内藤陽介 Yosuke NAITO
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 西周の切手
2007-01-31 Wed 00:44
 今日は幕末・明治の碩学、西周の没後110年の忌日だそうです。というわけで、この切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

西周

 これは、文化人切手の第13集として、1952年1月31日に発行された西周の切手です。

 西は、1829年、石見国(現・島根県)津和野の医師の家に生れました。洋学を志して津和野藩を脱藩し蕃書調所に出仕。1862年、幕命でオランダに留学し、フィッセリングの下で法律・経済・哲学を学び、帰国後、開成所教授に就任しました。近代社会科学を正式に学んだ最初の人物として、多数の学術用語を翻訳。学術・科学・技術・芸術・哲学・主観・客観・本能・概念・観念・帰納・演繹・命題・肯定・否定・理性・悟性・現象・知覚・感覚・総合・分解などの用語は彼の翻訳によるものです。また、第15代将軍・徳川慶喜の政治顧問に迎えられ、訳書『万国公報』を通して国際法を説き、将軍の命令で『議題腹稿』(憲法草案)を起草しています。

 明治維新後は、兵部省に出仕して、近代軍制の整備に尽力し、徴兵令・軍人勅諭などに関わりました。また加藤弘之や福沢諭吉らと明六社を結成し、多数の論文・著述を発表するなど啓蒙活動につとめ、元老院議官・貴族院議員等を歴任し、1897年に亡くなりました。

 その功績に比べて、一般社会における西の知名度は、他の文化人切手の人物よりもはるかに低く、当時の『産業経済新聞(現・産経新聞)』には「福沢諭吉、野口英世、夏目漱石・・・(中略)・・・といつた名は、一般に知られているが、西周は、ちょつと澁い」「西の名は文化切手で知つた人が多いことと思う」との記事が見られるほどでした。ちなみに、僕は小学校のとき、夏休みの自由研究で文化人切手の人物を調べて提出したのですが、たしか、担任の先生から「西周なんてよく知ってるね」と驚かれた記憶があります。

 さて、当初、西の切手は1951年5月に発行するものとして準備が進められていました。これは、通説として、(理由はわかりませんが)彼が亡くなったのは5月であったといわれていたからです。しかし、発行準備が進められる過程で、遺族から、西の忌日が5月というのは誤りだから、切手の発行は正しい忌日の1月31日にしてほしいとの申し出がありました。このため、5月の発行をめざして、すでに実用版まで完成していた西の切手は、急遽、発行延期となります。

 この間、1951年11月1日には、郵便料金が改正されて書状の基本料金が8円から10円に値上げされました。このため、西切手は、原版の額面部分を8円から10円に変更して、発行されることになりました。

 ところで、西の切手は、現在、日本切手のカタログ評価額が文化人切手の他のものよりもはるかに高くなっていることでも知られています。

 当時、郵政省の切手係であった八田知雄によると、当時、東京中央郵便局切手普及課は記念・特殊切手の売れ残り在庫を大量に抱え、その処理に苦労していました。このため、郵政省としては、西切手から切手普及課への切手の配給数を変更し、従来の4分の1にあたる5万枚にまで減らしました。このため、切手普及課での西切手の在庫処理は順調に進みましたが、その一方で、こうした変更は一般には明らかにされなかったため、従来どおり、「切手普及課に行けばいつでも買える」と考えていた収集家や切手商の中には西切手を入手しそこなう者が続出。市場ではこの切手が品薄となったといいます。

 こうした供給側の事情にくわえ、西切手は、郵便料金改正後最初の文化人切手となったことから、新料金の10円切手の需要が急増し、普通切手の供給不足を補うかたちで大量に消費されました。このため、未使用の残存数は、さらに少なくなり、結果として西切手の市価が高騰したものと考えられます。

 なお、今回ご紹介の西の切手をはじめ、文化人切手に関しては、拙著『濫造・濫発の時代 1946-1952』でも詳しくまとめていますので、ご興味をお持ちの方は、是非、お読みいただけると幸いです。
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 『郵趣』今月の表紙:スペインの潜水艦
2007-01-30 Tue 00:39
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2007年2月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

スペインの潜水艦

 これは、スペイン内戦さなかの1938年に共和国側が発行した潜水艦郵便のための切手です。『郵趣』の表紙では3種類並べていますが、このブログでは代表的な1点のみを取り上げました。

 1936年7月、スペイン領モロッコでのフランコの叛乱に始まったスペイン内戦(市民戦争)は、共和国政府を支持する市民がフランコ側に抵抗し、マドリードやバルセロナでは反乱軍を撃退したものの、全体としての戦況は、ドイツ・イタリアの支援を受けたフランコ側が終始優勢でした。

 1938年4月15日、地中海岸の港町ビナロスが陥落すると、共和国の支配地域は首都のバルセロナを中心とした北東部のカタロニア地方と南部のバレンシア地方などに分断されてしまいます。こうした状況の中で、共和国政府はバルセロナから地中海西部のミノルカ島の間を潜水艦で物資を輸送することになりました。

 その際、潜水艦は300通の郵便物も運んだのですが、その郵便物に貼るために発行されたのが今回の切手です。切手は国防献金込みでバルセロナの郵便局で額面の倍額で発行され、通常の郵便物にも使うことができました。

 スペインの内戦は1939年にフランコ側が勝利を収め、共和国は解体されてしまいます。しかし、躍動感あふれるこの切手は、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』などとともに、悲劇の共和国に対する我々の憧れをかきたてるものと言ってよいでしょう。

 なお、スペイン内戦に関するプロパガンダ切手に関しては、昨年観光の拙著『これが戦争だ!』でも、それなりにページを割いて説明していますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。
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 試験問題の解説(2007年1月)-3
2007-01-29 Mon 00:37
  昨日に引き続いて、試験問題の解説の3回目(最終回)です。今日は、このカバーに貼られている切手について説明するよう求めた問題を考えて見ましょう。 なお、試験の問題では、切手と消印の部分のみを使いましたが、せっかくですので、このブログではカバーの全体像をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

安保理決議598

 これは、イラン・イラク戦争の停戦翌年の1989年にイランが発行した切手のカバーで、切手と同図案の記念印が押されています。切手の額面は国内書状料金の20リアルですから、今回のようにアメリカ宛の郵便物の場合、他の切手(1989年のパリ国際切手展の記念切手)も貼り合せて料金を充当しています。

 1980年に勃発したイラン・イラク戦争の本質は、イスラム革命の混乱に乗じてイラクのサダム・フセイン政権が発動した侵略戦争でした。しかし、イスラム革命の波及を恐れる国際社会は、反イランの一点で団結し、イラクの敗戦を防ごうとします。このため、戦争は長期化し、膠着状態に陥りました。こうした状況の中で、1987年7月、国連安保理はイラン・イラク戦争の停戦決議(安保理決議598)を採択しました。

 この安保理決議598は、受諾を拒否する国に対しては、制裁などの措置を行いうるとして受諾圧力をかけた上で、停戦とともに双方が占領地域から撤退することを掲げていました。これは、一見、公平なようにも見えますが、イラン領内に占領地を持たないイラクにとっては有利で、イラク領内に占領地を有していたイランにとっては不利な内容です。このため、イラン国内では、この決議は、イランが拒否することを見越して、対イラン制裁措置を導き出そうとするアメリカの意図に沿って作成されたものと受け止められていました。

 しかし、1987年7月22日に安保理決議598が成立すると、イラクは最後の大攻勢をかけて被占領地を奪回しはじめ、1988年6月までに作戦をほぼ完了させました。このため、もはや泥沼の長期戦を続けていくだけの余力を完全になくしたイランは、ついに停戦決議の受諾を決定。1988年8月、イラン・イラク戦争は勝者なきまま、ようやく終結しました。なお、戦争終結に際して、イラク側は大々的に勝利を喧伝しましたが、イランではそうした声は聞かれず、ホメイニーは停戦「毒を飲むより辛い」と評しています。

 今回取り上げた切手も、そうしたイラン国内の空気を反映して発行されたもので、安保理決議598の文面にイラク国旗の鉛筆で大きく?を記しているデザインが目を引きます。また、右上には、鉄条網に覆われたイラン地図の中で苦しむ人物と鳩が描かれており、国際社会の押し付けた“停戦”の内容に対するイランの不満が表現されています。

 試験の答案としては、イラン・イラク戦争に際してのイラン包囲網のことについて触れた上で、イランが安保理決議598に強い不満を持ちながらもそれを受諾せざるを得なかった状況を説明してくれればOKです。

 さて、今回の試験では、この3日間でご紹介した問題のほかに、“ハマス”や“アラブ首長国連邦”について説明する問題も設けましたが、これらについては、wikipedia等で検索することも可能ですから、僕のブログではあえて解説しません。

 なお、明日(30日付)からは通常通りの内容に戻ります。僕の授業の試験を受けているわけでもないのに、お付き合いいただいた皆様、お疲れ様でございました。
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 試験問題の解説(2007年1月)-2
2007-01-28 Sun 00:51
 昨日に引き続いて、試験問題の解説の2回目です。今日は、このカバー(封筒)について、矢印のスタンプにも留意しながら説明せよ、という問題を考えて見ましょう。 (画像はクリックで拡大されます)

第3次中東戦争の捕虜郵便

 これは、1967年8月、第3次中東戦争時にイスラエル側の捕虜となったエジプト兵が差し出したもので、ジュネーブの国際赤十字社およびカイロの赤三日月社(イスラム圏で赤十字社に相当する機関)を経て、宛先地であるカンタラに届けられました。なお、カンタラはスエズ運河沿いの都市で、この戦争によりイスラエルの占領下に置かれています。

 経由地のイスマイーリーヤで押されたフラップの標語印(矢印の印です)には、「アラブ民族主義は平和と文明の市名である」とのアラビア語のスローガンが入っています。

 1967年6月5日に勃発した第3次中東戦争は、わずか6日間でイスラエルの圧勝という結果に終わりました。この結果、アラブ世界は、イスラエルとの圧倒的な戦力差を見せ付けられ、パレスチナ解放=イスラエル国家の解体という政治目標は全く現実味のないものであることが白日の下にさらされることになります。当然、エジプトやシリア、イラクなどの国家イデオロギーであったアラブ民族主義の権威は地に堕ち、アラブ民族主義の象徴的な存在であったエジプト大統領のナセルは辞意を表明。結局、ナセルはエジプト国民の支持により辞意を撤回するものの、もはや、彼の掲げるアラブ統一の夢は封印されざるを得なくなりました。

 このカバーは、そうした状況の下で差し出されたものだけに、アラブ民族主義を鼓舞するような標語印が押されているのはなんとも皮肉なことです。それでも、このようなスローガンの入った消印が用いられていたのは、理屈ではともかく、感情の世界では、アラブ民族主義の理想を捨て切れなかった当時のエジプト国内の空気が反映していると言えるのかもしれません。それだけに、この標語印には、滑稽さを通り越して、痛ましさが充満しているように僕には感じられてなりません。

