内藤陽介 Yosuke NAITO
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 試験の解説(2006年1月)-4
2006-01-31 Tue 17:31
 さて、試験問題の解説、最終日の今日は次の一問です。

 問題E この切手(↓)について、歴史的背景を踏まえて説明せよ。(試験問題では、封筒の一部のみを図版としましたが、ここでは封筒全体の画像を示します。なお、画像はクリックで拡大されます)

イエメン王党派のカバー

 このカバー(封筒)は、1966年12月、イエメン王党派の切手を貼ってサウジアラビア領内のカラから差し出されたものです。

 1962年9月、イエメンでは、イマーム(君主)アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデタが発生。伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、革命政権が樹立されたものの、王党派は山岳地帯に逃れて抵抗を続けました。いわゆるイエメン内戦の勃発です。

 両派はともに自分たちがイエメンの正統政府であることを主張していたが、その一環として、彼らはそれぞれ独自の切手を発行し、その支配地域で使用させていた。

 このうち、王党派は、従来どおり“イエメン王国”と表示された切手を発行しつづけましたが、現実には彼らが掌握している山岳地帯では郵便の利用者はほとんどなかったため、彼らの「切手」は、実際に郵便に利用するためのものというよりも、政治宣伝のための媒体としての色彩が強いものでした。

 さて、革命政権から支援の要請を受けたエジプトのナセルはイエメン内戦への介入を決断。エジプト軍を派遣し、革命政権への全面的支援を約束します。これに対して、保守派君主国の雄サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じ、王党派を支援。こうして、イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈するようになります。

 こうして、イエメン内戦は、アラブ世界の保守派と革命派を巻き込み、泥沼のアラブ内戦の様相を呈しながら、1970年まで続くことになるのですが、内戦への介入が長引くにつれ、エジプト経済は次第に疲弊していきます。また、イエメンへの派兵により、イスラエルに対するエジプトの軍事力も次第に低下し、ナセルの国際的威信は急速に低下し始めるのです。

 今回ご紹介しているカバーは、こうした状況の中で、サウジアラビア領内の拠点からイエメン王党派が自らの切手を貼ってアメリカ宛に差し出したものです。本来であれば、自国の領内において他国の郵政の切手を貼って差し出した郵便物は料金未納扱いとなるはずなのですが、イエメンの王党派を支援していたサウジアラビアは、領内のカラにイエメン王党派が郵便局を設置し、切手を用いて郵政活動を行うことを黙認。不足料の徴収等を行うことなく、外国郵便のルートに乗せています。また、宛先国のアメリカも、アラブ民族主義の旗手であったエジプトの影響力を削ぐため、サウジアラビアならびにイエメン王党派を支持するという立場から、王党派の切手の有効性を認め、不足料の徴収などは行っていません。

 試験の解答としてのポイントは、今回のカバーが内戦期の王党派のものであることを示した上で、内戦の概要とサウジアラビアの役割について説明しているかどうかがカギになります。もちろん、カバーの宛先国であるアメリカの立場についても触れられていればベターであることはいうまでもありません。

 さて、4回に分けて試験問題の解説を記事にしてきましたが、明日からは通常通りのブログに戻る予定です。今月は、中東切手展があったせいもあって、中東がらみの記事が多くなってしまい、バランスが悪かったので、来月からはできるだけ地域と時代のバランスを取り戻すように気をつけたいと思います。

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 試験の解説(2006年1月)-3
2006-01-30 Mon 15:01
 1日間が空きましたが、試験問題の解説を続けましょう。

 問題D この切手(↓ 画像はクリックで拡大されます)について、歴史的背景を踏まえて説明せよ。

封鎖の罪

 1991年の湾岸戦争後しばらくの間、イラクは、戦争による打撃に加え、国連の経済封鎖(クウェイト侵攻から4日後の1990年8月6日に安保理で採択されたもので、この時点では、イラク国内の非人道的行為の停止を含む全ての停戦決議の履行がない限り、イラクに対するいっさいの輸出入が禁止されていた)によって、経済的にどん底の状態にありました。

 しかし、1995年ごろから、事態は少しずつ変化し始めます。国連によるイラクへの経済制裁に対して、諸外国からも不満の声が高まっていったからです。

 そもそも、湾岸戦争の直前、食糧自給率が3割程度しかなかったイラクに対して、食糧を含む輸出入を禁ずることに対しては、経済制裁が開始された当初から、人道上の理由で反対する声が欧米でも少なくありませんでした。また、潜在的な域内大国であるイラクとの経済関係を遮断することは周辺諸国にとって多大な経済的犠牲を強いることになりました。さらに、産油国イラクとの交易再開を求める声は、終戦から3年以上経過すると、西側諸国の間でも無視できないものとなっていましたし、戦争被害に対する補償や国連自身のイラクでの活動に必要な資金をまかなうためにも、イラクに一定の石油を輸出させ、その代金を活用すべきだという案は国連にとっても魅力的なものでした。

 その結果、1995年4月、半年間に20億ドルを越えない範囲での石油輸出を許可し、食糧・医薬品などの人道物資の輸入を認めるという国連安保理決議986号が採択されます。当初、イラク側は、経済制裁の完全解除を求めて同決議を拒絶したが、1996年に入ってこれを受諾し、同年12月から原油の輸出を再開しました。

 こうした国際世論の風向きの変化を察知し、イラクは国家のメディアである切手上でも経済制裁の非人道性を強く訴えるため、1995年8月6日、イラク郵政は“封鎖の罪”と題する切手を発行しました。それが、今日ご紹介している切手です。

 切手は、有刺鉄線に囲まれたイラク地図の中に恨めしそうな表情の母子を描くもので、経済制裁の非人道性をストレートに訴えるデザインとなっています。また、地図の中央には、ハムラビ法典の碑文が描かれているが、これは、“目には目を”という同法典のイメージを用いて、制裁に加担する側も相応の犠牲を払っていることをアピールしようとしたのでしょう。なお、切手が発行された8月6日は、切手発行の5年前、クウェイト侵攻後、イラクに対する経済封鎖を決めた安保理決議661号が採択された因縁の日付でもあります。

 国際的に孤立するイラクにとって、経済制裁の非人道性を訴えて国際世論を喚起することは、制裁の継続を主張する米英に対抗し、国際社会への政治的復帰を実現するための数少ない有効な手段でした。こうした切手が実際に郵便物に貼られ、全世界を流通することによって、イラクは切手をメディアとして活用し、自国に有利な国際世論を喚起しようとしたのです。

 試験の解答としては、①湾岸戦争後のイラクに対する経済制裁、②それが各国にもたらした影響、③国際世論の亀裂を利用したイラクのプロパガンダ、といったポイントが上手くまとめられば、OKです。


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 祈年殿
2006-01-29 Sun 22:59
 さっき帰宅したら、アクセス数が4万を超えていました。次は5万アクセス目指して頑張っていきたいと思いますので、これからもよろしくお付き合いください。

 さて、今日(1月29日)は、旧暦の1月1日、春節です。4万アクセス突破と重なり、2重にハッピーな気分です。

 というわけで、試験問題の解説は1日お休みして、春節にふさわしいネタとして、こんな1枚(画像はクリックで拡大されます)を持ってきました。

天壇

 この切手は、1909年、清朝最後の皇帝・溥儀が即位した記念に発行されたもので、北京の天壇・祈年殿が描かれています。

 祈年殿は、天壇でもっとも有名な建造物の一つで、天安門や紫禁城とともに北京のシンボルというべき存在です。直径32m、高さ38m、25本の柱に支えられる祭壇で現存する中国最大の祭壇で、明・清の時代には、皇帝が正月に五穀豊穣の祈りを捧げました。現在、北京に残っているのは、いまからちょうど100年前、1906年(偶然ですが、溥儀の生まれた年です)に再建されたもので、オリジナルの祈年殿は、1889年、落雷により一度焼失しています。

 宣統帝即位の記念切手に取り上げられたのも、そうした皇帝の祭祀を象徴するものという意味付けによるわけで、切手の左右には、やはり、皇帝の象徴である龍が描かれています。黄色系統の枠というのも、皇帝のシンボルカラーが黄色であることを意識したものでしょう。

 清朝の時代を暗黒時代と決め付けていた以前の中国では考えられなかったことですが、2002年の春節から、祈年殿前では、伝統的な“祭天”の儀式が復活していますので、いずれ、祈年殿が春節のシンボルとして年賀切手に登場するというようなこともあるかもしれません。

 ところで、現在、秋口を目途に“満州”をテーマにした本を刊行すべく準備を進めています。今日ご紹介している切手についても、当然、溥儀との絡みでその本の中で触れることになると思いますが、今後、このブログでは、仕事のペースメーカーとして、満州ネタにもちょくちょく触れていこうかと考えていますので、よろしくお付き合いください。

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 試験の解説(2006年1月)-2
2006-01-28 Sat 18:24
 昨日に引き続き、今回の試験で出した問題の解説。今日は、こいつを行きましょう。

 問題C この切手(↓)を参考に、東西冷戦の終結に関してイスラム世界で流布している言説について説明せよ。

アフガンのためのジハード

 この切手(画像はクリックで拡大されます)は、1981年にエジプトで発行されたアフガニスタン支援の寄付金つき切手です。

 1979年末、ソ連は、前年に締結した善隣協力条約に基づいて内戦状態にあったアフガニスタンに侵攻。ソ連は一九七八アフガニスタンに進駐。アミーン政権を打倒し、ソ連の意向に忠実なバブラク・カルマルを大統領兼首相とする親ソ体制(傀儡政権)を樹立しました。

