内藤陽介 Yosuke NAITO
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 切手で世界旅行:自由の女神
2007-05-31 Thu 02:43
 今年のミス・ユニバース世界大会は日本代表の森理世さんが優勝して幕を閉じましたが、優勝した森さんには、1年間使用可能なニューヨークのアパート、給与(金額は非公開)、高級時計などの衣装、ニューヨークで2年間映画を学ぶための奨学金などが贈られるのだとか。

 というわけで、ニューヨークがらみのネタということで、以前、時事通信社の配信用コラム「切手で世界旅行」(各社での掲載は一通り終わったようです)に送った原稿の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

自由の女神

 これは、1959年にアメリカがエアメール用に発行した15セント切手で、自由の女神が取り上げられています。

 ニューヨークの自由の女神は、1886年にアメリカ独立100周年を記念して、フランスから贈られたもの。右手には松明を、左手には独立宣言の日付である「1776年7月4日」を刻印した銘板を持っています。王冠の7つの突起には7つの大陸の7つの海に自由が広がるという意味が込められているのだそうです。

 以前は冠部分の展望台に上がることができたのですが、2001年の同時多発テロ事件の影響の後、一時閉鎖され、2004年には台座頂上の展望台までの見学が再開されました。なお、像の内部の見学は再開されていません。

 アメリカで最初の“自由の女神”切手は、1922年に発行された通常の15セント切手ですが、その後、米国の切手はもとより、諸外国の切手にもアメリカの象徴としてこの像が取り上げられた例は無数にあります。

 今回ご紹介している1959年発行の航空切手は、女神像の上半身を取り上げたもので上部には「全ての人に自由を(LIBRETY FOR ALL)」の文字も入っています。

 この切手が発行され、日常的に使われていた時代は東西冷戦の真只中。当時のアメリカは全世界を流通するエアメールの切手を通じて、みずからが自由主義陣営の盟主であり、世界に自由を拡大する使命を担っていることを高らかに宣言していたといえます。

 切手は時として、政治的なプロパガンダの媒体としても用いられるが、この切手もまさに、その典型的な事例といってよいでしょう。

 そういえば、この記事を書いていて思い出したのですが、ちょうど1年前の今頃は、ワシントンの国際展に出品者として参加している合間を縫って、ニューヨークまで遊びに行っていました。ホントに時の経つのは早いものだと驚かされます。
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 香港:古き良き時代の歴史散策
2007-05-30 Wed 00:22
 一昨日の記事でもチョコッと書きましたが、雑誌『郵趣』今月号は、巻頭特集で僕が「香港・古き良き時代の歴史散策」というコラムを書いています。で、今日はその記事に使ったものの中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

英領香港100年カバー

 これは、1941年2月26日に発行された英領香港100年の記念切手6種のうち5種が貼られたカバーです。発行初日(1941年2月26日)のヴィクトリア局の消印が押されており、いかにもなフィラテリック・カバーですが、検閲免除の印が押されているので、アメリカまできちんと運ばれたことがわかるのは嬉しいところです。

 英領香港100年の記念切手は、W・E・ジョーンズのデザインによるもので、ジョージ6世の肖像が入った枠の中に香港を象徴する風景を描かれています。その内訳は、2セント切手が市街地の混雑、4セント切手が西洋式の汽船と中国式のジャンク、5セント切手が香港大学、15セント切手がヴィクトリア・ピークからながめた港の風景、25セント切手が香港上海銀行本店、1ドル切手は中国式の大型帆船と飛行艇となっており、このカバーでは4セントのみが漏れています。

 1937年以来の日中戦争が長期化すると、その余得で香港は空前の経済的活況を呈するようになります。すなわち、1931年には85万弱といわれていた香港の人口は、日中戦争の勃発した1937年には100万を越え、その後、上海や広州からの難民が大量に流入したこともあって、1941年の時点では175万人にまで膨れ上がっていました。その中には富裕な実業家も少なからず含まれており、香港には、日本軍の占領下で陸の孤島と化した上海に代わる中国経済の拠点という地位が突如として転がり込んできたのです。

 たとえば、1941年の秋には次年度の競馬のためのオーストラリア・ポニーが輸入され、競売で1頭1万ドル以上の高値をつけています。また、レストランや酒場は連日大賑わいで、上海からやってきたダンサーたちは最新流行のファッションを香港にもたらしていました。香港社会には、日本軍がまさか香港を攻撃するはずがないという根拠のない楽観論が満ち溢れており1940年6月に香港政庁が欧米系の全婦女子に香港島からの避難を命じた後も、彼女たちのうちの900人は何かと口実をつけて、日英開戦まで香港に居残り続けています。

 今回ご紹介の切手は、まさに、こうした状況の下で発行されたモノで、太平洋戦争直前の古き良き香港の最後の輝きが記録されている1点といっても良いでしょう。

 さて、今回の『郵趣』に書いた「香港・古き良き時代の歴史散策」は、香港返還10周年を控えて、太平洋戦争以前の香港を物語る切手や絵葉書を通して、英領香港の歴史物語を構成したものです。結果的に、来月下旬刊行予定の拙著『香港歴史漫郵記』の予告編ともいうべき内容になっていますので、機会がありましたら、是非、ご覧いただけると幸いです。
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 慙愧に堪えない
2007-05-29 Tue 01:53
 昨日(28日)はカンヌ国際映画祭での「殯(もがり)の森」(河瀬直美監督)のグランプリ受賞や人気ポップスグループ・ZARDの坂井泉水さんの訃報、松岡農水大臣の自殺など、大きなニュースが沢山あったのですが、僕が個人的に気になったのが、農水大臣の自殺に対して安倍首相が「慙愧に堪えない」というコメントを出していた点です。

 で、“慙愧に堪えない”という表現を聞いて、こんな切手を思い出しましたので、まずはご覧ください。(画像はクリックで拡大されます)

松島

 これは、1960年3月15日に日本三景切手の第1集として発行された“松島”の切手です。

 宮城県の“松島(陸奥の松島)”と京都府の“天橋立(丹後の天橋立)”、それに広島県の“厳島(安芸の宮島)”は、江戸時代より、風光明媚な観光地の代表として“日本三景”と称されています。その由来は、一般に、儒学者・林春斎(幕府の御用儒者・林羅山の子)が、全国を行脚して1643年年にまとめた『日本国事跡考』(現在の刊行ガイドのようなもの)において、これら三つを“日本三処奇観”と記したことに求められています。

 さて、日本を代表する観光地としての日本三景でしたが、厳島神社が戦前の通常切手に取り上げられた以外は、1950年代まで、切手上に取り上げられることはありませんでした。

 これに対して、仙台郵政局長だった板野学は、「日本三景・松島」の切手発行を提唱しつづけ、本省の郵務局長となった後の1957年12月、郵政審議会専門委員会で、翌昭和33年度に「日本三景」の切手を発行することを決定させています。

 しかし、昭和33年度は、空前の切手ブームの中で、公園や年賀を除く記念切手の発行件数・枚数が急増(昭和32年度の記念切手が7件8種、平均発行枚数約744万枚だったのに対して、昭和33年度は12件16種、平均発行枚数1600万枚)。あらたに日本三景の切手を発行するだけの物理的な余裕はなく、計画は次年度へ持ちこしとなりました。さらに、昭和34年度も、4月の皇太子ご成婚の記念切手が発行されたことや、後半にあいついで当初予定のない飛び込みの記念切手発行が相次ぎ、日本三景切手の発行はさらに遅れてしまいました。

