内藤陽介 Yosuke NAITO
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 ひまわりも融ける夏
2006-07-31 Mon 00:41
 平年よりも大幅に遅れて関東地方も梅雨が明けました。というわけで、いよいよ夏本番ということで、今日はヒマワリの花が取り上げられた切手の中から、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

犯罪防止会議・色ずれエラー

 これは、1970年8月に発行された「第4回犯罪防止国際連合会議」の記念切手の印刷が大きくずれたモノで、まぁ、このクラスになると“エラー”と呼んでも許してもらえるでしょう。

 1948年8月、国際連合(国連)の経済社会理事会において、国連が世界的規模で刑事司法行政の画定に中心的な役割を果たすことが決議されました。これを受けて、1955年にジュネーブで第1回国連犯罪防止・刑事司法会議(United Nations Congress on the Prevention of Crime and the Treatment of Offenders)が開催されたのを皮切りに、以後、5年ごとに各国持ち回りで国際会議を開かれるようになりました。そして、1970年の第4回会議は、1970年8月17日から26日までの日程で京都国際会館で開催され、記念切手も発行されたというわけです。

 ところで、今回の切手に関しては、切手に記載する会議の名称の日本語訳がなかなか確定しませんでした。当初、記念切手発行の名目は“犯罪防止および犯罪者の処遇に関する第四回国際連合会議”とされていました。これは、会議の正式名称である“The 4th United Nations Congress on the Prevention of Crime and the Treatment of Offenders”を直訳したものですが、切手に記載する記念名としてはあまりにも長すぎます。

 一方、記念切手の発行を申請した警察庁は、会議の名称を“国連犯罪防止・刑事司法会議”としていましたが、郵政省は“刑事司法”という表現が一般にはなじみがなく切手に用いるには不適切と反対と考えていたようで、結局、“犯罪防止国際連合会議”との呼称で決着しました。

 もともとは地味なテーマの切手なのですが、ここにご紹介しているように各色が大きくずれたエラー切手が北海道の旭川で発見されたことで記憶している収集家も多いようです。なお、この切手を含めて封書15円時期の記念切手の詳細については、4月に刊行した拙著『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』をご覧いただけると幸いです。

 それはそうと、梅雨が明けたとなると、これからしばらくの間、暑さと湿気に弱い僕(別に、寒さと乾燥にも強いわけではないのですが)にとっては辛い日々が続きそうです。炎天下の都心を歩いて家に帰ってきたら、眩暈に襲われて、正常な切手もこんな風にぼやけて見えることがあるかもしれないと思ってしまいます。

 皆様もどうぞご自愛ください。

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 コンドミニアムの悲劇
2006-07-30 Sun 00:02
 今日(7月30日)は、南太平洋西部、オーストラリア大陸の東にあるバヌアツ共和国の独立記念日だそうです。1980年の独立以前、この国は“ニューヘブリデス”として英仏共同統治下に置かれていましたので、切手に関心のある人たちの間では、そっちのほうが通りが良いかもしれません。さて、今日は、そんなニューヘブリデス時代の切手の中から、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

フレンチ・ニューヘブリデス

 第二次大戦中の1940年6月、フランスはドイツに降伏し、ペタンの親独政府が誕生します。このため、ニューヘブリデスのコンドミニアム(英仏共同統治のことをこう称した)内では、厳密にいうと、英仏は敵対関係になります。もっとも、ニューヘブリデスでは、早々にペタンの親独政府への服従を拒否し、ドゴールの自由フランス軍を支持することが決められましたので、コンドミニアムの分裂は何とか避けられています。

 今回ご紹介している切手もそうした状況の中で発行されたもので、戦前発行の島の風景を描く切手に、自由フランス支持の姿勢を示す“France Libre”の文字が加刷されています。

 さて、1941年12月に、いわゆる太平洋戦争が勃発し、日本軍がソロモン諸島の近くまでやってくると、ニューヘブリデスの住民は日本の侵攻を恐れるようになりました。このため、1942年5月、日本軍の機先を制するかたちで、何の前触れもなく米軍が島に上陸してきた時、島民はこれを日本軍の襲来と勘違いしてパニック状態に陥り、我先に山に逃げ込んでしまったということです。

 上陸した米軍は、当時のニューヘブリデス島がほとんど未開発の状態であることに驚き、早速、島を前線基地として活用するためにインフラの整備を開始します。各種のアメリカ製品が大量に持ち込まれるとともに、兵舎や病院、島を一周する道路、仮設滑走路や埠頭などが相次いで作られ、島は急速に文明化されていきます。

 さらに、現実にはさまざまな差別があるにせよ、米軍では白人も黒人も平等に扱われていることを見聞きし、米軍の仕事を手伝って正当な賃金をもらい感謝されるという体験を通じて、それまで、コンドミニアム体制の下で人間以下の扱いしか受けてこなかった島民たちは大いに感動します。一方、米軍の側でも、あまりに劣悪な島民の生活に同情して、洋服やベッド、冷蔵庫や家具を軍から調達して彼らに与えました。

 このため、ニューヘブリデスの島民にとっての第二次大戦(太平洋戦争)とは、日本軍の攻撃で牛が一頭犠牲になるという被害はあったものの(死傷者はなし)、生活水準はあがり、新しい医療の恩恵を受け、様々な設備も整うという、夢のような時代の代名詞となりました。

 しかし、1945年8月に戦争が終わり、米軍が撤退すると再び悲劇が訪れます。

 撤退に際して、米軍は、戦時中にニューヘブリデス島に対して持ち込んだ援助物資(ブルドーザー、作業用機械、クレーン、トラック、事務機器など)を、1ドルにつき7セントで買い上げてくれるよう、英仏コンドミニアムに求めます。ところが、戦争で疲弊し1円たりとも余計な支出をしたくなかった英仏側は「米軍が勝手に置いていったものに対価を支払う必要はない」と主張。住民に対しては家宅捜索が行われ、彼らが米軍にもらった衣類や、家具、冷蔵庫やラジオなどは強制的に接収され、ブルドーザーで海に沈められてしまいました。

 当然のことながら、こうしたコンドミニアム政府のやり方に対する不満は住民の間に深く沈殿し、その後の独立運動につながっていくことになるのです。それにしても、“英仏植民地主義”というのがいかに凄まじいものであったか、あらためて身震いする思いがします。

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 ドミニカ共和国の笹原
2006-07-29 Sat 01:01
 カリブ海に浮かぶドミニカ共和国に日本人が移住してから今日(7月29日)で50周年になるのだそうです。というわけで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ドミニカ共和国の笹原切手

 この切手は、1958年にドミニカ共和国が発行したオリンピックのメダリストの切手の1枚で、レスリングの笹原正三が取り上げられています。

 笹原は山形県の出身で、1954年に東京で開催された世界選手権で優勝。その後も翌1955年のワルシャワ国際大会、1956年のワールドカップと優勝を重ね、1956年のメルボルン五輪で金メダルを獲得。得意技の“またさき”で世界にその名をとどろかせました。

 オリンピック・メダリストシリーズは、ドミニカ共和国が海外の収集家の需要を見込んで外貨獲得のために発行した切手で、日本人アスリートが取り上げられた最初の外国切手となりました。

 もっとも、当時のドミニカ共和国側の思惑ではジャパン・マネーをあてにしていたというよりも、より広く世界のオリンピック・コレクターをあてにしていたと考えるのが適切なようにも思われます。“所得倍増”がある程度達せられた1964年の東京オリンピックの時でさえ、諸外国で発行された東京オリンピック関連の記念切手は“日本”よりも“オリンピック”を強調するモノのほうが多かったぐらいですから、1950年代の時点では、ジャパン・マネーの力は、ほとんど期待されていなかったと考えるのが自然でしょう。

 ちなみに、日本を題材としたジャポニカ切手が、本格的に、日本人コレクターの懐を狙うようになってくるのは1960年代後半以降のことで、1970年の大阪万博を機に、そうした風潮が一挙に爆発していくことになります。この辺の事情については、拙著『外国切手に描かれた日本』でも解説していますので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

 ところで、『外国切手に描かれた日本』でこの切手を取り上げたときには、単に外貨稼ぎのための切手としか考えていなかったのですが、この時期に日本人メダリストの切手が発行されている背景には、単にそれだけではない事情があるような気がします。

 すなわち、1956年から始まったドミニカ共和国への日本人移民は、もともと、ドミニカ側にしてみれば、隣国ハイチとの国境地帯に、一種の屯田兵的な性格の入植者を集めようという意図の下に始められたものでした。一方、当時の日本政府は、戦後のベビーブームで過剰人口に悩んでおり、国策として海外への移住を奨励していました。この両者の思惑が合致して、日本政府の斡旋により、厳しい選考をクリアした優秀で資金的にも豊かな農民たちが、大規模農業を夢見てドミニカ共和国に渡っていったのです。

 日本政府が示した募集要項には、ドミニカ共和国があたかも“地上の楽園”であるかのごとく謳われていましたが、実際に入植した日本人には約束された分の土地を与えられず、また、与えられた土地も塩だらけ石だらけで耕作に適さず、彼らは苦難の生活を強いられました。(そういえば、北朝鮮への“帰国事業”も似たような状況でしたっけ)

 当然、日本人移民たちは、詐欺まがいの宣伝文句を繰り返してきた日本政府に対して抗議したものの、外務省は全く取り合わず、1961年の政変後も帰国できなかった移民たちは、文字通りの“棄民”として扱われてきました。これに対して、つい最近になってようやく、小泉首相が日本政府として“おわび”を表明したことは記憶に新しいところです。

 こうした事情を考えると、移民問題が表面化しつつあった1958年の時点で、ドミニカ共和国が数多いるオリンピック金メダリストの中から、あえて笹原を選んで切手に取り上げたのは、外貨の獲得ということもさることながら、日本人選手を顕彰する切手を発行することで自国に対する日本のイメージを向上させようとしたという政治的配慮も含まれていたのではないかと思われてなりません。

 2003年に『外国切手に描かれた日本』を出したとき、当初の企画では南米の日系移民のこともいろいろと取り上げる予定だったのですが、時間切れでできませんでした。いつの日か、同書の改訂版を出せる日がきたら、今度は、そうした話題についてもきちんと触れてみたいと思っています。

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 『郵趣』今月の表紙:サモトラケのニケ
2006-07-28 Fri 00:28
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の8月号ができあがりました。

 『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、この1枚を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

ニケ

 これは、1937年8月、フランスが発行した慈善切手で、ルーブルの名品として名高いサモトラケのニケ像が取り上げられています。ニケ(Nike)とは、ギリシャ神話の勝利の女神のことで、英語風にいうとヴィクトリアと同じ意味です。

 切手は、同じデザインの刷色違いで30サンチームと55サンチームの2種1セットが2フラン50サンチームで販売されました。その差額1フラン65サンチームがルーブル博物館を支援するための募金にあてられたため、切手上には付加金つきを意味する“+”の表示はありませんが、収集家の間では付加金つきの慈善切手として扱われています。

 切手に取り上げられたニケ像は、大理石製で高さは328cm。紀元前190年、シリアのアンティオコス3世との海戦に勝利したロードス島の人々がそれを祝って制作し、船の舳先に立てられていたといわれています。1863年、フランス領事のシャルル・シャンポワーゾがまず胴体部分を発見し、その後、118の断片と砕けた翼が見つかりました。それらの断片は復元され、1884年にルーブル美術館のダリュの階段踊り場(切手の背景はその壁です)に展示され、現在にいたっています。

 なお、全くの余談ですが、大手スポーツメイカーのナイキはNikeの英語読みで、アメリカの会社です。ところが、僕にとっては、ナイキの靴はオニツカタイガー(現アシックス)のパクリ商品だといわれて裁判にもなったことの印象が強かったこともあって、長い間、ナイキは“内記さん”という日本人がつくった会社だとばかり思っていました。お恥ずかしい話です。

