内藤陽介 Yosuke NAITO
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 奥さん、切手いらんかね
2007-04-30 Mon 00:46
 スタンプショウは本日が最終日ですが、併催のトピカル切手展では、今回は、北林利仁さんの「橋の形態」がグランプリを受賞しました。というわけで、北林さんに敬意を表して、今日はこんな橋の切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

若戸大橋

 これは、1962年9月26日に発行された若戸大橋開通の記念切手です。

 若戸大橋は、福岡県北部の洞海湾に隔てられた、若松=戸畑間を結ぶ全長627メートル(取り付け道路を含む全長は2100メートル)のつり橋で、開通当時は東洋一の長さを誇っていました。

 このため、地元としては、早くからその開通にあわせて記念切手が発行されるものと期待をかけており、完成前年の1961年6月には、戸畑・若松の両市の市長、市議会議長、商工会議所会頭の連名で郵政大臣(小金義照)宛に「若戸大橋完成記念切手の発行に関する陳情書」が提出されています。その後、9月に入ると、日本道路公団総裁(岸道三)から郵政大臣(迫水久常)宛に、さらに11月には、建設省からも郵政省宛に、記念切手の発行申請が行われ、記念切手発行が実現されました。

 当時は高度経済成長の真只中で、巨大な土木プロジェクトが相次いで完成しており、それにちなむ記念切手も少なからず発行されていますが、そうした切手の場合、発行日は工事の進捗状況に大きく左右されています。今回の記念切手に関しても、当初は工事の完成にあわせて10月上旬頃の発行が計画されていましたが、工事が予定よりも早く進み、9月26日の開通となったため、発行日もこれにあわせて繰り上げられています。

 ところで、当時は記念切手が発行されると早々に完売となることが社会的にも問題視されていましたが、その影で、一部郵便局の現場では記念切手の販売と保険の勧誘を結びつけることも行われていました。

 たとえば、雑誌『郵趣』1962年12月号には、次のような読者の投書が掲載されています。

 「おくさん、新しく出た切手、ほしくないかね。保険に入ってくれれば、こうやって新しい切手がでるたびに、ちゃんともってきて上げますよ」――郵便局の保険外務員は、こういいながら、わたくしの目の前で、今日出たばかりの、赤い若戸大橋の切手のシートなん枚かを、ひらひらさせる。今朝早く、千歳局(東京都世田谷区:引用者註)へならんで、しかも手に入らなかった私にとって、同じ千歳局の局員が、切手をおとりにして保険を押しつけることが、無精(ママ)に腹立たしい。無理に押しつけられて、涙がでてきた。(以下略)

 ちなみに、この投書をこんな風に編集してみると、途端に、三文エロ小説のような雰囲気になります。

 おくさん、新しく出た切手、ほしくないかね――郵便局のXXは、こういいながら、わたくしの目の前で、今日出たばかりのOOの切手のシートなん枚かを、ひらひらさせる。…切手をおとりにして…無精(ママ)に腹立たしい。無理に押しつけられて、涙がでてきた。

 じつは、この切手については、拙著『切手バブルの時代』で詳しく取り上げたのですが、同書の刊行にあたって、インパクトの強い宣伝のコピーを作りたかった僕は、いつもの「あのころの切手少年たちへ!」ではなく、「おくさん、新しく出た切手、ほしくないかね」から始まるエロ小説風バージョンを使おうと版元に提案しました。しかし、下品すぎると担当編集者は即座に却下。まぁ、本の売上げという点からすると、どっちが良かったのか、その辺はわかりませんが…。

 * 『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して、昨日スタンプショウ会場内で行なった講演とサイン会は無事終了いたしました。この場を借りて、改めてお礼申し上げます。

 【飛鳥美人の救出まであと10日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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 昭和の日
2007-04-29 Sun 00:48
 今日は、はじめての“昭和の日”。というわけで、こんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

昭和初日印

 これは、昭和の初日にあたる昭和元年12月25日の消印が押されたカバーです。

 1926年12月25日に大正天皇が48歳で崩御すると、即日、皇太子・裕仁親王が践祚。元号は昭和と改められました。

 こうして、大正15年12月25日は昭和元年12月25日となるわけですが、大正天皇の重篤が伝えられるようになると、大正の最終日と昭和の初日のサドルカバーを作ろうとして、毎日、郵便物をせっせと差し出していた収集家は少なからずいましたが、このカバーもその一つで、翌26日の大分局の着印が押されています。

 ところで、12月26日の消印の年号表示に関しては、大正15年のモノと昭和元年のモノが混在しています。今回ご紹介している大阪中央局は昭和元年表示ですが、その時刻は午後1-2時。一方、僕の手元にある大正15年表示の消印(高松局)の時刻は午後0-2時になっていますから、もしかすると、午後の早い時間帯で、大正15年から昭和元年への表示の切り替えが行なわれたのかもしれません。

 なお、本日付の『読売新聞』大阪版では、見開き特集で昭和の日の特集をやっていますが、そのうちの「切手で振り返る昭和」というコーナーでは、今回ご紹介のモノを含むマテリアルの提供と解説原稿を僕が担当しています。64年にも及ぶ昭和の歴史をわずか28項目でまとめていますので、重要事件のほんのさわりだけをご紹介するという内容ですが、機会がありましたら、関西方面の方は、ご覧いただけると幸いです。

 <お知らせ>
 いよいよ本日(4月29日)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。入場無料ですので、是非、遊びに来てください。
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 続・ピーラビだけがウサギじゃないよ
2007-04-28 Sat 00:23
 今日(4月28日)から東京・浅草の都立産業貿易センター台東館でスタンプショウが開催されます。僕は3日間、会場にいる予定ですので、この顔を見かけたら、お気軽にお声をおかけください。

 さて、昨日(27日)に引き続き、スタンプショウの企画である“ピーター・ラビット”にちなんで、拙著『沖縄・高松塚の時代』の中から、ウサギを描いた切手として、こんな1枚を持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

鳥獣戯画

 これは、1977年3月25日に発行された「第2次国宝シリーズ」第3集の1枚で、「鳥獣人物戯画」を取り上げたものです。

 鳥獣人物戯画(鳥獣戯画)は、京都市右京区の高山寺に伝わる絵巻物で、甲・乙・丙・丁の全4巻からなり、現在は甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託されています。作者は一般に鳥羽僧正・覚猷と伝えられていますが、確証はなく、専門家の間では、各巻の画風の違いから、作者も制作年代も異なる別個の作品を集めた戯画の集大成と考えられています。通常の絵巻物と違って詞書はなく、甲の巻には猿・兎・蛙などを擬人化した遊戯の様子が、乙の巻には馬・牛・犬などの写実的な姿が、丙の巻には僧侶や俗人が勝負事に興じる様子と甲の巻に似た猿と蛙が、丁の巻には多数の僧侶や俗人が勝負事や行事を行っている様子が、それぞれ描かれており、日本最古の漫画とも呼ばれています。

 切手に取り上げられたのは、弱いはずの蛙が兎と相撲を取って兎を投げ飛ばし、見物の蛙衆が喝采している場面で、甲の巻の一部です。同じく甲の巻からは、1955年の暑中見舞葉書の絵面や1990年の国際文通週間の切手の題材も選ばれています。

 さて、今回のスタンプショウでは、会場内の郵趣サービス社のブースで拙著『沖縄・高松塚の時代』をお買い上げいただきましたお客様には、2枚組みの絵葉書(下の画像はそのうちの1枚)を会場内限定でプレゼントいたします。

鳥獣戯画はがき

 鳥獣戯画の切手は額面が50円ですから、これを貼って、会場内の臨時出張所でウサギをデザインした日替わり小型印を押して楽しんでいただくのも一興かと存じます。なお、絵葉書は非売品で販売はしておりません。また、数に限りがありますので、万一、品切れの際はご容赦ください。

 会期2日目の29日(土)14:30からは、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念しての講演とサイン会も予定しておりますので、よろしかったら、こちらにも是非、遊びに来てください。

 会場で一人でも多くの方々にお会いできることを、楽しみにしております。
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 ピーラビだけがウサギじゃないよ
2007-04-27 Fri 00:53
 いよいよ、明日(28日)から東京・浅草の都立産業貿易センター台東館でスタンプショウが開催されます。今回のスタンプショウは“ピーター・ラビット”が企画の目玉ということなので、今日は、拙著『沖縄・高松塚の時代』の中から、ウサギを描いた切手として、こんな1枚を持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

アマミノクロウサギ

 これは、1974年8月30日に「自然保護シリーズ」の第3集として発行された“アマミノクロウサギ”の切手です。

 アマミノクロウサギは奄美諸島の奄美大島と徳之島にのみ生息する一属一種の世界的な珍獣です。体長は約45センチ。耳の長さは約4センチと普通のウサギに比べて非常に短いことや、通常のウサギには6本ある臼歯が5本しかないことなどが特徴で、1963年7月、国の特別天然記念物に指定されました。

 ところで、切手発行日の1974年8月30日午後12時45分頃、東京中央局のホール西門前の三菱重工東京本社ビルで東アジア反日武装戦線「狼」による爆破テロ事件 が発生。局舎4階の食堂のガラス窓が割れたほか、局内にいた収集家たちは激しい衝撃を感じたと報告されています。また、三菱重工の女性職員の中には、昼休みに新切手を買いに東京中央局に出かけていたために難を逃れた方もいたとか。この記事を書いていて思い出したのですが、当時、僕の父は三菱重工ビルのすぐ近くのオフィスで働いていましたので、ニュースを聞いて家族みんなで非常に心配した記憶があります。当時の僕は小学校2年生。弟は幼稚園児で、この年の2月に妹が生れたばかりでした。

 さて、今回のスタンプショウでは、会場内の郵趣サービス社のブースで拙著『沖縄・高松塚の時代』をお買い上げいただきましたお客様には、2枚組みの絵葉書(下の画像はそのうちの1枚)を会場内限定でプレゼントいたします。

