内藤陽介 Yosuke NAITO
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 トルコのマリア
2006-11-30 Thu 00:58
 ローマ法王ベネディクト16世がトルコを訪問中だそうです。というわけで、トルコとキリスト教の組み合わせということで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

エフェソスのマリア

 これは、1967年に当時のローマ法王パウロ6世がトルコ西部のエフェソスの“聖母マリアの家”を訪問した際に発行された記念切手の1枚で、家の内部の写真が取り上げられています。画像ではちょっと見にくいかもしれませんが、中央にはマリア像も立っています。

 古代ローマ帝国の港湾都市として栄えたエフェソスには、比較的早い時期にキリスト教が入り、新約聖書にはエフェソスの教会にあてた書簡も収録されています。使徒ヨハネが、パトモス島の流刑から開放された後、エフェソスの教会の主教(司教)を勤める傍ら、ヨハネによる福音書を書いたとの伝承(ただし、現在の研究では、この伝承の史実ではないと考えられています)や、聖母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソスで余生を送ったとの伝承もあります。

 で、マリアが住んでいたとされる家の場所は、長らく不明だったのですが、19世紀になって、天啓を受けたとされるドイツの修道女、カトリーヌ・エメリッヒが、一度も訪れたことがないにもかかわらず家の場所やその遺構を記録に残し、この記録をもとにイズミールの司教が現在の場所に建てた小さな教会が現在の“聖母マリアの家”です。

 現在、“聖母マリアの家”はキリスト教の聖地になっていますから、今回のローマ法王のトルコ訪問でも、法王がこの地を訪れることはスケジュールの中に入っているかもしれません。

 今回の法王のトルコ訪問は、今年9月、法王が14世紀のビザンチン帝国皇帝の発言を引用して「預言者ムハンマドが新たにもたらしたものは何か。剣で信仰を広めるなど邪悪と冷酷だけだ」と発言し、イスラム世界の強い反発を買ったことを踏まえて、イスラム諸国との宥和のきっかけを作りたい法王側と、法王からEU加盟への支持を取り付けてEU内に根強いトルコの加盟反対論に対抗しようとするトルコ側の思惑が一致して実現したものといわれています。もっとも、トルコ国内には、彼の9月の発言をとらえて、法王の訪問を歓迎しないという空気も根強いようで、今後、この問題がどう動いていくことになるのか、目の離せない状況がしばらく続きそうです。

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 いまさら来ても…
2006-11-29 Wed 01:22
 僕は原稿を書くための資料を入手するために海外のオークションをしばしば使うのですが、落札後もなかなか落札したマテリアルが来ないでヤキモキするということが時々あります。で、結局、落札品の到着が間に合わず、版元に原稿を提出してしまって、その後にブツが届くということになると、結構、気分的にガックリしてしまうのですが、今日ご紹介のマテリアルもその一例です。(画像はクリックで拡大されます)

中国支援ラベルのカバー

 これは、1942年4月、インドのカルカッタ(コルコタ)から差し出されたカバーですが、中国の抗日戦争を支援するラベルが貼られているのがミソです。

 1937年、日中全面戦争が勃発すると、八路軍総司令の朱徳はインドの独立運動家ジャワールハル・ネルーに対して、中国へのインド人医師の派遣を要請します。これを受けて、1938年9月、赤十字国際委員会によって、コトニスを団長とする中国支援医療団がインドから中国に派遣されます。
 
 当時の中国共産党には、イギリスと敵対するリスクを冒しても、独立を求めて戦っているインドの独立運動家たちからの支援をあえて求めることによって、国は違えど“自由を求める民族の戦い”を戦う同志が連帯していることを内外にアピールしたいという思惑がありました。そして、ネルーらインドの独立運動家たちも、それに応えたというわけです。

 一方、インドの支配者であったイギリスにとっても、第2次大戦中の日本は敵国でしたから、英領インドと中国は日本という共通の敵と戦うという構図が成立します。この結果、英領インド政府は中国の抗日戦争を支援する姿勢を鮮明に打ち出すことになり、イギリス当局と対立していたインドの独立運動家たちも、スバース・チャンドラ・ボースのような一部の例外を除き、この点に関しては一致協力する(できる)という構図ができあがりました。

 今回のカバーに貼られているラベルもそうした状況の下で作られたもので、国民政府の晴天白日旗と中国兵を描き、「インドは中国に敬意を表する」というスローガンが入っており、当時のインド国内の世論の一端をうかがいしることができます。

 実は、このカバーは、今年7月半ばに刊行の某月刊誌8月号の記事に使うつもりでインドのオークションで落札したものなのですが、現物が届いたのは今週に入ってからのことで、当然、雑誌の掲載には間に合いませんでした。とはいえ、肝心のラベルは非郵趣マテリアルゆえに競争出品の展示に使えば減点の対象になってしまいます。というわけで、いまさら使い道のないマテリアルなのですが、だからといって、このまま放置してしまうのもなんとなく悔しいので、今日の記事の図版として取り上げてみたという次第です。あしからずご了承ください。

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 三の酉
2006-11-28 Tue 00:53
 今日は三の酉。ということは今年は火事が多いんでしょうかね。皆様もお気をつけください。

 さて、酉の市ということなので、今日はやっぱり鳥切手にしましょう。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

若冲

 これは、1973年の『国際文通週間』の切手で、伊藤若冲の「群鶏図」の一部分が取り上げられています。普通の単片切手を持ってきてもよかったのですが、たまたま、手元に“みほん”字入りのモノがあったので、今日はそちらをアップしてみました。

 切手に取り上げられた「群鶏図」(「仙人掌群鶏図」ともいう)は、1790年、若冲が数えで75歳のときの作品です。

 「群鶏図」は、大阪の薬種商・吉野五運の求めに応じ、吉野が檀那寺の西福寺に寄付した金襖六枚に描かれたもので、触手のように伸びたサボテン(薬種商であった吉野が輸入していたもの)の下に、外国種の鶏の雌雄と雛の群れが左右各面に配されています。切手に取り上げられているのは、その左三面のうちの中図です。ただし、もとの襖絵にあった鶏の頭上のサボテンの枝と襖の引手はトリミングでカットされ、切手の画面上は金色の背景に鶏が一羽描かれている構図となりました。

 ちなみに、この部分は、1972年11月にパラグアイで発行された動物画の名画シリーズの1枚にも取り上げられています。また、今回の切手に取り上げられたのとは別の部分も、1970年に、いわゆるアラブ土侯国の一つであったラサールカイマが発行した「日本万国博覧会(大阪万博)」の記念切手の1枚にも取り上げられました。

 なお、「群鶏図」の襖絵は、現在でも西福寺が所有しており、国の重要文化財として、1年に1度、11月3日(今年は一の酉の前の日でした)の1日だけ公開されています。

 今年は一の酉が11月4日で<JAPEX>の真っ只中。二の酉にあたる16日はボジョレーの日で、ついつい、新酒を飲みに行ってしまいましたので、今日の三の酉を逃すと、新しい熊手をいただくチャンスがなくなってしまいます。年明けの2月か3月には、今日の画像の切手についての記事を載せた<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻が刊行されるということでもありますし、しっかりとお参りしてこないといけませんね。

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 蒙古軍政府と郵便
2006-11-27 Mon 00:49
 お相撲はやっぱりという感じで朝青龍の全勝優勝で終わりましたね。というわけで、今日はお約束のモンゴルのネタでいきましょう。こんなものをご覧ください。(画像はクリックで拡大されます)

南壕塹のカバー

 モンゴル族の居住地域は、ながらく、帝政ロシアと清朝に分割されて支配されてきました。このうち、清朝支配下の地域は、ゴビ砂漠をはさんで、それぞれ、南側が“内蒙古”(“蒙疆”とよばれることもある)、北側が“外蒙古”と呼ばれています。

 1911年11月、“滅満興漢”をスローガンとする辛亥革命が起こり、清朝が亡んで中華民国が発足します。新政府は、建前として“五民族(漢族、チベット族、満洲族、モンゴル族、ウイグル族)の平等”を掲げていましたが、孫文であれ袁世凱であれ、政治の中枢は漢族の出身者がほぼ独占しており、清朝の時代のように、モンゴル族が満洲族との同盟関係を理由として優越的な地位を占めることはもはやありえません。このため、新政府に対して忠誠を誓ういわれがなくなったモンゴル族はロシアの援助を受けて独立を宣言します。

 しかし、“清朝の継承者”を名乗る中華民国政府は、1912年2月23日、内務部に蒙蔵事務処(同年7月、蒙蔵事務局に改組)を設置し、おなじく清朝の滅亡と同時に“中国”からの離脱を宣言したチベットとともに、モンゴルはあくまでも自国の領土であるとする姿勢を強調。革命後の混乱の中で、1913年にはモンゴルの自治を認めたものの、その宗主権だけは絶対に手放そうとはしませんでした。

 その後、1921年になって、外蒙古の地域はモンゴル国として独立を達成した(ただし、すぐにソ連によって衛星国化される)ものの、内蒙古の地域は中国に留め置かれ、モンゴルは民族分断の憂き目に遭ってしまいます。

 こうした状況の中で、内蒙古の察哈爾(チャハル)部の王族の一人であった徳王は、内蒙古・外蒙古・ソ連領ブリヤート(北蒙)を統一し、大モンゴルを再興する「汎蒙古主義」を掲げ、1934年、百霊廟蒙政会を組織し、中国政府に対して自治権を要求します。しかし、国民政府はさまざまな口実を設けて、これを阻害。このため、徳王らは、中国に対抗するために、満洲国の事実上の支配者であった関東軍に注目し、日本の影響力を背景に中華民国からの独立を企図するようになります。もちろん、華北への支配を拡大したかった関東軍にとって、内蒙古の実力者である徳王が、中国からの独立を唱えてみずから接触してきてくれたのは、非常に好都合でした。