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 ロッキード事件と切手
2006-07-27 Thu 00:35
 1976年7月27日にロッキード事件で田中角栄が逮捕されてから30年だそうです。あの日、小学生だった僕は、母親に連れられて新潟に住んでいた伯父の家に遊びに行ったのですが、新潟駅で出迎えに来た伯父が「こっちは角さんの逮捕で朝から大変な騒ぎだよ」と興奮気味に話してくれたことを今でも鮮明に覚えています。

 さて、ロッキード事件を直接取り上げた切手というのはないのですが、ロッキード事件が産み落とした切手しては、こんなものがあるのでご紹介しておきましょう。(画像はクリックで拡大されます)

在位50年・馬車

 ロッキード事件当時の首相だった三木武夫は党内基盤が弱く、常に党内の非主流派による“三木おろし”の攻撃にさらされていました。このため、三木は反対派を抑え込むために衆議院を解散しようとしましたが、これには自民党内の反対論も強く、両者のにらみ合いが続いていました。ただし、1976年12月5日には、衆議院議員の任期が満了するため、どちらにせよ、年末には総選挙を行わなければならないという事情もありました。

 こうした中で、ロッキード事件で田中が逮捕されたことから、総選挙では自民党の金権体質が争点となることは必至で、自民党の議席は大幅に減ることが確実視されるようになります。

 このため、政府・与党としては、事件の総選挙への影響をいかに食い止めるかということが最重要課題となり、そのための手段として、急遽、7月に入り、1928年に即位の大礼が行われた11月10日にちなんで、11月10日に昭和天皇の在位五十年の記念式典を行うことを決定します。

 当時の野党は、いわゆる“革新勢力”が主流を占めており、彼らは天皇制に否定的な姿勢を明らかにしていました。ところが、“革新勢力”の支持者たちの中には、政府・自民党に対する批判ないしは不満から“革新勢力”に一票を投じてはいるものの、素朴な国民感情として、天皇や皇室に対しては親愛の情を持っているという人も少なくありませんでした。

 このため、在位50年の記念式典を大々的に祝い、天皇と共に日本社会が歩んできた激動の時代を回顧し、あわせて天皇の長寿を祝うことで、“革新勢力”の天皇制批判がいかに一般の国民感情からかけ離れているかを白日の下にさらすことは、自民党政府にとって、非常に魅力的な選挙対策だったというわけです。

 記念式典の実施が決定されると、国家のメディアとしての切手もその周知宣伝の一翼を担うこととなり、式典当日には二種類の記念切手とそれらを収めた小型シートが発行されました。今日ご紹介しているのは、そのうちの1種で、1928年の大礼の際に用いられた儀装馬車が大きく取り上げられています。

 さて、記念式典は予定通り、1976年11月10日、日本武道館で行われましたが、これに対して“革新勢力”は「戦後の三十年はともかく、戦前の暗黒時代二十年が同じ天皇の下にあったことを思うと、とても祝う気にはなれない」としていっせいに反発。特に、いわゆる過激派が式典の実力阻止を叫んでいたため、当日の会場周辺は、五百人の警官と装甲車が警護し、上空にはヘリコプターが飛び交うという物々しさだったということです。

 なお、この辺の事情については、昨年(2005年)刊行の拙著『皇室切手』で詳しくまとめてみましたので、ご興味をお持ちの方はご一読いただけると幸いです。

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 スエズ運河国有化50年
2006-07-26 Wed 00:16
 1956年7月26日にナセルがスエズ運河の国有化を宣言してから、ちょうど半世紀が過ぎました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

スエズ運河国有化記念

 これは、運河の国有化を記念して、国有化宣言から2ヵ月後の1956年9月26日にエジプトが発行した記念切手です。 

 1952年のエジプト革命で発足したナセルの民族主義政権は、王制時代に事実上の宗主国であったイギリスの影響力を排除するため、1954年10月、スエズ運河地帯からイギリス軍を撤退させる協定を成立させ、1956年6月20日までに全イギリス兵を撤兵させました。もっとも、この段階では、ナセル政権は自立した近代国家を建設するという意味でイギリスの影響力を排除しようとしていたが、西側諸国と敵対することを望んでいたわけではありません。エジプトの経済的自立のための国家プロジェクト、アスワン・ハイダムの建設(ナイル川上流に巨大なダムと発電所を建設し、それを利用した灌漑により大規模な農地を開拓することが計画された)を遂行していくためには、米英両国と世界銀行の資金援助が不可欠だったからです。

 このため、イギリス軍の運河地帯からの撤退に際しては、運河の所有権は英仏両国を大株主とする国際スエズ運河株式会社が保有することとされ、運河の自由な航行を保障する国際協定(1888年10月締結)も引き続き有効であることも確認されていました。

 しかし、イギリス軍の運河地帯から撤兵すれば、エジプト軍がシナイ半島を北上するのではないかと恐れたイスラエルは、イギリスの撤兵を妨害すべくさまざまな破壊工作を展開。1955年2月には、イスラエル軍の攻撃によりエジプト軍兵士38名が犠牲になるという事件も発生します。そこで、イスラエルの脅威に対抗する必要から、軍の近代化を計ろうとしたエジプトは、アメリカをはじめとする西側諸国から最新兵器を購入しようとしたのですが、米英仏の3ヶ国は、中東への武器供与を制限する三国宣言を理由にこれを拒絶。このため、ナセルはソ連に接近し、1955年10月、チェコスロバキア経由での通商協定という名目で、綿花(エジプトの主力輸出品)とのバーター取引を成功させ、大量のソ連製兵器の獲得しました。

 しかし、アラブの盟主を自認するエジプトがソ連に接近することで、他のアラブ諸国もこれに追随するのではないかとの懸念を抱いたたアメリカは、これに強く反発。エジプトの封じ込めに乗り出します。その一環として、1956年7月19日、国務長官のジョン・フォレスター・ダレスがアスワン・ハイダム建設への資金援助の約束を突如撤回。イギリスと世界銀行も同様の声明をエジプトに対して発し、ナセルの悲願であったアスワン・ハイダムは、資金不足から中止の瀬戸際に追い込まれてしまいました。

 追い詰められたナセルは、7月26日(革命記念日)、年間一億ドルのスエズ運河の収益をアスワン・ハイダム建設の資金に充てるべく、運河の国有化を宣言。管理会社である国際スエズ運河株式会社を接収して全資産を凍結してしまいました。これが、スエズ運河国有化のあらましです。

 今回ご紹介している、切手は、運河地帯の地図にタンカーを配したもので、スエズ運河国有化を記念する文言とあわせて、“航行の自由は保証される”旨の文言も入れられています。エジプトにしてみれば、運河の通行料収入を確保することが国有化の最大の目的なわけですから、国有化後も従来どおり、各国の船舶に運河を利用してもらうためにも、こういう文言を切手に盛り込んだものと思われます。

 その後、スエズ運河の国有化に激怒した英仏は、エジプトによるチラン海峡の封鎖で経済的なダメージを受けていたイスラエルと同調し、武力による運河国有化を阻止しようとして、切手発行の翌月にあたる1956年10月、第二次中東戦争(スエズ戦争)を引き起こすことになるのですが、ここから先は、今年秋の開戦50年のときにでも記事を書くことにしましょう。

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 嬉しいニュース
2006-07-25 Tue 01:59
 相互リンクをお願いしているきってコレクションblogで、こんな新聞記事が紹介されていました。(切手コレクションblogでは抜粋でしたが、ここでは、全文引用してみました)

***以下、引用開始***

 切手展:図柄は時代の反映 視覚・聴覚障害関連の130種展示--筑波技術大

 ◇大沢助教授が収集--筑波技術大できょうと25日

 視覚・聴覚に障害を持つ学生が学ぶ国立大学法人・筑波技術大学(つくば市)で、大沢秀雄保健科学部助教授の切手コレクションを展示する「視覚・聴覚の障害に関連した切手展」が22、25の両日、同大キャンパスで開かれる。点字入りや障害者のスポーツを描いたものなど世界約60カ国約130種類の切手が展示される。

 子供のころに切手収集が趣味だった大沢助教授が、切手の博物館副館長の内藤陽介さんの著書『切手と戦争』を読んで、切手から読み解く国の政策や文化などに興味を持ったのがきっかけで、2年ほど前から視覚・聴覚障害に関係する切手の収集を始めた。

 アイマスクをした青年がアルゼンチン代表のブルーの縞(しま)のユニホームを着て、サッカーをするブラインドサッカーの絵柄の切手は、点字も打ち込まれ、同国が03年に発行したもの。そのほか、ひもを持って山を登るケニアの視覚障害者の登山や、ヘレン・ケラーを図柄にしたものも。第一次大戦中の1916年に現在のボスニア・ヘルツェゴビナで発行された切手は、失明した兵士を誘導する少女の絵が描かれているほか、76年にバングラデシュが発行した栄養失調をテーマにした切手には、目にいいとされるビタミンAが豊富なニンジンや牛乳などの絵が描かれている。

 大沢助教授は「まさに切手の図柄は時代を反映していると思う。これほどの視覚・聴覚障害に関連した切手があるとは思わなかった」と話している。

 展示は22日が同市春日4の春日キャンパス、25日が同市天久保4の天久保キャンパスの各食堂入り口で。【石塚孝志】
 
(7月22日付毎日新聞朝刊・茨城版より)

***以上、引用終わり***

 自分の仕事がこういうかたちで誰かに影響を与えていたことがわかると、照れくさい気もしますが、とっても嬉しいです。というわけで、今日は、大沢先生に感謝の意を込めて、視覚障害がらみの1枚として、こんな切手を紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ザールの慈善切手

 この切手は、1928年にザールで発行された慈善切手で、19世紀のオランダの画家、ヨゼフス・ローレンティウス・ダイクイマン(Josephus Laurentius DYCKMANS、1811-1888)の作品「盲の乞食」(差別用語ばかりですが、“視覚を失ったホームレス”では雰囲気が出ないので、勘弁してください)の一部が取り上げられています。

 ザールは独仏国境地帯に位置するドイツの州で、第一次大戦でドイツが敗れた後は、1920~35年の間、国際連盟の管理下に置かれ、1935年の住民投票によってドイツに返還されました。国際連盟管理下のザールでは、ドイツ切手の使用が認められなかったため、独自の切手が発行されていましたが、今回の切手もその1枚です。なお、切手上には付加金の表示がありませんが、郵便局の窓口では、額面の倍額(つまり、額面と同額の寄付金をつけて)で発売されました。

 切手に取り上げられたダイクマンの絵は、教会の入口のところにたたずむホームレスと少女を描いたもので、オリジナルでは、右側に協会から出てくる女性の姿も描かれていますが、その部分はトリミングでカットされています。この絵は、19世紀のヨーロッパでは非常に人気を博し、さまざまな複製が作られましたが、オリジナルは、現在、ロンドンのナショナルギャラリーに所蔵されています。

 この切手の実物が展示されているのかどうかは未確認ですが、今日(25日)、筑波技術大学の天久保キャンパスで開かれる大沢先生の展覧会のご盛会を心よりお祈りしております。

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 チンギスハンの復活
2006-07-24 Mon 00:59
 お相撲は、怪我で不調だった横綱・朝青龍が千秋楽で負けたものの、復活の優勝を果たしましたね。というわけで、今日は以前の記事で「次に朝青龍が優勝した時にでもご説明することにしましょう」と書いていたお約束の切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

復活チンギスハン

 社会主義政権時代のモンゴルでは、民族の最大の英雄であるはずのチンギスハンは、“民族主義”の象徴であると同時に、ロシアや中国を征服した“侵略者”として、社会主義政権にとって最大のタブーとされていました。

 1962年、当時のモンゴル政府は、フルシチョフ政権下のソ連が柔軟路線に転じたことを好機として、チンギスハン生誕800年を記念する4種の切手を発行します。しかし、ソ連がチンギスハンの顕彰に対して“不快感”を示すと、問題の記念切手の販売もただちに中止され、手持ちの切手を郵便に使用することも禁じられていました。特に、4種セットのうち、チンギスハンの肖像を描いた切手は、モンゴル国内の切手収集家や切手商の間からも完全に姿を消し(所持していることが分かると、処罰の対象とされたという)“幻の切手”と呼ばれる存在になります。