アマミノクロウサギ絵葉書

 アマミノクロウサギの切手は額面が20円ですから、これを3枚を貼って、会場内の臨時出張所でウサギをデザインした日替わり小型印を押して楽しんでいただくのも一興かと存じます。なお、絵葉書は非売品で販売はしておりません。また、数に限りがありますので、万一、品切れの際はご容赦ください。

 会期2日目の29日(土)14:30からは、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念しての講演とサイン会も予定しておりますので、よろしかったら、こちらにも是非、遊びに来てください。

 会場で一人でも多くの方々にお会いできることを、楽しみにしております。

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 続・外国切手の中の中国:チュニジア
2007-04-26 Thu 00:47
 ご報告が遅れましたが、日本国際貿易促進協会の発行する週刊紙『国際貿易』の4月17日号に、僕の担当する「世界の切手で見る中国」の第5回目が掲載されましたので、ご報告いたします。今回取り上げたのは、こんな切手です。(画像はクリックで拡大されます)

チュニジア・非常任理事国

 これは、2001年2月、チュニジアが国連安保理の議長国となったことを記念して発行した切手で、常任・非常任理事国の国旗がズラリと並ぶ中で、常任理事国としての中国の五星紅旗もしっかり描かれています。

 チュニジアは、お蔵入りになってしまった国連改革に関して、日本の主張を支持し、日本の安保理常任理事国入りにも積極的に賛成するなど、親日国として知られています。

 その背景には、日本から多額の経済援助を受けていることもありますが、それとは別に、中国に対抗する上で日本が重要な後ろ盾になるという思惑があったことも見逃してはならないでしょう。

 チュニジアの主要産業はヨーロッパ向けの繊維製品ですが、この分野では、近年、中国が急激にシェアを拡大しています。このため、2005年、チュニジアは、それまで欧州市場でライバル関係にあったトルコと自由貿易協定(FTA)を締結。投資や技術協力を進め、中国製品に対する競争力の強化を図っています。こうした文脈から、極東の2大国の一翼を担う日本の支援を得て、中国との競争を乗り切りたいというのが、彼らの思惑です。

 これに対して、中国も手をこまねいているわけではなく、昨年(2006年)11月、中国・アフリカ協力フォーラム北京サミットを開催して以来、北アフリカの“優等生”ともいうべきチュニジアにも積極的にアプローチを重ね、今月(2007年4月)中旬には、中国全国政治協商会議の賈慶林議長らがチュニジアを訪問。一行はガンヌシー首相と会談し、「経済技術協力協定」を含む5項目の協力文書に調印しています。これは、もちろん、資源の豊かなアフリカ地域に対して、日本を凌駕する影響力を扶植していくための一つのプロセスであることはいうまでもありません。

 近年、中国が積極的な対アフリカ外交を展開するようになったことを反映して、アフリカ諸国からも中国がらみの切手がぽつぽつ発行されるようになってきました。それらについても、いずれ、機会があればじっくりと見てみたいと思っています。

 <お知らせ>
 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。なお、スタンプショウ会場で同書をお求めいただいた方には、ちょっとしたプレゼントもご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。
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 1300年前の“手抜き工事”
2007-04-25 Wed 00:43
 最近何かと話題の高松塚古墳ですが、今度は石室解体作業中、天井石と天井石とのすき間に水漏れ防止の漆喰が塗られていない部分が見つかり、約1300年前の“手抜き工事”と話題になっているそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

高松塚・青龍

 これは、1972年3月21日の高松塚古墳の壁画発見からほぼ1年後の1973年3月26日に発行された“飛鳥地方における歴史的風土および文化財の保存等に必要な資金に充てるための寄附金つき郵便切手”(正式名称があまりにも長いので、普通は“高松塚保存基金”と呼ばれている)の切手のうち、東壁の青龍の壁画を描いたものです。

 青龍は古代中国から伝わった四神のうち、東の方角を示す神獣で、高松塚古墳では、東壁の中央に描かれています。その尾の部分の上方に漆喰が塗られていなかったため、5~16ミリのすき間があいてしまい、そこから泥水が入って壁画が汚れています。もちろん、この汚れは1972年の壁画発見当時からのもので、切手にもそれが再現されています。
 
 さて、この切手の原画構成は久野実が担当しましたが、印刷局では、オリジナルの壁画の龍をかたどった筆の線を再現することが印刷上のポイントと考えていました。このため、輪郭線の主要部分をグラビアの黒版で網点のないシャープな線で仕上げる一方で、脚の線には網点を残してやわらかさを表現するなど、オリジナルの壁画に見られる筆の勢いの強弱の変化が表現するうえでの工夫がなされています。

 なお、高松塚保存基金の切手については、いろいろと面白いエピソードが沢山あって、とても1回のブログの記事では紹介しきれないほどです。その詳細については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でまとめていますので、“高松塚”が旬の話題となっている今日この頃、是非、ご一読いただけると幸いです。

 <お知らせ>
 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。なお、スタンプショウ会場で拙著をお求めいただいた方には、ちょっとしたプレゼントもご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。
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 常陽臨界30年
2007-04-24 Tue 00:47
 昨日(23日)はサミットが洞爺湖地域に決まったり、エリツィン大統領が亡くなったり、いろいろとブログのネタになりそうなニュースが多かったのですが、とりあえず、3月に出たばかりの拙著『沖縄・高松塚の時代』のプロモーションに精を出したい僕としては、それらを全部無視して、今日はこの切手を持ってくることにしました。(画像はクリックで拡大されます)

常陽臨界

 これは、高速増殖炉“常陽”の臨界を記念して1977年6月6日に発行された切手です。

 原子力発電の主流を占める軽水炉(日本では実用化されている原子炉は全てこのタイプ)は、ウラン235を燃料とし、その核分裂による熱で蒸気を発生させ、タービンを回して発電するというのが基本的な構造です。

 ところで、天然ウランの大部分は発電には使えないウラン238で、ウラン235は0.7%しか含まれていません。ただし、ウラン238の一部はウラン235の核分裂で生じる中性子を吸収してプルトニウムに変ります。このプルトニウムは核分裂性なので原子力発電に使用することができます。

 ただし、通常の軽水炉で生成されるプルトニウムは微量であるため、プルトニウムとウランの混合燃料で発電を行いながら、その炉心の周辺をウラン238で囲むことによって、ウラン238を効率的にプルトニウムに変えるための原子炉が、高速増殖炉と呼ばれているものです。

 わが国における高速増殖炉の開発は、動力炉・核燃料開発事業団(現・核燃料サイクル開発機構)を中心に進められ、1970年3月からは、茨城県大洗町の事業団大洗工学センター内で実験炉“常陽”の建設が進められていました。“常陽”とは、施設の所在地の古名です。

 その実験炉が完成し、いまからちょうど30年前の1977年4月24日に臨界(核分裂反応が連鎖的に起こって継続されていく状態)に達したことから、同年6月6日、東京・赤坂のホテル・オークラで記念式典が行われ、あわせて炉心部をデザイン化した記念切手も発行されたというわけです。

 高速増殖炉は、うまく稼動すれば燃料のプルトニウム以上に新しいプルトニウムを作り出すことができるため、エネルギー資源の乏しいわが国にとっては“夢の原子炉”として期待され、開発が進められました。しかし、高速増殖炉には冷却材にナトリウムを使うことから暴走・爆発事故の危険性が大きく、その安全性には疑問の声が投げかけられていました。はたして、1994年に臨海に達した高速増殖炉の“もんじゅ”が早くも翌1995年には臨界事故を起こしたことにくわえ、1999年9月には「常陽」のためのウラン原料工場(JCO)でも臨界事故が発生して、東海村とその周辺で、国内最大の被爆被害が出るなどの事故が相次いだため、現在では、その開発は実質的に中断された状態になっています。

 なお、この切手についての詳細は、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しく解説していますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。なお、スタンプショウ会場で拙著をお求めいただいた方には、ちょっとしたプレゼントもご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。
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 82-0
2007-04-23 Mon 02:07
 ラグビーのアジア3か国対抗で、日本代表が韓国代表を82-0で破り、快勝したのだそうです。僕はラグビーのル-ルさえ、ろくろく知らないのですが、82-0というスコアは、なんだかすごいですねぇ。素直にビックリしました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

第24回国体

 これは、1969年の第24回国体(秋季大会)の記念切手で、ラグビー選手が描かれています。

 1969年の国体(秋季大会)は、10月26~31日の日程で、長崎県下7市10町の会場で開催されました。大会スローガンは「あすをひらく創造国体」で、地元の長崎県は天皇杯・皇后杯の双方を獲得しています。

 長崎県は、1959年、九州ブロックで開かれることになっていた第14回大会の開催を熊本県と争って敗れて以来、1969年の第24回大会の開催に的を絞って誘致活動を展開し、鹿児島県との激しい誘致合戦の末、1965年7月に開催の内定を獲得しました。

 切手には、ラグビー選手の背景に、開催地の長崎県を象徴するものとして大浦天主堂と県花の椿も描かれています。

 そういえば、昨日は長崎市長選挙の投票もありましたね。選挙中、凶弾に倒れた現職市長の後継者として、市長の女婿と市の元課長が急遽立候補し、元課長が行政経験をアピールして当選したそうですが、こちらの方は接戦でラグビーの試合のようにはならなかったようです。それにしても、市役所には元課長の上司たちは、一挙に立場が逆転してしまって、これからやりにくいでしょうねぇ。余計なお世話ですが、ちょっと同情してしまいます。

 なお、今回ご紹介の切手については、拙著『一億総切手狂の時代』でも詳しく説明していますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。なお、スタンプショウ会場で拙著をお求めいただいた方には、ちょっとしたプレゼントもご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。
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 切手で世界旅行:クレムリン
2007-04-22 Sun 09:49
 ロンドンで毎年ロシア政財界の著名人を多く招いて開かれている“ロシア経済フォーラム”の今年の会合が今日(4月22日)からスタートだそうです。というわけで、時事通信社の配信用コラム「切手で世界旅行」(どうやら、各社での掲載は一通り終わったようです)に送った原稿の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 クレムリン

