この時期のキューバ関連のプロパガンダ・マテリアルとして非常に分かりやすいものなので、個人的に気に入っています。まぁ、欲を言えば、キューバ危機に伴う海上封鎖によって配達不能となり、差出人戻しとなったキューバ宛の郵便物なんかを手に入れられたら、文句なしなのですが…。

 さて、11月1~10日(10:00~16:30)、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。この展覧会は、その名の通り、拙著『反米の世界史 』でつかった図版の実物を中心に展示するもので、キューバに関しては、本日ご紹介の封筒も展示する予定です。入場は無料ですから、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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 ルブリンからワルシャワへ
2005-10-21 Fri 14:11
 第二次大戦当初、ポーランドの東半分を占領したソ連は、独ソ戦の勃発により占領地を失いますが、その後、アメリカの支援を受けてドイツ軍を駆逐し、ポーランドにおける占領地域を拡大していきます。そして、1944年7月には占領地域のルブリンを首都とする親ソ政権(いわゆるルブリン政権)を樹立しました。

 1944年8月、昨日の日記でご説明した“ワルシャワ蜂起”がおこると、国内軍を見殺しにしたソ連は、かねてからのプランに沿って、ルブリン政府を戦後のポーランド政府として育成し、ポーランドを自国の藩屏となる衛星国として確保するための具体的な行動を開始します。

 こうした中で、1944年9月、ルブリン政府は自らの存在をアピールするために独自の切手発行を開始しますが、その実際の使用例が↓です。

ルブリン政権

 この葉書は、1945年2月5日、ワルシャワからジュネーヴ宛に差し出された葉書ですが、途中、イギリスの占領地域を通過する過程で検閲を受けています。左側の切手は国章の鷲を描くものに“P.K.W.N”の文字が加刷されていますが、これは、後にポーランド共産党の母体となる“ポーランド国民解放委員会”のことです。なお、ドイツの占領下にあったワルシャワがソ連軍によって解放されるのは、この葉書が差し出される2週間ほど前の1945年1月17日のことでした。

 1945年2月、戦後の国際秩序を決めたヤルタ会談がはじまると、ロンドンの亡命政権と、ルブリン政権のどちらを正統政府とするかで、英ソは激しく対立。結局、アメリカのとりなしで、総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、また新生ポーランド国家の領域を、戦前よりも大幅に西へ移動させることで決着がはかられました。

 ところが、選挙のためにロンドン亡命政権の指導者がポーランドに戻ると、ソ連の息のかかったルブリン政権は彼らを逮捕し、裁判にかけてしまいます。この結果、ポーランドの共産化は決定的となりましたが、このことが米英を強く刺激し、東西冷戦が幕を開けることになるのです。

 10月28日から東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >に出品予定の「“戦後”の誕生」の第一部は「欧州:東西冷戦の開幕」というミニコレクションですが、昨日 と今日のこのブログでご紹介したポーランド問題は、その前半の重要なポイントとなっています。本来であれば、ポーランド情勢だけで充分1フレーム(16リーフ)を構成しても面白いのですが、スペースの都合で、今回の展示では大幅に圧縮せざるを得ませんでした。その分、展示では他のヨーロッパ諸国の状況についてもスペースを割きましたので、是非、来週末は池袋で実際の作品をご覧いただけると幸いです。
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 ポーランド亡命政府
2005-10-20 Thu 14:11
 いよいよ<JAPEX >(10月28~30日、東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催)と反米の世界史展(11月1~10日、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館で開催)が迫ってきました。というわけで、ここ数日、その最終追い込みに追われる日々が続いています。

 作品制作は余裕をもって行うべきだとお考えの方からすると、僕のようにギリギリまで作業をしている人間は段取りが悪いということになるのかもしれません。しかし、僕自身は、どんなものを作る場合でも、自分を追い込んで、最後の一瞬まで粘って頑張ったほうが、結果として良いものができると信じています。“火事場の馬鹿力”ってのは、けっこう侮れないものですからね。まぁ、この辺は人それぞれなので、どちらが正しいという筋合いのものではないのですが…。

 さて、<JAPEX >の特別展示“1945年”のコーナーに出品する「“戦後”の誕生」は、欧州・日本・中国(含台湾・香港)・朝鮮・東南アジアの5つの地域それぞれの、第二次大戦の終戦直後の状況をまとめた5つのミニコレクションから成り立つ短編集のような作品とお考えいただければよいかと思います。で、現在、最終チェックとあわせて本格的に手を入れているのが、作品の構成上は一番最初に来る「欧州:東西冷戦の開幕」の部分です。

 東西冷戦のルーツをどこに求めるかは、いろいろと議論が分かれるかと思いますが、とりあえず、ポーランド問題をめぐるソ連と西側の対立が一つの発火点となったことは間違いありません。

 第二次大戦中、独ソ両国によって分割されたポーランドの旧政府は、当初はパリに、後にロンドンに亡命政権を樹立。1941年の独ソ戦勃発以降は、ポーランド全土を占領したドイツ軍と戦っていました。

 1944年、ドイツが敗走を重ねる中で、ソ連軍の解放地域がワルシャワ近郊にまで及んでくると、ポーランド亡命政府系の国内軍は、それに呼応するかたちで8月1日にワルシャワでの武装蜂起を行います。いわゆるワルシャワ蜂起です。しかし、戦後のポーランドを衛星国化する意向を既に固めていたソ連は、親英的な亡命政府がポーランドに復活することを望まず、ワルシャワを目前にして進軍をストップ。イギリスの度重なる要請にも関わらず、蜂起を援助しなかったどころか、イギリスによる支援も妨害しました。この結果、ワルシャワ蜂起は失敗に終わり、ドイツ軍による懲罰的攻撃によってワルシャワは徹底的に破壊にされ、レジスタンス・市民約22万人が虐殺されました。

 ポーランド亡命政府は、失敗に終わったワルシャワ蜂起を宣伝する切手を発行し、自分たちこそがポーランドの解放のために戦っていることをアピールしようとしています。この亡命政権の切手が貼られたカバー
(封筒)が↓です。

ワルシャワ蜂起


 一般に、亡命政権の切手というと、実際の郵便には使えないラベルのようなものが多いのですが、ポーランド亡命政府に関しては、“ポーランド(もちろん、亡命政府のことですが)”船籍の船で運ぶ郵便物などで実際に使用されました。このカバーもその一例で、1945年2月3日にロンドンの亡命政府からニューヨークの亡命政府の大使館宛に送られたもので、裏面には3月19日の到着印も押されています。

 こうして、ワルシャワ蜂起を見殺しにし、亡命政府に打撃を与えた上で、いよいよ、ソ連はポーランドに衛星国を樹立するのですが、その辺の事情を語るマテリアルについては、機会を改めてお話しすることにしましょう。
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 We Say Yes
2005-10-19 Wed 14:07
 僕にとっては、今日(10月19日)は『皇室切手』の刊行日ということが一番大事ですが、世の中全体からすれば、なんといっても、サダム・フセインの初公判のほうがはるかに重要でしょう。

