内藤陽介 Yosuke NAITO
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 グレイスランド
2006-06-30 Fri 19:13
 訪米中の小泉首相は、今日、メイン・イベントとしてブッシュ夫妻とともにメンフィスにあるエルヴィス・プレスリーの旧宅、グレイスランドを訪れたのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

エルビス切手

 これは、1993年1月8日にアメリカ郵政が発行したエルビス・プレスリーの切手です。切手には、発行初日のメンフィス郵便局で使われた記念印が押されていますが、そのデザインにはグレイスランドの門扉が取り上げられています。

 この切手が発行された1993年、僕は9月にアメリカ各地を仕事半分・遊び半分といった感じでふらふらしていました。そのとき、飛行機の乗り継ぎで立ち寄ったダラスの空港の土産物屋で、おびただしい数と種類のエルビス切手グッズが売られていたのが非常に印象に残っています。そのとき買ったマグカップは、つい最近、割れてしまうまで毎日のように使っていました。

 エルビス・プレスリーといえば、1962年に発表された“Return to Sender”という曲がありましたね。切手のエルビスは1957年の肖像だそうですから、それから5年後のヒット曲ということになります。発売当時のは「心の届かぬラブレター」という邦題が付けられていましたので、そちらの題名でご記憶の方も多いかもしれません。

 さて、郵便学者の看板を掲げている僕としては、この曲のよしあしということとは別に、曲の中で主人公が出したことになっている郵便物がどのように扱われたのか、ということに興味があります。

 まず、この曲の1番の歌詞を見てみましょう。

 I gave a letter to the postman.  
 He put it his sack
 Bright and early next morning
 He brought my letter back
 She wrote upon it
 Return to sender, address unknown
 No such number, no such zone
 (以下略)

 ここでは、主人公は(おそらく通りがかりの)ポストマンに手紙を渡し、彼がそれを局に持ち帰って処理したということのようです。この場合のpostmanは、いわゆる郵便配達夫ではなく、郵便を回収していた係員でしょう。配達員が主人公から手紙を預かったとすると、彼はそのとき持っていた郵便物を配り終わってから局に戻るわけで、その場合、渡された手紙が処理されるのは夕方以降になる可能性が高いと思います。そうなってくると、手紙が宛先地に届くのは翌日以降になるわけで、翌朝手紙が戻って来たという設定は成り立たなくなるからです。

 さて、翌朝、手紙が戻ってきた時には、宛名の女性の文字で「差出人戻し 宛先不明」と書き込まれていたということですが、本当に宛先不明で差出人戻しになる場合には、アメリカでは規定のスタンプが押されるのが普通です。その場合、配達員は転居先等をいろいろと調べますから、翌日すぐに戻ってくるということはまずありえません。単純に、手紙が配達されたとき、彼女が受け取りを拒絶したと考えるのが妥当でしょう。

 続いて、2番は次のような歌詞で始まります。

 So When I dropped it in the mailbox
 I sent it special D
 (以下略)

 今度は、主人公は手紙を別配達(非常に単純化して言うと、日本の速達みたいなものです)にしてポストに投函します。もっとも、特別配達では宛先地に早く届くことは届きますが、確実に相手に届いたということを確認したいのであれば、むしろ郵便局に持ち込んで書留にでもしたほうが良いと僕などは思ってしまいます。で、結局、この手紙も1番同様に受け取りを拒絶されてしまいます。

 で、最後は、

 This time I'm gonna take it myself
 And put it right in her hand

 ということで、主人公は彼女に直接手紙を渡しにいこうということになるのですが、現在では、下手をするとこうした行動はストーカー規正法に引っかかってしまうかもしれません。

 それはともかく、Return to Senderに限らず、音楽や物語などで手紙が重要な役割を果たしているケースは少なからずありますが、そうした架空の手紙をリアルに再現してみるというのもそれなりに面白そうです。どこかの雑誌の編集部にでも、そういう企画を持ち込んでみたら、意外と連載モノとして実現できるかも…なんて“取らぬ狸”ですかね。

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 『郵趣』今月の表紙:制定シート
2006-06-29 Thu 21:59
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の7月号ができあがりました。

 『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけています。今月は、雑誌の発行元である郵趣協会の創立60周年の記念月ということで、日本切手のなかから、この1枚を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

制定シート

 これは、1939年に“逓信記念日”の制定を記念して発行された日本最初の小型シートで、収集家の間では“制定シート”と呼ばれているものです。

 1933年3月31日、通信事業特別会計法が公布され、翌1939年4月1日から施行されることになりました。この結果、逓信省が管掌する通信事業は独自の会計を持つことになり、これを記念して、西暦1871年4月20日(明治4年3月1日)の日本の郵便創業の日にちなみ、毎年4月20日を“逓信記念日”とすることが決められました。

 1934年4月20日は、その第1回目の記念日として各種の記念イベントが行われましたが、そのひとつとして、4月20日から27日まで、東京・日本橋の三越百貨店と牛込見附内の逓信博物館で逓信記念日展覧会が開催されました。その会場内で日本最初の小型シートとして発売されたのが、「逓信記念日制定記念」の“組み合わせ郵便切手”、いわゆる制定シートです。

 小型シートは当時の現行切手であった芦ノ湖航空4種を収めたもので、この切手の選択を含めて、当時の日本郵趣界の大立者、吉田一郎が企画を提案し、実現に向けて尽力したことが知られています。

 吉田は、欧米に比べて日本にフィラテリーが根付かない最大の原因は、日本の切手に魅力がないからであり、魅力的な切手を発行し、それを適切な方法で発売すれば、必ずや切手に関心を持つ人は増え、フィラテリーに対する社会的認知も高まると考えてしました。

 ところで、当時の日本では、切手発行の企画立案や図案の作成を担当していたのは、逓信省の本省ではなく、逓信博物館でした。そして、その逓信博物館のドンとして君臨していたのが、博物館の創設に深くかかわっていた樋畑雪湖です。

 このため、吉田は樋畑に積極的に接触し、次第に逓信省内の若手デザイナーたちとも交流を深めていきます。そして、切手のデザインについて、吉田が収集してきた最新の外国切手を素材として、デザイナーたちと意見を交換し合うなど“吉田学校”ともいうべき一種のサロン活動を通じて、を形成され、吉田は、一種の部外オブザーバーのような存在として、逓信省の新切手発行政策にも少なからぬ影響を及ぼしていきました。

 そうした吉田の活動が実を結んだひとつの例が、今回ご紹介している制定シートでした。
 
 欧米では、すでに1920年代から、イベントにあわせて記念の小型シートを発行し、イベントの会場内で発売することがあたりまえのように行われていたが、日本では、それまで前例がありませんでした。そこで、吉田は、欧米の切手事情についての自らの知識を活用して、制定シートの発行について、シートの構成(特印を中央に押せば、4枚全ての角に印が掛かるような間隔に切手がレイアウトされているのも吉田のアイディアといわれています)や販売方法などのアイディアを提供。さらに、彼は、売れ残りが出た場合の在庫の処理を理由に発行を渋っていた逓信省の事務方に対して、残品は全額みずからが買い取ることを申し出て、事務方を説得。制定シートの発行を実現させたのです。

 この一事だけでもなかなか凄いことですが、この他にも、吉田一郎が日本のフィラテリーの歴史に残した足跡はきわめて大きなものがあります。また、彼の生涯は、それじたい、非常にドラマティックで魅力的です。なお、そのあらましについては、拙著『外国切手に描かれた日本』でそれなりのページを割いてまとめていますので、ご興味をお持ちの方は是非、ご一読いただけると幸いです。

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 ガーナとユダヤ人
2006-06-28 Wed 17:32
 今朝のワールドカップでは、初出場のガーナがブラジルとぶつかりましたが、あえなく負けてしまいましたね。まぁ、仕方のないところでしょう。

 で、サッカーの競技そのものよりも、ワールドカップ関連の小ネタ系ニュースに関心のある僕としては、今回のガーナ・チームに関しては、1次リーグでのチェコとの試合の時、イスラエルのクラブチームに所属する選手がドイツまで応援に来たイスラエルのファンに感謝の意を示そうとしてイスラエル国旗を振って見せたことが政治的アピールと誤解されて問題になり、同国サッカー協会が慌てて謝罪するという事件が一番印象に残っています。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ガーナのカバー

 これは、1958年5月にガーナの首都アクラからニューヨーク宛に差し出された書留便で、前年のガーナ独立に際して、英領ゴールド・コースト時代の切手に加刷して発行された通常切手が貼られています。

 さて、このカバー(封筒)で注目したいのは、宛名の“Ghana Philatelic Agency”です。この会社こそ、現在、切手の世界で非常に大きな影響力を持っているIGPC(Intergovernmental Philatelic Corporation。日本語ではしばしば“インガバ”と呼ばれている)の前身だからです。

 資源が乏しかったり、輸出産業が未成熟であったりして、外貨獲得の手段が限られている国・地域や、西側諸国との交易が限定されていた社会主義諸国などが、切手を外貨獲得のための重要な手段と位置づけ、海外に輸出するための商品として切手を製造・販売していることは広く知られています。輸出商品としての切手の企画・制作は、当初、社会主義諸国が熱心に行っていましたが、1960年代以降、欧米系の切手エージェントと結託した途上国にも急速に広まっていきました。

 その嚆矢となったのが、今回取り上げたアフリカの小国、ガーナです。

 1957年にイギリスから独立したガーナは、新興国の常として、財政状況的には非常に厳しい状態でしたが、そこに目をつけたのが、後にIGPCの社長となるサム・マラムードです。

 マラムードは、カナダ出身のユダヤ系アメリカ人で、当時はニューヨークで切手商として生計を立てていたといわれています。彼は切手商としての知識と経験、それにおそらくユダヤ系の人脈を活かし、発足後まもないガーナ郵政と接触。ガーナ郵政に切手の輸出による外貨の獲得というプランを採用させ、新興ガーナの一部の切手について、一定以上の売上を前納する代わりに、企画・制作から販売(輸出)までを自分の経営する会社“Ghana Philatelic Agency”が取り仕切る権利を得ることに成功します。こうして、途上国と欧米のエージェントとの間で切手の発行権を売買するというビジネスモデルの原型が誕生しました。

 このガーナの切手ビジネスが一定の成功を収めたことに加え、1950年代末から1960年代にかけて、アフリカなどでは植民地支配から独立する国が相次いだことで、マラムードはビジネスを拡大。現在のIGPCが築かれたというわけです。

 収集家目当てに、実用性に乏しい“いかがわしい切手”を作っている黒幕というイメージが強いせいか、真面目な切手収集家の間ではIGPCの評判は芳しいものではありません。僕も、正直に言うと、いかにもIGPCが作った雰囲気の切手というのは、決して好きじゃありません。とはいえ、現在、同社の顧客リストには、アフリカやカリブ海の小国のみならず、インドやイスラエル、マレーシア、トルコなども含まれており、その影響力を侮ることはできませんから、好き嫌いとは別に、彼らの動向をチェックしておく必要はありそうです。

