内藤陽介 Yosuke NAITO
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 1年間ありがとうございました
2006-12-31 Sun 00:55
 2006年も今日がいよいよ大晦日です。今年も皆様には本当にいろいろとお世話になりました。おかげさまで、主なものだけでも、下記のような仕事を残すことができました。

 <単行本>
『これが戦争だ!:切手で読み解く』 ちくま新書
これが戦争だ!

『(解説・戦後記念切手Ⅳ)一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』 日本郵趣出版
一億総切手狂の時代

『満洲切手』 角川選書
満洲切手

 <単発モノの論文・エッセイなど>
・「“戦後”の誕生」 『切手と郵便に見る1945年』 (財)日本郵趣協会
・「A History of Hong Kong――オープン・クラス展示の実際」 『切手の博物館研究紀要』第2号
・「満洲国の切手」/「郵便で読み解く満洲事情」 『満洲帝国:北辺に消えた“王道楽土”の全貌』 学習研究社
・(書評)「印南博之著『切手が伝える第二次世界大戦:メディアとしての切手』」 『図書新聞』10月21日号
・「少年・大竹伸朗と切手ブームの時代」 『ユリイカ』11月号
・「皇室の“伝統”について考える」 『日本国の研究:不安との訣別/再生のカルテ』第412号(2006年9月21日号)

 <連載>
・「切手で見る韓国現代史」 『週刊東洋経済日報』
・「切手に見るアラブの都市物語」 『(NHK)アラビア語講座』
・「外国切手の中の中国」 『(NHKラジオ)中国語講座』
・「今月の表紙」 『郵趣』
・「切手の中の建設物」 『建設業しんこう』
・「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」 『SAPIO』
・「切手で世界旅行」 時事通信社配信コラム

 <切手展>
・中近東切手コレクション展 (1月 切手の博物館)
・Japan and the 15 Years' War 1931-45 (5-6月 WAHINGTON 2006)
・Azerbaijan Musavat Issue (7月 <JAPEX>審査員1フレーム展)
・<JAPEX06> (11月 上記ワシントン展出品作品の凱旋展示)

 上記以外にも、公私にわたり、実に多くの方々より、ご支援・ご協力を賜りました。この場を借りて、皆様に厚くお礼申し上げます。

 明年は、1月4日発売の『SAPIO』1月24日号の連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」が、皆様にご覧いただく最初の仕事になる予定です。単行本に関しては、3月刊行予定の<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻を皮切りに、最低3冊の刊行を目標に頑張りたいと思います。

 引き続き、ご支援・ご協力を賜りますよう、お願い申し上げます。

 最後に、来る年の皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げ、年末のご挨拶に代えさせていただきます。どうぞ、良いお年をお迎えください。

 内藤陽介拝

 PS 昨日(30日)飛び込んできたサダム・フセイン処刑のニュースに関する話題については、正月三が日が済んでから書くことにします。さすがに、年末年始くらいは型通りのご挨拶をしておきたいものですから…。
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 『郵趣』今月の表紙:旧韓国の鷲切手
2006-12-30 Sat 00:45
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2007年1月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

鷲切手

 これは、旧大韓帝国の“鷲切手”。1910年の日韓併合に先立ち、1905年7月1日、当時の大韓帝国の郵政は日本によって接収されてしまうのですが、その旧韓国郵政の最後のシリーズとして1903年10月1日に発行された通常切手です。

 切手に描かれている鳥は、以前は鷹と考えられていましたが、近年、韓国では鷲とするのが一般的なようです。たしかに、韓国空軍や延世大学(韓国の慶応大学といわれる名門大学です)も鷹ではなく鷲をシンボルとしていますから、かの国の文化的な背景に照らせば、鷹より鷲の方がふさわしいのかな、とも思います。

 旧韓国の郵政は、1884年にいったんは創業されたものの甲申事変によって途絶し、1895年7月22日(旧暦では6月1日)、日清戦争の戦場となっている中で行われた近代化改革(乙未改革)によって、10年以上のブランクを経てようやく再開されました。ちなみに、このとき、再開された朝鮮郵政の切手製造を担当したのは、日本の印刷局ではなく、アメリカの民間会社アンドリュー・B・グラハム紙幣印刷会社(Andrew B. Graham Bank Notes Co.)です。

 今回ご紹介している鷲切手は、当時、大韓帝国駅逓司の顧問であったフランス人のクレマンセーの提言を受けて、フランスの政府印刷局で印刷されたもので、額面は2厘から2円(韓国通貨のウォンは“円”の現地語読み)15銭(韓国語読みではチョン)以上の高額は地色を全面印刷した上に図案部分を刷った二色刷となっています。

 切手だけを見ている限り、同時代の日本の菊切手に比べても印刷物としての水準は遜色なく、とても日本に併合される直前の国が発行したとは思えない出来栄えです。

 なお、1905年7月の大韓郵政の接収後も、発行済みの切手のうちの公衆手持ち分はしばらくは使用できましたが、それらは日韓併合前年の1909年8月に使用禁止となっています。

 さて、今月の『郵趣』は、なんといっても11月の<JAPEX>の特集が見所です。特に、恒例となった巻頭カラーでの名品集は、眼福モノの野マテリアルが目白押しで、テレビでいえば年末年始の特番に相当する豪華企画と言ってもいいかもしれません。

 是非、ご一読いただけると幸いです。
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 切手で世界旅行:パリ
2006-12-29 Fri 00:30
 今日(12月29日)は“シャンソンの日”なんだそうです。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

パリのパノラマ

 これは、フランス革命200年の1989年に発行された切手で、5枚の連刷でパリの名所を網羅する構成になっています。

 一番左側に取り上げられているのはメトロ1番線の西側の終点、未来都市を思わせる郊外の副都心、ラ・デファンス地区の箱舟(新凱旋門)です。その背後の旧凱旋門をまたぐ格好で隣の切手には、この切手が発行されるちょうど100年前、革命100周年を記念するパリ万博のために建てられたパリのシンボル、エッフェル塔が鎮座しています。

 真中の切手取り上げられているのは、1985年から1989年にかけてのルーヴルの大改築により、中庭に置かれるようになったガラスのピラミッド。その隣の切手には、中世以来のパリの歴史を見守り続けてきたノートルダムの大聖堂が登場します。さらに、一番右側の切手には、切手が発行された1989年にオープンしたばかりのバスチーユ広場の新オペラ座が取り上げられています。

 今回ご紹介している切手は、余白の部分をたっぷりとって、主役の建物を黒一色の線描で再現した後、赤・青・期・緑の4色を上から散りばめたものですが、使われている色数以上に見た目が華やかで、フランスらしい小粋な雰囲気を出すことに成功しているように思います。

 さて、現在、僕が担当している時事通信社の配信用コラム「切手で世界旅行」という短期連載(全12回)の第2回目は、パリの風景をパノラマ風に取り上げた子の切手を取り上げて見ました。第1回目のスフィンクスが12月5日付の『山形新聞』に掲載されたとのことですから(僕自身は現物を未確認です)、第2回目のコラムも、おそらく、既に掲載されているのだろうと思います。

 もし、拙稿をご覧いただいた方がおられるようでしたら、お手すきの折にご感想などお聞かせいただけると幸いです。
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 オイル・リヴァーズ
2006-12-28 Thu 00:54
 アフリカ中部、ナイジェリア最大の都市ラゴス近郊の人口密集地域で石油パイプラインが爆発して火災が発生し、少なくとも200人が死亡、60人がやけどを負うという大惨事があったそうです。

 このニュースを聞いて、今日はこんな切手を引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

オイル・リヴァーズ

 これは、1892年にイギリスの支配下にあったオイル・リヴァーズ保護国で発行された切手です。

 現在、ナイジェリアは世界第6位の産油国ですが、その一大油田地帯がギニア湾に面したニジェール川の三角州地帯、ニジェール・デルタです。ニジェール・デルタでの油田開発はイギリス時代末期の1950年代以降のことですが(ちなみに、ナイジェリアの独立は1960年のことです)、それ以前は、この地域はアブラヤシのプランテーション地帯でした。オイル・リヴァーズという名称も、石油ではなく、アブラヤシの産地であることから付けられた名前です。

 なお、オイル・リヴァーズ保護国は1885年に設立されましたが、1893年にはニジェール海岸保護国に改変されてしまい、オイル・リヴァーズの表示の入った切手も使われなくなってしまいます。

 さて、今回の石油パイプラインの火災事故は、どうやら、パイプラインから漏れる燃料を持ち去ろうとした住民の不注意で、漏れた燃料に引火したことが原因と見られているとか。

 現在のラゴスは、人口の増加に都市機能が追いつかず、バス・タクシーなど交通機能は麻痺状態。失業率も高く、きわめて治安の悪い都市として知られています。じっさい、パイプラインから石油を不正に持ち出して売買するなんてことは、人間の生命に関わることではないため、たいした犯罪とはみなされていないようで、そうしたことが今回の事故につながったとみてよいでしょう。

 メール詐欺として悪名高いナイジェリアの手紙といい、どうも、この国についてはあまり良い話を聞きませんねぇ。
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 サダム・フセインの死刑判決
2006-12-27 Wed 09:27
 イラクの元大統領・サダム・フセインの死刑判決が確定したそうです。というわけで、今日は数あるフセイン関連のマテリアルの中から、こんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

2002年誕生日切手のカバー

 これは、2002年4月28日に発行されたフセイン65歳誕生日の記念切手が貼られたカバーで、同年6月、バグダードからエストニア宛に差し出された書留便です。裏面には中継地モスクワで貼られた書留ラベルやタリン(エストニアの首都)の着印も押されていて、きちんとした実逓便であることがわかる、ご機嫌な一枚です。

 さて、以前の記事でも少し書きましたが、フセインが死刑判決を受けて絶体絶命のピンチに陥るのはこれが最初ではありません。

 じつは、彼はバアス党の若き活動家だった1959年、前年(1958年)の共和革命で政権を掌握したアブドゥルカリーム・カースィムの暗殺未遂事件を起こしてお尋ね者となり、シリアを経てエジプトに亡命。欠席裁判で死刑判決を受けたという過去があります。