 当然、国際社会はこれを非難し、アフガニスタン国内でも反政府ゲリラの大同団結によるアフガニスタン解放イスラム同盟が結成され、ソ連軍とその支援を受けたカルマル政権に対するムジャーヒディーン(イスラム戦士)の抵抗運動が展開されました。こうした、ムジャーヒディーンの闘争に対しては、イスラム世界全域から義勇兵がペシャワルに集結。イスラム諸国の政府も彼らを積極的に支援していますが、エジプトがこうした切手を発行したのもその一環です。

 切手のデザインは、アフガニスタンの国土に侵攻する赤い矢印(ソ連を示す槌と鎌がつけられている)を描くもので、切手に押されている消印には“アフガニスタンのためのジハード”という文言も入っています。

 全イスラム世界から集まってきたムジャーヒディーンたちの間には、アフガニスタンを“ムスリム(=イスラム教徒)の土地”と位置づけた上で「奪われたムスリムの土地を奪回することは全信徒の宗教的義務である」と言う主張が広がっていきます。こうした失地回復の主張は、次第に、アフガニスタンやボスニア、チェチェンでのイスラム抵抗運動を支持し、湾岸戦争以来サウジアラビアに駐留しつづける米軍への反感する感情にもつながるこのでした。

 結局、ソ連軍は、国際社会の非難とムジャーヒディーンの頑強な抵抗により、一九八九年二月一五日をもって、なんら得るところなく、アフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされます。そして、アフガニスタン侵攻の失敗は、最終的にソ連の崩壊にも繋がるのです。
 
 こうしたことから、中東・イスラム世界では、ソ連崩壊の要因をアフガニスタン侵攻の失敗に求め、その崩壊は共産主義(ざい=無神論)に対するイスラムの勝利であるという言説が広がることになるのです。この文脈では、東西冷戦において西側が東側に勝利したという認識は極めて希薄です。

 この結果、ソ連軍がアフガニスタンから撤退し、さらには、ソ連そのものが崩壊したことによって、西側社会とイスラム世界は、反ソというお互いの共通項が同床異夢にすぎなかったことを思い知らされることになるのです。

 ①アフガン支援の切手がエジプトで発行されたことの意味がきちんと説明できているか、②“失地回復”の議論(この議論を言い出したアブドゥッラー・アッザームの名前が書いてあればなお良い)が触れられているか、③ソ連の崩壊を“イスラムの勝利”とする理解について説明できているか、といった点が要領よく書けていれば、その学生さんには満点を差し上げます。

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 試験の解説(2006年1月)-1
2006-01-27 Fri 21:12
 現在、都内の大学で週に何度か、近代以降の中東・イスラム世界を切手や郵便物から読みといていこうという内容の講義を担当しています。で、今日、その最後の試験が終わりましたので、今日から何日かに分けて、試験問題で取り上げた切手や郵便物の解説をしてみたいと思います。

 今回は、切手関係の問題は全部で5種類つくり、その中から、授業で話した内容に応じて3~4問をピックアップして組み合わせてみました。なお、切手に絡まない問題も出題しましたが、それについては、試験を受けられた学生さんでもネット等で自力で調べられるでしょうから、このブログでは特に解説しません。

 というわけで、初日の今日は、まず、軽く過去のブログで取り上げたものについて、補足的な説明をして見ましょう。

 問題A この切手(↓)を参考に、サダトにとっての10月6日の意味を説明せよ。(画像はクリックで拡大されます)

サダト

 この切手については、この記事をお読みいただければ、基本的なことは全てお分かりいただけると思います。採点のポイントは、この切手が第4次中東戦争での勝利を記念するエジプト切手であることを明らかにした上で、①10月6日が第4次中東戦争の開戦日であり、サダトがイスラエルの不敗神話を破ったこと、②戦争の実績を元に、サダト政権はシナイ半島の回復を目指した対イスラエル和平に乗り出したこと、③対イスラエル和平の推進により、エジプトがアラブ世界で孤立したこと、④その結果、サダトが栄光の記念日であるはずの“10月6日”に、いわゆるイスラム原理主義者に暗殺されたこと、の4点がバランスよく説明できているか否か、というところでしょうか。

 問題B いわゆる“アラブ叛乱”と↓の郵便物の関係を説明せよ。(画像はクリックで拡大されます)

ヒジャーズ暫定カバー

 このカバー(封筒)については、この記事にあるとおりです。ポイントは、①ヒジャーズ側がオスマン帝国に対して独立を宣言し、オスマン帝国の主権を否定したこと、②その具体的な行動のひとつとして、ヒジャーズ側はオスマン帝国の切手を使用停止とし、独自の切手を発行するまでの間、暫定的に料金収納印を使って郵便サービスを提供していたこと(そして、このカバーがその実例であること)、の2点になります。もちろん、その背景として、アラブとイギリスの密約であるフサイン・マクマホン書簡について、一言触れておく必要があります。

 なお、このカバーを“フサイン・マクマホン書簡の実物”と考えた学生さんが一部におられましたが、そういうものが手に入るのであれば、ぜひとも欲しいものだと採点しながら思ってしまいました。

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 インド独立連盟のカバー
2006-01-26 Thu 23:53
 1月26日はインドの共和国記念日(1950年に独立インドの新憲法が採択された日)だそうです。というわけで、インドがらみのネタを一つ。

インド独立連盟

 このカバー(封筒)は、ラングーンのインド独立連盟(IIL)本部からイポ(マレー)の同支部宛の公用便と思われるもので、本部で押された検閲印の日付は(26)05年(=1945年)1月16日の書き込みがあります。(画像はクリックで拡大されます)

 インド独立連盟は、日本軍の支援を受け、日本の勢力圏内に在留のインド人が組織した反英独立運動の団体です。当初は、日英開戦直前の1941年に、当時日本に亡命していたビハリ・ボースが中心になって東京で結成されましたが、日本軍の東南アジア占領後、本部をバンコク(のちラングーン)に置いてインド国民軍を創設し、その活動を支えるため東南アジアの各地に支部を開設していました。その後、1943年7月に、チャンドラ・ボースが亡命先のドイツから帰国すると、彼がビハリ・ボースに代わって連盟の指導者となり、自由インド仮政府を樹立する母体となっています。

 自由インド仮政府ないしはインド国民軍の郵便については、いろいろと不明な点も多く、このカバーについても詳しいことはよく分かりません。まぁ、カバーの中に入っていた手紙にも、封筒に押されていたのと同じ検閲印が押されていますし、全体の雰囲気からして、当時のインド独立連盟の関係者が差し出したものと見てまず間違いないとは思うのですが、どなたか、詳しい事情をご存じの方がおられたら、ご教示いただけると幸いです。

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 初天神
2006-01-25 Wed 15:46
 今日(1月25日)は初天神で、湯島天神では鷽替えの神事が行われる日です。まぁ、受験シーズンということでもありますから、今日はこんな1枚を取り上げてみました。

菅原伝授手習鑑

 この切手は、1966年に国立劇場がオープンした時に発行された記念切手の1枚で、初代歌川豊国の作品のうち『菅原伝授手習鑑』の吉田社頭車引の場面を描いた浮世絵が取り上げられています。

 『菅原伝授手習鑑』は、1746年(延享3)、竹田出雲らによって、もともとは人形浄瑠璃のために書き下ろされた作品で、浄瑠璃の初演から2ヶ月後、歌舞伎に取り上げられました。内容は、菅原道真にまつわる民間説話を織り交ぜて脚色したもので、全五段構成の長大なものです。このため、完全な通し上演は幕末以来行われず、「車引き」「寺子屋」などの場面が単独で上演されていましたが、国立劇場杮落としの特別講演として、1966年11・12月の2ヶ月間、およそ100年ぶりに通し上演が行われています。

 切手に取り上げられている「車引き」の場面は、以下のような内容です。

 物語の主人公である菅丞相(菅原道真)が、藤原時平の讒言により、筑紫に流されたことから、舎人の梅王丸と桜丸の兄弟は、たまたま吉田神社で時平の車に出遭ったのを幸いに、主君の恨みを晴らそうと車の前に立ちはだかり、はからずも兄弟でありながら時平の舎人になっていた松王丸と車を引き合って激しく争いました。ところが、車の中から時平が立ち上がると、その威容に圧倒された梅王丸と桜丸は体がすくんでしまい、無念のうちにその場を立ち去らざるを得なくなってしまいました。

 切手に取り上げられた豊国の浮世絵では、車の上に立ち上がる時平と彼を守護する松王丸、時平に手向かう桜丸(手前)と梅王丸(後方)という構図になっています。

 ところで、へそ曲がりの僕は、大学受験のとき、いわゆる天満宮やそのお守りの類を敬遠していました。

 こんなことをいうと、またもや内藤は日本人のDNAが少ないといわれてしまいそうですが、菅原道真という人は権力争いに敗れて左遷され、失意の内に亡くなった人物です。伝えられているエピソードでは、晩年の彼は、自分の名誉回復のために積極的なアクションを起こすわけでもなく、また、新たな任地で自分に与えられた仕事に全身全霊をかけて打ち込み、そのことで名を残すといった前向きなことは何もせず、ただただ鬱々として無為に日々を過ごしていただけ、といったような印象しかありません。おなじく、罪を得て宮刑に処せられた司馬遷が逆境をばねに『史記』を完成させたのと比べると、人間としての度量があまりにも小さいといったらいいすぎでしょうか。