 ところで、切手の世界では、収集家・切手商ともにユダヤ系の大物が大勢いるせいか、欧米では“Judaica(ユダヤ関連)”というテーマはそれなりに人気があります。ジュダイカのコレクションを作っている人たちは第二次大戦以前の切手や郵便物には興味を持っているものの、IGPCは好きじゃない場合が多いみたいなのですが、彼らに、「このカバーも一種のJudaicaじゃないの?」と聞いてみたら、果たしてどんな顔をするでしょうか。ちょっと気になります。

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 ウクライナの拳
2006-06-27 Tue 23:11
 サッカーのワールドカップでは初出場のウクライナがスイスを破って準決勝に進出したとか。そんな彼らに敬意を表して、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

カルパト・ウクライナ1945年

 この切手は、1945年にカルパト・ウクライナで発行されたものです。

 第一次大戦以前、ウクライナ人の居住地域の大半は帝政ロシアの領土でしたが、西側の一部地域はオーストリア・ハンガリー帝国の領土でした。ロシア革命の混乱の中で、ウクライナではさまざまな勢力が独自の政府を組織して独立を宣言しましたが、最終的に、旧ロシア領に相当する部分は、1919年のウクライナ社会主義共和国の成立を経て、1922年にはソビエト連邦に併合されてしまいます。一方、西ウクライナのザカルパチア地方(カルパト・ウクライナ)は、第一次大戦後、チェコ・スロバキア領に編入され、ソ連の支配下には入りませんでした。

 1939年3月、ナチス・ドイツがチェコスロバキアを征圧すると、カルパト・ウクライナは親独国家であったハンガリーの占領下に置かれますが、1944年10月、ソ連軍によって“解放”されます。その結果、この地域は、1946年1月22日、ソ連邦を構成していたウクライナ社会主義共和国へ編入されました。このウクライナ社会主義共和国が、ソ連の崩壊に伴って独立したのが、現在のウクライナ国家です。

 さて、今日ご紹介している切手は、1944年10月のソ連軍による“解放”から1946年1月のソ連への編入までの間、カルパト・ウクライナが独自の切手を発行していた時期のものです。右上には槌と鎌の紋章がしっかりと入っており、鎖を断ち切って振り上げられた拳とあわせて、“ソ連軍による解放”が高らかに宣言されています。

 まぁ、そうした歴史的背景とは別に、単純で力強いデザインが非常に印象的で、画面からは「勝ったぞーっ!」「オーッ」という掛け声が聞こえてきそうな迫力があります。紺と赤の素朴な2色刷や抜けの悪い目打も、この切手に印刷物としての絶妙な味わいを与えていて、とっても良い感じです。この切手をプリントしたTシャツを着て、夏の夜に野外のスポーツの試合を応援しに行ったら、さぞやビールも旨いのではなかろうかと、ちょっとお腹周りを気にしながらも夢想してしまった内藤でした。

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 旧満州の日籍技術者
2006-06-26 Mon 23:43
 昨日(25日)、第二次大戦の敗戦により旧満州(現中国東北部)に残された日本人約105万人の引き揚げ事業が開始されてから60周年を記念する式典が、帰還船が出航した葫蘆島市で開かれたそうです。このニュースに絡んで、1枚のカバー(封筒)を引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

満洲の抑留者カバー

 このカバーは、1948年7月、国共内戦下の中国東北部・瀋陽(旧奉天)に抑留されていた日本人が祖国に当てて差し出したもので、画像の右下には“遼寧監獄 電信検閲”の文字が入った円形の印も押されています。その下には、薄くて見難いのですが、“東北行轅 西門日籍技術者善後連絡処”の文字の入った角型の検閲院も押されている点に注目したいところです。

 満洲国の崩壊後、侵攻してきたソ連軍が、工場の設備・備品などを撤去して持ち去ったほか、多くの日本人を“捕虜”としてシベリアに連行し、強制労働に従事させたことは広く知られています。これらは、いずれも、ソ連側からすると、旧満洲に残された日本の物資や技術、労働力を自国の復興のために最大限活用するための行為でした。

 これと同種の発想で、東北部に進駐してきた中国側(国民党・共産党のいずれも)、やはり、現地に残っていた満洲国の“遺産”を最大限に活用することを考えていました。ただし、彼らの場合には、日本人技術者を厚遇することで、自らへの技術移転をはかろうとしたという点が、略奪的な蛮行を働いたソ連とは大きく異なります。

 国民政府の蒋介石が、終戦後、「以徳報怨」(徳を以って怨みを報ず)と演説して中国人に日本人への復讐をしないよう戒めたのも、共産党の毛沢東が「日本軍国主義に罪があり、日本人民には罪はない」と繰り返し強調したのも、いずれも、戦後復興に向けて日本人の能力を活用したいという思惑があったためです。

 それゆえ、終戦時に旧満州にいた日本人の医師や看護婦をはじめ、技術者たちの中には、さまざまな口実を設けて帰国することをなかなか許されず、数年にわたって国共内戦に駆り出されることになりました。カバーに押されている印から推測するに、このカバーの差出人も“日籍技術者”として国民政府の側に抑留され続けたものと考えるのが妥当でしょう。また、“監獄”の検閲印が押されているところからすると、差出人を抑留し続ける名目として、中国側は彼を“戦犯”に指定していたのかもしれません。

 このカバーが差し出されてからほどなくして、国共内戦の帰趨はほぼ決し、1948年の秋には東北部は共産党の支配下に入りますが、共産党側も、国民政府同様、主な日本人技術者の帰国を許さず、そのまま抑留を続けました。おそらく、このカバーの差出人も、その中のひとりとして、しばらく満洲に残ることを余儀なくされたのではないかと思われます。

 以前の日記にも書きましたが、現在、今年秋の刊行を目標に、満洲国を切手で読み直そうという本を作っています。今日ご紹介のカバーの背景に見られるような満洲国の遺産をめぐる戦後の動きについても、残りわずかに迫った〆切までの日数で、どれだけ盛り込んでいけるのか、できるかぎり“悪あがき”をしてみたいと思います。

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 ユギオ
2006-06-25 Sun 16:27
 今日は1950年に朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の南侵によって朝鮮戦争が始まった日。韓国では、この日付にちなんで、朝鮮戦争(彼らの呼称は韓国戦争)そのものを“ユギオ”(6・25のハングル読み6=ユク+2=イ+5=オが縮まって“ユギオ”)と通称されています。以前、『北朝鮮事典』という本を作ったことのある僕としては、避けて通ることのできないネタですので、今日は朝鮮戦争の勃発を物語るカバー(封筒)として、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

朝鮮戦争返戻カバー

 1950年6月25日午前4時、朝鮮人民軍が南侵を開始したとき、韓国側には、これを迎え撃つだけの準備はほとんどありませんでした。

 韓国軍の組織は、同年4月と6月に高級幹部の人事異動が行われていたことに加え、6月中旬には部隊の改編も行われるなど、新たな態勢が落ち着いて機能するようになるまでには、しばらく時間が必要な状態でした。また、6月18日には、修理のため、韓国軍の各部隊の約3分の1にあたる武器や車両が仁川市内の富平武器補給処に集められており、38度線地域の韓国軍の装備は手薄になっていました。

 さらに、6月11日から発せられていた北朝鮮の南侵に対する非常警戒令は、北朝鮮側の侵攻がないことを理由に、6月24日(なんと、北朝鮮南侵の前日です!)午前0時に解除されていました。当日は、ほとんどの韓国軍部隊では、将兵たちに外出や休暇が許可されており、38度線沿いでも少数の部隊が警備を行っているだけでした。

 首都ソウルでも、6月24日の夜には、陸軍会館落成記念のパーティーが深夜まで行われ、韓国軍の高級幹部や米軍の顧問なども二日酔いで酔眼朦朧とした状態の中で北朝鮮南侵の第一報に接するというありさまでした。

 こうしたことから、当初、不意打ちを食らった韓国側の対応は混乱をきわめます。

 韓国陸軍本部が全軍に非常呼集を発令したのは、北朝鮮軍の南侵から約2時間後の午前6時30分のことでしたが、前夜の宴会のせいもあってなのか、幹部らの集合は遅れ(居所不明の者も少なくなかったといわれています)、陸軍作戦局長の張昌国が陸軍本部に登庁してきたのは9時30分を過ぎてからのことでした。

 このため、大統領・李承晩に北朝鮮南侵が正式に報告されたのは午前10時のことで、戦争に対処するための最初の国務会議が開かれたときには、すでに午後2時になっていました。

 一方、国民に対しては午前7時にはラジオで北朝鮮南侵の第一報が伝えられたものの、国防部の正式談話が発表されたときには午後1時になっていました。しかも、その内容は、北朝鮮軍が順調に南侵を続け、ソウルに迫りつつあったにもかかわらず、国民に不安を与えないようにとの配慮から、韓国軍が北朝鮮軍を「撃退して追撃中」というもので、結果として多くの国民の情勢判断を誤らせるものとなりました。

 結局、北朝鮮側は奇襲攻撃の利を活かして進撃を進め、開戦から3日後の6月28日、ついに首都・ソウルを陥落させてしまいます。

 今日ご紹介しているカバー(封筒)は、ソウル陥落前日の6月27日、大阪から混乱の最中にあったソウル宛に、差し出されたものです。当然のことながら、この時点では韓国内は郵便がどうこうという状況ではありませんので、このカバーも「朝鮮あて郵便物はすべて送達停止となりましたから返戻致します。なお料金は請求により還付されることになっております」との事情説明の付箋を付けられて差出人に返戻されました。

 ここのところ、北朝鮮がテポドン2を発射するのしないのといった状況が続いています。1998年に北朝鮮がいわゆるテポドン1を打ち上げた時、彼らは、テポドンを軍事目的のミサイルではなく、国産第一号人工衛星「光明星一号」を打ち上げるためのロケットであると主張しました。今回も北朝鮮の外務省幹部は「発射はそれぞれの国の自主権に関する問題で、だれにも誹謗する権利はない」と発言しており、実験が強行された場合も、前回同様、彼らは人工衛星云々と主張するのでしょう。

 もっとも、いわゆる軍事ミサイルと平和目的の宇宙ロケットのちがいは、非常に単純化していうと、“飛び道具”の推進体(狭義には、これを“ロケット”と呼びます)の先端に、爆弾類を搭載するか、人工衛星を搭載するかの差でしかありません。それゆえ、ミサイルの打ち上げに成功してしまえば、あとは先端に搭載するものによって軍事用にも非軍事用にもなるのであって、かの国のこれまでの行状を見ていると「人工衛星だから安心しろ」といわれても、健全な思考力の持ち主であれば、なかなか「ハイそうですか」とはいえないのじゃないかと思います。

 それだけに、ここ数年の韓国政府が、“太陽政策”と称して北朝鮮に対して非常に理解ある姿勢を示している反面、むしろ日米に対して批判的なスタンスを取り続けているのは非常に気がかりなところです。