 その後、1963年にバアス党がカースィム政権を打倒して軍事政権を樹立すると、フセインはテロリストから一転して革命の闘士として祖国に迎えられ、党の要職に就任。ところが、翌1964年のクーデターでバアス党が政権を追われると、フセインも逮捕・投獄されてしまいます。

 しかし、しぶといフセインはこのときも脱獄し、幾多の権力闘争を経て1979年についに大統領に就任するというわけです。

 今回のカバーに貼られている切手は、そうしたフセインの若き革命家時代の肖像を取り上げたもので、死刑判決を受けるほどに革命に挺身した彼のキャリアをたたえようという意図で発行されたものです。

 伝えられるところによると、イラクでは判決の確定から30日以内に刑の執行することが決められているそうで、そうなると、来年早々にはフセインも哀れ絞首刑に、ということになりそうです。しかし、フセインの裁判は(というよりも、フセインに限らず、かつての権力者の裁判というのはえてしてそうですが)、もともと、公正な司法手続きというよりも政治ショーという色彩の強いものですから、最後の最後に大どんでん返しがあって、終身刑に減刑というようなこともあるのかもしれません。あるいは、どさくさに紛れてフセインが脱獄するなんて可能性も無きにしも非ずです。

 どちらにせよ、しぶとい相手ですから、彼を死刑にしたい人たちというのは、実際に彼の遺体を確認し、お墓に埋葬するところまで見届けないと、枕を高くして眠るというわけにはいかないんでしょうね。

 なお、フセイン時代のイラクのプロパガンダ切手については、今年3月に刊行の拙著『これが戦争だ!』でも簡単に触れていますので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 独裁者死して
2006-12-26 Tue 00:57
 中央アジア・トルクメニスタンで旧ソ連時代から20年以上にも渡って独裁権力の座に君臨していたサパルムラト・ニヤゾフ大統領が21日に急死し、その葬儀が24日に行われました。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ニヤゾフ

 これは、1992年にトルクメニスタンが独立国として発行した最初の切手の1枚で、国旗をバックに、同年6月に晴れて初代トルクメニスタン大統領に就任したばかりのニヤゾフの肖像が取り上げられています。

 生前のニヤゾフは、とにかく、とてつもない独裁者で、トルクメニスタンは“中央アジアの北朝鮮”とまで言われていました。

 たとえば、首都のアシガバードでは、ほぼ50メートルごとに大統領の肖像や銅像が設置されており、肖像や銅像を清掃する担当者がいるほか、全ての生活必需品を網羅するニヤゾフ・ブランドの商品が売られています。まぁ、これくらいなら、他の独裁国家にも例がないわけではないのですが、大統領の一存で、①首都と大学を除く図書館の廃止(ニヤゾフいわく「田舎の人はどちらにしても字が読めないのだから」)、②バレエ上演の禁止(ニヤゾフいわく「白鳥の湖の男性ダンサーの衣装が気に入らない」)、③首都を除く地方の病院を閉鎖(ニヤゾフいわく「ちゃんとした医師は首都にいる。病人は首都に行けばよい」)、④女性の金歯を禁止(ニヤゾフいわく「女性には金歯が似合わない」)、⑤口パクの禁止(ニヤゾフいわく「歌や音楽の発展に負の効果をもたらす」)…といったトンでも系の規制がまかり通っていたとなると、やっぱり、ただ事ではないでしょう。ちなみに、ニヤゾフが肺がんの療養中ということで、トルクメニスタン国内は禁煙が義務化されていましたが、彼の死で、国民はタバコを吸えるようになったんでしょうか。

 まぁ、トルクメニスタンが何もない国だったら、辺境の独裁国家もお笑いネタですんだのでしょうけれど、なにせ、かの国は天然ガスの世界第4位の埋蔵量を誇る資源大国ですからねぇ。カマドの灰の下まで自分のモノにしていた独裁者の“遺産”をめぐって、これから一波乱も二波乱も起こるのは避けられないでしょうなぁ。

 収集家目当てのインチキ切手が多いといわれるトルクメニスタンですが、ひょっとしてひょっとすると、今後の政情次第ではいろいろと面白いマテリアルが登場することになるのかもしれません。しばらくは要チェックですな。

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 “壮大な実験”の失敗
2006-12-25 Mon 01:11
 1991年12月25日にミハイル・ゴルバチョフがソ連の大統領を辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅してから、ちょうど15年が経ちました。というわけで、今日はこんな葉書を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

第1次5ヵ年計画プロパガンダ葉書

 これは、1932年にソ連が第1次5ヵ年計画のプロパガンダ政策の一環として発行した葉書で、1933年1月に東京の文部省宛に差し出されたものです。印面の労働者や葉書の余白部分に印刷された工場とトラクターなど、“進歩する社会主義”を表現したいかにもなデザインが、何ともいえない味を出しています。

 1930年代初頭、資本主義諸国が世界恐慌で不況に苦しむ中、計画経済体制を敷いていたソ連は、第1次5ヵ年計画の超過達成に見られるように、世界恐慌の影響を受けずに高い経済成長を達成しました。

 このため、バーナード・ショーをはじめ各国の左翼知識人は、ソ連を「失業も階級もない理想の国家」と高く評価しましたが、ソ連の経済成長の実態は政治犯などを動員した強制労働に支えられ、その果実の大半は、軍事に投じられるか、いわゆる共産貴族たちに分配されるか、そのいずれかでしかなかったことが現在では明らかになっています。

 実際、いくらGNPが大きくとも、国家の技術と資金が軍事に偏重して投じられ、国民生活に必要な電化製品や消費財の開発と生産、物流の整備がおろそかにされるのであれば、国は栄えても国民が耐乏生活を強いられるのは当然のことです。こうしたことは、社会主義大国といわれたソ連国家によって国民に日常的に供されていた葉書が、ここに示しているような粗末なモノでしかなかったことからも十分にうかがいしることができましょう。
 
 そう考えると、(理念としての社会主義はともかく)実態としての社会主義国家という、20世紀の壮大な実験が失敗におわったのも、むべなるかな、といえそうです。
 
 ただ、一切手小僧として言わせてもらうと、印刷物としてのクオリティは粗雑なのですが、1950年頃までのソ連の切手というのは、なんともいえない素朴で独特の雰囲気があって、個人的には決して嫌いではありません。まぁ、切手がいいからと言って、その国で生活したいかといわれると、それはまったく別の次元の話なわけですが…。

 なお、今回ご紹介した葉書と同時代のソ連のプロパガンダ葉書については、拙著『反米の世界史』でも簡単にまとめてみたことがありますので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 ベツレヘムに平和を
2006-12-24 Sun 00:45
 今日はクリスマス・イブ。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ベツレヘム

 これは、2001年にパレスチナ自治政府が発行した「ベツレヘムに平和を!」と呼びかける切手で、ベツレヘムの街並みを聖母子が描かれています。

 キリスト生誕の地であるベツレヘムは、現在、パレスチナ自治区にあり、パレスチナ自治政府にとっては大勢の観光客が期待できる貴重な収入源です。しかし、2000年以降の治安の悪化により、観光客へ激減。特に、今年に入ってから、3月にイスラム原理主義組織のハマスが内閣を組織したことに加え、7月にはレバノン紛争もあって、現地では閑古鳥が泣いている有様だそうです。

 もちろん、頼みの政府はハマス内閣が発足したことで欧米からの援助がストップし、キリストの生誕地に建てられた聖誕協会の装飾費の捻出もままならず、ベツレヘム市としては、キリスト教団体などに寄付を呼びかけているそうですが、果たして目標の7万ドルを集めることができるかどうか…。

 僕自身はクリスチャンではないのですが、ベツレヘムのこういう話を聞くと、やっぱり、いろいろと考えさせられます。まさに、今回の切手に書かれているように、「ベツレヘムに平和を!」と祈らずにはいられません。

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 お祝いのビール?
2006-12-23 Sat 00:45
 今日は天皇誕生日ということで、今上陛下がらみの話題ということで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

立太子礼・麒麟

 これは、1952年、明仁親王の立太子礼(皇太子とされた親王が、内外に皇太子であることを宣明するための儀式)を記念して発行された切手の1枚で、中国の伝説の聖獣・麒麟が描かれています。

 講和条約後はじめての皇室の慶事となった明仁親王の立太子礼を記念する切手の題材として、郵政省は殿下の肖像を切手に取り上げようとします。しかし、この計画は宮内庁の反対で実現しませんでした。

 このため、郵政省は殿下の肖像に代わる題材として東宮相伝の秘宝・壺切剣を切手に取り上げることを考えます。

 壺切剣に関しては、かつて、1916年の昭和天皇の立太子礼に際して、記念切手の題材として取り上げようとしたものの、宮中の秘宝という理由で模写ができず、実現しなかったという経緯もありました。

 そこで、郵政省は、大正5年の立太子礼を撮影した膨大な新聞写真の中から剣の写っているものを探し出し、早速、宮内庁に確認のために照会。しかし、これに対して、宮内庁側の元東宮侍従長・甘露寺受長は、件の写真は合成したもので実物とは異なると回答。結局、今回も郵政サイドは剣の写真さえも見ることができず、このプランを放棄せざるを得ませんでした。

 このため、郵政省は、あらためて、文献資料の調査によって剣には海浦模様の蒔絵と麒麟の螺鈿が施されていることを突き止め、麒麟を国内料金用の5円ならびに10円の切手の題材とすることにしました。

 麒麟は中国の古代思想における四神のひとつで、鹿の身体に、角の生えた狼の頭、牛の尾、馬の足と角を持ち、優れた王(為政者)が出現したときに現われるといわれています。なお、麒麟との表記は、この霊獣の総称で、麒はオス、麟はメスを示しています。

