内藤陽介 Yosuke NAITO
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 1年間ありがとうございました
2005-12-31 Sat 14:58
 2005年もあと数時間でおしまい。今年も皆様には本当にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、主なものだけでも、下記のような仕事を残すことができました。

 <単行本>
・『(解説・戦後記念切手Ⅲ)切手バブルの時代:五輪・新幹線切手に踊らされた頃 1961-1966』 日本郵趣出版

切手バブルの時代


・『反米の世界史:「郵便学」が切り込む』 講談社

反米の世界史


・『皇室切手』 平凡社

20051209010237.jpg


・『コーランの新しい読み方』 晶文社(翻訳・内藤あいさとの共訳)

コーランの新しい読み方


 <単発モノの論文・エッセイなど>
・「東京オリンピック募金切手の研究」 『メディア氏研究』第18号
・「『解放切手』の時代:郵便に見る歴史の転換点」 『日韓文化交流基金NEWS』
・「日本陸軍の経済謀略作戦:中国通貨を偽造せよ!」 『歴史群像』第69号(2005年2月号)
・「『趣味週間』と切手ブーム」 『郵趣』2005年3月号
・「郵便学者の舞台裏」 『本』2005年7月号
・「軍用手票:占領地に流通した明日なき紙幣」 『歴史群像』第72号(2005年8月号)
・「切手・郵便物に見る1945年ヒストリー」 『郵趣』2005年8月号
・「切手が語る歴史の断面」 『北海道新聞』2005年8月2日付夕刊
・「切手に刻まれたフィリピン人の苦悩」 『歴史と地理』第586号
・「切手というメディア:制度の変革期に考える」 『東京新聞』2005年8月29日付夕刊

 <連載>
・「切手で見る韓国現代史」 『週刊東洋経済日報』
・「たたかう切手たち」 『Webちくま』 筑摩書房(連載終了) 
・「ピンホールコラム」 『朝日新聞』(土曜日・夕刊 連載終了)
・「切手に見るアラブの都市物語」 『(NHK)アラビア語講座』
・「外国切手の中の中国」 『(NHKラジオ)中国語講座』

 <切手展>
・「もう一つの昭和戦史:切手と戦争」展(切手の博物館での個展)
・「反米の世界史:切手が語るアメリカ拡大の歴史」展(明治学院・インブリー館での個展)
・“戦後”の誕生(全国切手展<JAPEX>企画出品)

 上記以外にも、公私にわたり、実に多くの方々より、ご支援・ご協力を賜りました。この場を借りて、皆様に厚くお礼申し上げます。

 明年は、大きな仕事としては、1月11日スタートの“中東切手展”(於・切手の博物館)が最初のものとなります。また、単行本も3月刊行のちくま新書を皮切りに、今年同様、4冊の刊行を目標に頑張りたいと思います。

 引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 最後に、来る年の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、本年の日記の筆をおくことにします。

 内藤陽介拝 

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 2005年最後の収穫品
2005-12-30 Fri 19:33
 今年もいろいろな切手や郵便物が僕の手元にやってきました。その最後の1点が、今日届いた下のカバー(封筒)です。
(画像はクリックで拡大されます)

占領下の東エルサレム宛

 1967年に起こった第3次中東戦争の結果、イスラエル軍は東エルサレム(旧市街のある地域)を含むヨルダン川西岸を占領します。その後、国際社会はイスラエルに対してヨルダン川西岸らの撤退を求めるものの、イスラエルはそれを無視して現在なお西岸地区に居座り続けているのは広く知られている通りです。当然、第3次中東戦争が勃発するまで東エルサレムを領有していたヨルダンは、イスラエルによる東エルサレム占領の正当性を認めていません。

 今回ご紹介しているカバーは、そうしたヨルダン当局の姿勢を示すもので、1968年にデンマークからエルサレム宛に差し出されたものの、ヨルダン当局によって「敵国占領地域への配達は不能」という理由で差し戻された後、改めて別ルートでエルサレムまで運ばれたものです。青いアラビア語の印と紫の英語の印は、いずれも、ヨルダン当局が差し戻しの理由を説明するために押したものです。これに対して、左側の円形の印は、エルサレム到着後、イスラエル当局によって押されたもので、このカバーがたどった複雑な道のりがしのばれます。なお、差出人は宛先の住所を“ヨルダンのエルサレム”と記しており、イスラエルによる東エルサレム占領を快く思っていなかったことが伺えます。

 年明けの1月11日から、東京・目白の<切手の博物館>では、“中東切手展”を開催します。僕の担当部分については、ぎりぎりまで作品構成をいじって、すこしでも良いものに仕上げたいと思っているのですが、このカバーもおそらく使うことになるでしょう。年が明けたら、追々“中東切手展”のこともこのブログでご案内していきますので、ご期待ください。


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 12歳
2005-12-29 Thu 14:57
 ライフワークというほど大げさなものではないのですが、この数年、戦後記念切手の“読む事典”を作っています。2001年に最初の1冊として、1946~52年の記念特殊切手の情報を網羅的に集めた『濫造濫発の時代』を出してから、第2巻目の『ビードロ・写楽の時代』、第3巻目の『切手バブルの時代』と作ってきて、現在は、来年の4月刊行を目途に封書料金が15円だった時代を中心にした本を制作中です。

 その過程で、昨日、資料をめくっていたら1968年の切手趣味週間にあわせて発行された土田麦僊の「舞妓林泉」の切手(画像は下)について、ちょっと面白い話を拾うことができました。

 舞妓林泉

 「舞妓林泉」に描かれている舞妓は、この作品が作られた1924年当時、京都祇園の茶屋“清水この”に“鈴栄”の名で出ていた当時12歳の女性です。彼女は舞妓から芸妓となり祇園花柳界で名声を博し、1954年、関西歌舞伎の女形、嵐雛助(本名:今井正男)と結婚し、切手発行時は“今井フミ子”として西宮市で健在(54歳)でした。

 切手発行日(1968年4月20日)の朝、彼女が西宮郵便局を訪れると、局長の重兼忠三郎が窓口に並んでいた収集家に彼女のことを「切手のモデルになった今井さんです」と紹介。行列の収集家は拍手で彼女を迎えて列の先頭を譲り、彼女が最初に切手を購入する場面が翌日の毎日新聞でも取り上げられました。毎日新聞社の取材に対して、彼女は「(麦僊本人がデザインした)白地に花もようの着物でモデルになったのは夏の最中でした。あの頃がなつかしい」と語っています。

 実は、僕には娘が一人いて、今日は彼女の12歳の誕生日です。近代日本を代表する美人画のモデルと比べるのもおこがましい話ですが、だらしなくひっくり返ってテレビドラマを見ている自分の娘を見ていると、同じ12歳の日本女性でもこうまで違うものかと眩暈がしてしまいます。まぁ、「トンビはタカを生まないよ」といわれればそれまでの話なのですが…。

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 第5列との戦い
2005-12-28 Wed 16:00
 1936年に始まるスペイン市民戦争のときのこと、フランコ側の将軍モラは4個部隊を率いてマドリードの共和国政府を攻撃した際、マドリードには自分たちに呼応するもう一つの部隊(=“第五列”)がいるとして、共和国政府には反乱軍への内通者がいることを示唆しました。このエピソードが元になって、自国の後方で撹攪乱工作・サボタージュを行うスパイ、裏切り者、売国奴のことを“第5列”と呼ぶようになりました。