 フセイン政権下のイラクでは、フセインの肖像を描く切手は山のように発行されました。それらは、その時々の状況に応じて、フセインの服装やポーズなどにさまざまバリエーションがあり、非常に興味深いのですが、今日はその中から、非常に分かりやすいプロパガンダの1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

サダム

 カバー(封筒)に貼られている切手は、1995年に行われた大統領信任を問う国民投票で、フセインが99.96%という高得票率で信任を得たことをアピールするために発行されたものです。単片の切手を持ってきても良かったのですが、この切手が実際に郵便に使われていたことを示すため、オーストラリア宛のカバーに貼られたものを持ってきました。

 切手のデザインは、我々の感覚からすると、かなりシュールです。なにせ、ハート型の枠の中ににっこり微笑むフセインの写真が埋め込まれ、印面下部には英語で“WE SAY, YES, SADDAM”(その上にはアラビア語でも同じ意味のフレーズが書かれています)というフレーズが入っているわけですから…。

 切手を発行したフセイン政権としては、「国民からは絶大な支持を得ているフセインを国際社会が退陣に追い込もうとしているのは内政干渉だ!(そういえば、小泉首相の靖国神社参拝は中韓両国のいいがかり抗議と反発にも関わらず、世論調査では賛成が多数派だそうです)」と言いたかったんでしょうが、それにしても、フレーズが“WE SAY, YES”ですからねぇ。アメリカと対決するのに、コカコーラのさわやかイメージで売り出してどうする、と突っ込みたくなるのは僕だけでしょうか。

 この他にも、フセイン政権下のイラクの切手は、いろいろと面白いものがテンコ盛りなのですが、ご興味をお持ちの方は、詳しくは、6月に刊行した前作(そうだよなぁ、もう最新作じゃなくなったんだよなぁ)『反米の世界史 』(講談社現代新書)をご覧いただけると幸いです。なお、11月1~10日には、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。この展覧会は、その名の通り、『反米の世界史 』でつかった図版の実物を中心に展示するというものです。入場は無料ですから、是非、遊びに来てください。
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 旅大の靖国神社
2005-10-18 Tue 14:07
 今朝起きてみたら、アクセスカウンターが2万を越えていました。無名のモノ書きのマニアックなブログに、こんなに大勢の方が遊びに来てくださるとは、はじめるまでは想像もつきませんでした。3日坊主な僕が、まがりなにりも、数ヶ月間、一日も途切れることなくブログを更新してこられたのも、ひとえに、皆様のおかげです。これからも、精一杯、頑張っていきますので、ご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。

 さて、今日の話題は、なんといっても、昨日(17日)小泉首相が靖国神社に参拝したことでしょう。靖国神社がらみの切手としては8月14日の記事 で取り上げたもののほかに、ひねったところでこんなものをご紹介しましょう。

遼寧加刷

 この切手は、1945年の終戦後、ソ連軍占領下の旧関東州(旅大地区。“旅大”は旅順と大連の意味)で発行された切手で、日本時代の靖国神社の切手に“遼寧郵政”の文字が加刷されています。

 加刷に用いられた切手は1943年2月に発行されたもので、額面の17銭は、当時の書留および速達の料金(書状の基本料金5銭+特殊取扱料金12銭)に相当しています。戦況が悪化し、戦死者が増えていく中で、靖国神社の切手に17銭という額面を当てはめたのは、英霊を大切に扱い(=書留)、あるいは、英霊が速やかに靖国へ行く(=速達)という意図が込められていたのかもしれません。

 さて、この切手は、当時の日本の租借地であった関東州でも日常的に使われていました。それが、戦後、ソ連側に接収され、オリジナル・デザインの切手が発行されるまでの急場しのぎとして、このような加刷を施されて使用されたというわけです。

 ちなみに、このとき加刷に用いられた切手は、この靖国神社の切手の他に、水力発電所の3銭切手、東照宮陽明門の6銭切手、オーロワンピ灯台(日本の植民地だった台湾の南端にある灯台)の6銭切手と、隣接する旧満州から持ち込まれた切手数種類です。このラインナップを見てみると、とりあえず在庫として十分な量が残っていたものを接収して加刷したというより、加刷に用いる切手を選択する際に、何らかの意図が働いたと見るほうが自然なように思われます。

 おそらく、靖国神社の切手に関しては、大鳥居を塗りつぶすかのように加刷を施すことで、“日本軍国主義に対するソ連赤軍の勝利”を利用者に印象づける狙いがあったのでしょう。戦勝国ならではの発想といっても良いかもしれません。そういえば、現在の中国政府も抗日戦争の勝者でしたっけ。

 なお、この切手の加刷は田型(2×2)単位で行われました。画像には田型をアップしてみましたので、ご興味がある方は、それぞれの切手の加刷文字の微妙な違いなどを比べてみるのも一興かと存じます

 さて、10月28~30日(金~日)に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品しますが、その一部で、この切手をはじめ、台湾・香港も含めた中国世界の状況を語るマテリアルも展示する予定です。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。
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 溥儀の訪日
2005-10-17 Mon 14:04
 今日(10月17日)は、愛親覚羅溥儀の命日です。というわけで、溥儀に関する切手の中から、今回は、新刊の拙著『皇室切手 』でも取り上げたこの1枚をご紹介しましょう。

溥儀訪日

 この切手は、1935年4月、溥儀の訪日を記念して日本が発行した記念切手4種のうちの1枚で、満州国のシンボルでもあった遼陽の白塔をバックに、溥儀のお召し艦“比叡”を描いたものです。余談ですが、このときの“比叡”の艦長は、あの井上成美です。

 1932年、満州国の建国にあたって関東軍は旧清朝の廃帝であった溥儀を担ぎ出します。その際、関東軍は溥儀に対して皇帝の椅子を約束しますが、実際に建国された満州国は共和制で、溥儀の立場も皇帝ではなく執政でした。当然、溥儀はこのことに不満でしたから、1933年に満州事変が一応の終息を迎えたのを受けて、1934年3月、関東軍は約束どおり彼を皇帝の地位につけました。

 その“お礼”と報告を兼ねて、関東軍のお膳立てで1935年4月、溥儀は日本を訪問し、昭和天皇に拝謁。“日満親善”を謳いあげる広告塔としての役割を担わされます。

 溥儀の訪日に際して、日本の国民はこれを熱狂的に歓迎しました。このことについては、政府や軍のキャンペーンに国民が踊らされたという面も否定はできないのですが、それ以上に、“皇帝陛下”と名のつく外国人の来日は、このときの溥儀が最初のケースであったことも大きかったのではないかと僕は考えています。

 古今東西を問わず、皇族ないしは王族というのは、一般大衆にとっての“スタア”です。このことは、亡くなったイギリスのダイアナ元皇太子妃を見れば、よく分かるでしょう。実際、1921年、皇太子時代の昭和天皇はヨーロッパ諸国を歴訪していますが、各国の世論が日本に対して必ずしも好意的ではなかった当時においても、極東から来た若きプリンスは熱烈に歓迎されています。