 ヒステリックに「北朝鮮討つべし」と叫ぶのもどうかと思いますが、“ユギオ”の日にちなんで朝鮮戦争開戦時のエピソードをいろいろと読み返してみると、もう少しかの国に対する冷静な警戒心を持っていた方が良いのじゃないか、とふと考えてしまう内藤でした。

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 50年前のサッカーボール
2006-06-24 Sat 22:08
サッカーのワールドカップ、日本代表は残念でしたが、決勝進出組が出揃いましたね。いずれも、納得の顔ぶれという感じですが、そのなかで、3大会ぶり出場のスイスが32チーム中唯一、1次リーグ無失点という好成績を収めているのが話題なのだそうです。というわけで、今日は、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

スイスW杯

 これは、今から約半世紀前、1952年にスイスでサッカーのワールドカップが開催された時、開催国のスイスが発行した記念切手のマキシマム・カード(切手とほぼ同じデザインの絵葉書に切手を貼り、記念の消印を押したもの)です。

 1954年のワールドカップはFIFAの創立50周年にあたっていたため(切手にもそのことを示す1904-1954の表示があります)、大会は本部のあるスイスで行われました。

 この大会では、開催国のスイスは決勝トーナメントに進出しましたが、準々決勝でオーストリアと対戦。7対5というプロのサッカーの試合としては信じられない点の取り合いの末、オーストリアに敗れています。なんだか、今大会の堅守のチームというイメージからは想像つきませんね。ちなみに、優勝国は西ドイツ(当時)でした。

 また、このときの大会にはアジアから韓国が初出場していますが、ハンガリーに0-9、トルコに0-7で敗れ、あえなく1次リーグで敗退しています。もちろん、日本は出場さえかないませんでした。(切手の地図には描かれていますけれど…)

 それにしても、切手に描かれているボールが、僕なんかの目には、サッカーよりもバレーボールで使われるもののように見えるのですが、当時はこんな感じのボールが使われたんですねぇ。ちょっと不思議な感じです。僕なんかは、やっぱり、白黒の5角形を組み合わせた、あの形がしっくりきますけどね。

 PS 満退者様からコメントをいただきました。それによると、「独立行政法人日本スポーツ振興センターというところのスポーツ博物館に、1964年東京五輪で使用した『雨天用サッカーボール』いうのが展示されていますが、まさにその切手と同じ形をしております」とのこと。さっそく、このコメントを反映した内容に記事を修正しました。満退者様、ありがとうございました。

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 慰霊の日
2006-06-23 Fri 23:57
 今日は沖縄の慰霊の日。というわけで、定番ネタですが、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます) 

沖縄・慰霊の日

 この切手は、1966年にアメリカ施政権下の沖縄で発行された“慰霊の日”の記念切手で、戦跡とテッポウユリが描かれています。

 6月23日を沖縄の慰霊の日としていることについての現在の日本政府の公式な見解は以下の通りです。

 沖縄戦で、日本軍第32軍司令官・牛島満中将と同参謀・長勇中将が糸満の摩文仁で自決した日が昭和20年6月23日の未明とされています。沖縄県(当時琉球政府)はこの日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目ととらえ、昭和40年に沖縄慰霊の日と定めました。現在では、糸満市の平和祈念公園にて「沖縄全戦没者追悼式」が行われるとともに、各地で慰霊祭が行われています。

 沖縄戦の悲劇を後世に伝え、犠牲者の霊を弔う慰霊の日は、非常に意義のあるものですが、はたして、6月23日がその日にふさわしいかどうかという点については、いろいろと異論があります。

 そもそも、牛島大将の自決の日に関しても6月22日説と23日説があるのですが、現実の問題として、6月23日以降も沖縄ではゲリラ戦が続き、多くの人々が犠牲になったという事実があります。それゆえ、米軍の沖縄戦終了宣言がなされたのは7月2日ですし、日米両軍の司令官が公式に降伏文書の調印をおこなったのは9月7日(本土より1週間遅れ)です。じっさい、沖縄県の施設である“平和の礎”では、沖縄戦の期間を「昭和20(1945)年3月23日から、9月7日」としていますし、なにより、1961年に当時の琉球政府が慰霊の日を定めた際、当初は6月22日としていたものを、1965年になって、突如、6月23日に改められた経緯があります。

 このように考えてみると、6月23日が“慰霊の日”に決まった背景には、いろいろと裏がありそうです。一説によると、6月23日が本土の安保デーだったことから、本土の左翼が運動デーを沖縄に持ち込み、牛島司令官自決の日にかこつけて、彼らの主張する反米イデオロギーにあわせて6月23日を慰霊の日とさせたとも言われていますが、その辺の真相を明らかにするのは容易ではないでしょうね。

 ただ、今からちょうど40年前に発行された今回の切手が、どのような経緯で発行されたのかということとあわせて、6月23日が慰霊の日として確定されていく経緯を洗ってみると、ノンフィクションの作品としては面白いものができるのじゃなかろうかという気がしないでもありません。

 もっとも、そうした作業を僕がゼロから始めるのは、経費的にもなかなかしんどいものがあるので、どこかの版元さんがサポートしてくれたら良いな、と漠然と考えてみたりする今日この頃です。

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 笠戸丸の日本人
2006-06-22 Thu 23:13
 新聞のテレビ欄風にいうと、今日(22日)の28時から、サッカーW杯の日本対ブラジル戦が行われます。まぁ、相手が相手ですから、ここはひとつ、新入幕の力士が横綱に胸を借りるつもりで良い試合をしていただきたいものです。

 というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ブラジル移民80年

 この切手は、1988年、日系移民80周年を記念してブラジルが発行したもので、移民船の笠戸丸を背景に、移民の家族が描かれています。

 日本人の海外移住は、古くは17世紀の東南アジアに日本人町がつくられた事例にさかのぼることもできますが、近代以降のものとしては、1868年のハワイへの“元年者”の移住がそのさきがけとなります。

 その後、明治政府は、近代国家建設のために財源として地租を重要視したことから、地租を払えず、強制処分により農地を手放さざるをえなくなった農民が続出します。しかし、当時の日本社会には、そうした人々を他の産業で吸収できるだけの余裕がなく、政府は彼らを海外に移住させることで問題の解決をはかろうとしました。一方、農民の中にも、政府が行った海外移民募集に応募し、海外で成功を収めて故郷に錦を飾ろうと考える者が少なからずありました。

 こうしたことから、19世紀末には、ハワイや米本土への移民が急増しましたが、日本が日露戦争に勝利を収めたのをきっかけに、米国内で深刻な黄禍論を巻き起こります。その結果、主として米国西海岸で排日運動が激化し、1907年、米国政府は、実質的に日系移民を制限する内容に移民法を改正。さらに、1908年、「日米紳士協約」によって、ハワイへの日本人移民も厳しく制約されてしまいました。

 こうした状況の中で、1906年、ブラジルに渡っていた水野龍は、現地コーヒー農場の労働者が慢性的に不足していたことに目をつけ、サンパウロ州のコーヒー耕地への日本人農民の大規模な移民計画を立案。皇国殖民合資会社を設立し、サンパウロ州政府と移民契約を結んで日本からの移住者を募ります。

 水野の計画は、米国とハワイに代わる移民の送り先を探していた日本政府の意向とも合致していたことから、外務省は鹿児島、沖縄、熊本の各県知事に協力を要請。皇国殖民合資会社はブラジルの名に「舞楽而留(舞い楽しんで留まる)」とあて、一部の地域では群会議員までをも動員して「家族三人で働けば、生活費など差し引いても一ヶ月で百円は残る」と移民の夢をかきたてました。

 この結果、ブラジル政府から補助金を受けた“契約移民”781名・165家族と、ブラジル政府の補助金を受けていない“自由移民”10名が、数年で帰国することを夢見て、笠戸丸でブラジルへ渡りました。そして、1908年6月18日、サンパウロ市の外港、サントスに到着した移民たちは、いくつかのコーヒー農場に分かれて、1年毎の契約で働き始めました。これが、ブラジルにおける日系社会の始まりとなります。

 しかし、移民たちを待ち受けていたのは、事前の宣伝文句とは裏腹の重労働と劣悪な環境でした。また、笠戸丸がブラジルに着いた6月は、コーヒーの収穫がほとんど終わっていた上に、コーヒーの値段も暴落していたため、収穫量の歩合制で賃金契約を結んでいた農民たちはほとんど収入を得ることができず、農園をはなれてサンパウロ市内でメイドや大工などをして働く人が続出。さらに追い討ちをかけるように、移民を請け負った皇国殖民合資会社が資金難から倒産し、移民の預入金はほとんど返済されないことになってしまいました。

 こうした惨憺たる状況は、当時、日本国内にはほとんど伝えられず、その後も、1910年の旅順丸移民をはじめ、多くの日本人がブラジルに移住。日系移民たちは、あらゆる辛酸を舐めながらも、次第にブラジル社会において確固たる地位を築くようになりました。

 なお、日本では1958年にブラジル移住50年の記念切手が発行されています。その詳細については、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅱ)ビードロ・写楽の時代:グリコのオマケが切手だった頃 1951-1960』でも説明していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

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 監獄の検閲
2006-06-21 Wed 23:07
 まずは、コイツを見ていただきましょう。(以下、画像はクリックで拡大されます)

監獄からの手紙

 これは、明治30年10月、徳島県脇町監獄支所に収監されていた人物が差し出した手紙で、検閲の結果、通信文のうち、不適切とされた部分が墨塗りされて差し出されています。ちなみに、この手紙を送った封筒は、こんな感じ(↓)です。

徳島監獄カバー

 明治以来現在にいたるまで、拘置所や刑務所(ここでは、以下、“監獄”と総称します)に収監されている人物と手紙をやり取りしようとすれば、必ず、検閲を受けなければなりません。これは、監獄に禁制品が持ち込まれたり、在監者(監獄に収監されている人)が外部の人間に証拠の隠滅を指示したりすることを防ぐための措置で、憲法に定められた信書の自由の例外規定といってよいでしょう。

 で、実際の在監者の郵便検閲については、どこまでがOKでどこからがNGなのか、“不適切な内容”とされる文面の線引きはなかなか微妙なものがあります。ただ、過去の在監者の証言などからすると、上記のような犯罪に関わるケース以外にも、獄内の処遇に対する不満を書いたものや、外国語で書かれたもの(クリスマス・カードのMerry Christmasといった表記も含む)などは、ほぼ 確実に検閲で引っかかり、やり取りを禁じられるか、あるいは、該当箇所を墨塗りまたは切除されることになるようです。

 どうしてこのような話題を取り上げたのかというと、昨日から今日にかけて、テレビの話題を独占したかの感がある山口県光市の事件で、犯人の福田孝行(犯行当時、未成年だったことを理由に匿名で報じているメディアも少なくないのですが、戦後の現行法の下でも、永山則夫や李珍宇の例もあるのですから、特に福田のことを匿名で扱わなければならない積極的な理由は何もないはずです)が、拘置所から知人に宛てて差し出した手紙のことが気になったからです。