 しかし、1989年に始まった国内の民主化運動の結果、モンゴルでは共産党独裁政権が崩壊。これに伴い、それまで抑圧されていた民族主義が復活し、モンゴル語をキリル文字で表記することも廃止されました。

 こうした流れの中で、1990年5月に首都ウランバートルで行われた“チンギスハン生誕記念行事”にはが、7万人の群衆が集まり、モンゴルの新聞・雑誌はチンギス汗報道一色となりました。また、ロックグループのホンヒが歌った“チンギス汗”が国内では記録的なヒットとなったほか、チンギス汗を主題とした映画「マンドハイ」も公開され、さらに、「チンギス汗」という名のウォッカまで発売されるなど、チンギス汗は完全に復権を果します。

 これに伴い、それまで厳重に秘匿されてきたチンギス汗切手も市場に姿を見せるようになったほか、モンゴル郵政は、発売を停止したまま保管しつづけていた切手に、「チンギス汗即位800年」の記念文字を加刷したものを新たに発行しました。ただし、加刷に用いられた切手は、モンゴル郵政に保存されていた在庫を利用したものであったため、加刷切手の発行枚数は、わずか1万セットに留まっています。

 以上、朝青龍の復活劇にちなんで、簡単ではありますが、チンギスハン切手復活の物語をまとめてみました。

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 試験問題の解説(2006年7月)-3
2006-07-23 Sun 21:42
 昨日に引き続いて、試験問題の解説の3回目(最終回)です。今日は、このカバー(画像はクリックで拡大されます)について、マクドナルド白書のことにも留意しつつ説明するよう求めた問題を考えて見ましょう。

ユダヤ系兵士のカバー

 このカバーは、第二次大戦中の1942年7月、イギリス軍に動員されたユダヤ系(と思われる)兵士の差し出したものです。差出人がユダヤ系の兵士であると推測できるのは、カバー左上にある“Written in Hebrew”の書き込みにより、同封されていた手紙がヘブライ語で書かれていたことが分かるためです。(非ユダヤ系の兵士がわざわざヘブライ語で手紙を書くということもありえなくはありませんが、その可能性はきわめて低いでしょう)

 第一次大戦後、パレスチナの委任統治を開始したイギリスでしたが、大戦中の“3枚舌外交”のツケは大きく、在地のアラブ系住民と新たに入植してくるシオニスト(パレスチナにユダヤ国家を建設しようというシオニズムの信奉者)との対立から、社会状況はなかなか安定しませんでした。特に、1933年にドイツでナチスが政権を掌握し、組織的なユダヤ人迫害が始まると、迫害を逃れてパレスチナに流入するユダヤ系移民が急増。パレスチナでのアラブとシオニストの対立はますます激化していきます。

 こうした状況の下で、ドイツとの戦争が時間の問題となりつつあった1939年5月(ドイツ軍がポーランドに侵攻し、実際に第二次大戦が勃発するのはこの年の9月1日)、イギリスはパレスチナ統治の基本方針として「マクドナルド白書」を発表しました。その内容は、①10年以内にアラブ主導のパレスチナ国家を創設し、イギリスと同盟を結ぶことと、②パレスチナへのユダヤ人入植を5年間で7万5000人に制限するというもので、ドイツとの戦争が始まれば第一次大戦のときと同様、戦場となることが予想されていたアラブ地域の反英感情を和らげるための政治的配慮によるものでした。

 しかし、対独戦争の都合から(パレスチナでのユダヤ国家建設を認めた、第一次大戦中のバルフォア宣言を無視して)アラブを懐柔しようとするイギリスの姿勢にシオニストは憤激。こうして、第二次大戦は、パレスチナのユダヤ人にとって、不倶戴天の敵であるナチス・ドイツと、マクドナルド白書により自分たちを裏切ったイギリスとの戦争という性格をもつことにことになり、彼らは微妙な立場にたたされることになります。

 こうした状況を打開したのが、シオニズムの指導者であったダヴィッド・ベングリオン(後のイスラエル首相)でした。彼は、ユダヤ人の敵はマクドナルド白書であって、イギリスではないと声明。反ヒトラーの戦いを優先させるため、中東地域での連合国の作戦(その主力はいうまでもなくイギリス軍であった)にユダヤ人を動員していきます。その見返りとして、ベングリオンらは訪米を繰り返し、大統領のローズヴェルトにユダヤ人国家創設にむけた支援を要請したほか、シオニスト支援の資本家たちから多額の資金援助(大戦の終結までに数十万ドルに及んだ)を獲得することに成功。こうして、シオニストとアメリカとの関係は次第に緊密なものとなっていくのでした。

 試験の答案としては、①このカバーが第二次大戦中にイギリス軍に動員されたユダヤ系兵士が差し出したものを明らかにした上で、②「マクドナルド白書」の内容を説明し、③それに対するベングリオンらの対応をまとめる、ということがポイントになります。

 さて、今回の試験では、この問題のほかに、“ハーシム家”や“スルターン”という語句について説明する設問も設けましたが、これらについては、wikipediaで検索することも可能ですから、僕のブログではあえて解説しません。

 なお、明日(24日付)からは通常通りのコラム記事に戻ります。僕の授業の試験を受けているわけでもないのに、お付き合いいただいた皆様、お疲れ様でございました。

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 試験問題の解説(2006年7月)-2
2006-07-22 Sat 23:55
 昨日に引き続いて、試験問題の解説の2回目です。今日は、この切手(画像はクリックで拡大されます)についての説明を求めた問題を考えて見ましょう。

ヒジャーズの切手

 この切手は、1922年にシャリーフ・フサインのヒジャーズ政府が発行したものです。

 第一次大戦が終結すると、フサインは戦時中に交わしたフサイン・マクマホン書簡の密約(イギリス側にたってオスマン帝国と戦う代償として、戦後、アラブの独立国をつくる)の履行をイギリスに求めましたが、彼の望んだアラブ統一国家の樹立は実現しませんでした。当然、フサインとイギリスの関係は冷却化します。

 イギリスの強い影響下で作られたヒジャーズ政府最初の切手は、フサインの支配権はアラブ世界全域ではなくヒジャーズ地域(アラビア半島西部の紅海沿岸地域)に限定されるべきと考えていたイギリスの意向もあって、切手上の国名表記は“ヒジャーズ郵便”となっていましたが、「アラブ諸国の王」となることを諦めていなかったフサインは、それに異議を唱えるかのごとく、自分の考える国家のあり方を切手上でも表現していくようになります。

ヒジャーズ解説用画像

 具体的にこの切手のデザインを解剖してみましょう。以下、少し見にくいですが、切手は、中央にハーシム家の紋章を大きく描き(画像の①)、その上にフサインの名を掲げるとともに(同②)、上部の枠には“ハーシム朝アラブ政府”の文字(同③)を、左右の枠には“聖メッカ”の文字(同④)を、それぞれ配しています。

 ①と②は以前の切手にはなかった要素ですから、ハーシム家とフサインが強調されるようになったことが目に付きます。また、この切手では、以前の切手にあった“ヒジャーズ”との表記がなく、より広範な“アラブ政府”が自称されています。これらを総合して考えてみると、この切手が、「メッカの太守・フサインの主導によるアラブ国家(その版図はヒジャーズのみに限定されるわけではない)」とのイメージを内外に訴えようとするフサイン側の意図がはっきりと浮かび上がってきます。

 もっとも、フサインがどれほどアラブ統一国家の樹立を呼号しようとも、現実に彼の統治が及んでいたのはヒジャーズのみにほぼ限定されており、彼はアラビア半島の統一さえ成し遂げられずにいました。そうした状況の中で、強引に自分の主張を押し通そうとしたことにより、フサイン政権は次第に周囲から孤立し、やがて、アラビア半島中央部のナジュドを拠点としていたイブン・サウードに滅ぼされることになるのです。

 試験の解答としては、この切手とそれ以前のヒジャーズの切手の違いを明らかにした上で、フサイン政権が、ハーシム家、(ヒジャーズに限定されない)アラブ政府、フサイン個人の権威といったものを切手というメディアを使ってアピールしようとしていたことがきちんと説明できていればOKということになります。なお、当然のことながら、答案では切手上の文字の位置関係を示す図を付けられれば完璧ですが、そこまでは要求しません。

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 試験問題の解説(2006年7月)-1
2006-07-21 Fri 23:20
 現在、都内の大学で週に何度か、非常勤講師をしています。講義の題目は学校によってさまざまですが、基本的には、何らかのかたちで“切手”を絡めた話をしています。

 僕の授業は基本的に通年科目なので前期試験はやらないのですが、1ヶ所だけ前期試験をやった学校があります。その科目では、中東・イスラム世界の近現代(史)について説明していますので、切手や郵便物の図版を出して、その背景を説明してもらうという問題もいくつか出題してみました。そこで、今日から3回に分けて、その解説をしてみたいと思います。僕が大学で授業をする機会があると、どんなことを話しているのか、という一つのサンプルとして、しばし、お付き合いください。

 さて、初回の今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

TEO加刷

 第一次大戦中、英仏が結んだサイクス・ピコ秘密協定により、戦後、現在のシリア・レバノンならびにイラクの北部にほぼ相当する地域はフランスの勢力圏とすることが規定されます。しかし、大戦が終結した時、フランスはベイルートやアレキサンドレッタ、ラタキア対岸のルアド島などを占領していたものの、その占領地域はごくわずかで、ダマスカスを解放したのはファイサルのアラブ軍とアレンビーのイギリス軍でしたし、内陸部の広大な地域はイギリスの占領下に置かれていました。さらに、フサイン・マクマホン書簡での密約(アラブがイギリスと共にオスマン帝国と戦えば、戦後、アラブの独立国家樹立を認めるというもの)もあって、シリア地域では、ダマスカスの陥落とともに、ファイサルを首班とするアラブ政府の樹立が宣言されていました。

 そこで、大戦の終結によりフランスとアラブの双方から密約の履行を迫られたイギリスは、ベルサイユ会議で、戦後のシリア・パレスチナ地域を、①イギリス支配の南部OETA(敵国領土占領行政区域:Occupied Enemy Territory Administration):現在のイスラエル国境とほぼ同じパレスチナ、②アラブ支配の東部OETA:アカバからアレッポにいたる内陸部、③フランス支配の西部OETA:ティールからキリキア(シリアとトルコの国境地帯で、現在はトルコ領)にいたるレバノンとシリアの海岸地帯、に分割するという妥協案を通します。

 しかし、フランスは、あくまでもサイクス・ピコ協定の遵守を求め、シリアにおける自国の権利を主張。このため、フランスとアラブの板ばさみとなったイギリスは、1919年9月、シリア地方からの撤兵を表明。これを受けて、同年11月以降、西部OETAではフランス軍が、東部OETAではアラブ軍が、それぞれ、イギリスに代わって占領行政を担当することになりました。

 今回取り上げている切手は、こうした状況の下で、西部OETAを占領したフランスが、この地域で使用するため、自国の切手に「敵国領土占領(区域)」を示すフランス語(Territoiers Ennemies Occupes)の頭文字にあたるT.E.O.の文字を加刷して発行したものです。

 なお、イギリス軍の撤退を受けて、ファイサルのアラブ政府は自らの存在を既成事実化して国際社会の認知を受けるべく、1920年3月、ダマスカスでシリア国民大会を開催し、ファイサルを国王とする立憲君主国「アラブ王国」の独立を宣言します。

 しかし、英仏両国はアラブ王国の存在を無視し、1920年4月に始まったサンレモ会議(同年1月に発足した国際連盟の最高理事会)は、フランスには旧オスマン朝のシリア(現在のレバノンを含む)の統治を、イギリスにはパレスチナ(現在のヨルダンを含む)とイラクの統治を、それぞれ国際連盟が委任するという、サイクス・ピコ協定そのままの内容を正式に決定。この結果、アラブ支配の東部OETAも、それぞれ、英仏の委任統治領として分割されていくことになるのです。

 試験の答案としては、この切手が第一次大戦後のフランス占領地域で発行されたものであることを明らかにした上で、OETAについてきちんと説明ができているかどうかがポイントになります。さらに、産れも会議の決定を受けて、ファイサルのアラブ王国を壊滅させたフランスが、現在のシリア・レバノンに相当する地域を委任統治領として支配するようになったところまで触れられていれば、バッチリです。