 したがって、溥儀に対する日本国民の歓迎には、ある種、外国の“皇帝陛下”に対する素朴な憧れの感情という側面があったと考えてもあながち間違いではないように思います。

 一方、溥儀の側でも、このとき日本で受けた歓迎にすっかり酔いしれてしまい、帰国後、“囘鑾訓民詔書”を発して日本と満州国は一体であると宣言。1940年に日本の紀元2600年を祝うために訪日した際には、昭和天皇に対して天照大神を祀りたいとまで申し出ています。

 このように見てみると、このときの溥儀の訪日で強く感化され、日満一体を意識するようになったのは、じつは、日本の国民ではなく、溥儀本人であったと考えることも可能なのかもしれません。

 さて、既に一部の書店の店頭には並んでいるようですが、明後日(19日)付で『皇室切手 』が正式に刊行となります。この切手をはじめ、戦前の外地と皇室や神道の関係についてもそれなりにスペースを取って解説していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 また、『皇室切手 』の刊行後の10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、出版元である平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。また、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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 1971年の天皇訪欧
2005-10-16 Sun 14:00
 昨日(10月14日)の記事 では、昭和天皇の訪米のことを取り上げましたが、昭和天皇がアメリカの地を最初に踏んだのはこのときが最初のことではありませんでした。

 実は、1971年、昭和天皇がヨーロッパ諸国を歴訪(大阪万博で来日したベルギー国王からの招待に答えるかたちで実現した)した際、天皇の飛行機はいったん、給油のためにアラスカのアンカレッジに立ち寄っています。このとき、アメリカ側は大統領のニクソンがじきじきに天皇を出迎え、昭和天皇が最初に降り立った外国はアンカレッジであることが強調されました。

 じつは、当時の両国首脳の間には、天皇訪欧の際に天皇がアンカレッジを訪れることで、日本からの繊維製品の輸出規制や中国との関係などでギクシャクした日米関係を修復させるきっかけとしたいとの思惑がありました。このため、天皇の本来の外遊先はヨーロッパでありながら、政治的には、天皇がアメリカに立ち寄ることのほうがはるかに重要であるという、一種のねじれ現象が生じています。

 そんなことを考えながら、このときの訪欧の記念切手を見ていただきましょう。

天皇訪欧

 切手のデザインは、左側が天皇旗に菊花と鳳凰(まさか、訪欧に引っ掛けたオヤジギャグじゃないとは思うのですが)、右側が皇后の手になる「海の彼方」と題する絵です。「海の彼方」は、おそらく、外遊をイメージさせるものとして切手に取り上げられたものと思われますが、富士山の見える構図は太平洋を念頭に作られたものと考えてよいでしょう。

 もちろん、横浜の港から船に乗ってヨーロッパへ旅する場合にも、海から富士山は見えますが、やはり、太平洋を隔てた外国といえば、多くの日本人はヨーロッパではなくアメリカをイメージするはずです。 それゆえ、「海の彼方」は、このときの天皇外遊が“訪欧”と銘打ってはいながら、じつはアンカレッジに立ち寄ることが(政府にとっては)一番大事であるということを、切手というメディアにおいてさりげなく表現した結果ではなかったのか、と僕などは考えてしまいます。

 さて、今度の水曜日・19日付で、いよいよ『皇室切手 』が刊行となります。この切手をはじめ、戦後の“皇室外交”については、それなりにスペースを取って解説していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 また、『皇室切手 』の刊行後の10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、出版元である平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。また、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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 昭和天皇の訪米
2005-10-15 Sat 14:00
 電車の中吊り広告を見ていて気がついたのですが、今年は昭和天皇の訪米から30周年になります。

 昭和天皇は、前年(1974年)11月のフォード大統領訪日の答礼として、1975年9月30日から10月14日の日程で訪米。行く先々で歓迎を受け、太平洋戦争の古傷を癒すうえで大きな役割を果たされました。

 このように、結果的に成功を収めた天皇訪米ですが、それが実現されるまでの間にはさまざまな紆余曲折がありました。

 昭和天皇の訪米が具体的に検討され始めたのは、1973年春のことで、もともとは当時の首相・田中角栄の思いつきによるものでした。もっとも、1973年には20年に1度の伊勢神宮の遷宮が予定されていたことに加え、政府と宮内庁の間の調整不足もあって、この計画は頓挫しています。

 しかし、1973年7~8月の田中・ニクソン会談で、ニクソンが天皇訪米を日本側に要請したことからこの話が再燃。1974年2月には、駐米大使の安川壮が「年内には訪米が実現されるであろう」と発言しています。しかし、この発言も宮内庁との根回しが充分ではない段階で行われたことにくわえ、この年は参議院選挙があり、政府与党は訪米の“成果”を政治利用するのではないかとの批判ももちあがったこともあり、またもや、訪米のプランは沙汰止みとなりました。ちなみに、安川は先の自分の発言を“錯覚”として取り消しています。

 さて、昭和天皇の訪米に際しては、天皇ご夫妻が帰国した10月14日に下のような2種類の記念切手が発行されています。

昭和天皇訪米

 デザインは星条旗に桜を配したものと日章旗にハナミズキを配したものの2種類です。ハナミズキはアメリカの国花ではありませんが、1912年に日本から桜を送られたこと(これが、ワシントンDCのポトマック河畔の桜並木のもとになった)の返礼として、アメリカがハナミズキを日本に送ったことに由来するもので、日米の友好親善を示すのにふさわしい組み合わせといえます。

 昭和天皇の訪米は、太平洋戦争の終結30年の節目の年に行われましたが、今年は、その訪米からも30年。まさに“昭和は遠くなりにけり”という感じですね。

 さて、来週水曜日・19日付で、いよいよ『皇室切手 』が刊行となります。この切手をはじめ、戦後の“皇室外交”については、それなりにスペースを取って解説していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 すでに見本は出来上がっていますし、アマゾンなどでの注文も可能になっています。早いところでは、この週末、一部の書店の店頭に実物が並んでいるかもしれません。見かけたら、お手にとってご覧ください。

 また、『皇室切手 』の刊行後の10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、出版元である平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。また、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。一人でも多くの方に、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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 弁慶号
2005-10-14 Fri 13:58
 今日(10月14日)は鉄道記念日ですから、こんな切手を取り上げて見ましょう。

鉄道75年

 これは、終戦後まもない1947年10月に発行された鉄道75周年の小型シートです。

 9月13日の記事 でも書きましたが、1947年6月、記念切手を売って収入を増やそうという方針を立てた逓信省は、その方針に沿って、切手収集家に売るための切手としてこの小型シートの発行を計画します。その結果、鉄道75周年の切手は小型シートのみの発行とし、額面は(書状料金の1円20銭ではなく)4円として制作費1円を上乗せして5円で販売することが決定されます。

 当時、逓信省で切手政策の事実上の“ドン”として君臨していた中村宗文は、この点について、①記念切手を買うのは切手収集家だけだから(!)、実際に郵便に使用されることを考える必要はなく、実際の郵便料金に連動させなくともよい、②凹版小型シートのようにコストがかかるものは、利用者に制作費の負担を求めるのは当然である、③記念切手の発行が計画された段階では、9月からの郵便料金値上げが予定されていた(実際には値上げはなかった)ため、売価を切りよくし、同時に、需要を満たすものとして4円という額面を設定した、と説明しています。