 これは、日露戦争に敗北した帝政ロシアが、日露戦争の戦没者遺児に対する義捐金を募る目的で1905年に発行した付加金つき切手の1枚で、モスクワのクレムリンが取り上げられています。

 “クレムリン”とは、もともとはロシア語で“城砦”を意味する普通名詞ですから、ロシア域内には無数のクレムリンがあるのですが、一般には、モスクワにある帝政ロシア時代の宮殿を連想する人が多いと思いでしょう。

 モスクワのクレムリンは、南をモスクワ川、北東を赤の広場、北西をアレクサンドロフスキー公園によって囲まれたほぼ三角形の形をしており、その総面積は約26ヘクタール。城壁に囲まれた構内には、大小新旧さまざまの宮殿やロシア正教の寺院建築、塔などがそびえたっています。

 1917年のロシア革命でロマノフ王朝が倒れた後、ソビエト政府はクレムリンを接収して政府の主要機関を置きましたが、1991年のソ連崩壊後は、現ロシアの大統領府・大統領官邸が構内にあります。したがって、クレムリンといった場合、建物としてのクレムリンもさることながら、ロシア政府ないしは大統領府を意味することもしばしばです。

 さて、今回ご紹介している切手ですが、発行当時、郵便局の窓口では、額面の10コペイカに対して3コペイカを上乗せした13コペイカで発売されており、帝政ロシアにおける最初の付加金つき切手となりました。また、日露戦争がらみということで言えば、ヨーロッパ諸国で“日本”に関連して発行された最初の切手としても知られています。

 なお、このとき発行された切手には、いずれも、クレムリンやピョートル大帝の銅像など、大国ロシアのプライドを誇示するものばかりで、対日戦争の敗戦というロシア側にとっての忌まわしい出来事を連想させる要素は全くありません。それだけに、事情を知らない人がこの切手だけを見ると、ロシアは日露戦争に勝利を収めたのではないかと錯覚してしまいそうです。

 この切手には目打のバラエティがいろいろとあるので、それらとカバーなんかを組み合わせてみると、一寸したコレクションを作って遊べそうだと前々から思っているのですが、なかなか実際に着手するところまでは行きません。そういえば、2~3年前だったと思いますが、この切手のプルーフ(試刷)だったか、何かその類のモノがオークションに出品されていました。気合を入れて、この切手のミニ・コレクションを作るのなら頑張って買うべきだったんでしょうが、手の届かない値段だったので、あっさり諦めてしまい、いまになってちょっと後悔しています。(もちろん、懐事情は当時とそう変わっていないのですが…)

 さて、ロンドンの“ロシア経済フォーラム”ですが、当初参加が予定されていた大物が、直前になって、あいついで欠席することにしたそうです。なんでも、反プーチンの急先鋒でイギリスに亡命中の旧政商、ベレゾフスキーの引き渡しを拒否しているイギリスと対立するロシア当局が、先週末(14~15日)のロシアでの反政府デモ鎮圧をめぐる欧米の批判への反発もあって、出席予定者に圧力をかけたのだとか。さすが、KGB出身のプーチン閣下がクレムリンの主になっているだけのことはありますな。

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 香港の女王
2007-04-21 Sat 00:35
 今日(4月21日)はエリザベス女王の誕生日だそうです。エリザベス女王の切手は世界中から数多発行されていますが、現在、『香港歴史漫郵記』を制作している最中の僕としては、やっぱり、香港切手の中からなにか1枚選びたいところです。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

英連邦の日

 これは、1983年3月、香港が発行した“英連邦の日”の記念切手の1枚で、当時の香港島のウォーターフロントを背景に、エリザベス女王の肖像写真を組み合わせたデザインとなっています。なにぶんにも24年前の切手ですから、女王の容貌もさることながら、風景に関しても、中銀タワーがないこともあって、現在と比べてかなり印象が違っています。

 イギリス首相のマーガレット・サッチャーが中国を訪問し、香港返還に関する英中両国政府の具体的な話し合いが始まったのは、1982年9月のことです。

 サッチャーの『回顧録』によれば、当初、イギリス外務省は、新界地区の租借期限が切れる1997年7月以降、イギリスの香港支配を続けることは事実上不可能で、香港の主権を中国に返還せざるを得ないと彼女に進言しています。

 共産中国の成立以来、中国は香港の現状維持を追認しており、そのことは結果として英中両国に利益をもたらしてきました。ただし、このことは、香港の主権が中国側にあるという建前を大前提としていました。したがって、1997年7月以降、(実態はともかく建前としては)香港の主権を中国に返還すべきというイギリス外務省の判断も、こうした過去の経緯を踏まえたものでした。

 ところが、サッチャーはこうした経緯を全く理解しようとしませんでした。当時の彼女は、フォークランド戦争に勝利を収め、“鉄の女”としてイギリス経済を立て直しつつあるという自信に満ちていました。このため、彼女は、香港問題でも強硬姿勢を貫けば中国は譲歩するはずだと思い込んでおり、香港島と九龍市街地はイギリス領であると声高に主張し続けたわけです。

 今回ご紹介している切手も、そうした本国政府の方針を受けて、“英領香港”の存在をことさらにアピールするため発行されたものと見ることができます。

 しかし、サッチャーの強硬姿勢は中国側の態度を硬化させただけで、小平も「もし中国が1984年末までに香港の主権問題で合意しなければ、中国政府は独自の解決を宣言する」と応じることになります。

 もっとも、中国にしても、香港を“外国”として維持し、その経済的な利益を得るというのが建国以来の基本方針でした。それゆえ、仮にイギリス側が、外務省の方針通り、香港の一括返還を中国に申し入れていたら、植民地の解放を国是とする中国はそれを受け入れざるを得ず、かえって苦しい立場に追い込まれたのではないかと思います。その意味でも、サッチャーの強硬姿勢は小平にとって好都合でした。中国は、あくまでもイギリスの要求に配慮するという建前の下に、香港の“現状維持”という果実を勝ち取ることが可能になったからです。

 結局、1983年10月、サッチャーも香港の行政権返還に事実上同意。以後、交渉は中国ペースで急速に進展し、1984年12月、香港返還に関する英中共同宣言が調印されることになります。この間の英中間の綱引きは、英領香港の切手にもいろいろと影響を及ぼしているのですが、その詳細については、6月下旬に刊行予定の『香港歴史漫郵記』をご覧いただけると幸いです。

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 遊女と切手
2007-04-20 Fri 01:21
 今日(4月20日)は日本の郵便創業の記念日で、切手趣味週間の切手が発行される日です。というわけで、3月に刊行の拙著『沖縄・高松塚の時代』でご紹介した趣味週間切手のなかから、この1点を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

松浦屏風

 これは、1975年の趣味週間切手で、大和文華館所蔵の国宝「婦女遊楽図屏風」(九州平戸の大名家、松浦家に所蔵されていたことから、一般には「松浦屏風」と呼ばれている)が取り上げられています。

 「婦女遊楽図屏風」は、六曲一双の金地屏風に、着飾った遊女や禿(遊廓で養われていた少女)18人をほぼ等身大に描いたもので、近世初期の風俗画の傑作といわれています。

 切手に取り上げられているのは、屏風右隻の右から4枚の部分で、右から、キセルにタバコを詰める女性、客に手紙を書いている女性、梅の枝を持つ女性、柄鏡を持って化粧する女性などが描かれています。なお、残りの2枚分にはカルタ遊びをする女性2人が描かれていますが、この部分は1995年の「国際文通週間」の切手に取り上げられました。

 ところで、前年の1974年まで、趣味週間切手には近代の美人画が取り上げられるのが慣例となっていましたが、切手に取り上げる作品の著作権使用料をめぐって郵政省と日本美術家連盟が対立し、候補として挙げられていた安井曽太郎の「金蓉」の使用許諾を得ることが困難となったことから、今回からは、著作権保護の対象とはならない明治以前の作品が取り上げられるようになったものと考えられます。

 かつて、郵政省には趣味週間切手の題材選定にあたって、遊女や湯女など、いわゆる風俗業の女性は取り上げないという不文律があり、このため、たとえば、1948年の趣味週間切手 の題材選定に際して、懐月堂度繁の「立美人図」 が有力候補として挙げられていたにもかかわらず、モデルの女性が遊女であるという理由で、最終的に「見返り美人」が選ばれたということもありました。

 結局、今回の切手に関しても、郵政省の報道資料等では「婦女遊楽図屏風」が遊女を描いたものであることは一切触れられておらず、この件に関して郵政省が神経質になっていた様子がうかがえます。

 まぁ、実際に切手が発行されてみると、遊女が描かれているという理由でクレームをつける人はいなかったようで、上記の心配は郵政の取り越し苦労に終わりました。むしろ、収集家などからは、画面の中央で分断するような連刷形式のほうに批判が集まったのですが、この点については郵政側は全くの想定外だったようです。

 それはそうと、アダルト雑誌で有名な英知出版が先月末に倒産し、今月中に自己破産を申請する予定とのニュースが入ってきました。

 かつての浮世絵や、今回の松浦屏風がそうであるように、現在流布している膨大な数の中のアダルト画像・写真の中には、数百年後には21世紀初頭の風俗資料としての価値が高く認められるモノも出てくるのかもしれません。ただ、そのときまで、はたして切手というものが生き残っているのかどうかとなると、やっぱり、ちょっと難しいでしょうねぇ。

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 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。入場無料ですので、是非、遊びに来てください。
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 長崎市の切手
2007-04-19 Thu 00:27
 4選を目指して選挙運動中の伊藤一長・長崎市長が暴力団幹部の男に銃撃されて亡くなりました。心よりご冥福をお祈りします。報道によると、犯人の男には特段の思想信条もなく(まぁ、あったからといって許されるものではないのですが)、どうやら、利権がらみの私怨が殺害の動機ということのようです。これが事実なら全くあきれ果てた話で激しい怒りを感じます。

 さて、長崎市というと、この切手を思い浮かべる方も多いのではないかと思います。(画像はクリックで拡大されます)