 なお、光彩を失ったアラブ民族主義に代わり、アラブ世界では、いわゆるイスラム原理主義の伏流が形成されていきます。第3次中東戦争がアラブ世界の近代と現代の分水嶺と言われているのはそのためです。

 試験の答案としては、①このカバーが第3次中東戦争の際の捕虜郵便であること、②標語印の意味をきちんと示すこと、③第3次中東戦争がアラブ民族主義の実質的な終焉をもたらしたこと、ときちんと説明していればOKです。 
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 試験問題の解説(2007年1月)-1
2007-01-27 Sat 00:37
 現在、都内の大学で週に何度か、非常勤講師をしています。講義の題目は学校によってさまざまですが、基本的には、何らかのかたちで“切手”を絡めた話をしています。

 で、今年度はほとんどの学校で成績評価の課題はレポートにしたのですが、1ヶ所だけ試験をやった学校があります。その科目では、中東・イスラム世界の近現代(史)について説明していますので、切手や郵便物の図版を出して、その背景を説明してもらうという問題もいくつか出題してみました。そこで、今日から3回に分けて、その解説をしてみたいと思います。僕が大学で授業をする機会があると、どんなことを話しているのか、という一つのサンプルとして、しばし、お付き合いください。

 さて、初回の今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

アーミリーヤ事件10年

 これは、2001年2月、アーミリーヤ・シェルター事件10周年を記念してイラクが発行した切手(図 )です。デザイン的には、犠牲となった子供を抱きかかえて悲嘆に暮れる母親と、破壊されたシェルターの現場写真とが組み合わされ、残虐なアメリカのイメージが強調されています。

 アーミリーヤ・シェルター事件というのは、バグダード住宅街の地下シェルターへの多国籍軍の空爆で、イラク側の発表によれば、一般市民約500名が死亡したとされる事件で、アメリカの非人道性を示すものとして、フセイン政権時代は盛んに取り上げられていたものです。

 1990年にイラクがクウェートに侵攻して以来、湾岸戦争の終結後も、国連はイラクへの経済制裁を続けていました。しかし、1995年ごろから、経済制裁に対しては、イラクのみならず、諸外国から不満の声が高まるようになります。

 そもそも、湾岸戦争の直前、食糧自給率が3割程度しかなかったイラクに対して、食糧を含む輸出入を禁ずることに対しては、経済制裁が開始された当初から、人道上の理由で反対する声が欧米でも少なくありませんでした。また、潜在的な域内大国であるイラクとの経済関係を遮断することは周辺諸国にとって多大な経済的犠牲を強いることにもなっていました。さらに、産油国イラクとの交易再開を求める声は、終戦から3年以上経過すると、西側諸国の間でも無視できないものとなっていましたし、戦争被害に対する補償や国連自身のイラクでの活動に必要な資金をまかなうためにも、イラクに一定の石油を輸出させ、その代金を活用すべきだという案は国連にとっても魅力的なものでした。

 このため、1995年4月、半年間に20億ドルを越えない範囲での石油輸出を許可し、食糧・医薬品などの人道物資の輸入を認めるという国連安保理決議986号が採択されます。当初、イラク側は、経済制裁の完全解除を求めて同決議を拒絶しましたが、1996年に入ってこれを受諾し、同年12月からイラク産原油の輸出が再開されました。

 こうした国際世論の風向きの変化を察知し、イラクは経済制裁の非人道性を訴えるとともに、湾岸戦争中のアメリカの非道を強調し、国際社会のイラク包囲網に楔を打ち込もうとします。その際、アーミリーヤ・シェルター事件は、アメリカの残虐性をアピールする上で格好の題材となり、1997年には事件7周年の記念切手も発行されています。

 その後、安保理決議986号による石油輸出を再開したイラクは、以後、ロシア、フランス、中国を味方につけて国連との交渉を有利に進め、その結果として、イラクに対する経済制裁は次第になし崩しとなっていきます。そして、石油輸出の上限が廃止された1999年以降、イラクは実質的に国際経済への復帰を果すことになりました。

 これに伴い、イラクはしばらくアメリカを直裁に非難するような内容の切手を発行しなくなったのですが、2001年、イラクを露骨に敵視するブッシュJr政権が発足すると、再びアメリカ主導のイラク包囲網が強まることを警戒して、今回ご紹介しているような切手を発行したというわけです。

 試験の答案としては、この切手がアーミリーヤ・シェルター事件10周年の記念切手であることを明らかにした上で、アメリカの非人道性を非難するイラクの意図とその背景が説明できているかどうかがポイントとなります。そのうえで、経済制裁のダメージが大きかった時期に発行された事件6周年の記念切手と、イラクが実質的に国際経済に復帰した後に発行された10周年の記念切手とでは、印刷物としての品質にも大いに差があることまで指摘できていれば、バッチリです。

 なお、今日のブログには登場しなかったアーミリーヤ・シェルター事件6周年の記念切手をはじめ、この時期のイラクの切手に関しては、拙著『反米の世界史』をご覧いただけると幸いです。
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 期限切れ
2007-01-26 Fri 00:56
 不二家の期限切れ原料の使用問題が表面化してからというもの、他の食品会社や外食チェーンなどでも、あいついで、期限切れの商品の販売などが見つかっています。というわけで、“期限切れ”に絡めて、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

有効期限切れのカバー

 これは、2000年3月に香港からカナダ宛に差し出されたカバー(封筒)ですが、右側に英領時代のエリザベス女王の肖像の切手が貼られているのがミソです。

 1997年7月1日の中国への返還に伴い、香港では女王の肖像の入った切手は使用不可能となりました。このため、返還を控えた1997年1月26日(ちょうど10年前ですね)、女王の肖像の入っていない風景図案の切手が発行され、前日の25日限りで女王の肖像が入った切手は発売が停止されました。

 もっとも、既に発売された女王の切手を持っている人というのは少なからずいるわけで、返還後、そういう人が“期限切れ”の切手を使ってしまったというサンプルが今回ご紹介のカバーです。

 カバーの左側には「1997年7月1日から、英国女王の肖像もしくは王室の徽章の印刷された切手は有効ではなくなりました。差出人には、今後、そのような切手を使わないよう、ご注意ください」という意味の英文・中文の印が押されています。ただし、不足料の表示なんかはありませんから、このカバーに関しては、とりあえず、女王の切手の分の1ドル70セントは無効とはされなかったようで、代わりに、“料金収納済”の赤い印が押されています。

 まぁ、宛先がエリザベス女王を国家元首とするカナダですし、中国香港の郵政当局としては、面子の問題として英領時代の切手を容認するわけにはいかないものの、あえて不足料を徴収するなどの強硬手段は取らなかったということなのでしょう。

 いずれにせよ、期限切れの食べ物を食べてお腹を壊すのはバカらしいですが、期限切れの切手が郵便に使われると、こんな風に、普通とは違ったスタンプが押される郵便物ができることもあります。僕なんかは、こういう“期限切れ”には大いに食指が動く性質なのですが、オークションなんかであんまり深追いすると、腹痛ならぬ火傷をしてしまうかもしれませんね。
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 英雄/テロリスト図鑑:李奉昌
2007-01-25 Thu 08:15
 『SAPIO』2月14日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、1932年1月の桜田門事件から75周年ということで、事件の犯人、李奉昌を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 李奉昌

 韓国では“独立闘争の義士”として教科書にも登場する李奉昌は、朝鮮の京城府龍山の李鎮球の次男として1900年に生まれました。

 李の社会人としてのキャリアは、1919年に朝鮮鉄道局に人夫として就職したところから始まります。朝鮮鉄道局では、龍山駅操車課に勤務していたのですが、女好きで麻雀にはまって借金を作り、1924年4月、退職金欲しさに辞職しています。

 退職金も底を尽きて生活に困った1925年11月、李は大阪に渡り、木下昌一を名乗ってガス工事の作業員になりました。その後は、1930年3月に上京し、松井和夫という日本名を名乗って漬物屋に就職した後、はやくも7月には本郷のかばん店に転職。しかし、このカバン店から11月末に売上金240円を盗み、年末のどさくさに紛れて上海へ高飛びしてしまいました。

 上海での李は、持ち逃げした金がなくなると、蓄音器のセールスマンになるのですが、薄給の新米セールスマンが東洋一の歓楽街・上海で飲む・打つ・買うの三拍子揃った生活を送っていれば経済的に破綻するのは誰の眼にも明らかで、またもや、彼は生活に窮します。

 金に困っていた李は、どこでどうやって調べたのか、1931年に韓人愛国党(独立運動の地下組織)の事務所を訪れ、昭和天皇の暗殺を申し出て武器と資金を受け取り、同年12月に氷川丸で神戸に渡りました。船中での李は、あいかわらず、麻雀をしながら女の話ばかりしていたそうです。

 日本に上陸した後は、韓人愛国党から受け取った金で大阪市内の木賃宿に泊まりながら、カフェーや遊郭を遊び歩く日々を過し、12月22日に上京。その後は浅草の尾張屋旅館に宿泊し、またもや、遊蕩三昧の生活をしていました。

 この間、新聞で昭和天皇の車列が1月8日の正午前に桜田門外を通ることを知った李は、犯行の前々日、たまたま知り合った憲兵・浅山昌一からもらった名刺を悪用して、警備を突破し、昭和天皇の車列に手榴弾を投げつけたというわけです。

 もっとも、李は昭和天皇の車と宮内大臣の車を勘違いし、宮内大臣の車に手榴弾を投げつけ、近衛騎兵の馬も軽症を負っただけで、天皇は無事でした。

 当然のことながら、李はその場で現行犯逮捕され、大逆罪で9月30日に死刑判決を受けて10月10日に東京の市谷刑務所で処刑されています。

 このように、事件にいたるまでの李奉昌の人生をたどってみると、行き当たりバッタリの転落人生を送ってきた人物が自棄になってテロ事件を起こしたようにしか僕には思えません。かの国の学校教育では、「李奉昌のような人物になりなさい」と教えているのでしょうが、女と麻雀に明け暮れて借金まみれになれとは、僕が教師だったら口が裂けても言えませんけどねぇ。

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 切手で世界旅行:ロンドン
2007-01-24 Wed 00:33
 久しぶりに、時事通信社の配信用コラム「切手で世界旅行」のことを取りあげてみましょう。あいかわらず、掲載紙は僕のところには送られてこないのですが(多分、最終回までいったところで、まとめて送られてくるのでしょう)、おそらく、4回目も既に掲載されていると思いますので、その内容をご紹介しておきましょう。

 4回目のお題は「ロンドン」でしたので、こんな切手を使ってみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

ロンドン

 これは、2002年にイギリスがロンドン市内の橋を題材に発行した五種類の切手のうち、ウェストミンスター橋を取り上げた一枚で、テムズ河畔のウェストミンスター宮殿と時計塔という、イギリス観光の定番ネタが取り上げられています。

 一応、観光ガイド風に説明しておくと、ウェストミンスター宮殿は、かつてエドワード1世からヘンリー8世までの歴代の王の住居でしたが、現在は国会議事堂として使われています。付属の時計塔は1858年4月の完成で、そこに吊るされている重さ13.7トンの鐘(1856年鋳造)はビッグベンという名で親しまれています。この愛称は、時計塔の工事責任者であった国会議員、ベンジャミン・ホールにちなむもので、その鐘の音は学校のチャイムでもおなじみです。