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 外国切手の中の中国:インド
2006-07-20 Thu 23:11
 NHKラジオ中国語講座のテキスト8月号が出来上がりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」は、前回までとがらっと趣向を変えて、今回はインドを取り上げました。その中から、こんな1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

コトニス

 これは、1993年にインドが発行した医師コートニースを顕彰する切手です。

 コートニースは、1910年10月、インド西部、マハーラーシュトラ州のソラプールで生まれ、同州の州都、ムンバイ(ボンベイ)のムンバイ大学GS医学校を卒業して医師になりました。

 1937年、日中全面戦争が勃発すると、八路軍総司令の朱徳はインドの独立運動家パンディト・ジャワ-ハルラール・ネルー(ネルー)に対して、中国へのインド人医師の派遣を要請します。この背景には、独立を求めて戦っているインドからの支援をあえて求めることによって、国は違えど“自由を求める民族の戦い”を戦う同志が連帯していることを内外にアピールしたいという中国共産党の思惑がありました。

 これを受けて、1938年9月、赤十字国際委員会によって、コートニースを団長とする中国支援医療団がインドから中国に派遣されます。当初、コートニースは漢口に派遣されましたが、その後、中国共産党の拠点であった延安へと移動。共産党によって、延安のべチューン国際平和医院の院長に任命されました。
 
 その後、華北全域の戦線を移動しつつ、医療活動に従事していたコトニスは、1939年、晋察冀辺区(山西省と河北省、それに現在の内モンゴル自治区の一部になっている察哈爾省の接点にあたる地域に、八路軍が樹立した“解放区”)で八路軍に参加。八路軍病院での医療活動のみならずベチューン衛生学校での医学教育にも八面六臂の活躍をしましたが、太平洋戦争が勃発し、日本とイギリス(インドの宗主国)が戦争状態に突入した後の1942年12月、32歳の若さで病死しました。中国側はコートニースに対する最大限の尊敬の念を示し、彼の遺体は、河北省石家荘の華北軍区烈士陵園に埋葬されました。

 さて、インドがコートニースの切手を発行した1993年は、彼の生誕83周年、没後51周年、中国での活動開始55周年という、記念切手を発行するにはいささか中途半端な年回りです。それにもかかわらず、この切手が発行されたのは、この時期、インド側が中国との関係改善をはかろうとしていたという事情があります。

 1960年代の国境紛争以来、険悪な関係にあった印中関係ですが、1991年5月、ラジブ・ガンディー首相が暗殺され、同年7月、後継首班としてナラシムハ・ラオが内閣を組織すると、徐々に改善されていきました。

 すなわち、ラジブ・ガンディー首相の暗殺は、建国以来の社会主義的な色彩の強かった経済政策を全面的に見直す好機となり、ラオ政権はルピーの20%切り下げや関税の引き下げ(1991年に87%あった加重平均税率は、漸減され、1998年には20%になった)、鉄鉱・石油・重機械・通信・電力など国営独占事業の開放など、外国投資拡大や規制の大幅緩和など経済自由化政策を打ち出していきます。こうした改革開放路線は、周辺諸国からも好感触を持って迎えられ、1991年12月には、中国の首相としては1959年の中印関係悪化以降はじめて李鵬がインドを公式訪問。その返礼として、1993年9月にラオが訪中し、国境問題の早期解決を目指すことなどで合意し、両国の関係は好転していったのです。

 今回ご紹介しているコートニースの切手も、こうした政治的な文脈の下で発行されたもので、中国との関係改善を内外にアピールしたいというインド政府の意図が切手に込められていることは一目瞭然です。

 もっとも、ラオ政権以降、中国との関係改善を進めているインドですが、その対中姿勢は無邪気な友好一辺倒ではなく、隣接する大国への警戒心も依然として根強いものがあります。その辺の複雑な事情を含めて、今月の「外国切手の中の中国」ではインドと中国の歴史的な関係を概観してみましたので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 アラブの都市の物語:リヤド
2006-07-19 Wed 23:16
 NHKのアラビア語会話のテキスト8・9月号が出来上がってきました。僕の連載「切手に見るアラブの都市物語」では、前回(6・7月号)、ワールドカップがらみで出場国チュニジアの首都・チュニスを取り上げました。そうなると、やはり、アラブ圏からのもう一つの出場国であるサウジアラビアも取り上げないわけにはいくまい、ということで、今回はサウジアラビアの首都リヤドを取り上げました。(メッカは連載の最終回にとっておきたいので、しばらく登場しません)

リヤド今昔

 アラビア半島中部、ディライーヤの支配者だったサウード家は、18世紀の半ば、イスラムの純化を主張するムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブと盟約を結び、ワッハーブの宗教改革運動の保護者としてアラビア半島で勢力を拡大し、第1次サウード王国を建国しました。しかし、いわゆる原理主義的な性格を持つワッハーブ派の勢力拡大は周辺諸国の脅威となり、エジプトの太守、ムハンマド・アリーは討伐軍を派遣し、首都ディライーヤを攻略。第1次王国は崩壊します。

 このため、サウード家は拠点をディライーヤから近隣のリヤドに移し、1824年に第2次サウード王国を再興しましたが、同国は、1892年、ナジュド北部を支配していたラシード家に攻略され、国王はクウェートに亡命。リヤドもラシード家に占領されてしまいます。

 その後、クウェートのサバーハ家とサウード家はラシード家を共通の敵として戦い、1902年1月、サウード家のプリンスであったアブドゥル・アズィーズ・イブン・アブドゥル・ラフマーン(通称イブン・サウード)は少数の手勢を引き連れてリヤドに潜入。マスマク城を奇襲して総督のアジュランを殺害し、リヤドの奪還を果たしました。その後、イブン・サウードはリヤドを拠点として、アラビア半島で勢力を拡大し、1932年に現在のサウジアラビア王国を樹立しました。

 これにより、リヤドは正式に王国の首都となりました。しかし、当時のリヤドは、依然として中世の都邑といった色彩が濃厚で、近代国家としてのインフラ設備は無いに等しい状況でした。リヤドの都市開発が急速に進むのは、1940年代に入り、本格的な油田開発が進められるようになってからのことで、潤沢なオイルマネーを背景に、現在では、リヤドの景観は高層建築が建ち並ぶ近代都市へと変貌を遂げました。なお、かつて街の中心であったマスマク城は1995年春には歴史博物館としてリニューアルされ、一般公開されています。

 画像の切手(クリックで拡大されます)は、マスマク城と現在の街並みを並べたもので、わずか1世紀たらずで急激に都市としての発展を遂げたリヤドの姿が表現されています。

 ちなみに、アラビア半島西部のジェッダやメッカ、メディナなどでは早くも19世紀からオスマン帝国によって近代郵便制度が導入されていたのに対して、リヤドを含むナジュド地方で郵便制度が本格的に行われるようになったのは1920年代以降のことです。じっさい、1980年代くらいまでのサウジアラビア関連のカバーに関していうと、市場に出てくるのはジェッダならびにメッカ発着のモノが圧倒的に多く、リヤド発着の気の利いたカバーや葉書は入手に苦労します。というわけで、今回の記事でも図版の大半が単片の切手になってしまいましたが、まぁ、勘弁してやってください。

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 カナリア諸島にて
2006-07-18 Tue 23:03
 大瀧詠一の名曲「カナリア諸島にて」で日本人にとっては“風も動くゎな~い”リゾート地というイメージがすっかり定着したカナリア諸島ですが、そのカナリア諸島で7月18日の日付を加刷した切手がありますので、ご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

カナリア諸島

 この切手は、いまからちょうど70年前の1936年7月に勃発したスペイン内戦に際して、カナリア諸島を制圧したフランコ側が発行したものです。

 1930年代のスペイン共和国の政情は不安定で、フランシスコ・フランコ・バハモンデの地位も激しく浮き沈みを繰り返していました。

 すなわち、1928年にサラゴサ総合士官学校長へ就任したフランコでしたが、1931年5月16日に国防大臣のマヌエル・アサーニャ(同年10月14日~1933年9月12日は首相)が発表した軍縮計画に反発。7月に総合士官学校が閉鎖されると、左遷されてしまいます。

 その後、1933年の総選挙で右派政権が成立し、左翼的な政策の軌道修正が図られると、1934年10月5日、これを不満とする労働者たちがアストリアス地方で反乱を起こします。その鎮圧を命じられたフランコは、10月18日には任務を完遂。その功績により、モロッコ方面軍総司令官に復帰し、翌1935年5月17日には陸軍参謀長へと昇進します。

 ところが、1936年2月16日の総選挙で左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、右派の大物であったフランコは危険人物として参謀総長を解任され、カナリア諸島方面警備司令官に左遷されます。

 こうした状況の下で、同年7月17日、スペイン領モロッコのメリリャ駐留軍で、左翼政権に不満を持つセグエ大佐がマヌエル・ロメラーレス将軍を銃殺し反乱軍として蜂起。翌18日にはカナリア諸島方面警備司令官のフランコが左遷先のカナリア諸島ラス・パルマスから共和国政府に対するクーデター宣言を放送。これを機に、セビリア、サラゴーサ、バルセロナ、マドリードをはじめ約50の兵営で反乱が起こり、人民戦線政府の社会改革や教会財産没収などの政策に不安を感じていた地主・資本家・カトリック教会などの保守勢力がフランコを支援したことから、反乱はスペイン内戦へと発展していくのです。

 今回ご紹介している切手は、そうした経緯でフランコ側が掌握していたカナリア諸島で、フランコがクーデター宣言を行った“1936年7月18日”の日付を加刷したもので、1936年10月以降、エアメール用の切手として用いられました。当然のことながら、反乱側は共和国政府の飛行機を利用できなかったため、彼らのエアメールは、彼らを支援していたナチス・ドイツの協力により、ルフトハンザ航空で運ばれています。

 日本からは現在、スペイン本国への直行便がないので、カナリア諸島に行くためには、いったんヨーロッパの主要都市で乗り換えてスペイン入りし、そこから現地入りするというのが一般的なようです。ただ、フランクフルトからラス・パルマス行きの便というのがあるようなので、いつかカナリア諸島に行くチャンスがあったら(もちろん、“薄く切ったオレンジをアイスティーに浮かべて”みます)、この切手のことを思い出して、ルフトハンザに乗ってフランクフルト経由で現地入りしてみるというルートも悪くないかもしれないな、とふと考えてみました。まぁ、その前に時間とお金を確保しないと、どうにもならないのですが…。

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 サマーワからの手紙
2006-07-17 Mon 23:36
 イラク南部サマーワ(サマワ)に派遣されていた陸上自衛隊の隊員のうち最後まで現地で活動していた約220人が、今日(17日)イラクを出国。これで陸自隊員のイラクからの撤収が完了したのだそうです。なにはともあれ、1人の犠牲者を出すこともなく、無事に任務を果たされた陸自隊員の方々に敬意を表したいと思います。と同時に、引き続き輸送の任務に当たっておられる航空自衛隊の皆さんの御無事をお祈りしております。

 というわけで、今日はこんなカバー(封筒)を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

サマーワのカバー

 これは、1919年4月、サマーワからイラク内のウル・ジャンクション宛に差し出された書留便で、イギリスのイラク占領加刷切手が貼られています。切手の貼り合わせから見て、切手収集家ないしは切手商がつくったフィラテリックカバーだろうと思います。

 第一次大戦以前、現在のイラク国家の領域は、オスマン帝国のバスラ州・バグダード州・モスル州にほぼ相当していましたが、大戦を通じて、これらの地域はイギリスの占領下に置かれます。当初、占領イギリス軍はインド切手を持ち込んで郵便を行いましたが、後に、オスマン帝国の切手に加刷した切手を発行・使用します。このうち、今回ご紹介しているカバーに貼られているものは、イラク全域で使用するために発行されたもので、大戦末期の1918年9月から使用が開始されました。サマーワでは、1918年11月7日にイギリスの郵便局が開局し、占領加刷切手の使用が開始されています。