 しかし、実際はどうあれ、「記念切手は収集家しか買わないから」という認識で、実用性の乏しい切手を発行することに対しては、肝心の収集家から激しい批判が寄せられています。しかし、こうした収集家の声は完全に無視され、逓信省は“収集家のため”と称して、戦後の記念切手濫発時代に突入し、多くの収集から顰蹙を買うことになるのです。

 さて、この切手には、1880年11月に北海道幌内線の開通に際して用いられた弁慶号が取り上げられています。弁慶号が取り上げられたのは、車両が東京・神田の交通文化博物館(現・交通博物館)に展示されていて取材が容易であったことに加え、開業当時の鉄道車両の大半がイギリスから輸入品であったなかで、この車両がアメリカ製であったことも重要なポイントでした。すなわち、逓信省としては、占領当局(本来は、イギリスも占領当局の一員だったはずですが)に気を遣ったつもりだったのです。

 さらに、同型の義経号ではなく、弁慶号が取り上げられたのは、“将”である“義経”を取り上げれば、占領当局からクレームがつくかもしれないと考えた結果だそうで、当時の時代状況が髣髴とさせられます。

 なお、この小型シートは、さすがに制作費1円を上乗せしただけのことはあって、切手としての評判は上々で、アメリカの収集家からも好評をもって迎えられました。ただ、作業日程が短かったことから、反面のインク拭取り作業が不十分で、本来、白地である耳紙にも紺青色のインクがついているものが少なくありません。なお、当時、この切手を買った人の中には、小型シートの耳紙部分にも1円の価値があるとか、シートから切手を切り取ると郵便には使えないのではないか、といったことを真剣に考える人もいたようで、笑うに笑えない落ちがついています。

 この辺の事情については、以前、『解説・戦後記念切手  濫造・濫発の時代 1946‐1952 』の中で詳しく書いたので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。
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 中国のロケット
2005-10-13 Thu 13:53
 昨日(10月12日)、中国が2度目の有人宇宙船「神舟6号」を打ち上げました。

 中国が宇宙開発に着手したのは、ソ連との関係が怪しくなってきた1950年代半ばのことで、1960年代初頭には、ゴビ砂漠の南辺、甘粛省・酒泉付近に東風ミサイル射場が開設されます。そして、1966年には東風1型(CSS-1)中距離弾道ミサイルの試射に成功。1970年4月には、東風3型(CSS-2)を改造した長征1型ロケットで東方紅1型衛星の打上げに成功し、ソ連、アメリカ、フランス、日本に次ぐ5番目の人工衛星打上げ国になりました。

 その長征1型ロケットを取り上げた切手の中から、今日は、こんなものをご紹介します。

北朝鮮ロケット

 このカバーに貼られているのは、1974年7月、北朝鮮がまとめて発行したロケットの切手(海外に輸出して外貨を稼ぐことが一義的な目的と思われる)の1枚で、天安門を背景に切手発行のおよそ4年前に打ち上げに成功した長征1型ロケットを取り上げています。

 文化大革命の時期、紅衛兵の乱暴狼藉が原因で中朝関係は途絶していましたが、1970年になると、周恩来の努力によって中朝関係は文革以前の状態に復します。

 その後、ニクソン訪中や日中国交正常化など、中国は、かつてのソ連同様、西側との共存を目指し、朝鮮半島の安定を望むようになりましたが、1960年代後半から、“自力更生”路線の失敗で経済的苦境に陥っていた北朝鮮には中国を“修正主義者(かつてフルシチョフ時代のソ連が西側との宥和を目指した際、中国がソ連を非難して用いた表現)”として批判する余裕はありませんでした。それどころか、北朝鮮は、経済的苦境から脱するためにも、中国から見捨てられないように、中国の愛顧を取り付けることに汲々とするようになっていきます。この切手も、そうした文脈にそって発行されたものと考えてよいでしょう。

 なお、この切手と同時に発行された宇宙切手のうち、ほかの単片4種と小型シート一種はソ連の宇宙開発を題材としたものです。これは、当時の北朝鮮が対立する中ソのバランスをたくみに取って、双方から最大限の援助を引き出すことを目指す“天秤外交(振り子外交)”を展開していたためで、その意味では、中国のロケットが描かれた切手が貼られたこのカバーが、モスクワ宛に差し出されていることとは、なんとも暗示的です。

 その後、長征型ロケットは打ち上げ失敗の時期が続きましたが、1996年以降は連続成功記録を伸ばして安定性も評価されており、2003年にはソ連・アメリカについで世界で3番目の有人宇宙飛行も成功させました。近年、中国製のロケットは、そのコストの安さもあって、世界の商業衛星打ち上げ市場で急速にシェアを伸ばしています。宇宙開発に関して、中国側は、宇宙空間の平和利用を主張してはいますが、中国の宇宙開発関係機関の多くは人民解放軍の機関と言われていることもあり、その言葉を額面どおりに受け取るわけにはいかないでしょう。

 今回の打ち上げは、2度目ということで、日本のニュースなどは淡々と事実を伝えるだけでしたが、共産党の一党独裁体制の下、国民に“愛国教育”を施して軍拡路線に走る中国がロケット開発で着々と実績を積み重ねていることを、もう少し真剣に受け止めるべきではないかと僕などは思ってしまいます。別に、共産中国をあからさまに敵視せよとは言いませんが、巨大な隣国である彼らを警戒することは必要なはずで、どうして、中国のミサイルの脅威がもっと新聞やテレビで話題にならないのか、不思議でなりません。
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 コロンブスとイザベラ
2005-10-12 Wed 13:53
 今日はコロンブス・デイ。コロンブスがアメリカ大陸を発見した日だそうです。

 で、コロンブス関連の切手といえば、なんといってもアメリカが1893年に新大陸発見400年記念行事の一環として行われた“コロンブス博覧会”の記念切手が有名ですが、その中から今日はこの1枚をピックアップしてみたいと思います。

コロンブス

 この1枚は16種セットの中の4ドル(ちなみに最高額は5ドル)で、コロンブスと彼の航海を支援したイザベラ女王の肖像を並べたものです。

 実は、米国切手に女性がとりあげられたのは、この“コロンブス博”が最初のことで、それゆえ、イザベラは米国切手に登場した最初の(実在の)女性ということになります。

 我々の感覚からすると、イザベラはアンダルスからイスラム勢力を放逐して“レコンキスタ”を達成し、スペイン統一を成し遂げた鉄の女性というイメージが強いのですが、この“コロンブス博”の切手では、他の額面で宝石を売ってコロンブスの航海を支援した彼女の姿が描かれるなど、ひたすらコロンブスを支援した女性という側面が強調されています。