 裁判の資料としても公開されている27通の手紙の中で、福田は、ドストエフスキーの『罪と罰』を引用し、「選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある」と放言しているほか、「ま、しゃーないですね今更。被害者さんのことですやろ?知ってます。ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。・・・でも記事にして、ちーとでも、気分が晴れてくれるんなら好きにしてやりたいし」、「犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま『やっちゃった』・・・これは罪でしょうか」、「5年+仮で8年は行くよ。どっちにしてもオレ自身、刑務所のげんじょーにきょうみあるし、速く出たくもない。キタナイ外へ出る時は、完全究極体で出たい。じゃないと二度目のぎせい者が出るかも」などと、読むに堪えない暴言を繰り返しています。もっとも、この手紙については、いろいろな人がいろいろな立場から論評しているので、僕がここで何か書いても屋上屋を重ねる結果にしかならないでしょうから、ここでは深く立ち入らないことにします。

 それよりも、僕が気になっているのは、拘置所の検閲担当者は、なぜ、福田と彼の知人がこのような手紙をやり取りすることを黙認していたのか、という点です。

 一般に、検閲というものは、一定の基準に基づいて行われているとはいえ、最終的には担当者の個人的裁量によるところが大きいのですが、福田の書いた手紙が“不適切な内容”ではなかったというのは、社会常識から考えるとなかなか理解できません。少なくとも、「選ばれし人間は人類のため社会道徳を踏み外し、悪さをする権利がある」とか「二度目のぎせい者が出るかも」といった記述は、出所後の再犯の可能性を示唆するものと理解できますから、普通なら、検閲を通らないはずだと思うのですが…。ちなみに、「俺をこんな目に合わせたヤツをぶん殴ってやりたい」などと書いた手紙は、ほぼ確実に検閲ではNGです。

 クリスマスカードに印刷されたMerry Christmasの文字は外国文だからNG、でも福田の書いた手紙は、監獄当局を批判して獄内の処遇について不満を述べているわけでもないし、プライバシーだからOKというのでは、あまりにもバランスを欠いているように思うのは僕だけでしょうか。もちろん、担当者には担当者なりの言い分もあるのでしょうし、法律の専門家は現行の規定ではどうしようもないことの理由を延々と説明してくれるのでしょうが、感情論としては、未成年の大物犯罪者であることを理由に、福田が拘置所でも特別扱いを受けているような印象は、どうにもぬぐえません。

 もっとも、見方を変えれば、一連の手紙の存在は、福田孝行という人物が更生の可能性が全くない鬼畜であることを証明する上で、非常に重要な証拠だともいえます。その意味では、ああいう手紙も、彼を死刑にするための補強材料としては、それなりの価値がないわけではないのかもしれません。まぁ、そうとでも考えないと、ちょっとやりきれない思いです。

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 イラクから北朝鮮へ
2006-06-20 Tue 23:58
 ニュースを見ていたら、イラクで元大統領のサダム・フセインに対して人道の罪で死刑が求刑されたとか、北朝鮮がテポドン2を打ち上げる可能性がありそうだとか、はたまた、サッカーのワールドカップがどうしたとか、切手を絡めて取り上げられそうなネタが沢山でてきました。

 で、それらの話題を一緒くたにしたようなカバー(封筒)が手元にありましたので、ご紹介してみます。(画像はクリックで拡大されます)

イラクから北朝鮮宛

 このカバーは、サダム・フセイン政権時代の2000年、イラクから北朝鮮宛に差し出されたものです。イラク側の消印は不鮮明ですが、2000年6月17日付の平壌の着印が鮮明に押されているのは嬉しいところです。

 貼られている切手は、1998年(そういえば、北朝鮮がテポドンを打ち上げたのはこの年です)の日本が初出場を果たしたサッカーW杯フランス大会を記念してイラクが発行したもの。ボールをセーブするキーパーの姿には、なんとなく、先日の川口選手を連想させる雰囲気があるようにも思います。ちなみに、サッカーのイラク代表は1986年のW杯メキシコ大会に初出場しているものの、その後は出場はありません。

 1990年の湾岸危機以来、イラクに対する国連の経済制裁は続けられていましたが、1995年4月、半年間に20億ドルを越えない範囲での石油輸出を許可し、食糧・医薬品などの人道物資の輸入を認めるという国連安保理決議九八六号が採択されます。当初、イラク側は、経済制裁の完全解除を求めて同決議を拒絶していましたが、1996年に入ってこれを受諾し、同年12月から原油の輸出を再開。以後、イラクは、ロシア、フランス、中国を味方につけて国連との交渉を有利に進め、その結果、イラクに対する経済制裁は次第になし崩しとなっていきます。そして、石油輸出の上限が廃止された1999年以降、イラクは実質的に国際経済への復帰を果すことになるのでした。

 もっとも、この間、石油以外の輸出に関しては、依然としてイラクには厳しい制限が課せられていましたから、1998年のサッカーW杯に出場できなかったイラクが外貨目当てで今日のカバーに貼られているような切手を発行したと考えるのは、ちょっと無理があるように思います。むしろ、当時のイラクとしては、サッカーW杯という世界的なイベントの切手を発行し、それを海外宛の郵便物にも使用していくことで、国際社会に復帰する意図がある(にもかかわらず、それをアメリカ・イギリスに妨害されている)ことをアピールしようとしていたと考えるほうが妥当なように思われます。

 ちなみに、このカバーが差し出された2000年のアメリカ大統領選挙で当選したジョージ・ブッシュJrが、2002年の年頭教書で、イラク・イラン・北朝鮮の三国を一緒くたにして“悪の枢軸”と非難したことは、ご記憶の方も多いでしょう。まぁ、偶然ではありますが、そのうちの2国間でやり取りされたカバーというのも話のネタとしては使えるんじゃないかと思います。

 なお、冷静に考えればすぐに分かることですが、イラク・イラン・北朝鮮の三国が反米的な姿勢をとっていた(いる)ことは事実ですが、彼らの“反米”の原因やそれをもたらした歴史的な背景などは完全に異なっていますので、それらを一緒くたにして非難するアメリカの思考回路には困ったものです。まぁ、この辺については、拙著『反米の世界史』で、三国それぞれのケースを分けて説明していますので、ご興味をお持ちの方はお読みいただけると幸いです。
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 親の顔が見たい
2006-06-19 Mon 20:54
 イタリア最後の国王であったウンベルト2世の息子で旧サボイア王家の当主、ヴィットーリオ・エマヌエーレ(4世)が逮捕されたそうです。なんでも、売春がらみの犯罪組織に関与した疑いだとか。

 で、人権という立場からは問題があるのでしょうが、人間の自然な真理として、被疑者が逮捕されれば「親の顔が見てみたい」と思うのが人情でしょう。というわけで、ヴィットーリオ・エマヌエーレの両親が取り上げられている切手をお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ウンベルト2世夫妻

 この切手は、1930年、皇太子時代のウンベルトがベルギー国王アルベール1世の娘、マリー・ジョゼを結婚したことを記念して発行された切手の1枚で、夫妻の肖像が描かれています。

 当時のイタリア国王は、ウンベルトの父、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世でしたが、彼は、1922年から1943年までムッソリーニに政権を担当させたことから、第二次大戦でのイタリア敗戦の追及され、1946年5月9日、退位においこまれます。その後を継いだのが、息子のウンベルトだったわけですが、彼も6月2日に行われた国民投票で王制廃止・共和制移行が決定したため、即位後わずか5週間後の6月14日に亡命を余儀なくされました。したがって、国王になってからの彼の切手は発行されていません。なお、今回逮捕された息子のヴィットーリオ・エマヌエーレは、このとき9歳でした。

 その後、イタリア共和国の憲法ではウンベルト2世とその直系男子のイタリア再入国を禁止する条項が制定されたため、ウンベルトは1983年に亡くなるまでイタリアに帰国できませんでしたが、2002年10月になって、サヴォイア家直系男子のイタリア入国・選挙権などが再び認められるようになり、今回逮捕された息子のヴィットーリオ・エマヌエーレは2003年に亡命先のスイスから帰国します。

 で、帰国後の彼が何をやっていたのかといえば、マフィア組織と関係を持ち、コモ湖周辺でカジノの顧客に売春をあっせんしたいたというわけで…。なんでも、南部ポテンツァの検察は2年間、内偵捜査をしていたということですから、帰国早々、ヴィットーリオ・エマヌエーレは悪事に手を染めていたというわけですね。いやはや、こんなことなら、帰国なんかしてくれなかった方がよぽど良かったというイタリア人も少なくないんじゃないでしょうか。

 それはそうと、今回の件は、警察が一斉捜査で踏み込んだ時、フィーニ前外相の補佐官も捕まったということですから、なにやら大きなスキャンダルに発展しそうな感じもします。つい先日、6月3~10日にイタリアを訪れて休暇でサボイア家の別荘に泊まったというイギリスのブレア首相なんか、大丈夫ですかねぇ。サッカーのワールドカップに紛れて新聞では小さな記事しか載っていませんでしたが、ちょっと気になる話題ではあります。

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 クロアチア・サッカー発祥の地?
2006-06-18 Sun 20:47
 今夜はこれからサッカーの日本チームがクロアチアと戦うとのこと。というわけで、何かクロアチアに関するネタはないかと探してみて、こんなものを見つけました。(画像はクリックで拡大されます)

ザーラ加刷

 これは、第二次大戦中の1943年、現在クロアチア領となっているザダルで発行された切手です。

 アドリア海に面したイタリア対岸の港町ザダルは、長らくベネチアが飛び地の領土として支配し、イタリア語で“ザーラ”と呼んでいました。ベネチアの崩壊後、この地はハプスブルグ家の支配下に入りましたが、第一次大戦でハプスブルグ家の帝国が解体されると、新たに建国されたユーゴスラビアが支配します。

 これに対して、大戦中、英仏露との間に、オーストリアに対して宣戦布告すれば、戦後、旧ベネチア領のトリエステ半島(イストリア)やダルマチアの割譲を受けるという密約を結んでいたイタリアが反発。結局、1920年にイタリアとユーゴスラビアとの間でラパロ条約が結ばれて、ザーラはイタリア領となりました。

 第二次大戦が勃発すると、ドイツ軍はユーゴスラビアを分割してクロアチアとセルビアの2つの親ナチス国家を作りましたが、その際、ダルマチアやモンテネグロ、スロベニアは同盟国のイタリアに割譲されます。ところが、1943年、イタリアは早々に連合国に降伏。このため、イタリアの占領地をめぐっては、ドイツ軍とティトーが率いる反ファシストのパルチザン部隊の間で争奪戦が展開され、ザーラはドイツ軍が占領しました。今回、ご紹介の切手は、そうしたドイツ占領下で発行されたモノで、イタリアの切手にドイツ占領下のザーラでの使用を意味する加刷が施されています。