 僕の記事では、イギリス切手の特色についても説明するように頼まれていましたので、世界最初の切手発行国であるイギリスは、切手に大英帝国(Great Britain)とも連合王国(United Kingdom)とも表示を入れず、代わりに国王の肖像を入れている(今回の切手では、右側にエリザベス女王のシルエットが入っている)ということを説明しました。

 また、今回の切手に関しては、女王のシルエットの下に、この切手がヨーロッパ諸国宛の20グラムまでの書状料金に相当する額面であることを意味するEの文字が入っている点も注目したいところです。これは、将来的に郵便料金が値上げされても、この切手に関しては、ヨーロッパ宛の料金分の価値を補償するための措置ですが、国名も額面数字もない切手というのは、切手収集家ではない人の目には、かなり斬新に映るのではないかと思います。

 皆様の周囲で、この切手の写真が載っている新聞があったら、それは僕の記事かもしれませんので、古紙回収に出す前に、いま一度、お読みいただけると幸いです。
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 南極観測50年
2007-01-23 Tue 00:42
 南極地域観測事業開始50周年の記念切手が、今日(1月23日)発行されるそうです。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像は、クリックで拡大されます)

昭和基地カバー

 これは、今から50年前につくられた南極観測隊上陸記念のカバーです。

 日本人による本格的な南極観測は、1956年11月8日に東京港を出港した永田武隊長率いる第1次南極観測隊53名を乗せた観測船「宗谷」が翌1957年1月25日に南極大陸に到着し、同29日に昭和基地を開設したことでスタートします。

 当時、宗谷の派遣は世紀の壮挙と国民から讃えられ、宗谷内の郵便局には、記念押印を求めるカバー(封筒)が16万3850通(ケープタウンまで空輸され依頼を受けた2万8000通を含む)も寄せられましたそうです。

 このカバーに貼られている切手は、「宗谷」出航後の1956年12月1日に発行された1957年用の年賀切手ですが、そのデザインが、南極とも縁の深い鯨をかたどった長崎の玩具“だんじり”を取り上げたものであったことから、郵政省は、外郭団体の郵便文化部(このカバーの製造・販売元)の依頼により、この切手をケープタウンまで押印用に空輸したものです。また、カバーに用いられている封筒は、白地の無地のまま、出航時に「宗谷」に積み込まれ、後に、左下に観測隊のスタンプが押されたそうです。

 このときのカバーに押されている印は、「宗谷」の出航前に日本で調製されていたもので、当初の目標地点であった“プリンス・ハラルド”の表示があります。ただし、実際には宗谷がプリンス・ハラルドには到着できなかったため、収集家の中には、郵政省の“勇み足”を批判する人もあったようです。

 また、13万通以上という膨大な量の記念押印を南極で処理できるわけがないとの憶測から、これらの記念カバーは実際には東京中央局の倉庫に保管され、消印も同局で押されていたとしたり顔に説明する者も少なくありませんでした。実際には、大半のカバーは昭和基地内に運び込まれることこそなかったものの、宗谷の船内にはきちんと積み込まれ、その場で押印されています。このため、「宗谷」の船内郵便局・昭和基地分局の局長を務めた大瀬正美(郵政省電波研究所技官で、観測隊では電離層の観測を担当)らは、根拠のない噂が広がっていることに憤慨しており、今回のカバーには、下の画像のような写真を掲載した解説書も同封されて販売されました。

昭和基地前での押印作業

 写真は、東オングル島の“越冬建造物”(撮影時点では、まだ、“基地”と呼べる建物は建っていなかったらしい)の入口に設営された郵便局での押印風景です。カバーを販売した郵便文化部としては、このカバーが少なくとも丸の内で作られたものではないことを力説したかったのでしょう。

 いずれにせよ、一連のカバーをめぐる騒動は、当時の国民が宗谷の南極派遣に対して意かに興奮していたかを郵趣の面から示す格好のエピソードといえます。

 なお、こうした社会的な興奮が渦巻く中で、1957年7月1日に「宗谷」とコウテイペンギンを描く“国際地球観測年”の記念切手が発行されるまでのプロセスについては、拙著『ビードロ・写楽の時代:グリコのオマケが切手だった頃』でも詳しくまとめていますので、是非、お読みいただけると幸いです。
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 誕生日ネタ 【オマケ画像つき】
2007-01-22 Mon 01:22
 私事ながら、本日(1月22日)、不惑を迎えました。特にこれと言って感慨はないのですが、やはり年に一度のことですから、誕生日ネタということで、1月22日に発行された切手の中からこんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

香港ジュビリー加刷

 これは、1891年1月22日、イギリスによる領有50周年を記念して香港で発行された記念切手です。ヴィクトリア女王を描いた当時の通常2セント切手(1883年発行)に“Hong Kong JUBILEE”の文字と1841ならびに1891の年号を加刷したものです。

 イギリスが香港島の領有を宣言したのは1841年1月26日のことで、その50周年の記念式典は1891年1月26日に行われました。この記念切手は、それに先立ち、1月22~24日の3日間のみ発売されたもので(25日は日曜日のため24日までで発売が打ち切られた)、発行枚数は5万枚です。なお、切手の加刷は6×2の12枚を1つのユニットとして行われました。

 この切手は香港で最初に発行された記念切手ですが、発行枚数が少なく、また、発行期間も短かったことから、ほとんどが収集家によって買い占められ、郵便に使われることはほとんどありませんでした。このため、残されている使用済は、収集家や切手商が切手の発行日である1891年1月22日の消印を押して作ったものが“満月消”のモノがほとんどで、カバーも1月22日付けの初日カバー以外はほとんど見かけません。

 もっとも、単片の満月消の場合、切手の加刷文字と消印の文字がかぶってしまうため、どうも見栄えがしません。したがって、カバーで1月22日の消印を取りたいところですが、いかんせん、カバーの残存量は少なく、入手はなかなか困難です。

 それでも、せっかく、1月22日に発行された切手でもありますので、50歳の誕生日には“英領香港50年”の初日カバーを手元に置いて祝杯をあげたいと思っています。まぁ、あと10年の間に、モノが市場に出てくるタイミングと、お金が手元にあるタイミングが綺麗に重なる確率はきわめて低いのですが、年に一度くらいは、こういう夢を語っても罰は当たりませんよね。


**** 以下、オマケ画像 ****

100年前のアメリカの葉書

 今日の午後、アメリカの友人から、今からちょうど100年前、1907年1月22日のペンシルバニア州ロックデイルミルズの消印が押されたアメリカの葉書を同封したバースデーカードが届きました。(どうもありがとう!)

 印面は米西戦争時の大統領で1901年4月に現職のまま暗殺されたウィリアム・マッキンレーです。

 米西戦争やマッキンレーについては、また別の機会にこのブログでも取り上げることになると思いますが、とりあえず、今日を逃すと面白くないマテリアルなので、画像をアップしてみました。ご覧いただけると幸いです。
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 ナチス・ドイツこそ解放軍?
2007-01-21 Sun 02:08
 バルト海沿岸のエストニアで、首都タリンの中心部にある旧ソ連兵の記念碑を撤去して別の墓地に移転する計画が進んでいることに対して、ロシア側は「エストニアをナチスから解放したソ連軍への冒涜」と激しく反発し、ロシア下院はプーチン大統領にエストニアへの経済制裁を検討するよう求める決議まで採択したのだそうです。

 というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ドイツ占領加刷

 これは、第二次大戦中、ドイツ占領下にあったエストニアのペルナウで発行された加刷切手です。

 第二次大戦以前のエストニアは、反共を掲げるコンスタンティン・ペッツ政権が共産党を弾圧する一方、親ドイツ外交を展開しており、ソ連にとっては厄介な隣国となっていました。

 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、「独ソ不可侵条約」に基づき、独ソ両国はポーランドを分割しますが、その後もスターリンはエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国に食指を動かし、翌1940年6月、新政府樹立の最後通牒を突きつけます。エストニアとしては、ソ連の侵略に対してドイツの支援を得て対抗したかったのでしょうが、肝心のドイツはソ連との不可侵条約を理由にエストニアを見捨ててしまい、その結果、エストニアは他の2国とともに1940年6月17日、ソ連軍に占領され、ソ連に編入されてしまいました。

 しかし、1941年に独ソ戦が勃発すると、ドイツ軍がバルト三国に侵攻。これに対して、ソ連軍による占領に抵抗していた人々は、ドイツ軍を“解放軍”として歓迎し、多くのエストニア人が武装SS隊員に志願しています。

 ソ連領への編入後、エストニアではソ連切手が使われていましたので、独ソ戦勃発後、この地を占領したドイツ軍は、現地で用いられていたソ連切手を押収し、粉のような加刷切手を発行することになったわけですが、まさに、この1枚は、独ソ両国に翻弄されたこの時代のエストニアの悲劇を象徴的に示すものといえます。

 結局、第2次大戦末期の1944年、エストニアはソ連によって“解放”されてしまい、1991年までソ連の構成国であることを強いられていました。

 このような事情を考えると、首都タリンにある旧ソ連兵の記念碑は、エストニア人にとっては、暗黒のソ連時代を象徴する忌まわしいものでしかないように思われるのですが、話はそう単純ではありません。実は、エストニアの人口の4分の1はロシア系で、彼らはソ連によるナチスからの解放を肯定的に評価しています。そうした声は、決して国内の世論として無視できません。また、いくらソ連が憎いからと言って、こんにち、ナチス・ドイツを解放軍として迎えた過去を積極的に評価するのは、やはり無理があります。

 もっとも、そうした事情を別にしても、「ナチス・ドイツから解放してやったんだから、お前ら感謝しろ」と叫んで経済制裁までちらつかせるロシア側の姿勢には、何とも厭な気分にさせられます。好むと好まざると我が国のお隣さんはそういう国なのだ、ということは記憶にとどめておいたほうが良いのかもしれません。
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 アラブの都市の物語:ドーハ
2007-01-20 Sat 00:47
 NHKのアラビア語会話のテキスト2・3月号が出来上がってきました。僕の連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回は、先ごろおこなわれたアジア大会にちなみ、カタールのドーハを取り上げました。

グランドモスクと時計塔

 ドーハは、ペルシャ湾に突き出た半島の国、カタールの首都で、同国東岸の中央よりやや南に位置しています。

 カタール半島では紀元前3000年から紀元前2000年頃の遺物も出土しているのですが、近代以前の歴史はほとんどわかっていません。都市としてのドーハの歴史も比較的新しく、現在のカタール王家にあたるサーニー家がビーダとして都市を建設したのは1850年のことでした。

 当時のサーニー家はカタール半島全域を支配していたわけではなく、半島の北部はバハレーンのハリーファ家が支配していました。サーニー家が半島全域を掌握するのは、1868年、イギリスの仲介で、サーニー家がハリーファ家に貢納する代わりに、ハリーファ家はカタール半島から撤退するということが決められてからのことです。なお、1872年、カタール半島はオスマン帝国によって占領されますが、カタール側の抵抗もあり、オスマン帝国はサーニー家による半島支配を実質的に認めていました。