 サマーワはイラク南部ではそれなりの規模の都市なのですが、それでも、郵便物の残存数はかなり少ないので、今回ご紹介しているようなカバーでも、とりあえずは我慢せざるを得ないというのが実情です。

 NHKのアラビア語会話のテキストで僕が担当している「切手に見るアラブの都市の物語」という連載ページがあるのですが、かつて、そこでサマーワを取り上げようとしたものの、あまりにもマテリアルがなくて断念せざるを得ませんでした。さすがに、このカバーと現在の自衛隊関連のマテリアルだけで4ページを埋めるというわけにもいかないものですから…。

 まぁ、自衛隊が撤退してしまうと、日本ではサマーワのことが話題になることもほとんどなくなってしまうでしょうから、ギリギリ滑り込みで、いままで日の目を見ることのなかったマテリアルをご紹介してみたという次第です。

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 8万アクセス
2006-07-16 Sun 23:58
 つい先ほど(16日23:00すぎ)、カウンターが8万アクセスを越えました。いつも遊びにきていただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

 さて、8万アクセスという区切りにちなんで、今日は額面8の切手に絡むものの中から、こんな1枚を引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

中央気象台75年

 これは、1949年6月1日に発行された“中央気象台創立75年”の記念切手の初日カバー(封筒に切手を貼り、発行初日の消印を押したもの)です。カバーの余白に描かれているカシェが、なんとなく夏の夕立の雰囲気で今の季節にピッタリなような気がしたので画像を貼り付けてみました。

 さて、切手の題材になっている中央気象台というのは、現在の気象庁の前身で、そのルーツは、1875年6月1日、東京市赤坂区葵町三番地に設置された“東京気象台”にさかのぼります。切手は、その“東京気象台”の設立から75周年になるのを記念して発行されました。なお、東京気象台は1887年に中央気象台と組織が改められた後、麹町区旧本丸北桔橋内を経て麹町元衞町に施設を構えていましたが、1945年3月の東京大空襲で全壊。このため、元大手町の厚生省庁舎に間借りして作業が続けられることになり、その場所が現在の気象庁の所在地になっています。

 ところで、この切手が発行される一月前の1949年5月1日、郵便料金が改正され、書状の基本料金が5円から8円に値上げされました。これは、いわゆるドッジ・ライン(日本経済の自立と安定とのために実施された財政金融引き締め政策)に沿って緊縮財政を旨とした超均衡予算が編成されたことにあわせて、郵便に関しても利用者の負担増が決められたことによるものです。

 もっとも、ドッジ・ラインに基づく予算編成そのものがかなりの突貫作業で行われたこともあって、このときの郵便料金改正は短期間に決められ、実行に移されましたから、料金改正初日の5月1日には、新たな書状料金用の8円切手の発行は間に合いません。結局、料金改正から1ヵ月後の6月1日になって、炭坑夫を描く通常の8円切手(5円切手とデザインは同じで刷色のみを変更)と、“中央気象台創立75年”ならびに“郵政省・電気通信省分離”の記念切手の3種類の8円切手が同時に発行されるという事態になりました。

 このため、現場の制作サイドはまさにてんてこ舞いの状況だったようで、この切手のデザインを担当した加曾利鼎造は、雑誌『郵趣』の取材に対して、「現在の如き、記念切手濫發では唯にせわしい思ひをするばかりで、もつとゆつたりした氣分で製作するには、切手畫家の人員を加する以外にはないだらう」と愚痴っています。

 この辺の事情に関しては、拙著『解説・戦後記念切手Ⅰ 濫造・濫発の時代 1946-1952』でも詳しくまとめてみましたので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。

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 切手の中の建設物:サンクトペテルブルクの冬宮
2006-07-15 Sat 23:37
 今日(といっても、日本時間では日付が変わった後ですが)からいよいよ、サンクトペテルブルク・サミットが開幕です。というわけで、10日付で発行の(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』で僕が連載している「切手の中の建設物」では、今月はサンクトペテルブルクで一番有名な建物の冬宮の切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

サンクトペテルブルクの冬宮

 サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝によって1703年5月に築かれた人工都市です。その後、ピョートル大帝が1711年から1712年にかけて建築した石造りの小さな宮殿は、1762年、イタリア人建築家フランチェスコ・ラストレリの設計の下、ロシア・バロックの精華として建て直されて、現在の姿になりました。冬宮との名は、ピョートル3世が愛人のヴォロンツォーヴァ伯爵夫人を連れてここに住むようになって以来、歴代皇帝が冬を過ごす宮殿となったことによるものです。

 その後、ピョートル3世を追放して王位についた女帝エカテリーナ2世は、王朝の威信を内外に示すため、1764年から宮殿の大改築に着手し、あわせて、冬宮の東側に自分専用の美術品のコレクション・ギャラリーを増築しました。このギャラリーは、フランス語で(ロシアの上流階級の間ではフランス語が日常的に使われていた)“隠れ家”を意味するエルミタージュと呼ばれていました。これが、現在のエルミタージュ美術館のルーツです。

 1917年の革命後、冬宮は臨時政府に接収され、旧貴族から没収した美術品を収めるエルミタージュ美術館の本館になり、都市の名前もサンクトペテルブルクからレニングラードへと改称されましたが、第二次大戦中のドイツ軍による“レニングラード”の包囲中も、エルミタージュは1日も休むことなくミュージアムとして業務を続けるなど、ロシア文化の中心として果たしてきた歴史的な役割は非常に大きいといえます。

 取り上げた切手は、1948年1月発行の“ドイツ軍によるレニングラード(ソ連時代のサンクトペテルブルグの呼称)包囲からの解放5周年”の記念切手の1枚で、1947年当時の街並みとして、ネヴァ川方面からみた冬宮が取り上げられています。切手の左上方、汚れのように見えるのは、実は紙の中に含まれている異物です。ナチス・ドイツとの死闘が終わって間もない時期、用紙の品質管理も十分に行われていなかった当時の事情が垣間見えるような1枚と言っても良いのかもしれません。

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 1フレーム展
2006-07-14 Fri 23:07
 週末の15~16日の2日間、東京・目白の切手の博物館で、(財)日本郵趣協会の登録審査員による1フレーム展(難しいことをいうといろいろあるのですが、まぁ一言で言えば、切手の専門家によるミニコレクションの展示会、とお考えください)が開催されます。

 今回、僕はカスピ海西南の小国、アゼルバイジャンの切手のミニコレクションを出品しています。その中の1リーフをサンプルとして、ご紹介してみます。(画像はクリックで拡大されます)

アゼルバイジャン・リーフ

 1813年に帝政ロシアに併合されたアゼルバイジャンは、1917年のロシア革命の混乱の最中、オスマン帝国によって占領され、第一次大戦でオスマン帝国が敗れると、イギリス軍に占領されます。アゼルバイジャン人の民族主義政党ミュサヴァト(ムサヴァト、ムサワトとも)党は、これら占領軍の支援を受けて、1918年5月にアゼルバイジャン民主共和国の独立を宣言しました。しかし、1920年4月の赤軍の侵攻により、首都バクーが陥落。アゼルバイジャン民主共和国は約2年でその幕を下ろすことになります。

 この間の1919年10月、アゼルバイジャンのミュサヴァト政権は独自の切手を発行します。このときの切手(第1次切手)は同時期のグルジア切手とほぼ同じ白紙に石版で印刷されていました。その後、1920年4月にアゼルバイジャンを占領した赤軍は、廃棄されていた第1次切手の石版を再利用して、新聞用紙に印刷した切手(第2次切手)を発行します。このとき、版面の損傷により印面にさまざまなバラエティが生じたこともあり、版の構成がある程度解明されていて、パズル感覚でリコンストラクションを楽しむことができます。

 今回の展示では、ミュサヴァト政権の第1次切手と第2次切手をまとめたもので、画像のリーフ(第2次切手の60コペイカ切手をまとめたものです)のように、版面のバラエティを中心に整理してみました。

 去年・一昨年と2年にわたって雑誌『郵趣』で「月々5000円からのコレクションつくり」という連載で、実際に女性コレクターに1フレームのコレクションを作ってもらったのですが、その裏番組として、僕が個人的に作ってみたのが、今回のコレクションです。

 収集期間は約1年半(中断期間もあるので、実質1年弱でしょうか)、総コスト約5万円で、その内訳は、切手に約4万円、文献に約1万円といったところでしょうか。切手の入手先は、主としてebayとraritan stamps(ロシア関係に強いアメリカのオークション会社)です。

 今回のコレクションのそもそもの発端は、平凡社の『中央ユーラシアを知る事典』で“通信”の項目を担当した時、図版用に1920年前後のアゼルバイジャン切手のアキュムレーションをraritan stampsから手に入れたことにあります。昔のマッチのラベル風の小洒落た切手なので、なんとなく、気になっていたのですが、その後、R.J.CeresaのThe Postage Stamps of Russia, 1917-1923のアゼルバイジャンの部がebayで売りに出ていたのを見つけましたので、早速手に入れて、それを片手に、関連する文献やそのコピーを集めつつ、ポツポツ、ブロックなどを買い足していきました。この時期のアゼルバイジャンの切手は、消印データの読める使用済や実逓カバーの入手は容易ではありませんが、未使用切手は安価で容易に入手できますので、製造面に限定して、今回のようなかたちでまとめてみたというわけです。

 お金と時間をあまりかけなくとも、とりあえずリーフを丁寧に作ると、それなりに格好がつくものだという一つのサンプルとして展示していますので、見に来ていただいた方が「この程度なら自分にもできそうだから、秋の<JAPEX>に出品してみるか」と思っていただけたら、僕としては万々歳の気分です。

 なお、会期中は、<JAPEX>の審査員メンバーが常に誰かしら会場にいます。僕も、15日(土曜日)の午後2時過ぎ頃から会場にいる予定ですので、是非、お運びいただけると幸いです。

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 アルジェリアとフランス
2006-07-13 Thu 23:51
 相変わらず、メディアはジダン選手のニュースで持ちきりですが、アルジェリア系フランス人という彼のバックグラウンドを聞いていて、ふと、こんなモノが手元にあったことを思い出しました。(画像はクリックで拡大されます)

アルジェ発のスタンプレスカバー

 これは、フランス時代植民地時代の初期にあたる1837年1月にアルジェからスイス宛に差し出されたカバー(封筒)です。イギリスが世界最初の切手を発行したのが1840年、フランス最初の切手が発行されたのが1849年のことですから、当然、切手は貼られていませんが、封筒に押されているスタンプには、アルジェがアフリカにおけるフランスの領土であることを示す表示が入っています。

 オスマン帝国の宗主権下におかれていたアルジェリアですが、1827年、フランスの革命の最中にアルジェリアからフランスに輸出された小麦の代金の決裁をめぐって、地方君主のデイ・フサインとフランスの間で対立が生じると、1830年、フランスは上陸作戦を敢行してアルジェほかの諸都市を占領。フランス人の移住や土地取得などを進めて、1834年、アルジェリアをフランス領に併合してしまいます。今回ご紹介しているカバーは、それから3年後に差し出されたものということになります。

 その後、アルジェリアでは、1870年までフランス陸軍省の管轄下で軍政が施行されていましたが、これに対して、現地では早くから抵抗運動が展開されていました。特に、1832年から1847年まで展開されたアブドゥルカーディルの反乱は大規模なもので、征服戦争を進めるフランス側は多くの死傷者を出しています。このため、兵力の不足を補う目的で導入されたのが、いわゆる“外人部隊”です。

 その後も、外人部隊はアルジェリアに駐屯することが多く、19世紀から20世紀前半にかけて、フランスが大規模な戦争を起こすたびに、アルジェ港は出征する外人部隊で溢れかえるという光景が見られるようになりました。

 第二次大戦中の1940年6月、フランス本国がドイツに降伏するとアルジェリアは親独ヴィシー政府の支配下に入りますが、1942年11月に連合国が上陸。1943年6月にはドゴールの自由フランス政府がアルジェに本拠を構えます。