 戦後、ザーラはティトーのユーゴスラビアに編入され、ザダルと改称されますが、ユーゴスラビア解体の過程で、この地はクロアチアの領土となって現在にいたる、というわけです。

 ちなみに、クロアチアのサッカーは、19世紀にザーラや同じく港町のフィウメ(クロアチア語ではリエカ)を訪れたイギリス人の船員がこの地に伝えて広まったものだとか…。なるほど、本家イギリス仕込みですか。道理でなかなか手ごわい相手なんですね。

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 バルトの楽園
2006-06-17 Sat 18:25
 第一次大戦中の板東収容所のドイツ人捕虜と日本人の交流を題材とした映画「バルトの楽園」が今日から公開されるのだそうです。というわけで、板東収容所といえば、やっぱり、この切手を持ってこないわけには行かないでしょう。(画像はクリックで拡大されます)

板東切手

 この切手は、大戦末期の1918年8月に板東収容所内の捕虜が作った“切手”です。

 1917年4月から1920年12月まで存在していた板東収容所では、捕虜に対してかなりの行動の自由が認められており、また、日本側も捕虜の持つ技術を学ぼうという意欲があったため、さまざまなドイツ文化がこの地に伝えられることになりました。ベートーベンの第9の初演が、板東の捕虜たちによるものだったことは広く知られている通りです。

 収容所では、今回ご紹介している切手に見られるように、印刷・出版活動も盛んで、週刊紙「ディ・バラッケ」が刊行されていたほか、ほぼ週1のペースで開かれていた演劇・演奏会のポスターやプログラムも多色刷で制作されました。

 収容所内には印刷所が2ヶ所あり、手刷り謄写版による印刷と石版印刷が行われています。このうち、切手は謄写版で作られましたが、このほか、さまざまなイラストの入った石版刷の絵葉書も作られており、それらは、ときどきオークションにも出品されています。

 さて、今回ご紹介している切手ですが、収容所内の郵便に使われたということになっており、消印の押された“使用済”も存在しています。もっとも、収容所内の通信にわざわざ切手を貼る必然性があったのかというと、その辺についてはいささか疑問で、時間をもてあましていた捕虜たちの“お遊び”に近いものだったんではないかと思います。

 映画「バルトの楽園」は本日公開なので、当然のことながら、僕はまだ見ていないのですが、この切手のことも少しは出てくるんでしょうか。案外、この切手を貼った手紙が収容所内を行きかう場面が出てくるかも知れませんね。ちょっと楽しみです。

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 外国切手の中の中国:ドイツ
2006-06-16 Fri 19:40
 NHKラジオ中国語講座のテキスト7月号が出来上がりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」は、今月も引き続き、ワールドカップ特集ということで、お題はドイツ。今回は東西統一後のモノというわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ドイツの承徳普寧寺

 この切手は、1998年8月、ドイツと中国が共同発行した切手の1枚で、承徳普寧寺を取り上げたものです。もちろん、共同発行の常として、これとほぼ同図案の切手が中国側からも発行されています。

 承徳普寧寺は河北省東北部の承徳にあるチベット仏教(ラマ教)寺院で、清朝・乾隆帝時代の1755年に創建され、ユネスコの世界遺産には、1994年に登録されました。

 この題材の選定は、おそらく、中国側の発意によるものと思われますが、中国側が国内にあまたある世界遺産の中から、あえてこの寺を選んでいるのは、この寺が漢族とチベット族の建築様式を折衷して作られたものであることが大きな要因ではなかったかと考えられます。

 チベット問題は中国政府による人権弾圧の象徴として西側諸国では厳しく指弾されていますが、中国は「内政干渉」を理由にそうした批判には常に強く反発。チベットは中国固有の領土であり、国内の漢族とチベット族はそれぞれ平和的に共存していると主張しています。

 こういう立場からすれば、中国中央政府とチベット族の宥和を歴史的に証明するものとして普寧寺を取り上げた切手を発行した中国側の意図は非常に明白です。さらに、ドイツにも同じデザインの切手を発行させることによって、中国は、チベット問題に関する中国側の主張をドイツも追認しているような印象を見る者に与えることも可能なわけで、その意味では、今回の切手は中国のプロパガンダ戦略の中でも重要な役割を担ったものだったといってよいでしょう。

 ドイツ側としては、おそらく、切手の題材について必ずしも精査せず、世界遺産というだけで中国側の提案を安易に受け入れてしまったのでしょうが、そのことが、結果的に中国の対外プロパガンダの一翼をも担う結果になってしまったということは否定できない面があります。

 この切手が発行されてからおよそ2ヵ月後の1998年10月、ドイツで政権交代が起こり、シュレーダー政権が発足します。

 シュレーダー政権は、国内経済建て直しのために中国との経済関係を強化するという前政権からの路線を引き継いだばかりでなく、政治的にも、アメリカを牽制するために中国、ロシアとの連携を強化するという姿勢を鮮明にしていました。この結果、シュレーダー政権は、中国の人権問題やチベット問題に対する批判を棚上げにしただけではなく、EU諸国に対しては、天安門事件以来の対中武器輸出禁止の解除を強く主張するなど、きわめて“親中的”な対中政策を展開していったわけですが、今回の切手は、そうした時代の先触れとなったといっても良いかもしれません。

 まぁ、雑誌の連載では、ラジオ中国語講座のテキストという媒体の性格もありますので、あんまり、チベット問題に深入りするような記述はしていないのですが、この切手以外にもいくつかのマテリアルを使って、1990年代の独中関係のアウトラインは理解していただけるよう、まとめてみました。ご興味をお持ちの方は、是非、チェックしていただけると幸いです。

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 幾星霜
2006-06-15 Thu 23:56
 天皇・皇后両陛下が東南アジアご訪問を終えて帰国されました。今回のご訪問の最大の目的は、タイのプミポン国王の即位60周年の記念式典へのご出席だったそうで、それなら、ということでこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

プミポン国王戴冠式

 この切手は、1950年に行われた国王の戴冠式を記念して発行されたものです。

 プミポン・アドゥンヤデート国王は、1927年12月5日、米国・マサチューセッツ州で生まれました。

 1933 年までバンコクのマテー・デイ・スクールで初等教育を受け、その後、スイスのローザンヌで初等・中等・高等教育を受け、ローザンヌ大学に進学しましたが、留学中の1946年6月9日、兄の国王ラーマ8世が突然亡くなったため、同日、王位を継承します。当時19歳でした。

 もっとも、新国王はまだ学生でもあったため、即位後、いったんスイスに戻って学業を修了した後に帰国。1950年4月28日、現在の王妃と結婚した後、5月5日、国王としての正式に戴冠式を行いました。

 戴冠式が王位継承から3年以上も後のことになっているのは、こうした事情があったためです。まぁ、日本でも、天皇としての践祚と御大典との間には、先帝の服喪期間をはさんでそれなりの時間が経過してしまいますからね。そう考えると、案外、こうしたタイムラグもあまり気にならなくなってくるから不思議なものです。

 それにしても、20代前半のプミポン国王、やっぱりお若いですねぇ。そういえば、我らが両陛下のお姿も、47年前のご成婚のときに発行された記念切手(拙著『皇室切手』の表紙でも大きく拡大して使いましたが)と比べてみると…。

 その昔、家でゴロゴロしていると「天皇陛下も乞食も、みんな平等に年をとるんだから、時間は大切に使わなくっちゃいけない」と親から説教されたことを急に思い出してしまいました。

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 トホホなトーゴ
2006-06-14 Wed 23:54
トーゴ国連加盟記念

 13日に行われたワールドカップ・サッカーのトーゴ対韓国の試合で、トーゴの国歌が間違って流される(韓国国歌が2回流れた)というトラブルがあったそうです。というわけで、問題のトーゴについてちょっと書いておこうかと思います。

 今回、ワールドカップ初出場となったトーゴ・チームは、開催地ドイツに一番乗りするなど、やる気は十分でした。ところが、サッカー協会のボーナス未払い問題が表面化し、選手が練習をボイコットしてしまいます。選手側は1次リーグ出場で15万5000ユーロ=約2230万円、1勝につき3万ユーロ=約430万円のボーナス支給を要求しているのですが、なにせ、国民一人当たりのGDPが1500ドルで“世界最貧国”といわれる国ですから、そんな金額、サッカー協会に払えといっても無理なような気がします。

 で、選手の銭ゲバにあきれたプフィスター監督は、なんと、試合4日前に辞任して遁走。このため、トーゴのサッカー協会は、監督として別の人物に白羽の矢を立てますが、試合前日になってプフィスター監督が辞意を撤回。試合当日は、先発メンバーが発表された後に監督がスタジアム入りするというドタバタぶりでした。ちなみに、ボーナス未払い問題は、現時点でも解決のめどが立っていません。

 これだけでも、かなりトホホな事態ですが、実はトーゴ本国もかなりトンでもない状況にあるようです。

 トーゴのルーツは、ドイツの保護領だった“トーゴランド”ですが、トーゴランドは、第一次世界大戦後、英仏によって分割統治されました。このうち、英領部分は1957年にガーナの一部として分離したものの、1960年4月27日、仏領地域が独立すると、旧英領地域がこれに合流し、現在のトーゴの枠組が出来上がりました。今回ご紹介している切手(画像はクリックで拡大されます)は、独立にあわせて実現した国連加盟の記念切手で、国旗を背景に国連マークをあしらったトーゴの文字が入った、わかりやすいデザインの1枚です。

 さて、独立後のトーゴでは、1967年(僕の生まれた年です)、ニャシンベ・エヤデマ陸軍中佐が当時のニコラス・グルニツキー大統領を追放して、自ら大統領に就任。その後、政権は1979年に民政移管されましたものの、エヤデマが選挙で大統領に当選します。

 エヤデマ政権はさらに10年以上続き、1991年6月、政権内部の権力闘争で大統領派と首相派がぶつかり、同年12月、国民統一暫定政府が樹立されます。これに伴い、トーゴは一党独裁から複数政党制に移行しますが、1993年8月に行われた移行後初めての大統領選挙でもエヤデマが当選してしまいました。

 さらに、エヤデマは1998年の大統領選挙でも当選を果たすのですが、さすがに、このときは野党陣営から選挙に不正があったことが指摘され、EU諸国もエヤデマの当選を認めず経済協力を停止しています。

 その後も、国内で与野党対立が深まり、政局が混乱する中、エヤデマは権力の座に居座り続けましたが、昨年(2005年)2月、病気療養のためフランスに向かう途中、心臓発作で急死してしまいました。

 ところで、トーゴの憲法では、大統領が亡くなった場合には国会議長が大統領の職務を代行することになっていましたが、軍は“政治の空白を防ぐため”としてエヤデマの息子フォール・ニャシンベを大統領代行に祭り上げてしまいます。実は、エヤデマが亡くなったとき、国会のウタラ議長は外遊中だったのですが、軍は陸海空全ての国境を閉鎖して議長を帰国させず、自分たちの権益をまもるために“権力世襲”のクーデターを起こしたのでした。