 切手の制作に関しては、郵政サイドは、国立博物館の協力も得て、正倉院御物、高御座、そして壺切剣の麒麟は基本的にはほぼ同じ形状であることを確認し、正倉院御物を資料として実際の切手を制作しています。なお、切手の発行に際して、郵政省がこの麒麟が壺切剣にちなむものであることをさかんに強調しているのは、せめてもの意地とみてよいでしょう。

 もっとも、切手に描かれた麒麟は、通常の日本人にとってはキリンビールの商標によってなじみ深いものであったために、霊獣本来のイメージで理解されることは少なく、「ビールのレッテルのようだ」(当時の投書の文言より)と評する声が多かったようです。ちなみに、オランダ語のレッテルは、現在では「レッテルを貼る」というネガティブな表現でしかほとんど使いませんが、当時は英語のラベルと同じ意味で使ってたんですねぇ。まぁ、肖像切手の件で、宮内庁のことをボロクソに書いている僕なんか、おそらく彼らからはありがたくないレッテルを貼られているんでしょうけれど…。

 なお、明仁親王の肖像切手をめぐる郵政省と宮内庁の暗闘については、昨年刊行の拙著『皇室切手』で詳しくまとめていますので、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 アラブの人種差別
2006-12-22 Fri 00:53
 映画『TAXi』シリーズで知られるフランスの俳優、サミー・ナセリが、黒人の警察官に対し人種差別的行為を働いたとして、6か月の禁固刑を言い渡されたのだそうです。

 このニュースを聞いて、ちょっと考えるところがあったので、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

エジプト革命

 これは、1952年のナセルのエジプト革命成功を記念して、同年11月に発行された切手の1枚で、エジプト地図を背景に、アラブの男女とヌビア人の男性が描かれています。ヌビア人というのはナイル川上流域に住んでいる人たちで、外見上はいわゆる黒人に近い容貌をしています。

 この切手は、アラブとヌビア人の団結による新生エジプト国家の建設を訴えるものですが、そもそも、こうした切手が発行された背景には、エジプト社会における深刻な“黒人”差別があったということを見逃してはなりません。

 エジプトに限らず、アラブ世界では、伝統的に根強い黒人差別が存在しています。極端な平等論者であったハワーリジュ派のイスラム教徒が「奴隷や黒人であっても、共同体の政治指導者になる資格がある」と主張したのは、アラブ世界において黒人に対する偏見が以下に強かったかを逆説的に物語っているといえます。また、そうした神学上の論争を別にしても、アラビア半島で黒人奴隷が廃止されたのは1970年代以降のことですし、日本人に対して「ヌビア人がパーティに出席するけれども、気を悪くしないでくれ」と弁明してくるエジプト人というのは少なくないといわれています。

 このため、エジプトのヌビア人のように、国内に一定の割合で黒人系のマイノリティを抱えるアラブ諸国にとって、人種間の宥和は深刻な問題となっているわけですが、その解決は容易ならざるものがあります。

 今回、問題となったサミー・ナセリは、アルジェリア人の父とフランス人の母から生まれた人物ですから、多分に、アラブ的な文化的背景の下で育ってきたものと思われます。当然のことながら、アラブ社会の負の側面の一つである、黒人への差別的感情も受け継いでしまったものと考えるのが自然で、そうしたことは今回の事件と無関係ではないでしょう。

 もっとも、ナセリにしても、フランス社会ではアルジェリア系ということで、これまで少なからず差別を受けてきたはずです。それゆえ、今回の事件は、差別を受けた者が、より弱い立場の者を差別してしまうという人種問題の深刻さをあらためて我々に感じさせてくれる一件といえそうです。
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 切手で世界旅行:スフィンクス
2006-12-21 Thu 00:46
 現在、時事通信社の配信用コラムとして「切手で世界旅行」という短期連載(12回分)の原稿を書いています。

 ご承知のように、時事通信社は、同社自体が新聞を発行しているわけではなく、マスコミ向けにニュースなどを配信する通信社です。というわけで、時事通信社に原稿を提出しても、それが実際にマスコミ向けに配信され、地方紙などに掲載されるのはいつのことになるのか、筆者である僕は、掲載紙を見てはじめて知るというのが実情です。

 で、つい先日、ようやく「切手で世界旅行」の掲載が『山形新聞』12月5日号から始まったということがわかりましたので、これから、折を見てこのブログでも「切手で世界旅行」の内容をご紹介して行きたいと思います。

 さて、栄えある連載の第1回目のお題は、エジプトのスフィンクスとピラミッド。というわけで、こんな切手を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

スフィンクス

 カイロの近郊、ギーザのピラミッドとスフィンクスは、紀元前2500年代の建設といわれています。はやくも紀元前2世紀にはフィロンによって「世界の七不思議」に挙げられていたくらいですから、世界最古の観光地の一つといってよいでしょう。幕末の1864年には、ヨーロッパを歴訪した外国奉行の池田筑後守ら一行がギーザに立ち寄り、スフィンクスを背景に撮影した記念写真なんてものも残っていますから、日本人観光客の歴史も浅からぬものがあります。

 ところで、世界最初の切手がイギリスで発行されたのは1840年のことでしたが、1866年にはエジプトでも切手の発行が始まりました。最初の切手はアラビア文字による模様的なデザインでしたが、1867年からはギーザのスフィンクスとピラミッドを描く切手が日常的に使われはじめます。

 19世紀の切手は、国王の肖像や紋章、額面数字を大きく描いたものなど、実用本位ではありますが、退屈なデザインのものが主流でしたから、いかにもエジプトらしさを感じさせるスフィンクスの切手は、当時としては非常に魅力的な存在でした。じっさい、ピラミッドやスフィンクスの絵葉書の絵面にスフィンクスの切手を貼って差し出すということも、当時の欧米人旅行社の間では盛んに行われていました。

 さて、今回ご紹介しているのは1867年に発行された最初のスフィンクス切手のうちの2ピアストル切手。地中海に面したエジプトの港町、アレキサンドリアの印刷所で外国人によって作られたものです。エジプトのスフィンクス切手には、カイロの国営ブーラーク印刷所で作られたイモ版のような素朴なものから、デラルー社による精緻なものまで、印刷物としてのクオリティには大きなばらつきがありますが、この切手は、その中間くらいの出来栄えといったところでしょうか。

 スフィンクスの両脇に配されたオベリスクや遺跡風の柱も良い味を出しています。

 「切手で世界旅行」(もしかしたら、掲載時には別のタイトルが付けられているかもしれません)では、これから、世界各地の主な観光地を切手でご紹介しつつ、その国の切手についてもチョコッと紹介してみようという企画です。なにせ、500字程度のスペースしかありませんので、あまり込み入った話はできませんが、一人でも多くの方に、“外国のかけら”としての切手の魅力をご理解いただけるよう、努力して行きたいと思います。皆さんも、地元紙等で拙稿を見かける機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 1923年生まれの台湾人
2006-12-20 Wed 01:50
 日本の対台湾窓口機関、交流協会台北事務所が19日に台北市内のホテルで開いた天皇誕生日の祝賀レセプションに、台湾の前総統・李登輝が出席してくれたそうです。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

台湾行啓

 これは、1923年4月、当時の皇太子(後の昭和天皇)が台湾を訪問したことを記念して発行された記念切手です。

 皇太子の台湾訪問は、文官の台湾総督であった田健次郎の下で進められていた宥和政策の一環として企画されたもので、1921年11月に病身の大正天皇の摂政となり、実質的な国家元首となった皇太子の存在を植民地の住民に認識させるためのものでもありました。

 今回の記念切手は、逓信大臣の経験者でもある総督の田が発行にいたるまでのイニシアティヴをとっていたほか、郵便局での発売も台湾内に限られる(ただし、内地でもこの切手を郵便に使用することはできました)など、実質的には台湾総督府の発行したものです。ただし、切手を発行するということは、その国の郵政主権の根幹にかかわる部分であり、当時の日本においては逓信省以外には切手発行の権限が認められていなかったため、この切手についても、発行の告示その他の形式上は、逓信省が発行したという体裁が整えられました。もっとも、この年の『逓信省年報』には、この切手についての記載がいっさいなく、逓信省みずから、この切手を台湾ローカルの切手とみなしていたようです。

 さて、切手に取り上げられているのは、台湾で最も高い山“新高山”です。新高山は、本来、現地名で“玉山”というのですが、台湾を日本が領有した後、明治天皇の命名により改名され、戦前はこのように呼ばれていました。現代の日本人にとっては、太平洋戦争開戦時の日本軍の暗号「ニイタカヤマノボレ」のフレーズの方がなじみ深いかもしれません。なお、第二次大戦後は、当然のことながら、本来の玉山の名で呼ばれるようになっています。

 当初、皇太子は、1923年4月5日に東京を出発して台湾に向かう予定でしたが、大正天皇の病状悪化から、出発は4月12日に延期されました。これに伴い、記念切手の発行も、皇太子の台湾到着の遅れにあわせて、当初予定の4月9日から16日へと延期されています。

 ところで、この切手が発行された1923年は李登輝の生まれた年でもあります。

 日本の教育を受けた李登輝は、「22歳(1945年)まで自分は日本人であった」と公言するなど、きわめて親日的な人物です。それゆえ、靖国神社や尖閣諸島の問題でも日本寄りの発言をし、そのことが彼の地で反発を招くことも少なからずあるのですが、日本の理解者として貴重な存在であることは間違いありません。

 僕は、日本の植民地統治が台湾にとって単純にバラ色の時代であったというつもりは毛頭ありませんが、それでも、日本の統治が台湾にもたらしたプラスの側面については日本人自身がもっと積極的に評価しても良いと思っています。

 いずれにせよ、日本と台湾の宥和を目指して行われた皇太子訪問の年に、李登輝が誕生したという偶然に、僕なんかは、なんとなく因縁めいたものを感じてしまうのですが、いかがでしょうか。