 かくして、1936年2月、関東軍の支援の下、徳王を首席とする蒙古軍政府が西ソニット王府に成立しました。

 中国からの分離独立を掲げる蒙古軍政府にとって、自らの支配地域でも従来どおり中華郵政の切手がそのまま使われているというのは決して望ましい状況ではありません。とはいえ、当時の蒙古軍政府には独自の切手を発行して郵便サービスを提供するだけの実力もありませんでした。このため、蒙古軍政府は、郵便事業を満洲国に委託することで事態を乗り切ろうとします。

 とはいえ、蒙古軍政府としても、公衆手持ちの中国切手をいきなり使用禁止にするのは現実的ではありませんから、しばらくの間は、移行期間中の経過措置として、中国切手・満洲国切手のどちらも郵便に使うことが認められていました。

 今回ご紹介しているカバー(封筒)は、1938年3月15日、内蒙古の中心都市である張家口(カルガンとも呼ばれる)北方の南壕塹からベルギー宛に差し出されたカバーもので、上記の経過措置に従って、中国切手と満洲切手がともに有効なものとして混貼されています。

 さて、今年9月に刊行した拙著『満洲切手』では、そうしたモンゴル族と満洲国との微妙な関係についても、切手や郵便物を通じて、いろいろと眺めてみました。是非、ご一読いただけると幸いです。
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 『郵趣』今月の表紙:英領ギアナの4C
2006-11-26 Sun 00:59
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』12月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

赤道ギニアの4セント

 これは、世界一の珍品として名高い“英領ギアナの1セント”の兄弟分、4セント切手です。

 南米大陸北部の大西洋に面したギアナ地方は、オランダ、フランス、イギリスの三国によって分割されていましたが、このうちの英領ギアナでは1850年に、最初の切手として現地製の素朴な切手(糸巻きのシールに似ていることから“コットン・リール”と呼ばれている)が発行されました。

 その後、英領ギアナでは、1852年から帆船(ちなみに、英領ギアナの印章は帆船)を描く本国製の切手が使われるようになりましたが、1856年、本国からの切手の到着が遅れたため、暫定的に現地で印刷された臨時切手が発行されます。これが、世界一の珍品として名高い“英領ギアナの1セント”であり、同図案の4セント切手です。

 切手は赤色の着色紙に印刷されており、中央には公報のカットに用いられていた帆船が描かれています。その上下には「Damus Petimus Que Vicissm(われわれは与え、その代わりに求める)」の銘が入っており、偽造防止のための局員のサイン(この切手の場合は、CAWの文字が見える)が入れられています。

 さて、今月号の『郵趣』ですが、僕の個人的な好みとしては、中国の文革時代の切手のフルシートについての記事が一押しです。文革切手は単片でもなかなか入手に苦労するものが多いのですが、真面目にコレクションを作るつもりなら、やはり、シート構成や耳紙の情報も見逃すことはできません。今回の記事は、1月のJPSオークションの出品物紹介という性質上、ごくごく一部の抜粋でしかありませんが(実物はオークションの下見会場で見ることができます)、資料的に興味深い情報がいくつか読み取れるので、文革切手にご興味をお持ちの方は、ぜひとも、ご覧いただくことをお勧めいたします。

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 ギーラーン・ソヴィエト共和国
2006-11-25 Sat 01:50
 24日、ロシア国防省の高官が明らかにしたところによると、ロシアがイランに短距離地対空ミサイル・システム「TOR・M1」(通称ガントレット)の供給を開始し、すでに最初の1基はテヘランに到着したのだそうです。

 南下政策の伝統を持つロシアは、南の隣国であるイランへの影響力を強めるため、歴史的にさまざまな工作を行ってきたわけですが、その一つのエピソードとして、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ギーラーン共和国

 これは、ロシア革命直後の1920~21年に存在していたギーラーン・ソヴィエト共和国の切手です。

 当時、ロシアのボリシェビキ政権(この時点では、まだ“ソ連”は成立していません)は、カスピ海のイラン側沿岸のギーラーン地方を占領。イギリスの強い影響下に置かれていたカージャール朝(当時のイランを支配していた王朝)に反旗を翻したミールザ・クーチェク・ハーンを擁立して、ギーラーン・ソヴィエト共和国を樹立します。

 同政権は、みずからがイラン中央政府から独立した存在であることを内外にアピールするため、イラン切手とは異なる独自の切手を発行しました。今回ご紹介しているのが、そうしたギーラーン・ソヴィエト共和国の切手で、赤旗を掲げる労働者が描かれています。

 結局、レーニンが「ソヴィエトがペルシアの一部で革命をおこせば、英国が祖国の解放者を支援する立場に立ち、ペルシアを英国の手中に追いやることになる」と判断。ギーラーン・ソヴィエト共和国は見捨てられ、短期間のうちに消滅することになりました。しかし、その後も、イランをめぐっては、ながらく、イギリスとソ連がしのぎを削る状況が続きます。

 1950年代、石油国有化問題をめぐってイギリスがイランから退場を余儀なくされると、代わりにアメリカがイランを影響下に収め、親米政権を擁立することに成功します。しかし、1979年のイスラム革命の結果、イランは“西でも東でもないイスラム共和国”となり、イランとアメリカの関係は極端に悪化しました。

 イラン・イラク戦争の終結後、イランはアメリカへの対抗上、中国との関係を緊密化していますが、ソ連崩壊によって無神論を放棄したロシアもまた、アメリカに対抗しうる大国として重視すべき存在です。一方、ロシアにとっても、イランとの関係を強化することで、資源や交通路が確保できれば、そのメリットはきわめて大きなものとなります。

 今回の武器輸出はそうした文脈によるものですが、対イラン国連制裁決議案の審議が難航する中で、イランへの武器禁輸を求める米国との確執がさらに強まることが予想されるだけに、今後の展開が注目されるところです。
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 英雄/テロリスト図鑑:サダム・フセイン
2006-11-24 Fri 00:52
 雑誌『SAPIO』12月13日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、先ごろ死刑判決を受けたばかりの元イラク大統領、サダム・フセインを取り上げました。で、以前のこのブログでも何度かご紹介しているようにフセインの切手はいろいろあるのですが(たとえば、こんなのとかこんなのとかこんなのをご覧ください)、今回の連載で使ったのはこんな1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

フセインとサラディン

 これは、1998年にイラクが発行した小型シートで、エルサレムの“岩のドーム”(イスラムにとっての聖地・エルサレムのシンボル)を背景に、十字軍からエルサレムを解放した英雄・サラディン(サラーフッディーン)とフセインが並べて取り上げられています。いわゆるリンケージ論を掲げて、“パレスチナのために戦うアラブの英雄”として、フセインを印象付けようというプロパガンダの一環として発行されたものであることは一目瞭然です。なお、サラディンはクルド人ですから、この切手には、イラク国内のクルド人への“配慮”も込められているとみるのが妥当でしょう。

 先日、死刑判決を受けたばかりのフセインですが、彼が死刑判決を受けるのはこれが最初ではありません。じつは、彼はバアス党の若き活動家だった1959年、前年(1958年)の共和革命で政権を掌握したアブドゥルカリーム・カースィムの暗殺未遂事件を起こしてお尋ね者となり、シリアを経てエジプトに亡命。欠席裁判で死刑判決を受けたという過去があります。

 その後、1963年にバアス党がカースィム政権を打倒して軍事政権を樹立すると、フセインはテロリストから一転して革命の闘士として祖国に迎えられ、党の要職に就任。ところが、翌1964年のクーデターでバアス党が政権を追われると、フセインも逮捕・投獄されてしまいます。

 その後、イクタの権力闘争を経て、1979年にイラクの大統領に就任したフセインは、1980年、イスラム革命で混乱の最中にあった隣国イランとの国境問題の解決を目指してイラン領内に侵攻し、8年間に及ぶイラン・イラク戦争を起こします。ちなみに、今回の死刑判決の対象となったシーア派系住民の大量殺害事件や、1988年にクルド人居住区で18万人を虐殺したとされる“アンファル事件”(現在、裁判の一審が継続中)は、いずれも、イランとの戦争中に敵国イランへの“内通者”になりかねないとみなされた人々が被害者となっています。戦時下という特殊事情を考えると、フセインにも情状酌量の余地がないわけではないのですが、まぁ、その辺の事情を割り引いてもひどい話であることには違いありません。

 その後、8年間のイラン・イラク戦争でイラク経済の建て直しを目指して、フセインのイラクは、1990年8月、クウェートに侵攻し、その併合を宣言します。しかし、これがアメリカの逆鱗に触れ、1991年の湾岸戦争ではイラクは壊滅的な打撃を受けて敗北しました。

 もっとも、軍事的な勝敗とは別に、このときフセインが持ち出したリンケージ論は結果的に少なからぬアラブの大衆の支持を獲得。その後、アメリカによるイラク戦争への反感(結局、アメリカが開戦の口実としたイラクの大量破壊兵器は出てきませんでした)ともあいまって、アラブ世界では、フセインにアラブ世界の“英雄”ないしは“殉教者”としてのイメージを重ねる人もかなりな数に上っています。

 今回の『SAPIO』の記事では、そうしたフセインの波乱万丈の生涯を振り返っています。ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 勤労奉公
2006-11-23 Thu 00:51
 今日は勤労感謝の日。というわけで、“勤労”がらみのモノの中から、こんな1枚を引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

勤労奉公法

 これは、1943年5月1日に満洲国で発行された「国民勤労奉公法」の記念切手です。

 1941年12月に始まった“大東亜戦争”は、開戦当初こそ日本軍が先制攻撃の利を活かして破竹の勢いで東南アジア各地を席捲したものの、早くも半年後の1942年6月にはミッドウェイの海戦で手痛い敗北を喫し、連合軍の反撃の前に次第に追い詰められていくことになります。

 満洲国は、正式には“大東亜戦争”に参戦しなかったものの、実際には日本の戦争に動員されており、1942年11月には「国民勤労奉公法」が公布されます。

 国民勤労奉公法は、ナチス・ドイツの全国民勤労奉公制度をモデルとして、兵役に服さない21~23歳の男子に対して、3年間に計12ヵ月間、勤労奉公隊員として国家に対する勤労奉仕を義務づけるというもので、形式的には満洲在住の全民族が対象となっていましたが、実際には、日本人以外の青年を対象としたものでした。