 受験を一つの勝負事と考えるのなら、権力闘争に負けた後、めそめそしながら死んでいった人物がはたして、勝利をもたらしてくれる神様としてふさわしいのかどうか…。少なくとも、今日の切手に取り上げられている時平の姿は、目の前の敵を撃退している勇ましいものですから、次から次へとやってくる試験問題を片付けていくという点では、よっぽどご利益があるような気がします。

 さて、昨日の記事でも少し書きましたが、2001年から<解説・戦後記念切手>シリーズと題して、戦後日本の記念・特殊切手の“読む事典”を作っています。現在は、昨年4月に刊行したシリーズ第3作の『切手バブルの時代 1961-1966』に続いて、封書料金15円時代の1966~1971年を中心にしたシリーズ第4作を制作中です。受験シーズンの間には、原稿を仕上げてしまわないといけないのですが、さてさて、どうなることやら。

 ときどき、ふと、やりかけの仕事を放擲して大宰府まで逃げてしまおうかなどと弱気の虫が頭をもたげる今日この頃です。

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 がけっぷち
2006-01-24 Tue 23:05
 昨日・今日はライブドアの堀江社長逮捕のニュースで持ちきりでしたねぇ。まぁ、学生時代のベンチャー企業“オン・ザ・エッジ”(どうして、オン・・エッジでないのかは不明)から始まった彼の人生は、いままさに、“がけっぷち(on the edge)”にあるということでしょうか。

 ところで、物理的な意味での“がけっぷち”といえば、僕なんかが思い出すのは自殺の名所ともいわれる東尋坊です。その東尋坊が描かれている切手として、今日は、こんな1枚を取り上げてみましょう。

第23回国体

 この切手は、1968年に福井県で行われた第23回国体(秋季大会)の記念切手で、開催県にちなみ、体操選手の背景に東尋坊が描かれています。このときの国体では、聖火リレーの火は永平寺で採火されていますから、福井の名所・旧跡としては背景に永平寺を描いても良かったと思うのですが…。やはり、長らく女人禁制だったお寺とレオタード姿の女子選手の組み合わせに問題があったということなのでしょうか。

 さて、このときの国体開催に関して、地元の県・市町村の関連予算は約35億円でしたが、道路など関連事業を加えると、その規模は50億円以上にも膨れ上がったといわれています。当然、こうした巨額の経費は地元自治体の財政を圧迫することになるのですが、県内の各自治体は、国体開催を理由に起債の許可や中央からの財政支援をとりつけて公共事業を行い、インフラ整備を一挙に進めています。まさに、1964年の東京オリンピックが首都高や新幹線などのインフラ整備に大きな役割を果たした先例をなぞっているといってよいでしょう。

 前にも書いたかもしれませんが、2001年から<解説・戦後記念切手>シリーズと題して、戦後日本の記念・特殊切手の“読む事典”を作っています。現在は、昨年4月に刊行したシリーズ第3作の『切手バブルの時代 1961-1966』に続いて、封書料金15円時代の1966~1971年を中心にしたシリーズ第4作の原稿を書いています。

 ここで頑張って作業を進めないと、4月のスタンプショウにあわせて刊行することが難しくなってくるのですが、状況はまさに“がけっぷち”といったところです。

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 25億か100円か
2006-01-23 Mon 15:59
 今朝のニュースによると、21日(現地時間)にニューヨーク出行われたクリスティーズ・オークションで、アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンの肖像画が2130万ドル(約24億6000万円)で競り落とされたそうです。報道では、日本円の金額を四捨五入して“25億円”としているところが多かったようですが、24億6000万円と25億円じゃ4000万円の隔たりがあります。僕の家のローンよりも大きな金額です。まぁ、このクラスになると、そんな“はした金”なんてどうでもいいということなのでしょうか。(僻みっぽくなりますが、僕にとっては全然どうでも良くないです。)

 で、このニュースを紹介していたキャスターやコメンテーターは、僕の知る限り、ことごとく「こんな絵が…」というニュアンスで話していましたが、実は、アメリカ人にとってはこの絵は教科書にも出てくる非常に有名なもので、当然、切手にも取り上げられています。

プリンストンのワシントン

 画像の切手(クリックで拡大されます)は、1977年に発行されたアメリカ独立200年切手の1枚で、独立戦争中の1777年1月1~3日、ワシントンがニュージャージー州プリンストンで、チャールズ・コーンウォリスのイギリス軍とのたたかいに勝利した場面を描いたものです。この攻撃の成功は、独立を支持する入植者達の士気を大いに鼓舞したものとして、アメリカ史の教科書には必ず取り上げられています。

 切手に取り上げられている(=今回、高額で取引された)絵画は、1779年、チャールズ・ウィルソン・ピールが1777年の戦いを記念して描いたもの。絵そのものの高さは2.4メートルあり、肖像は実寸に近いといわれています。

 ホンモノなら“25億円”もする「プリンストンのワシントン」ですが、1977年に発行された切手なら、せいぜい日本円で100円前後で手に入れることができます。身近に美術を楽しむことができるのも、切手の魅力の一つといってもいいのかもしれません。

 ちなみに、今回の画像で使っている未使用の切手を探していたら、こんなアルバムページが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

少年時代のアルバム

 アルバム・リーフ(切手が貼ってあるルーズリーフ式の台紙)の製造年月日を見ると1979年6月となっていますから、中学1~2年生の頃に作ったものでしょう。あまり記憶は定かではないのですが、袋詰めのアメリカ切手を買ってきて、そのなかからワシントンのものだけ抜き出して貼りこんだものじゃないかと思います。今回とりあげた「プリンストンのワシントン」の切手も、使用済みですが、しっかり貼ってあります。

 親からもらった万年筆で習いたての英語の筆記体を書いているのが、いかにも純朴な切手少年のアルバムという感じですねぇ。最近、僕のことを知った人にとっては、内藤というのは単なる(性格)チョイ悪オヤジのイメージが強いのかもしれませんが、僕にだって、こういう時代があったんですよ。


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 誕生日ネタ
2006-01-22 Sun 19:41
 私事ながら、不肖内藤、本日をもって39歳になりました。不惑まであと1年。さすがに40の大台を超えてしまうと、無茶をした後で「若僧だから許してください」というわけにも行かなくなるでしょうから、今年はフルスロットルで飛ばして行く一年にしたいと決意を新たにしたところです。

 というわけで、今日は誕生日ネタのマテリアルを1点。

モーラミャイン収容所の葉書

 この葉書は、太平洋戦争中の1943年、日本軍占領下のビルマ(ミャンマー)・モールメン(モーラミャイン)収容所から、同じく日本軍占領下のスマトラ島メダンの女性抑留所宛に差し出されたものです。

 太平洋戦争中の1943年、日本軍はノンプラドック(タイ)=タンビュザヤ(ビルマ)間の415キロメートルを結ぶ泰緬鉄道を建設しました。この建設工事に連合軍の俘虜を動員するため、日本軍は“泰俘虜収容所”を設け、タイ・ビルマの両地域にまたがって6ヶ所の収容所分所が設置されています。

 この葉書は、そうした収容所の捕虜が差し出した1枚で、裏面には、基本的な文面があらかじめ印刷されており、1日10㌣で働いているとの記述もあります。なお、画像(クリックすると拡大されます)は、2004年に<JAPEX>という切手の展覧会に出品した作品の中からそのままスキャンしました。この結果、カラー・コピーを使う場合には、現物とコピーの区別を明瞭にするため、コピーは縮小するという切手展のルールに従って、裏面のコピーが原寸ではなく縮小になっています。

 さて、葉書の表面に押された検閲済の印にご注目ください。そこに書き込まれている日付は、昭和18年1月22日となっています。また、検閲担当者の印には内藤という名前もしっかり入っています。

 偶然の産物とはいえ、まさに、1月22日生まれの内藤陽介にとっては、非常に愛着を感じるマテリアルです。

 いつだったか、ある著名な収集家が、全くのお遊びで、19世紀から現在にいたるまでの自分の誕生日の消印が押された郵便物を集めている言っていたことをと聞いたことがありますが、こういう形でフィラテリーを楽しんでみるのも悪くないのかもしれません。

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 仏領南極の犬ぞり
2006-01-21 Sat 15:50
 東京では今日は朝から雪が降っています。そこで、今日は雪にまつわる切手の中から、こんな1枚(画像はクリックで拡大されます)を引っ張り出してみました。

南極の犬ぞり

 この切手は、いわゆる仏領南極が1983年に発行したもので、南極の雪原を走る犬ぞりが描かれています。

 20世紀に入り、南極探検が盛んに行われるようになると、イギリス・フランス・ノールウエー・オーストラリア・ニュージーランド・アルゼンチン・チリの各国は、自国の探険・踏査の事実を踏まえ、自分たちが調査した地域の領土権を主張しはじめます。彼らの狙いは、南極の土地そのものというより、豊富な地下資源や領海内の水産資源にありました。