 なお、皇太子時代の昭和天皇と台湾との関係については、昨年刊行の拙著『皇室切手』でも、若干のスペースを割いて触れていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 外国切手の中の中国:フランス
2006-12-19 Tue 00:50
 NHKラジオ中国語講座のテキストの2007年1月号ができあがりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」では、一足早いお正月気分ということで、今回は、欧米で旧正月用の年賀切手を発行している国の中から、フランスを取り上げています。その中から、こんな1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

フランスの年賀切手(2006年)

 これは、フランスが今年の旧正月用に発行した年賀切手で、干支にちなんで犬(切手上の表記は“狗”)が描かれています。水墨画風の犬の絵が、西洋人がイメージするアジアの犬の雰囲気をよく表しています。

 フランスでは以前から太陽暦での新年を祝う切手が発行されていましたが、旧暦での新年にあわせて干支をデザインした年賀切手が発行されるようになったのは、2005年以降のことです。

 フランスが、このように年賀切手を発行するようになったのは、フランス社会における中国系住民(華人)の社会的影響力が増大し、彼らの習慣を無視できなくなった結果と考えるのが妥当でしょう。

 フランスにおける華人社会の本格的な歴史は、1918年に第1次大戦が終結したところから始まります。

 すなわち、大戦の戦後復興のための労働力不足に悩んだフランスは、植民地の人々を労働者として本国に動員したほか、中国からの出稼ぎ移民を大量に受け付けました。当初、フランスに渡った移民の多くは広東省潮州の出身者が圧倒的多数を占めており、彼らはパリ12区のリヨン駅周辺にフランス最初の中華街を作っています。

 その後、若者たちを対象に、フランスで働きながら学ぶ“勤工倹学”の運動が盛んになり、1920年代初頭には、周恩来や小平など、後に中国共産党の中核を担うことになる多くの人材が勤工倹学の制度を利用してフランスに渡りました。

 時代は下り、1970年代になると、インドシナの戦乱や共産主義政権の民族主義的な政策による弾圧を逃れて、ボートピープルとして、ベトナムとはじめとするインドシナ各地から旧宗主国のフランスに逃れる華人が激増。フランスの華人社会は一挙に拡大します。

 また、中国本土でも、1978年から本格的に改革開放が始まり、中国人の海外出国制限が大幅に緩和されるようになると、浙江省の温州などからヨーロッパへの移民が急増しました。ちなみに、温州出身者の在外華人は38万人といわれていますが、そのうちの8万人がフランス在住です。さらに、最近では中国国内の経済格差の拡大により、東北地方などからの不法移民も増加傾向にあり、現在のフランスには約80万人の華人が住んでいるともいわれています。

 これはヨーロッパ在住の中国系住民の人口としては群を抜いて大きな数字です。特に、パリ13区のチャイナタウン(ポルト・ディ・ヴリー地区)は、1970年代、都市開発により建てられたマンション群が石油危機などの不景気によってパリ市民に人気がなくなったところに、東南アジア系を含む華人が集中して住み着いたことで出来上がったもので、ヨーロッパ最大の中華街です。このほか、パリには東部の19区ベルヴィルと、3区のグラヴィリエ街沿いの、合計3ヵ所のチャイナタウンがあります。

 今回の記事では、かつての勤工倹学に関わるカバーなどもご紹介しつつ、フランスにおける中国系移民の歴史を振り返っています。是非、ご一読いただけると幸いです。

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 国連加盟50年
2006-12-18 Mon 01:12
 今日(12月18日)は、1956年にわが国が国連加盟を果たしてからちょうど50年の日だそうです。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

国連加盟

 これは、わが国の国連加盟を記念して1957年3月に発行された切手です。

 国連加盟という国家の一大慶事に際して記念切手を発行することは、すでに1955年12月の段階で外務省から郵政省に対して要請がなされていました。このとき、外務省側は、加盟発行日から約1ヵ月後の記念祝典にあわせて記念切手を発行して欲しいとの希望を出していましたが、加盟そのものが達せられなかったため、発行計画は沙汰止みとなっています。

 こうして、いったんは頓挫した国連加盟記念切手の発行計画でしたが、1956年10月、日ソ間の国交が正常化され、国連加盟にも実現のめどが立ったことで準備が再開されます。

 当初、現場の政策サイドでは、記念切手はグラビア多色刷で5円と10円の2種を発行することが計画されていましたが、記念切手は凹版単色刷の10円切手1種を発行するということに計画が変更されます。

 この方針の下、原画の下図が作成され、12月3日、国連マークと手を描く木村勝作品、日章旗と国連気を描く吉田豊作品、国連マークと五重塔を描く久野実作品、国連マークとバラの花を描く長谷部日出男作品などが候補として提出されました。

 しかし、当時の郵務局長・松井一郎はこれらの候補作品のいずれにもOKを出さず、「光は東方より」というイメージのもの、もしくは、国連マークをユネスコなど日本が加入している専門機関の略称などで囲んだものがよいのではないかとの提案がなされました。

 このため、12月10日、国連のマークを専門機関の略称で囲んだ木村勝の作品と「光は東方より」をイメージした地球上の群像を描いた渡辺三郎の作品とが候補として再度提出され、木村の作品が採用されました。

 木村の原図は12月22日に本描が完成。版式は、国連機関の略称を入れた青色のバックをグラビアで印刷した上に、国連マークと日本語の記念文字、額面などを赤色の凹版で印刷するという方針が決定されます。なお、バックに入っている国連機関の略称は、ILO(国際労働機関)、FAO(国連食糧農業機関)、UNESCO(国連教育科学文化機関)、ICAO(国際民間航空機関)、IBRD(国際復興開発銀行)、IMF(国際通貨基金)、WHO(国際保健機構)、UPU(万国郵便連合)、ITU(国際電気通信連合)、WMO(世界気象機関)です。

 こうして、年末年始にかけて印刷局での調製作業が行われ、1957年3月8日、日比谷公会堂で国際連合加盟記念国民大会が開かれるのにあわせて記念切手が発行され、席上、郵政大臣・平井太郎から、日本国際連合協会会長・佐藤尚武 に対して、大臣署名入りの記念切手が贈呈されました。

 なお、この切手を含めて、昭和30年代前半の記念切手については、拙著『ビードロ・写楽の時代』でまとめてみましたので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

 *同書は現在、版元品切れ中です。<解説・戦後記念切手>シリーズは、来春には第5巻も刊行の予定ですので、なんとか、版元の日本郵趣出版さんには頑張って増刷をかけてもらいたいと切に願っているのですが…。
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 国連は歓迎してくれる、かな?
2006-12-17 Sun 00:47
 来年1月1日に就任する国連の潘基文新事務総長が現地時間の14日、国連総会で就任宣誓を行い、実質的に潘総長の新体制がスタートしました。というわけで、韓国+国連ネタということで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

歓迎・国連韓国委員会

 これは、1949年2月12日、韓国が発行した“国連韓国委員会歓迎”の記念切手です。

 日本敗戦後の朝鮮半島の戦後処理に関しては、1945年12月のモスクワ協定で、朝鮮半島を一定期間の信託統治下に置くことが決められましたが、その是非をめぐって、南北左右の対立が激化します。こうした状況の中で、1946年5月、モスクワ協定の実施をめぐりソウルで開催されていた米ソ共同委員会がなんら成果を挙げぬまま無期休会となると、李承晩は、全羅北道の井邑で「南だけでも臨時政府を樹立しよう」と演説。それまで、朝鮮内では公式にはタブーとされていた単独政府論(ただし、北半部では、すでに同年2月、事実上の単独政府として「北朝鮮臨時人民委員会」が樹立されていた)を展開します。

 その後、無期休会となっていた米ソ共同委員会は、1947年5月に再開となったものの、米ソの対立は全く解消されず、両者の相互不信を増幅したまま、同年10月、完全に決裂してしまいました。

 こうして、問題解決の目途を失ったアメリカは、1947年9月17日、朝鮮問題を第2回国連総会に上程。国連臨時朝鮮委員会を設置し、1948年3月末までに、同委員会の監視下に総選挙を実施するとの決議を採択させます。

 しかし、すでに北朝鮮のソビエト化をほぼ完成させていたソ連は、朝鮮半島からの米ソ両軍の同時撤兵を主張。選挙監視のために国連委員会が北緯38度線以北に立ち入ることを拒絶しました。このため、1948年2月、国連総会中間委員会は、「選挙の可能な地域」、すなわち南朝鮮(大韓民国はまだ発足していません)での単独選挙を決議。こうして、同年5月10日、米軍政下の南朝鮮で第1回総選挙が実施されました。

 選挙が終了すると、国連の臨時朝鮮委員会は選挙の成功を発表。これを受けて、5月31日、国会が開院し、憲法が制定され、8月15日に大韓民国が正式に誕生します。この間の6月25日、臨時朝鮮委員会は、選挙により成立した南朝鮮国会を正統議会として認定しています。ちなみに、朝鮮民主主義人民共和国政府が正式に発足するのは同年9月9日のことでした。

 さて、両政府成立後の1948年9月24日に開催された国連総会本会議では、朝鮮問題の審議は第一委員会(軍縮・安全保障)に付託されます。第一委員会では、①臨時朝鮮委員会の報告を承認する、②新しい朝鮮委員会を設置する、③総会では大韓民国を朝鮮の正統政府とする、④新たに設置される朝鮮委員会は朝鮮の統一を援助する、ことを、アメリカ、オーストラリア、中国(中華人民共和国ではなく、台湾の国民党政府)の3ヶ国が共同決議案として提出しました。

 これに対して、ソ連は、臨時朝鮮委員会の監視下で行われた南朝鮮の単独選挙は、政治的拘束と抑圧の中で実施された不当なものであるとしたうえで、①そもそも朝鮮問題はモスクワ協定で処理すべきものであり、国連総会は朝鮮に関して行動を起こす権利はない、②大韓民国は元対日協力者と米軍により構成された傀儡政権である、③(彼らの主張では)南北双方の代表からなる朝鮮民主主義人民共和国こそが朝鮮人民の意思を代表している、④朝鮮人民の代表こそが国連に招請されるべきである、などとする決議案を提出して対抗。