 同法は1943年1月1日をもって施行され、同年4月から実際に国民の動員が始まります。これにあわせて、同年5月1日、制度の周知宣伝をはかるため、“勤労奉公法実施記念”の名目で発行されたのが、今日ご紹介の切手というわけです。

 切手は前年に発行された“シンガポール陥落”ならびに“大東亜戦争一周年”の記念切手同様、当時の通常切手をベースに、“勤労奉公”の文字と奉公隊員の識別章を刷り込むスタイルがとられました。

 勤労奉公制度は、徴兵を定めた国兵法と並んで、満洲国内の漢人や満洲人、モンゴル人などに国家への忠誠心を植え付け、日本の戦争に動員することを目指したものと説明されていますが、その背景には、そうした建前だけでなく、満洲国内で労働力の不足が深刻な問題となっていたという事情も見逃せません。

 もともと、満洲の地は人口が希薄で、この地の開発は主として華北からの漢人移民がその主力を担っていました。満洲国の建国当初、関東軍は“敵性国民”としての漢人の移入を警戒して移民の流入を制限したものの、労働力の不足はいかんともしがたく、1937年に「産業開発5ヵ年計画」が実行に移されると、満洲国政府は計画推進のために積極的に日中戦争下の華北からの漢人労働者を積極的に受け入れるよう方針を転換せざるを得なくなります。

 こうして、満洲国内には華北からの移民が急増するのですが、それに伴い、移民から華北への送金も増加したため、満洲国の華北に対する収支はかえって悪化。そこで、満洲国政府は華北への送金を制限しようとしますが、そうなると、漢人労働者たちにとって満洲国内で働く意味はなくなり、満洲を離れる労働者が急増。結局、1941年になると、満洲国政府は漢人労働者による華北への送金を実質的に無制限として、漢人労働者を引き止めようとしました。

 ところが、1941年になると、華北の日本軍占領地域では戦時インフレが急速に進行し、華北の物価は満洲国よりも割高になります。この結果、出稼ぎに行くメリットをなくした漢人労働者の満洲国への流入には急ブレーキがかかってしまうのです。

 さらに、日本が米英と戦争を始めたことで、従来以上に日本への協力を迫られた満洲国は、1942年になると、いやおうなしに国内の労働力を徹底的に動員せざるをえない状況に追い込まれてしまいました。

 しかし、もともと、満洲国内では日本人・朝鮮人以外の人々の生活は概して苦しく、勤労奉仕に応じる余裕などなかったというのが実情でした。このため、法令に違反して勤労奉仕をサボタージュし、または逃亡する者が続出。労働者の人数を確保できなくなった体制側は、動員した労働者の健康や福利を犠牲にしていたずらに管理を強化し、そのことが更なる逃亡者を生み出すという悪循環に陥っていくことになるのです。

 今年9月に刊行の拙著『満洲切手』では、そうした“大東亜戦争”の時代の満洲国の人々の生活についても、切手や郵便物を通じて、さまざまな角度から考えてみました。是非、ご一読いただけると幸いです。

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 ドバイ拾遺
2006-11-22 Wed 01:02
 昨日(20日)の記事では、ドバイで使われた切手が、英領インド切手パキスタン切手→イギリス東アラビア郵政庁の加刷切手→休戦協定諸国切手(正刷)ドバイ切手→UAE(アラブ首長国連邦)切手という変遷をたどってきたとご説明しましたが、記事を書いている過程で、現在のUAE切手はともかく、イギリス東アラブ郵政庁時代の切手についてだけ、このブログではこれまでご紹介してこなかったことに気がつきました。

 こうなると、収集家の悲しい性としては、やはり、一つだけ欠けてしまってコンプリートにならないというのは気分が悪いので、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ドバイ・加刷切手カバー

 これは、1950年4月11日、ドバイからボンベイ宛に差し出されたカバー(封筒)で、イギリス切手に現地通貨の額面を加刷した切手(6アンナ)が貼られています。

 1947年に英領インドがインドとパキスタンに分離・独立するまで、イギリスの保護下に置かれていたドバイでは、英領インド切手がそのまま使われていました。その後、インド・パキスタンの分離・独立に伴い、暫定的にドバイの郵便業務はパキスタン郵政の管轄下におかれますが、1948年4月には、周辺のマスカット(オマーン)やバハレーン、カタール等とともに、イギリスの東アラビア郵政庁の管轄下に置かれました。

 これに伴い、東アラビア郵政庁の管轄下では、イギリス本国の切手に現地通貨(インド・ルピーと連動したガルフ・ルピー)を加刷した切手が使用されることになりました。今回のカバーに貼られているのも、そうした加刷切手です。

 加刷切手の使用期間は、地域によってばらつきがあるのですが、ドバイの場合は1948年4月1日から1961年1月6日までで、それ以降は、休戦協定諸国の正刷切手が使用されています。なお、東アラビア郵政庁の加刷切手は、同じものが各地で使われていますから、ドバイでの使用例であることを確認するためには、押されている消印の地名がきちんと読めることが大切です。

 いずれにせよ、歴史的には使われている切手のバリエーションが豊富なわけですから、ドバイを中心に湾岸地域の郵便史を真面目に取り組んでみたら面白いコレクションができるのは間違いありません。実際、僕もちょっとは手を染めてみているのですが、なにぶんにも、残されているブツが少ないため、展覧会に出品できるレベルの作品を作るのは、結構きついのが実情です。

 聞くところによると、ドバイでは2009年にも国際展があるのだとか。今回のドバイ展には参加できませんでしたが、次回は、湾岸地域の純然たる郵便史コレクションは無理でも、たとえば、「アラビア半島現代史」というタイトルで、この地域の郵便史を踏まえたテーマティク・コレクションを出品したいものだと、なんとなく考えている今日この頃です。

 なお、ドバイを含む“アラブ土侯国”についての郵便史的な事情についてご興味をお持ちの方は、拙著『中東の誕生』をご一読いただけると幸いです。

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 ドバイでの健闘を称えて
2006-11-21 Tue 01:09
 相互リンクをお願いしているc_breakerさんのブログ、cbreakerの切手収集ダイアリーによると、今月13日~16日にドバイで開催されていたアジア国際切手展で、井上和幸さんの朝鮮郵便史のコレクションが金賞+最高賞を受賞されたほか、日本人出品者の方々が好成績を収められたとか。皆様、おめでとうございました。こういう景気の良いニュースはいつ聞いても嬉しいものです。

 というわけで、今日は、出品された皆さんに敬意を表し、切手展の会場となったドバイに絡めて、こんなマテリアルを持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

ドバイ初期のカバー

 これは、1913年9月17日、ドバイからボンベイ宛に差し出されたカバー(封筒)です。当時のこの地域のカバーの通例として、切手は封蝋代わりに使われているため、何も書かれていない裏面に切手が一枚だけ貼られる結果となり、カバーの余白が目立ってしまうのが、ちょっと格好悪くて残念です。ちなみに、切手と消印の部分を拡大すると、こんな感じになります。(画像の向きは、消印が読みやすいように回転させています)

消印部分の拡大画像

 ホルムズ海峡から内側のペルシァ湾岸地域は、古来、海賊の出没する地域として知られていました。18世紀以降、イギリスのインド進出が本格化し、東インド会社がこの地域の貿易を独占するようになると、イギリスはインドへのシーレーン確保のため、マスカットの首長と結んで本格的な海賊討伐に乗り出します。その結果、1820年、イギリスとこの地域の首長たちの間に休戦条約が結ばれ、イギリスは、彼らを独立国として承認する代わりに(休戦協定=truceに基づいて独立を認められた国々であるため、休戦協定諸国=Trucial Statesと呼ばれる)、マスカットが所有していたザンジバル諸島などを支配下に置いたほか、この地域に監視所と燃料補給施設を設置。さらに、1891~92年にかけて、イギリスは各首長国と排他的協定を結んで保護下に入れ、ペルシァ湾岸におけるプレゼンスを確立しました。

 そうした首長国の一つであったドバイでは、マクトゥム家の支配の下、住民の定住化がはかられ、交易と真珠産業の拠点として発展。さらに、もともと天然の良港であったことに加え、1902年に対岸のペルシァ政府が高関税政策を採用すると、高関税を嫌ったペルシァ系やインド系の商人たちがこの地に集まるようになり、ドバイは湾岸地域の貨物の集散地として急速に発展し、ドバイの人口は一挙に数千人規模に膨らみます。

 こうしたことから、1909年8月、英領インド郵政の管轄の下、休戦協定諸国における最初の郵便局がドバイに設置されます。今回のカバーは、そうしたドバイ局の1913年のカバーで、消印の表示は“DUBAI PERSIAN GULF”となっています。貼られている切手は、無加刷の英領インド切手です。本音をいうと、もっと初期の1909年か1910年のカバーが欲しいところなのですが、そのクラスになるとオークションにも滅多に出てきませんので、とりあえず、僕の懐具合では、まぁ1913年のモノでも我慢するしかないでしょう。

 ドバイでは1947年にインド・パキスタンが分離独立するまでは英領インド切手が使われていましたが、その後、この地域で使用される切手は、パキスタン切手→イギリス東アラビア郵政庁の加刷切手→休戦協定諸国切手(正刷)ドバイ切手→UAE(アラブ首長国連邦)切手と、めまぐるしい変遷をたどっており、郵便史的にもいろいろと面白いネタがあって、真面目に取り組むと結構楽しめます。

 なお、ドバイを含む“アラブ土侯国”についての郵便史的な事情については、かつて拙著『中東の誕生』でも1章を設けて概観してみたことがあるので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 外国切手の中の中国:ポルトガル
2006-11-20 Mon 00:49
 NHKラジオ中国語講座のテキスト12月号が刊行となりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」では、今回はポルトガルを取り上げています。その中から、こんな1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ルイス・フロイス400年