 どんな国でも、自国の内側にこうした“第5列”がいては困るわけですが、↓のカバー(封筒)には、そうしたことをストレートに表現した切手が貼られています。(画像はクリックすると拡大されます)

第5列


 カバーに貼られているのは、第二次大戦中の1943年7月、キューバで発行された“第5列との戦い”というキャンペーン切手です。

 第二次大戦中のキューバは、領内で戦闘は行われなかったものの、反枢軸陣営の一員として日独伊の3国に宣戦を布告し、アメリカに基地を提供するなどして、戦時体制下にありました。そうした中で、防諜宣伝のために発行されたのが“第5列との戦い”のキャンペーン切手です。このカバーは、このとき発行された5種類の切手全てを貼って、切手の発行初日にアメリカ宛に差し出されています。切手はいずれも、国内に潜むスパイとしての“第5列”を暴き出し、彼らに警戒し、彼らを打倒するよう呼びかけるスローガンが書かれ、それにあわせたイメージのイラストがデザインされています。

 当時のキューバには、外国勢力が入り込んでスパイ活動をしていたという可能性はきわめて低かったはずで、むしろ、バチスタ独裁政権は国内の反対派をいかに抑え込むかということに汲々としていました。したがって、この切手も、実際には、戦時体制の構築に名を借りて、政権の求心力を高めようとしていたことの裏返しと見ることも可能かもしれません。

 中国・上海の日本総領事館に勤務していた男性が、女性関係をネタに中国当局から機密情報の提供を強要されて自殺したとされる事件があったそうですが、それが事実であるなら、常識的に考えて、今回発覚した事件も氷山の一角に過ぎないと考えるのが妥当でしょう。はたして、中国共産党政府は、すでに相当な規模の“第5列”を日本国内に作り上げてしまったのでしょうか。今日のカバーは、そんな不安を感じながら、引っ張り出してみました。


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 ハーグ円卓会議
2005-12-27 Tue 13:58
 昨日に続いて、インドネシアがらみのネタを一つ。

 1945年8月、旧オランダ領東インドを占領していた日本軍が降伏すると、スカルノらはインドネシアの独立を宣言。植民地支配の復活をたくらむオランダがこれを武力で押さえ込もうとしたことから、インドネシア独立戦争が勃発します。独立戦争は、1949年12月27日、ハーグの円卓会議でインドネシアの独立が正式に認められて終結するのですが、そのハーグの円卓会議の会議場内に設けられていた郵便局から差し出されたカバー(封筒)が↓です。

 ハーグ円卓会議

 切手に押されている消印は会議場内郵便局のものですが、残念ながら非常に薄く、日付を読み取ることはできません。ただ、その横に押されている中継印には1949年10月18日の表示がしっかりと見えます。

 宛名は“バタビア”となっていますが、それからほぼ2ヵ月後の12月27日には、この地名も“ジャカルタ”と変わるわけで、まさに、転換期の歴史が刻まれた1品といえそうです。

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 マレーとスマトラ
2005-12-26 Mon 13:09
 スマトラ沖の地震からちょうど1年だそうです。というわけで、こんなモノを引っ張り出してみました。

 マレーのスマトラ使用

 これは、太平洋戦争中の1943年12月、スマトラのアチェ州(地震・津波の被害が最も大きかったところです)のクタラジャで取り扱われた郵便為替証書です。

 現在、マレー半島の大半を領有しているマレーシアとスマトラ・ジャワなどを領有しているインドネシアとは別個の国ですが、これは、植民地時代の英領と蘭領の線引きをそのまま継承した結果であって、歴史的にはスマトラ島はマレー半島とのつながりが濃厚な地域です。

 太平洋戦争が勃発し、日本軍がこの地域一帯を占領すると、それ以前の英領・蘭領という線引きは必ずしも意味を持たなくなり、新たな支配者となった日本軍は、当初、スマトラを昭南(現シンガポール)に設置した昭南軍政監部の管轄下におき、郵便も昭南郵政総局の傘下におかれることになりました。こうした状況は、1943年5月1日にスマトラ軍政監部が発足するまで続きます。

 こうしたことから、スマトラには一部、日本軍占領下のマレーの加刷切手が配給され、使用されることもありました。今回ご紹介している証紙にも、“DAI NIPPON 2602 MALAYA”と加刷された切手が貼られています。

 “昭和の戦争”にからむ仕事をそれなりにしているせいか、1年前の地震の時に出てくる地名は僕にとってなじみの深いものばかりで、事件当時は大いに胸が痛んだ記憶があります。被災地の復興はまだまだ道半ばといった状況のようですが、一日も早い復興をお祈りしています。


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 隠れクリスマス切手
2005-12-25 Sun 12:09
 ウィキペディアによると、日本のキリスト教徒の人口は、カトリックが約50万人、プロテスタントが約30万人だそうです。これは、外国人登録者数の185万人(2002年末の統計)の半分以下ですから、キリスト教徒というのは日本社会では極端なマイノリティということになります。

 そういうわけで、民間のクリスマス・イベントが華やかに行われていても、憲法に定める“信教の自由”との関係もあって、日本の郵政が“クリスマス”を切手に取り上げることには慎重にならざるを得ないというのも理解できなくはありません。今年発行された“冬のグリーティング切手(http://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2005/h171021_t.html)”は明らかにクリスマス・デザインの切手ですが、それがおおっぴらに“クリスマス”と名乗れないのもそうした事情があるからでしょう。「たかだか100万人にも満たないキリスト教徒のためにクリスマス切手を出すなら、(公称)800万世帯を超える俺たちの切手を出せ」と某宗教団体が与党の政治家を動員して騒ぎ出したりなんかしたら、日本の郵政にとっては大事でしょうからね。

 もっとも、ちょっとひねった見方をして探してみると、“隠れクリスマス切手”というべきものも存在しています。1938年に発行された日光国立公園の切手は、その代表的な事例です。(下の画像は、このとき発行された4種の切手のうち3種を貼ってインド宛に差し出された封筒)

 日光カバー

 戦前の国立公園切手には、外国人観光客を増加させるためのプロモーションのために発行されたという側面があります。

 国立公園切手というと、カタログでは1936年の富士箱根国立公園の切手が最初にあげられていますが、この切手は、どちらかというと、国立公園制度発足の記念切手という性格が強いもので、この切手が発行された時点では逓信省は国立公園切手をシリーズ化する予定はありませんでした。ところが、この切手の評判が良かったため、国立公園切手はシリーズ化されることとなり、1938年12月25日のクリスマスを期して、シリーズ第一弾として日光の切手が発行されたのです。

 日光の切手は、クリスマスの外国人旅行者を相当に意識して作られたもので、発行日の設定はもとより、小型シートのタトウには、日本語の説明に加え、外国人向けに英仏語の説明が加えられているほか、発売局も地元のほかは外国人旅行者の多い地域に限定されています。逓信省としては、この切手を外国宛のクリスマス・カードを送るときに大量に使ってもらい、日光の魅力をアピールして、外国人観光客を大いに招致したいというのが本音だったのでしょう。(それなら、クリスマス前に発行しておけよ、という突っ込みたくなりますが…)