 結局、1948年12月8日、国連総会はソ連決議案を否決して共同決議案を採択。これを受けて、12月12日、①臨時朝鮮委員会の報告を承認する、②大韓民国政府は、臨時朝鮮委員会が観察した選挙で樹立された、朝鮮にある唯一の合法的な政府である、③臨時朝鮮委員会の任務を継承する組織として朝鮮委員会を設置する、ことを骨子とするの総会決議195(Ⅲ)が採択され、国連の場では韓国が朝鮮半島の正統政府として認知されます。そして、この決議を踏まえて、1949年2月12日、新たな朝鮮委員会がソウルで活動を開始。こうして韓国と国連の関係が始まりました。

 今回ご紹介している切手は、以上のような経緯を経て、国連の朝鮮委員会が活動を開始するのにあわせて、自らの主張に沿った内容の総会決議を採択した「国際社会」に対する謝意を表すために韓国が発行したものです。

 さて、現在の盧武鉉政権は、対北朝鮮宥和路線の太陽政策に固執し、北朝鮮のミサイル発射や核実験に対して相次いで警告・制裁措置が決議された後も、北朝鮮に対する民間サイドの経済支援を継続することを宣言するなど、国連との対決色を強めています。

 潘新総長は、総長選出の知らせを受けて「これからは胸は韓国に、視野は世界にむけて行動する」と発言しましたが、韓国政府と世界の波長が全く噛み合っていない現状では、かなり難しい舵取りを要求されるのは間違いありません。新総長歓迎の華やいだ雰囲気とは裏腹に、本国と国連との間で板挟みになることが確実な潘新総長の前途は、まさに茨の道といえそうです。
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 教育復興
2006-12-16 Sat 00:46
 今国会の最大の焦点であった改正教育基本法が成立しました。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

教育復興

 これは、1948年に発行された“教育復興運動”の切手のシート上部、題字のついた6枚ブロックで、切手発行にあわせて用いられた特印(記念スタンプ)が押されています。耳紙に「民主国家は教育から」という標語が入っているのも良い感じです。

 占領期の教育改革は、ソフト面での改革にあたる“民主化”と併行して、制度面での改革として、義務教育年限を9年間に延長する「6・3・3・4制」の導入を柱としていました。もっとも、当時の日本にはこうした制度改革を行うための経済的余裕は少なく、教科書・教材はもちろん、教員・教室も不足しており、いわゆる青空教室や2部授業が一般的に行われていました。

 このため、1947年6月1日に成立した片山哲内閣の文相・森戸辰男は、追加予算で教育改革のための経費を計上することを声明。同年7月の閣議で、厳寒地域の教室新造のために31億円を閣議で通過させています。もっとも、この金額は半額を地方が負担することを前提としたもので、政府の掲げる民主教育の実現にはほど遠いものでしかありませんでした。

 こうした状況の中で、教育関連の財源確保のための人頭税の新設が論議されていたほか、民間においても戸数制の六三教育充実寄附金が行われるなど、さまざまなかたちで教育振興運動が展開されることになりました。

 今回ご紹介している切手は、そうした風潮を踏まえ、都立城南中学の教員で、学生郵便切手会の顧問的な存在(賛助会員)であった谷信勝が、6・3制の実施のみならず、ひろく教育一般を振興するためのキャンペーン切手を発行することを提唱。その実現のために奔走して、発行にこぎつけたものです。

 なお、マニアックなネタを一つだけ付け加えておくと、この切手にはオフセンター(切手の印面に対して、目打=ミシン目がずれて入れられているもの)が非常に多いことで知られていますが、これは目打機の設定に問題があったことが原因です。

 すなわち、この切手は、1枚分の大きさが横25.6ミリ×縦29.9ミリとなっています。これに対して、穿孔を行う櫛型目打機では、切手一枚分の設定は横23.5ミリ×縦29.9ミリとなっています。そこで、シート一段毎に穿孔作業を行う場合、次の段への穿孔を横方向に2.1ミリずらして調整すれば問題がなかったのですが、この調整が実際には1.9ミリとなってしまったため、切手1枚につき0.2ミリ、最終段では2ミリ、目打が印面方向に食い込む結果となります。

 この目打のズレの話は、まさに、小さなボタンの掛け違いが積もり積もって厄介な結果をもたらすのと似ています。まぁ、そういうのを正すのが、ホントの意味の教育なんでしょうけど、今回の教育基本法改正はそのための役に立つのかどうか…。まずはお手並み拝見というところでしょう。

 なお、今回の切手については、拙著『濫造・濫発の時代』でも詳しくまとめていますので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 空飛ぶ哺乳類
2006-12-15 Fri 00:51
 中国・内モンゴル自治区の約1億2500万年前の地層から、グライダーのように滑空する新種のほ乳類の化石(空飛ぶ哺乳類の化石としては最古のモノ)が見つかったそうです。新聞に出ていた想像図を見ると、どうやら、ムササビとかモモンガとか、そういう感じの動物みたいです。

 とはいえ、空飛ぶ哺乳類といえば、なんといってもコウモリが代表的な存在でしょう。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

オガサワラオオコウモリ

 これは、1974年11月15日、自然保護シリーズの1枚として発行されたオガサワラオオコウモリの切手です。

 オガサワラオオコウモリは、小笠原諸島に生息し、また、硫黄列島にも棲息しているといわれています。体長は約二十三センチで、翼を広げると八十センチほどに達します。体毛は全身暗褐色で、光沢のある銀白色毛がまばらに生えています。

 父島・母島では夜行性ですが、人の住まない南硫黄島では昼間にも飛翔・採食活動が観察されていて、本来は昼行性のコウモリです。植食性で果実、花の蜜、葉などを食べます。

 ところで、オガサワラオオコウモリは、戦前は硫黄島にも住んでいたのですが、太平洋戦争末期の激戦で同島では絶滅したともいわれているようです。戦争の余波が思わぬところにも影響を及ぼしていて、ちょっと驚かされてしまいます。

 さて、2001年から毎年春に刊行している記念切手の読む事典、<解説・戦後記念切手>シリーズですが、現在、来年3月頃に第5巻を刊行できるよう、鋭意作業中です。今回は、1972年の札幌オリンピックから1978~79年ごろまでを対象としており、今日ご紹介している自然保護シリーズも含まれています。

 タイトルや発売日など、詳細が決まりましたら、またこのブログでもご案内いたしますので、お楽しみに。
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 ばかげたコラージュ
2006-12-14 Thu 00:48
 雑誌「SAPIO」の12/27・1/4合併号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、今日(14日)の“義士祭”にちなんで、大石内蔵助を取り上げました。

 以前の記事でも書きましたが、いわゆる元禄赤穂事件の本質は、赤穂浪士なる失業者集団が徒党を組んで罪のない老人の屋敷を襲い、吉良義央をはじめ、多数の人々を殺傷し、破壊の限りをつくした極悪非道なテロ事件でしかないというのが、僕の持論です。今回の「SAPIO」の記事でも、以前の記事でご紹介した切手を取り上げながら、そうした点についてご説明していますので、是非、ご一読いただけると幸いです。

 もっとも、ここで話が終ってしまっては、せっかく遊びに来ていただいた皆さんに申し訳ありませんので、今日は“赤穂浪士”つながりで、こんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

忠臣蔵八景

 これは、2004年1月23日に発行された「科学技術とアニメ・ヒーロー・ヒロインシリーズ」の第2集のうち、“和時計”を取り上げた切手のマキシマムカード(切手を関連するデザインの絵葉書の絵面に貼って記念押印したもの)です。

 江戸時代、日本では不定時法(明け六ツと暮れ六ツを境に1日を昼間と夜間に分け、それぞれを6等分する時刻制度)を採っていました。外国には見られない独特の和時計が開発されたのはこのためです。

 不定時法に対応させるため、和時計では、棒天符の仕組みが採用されました。これは、左右の分銅の位置を遠ざければ遅く、近づければ早く振れることで運動速度を変えるというもので、18世紀末から19世紀はじめにかけては、昼間用と夜間用の二本の天符「二挺天符」が普及しました。

 切手に取り上げられているのは、文政期の時計師・長谷川長右衛門清茂作の二挺天符目覚付櫓時計と、武士が時計を調整する様子を描く歌川豊国筆の錦絵「忠臣蔵八景」で、いずれもセイコー時計資料館の所蔵品です。

 このうち、歌川豊国(3代目)の『忠臣蔵八景』は、1865年(慶応元)1月に刊行されたもので、「仮名手本忠臣蔵」の8つの場面を「瀟湘(しょうしょう)八景」に見立てたものです。

 「瀟湘八景」とは、もとは、中国湖南省の瀟江と湘江が合流して洞庭湖に注ぐ地域、“瀟湘”の景勝8ヶ所のことで、北宋の文人画家・宋迪(そうてき)が画題として選んだことに由来しています。以後、日本でもこれにならい、近江八景や金沢八景などが作られました。

 八景は、①夜雨、②晩鐘、③帰帆、④晴嵐、⑤秋月、⑥落雁、⑦夕照、⑧暮雪の場面で構成され、切手に取り上げられた錦絵は、時の鐘をイメージする「晩鐘」のかわりに和時計を取り上げたものです。

 オリジナルの錦絵では、マキシマムカードが示しているように、武士が調整しているのは一挺天符櫓時計(天符と呼ばれる水平の棒が1本)ですが、切手上では、あたかも、武士が二挺天符目覚付櫓時計(文政期の時計師・長谷川長右衛門清茂の作品で天符は2本)を調整しているかのように合成されています。

 それにしても、錦絵を見せるのなら純粋に錦絵を見せるべきでしょうし、二挺天符目覚付櫓時計を見せたいのなら、そちらをきちんと切手に取り上げれば良いものを、どうしてこのようなコラージュにしてしまったのか、はなはだ理解に苦しむところです。デザイナーは“芸術”のつもりかもしれませんが、どう考えたって文化遺産を冒涜しているとしか思えません。日本国の名において発行される切手に、このような人をバカにしきったお遊びを取り上げるなんて、まさに国辱といってよいでしょう。“浪士”たちは、こういう切手を産み落とした人間の家こそ襲撃してほしいものだと思いたくなります。