 このような経緯もあり、三景切手の最初となる“松島”の発行にむけて、具体的な作業が開始されたときには、すでに1959年10月になっていました。

 さて、原画の制作は、福島県出身のデザイナー、木村勝が担当しました。木村は、旧制中学時代を仙台で過ごし、松島には格別の思い入れがあったため、以前から、松島の切手が発行される場合には自分が原画を担当したいと主張しており、かなり気合が入っていました。

 こうして、1960年3月15日、板野と木村の思いがこもった日本三景切手の第一段として、“松島”が発行されます。しかし、実際に出来上がった切手は、必ずしもザンメル凹版の特色を活かしきれておらず、当時の収集家からもあまり高い評価を得ることができませんでした。

 このため、切手発行後、デザイナーの木村は、完成した切手について『切手』紙上で「原画の責任もあろうかとザンキにたえない次第です」と反省の弁を述べています。

 辞書を調べてみると、“慙愧に堪えない”というのは、「いろいろと自分のことを反省して心からはずかしく思うこと。恥じ入ること。また恐縮すること」と説明されており、慙愧の“慙”はみずからはじること、“愧”は人に向かってこれをあらわすことなのだそうです。

 したがって、「ザンキにたえない次第です」との木村の言葉は、まさに、切手の不出来(もっとも、現在の我々から見ると、決して出来の悪い切手ではないと思うのですが…)を深く恥じ入るという意味で、辞書の用法どおりと見て良さそうです。

 これに対して、安倍首相は農水省の自殺に関して、何を恥じ入ったのでしょうか。さまざまな疑惑をもたれるような人物を閣僚として任命したことなのか、その人物が疑惑についてきちんとした説明をしないまま、自殺という手段で真相を闇に葬ってしまい、国民の信頼を裏切ったことなのか、それとも、単純にスキャンダルまみれの閣僚をかばうことができなかったことなのか、いまいち、僕には判然としませんでした。

 まぁ、なんであれ、一人の人が亡くなったわけですから、その意味では僕もご冥福をお祈りしたいとは思いますし、あまり、言葉尻を捕らえる小姑のようなことはしたくないのですが、どうも、首相の「慙愧に堪えない」という発言には、大いに違和感をおぼえました。やはり、一国の総理の言葉というものはそれなりに重みがあるわけですから、十分に気を使ってほしいと思います。

 なお、“松島”を含む日本三景切手の詳細については拙著『ビードロ・写楽の時代』でまとめています。同書は現在、版元品切れですが、先ほどの時点ではアマゾンでは中古を含めて入手が可能でした。じっさい、一部では、同書は定価以上で取引されていることですし、版元の日本郵趣出版さんには、是非とも、重版をかけていただきたいものです。

 *昨日の日記で予告した『郵趣』巻頭特集に絡む記事は、明日以降に掲載します。
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 『郵趣』今月の表紙:香港の1番切手
2007-05-28 Mon 01:07
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2007年6月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

香港・1番切手

 これは、1862年に発行された香港最初の切手の1枚です。表紙にはファースト・イッシューの全揃セットが掲載されていますが、今回は“1番切手”ということで、カタログ番号の一番若い最低額の切手(2セント)を取り上げてみました。

 アヘン戦争以来の香港の植民地建設がそれなりの体裁を整えるとともに、香港の郵便局が取り扱う郵便物の量も増加。その結果、それまで着払いの郵便物(すなわち、差出時には料金を支払っていない郵便物)が主流を占めていた香港にとっては、郵便物を取り扱うコストの負担が重くのしかかるようになり、1858年5月1日以降、郵便料金は差し出し時に前納することが義務化されます。

 また、植民地の行政機構が整備されていく過程で、1860年5月1日、それまでロンドン中央郵便局の管轄下に置かれていた香港の郵便業務も、現地の総督府の下部組織である香港郵政局の管轄に移管されました。

 こうしたことから、香港でも郵便には切手を使う必要が生じ、1860年8月、香港総督のH・ロビンソンは本国の植民地大臣のニューキャッスル公に、香港でもイギリス本国の切手を使用したいと申し出ます。しかし、ロンドン中央郵便局は、植民地政府は自前の郵政を持っているではないかと指摘して、香港独自の切手を発行するよう指示。そこで、このため、ロビンソンは1861年3月に本国植民地省に対して、自らの考えたデザインの雛形とともに、香港独自の切手の製造を委託しています。

 香港総督から新たに発行する切手のデザインの雛形を受け取った本国では、植民地省、大蔵省、中央郵便局、王室関係者などが約1年間かけてこれを検討し、最終的にトーマス・デ・ラ・ルー社に切手製造の実務を発注。デ・ラ・ルー社は、1862年9月10日に最初の香港切手を製造し、香港に発送しました。そして、切手は、同年11月に香港に到着し、翌12月8日から発行されています。

 ちなみに、このときの切手は、香港で最初の、というよりも、東アジアで最初の切手に発行された切手で、漢字が印刷された最初の切手でもあります。

 さて、今月号の『郵趣』では、巻頭で香港返還10周年にちなんで、香港の特集を組み、僕が原稿を書きました。6月下旬に大修館書店から刊行の『香港歴史漫郵記』の予告編として、ご一読いただけると幸いです。なお、明日のこのブログでは、巻頭特集で使ったマテリアルの中から、何か1点を取り上げてご紹介する予定です。
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 英雄/テロリスト図鑑:ナポレオン3世
2007-05-27 Sun 02:26
 ご報告が遅れましたが、『SAPIO』6月13日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、フランス新大統領の就任を記念して、フランス共和国大統領を名乗った最初の人物、ナポレオン3世を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

ナポレオン3世

 後にナポレオン3世を名乗るシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルトは、皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟、ルイ・ボナパルトと、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの連れ子、オルタンス・ド・ボアルネの三男として、1808年、パリで生まれました。皇帝の甥として優雅に暮らしていた彼は、伯父の失脚後、母親のオルタンスとともに亡命生活を余儀なくされ、ドイツ・イタリアを転々とした後、スイスで少年時代を過しました。

 血は争えないというべきか、20歳前後の彼はギリシャ独立戦争に参加しようとしたり、スイスのトゥーンにある砲兵学校で軍事訓練を受けたりしていましたが、1830年のフランス7月革命を機に帝政復活の野望に目覚めてしまいます。

 この年、彼は避暑のためイタリアを訪問。ナポレオン1世の支配が崩壊した後のイタリアは、オーストリアとローマ教皇の影響力が強い分裂国家の状態にあり、これに反発する秘密結社のカルボナリ(こいつらもテロっ気がありますんで、いずれ、連載で取り上げることになりそうです)が各地で一揆を起こしていました。「伯父がいなくなったからこのザマだ」と憤慨したルイ=ナポレオンは、兄とともにカルボナリの活動にコミットし、その結果、オーストリアの官憲から追われる身となります。さらに、1832年には、従弟の“ナポレオン2世”が若くして病死したこともあって、ルイ=ナポレオンは伯父の後継者になることを固く決意するようになりました。

 その第一段階として、1836年10月、ルイ=ナポレオンはストラスブールのフランス軍駐屯地で、砲兵第4連隊に呼びかけて7月王制打倒の一揆を試みます。“ナポレオンの甥”を名乗れば部隊はひれ伏すと考え、ほとんど準備らしい準備もせずに行なわれた一揆は、当然のことながら瞬時に鎮圧され、逮捕された彼はアメリカに追放されました。