 これは、1997年に発行されたポルトガル人宣教師のルイス・フロイス没後400年の記念切手の1枚で、マカオのセントポール天主堂(跡)を背景にしたフロイスの像が描かれています。

 マカオのシンボルともいうべきセントポール天主堂は、17世紀初頭にイタリア人によって設計されたといわれています。建設には、江戸幕府の弾圧を逃れて長崎から渡ってきた日本人も加わりました。完成当時は東洋最大の教会でしたが、1835年の火災で建物正面のファサードを残して焼失。その特異な姿ゆえに、マカオを代表する建設物として多くの観光客が連日訪れています。

 一方、フロイスは天主堂が完成する以前の1597年に亡くなっていますから、切手のような構図は現実にはありえません。また、彼の主な活動の場は戦国時代の日本であって、彼の著書『日本史』も高く評価されていますが、マカオには3年弱しか滞在していません。

 それにもかかわらず、フロイスとマカオを結びつけるデザインの切手が発行されたのは、マカオのポルトガル人がヨーロッパ文明の伝道師として東アジアに与えた影響を誇示する意図が込められているためと見るのが妥当でしょう。

 今回ご紹介の1枚をはじめ、1999年のマカオ返還を前にしたポルトガルは、16世紀以来のポルトガルによるマカオ支配の意義を強調するような切手をさかんに発行しています。今回の「外国切手の中の中国」では、それらをご紹介しつつ、20世紀後半のポルトガルと中国の関係についてもまとめてみました。是非、ご一読いただけると幸いです。
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 東海道電化50年
2006-11-19 Sun 07:21
 今日(11月19日)は“鉄道電化の日”だそうです。なんでも、1956年に東海道本線の東京=神戸間の電化が完成したことを記念して、1964年に鉄道電化協会が制定した日だとか。それなら、というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

東海道電化

 これは、いまからちょうど50年前の1956年11月19日に“東海道電化完成”を記念して発行された記念切手です。切手の名称に“東海道本線”の表現がなく、“東海道電化完成記念”となっているのは、国鉄(現JR)側の要望によるものです。というのも、国鉄の正式な用語で“東海道線”という場合には、いわゆる東海道本線の他に16の線が含まれるほか、“東海道本線”という用語にしても、東京=神戸間の他に各種の支線が含まれており、1956年の時点では、それらの電化がすべて完了しているわけではなかったため、“東海道線電化”や“東海道本線電化”といった表現を使うのは正確ではなかったからです。

 さて、大規模工事完成の記念切手の常として、工事の完成日がなかなか確定できなかったため、この切手の発行計画も、工事の進行状況を見きわめた上で臨機応変に考えるものとされていました。結局、11月19日に電化完了ということが決定したのが1956年7月のことで、これを受けて切手の制作作業が開始されます。

 郵政省では、種々調査の上、東海道沿線の風景とEF584を組み合わせた切手を一種発行することに決定。8月初旬、デザイナーの渡辺三郎が品川の東京機関区でEF584の資料用写真の撮影とスケッチを行いました。写真の撮影とスケッチは、運行に支障が出ないよう、運転時刻前の早朝、車体の清掃作業中に行われましたが、作業中は、郵政省側の希望に応じて、走行中と同様、特急「つばめ」の標識をつけ、パンタグラフを上げた状態でさまざまな角度から写真撮影とスケッチが行われています。

 8月下旬に入り、機関車の撮影に続き、東海道沿線の風景についての調査も開始されます。候補地には、由比・蒲原間の富士山の見える海岸風景、大津付近の琵琶湖風景などが挙げられ、EF584に広重の浮世絵「東海道五十三次の中、由比」を配した原画が決定されます。

 デザイナーの渡辺三郎によると、当初、背景には現代の東海道沿線風景を描く予定でしたが、現地調査の結果、リアルな風景は切手になじまないと判断。浮世絵を利用することになりました。

 なお、切手ではEF584の車両はグリーンの濃淡で塗り分けたものとして描かれていましたが、この色の車両は、当時、国鉄には1台しかなく、全線電化の初日にこの車両が「つばめ」の標識をつけて走るか否かは九月の段階では未定でした。このため、切手の製造日数の関係から、郵政省は国鉄側の了解を得た上で、見切り発車としてこの配色で記念切手を制作しています。ちなみに、実際の全線電化の第一号車両は全体が淡緑のもの(ただし、切手のモデルとなった車両のツートーンの淡い方よりは明度が低くてやや濃いため、郵政関係者の証言では、この色は“濃いグリーン”と呼ばれている)で、切手とは異なった配色のものでした。

 なお、この切手の詳細については、拙著『ビードロ・写楽の時代』でも詳しくまとめていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。(同書は現在版元品切れ中です。早く再版してくれないかなぁ)
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 12万アクセス
2006-11-18 Sat 00:51
 昨日(17日)の午後10時頃、アクセスカウンターの数字が12万を越えました。何事にも3日坊主の僕が、曲がりなりにも1年半、毎日欠かさず日記を続けてこられたのも、ひとえに、毎日遊びに来てくださる皆様のおかげです。この場を借りて、あらためて日頃のご厚情にお礼申し上げます。

 さて、今日は12万アクセスにちなんで、こんな“12”がらみのモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ヒトラーの骸骨

 これは、1943年、アメリカの戦略情報局(OSS、現在のCIAの前身)がつくった謀略宣伝のためのパロディ切手で、ヒトラーの肖像が骸骨になっています。一応、額面は12ペニヒとなっていますが、ドイツ郵政が正式に作ったモノではありませんから、もちろん郵便に使うことはできません。ちなみに、この切手の元になった本物の画像を下に貼り付けておきましょう。

ヒトラー本物

 第2次大戦が始まると、アメリカの戦略情報局は、ドイツ国内を撹乱する目的で、当時ドイツ国内で流通していたヒトラー切手のニセモノを大量に作り、ドイツ国内に散布しました。

 その際、本物に似せた偽造切手と並んで、今回ご紹介しているようなパロディ切手も作られています。なお、この切手の場合、ヒトラーの顔が骸骨に変えられているだけでなく、ホンモノでは“DEUTSCHES REICH(ドイツ帝国)”となっている国名表示の最初のDEがFに変えられており、“FUTSCHES REICH(崩壊した帝国)”となっているなど、なかなか凝っています。

 この切手は、特別に高いものではないのですが、昔から収集家には人気があるため、“ニセモノ”(まぁ、この切手自体がそもそもニセモノといえばニセモノなのですが)が沢山作られています。ただし、本物を知っていれば、そうした“ニセモノ”は比較的容易に区別できます。もし必要でしたら、インターネットのオークションで入札する場合などには、この画像と比べてみてください。

 なお、第二次大戦中、ナチス・ドイツも連合国側もさまざまな謀略切手を作りましたが、その代表的なものについては、拙著『これが戦争だ!』でもいくつかご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 アラブの都市の物語:ポートサイド
2006-11-17 Fri 01:19
 NHKのアラビア語会話のテキスト12・1月号が出来上がってきました。僕の連載「切手に見るアラブの都市物語」では、今回は、いまからちょうど50年前に第2次中東戦争(いわゆるスエズ動乱)の舞台となったポートサイドを取り上げました。

ポートサイド

 1956年7月のナセルによるスエズ運河国有化に激怒した英仏両国はイスラエルを誘って、同年10月、エジプトに戦争をしかけ、スエズ運河の地中海側出口のポートサイドを攻撃しました。

 これに対して、エジプト側は必死に抵抗し、米ソ両国を含む国際世論の後押しもあって、英仏軍を撤退させることに成功します。ただし、空爆によってポートサイドの市街は大きな被害を受けました。

 今回ご紹介している切手(画像はクリックで拡大されます)は、国有化宣言1周年の記念日にあたる1957年7月26日に発行された「エジプト:侵略者たちの墓場」と題するシリーズ切手の1枚で、ポートサイドでエジプト軍の捕虜となった英仏軍兵士の姿が描かれています。ナセルのアラブ民族主義が最も輝いていた時期の、エジプト国内の高揚した雰囲気が伝わってくるようなプロパガンダ切手といってよいでしょう。

 今回の「切手に見るアラブの都市の物語」では、第2次中東戦争の話題を中心に、スエズ運河の建設が開始された1859年4月25日に始まるポートサイドの歴史を通観してみました。ポートサイドの中継印が押された郵便物というのは、日本切手がらみでもしばしば目にするものですから、収集家にとっては意外となじみのある地名だろうと思います。機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 幼稚園130年
2006-11-16 Thu 00:43
 今日はボジョレー・ヌーボーの解禁日ですが、今年はどうも出来が良くないとの話なので、ワインの話はパス。代わりに、小判切手が発行された1876年の11月16日に日本最初の幼稚園が開園したということなので、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

幼稚園100年

 これは、1976年11月16日に発行された「幼稚園100年」の記念切手です。

 わが国における幼稚園は、1875年の文部省通達を受けて、1876年に東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)内に付属幼稚園を設けたのが最初といわれています。もっとも、当時は義務教育の基礎となった学制の発布から数年しか経っておらず、就学率もさほほど高い時期ではありませんでしたから、そういう時期に幼稚園に通うことのできた子供というのはかなりな上流階級の子弟であったのは間違いありません。実際、切手に取り上げられている「幼稚鳩巣遊戯図」でも、子供たちは高そうな服を着ています。

 さて、1876年の開園当時の幼稚園の園舎は、建坪250坪でアメリカ式の洋館平屋建て。中には、遊戯室、開遊室、員外開遊室、縦覧室、応接室、職員室、事務室、小使室兼附添人控室がありました。園側のスタッフとしては、園長にあたる監事が女子師範学校の英語教授を担当していた関信三で、女子師範学校の英語教師でドイツ人のクララ・チータルマン(松野クララ)が主席保母、同じく女子師範学校の国語教師・矢豊田そのをはじめとする保母たちがいました。おそらく、画面左上の洋装の女性はクララ・チータルマンじゃなかろうかと僕はにらんでいるのですが、さて、どうでしょう。