 まぁ、そもそも、「科学技術とアニメ・ヒーロー・ヒロインシリーズ」という設定そのものが、科学技術とアニメという本来は全く次元の異なるものを強引に結びつけてできあがった企画ですから、その意味では、こういうばかげたコラージュこそが企画の趣旨にかなったものといえるのかもしれませんけれど…。
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 切手の中の建設物:宣武門教会
2006-12-13 Wed 01:21
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の12月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の建設物」では、今月は、クリスマスの月ということもあって、協会の切手の中から、バチカンの発行した北京の宣武門教会を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

宣武門教会

 1582年、広東に入ったイタリア出身のイエズス会宣教師マテオ・リッチは、科学知識を武器に布教活動を展開。1601年には明朝の皇帝・万暦帝への謁見を果たし、北京での居住と中国本土での布教の許可を獲得し、1605年には、紫禁城の西南、宣武門の内側の一角に居を定め、そこに小さな聖堂を建てました。

 1644年、明朝に代わって清朝が中国本土を制圧した後も、しばらくはイエズス会の活動は続けられ、皇帝・順治帝は、1650年、ドイツ出身のイエズス会宣教師アダム・シャールに対して、かつてリッチが住んでいた一角を下賜。シャールはこの地にバロック様式の本格的な天主堂を建て、自らもそこに住みます。これが中国最古の教会、聖母無染原罪堂です。ただし、一般には、聖母無染原罪堂という正式名称ではなく、所在地にちなんで“宣武門内天主堂(宣武門教会)”ないしは紫禁城との位置関係から“南堂”と呼ばれることのが普通です。現在、この教会のすぐ近くには地下鉄・宣武門駅があり、観光客にとってもアクセスは便利です。なお、現在の建物は、義和団事件で破壊された後、1905年に再建されたもので、オリジナルの建築ではありません。

 今回ご紹介している切手は、1990年にバチカンが発行した「北京・南京教区300周年」の記念切手(“教区”とは、キリスト教で一定地域の教会をまとめた教会行政上の組織のこと)の1枚で、バチカン所蔵の絵画に描かれた聖母無染原罪堂が取り上げられています。

 児童画にも通じるような素朴なタッチが、何ともいえない良い味を出している1枚だと思うのですが、いかがでしょうか。

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 西安事件70年
2006-12-12 Tue 00:51
 今日(12月12日)は、1936年に張学良が、抗日よりも反共を優先していた蒋介石を幽閉して説得し、共産党との内線の停止を約束させた西安事件から70周年の記念日にあたります。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

西安事件10周年

 これは、1946年12月、中国東北部(旧満洲に相当)の中国共産党(中共)支配地域の郵政を管轄していた東北郵電管理総局が発行した“双十二節(いわゆる西安事件の中国側の呼称)10周年”の記念切手です。

 西安事件のあらましについては以前の記事でもご説明しましたが、この事件は、蒋介石にとっては屈辱的な事件であった半面、国府軍の攻撃で崩壊寸前の危機にあった中共にとっては、抗日戦争という文脈においてみずからの基盤を確立させるうえでの起死回生の出来事となったものです。

 それゆえ、中共側が事件から10周年の節目にあたり、自らの支配地域で西安事件の記念切手を発行するのも当然といえるのですが、実際に発行された切手のデザインは、非常に興味深いものです。

 すなわち、切手には、満洲を拠点とする狼になぞらえられた日本軍と、獅子になぞらえられた共産党(と同党を支援する人民)の双方から責められて右往左往する蒋介石が描かれています。このデザインは、蒋の採っていた“安内攘外(先に共産党を打倒してから、日本軍と戦う)”政策を皮肉ったものだが、抗日戦争の終結後、蒋介石が共産党攻撃(内戦)を再開したことを非難する意図も込められているのは一目瞭然です。

 したがって、見方によっては、この切手は中共にとっての目下の最大の敵である蒋介石を前に、“敵の敵”である中共と日本軍(ないしは満洲国)が手を結んでいる構図に見えないこともありません。実際、逆説的な意味ではあるのですが、毛沢東は次のように述べて、“日本軍のおかげ”論を展開しています。

 私は日本の友人に話したことがあります。彼らは言いました。誠に申訳ありませんでした、日本皇軍は中国を侵略しましたと。(引用者註:一九六四年七月に日本社会党左派グループの代表団が訪中し、後に同党委員長となる代表の佐々木更三が、日本の過去の中国侵略について「非常に申し訳なく思っております」と頭を下げたことを指す)わたしはいったのです。
 いいや!あなたがた皇軍が中国の大半を侵略しなかったら、中国人民は団結して、あなたがたに対抗することはできなかったし、中国共産党は政権を奪取することができなかった。したがって、日本皇軍はわれわれにとって、ひじょうに優れた教員であったし、あなたがたの教員でもあったと」
(毛沢東「日本社会党人士と会見したときの談話」一九六四年七月十日 『毛沢東 外交路線を語る』より)

 こうしたことを考えると、満洲国を作って中国を侵略した日本軍が一方的に悪で、これに抵抗した中国の人民は純粋に善であるといえるほど、歴史の実相は単純なものではないのだということをあらためて思い知らされます。

 さて、今年9月に刊行の拙著『満洲切手』では、そうした満洲国をめぐる複雑な歴史の諸相を切手や郵便物を使って読み解いてみました。ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 ギニアの振袖
2006-12-11 Mon 00:45
 西アフリカのギニアから外交ビザや公用ビザで入国した3人の男が今年7月以降、不法就労などをしていた疑いで、相次いで入管当局に強制収容されていたのだそうです。

 というわけで、手元のストックの中で、ギニアの切手を探してみたところ、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

ギニア・東京五輪

 これは、1964年の東京オリンピックの際に独立後間もないギニアが発行した記念切手で、スタジアムをバックに、羽子板をもった振袖姿の女性と日本・ギニア両国の国旗が描かれています。アフリカ諸国が輸出用に“日本”を取り上げる切手の中には、こんな感じのトンデモ図案のモノも少なくないのですが、そうしたものと比べると、この切手はかなりまともです。(なお、この切手をふくめて、諸外国が東京オリンピックに際して発行した切手に関しては、拙著『外国切手に描かれた日本』をご覧いただけると幸いです)

 さて、かつてフランス領だった西アフリカのギニアが独立したのは1958年のことでした。当時のセク・トゥーレ政権は、反仏植民地主義を前面に押し出して西側と断絶し、社会主義政策を推進しましたが、当然、経済建設は失敗します。その結果、1984年にトゥーレが亡くなると、軍事クーデターによりランサナ・コンテ大佐が政権を掌握。コンテ政権は、旧社会主義体制から自由主義体制への移行を推進し、1990年12月には複数政党制の導入などを定めた国家基本法を施行。以後、大統領となったコンテの長期独裁政権(2003年にはコンテは3選されています)の下、政情は比較的安定していました。

 ギニア経済を支えているのは、世界の3分の1の埋蔵量を誇るボーキサイトをはじめとした地下資源ですが、インフラ整備の遅れから、本格的な経済開発は、まだまだこれから、といった状況です。

 それでも、ギニアは西アフリカの中では政治的・経済的な安定度から“優等生”だったわけですが、最近の石油価格上昇等によるインフレ悪化に伴い経済情勢も悪化。今年に入ってからは、ゼネストの決行等政治・社会情勢も不安定化していると伝えられています。

 今回、ギニア政府職員や大使館関係者の親族らが、外交官等に発給される外交ビザや公用ビザで入国したにもかかわらず、公務に就かずに、民間の工場で不法就労するなどしていた背景には、そうしたギニア国内の情勢の悪化という事情もあったのかもしれません。

 ただ、いかなる理由があろうとも、外交官特権の悪用は許されるということにはならないわけで、今後、ギニア政府のこの問題への対応が注目されるところです。

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 フィリピン行きは中止
2006-12-10 Sun 00:45
 フィリピン政府が、日本を含むアジア、オセアニアの計16ヵ国首脳が参加する「第2回東アジアサミット」など、セブ島で11~13日に予定していた一連の首脳会議の延期を発表しました。表向きの理由は“台風による悪天候と重なるため”ということになっていますが、会議をねらったテロ計画があったためとも、はたまた、おおらかなフィリピン人のことゆえ、メイン会場として建設していたセブ国際会議場の完成がついに間に合わなかったためとも言われており、真相は藪の中です。

 われらが安倍首相も、8日深夜にフィリピン入りしたものの、肝心の会議が亡くなったため、9日にアロヨ大統領と会談しただけで早々に帰国するのだとか…。

 というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

フィリピン宛返戻カバー

 これは、太平洋戦争開戦から間もない1942年2月21日、アメリカからマニラ宛に差し出されたカバー(封筒)ですが、開戦によりフィリピンが戦場となり、フィリピン宛の郵便物の取扱いが停止されたため、差出人に返戻されたものです。カバーには、そのことを示す“RETURN TO SENDER SERVICE SUSPENDED”の紫色の印が押されています。また、鉛筆の書き込みによると、このカバーは4月27日に返送されたことになっています。

 貼られている切手の1枚は高射砲を描く国防宣伝の切手ですし、おされている消印にも戦時貯金や戦時公債の宣伝文が入っており、戦時色の色濃く漂ってくるカバーといってよいでしょう。

 一般に戦争が勃発すると、紛争地域宛の郵便サービスは停止されてしまうわけですが、太平洋戦争の場合、戦場となったエリアがきわめて広いため、あらゆる地域宛の郵便物が配達不能で差出人戻しとなっています。そのうち主なものだけでも一通り集めてみたら面白いだろうと思いたって、いくつかのサンプルは集めてみたのですが、なかなか数が増えません。まだまだ“日暮れて道遠し”といったところです。