 フランスの場合、1955年に“フランス南部および南極領土(Territoire des Terres Australes et Antarctiques Françaises 以下、仏領南極)”を設定しました。その範囲は、アムステルダム島、セント・ポール島、クロゼット島、ケルゲレン島と大陸のアデリーランドです。

 仏領南極の領有を宣言したフランスは、1955年中には早速、この地域用の切手を発行しています。もっとも、このとき発行された仏領南極最初の切手は、当時フランス領だったマダガスカルの切手に“Territoire des Terres Australes et Antarctiques Françaises”の文字を上から加刷したもので、正刷切手(オリジナルデザインの切手)の発行は翌1956年からになります。

 当時の南極では、イギリス・チリ・アルゼンチンの三国の間で領土紛争が起こったこともあり、将来的に本格的な紛争の火種になりかねないことが懸念されていました。このため、1957年~58年の国際地球観測年のときの国際的な南極観測を契機に、国際対立を回避し、科学的調査のための平和的な場にしようとする気運が高まり、1959年、国際地球観測年の南極観測に参加した12ヶ国がワシントンで南極会議を開き、南極条約を締結しています。条約では、南緯60度以南の南極における領土権の凍結、科学的調査の自由、平和的利用と非軍事化、定期的会合と査察などが定められ、フランスが研究所を置いているアデリーランドの領有権も凍結されました。

 仏領南極は基本的には無人の火山島ですから、これらの切手は実際に郵便に使うものというより、この地域の領有権を示すためのプロパガンダの一手段と考えるのが妥当です。もっとも、そういう生臭い話を別にしても、純粋に仏領南極の切手はデザイン・印刷ともに良くできた綺麗なものが多いので、集めてみると楽しいものです。

 実は、今日ご紹介している切手は、一時期、今年の年賀状の題材として使おうかと思っていたのですが、結局、使わずに終わってしまいました。(実際に僕が出した年賀状については、こちらをご覧ください)

 とはいえ、綺麗な切手なので、どこかで使えないかなと思っていましたので、雪の日の今日のコラムとしてご紹介したという次第です。

 PS 今日はこんな出来事もあったみたいです。

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 アメリカの牛
2006-01-20 Fri 23:40
 先日、米国産牛肉の輸入が再開されたばかりですが、はやくも、狂牛病の危険部位とされる脊柱が混入した商品が日本に持ち込まれていたそうで…。まぁ、牛たちには罪はないわけですが、日本人を相手に牛肉を売って一儲けしようと考えているアメリカ人たちは、我々のことを舐めきってるんじゃないかと、ちょっと頭にきてしまいます。

 ところで、アメリカの牛といえば、やっぱり、この切手は避けて通れないでしょう。

トランスミシシッピ博

 これは、1898年にオマハ(ネブラスカ州東端の都市)で開催されたトランス・ミシシッピ博覧会を記念して発行された切手の1枚で、嵐の中を進む牛たちの姿が取り上げられています。

 トランス・ミシシッピとは、19世紀のアメリカで広く使われていた地域概念で、ルイジアナ、ミズーリ、テキサス、アーカンソーの各州一帯をさしています。切手の主題となった博覧会は、トランスミシシッピ地帯開発事業のプロモーションのために実施されました。

 この博覧会は、当時としては大規模な国際イベントだったようですが、現在では、その具体的な内容が話題に上ることはまずないといってよいでしょう。これに対して、博覧会にあわせて発行された記念切手の素晴らしさは、当時から評判になり、この切手はアメリカを代表する名品のひとつとしていまなお収集家の間で高い人気を誇っています。

 僕は畜産のことは詳しくないのですが、切手に描かれている牛は食用としてはどうなんでしょうねぇ。まぁ、食べられないことはないでしょうが、ちょっと肉質が固そうな気がします。もっとも、ビールでマッサージされて育った霜降りの松坂牛なんかじゃ、こんな具合に嵐の中を格好よく進んでいくというような絵にはならないんでしょうけどね。

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 活力門
2006-01-19 Thu 23:35
 日本国内はもとより海外でも大いに注目を集めているライブドア問題ですが、中国ではライブドアのことを“活力門”と訳すのだそうです。ちなみに、発音はhuo li menで、ホリエモンに近いのだとか。小ネタとしては面白い話です。

 さて、中国で“門”といえば、やはり天安門でしょう。天安門を描いた切手というのはいろいろあるのですが、今日は、その中からこんな1枚をご紹介したいと思います。

天安門・不発行

 1912年、清朝が倒れて中華民国が発足すると、その実験を握ったのは軍閥の袁世凱でした。

 袁は一貫して、中央の元首が強権を振るうことで初めて中国の混乱を収拾できると考えていました。この点では孫文も同意見です。これに対して、革命後、最高権力者の権限を制限し、議院内閣制を求める国民の声は次第に強まっていくのですが、袁はこれを無視して強権的な政治を行い、1913年には孫文らが起こした反袁の第2革命を封じて、国民党の解散命令を出したうえで、国会内の国民党議員を全員解職しました。

 1914年、第一次世界大戦が勃発し、日本は日英同盟を口実に膠州湾岸のドイツ領に出兵してこの地を占拠、さらに、対華21ヵ条要求をつきつけ、無力な中国にこれを押し付けます。一方、外交の失策と革命後の混乱に憤激した国民の間には、袁の専制を批判する動きが急速に広がっていきました。

 こうした不安定な状況の中で、袁が起死回生の一手として持ち出したのが帝政の復活です。1915年、彼は、翌1916年より年号を洪憲(憲法を広めるという意味を込めてつけられた名前です)と定め、国号を「中華帝国」に改めることを宣言しました。強力な立憲君主制を導入すれば、国内の混乱は収拾できるというのは彼の目論見でした。

 しかし、結果は予想と正反対のものとなり、北京では学生の反帝政デモが頻発。地方の軍閥はこれを口実に次々と反旗を翻し、国際世論も彼を批判するなど、袁は完全に孤立してしまいます。かくして、彼は1916年3月に慌てて帝政復活の取り消しを宣言したものの、政権は完全にレームダック化。同年6月、彼は失意のうちに亡くなりました。結果的に、彼もまた、“驕れる者は久しからず”という道理から逃れられなかったということなのでしょう。

 今回ご紹介しているのは、そうした袁世凱の帝政実施の記念切手として準備されていたものですが、結局、発行されないままに終わったものの1枚です。現在、市場には、SPECIMEN(見本)と加刷されたモノが出回っています。

 聞くところによると、一時は新興企業の皇帝になるかともいわれた活力門の主は、近々CDを発売する予定だったそうですが、この騒動でそれも取り止めになったようです。彼が準備していた、幻のCDの見本版がどこかに出回っているのであれば、一度、拝んでみたい気がします。

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 サンドイッチ諸島
2006-01-18 Wed 23:46
 1月18日はキャプテン・クックがハワイ諸島に到達し、パトロンで海軍大将だったサンドイッチ伯爵(あの食べるサンドイッチの名前の由来になった御仁です)にちなんで、この地をサンドイッチ諸島と名づけた日だそうです。

 当初、クックが名づけた“サンドイッチ諸島”の範囲は、彼が視認できたカウアイ、オアフ、ニイハウ島の各島とその周辺の小島だけでしたが、のちに、ハワイ本島やマウイ島など、現在のハワイ諸島もそこに付け加えられています。

 1795年に成立したカメハメハ王朝は、当然のことながら、クックの命名した“サンドイッチ諸島”という呼称を採用せず、ハワイ王国を自称しました。当然、彼らが発行した切手の国名も“ハワイ”です。

 しかしながら、欧米人の間では、1870年代になっても、この地をサンドイッチ諸島と呼ぶ人が少なくなかったようで、こんなカバーも残されています。

サンドイッチ諸島宛カバー

 このカバー(封筒・画像はクリックで拡大されます)は、1872年、アメリカのニューバーグ(ニューヨーク州)からサンフランシスコ経由でホノルル宛に差し出されたものですが、封筒にはしっかり“サンドイッチ諸島”と書かれています。

 また、1873年にこの地を訪れた著名な女性旅行家のイザベラ・バードも、ハワイではなくサンドイッチ諸島という呼称を用いています。

 当時のハワイは、アメリカ資本によるサトウキビのプランテーションが急激な発展を遂げ、ハワイ経済の対米依存が急速に強まっていた時期でした。結局、1893年、アメリカ系白人の資本家たちはクーデタを起こして“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府”の樹立を宣言。1895年にはカメハメハ王朝を滅亡に追い込みました。ちなみに、アメリカがハワイを正式に準州として属領に編入したのは1900年のことでした。

 この辺の事情については、昨年上梓した拙著『反米の世界史』でもそれなりに説明していますので、ご興味をお持ちの方は是非ご一読いただけると幸いです。
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 外国切手の中の中国:唐の侵略
2006-01-17 Tue 23:09
 昨日はNHKアラビア語講座のテキストで連載している「切手に見るアラブの都市の物語」の最新記事についてご紹介しましたが、今日は、同じく明日(18日)発売のラジオ中国語講座のテキストの連載「外国切手の中の中国」の最新記事の中から、こんな1枚をご紹介します。

唐の侵略

 この切手は、1982年6月から12月にかけて韓国で発行された「歴史絵画シリーズ」の1枚です。

 このシリーズは、韓国の歴史において、韓国側が勝利を収めた戦闘を描いた絵画を集めたもので、当然のことながら、前近代を取り扱っている切手では、中国の“侵略”に対する歴代朝鮮王朝の勝利の場面が描かれています。今回の切手には、そのうち、676年の対唐戦争での勝利が取り上げられています。