 男女差別の根強かった当時の米国社会では(別に、これは米国に限ったことではありませんが)、切手という国家のメディアを通じて顕彰される女性は、あくまでも男性の成功をサポートする存在でしかありませんでした。このことは、初代大統領夫人をひたすら内助の功で支え続けたマーサ・ワシントン(ジョージ・ワシントンの妻)や、白人とネイティヴ・アメリカンとの“融和”のための人柱となったポカホンタスなどが切手に取り上げられていることからも容易にうかがえます。

 ちなみに、19世紀末のアメリカは、スペイン領のキューバを“独立”させて自国の完全な影響下におくことを虎視眈々と狙っていました。この目論見は、1898年、ついに米西戦争というかたちで火を噴くのですが(この辺の経緯については、拙著『反米の世界史 』をご参照いただけると幸いです)、その5年前に、ほかならぬスペインの女王が切手に取り上げられていたというのも、なんだか奇妙な因縁を感じさせます。

 PS 10月28~30日の<JAPEX >が終わると、11月1~10日には、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。こちらは、6月に刊行した『反米の世界史 』(講談社現代新書)の実物を展示するというものです。<JAPEX >同様、こちらにも遊びに来ていただけると幸いです。
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 朴憲永
2005-10-11 Tue 13:49
 今朝のテレビは、昨日行われた朝鮮労働党60周年記念式典のニュースがトップで、パキスタンの地震も、ドイツのメルケル政権の発足も、なんとなく影の薄かった感じです。

 現在の北朝鮮の支配政党である朝鮮労働党は、当初、朝鮮共産党(太平洋戦争後、在地の共産主義者であった朴憲永がソウルで結成した共産党組織)の“北朝鮮分局”として発足しました。これが、1945年10月10日のことで、今回の60周年というのは、ここから起算した年周りです。

 朝鮮共産党北朝鮮分局という形式が取られたのは、当時はコミンテルンの一国一党原則が生きていたことに加え、朝鮮に南北両政府で分断されるということが想定されていなかったためです。ただ、北朝鮮を占領したソ連当局としては、この地に衛星国を建設するためには、なんとしても自分たちの息のかかった金日成が主導する共産党組織を作る必要があったわけで、彼らとしては“分局”を実質的に朝鮮における共産主義の本家として育成するつもりが当初からあったことはいうまでもありません。

 さて、朴憲永の朝鮮共産党は、1945年末からはじまった反託闘争(信託統治反対闘争。詳しくは10月4日の記事 もご覧ください)の混乱の中で、米軍政庁に抵抗する姿勢を鮮明に打ち出していました。このため、占領当局は共産党の弾圧に乗り出し、1946年9月6日、朴ら党幹部には逮捕状が出ます。このため、幹部が北へ逃れるとともに、同年11月、朝鮮共産党を中心に、南朝鮮新民党・朝鮮人民党の左派勢力が合併し、南朝鮮労働党が発足。一方、北朝鮮では、これに先立つ1946年8月、朝鮮共産党北朝鮮分局が朝鮮新民党を吸収して北朝鮮労働党をつくっていました。この南北の朝鮮労働党が、1949年6月に合併して誕生したのが、現在の朝鮮労働党の原型です。

 この時期の、朝鮮内の混乱を良く示すマテリアルとしては、こんなものをご紹介してみましょう。

朴憲永嘆願書

朴憲永カバー

 これは、朴憲永に対する逮捕令が発せられた後の1947年1月、南朝鮮(このときはまだ大韓民国は成立していない)占領の最高司令官であったホッジ中将宛に、朴の逮捕令を取り消すよう求めた嘆願書です。この時期、すでに朴は越境して北朝鮮に逃れていましたが、そのことを知らない一般の南朝鮮市民の中には、北朝鮮に突如(ソ連から帰国して)現れた金日成のような若造ではなく、戦前からの共産主義運動の指導者として名高かった朴に、統一朝鮮の政治指導者としての役割を純粋に期待していた人も少なからずいたのです。この手紙の差出人も、まさに、その一人だったのでしょう。

 ちなみに、北朝鮮に渡った朴憲永は、1949年6月に朝鮮労働党が成立すると、その中央委員会副委員長(委員長は金日成)に就任し、その後も、北朝鮮国家の副首相や外相を歴任します。しかし、朝鮮戦争の休戦後、金日成らとの権力闘争に敗れ、朝鮮戦争での半島統一の失敗の責任を負わされたうえ、アメリカのスパイとして処刑されるという悲劇的な運命をたどっています。

 さて、10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後の誕生(仮題)”と題する作品を出品する予定です。朝鮮半島に関しては、この嘆願書も含め、1948年に南北両政府が発足するまでの歩みを切手や郵便物でたどります。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。
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 東京五輪募金切手の小型シート
2005-10-10 Mon 13:47
 10月10日は晴の特異日で、それゆえ1964年の東京オリンピックの開会式が行われ、それを記念して数年前までは「体育の日」になっていたのは広く知られています。ただ、今年の東京は、珍しく天気があまり良くないのがちょっと残念ですが・・・。

 ところで、1964年の東京オリンピックを前に、大会資金を捻出する手段の一つとして寄付金つき切手が発行されたことは広く知られています。この寄付金つき切手は、当初、1961年10月から1964年6月まで6次に分けて20種類の切手が発行されましたが、大会直前の1964年8月になって小型シートが追加発行となりました。このうち、小型シートに関しては、↓のような“エラー(というより、単なる不良品といった感じですが)”が数多く発見されており、ある意味で収集家を楽しませてくれます。

五輪小型

 どうしてこういうことになったのか、以下、ちょっと専門的になりますが、東京オリンピックの寄付金つき切手の小型シートの製造過程について、説明しておきましょう。

 今回の小型シートの製造は、印刷局に保存されていた単片切手の原版をそのまま使い、小型シート12面分(2×6)の印刷実用版が作られ、ザンメル凹版多色機によって印刷されました。

 この段階では問題はなかったのですが、目打に関しては、今までにはない新しい型を作らねばならなかったので、作業が難航。結局、未裁断シートの小型シート左右2シートを1回で穿孔する全型目打が作られ、6回の作業で未裁断シート12面の穿孔を完了するという計画が立てられ、作業が民間会社に委託されます。この時期、印刷局の製造ラインは完全に埋まっており、急遽決まった大量の小型シートの発行に対応できなかったためです。

 ところが、目打機の設計に問題があり、実際に穿孔作業を行ってみると、紙送りの歯車のピッチがあわず、大量の目打ズレが発生。ただでさえ、目打の穿孔作業に不慣れな民間会社は、苦心惨憺の末、最終的には機械に重りをつけて紙送りのスピードを人間の手で加減しながら作業するという悲惨な体験を強いられました。

 なんだか、プロジェクトXばりの物語ですが、このほかにも、東京オリンピックの寄付金つき切手をめぐっては、いろいろと面白いエピソードが沢山あります。それらについては、拙著『『切手バブルの時代 』でも出来るだけ拾っていますので、ご興味をお持ちの方は、是非一度ご覧いただけると幸いです。
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 パキスタン管理下のドバイ
2005-10-09 Sun 13:46
 パキスタン北東部を震源地とする地震は死者が3000人を越える大災害になりました。