長崎国際文化都市建設

 これは、1949年8月9日に発行された「長崎国際文化都市建設』の記念切手です。

 原爆で壊滅的な打撃を受けた長崎市の復興支援を目的とした「長崎国際文化都市建設法」は、1949年5月に国会を通過し、7月7日の住民投票で7万2990票の賛成(投票率は74%で投票総数は8万1645票)を得て、原爆忌の8月9日に公布されました。

 長崎国際文化都市建設法の公布に伴い、長崎市の都市計画は全面的に見直され、1951年に新たな「国際文化都市建設計画」が決定されます。これにより、土地区画整理事業区域をはじめ街路、公園、防火区域など、従来の復興計画で定められていた事業計画に対して、国際文化会館、平和公園、総合運動場などの施設が新たに加えられ、現在の都市計画の基礎が作られました。

 長崎市は、長崎国際文化都市建設法の公布に合わせて、逓信省(当時)に記念切手の発行を申請。これを受けて、記念切手発行の準備が勧められました。

 今回の記念切手に関しては、当初、担当デザイナーの久野実は、印面下部に原爆投下直後の破壊された市街の風景を、上部に復興した市街の風景を描き、両者を対照させることを考えていたようですが、このアイディアは実現せず、実際には平和を象徴する鳩と長崎の名所を描くデザインの切手が発行されています。

 この点に関して、当時の雑誌『郵趣』には、「今更廢墟の回顧でもあるまい、それよりも國際文化都市建設記念にふさわしく、長崎文化を象徴する圖案の方がよいとの意見と、又一方地元長崎の人達の名所古跡を描いて欲しいとの希望もあつて、此の樣な圖案が出來上つたわけです」との説明がなされていますが、事態はそれほど単純ではないようです。

 よく知られているように、占領下の日本において、原爆の被害について論じることは、占領当局批判につながりかねないものとして、ある種のタブーと考えられていました。

 たとえば、三井高陽は、当時の記念・特殊切手について「圖案は占領下の今日占領軍當局の嚴密なる審査と叱正を經なければならない事を前提とする」としたうえで、次のように論じています。

 大体戰禍を受けた國が復興とか其他の意圖を持つて切手に或る圖案を作るとして、現實の問題として大抵は毀された國が戰勝國側である場合には自由に廢墟を描ける。ポーランドが戰前の風景と其風景が爆壊されたところをならべた圖を一枚の切手に入れた切手を出したり、フランスが爆破されて焔の中にある建築物を切手に入れることも、一は舊敵の暴虐を記念し國民の心に何物かを訴えるものを期待していると見られるが、戰敗國が占領されている場合には占領当局が許さざる以上は被爆の風景は切手に入れられる事は稀である。ドイツのチューリンゲンの切手などの如く壊れた橋の切手を作つて「橋の再建」と題したシリーズの如きは單なる復興を目指し、敵愾心を煽る目的でないと認定されたる場合であり且又ローカル的性質の切手であることを注意せねばならない。 
 まだまだ今後の切手は平時獨立國の切手でないことを頭に置いて見るべきであり、記念切手でない普通切手でもすべてこの鐵則下に考案されることは記憶すべきことである。

 このように、占領当局は廃墟となった長崎を切手上に取り上げることを認めないとの見解は、三井に限らず、当時の一般的な日本国民の標準的な認識でした。

 ただし、堀場清子の研究によると、①占領下での「原爆」をめぐる占領当局の検閲状況を見ると、実際に「原爆」を理由に検閲上の処分を受けた文学作品や報道などは、我々が想定するよりもはるかに少なかったこと、②少なくとも、「原爆」についての検閲は、占領軍や連合国への批判や極右・極左宣伝などに比べて特別に厳しいものではなかったこと、③占領下における「原爆」の扱い方は、占領当局の圧力よりも、むしろ、日本側の過剰なまでの自主規制によって左右されていたこと、④占領当局による処分と自主規制が混同され、「原爆」については「やられた」という認識だけが関係者の間で定着していったこと、などが明らかになっています。

 もちろん、「原爆」に関して日本側が自主規制を余儀なくされていたということは、それじたい、占領当局のプレッシャーが日本社会に浸透し、占領当局による日本人の精神的武装解除が一定の「成果」を収めた結果といえるわけですが…。

 こうして、1949年8月9日、実際に発行された記念切手には、長崎の観光名所がちりばめられることになりました。その内容について、以下、簡単にまとめておくことにしましょう。

 まず、切手の左下に描かれている船は、1571年に長崎が開港された当時の貿易船で、これにより、長崎が西洋諸国相手としては日本最古の貿易港であることを象徴的に示したものです。

 貿易船の右側に描かれているのは、大浦天主堂です。切手の発行時には原爆で損傷を受けて仮御堂が建っており、補修再建が完成したのは1952年のことでした。

 切手中央に描かれている中国の城門のような建物は、長崎市鍛冶屋町にある黄檗宗の寺院・崇福寺の竜宮門。切手の左手中央に描かれている橋は長崎市の中央を流れる中島川にかかる眼鏡橋です。

 最後に、切手上部に描かれた山々ですが、これは、長崎が三方を山に囲まれていることを表現したもので、特定の山を描いたものではありません。

 このように、「長崎国際文化都市建設」の記念切手は、さながら、長崎市の観光案内のようなものとなっています。

 意外と見落とされがちなことですが、戦後の経済復興に際して、観光業の振興を重要視していた地域は少なくありません。長崎市もそうした自治体の一つで、工業再建の目途が立たない状況では、観光客誘致の成否は市の経済に甚大な影響を及ぼすものと考えられていました。

 その意味では、切手上で廃墟からの復興を表現しようとした久野に対して、地元住民が「名所古跡を描いて欲しい」との要望を出したのも、「原爆」をめぐる自主規制の問題とは別の次元で、きわめて自然なことだったわけです。

 なお、この切手のより詳しい説明については、拙著『濫造・濫発の時代』でもまとめていますので、ご興味をお持ちの方は是非ご一読いただけると幸いです。

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 優雅な兵舎
2007-04-18 Wed 00:38
 1927年に南京国民政府が成立してから今日(4月18日)でちょうど80年になります。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

イギリス上海派遣軍

 これは、1927年4月13日、上海に置かれていたイギリス軍の第一野戦郵便局から差し出されたカバー(封筒)です。

 1925年3月に孫文が亡くなると、1926年7月1日、中国国民党は、孫文時代の大元帥統治の軍政府を解体し、国民党中央執行委員会が指導する国民政府(広州国民政府)を樹立しました。その際、政策決定は16人の委員による合議制とされ、コミンテルンから派遣されたボロディンが最高顧問となって孫文時代の共産党との合作も維持されています。

 1926年7月、蒋介石は孫文の遺志を継いで北伐(国民革命)を開始しますが、北伐が進展し、その軍勢が上海にまで及んでくると、列強諸国は北伐に対する警戒感を強めることになります。このため、イギリスは、権益の護持と居留民の保護を名目として、1927年2月、本国の第13ならびに第14旅団およびインド駐留軍を中国大陸に派遣しました。今回ご紹介しているカバーは、この時期のイギリスの野戦局から差し出されたものです。

 さて、上海に派兵し、現地の情勢から、軍閥打倒の統一戦争としての北伐が曲がりなりにも成功裏に終わりそうだと判断したイギリスは、各地の軍閥を背後から操り、軍閥同士の代理戦争によって権益の維持・拡大を図ろうとしていた従来の路線を転換し、個別の軍閥への支援を止め、蒋介石をかれらの“総代理店”として育成しようと考えます。そして、北伐を支援する条件として、蒋介石に対しては共産党との絶縁を要求。この結果、1927年4月12日、蒋介石は上海で反共クーデターを起こして共産党幹部を虐殺。孫文以来の国共合作は完全に破綻し、南京国民政府が発足したというわけです。

 ところで、このときのイギリスの中国派遣軍は、シンガポールから直接中国大陸に上陸したわけではなく、まずは香港に寄港しています。その際、彼らが宿舎として利用したのが、休業補償の必要のない開業前のペニンシュラ・ホテルでした。

 当初、ペニンシュラ・ホテルは1924年に開業の予定でしたが、工事は遅れ、1925年までずれ込んでしまいます。その結果、香港・公衆地域を襲った大規模なゼネスト、省港ストの影響で建設作業は基礎工事の途中でストップしてしまいました。

 その後、1926年に工事は再開されましたが、1927年に入って内装工事が始まったところで、こんどは、イギリス分の兵舎に利用されてしまうのです。その結果、建設工事はまたもやストップし、ホテルの建物の前庭には兵士たちが練り歩き、オーケストラが使うはずだった2階バルコニーのスペースは機関銃の練習場として転用されてしまいます。もちろん、多くの兵士たちが利用したことで、客室の浴槽には汚れがこびりついてしまい、高級ホテルの客室用としては使い物にならなくなってしまいました。

 このため、ホテル側は、イギリス軍に補修費用を請求した上で、あらためて内装工事を全面的にやり直し、1928年12月11日になって、ようやくペニンシュラ・ホテルはオープニング・セレモニーにこぎつけることになったというわけです。

 それにしても、開業前とはいえ、かのペニンシュラ・ホテルを兵舎として借り上げたとは、さすが、大英帝国は豪気なことをするものだと驚かされます。

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 続・外国切手の中の中国:フィリピン
2007-04-17 Tue 12:07
 ご報告が遅れましたが、日本国際貿易促進協会の発行する週刊紙『国際貿易』の4月10日号に、僕の担当する「世界の切手で見る中国」の第4回目が掲載されましたので、ご報告いたします。今回取り上げたのは、こんな切手です。(画像はクリックで拡大されます)

徐光啓

 これは、2006年にフィリピンで発行されたザビエル校50周年のフィリピンの記念切手で、徐光啓の肖像が取り上げられています。

 ザビエル校は1956年に創立されたイエズス会系教育機関で、中国系フィリピン人の子弟が学んでいます。校章には“光を与える”という意味のラテン語“Luceat Lux”の文字が入っていますが、これは、聖書の「マタイによる福音」などで出てくる表現(前後の文脈で他の語が入っていたりすることもある)で、日本でも、ミッション系の学校などでは教育方針として掲げられているケースがあるようです。