 当然のことながら、こうしたトーゴでの軍の専横は国際社会の非難を浴び、ニシャンベはいったん大統領職を辞任しました。しかし、2005年4月の大統領選挙では、大方の予想通り、ニャシンベが当選し、現在でもニャシンベが大統領の座に就いている、というわけです。

 こういう状況ですから、今回のトーゴ・チームは、よくもワールドカップ出場にこぎつけたものだとそれだけで感心してしまいます。国が国なので、大統領とその周辺は、国民の貧困をよそに、しこたま財産を溜め込んでいると考えるのが自然なわけで、それなら、彼らがポケット・マネーで選手のボーナスぐらい払ってやればいいじゃないか、と思ってしまいます。もっとも、選手たちの中には、ボーナスをもらったら海外に逃げ出そうと考えている者もいるんでしょうから、彼らが、すんなり、世襲大統領のポケットマネーを受け取るかどうか…。

 いやはや、国歌を間違えられたことなんか、かの国の選手たちにとっては、もはや大した問題ではないんじゃないかとさえ思えてしまいます。

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 最後まであきらめない
2006-06-13 Tue 23:58
 昨日(12日)のサッカーの試合は、日本がオーストラリアに逆転負けを喫するという、日本人にとっては残念な結果に終わりました。ただ、こんなことを言うと“非国民”と罵られてしまうのかもしれませんが、僕なんかは、昨日の試合のダイジェスト映像を見ていて、勝負事は最後の最後まであきらめてはならないということをあらためて教えてくれたオーストラリアの戦いぶりに、素直に感心してしまったのも事実です。

 そんなことを考えながら、引っ張り出してみたのがこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

オーストラリア元捕虜

 戦争が終わると、戦勝国民のうち、戦争中、捕虜・抑留者として拘束されていた人たちは収容所から解放されます。とはいえ、解放された直後の元捕虜たちは、当然のことながら着の身着のままの状態ですから、自分のポケットマネーで本国に電報を打ったり、手紙を出したりするというわけにはいきません。そこで、多くの戦勝国では、解放された元捕虜を対象とした無料の郵便サービスを提供するのが通例です。

 今回ご紹介しているカバー(封筒)は、そうしたもののうち、第二次対戦の終戦直後、タイのバンコクで本国への帰還を待っていたオーストラリア人の元捕虜が差し出したもので、左上には“元捕虜の郵便”を示す“EX PW”の書き込みがあり、中央右側には料金無料を示す“PASSED FREE OF POSTAGE”の印が押されています。

 元捕虜の体験記をいろいろと読んでみると、多くの場合、なによりもまず、生きて祖国へ帰ることを絶対にあきらめなかったことが良かったという趣旨のことが書かれています。このカバーの差出人も、おそらく、そうした強い意思を持って過酷な捕虜生活を生き延びたのでしょう。

 僕は、いわゆるスポ根・運動部的な世界は苦手なのですが、やっぱり、何事もあきらめない精神力の重要性というのは認めないわけにはいきません。中途半端な自分の生活を棚に上げてこういうことを言うのはおこがましい気もするのですが、残りの2試合、日本代表には最後までベストを尽くしてほしいものだと祈っています。

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 7万アクセス
2006-06-12 Mon 23:22
 今朝、朝ごはんをゆっくり食べて仕事場に戻ってみたら、カウンターが7万アクセスを越えていました。皆様、いつもいつもご贔屓ありがとうございます。6万アクセスに到達したのがGW中の5月3日でしたから、その後、1日だいたい250名前後の方(カウンターはダブりなしの設定です)からこのページにアクセスしていただいていることになります。しばらく、ワシントンDCに行ったりして更新が不定期になることもままあったのに、本当にありがたいことです。これからもよろしくお願いします。

 というわけで、今日は額面が“7”の切手の中から、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

郵便番号1次

 これは、1968年7月1日、郵便番号の導入にあわせて発行された宣伝切手のうちの7円切手です。ペアでご紹介しているのは、切手の下部に「あて名に郵便番号を」と「あなたの住所にも郵便番号を」の2種類の標語が入っているためです。

 郵便番号制度の導入にあわせて、新制度を宣伝するための切手を発行するというプランは、1968年1月12日に昭和43年度の記念・特殊切手の発行計画が大臣決裁を受けた段階では、関係者の間でも具体的には固まっていなかったようで、1月18日に発表された新年度の切手発行計画には、郵便番号宣伝の切手についての記載はありません。

 その後、年度が改まった4月1日から、郵政省は本格的な郵便番号普及のキャンペーンを開始しますが、4月25日、全日本切手展(全日展)の表彰式に出席した郵務局長の増山克巳は、挨拶の中で郵便番号制度の実施に触れ、制度を宣伝するための“普通切手(本人談)”を発行すると発言。5月23日には、7月1日の制度開始にあわせて7円および15円の宣伝切手を各2種(計4種)発行することが正式に発表されました。

 切手に取り上げられている“ナンバーくん”は、もともとは、1966年7月に導入された定型郵便制度をアピールするためのキャラクターとして、木村恒久をディレクターに迎え、イラストレーターの松野のぼるが制作したものでしたが、好評のため、引き続き、郵便番号の宣伝のために活用され、郵便番号のキャラクターとして国民の間に定着していきます。

 当初、このキャラクターには名前が付けられておらず、メディアなどもそれぞれ勝手に“郵便ボウや”などと呼んでいましたが、1968年4月20日から6月20日までの間に行われた愛称公募の結果、1103通を集めて1位になった“ナンバーくん”が正式な名称として、7月5日に命名されました。したがって、切手の発行時には、“ナンバーくん”はまだ名無しだったということになります。

 郵便番号制度の導入は、日本の郵便の歴史においても極めて重要な出来事であったため、当時の郵政省は、制度導入にあわせて、通常のシート切手の他に、コイル切手や切手帳を発行するなど、かなり力の入った宣伝活動を展開しています。もっとも、切手に入っている標語が違えばそれぞれ別の切手と考える収集家に対して、標語が違っても額面が同じなら同じ切手というふうに考える郵政(特に郵便局の現場スタッフの人たち)との間の溝は大きく、そのことが、切手発行日の1968年7月1日には、いろいろと泣き笑いのエピソードを生んだようです。

 そのあたりの事情も含め、4月に刊行した拙著『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』では、この期間内に発行された郵便番号宣伝の切手について、さまざまなエピソードを網羅的にご紹介していますので、ご興味をお持ちの方は、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 トリニダード・トバゴの思い出
2006-06-11 Sun 23:58
 サッカーのワールドカップで、カリブ海の小国トリニダード・トバゴ(初出場)が強豪スウェーデンと引き分けて勝ち点を獲得し、話題になっているようです。

 実は、いまから10年以上も前のことですが、僕はひょんなことから調査の仕事を頼まれて、メキシコのカンクーンだとか米国のマイアミなんかとあわせて、トリニダード・トバゴの首都、ポート・オブ・スペインに行ったことがあります。(下の画像はそのときのビザと出入国のスタンプ。クリックで拡大されます)

トリニダードのビザ

 ポート・オブ・スペインへの旅で印象に残っているのは、① 事前にビザを取るのに難儀したこと(そもそも、日本にはトリニダード・トバゴ大使館がないので、出発直前になってビザを取らなくてはいけないことが判明した時はあせりました)、② マイアミからプエルトリコのサンファン経由でプロペラ機に毛の生えたような飛行機で現地入りしたこと、③ 空港から市内への道がやけに暗かったこと、④ 街中をレゲエのオジサンが当たり前のように鼻歌を歌いながら歩いていたこと、⑤ 街中が独特の臭いで溢れていたこと、⑥ 食事時、うっかりベジタリアンの店に入ってしまい(インド系の移民が多いので、ベジタリアンの店が少なからずある)、現地の美味しい料理(きっと何かあったはずです)を食べ損なったこと、⑦ マイアミへ戻る途中、サンファンでイミグレーションの係官が、僕のパスポートを見て意味不明の日本語もどきを話しかけてきたので、“Sorry, I cannot understand what you mean.(すみません。おっしゃることが良くわからないのですが)”と正直にいったところ、逆ギレされて“You aren't Japanese, are you?(お前、日本人じゃないだろう)”と言いがかりをつけられたこと、などでしょうか。

現地では、街中いろいろなところを歩き回ったはずなのですが、残念ながら、街並みについての印象はあまり記憶に残っていません。

 さて、彼の地への1泊旅行中、当然のことながら仕事の合間に郵便局にも行きましたが、そこで買った切手が出てきたので画像(クリックで拡大されます)をアップしてみました。

トリニダードの鳥
 
 これは、1990年12月からかの国で使われていた通常切手で、額面ごとに異なる鳥が描かれています。鳥の絵柄が図鑑的でありながらどことなく愛嬌があり、なおかつ、国名の文字やバックの雰囲気も南国ムードをかもし出す統一感があって、いい感じです。失礼ながら、この切手を郵便局の窓口で買った時、かの国でこんなに素敵な切手が日常的に使われていることに驚いた記憶があります。

 ホントは、このとき、郵便局から日本宛に切手を貼って出した書留便のカバー(封筒)があるはずなのですが、どこかにうずもれて出てきませんでした。まぁ、ワールドカップの期間はまだ長いので、トリニダード・トバゴが、あと1回くらいは話題になることがあるかもしれません。そのときまでには、何とかカバーを探し出して、このブログでご紹介できるように準備しておきたいのですが…。

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 九龍の時計塔
2006-06-10 Sat 22:42
 今日は“時の記念日”。というわけで、時や時計に関連するマテリアルということで、こんなモノを引っ張り出してきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

香港のタトウ

 これは、1942年12月8日、“大東亜戦争”の開戦1周年を記念して日本の香港占領地総督部が発行した記念絵葉書のタトウです。

 1941年12月8日の日英開戦とともに、日本軍は香港攻略作戦を開始し、同25日のクリスマスまでのわずか18日で英領香港の全域を占領下に置きました。翌1942年1月19日には、香港上海銀行(HKSB)の本店に総督部が設置され、日本軍による香港の占領行政が本格的にスタートしています。

 さて、今回ご紹介しているタトウには、日本占領時代の九龍側から香港島を臨んだ風景が描かれています。

 まず、目に入ってくるのが手前の旧九龍駅の時計塔です。時計塔は、九龍駅が移転した現在でも、スターフェリーコンコース近くにありますが、赤レンガと花崗岩でできた独特の外観で特徴的です。ただ、タトウの絵は、ちょっと“赤レンガ”を強調しすぎているような気がしないでもありません。なお、周囲の木々が生い茂っている辺りは、現在では巨大なカルチャーセンターが建っていて、当時とは随分様変わりしています。

 対岸の香港島では、当時、日本の総督部が置かれていた旧HKSBビルの上にしっかりと日章旗が掲げられているのが見えます。旧HKSBビルが香港で一番大きなビルだった時代ですので、こちらの景観は現在とはかなり違っています。九龍側から見た香港島の建物のシルエットは、タトウに押されている特印(記念スタンプ)にも描かれていますが、こちらは、HKSBビルこそ特定できるものの、その他の建物についてはかなり簡略化されています。