 これに対して、アラブ系およびベルベル系の住民は戦争協力の代償として戦後の自治・独立を要求しましたが、既得権の維持をはかろうとするフランス人入植者の抵抗により、政治改革は進まず、1954年11月、ついに独立戦争が勃発。独立運動を力ずくで弾圧しようとするフランス側に対して、独立運動の主体となった民族解放戦線(FLN)はアルジェを中心とした都市でのゲリラ戦術で抵抗し、7年半にも及ぶ独立戦争の末、1962年7月、アルジェリアはようやく独立を回復するのです。

 このような歴史的な背景の下に、アルジェリアからフランスに渡ってきた人たちは、アルジェリア出身であることの誇りを維持しながらも、フランス国籍を取得し、“フランス人”としてフランス社会に溶け込もうと努力してきたということは誰もが否定できないことでしょう。

 明日(7月14日)はフランスの革命記念日です。“自由・平等・博愛”のフランスの国是は建前でしかなく、実際には移民に対する差別が厳然と存在するのが現実ですが、それでも、サッカーのジダン選手が“黒人、白人、アラブ人のフランス”を象徴する存在として、フランス社会の尊敬を集めていたことは事実だろうと思います。今日のカバーは、そんなことを考えながら引っ張り出してみましたという次第です。
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 山本昂さんを偲ぶ
2006-07-12 Wed 23:54
オランダ・風車(1962)

 日本を代表するテーマティク・フィラテリストの一人、山本昂さんが亡くなりました。

 山本さんは、石油会社に勤務されていたご経験から、エネルギー関係の切手についての造詣が深く、風水車について社会史的・文化史的な観点からまとめた作品や環境とエネルギーについて扱った作品などで、内外の切手展で高い評価を受けられました。

 というわけで、今日は、山本さんを知る人なら誰もがすぐにイメージする風車の切手の中から、本場オランダが1962年に発行した1枚をトップの画像に持ってきてみました。運河と風車の落ち着いたたたずまいが、温厚な紳士だった山本さんのイメージにピッタリの一枚だと思うのですが、いかがでしょうか。

 環境問題が広く社会的に感心を集めている中で、山本さんの作品は、フィラテリーの世界に留まらず、広く一般社会に発信されていくべきものだったと思います。それだけに、その機会が、今後永久になくなってしまったことは、フィラテリーの社会的な認知を高めるために努力している僕や仲間たちにとっては、残念でなりません。

 謹んで、ご冥福をお祈りいたします。

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 イタリアのサッカー切手
2006-07-11 Tue 21:37
 昨日に続いて、サッカーのワールドカップの話題です。今日は、優勝国イタリアのサッカー切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

イタリア・サッカー切手

 この切手は、1934年に開かれたサッカーワールドカップのイタリア大会を記念して発行された航空切手のうちの1枚です。

 ムッソリーニ政権下で行われたこのときの大会では、国威発揚のため、イタリア・チームの優勝が義務づけられており、マネージメントサイドはそのためにありとあらゆる策を弄しました。アルゼンチンをはじめとする各国の有力選手を強引に帰化させてイタリア・チームのメンバーにしてしまうなんてのは序の口で(実際、イタリア・チームの選手のほとんどは外国の出身者でした)、審判や対戦相手にはさまざまな圧力が掛けられて問題になっています。なかでも、準決勝のオーストリア戦では、事前にムッソリーニ本人に呼び出されたというスウェーデン人が審判を務め、露骨にイタリア優位の判定を繰り返したというのですから、ただ事ではありません。

 結局、大会は事前の予想通り(?)、イタリアが決勝戦でチェコスロバキアを下して、“地の利”を活かして初優勝を飾ったのですが、当然のことながら、世界各国はこの優勝に対してブーイングの嵐です。気の毒なのは選手たちで、このため、次のフランス大会(1938年)では、イタリア・チームは何が何でも実力で優勝して、名誉を挽回しなければならなくなりました。これが、昨日の記事で触れていたイタリア側の“事情”です。

 今回も、ワールドカップの大会期間中に、イタリア国内の1部リーグ(セリエA)で今季優勝したユベントスのモッジ前ゼネラルマネジャーやカラーロ前伊サッカー協会会長らが、審判員を事前に選別し自チームに有利な判定を引き出そうとしたという疑惑で告発され、検察側がユベントスの3部降格と過去2季の優勝剥奪、モッジの5年間のサッカー界追放と罰金という処分を求めるなど、イタリア・チームは逆境の中での戦いでした。

 それだけに、今回の不正疑惑が明るみに出たことをバネとして、「審判にひいきされて、勝ち取ってきた栄光じゃない。真の実力を見せよう」と結束を強め、今回の優勝を勝ち取った選手たちには、純粋に拍手を送ってあげたい気分になります。

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 ヘディング
2006-07-10 Mon 23:57
 サッカーのワールドカップはイタリアの優勝で幕を閉じましたが、決勝戦では、この試合で引退するジダン選手が相手チームの選手に頭突きを食らわせて退場となるという、信じられないハプニングが起こりました。というわけで、思わず、こんな切手を引っ張り出してきてしまいました。(画像はクリックで拡大されます)

フランスのサッカー切手

 この切手は、1938年6月に行われたフランス大会に際して、フランスで発行された記念切手です。切手には、ヘディングのシュートがゴールキーパーの頭上を抜けていく場面が描かれていますが、ジダン選手も人間じゃなくてちゃんとボールにヘディングすれば良かったのに…とついつい思ってしまいます。

 大会翌年(1939年)の9月には、ドイツ軍のポーランド侵攻によって第二次大戦が始まりますので、今回の大会は戦前最後の大会(戦後の再開は1950年のブラジル大会)となりました。予選を通過していたオーストリアが、大会前の同年3月にドイツに併合され、国家として消滅してしまったため、不参加になったことなどは、当時の時代を如実に物語るエピソードといってよいでしょう。

 ちなみに、この大会の優勝国はイタリアで、イタリアは前回大会に続いての連覇を達成します。実は、このときのイタリアはどうしても連覇を達成しなければならない事情があったのですが、その辺りについては、明日(11日)の記事で触れることにします。

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 モスクワ=イルクーツク便
2006-07-09 Sun 23:57
 今朝(7月9日)8時、ロシア・シベリアのイルクーツク空港でモスクワ発のシベリア航空機エアバスA310が着陸に失敗して爆発炎上し、124名の遺体が収容され、70人以上が病院に搬送されるという大きな事故がありました。

 というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

モスクワ=イルクーツク間FFC

 このカバー(封筒)は、1928年9月17日にモスクワ=イルクーツク間の航空郵便第一便で運ばれたもので、モスクワからイルクーツクまでは航空便、そこから宛先地のハルピンまでは陸路(鉄道)で運ばれたものです。カバーの中央やや下には、ちょっとかすれていますが、この区間の航空郵便の第一便で運ばれたことを示すスタンプが押されています。

 イルクーツクは、ロシア極東地域とウラル・中央アジアを繋ぐシベリア東部の産業ならびに交通の要衝で、1904年に全線開通したモスクワ=ウラジオストク間のシベリア鉄道は、1898年にまず、イルクーツクまでが開通しました。当然のことながら、ソ連が国内の航空網を整備していく過程でも重要な拠点のひとつとされており、1920年代には、当時としては大規模な空港が作られています。

 もっとも、航空網をできるだけ早く整備するために、とにかく空港を作れば良いという発想で建設されたためなのか、イルクーツク空港には構造上の問題も多いようです。すなわち、市街地に隣接している(住民の安全よりも利便性を重視した結果でしょう)ため滑走路が短い上、周囲に山があるため、着陸時はほとんど垂直に降下するようなかたちになり、着陸はかなり難しいのだそうです。

 実際、今回の事故以外にも、この10年間で、1997年、1999年、2001年と3回もの死亡事故が発生しているところからも、この空港が以下にパイロット泣かせのものであるか、想像できようというものです。

 いずれにせよ、多くの方々が犠牲になっているのですから、原因をきちんと究明した上で、空港の構造的な“欠陥”が問題であるのなら、郊外の広い土地にきちんとした新空港を建設するなどの抜本的な解決を図ってほしいものです。

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 那覇の日
2006-07-08 Sat 23:59
 7月8日は語呂合わせで“那覇の日”なんだそうで…。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

那覇局

 1972年5月、沖縄は日本に復帰し、アメリカ時代に発行されていた琉球切手の発売も停止されましたが、公衆手持分については、復帰後もしばらくは琉球切手の使用が認められていました。

 今回ご紹介の1枚は、そうした“移行期間”の間に使われた琉球切手のサンプルで、1971年9月に発行されたサンダンカの2セント切手に“那覇”の消印が押されています。

 沖縄の本土復帰と共に、アメリカ時代の“那覇中央”郵便局は制度上は閉局となり、日本の“那覇”郵便局となったため、本来は、那覇局の消印は日本の切手に押されているのがノーマルなわけですが、上述のような移行期間の間は、琉球切手に那覇の消印が押されることもあったというわけです。

 この切手の場合も、消印の日付は不鮮明でよく読めないのですが、那覇という局名と“(昭和)47年”という年号はハッキリと読めるので、移行期間中の使用済をいうことは、十分にお分かりいただけるでしょう。

 那覇の消印というと、明治時代の二重丸印とかボタ印といった高価なものに関心が集まりがちですが、沖縄の数奇な歴史を物語るマテリアルとしては、地味ではありますが、こういうマテリアルもなかなか興味深いのではないかと個人的には思っています。

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 米中の連携
2006-07-07 Fri 23:41
 今日は7月7日。まぁ、世間では七夕の日というのでしょうが、天の川がらみで気の利いた切手が手元にあるわけでもないし、東京は曇り空で星は全く見えません。というわけで、やっぱり、盧溝橋事件の日にちなんで、こんな1枚を持ってきてしまいました。(画像はクリックで拡大されます)

アメリカ・抗日戦争5周年

 この切手は、日中戦争のきっかけとなった1937年7月7日の盧溝橋事件から5周年を機にアメリカで発行されたもので、“中国人民の抗日5周年”との題名がつけられています。抗日戦争を戦う中国への支援を継続していく意志を内外に鮮明にするとともに、中国に対しては抗日戦争の継続を訴えようというアメリカの意図がはっきりと表現された切手です。
 
 切手全体の構図は、中央に中国地図をはさんで、左右にリンカーンと孫文を配しており、孫文の下には彼の唱えた三民主義のスローガン“民族、民権、民生”が、リンカーンの下には有名なゲチスバーグ演説の一節“人民の、人民による、人民のための(政府)”が、それぞれ入っています。また、地図上には、中華民国の国章である晴天白日章が置かれ、その中には“抗戦建国”の文字と、抗日戦争の期間を示す“1937年7月7日”ならびに“1942年7月7日”の日付が入っています。

 “抗戦建国”とは、1938年3月29日から4月1日まで、武漢大学礼堂で行われた中国国民党臨時全国大会で採択された方針で、「抗戦の目的は日本帝国主義の侵略に抵抗して国家民族の滅亡を回避することにあると同時に、抗戦中の工作をしっかりとこなし、建国という任務を完成させることにある」というものです。

 次に、孫文とリンカーンの組み合わせですが、これは、孫文の三民主義がリンカーンの“人民の、人民による、人民のための(政府)”から着想を得たものであるとの中国側の主張に沿ったものと思われます。ただし、三民主義については、その文言のイメージから一般に誤解されている部分も少なくないので、若干の補足的な説明をしておく必要があるでしょう。

 結論からいうと、孫文の三民主義は大衆=愚民という大前提に立っており、その点で、西欧風の普通選挙に基づく議会制度とは大いに異なっています。当然、“人民の、人民による、人民のための政府”に対しても、孫文は一貫して否定的な立場を取っていました。その根底にあるのは、中国の政治的伝統である“賢人支配の善政主義(選ばれた有能なエリートが能力のない大衆を善政によって導くことによって国家社会の幸福を実現する)”です。