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 硫黄島の葉書
2006-12-09 Sat 00:50
 映画『硫黄島からの手紙』が今日(9日)から公開だそうです。

 というわけで、今日はこんな葉書を持ってきてみました。

硫黄島の葉書

 これは、米軍の硫黄島上陸(1945年2月18日)を控えた1945年1月12日、硫黄島守備隊の兵士宛に差し出された葉書です。葉書の宛名は、軍事郵便の常として、部隊の所在地を隠すため“横須賀郵便局気付ウ二七膽六〇二五部隊”というコードネームが使われており、“硫黄島”との表示はありません。

 この葉書の名宛人は、おそらく、硫黄島の戦闘で戦死したものと思われますが、その後、この葉書は米軍に回収されて情報収集のために検閲されています。葉書上部の角型の印はそのことを示すものです。

 なお、裏面には「私モ一時ハ淋シイ思ヒデシタガ今デハ大分馴レテ参リマシタ 御心配ナク」という文面があります。(下はその画像です)

上の葉書の裏面

 小林秀雄の「歴史と文学」には次のような一節があります。

 歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます。それは、例へば、子供に死なれた母親は、子供の死といふ歴史事実に対し、どういふ風な態度をとるか、を考へてみれば、明らかな事でせう。母親にとって、歴史事実とは、子供の死といふ出来事が、幾時、何処で、どういふ原因で、どんな条件の下に起こったかといふ、単にそれだけのものではありますまい。かけ代えのない命が、取り返しがつかず失はれてしまったといふ感情がこれに伴はなければ、歴史事実としての意味を生じますまい。

 この小林の言に従うなら、この葉書もまた、日本人にとっての硫黄島の“歴史”を雄弁に物語るモノに他ならないと僕には思えるのです。
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 興亜はこの日より
2006-12-08 Fri 00:57
 今日(12月8日)は、1941年にいわゆる太平洋戦争の始まった日。というわけで、拙著『満洲切手』の中から、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

満洲国・開戦1周年

 これは、満洲国が1942年12月8日に発行した“大東亜戦争1周年”の記念切手です。“シンガポール陥落”の記念切手と同様に、当時の通常切手に“興亜自斯日(興亜はこの日より)”のスローガンと、開戦日にあたる“康徳八年(1941年に相当)12月8日”の日付を刷り込むスタイルとなっています。

 1942年12月8日、太平洋戦争の開戦一周年にあわせて、満洲国国務院布告第十七号として、『國民訓』が制定されました。その内容は、まず、惟神ノ道や天照大神などの神道のタームを強調した上で、その次に、忠義仁義、節義、廉恥、礼譲などの儒教的な理念を述べ、国家の最終目標として大東亜共栄の達成ということを掲げるものでした。

 満洲国は五族協和に基づく王道楽土の建設を国家目標として発足した国家であり、満洲国政府が掲げるスローガンは、当初、住民の圧倒的多数を占める漢人の世界観を形成している儒教道徳を色濃く反映したものでした。そもそも“王道楽土”という概念そのものが儒教的な理想国家のイメージを表現するものでしたし、建国当初の元号が儒教の理想社会を意味する“大同”と定められたことはその典型的な事例といえます。

 ところが、建国から十年の歴史の中で、日本側の愛顧を取り付けるために汲々としていた溥儀のキャラクターもあって、次第に国家の統治理念に神道の要素が混入されていくことになります。

 太平洋戦争の勃発によって、こうした満洲国の統治理念には、さらに“大東亜共栄圏”の理念が持ち込まれていきます。『國民訓』においては、もはや王道楽土の建設という当初の国家目標が掲げられることはなくなり(強いて言うなら“建国の理想”の中にそれは含まれるということなのかもしれませんが)、大東亜共栄圏の建設を達成することこそが国家の最終目標として掲げられているのは、まさに、上述のような満洲国の思想遍歴を再現したものといってよいでしょう。

 この切手もそうした文脈に沿って発行されたというわけですが、はあつぃて、そうしたプロパガンダの効果のほどやいかに、ということになると、かなり疑問です。

 じっさい、儒教・神道・大東亜共栄圏論が混在する満洲国の国家理念は、それじたい、異質のイデオロギーを寄せ集めた折衷的なものでしたから、通常の人間の頭脳ではほとんど理解不能のものでしかありませんでした。そもそも、国家神道が強調していた“惟神之道”の理念などは、日本人でさえも真に理解していた者はごく僅かしかいなかったのですから…。

 したがって、国家の側が大東亜戦争はアジア解放の聖戦であり、親邦・日本の聖戦に協力することは満洲国の義務であることを強調しても、日本人以外の満洲住民には実感が湧かなかったというのが実態だったと思います。その意味では、“興亜はこの日より”のスローガンが刷り込まれた切手は、そもそも、政府の主張する“興亜”の意味さえ理解されぬままに終ってしまったと見るのが自然なことのように思われます。

 さて、今年9月に刊行した拙著『満洲切手』では、いわゆる太平洋戦争と満洲国の関係についても、切手や郵便物を通じてさまざまな角度から眺めてみました。是非、ご一読いただけると幸いです。
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 全ての日系人に告ぐ!
2006-12-07 Thu 01:00
 日米開戦の日を前に、第二次世界大戦中、アメリカ政府が“敵性外国人”として約12万人の日系人を抑留した“戦時転住所”(いわゆる強制収容所の米国側の正式名称)の一部を復元し保存する法案が米下院で可決されたそうです。

 というわけで、こんなマテリアルを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

日系人に告ぐ

 これは、アメリカ西海岸の日系人に対して“戦時転住所”への移住を命じた指示書の文面を印刷した葉書です。ちなみに、裏面は、こんな感じになっています。

上の葉書の裏面

 1941年12月8日の真珠湾攻撃をきっかけに日米が戦争状態に突入すると、アメリカ政府は日独伊出身の“敵性外国人”に対する監視を強化するようになります。このうち、有色人種への偏見もあって日系人は特に目をつけられ、“敵性外国人”として強制収容する計画が秘密裏に進められていきました。

 こうした中で、1942年2月、日本の潜水艦によるカリフォルニア州の製油施設砲撃が成功すると、アメリカ人の反日感情はピークに達し、大統領のルーズベルトは、軍が必要がある場合(国防上)に強制的に外国人を隔離することを承認する「大統領行政令9066号」に署名しました。

 これにより、アメリカ国内においては日本人の血が16分の1以上混ざっている日系アメリカ人は逮捕、拘束され収容所へ送られることとなります。収容所に送られることになった日系人の数は約12万人。彼らは家や財産を安値で買い叩かれ、砂漠地帯や人里から離れた荒地に送られ、苦難の生活を強いられます。もちろん、“敵性外国人”としてのドイツ系・イタリア系の人々も拘束されましたが、彼らの大半は収容所に送られることもなく、まもなく釈放されたのに対して、日系人は終戦まで収容所での生活を余儀なくされており、その待遇は明らかに差別的なものでした。

 日系人の強制収容をめぐっては、1988年、レーガン大統領が「日系米国人補償法」に署名して公式に謝罪。一人当たり2万ドルの補償金の支払いを決めていますが、その後も収容所の保存運動が続き、アリゾナ州のポストン収容所で生まれた日系のドリス・マツイ下院議員(民主党)らが法案を提出し審議が続けられていました。

 今回の法律では、アメリカ国立公園局が日系米国人組織などの協力を得て収容所の研究を進め、一部が復元・保存されることになっているとのことです。

 今回ご紹介している葉書は、以前、拙著『切手と戦争』でも図版として使っているモノですが、イマイチ図版が小さくて文面が読みづらかったので、今回のニュースにあわせて取り上げてみました。もっとも、現物でも印刷されている文字は非常に小さくて読みづらいので、あまりお役には立てなかったかもしれませんが…。

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 フィジー警察のラッパ手
2006-12-06 Wed 00:54
 南太平洋のフィジーで、5日、バイニマラマ軍司令官がクーデターを宣言し、ガラセ首相を罷免して自宅軟禁する事件が発生しました。

 というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

フィジーのラッパ手

 これは、フィジーが英領時代だった1954年に発行された1ポンド切手で、警察のラッパ手が描かれています。

 フィジーでは人口の約5割を占めるフィジー系先住民と、英国の植民地時代に入植した約4割のインド系住民が長年にわたって対立しており、2000年には、経済的に優位なインド系住民への先住民側の不満から、フィジー系の武装勢力が国会を占拠してインド系のチョードリー首相らを人質に政権奪取を図る事件も起きています。

 事件後、チョードリーは首相を辞任し、フィジー系のガラセが後継内閣を組織。このガラセが“国民の和解”を名目に国会占拠事件の犯人グループ(フィジー系)に恩赦を与えようとしたことに、バイニマラマ軍司令官は、フィジー系ではあるものの、国会占拠事件を鎮圧した責任者と言うこともあって、ご都合主義的な恩赦の計画に反発。政府は警察を実働部隊として彼らを押さえ込もうとしたものの、かえって、軍がクーデターを起こし、警察は武器を押収されてしまいました。

 ちなみに、今回ご紹介している切手のデザインは“警察のラッパ手”ということになっていますが、ラッパを吹いている人物の風貌や服装などから推測すると、彼はフィジー系の人物と見て間違いなさそうです。

 いずれにせよ、フィジーは観光で飯を食っている国なので、今回のようなクーデター騒ぎがフィジーのイメージを悪化させ、その経済にも深刻なダメージを与えるのは確実です。そうなると、結局、フィジー系・インド系を問わず一般国民にしわ寄せが来るわけですから、一日も早い事態の収拾が望まれるのはいうまでもありません。
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 ルソン富士
2006-12-05 Tue 02:31
 フィリピンが台風で大変なことになっているようです。なんでも、関係者によると、ルソン島南部のマヨン山周辺の村落では、4日の時点で死者425人、負傷者507人、行方不明者599人となっていますが、最終的な死者の数は1000人を上回る可能性もあるとか。