 僕はパキスタンに行ったことはないのですが、中学生の頃、ジュニア向けの切手雑誌『スタンプ・クラブ』の「パケット整理学」というコーナーで、パキスタン切手のパケットをばらして解説記事を書いたことがあります。実は、これが、フィラテリック・ライターとしての僕のデビュー作です。また、昨年(2004年)、香港のアジア国際切手展に出品したコレクションには、パキスタンのハイバル郵趣協会(ペシャワールに拠点がある収集家の団体)から特別賞を頂戴しました。さらに、大使閣下は切手収集がご趣味だそうで、そのご縁で直接お会いして数時間お話したこともあります。

 こうしたことから、いずれは、パキスタンがらみのコレクションなんかも作ってみたいと漠然と考えていたのですが(たとえば、交通の要衝であったペシャワールの郵便史なんか面白いと思うんですが)、なかなか、実際には手をつけるまでにはいたっていません。それでも、パキスタンがらみで話のネタになりそうな切手やカバー(封筒)はいくつか持っていますから、今日はその中から、こんなものをご紹介しましょう。

パキスタン・ドバイ

 ご紹介しているのは、1948年2月、ペルシャ湾岸のドバイ(現在、アラブ首長国連邦を構成する首長国のひとつ)から差し出されたカバーの一部で、英領インド時代の切手に“PAKISTAN”と加刷した切手が貼られています。

 1947年8月、インドとパキスタンが分離独立する以前の英領インド帝国は、郵政面では、非常に広範な地域をカバーしており、英領インドの域外でも各地でインド切手が使用されていました。こうした英領インドの在外局は、二つの世界大戦を経て次第に規模が縮小されていきますが、それでも、1947年8月の段階では、ドバイとマスカットの郵便はカラチ中央郵便局の管轄下に置かれていました。

 その後、ドバイとマスカットの郵便は、1948年4月に英本国が接収することになりますが、それまでの以降期間内は、暫定的にパキスタン国家の支配下に入ったカラチ郵便局がこの地の郵便サービスを担当していました。このため、ここにご紹介したような、パキスタン切手のドバイ使用例というのが生まれることになったわけです。ちなみに、1960年以前のドバイからの郵便物の大半は、ボンベイ(ムンバイ)宛で、この地域が広義のインド世界と密接に繋がっていたことをうかがわせます。このことを含めて、当時の郵便物を見ていると、インドとか中東とかの地域概念の境界は我々が日常的にイメージしている以上に混沌としたものであることを痛感させられます。

 なお、ドバイを中心とする“アラブ土侯国(現在のアラブ首長国連邦を構成している首長国)”の郵便については、拙著『中東の誕生 』にまとめて書いたことがありますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 いずれにせよ、僕にとっては因縁浅からぬ存在であるパキスタンの惨状は、非常に胸が痛みます。一日も早い復興を心よりお祈りしております。
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 良い核・悪い核
2005-10-08 Sat 13:40
 今年のノーベル平和賞はIAEAが受賞したとのこと。“核”がらみのブツとして一番生々しいのは、なんといっても8月5日 ・6日の日記 でご紹介した広島の原爆関連の葉書ですが(この2点は10月28~30日の<JAPEX >でも展示します)、こんなものも面白いかと思います。

ポーランド反核

 このカバー(封筒)は、1950年7月26日、ポーランドから差し出されたものですが、切手の脇にフランス語で「我々は核兵器を全面的に禁止することを主張する。核兵器を最初に使用した政府は、戦争犯罪として、人道によって裁かれるであろう」との文面のスローガン印が押されています。

 1949年8月、ソ連が原爆実験に成功し、核兵器はアメリカの占有物ではなくなりました。この結果、それまで単純にアメリカの核を非難していればよかった社会主義諸国や左翼陣営の論者たちは、以後、ソ連の核は、核によるアメリカの恫喝に対抗する上で必要最低限のものだと主張するようになります。こうして、反核運動は、純粋な意味での反核というよりも、左翼陣営による反米プロパガンダの一環という色彩がますます強くなっていくことになりました。

 このカバーに押されているスローガン印もそうした文脈で使われたものですが、この場合は、特に、1月前の1950年6月に勃発した朝鮮戦争にアメリカが大量の兵力を派遣していたという事情も考えておく必要があるでしょう。実際、アメリカのトルーマン政権は、同年9月には朝鮮での原爆の使用を検討し始め、11月には原爆使用の可能性をにおわす大統領発言も飛び出しています。(後に撤回されましたが)

 こうした一連の動きは、アメリカによる朝鮮“侵略”を非難していた東側諸国にとって格好の攻撃材料となり、彼らは、「野蛮な“アメリカ帝国主義”の本性がむき出しになった」として、第3次世界大戦の勃発を恐れる欧州で反核の名の下に反米感情をあおっています。

 今回のカバーそのものは、トルーマン発言よりも前のものですが、そうした東側諸国の意識を良く伝える資料として興味深いと思います。

 10月28~30日の<JAPEX >が終わると、11月1~10日には、東京・白金の明治学院大学 キャンパス内のインブリー館を会場に、「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展を開催します。こちらは、6月に刊行した『反米の世界史 』(講談社現代新書)の実物を展示するというもので、今日ご紹介しているカバーも会場に並べる予定です。<JAPEX >同様、こちらのほうにも遊びに来ていただけると幸いです。
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 国際文通週間・蒲原
2005-10-07 Fri 13:38
 今年もまた、広重の「東海道53次」を題材にした「国際文通週間」の切手が発行されます。

 国際文通週間は、世界の人々が文通によって文化の交流に努め、世界平和に貢献しようという趣旨で、1957年の第14回万国郵便大会議において設定されたもので、期間は万国郵便連合創設記念日の10月9日を含む1週間です。日本では、そのキャンペーンの一環として、1958年以降、毎年、記念切手を発行しています。

 毎年4月20日(逓信記念日)に発行される切手趣味週間の切手と並んで、文通週間切手は戦後記念切手の花形役者ですが、なかでも、1960年に発行された「蒲原」(↓)は他の切手に比べてカタログ評価が高く、手の届かない高嶺の花としてあこがれていた元切手少年も多いのではないかと思います。

蒲原

 もっとも、発行当時、蒲原は“地味な切手”と受け止められたためか、収集家の間での人気はあまりありませんでした。実際、1963年版までは、『新日本切手カタログ』(現在の『日本切手専門カタログ』の前身)でのこの切手の評価は、同時期に発行された額面30円の切手と同じく60円でした。

 しかし、おなじく文通週間切手の中でも、1958年の「京師」と1959年の「桑名」の発行枚数が800万枚だったのに対して、「蒲原」は500万枚に減らされた(「桑名」の売り上げが悪かったためでしょう)こともあり、1963年前後から、東京オリンピックを前にした切手バブルの時代に突入すると、この切手の市価も急騰していきます。