 たとえば、晩年の孫文は、政府と人民との関係について、「諸葛亮(孔明。『三国志演義』の天才軍師)は能(力)を持っていたが(主)権をもたず、阿斗(劉備の子。無能な皇帝として有名)は権を持っていたが能はなかった。阿斗は能を持たなかったが、政務をすべて諸葛亮にゆだね、諸葛亮が有能であったから、西蜀で立派な政府を樹立することができた」との比喩を用いて説明しています。これは「国民主権」の建前とは別に、国民を愚民視して政治参加を制限し、全権は国民党の政府にゆだねるべきとの意味にとらえられます。

 さらに、孫文の後を継いだ蒋介石の国民政府は、孫文の路線をさらに徹底し、自らの支配地域において一党独裁を敷いており(もっとも、共産党の支配地域も一党独裁体制でしたが)、一般国民の自由な政治参加の道は事実上閉ざされていました。それゆえ、大戦中、国民政府が首都としていた重慶では政府関係者の腐敗が蔓延しており、アメリカとしても、事態を憂慮しています。

 しかし、対日戦争の勝利という目先の目標が最優先された結果、アメリカは国民政府の抱えるさまざまな問題には目をつぶり、彼らを“民主主義陣営”の一員として支援する道を選んだのです。切手上で、本来、全く異質なものであるはずの三民主義と“人民の、人民による、人民のための政府”が同一視されているのも、そうしたアメリカの便宜主義の表れとみなしてよいでしょう。

 なお、切手の背景に描かれている地図ですが、これは中国側が1938年にアメリカとの友好を訴えるために発行した切手と基本的には同じもので、共通の敵である日本を前に中国との連携を強めたいアメリカが、この時点では、中国の主張する“自国の領域”を無条件に認めていた様子がうかがえます。

 先日、国際世論の警告を無視してミサイルをぶっ放した某国に対しては、日本を含む関係各国が連携して圧力を掛けていくことが必要です。その意味では、この問題ではアメリカと中国が足並みを揃えてくれると良いのですが、まぁ、実際には難しいでしょうねぇ。それよりも、下手に協力を求めると、中共政府は「チベットのことをとやかく言うな」とか「“釣魚島(もちろん、日本領の尖閣諸島のことです)”は中国領と認めろ」といった無理難題を吹っかけてくる可能性が高そうです。いやはや、まさに、現状は前門の狼・後門の虎ということなんでしょうか。頭の痛いところです。

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 ロケット・ボーイズ
2006-07-06 Thu 23:57
 相変わらず、今日も巷の話題は北朝鮮のミサイル発射に関することが中心のようです。というわけで、昨日に引き続き、北朝鮮の切手の中からこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

北朝鮮・世界子供の日30年

 この切手は、北朝鮮が1980年に発行した“世界子供の日30年”の記念切手の1枚で、ロケットに乗って宇宙旅行をする男の子と女の子が描かれています。

 前回のテポドンの打ち上げの時、北朝鮮側は「あれはミサイルではなく、人工衛星を打ち上げるロケットだった」と主張していましたが、そもそも、ロケットもミサイルも“飛び道具”としての推進体の部分は同じ構造になっており、先端部に爆発物を搭載した軍事目的のモノを“ミサイル”と呼び、先端部に人工衛星などを搭載したものを“宇宙ロケット”と呼んでいるにすぎません。それゆえ、ミサイルの打ち上げに成功してしまえば、あとは先端に搭載するものによって軍事用にも非軍事用にもなるのであって、人工衛星の打ち上げだから安全というのは詭弁に過ぎません。

 ところで、専門家によると北朝鮮のミサイルの命中精度はまだまだ低く、それゆえ、非常に物騒なものなのだとか。ということは、かの国の指導層は、一朝有事の際、太平洋戦争中の人間魚雷と同じ発想で、ミサイルに操縦士を乗せ、一発必中を狙って目的に体当たりするという戦術を取ることもやぶさかではない、と考えている可能性もあります。なにせ、将軍様(=金正日)に忠誠を誓うよう徹底した洗脳教育を行っている国ですから、本音はどうあれ、建前としては将軍様のために死ぬことを名誉として受け入れる若者は決して少なくはないはずです。

 26年前の切手では、ロケットを操縦している男の子と後ろで双眼鏡片手にナビしている女の子という構図は、あくまでもファンタジーの世界のモノでした。しかし、ここ数日のかの国の行動を見ていると、ロケット(=ミサイル)に乗る少年少女という構図が、なんだか、急速に洒落にならなくなっているようについつい思ってしまいます。

 まぁ、北朝鮮の展開している“瀬戸際外交”というのは、一種のチキンレースみたいなもので、相手の譲歩を引き出すために危機的な状況を演出するという戦術です。したがって、相手を完全に怒らせて、本当の危機をもたらしてしまったら、バイクが海に落ちてしまうのと一緒で、元も子もないということは、本来、彼ら自身が一番良くわかっているはずなのですが…。どうやら、今回、彼らは完全にそのさじ加減を見誤ってしまったようです。

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 北朝鮮の反核切手
2006-07-05 Wed 23:53
 北朝鮮が国際社会の警告をものともせず、日本海に向けて7発ものミサイルを発射しましたね。いやはや…。

 北朝鮮が、かつてテポドンの打ち上げたときに発行した切手については、以前の記事でも取り上げましたが、今日は、いまや、核兵器の保有を公言し、国際社会を恫喝しているかの国が、かつては、こんな切手を出していたこともあるというサンプルをご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

北朝鮮の反核切手

 この切手は、1988年5月、北朝鮮が第13回世界青年学生祭典(ソウル・オリンピックに対抗して北朝鮮が1989年7月に平壌で開催したイベント)の宣伝のために発行した切手の1枚で、「核兵器のない新たな世界を築こう!」とのスローガンと共に、廃棄される核ミサイルが描かれています。

 1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ヨーロッパではウィーンを中心に反核運動が広がりました。この運動は、東西冷戦下でアメリカの核戦略に対抗するため、ソ連を中心とした東側諸国が火付け役となって始まったもので、核戦争反対・非核反戦・軍縮・反原発・反米自主・核兵器廃絶などの言葉が世界各地でさかんに使われていました。本来、“核”の問題では、西も東も同罪のはずなのですが、この種の運動は、その背景にある政治勢力の影響もあって、東側の核は不問に付されるのが常でした。

 こうした反核運動は、ヨーロッパのみならず、日本にも飛び火し、“反核”という言葉が、突如、それまでの“反戦”に代わって市民運動の世界でクローズアップされていくことになるのですが、その仕掛け役を担ったのはいわゆる“よど号”グループのメンバーとその支援者たちであり、彼らを背後で操っていたのが北朝鮮の朝鮮労働党でした。“ダイ・イン”と称して地面に寝転び、“死に真似”をする奇怪なパフォーマンスが流行ったことをご記憶の方も多いでしょうが、あれも、実は、ウィーンを工作の拠点としていた“よど号”グループの関係者(彼らは、1970年に北朝鮮入りしてからずっと北朝鮮にいたわけではなく、しばしば、ヨーロッパなどに出張し、さまざまな工作活動に従事していました)が、日本に持ち込んだものといわれています。

 北朝鮮側が日本の反核運動に積極的にコミットしたのは、東側諸国の一員としてアメリカの各戦略に対抗するという大義名分とあわせて、“反核”を媒介に、日本での北朝鮮シンパを拡大していこうという狙いがあったためと理解するのが妥当なようです。ちなみに、当時の反核運動の機関誌やビラなどに、北朝鮮の政治用語として良く使われる“自主”とか“主体的”といった単語がしばしば用いられているのは、決して偶然ではないでしょう。

 今日ご紹介している切手も、そうした文脈に沿って北朝鮮が“反核”プロパガンダの一環として発行したもので、大韓航空機事件などで国際的孤立を深めつつあった北朝鮮側が、“反核”という一般の理解と共感を得られやすいスローガンで国際世論の支持と同情を集めようとの意図の下に発行したものとみなすことができます。

 そういえば、いわゆる反核団体の中には、北朝鮮の核問題が明るみに出てから、なんとなく元気がないところが多いように思えるのは僕だけでしょうか。そういう彼らの姿勢を見せ付けられると、やっぱりその手の団体は、かの国と浅からぬ因縁があるんじゃないのかと勘繰りたくなるのが人情といえましょう。(もちろん、アメリカの核も中国や北朝鮮の核も同じように悪い、と主張している筋の通った人たちも少なからずいるんでしょうけれど…)

 それにしても、北朝鮮の発行した“反核”切手。北朝鮮で刊行される切手のカタログの次版では、おそらく、削除されている可能性が高いように思います。

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 自由の女神 in スペイン
2006-07-04 Tue 23:49
 今日(7月4日)はアメリカの独立記念日。というわけで、アメリカがらみのネタのなかから、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

スペインの自由の女神

 これは、1938年6月1日、スペインが発行したアメリカ合衆国憲法150年の記念切手の小型シートです。切手上には、合衆国憲法の原法典が“1787年憲法”と呼ばれていることにちなみ、1787と1937の年号が入っていますが、切手の発行日は、実際に独立当時の13州のうち9州の承認を得て憲法が発効した1788年6月1日にちなんで、1938年6月1日となっています。

 この切手が発行された当時、スペインはフランコ側と共和国側の内戦状態にありました。

 1937年7月、スペイン領モロッコでのフランコの叛乱に始まったスペイン内戦(市民戦争)は、当初の予想では、共和国政府はあっけなく崩壊するものと見られていました。しかし、共和国政府を支持する市民はフランコ側に抵抗。マドリードやバルセロナ等では反乱軍を撃退。こうして、スペインは共和国政府と反乱軍(1936年10月、フランコを主席として国民政府を樹立)それぞれの支配地域に二分され、1939年まで続く内戦の時代に突入します。

 内戦の勃発早々、反乱軍側は反共を国是としていたドイツ・イタリア両国に支援を要請。これを受けて、両国は反乱軍(のちに国民政府)の支援を開始し、共和国の潰滅に力を注ぐようになります。両国からは国民政府支援のために“義勇兵”として正規軍が派遣されたほか、1937年4月には両国の空軍によってバスクの古都ゲルニカへの無差別空爆も行われました。これに抗議したピカソが名画「ゲルニカ」を同年のパリ万博に出品したことは、周知のとおりです。

 これに対して、ドイツ・イタリア両国と対立関係にあったはずのイギリスとフランスは、ドイツとの全面戦争を恐れて、また、スペインでの左翼勢力の伸張を恐れて、不干渉政策を採用。共和国政府は事実上、見殺しにされます。このため、孤立した共和国政府はソ連に接近せざるをえなくなり、ソ連から武器・弾薬・食糧などの支援を受ける代償として、大量の金塊を見返りとしてソ連に供出することになりました。

 その後も、共和国政府としては、国際社会に対して、自由と民主主義を守るためにファシズム勢力と戦う自分たちへの支援を求め続け、その一環として、今日ご紹介しているような記念切手を発行し、“自由と民主主義の国”アメリカとの連帯を広く訴えようとしたわけです。

 スペインの内戦については、以前の記事でも少し取り上げたことがありますが、スペイン市民戦争の際には、共和国側・フランコ側双方が入り乱れてさまざまなローカル“切手”が作られたほか、検閲や各種スローガンの表示など、郵便の面でもいろいろと面白いモノが生み落とされています。

 今年は内戦勃発から70周年という年回りですし、7月には全国切手展<JAPEX>の審査員による1フレーム展にでもあわせて、スペイン内戦をテーマとしたミニ・コレクションを組み立ててみようかとも思っていたのですが、なかなか思うようなマテリアルが集まらず、今回は見送ることにしました。まぁ、5年後の内戦勃発75周年には、なんとか、他人様にお見せできるコレクションができればいいかな、とぼんやり考えています。

 まぁ、その代わりと言ってはなんですが、今年3月に刊行の拙著『これが戦争だ! 切手で読み解く』では、(簡単ではありますが)スペイン内戦とその時期の切手や郵便についてもまとめていますので、ご興味をお持ちの方はご覧いただけると幸いです。

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 出身はベラルーシ
2006-07-03 Mon 23:40
 今日(7月3日)は、1990年にベラルーシがソ連(当時)からの独立を宣言した日ということで、ベラルーシの独立記念日なんだそうです。というわけで、独立後のベラルーシが発行した切手の中から、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