 その後、ロンドンに移り住んだ彼は、1840年8月、英仏海峡の港町ブローニュでも第24歩兵連隊に呼びかけての一揆を試みますが、やはり失敗。今回は、前回のように“性質の悪い冗談(本人は大真面目でしたが)”ではすまされず、彼は終身禁固の判決を受けて北フランスのアム要塞に収監されました。しかし、1846年に出入りの職人に変装して脱獄に成功した彼は、再びロンドンに渡り、莫大な財産を蕩尽して恋と革命に熱中する生活を続けます。

 そうしているうちに、1848年、2月革命が勃発。7月王制は打倒され、第2共和制が発足すると、社会的安定を求める国民の間に根強いナポレオン神話を背景に補欠選挙で議員に当選。晴れて、政界デビューを果たしました。

 同年末、フランスは初めての大統領選挙を実施し、ルイ=ナポレオンもこれに立候補しました。玄人筋の予想では、大本命はカヴェニャック将軍でルイ=ナポレオンは泡沫候補扱いでしたが、フタをあけると、日本のタレント候補同様、“ナポレオン”ブランドの力で彼が圧勝。ルイ=ナポレオンはフランス共和国の初代大統領になりました。

 もっとも、大統領にはなったものの、政治家一年生で権力基盤のなかった彼は、議会の反対で自分の思い通りの政策を実現することができなかったこともあり、1851年12月、クーデターを起こして議会を解散して有力議員を逮捕。翌1852年には偉大なる伯父の先例にならって、国民投票を経て皇帝ナポレオン3世として即位し、帝政復活の彼岸を果たしたというわけです。

 まぁ、皇帝としてのナポレオン3世はパリのインフラ整備を初めそれなりに業績を残しているのですが、クーデターという政権の出自に加え、普仏戦争で自ら捕虜となって退位という無様な最後ゆえに、フランスでの評判は散々です。

 なお、今回ご紹介しているのは、1862年に発行されたナポレオン3世の20サンチーム切手。ホントは大統領時代の“REPUB FRANC”と表示されたものを持ってこれれば良かったのですが、まぁ、勘弁してください。
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 映画『コマンダンテ』
2007-05-26 Sat 00:32
 オリバーストーンがフィデル・カストロに30時間以上インタビューしたドキュメンタリー映画『コマンダンテ』が今日(5月26日)から公開だそうです。というわけで、数あるカストロ切手の中から、僕の個人的なお気に入りとして、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

カストロの著作

 これは、キューバ革命の起点となったモンカダ事件11周年を記念して1964年に発行された切手で、カストロの著書『歴史は私に無罪を宣告するであろう』の二つの版(上がバティスタ政権下で密かに発行された初版本で、下が革命後に発行されたもの)が取り上げられています。

 1953年7月26日、27歳の青年弁護士、フィデル・カストロひきいる165名の青年たちは、当時のバティスタ独裁政権の打倒を目標として、キューバ第2の兵営であるモンカダ兵営を襲撃します。しかし、彼らが期待した一般市民による反バティスタ蜂起は起こらず、逃げのびたカストロ本人も逮捕・投獄されてしまいました。

 裁判に際して、弁護士であったカストロは、被告人でありながら自らの弁護を担当し、最終弁論を「歴史は私に無罪を宣告するであろう」との有名な台詞で締めくくったものの、禁錮十五年の判決を受け、ピノス島のモデーロ監獄に収監されます。

 ところが、彼が獄中で執筆した手記『歴史は私に無罪を宣告するであろう』が密かに出版されると、カストロらに対する恩赦を求める運動が市民たちの間に広がり、1955年5月、バティスタも渋々ながらカストロの釈放を認めざるを得なくなりました。

 こうして釈放されたカストロは、再起を期していったんメキシコに亡命。そこで“アメリカ帝国主義からラテンアメリカを解放する”との理想を抱いてメキシコシティに来ていたアルゼンチン出身の青年医師、エルネスト・ゲバラと知り合って意気投合し、た。カストロとチェ(“仲間”を意味するゲバラの愛称)・ゲバラという黄金コンビの誕生が生れることになるのです。

 今回公開される映画『コマンダンテ』は、2002年2月にカストロに行なわれたインタビューを構成したもので、革命やゲバラとの決別、ミサイル危機、後継者問題などについて、カストロ本人の貴重な証言が聞けるようです。米国では上映が禁止されているということもありますし、僕も、なんとか時間を作って劇場に行ってみたいと考えています。

 なお、カストロとキューバにまつわる切手・郵便に関しては、拙著『反米の世界史』でも1章を設けていますので、こちらもあわせてご覧いただけると幸いです。
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 ヨルダン初期のカバー
2007-05-25 Fri 00:36
 今日(5月25日)はヨルダンの独立記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

エル・ホスンのカバー

 これは、1926年6月7日、ヨルダン(当時はトランスヨルダン)北部のエル・ホスンからカイロ宛に差し出されたカバーで、エジプト遠征軍の切手に“東ヨルダン(=トランスヨルダン)”を意味するアラビア語を加刷した切手が貼られています。

 以前の記事でもご紹介しましたが、第一次大戦後の旧オスマン帝国領分割の課程で、イギリスの政治的意図から人工的に創設された国家、トランスヨルダンは、当初、総人口が約40万人しかおらず、自立した独立国の運営をまかなえるだけの資源もなければ産業もありませんでした。このため、1927年にいたるまで正刷切手(オリジナル・デザインの切手)を発行することができず、イギリスのエジプト遠征軍の切手やヒジャーズ(アラビア半島北西部、紅海沿岸に樹立された国家)の切手に“東アラブ政府”または“東ヨルダン”といった文字を加刷した暫定的な切手が用いられていました。

 今回ご紹介しているカバーはその実例というわけですが、なにせ人口40万の小国ですから、実際に郵便に使われたカバーで気の利いたものはなかなかありません。特に、首都のアンマン以外の消印が押されたカバーは数が少ないので、入手には苦労させられます。というわけで、このカバーは僕のお気に入りの1枚です。

 なお、第一次大戦後、旧オスマン帝国領が分割されて、現在の“中東”の枠組ができあがっていく過程については、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあるのですが、このカバーを含めて、その後いろいろとマテリアルも増えましたからねぇ。いずれ、改訂版を作れれば良いな、と考えている今日この頃です。
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 インドが敵国だった頃
2007-05-24 Thu 00:24
 今年は日印交流年ということで、昨日(23日)は記念切手も発行されました。というわけで、今日は“日印”がらみということでこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ビルマ宛差出人戻し

 これは、第2次大戦末期の1945年7月15日、南インドのナチャプランからビルマ宛に差し出されたものの、郵便物取扱停止中のため、差出人に返送されたカバーです。カバーの中央には、そのことを示す“SERVICE SUSPENDED RETURN TO SENDER”の印が押されています。

 1941年12月の日英開戦に伴い、イギリスならびに英領地域から日本の勢力圏内への郵便物の取り扱いは停止されました。これは、日本占領下のビルマに関しても同様です。

 大戦末期の1945年3月、イギリス軍とアウンサン将軍ひきいるビルマ軍は日本軍に対して総攻撃をかけ、5月1日にはラングーンを解放します。これに伴い、イギリス軍は解放地域で軍政を施行し、郵便に関してはBritish Military Administrationを意味する“BMA”加刷の切手が使用されました。