 なお、この切手に関しては、今年4月に刊行した『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代 1966-1971』の続編として現在執筆中の<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻(タイトルは未定)でも詳しく説明する予定です。本ができあがったら、またこのブログでもご案内いたしますが、とりあえず、来年も<解説・戦後記念切手>シリーズの続きは刊行されるということだけは、皆様の頭の片隅にでもとどめておいていただけると幸いです。(鬼に思いっきり笑われそうですが…)

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 七五三
2006-11-15 Wed 01:06
 今日は七五三。というわけで、ストレートにこんな切手を持ってきてみました(画像はクリックで拡大されます)

七五三

 これは、“季節の行事切手”(現在は“年中行事シリーズ”と呼ばれることが多いのですが、発行当時はこう呼ばれていました)の第3集として1962年11月15日に発行された「七五三」の切手です。

 季節にあわせて特殊切手を発行するという計画は、1950年代半ばから、郵政省の内部では検討されていましたが、それが具体的なかたちで実を結んだのは、1961年に郵便創業90年の特別企画として発行された“花切手”が最初のことでした。

 その花切手の第1段として、1961年1月30日、“すいせん”が発行されると、郵政省は翌1962年にも季節に合わせたシリーズ切手を発行すべく、企画の検討を開始。その結果、古くから日本に伝わる年中行事の中から、四季おりおりの代表的なものを切手の題材として選んで、シリーズとして四回にわけて発行するという案が採用され“季節の行事切手”が発行されることになったというわけです。

 さて、「七五三」の切手は、大塚均がデザインを担当しましたが、原画制作の作業は4月中旬から始められたそうです。大塚は、同僚の子供をモデルにした写真を元に、3人の子供たちの全身を描いたものと上半身のみを描いたものの2種類の原画を作成。そのうえで、三越本店(東京・日本橋)美容室の八木京子に図案のチェックを依頼します。

 その結果、①扇子は手に持たずに帯じめに差す、②ハコセコを実物に即したものに直す、などのチェックを受け、上半身のみをえがいたものが採用となりました。なお、子供の背景は、神社の森ということになっていますが、憲法の“信教の自由”に配慮したためか、鳥居や社殿など、神社とわかるような要素は一切描かれていません。

 なお、この切手を含めて、“季節の行事切手”の詳細については、拙著『(解説・戦後記念切手Ⅲ)切手バブルの時代 1961-1966』もあわせてご覧いただけると幸いです。

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 スターフェリー
2006-11-14 Tue 01:08
 ちょっと古いニュースですが、先週末の11日限りで、香港島の中環、郵政總局隣にあったスターフェリーの乗り場が、移転のため、その役割を終えたのだそうです。

 というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

スターフェリー

 これは、1998年、スターフェリーの100年を記念して中国香港(中国に返還された後の香港)で発行された記念切手のうち、20世紀初頭の初期のフェリーを取り上げた1枚です。

 スターフェリー(天星小輪)は、香港のビクトリア・ハーバーの両岸、尖沙咀-中環、尖沙咀-湾仔、湾仔-紅磡、中環-紅磡間ならびに観光客用の周遊ルートを運航しているフェリーで、1898年から運行されています。

 スターフェリーの運航が始まった1898年は、イギリスが清朝から、いわゆる新界地区を租借した年、すなわち、“英領香港”が完成した年にあたります。その後、第二次大戦中、日本の占領下で一時的に運行が停止されたものの、日本の敗戦により、1946年から運行が再開され、現在にいたっています。

 中環でのスターフェリーの新しい乗り場は、今年(2006年)になって完成した新しい埋立地の一番東端にあり、南Y島など港外線フェリーの乗り場と並んでいます。

 新しい桟橋は19世紀に香港の海沿いに建ち並んでいた建物を模したデザインとのことで観光客には受けが良さそうですが、路面電車の駅(HSBC前)からは離れてしまったので、地元の人たちからは不便になったといって苦情が出るかもしれません。

 スターフェリーといえば、2004年に香港で開かれたアジア国際切手展に出品者として参加した際、滞在期間中、毎日の足として使っていたことが懐かしく思い出されます。その時の展覧会には、僕はオープン・クラスに“A History of Hong Kong”という作品を出品したのですが、この作品は、返還の年の1997年に刊行した『切手が語る香港の歴史』の内容を、大幅に増補改定したものです。

 おかげさまで、“A History of Hong Kong”は部門最高賞のExcellentという賞をいただきましたので、これをもとに10年前の仕事のリニューアル版を作りたいというのが僕の希望です。特に、来年は返還から10周年という節目の年。タイミング的には、これを逃すと次のチャンスはいつ巡ってくるかわからない状況なので、なんとか頑張らないといけませんね。
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 孫文生誕140年
2006-11-13 Mon 00:48
 昨日(11月12日)は中国革命の父・孫文の生誕140周年ということで、中国・台湾ともにいろいろなイベントが行われたようです。というわけで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

孫文切手

 これは、1912年12月14日、辛亥革命が達成されたことを記念して発行された「中華民国光復」の記念切手の1枚で、当時の孫文の肖像が描かれています。

 清朝末期、革命家の孫文は当然のことながら“お尋ね者”として清朝の官憲から終われる立場にありました。じっさい、1911年10月10日に武昌で革命の烽火が上がったとき、孫文は軍資金の募集でアメリカにいて、中国を離れていました。そして、同年12月に慌てて帰国し、翌1912年1月1日に中華民国が発足したのにあわせて、推されて臨時大統領に就任します。

 しかし、革命政府を維持するため、孫文は、宣統帝の退位と引き換えに3ヶ月で清朝の実力者・袁世凱に総統の座を譲ってしまいます。その後、袁世凱による独裁が始まると、孫文は、反袁を唱えて活動したものの、袁の軍事力の前にあえなく敗れて日本への亡命を余儀なくされました。

 今回の切手は、まさに、孫文が総統の座を袁世凱に譲った後、“未完の革命家”としての後半生を歩み始めた時期に発行されたもので、孫文の肖像を取り上げたものとしては最初の一枚ということになります。

 ちなみに、発足間もない中華郵政は、当初、“光復紀念”として孫文の肖像の切手を、“共和記念”として中国の地図を取り上げた切手を発行する予定でしたが、袁世凱から「孫文の切手のみを発行して自分の切手が発行されないのは納得できない」というクレームが会ったため、急遽、地図の切手の発行を取り止めて袁世凱の切手を発行しました。

 なお、孫文の切手は、その後、彼の存命中は発行されることはなく、1929年に彼の国葬が行われた際に(孫文は1925年に亡くなったが、その国葬は、1928年に国民政府による全国統一が達せられたことを受けて、1929年に行われました)それを記念する切手が発行されたのが2例目となります。その後、1931年から孫文の肖像を描く切手が発行されるようにななると、“孫文切手”の数も飛躍的に増えていきました。

 そうした孫文の通常切手が発行されていた時期は、まさに日中戦争の時期と重なっていますので、“昭和の戦争”に関わる中国側の郵便物を集めてみると、いやでも、孫文の切手とお付き合いしなくてはならなくなります。その代表的なサンプルについては、たとえば、拙著『切手と戦争』でもいくつか掲載しておりますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。
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 朝鮮大学校の学園祭
2006-11-12 Sun 02:32
 昨日(11月11日)は、東京・小平市にある朝鮮大学校創立50周年記念フェスティバル(中身は学園祭)に行ってきました。

 ご承知のように、朝鮮大学校は北朝鮮国家と朝鮮総聯(在日本朝鮮人総聯合会)が実質的に運営する教育施設(ただし、文部科学省から大学としての認可を受けていないため、法的には各種学校扱い)です。

 あらかじめお断りしておきたいのですが、僕はいわゆる北朝鮮シンパではなく、はっきり言って、現在の北朝鮮国家に対しては批判的な人間です。また、在日本朝鮮人総聯合会(いわゆる朝鮮総連)に対しても、彼らが“差別利権”ないしは“在日特権”を振りかざして無法なことを繰り返したきたという事実は赦されざるべきことと考えていますし、日本国内に拠点をおいて活動する以上、彼ら自身が北朝鮮国家がこれまでしてきたさまざまな不法行為(拉致や麻薬の密輸、偽札など)について、きちんと総括しない限り、日本社会での信頼を得ることはありえないだろうと考えています。

 ただ、そうした北朝鮮国家や朝鮮総連に対する評価とは別に、今回の学園祭は、彼らのキャンパスが一般にも公開される数少ないチャンスでもありますので、『北朝鮮事典』の著者としては、純粋に観察のチャンスとしてこの機会を逃す手はないな、と思って覗きに行ってみたというわけです。

 さて、今回、学園祭に行ってみて、まず驚いたことに、入口のところでは来場者全員を対象にこんな切手を配っていました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

朝鮮大学校50年

 これは、北朝鮮が発行した朝鮮大学校創立50周年の小型シートで、校舎とキャンパスを取り上げた110ウォン切手が1枚収められています。切手は現在の写真ですが、その下には50年前の校舎・キャンパスの写真を収めたタブがついています。最初、僕は下のタブを切手と見間違えていたのですが、よく見ると、額面が入っていないので切手ではないとわかりました。なお、受付では切手がむき出しのままに配られていたわけではなく、下の画像のようなタトウに入れられていました。

朝鮮大学校タトウ

 この小型シートの正確な発行日はちょっとわからないのですが、ひょっとすると、今回の学園祭にあわせての発行だったのかもしれません。そうだとすると、経済制裁によって北朝鮮からの輸入は基本的にストップしているわけですから、おそらく、中国経由で日本国内に持ち込まれたものと考えるのが自然でしょう。もちろん、朝鮮総連系の企業が日本国内で作ったモノという可能性は否定できませんが、それにしては、印刷が悪すぎるような気がします。