 西暦7世紀、新羅・百済・高句麗の三国時代にあった朝鮮半島では、新羅が唐と結んで百済に進軍。660年には百済を滅ぼした後、663年の白村江の戦いで百済の遺臣と日本の連合軍を破り、さらに668年には高句麗をも滅ぼしました。

 これを受けて、唐は旧百済領に熊津都督府を、旧高句麗領の平壌に安東都督府を置き、朝鮮半島への支配を拡大しようとしましたが、新羅は旧百済領の唐の駐屯軍を攻撃。両者の間で戦争が始まります。その結果、676年、新羅は唐軍を駆逐して、大同江・元山湾を境界として三国統一を達成しました。

 切手では、新羅が“唐の侵略軍”(英文ではTang’s Invading Armyと表示されている)を破ったとの説明文が印刷されていますが、純粋に歴史的な経緯を見ると、百済と高句麗の滅亡後、唐と新羅の間で戦勝国としての分け前をめぐって対立が生じたと理解するのが妥当なように思われます。しかし、それをあえて“唐の侵略”と位置づけているところに、朝鮮初の統一王朝としての新羅の歴史的意義を強調しようという意図が感じられます。

 今回の「外国切手の中の中国」では、この1枚をはじめ、侵略者としての中国が韓国の切手においてどのように描かれてきたのか、といった点についてまとめてみました。ご興味がおありの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 アラブの都市の物語:クウェート亡命政権のラベル
2006-01-16 Mon 23:18
 東京・目白の切手の博物館にて開催しておりました、<中近東切手コレクション>展(以下、中東切手展)は、昨日をもちまして無事に終了いたしました。会場にお越しいただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。おかげさまで、展示内容については概してご好評を頂戴できたようですので、今後も機会を見つけてこうした展示を行っていきたいと考えております。

 さて、中東切手展の会期中は、展示に関連する話題ということで中東・イスラムがらみの切手の話が続いておりましたので、そろそろ、別の話題を記事にしようかと思っていたのですが、今朝のニュースでクウェイトのジャビル首長の亡くなったと報じられていましたので、もう一日だけ、中東ネタにお付き合いください。

 ジャビル首長は前首長の死去で1977年に即位し、1990年のイラク・フセイン政権によるクウェート侵攻時には隣国サウジアラビアに逃れ、亡命政府を作った人物です。で、その亡命政権に関しては、こんなマテリアルがあります。

クウェート亡命政府のラベル

 これは、クウェート亡命政府が作った“自由クウェート”のラベルです。正規の切手ではありませんが、湾岸危機および湾岸戦争の時期に、クウェートを支援する湾岸諸国では切手と一緒に郵便物に貼られることもありました。画像(クリックで拡大されます)の場合は、バハレーンから差し出された郵便物に貼られた例(部分)で、ラベル部分にも、バハレーンの首都・マナーマの消印が押されています。

 ジャビル首長の訃報で湾岸危機・湾岸戦争のことを思い出した人もあるかと思いますが、実は、国連が定めたイラク軍のクウェート撤退起源は1991年1月16日で、翌17日が多国籍軍による空爆の始まった日(=湾岸戦争開戦の日)でした。いまからちょうど15年前の出来事です。

 というわけで、NHKテレビアラビア語講座のテキストに連載している「切手に見るアラブの都市の物語」では、明後日18日発売の2・3月号では、クウェートを取り上げてみました。記事では、今日ご紹介しているモノだけでなく、クウェートの人々の暮らしが分かるような切手も取り上げていますので、是非、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。

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 アブダビ最初の切手
2006-01-15 Sun 10:27
 東京・目白の“切手の博物館”で開催中の<中近東切手コレクション>展(詳しくはhttp://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください)は、いよいよ、本日が最終日です。本日は14:00からと15:30からの2回、展示解説を行いますので、ぜひとも、遊びに来ていただければ幸いです。
 
 さて、このブログでも何度か書きましたが、今回の展覧会では、僕は「中東戦争とその時代」と「アラブ土侯国の郵便史」の二つのミニコレクションを出品しているのですが、今日は、「アラブ土侯国の郵便史」の中から、こんな1枚をご紹介してみましょう。

アブダビ

 これは、1964年3月に発行されたアブダビ最初の切手が貼られたカバー(封筒)です。

 アブダビにおける近代郵便は、1960年に沿岸のダス島に暫定的な郵便局が置かれたことから始まります。

 当時、イギリスと休戦協定を結んで保護国になっていた“休戦協定諸国(trucial states)”のなかで、アブダビとドバイという“2大首長国”は積年のライバルとしてあらゆる面で張り合っていました。以前の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-102.html)でも書きましたが、イギリスが“休戦協定諸国”共通の切手を発行しようとした際「ドバイの風下に置かれるような扱いは真っ平ごめんだ」として、アブダビがその切手を拒否したことは、そうした両者の関係を象徴するエピソードといえます。

 結局、“休戦協定諸国”共通の切手を拒否したアブダビは、1963年3月、アブダビ市内に郵便局を設置。その1周年にあたる1964年3月から独自の切手を使用しはじめます。今回ご紹介しているのは、その切手が貼られたカバーです。

 その後もアブダビとドバイの対立関係は1960年代を通じて続いていくのですが、1971年、両者を含めた7首長国が集まって“アラブ首長国連邦”が結成されます。これは、イギリス軍がこの地域から撤退するため、対岸のイランの脅威に直接さらされることになった首長国が団結せざるを得なくなった結果でした。

 最近、イランの核開発問題がマスコミを賑わせていますが、隣接するアブダビやドバイにとって、その脅威はきわめて深刻なものであることは容易に想像がつきます。我々だって、核兵器を持っている対岸の大国ってのは、おっかなくてしょうがないのですから…。
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 シリアとレバノン
2006-01-14 Sat 10:47
 切手の博物館で開催中の<中近東切手コレクション>展も今日・明日(14・15日)の2日間となりました。

 今日と明日は、14:00からと15:30からの2回、簡単な展示解説を行います。また、13:30頃からは会場に詰めていますので、展示に関するご質問等があれば、お気軽にお声をおかけください。

 さて、イランの核開発やイスラエルのシャロンの容態などのニュースの陰に隠れて見逃されがちですが、レバノンの元首相暗殺事件のほうも、目が離せない状況になっているようです。

 そもそもの発端は、昨年(2005年)2月、レバノンのハリリ元首相が暗殺されたことにあります。この事件にシリアのアサド政権が関与していた疑惑が強まり、シリア軍はレバノン内戦以来駐留していたレバノンからの撤退を余儀なくされました。

 その後、暗殺事件に関しては、国連の独立調査委員会が2次にわたる報告書を安保理に提出し、シリア機関の関与を示唆。シリアに対する国際的な包囲網が強まる中、この年末年始にかけて、昨年6月に辞任した前副大統領のハダムが、アサド(シリア大統領)が元首相暗殺の数カ月前に「我々の決定を邪魔する者は誰だろうとたたきつぶす」と同元首相を脅していたと証言。さらに、ハダム氏「いかなるシリア機関も独断でこのような決定はできない」と述べ、元首相暗殺へのシリア政権中枢の関与を示唆したところから、アサド政権はますます窮地に追い込まれているという状況です。

 シリア軍が長年にわたってレバノンに駐留できり、シリアの政権がレバノン政府に圧力をかけるということが日常的に行われてきたりしたのは、シリアとレバノンがもともとは一体のものであったという歴史的な背景があります。

 非常に大雑把にいうと、第一次大戦以前、地中海東岸のアラブ地域は一括して“シリア”と呼ばれていました。それが、オスマン帝国の解体と英仏による植民地分割の過程で、シリア・レバノン・パレスチナ・トランスヨルダンに分割されます。このうち、フランスの支配下に置かれたシリアとレバノンは、旧レバノン県を中心に、キリスト教徒が人口の過半数を占めるように“レバノン(大レバノン)”が画定され、現在のシリアから切り離されました。

 当然のことながら、シリアではレバノンはもともと自分たちの国の一部という国民感情が根強くあるわけです。

 さて、今回の<中近東切手コレクション>展に出品している僕の作品の中には、こんなカバー(封筒)も入っています。

 ベイルート・フランス局

 このカバーは、第一次大戦以前の1905年1月、ベイルートに置かれていたフランスの郵便局からクレタ島のハニア宛に差し出されたものですが、消印の表示は“ベイルート・シリア”となっています。歴史的にシリアとレバノンが一体のものだったというシリア側の主張を裏付けるようなものと言っても良いかもしれません。

 もっとも、「歴史的に云々~」という主張は心情的には分からなくはないのですが、だからといって隣国の要人を暗殺してもいいということにはならないはずなのですが…。

 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。


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 イエメンからパレスチナへ
2006-01-13 Fri 17:44
 1月8日の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-223.html)で、イエメン最初の切手のことをご紹介したところ、去年6月にイエメンへ旅行に行かれたというSuuSuu様からコメントを頂戴しました。

 現在開催中の<中近東切手コレクション>展では、イエメンに関しては、櫻井多加志さんが1960~70年代の革命政権と王党派の切手を展示してくださっているほか(ちなみに、櫻井さんは、イエメンのほか、ヒジャーズ、サウジ、アルジェリア、モロッコについても興味深い展示をしてくださっています)、僕自身もイエメン内戦について少しだけですが自分の作品の中で触れています。