 それにしても、このタトウの絵、とってもいい感じですよね。もちろん、戦時下・占領下の香港の人々の生活が大変だったことは十分、理解しているつもりですが、自分自身の中に、単純素朴にこういうレトロな雰囲気にあこがれる気持ちがあることは否定できません。

 2年前(2004年)にFIAPのアジア展で久しぶりに香港に行った時、香港の“中国化”が物凄く進んでいて、なんとも言えず悲しい気分になったときのことを思い出しました。来年(2007年)は、香港の“返還”からちょうど10年。これを機に、以前の拙著『切手が語る香港の歴史』に手を入れて、英領時代の香港を懐かしむような本を作りたいのですが、どこか乗ってくれる版元さんはないでしょうかねぇ。

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 切手の中の建設物:サッカー地球儀
2006-06-09 Fri 23:56
 サッカーのFIFAワールドカップがいよいよ開幕しました。というわけで、10日付で発行の(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』という雑誌で僕が担当している「切手の中の建設物」という連載では、こんな1枚を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

サッカー地球儀

 これは、昨年(2005年)、ドイツ郵政が発行した“スポーツ振興”切手のうち、W杯を表現した1枚で、サッカーのイメージとサッカーボール型の巨大地球儀“サッカー地球儀(Fussball Globus)”を取り上げたものです。額面は55ユーロセントですが、25ユーロセントの寄附金が上乗せされており、シートの余白部分にはW杯のマークや大会スローガンなどが入っています。

 サッカー地球儀は、今回のワールドカップの文化事業の一つとして、ドイツ政府とワールドカップ2006組織委員会が建造し、開催12都市を巡回させているものです。

 サッカー地球儀の高さは20メートルほどで重さは60トン強。2階建てのドーム構造となっています。2階部分では、日中、バーチャル・シュートや審判プレーステーションなどを楽しむことができるほか、放送スタジオとして、有名サッカー選手や政治家、文化人などのゲストがサッカーと文化を語る場として用いられています。一方、1階部分はいわゆる展示スペースとなっており、オリバー・カーンのキーパー用グローブ、ジネディン・ジダンのサイン入りサッカーシューズ、ワールドカップ1954のボールなどの“お宝”が多数展示されているのだそうです。

 サッカー地球儀は、会期後半の7月1日から9日にかけて、最終目的地のベルリン、ブランデンブルグ門前に設置される予定となっていますが、これは、ブランデンブルグ門がゴールポストに見立てているのだとか。全世界を巻き込んだビッグ・イベントにふさわしい、スケールの大きな空間レイアウトといってよいでしょう。

 サッカーそのものにはあまり関心のない僕としては、テレビでドイツを紹介する番組を見ていて、ビールとソーセージ、ライ麦入りのパン、ロールキャベツなどの映像が出てくると、そっちのほうに関心が向いてしまいます。ここしばらくは、ワールドカップにかこつけて、毎晩ビールを飲む量が増えることになりそうです。

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 イラクのテロを止めさせよう
2006-06-08 Thu 23:00
 イラクのテロの黒幕とされる“イラク・アルカイダ機構”を率いるヨルダン人、アブ・ムサブ・ザルカウィが米軍の空爆で死亡したとのことです。

 そこで、“イラクのテロ”ということで、何か関連するモノはないかいなと思って探してみたら、時代は違うのですが、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

東独葉書(イラク)

 これは、1963年、当時の東ドイツで作られたプロパガンダ葉書の1種で、凶弾に倒れる男性とそのそばで悲嘆にくれる女性、そして「イラクでのテロを止めさせよう!」とのスローガンが英仏独アラビア語で記されています。裏面には、東ドイツの“イラクとの団結国民委員会”によって作成されたとの表示があり、国連事務総長宛の意見文と宛名が印刷されています。おそらく、当時の社会主義国家の常として、学校や職場などで、この手の葉書を出す運動が組織的に行われたのでしょう。

 第一次大戦の後、イラクでは親英王制が政権を担っていましたが、1958年、カセム准将による民衆革命で王制は崩壊し、イラク共和国が成立します。カセムは首相と総司令官を兼任し、中東の置ける反ソ包囲網として結成されていたバグダード条約機構(METO)から脱退しましたが、ナセルとも対立してアラブ諸国内で孤立していきます。このため、1963年2月、バース党(かつてのフセイン政権の政権与党です)のクーデターが起こり、カセムは処刑されました。

 このクーデターを、アメリカのCIAが側面から支援していたことから、当時の東側諸国は反発。このような葉書が作られたものと考えられます。

 もっとも、そうした東西冷戦という時代背景を別にしても、この絵葉書のデザインは、テロの悲惨さを訴えるという点ではアピール度満点の出来栄えだと思います。

 今回、ザルカウィが亡くなったことで、彼の組織によるテロ活動は下火になるのでしょうし、その分、治安も若干は改善されるのかもしれません。とはいえ、ザルカウィ派以外にもイラクでテロ活動を展開している組織は依然として残っているわけですから、ザルカウィの死がただちにイラクの安定に繋がるということにはならないのが現実でしょう。

 それだけに、イラクの人々に平安な生活が1日も早く戻ってくることを願う僕としては、現在のイラク政府も、この葉書をリプリントして広く訴えればよいのに、と思ってしまいます。

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 盗作騒動
2006-06-07 Wed 22:11
 芸術選奨やら東郷青児美術館大賞やらを受賞していた画家の盗作騒ぎが世上を賑わせていますが、日本切手のデザインに関しても、かつて外国人の作品をパクって問題になった事例がありますので、ご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

がん制圧

 これは、1966年10月に発行された“がん制圧”運動の寄付金つき切手の初日カバー(切手の発行初日に、切手を封筒に貼って、記念に消印を押したもの)です。カバーはアメリカ宛の料金40円にあわせるため、裏面にあと28円分の切手が貼られていますが、まぁ、ここではそれを見せなくとも良いでしょう。

 いわゆるがん制圧運動は1960年から実施されていましたが、1966年10月に国際がん会議が開催されるのにあわせて寄付金つき切手の発行が計画されます。その際、切手のデザインについては、国民に対する啓発を兼ねて、一般からの公募によって決められることになりました。

 公募の結果、1966年5月、寄せられた2881点の作品の中から、上島一純の作品「X線によるがんの早期発見」(実際の15+5円切手のデザイン)と瀬川憲三の作品「顕微鏡」(カバーの余白に描かれている顕微鏡の絵のような雰囲気のモノでした)の2点が特選に選ばれます。

 ところが、7月に入って、瀬川の作品は、雑誌『アイデア』(1963年12月号)に掲載されていたチャールズ・ゴスリンの作品 に酷似していることが判明。発覚のきっかけは、「名古屋まつり」の公募ポスターで起きた盗作事件 で、フジテレビと東海テレビの報道部が盗作の元になったといわれる作品を調査していたところ、特選として郵政省から発表された瀬川の作品と基本的な構図などがほぼ同じものが掲載されていることを発見し、報じたことにありました。

 さて、事態を重くみた郵政省は瀬川を呼んで事情を聞き、瀬川は“偶然の一致“を主張しましたが、公募に関わった審査員は作品を“盗作”と判断。7月11日、「一部で使われたと思われる図案を新しい切手に使うのは好ましくない」との理由で瀬川の特選は正式に取り消されました。

 さて、瀬川の作品を切手に採用することを取りやめた郵政省は、ただちに、次点作品4点の中から、鵜沢建十の作品「がん手術とがんの研究」を繰り上げ当選としましたが、ほどなくして、こちらも瀬川の作品の元になった『アイデア』の1965年2月号に掲載されているオンニ・ヴォリの作品と酷似していることが判明。鵜沢は採用を辞退しています。

 結局、相次ぐ盗作騒動に懲りた郵政省側は、デザイナーの創作作品を忌避し、写真を用いた作品として佳作の中から高橋透の「ガン治療のための回転式コバルト照射機」を切手に採用することを決定。7月14日に結果を正式に発表しました。

 ところが、高橋の作品が切手に採用されることが報じられると、今度は、写真に写っている機械が東芝の製品であったことから、他の医療器具メーカーから「公共性を持つ切手の図案に特定業者の製品を取り上げて宣伝するのはけしからん」とのクレームが付けられます。このため、郵政省としては、切手発行の期日も切迫していることから、高橋の作品をもとに、東京・築地の国立がんセンターのコバルト照射機に赤ランプなど各種の装備品をつけて撮影した上、写真を修整して東芝の製品であることが分からないようにして7+3円切手として発行しています。もっとも、この件に関して、郵政省サイドは東芝以外のメーカーからのクレームがあったという事実を認めず、「高橋の作品に取り上げられた機械が旧式のものであったので、これを最新式のものに改めるため原画の写真を取り直した」というのが、公式の説明です。

 このほか、“がん制圧”の寄付金つき切手は、企画段階からいろいろと揉め事が多く、発行後も大量の売れ残りが出て一般紙にも批判記事が掲載されるなど、いろいろと話題が尽きません。それらについては、盗作の元ネタとなった図版ともども、4月に刊行した拙著『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』で詳しくまとめていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。


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 66枚
2006-06-06 Tue 23:47
 今日は西暦2006年(神武天皇の即位を紀元とする皇紀なら2666年)の6月6日。というわけで、日付に6が並ぶ日です。で、何かそれっぽい話題のモノはないかなと思って探してみたら、こんなモノが出てきました(画像はクリックで拡大されます)

ギリシャ・インフレカバー

 このカバー(封筒)は、1946年2月9日、ギリシャはクレタ島のトポリアからアテネのアメリカ大使館宛に差し出されたもので、5ドラクマ切手が66枚(!)と2ドラクマ切手が1枚の合計332ドラクマ分の料金の切手が貼られています。

 第二次大戦の勃発に際して中立を宣言していたギリシャに対して、1940年10月、イタリアが攻撃を開始。ギリシャは、いったんはイタリアを撃退したものの、1941年4月、ドイツに敗退し、ギリシャ本土は占領されてしまいます。このため、ギリシャ政府はクレタ島に撤退しましたが、同年5月、ドイツ軍はクレタ上陸作戦を行い、同島を占領(ギリシャ政府と国王は亡命)。1945年5月の大戦終結までクレタを占領下に置きつづけました。

 こうした状況の下で、ギリシャ国内では対独レジスタンスの運動が展開されていましたが、1943年10月、レジスタンスの主導権をめぐる対立から、共産党と非共産党の内戦が勃発。この内戦は、いったん、1944年2月に停戦となりましたが、1944年10月の連合軍によるギリシャ解放後、両者の対立は再燃し、自然発生的な武力衝突が頻発します。

 その後、1946年3月頃から山岳地帯では共産党のゲリラ戦が本格化し、1949年10月まで、東西冷戦の代理戦争としてギリシャでは断続的な内戦が続くのですが、その影響でギリシャ経済は壊滅的な打撃を受け、ハイパー・インフレが猛威を振るうことになりました。