 さて、受付のすぐ近くでは、入手困難なことで知られる名酒“越の寒梅”の一升瓶が100本限定・1本3500円(配送を頼んだ場合には4000円)で販売されていました。朝鮮大学校と“越の寒梅”というのは妙な取り合わせですが、もしかすると、万景峰号が往来できなくなったので、北朝鮮に運べなくなった酒を投売りしていたということなのかもしれません。

 さて、今回キャンパスの中を歩いてみて一番印象に残ったことは、昨今の日本国内での風当たりの強さを考慮したためか、とにかく、金日成・金正日父子の肖像などは、一般の参観者の目に付くところからは原則として外されていたことです。ただし、教室の壁などには、父子の肖像を掲げていたであろう痕跡(額を吊るしていたと思われる跡)はしっかり残っていましたし、陶器の染付け体験コーナーの会場となっていた食堂のスペースには、外し忘れたと思われる父子の肖像がしっかりと掲げられていました。また、キャンパスの片隅には金日成・金正日の言葉を刻んだ碑がありましたが、その前で写真を撮ろうとしたら、目付きの鋭いお兄さんが飛んできて「写真撮影は禁止だ」と叱られてしまいました。

 講堂で行われていたイベントもいくつか見てみましたが、オープニング・セレモニーの民族舞踊やチマチョゴリのファッションショーはさすがに見ごたえがありました。また、来賓として小平市長が出席していましたので、どんなことを言うのだろうかと注目して聞いていたのですが、「現在は祖国が大変な状況だと思うが、ともかくも朝鮮大学校は地元として無視できない存在であるし、さまざまな奉仕活動にも協力してもらっているということもあるので、今後ともよろしくお付き合いいただきたい」といった当たり障りのない内容だったように記憶しています。

 なお、校庭にあたるスペースでは一般の学園祭同様、各種の模擬店が出ていました。中でも圧巻は、七輪で焼く炭火焼肉の店で、味・ボリューム・値段のどれを取っても満足のいくもので、ついつい、マッコリを飲みすぎたのは反省しないといけませんね。

 このほかにも、いろいろと興味深い事柄があったのですが、それらについては、いずれ機会があれば、別の媒体でまとめてみることにしたいと思います。

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 アンゴラの小型シート
2006-11-11 Sat 01:08
 今日(11月11日)はアンゴラの独立記念日だそうです。というわけで、こんなものを持ってきて見ました。(画像はクリックで拡大されます)

アンゴラ300年

 これは、アンゴラがポルトガル領だった1948年にポルトガル領アンゴラ300年を記念して発行された小型シートで、アンゴラゆかりの人物や風景を描く切手10種が収められています。

 大西洋に面するアフリカ南西部のアンゴラの地にポルトガル人が初めて到着したのは1482年のことです。その後、ポルトガルはブラジルへの奴隷供給後として開発を進めていきました。

 第2次大戦後、世界的に植民地の独立運動が盛んになると、当然、その余波はポルトガル領にも及ぶことになります。ところが、当時のポルトガルの独裁権力者サラザールは独立運動を徹底的に押さえ込もうとします。その一環として、アンゴラを含む多くのポルトガル領が、制度的には植民地から“海外県”に変更され、本国との“対等な立場”が強調されるようになりました。今回ご紹介している切手も、そうした状況の下で、アンゴラがポルトガル領として長い歴史を持っていることを強調するために発行されたものです。

 その後、1960年代に入ると、アンゴラでも独立運動が激化。1974年のいわゆるカーネーション革命で独裁体制が崩壊(サラザール自身は1968年に病気で引退し、1970年に亡くなります)すると、独立が認められました。

 とはいえ、ポルトガルの撤退に伴い、アンゴラではソ連とキューバの支援するアンゴラ解放人民運動 (MPLA) とアメリカ合衆国と南アフリカ共和国が支援するアンゴラ全面独立民族同盟 (UNITA) がそれぞれ政府を樹立し、内戦状態に突入します。その後も、MPLAがいちおうは政権を掌握したものの、内戦は延々と続き、最終的に和平が実現したのは27年後の2002年のことでした。

 東西冷戦の代理戦争ともいわれたアンゴラ内戦に関しては、キューバが派遣した部隊の軍事郵便のカバーが時々オークションなどに出品されています。特別に高いものではないのですが、なかなかご縁がなくって現在のところ入手できていないのが残念です。
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 木内達朗さんのクリスマス切手
2006-11-10 Fri 00:46
 イギリスで7日に発行された今年のクリスマス切手(下の画像・クリックで拡大されます)に、日本人イラストレーター木内達朗さんの作品が採用されているそうです。

日本人デザインのクリスマス切手

 ご自身のHPによると、木内達朗さんは、1966年東京都生まれ(僕と同学年・同郷ですね)。「国際基督教大学生物科で、材料が安いから君はこれにしなさいと言われ、ゴキブリを飼育して卒論を書く。生物学における理想と現実のギャップに憮然として渡米。イラストレーションの勉強を始める。1992年に帰国、以後フリー。」というキャリアの持ち主だそうです。

 代表作は、「L'arc en Ciel Realive Tour パンフレットビジュアル」、「朝刊連載小説挿絵 新・地底旅行(2002.09.01-2003.06.30)」で、その他装画装丁、文芸誌に多数の挿絵を提供しているほか、2001年に設立された有限会社東京目印の代表も務めておられます。

 今回の切手は、サンタクロースや雪だるまなど4つのモチーフを使った6種類の発行で、制作には2年の期間をかけ、5回の修正を重ねたというのがご本人の弁です。

 イギリスの場合、切手デザインの制作は原則公募によっており、民間人中心の有識者による切手デザイン審査委員会が審査し(議事録はもちろん全面公開されています)、最終的には女王の承認を経て決定されます。

 年に1度か2度、アリバイ作りのように切手デザインの公募を行うだけで、実質的には能力に乏しいお役人デザイナーたちが独占的に無意味な切手を垂れ流している極東の島国の現状をみるにつけ、お役人デザイナー(特にあるエライ人の無能ぶりは目を覆うばかりの国辱モノですね)の首を一刻も早くちょん切って、ガチンコ公募で若い有能なデザイナーたちに切手を作らせることはできないのか、とため息ばかりが出てきます。

 木内さんのご活躍は日本人として素直に喜ばしい限りですが、それだけに、なぜ、本国の日本がいままで彼の作品を採用してこなかった/できなかったのか、なんとも複雑な気分になるのは僕だけではないでしょう。

 なお、戦後日本の記念切手政策が抱えてきたさまざまな問題点についてご興味をお持ちの方は、2001年から刊行の拙著、戦後記念切手の読む事典<解説・戦後記念切手シリーズ>の各巻(『濫造・濫発の時代 1946-1952』『ビードロ・写楽の時代 1952-1960』『切手バブルの時代 1961-1966』『一億総切手狂の時代 1966-1971』、以下続刊予定)をお読みいただけると幸いです。
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 切手の中の建設物:ピエール橋
2006-11-09 Thu 01:24
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の11月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の建設物」では、今月は、フランス・ボルドーのピエール橋を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ピエール橋

 ピエール橋は、フランス南西部のワインで有名な都市・ボルドー(行政的にはアキテーヌ地域圏の首府でジロンド県の県庁所在地)のランドマークで、街の中心を流れるガロンヌ川に架けられています。

 この橋は、皇帝ナポレオン1世がスペイン遠征のための軍隊派遣に備えて建設を命じたもので、石と煉瓦を積み上げた全長501メートルの橋は7年の歳月をかけてつくられ、1822年に完成しました。欄干に取り付けられた左右17本の街灯が橋全体に華やいだ雰囲気を与えていますが、17本という数字は皇帝の本名、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)の綴りが17文字であることにちなんだものだといわれています。しかし、建設を命じたナポレオンは、1815年に没落し、配流された大西洋の孤島、セント・ヘレナで1821年に亡くなり、完成した橋を見ることはありませんでした。

 切手は、2004年にフランスがジロンド県ボルドーを題材として発行したもので、ピエール橋を中心に、画面の奥手には壮麗な建築で知られる市庁舎(旧ロアン館)も描かれています。

 切手の左側に描かれているトラム(路面電車)は、ピエール橋の上も走行していますが、通常の区間はパンタグラフから電源を採り、橋を渡るときは線路から電源を採るようになっています。これは、ガラスを多用した車輌とあわせて、周辺の景観を壊さないように工夫された結果だそうです。

 こんなトラムに乗って橋の近くまで行き、ガロンヌ川をの流れを眺めながら、オープン・エアの店で上物のボルドー・ワインを飲めたら幸せだろうな、と原稿を書きながらついつい思ってしまいます。

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 英雄/テロリスト図鑑:金正日
2006-11-08 Wed 01:22
 雑誌『SAPIO』11月22日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は北朝鮮の“将軍様”こと金正日を取り上げました。で、金正日の切手はいろいろあるのですが、今回の連載で使ったのはこんな1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

金正日党活動30年

 これは、1994年6月に発行された金正日の“党事業開始30周年”の記念切手です。日本でも、勤続30年で会社から表彰状なり記念品なりをもらう人は数多いるでしょうが、勤続30年の記念切手を発行してしまうとは、まさに、独裁国家の面目躍如といったところです。

 日本人にとっても身近な(?)拉致事件をはじめ、偽札や麻薬の密輸、大韓航空機事件やビルマ(ミャンマー)のアウンサン廟での全斗煥大統領暗殺未遂事件など、北朝鮮が国家ぐるみで数々のテロ活動に手を染めてきたことは広く知られています。そうしたテロ活動のほとんどは金正日じきじきの命令ないしは彼の承認によるものといわれており、その意味では、金正日のことをテロ組織の頭目と呼んでも差し支えないでしょう。

 北朝鮮がさかんに拉致事件を起こしていたのは1970年代後半から1980年代にかけてのことですが、これは若き金正日が“首領様”こと金日成の後継者としての立場を固めていく時期にあたっています。当時の金正日は“首領様”の神格化を進めることで、“首領様”への忠誠心と自分の“偉大な経綸”を誇示しようとしていたわけですが、1982年4月の“首領様”の古希記念事業や国家財政を傾けてまで進められた記念碑的建造物(主体思想塔や凱旋門など)の造営などが、その表の仕事だとすれば、裏の仕事が、拉致事件をはじめ、各種のテロ事件の指揮だったというわけです。