 面白いのは“Luceat Lux”の漢訳が“光啓”となることを踏まえて、学校の名前が中国・明末の政治家にして『農政全書』、『崇禎暦書』等を残した科学者で、キリスト教徒であった徐光啓と結び付けられている点です。このため、切手にも、学内にある彼の銅像が取り上げられています。

 イエズス会から見ると、徐光啓は、極東での布教の成果の象徴のような存在ですが、フィリピンとの直接的な関係が深かったわけではありません。ですから、ザビエル校と結びつけるのは、ちょっと“こじつけ”のような感じは拭えないのですが、まぁ、徐光啓のような人になりなさいと学生たちに向かって日々、教育しているということなのでしょう。

 ちなみに、現在、フィリピンの人口は9000万人弱といわれていますが、そのうちの約1000万人が中国系といわれています。有名なところでは、元大統領のコラソン・アキノなどがそうで、彼らの大部分は中国福建省南部の出身といわれています。もっとも、中国系フィリピン人には、明清時代からの古い華人が多く、現地化や混血が進んでおり、現在でも中国語を話し、中国の習慣に親しんでいるのは60万人から80万人程度だとか。

 このように、人口比率で言えば圧倒的にマイノリティの中国系ですが、その子弟のための学校であるザビエルの記念切手が発行されるところをみると、やはり、フィリピン社会でも華人・華僑の影響力は侮れないものであることを改めて感じさせられます。

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 ブラックホーク・ダウン
2007-04-16 Mon 00:30
 昨夜(15日)は、夕食後、原稿を書かずについついテレビで映画「ブラックホーク・ダウン」(1993年にソマリアで起こった米軍とゲリラの市街戦を描いた戦争映画)を見てしまいました。テレビを見ながら、手元にこんなカバー(封筒)があったことを思い出して、引っ張り出してきてみました。

ソマリア実逓便

 これは、内戦下のソマリアの首都・モガディシュ(モガディシオ)からイギリス宛に差し出されたカバーです。

 1977年、隣国のエチオピアでソマリ人による反政府暴動が起こると、バーレ独裁体制下のソマリアはこれに介入しましたが、ソ連ならびにキューバの支援を受けたエチオピア政府軍に撃退されます。この敗戦に加え、経済失政によって国内の格差が拡大したこともあって、バーレ独裁に対する国内の不満が噴出。1980年代に入ると、反政府勢力による武装闘争が本格化し、ソマリア全土は内戦状態に突入。バーレ政権の支配はモガディシュやベルベラなどに限られた地域にしか及ばなくなりました。

 1991年1月、モハメッド・ファッラ・アイディードひきいる反政府勢力の統一ソマリア会議(USC)が首都のモガディシュを制圧。バーレは国外に追放され、ソマリア民主共和国は解体されます。しかし、バーレ追放後、USC内部の権力闘争から内戦はさらに悪化。以後、国土は分断され、現在にいたるまで事実上の無政府状態が続き、ソマリア正統政府としての正規の切手発行も事実上ストップしています。

 その後、ソマリア郵政の名を騙ってさまざまな切手が発行されていますが、これらが実際にソマリア国内で使われる可能性はおそらくほぼゼロで、実際には郵便がどうなっているのか、外部の我々にはうかがい知れない状況が続いています。

 今回ご紹介のカバーは、切手は貼られておらず、料金収納済みを示す“PORT PAYE”の印を押して処理されています。モガディシュ局の印も押されていますが、あいにく、日付がほとんど読めません。ただ、宛先のBBCがSOMALI SECTIONという独立の部署を置くようになるのは内戦が国際問題化してからのことでしょうから、内戦期のカバーであることはまず間違いないとみてよいでしょう。

 このカバー一通だけでは内戦下のソマリアの郵便事情の概要などわかるはずもないのですが、それでも、ある時期、モガディシュでも料金収納印を用いた郵便が行われていたことだけは、とりあえず確認できたといえそうです。おそらく、欧米の郵趣誌には内戦下のソマリアの郵便事情についてのレポートも載っているのでしょうが、日本ではあまり話題として取り上げられることもないようですので、ちょっとご紹介してみたという次第です。

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 英雄/テロリスト図鑑:金日成
2007-04-15 Sun 00:42
 今日(4月15日)は北朝鮮の“首領様”こと金日成の誕生日、“太陽節”です。というわけで、現在発売中の雑誌『SAPIO』4月25日号で僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では金日成のこんな切手を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

金日成80歳

 これは、1992年4月15日の金日成の80歳の誕生日を祝して北朝鮮が発行した記念切手です。

 取り上げられているのは、いわゆるプロパガンダ絵画の一つで、中央の“首領様”が、春の“友好芸術祭”のために集まった世界中のアーティストたちの賞賛を一身に浴びているの図。アーティストたちが“マンセー!”と叫んでいたかどうかは、画面からは不明です。

 首領様の服装がケンタッキー・フライドチキンのカーネル・サンダースと見まごうばかりの白いスーツなのは、おそらく、朝鮮民族のことを“白衣の民族”と呼ぶことを踏まえ、民族の象徴としての“首領様”を表現しようとしたためでしょう。“白衣の民族”というのは、朝鮮の伝統では、一般の人々は、祝祭日や結婚のような特別な日以外は白服を着用したことに由来する呼称です。もっとも、かつての上流階級の人々は明るい色の服を着ることにより社会的な地位を表していましたから、その意味では、金王朝の“首領様”が白衣というのは辻褄があわないのですが、そこは、解放以前のブルジョアや貴族、地主などを糾弾することで成り立っている国のこと。“首領様”は上流階級(の出身)ではないことを強調したいのでしょう。

 北朝鮮のプロパガンダ絵画にはいくつかのスタイルがありますが、その一つに、ナポレオン時代のフランス古典主義の大家・ダヴィドのスタイルを真似るというパターンがあります。以前、このブログでもご紹介した“将軍様”こと金正日を題材とした「白頭山の吹雪」は、明らかに「アルプス越えのナポレオン」を下敷きにしたものですが、今回の作品は、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」を元ネタにしているんじゃないかと思います。

 なお、『SAPIO』の記事では、若き“首領様”がやらかした強盗・放火・殺人事件のことを中心に、テロリストとしての金日成こと金成柱(金日成の本名)の物語をかいてみました。ご興味をお持ちの方は、是非、お読みいただけると幸いです。

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 建設の風景:安全週間(日本)
2007-04-14 Sat 00:19
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の4月号が出来上がりました。3月までの連載「切手の中の建設物」に代わり、今月からは「切手に描かれた建設の風景」という新連載がスタートします。その記念すべき第1回には、こんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

全国安全週間

 これは、1978年の第50回全国安全週間にあわせて発行されたキャンペーン切手です。

 全国安全週間は、1928年以来、「人命尊重」という基本理念の下、「産業界における自主的な労働災害防止活動を推進するとともに、広く一般の安全意識の高揚と安全活動の定着を図ること」を目的に、一度も中断することなく続けられてきました。

 その第50回目は、「みんなで組み込もう 作業の中に安全を!」をスローガンとして1977年7月1日から1週間行われ、①安全マーク(緑十字)と人々、②高層建築作業とその安全、③荷役作業とその安全、④機械作業とその安全、の4種類を図案化したキャンペーン切手が発行されています。緑と青を効果的に使ったデザインは、当時の“未来的”な雰囲気を上手く表現していて印象的です。

 この切手には、第50回安全週間の記念切手という意味合いも込められていましたが、切手上にはその旨の表示はなく、キャンペーン切手としての性格が前面に打ち出されています。

 なお、この切手については、3月に刊行した拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しく説明していますので、よろしかったらご一読いただけると幸いです。

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 切手で世界旅行:ワットアルン
2007-04-13 Fri 00:30
 今日(4月13日)から15日まではソンクラーン。タイの旧正月です。というわけで、時事通信社の配信用コラム「切手で世界旅行」(どうやら、各社での掲載はすべて終わったようです)に送った原稿の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ワットアルン

 これは、1987年、日本とタイの修好100年を記念してタイが発行した記念切手で、100の文字の中に、タイを代表する風景のワットアルンと日本を代表する風景の富士山と桜が描かれています。

 三島由紀夫の小説の題名にもなった“暁の寺”ことワット・アルンラーチャワラーラーム(一般にはワット・アルンと略される)はタイの首都バンコクを流れるチャオプラヤ河畔にたたずむ名刹で、その姿は、観光パンフレットの写真などで我々にもおなじみのものとなっています。

 寺院の特徴となっているトウモロコシ形の大仏塔は、高さは75メートルの巨大なもので、中心の大塔を四つの小塔が取り囲む構造は、須弥山(仏教の世界観で世界の中心にそびえる山)を表現したものだといわれています。

 ところで、この切手はなんとなく日本の記念切手と雰囲気が似ていますが、それもそのはずで、日本の大蔵省印刷局(現・国立印刷局)が製造したものです。1883年に発行された最初の切手はイギリスのウォータールー&サン社で製造されたものでしたが、タイでは、しばしば、自国の切手の製造を諸外国の印刷所に委託しています。なかでも、日本の印刷局は、1957年5月に発行の釈尊2500年の記念切手以来、数百種類もの切手の製造を請け負っており、タイの切手を語る上で欠かすことのできない存在となっています。こんなところでも日本とタイの友好関係がうかがえるのは、ちょっと嬉しいですね。

 タイのお正月は“水掛祭り”が有名ですが、さすがに4月の東京では水を掛け合うには気温が低くて風邪を引きそうです。しかたがないので(?)、今夜は、タイ・レストランに出かけていって、浴びるほどタイのシンハービールを飲むということで、僕なりのソンクラーンのお祝いにすることにしましょうか。

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 連れて行った者勝ち
2007-04-12 Thu 00:20
 リチャードソン米ニューメキシコ州知事が朝鮮戦争(1950~53)に参戦した米兵の遺骨受け渡しのために平壌を訪問したところ、北朝鮮側に“プエブロ号”を見学させられてムッとしたというニュースをやっていました。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