 マヨン山といえば、僕はこんな切手を思い出します。(画像はクリックで拡大されます)

マヨン山と富士山

 これは、第二次大戦中の1943年、日本軍占領下のフィリピンで発行された切手で、富士山(左)とマヨン山(右)が描かれています。おそらく、日本とフィリピンの友好親善をアピールしようとの意図を込めて作られたデザインなのでしょう。

 マヨン山はルソン島南部にある成層火山で、高さは2,462m。ほぼ完璧な円錐形をしていることから、“美しい”を意味する“マヨン”の名前が付けられたそうです。なお、19世紀以来、フィリピンには多数の日系移民が渡っていますが、彼らはマヨン山のことを“ルソン富士”と称してその美しさをたたえていました。

 もっとも、富士山がほぼ300年間、噴火していないのに対して、マヨン山はこの400年に50回も噴火しており、最近では、1993年の突然の大噴火による火砕流で大勢の犠牲者を出したほか、2000年、さらには今年(2006年)8月にも噴火を起こしています。このため、現地ではハザードマップも作成され、火砕流などの恐れのある場所は土地の利用規制が行われているのですが、周辺は貧しい農民が多く、危険地帯として指定された場所でも耕作せざるを得ないのが現状です。

 今回の台風は、まさにそうした地域を直撃しただけに、インフラ施設が比較的整っている都市部などに比べて、被害も甚大なものとなったという面は否定できないでしょう。

 今回ご紹介している切手は“日本関連地域”のモノとして日本切手のカタログにも採録されており、日本切手の収集家にはなじみの深いものです。それだけに、日本の一収集家として、マヨン山周辺の被災地の皆様の一日も早い復興を心よりお祈りしております。

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 一葉の身長
2006-12-04 Mon 02:04
 ネットのニュースを見ていたら、解剖学や統計学の知識を基に、写真や肖像画から推定する方法で、樋口一葉の身長を140・9~146・1センチだったと推定した北里大学の平本嘉助さんと山梨県の郷土史家、矢崎勝巳さんの話が出ていました。

 というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

一葉

 これは、1981年11月27日に発行された“近代美術シリーズ”第11集のうち、鏑木清方の「一葉」を取り上げた一枚です。

 樋口一葉は、1951年4月に発行の文化人切手にも登場しているのですが(この切手の詳細については、拙著『濫造・濫発の時代』をご覧いただけると幸いです)、そちらはいわゆる上半身のみの肖像ですので、身長を推測するという点ではあまり役に立たなさそうです。

 さて、平本・矢崎のお2人は、一葉が身につけていた和服の襟の長さ(幅)が6~6・5センチだったことから、一葉の上腕骨(二の腕の骨)の長さが25~27センチになると推定。そこから身長を割り出したとのことです。

 で、切手に取り上げられている清方の作品の一葉の二の腕の部分(着物の折り目などから推定)を見てみると、床の上に転がっている糸切りバサミの約2倍強といった感じでしょうか。まぁ、ハサミの大きさといってもいろいろあるでしょうが、彼女の手の大きさとの比較でいうと、あんまり小さなタイプのモノではなく、小ぶりのピンセットくらいのモノじゃなかろうかと思います。とりあえず、僕の手元にあった小ぶりのピンセットの大きさは12センチありましたから、その2倍強というと、たしかに、25~27センチという範囲は妥当な数字のようです。

 清方は一葉の愛読者でしたが、一葉は、清方が18歳の時、24歳で亡くなっており、実際にはふたりは会えずに終っています。このため、清方は「もう1、2年一葉が生きていれば会う機会があったろう」と残念な思いを文章につづっているほどですが、一葉亡き後、彼女の妹の邦子には何度か会っています。

 切手に取り上げられた作品は、彼によれば「邦子さんのおもかげに今までの一葉知識を加えて成ったものである」とのことですが、まさに、この作品は“等身大”の一葉を再現することに成功していると言っても良いのかもしれません。
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 宮崎県のフェニックス
2006-12-03 Sun 10:13
 全国各地で官製談合の摘発が相次いでいますが、宮崎県では事件への関与が疑われている安藤忠恕知事に対して県議会が不信任決議を突き付け、知事はこれを受け入れて失職する見込みだとか。

 さて、宮崎県といって僕が咄嗟に思い出す切手は、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

国土緑化1973

 これは、1973年4月、国土緑化運動の記念切手として発行されたもので、宮崎県の木、フェニックスが描かれています。

 日本における全国規模の組織的な緑化運動としては、1934年に“愛林日”が設けられ、4月3日の“神武天皇祭”を中心にさまざまな活動が行われたのが、最初です。愛林日の各種行事は、戦争によって一時的に中断しますが、戦後の1947年に復活。全国緑化運動が多角的に展開され、1948年にはキャンペーンのための特殊切手も発行されました。この全国緑化運動は、翌1949年、国土緑化運動(以下、緑化運動)に発展し、このときもキャンペーン切手 が発行されています。(なお、1948-49年の緑化運動切手の詳細については、拙著『濫造濫発の時代』をご覧いただけると幸いです)

 もっとも、この時期の緑化運動は、森林愛護連盟や全日本観光連盟がそれぞれの事業の一環として担っており、かならずしも緑化運動そのもの専門とする団体が責任を持って行うという体制にはなっていませんでした。

 このため、1950年1月、緑化運動を国民運動として盛り上げ、推進する母体として、衆議院議長(幣原喜重郎)を長とする国土緑化推進委員会(現・国土緑化推進機構)が結成されました。国土緑化推進委員会は、同年4月、山梨県で昭和天皇夫妻臨席の下、ご夫妻によるお手植えを中心とする「第一回植樹行事および国土緑化大会」を開催。これが、現在の緑化運動の直接的なルーツとなりました。

 その後、緑化運動に関する切手は、1965年の国土緑化推進委員会による緑化運動の15周年を記念して、5月9日に鳥取県で開催された「植樹行事および国土緑化大会」にあわせて記念切手(この切手の詳細については、拙著『切手バブルの時代』をご覧ください)が発行されたのをはじめ、1971年以降は毎年、天皇皇后両陛下ご臨席の全国植樹祭にあわせて発行されるようになっています。なお、植樹祭は原則として日曜日開催のため、記念切手の発行は前日の土曜日が一般的です。

 さて、1973年の全国植樹祭は、国土緑化推進委員会と宮崎県の共催で、4月8日、霧島山麓にある小林市夷守台の国有林伐採跡地(総面積50ヘクタール。うち式典場2ヘクタール)を会場として行われました。

 宮崎県が全国植樹祭の誘致活動を開始したのは1969年5月のことで、翌1970年7月に1973年の全国植樹祭を同県で開催することが正式に決定されています。ちなみに、もうじき失職する安藤知事は、1964年に上級法律職として宮崎県庁に入庁したということですので、全国植樹祭の開催にあたっては、なんらかのかたちでその一端を担っていたのかもしれません。

 植樹祭のテーマは「自然の保護と創出」。両陛下ご臨席の下で行われた式典では、昭和天皇から「国土の緑化は森林資源の造成、水源の涵養、災害の防止および生活環境の改善などのためにきわめて重要なことであります」とのお言葉があり、森の字をかたどったオビスギ苗3本(フェニックスじゃないのが残念?)のお手植えが行われました。なお、植樹祭の参加者は約2万3000名で、植樹祭跡地は宮崎県青少年研修の森として整備され、現在も県民に親しまれているそうです。

 さて、現在執筆中の<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻では、今回ご紹介した切手を含めて、1972年から1978年ごろまでの記念特殊切手についての基本情報をいろいろとまとめる予定です。年明け3月頃の刊行(予定)の暁にはこのブログでもまたご案内いたしますので、その際はよろしくお願いいたします。

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 誦め!
2006-12-02 Sat 00:52
 アラブ圏では初、カタールの首都ドーハで行われるアジア大会が開幕しました。というわけで、カタールの切手の中から、ちょっと面白いものを拾ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

識字の日

 これは、1984年にカタールが発行した国際識字の日の切手で、黒板に「誦め(声に出して読め)」という意味のアラビア語を書いて識字教育を行っている場面が取り上げられています。

 「識字キャンペーンの切手で“誦め”という単語が出てくるのは当たり前じゃないか、それがどうした」といわれそうですが、実は、この“誦め”というアラビア語は、イスラムの預言者ムハンマド(マホメット)に対して神が下した最初の啓示の文言とされているものというのがミソです。

 たとえば、かつてイランは大天使ガブリエルが啓示を下したイメージを表現した切手を発行したことがあるのですが、この切手にも、しっかり、ガブリエルを表す翼の間に“誦め”というアラビア語が記されており、ここからコーランの歴史が始まったという認識が示されています。

 さて、イスラム教徒はコーランを神の言葉として理解していますが、それはコーランがアラビア語として完成されたものであるから、すなわち、人間には真似することのできない韻律を備えたものであるから、ということが根拠になっています。そもそも、コーラン(アラビア語ではアル・クルアーン)という言葉自体が「声に出して読まれるもの」という意味であって、コーランの真の魅力はアラビア語で朗誦してこそ味わうことができるというのが彼らの主張です。

 ちなみに、預言者ムハンマドは文字が読めなかったとされていますが、そのことはイスラム世界では肯定的にとらえられています。というのも、文字が読めないがゆえに、ムハンマドが密かにアンチョコを見てコーランの章句に相当する文言を唱えることは不可能であり、それゆえ、彼の口から発せられたコーランの章句は、まぎれもなく、神から下された啓示に他ならない、と彼らは理解しているからです。

 こうしたことを考えると、文字の読めない人に対しては、まず、“誦め”という単語の読み書きから覚えてもらおうというのも、イスラム教徒の発想としてはごくごく自然なものなのかもしれません。

 なお、この辺のコーランの話については、以前『コーランの新しい読み方』という本(表紙には切手を使っています)を友人との共訳で出版したことがありますので、機会があれば、ご覧いただけると幸いです。

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