 で、そうしたイエメン内戦関係のものをご紹介できれば良いのですが、いつものごとく段取りが悪くって、現物は展覧会の会場に行ってしまってスキャンが取れません。というわけで、今日はイエメンがらみのもののうち、今回の展覧会には使わなかったものの、ちょっと毛色の変わったものをご紹介しましょう。

イエメン→パレスチナ

 このカバー(封筒)は、1933年5月、サナァからテルアビブを経てジャッファまで送られたもので、裏面にはアラビア語とヘブライ語で宛名が書かれています。

 アラブとユダヤというと絶対に交わることのないもののように考えている人も多いのですが、アラブとはアラビア語を母語とする人たちのことであり、ユダヤ人の定義が「ユダヤ人の母から生まれた者もしくはユダヤ教徒」である限り、その両方を兼ね備えたアラブ系ユダヤ教徒という人も存在します。1948年にイスラエルが建国される以前、イエメンには、そうしたアラブ系ユダヤ教徒の人々が少なからず住んでいました。このカバーも、そうしたイエメン在住のアラブ系ユダヤ教徒が差し出したものと見て間違いないでしょう。

 貼られている切手は、1926年のものと比べると、かなり切手らしくなっていますが、それでも、文字と幾何学文様のみのシンプルなデザインです。こうした切手を発行していたイエメンで、1960年代に入ると、欧米系のエージェントにそそのかされたとはいえ、外貨の獲得を目指した輸出向けのけばけばしい切手を発行するようになるのですから、変われば変わるものです。

 さて、ご好評をいただいております<中近東切手コレクション展>も、いよいよ後半戦に突入しました。14・15日(土・日)の両日は、14:00~と15:30~の2回、僕が展示解説を行いますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。

 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。

 PS 今日ご紹介しているカバーは、会場には展示しておりません。あしからずご了承ください。



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 アフガニスタン切手のコレクション
2006-01-12 Thu 23:27
アフガニスタン表示切手

 昨日の記事で、少しアフガニスタンのことも触れたのですが、現在、東京・目白の“切手の博物館”で開催中の<中近東切手コレクション>展では、赤須通範さんのアフガニスタン切手のコレクションも展示されています。

 赤須さんのアフガニスタンのコレクションは知る人ぞ知る有名なコレクションで、今回は、その膨大なストックの中から、1884年の国内統一以降、王制時代までのアフガニスタン切手の全体像が通観できるような抜粋展示が行われています。

 現在でも状況は大して変わっていないのですが、もともと、アフガニスタンという国は地方割拠の性格が強く、中央政府の威令は首都のカブール(カーブール)周辺にしか行き届いていないことのほうが多いようです。このため、1871年に発行されたアフガニスタン最初の切手は、国名の表示が“アフガニスタン”ではなく、“カーブール王国”となっています。

 こうした状況が改善され、曲がりなりにもアフガニスタンの国内統一が実現されるのは、皮肉にも、1878年の(第2次)アングロ・アフガン戦争でアフガニスタンがイギリスの保護領となってからのことです。この時期、イギリスはアフガニスタン征圧のために大規模な部隊を送っていましたが、現地の激しい抵抗に会い、1881年までには、いったん、アフガニスタンを撤退せざるを得なくなっています。

 このため、イギリスはアフガニスタン政策を全面的に見直し、カーブールの君主であったアブドゥル・ラフマーンを支援して中央集権化を後押しして、アフガニスタンをロシアに対する干渉国として育成することに決めます。ちなみに、イギリスの支援を受けたアブドゥル・ラフマーンによるアフガニスタンの国内統一は1884年、“アフガニスタン王国”の表示が入った最初の切手が発行されたのは1891年、英領インドとの境界が画定するのは1893年のことでした。ちなみに、画像の切手は1892年に発行された“アフガニスタン”表示の初期の切手です。

 以上のようなことを予備知識として頭に入れていただいた上で、<中近東切手コレクション>展の赤須コレクションをご覧いただければ、展示をよりいっそうお楽しみいただけるものと思われます。

 つきましては、<中近東切手コレクション展>に一人でも多くの皆様がご来場いただきますよう、心よりお待ち申しております。なお、会場では、会期中の14・15日(土・日)の両日、14:00~と15:30~の2回、僕が展示解説を行いますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。

 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。
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 中近東切手コレクション展開幕
2006-01-11 Wed 23:22
 かねてご案内の通り、<中近東切手コレクション>展が無事開幕しました。

 初日の今日は、NHK国際放送(短波ラジオ)のアラビア語ならびにペルシャ語のスタッフの方が取材に来てくださいました。特に、ペルシャ語担当のアフシンさん(イラン出身)からは、ご自身もかつて切手を集めていた経験がおありだそうで、展示品の中でも去年の12月20日の記事(http://yosukenaito.blog40.fc2.com/blog-entry-204.html)でご紹介したアフガニスタンのカバー(封筒)に強い関心をお持ちになったようです。

 今回の展覧会では、イランに関しては、影林さんがカージャール朝最後の国王であったアフマド・シャーの時代の切手のコレクションを出品しておられます。なかなか、まとめて見る機会のない切手ですので、ご興味のある方は、ぜひとも、会場でご覧いただければ幸いです。

 ちなみに、僕が今回出品している作品は直接イランのことを題材としていないのですが、イランがらみのものをあえて探すとすると、下の1点(画像はクリックで拡大されます)ということになりましょうか。

カルバラーのカバー

 このカバーは、1908年7月、現在の行政区画でいうとイラク中部のカルバラーからイランのイスファハーン宛に差し出されたものです。昨日ご紹介したものと同様、現在のイラクの領域がオスマン帝国領だった時代のものなので、オスマン帝国の切手つき封筒が使われています。
 
 カルバラーは、バグダード南西の都市で、シーア派の初代イマームであったアリー(預言者ムハンマドの女婿)の息子、イマーム・フサインがウマイヤ朝軍と戦って殉教した場所です。このため、シーア派にとっては重要な聖地とされており、アラブの居住地域でありながら、シーア派国家のイラン人にとってもなじみの深い土地といえます。

 郵趣的な見地からは、カバーに押されている消印が黒色ではなく青色なのが嬉しいところです。消印のバラエティをあんまり細かく追い求めるのはちょっとマニアックすぎて僕の性に合わないのですが、それでも、今回のカバーのように色変わりの消印というのは単純に集めていて楽しいものです。

 今回の<中近東切手コレクション>展に展示されている影林さんのコレクションは、今日ご紹介している僕のカバーが差し出された時期のイラン側の切手にフォーカスをあてたもので、会場に飾られている他の作品と比べていただけると、イラン切手の独特の雰囲気を味わっていただけるのではないかと思います。

 つきましては、<中近東切手コレクション展>に一人でも多くの皆様がご来場いただきますよう、心よりお待ち申しております。なお、会場では、会期中の14・15日(土・日)の両日、14:00~と15:30~の2回、僕が展示解説を行いますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。

 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。

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 エルサレムの葉書
2006-01-10 Tue 23:39
 小泉首相がトルコを訪問してエルドアン首相と会談したそうです。新聞などによると、今回の首脳会談は「イラクの民主化や復興支援、イスラエルのシャロン首相の容体悪化で不透明感が増している中東和平で連携強化を確認する」のが最大の目的とか。

 ところで、現在でこそ、トルコ、イスラエルまたはパレスチナとイラクは別々の国に分かれていますが、第一次大戦以前は、これらの地域はいずれもオスマン帝国の支配下におかれていました。

 たとえば、下の葉書を見ていただきましょう。(画像はクリックで拡大されます)

エルサレム・キャンプの葉書

 この葉書は、1898年10月、エルサレムからミドルエセックス(英)宛に差し出されたものです。当時、エルサレムを含むパレスチナはオスマン帝国の領土でしたから、当然のことながら、この地域の郵政は原則としてオスマン帝国が担当し、この地域ではオスマン帝国の切手が使われていました。なお、この葉書に押されている消印は、1998年10月31日から11月2日にかけて、ドイツ皇帝のエルサレム訪問にあわせて、一種の記念印として用いられたもので、個人的には、“CAMP IMPERIAL”の表示が入った独特のスタイルが気に入っています。

 11日から東京・目白の“切手の博物館”で開催の<中近東切手コレクション展>には、僕はアラブの近現代史をたどるミニコレクションを出品していますが、この葉書は、その冒頭に展示しているものです。欲を言うと、アラブの主要都市で使われたオスマン帝国の切手・葉書類を網羅的に展示できればよかったのですが…まぁ、それは又の機会にしましょう。

 なお、今回の展覧会では、日本女子大学4年生の手塚育美さんが「ケマル・アタテュルクとその時代」と題して、ケマルを狂言回しにオスマン帝国からトルコ共和国への変遷をたどる作品を出品しています。切手によるトルコ近現代の歴史絵巻として見ごたえのある作品ですので、ぜひとも、一人でも多くの方にご覧いただけたら、と思っております。