 こうしたことを考えると、日光の切手は“隠れクリスマス切手”と言っても良いように思うのですが、皆さんはどのようにお考えでしょうか。

 それにしても、この時季の日光は寒いんでしょうねぇ。スケートやワカサギ釣をやる人たちには楽しいところなんでしょうが、あったかいところでぬくぬくとしていたい僕にとっては、ちょっと遠慮したい場所です。

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 戦時下・占領下のクリスマス:ガダルカナル-1942年
2005-12-24 Sat 17:29
 今日はクリスマス・イブです。というわけで、気まぐれに続けてきた“戦時下・占領下のクリスマス”のシリーズも、とりあえず、今年は今日で打ち止めにするということで、こんなものを引っ張り出してみました。

 ガダルカナル

ガダルカナル中1

ガダルカナル中2

 今回ご紹介しているのは、1942年12月、ガダルカナル島のアメリカ海兵隊員宛に送られたクリスマスカードです。画像の一番上はカードを入れていた封筒で、真中はカードの表紙、一番下はカードの中身です。(各画像はクリックすると拡大されます)

 ガダルカナル島は南西太平洋のソロモン諸島の南部にあり、日本からは直線距離にして4000キロ以上もあります。

 1942年8月、日本軍は、アメリカとその反攻基地オーストラリアとの連絡を遮断するため、ガダルカナルに飛行場を建設。以後、この飛行場をめぐって日米双方が血みどろの戦いを繰り広げた末、1943年2月、日本軍は“転進(=撤退)”を余儀なくされました。この戦いでは、上陸した約3万名の日本軍将兵のうち、撤退できたのは1万名余しかおらず、戦死者2万1000名のうち、1万5000名は病死または餓死だったといわれています。このことから、ガダルカナル島、略してガ島は“餓島”とさえいわれました。

 さて、今回のクリスマスカードは、そうした激戦の最中にガダルカナル宛に送られたものの、宛先地まで配達することができず、差出人戻しとなっています。郵便物が届かないということが、その地域の状況を示すことがあるとするなら、その典型的な事例といってよいでしょう。

 同封されているクリスマスカードは、海軍の将兵を想定して作られたものですが、赤・青・金の三色印刷に加え、表紙の鷲と盾の紋章や、中身の鐘とヒイラギの部分にはエンボス加工が施されており、パッと見よりもずっとコストがかかっています。この辺にも、“餓島”の戦いに苦しんでいた日本と、物量で押しまくることのできるアメリカとの国力の差が如実にあらわれている、といって良さそうです。

 さて、“戦時下・占領下のクリスマス”のシリーズは、今年の分はこれで終了になりますが、まだまだ、色々と関連のマテリアルも手元には残っていますので、来年も、時季が来たらこの企画をやってみようかと思っています。

 それでは、皆様、良いクリスマス(イブ)をお過ごしください。



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 扇から旗へ
2005-12-23 Fri 15:05
 今日は天皇誕生日ということで、今上陛下がらみの切手の話題を一つ。

 1952年、当時皇太子だった陛下の立太子礼(皇太子とされた親王が、内外に皇太子であることを宣明するための儀式)が行われました。で、そのときの記念切手の題材として、郵政省は殿下の肖像を切手に取り上げようとしたのですが、例によって宮内庁の反対でそのプランは実現しませんでした。

 で、代わりの題材のひとつとして、郵政省は宮内庁のアドバイスを得て、当日の儀式で使う檜扇(檜でできた扇)を切手に取り上げることにして、準備を進めました。ところが、立太子礼まであと2ヶ月に迫った9月上旬になって、宮内庁は突如、切手に檜扇を使うのは不適切であると言い出します。

 宮内庁側の言い分は以下の通りです。

 当日の儀式としては、皇太子成年式を行った後、立太子礼を行うので、立太子礼の時点では皇太子は既に成年している。これに対して、檜扇は未成年の持ち物であるから、皇太子は成年式の時点ではこれを使うものの、立太子礼の際にはもはや用いない。それゆえ、立太子礼の名の下に発行される切手に檜扇を使うのは適切ではない…。

 しかし、そもそも、檜扇を切手に使ったらどうかと郵政省に“アドバイス”したのは宮内庁だったはずなのですが…。

 結局、郵政省は宮内庁の理不尽なクレームを受け入れて、檜扇を切手に使うのを断念し(クレームがあった時点では、すでに原版の彫刻は終わっていました)、代わりに皇太子旗を描いた切手(↓)を発行しています。

 立太子礼(明仁)

 今回のエピソードは、皇室切手の発行に対してもいろいろと口を挟んで影響力を行使したい宮内庁が、意識的に郵政省に対して嫌がらせをしたものなのか、それとも、単純に彼らが良く調べもせずにいい加減なアドバイスをしておいて、あとで慌ててそれを取り消すために開き直って尊大な態度に出た結果なのか、その辺は解釈が分かれるかもしれません。

 もっとも、この切手に限らず、戦後の皇室切手に関して、宮内庁は常に非常識な主張(一般国民の常識から大いにずれていることは間違いないのですから、こう呼んでもなんらおかしくないはずです)を展開してきたことは、ちょっと皇室切手のことを調べてみればすぐに分かります。この問題に関しては、10月に刊行した『皇室切手』(http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/browse.cgi?code=832091)に詳しくまとめていますので、ご興味をお持ちの方は是非、ご一読いただけると幸いです。


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 ES細胞の切手
2005-12-22 Thu 15:18
 数日前の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-202.html)で、韓国でのES細胞捏造事件に絡んで北朝鮮での“鳳漢学説”の話を取り上げた際、韓国では問題になった黄教授の業績をたたえる切手が既に発行されていることにも触れました。その後、この件に関して、いろいろとお問い合わせ等を頂戴しましたので、問題の切手をご紹介しておきましょう。

 ES細胞

 この切手は、今年(2005年)の2月12日に韓国で発行されたもので、正確には「ヒト・クローン胚成功」の記念切手ということになっています。ヒト・クローン胚を作り、そこから胚性幹細胞(ES細胞)を取り出し培養することに初めて成功したというのが、問題の黄教授の“業績”ですから、この切手は教授の顔こそ出てきませんが、かなりストレートに教授をたたえる内容であることは間違いありません。

 切手のデザインは、「細胞つくりの手順と車椅子から立ち上がる人のシルエット」と説明されています。ES細胞の技術は、(それが成功すれば)損傷した細胞の代わりに健康な細胞を移植する治療法を確立するうえで大きな前進となりますから、韓国郵政としても、車椅子から立ち上がる人のシルエットによって、損傷された細胞の回復を表現しようとしたのでしょう。

 しかし、それよりも痛々しいのは、切手左側に描かれた“細胞作りの手順”の部分でしょう。なにせ、教授の言っているようなやり方では肝心のES細胞はできなかった(可能性がきわめて高い)わけですから…。

 現在、この切手はそれなりに話題になっているようで、東京・目白の<切手の博物館>1階の“世界の切手ショールーム(売店)”では品切れになっているようです。まぁ、発行枚数そのものが少ないわけではありませんので、年明け1月7日(土)の切手市場(詳しくはhttp://kitteichiba.littlestar.jp/)に行けば入手できる可能性は高いだろうと思います。ご興味がおありの方は、是非どうぞ。