プエブロ号事件

 これは、1970年6月、北朝鮮がプエブロ号事件を題材に発行した切手で、北朝鮮兵士の背景に、プエブロ号と逮捕・連行される乗員が描かれています。

 プエブロ号事件というのは、1968年1月23日、アメリカの情報艦プエブロ号が元山沖で北朝鮮の領海を侵犯したとして北朝鮮に拿捕された事件です。

 事件が発生すると、アメリカは海軍空母部隊を展開して、逮捕された約80名の乗組員の解放を要求しましたが、北朝鮮は拒否。反対に米国の謝罪を要求します。当時はベトナム戦争が拡大し続けていたこともあって、事件の早期解決を図りたかったアメリカは、最終的に同年12月23日、板門店での会談で北朝鮮の用意した謝罪文書に署名。乗員は11ヵ月ぶりにようやく解放されました。

 今回ご紹介の切手は、アメリカに謝罪させたという、プエブロ号事件での“外交的勝利”を喧伝するために北朝鮮が発行したものですが、プエブロ号の船体そのものも、事件を記念してながらく元山港に係留されていました。その後、1998年ごろに、プエブロ号は平壌市内の大同江・忠誠橋付近に係留されるようになり、現在も北朝鮮の管理下に置かれて平壌市内の大同江で一般公開され、国民の反米教育に利用されています。

 リチャードソン知事にしてみれば、形式的には北朝鮮から招待を受けて平壌を訪問しているわけですから、アメリカにとっての屈辱の象徴ともいうべきプエブロ号を見学させられて気分がいいはずないのですが、「われわれは招待客としてここにいる。日程は彼らが組んでいる」として、北朝鮮側の“もてなし”に半ばあきらめの表情を見せていたのだとか・・・。

 そういえば、中国の温家宝首相が中国首脳としては6年半ぶりに訪日しましたねぇ。この際ですから、日本の外務省も北朝鮮を見習って温首相ご一行様を桜の名所、靖国神社にご招待してみたら良かったのに・・・とついつい言いたくなってしまう今日この頃です。

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 続・外国切手の中の中国:モナコ
2007-04-11 Wed 00:27
 ご報告が遅れましたが、日本国際貿易促進協会の発行する週刊紙『国際貿易』の3月27日号に、僕の担当する「世界の切手で見る中国」の第3回目が掲載されましたので、ご報告いたします。今回取り上げたのは、こんな切手です。(画像はクリックで拡大されます)

ナイチンゲール

 これは、1980年のアンデルセン生誕175周年にあわせてモナコが発行した切手の1枚で、中国の宮廷を舞台にした童話『ナイチンゲール』を取り上げたものです。

 ナイチンゲールの物語は、中国の皇帝のもとに「皇帝陛下の宮殿、世界一すばらしい。でも、本当にすばらしいのは、そのお庭のナイチンゲールの声」という主旨の手紙が届けられるところから始まります。

 ナイチンゲールを探しあてた皇帝はその声を聞くとあまりの素晴らしさに涙を流して感動し、ナイチンゲールを飼うことにします。しかし、ある日、遠い国からダイヤモンドとルビーで飾られた美しい金のウグイスが届けられると皇帝は変心。「金のウグイスがいれば、わしは、なにもいらぬ」との皇帝の言葉をきいたナイチンゲールは森へ帰っていきました。

 その後、金のウグイスは壊れて動かなくなり、皇帝も病の床に倒れます。誰もが皇帝は長くないと思ったいたとき、かつて皇帝の元を離れたナイチンゲールが再び森から現れて、皇帝の傍で鳴きました。その歌声を聴いた皇帝は見る見る病状が回復し、驚く家臣たちに「おはよう、みなの者」と言ったところで物語は終わります。

 切手は、皇帝とナイチンゲール、金のウグイスを組み合わせたデザインですが、どことなく“ヨーロッパ人の見たアジア”というテイストが漂っているように思います。

 ちなみに、中国は2005年にアンデルセン生誕200年の記念切手を発行していますが、その際、中国が舞台になっているはずの「ナイチンゲール」は取り上げられていません。やはり、僕たちが欧米人にフジヤマ・ゲイシャのイメージで日本のことを語られると何となくいやな感じになるのと同じように、中国人も欧米人の目で見た中国宮廷の物語には違和感を覚えずにはいられなかったということなのでしょうか。

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 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。入場無料ですので、是非、遊びに来てください。
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 味噌と醤油は大丈夫か
2007-04-10 Tue 00:34
 千葉県の市原刑務所で食中毒が発生したのだそうです。このニュースを聞いて、そういえばこんな切手もあったかな、と思い出して引っ張り出してきたのがこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

フーロイ事件

 これは、1959年5月15日に北ベトナム(ベトナム民主共和国)が発行したフーロイ事件糾弾の切手です。

 フーロイ事件というのは、1958年12月1日、南ベトナム(ベトナム国)支配下のサイゴン(現・ホーチミン)のフーロイ監獄で、監獄当局によって毒入りの食事が配られ、北ベトナム側の主張で1000人を越える死者が出たという事件で、当時、南ベトナムのゴ・ディン・ジエムとそれを支援するアメリカの非道を象徴する出来事として大きく喧伝されました。この切手もそうしたプロパガンダ戦略の一環として発行されたもので、毒物に苦しんで斃れていく収容者の姿が取り上げられています。

 まぁ、監獄であれ刑務所であれ、英語で“prison”と呼ばれる施設に入っている人間は自由に外を行き来できないわけですから、そこで出てくる食事というのは信頼して食べるしかないわけで、毒入りの食事を(ましてや意図的に)提供したとあらば、世の非難を浴びるのも無理からぬことといえましょう。

 今回の市原刑務所の件は単純な管理ミスによる食中毒なんでしょうが、ここは、交通事故の加害者が収容されており、下手をすると誰でもお世話になる可能性があるところですからねぇ。それに、この刑務所で作られている味噌や醤油が全国の刑務所で使用されているというのも、ちょっと気になるところです。

 まぁ、刑務所に入れば、厳しい生活が待っているだけでなく、食中毒になるおそれもあるのだから、そうならないように気をつけようと思う人が増えれば、抑止効果があがるといえなくもないのかもしれませんが、やはり、食の安全に関してはいかなる立場の施設であれ、十分な配慮をしてほしいものです。

 なお、今日ご紹介の切手をはじめ、北ベトナムのプロパガンダ切手については、拙著『反米の世界史』でいろいろとご紹介しておりますので、ご興味をお持ちの方は、是非、ご一読いただけると幸いです。

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 東京府の1ヵ月
2007-04-09 Mon 00:51
 東京都知事選挙は大方の予想通り、現職の石原知事が3選を果たしました。というわけで、“東京都”がらみということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

東京府の消印

 これは、1943年6月29日に東京・渋谷から差し出された書留便で“東京府”の文字が入っています。

 太平洋戦争中の1943年6月1日から、金属資材を節約するため、消印の時刻欄も活字交換の必要がない都道府県名などに変更され、東京では“東京府”の文字の入った消印が使われるようになりました。

 ところが、その1ヵ月後の1943年7月1日、東京都制が実施され“東京府”は“東京都”となりました。この結果、消印の表示も東京府から東京都に変更され、“東京府”の文字の入った消印は短命に終わっています。

 ちなみに、東京府を東京都と改めた背景には、太平洋戦争の激化に対応して戦時統制を強化すると同時に、新たな呼称を導入することで国民の緊張感を高めようとの当局の意図がありました。もっとも、国民に緊張感を強いる前に、知事やお役人たちのほうにこそ、まず、緊張感を持って仕事をしてほしいと僕なんかは思ってしまうのですが…。

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 4月29日(土)14:30~、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場で、拙著『沖縄・高松塚の時代』の刊行を記念して講演+サイン会を行います。入場無料ですので、是非、遊びに来てください。
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 花祭の政治学
2007-04-08 Sun 07:51
 今日(4月8日)は灌仏会(花祭)の日。というわけで、お釈迦様がらみで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

アジア文化会議

 これは、1959年3月27日に発行された「釈聖2500年・アジア文化会議」の記念切手です。

 南伝仏教(いわゆる小乗仏教)の正統派の理解によれば、1956年は仏教の祖である釈迦の入滅2500年にあたっていたため、東南アジア諸国や欧米の仏教団体などでは、これを記念するための各種のイベントが行われ、特に、ビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)、インド、ラオス、タイでは記念切手も発行されました。

 日本の場合には、いわゆる南伝仏教とは系統の異なる北伝仏教(大乗仏教)が主流を占めており、1956年を入滅2500年と考える仏教関係者はほとんどいませんでしたが、それでも、東南アジア諸国との友好関係への配慮から、1956年5月に“仏紀2500年”という名目で、京都で記念式典が行われています。

 これに先立ち、1955年12月22日、日本仏教会会長の大谷光照は、翌1956年4月8日の花祭りからの1ヶ月間を「花まつり・仏陀2500年記念月間」として大々的に記念行事を行うので記念切手を発行してほしいとして、郵政大臣・村上勇宛に「仏陀2500年記念切手発行申請書」を提出しました。

 これを受けて、郵政省サイドは宗教と政治との関係を規定した『日本国憲法』の第20条 との関係を調査するため、12月24日、文部省調査局に切手発行の是非を照会。これに対して、文部省側は、「記念行事の計画は仏教系の機関誌に散見されるだけで国が主催ないしは後援する予定のものはない」と現状を説明した上で、「もし今回の行事(花祭り・仏陀2500年記念月間)に記念切手を発行すれば、国が特定の宗教的世界観を勧奨したようになるので問題がある」と回答。このため、大谷の要請は却下されました。

 その後、1957年に総理大臣となった岸信介は、内閣発足後最初の大仕事として、日本の首相として初の東南アジア諸国(ビルマ、インド、パキスタン、セイロン、タイ、台湾)を外遊。帰国後、岸は東南アジア開発基金構想を発表するなど、東南アジア外交を重視します。その一環として、1956年に各国でおこなわれた釈迦入滅2500年の記念行事に日本の政府代表や仏教関係者が多数招待されたことの返礼として、釈迦2500年記念の“アジア仏教文化会議”を計画。1958年には、その準備費用として、外務省予算の一部として、3000万円が計上されることになりました。