 また、会場では、会期中の14・15日(土・日)の両日、14:00~と15:30~の2回、僕が展示解説を行います。

 つきましては、<中近東切手コレクション展>に一人でも多くの皆様がご来場いただきますよう、心よりお待ち申しております。

 *<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。

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 マキシマムカード
2006-01-09 Mon 23:30
 切手収集の世界の用語でマキシマムカード(以下、MC)というものがあります。辞書的に説明すると、「切手と共通の、あるいは関連がある絵はがきに切手を貼り、記念消印を押したもの」ということになりましょうか。

 現在では、新切手が発行されたときに作られるもの、というイメージが強いMCですが、そもそもは、まったく別の関心から発生してきたものといわれています。つまり、19世紀末から20世紀初頭にかけてエジプトを旅行した欧米人たちが、スフィンクスとピラミッドを描く当時のエジプト切手を見て、絵葉書と同じ(あるいは似たような)デザインとなっていることを面白がって絵面に切手を貼って差し出したのがMCのルーツだというのです。

スフィンクスMC

 画像(クリックすると拡大されます)は、そうした初期のMCの実例で1902年、ファクースからカイロを経てマルセイユまで送られたものです。たしかに、こんな感じの切手と絵葉書なら、普段は切手に関心のない人でも、旅の思い出にセットにして差し出してみたくなるのも分からなくありません。

 当時、この手のスフィンクスのMCは大量に作られたはずなのですが、現在では、いざ探そうとするとなかなか見つからないようです。

 今回ご紹介しているスフィンクスのMCは、今週水曜日(11日)から東京目白の“切手の博物館”で開催の<中近東切手コレクション展>で展示するマテリアルの一つですが、それとは別に、同展では、鈴木瑞男さんによるエジプトのスフィンクス切手の専門的なコレクションも展示されます。なかなか、普段はまとまって展示されることの少ない切手ですから、是非、この機会にご覧いただけると幸いです。

 なお、<中近東切手コレクション展>の詳細については、http://yushu.or.jp/museum/toku/をご覧ください。

 PS 会期中の土日(14・15日)の午後には、僕が簡単な展示解説を行います。

 
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 イエメン最初の切手
2006-01-08 Sun 23:19
 今週水曜日、11日から、東京目白の“切手の博物館”で<中近東切手コレクション展>を開催します。というわけで、今日から何回かに分けて、その予告編として、会場で展示する切手やカバー(封筒)の中から、ご興味を持っていただけそうなものをご紹介して行こうかと思います。

 第1回目の今日は、まずこんなものからご紹介してみましょう。

イエメンのカバー

 画像(クリックで拡大されます)は、1926年に発行されたイエメン最初の切手が貼られたカバーです。

 第一次大戦以前、イエメン北部はオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、第一次大戦で敗れたオスマン帝国がこの地を撤退すると、1918年、現地のザイド派(シーア派の一派)指導者であったイマーム・ヤフヤーを首長としてイエメン・ムタワッキル王国の独立を宣言します。その後、ヤフヤーは1930年代に北イエメン全域を征服します。

 その過程の1926年に発行された最初の切手は、イエメンで成人男性の証であるジャンビーヤとよばれる短剣を交差させ、その間に“ムタワッキル・イスラム政府”の文字を枠で囲んだデザインとなっています。また、切手の上部にはサナアの文字が、右下には、為政者“ヤフヤー”の名前が記され、左下には“(ヤフヤーに対する)神の庇護”を意味するアラビア語が記されています。

 サナアといえば、世界遺産にも登録された中世そのままの街並みが残る都市ですが、この切手や押されている消印も、そうした土地柄をしのばせる素朴な味わいが見る者を楽しませてくれます。

 ぜひとも、11日からの<中近東切手コレクション展>にお運びいただき、実物をじかにご覧いただければ、と思っております。

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 日比友好年
2006-01-07 Sat 12:30
 今年は日本とフィリピンとの国交回復50年で、それにちなんで“日比友好年”なんだそうで、昨日、フィリピンの外務省で友好年のスタートが公式に宣言されるセレモニーがあったとネットのニュースに出ていました。

 僕の手元にも、フィリピン関係の切手や郵便物はそれなりにあるのですが、基本的には戦争がらみのものばっかりで“日比(比はフィリピン)友好”とはほど遠いものばかりです。それでも、よくよく探してみると、こんなものも出てきました。

フィリピン・ザンメル

 画像は、1958年にフィリピンで発行された“マニラ大聖堂再建”の記念切手です。

 マニラ大聖堂は、マニラ・イントラムロス地区にある大きな教会で、1571年に創建され、フィリピンにおけるカトリックの布教に大きな役割を果たしてきました。台風や地震などで何度か破壊されたものの、そのたびに再建され、太平洋戦争末期の1945年2月にも破壊された後、バチカンの援助を受け、1957年に再建されています。なお、再建費用の一部には、日本での街頭募金によって集められた浄財も充てられました。

 さて、この記念切手は、日本の印刷局が製造したもので、ザンメル凹版という版式で印刷されています。

 ザンメルとは、ドイツ語で“集合”の意味で、ひとつの版面に異なる色が集合している、すなわち、複数の刷色を同時に印刷できることから、この名がつけられています。

 印刷局の設計の下、浜田機械株式会社と日本タイプライター機械株式会社により、日本でザンメル凹版の第1号印刷機(2台)が完成したのは1957年12月のことで、この機械では、同時に3色の印刷を行うことができました。今日、ご紹介している切手は、この新型機による製品の第1号で、日本の切手印刷の歴史のうえでも、印刷局による凹版ザンメル印刷の最初という記念すべきものです。

 その後、この切手の出来栄え・評判がよかったことから、フィリピン政府は切手の印刷を日本の印刷局に発注するようになり、1958年から1973年までの間に180種以上のフィリピン切手が印刷局で製造されました。このフィリピンに、台湾、タイを加えた三ヶ国が“得意客”のベスト・スリーで、当時の印刷局が製造した全外国切手の約7割をこれら3ヶ国で占めています。

 もっとも、1970年代も後半になり、日本とフィリピンの経済格差がとてつもなく拡大してくると、印刷局の仕事はフィリピンにとって割高になったためか、しだいに、日本製のフィリピン切手は減少していきます。フィリピンからの“じゃぱゆきさん”が急増しはじめたのも、この頃からでしょうか。

 現在、良くも悪くも日比間のお金の流れは日本→フィリピンの一方通行になっているわけですが、切手の製造も、そうした時代の潮流の影響をもろに受けている、というわけです。
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 文革切手の日本人
2006-01-06 Fri 23:13
 1965年11月、上海の新聞『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞の免官』を評す」と題する論文を発表し、中国のプロレタリア文化大革命(以下、文革)の火蓋を切った姚文元(いわゆる“4人組”の一人)が昨年末に亡くなっていたそうです。

 というわけで、文革がらみの切手を一つ。(画像はクリックすると拡大されます)

世界の人民とマオ

 この切手は、1967年10月1日(国慶節:中華人民共和国の建国記念日)に発行された“毛主席は赤い太陽”の2種セットの1枚で、毛語録を手にした世界の人民に囲まれる毛沢東の姿が描かれています。

 この切手には元ネタとなったプロパガンダ絵画があるのですが、そのオリジナルでは毛沢東と林彪がならんで描かれているのに対して、切手では、林彪はトリミングで消されています。林彪は1971年にに権力奪取に失敗して亡命途中に墜落死しますが、この切手はそれ以前の発行ですから、事件と切手は無関係です。むしろ、林彪の姿が消されたのは、国家の名において発行される切手という場において、個人崇拝の対象が2人いてはならない、という独裁国家の暗黙のルールゆえと考えるべきでしょう。

 さて、この切手の右端には、メガネに鉢巻、スーツ姿の人物が見えるのですが、おそらく、日本の労働組合の活動家のイメージを表現したのではないかと思います。

 当時、日本国内では、いわゆる進歩的知識人を中心に、文革を無批判に称揚する言説が溢れかえっていました。切手に描かれた人物も、そうした言説を無邪気に信じていたようです。

 パッと見たところ、切手の日本人(と思しき人物)は当時20~30代といった感じです。先日なくなった姚文元は、1932年生まれで、今回ご紹介している切手が発行された当時35歳でしたから、件の日本人氏よりもちょっと年上といった感じでしょうか。もし、かの日本人(ないしは、そのモデルになった人物)が今でも生きているなら、当時のことをどのように振り返って語ってくれるのか、意地が悪いのかもしれませんが、ちょっと興味があります。


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 父子の死
2006-01-05 Thu 23:13
 今日の外信ニュースは、イスラエル首相のアリエル・シャロンが重篤との話題で持ちきりのようです。

 まぁ、シャロンの人生というのは、そのまま、イスラエルの歴史のようなところがあるので、彼の生涯に関わる歴史的事件を表現するマテリアルというのも山のようにあるのですが、とりあえず、僕のイメージの中でのシャロンといえば、彼が野党の党首だった2000年9月に武装護衛を引き連れて、エルサレムのイスラムの聖地である岩のドーム(かつてエルサレム神殿であった場所)を訪問し、「エルサレムは全てイスラエルのものだ」と宣言したことがすぐに連想されます。その後、この訪問に徴発されたパレスチナ人はイスラエル当局に対する投石の抵抗運動を開始し、いわゆるアルアクサ・インティファーダが始まりました。