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 戦時下・占領下のクリスマス:ドイツ-1946年
2005-12-21 Wed 14:51
 第二次大戦に敗れたドイツが米英仏ソの4カ国によって分割占領されたことは広く知られています。占領下の常として、国民生活にはさまざまな制約が加えられていましたが、郵便もまた例外ではありませんでした。そんなことを見せ付けるようなマテリアルが↓の1枚です。

 ドイツクリスマス返戻

 この葉書は、1946年のクリスマスに際して、ベルリンの米英占領地区から差し出されたもので、“メリー・クリスマス(ドイツ語ではFroehliche Weihnachten)”の文字も大書されています。

 しかしながら、この葉書は「絵葉書の使用は認められていない」との理由で差出人に返戻されてしまい、相手には届けられませんでした。そのことを示しているのが、デカデカと押されている紺色の印です。

 ちなみに、占領当局からお叱りを受けた絵葉書というのは、こんな感じです。

 ドイツクリスマス返戻裏面

 僕には、ごくごく平穏な雪景色のようにしか見えないのですが、あるいは、「この絵はアルプスをイメージしており、独墺両国の合邦を永遠に禁じた占領国の意図に反する!」なんて強引な言いがかりをつけられてしまったんでしょうか。

 いずれにせよ、こういうものまで“絵葉書はダメ”という理由で差し出せないところに、占領下の悲哀というものがあるわけで、あらためて自由にクリスマスを祝う(僕の場合は、どちらかというと“楽しむ”かな)ことができるありがたみを感じさせられます。
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 切り取られた国王
2005-12-20 Tue 14:24
 アフガニスタンの議会が招集され、2001年のタリバン政権崩壊後、米国や国連の後押しで進められた“政治復興プロセス”が、一応は完了したそうで。なんでも、アフガニスタンでの議会の復活は、1973年の無血クーデター以来32年ぶりだとか…。というわけで、アフガニスタンがらみのものとして、今日はこんなカバー(封筒)をご紹介します。(画像はクリックすると拡大されます)

 アフガン切り取りカバー

 一見するとなんということのないカバーですが、貼られている切手にご注目ください。左側が切り取られているのがお分かりでしょうか。実は、この切手、もともとはこんな感じだったのです。
 
アフガン国王の閲兵

 1973年、アフガニスタンでは無血クーデタが発生し、国王ザヒル・シャーは退位を余儀なくされ、従弟のムハンマド・ダーウードを大統領とする共和政権が発足します。その後、ダーウード政権は1978年に起こった軍事クーデタで倒れ、アフガニスタンには人民民主党(共産党)政権が誕生しました。

 ダーウード政権は王制を打倒して発足したとはいえ、ダーウード本人も王族の出身でしたから、彼の時代には王制時代の切手もそのまま使うことはできました。しかし、人民民主党政権は、共産政権の常として旧王族への敵意をむき出しにし、国王の肖像が描かれた切手を使う場合には、国王の肖像部分を切り取らせてから郵便物に貼らせています。

 このカバーに貼られている切手は、もともと1972年の独立記念日に発行されたもので、国軍のパレードを閲兵する国王夫妻の肖像が描かれていたため、上の画像のように、肖像部分を切り取って使われたというわけです。

 アフガニスタンというと、切手をかじったことのある人だと19世紀の切手(ライオンの顔を描いた円形のユニークなもの)に興味を持つ人が多いと思うのですが、実は、1970年代以降の混乱期の郵便史も本気で取り組めばかなり面白そうです。まぁ、実際にモノを集めるとなると相当にしんどいでしょうが…。

 2002年に刊行した拙著『中東の誕生:切手で読み解く中東・イスラム世界』(http://www.yuzankaku.co.jp/takeuchi/t-syakai-kyouiku.htm)では、とりあえず、今日のカバーを含めてアフガニスタンの近現代史を語る切手や郵便物をまとめてみましたが、いずれは、図版を充実させて改訂版を出したいところです。

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 戦時下・占領下のクリスマス:イラク-1988年
2005-12-19 Mon 13:28
 結核撲滅のための複十字シール運動は1904年にデンマークで始まり、世界各国に広がりましたが、クリスマス柄のものも多いため、“クリスマス・シール”と呼ばれることもあります。で、そのクリスマス・シールを貼って差し出された郵便物の中には、当然、戦争がらみのものもいろいろとあるのですが、今日はその中からこんな1枚をご紹介してみましょう。純粋な意味での“戦時下”のモノではありませんが、まぁ、固いことは言わずにお付き合いください。

イラン・イラク停戦監視団

 このカバー(封筒)は、1988年11月、デンマークからイラン・イラク戦争の停戦監視のためにイラクに派遣されていたデンマーク人将校宛に差し出されたもので、切手の左側にこの年のクリスマス・シールが貼られています。切手の上には、差出地の消印とは別に、停戦監視団を示す“UNITED NATIONS IRAN-IRAQ MILITARY OBSERVER GROUP UNIIMOG”の朱印も押されています。

 1980年に始まったイラン・イラク戦争は1988年8月に停戦にこぎつけました。これに伴い、このカバーの名宛人もイラクに派遣され、戦争の傷跡が生々しく残る街中で、このカバーを受け取ったのです。中身が入っていないのが残念ですが、差出時期や、クリスマス・シールがわざわざ貼られているところから考えて、クリスマス・カードが同封されていたと見るのが自然なように思われます。

 なお、このカバーが届けられてから約2年後、イラク軍のクウェート空の撤退を求める湾岸戦争が発動され、イラクは再び戦争の時代に突入します。それゆえ、このカバーは、束の間の“平和”の時期の一断面を記録するものとなりました。

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 科学者の捏造:北朝鮮の場合
2005-12-18 Sun 15:19
 一時はノーベル賞も受賞するのではといわれていた、ソウル大学の教授・黄禹錫の業績(ヒトのクローン胚から世界で初めて胚性幹細胞=ES細胞を作ることに成功したとの論文)が、実際には捏造だったことが分かり、韓国社会が大揺れに揺れているそうです。黄教授に関しては、その業績をたたえる切手まで発行されていたのですが、いやはや…。

 で、こういうとき、北朝鮮だったらどうなるか、ということのサンプルが↓の切手です。

金鳳漢

 これは、1966年に北朝鮮で発行された金鳳漢の業績をたたえる小型シートです。

 1961年8月、北朝鮮の医師であった金鳳漢が「経絡の実態に関する研究」と題する論文を発表。いわゆる“鳳漢学説”を展開し、東洋医学で言う“ツボ”を科学的に解明したと主張します。彼は経絡を撮影したとする映像まで公開し、その主張は一時世界的にも脚光を浴びましたが、後に、鳳漢学説はなんら科学的な根拠のない創作であることが判明。さらに、金が所長を務める研究所が囚人を用いた人体実験を繰り返していたことも発覚。このため、国際世論の批判を恐れた北朝鮮当局は、金とその関係者を粛清しました。もっとも、粛清の直接的な容疑は学説の創作・捏造ではなく、新年会で金の家に集まったメンバーの一人が体制に対する不満を漏らしたことをとらえ、彼らが国家転覆を企てたというものだったようです。

 今日ご紹介している小型シートは、金鳳漢と彼の経絡理論を図式化したものですが、発行後まもなく、金本人が粛清されたため、発行されたシートは回収されました。もちろん、あの国ですから、公式記録から切手発行の事実も抹消されています。というわけで、この小型シートは現在ではそれなりに貴重な1枚になっています。