チェルノブイリ10周年

 この切手は、1996年、ベラルーシで発行された「チェルノブイリの悲劇10周年」の記念切手です。

 1986年4月26日にベラルーシ国境に近い旧ソ連のウクライナ共和国北部で発生したチェルノブイリ原発の事故では、放出された放射性物質の約70%がベラルーシ領内に降り注いだといわれています。そして、その結果、ベラルーシの国土の23%(耕地の5分の1と森林の22%を含む)が汚染され、ベラルーシ政府は放射能汚染対策のため、1989年から現在までに計177億ドル(約2兆900億円)の支出を余儀なくされたというのが、ベラルーシ政府の公式見解です。

 このように、原発事故で甚大な被害を被ったベラルーシとしては、その悲劇を風化させないために、事故から20周年にあたる今年4月にも下の画像のような記念切手を発行しました。

チェルノブイリ20年

 おそらく、現在なおベラルーシの人々にとって、チェルノブイリ原発の事故は非常に大きなトラウマになっていることでしょう。実際、事故によってその後の人生が大きく変わった人も相当数いるはずです。そして、その中には、世界的なプロ・テニス選手であるマリア・シャラポワの一家も含まれていたことは、案外知られていないようです。

 “ロシア人”といわれることの多いシャラポワですが、両親はベラルーシ・ゴメリの出身です。ゴメリはウクライナとの国境に近いベラルーシ南東の都市で、チェルノブイリ原子力発電所に程近いソジ川の右岸に位置しています。当然のことながら、原発事故では大きな被害を被りました。

 このため、シャラポワ一家は故郷のベラルーシを捨てて、西シベリアにあるニャガンへと移住。そこで、事故からほぼ1年後の1987年4月19日にニャガンで生まれたのがマリアだったというわけです。

 その後、マリアは4歳の時からテニスを始め、6歳の頃マルチナ・ナブラチロワに才能を見い出されたのをきっかけに、7歳の頃父親とともに渡米。その才能を開花させて2001年に14歳でプロデビューし、以後の活躍は皆さんもご存じの通りです。

 最近、彼女が趣味で切手を集めていることがマスコミでも取り上げられて話題になりましたが、イギリスのスタンレー・ギボンズ社が発行しているGibbons Stampmonthly誌によると、彼女は渡米後の9歳か10歳の頃から切手に興味を持っていたのだそうで、母方のひいおばあさんのコレクションを受け継いでいるほか、現在では郵便局で切手を買ったり、水はがしを楽しんだりしているといいます。彼女のような著名人が、切手の魅力をいろいろなところで語ってくれたら、フィラテリーのプロモーションとして非常に大きな効果があることは明らかで、そうなってくれれば良いな、と素直に思います。

 ところで、スタンレー・ギボンズの報道は、切手関係の雑誌なのでシャラポワの切手収集に対して好意的なのですが、その他のメディアでの報道を見ていると、なにやら切手や切手収集に対する悪意と偏見が感じられて、僕は非常に不愉快な気分になりました。

 たとえば、6月30日付のyahooニュースを見ると、彼女が切手に興味があることを“告白”した結果、切手収集の専門誌から取材が殺到し、彼女は趣味を告白したことを公開した、という内容の記事が掲載されています。

 そもそも、シャラポワが切手を集めていることは、実は関係者の間ではかなり昔から有名な話で、何でいまさらこの話題がロイターで取り上げられたのか、非常に理解に苦しむところです。

 いわゆるマニアックなコレクターというと男(の子)の趣味というイメージのある切手ですが、綺麗なモノ・かわいいモノを集める女性はたくさんいるわけで、その文脈から、郵便局で気にいった切手を見つけて買ったり、自宅やオフィスに来た手紙の切手を切り取って小箱に入れて保存している女性というのは珍しくもなんともありません。実際、日本でもかわいいグッズの一つとして切手に興味を持つ女性が増えて来ているのは、このブログを時々遊びに来てくれている人なら、皆さん、良くご存じのことと思われます。さらに、普段は切手に興味を持っていなくても、外国に出かけていけば、絵葉書を出す分に加えて、お土産用にも現地の買ってみるという人はかなりいます。

 したがって、彼女が切手に興味を持ち、気にいったものを集めていたとしても、そのこと自体は別に不思議なことでもなんでもありませんし、それゆえ、機会があれば、切手に興味を持つと発言する可能性も十分にあるはずです。

 その発言を、わざわざ“告白”したという表現で報じたロイターの記者の意図はなんなのでしょうか。問題のロイターの原文では、告白という単語で“confess”を使っています。大修館の『ジーニアス英和大事典』によると、この語は、「(悪事などを)白状する、告白する、(秘密などを)打ち明ける、(司祭に)懺悔する」などの意味が出てきます。これを読む限り、切手に興味を持っている、または切手を集めているのは、悪事だとか他人にいえない秘密だというのが、記者の理解のようです。ということは、かの記事が最初に配信された国(そういえば、世界で最初に切手を発行した国でもありましたね)の国家元首であるエリザベス女王も、ポルトガルを代表するサッカー選手のフィーゴも、IOC元会長のサマランチも(そして、もちろん僕自身も)、件の記者の理解では、世間に顔向けのできない“恥ずかしいヤツ”ということになるんでしょう。
 
 また、シャラポワほどの有名人であれば、毎日、おびただしい数の取材・インタビューを受けていると思われるのですが、その中で、切手関係の専門誌の取材依頼というのは、はたして、何件あったのでしょうか。僕の推測では、せいぜい10件程度だろうと思います。シャラポアの広報担当とアポイントメントを取って、正規に取材できるだけの切手メディアの数というのは、世界的に見てもその位しかないでしょうから。だとすれば、“殺到”というには、あまりにも寂しい数字でげないでしょうか。少なくとも、僕は彼女の記事が掲載された切手関係の媒体は、現時点では、先のスタンレー・ギボンズ1件しか確認できませんでした。(日本郵趣出版も突撃取材を試みたというのなら、天晴れというべきですが…多分、やってないでしょうねぇ)

 さらに、yahooの日本語記事では「試合後の記者会見でも切手に関する質問攻めにあい、趣味を明かしたことを後悔している様子だった」とありますが、プロのテニス選手に対して、試合後、試合内容に関係のない質問をしたら、嫌な顔をされるのは当たり前のことです。そのことと切手収集を趣味としていることを“告白”したこと、さらには、彼女が切手を集めていることと強引に関係づけているのは、明らかな印象操作といわれても仕方ないように思います。

 それでも、日本語の翻訳はかなり言葉を選んでいるのですが、ロイターの原文は本当にひどい内容です。相互リンクをお願いしている井上和幸さんのY2net?の6月30日の日記の記事にも紹介されていますが、ロイターの記事タイトルは、Sharapova the stamp-collecting nerdというもので、文中には「切手アルバムに熱中していることは彼女のイメージを間違いなく損ねる」旨の記述まであります。

 記事のタイトルで使われているnerdという単語は、日本語の“オタク”と言うよりもはるかに侮蔑的な表現で、先ほどの大修館の辞書によると「1粗野な(気の利かない、退屈な)人;ばか、まぬけ、低能力なやつ;ガリ勉、2(社会性がなくて何かにのめりこんでいる)…狂;専門ばか」という訳語があてられています。実際、英語圏の学生たちの間では、nerdのレッテルを貼られることは“クラスメートからいじめられても仕方のないヤツ”とみなされることと同義です。こういう単語を切手収集と結びつけようとする記者に対して、僕は激しい憤りを感じます。

 たかだかあの程度の記事で大人気ない、という人もあるかもしれません。また、たしかに、切手収集家の中には僕を含めて変わり者が多いのも事実でしょう。しかし、だからといって、個々の収集家のキャラクターとは別に、150年以上の歴史と伝統を誇る趣味であり、知的生産活動としても認知されているフィラテリー(郵便学者としての僕の活動に対して、さまざまな官庁・団体が、その社会的意義を認めて助成金を支給してくれたことは一度や二度ではありません)に対して、明らかに悪意を持って誹謗・抽象しようとすることが許されていいはずはありません。そういう輩には、断固たる態度で抗議し、こちらの姿勢をきちんと示さないと、つけあがるばかりというのが、世の常です。

 いまから約20年前、ある若者向け男性誌が「切手収集は根暗なオタクの趣味」「女の子にモテナイ(嫌われる)趣味の筆頭は切手と鉄道」ということを何度か取り上げたことがあり、それが引き金になって、それから10年以上もの間、切手に対する世間の風当たりが非常に強くなったという時期があります。実際、中学校などでは、切手を集めているということがいじめやからかいの対象となったという例は枚挙に暇がありません。さらに、ある時期、ドラマの登場人物の設定として、物語の本筋とは関係のないところで、“切手を集めている”ということを、その人物のネガティブな側面を表現するための手段としているケースもありました。

 そういう時代に、非常に悔しい思いをしながら、歯を食いしばって生きてきた僕は、ああいう思いを二度としたくない、そのためには、切手の面白さを一般の人にもきちんと伝えなければならない、という思いを胸に刻んで現在の仕事をしています。その結果、1996年に最初の単行本を出版してから10年かけて、少しずつではありますが、僕の仕事を通じて切手の面白さを認めてくれる人たちも増えてきたようで、最近では、大手の出版社から新書を刊行し、それが大手書店の店頭に当たり前のように並ぶところまでやってきました。

 それだからこそ、今回のロイターの記事を、僕は絶対に許すことはできません。フィラテリーを愛する人たちが胸を張って「自分は切手に興味・関心を持っている!」と公言することがはばかられるような雰囲気を作り出そうとする人がいるなら、その芽は早目に摘んでおく必要があります。そのために、いまの自分には何ができるのか、ちょっと落ち着いて考えてみるつもりです。

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 橋本・小渕の原点
2006-07-02 Sun 23:59
 昨日亡くなった橋本龍太郎元首相は、首相就任早々、米軍普天間飛行場の返還をクリントン米大統領(当時)と電撃的に合意した(政府と沖縄県の間で基本合意が成立したのは、10年後の今年5月でしたが)ことに加え、首相退陣後も森内閣で沖縄担当相に就任、さらに、小泉政権下でも自民党沖縄振興委員長に就任するなど、沖縄問題に強いこだわりをもっていました。

 沖縄問題に対する橋本のこだわりは、彼が政界入りして間もない時期に師匠として仕えた佐藤栄作の影響が大きいといわれています。そこで、政治家・橋本龍太郎の原点の一つということで、こんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

佐藤訪沖特印

 これは、1965年8月19日、佐藤が日本の首相として戦後はじめて沖縄を訪問した際に沖縄で使われた特印(記念スタンプ)です。もともとは、未使用の葉書に特印を押したものですが、画像では特印の部分のみをトリミングしています。

 この日、那覇空港に降り立った佐藤は「沖縄祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後が終わっていないことをよく承知しております」と声明。これに対して、地元では佐藤の訪沖に反対する2万人の沖縄民衆大会が開かれたほか、彼の宿舎になっていた東急ホテルはデモ隊に包囲されるという手荒な“歓迎”が待ち受けていました。しかし、帰国後の佐藤は、沖縄本土復帰に向けて沖縄問題閣僚協議会を発足させ、義務教育費の半額国庫負担などの政策を打ち出してゆき、施政権返還方式の検討に着手し、1972年の沖縄返還を実現することになります。

 そういえば、橋本と同じく1963年の初当選組で、やはり佐藤派→田中派→竹下派で政治家としてのキャリアを重ね、後に総理となった小渕恵三も、1965年の佐藤の訪沖とそのときの佐藤声明に強い感銘を受け、沖縄問題に強い関心を持つようになった(そのことが、九州・沖縄サミットの開催につながったといわれている)と生前、語っていました。

 まぁ、ワンフレーズ・ポリティクを身上としている総理がもてはやされるような世の中では、なかなか、若手政治家を感化し、彼らの生涯の指針となるような演説というのは出てきにくいでしょうから、佐藤と橋本・小渕のような物語も次第に生まれにくくなるんでしょうねぇ。

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