 第一次大戦中の1916年、オスマン帝国と交戦中であったイギリスはサーニー家と条約を調印し、以後、カタールはイギリスの保護領となり、ビーダはドーハと改称されて保護領カタールの首府になりました。

 現在のカタール経済を支えている石油産業は、1935年に英蘭仏米の共同国益会社「カタール石油会社(Qatar Petroleum Company)」に対して、カタールでの75年間の石油掘削権を承認したところから本格的に始まります。その後、1940年には高品質の石油が半島西岸で発見されますが、第二次大戦の影響で1949年までカタール産の石油が輸出されることはありませんでした。

 1950年代に入り、石油の輸出が本格化すると、それまで小さな港町だったドーハは急速に都市開発が進められ、いまからちょうど50年前の1957年にはランドマークとしてのグランド・モスクと時計塔が建てられています。今回ご紹介の切手は、1973年発行の“独立2周年”の記念切手で、グランド・モスクと時計塔が描かれています。(画像はクリックで拡大されます)

 1968年、イギリスの労働党政権が1971年末をもってスエズ以東から軍事的に撤退することを発表すると、カタールを含むペルシャ湾岸の9首長国が連邦を結成するというプランが浮上しました。しかし、実際には、カタールは連邦に参加せず、1971年9月3日、単独で独立し、国際連合とアラブ連盟に加盟しました。

 潤沢な石油収入を背景に急成長を遂げてきたカタールですが、近年は石油依存型の経済構造を改善すべく、産業の多角化に力を注いでいます。

 中でも注目すべきはスポーツ産業でしょう。1993年10月のFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア地区最終予選の日本対イラク戦で、日本代表がロスタイムで同点に追いつかれてワールドカップへの初出場を逃した“ドーハの悲劇”はご記憶の方も多いかもしれません。このほかにも、テニスのドーハ・カップや二輪ロードレースのモトGP、昨年の陸上競技グランプリやアジア競技大会などの国際スポーツイベントが、アスパイア・ゾーンにあるハリーファ国際競技場をはじめ、市内ならびに近郊で行われています。また、アスパイア・ゾーンには、世界クラスのアスリート養成を目指して設立されたスポーツ学校のアスパイア・アカデミー(ASPIRE Academy)が2004年に開校し、ドーハは世界的にも重要なスポーツ産業の拠点としての地位を確立しています。

 また、1996年に国王から1億5000万米ドルの支援を受けて設立された衛星放送、アル・ジャジーラの存在も見逃せません。ウサーマ・ビンラディンのメッセージの映像を独占放映や、アフガニスタン国内からの戦争の実況中継、イラク戦争に関する独自の報道などで世界的にも注目を集めたことは有名ですが、アラブ世界では「公正で政治的圧力を受けない、中東の唯一の報道機関」として高く評価されています。実際、多くのアラブ諸国では政府批判がタブー視されているため、アラブの一般市民にとってはアル・ジャジーラが貴重な情報源となっています。したがって、アル・ジャジーラの本社が置かれているドーハは、アラブ世界への情報発信基地としてもきわめて重要な存在だといえるのです。

 今回の「アラブの都市の物語」では、そうしたドーハの過去と現在を物語る切手をいくつかご紹介しています。機会があれば、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 これはすべて私の責任だ
2007-01-19 Fri 00:51
 今日(1月19日)は南北戦争時の南軍の将、ロバート・リー将軍が1807年に生まれてから200年にあたります。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ロバート・リー

 これは、1955年9月にアメリカで発行された通常30セントの切手で、リー将軍の肖像が描かれています。元になった写真では、リー着ているスーツはグレー系の薄い色なのですが、切手ではネクタイと同じ色になっています。まぁ、この辺はご愛敬でしょう。

 ロバート・リーは、バージニア州ウェストモアランド郡のストラットフォードで、アメリカ独立戦争の英雄ヘンリー・リーとアン・ヒル・カーター・リーの子として生まれました。1825年にニューヨーク州の陸軍士官学校に入学、4年後に次席の成績で卒業し、1832年に少尉に、1836年に中尉に、そして1838年に大尉へと順調に昇進します。

 1846年から1848年にかけての米墨戦争に従軍して武勲を立てたリーは、1852年に母校・陸軍士官学校の校長に就任。3年間の校長生活の後、1855年に中佐に昇格し、南北戦争直前には大佐の階級になっていました。

 南北戦争が勃発すると、リンカーン大統領は、陸軍総司令官ウィンフィールド・スコットの推薦でリーにアメリカ合衆国陸軍(北軍)の司令官就任を要請したのですが、リーは奴隷制には反対していたものの、郷里のバージニアへの郷土愛などの理由により、1861年、サムター要塞の戦いの後、連邦軍を辞職し南軍に参加、その総司令官となります。
 
 南北戦争では、北軍が兵力数で南軍を圧倒していましたが、リーは天才的な軍事的才能を発揮してマクレラン、ポープ、バーンサイド、フッカー、グラントといった北軍の将軍達を打ち負かし続けました。特に、1863年のチャンセラーズビルの戦いでは、敵の半分ほどしかいない兵力を二手に分けて、一軍を迂回させて敵の背後を突き、北軍を打ち破っています。また、1864年のウィルダーネスの戦いでは猛攻をかけてグラント(後の大統領)に大損害を与えました。

 そんなリーも、1863年のゲティスバーグ会戦では完敗を喫してしまいます。以後、南軍は追い詰められ、1865年4月3日のリッチモンドの陥落後、同月9日、リーはバージニア州アポマトックスで北軍に捕捉され、1865年4月9日に北軍のグラント総司令官に降伏しました。

 ゲティスバーグ会戦の後、リーが語った敗戦の弁は「これはすべて私の責任だ」という一言だったそうです。指揮官なんだから当たり前といってしまえばそれまでなのですが、なかなか言えない一言でしょう。

 実際、テレビをみていると、見苦しい言い訳に終始する“エライ人”が毎日のように出てきてうんざりさせられるのですが、ひるがえって、自分がその立場になったとき、はたしてリー将軍のような潔い態度を取ることができるかどうか、僕には自信がありません。

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 外国切手の中の中国:ソ連
2007-01-18 Thu 00:41
 NHKラジオ中国語講座のテキストの2月号ができあがりました。僕が担当している連載「外国切手の中の中国」では、今回は、ソ連を取り上げています。その中から、こんな1枚をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

最後の中ソ友好切手

 これは、1960年3月にソ連が発行した“国際婦人デー50年”の記念切手です。

 1949年に中華人民共和国が建国されると、毛沢東は「向ソ一辺倒」を打ち出し、中ソ友好同盟相互援助条約(中ソ同盟条約)を調印します。抗日戦争に続き、国民党との血みどろの内戦を戦った共産党政権にとって、アメリカによる中国封じ込め政策に対抗するためには、軍事的にも経済的にもソ連の支援が必要であり、社会主義陣営の有力メンバーという金看板は対外的にも重要な意味を持っていたからです。
 
 もっとも、4000年の文化的伝統を誇る中国人にとって、建前の上ではソ連を“兄”として尊重していたものの、本音の部分では、ソ連から“弟”扱いされることは耐えがたいことでもありました。また、1950年6月に始まる朝鮮戦争は、1950年10月に中国が人民志願軍を派遣したことで、実質的に米中戦争として展開されました。朝鮮戦争への参戦は中国に多大な犠牲を強いるものでしたが、同時に、犠牲を厭わず“アメリカ帝国主義”と戦った中国に対する社会主義陣営内の評価を高める結果をもたらしました。じっさい、1953年1月、全世界の社会主義者たちの“首領”として君臨してきたスターリンが亡くなると、中国は次第にソ連との対等の立場を目指すようになります。

 もっとも、スターリンの死後数年間、中ソ関係は良好でした。中国は1953年から1954年にかけて第1次5ヵ年計画を策定してソ連の経済モデルに倣った社会主義建設を目指し、ソ連も中国の戦後復興を支援していたからです。

 ところが、1956年2月、ソ連共産党の書記長であったニキータ・フルシチョフは、帝国主義との戦争は不可避としていたスターリンを批判し、西側との平和共存に向けて一歩を踏み出します。

 しかし、ソ連の路線転換は、中国の目には“修正主義者”による変節としか映りませんでした。北朝鮮や北ベトナムが東西冷戦の最前線で米軍と対峙している状況の中では、西側に対して弱腰の姿勢を示すべきではないというのが、3年前まで米国と直接戦っていた中国の基本的な認識だったからです。

 このため、1957年11月18日、モスクワで行われた共産党・労働者党代表者会議に参加した毛沢東は、「東風は西風を圧す」「米帝国主義は張子の虎」と演説。米国との核戦争を恐れるべきではないと主張し、平和共存を進めるフルシチョフを恐れさせています。

 もっとも、こうした中ソの亀裂は、当時、西側に対しては表向き秘匿されていました。このため、平和共存という方針を維持しつつも、米国に対する軍事的な劣勢を挽回する必要に迫られたソ連は、中国から軍事部門での協力を求められていたこともあり、中ソ同盟の文脈に沿って中ソの軍事力を一体化するため、1957年から翌年にかけて、長距離無線基地の設置と中ソ共同の潜水艦艦隊の創設を中国に提案します。

 しかし、毛沢東は、ソ連の二つの提案は中国を支配しようとするものと激しく反発。このため、フルシチョフは1958年7月末に北京を訪れ、説得を試みますが、毛の態度は頑なでした。

 さらに、同年8月23日、中国人民解放軍が金門島(福建省・厦門の沖合数キロメートルの位置にある島。台湾が支配していた)に向け大規模な砲撃を開始します。このとき、毛沢東は本気で米国との全面対決を望んでいたわけではなく、対外的な緊張をもたらすことで国内の統制を強化するのが目的でしたが、米国には台湾問題に関して中ソが共同歩調をとっていると誤解させておきたいと考えていました。

 ところが、フルシチョフは台湾問題にソ連が巻き込まれることを懸念。さらに、ほぼ時を同じくして、台湾軍機の落としたAIM-9ミサイル(米国製)の不発弾について、同盟国であるはずの中国がソ連に対して技術情報を不完全なかたちでしか渡さなかったことから、中国に対する不信感を強めます。

 もっとも、ソ連としては、対西側政策の必要から、そうした中国との亀裂をなんとか糊塗し、両国が友好関係にあるという体裁を何とか取り繕おうとします。その結果、いささか逆説的ですが、1950年代末、中ソ関係が緊張の度合いを高めていく時期になって、ソ連は中国の文化的伝統をたたえ、あるいは、アジアの“平和勢力”(米国を“戦争勢力”と規定する社会主義陣営の自称)を代表する存在としての中国を尊重するような切手を発行するようになります。

 しかし、“平和勢力”としてのソ連は、米国との核実験禁止の合意に基づき、アジアの非核構想を実現するため、1959年6月20日、中国に対して核技術の供与は行えないと通告。これは、中国に対して原子爆弾製造の技術的情報を与えるとの中ソ国防用新技術協定(1957年10月締結)を一方的に破棄するもので、中国としては納得できるものではありませんでした。