 これに対して、韓国で発行された黄教授をたたえる切手は、もう大分流通していますし、韓国政府も回収することはしない(できない)でしょうから、話題の1枚ということにはなっても、今後、“お宝”になる確立は非常に低いでしょうね。

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 マニラ-香港便
2005-12-17 Sat 07:56
 12月17日はライト兄弟の初飛行にちなんで“飛行機の日”だそうで、手元のストックの中から、飛行機モノということで、こんなカバー(封筒)を引っ張り出してみました。

香港FFC

 このカバーは、1928年11月、英国極東航空によるマニラ-香港間の飛行に際して運ばれた郵便物で、英国極東航空で運ばれた香港がらみの郵便物としては最初の事例になります。このときのフライトに搭載されていた郵便物は696通でした。

 フィリピン切手に加刷されている飛行艇と、カバーの余白に押されている飛行艇。(切手の加刷は、画面のままだと小さくて見づらいので、画像をクリックして拡大してご覧ください)が、いかにも古きよき時代の雰囲気を伝えていてくれて良い感じです。そういえば、飛行艇ってのは今でも実際に使われてれるんでしょうか。もし使われているんなら、実際に飛んでるところ、着水してるところを生で見たいし、実際に乗ってみたいものです。

 それはさておき、前にもこのブログで書きましたが、1997年の香港返還を前に『切手が語る香港の歴史』という本を作ったのですが、その後、今回ご紹介しているカバーも含めて、いろいろと面白いブツも大分入ってきていますので何とか改訂版を出したいものだと常々思っています。できれば、2007年の返還10周年を目途に実現できるといいのですが、まぁ、来年のことでさえ鬼が笑っちまうくらいですからねぇ。再来年のこととなると…。

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 外国切手の中の中国:カナダ
2005-12-16 Fri 21:21
 NHKラジオ中国語講座のテキスト1月号が送られてきました。同誌に連載している「外国切手の中の中国」では、今月は、1990年代以降のカナダを取り上げています。

 カナダは、近年、ユニークな年賀切手を発行していることで知られており、それらを単純に並べてみるだけでも、1月号の企画としては、なかなか楽しいのではないかと思います。とはいえ、やはり、年賀切手を並べているだけでは読み物としてはつまらないので、僕なりにちょっとひねりを効かせて、こんな切手も取り上げてみました。

香港のカナダ兵

 この切手は、1991年、「第二次大戦50年」シリーズのひとつとして1941年の出来事を特集したもので、右下には香港のカナダ兵が取り上げられています。

 1939年に第二次大戦が勃発すると、カナダはただちに英連邦の一員として参戦し、ドイツ・イタリアと戦っています。そして、1941年の日英開戦直前には香港防衛のためにカナダ軍3個大隊が派遣され、同年末の香港陥落後、日本軍の捕虜となり苦難の生活を強いられました。

 それゆえ、香港のカナダ兵が「第二次大戦50年」の切手に取り上げられても、そのことじたいは不思議でもなんでもありません。ただ、この切手では、具体的な固有名詞として、ヨーロッパ戦線の出来事が登場せず、香港のみが取り上げられているのは、やはり目を引きます。

 1980年代後半から、カナダには、共産中国への“返還”をきらった富裕層が香港から大量に流入。それに伴い、バンクーバーがホンクーバーと揶揄されるほど、中華系の影響力は急速に高まっていきます。香港のカナダ兵の切手も、こうした背景の下、香港とカナダの歴史的な結びつきを強調することで、中華系住民と白人系住民との宥和をいっそう進めようという意図を込めて発行されたと考えるのが自然なように思われます。

 その後、カナダ社会における中華系住民のプレゼンスはますます強まり、そのことが、年賀切手の発行へとも繋がっていくわけですが、その辺の詳しい事情については、18日に発売の「NHKラジオ中国語講座」のテキスト1月号の僕の記事をお読みいただけると幸いです。

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 戦時下・占領下のクリスマス:オーストリア-1914年
2005-12-15 Thu 13:19
 クリスマスまで残りちょうど10日となりましたので、今日はこんなものを引っ張り出してみました。
 
オーストリア1914

 画像は、第一次大戦の始まった1914年にオーストリアの兵士が戦場から差し出した軍事郵便の葉書です。絵面は兵士が故郷で妻と過ごすクリスマスに思いをはせている合成写真ですが、見ようによっては非常に厭戦的な気分にさせるもので、こんな葉書を出しているようじゃオーストリアが負けたのも無理はないか、と妙に納得してしまいます。

 11月30日の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-186.html)で、「1914年の夏に第一次大戦が始まった当初、多くの人々は、その年のクリスマスまでには戦争は終わるものと楽観的に考えていました」と書きましたが、そうした気分がこの1枚を産み落としたのだといってもよいのかもしれません。

 今年も残りあと半月。今日からは、いよいよ年賀状(当然のことながら、僕はまだ何もしていません)の受付も始まったそうで、何事にも急かされている感じがします。僕のようなモノ書き稼業の人間には、基本的には暮も正月もありませんから、年末年始もいつもどおり原稿を書き続けるだけの日々が続くことでしょう。今年のクリスマスもまた、この絵葉書の兵士のように、世間のクリスマスを遠くから眺めるだけで終わりそうです。

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 テロリスト図鑑:大石内蔵助
2005-12-14 Wed 17:10
大石内蔵助
 
 いわずと知れた“忠臣蔵”の主人公(切手の写真は歌舞伎役者が演じているもの)ですが、冷静に考えると、極悪非道なテロリスト集団の頭目といったほうがよさそうです。
 
 いわゆる元禄赤穂事件のそもそものきっかけは、赤穂浪士の主君であった浅野長矩が江戸城中松の大廊下にて、吉良義央に突如切りつけたことにあります。浅野は、勅使饗応役として作法や儀礼の手順について吉良から受けたアドバイスを“いやがらせ”と曲解した上、本来吉良に支払うべき正当な指南料を勝手に“賄賂”と決め付けて踏み倒し、さらには江戸城内で無抵抗の老人に切りつけるというとんでもない人物です。どう考えても、同情の余地はありません。

 その浅野に仕えていた不運は同情できますが、いわゆる四十七士の連中は、あろうことか、被害者である吉良を逆恨みし、集団で彼の屋敷に押し入って、吉良本人のみならず多数の関係者を殺傷しています。これを現代風に読み替えると、「俺たちの会社が潰れたのは社長が殺人未遂で逮捕されたからなんだが、そもそも、社長にそこまでさせたお前が全部悪い」などと因縁をつけ、周到な準備をした上で徒党を組み被害者宅に押し入り、被害者本人を虐殺し、周囲の人までをも殺傷するのとなんら変わりありません。こうした行為を卑劣なテロといわずしてなんというのでしょう。

 芝居などでは、犯人グループを“義士”に祭り上げるために吉良を悪役に仕立てていますが、これは歴史的事実とは異なっており(そもそも、被害者がどうして“悪役”にされなければならないのか、そのことじたい理不尽です)、完全な名誉毀損です。何年か前、東京・音羽のいわゆる“お受験”殺人があったとき、一部の週刊誌などで被害者の家族にも問題があったような報道が一時なされましたが、事実誤認と分かり、すぐに修正されたことを思い出します。