 今回ご紹介している切手は、「深夜にもかかわらず執務に励んでいる若き将軍様」を表現したもののようですが、僕の目には、どうしても、“将軍様”が深夜密かにテロの計画を練っているように見えて仕方がありません。

 ちなみに、金正日が吸っているタバコはロスマンズかダンヒルといわれていますが、この絵のタバコもそうなのでしょうか。また、机上の筆記具はモンブランのようにも見えます。いずれも、経済制裁が続けば、かの国では入手できなくなるものばかりです。

 本日発売の『SAPIO』11月22日号の「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回ご紹介している小型シートを素材として使いながら、金正日が権力を掌握していくまでの出世物語をまとめてみました。ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 フセイン加刷切手のカバー
2006-11-07 Tue 01:10
 昨日(6日)の話題は、なんといっても、イラクの元大統領、サダム・フセインに対する死刑判決が出たということでしょう。というわけで、数多あるフセイン関連のマテリアルの中から、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

フセイン加刷切手のカバー

 これは、1993年4月5日、バグダードからアメリカ宛に差し出されたEMSのカバー(封筒)です。

 湾岸戦争の敗戦により壊滅的な打撃を受けたイラクでは、当初、新たな切手を発行することができず、既に発行された切手に、戦後のインフレに対応する新たな額面を加刷した暫定的な切手を発行することで需要を満たしていました。今回ご紹介している切手もその一例で、イラン・イラク戦争中の1986年に発行されたフセイン大統領シリーズの100フィルス切手に新額面10ディナール(1ディナールは1000フィルス)の加刷を施した切手2枚と、1989年に発行された25フィルスの花切手に10ディナールの加刷を施した切手1枚、計30ディナールが貼られています。

 2枚のフセイン切手をよく見てみると、左側の加刷は10の0に相当する部分が1のようになっており、明らかに右側と異なっています。おそらく、こうした加刷のバラエティについても詳しく調べてみれば加刷のプレーティングを楽しむことも可能だろうと思います。

 1990年以降のイラク切手が貼られたカバーは、1996年末に経済制裁が一部緩和されたことを受けて、1997~98年ごろから欧米宛のモノがポツポツ現れるようになり、1999年以降イラク戦争の直前までのものは比較的入手しやすいのではないかというのが僕の印象です。これに対して、1990~1995年のカバーというのは、なかなか気の利いたものは少ないようです。それだけに、このカバーは、加刷切手が貼られた“戦間期”のイラクのカバーとしてルックスもそこそこ悪くないので、個人的には結構お気に入りの1枚となっています。

 なお、湾岸戦争からイラク戦争にいたるまでのイラクの切手事情に関しては、拙著『反米の世界史』でも簡単にまとめて書いてみたことがありますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 <JAPEX>開催御礼
2006-11-06 Mon 09:31
 おかげ様で、第41回全国切手展<JAPEX06>は昨日(5日)をもって無事、終了いたしました。

 今回の<JAPEX>では、国際切手展凱旋展示・オーストラリア切手展・ローマ字入り切手40年・小判切手130年・切手帳100年の5大特別展示をはじめ、見ごたえのある競争出品作品が多数並び、ご参観者の皆様にもご満足いただけたものと思います。

 詳細データについては、追って、主催者の(財)日本郵趣協会事務局より報告・発表がありますが、前年に引き続き、収支面でも大幅に状況が改善されているはずです。いろいろと細かい点では問題も少なからずあったのですが、まずはイベントとして合格点には到達することができたのではないかと自負しております。

 これもひとえに、皆様のご支援・ご協力の賜物です。実行委員長として、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

 というわけで、今日は“お礼”の意味を込めて、こんなものを持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

ルーズベルトの手紙

 これは、1933~45年のアメリカ大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルトが差し出した手紙で、エアメールのカバーを送ってもらったことへのお礼が記されています。仮に手紙の文章は秘書がタイプしたものであったとしても、送ってもらったカバーの種類についてもきちんと書いてありますので、機械的に文章をタイプしたわけではなく、本人が内容を指示したものと思われます。また、サインそのものは彼の直筆です。

 ちなみに、この手紙が入っていたカバー(封筒)はこんな感じです。

ルーズベルト・カバー

 ルーズベルトが切手を趣味としており、どんなに忙しくても1日5分は切手をいじる時間を確保していたことは、切手関係者の間では有名な話です。今回のカバーは1932年9月の差出。当時の彼はニューヨーク州知事でした。また、大統領選挙で彼が初当選を果たすのは、それからわずか2ヵ月後のことですから、このカバーが差し出されたのは、まさに選挙戦も終盤の一番大変な時期だったでしょう。そうした時期に、エアメールを送ってもらったことへの礼状をきちんと出すなど、なかなかできるものではありません。少なくとも、筆不精でお礼状の類を出しそびれることも多い僕なんかには決して真似のできない芸当で、やっぱり、偉くなる人は違うんだなぁ、と素直に感心してしまいます。

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 NIPPON字入り切手40年
2006-11-05 Sun 01:01
 早いもので、<JAPEX>も今日で最終日です。

 今回の<JAPEX>では、小判切手の特別展示や国際切手展の凱旋展示の影に隠れがちでしたが、万国郵便連合の規定に基づき、1966年に日本切手に“NIPPON”の表示が入ってから今年で40年という節目にあわせて企画した「ローマ字入り切手40年」の特別部門にも見ごたえのある作品が並んでいますので、是非、ご覧いただきたいところです。

 というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

いせえび

 これは、1966年1月に発行された“お魚シリーズ”の第1集としてイセエビを取り上げたもので、“NIPPON”と表示された最初の切手です。以下、切手に“NIPPON”の文字が入るまでの経緯について、簡単にまとめておきましょう。

 1964年7月、万国郵便連合条約の新たな施行規則が締結され、その第178条第2項 により、切手類にはローマ字によって国名を表記することが義務づけられました。同条約の発効は1966年1月1日とされており、日本の国会も同年5月17日にこれを承認したため、1966年以降に発行される日本切手に関してもローマ字による国名表示が入ることが決まりました。

 ところが、日本の国名表示をローマ字でどのように表記するかという点については、容易には結論が出ませんでした。

 まず、郵政省が国会承認を得るために提出した条約の訳文を“ローマ字”ではなく“ローマ文字”としたことから、条文解釈の問題が発生します。すなわち、役所の用語では、“ローマ字”が、たとえば“NIPPON”のような、日本語のローマ字表記のことを意味しているのに対して、“ローマ文字”は、“JAPAN”ないしは“JAPON”のように外国人でも理解できる表示を意味しているというのです。

 この点については、まず、切手上の国名表記は“ローマ字”で表記されるということが確認されて解決しましたが、ついで、“日本”の読み方を“ニッポン”と“ニホン”のどちらかにするかという点で、議論が百出します。

 この点について、郵政省は文部省国語課に照会したものの、文部省側は“ニッポン”と“ニホン”の二通りの発音についての判断は全国民的な問題なので直ちに明確な回答はできないと返答。この問題については、その後も相当長期間にわたって慎重な姿勢をとり続けました。

 このため、場合によっては、1965年末発行の昭和41年用の年賀切手からローマ字の国名表示を入れることも検討していた郵政省としては、切手製造の必要から、独自の判断で国名表示を決めることを決定。郵務局管理課を中心に、国際業務係も加えて討議が行われた結果、①“NIHON”という表示だと“ニオン”と発音される可能性がある(たとえば、フランス語ではhの文字は読みません)、②“日本”の本来の発音は、“ニホン”と“ニッポン”の中間で“ニフォン”に近いといわれるので、“ニホン”にすると誤りのように聞こえる、③前年の東京オリンピックの際に“NIPPON”というという呼称が使われても、なんら支障がなかった、などの理由から、郵政省独自の立場として“NIPPON”を切手上の国名表示とすることが決定されます。

 この決定は、九月十日の閣議で郵政大臣(郡祐一)から報告されて閣議で了承されましたが、閣議後、首相の佐藤栄作は「国名のローマ字表示についてはいろいろなものがあるようだが、総理府の公式制度連絡調査会議で検討し、早急に正式結論を出してほしい」との異例のコメントを発表しました。

 実際、“日本”のローマ字表記を“NIPPON”としたことに対しては、各界から異論が続出し、当時の人気テレビ番組『時事放談』 でも、政治評論家の小汀利得が「そんな馬鹿な話ってあるもんじゃない、本来は当然ニホンと読むもので、時により発音しやすいようニッポンともなることがあるだけ、どちらが正しいどちらが間違いだと決めようとすること自体がおかしい。…(中略)…大体こんなことを命じる佐藤総理自体が馬鹿なんだ」と発言。現在のように、“ニッポン”という読み方が定着するまでには、相当の紆余曲折があったことをうかがわせます。

 さて、こうして誕生した“NIPPON”の表示が入った切手も発行から40年が経ち、歴史の洗礼を受けて、さまざまな面白いマテリアルが生まれています。今回の「ローマ字入り切手40年」の展示では、主として1960年代後半、高度成長期の日本で日常的に使われていた“なつかしの切手”を中心にした作品がズラリと並んでいます。会期も今日までですので、まだ、ご覧いただいていない方は、是非、会場までお運びいただけると幸いです。

 なお、“お魚シリーズ”についての詳細は、拙著『解説・戦後記念切手Ⅲ 切手バブルの時代』をご参照ください。
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 オーストラリア切手展
2006-11-04 Sat 01:07
 昨日(3日)の<JAPEX>会場での『満洲切手』の講演は、盛況のうちに無事終了いたしました。お越しいただいた皆様には、この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。

 さて、昨日に引き続き、現在、東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催中の<JAPEX>に併催されている“オーストラリア切手展”にちなんで、こんな切手をご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