 結局、1959年9月30日、中華人民共和国の建国10周年にあわせてフルシチョフが北京を訪問し、毛沢東と首脳会談を行ったものの、あらゆる問題で両者の意見は噛み合わず、両国の共同声明が出せないという異常事態に終わりました。

 今回ご紹介している切手も、上記のような文脈で発行されたもので、全世界の“平和勢力”の女性の団結が表現されています。切手の図案では、中国服の女性は、各国語で“平和”を意味する旗(もちろん、その中には中国語の“和平”も含まれている)を掲げる中国服の女性を取り上げており、平和共存路線への中国の理解を得るべく、中国を尊重しているということを示すソ連側の配慮が伺えます。

 しかし、フルシチョフの掲げる平和共存路線への中国側の抵抗は強く、業を煮やしたソ連は、1960年7月、中国の政策転換を促すため、中国からの技術者の引き揚げと物資・軍事援助の大幅削減を決定。こうして、今回の切手を最後に、中ソ対立はますます激化し、アジアの諸民族との連帯を訴えるソ連の切手に、中国語の“和平”の語や、明らかに中国人と特定できる人々の姿はほとんど登場しなくなります。

 一方、毛沢東は、こうしたソ連の技術者引き上げを、1958年に発動した無謀な急進社会主義化政策の“大躍進”の失敗を糊塗する口実として利用。この結果、中国国内では、ソ連との対立は権力闘争の道具となり、1966年に始まる文化大革命では“修正主義者”とされた人々が苛烈な弾圧の対象となっていくという事態を生み出していくのです。
 
 今回の「外国切手の中の中国」では、今日ご紹介の切手を含めて、1950年代後半の中ソ関係を物語るソ連の切手を7点、取り上げています。機会があれば、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 泰俘虜収容所の葉書
2007-01-17 Wed 02:12
 今年は日本とタイの修好120年ということで、両国ではこれを記念してさまざまなイベントが予定されていますが、昨日(16日)、そのオープニング行事として、バンコクで日本人グループが和太鼓を演奏したのだそうです。

 こういう話を聞くと、せっかくの機会ですから、年内に“タイ切手展”といった類のイベントができたら良いなぁと思ってしまいます。で、この企画が実現した暁には、僕も、下の画像みたいな葉書を集めたコレクションで参加したいですねぇ。(画像はクリックで拡大されます)

泰俘はがきタイプ4

 第2次大戦中の1943年、日本軍は泰緬鉄道の建設に連合国の捕虜を動員するため、“泰俘虜収容所”を設け、タイとビルマ(ミャンマー)にまたがって6つの収容所分所を設置しました。“泰俘虜収容所”は、鉄道の建設工事が終了した後も存続し、さまざまなタイプの葉書が作られ、捕虜たちに支給されました。

 今回ご紹介しているものは、そのうちのタイプ4といわれているものです。この葉書は、日本の軍事郵便用の葉書用紙に“俘虜郵便”ならびに“泰俘虜収容所”の文字を加捺したもので、裏面には、タイプ1と呼ばれるものと同様の通信文が印刷されています。

 また、画像ではちょっと見づらいのですが、“No2 POW THAILAND”という紫色のスタンプも押されていますが、これは、この葉書がチュンカイにあった第2分所で使われたことを示しています。ちなみに、タイプ4の葉書は第2分所での使用例しか確認されていません。また、この葉書には差出の日付はないのですが、裏面には1943年7月16日到着という書き込みがあります。

 捕虜郵便は基本的に料金無料なので切手が貼られず、どうしても地味な印象がぬぐえないのですが、“泰俘虜収容所”に関しては、葉書のバリエーションが豊富なので、1フレーム(16リーフ)程度なら、あまり退屈しない作品を作ることができます。まぁ、毛色の変わった葉書のコレクションとして、フィラテリックな面では面白いと思うのですが、冷静に考えてみると、この手の題材は、“日タイ修好120年”にからめてのイベントにはふさわしくないといわれてしまうかもしれませんねぇ。

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 じつは「大奥」がらみ
2007-01-16 Tue 00:48
 ここ数年、年末年始は春に刊行の<解説・戦後記念切手>シリーズの原稿書きに追われて、ひたすら記念切手三昧の生活をしているのですが、ようやく、今年3月刊行予定のシリーズ第5巻の本文原稿を書き終えました。

 今回のシリーズ第5巻は、1972年の「札幌オリンピック」から1979年の「国土緑化運動」まで、つまり、「近代美術シリーズ」が始まる前までを扱っているのですが、その最後の方の原稿を書いていて、下の画像(クリックで拡大されます)の切手について、ちょっと面白い小ネタを拾えたので書いて見ることにしました。

立美人図

 これは、1979年4月20日に発行された「切手趣味週間」の切手で、懐月堂の立美人図が取り上げられています。

 懐月堂は、江戸時代中期、元禄末から正徳初めの1700~13年頃にかけて、浅草諏訪町(現・東京都台東区駒形1・2丁目付近)を拠点に活躍していた絵師集団です。彼らは、懐月堂安度とその弟子たちから構成されており、肩を落とし、手で裾のもとをつまみ、長く裾を引く立ち美人の一人姿を肉筆で描き、人気を集めました。

 今回の切手に取り上げられているのは、懐月堂の美人画の中から、画派の祖である安度の作品(連刷左側)とその弟子の度繁の作品(連刷右側)です。

 このうち度繁に関しては、その作品が、1948年に趣味週間切手(くわしくは、<解説・戦後記念切手>シリーズの第1巻『濫造・濫発の時代』もご覧いただけると幸いです)に江戸時代の美人画が取り上げられることが決められた時、候補の一つに挙げられていたものの、モデルが遊女であるのは切手として好ましくないとされ、最終的に「見返り美人」 が切手に取り上げられたという経緯があります。このため、31年を経て、ようやく、切手の図案として日の目を見たというわけです。

 1970年代も後半になると「切手趣味週間」の威光も随分と衰えてしまい、この切手も、収集家の間ではさして人気のものとはいえないようです。このため、僕なんかは、作品としての「立美人図」についてもあまり思い入れはないのですが、もし、度繁の作品が「見返り美人」の代わりに1948年の趣味週間切手に取り上げられていたら、僕のイメージも大分変わっていただろうと思います。

 ところで、一声を風靡した懐月堂グループは、1714年に起こった江島事件後の風紀粛清の余波を受けて、リーダーの安度(事件との関係は不明ですが)が遠島にされてしまい、画派としては急速に衰退していったのだとか。不勉強ながら、この話は、今回の原稿を書くために資料を読んでいて初めて知りました。江島事件を取り扱った映画「大奥」が去年の暮に公開される前に、このことを知っていれば、忘年会やら新年会でのちょっとした話のネタに出来たのに、ちょっぴり残念です。やっぱり、仕事は早目早目にこなしていかないといけないということなんですね。
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 切手の中の建設物:明治神宮
2007-01-15 Mon 00:32
(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の1月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の建設物」では、今月は、新年最初でもありますので、明治神宮の切手を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

明治神宮

 これは、1930年11月、明治神宮の鎮座10周年を記念して発行された3銭切手です。

 明治天皇の遺徳を偲ぶため、天皇と皇后を祭神として祀る明治神宮の造営工事は1916年から始まり、全国から延べ10万人もの青年団が奉仕して1920年に完成となりました。

 社殿の建築様式は流造とよばれるもので、神明造の屋根に反りを付し、その前流れを長くしたもの。平安時代に発展した様式で、京都の下鴨神社がその典型です。明治神宮の切手は、今回ご紹介している切手の10年前、1920年に明治神宮の鎮座の際にも発行されているのですが、1920年の切手だと屋根の部分に木立の一部がかかっているので、建築様式を観察するという点では、1930年の切手の方がふさわしいように思います。

 なお、神社といえばつきものの狛犬ですが、明治神宮は古い形式の神社を踏襲しているため、狛犬は参道にではなく、内陣(本殿の最も奥、御神体あるいは御霊代を奉安する場所)に置かれています。

 神宮の造営以前、周囲は現在の御苑一帯を除いては畑がほとんどで、荒れ地のような景観が続いていたそうです。造成工事が始まると、日本全国はもとより、植民地の樺太(現サハリン)や台湾、満洲(中国東北部)、朝鮮などからも境内に植えるための樹木が奉納されました。その数は、実に365種類10万本。こうして、もともとは人工林として出発した“神宮の森”だったが、その後、東京の気候にあわない樹木が枯れるなどして、ほぼ自然林に近い状態となり、現在は247種類17万本の緑が生い茂っています。

 ところで、それまで日本の記念切手において、周年記念行事が題材に取り上げられる場合には、明治・大正両天皇の銀婚式の25周年が最低単位で、10周年という短い期間で切手が発行されたのは前代未聞のことでした。じっさい、逓信省の昭和5年度の当初予定では、この切手の発行は計画されておらず、今回の記念切手が、もともとは彼らの想定外にあったことがうかがえます。それにもかかわらず、急遽、8月下旬になって、この切手の発行が追加的に決定されたため、現場サイドでは、わずか2ヶ月余の間に突貫作業で制作が進めることになりました。

 これは、逓信省の意志とは別に、どうしても、この切手を発行しなければならなかった何らかの事情があったためと考えるのが妥当でしょう。

 当時、政権を担当していた浜口雄幸内閣は、金輸出解禁政策に見られるように、前年(1929年)10月に発生した世界恐慌への対応を完全に誤り、日本経済は泥沼の昭和恐慌に突入。失業者や若い女性の身売りが続出し、労働争議が頻発しました。さらに、浜口内閣の外交政策の金看板であったロンドン海軍軍縮条約への調印は、昭和天皇の支持をえていたにもかかわらず、海軍や野党などから“統帥権干犯”との非難を浴び、政府を更なる苦境に陥れていました。

 1930年10月3日、明治神宮の鎮座10年祭が、昭和天皇の行幸を仰いで盛大に行われることが発表されたのは、まさに、こうした状況下のことで、浜口内閣としては、一種の世論操作のために鎮座10周年の機会を最大限に活用したものと考えて良いでしょう。当然、国家のメディアとしての切手もその一翼を担うことになり、記念切手の追加発行も急遽決められたというわけです。

 もっとも、当時の首相であった浜口雄幸は、明治神宮の鎮座10年祭が終わった直後、明治節翌日の11月4日、東京駅で右翼の一青年に狙撃されてしまいます。その意味では、大々的におこなわれた明治神宮の鎮座10年祭も、浜口内閣の政権浮揚には繋がらなかったわけですが…。

 なお、なお、この辺の事情については、拙著『皇室切手』でもいろいろと考察して見ましたので、機会があれば、是非、お読みいただけると幸いです。
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 まさかの友が真の友
2007-01-14 Sun 00:37
 アルゼンチンのイサベル元大統領が1976年2月の反政府派行方不明事件に関与した容疑でスペイン警察に逮捕されました。元大統領は、故フアン・ペロン元大統領の3番目の妻(ちなみに、2番目の妻がエビータことエバ・ペロンです)で副大統領だった1974年に夫の死に伴い世界初の女性大統領に昇格した人物。というわけで、今日は旦那のフアン・ペロンの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ペロンのパラグアイ訪問