 ところが、その後も1945年9月2日に日本軍が正式に降伏するまでは、ビルマは“日本占領地域”とみなされていたためか、ビルマ宛の郵便物は“敵国宛”として取り扱いが停止されていました。今回ご紹介しているカバーはそうした時期のもので、差出人戻しとなっています。

 余談ですが、僕の手元には、ほぼ同じ時期にイギリス軍政下のビルマからインド宛に差し出され、無事に宛先まで届けられているカバー(いずれ、機会を見つけてご紹介しましょう)というのもあります。ビルマ→インドの郵便がOKなのに、インド→ビルマの郵便がダメというのも、戦争末期の混乱を示していて、なかなか興味深いですね。
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 リンネ300年
2007-05-23 Wed 00:40
 今日(5月23日)はスウェーデンの生物学者で“分類学の祖”と呼ばれるカール・フォン・リンネの生誕300周年で、わが国の両陛下も、出身地のスウェーデンで行われるセレモニーにご出席なさるそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

スウェーデン王立科学アカデミー200年

 これは、1939年6月2日、スウェーデン王立科学アカデミー200年を記念して発行された切手の1枚で、リンネの肖像が描かれています。

 現在、生物の学名は、属名と種小名の2語のラテン語で表す二名法(または二命名法)によって付けられていますが、これは、ボーアン兄弟の考案した方法をリンネが体系化し、普及させたものです。また、それまでに知られていた動植物についての情報を整理して分類表を作り、生物分類を体系化したこと、種・綱・目・属という分類単位を設け、それらを階層的に位置づけたこと、なども“分類学の祖”としての彼の重要な業績と考えられています。

 余談ですが、ハゼの研究に熱心に取り組まれている今上陛下は、皇太子時代の1980年、“魚類学への貢献”ということでロンドン・リンネ協会の外国会員に名を連ねており(現在は名誉会員)、そのことが、今回のリンネ300年でのご訪欧につながったものと考えられます。

 ちなみに、切手発行の名目となったスウェーデン王立科学アカデミーは、1739年にフレデリック1世が設立したスウェーデン王立アカデミーの1つで、自然科学と数学の発展を目的とした活動を行っています。ノーベル物理学賞・化学賞・経済学賞の受賞者を選考する委員会は同アカデミーの所属ですが、リンネの生物学は入っていません。もっとも、リンネ本人はノーベル賞の創設以前の人ですから、どう頑張ってみたところで、ノーベル賞のもらいようがなかったわけですが…。
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 赤毛の人魚姫
2007-05-22 Tue 01:08
 デンマーク・コペンハーゲンの人魚姫像が、保守的な女性イスラム教徒の象徴とされる丈の長い黒い服とスカーフを着せられ、警察が取り外しに出動する騒ぎになったとか。というわけで、人魚姫がらみの切手ということで、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ベラルーシの人魚姫

 これは、2005年にセルビア・モンテネグロが発行したアンデルセン生誕200年の記念切手の1枚で、アンデルセン童話の定番である人魚姫が取り上げられています。

 標準的な日本人のイメージだと、人魚姫というのは、北欧のイメージもあって金髪碧眼ですが、この人魚姫は赤毛で、しかも、ビジュアル系ロックバンドのようなツンツンとがった頭をしています。(水中で、こういう髪型を維持するのはなかなか大変そうです)

 まぁ、人魚姫というのは架空の存在ですから、画像として表現しようとすると、それぞれの文化的な背景が投影されて、自然とお国柄が反映されてしまうものです。東欧にはバイキングの末裔を自称している国や地域もありますので、ひょっとすると、この切手の人魚姫には、グリーンランドに最初に住んだとされるノルウェー人、赤毛のエリックの伝説のイメージが投影されているのかもしれません。

 僕のブログでも、いままで、本家のデンマークのみならず、中国香港の人魚姫切手を取り上げたことがありますが、国が違えば、ここまで人魚姫の表現も違うのかと驚かされます。

 今回の人魚姫に限らず、“世界中で発行されている”という切手の特性を活かして、共通のお題が国によってどれだけ異なった表現をされているかという点を比較してみると、いろいろと面白いかもしれません。まぁ、このあたりのテーマに関しては、いずれ、なんらかのかたちで原稿としてまとめてみたいな、と前々からぼんやりと考えてはいるのですが…。
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 アラブの都市の物語:アブダビ
2007-05-21 Mon 01:11
 NHKのアラビア語会話のテキスト6・7月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回は、アラブ首長国連邦(UAE)の首都、アブダビを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、このカバー(封筒)をお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

アブダビ切手のFDC

 これは、1964年3月30日に発行されたアブダビ最初の切手が11種貼られた初日カバーです。テキストの図版はモノクロなのですが、ブログではカラーでのご紹介となります。

 1971年にUAEが発足する以前のアブダビでの近代郵便制度は、1960年に沿岸のダス島に暫定的な郵便局が置かれ、現地通過の額面を加刷したイギリス切手が使われるようになったことから始まります。

 当時、イギリスと休戦協定を結んで保護国になっていた“休戦協定諸国(trucial states)”のなかで、アブダビとドバイという“2大首長国”は積年のライバルとしてあらゆる面で張り合っていました。以前の記事でも書きましたが、イギリスが“休戦協定諸国”共通の切手を発行しようとした際「ドバイの風下に置かれるような扱いは真っ平ごめんだ」として、アブダビがその切手を拒否したことは、そうした両者の関係を象徴するエピソードといえます。

 結局、“休戦協定諸国”共通の切手を拒否したアブダビは、1963年3月、アブダビ市内に郵便局を設置。その1周年にあたる1964年3月から、ここに示したような独自の切手を使用しはじめたというわけです。ちなみに、切手のデザインはアブダビ最初の切手。5~30NP(ナイエ・パイサ)切手が首長シャクブートの肖像、40~75NP切手がシャクブートとガゼル、1・2R(ルピー)切手がシャクブートと王宮、5・10切手がシャクブートと油井を背景にしたラクダ、です。

 さて、今回の「切手に見るアラブの都市の物語」では、アブダビそのものの歴史をたどりつつ、今回ご紹介した切手が発行されてから、UAEの結成によりアブダビ切手が消滅するまでのあらましをまとめてみました。ご興味をお持ちの方は、是非、現在発売中のNHKアラビア語会話のテキストをお手にとってご覧いただけると幸いです。

 なお、アブダビを含む“アラブ土侯国”とその郵便の全体像については、拙著『中東の誕生』でもまとめていますので、よろしかったら、こちらもご一読いただけると幸いです。
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 東ティモール5周年
2007-05-20 Sun 01:11
 2002年5月20日に東ティモールが独立してから、ちょうど5周年となりました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

東ティモール

 これは、2002年の独立に際して東ティモールが発行した切手が貼られた書留便で、現地を旅した友人から僕宛に送ってもらったものです。20004年11月17日の首都ディリの消印が押されており、ありあわせの紙にナンバリングの印を押して書留ラベルの代用としています。

 ティモール島は16世紀にポルトガルによって植民地化されました。その後、オランダの進出により同島は分割され、ポルトガルの支配地域は同島東部のみになります。

 第2次大戦中、ポルトガルは中立国でしたが、日本軍はオランダ領東インド(蘭印)地域とあわせてポルトガル領東ティモールも占領します。戦後、日本軍が撤退すると、東ティモールはオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル支配が復活。インドネシアの独立により西ティモールがインドネシア領となった後も、ポルトガルの支配が継続されました。