タスマニア1858年

 これは、1901年に現在のオーストラリア連邦が結成される以前のオーストラリアの植民地、タスマニアで1858年に発行された切手で、ヴィクトリア女王が描かれています。

 タスマニアはオーストラリア大陸南東部から240キロ南方の海上に浮かぶ島ですが、1642年にオランダ人の探検家アベル・タスマンによって“発見”された当時はオーストラリア大陸の一部と考えられていました。なお、当初はこの地域は“タスマニア”ではなく、当時のオランダ東インド会社総督ヴァン・ディーメンにちなみ“ヴァン・ディーメンス・ラント”と命名されています。

 タスマニアへのイギリス系の移民の入植は1803年のに始まりましたが、初期の移民者は主に流刑囚とその看守でした。当時は、行政的にニューサウスウェールズの一部とされていましたが、1826年12月にニューサウスウェールズから分離し、独自の植民地政府を構成します。

 最初の切手が発行されたのは1853年のことでしたが、このとき発行された切手の国名表示はタスマニアではなく、“ヴァン・ディーメンス・ランド”でした。それが、タスマニア表示となるのは、1857年発行の切手からです。

 さて、今回の“オーストラリア切手展”では、タスマニア切手のコレクションとしては世界一(国際切手展でグランプリを受賞した作品ですから、文句なく、世界一といってよいでしょう)といわれる佐藤浩一コレクションを展示することができました。日本ではめったに見ることのできない大コレクションが展示される貴重な機会ですので、是非、お見逃しのないよう、この機会にご覧いただくことをお勧めいたします。

 なお、“オーストラリア切手展”では、この他にも、連邦発足後最初の正刷切手「カンガルーと地図」を扱った長島裕信さんの専門コレクションや「ジョージ五世シリーズ」を扱った吉村昭紀さんの専門コレクションなど、見ごたえのある作品が展示されています。

 また、池袋の会場からシャトルバスで結ばれている目白会場では、日本とオーストラリアを切手を通じてさまざまな角度から比較した“日豪交流記念切手展”も開催されております。

 オーストラリア関連の切手がこれだけまとまって日本国内で展示される機会はなかなかないと思いますので、是非、会場にお越しいただけると幸いです。

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 小判切手130年
2006-11-03 Fri 00:30
 いよいよ、今日(11月3日)、毎年恒例・日本最大の切手展<JAPEX>が開幕します。今年の話題は、なんといっても、“小判切手130年”の特別展示でしょう。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

キヨソネと小判切手

 これは、イタリアが1988年の“切手の日”に発行した切手で、お雇い外国人として明治初年に来日したエドアルド・キヨッソーネと彼の作品である小判切手が描かれています。

 1874年1月、紙幣寮(印刷局の前身)の長官、紙幣頭に就任した得能良介は、それまでの“手彫切手”は国辱的な存在と考えていました。このため、まず、和紙に切手を印刷することを止めさせ、切手の用紙を洋紙に切り替えます。そのうえで、同年10月、お雇い外国人としてイタリア人のエドアルド・キヨッソーネを雇用することを決定。郵便創業以来、日本切手の製造の第一線を担ってきた松田敦朝らを正式に御用御免としました。もっとも、1872年の桜切手発行の直後から、切手の製造は紙幣寮が直接管理する体制となっており、民間業者である松田は冷遇されていましたが…。

 さて、1875年に来日したキヨッソーネは、新たに、中央に小判型の縁取りをした近代的な凸版印刷の切手(これが“小判切手”と呼ばれているものです)のデザインを考案します。1876年5月17日から発行が開始されたこれら小判切手では、それまでの切手には国名の表示がなかったのに対して、“大日本帝国郵便”ならびに“IMPERIAL JAPANESE POST”と和英両文の国名表示がしっかりと入っています。ここにいたり、ようやく、日本でも切手らしい切手が発行されることになったといってよいでしょう。

 今回の特別展示は、“小判振舞処”(小判切手収集家有志のグループ)の皆さんのご協力による特別出品作品を軸に組み立てられているのですが、有名な珍品“30銭の11L”大集合のコーナー(現存するもの約3分の1が会場に集まりました)やエッセイ・プルーフ(試作品)をはじめとする眼福間違いなしの名品稀品、また、小判切手研究の最前線を示す高度に専門的な作品など、実に見ごたえ十分です。会場内では、小判振舞処の方々による展示解説が行われるのも嬉しいところです。

 総額数億円ともいわれる小判切手の特集展示は、おそらく、二度と実現することはないでしょうから、是非、この機会に会場にお越しいただき、実物の迫力を堪能していただけると幸いです。

 なお、本日(3日)は、16:00より、僕も会場内の特設スペースにて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、こちらにも、ぜひ、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください)

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 明日から<JAPEX>
2006-11-02 Thu 01:02
<JAPEX06>ブルテン表紙

 明日からいよいよ全国切手展<JAPEX>が開幕します。

 今年は、①国際切手展凱旋展示(2005~6年の国際切手展で金賞を受賞した作品の招待展示)、②ローマ字入り切手40年、③小判切手130年、④オーストラリア切手展(日豪交流年記念事業)といった盛り沢山の特別展示をご用意しているほか、全国の収集家の方々による競争出品も多数集まり、例年にない見応えのある内容となりました。会期中は作品解説や講演会のプログラムも多数ご用意しておりますので、一人でも多くの皆様のお越しをスタッフ一同、心よりお待ち申し上げております。

 トップの画像は、会場にお越しいただいた皆様にお配りするブルテン(パンフレット)の表紙画像(クリックで拡大されます)で、「ローマ字入り切手40年」の企画出品の中から、郵便自動化の実験用に作られた模擬切手を拡大して掲載しています。

 ところで、今回の<JAPEX>では、僕は実行委員長を仰せつかっているのですが、今年の6月にワシントンで開かれた国際切手展<WASHINGTON 06>で金賞を受賞したコレクション「昭和の戦争と日本」も招待出品の対象となっていますので(勧進元の親分が自分の作品を“招待する”というのも、なんだか変な気分です)、その作品を展示するほか、9月末に刊行した『満洲切手』にからんだトーク・イベントを、明日3日の16:00より、会場内の特設コーナーで行います。

 というわけで、今日は、その予告編として、展示とトークの両方に登場するマテリアルで、なおかつ、過去の記事に取り上げていないものとして、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

東北加刷

 これは、1946年3月25日、満洲国崩壊後の中国東北部、哈爾浜道裡郵便局から差し出された書留便で、満洲国時代の切手に“中華民国”と加刷した切手が貼られています。

 満洲国の崩壊後、東北各地の“解放”をめぐっては国民政府(国府)と中国共産党(中共)が激しくしのぎを削っており、それぞれの支配地域では別々の切手が使われていました。このうち、国府支配下の各地では、中華郵政が配給する切手と併行して、満洲国時代の切手を接収し、郵便局ごとに“中華民国”の文字などを加刷して暫定的に使用するということも行われています。

 今回ご紹介しているのはその一例で、差出人の住所氏名を表すスタンプがロシア語表示となっているのは、白系ロシア人が多く住んでいた哈爾浜ならではの雰囲気を感じさせます。

 押されている消印は、日付の表示こそ、年号を満洲国時代の康徳年号から中華民国表示の35年として、満洲国時代の“年.月.日.”の順から“日.月.年”の順に変更されているものの、それ以外の形式に関しては、満洲国が日本に倣って採用したものがそのまま使われています。

 このように、当時の切手や郵便物を見てみると、満洲国が崩壊しても、かつて満洲国があった地域の切手や郵便は、満洲国を引きずる形で再出発せざるをえなかったことがわかります。

 今回のトークでは、今回ご紹介してような、満洲国崩壊後の中国東北で用いられた切手や郵便物を通じて、満洲国の“遺産”が、いわゆる新中国にどのように受け継がれていったのか、お話してみたいと考えていますので、是非、遊びに来ていただけると幸いです。
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 ユリイカ11月号
2006-11-01 Wed 01:41
ユリイカ2006年11月号表紙

 先週金曜日(10月27日)に発売になった雑誌『ユリイカ』の11月号(上の画像はその表紙です。画像はクリックで拡大されます)は、東京都現代美術館で開催中の展覧会大竹伸朗全景 1955-2006にあわせて、現代美術のビッグネーム大竹伸朗の特集が組まれています。同誌には、僕も「少年・大竹伸朗と切手ブームの時代」と題する文章を寄稿していますので、この場を借りてご案内いたします。

 1955年生まれの大竹の人格形成期は、まさに切手バブルの時代一億総切手狂の時代という切手ブームの全盛期でした。おそらく、大竹の周囲にも切手少年たちがあふれていたことでしょう。ただし、当時の切手収集は、未使用の記念切手をシートで買うというスタイルが主流でしたので、モノが古びて、ゴミになっていく過程にこそ美を見出すという大竹の審美眼からすれば、切手収集は受け入れがたいものだったと思います。じっさい、現在にいたるまで、大竹は膨大な数の作品を発表していますが、そこには切手や郵便物はほとんど出てきません。

 しかし、彼の文章やインタビューなどを丹念に調べてみると、意外や意外、彼が常に“郵便物”をチラチラと横目で見ながら仕事をしてきたということが浮かび上がってきます。やはり、彼も少年時代に吸った空気からは自由になれないということなのでしょう。そして、そのことが、大竹の作品に、おそらく大竹本人は気がついていないであろう“郵便的”な彩りを与えているように、僕の目には映るのです。

 今回の『ユリイカ』の仕事では、そんなちょっと風変わりな大竹伸朗論を書いてみました。いままでの内藤陽介とはちょっと違ったスタイルの仕事ですが、もしよろしかったら、ちょっとご覧いただけると幸いです。

*11月3日(金・祝)16:00より、東京・池袋で開催の<JAPEX>会場内にて『満洲切手』刊行記念のトークを行います。よろしかったら、是非、遊びに来てください。(『満洲切手』については、こちらもご覧ください)
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