 これは、1955年4月にペロンのパラグアイ訪問を記念してパラグアイが発行した切手を、ペロンの肖像の絵葉書に貼って消印を押したものです。切手に描かれている左側の人物がパラグアイ大統領のアルフレド・ストロエスネル大統領で、右側がペロンです。

 ペロンはブエノスアイレス郊外の出身で、陸軍内で栄達を重ね、1943年5月に副大統領兼国防大臣になります。第二次大戦中のアルゼンチンは中立国でしたが、ペロンは枢軸国寄りだったため、1945年10月には、アメリカが後押しするエドワルド・アバロスによる軍事クーデターで拘束されました。このとき、後に2番目の妻になる元女優のエバ・ペロン(エビータ)が国民にラジオでペロンの釈放を訴えたことでクーデターが失敗し、翌1946年、大統領に就任したことは広く知られているとおりです。

 で、大統領としてのペロンは、労働者の保護や英米企業の国営化などの左翼的な政策を推し進め、労働者層から圧倒的な支持を受け独裁権力を掌握したものの、1952年に国民からカリスマ的な支持を受けていた妻のエバが亡くなると、その3年後の1955年9月には軍事クーデターで大統領の職を追われ、パラグアイ経由でスペインに亡命しています。で、亡命先のスペインで知り合い、再婚したのが、今回逮捕されたイサベラ(当時はクラブ歌手だったそうです)でした。

 その後、ペロンは1973年7月に、前大統領が辞任したことを受け、大統領選挙に出馬して勝利を収め、同年10月に再び大統領に復帰。副大統領にイザベラ・ペロンを就任させたものの、わずか1年後の1974年7月に病死。副大統領であったイザベラが大統領に就任するものの、1976年3月には軍事クーデターで彼女も解任され、1981年まで身柄を拘束されていました。

 さて、今回の切手は1955年のクーデターでペロンが国を追われるわずか5ヶ月前に発行されたものですが、大統領の時代のペロンは、まさか、自分が亡命というかたちでパラグアイを再訪することになるとは夢にも思わなかったでしょう。もっとも、4月の訪問でお互いの友誼を深めていたからこそ、パラグアイもペロンを受け入れるということになったという面もあるのでしょうけれど…。いずれにせよ、「まさかの友が真の友」を地で行くような話ではありますな。

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 不発行切手のカバー
2007-01-13 Sat 00:48
 バングラデシュで非常事態宣言が発せられ、首都など主要都市では夜間の外出が禁止されたそうです。同国では22日に予定されている総選挙をめぐって野党勢力がボイコットを宣言し、政治危機が高まっていたわけですが、どうやら、情勢は緊迫の度合いを増しているようです。

 というわけで、バングラデシュ関係のマテリアルの中から、何か面白いものはないかと思って探してみたところ、こんなものが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

バングラ不発行切手

 このカバー(封筒)では、中央上部に貼られている単色の切手にご注目ください。この切手は、パレスチナ解放闘争への支持を訴えるためのもので、鉄条網に覆われた岩のドーム(イスラムの聖地としてのパレスチナのシンボル)と、反イスラエル闘争を戦う戦士の姿が描かれています。バングラデシュは人口の大半がムスリム(イスラム教徒)ですから、イスラム教徒であるアラブ系のパレスチナ人を抑圧しているイスラエルに対しては、当然のことながら、強い不快感を持っており、その意味では、こういうパレスチナ支援の切手が発行されるのも、まぁ、無理からぬところと言えます。

 ところで、この切手は、もともとは1980年に発行すべく、当時のソ連に製造が委託され、準備が進められていたのですが、現物が届けられてから、印面の下の方に書かれているアラビア語の表記にスペルミスがあることがわかり、急遽、発行が取り止めになり、各地の郵便局に配給されたものは回収されることになりました。バングラデシュの郵政当局は言葉をにごしていますが、スペルミスに加えて、欧米諸国から見るとテロといわれかねない行為を賞賛するようなデザインになっていたことも、彼らが発行を思いとどまる要因だったのかもしれません。

 ところが、一部が回収されずに一般向けに発売されてしまい、このカバーのように郵便にも使われてしまったというわけです。まぁ、特別に高価なものというわけではないのですが、ちょっと捻ったマテリアルですし、なかなか日の目を見させてやる機会もないモノなので、この機会にご紹介してみました。
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 14万アクセス
2007-01-12 Fri 00:37
 おかげさまで、昨日の午後、カウンターが14万アクセスを越えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。

 さて、14万という区切りの数字ですし、まだお正月気分もちょっと残っている(今日も、去年のうちに投函されたと思われる年賀状が何枚か着きました)ことですから、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

春日大社

 これは、1938年2月11日に発行された14銭切手(記念切手ではなく、日常的に郵便局で売られている通常切手です)で、春日大社の中門(本殿前の楼門)と稲垣(門前の木の柵)が描かれています。画面の左上方には、ちょっとだけ、境内の大杉の枝も見えています。

 春日大社は、もともと、奈良・平城京に遷都された710年、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山に遷して祀り、春日神と称したのがルーツで、藤原氏の氏神として繁栄しました。

 1937年から発行が始まった日本の通常切手は、切手の世界では“昭和切手”と呼ばれています。このシリーズは、“世界に冠たる神国・日本”をテーマに、神社や忠臣、植民地の風景などを取り上げたもので、第2次大戦後の占領時代には、軍国主義ないしは超国家主義的なデザインとして1947年8月いっぱいで使用禁止になったものも少なくありません。今回ご紹介している春日大社の切手も、“神道”という点で占領当局のコードに引っかかり、“追放切手”に指定されています。

 もっとも、1941年の日米開戦までに発行された第1次昭和切手の内容を冷静に見てみると“世界に冠たる神国・日本”というテーマとは裏腹に、いわゆる国家神道に直接関係するといえそうなものは明治神宮を取り上げた8銭切手しかありません。藤原氏の氏神であった春日大社や、皇室よりも平氏や毛利氏との関係が深い厳島神社(30銭切手)、徳川家康を祀る日光東照宮(10銭切手)などは、たしかに神社を題材としたものではありますが、国家神道とは無関係に、日本の代表的な文化遺産であるがゆえに切手に取り上げられたと考えるのが妥当でしょう。まぁ、それにもかかわらず、なにもかも“神道”だからと一緒くたにして追放されてしまったのが、占領という時代の特質だったといえるわけですが…。

 なお、この辺の神道と切手の関係については、拙著『皇室切手』でもいろいろと考察して見ましたので、機会があれば、是非、お読みいただけると幸いです。
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 来月公開
2007-01-11 Thu 09:26
 今日(1月11日)は、いまから25年前の1982年、静岡県熱海市に救世熱海美術館を改装したMOA美術館が開館した日なのだそうです。で、MOA美術館といえば条件反射のように連想できるものということで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

紅白梅図屏風

 これは、1969年9月に発行された第1次国宝シリーズの1枚で、尾形光琳の「紅白梅図屏風」を取り上げたものです。「紅白梅図屏風」は、光琳晩年の代表作で、京都の新町通り二条下ル(二条城の東方)の屋敷で制作され、もともとは津軽家に伝えられていました。

 MOA美術館は世界救世教の教祖・岡田茂吉のコレクションを中心としたもので、岡田が存命中の1952年に開設された箱根・強羅の箱根美術館(日本陶磁器専門の美術館)の姉妹館として、岡田が亡くなった後の1957年に熱海美術館(のち「救世熱海美術館」と改称)としてオープンしました。もっとも、熱海美術館は収蔵品の質・量に比べて展示施設が貧弱だったため、岡田の生誕100周年にあたる1982年(昭和57年)を機に、現在のMOA美術館が開館しました。

 ちなみに、“MOA”とはMokichi Okada Associationの頭文字だそうで、まぁ、わかりやすいといえばわかりやすいネーミングですな。

 「紅白梅図屏風」は毎年2月に公開されているので、その気になれば来月には現物を拝んでくることも可能です。貧乏ひまなしの僕は、恥ずかしながら、まだ現物を拝んだことがないのですが、いずれは、敷地内に再現されている“光琳屋敷”(光琳箱の屏風を製作した屋敷)とあわせて、のんびり熱海の温泉旅行つきで遊びに行きたいものです。

 なお、この切手を含む「(第1次)国宝シリーズ」の切手に関しては、<解説・戦後記念切手>シリーズの4巻として刊行した拙著「一億総切手狂の時代 昭和元禄切手絵巻」で詳しくまとめていますので、機会があれば、是非、ご一読いただけると幸いです。 
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 太平洋ってご存知ですか?
2007-01-10 Wed 00:58
 韓国の盧武鉉大統領が、昨年11月にハノイで行われた安倍首相との日韓首脳会談の席上、日本海を「平和の海」などと改称してはどうかと持ちかけていたことが、青瓦台(大統領府)が公開した会談の発言録によって明らかになりました。

 例によって、「なんだかなぁ」と思いながら、こんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

インド太平洋水産理事会

 これは、1962年10月10日からソウルで開かれた「第10回インド・太平洋地域水産理事会」を記念して韓国が発行した切手の初日カバーです。初日カバーというのは、切手が発行された日にその切手を封筒に貼って消印を押したもので、今回ご紹介している画像のものは、大邱からニュージーランド宛に、実際に配達されているものです。(郵便料金の関係から、裏面には別の切手も貼ってあります)

 あらためて言うまでもないことですが、“平和の海”というと、我々が思い出すのは太平洋のことです。すなわち、1520~21年に探検家のフェルディナンド・マゼランが世界一周航海をしていた際、マゼラン海峡を抜けて太平洋に入った時に、荒れ狂う大西洋と比べたその穏やかさに、この海のことを“El Mare Pacificum(平和な海)”と表現したことが“太平洋”の語源ということは、たしか、中学の頃、歴史だったか英語だったか忘れましたが、授業で習った記憶があります。

 この話は一般常識に属することだと僕は思っていましたので、盧武鉉閣下が、いまになって(ごく一部の例外を除いて)全世界で(英語で言うところの)“Sea of Japan”といわれている海に“平和の海”という名前を付けようというご提案をなさったのは、ひょっとすると、韓国語には“太平洋”という単語や概念がないからなのかもしれないとも思ってしまいました。ところが、ちょっと探して見ただけで、今回ご紹介しているように“太平洋”という表記のある切手がしっかりと発行されていることもすぐにわかりました。

 ということは、今回の“平和の海”提案は、標準的な韓国人の発想ということではなく、閣下ご本人の特殊な事情によるものということなんでしょう。ちなみに、青瓦台も閣下のご発言について「公式提案ではない」と強調しており、この件に関しては閣下とは距離を置こうとしているようにもみえます。

 まぁ、これが遠く離れた国の出来事であれば、単なる与太郎ジョークのひとつで済む話なのですが、好むと好まざるとに関わらず、隣国の(国家元首の)話ですからねぇ。いやはや、困ったものです。