 毎年、事件のあった12月14日(これだって、本来は旧暦の日付ですから、新暦に直した1月下旬を記念日にすべきなのでしょうが…)には、“義士祭”なる催物が行われて、300年前のテロリストたちを賛美するテレビ番組が放送されますが、それを喜んでいる人たちは、イラクやパレスチナでの“自爆テロ”を、犯人グループがアメリカ・イスラエルに対する“殉教作戦”と称していることをどう考えているのでしょうか。ぜひとも、ご意見をうかがってみたいものです。

 PS 僕の母親は吉良系の家の出身です。

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 南京野戦局の風景印
2005-12-13 Tue 13:57
 今日は12月13日。日中戦争中の1937年に日本軍が南京を陥落させた日です。というわけで、こんな葉書を1枚。

 南京風景印

 この葉書は、1938年5月に上海派遣軍の兵士が差し出したもので、南京野戦郵便局の風景印が押されています。

 日中戦争時、日本軍は中国大陸の各地に野戦局を設置しましたが、このうちの上海・杭州・湖州の3ヶ所では1938年4月3日から風景印(各地の風景や名所旧跡などをデザインした消印)を使いはじめました。南京では、今回ご紹介しているタイプのものが1938年4月20日から使用されています。

 消印に描かれているのは、南京の城壁と明孝陵(明の太祖・朱元璋のお墓)の象の石像です。

 当時の風景印の中には、兵士が描かれていたり、戦争で破壊された建物(日本側の戦果を示すためにこういう題材が取り上げられたらしい)が描かれていたりするものも少なくないのですが、この風景印にはそうした要素は全くありません。そのことが、かえって“激戦の後”をものがたっているように感じられるのは、僕だけなのでしょうか。

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 双十二節
2005-12-12 Mon 08:37
 12月12日は西安事件の記念日で、彼の地では“双十二節”というのだそうで。というわけで、西安事件関係のものの中から、こんな一枚を選んでみました。

 西安事件たいまつ

 一昨日の日記でも少し書きましたが、満州事変がひと段落ついた後の蒋介石政権の基本方針は、“安内攘外”(まずは国内を統一してから外敵と戦う)をスローガンに、共産党討伐を優先して日本に対しては宥和的な姿勢をとるというものでした。これに対して、一般の中国国民は少なからず不満を持っており、そうした気分をとらえて、共産党側は内戦の停止と抗日門族統一戦線の結成を呼びかけていました。

 こうした状況の中で、1936年12月12日、東北、すなわち、満州国が樹立された地域の出身であった張学良は、西安を訪問中の蒋介石を軟禁して説得し、内戦の停止を約束させます。そして、翌1937年7月に盧溝橋事件が起こると、国民党と共産党は抗日民族統一戦線を結成し、本格的に日本と戦うことになるのです。

 以上のように、西安事件は国民党の討伐で壊滅寸前の状況にあった共産党の窮地を救い、一躍、抗日の英雄にのしあがるきっかけとなったことから、彼らは、この事件の意義を非常に強調しています。その一環として、1947年、事件の記念日にあわせて、当時の東北解放区(共産党の支配地域)で発行されたのがこの切手です。

 切手には、「蒋介石を生け捕りにして南京から追い出せ!」との意味のフレーズも入っています。これは、当時の国共内戦という状況の下で、蒋介石が軟禁されたという西安事件になぞらえて、蒋介石を捕らえて勝利を得ようという共産党側のプロパガンダを表現したものでもあります。

 過去の歴史的事件に仮託して現実の政治状況を語るという手法は、現在でも中国の得意技ですが、彼らは、1949年の建国以前からこういうことをやっていたことがよくわかります。
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 戦時下・占領下のクリスマス:イラン-1944年
2005-12-11 Sun 17:37
 第二次大戦中の1941年、中立を維持しようとしたイランは、連合軍によるイラン領内通過を求める最後通牒を拒否します。その結果、イギリスとソ連がイラン領内に侵攻し、国王は亡命して、息子がムハンマド・レザー・シャーとして即位しました。

 以後、第二次大戦の終結までイラン領内には連合国が進駐を続けますが、そうした状況の中で差し出されたクリスマスカードが↓です。(クリックすると画像は拡大されます)

イラン・クリスマス裏

イラン・クリスマス

 この葉書は、1944年11月、イラン国内に設けられた野戦病院にいた米兵が差し出したもので、裏面(下の画像)には、米ソ両軍の協力関係をアピールする内容の文面も印刷されています。この葉書が差し出されてから3ヵ月後の1945年2月には、ヤルタ会談が行われ、東西冷戦の序曲が奏でられることになるのですが、そういう雰囲気は微塵も感じられません。

 それにしても、モスクの写真と“Merry Christmas”の組み合わせがなんともミスマッチです。現在、ペルシャ湾岸に駐留している米軍の兵士たちも、こういう感じの写真が入ったクリスマスカードを送っているんでしょうか。

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 緑の赤旗
2005-12-10 Sat 23:11
 このブログのカウンターは、旧バージョンのものから継続して、ダブりなしで勘定しているのですが、さきほど、3万ヒットとなりました。2万ヒットを記録したのが10月18日のことでしたから、2ヵ月弱でのべ1万人の方に遊びに来ていただいた勘定になります。

 前にも書きましたが、ブログを始めた当初は1日に50人も来てくれればもうけものと考えており、こんなに大勢の方が遊びに来てくださるとは想像もつきませんでした。3日坊主な僕が、まがりなにりも、数ヶ月間、一日も途切れることなくブログを更新してこられたのも、ひとえに、皆様のおかげです。これからも、精一杯、頑張っていきますので、ご贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。

 さて、3万という区切りの数にちなんで、3にちなんだ切手が何かないかと探してみたところ、額面が3分ということでこんな切手が目に飛び込んできました。

緑の赤旗

 これは、1932年5月、中国共産党支配下のソビエト地区で発行された切手です。

 1924年にコミンテルンの仲介で成立した第一次国共合作は、1927年、蒋介石による上海クーデタで破綻。以後、共産党は南昌起義を皮切りに各地で武力放棄を繰り返し、国民党軍がこれを鎮圧するという状況が続きます。

 こうした状況の下で、1931年、共産党は瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を樹立。1932年5月には、その実効支配地域で使うための切手を発行しました。今日ご紹介しているのも、その1枚です。

 切手は、共産党の赤旗を描くものですが、刷色は緑色です。これは、同時に発行された1分切手(紅軍兵士が描かれている)の刷色が赤だったため、色を変えたということなのでしょうが、その結果、“緑の赤旗”というなんとも不思議な切手が出来上がることになりました。

 1931年9月には満州事変が起こり、日本の東北侵略も本格化していくわけですが、当時、蒋介石ひきいる国民党政権は、“安内攘外”路線を掲げ、日本と戦うよりも共産党討伐に力を入れていました。この結果、追いつめられた共産党がこれを長征によって延安へと逃れることになります。

 この時期の共産党支配地域で発行された切手は残存量が少なく、いわゆる解放区切手の中でも“老解”と呼ばれて珍重されていますが、そうした背景的な事情とは別に、僕個人としては、子供の版画みたいな素朴な味わいが非常に気に入っています。
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 赤十字と赤新月
2005-12-09 Fri 18:24
 本日(12月9日)付で、「郵便学者・内藤陽介のブログ」はこちらに移転しました。新しいブログでいろいろ不慣れなことも多いかと思いますが、これからもよろしくお付き合いください。