 1974年、ポルトガルで左翼革命が起こると、東ティモールでは独立の気運が高まりましたが、今度はインドネシアがこれに介入。翌1975年、インドネシア軍が西ティモールから侵攻・占領し、東ティモールの併合を宣言します。その後、インドネシア軍の侵攻については、国連総会では不法占領を非難する決議が採択されたものの、東西冷戦という当時の国際情勢の下で、西側主要国はインドネシアによる東ティモール併合を黙認していました。

 スハルト政権下の東ティモールでは、反インドネシア運動に対して激しい弾圧が加えられ、多くの犠牲者が出たことから、人権団体などはインドネシア政府を激しく非難。1996年には、現地カトリック教会のベロ司教や独立運動家のジョゼ・ラモス=ホルタにノーベル平和賞が授与されています。

 1998年、スハルト政権が崩壊すると、後任のハビビ大統領は東ティモールに関して特別自治権の付与を問う住民投票を実施することで旧宗主国のポルトガルと同意。これにより、1999年8月30日に国連(UNAMET)の監督のもとで住民投票が行われ、独立が事実上決定します。その後も、インドネシア治安当局の影響下にある民兵組織が破壊活動を行うなどの混乱を経て、1999年10月、国連東ティモール暫定統治機構(UNTAET)が発足。2002年5月20日にようやく、正式な独立が達せられました。

 独立後の東ティモールは、日本を含む外国政府や国際機関などの支援で徐々に経済復興が進んではいるものの、経済の自立化はまだまだという状態で、2006年には政府の経済政策に対する不満から大規模なストライキが暴動に発展するなど、その前途は依然としてけわしいといえそうです。
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 参議院60年
2007-05-19 Sat 01:00
 明日(20日)で、参議院創設(1947年5月20日の第1回国会開会)から60周年ということで、昨日(18日)、記念の祝賀会が開かれたのだそうです。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

参議院差出のカバー

 これは、1947年の参議院発足後まもなく、参議院の事務局から議員宛に差し出された封筒です。旧貴族院の封筒の“貴族院”の部部を抹消して、参議院の印を押しているところが、占領下の物不足の時代を象徴していて興味深いと思います。

 宛名の岡本愛祐は1894年、京都府生まれ。1920年に東京帝国大学法学部を卒業し、1923~27年には皇太子時代から即位後間もない昭和天皇の侍従をつとめました。その後、帝室林野局長官を経て、1947年の第1回参議院選挙に当選。1953年まで議員を務めた後、(財)日本消防協会の会長となりました。軟式テニスの普及に尽力したことでも知られています。

 岡本が議員を務めていた初期の参議院は、山本有三をはじめとする無所属議員の緑風会が存在感を示すなど、“良識の府、熟慮の府”としての意義も十分にあったわけですが、現状といえば…。

 安倍首相は今度の参院選の争点の一つに憲法改正問題を取り上げるようですが、いっそ、9条の問題だけではなく、“衆議院のカーボンコピー”とか“盲腸”と揶揄されている参議院そのものの存廃も、議論の俎上に載せても良いのではないかと考えるのは僕だけでしょうかねぇ。
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 切手で世界旅行:ブランデンブルク門
2007-05-18 Fri 00:43
 G8の財務省会議が、今日と明日(18・19日)、ドイツのポツダム近郊で開かれます。これから、30日のG8外相会合を経て来月6~8日のハイリゲンダム・サミットまで、ドイツ各地を各国首脳が歩き回ることになります。というわけで、以前、時事通信社の配信用コラム「切手で世界旅行」(各社での掲載は一通りすべて終わりました)に送った原稿の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ブランデンブルク門

 これは、旧東ドイツ末期の1990年7月2日に発行されたブランデンブルク門を描いた50ペニヒ(1マルク=100ペニヒ)の切手です。

 1989年にベルリンの壁が崩壊した後、東西ドイツの統一は急ピッチで進められ、1990年7月1日には東ドイツでも従来の東ドイツマルク(オストマルク)に代えて西ドイツのドイツマルクが使われるようになりました。今回ご紹介の切手は、これを受けて、東ドイツ郵政が新通貨に対応すべく発行したもので、国名表示も「ドイツ民主共和国」またはその略称であるDDRではなく「ドイツ郵政」となっています。

 切手では、門の向こう側の木立がうっすらと描かれていますが、これは“壁”が崩壊して、向こう側が見えるようになったことを示すための演出でしょう。

 なお、東ドイツ国家は1990年10月3日に西ドイツに吸収・合併されて消滅しますが、統一に伴う経過措置として、この切手はその後も1991年3月末までは旧東ドイツ内の郵便局で販売され、同年末までは郵便に使うことも可能でした。

 ブランデンブルク門といえば、僕個人は、ちょうど、壁の崩壊と通貨統合の間の時期にあたる1990年6月に、現地を旅していました。周囲では「ベルリンの“壁”の破片」をお土産に売っていましたが、色の着いていないコンクリートにその場でペンキのスプレーで彩色している“製作現場”を目撃してしまったので、作り物は買いませんでした。その代わり、壁の跡地に転がっていた瓦礫を幾つか拾ってきて(勿論タダ)、「これがホンモノの壁のカケラだよ」といって、何人かの親しい知人に配ったことがあります。もっとも、自分用に取っておいたはずのカケラは、いまや、どこに行ってしまったのか、全くわからなくなっていますが…。
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 鉄馬は走りたい
2007-05-17 Thu 00:45
 韓国と北朝鮮をつなぐ鉄道、京義線(ソウル=新義州間のうちの汶山=開城間)と東海線(釜山=元山間のうちの猪津=金剛山間)で今日(17日)、軍事境界線を越えて試験運行が行われます。南北の鉄道が結ばれるのは朝鮮戦争中の1951年6月以来のことです。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

民族統一祈願

 これは、国連加盟を目前にした韓国が1991年9月11日に発行した“民族統一祈願”と題する切手で、再開して抱き合う離散家族を背景に、臨津閣に展示されているSLが取り上げられています。

 臨津閣は、ソウル市庁から北西方向約54キロ、板門店からは南側14キロの地点にあり、1971年の南北共同声明を受けて建築が始められ、6000坪の土地に地下1階、地上3階の建物が建設されました。北朝鮮地域を見ることのできる展望台のほか、北朝鮮に関する各種資料を展示した北韓館(1980年5月30日)と、朝鮮戦争時に使われた戦車や飛行機などを展示している屋外展示場があります。

 さて、問題のSLですが、臨津閣では「鉄馬は走りたい」との有名なフレーズと共に展示されたもので、南北分断によって新義州への鉄道が走行不能となったことを象徴的に示すモニュメントになっています。

 もっとも、臨津閣内の展示はシンボリックなもので、実際の鉄道中断点は、京元線(本来はソウルと北朝鮮の元山を結ぶ鉄道)の新炭里駅にあり、同駅のホームには「鉄道中断点 鉄馬は走りたい」の看板がかけられています。

 さらに、軍事境界線に近い南方限界線(軍事境界線の南北2キロに設けられた非武装地帯の南側で、韓国側が武器を置くことのできる最北端の地域)には、旧月井里駅(現在は、当然のことながら、鉄道の駅としては機能していない)が再現され、戦争で破壊された客車の残骸と、おなじく「鉄馬は走りたい」の看板が掲げられています。

 一方、背景に取り上げられた写真は、“光復40周年”を記念して1985年9月に離散家族の再会が実現した際に撮影されたものでしょう。

 1991年の南北国連同時加盟を目前に控えた時期に、こうした切手が発行された背景には、南北が別個に国連に加盟することによって、南北の分断が完全に固定化されるのではないかとの世論の批判をかわそうという狙いがあったものと考えられます。