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 防衛省か国防省か
2007-01-09 Tue 01:00
 今日(1月9日)付で日本の防衛庁が防衛省に変わるんだそうです。

 個人的には、防衛省という名前よりも、国防省という方がカッコいいと思うのですが、ウィキペディアによると、他国の国防を所管する省庁の名称は、ほとんどがMinistry(Departmemt) of Defenceで、直訳すると“防衛省”であり、“国”にあたる単語を含んでいるケースはカナダ、中国、韓国など少数派なんだそうです。

 というわけで、そのレアケースな純然たる“国防省”がらみのモノとして、こんなカバー(封筒)を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

カナダ国防省のカバー

 これは、1957年12月、第2次中東戦争(いわゆるスエズ動乱というヤツです)後の停戦監視のために派遣された国連緊急軍(UNEF:UNITED NATIONS EMERGENCY FORCES)に参加したカナダ軍の関係者が差し出した公用便で、カナダ国防省の封筒が使われています。封筒の表示は、英語とフランス語で“DEPARTMENT OF NATIONAL DEFENCE/ MINISTERE DE LA DEFENSE NATIONALE”となっており、しっかりと“国”に相当する“NATIONAL”という単語が見えます。

 第2次中東戦争は、1956年12月22日までに英仏軍がスエズ侵攻作戦を中止して撤退したことで事実上終了しましたが、その戦後処理として、国連事務総長ハマーショルドの裁定により、大国を排除した国連緊急軍が停戦監視のために派遣され、カナダもその一員として参加したというわけです。

 カバーには差出地などは書いてありませんが、この時期に国連緊急軍が派遣されていたのは第2次中東戦争の関連地域だけですから、余悩むことはありません。国連のマークとUNITED NATIONS EMERGENCY FORCESが入った消印が鮮明に押されているのも良い感じです。

 第2次中東戦争後の国連緊急軍の活動は、第3次中東戦争直前の1967年5月、ナセルがシナイ半島に兵力を進駐させ、国連緊急軍に撤兵を要求するまで続きます。このため、国連緊急軍関連のカバーは1960年代に入ってからのモノも少なくないのですが、やはり、第2次中東戦争との絡みで持ってくるのなら、このカバーのように1957年のモノでないと、ありがたみも半減してしまうように思います。

 なお、第2次中東戦争にからむ切手やカバーについては、去年刊行の拙著『これが戦争だ!』でも、いくつかご紹介していますので、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 切手で世界旅行:万里の長城
2007-01-08 Mon 00:53
 現在、僕は時事通信社の配信用コラム「切手で世界旅行」という短期連載(全12回)という仕事をしているのですが、その第1回目と第2回目が昨年12月5日と12日の『山形新聞』に掲載されたとのことで、掲載紙を送っていただきました。

 ということは、3回目も既に掲載されていると思いますので、その内容をご紹介しておきましょう。3回目のネタは「万里の長城」で、こんな切手を使ってみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

長城航空(旧)

 これは、1921年7月に中国で発行されたエアメール用の切手で、万里の長城の上空を飛行機が飛んでいるデザインであることから“長城航空”といわれています

 第一次大戦を経て本格的な航空時代が幕を開けると、世界各国でエアメールのサービスが開始されるようになり、中国でも1920年からエアメールのサービスが開始されました。この切手も、そうした事情で発行されたものです。

 ところで、この切手が発行されたとき、中国は軍閥割拠の状態にあり、とりあえず、対外的には、北洋軍閥による北京政府が中華民国を代表するという建前になっていました。このため、切手に描かれている飛行機の尾翼には北京政府の五色旗が掲げられています。

 これに対して、孫文亡き後、広東に成立した国民政府は、軍閥を打倒し、国家の統一を実現するため、1926年、統一戦争としての国民革命(北伐)を発動します。

 一方、蒋介石を総司令とする国民革命軍という共通の敵を前に、軍閥諸派は大同団結し、1927年6月、奉天派の張作霖を大元帥に推戴して対抗。北京政府として、南方から来た国民革命を迎え撃つ姿勢を明らかにしたのですが、勢いに勝る国民革命軍の前に各地の軍閥は相次いで敗北を喫します。そして、済南が陥落するにいたって、ついに張も敗北を覚悟し、北京を退去して本拠地の奉天に撤退しようとした6月4日、関東軍大佐の河本大作によって移動途中の列車ごと爆殺されてしまうのです。

 当時、日本政府は張作霖を満洲に撤退させ、蒋介石による中国本土の支配を認める代わりに、日露戦争以来の特殊権益が集中する満洲については張が日本の権益を保護するのが良いと考えていました。しかし、現実に国民革命軍が迫りくる中で、張が“寝返る”ことを恐れた関東軍は張を抹殺したのです。

 結局、張の爆殺後、国民革命軍は北京に入城し、名目的ではありますが、中華民国の統一が達せられます。一方、満州では、張作霖の死後、息子の張学良が東三省保安総司令官となり、実権を掌握。1928年12月、関東州と満鉄付属地を除く満州全域に、それまで用いてきた満州五色旗を下げ、国民党の青天白日旗を一斉に掲げさせ、東三省の主席と連名で国民党に服従することを発表しました。これが、いわゆる“満州易幟”です。

 さて、易幟の影響を受けて、航空切手のデザインもマイナーチェンジが行われ、長城と飛行機という基本的な構図はそのままに、飛行機の尾翼の旗が五色旗から、下の画像のように、南京政府の青天白日旗に変更されています。

長城航空(新)

 父親を日本人に殺された張学良としては、排日と満蒙の権益回収を目指す蒋介石の南京政府に合流するのは当然の選択だったわけですが、日露戦争の多大な犠牲の上に満蒙の“特殊権益”を獲得した日本には、張学良の行動は従来の経緯を無視した暴挙としか映りませんでした。そうした危機感が、権益を維持するためには満蒙を中国から切り離さなくてはならないという焦慮をうみ、彼らを満州事変へと駆り立てていくのです。

 この辺の経緯については、昨年9月に刊行の拙著『満洲切手』でもまとめてみましたので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 化粧まわしは安物?
2007-01-07 Sun 00:43
 今日から大相撲の初場所だそうです。同じNHKで見るなら、太った男の裸より、紅白歌合戦でDJ OZMAの後ろで踊っていたお姉さんたちの裸(実はボディ・スーツだったそうですが)の方が好きだという人の方が多いとは思いますが、まぁ、そうはいわずに、こんな切手を見てやってください。(画像はクリックで拡大されます)

秀ノ山土俵入り

 これは、1978年7月に発行された「相撲絵シリーズ」第1集の切手で、三代豊国の「秀ノ山雷五郎横綱土俵入之図」が取り上げられています。オリジナルの作品は三枚綴りですが、切手には横綱・秀ノ山の土俵入を中心とした左側の2枚のみが取り上げられています。なお、切手に取り上げられなかった右端の1枚は、行司や親方を描くものです。

 さて、先日、<解説・戦後記念切手>シリーズの第5巻の原稿を書こうと思って、この絵のオリジナル(相撲錦絵の繚乱というページでも見られます)をチェックしてみたところ、切手はオリジナルの作品と大幅に色を変えていることがわかって、ちょっとビックリしました。

 まず、オリジナルでは背景は青緑色ですが、切手ではこれがグレーになっています。また、横綱の化粧まわしも、オリジナルでは色明るい紫色の部分が切手ではグレーに、下の総飾りの部分がオリジナルでは黄色と茶色の2色であるのに対して切手ではわずかに薄橙の部分があるだけでほとんどがグレーになっています。切手だけで見ていると特に感じなかったのですが、オリジナルと比べてみると、切手のまわしは随分と安っぽい感じがします。

 美術作品を取り上げた切手というと、一般には作品(の一部)を忠実に再現したものと考えがちですが、実際には、印刷機の都合などもあって、かなり手を加えているケースというのも少なくありません。今回の切手も、その一例といえましょう。

 さて、2001年から刊行を続けている戦後記念切手の読む事典<解説・戦後記念切手>シリーズですが、昨年刊行のシリーズ第4巻『一億総切手狂の時代:昭和元禄切手絵巻 1966-1971』につづく第5巻は、今年3月に刊行の予定です。今回の第5巻では、1972年の「札幌オリンピック」から、今回ご紹介した「相撲絵シリーズ」を含めて1979年途中まで(どこを切れ目にするかは、ページ数の調整次第、といったところです)の記念・特殊切手を項目として収録の予定です。

 また、刊行が近づきましたら、このブログでもいろいろと予告編を掲載していきたいと思いますので、お楽しみに。
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 2007年の初荷
2007-01-06 Sat 00:49
 年賀状(年内に出したと思われるものが、まだチラホラと届きます。なんだか、年々、配達が遅くなっているような気がするのは僕だけでしょうか)に混じって、年末にオークションで落札したカバー(封筒)が届きました。僕にとっては、今年の初荷ですから、ご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

キリキアのカバー

 これは、1920年1月25日、フランス占領下のキリキア(Cilicia:アナトリア半島南部の地中海沿岸、シリアとの国境に近いトルコの一地方)のアダナから差し出されたカバーです。

 第1次大戦でオスマン帝国が敗れると列強諸国は帝国の分割を画策して各地に進駐します。このうち、現在のシリア・レバノン地域を勢力圏内に治めようとしていたフランスは、1919年1月、キリキアに進駐し、この地を占領しました。

 ベルサイユ会議では、戦後のシリア・パレスチナ地域は、①イギリス支配の南部OETA(敵国領土占領行政区域:Occupied Enemy Territory Administration)、②アラブ支配の東部OETA:アカバからアレッポにいたる内陸部、③フランス支配の西部OETAに3分割されましたが、キリキアは、このうちの西部OETAに組み込まれ、オスマン帝国の戦後処理を決めた1920年のセーブル条約によって、フランス委任統治領のシリアに属するものとされます。

 今回ご紹介しているカバーは、この時期のアダナからのカバーで。旧オスマン帝国時代の切手つき封筒にCiliciaと加刷したものに、フランスの占領切手(キリキア専用のもの+全占領地域共通のもの)を貼って、フランス本国のマルセイユ宛に差し出されたものです。

 カバー上部の開け方がちょっと乱暴なのが気に入らないのですが、切手にはダメージを与えているわけではありませんし、イタリアの検閲印と思われる印も押されているので、気の利いたものが少ないキリキアのカバーとしては十分に合格点の部類に入るでしょう。

 なお、セーブル条約の内容は、オスマン帝国の解体のみならず、アナトリアにトルコ人の国民国家を作ることも否定したものであったため、ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャとかアタテュルクとか呼ばれている人物です)のアンカラ政府はこれに抵抗。1923年にはセーブル条約に代わる講和条約としてローザンヌ条約の締結に成功し、現在のトルコ共和国の枠組と基盤を作り上げることに成功します。