 当時の『新日本切手カタログ』の評価(収集家同士の趣味的な交換を前提にした値付けをしていたため、比較的評価額が低かった)でも、1964年版では、この切手の評価は、一挙に300円(それまでの5倍)に跳ね上がっています。さらに、1965年版では、「蒲原」の評価は続伸して500円に達してしまいました。ちなみに、1963年版では「蒲原」と同評価であった「桑名」は、1965年版のカタログでも120円の評価しかついていませんから、「蒲原」の高騰がいかに、突出したものであったかよく分かります。

 ここ数年、戦後記念切手に関する“読む事典”として、日本郵趣出版(切手関係の専門出版社です)から、<解説・戦後記念切手>のシリーズを刊行しています。これまで、1946~52年の占領時代の切手を扱った『濫造・濫発の時代 』、1952~1960年の切手を扱った『ビードロ・写楽の時代 』、1961~66年の切手を扱った『切手バブルの時代 』の3冊を出し、来年には第4弾として大阪万博前後を中心とした1冊を刊行する予定です。僕個人の目論見としては、いやしくも<解説・戦後記念切手>というシリーズ名を掲げているのですから、ともかくも昭和の終わりまではなんとか、記念切手の“読む事典”としてカバーしたいと考えているのですが、さてさて、どうなりますことやら…。

 ところで、<解説・戦後記念切手>のシリーズでは、それぞれの切手についての解説をまとめるという形式をとっているため、なかなか、広いスパンでの記念切手をめぐる動きをフォローし切れていないのが残念なところです。今回の「蒲原」の値動きの話もそうですが、各切手ごとの“逐条解説”が終わったら、それを元にもっとスケールの大きな物語を組み立ててみたいというのが、いまの僕の目標の一つになっています。
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 10月6日の光と影
2005-10-06 Thu 13:36
 1973年10月6日、エジプト・シリアの連合軍は国境を越えてイスラエル領内に侵入。いわゆる第4次中東戦争が勃発しました。

 開戦当初、アラブ側は奇襲攻撃の利を活かして、イスラエル軍に大打撃を与えます。特に、1967年の第3次中東戦争でシナイ半島を失っていたエジプトは、スエズ運河渡河作戦が成功し、イスラエルの不敗神話が破られたことに国民が熱狂。また、開戦と同時に、エジプト・シリアを支持するアラブ産油諸国は、反アラブ諸国への石油供給を削減する“石油戦略”を発動。いわゆる(第1次)石油危機が起こり、これを背景にエジプトは強気の外交攻勢を展開しました。

もっとも、アラブ側とイスラエル側では戦争を遂行していくための地力が全然違いますから、アラブ側の有利が続いたのは開戦後のほんの僅かな期間だけのことで、時間の経過とともに、イスラエル側は反撃を本格化し、ついに、開戦時の国境を越えてエジプト・シリア領内に突入します。

しかし、石油危機下での国際的な圧力もあって、戦争は、エジプト・シリアが一定の軍事的勝利を収めたことを踏まえた停戦交渉が開始され、サダトはシナイ半島返還を目指した対イスラエル和平路線に踏み出していくのでした。

サダト

 ↑の切手は、そうした事情を踏まえて1974年の開戦1周年に際してエジプトが発行した記念切手で、スエズ渡河の場面が大きく描かれています。左側にはサダトの肖像も取り上げられており、“スエズ渡河の英雄・サダト”のイメージを内外に対して強調しようとする意図が明確に表現されています。

 もっとも、シナイ半島奪還のためにサダトが進めた対イスラエル和平は、アラブ・イスラム世界では“変節”ないしは自国の国益のためにパレスチナを売り渡す卑劣な行為と受け止められ、エジプトは次第にアラブ世界で孤立していきます。そして、1981年10月6日、第4次中東戦争の勝利から8周年を祝う軍事パレードを閲兵中、サダトはいわゆるイスラム原理主義の信奉者であった軍人に暗殺されるという悲劇的な最後を迎えることになるのです。

 最近、石油の値段が高騰し、テレビなどでは1973年の(第1次)石油危機のときの映像が時々流れたりしています。そこで、石油危機の原因となった第4次中東戦争の開戦日に当たる10月6日にちなんで、今日は、こんな切手を取り上げてみました。
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 ブラジルのご夫妻
2005-10-05 Wed 13:35
 いよいよ『皇室切手 』の刊行日(奥付上は10月19日)まで、あと2週間になりました。早ければ、来週末には一部の書店の店頭に実物が並んでいると思います。見かけたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 また、『皇室切手 』の刊行後の10月28日~11月6日、東京・目白の<切手の博物館 >では、平凡社の後援で「皇室切手展」を開催します。会期中は、戦前の皇室のご婚儀に関連する切手の名品を多数、展示いたします。また、10月29日の午後(3:30頃から)には展示解説を、11月5日の17:15からは『皇室切手 』刊行記念のトークを行う予定です。池袋の<JAPEX >とあわせて、是非、遊びに来ていただけると幸いです。

 で、現在、その切手の博物館 では、皇室切手展の姉妹展として世界の女王様展を開催しているのですが、本日発売の『週刊文春』にその紹介記事が掲載されました。そこで、記事で取り上げられた切手の中から、今日は↓の1枚をご紹介します。

ブラジルの皇太子

 この切手は、1967年5月、当時の皇太子ご夫妻の訪伯(伯はブラジル)に際してブラジル側が発行したものです。

 さて、1945年の敗戦とともに、日本国内では天皇を現人神とする考え方は公式には否定されましたが、直接に大戦を経験しなかったブラジルの日系社会では、その後も祖先崇拝と結びついた天皇崇拝は続いていました。

 その後、日系人がブラジル社会で重要な地位を占めるようになると、ブラジルの日系社会は、自分たちの節目の年に日本から皇族を招いて記念式典を開催したいと考えるようになります。その結果、1958年の日系移民50年祭に三笠宮が訪伯されたのを皮切りに、節目の年ごとに日本から皇族が訪伯しています。で、1967年は、実質的な移民60年との位置づけで、皇太子ご夫妻の訪伯が実現したという訳です。

 切手が発行された1960年代には、ブラジルの日系社会でも、以前のような天皇崇拝は薄らいでいたものの、皇太子ご夫妻の沿道に”見に行く”と言って親の世代から“拝みにいく”ものだとたしなめられた若者も少なくなかったと報告されています。また、皇太子の訪伯時には、中東情勢が極端に緊迫し、6月には第3次中途戦争が勃発していますが、ブラジルのメディアは日本の皇太子関連のニュース一色だったそうです。

 切手そのものをみてみると、写真の切り抜きが何となくラフなところや、背景の赤い菊花紋章とそれを太陽になぞらえた光線風のストライプ(やっぱり、“拝みに行く”相手はこうでなくっちゃ)などが、時代を彷彿とさせて、結構、インパクトがあります。今回の『皇室切手 』も、ポップな感じのイメージでカバーを作るのなら、この切手を使ったコラージュも悪くないかなと思っていたのですが、やはり、“皇室”の硬質なイメージを前面に出した方がよいだろうということで、このプランは早々に没になりました。
 