 すなわち、韓国と北朝鮮との格差があらゆる面で埋めがたいものとなっているという現実を踏まえて、1989年9月、当時の盧泰愚政権は「韓民族共同体統一方案」を発表。最終的に朝鮮半島に一つの民族共同体を建設するにしても、“統一”は漸進的・段階的に進めるべきで、そのためには、まず、南北が敵対と不信、対立関係を清算し、相互信頼の中で南北和解を制度的に定着させていきながら、実質的な交流協力を通じて和解と共存を追及していくことが必要であるとの立場を明確にしています。

 要するに、朝鮮半島に南北二つの政府があるという現実を前提にその宥和を図ろうというもので、南北が別個に国連に加盟するという方針もその延長線上にあったことはいうまでもありません。

 しかし、南北両政府の国連加盟に関しては、韓国民の間でも、分断を固定化し、“統一”という民族の悲願をないがしろにするものではないかとの批判が少なからずありました。このため、政府としては、国連への加盟が、ただちに、究極の国家目標としての“統一”を放棄したことにはつながらないことを示さざるを得なくなり、いささか唐突に、このような切手を発行する必要に迫られたというわけです。

 今回の鉄道連結に関しては、2000年7月の第1回南北閣僚級会談で、両国が連結の方針で一致し、2002年9月から工事が開始、翌2003年に線路の連結が完了していたものの、北朝鮮側が安全運行に必要な軍事保障措置締結に同意しなかったことから、実現に時間がかかったものです。

 太陽政策を掲げる盧武鉉政権としては、鉄道連結によって南北の宥和ムードを盛り上げたいのでしょうが、そもそも、国内での国民の自由な移動を認めていない北朝鮮が相手のことですから、試験運行が本格運行に変わるには、まだまだ相当の紆余曲折は避けられません。まぁ、例によって、大統領閣下の“お遊び”の域を出ないような気がするのは、多分、僕だけじゃないでしょう。
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 建設の風景:子供の家(西ドイツ)
2007-05-16 Wed 00:43
 ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の5月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、こんなモノを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ドイツ・児童福祉

 ドイツでは例年、児童の保護と福祉を呼びかけるキャンペーン切手を発行していますが、旧西ドイツ時代の1989年8月に発行されたのが、この1枚です。切手右側のドイツ語“KINDER GEHOREN DAZU”は、「子供のことを忘れないで」という程度の意味だと思いますが、ドイツ語に詳しい方にもっと良い訳を教えていただけたら幸いです。

 切手は、家を建てる子供たちの姿を絵本風のタッチで描いたもので、なんともかわいらしいデザインです。

 男の子がネコ車に石のブロックを載せて運び、それが女の子から別の男の子に受け渡されて、積み上げられています。積み上げる石を固定するためのセメントは、画面左手前の女の子が捏ねて塗るのでしょう。

 積み上げられたブロックの上では女の子が梁に釘を打ち、足元の男の子はサングラス姿で図面を引いています。背後の女の子は自分の身長よりも長い材木を抱えて重そうな感じです。

 8人の子供たちが力をあわせてできあがるのは、さてさて、どんな家なのでしょう。見ている僕たちも、なんだかワクワクしてきませんか?
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 沖縄復帰35年
2007-05-15 Tue 00:51
 沖縄が復帰してから、今日(5月15日)でちょうど35年だそうです。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

沖縄復帰

 これは、1972年5月15日の沖縄復帰に際して発行された記念切手です。

 沖縄の本土復帰にあわせて記念切手を発行することは、返還交渉が進められていた段階ですでに計画が進められていたようですが、復帰の正確な日時がなかなか決まらなかったため、発行日の確定も難しかったようです。

 結局、1972年1月8日、アメリカ西海岸のサクラメント近郊・サンクレメンテでの日米首脳会談の後に出された佐藤・ニクソン共同声明によって、5月15日が沖縄復帰の期日と決められたことを受けて、発行日が確定しました。

 切手のデザインは大塚均が担当したもので、守礼門を中心に紅型模様が配されています。

 守礼門は“うえのとり”とも呼ばれ、尚清王の時代(1527-53)に首里城の中山門と正門の中間に建設されました。門に掲げられた扁額は、当初、“首里”となっていましたが、1663年に“守禮之邦”となったため、守礼門の名がつきました。中国とも日本とも異なる独特の琉球建築であることから、1933年、日本政府によって国宝に指定されましたが、第二次大戦の沖縄戦で焼失。このため、1956年2月から守礼門復元期成会の努力により、戦前の設計書や写真を元に復元作業が行われ、1958年10月15日に完成しました。その完成を記念して発行された沖縄切手が、切手投資センターによる沖縄切手投機の対象となり、一時的に市価が吊り上げられたことを思い出される方も多いかもしれません。

 一方、紅型は琉球王朝時代から首里に伝わる伝統的な染色技法のひとつで、“紅”は色全般を、“型”は型絵染の型紙を指しているとされています。

 琉球王朝時代は王侯貴族の衣装として染められましたが、明治維新に伴う琉球処分で王朝が廃されると王家の庇護を失い衰退。さらに、沖縄戦で壊滅的な打撃を受けました。しかし、戦後のアメリカ施政権下で城間栄喜らの努力によって復興され、現在では琉球の伝統文化を象徴するものとして現地では日常生活でも広く用いられています。技法にとしては、一般的な型染め、筒書き、藍染め(漬染め)がありますが、型染めでは型の上から色を挿すのではなく、糊を置くのが大きな特徴です。切手に取り上げられている紅型模様では、水に桜と牡丹の花が図案化されています。

 ちなみに、沖縄の復帰記念事業の一つとして、1972年11月26日から沖縄県糸満市にある摩文仁の丘(沖縄戦終結の地とされている)で沖縄復帰記念植樹祭が行われましたが、これにあわせて記念葉書も発行されています。
 
 なお、今回の切手とその時代背景については、拙著『沖縄・高松塚の時代』で詳しくまとめておりますので、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 国民投票
2007-05-14 Mon 00:37
 今日(14日)の午前中にも憲法改正手続きを定める国民投票法が参議院で可決・成立するのだそうです。

 というわけで、“国民投票”がらみということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

南ベトナム国民投票

 これは、1955年、当時の南ベトナムで行なわれた国民投票の際の郵便用の投票用紙です。

 第2次大戦後、ベトナムの独立をめぐって戦われた第1次インドシナ戦争は、1954年7月21日にジュネーブ協定が調印され、ベトナムは共産主義国家の北ベトナムと、親西側陣営の南ベトナムにベトナムを一時的に分割されます。ジュネーブ協定では、1956年7月に自由選挙を行い、南北統一の中央政府を樹立することを定めていましたが、この協定に調印したのはフランスと北ベトナムのみで、統一選挙を行なえば勝ち目がないと考えていたアメリカと南ベトナムは調印を拒否します。

 その後、南ベトナムの国家元首であるバオ・ダイは、首相にゴ・ディン・ジエムを任命しましたが、アメリカの支援を受けたゴ・ジン・ジェムは、1955年に国民投票を行なってバオ・ダイを免職し、ベトナム共和国の設立して自らが初代大統領に就任してしまいます。以後、これに反対して南ベトナム政府の打倒を目標とする南ベトナム解放戦線(ベトコン)によるゲリラ活動が活発化し、南ベトナムの内戦から第2次インドシナ戦争が導かれていくのです。