 これに対して、国が特定の宗教行事に関係してはならないとする憲法第20条に違反するのではないかとの指摘が社会党議員からなされたため、政府は、会議の名称を“仏教”の文字を削除した“アジア文化会議”に変更して、予算案を国会で通過させます。

 ところが、今度は“仏教”の文字が削除されたことに対して、仏教関係者や仏教団体と関係の深い議員が反発。会議への協力を拒否するという強硬論まで飛び出すようになりました。

 このため、対応に苦慮した政府は、外部団体として、前首相で日蓮宗の僧籍を有していた石橋湛山を会長とする“釈尊2500年を讃える会”(以下、“讃える会”)を設立。“讃える会”が会議を主催し、式典等には宗教色を交えないとした上で、“讃える会”に対する補助金というかたちで件の3000万円が支出されるということで決着がはかられました。

 以上のような紆余曲折を経て、1958年3月27日から31日までの日程で、アジア各国から約70名の参加者を招いて、東京で“釈聖2500年アジア文化会議”が開催されました。今回ご紹介の記念切手は、これにあわせて発行されたものです。また、会議の終了後、4月8日の釈尊降誕祭(花祭)を中心に、全日本仏教会が主催して、大阪・名古屋・福岡・広島等の地方主要都市で、“2500年祭”も開催されています。

 なお、会議主催者の“讃える会”が“釈尊2500年”を掲げているのに対して、実際に開催された会議の名称(=切手の記念銘)では“釈聖2500年”が掲げられているのは、憲法第20条の問題が考慮されたためで、この点について、内閣法制局は以下のような見解を明らかにしています。

 (今回の会議は)釈迦という聖人、つまり釈聖、道徳の最高峰としての釈聖の2500年に当り、その人格をほめ讃え、アジアの文化交流を図る国際文化会議であって、仏教会議ではなく、つまり宗教的色彩を全く帯びない行事である。

 さて、今回の会議は、岸内閣の東南アジア外交の一環として企画されたものであったため、招待者の選択に際しては、南ベトナムならびに韓国との関係を考慮して、北ベトナムと北朝鮮はリストから外されています。また、台湾に対しては正式な招請状を出す一方で、中国に対しては、国交未回復を理由に政府宛の正式な招請状ではなく仏教界に個人宛の招請状を出すという、政治的な解決がはかられました。これは、与党・自民党内でも、中国との経済交流の拡大を求める声が少なからずあったため、そうした声に配慮したものです。

 なお、今回ご紹介の切手については、<解説・戦後記念切手>シリーズの第2巻『ビードロ・写楽の時代』で詳しく解説していますので、よろしかったら、そちらもご覧いただけると幸いです。

 *昨日(4月7日)の切手市場での『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会は無事終了しました。次回イベントは4月29日(土)、東京・浅草で開催のスタンプショウ会場での講演・サイン会になります。こちらも入場無料ですので、是非、遊びに来てください。
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 ブーゲンビルへ届かなかった手紙
2007-04-07 Sat 00:51
 昨日(6日)の午後、無事に香港から帰国しました。香港にいる間はパソコンに取り込んである画像の中から、適宜選択して、その日の気分で記事を書いていたので、時事ネタ的な内容からはすっかり遠ざかっていたのですが、遅ればせながら、この1週間で一番大きな出来事、ソロモン諸島の地震に絡めてこんなカバーをご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ブーゲンビル宛カバー

 これは、太平洋戦争が始まって間もない1942年1月10日にニュージーランドからブーゲンビルのブカ島宛に差し出されたものの、この地域一帯が日本軍との戦闘に巻き込まれていたため、配達不能で差出人に返送されたカバーです。

 ブーゲンビルはソロモン諸島の中で最大の島で行政的にはパプアニューギニア領に属します。太平洋戦争中の激戦地で、1943年4月には、連合艦隊司令長官の山本五十六が同島上空で、米軍機に撃墜され戦死したことでも知られています。

 第2次大戦後はパプアニューギニアに編入されましたが、1975年、世界最大の銅山パングナに関して住民が補償を求めて行った抗議運動が発端となって、パプアニューギニアからの分離・独立運動が発生。1988年以降は分離独立を求めるブーゲンビル革命軍(BRA)が銅山妨害の運動を開始し、パプアニューギニア政府との間で内戦に発展しました。

 内戦は1998年に停戦合意が成立するまで続きましたが、2005年6月には自治政府が発足。ブーゲンビル本島が内戦で大きな被害を受けているため、自治政府の活動は、同島の北にあるブカ島(今回のカバーの宛先です)が中心になっています。

 ちなみに、昨年(2006年)10月には、自治政府の大統領以下、閣僚が訪日し、靖国神社も参拝したとか。復興支援に関しては国としてのソロモン諸島ばかりがクローズアップされているようですが、ブーゲンビルは、かつて日本軍が戦った激戦地でもありますし、なによりも震源地で被害も大きいでしょうから、自治政府への復興支援というのも忘れないでほしいものです。

 さて、いよいよ本日(7日)、10:30ごろから、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。
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 今日帰国します
2007-04-06 Fri 00:27
 早いもので、あと数時間で香港を発って日本に帰ります。それなりに成果のあった今回の香港取材旅行の締めくくりということで、やはり香港発日本行きのマテリアルを持ってきたらよかろうということで、こんなカバー(封筒)をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

香港発長崎宛

 これは、1865年に開設された香港=上海=長崎の定期航路によって、香港から長崎に送られたカバー(封筒)です。

 裏面に押されている印などから、1867年12月に香港から差し出され、(書き込みによれば)翌1868年1月6日に長崎に到着しています。当時、日本国内は最後の徳川将軍、慶喜による大政奉還(1867年11月9日:慶応3年10月14日)、王政復古の大号令(1868年1月3日:慶応3年12月9日)、鳥羽伏見の戦い(1868年1月27日:慶応4年1月3日)といった具合に、幕末維新の動乱の最中にあったわけですが、カバーを見る限り、その痕跡は微塵も感じられません。

 まぁ、ぼくも一週間近く日本を留守にしましたからねぇ。帰ったら、いろいろとやらねばならぬことも溜まっているでしょうから、まさに動乱の中に突っ込んでいくという心境です。

 さて、帰国早々ですが、明日4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。
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 英雄/テロリスト図鑑:ホーチミン
2007-04-05 Thu 00:22
 ご報告が遅くなりましたが、現在発売中の『SAPIO』4月11日号で僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」ではホーチミンを取り上げてみました。雑誌の記事では、以前ご紹介した竹の切手を取り上げましたが、せっかく、香港滞在中ですから、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

若きホーチミン

 これは、1970年5月19日に当時の北ベトナムで発行されたホーチミンの切手で、香港滞在中の1930年の肖像が取り上げられています。ホーチミンというと、あの独特のアゴヒゲのある顔のイメージが強いのですが、彼にだって、ヒゲのない若い時代というのもあったわけです。(当然といえば当然ですが)

 ホー・チ・ミンに関しては、出自や青年時代の行動についてハッキリとわかっていないことも多いのですが、とりあえず、一般的には1890年5月19日、中部ベトナムのゲアン省で生まれたといわれています。

 15歳の頃から愛国運動の地下組織に関わっていた彼は、いったんはフランス植民地政府の官吏を養成する学校に入学するものの、1908年に退学。その後、ごく短期間、民族主義者の設立した小学校で教鞭をとった後、1911年、フランス船のコック見習いとして、マルセイユ、チュニジア、アルジェリア、セネガル、コンゴ、米国、ブラジル、アルゼンチン、ロンドンなどを経て、1917年にパリに移住します。

 パリでのホー・チ・ミンはフランス社会党に参加し、1919年に行われた第一次大戦の講和会議(いわゆるベルサイユ会議)の際には、フランス在住のベトナム愛国者グループとして“グエン・アイ・クォック”(阮愛国)を名乗り、独立を求めて「ベトナム人民の要求書」を提出しています。

 その後、彼はフランス共産党の創立(1921年)にも関わるなど共産主義への傾斜を強め、1923年にはドイツを経由してソ連に入り、翌1924年、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に就任。1941年までヨーロッパとアジアを往復しながら革命家として活動しました。この間、1930年には香港での第1回インドシナ革命会議に参加するとともに、ベトナム共産党の創立に関わり、九龍のサッカー場で開催された同党創立大会を主催しています。

 その後、1931年6月にはコミンテルンの工作員としてイギリス当局に逮捕・勾留されますが、結核を病んでいたこともあって、1932年8月に追放されました。このときの追放に際して、コミンテルンは「帝国主義者の恐怖政治によって香港の刑務所の病院に監禁されたインドシナ共産党創設者、グエン・アイ・クォックの死亡」を発表。ホーは完全な地下活動に入ります。

 なお、翌1933年にも、ホーは香港に上陸していますが、このときも逮捕され、アモイへと追放されています。

 その後、1941年2月、およそ30年ぶりに帰国したホーは、ベトナム独立のための民族統一戦線、ベトナム独立同盟(ベトミン)を結成し、フランス当局からは共産ゲリラ、テロリストの頭目として恐れられるようになります。そして、1945年の独立宣言からフランスの干渉による第1次インドシナ戦争を戦い、アメリカの介入したいわゆるベトナム戦争最中の1969年9月3日に亡くなりました。

 なお、2005年に刊行の拙著『反米の世界史』では、切手や郵便物をからめて、ベトナム戦争の概要をまとめていますので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。

 <おしらせ>
 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。
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 広州からの正規料金
2007-04-04 Wed 00:25
 昨日(3日)から広州に来ています。やはり、香港の歴史にとって広州は無視できない存在なので、今回はちゃんと広州の様子も見ておきたかったからです。といっても、広州滞在は一泊だけで、今日の午後にも香港へ戻るのですが…。