 まぁ、カバーでは没になりましたが、『皇室切手 』の本文では、この切手についてもそれなりのスペースを割いて説明していますから、よろしかったら、お読みいただけると幸いです。
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 北朝鮮で使われた日本製の葉書
2005-10-04 Tue 13:30
  昨日 ・一昨日 と第二次大戦後のヨーロッパでの分割占領の話を書きましたが、分割占領といえば、やはり、朝鮮半島のことにも触れないわけに行かないでしょう。

 1945年8月の段階で、ソ連が日本降伏後の朝鮮半島に衛星国を建設するという明確なプランを持っていたのに対して、アメリカは朝鮮半島の戦後処理についてなんら具体的な計画を持っていませんでした。このため、とりあえず、暫定的な境界線として北緯38度線が設定され、朝鮮半島は米ソによって分割占領されます。その後、同年12月にモスクワで開催された米ソの話し合いの結果、朝鮮半島を一定期間の信託統治下に置くというプラン(モスクワ協定)が決定され、発表されます。これに対して、即時独立を求める南朝鮮(大韓民国はまだできていません)では大規模な反対闘争が発生。これに対して、ソ連が着々と金日成政権の地盤を固めていた北朝鮮は、ソ連の意を汲んで、信託統治に賛成の意向を示します。そして、それに引きずられるかたちで、南朝鮮の左翼勢力も信託統治に賛成を表明し、南朝鮮は信託統治の是非をめぐって社会的に混乱しました。

 さて、ソ連は、モスクワ協定の段階では、朝鮮に南北統一の政府を作ることも考えていましたが、その後の南朝鮮の状況を見て南北の統一は無理と判断。とりあえず、自分たちが占領している北半部だけでも、自分たちの意のままになる政府を作り、そこから、影響力を南半部にも拡大していこうとする民主基地路線に大きく舵を切ります。そして、1946年には、事実上の北朝鮮政府として北朝鮮臨時人民委員会を発足させ、南北分断に向けての第1歩を踏み出すのです。

 さて、↓は、その北朝鮮臨時人民委員会の統治下で差し出された葉書です。

北朝鮮初期の葉書

 葉書は日本時代のものを接収し、漢字の郵便葉書や朝鮮のハングル表示、額面の五十銭などの文字が入った赤い印を押したうえで使用したものです。この印には、印色や額面などでいろいろとバラエティがあるのですが、それらを全部そろえるのは容易ではありません。葉書は1947年9月に城津から差し出されています。この城津は、後に北朝鮮の要人であった金策にちなんで改名され、現在は金策となっています。

 ちなみに、1945年以降しばらくの間は、南朝鮮でも日本時代の葉書が使われていました。

 我々は、ともすると1945年8月15日を境に、その前後で、日本時代と解放後がデジタル的にスパッと切り分けられるような錯覚を持ちがちですが、人々の生活レベルでは、そうそう簡単に前時代の“遺産”が消滅してしまうわけではありません。そういう当たり前のことを、こうした葉書は改めてわれわれに教えてくれているような気がします。

 さて、10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後世界の形成”と題する作品を出品する予定です。朝鮮半島に関しては、この葉書を含め、1948年に南北両政府が発足するまでの歩みを切手や郵便物でたどります。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。
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 ドイツとオーストリアの差
2005-10-03 Mon 13:29
 昨日の記事 では第二次大戦後のドイツの分割の話を書きましたが、今日は、その隣のオーストリアの話を一くさり。

 終戦までドイツと一体だったオーストリアは、敗戦後、ドイツと分断された上、米英仏ソの4国によって全土が分割占領されました。首都のウィーンが分割占領された点も、ドイツと同様です。ただし、ドイツがナチス政権の崩壊によって中央政府を喪失したのに対して、オーストリアの場合は、1938年の独墺併合(ナチス・ドイツによる併合)によって消滅していたオーストリア政府が終戦とともに復活。第2共和制が発足したことで、ドイツのような国家分断の悲劇を免れることになりました。

 そういった予備知識を頭に入れた上で、↓のカバーを見ていただきましょう。

オーストリア検閲カバー

 このカバーは、1946年7月、イギリス占領下のグラーツからイタリア宛に差し出されたもので、占領当局によって開封・検閲されています。当局が開封・検閲したことを示す印に“IN DER BRITISCHEN ZONE”の文字がしっかりと入っているので、この地域がイギリス占領下に置かれていたことが一目で分かります。

 4国に分割占領されていたオーストリアは、1955年に独立を果たし、永世中立国として国際社会に復帰します。今年はその50周年でもあるのですが、日本でも、どこかで何かイベントでもやってるんでしょうか。ちょっと、気になっています。

 さて、10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後世界の形成”と題する作品を出品する予定です。作品は日本を含むアジア地域が中心ですが、スペースの許す限り(おかげさまで、“1945年”の企画コーナーでは、予想を大幅に上回る作品があつまり、僕の展示も当初の予定を大幅に圧縮することになりました)、ヨーロッパの事情についても若干触れたいと思っています。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。
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 東ドイツのルーツ
2005-10-02 Sun 13:24
 東西ドイツが統一されたのは1990年10月3日のことでしたから、15年前の10月2日は、“東ドイツ”最後の日だったということになります。で、東ドイツ(ドイツ民主共和国)という国が正式に発足したのは1949年のことでしたが、そのルーツは第二次大戦後、ドイツが米英仏ソの4国によって分割占領されたことにまでさかのぼります。

 その第二次大戦後のドイツ占領後初期のカバー(封筒)の実例として、こんなものを引っ張り出してみました。

墨塗りヒトラー

 このカバーは、ナチス降伏から1ヵ月後の1945年6月8日、ドレスデンから差し出されたものです。ドレスデンはザクセン州の州都で大戦末期の1945年2月、連合国の空襲を受けて市内の中心部はほぼ灰燼に帰し、戦後はソ連軍の占領下に置かれました。

 さて、ナチスの時代、ドイツではヒトラーの肖像切手が日常的に使われていましたが、敗戦とともにこの切手は使用停止となります。とはいえ、新しいデザインの切手を用意するためには相応の時間が必要ですから、しばらくは、ここに示すように、ヒトラーの肖像部分を塗りつぶした切手が使われていました。

 その後、米英仏ソの占領地域では、米英地区・フランス地区・ソ連地区それぞれが独自の切手を発行し始めます。一時、米英地区とソ連地区は共通の切手を使ったこともありますが、東西冷戦の進行とともに、1949年には東西分断国家が誕生し、以後、1990年にいたるまで両国は別個の切手を発行し続けることになります。

 10月28~30日に東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催の<JAPEX >では、今年が戦後60年ということにちなみ、“1945年”にスポットをあてた特別展示を行います。僕も“戦後世界の形成”と題する作品を出品する予定です。作品は日本を含むアジア地域が中心ですが、スペースの許す限り(おかげさまで、“1945年”の企画コーナーでは、予想を大幅に上回る作品があつまり、僕の展示も当初の予定を大幅に圧縮することになりました)、ドイツの分割占領についても多少は触れたいと思っています。是非、月末は池袋にお運びいただき、“1945年”の企画展示をご覧いただけると幸いです。
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