 さて、今回ご紹介しているのは、その1955年の国民投票のときのもので、投票部分を折りたたんで料金無料でゴ・ジン・ジェム宛に送ることが出来るようになっています。裏面には、投票にかける3項目について、それぞれ、Yes-Noを選べるようになっています。ただし、このマテリアルに関しては、実際には投票に用いられていません。まぁ、実際に使われたものが市場に出回ったら、それはそれで大変なことなので、いたし方のないことではあるのですが…。

 なお、この時期の南ベトナムの切手や郵便については、拙著『反米の世界史』でもいろいろとご紹介していますので、もしよろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
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 悲母観音・ヒゲ観音
2007-05-13 Sun 00:38
 今日は母の日。というわけで、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

悲母観音

 これは、1979年5月30日に「近代美術シリーズ」の第1集として発行された「悲母観音」の切手です。

 悲母観音は、この世に生を受けた子どもたちの健やかな成長を願う観音様で、各地の観音像の台座内にヘソの緒を納めておけば成長を見守ってもらえるといわれています。

 切手に取り上げられた「悲母観音」は、狩野芳崖の絶筆にして最高傑作とされる作品で、“母の慈しみを感じさせる作品”と紹介されることも多いようです。

 そういうわけで、画面に描かれている観音様が“母”を意味する女性であるかのように錯覚してしまいがちですが、実はこの観音様、男性なのです。その証拠に、お顔にはしっかりとヒゲがかかれています。

 その昔、「うちの女房にゃ髭がある」という歌(作詞は星野貞志の名前でサトウハチロー、作曲は古賀政男というのが、なんか意外ですが)がありましたが、さすがに母親にひげが生えていたら普通は厭だなぁと思いますよね。もちろん、ヒゲのある女房も厭ですが。

 そういえば、シュール・レアリズムの巨匠、サルバトール・ダリの有名な作品に、モナリザの複製にヒゲを描き込んだものがありましたが、その翌年、ダリは複製を何も手を加えずに「ヒゲを剃った女」との題名をつけて発表したことがあるとか…。

 さて、前々からこのブログでもお話していますが、僕は2001年から<解説・戦後記念切手>という戦後記念切手の“読む事典”のシリーズを刊行しているのですが、今年3月に刊行のシリーズ第5巻『沖縄・高松塚の時代』では、今回ご紹介の近代美術シリーズの前までたどり着きました。というわけで、次回作シリーズ第6巻の冒頭は今日の切手を取り上げることになります。

 まだ第5巻が出たばかりですので、第6巻の刊行はしばらく先のことになると思いますが、気長にお待ちくださいまし。
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 KGVI
2007-05-12 Sat 00:36
 今日(5月12日)は、いまからちょうど70年前にイギリスのジョージ6世(エリザベス女王の父君。KGVIと略されることもある)が戴冠式を行った日だそうです。といっても、戴冠式の記念切手は以前の記事でご紹介してしまいましたので、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

イギリス・切手100年カバー

 これは、1940年5月に発行されたイギリスの切手100年の記念切手が貼られたカバーです。切手は、最初の切手のヴィクトリア女王と当時の国王のジョージ6世をならべて1840と1940の文字を配したシンプルなデザインになっています。

 ジョージ6世は、1936年12月、いわゆる“王冠をかけた恋”で兄エドワード8世が退位したため、急遽、国王として即位しましたが、その際、「これはひどいよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。」とぼやいていたそうです。

 しかし、即位後は、国王としての義務と責任を誠実に実行。 特に第2次世界大戦では、ロンドンから疎開せずイギリス国民の先頭に立ってドイツ軍の空襲に耐え、ドイツ軍による空襲の被災地を訪問して親しく国民を慰めました。このことが、イギリス国民を大いに勇気づけ、国土は疲弊しながらも戦勝へと精神的に導いたと評価されています。

 今回ご紹介のカバー(封筒)は、戦時下の1940年6月に差し出されたもので、“HELP TO WIN ON THE KITCHEN FRONT”とのスローガンの入った印が押されています。また、「すべては私しだい」というスローガンの入ったユニオンジャックのラベルが貼られているのも、戦時下という当時の世相を象徴したものと言ってよいでしょう。

 ジョージ6世の治世は、ちょうど第2次大戦の前後をカバーしているので、いろいろと面白いマテリアルが沢山あります。いままで、このブログでご紹介したものだけでも、たとえば、こんなモノだとかこんなモノこんなモノこんなモノ・・・といった具合に、さまざまなマテリアルがすぐに出てくるぐらいで、僕にとっては、下手するとエリザベス女王よりも顔なじみの王様といっても良いかもしれません。

 もちろん、6月末の刊行を目指して現在制作中の『香港歴史漫郵記』でも、ジョージ6世の切手やカバーはいろいろと面白いものを取り上げていますので、刊行の暁には、ご覧いただけると幸いです。

 なお、今日ご紹介のカバーに関しては、拙著『これが戦争だ!』でも取り上げています。よろしかったら、こちらも是非、ご一読ください。
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 美人救出!
2007-05-11 Fri 00:36
 奈良県明日香村、高松塚古墳(8世紀初め)の石室解体で、昨日(10日)午後、西壁壁画“飛鳥美人”が無事に取り外されました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

高松塚・婦人像

 この切手は、1973年3月26日に発行された「飛鳥地方における歴史的風土および文化財の保存等に必要な資金に充てるための寄附金つき郵便切手」の1枚で、飛鳥美人が取り上げられています。なお、切手の正式名称があまりにも長いので、通常は、“高松塚(保存基金)”と略して呼ばれています。

 1972年3月に高松塚古墳が発見されると、森山欽司 を会長とする国会フィラテリスト議員連盟(切手収集家の議員の集まり)の議員たちが「世紀の発見」と騒がれた壁画をデザインした切手の発行に向けて動き出します。

 もともと、切手発行の話は、議員連盟の懇談の中で、議員たちが日本切手のデザインについて不満をもらしたところから、「それなら高松塚の壁画を切手にしたらどうか」とのアイディアが浮上。出席した議員がこれに賛意を示し、「どうせ出すなら寄付金つきにして飛鳥保存財団 をバックアップしては」ということで衆議が一決し、郵政省との折衝が始まりました。

 これに対して、郵政省側は、寄付金つき切手は概して売れ行きが悪く、販売のための事務手続きも煩雑になるという事情に加え、高松塚切手の発行が先例となって、政治化の圧力による記念切手発行に歯止めがかからなくなることを懸念して、「印刷局の製造ラインに余裕がないから…」などと理由をつけて抵抗しました。

 このため、議員連盟側は印刷局に直接問い合わせて高松塚切手の製造が可能であることを確認。1972年6月、自民党政調会通信部会での承認を得て、「飛鳥地方における歴史的風土および文化財の保存等に必要な資金に充てるための寄付金つき郵便切手等の発行の特例に関する法律案」を成立させ、切手発行を実現しました。

 当初、郵政省のプランでは高松塚の史跡保存費用の一部に充てるという趣旨から、20円切手1種2000万枚を発行し、その利益金1億円を飛鳥保存財団に寄付することが計画されていました。

 これに対して、寄附金の助成を受ける飛鳥保存財団は、高松塚古墳保存のため①古墳周辺の土地1万3200平方メートルを買い上げる、②見学者用に実物大の古墳の模型を作る、③駐車場とPR施設を作る、などの事業計画4億円の全額を切手の寄附金で賄いたいと郵政省に要請。これを受けて、地元選出の国会議員が郵政省の事務当局に猛烈な圧力をかけた結果、郵政省は、捻出すべき寄附金4億円から逆算して、10円の寄附金をつけた50円切手1500万枚と5円の寄付金をつけた20円切手2種各3000万枚を年度末の1973年3月に発行することを決定しました。