 さて、赤十字と赤新月(イスラム世界で赤十字に相当する組織)にくわえて、宗教的に中立なシンボルとして“赤い菱形”が採用されるようになったそうで。というわけで、こんなカバー(封筒)を引っ張り出してみました。(画像はクリックしていただければ拡大されます。)

赤十字と赤新月

 このカバーは、1967年の第3次中東戦争の際に、イスラエル側の捕虜となったエジプト兵が差し出したもので、ジュネーブの国際赤十字社およびカイロのエジプト赤新月社を通じて届けられたものです。

 赤十字と赤新月の印が揃って押されている(ただし、印の色は赤ではなくて紫ですが)のが、なかなか面白いかと思います。

 “赤い菱形”が採用された背景には、キリスト教徒でもイスラム教徒でもない、ユダヤ教徒への配慮があったようです。そうすると、今後もし、大規模なアラブ・イスラエル紛争が発生し、捕虜郵便が使われるようなことになると、赤十字・赤新月・赤い菱形の三種類のスタンプが押されたものなんかも出てくるのかもしれません。

 まぁ、戦争は起きないに越したことはないのですが、3種類のスタンプが押された捕虜郵便なんてモノはちょっと見てみたい気がします

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 ジョン・レノン
2005-12-08 Thu 01:00
今日は12月8日。例年だったら、真珠湾がらみのブツを持ってくるところですが、今年は、ジョン・レノンの没後25周年ということで、この切手をアップします。

ジョンレノン

 切手は、1988年、西ドイツ(当時)が発行した青少年の切手収集家のための資金を集めるために発行した寄付金つきのもので、バディ・ホリー、エルビス・プレスリー、ジム・モリソン(ドアーズ)といった伝説的なロック・ミュージシャンとともに、ジョン・レノンの肖像が取り上げられています。

 この切手が出た当時、外貨目当てにいかがわしい切手を濫発する国ならともかく、まさか西ドイツのようなお堅い国から発行されるなどとは想像もできなかったので、日本の収集家は少なからずショックを受けたものでした。まぁ、この切手も収集家目当てといってしまえばそれまでですが、さすがはドイツ製。カリブ海で発行された怪しげな切手に比べると、格段に良いできです。

 ちなみに、ジョン・レノンが亡くなったとき、僕は中学生でした。当時、ビートルズの曲は「イエスタデイ」や「ヘイ・ジュード」等はさすがに知っていましたが、それほど詳しかったわけでもなかったので、自分の両親(当時40前後)の人たちが大騒ぎしているのを見ても、なんとなく実感が湧かなかったというのが正直なところでした。

 その僕も、年が明けるとすぐに39歳。娘は来年中学生になります。25年という年月とはそういうものなのか、ということがなんとなく実感できるような気がしました。


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 ニューファウンドランドの犬
2005-12-07 Wed 09:10
昨日はクリスマスの話題でしたが、そろそろ、年賀状の準備もしなければなりません。というわけで、今日は、犬切手の定番モノのひとつとして、この1枚をご紹介しましょう。年賀状作成のヒントにでもしていただけると幸いです。

ニューファウンドランド犬

 この切手は、1888年1月、ニューファウンドランド島で発行されたもので、犬の切手としては世界で最初の1枚ということになります。

 ニューファウンドランド島は、カナダ東岸の大きな島で、1857年1月から1949年3月末までは、カナダ本土とは別に、独自の切手が発行されていました。

 切手に描かれている犬は、その名もズバリ、ニューファウンドランド犬。もともと、この島にいた犬と、バイキングの犬、さらにはヨーロッパ人が持ち込んだ犬などが掛け合わされて出来上がった原型を、18世紀ごろ、イギリスで改良して現在のような姿になったのだそうです。

 実は、この切手は近々発売のある雑誌の表紙に使うことが決まっていて、昨日はその解説文を書いていました。で、その関係で調べていて分かったのですが、この犬の実際の毛色は黒や茶、もしくは白と黒の2色で、切手のように赤いわけではないそうで・・・。さすがに、切手のように真っ赤な犬がいるとは思いませんが、それでも、例によって僕は切手のデザインが頭にこびりついて、いわゆる赤毛の犬だとばかり思っていたので、ちょっとビックリしたというわけです。

 ちなみに、1894年には、この切手と同じデザイン・額面で赤から黒に改色された切手が発行されていますから、年賀状には赤と黒の二つのバージョンを作って、相手によって使い分けてみても良いかもしれません。なんだか、ウイスキーの赤ラベルと黒ラベルみたいですが…。

 なお、僕も年賀状には何らかのかたちで犬の切手を使うつもりですが、もうちょっとひねったものはないかと、現在、いろいろと探しているところです。

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 戦時下・占領下のクリスマス:イタリア-1943年
2005-12-06 Tue 16:10
 1943年6月、連合軍がシチリアに上陸すると、翌7月、イタリアの独裁者ムッソリーニが失脚。後を継いで発足したバドリオ政権は、同年9月、連合国との休戦を進めます。

 これに対して、ナチス・ドイツはイタリア北部に侵攻。ローマ以北を征圧し、ムッソリーニを救出してイタリア社会共和国を樹立します。この結果、イタリアはドイツの勢力下にあったローマ以北の共和国と、アメリカ軍の後援するバドリオ政権の南部イタリアの王国に分裂。1945年4月にムッソリーニの共和国が滅亡するまで、内戦状態に陥りました。

 その内戦最中の1943年のクリスマスにあわせて、イタリアに進駐した米兵が差し出したクリスマスカードが↓です。

イタリア1943年

 葉書はアメリカ赤十字がイタリア駐留軍の兵士のために作ったもので、裏面には、1943年11月27日の第485野戦局(当時、イタリア南部のバーリにあった)の消印も押されています。シンプルなデザインを赤一色で印刷しただけの素朴なものですが、それだけに、戦地の雰囲気がよく伝わってくると言えるのかもしれません。
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 タイ占領下のマライ
2005-12-05 Mon 16:08
 今日はタイのラーマ9世(いわゆるプミポン国王)のお誕生日だそうです。とういわけで、タイに関するモノの中から、今日はこんなものをひっぱりだして見ました。

 タイ占領下のマライ

 第二次大戦中、タイは中立国でしたが、周囲を占領していた日本とは友好的な関係を保ち、日本軍にも協力的でした。ところが戦況が次第に日本にとって不利になってくると、タイは徐々に日本への協力を渋り始めます。このため、タイをつなぎとめておく必要に迫られた日本側は、1943年10月、日本軍占領下のマライ北部、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスの4州(タイは、これらの地域を自国の領土として、長年、英領マライに返還を求めていた)をタイに割譲しました。

 これに伴い、現地で使用するために、タイの国名表示をした切手・葉書が製造され、1944年1月から使用されました。これらの切手は、もともとタイ国内で使われていたものとデザインは同じですが、額面がバーツではなく、セントになっているので容易に区別できます。

 今日ご紹介している葉書は、そうしたタイ占領下のマライ、アロスターから差し出されたもので、マライのイポー経由で昭南(シンガポール)まで届けられました。切手収集家が差し出した、いわゆるフィラテリックカバーですが、それでも、残っている量は決して多くはないので手に入れようとするとそれなりの出費が必要でしょう。