 なお、このローザンヌ条約により、キリキアはトルコに帰属するものとされたため、フランスの占領加刷切手もその役割を終えることになりました。

 オスマン帝国解体後の東地中海、なかでも、現在のシリアの枠組が作られていく過程では、郵便史的にもいろいろと面白いマテリアルが生まれていますので、いずれは、それらを集めてまとまったコレクションを作ってみたいと考えています。もっとも、それが実現できるようになるまでには、まだ当分時間がかかりそうです。まぁ、あせらずにぼちぼち行くしかないですね。
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 英雄/テロリスト図鑑:孫文
2007-01-05 Fri 00:53
 『SAPIO』1月24日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、年明け1発目ということでもありますし、亥年の出来事に関わる大物ということで、辛亥革命の英雄・孫文を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

孫文生誕100年

 この切手は、文革最中の1966年に中国が発行した孫文生誕100年の記念切手です。孫文の唱えた“三民主義”については、以前の記事でもご説明しましたが、結論から言うと、大衆=愚民という大前提の下、愚民の政治参加を制限し、全ての権力を国民党の政府に委ねるべきとするものでした。まさに、一党独裁の論理で、現在の中国共産党政権が孫文のことを“近代革命の先人”として高く評価しているのも、むべなるかな、という気がします。

 さて、孫文は1866年、広東省香山県(現中山市)の客家の農家の出身で、12歳のとき、兄を頼ってハワイへ渡り、彼の地のキリスト教系の学校に通っていたのですが、息子のあまりの“西洋かぶれ”を心配した両親によって17歳のときに故郷に呼び戻されてしまいます。

 しかし、ハワイでの青春を謳歌していた孫文にとっては、故郷の生活は退屈きわまりないもので、悶々鬱々とした彼は、行く先々でさまざまなトラブルを巻き起こしました。そして、村人の信仰の対象であった北帝廟(悪魔の王を倒して神の称号を与えられたとされる北帝を祀った廟)の神様を単なる“土人形”と罵り、その腕をもぎ取ってしまったことで、村にいられなくなり、学校に行くという名目で香港に逃れざるをえなくなります、

 香港では、彼は最終的に西医書院(現・香港大学医学部)を卒業して1892年にマカオで医師として開業するのですが、この間、おとなしく学問に励んでいたわけではなく(成績は優秀でしたが)、鄭士良らのヤクザ者と付き合い、清朝政府を公然と批判して“四大寇”(四人の悪党)の1人に数えられるほどの有名人となっていました。

 1894年1月、孫文は、清朝の実力者、李鴻章に国家改革を求める信書を一方的に送りつけます。当時は日清戦争の開戦間近で情勢が緊迫しており、李鴻章からすれば、無名の青年が書いた長文の意見書を読む時間的余裕などあるはずはないのですが、孫文はそうした事情をまったく考慮せず、自分の建策を受け入れないのは清朝が悪いとして、その打倒を決意。同年11月、秘密結社としてハワイで興中会を結成し、翌1895年、“会党”と呼ばれる秘密結社や“緑林”と呼ばれる無法者集団を動員し、武器弾薬を準備して、旧暦九月九日の重陽の節句を期して広州での武装蜂起を計画しました。

 しかし、この計画は事前に清朝側に察知されて失敗。孫文は命からがら広州から香港を経て日本に亡命します。以後、孫文は清朝政府から体制転覆を狙うテロリストとして懸賞首となり、1912年に中華民国が成立するまでの間、海外で亡命生活を送ることになります。

 その後も、孫文は“会党”やら“緑林”やらの怪しげな連中を集めて、亡命先から幾度となく武装蜂起を指示・計画したものの、それらはことごとく失敗しています。まぁ、孫文本人は自らの手で他人の命を奪ったということはないようですが、彼の掲げた革命の理想を信じて爆弾を投げたり、政府機関を襲ったりして、その結果として逮捕されて刑場の露と消えていった若者たちというのは少なくないのですから、孫文に“テロリスト集団”の頭目として責任がないということにはならないでしょう。

 結局、1911年10月、彼が革命の資金集めにアメリカに渡っている間に、彼の指示とは無関係に発生した武昌蜂起が中国全土に波及して辛亥革命になり、1912年には中華民国が成立。かつてのお尋ね者は“革命の元勲”として凱旋帰国することになるのです。

 なお、今回の記事では、そうした“テロリスト”孫文が、ふとしたきっかけで“革命家”の肩書を手に入れた事情についても説明してみました。ご興味をお持ちの方は、是非、現在発売中の雑誌『SAPIO』をご覧いただけると幸いです。

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 フセインは殉教者になるか
2007-01-04 Thu 00:41
 三が日も終わって、いよいよ2007年も始動というわけですが、正月休みの間の最大の出来事といえば、なんといっても、年末の30日にイラク元大統領のサダム・フセインが処刑されたことでしょう。というわけで、まずはこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

銃を持つフセイン

 これは、2002年4月のエルサレムの日にイラクで発行された切手の1枚です。

 絞首台でのフセインの最期の言葉は「神は偉大なり。イラクは勝利するだろう。パレスチナはアラブのものだ」というものだったそうですが、「神は偉大なり」というフレーズの入ったイラク国旗の側でエルサレムの“岩のドーム”を背景に銃を掲げるフセインの姿を取り上げた今回の切手は、まさに、そうした彼の最期の言葉の内容を凝縮したようなデザインといって良いように思われます。

 冷静にフセインの生涯をたどってみると、湾岸戦争以前の彼は、イスラム革命に対する防波堤という役回りでイランに対する侵略戦争を発動したばかりか、国内でもいわゆるイスラム原理主義者たちに対して容赦なく弾圧を加えてきた人物です。また、アラブ民族主義政党であるバアス党の指導者としても、かならずしも、パレスチナ問題に熱心に取り組んできたわけでもありません。

 しかし、湾岸危機から湾岸戦争へのプロセスの中で、国際的に孤立したフセイン政権は、アラブ世界ないしはイスラム世界の世論を味方につけるため、パレスチナ問題とクウェート問題は同時に解決すべきだとか、イスラム世界を代表して不義不正なるアメリカと戦うといったプロパガンダを展開するようになります。

 これは、客観的に見れば、フセインが苦し紛れに持ち出した方便に過ぎないともいえるのですが、そうした主張が、イスラエルの国連決議違反(国連決議を無視して1967年の第3次中東戦争での占領地の一部にイスラエルが居座り続けていることなど)に対しては寛容であるにもかかわらず、イラクに対しては厳しい措置を取ったアメリカと国際社会のダブルスタンダードに対して、強い反感と不信感を抱いているアラブ世界ないしはイスラム世界の人たちに対して、説得力あるものとして受け止められていたことも事実です。

 今回のフセインの処刑は、多くのイスラム教徒にとっては、寛容の精神を示す犠牲祭の期間中に行われたということもあって、処刑を断行したイラク政府と、その後ろ盾になっている(と少なくともイスラム世界では理解されている)アメリカに対する反感と嫌悪感を増幅させる結果になってしまったことは否定できないでしょう。少なくとも、今回の一件で、フセインが“殉教者”に祭り上げられてしまう可能性はきわめて高いといえます。そして、こうした殉教者としてのフセインのイメージは、生前の彼が繰り返してきた、犠牲を顧みず理不尽なアメリカと戦う英雄というイメージの、いわば完成形ともいっても良いかもしれません。

 なお、生前のフセインが、切手という国家のメディアを使ってどのような自己演出を行おうとしていたかという点については、2005年に刊行の拙著『反米の世界史』でも(簡単にではありますが)触れていますので、機会があれば、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 赤十字のイノシシ
2007-01-03 Wed 00:49
 まだ三が日ですから、お正月ネタで行きましょう。今年の干支であるイノシシの切手の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

北ボルネオのイノシシ(赤十字加刷)

 イギリス時代の北ボルネオの切手はデザイン・印刷ともに実に素晴らしいものが多く、今回ご紹介している1909年に発行の10セント切手も、イノシシの切手の中では定番中の定番といってよいものです。おそらく、今年の年賀状にこの切手の画像を使ったという収集家の方も多かったのではないかと思います。

 で、今日の切手は、その10セント切手に第1次大戦末期の1918年10月に赤十字の付加金加刷を施して発行された1枚です。加刷の文字は、赤十字をプラスの記号に見立てて4セントの付加金額を表示したもので、今回の切手は郵便局の窓口では14セントで発売されたということになります。

 第1次大戦そのものは、この切手が発行されて間もなく、1918年11月11日に休戦協定が成立するのですが、赤十字の活動というのは、戦時のみならず、戦後の復員や傷病兵たちの看護といったことにも及んでいるわけですから、戦争が終っても赤十字の活動資金を集める必要がなくなるわけではありません。

 その意味では、今回の付加金つき切手も決して“遅すぎる発行”ということにはならないのですが、現地の住民にとっては、遠くヨーロッパでの戦われていたイギリス人の戦争に対して協力を求められても、なかなか実感がわかなかったというのが正直なところだったんじゃなかろうかと思います。もっとも、そうであればこそ、遠くはなれたボルネオの地の人々までもが、こういう形でイギリスの戦争に協力させられていたというところに、総力戦というものの本質が垣間見えているわけですが…。

 なお、戦時下の国民に戦争への協力を求めるための手段として、切手や郵便物がどのように使われているかという点については、去年、ちくま新書の一冊として刊行した拙著『これが戦争だ!』でも、簡単にではありますが、まとめてみました。機会があれば、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 年賀状の切手
2007-01-02 Tue 00:30
 前にもこのブログで書いたかもしれませんが、“郵便学者”という看板を掲げて生活している関係から、僕は毎年、年賀状には干支にちなんだ切手を取り上げることにしています。

 で、今年の年賀状では、こんな切手を使ってみました。(画像はクリックで拡大されます)

香港年賀1995

 これは、いまから12年前の1995年、英領時代の香港が前回の亥年の年賀切手として発行した4種セットのうちの1枚です。

 今年の7月1日、香港は1997年の“返還”からちょうど10周年を迎えます。僕は1997年の返還にあわせて『切手が語る香港の歴史』という本を出しました。当時としてはそれなりに頑張ったつもりだったのですが、いまから見ると、いろいろと手を入れたい部分も少なからずあります。

 また、同書を刊行したことで、「お前は香港の切手やカバーを集めているのか」といろいろな方に認識していただくことになり、ホントだったら同書で使いたかったような面白いマテリアルを少なからず入手することができました。また、2004年にはそれらを元にA History of Hong Kongという作品を香港で開かれたアジア国際切手展Hong Kong 2004のオープンクラス部門に出品し、部門の最高賞をいただくことができました。

 こうしたこともあって、返還10周年の節目の年である今年は、香港の切手展に出した作品をベースに10年前の本のリニューアル版を作ってみたいと考えています。今回の年賀状の切手も、そうした意図を込めて切手を選んでみたのですが、はたして、この目標が実現できるかどうかは、現時点では神のみぞ知るといったところです。

 なお、例によって、年賀状の投函は年末ぎりぎりになってしまいましたので、まだお手元に届いていない方も多いのではないかと思います。早々に賀状を頂戴した皆様方におかれましては、今しばらくお待ちいただきますよう、伏してお願い申し上げます。

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