 今回ご紹介しているカバーは、そうした内戦下のハイパーインフレの時期のモノで、郵便料金も短期間のうちに相次いで値上げされていった結果、料金が332ドラクマという“高額”になっています。当然、料金の値上げに対応した新切手の発行は間に合わず、当時のギリシャ国民は、ここに示すように、既存の切手を大量に貼り重ねて対応せざるを得ませんでした。

 それにしても、1枚の封筒に66枚も同じ切手が貼られているってのは、単純に見ていて迫力があって楽しめます。もっとも、66枚という枚数は決してギネス記録でもなんでもなくって、とにかく、ハイパー・インフレに見舞われた国の郵便物には、すさまじい枚数の切手が貼られていることが珍しくありません。

 このため、切手収集の世界では、インフレ関連の郵便物を好んで集める人たちというのは沢山いて、中国やドイツ、ハンガリーなどのインフレ期の郵便物は、結構、人気があります。このうち、ドイツとハンガリーの事例に関しては、たとえば、j_deafさんのサイトでもいろいろと見ることができますので、ご興味をお持ちの方は、是非、遊びに行かれることをお勧めします。

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 無事、帰国しました
2006-06-05 Mon 23:31
 先ほど(5日22:30頃)、一連のワシントン旅行の日程を全て終了して、無事、帰宅しました。

 なにはともあれ、今回の切手展では金賞を取ることができましたので、まぁ“凱旋”を名乗っても許してもらえるでしょう。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

日露戦争凱旋絵葉書(逓信省)

 これは、1906年5月6日、日露戦争の戦役紀念絵葉書として発行された3枚組の絵葉書の1枚で、4月30日に行われた凱旋観兵式の模様を撮影した写真が取り上げられています。写真の中央には、しっかり、明治天皇を載せた馬車も写っており、天皇の軍隊の凱旋というモチーフが一目で分かるようになっています。

 天皇や政府高官の前で陸軍の将兵が整列・行進する観兵式は、わが国では、1870年9月8日に行われたのが最初で、以後、陸軍の軍人にとって晴れの舞台として定着していきました。当時の軍人たちにとっては、ただでさえ晴れがましい観兵式でしたが、苦難の末の日露戦争の勝利を祝う1906年4月30日の観兵式は、帝国の祝祭として、当時最大規模のものとなっています。これにあわせて、逓信省は記念切手を発行し、あわせて記念スタンプを使用したことは、切手収集家の方ならよくご存じのことかと思います。

 なお、この絵葉書を含めて、日露戦争中の切手や絵葉書において、皇室ないしは皇族というシンボルがどのようなかたちで取り上げられ、そこにどのような意図が込められていたのかということについては、昨年刊行の拙著『皇室切手』でも、若干の分析を試みています。ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 紅軍の兵隊さん
2006-06-04 Sun 08:11
 今日(6月4日)は、天安門事件の起こった日です。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

紅軍兵士

 この切手は、1932年5月、中国共産党(中共)が瑞金に樹立した中華ソビエト共和国臨時政府の切手の1枚で、紅軍兵士が描かれています。(この時期の中共解放区の切手については、以前のこんな記事もご覧ください)

 現在でこそ、中国人民解放軍が中国の人民を抑圧するための軍隊になっていることは誰の目にも明らかですが、1949年以前の中共の軍隊は、それまでの軍隊とは異なり、略奪行為を行わず、質実剛健な気風で人民の評価を得ていました。敵と戦って占領した地域に入るとき、将官が兵士たちに「食べるだけ食べろ。着られるだけ着ろ。ただし、自分が食べきれない分を持ち出したり、ましてや、他人に売りつけるために食糧や衣服を持ち出したりする者は厳罰に処する」といった類の訓示を与えたというエピソードを聞いたことがありますが、この切手の兵隊さんも、そういう一人だったのかなと思ってしまいます。

 仮に、当時、実際にこの切手を使っていた人たちに会って話ができるのなら、日本や国民党との熾烈な戦争、狂気の文革を経て、人民の軍隊が無辜の人民に銃口を向けた天安門事件へと繋がっていった中共の歴史を彼らがどのように考えているのか、正直な本音を聞かせてもらいたいところです。

* 米国滞在中の5月31日から6月4日にかけて、ネットの接続環境が悪く、記事を書けるものの、アップできたりできなかったり、という状況が続いていました。このため、5日の帰国後、まとめての更新となりました。あしからず、ご了承ください。

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 ワシントン展終了
2006-06-03 Sat 23:40
ワシントンにて

 本日(現地時間3日)18:00をもって、ワシントンで開催されていた世界切手展<Washington 2006>は無事、終了しました。

 昨日の日記にも少し書きましたが、今回、僕の出品した作品 Japan and the 15 Years' War 1931-1945 は91点のスコアで、2001年に東京で開催された世界切手展に続き、金賞を受賞することができました。前回のスコアが、90点ギリギリでしたので、改善部分についても審査員に認められたことは満足したいと思います。

 作品の完成度という点ではまだまだ改善の余地はありますし、そのあたりをいじれば、現在よりもワンランク上の大金賞も狙えるのではないかと欲張ってしまうのですが、作品の対象とする時代が20世紀ですし、地域的にもアジア地域のマテリアルに偏ってしまいますので、賞のランクを今よりも上げるというのは、冷静に考えれば、あまり現実的ではないでしょう。(もちろん、いただけるものなら喜んでいただきますが)

 今回の展覧会では、いろいろな作品をじっくり拝見し、本当に勉強になりました。また、現地では、日本人コミッショナーの佐藤浩一さんをはじめ、多くの方にいろいろとお世話になりました。この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。

 今後は、“昭和の戦争”に関する作品のバージョンアップをはかりながらも、ちょっと違ったテーマで国際切手展にチャレンジしてみようかと思います。これからも、皆様にはいろいろとご支援・ご協力をいただくことになるかと思いますが、よろしくお付き合いください。

(写真は、財団法人・日本郵趣協会理事長の福井和雄さんと現地で食事をご一緒した時のものです)

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 インド国民軍の葉書?
2006-06-02 Fri 22:08
 ワシントンで開催中の世界切手展<Washington 2006>の賞が発表となりました。僕の作品は、5年前の東京での展示とおなじく、なんとか金賞を取ることができました。で、今回はもう一人、日本からは小岩明彦さんがインドの軍事郵便のコレクションで金賞を受賞されました。おめでとうございます。

 というわけで、今日は小岩さんに敬意を表して、僕の作品の中からインドがらみのマテリアルということで、こんな葉書をご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

インド国民軍?

 この葉書は、インパール作戦に参加したインド国民軍の兵士が差し出した軍事郵便ではないかと考えられているモノです。切手は貼られていませんが、左上に“検閲済(Censored)”の書き込みがあるほか、右上には1944年4月18日に相当するヒンドゥー暦の日付が書き込まれています。葉書は、日本軍占領下のマレー半島、スレンバンの訓練キャンプから、おなじくマレーのアロスター宛に差し出されたもので、日本語のフリガナが付されています。

 裏面を引っくり返してみると、「いつでもデリーへ行って母なるインドのために戦う準備はできている」とか「インド万歳(Jai Hind)」といった類の文面が読めて、インド独立のために戦うインド国民軍の兵士の意気込みが伝わってくるようです。

 消印の類が押されていないので見た目はあまりパッとしないマテリアルですし、そもそも、インド国民軍の軍事郵便というものがどういうものだったのか、不勉強な僕は、イマイチよく分かっていないのですが、まぁ、後から作られたニセモノではないだろうなという感触は持っているのですが、さて、いかがでしょうか。この辺の事情にお詳しい方が折られたら、いろいろとご教示いただけると幸いです。

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 おかげさまで1周年
2006-06-01 Thu 20:25
 おかげさまで、6月1日をもって、ブログの解説から1周年を迎えることができました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 というわけで、“1周年”がらみのものとして、現在開催中の世界切手展<Washington 2006>に出品している作品に展示しているマテリアルの中から、こんなものを引っ張り出して見ました。

満洲国建国1年

 この葉書は、1933年3月1日、満洲国の建国1周年にあわせて発行される予定だったものの、不発行に終わったものです。
 
 当初、満州国側は、①国旗を背景に、執政溥儀の肖像と執政府の建物を配したもの、②満洲の平野の風景を描いたもの、③国務総理の鄭孝胥の書と奉天城を描くもの、の3種の絵葉書を用意していましたが、今回ご紹介している③だけは発売直前になって急遽、発売が取り止めになりました。ただし、末端まで周知が徹底せず、一部が回収されずに出回ってしまいましたが…。

 この葉書が回収された理由は明らかにされておらず、当時は、国務総理・鄭孝胥の書が問題になったのではないかということが一部で指摘されました。

 しかし、葉書に取り上げられた鄭の書は五経の一つ、『礼記』経解篇第二十六の一節「發號出令而民説 謂之和 上下相親謂之仁 民不求其所欲而得之 謂之信 除去天地之害 謂之義」を写したもので、和・仁・信・義といった儒教的な徳目について述べたものであり、普通に考えれば、取り立てて問題視されるような内容ではありません。

 むしろ、この絵葉書が発行されなかった理由に関しては、背景に描かれている地図の国境線が、一部、万里の長城まで達していない箇所があったことが問題視されたため、と考えるのが自然でしょう。

 満洲国が建国を宣言した時、満洲国側は、東三省のみならず、熱河省もその版図に含まれると主張していました。ところが、熱河省の軍閥であった湯玉麟は、当初、日本に対して協力的な姿勢を示し、満洲国の熱河省長に任じられたものの、東三省を追われてきた張学良に説得されて寝返り、張学良の軍隊を熱河省内に受け入れています。

 このため、1933年2月23日(国際連盟で対日満洲撤退勧告案が可決される前日)、関東軍は熱河作戦を発動し、3月半ばには、山海関から承徳(熱河省の省都)南方の古北口までの約450キロにも及ぶ長城線を占領してしまいました。

 このため、満洲国としては、国境線が万里の長城の北側に引かれている地図を、交通部の名前で発行される官製絵葉書に取り上げることは避けなければならなかったのものとおもわれます。なお、熱河省を征圧した関東軍は、その後も中国側の反撃を理由に進撃を止めず、同年5月には、万里の長城を越えて南下。北平・天津方面をうかがう勢いを示していました。

 すでに日本は国際連盟を事実上脱退しており、国際社会の圧力で日本の侵略を食い止めようとの目論見が外れた中国は、日本の軍事的圧力に屈して5月31日、塘沽停戦協定を締結します。その結果、山海関=通州間には非武装地帯を設置され、満州国と長城以南の中国本土を分断することで満州国の存在は事実上追認されるのです。

 ここのところ、アメリカでぼんやりしている日々が続いていますが、そろそろ、やりかけの満洲切手に関する本の作業も進めなければ、とふと思ってしまった内藤でした。

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