 マライの北部4州のタイへの割譲に関しては、いろいろとおもしろいマテリアルが存在しているのですが、なかなかご縁がなく、現在のところ、この1点しか手元にはありません。来年のワシントンでの展覧会までに、なんとか、追加のブツを手に入れたいのですが…。
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 アラブ叛乱と郵便
2005-12-04 Sun 16:06
 先日、11月29日の記事 に関連して、jsds001さんから、第一次大戦中のイギリスの中東政策に関するものを何か紹介してくれないかとのリクエストを頂戴しました。ご要望にお応えして、今日は、こんなカバー(封筒)をご紹介してみたいと思います。

ヒジャーズ暫定カバー

 このカバーは、1916年9月、メッカからジェッダ宛に差し出されたもので、いわゆる“アラブ叛乱”を物語る資料です。

 第一次大戦中、敵国であるドイツとオスマン帝国に対抗するため、イギリスはオスマン帝国の支配下にあったアラブ地域に目をつけ、メッカの太守であったシャリーフ・フサインに接近。1915年から16年にかけての、いわゆるフサイン・マクマホン書簡を通じて、「アラブがイギリスと共にオスマン帝国と戦えば、戦後、アラブの独立国家をつくる」との密約を結びます。これにしたがって、シャリーフ側は、1916年6月、シャリーフの影響下にあったアラブがオスマン帝国に対して反旗を翻しました。これが、いわゆるアラブ叛乱で、映画「アラビアのロレンス」でご存じの方も多いかと思います。

 さて、アラブ叛乱の後、メディナを除くヒジャーズ地域(アラビア半島の紅海沿岸。メッカ、メディナ、ジェッダなどが含まれる)をほぼ征圧したシャリーフ政権は、独立を宣言し、この地域に対するオスマン帝国の主権を否定します。それに伴って、シャリーフ政権の支配地域ではオスマン帝国の切手は使用禁止になりました。とはいえ、シャリーフ政権側も、すぐに独自の切手を用意できたわけではなかったため、暫定的に“料金徴収済み”の意味の印を押して対応するということが行われています。

 今日、ご紹介しているのは、その暫定的な料金収納印(左側の八角形の印)の押されたカバーです。この印の使用期間は、各地域で異なっているのですが、メッカの場合は、1916年6月26日から10月4日まででした。

 さて、オスマン帝国に対して反旗を翻したアラブ軍は、イギリスと協力して各地でオスマン帝国の軍隊を撃破していきます。しかし、その裏でイギリスは、サイクス・ピコ協定を結んで大戦後の中東分割をフランスとの間で密約し、さらに、バルフォア宣言を発して、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を作ることに同意するなど、フサイン・マクマホン書簡の密約と矛盾する内容の外交を展開していました。

 こうしたイギリスの無責任な対応が、パレスチナ問題をはじめ、現在の中東世界に大きな負の遺産を残しているのですが、この辺については、拙著『中東の誕生 』もあわせてご覧いただけると幸いです。
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 ランナー
2005-12-03 Sat 16:05
 師走という言葉は、普段、泰然と構えている教師のような人たちまで走り出すほど忙しいことに由来していると、子供の頃に聞いたことがあります。

 僕は、本業の文筆活動のかたわら、週に何コマか都内の大学でパートタイム講師を担当していますので、いちおうは教師の端くれということになるのでしょうが、毎日、生活に追われて目一杯走っているような気がしてなりません。これから年内残りの日々、今まで以上に走らされることになるのかと思うと、それだけで気管支がヒューヒューと音を立てそうです。

 さて、走るといえば、走っている姿を描いた切手や絵葉書というのは数多くありますが、そんな中から、今日はこの1枚を取り上げて見ます。

ギリシャの絵葉書

 これは、1964年の東京オリンピックの聖火リレーがスタートしたのにあわせて、ギリシャで作られた絵葉書です。貼られている切手は、聖火を採取する場所、オリンピアを描いた1.5ドラクマの通常切手で、聖火リレースタートの記念印が押されています。

 葉書には、日本人らしきランナーと日本を意識したと思しき風景が描かれていますが、なんとなく珍妙な雰囲気です。また、葉書の下に書かれている「第十八回オリンピック東京 一九六四年」の文字も金釘流で、こういっては失礼かもしれませんが、日本人が多数訪れる外国の観光地で売られているいかがわしいお土産のにおいがプンプンします。

 東京オリンピックに際しては、少なからぬ国々が記念切手を発行しています。ただし、そうした切手の多くは、“日本”よりも“オリンピック”を強調したデザインとなっています。やはり、商品としての記念切手ということを考えた場合、この時点では、“日本”よりも“オリンピック”のほうがはるかに商売になると考えられていたのでしょう。当時の国際社会の認識では、東京オリンピックは“たまたま日本という国で開かれた大会”というイメージが強かったのかもしれません。

 この辺のことについては、以前、『外国切手に描かれた日本 』という本にまとめて書いて見ましたので、ご興味のある方は、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 土侯国からUAEへ
2005-12-02 Fri 16:03
 今日(12月2日)は、アラブ首長国連邦(UAE)の建国記念日です。というわけで、こんな葉書をご紹介します。

ドバイ移行期の葉書

 この葉書は、連邦発足から間もない1972年5月にドバイから差し出されたものです。

 UAEは、その名の通り、ドバイ、アブダビなど、ペルシャ湾岸の群小首長国からなる連邦国家で、1971年12月に連邦が成立する以前は、それぞれの首長国はイギリスの保護下に置かれていました。これらの首長国は、イギリスと休戦協定を結んでいたため、英語ではTrucial States(=休戦協定諸国)と呼ばれているのですが、日本では、“アラブ土侯国”との呼び名のほうが通りが良いかもしれません。

 さて、各土侯国の郵政はUAEの発足により連邦郵政に統合され、土侯国ごとに新規に切手を発行することも禁じられました。そして、それに伴い、旧アブダビ切手に“UAE”の文字を加刷した切手が発行されています。

 とはいえ、連邦郵政の発足後も、しばらくの間は、移行期間として旧土侯国時代の切手も有効でした。今回、ご紹介しているドバイの葉書も、そうした移行期間内のドバイ切手の使用例ということになります。ちなみに、UAEとしての万国郵便連合への加盟は1973年1月1日のことで、これをもって旧土侯国郵政は完全に消滅しました。

 “アラブ土侯国”というと、ある年代以上の切手収集家の方なら、外貨目当てに自国とは何の関係もない切手を濫造・濫発した国々というイメージが強いと思いますが、彼らの発行した切手は、当然のことながら、彼らの支配地域では郵便に使うことができました。この辺の事情は、かつて『中東の誕生 』という本の中で簡単にまとめたことがあるのですが、真面目に取り組んでみるとなかなか歯ごたえがあって面白いテーマなので、その後もポツポツとマテリアルを買ったり、いろいろ調べたりして密かに展覧会に出品できる作品作りをめざしています。

 そういえば、来年は、UAEの建国35周年ということで、アジア国際切手展がドバイで開催されるとか。せっかくなら、なんらかのかたちでこの地域に関連したコレクションを出品して現地にも行きたいところですが、となると、その前に出品資格を取らねばなりません。といっても、4月の全日展に出品しても、おそらく、出品申し込みの〆切には間に合わないでしょう。さてさて、どうしたものか…。
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