 で、そのアルアクサ・インティファーダといえば、12歳のムハンマド・ドゥラと父親のジャマールが、ネッツァリムジャンクションで、イスラエルとパレスチナの衝突に巻き込まれ、イスラエル軍の弾が当たって死亡したとされる事件が有名です。この事件は、その一部始終が撮影されたビデオがCNNなどを通じて全世界に放送されたことから、全世界に衝撃を与えました。そして、アラブ諸国は、イスラエルの非道を象徴するものとして、悲劇の場面を国家のメディアである切手にもとりあげています。

ドゥラ父子

 画像はその一例で、エジプトが2000年11月に発行した“パレスチナ人民との連帯”のキャンペーン切手です。切手に取り上げられているのは、亡くなる直前、銃弾の飛び交う中で身をかがめている父子の姿で、恐怖にゆがむ子供の表情が切手全体に緊張感を漂わせています。

 ところで、この切手の元になった事件について、背後の壁に残された弾痕の形状や現場での聞き取り調査などから、父子を死に追いやったのは、イスラエル軍の弾ではなかったとする異議が一部にあるらしいのですが、果たして真相はどうなのでしょうか。

 仮に父子の死因がイスラエルと無関係のものだったとすると、事件を切手に取り上げてイスラエルを非難したアラブ諸国(の郵政)は赤っ恥をかかされたことになってしまいます。もっとも、そんなことをいっても「父子の死をもたらしたパレスチナの状況は、それじたい、イスラエルに責任があるのだから、細かいことは言うな!」といって叱られるのがオチなんでしょうけどね。

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 ビルマの独立記念日
2006-01-04 Wed 18:47
 今日(1月4日)は1948年にビルマ(ミャンマー)がイギリスから独立した記念日です。というわけで、こんな絵葉書を引っ張り出してみました。

ビルマ独立絵葉書

 この絵葉書は、太平洋戦争中の1943年8月1日、日本軍の占領下でビルマが“独立”した記念に発行されたもので、キャラウェイ船が描かれています。キャラウェイというのは、現地の仏教説話で極楽にいるとされる想像の鳥で、毎年10月には、この鳥を模した船(キャラウェイ船)が仏像を乗せてインレ湖を回遊する灯明祭りも行われます。

 ちなみに、裏面はこんな感じ(↓)で

ビルマ独立切手

 こちらには、独立記念切手のうちの“独立”の文字を彫刻する場面の1セント切手3枚が貼られています。

 太平洋戦争中、日本軍がビルマの親日派に“独立”させたことは広く知られています。この親日バーモ政権に関しては、日本の傀儡政権に過ぎなかったという見方も根強いのですが、真摯にビルマの独立のために戦っていたバーモ政権の関係者は私利私欲のために国を売ったわけではなく、現在の視点から単純に“傀儡”と断じてしまうのはいささか酷なようにも思います。当時の国際環境の下で、それがかたちだけのものであったとしても、日本の差し出した“独立”の名をとって本格的な独立のための一つのステップとするのか、旧宗主国に操を立てて植民地・占領地という立場に甘んじ続けるのか、そのいずれかを迫られたとき、彼らがどちらを選ぶかは火を見るよりも明らかです。

 もちろん、日本が彼らに“独立”を与えたのは、それが日本の国益にかなうからであって、ビルマのための自己犠牲ではありえません。“独立”したはずのビルマに1945年の終戦まで日本軍が駐留し続けたということは、そうした日本の本音を如実に物語っています。

 日本の敗戦後、アウンサンらは植民地支配の再開を目論むイギリスとの交渉をかさね、ついに、1948年1月4日、ビルマ連邦の独立を勝ち取ります。

 第二次大戦の勃発から日本の占領時代を経て、戦後のビルマ連邦成立にいたるまでの過程は、切手や郵便の面でも面白いものがいろいろとあるので、いずれ、テーマティクなり郵便史なりのコレクションとしてまとめてみたいとは考えているのですが、実現は…当分先のことになりそうです。

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 中継地オデッサ
2006-01-03 Tue 13:38
 親欧米路線を採り“ロシア離れ”をすすめるウクライナのユシチェンコ政権に対する報復として、ロシアがウクライナへの天然ガス輸出を全面停止にしました。

 ウクライナは自国の消費する天然ガスのうち3割強をロシアからの輸入に頼っており、今回のロシア側の措置がウクライナ経済に大きな影響を与えることは確実ですが、ことはロシアとウクライナの二国間の問題にとどまらず、欧州全体に深刻な影響をもたらしています。というのも、ロシアの天然ガスはEU諸国のガス消費量の約25%を占めており、そのうちの8割はウクライナ領経由で各国に運ばれているからです。実際、昨日までに、ロシアからのガス供給量は、イタリアで24%、フランスで30%、ポーランドやハンガリーで約40%も減少しているそうです。

 そうした中継地としてのウクライナの重要性は、切手や郵便に関心を持つ人間なら、同国の黒海沿岸の港湾都市、オデッサが郵便ルートの重要な中継地点となっていることからも実感できます。たとえば、下の葉書(画像はクリックで拡大されます)も、オデッサを通過したことで、ちょっと面白い痕跡が刻まれた一例といってよいでしょう。

消毒郵便(オデッサ)

 この葉書は、1898年11月、エジプトのポート・サイド(スエズ運河の地中海側の出口)から帝政ロシア宛に差し出されたもので、地中海を北上し、ボスポラス海峡を経てオデッサからロシア領内に入っています。

 オデッサを通過する際、この葉書は、オスマン帝国領内で流行していたコレラの国内への流入を防ぐために“消毒”され、そのことを示すロシア語の一行印が表面上に押されています。

 疫病が流行していた地域を通過してきた郵便物が消毒を受けた事例は時おり見られるますが、消毒の方法は時代や地域によってさまざまです。この葉書の場合には、薬品などによる変色の痕跡がないことから、ガス(一般的には硫化ガスが用いられた)による燻蒸処理によって消毒処理が行われたものと考えられます。

 硫化ガスといえば、秋田県の温泉地で正月旅行の一家4人が中毒で亡くなるという痛ましい出来事もありましたねぇ。天然ガスの宝庫であるロシアでは消毒用の硫化ガスも産出するのだとしたら、この葉書も、そうした“天然モノ”で消毒されたのでしょうか。ちょっと気になるところです。

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 年賀状補遺
2006-01-02 Mon 18:40
 昨日(元日)・一昨日(大晦日)と挨拶文が続きましたので、そろそろ切手の話をしないと読者の方から怒られそうです。

 まぁ、今日は“書き初め”(いまのご時世だと“打ち初め”というべきか)の日なので、年賀状で使った切手の解説でもしておきましょうか。

 今年の年賀状で使ったのは、この切手です。

蘇中区

 この切手は、1945年11月に、中国共産党(以下、中共)支配下の華中抗日根拠地のうちの蘇中区で発行された1枚で、戦士と子供と犬の“軍民一家”が描かれています。切手は印刷が粗末で何が描かれているか分かりにくいのですが、良くみると、中央の下側、子供の足元に犬がいるのがお分かりになるかと思います。

 日中戦争の時期、中共は長江の南北に“抗日根拠地”を築き、江蘇省を蘇南、蘇中、蘇北の三軍区に分け、塩城・淮陰から隴海線にかけてを蘇北軍区、それ以南を蘇中軍区としました。これは、当時、淮河流域には黄克誠麾下の八路軍第五縦隊(後の新四軍第三師)が、揚州、泰州、南通といった沿江地区には陳毅、陳雲逸、粟裕などの新四軍江北指揮部が展開しており、二つの主力部隊の活動地域を、それぞれ蘇北、蘇中軍区に分けたためと考えられています。

 この切手は、その蘇中軍区で発行されたもので、ここでご紹介しているのは、4月に発行された同じデザインでオレンジ色っぽい切手の色をグリーンに変更したものです。ただ、実物の画像は、どうもハッキリしないので、年賀状では、某カタログの写真をもとに、犬の部分を赤丸で囲んで、こんな感じにしました。

蘇中区軍民一家

 前にもこのブログで書いたかもしれませんが、“郵便学者”という看板を掲げて生活している関係から、僕は毎年、年賀状には干支にちなんだ切手のうち、その年に出る予定の本の中身に絡めたものを取り上げて簡単な解説をつけることにしています。具体的には、

・2005年(酉年)
 → 『反米の世界史』にからめて、ベトナム戦争期の北ベトナムの鶏の切手
・2004年(申年)
 → 『切手と戦争』にからめて、日本軍占領下の北ボルネオの猿の切手
・2003年(未年)
 → 『外国切手に描かれた日本』にからめて、吉田一郎の作った蒙疆政権のエッセ(試作品)のうち、羊を描いたもの
・2002年(午年)
 → 『中東の誕生』にからめて、PLOの最大派閥ファタハがつくったパレスチナ解放を訴える切手状のラベル(馬が描かれている)
・2001年(巳年)
 → 『北朝鮮事典』にからめて、ヘビを描いた北朝鮮の特印

 といった具合です。

 今年の場合は、とにかく、去年9月までWebちくまで連載していた「たたかう切手たち」を新書としてまとめなくてはならないので、“たたかう”イメージの中で犬が取り上げられている切手として、ここにご紹介しているものを取り上げたというわけですが、さてさて、どうなりますやら。

 なお、例によって、年賀状の投函は年末ぎりぎりになってしまいましたので、まだお手元に届いていない方も多いのではないかと思います。早々に賀状を頂戴した皆様方におかれましては、今しばらくお待ちいただきますよう、伏してお願い申し上げます。

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