 まぁ、せっかく広州にいるのですから、手持ちの広州関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

1837年広州発のカバー

 これは、1837年4月2日、広州からイギリス宛に差し出された郵便物です。紙が高価だった時代ですから、封筒に便箋を入れるという現在のようなスタイルではなく、便箋に手紙を書いてそれをそのまま折りたたんで差し出す形式になっています。このため、差出地や日付、押されている印などが見えるように、画像では郵便物を一部開いた状態でスキャンしてみました。

 18世紀の後半から、イギリスがインドに綿製品を売り、インドのアヘンを清朝に輸出して、清朝から茶などを買うという三角貿易が行われていましたが、対清貿易の拡大に伴い、イギリスは東アジアとの通信を本格的に扱うべく、1834年に広州とマカオに収信所(郵便局)を設置し、本国やインドとの通信を取り扱うようになりました。後に中国大陸の各地には列強諸国が進出の拠点として郵便局を開設していくのですが、このときの収信所が中国に置かれた列強の郵便局のルーツになります。ただし、この時点では、収信所の設置はイギリスが清朝に圧力をかけて認めさせたものというよりは、大国としての矜持から、清朝がイギリスに恩恵を施したという性格のものでした。

 さて、この郵便物は、広州から差し出された後、1837年8月31日にイギリスのヘイスティングスに到着しています。当時、イギリスとインドの間の郵便料金は割安に設定されていたが、ヘイスティングスの郵便局員はこの郵便物がインドから送られてきたものと誤解したようで、郵便物には、「ヘイスティングス 船便」(SHIP LETTER HASTINGS)という印と同時に、「インド(から)の郵便物」(INDIA LETTRE)という印が押されて、割安の料金を徴収するように指示されています。

 イギリスで郵便料金前納の証紙として、世界最初の郵便切手が発行されたのは1840年のことですが、この郵便物が差し出された1837年当時の郵便は、受取人が料金を支払うシステムになっていました。このため、郵便物を配達するにあたって、郵便局では、受取人から徴集すべき金額等を郵便物の表面に記載する習慣があり、ヘイスティングスの郵便局員もインドからの割引料金を受取人から徴収するよう、この郵便物に印を押して配達先のロンドンに送ったわけです。

 しかし、ロンドンではこの郵便物が広州から差し出されたものであることを見抜き、最終的には、受取人から正規の広州=イギリス間の料金が徴収されています。

 この結果、この郵便物には、イギリス・清朝・インドという三角貿易に登場する三者の姿が刻まれることになり、ちょっと面白いんじゃないかと個人的には思っています。

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 17万アクセス
2007-04-03 Tue 00:25
 香港時間で日付変更線をちょっとだけ(?)またいで宿に帰ったらアクセスカウンターが17万アクセスを越えていました。香港滞在中の出来事なので、せっかくだから香港の切手で何か“17”の切手がないかと探してみたのですが、見つけられなかったので、かわりに1.7ドル(1ドル70セント)切手の中から、こんな1枚を持ってきてみました。

林呱

 これは、1986年に発行された19世紀の香港の肖像画を取り上げた切手の1枚で、描かれているのは画家の林呱です。

 清代の中国では18世紀後半から、中国人の画家が中国の風物を西洋画風に描いた“中国輸出画(チャイナ・エクスポート・ペインティング)”と呼ばれる絵画が流行し、中国茶と並んで英米向けの重要な輸出品目になっていました。僕なんかの感覚からすると、せっかく中国から輸入するのなら、中国の伝統技法で描かれた作品の方が良いように思うのですが、当時の欧米人は平面的な中国画を好まなかったのだそうです。

 この中国輸出画の第一人者であったのが、今回ご紹介している林呱です。

 林呱(啉呱、林官とも)は1801年、広州の出身で本名は關喬昌。林呱というのは、西洋人から呼ばれていた名前、Lam Quaによるものです。1825年に広州に渡ってきたイギリス人画家ジョージ・チネリーの下で西洋画の技法を学び、1830年に広州の十三行同文街に自身のアトリエを開設しました。最初のうち師弟関係は良好だったのですが、後に林呱が作品をチネリーよりも安い値段で販売するようになったため、チネリーは彼を破門したと伝えられています。

 林呱はまた、1836年から1855年にかけてアメリカから派遣された医師団の下で医学絵画(主に腫瘍や瘤のある患者の病状を記録した作品)を多数残していることでも知られているユニークな画家です。もっとも、これらの作品はかなりグロテスクなので、切手に取り上げられることはまずないでしょうけれど…。

 香港島に渡ってきたのは1846年のことで、以後、1860年に亡くなるまで、香港最初の中国人西洋画家として活躍しています。切手に取り上げられているのは1853年、彼が52歳の時に香港で制作した自画像で、フェリー乗り場近くの尖沙咀にある香港芸術館の所蔵品です。

 実は、今日は市街地の博物館などをまわったのですが、そのうちのひとつ、香港芸術館にも足を伸ばしてみました。もちろん、この作品のオリジナルを拝んでこようと考えていたのですが、あいにく、この作品を含めて切手に取り上げられた肖像画は展示されておらず、ミュージアムショップに複製が売られているだけでした。うーん、なんだかとっても悔しいぞ。

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 100年前の九龍郵便局
2007-04-02 Mon 01:09
 昨日の記事にも書きましたが、現在、今年夏に刊行予定の拙著『香港歴史漫郵記』(仮題)の取材のため、香港に来ています。といっても、つい先ほど、無事、宿にたどり着き、無事にネットもつながったばかりなのですが…。

 さて、今回の宿は、いろいろと動き回ることを考え、九龍側でフェリー乗り場のある尖沙咀エリアのホテルを取りました。もちろん、ペニンシュラじゃなくって、ビジネスホテル並みの安宿です。というわけで、香港からの更新1発目は、滞在先のエリアにちなんで、こんなモノを持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

KB印の葉書

 これは、1906年9月3日の九龍郵便局の消印が押された葉書です。

 九龍地区に最初の郵便局がオープンしたのは、新界地区が租借された後の1898年7月5日のことで、このときの郵便局は九龍の波止場に置かれていました。もっとも、この時点では、同局は独立した郵便局というよりも、ヴィクトリアの香港中央郵便局の分局という扱いであったため、同局では、九龍を意味する“Kowloon”ではなく、この葉書に押されているように“Hong Kong K.B.”と表示された消印が用いられていました。ここでいう“K.B.”とは、九龍分局を意味する“Kowloon Branch”の略です。

 その後、波止場の敷地に内に設けられていた九龍郵便局は、スターフェリーの開業に伴い、フェリーの船着場の建物内に移転し、さらに1906年9月、尖沙咀のソールズベリー・ロード(ペニンシュラとか香港文化センターなんかがある通りです)に移転しました。ちなみに、現在の九龍中央局は、ずっと北側の油麻地エリアの天后廟前にあります。

 この葉書は、ちょうど九龍局がソールズベリー・ロードに移転した頃、香港島からソールズベリー・ロード宛に差し出されたものです。新庁舎オープンの正確な日付を調べ切れなかったのですが、この葉書の配達時では、まだ新庁舎での業務は始まっていなかったのかもしれません。

 なお、20世紀初頭の香港の郵便局の局舎としては、1910年代に建てられた旧湾仔局の局舎が現在、湾仔環境資源中心(環境資源センター)として保存・公開されています。旧湾仔局は文化遺産として切手にも取り上げられていますので、ついでですから、画像をアップしておきましょうか。

旧湾仔郵便局


 <おしらせ>
 4月7日(土)の午前中、東京・目白のカルチャービルにて行われる切手市場会場内にて、僕の最新刊『沖縄・高松塚の時代』の即売・サイン会を行います。切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。
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 香港へ行ってきます
2007-04-01 Sun 00:36
 私事で恐縮ですが、今日(4月1日)の夕方から6日まで香港に行ってきます。現在、10年前の香港返還の年に出した『切手が語る香港の歴史』の全面リニューアル版として、『香港歴史漫郵記』(仮題)という本を作っているのですが(出版元は別の会社です)、その取材に行くのが今回の最大の目的です。

 というわけで、今日のところは、香港がらみの日本切手ということで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

沖縄・ルソン・香港海底ケーブル開通

 これは、1977年8月26日に発行された「沖縄・ルソン・香港海底ケーブル開通」の記念切手です

 日本と東南アジア諸国の通信網を整備するための東南アジア海底ケーブル構想は、1959年、当時の首相であった岸信介が唱えたのが最初といわれています。1957年2月に首相となった岸は総理就任後まもない同年5月、東南アジア諸国を歴訪し、東南アジアの復興のためにアメリカなどが資金を供与するという東南アジア開発基金の創設を提唱(実現はしなかった)するなど、東南アジア重視の姿勢を示していました。東南アジア海底ケーブル構想もその一環だったわけです。

 この海底ケーブル構想は、その後、ながらく実現されずにいましたが、1975年9月15日、沖縄・ルソン・香港海底ケーブルの建設保守協定がマニラで調印され、日本のKDD(国際電信電話会社)、フィリピンのETPI(Eastern Telecommunication Philippines Inc)、イギリスのC&W(Cable and Wireless)が合同で、全長2440キロの海底ケーブルを敷設する工事が行われました。総工費は150億円で、沖縄本島西南部の具志頭とルソン東北西部のイロコス・ノルテを結ぶ約1360キロをKDDが、イロコス・ノルテと香港島を結ぶ約880キロをC&Wが、それぞれ、ケーブル敷設工事を担当しました。

 このケーブルは当時のアジア太平洋地域で最大容量を誇るもので、ケーブルの開通により、沖縄・ルソン間は電話1600回線が、ルソン・香港間は電話1840回線が同時に使用できるようになりました。こうしたことから、ケーブルの開通記念式典にあわせて、1977年8月26日、ケーブルの路線図に電話をかける子どもを描いた記念切手が発行されたというわけです。

 なお、この切手については、3月に刊行したばかりの拙著『沖縄・高松塚の時代』もあわせてご覧いただけると幸いです。

 * 4月6日に帰国するまで、現地でのネット環境等により記事の更新ができないことがあるかもしれませんが、その場合は、あしからずご容赦ください。
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