 古墳の保存費用の全額を切手による寄附金でまかなうことは、文化行政のツケを国民に回すものという批判も根強かったのですが、実際に切手のデザインが発表されると、おりからの高松塚人気もあいまって、切手の申込が殺到。そうした批判が完全に吹き飛んでしまいます。結局、郵政省は、20円切手2種をそれぞれ2010万枚、50円切手を530万枚増刷し、3種あわせた最終的な発行枚数は1億2050万枚(寄附金総額は7億4000万円)に達しています。

 さて、1973年の切手は発見当時の壁画の様子を再現したものですが、今年4月の文化庁の発表によると、現在の“飛鳥美人”は、こんな状態だそうです。

高松塚現状

 うーむ。なんとも痛ましい。切手に取り上げられた美しい姿が頭の中にこびりついている者としては、明日完了予定の救出作業が、ともかくも無事に成功し、壁画が再び美しい姿に戻ることを祈るばかりです。
  
 なお、高松塚の切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』で詳しくご紹介していまので、是非、そちらもご一読いただけると幸いです。
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 英雄/テロリスト図鑑:カスパロフ
2007-05-10 Thu 10:28
 『SAPIO』5月23日号が発売になりました。僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、先日、反プーチン・デモに参加して、“大衆煽動”の罪で逮捕されたチェスの元世界王者、ガルリ・キモビッチ・カスパロフを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

カスパロフ

 1980年代から21世紀初頭にかけて“人類最強のチェス・プレイヤー”の名をほしいままにしたカスパロフですが、政治との関わりは、ソ連時代の1984年、20歳そこそこでソ連共産党への入党資格を与えられたことに始まります。その後、1987年にはコムソモール(共産主義青年同盟)の中央委員にもなったものの、1990年、共産党を脱党し、ロシア民主党の結成に参加。さらに、ソ連崩壊後の1993年6月には、リベラル派の政治ブロック“ロシアの選択”の結成にもかかわり、エリツィン政権を支える急進改革派として政治活動を展開します。

 カスパロフの思想信条は、ロシアを全体主義国家に戻してはならないというもので、当然のことながら、強権的なプーチン政権とは対立。2005年にチェスの世界から引退した後は、社会運動組織として市民連合戦線を組織し、政権批判の急先鋒となりました。そのせいか、2005年4月、モスクワでのイベントで、政治活動から身を引くよう要求する男に襲われるという事件も起きています。

 その後、カスパロフは、2007年3月にはサンクト・ペテルスブルクでの反プーチンデモに関わり、数千人の市民を動員する上で重要な役割を果たしたほか、4月14日にはモスクワでの反プーチンデモの先頭に立つなど、反プーチンの闘士として積極的な活動を展開。その結果、彼は4月15日には治安当局に身柄を拘束され、10時間後、1000ルーブル(約5000円)の罰金を払って釈放されています。

 現在のロシアでは、2006年3月に「大統領が、反ロシア的な姿勢を示す国外のテロリストやテロ組織を攻撃、殲滅することを軍に命じることができる」という反テロ法が施行されたことにくわえ、同年夏には、“反ロシア的”な言論活動や扇動を行った者を“過激派”として懲役刑に処すことも可能となりました。

 したがって、カスパロフのようにプーチン大統領を“モスクワのムッソリーニ”と痛罵し、現政権に対する批判活動を大っぴらに展開している人間は、ロシア政府から見れば、立派な“過激派”であり、テロリスト予備軍ということになるのでしょう。

 ちなみに、ご紹介している切手は、カスパロフが世界チャンピオンとなったことを受けて、1986年に北朝鮮が発行したもので、元チャンピオンのカルポフ(左)とカスパロフ(右)の試合の場面を描かれています。当時、北朝鮮を初め、外貨稼ぎを兼ねて、東側諸国はソ連との友好関係をうたいあげるため、若きソ連のチャンピオンをたたえる切手をこぞって発行していましたが、これもその1枚です。もっとも、カスパロフは現在では“独裁体制反対”の急先鋒になっていますから、北朝鮮当局もおそらく彼のことを好ましからざる人物と見ているんじゃないかと思います。

 PS そういえば、明日(5月11日)は、いまからちょうど10年前の1997年、IBMのコンピューターディープ・ブルーが史上はじめてチェス世界チャンピオンのガルリ・カスパロフを破った日だそうです。

 【いよいよ飛鳥美人の救出開始!】
 今日(5月10日)の午後、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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 中共の松明
2007-05-09 Wed 01:41
 台湾オリンピック委員会が2008年の北京五輪の聖火リレーの台湾通過を拒否した件で、世論調査の結果、“聖火の台湾通過によって台湾の主権が矮小化されるとしたら”という条件付ながら、聖火を受け入れるべきではないとの回答が6割を越えたそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

山東解放区

 これは、日中戦争下、山東抗日根拠地(山東省の中国共産党支配地域)で発行された切手で、抗日戦争のシンボルとしての松明が描かれています。

 山東抗日根拠地では、1942年7月以降、この地域の郵便を管轄していた山東戦時郵政総局(戦郵総局)が石版印刷の切手5種類を発行し、使用しています。切手の額面は、当時、山東省を中心に流通していた北海幣(1941年4月に設立した北海銀行券)でしたが、重慶国民政府の法幣も北海幣に対して1割引のレートで切手を購入することができました。

 当初、これらの切手には“総局之章”の小印が押されることになっていましたが、戦時ゆえ、末端ではさまざまな混乱がありました。特に、同じ山東省内でも、地域によって北海幣と法幣の交換レートに大きな差が生じるようになったことから、1943年7月、北海幣に“膠東”、“渤海”の文字を加刷してそれぞれの使用地域が限定されるようになると、切手にも、それに対応して“膠東”、“渤海”の文字がそれぞれの地域で加刷されることになりました。なお、こうした地名加刷の切手は、加刷文字が読みづらくなることを避けるため、“総局之章”の印は押されていません。

 今回ご紹介の切手は、そのうちの“膠東”の文字が加刷されたモノで、額面の5分は1944年8月までの書状基本料金に相当しています。加刷の文字がつぶれていて読みにくいのが難点ですが、まぁ、勘弁してください。

 2008年のオリンピックの聖火リレーに関しては、聖火のチベット通貨が計画されるなど、中国政府はこれをプロパガンダ政策の一環として最大限に活用しようとしているわけで、当然、なんらかの形で記念切手が発行される可能性は高いと思います。僕は、現在の中国政府のチベット政策・台湾政策は絶対に支持しませんが、彼らがチベットと聖火の松明をどのように組み合わせて描くだろうかという点には興味を持っています。まぁ、さすがに、抗日ネタも一緒くたにして、チベットの風景を背景に今回の切手を組み合わせたデザインということにはならないと思いますが…。

 【いよいよ明日、飛鳥美人の救出開始】
 明日(5月10日)、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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 フランスの初代大統領
2007-05-08 Tue 00:41
 フランスの大統領選挙はサルコジ前内相の勝利で終わりました。というわけで、今日はフランス大統領がらみということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ナポレオン3世カバー

 これは、幕末の1867年11月、横浜から差し出されたカバーで、皇帝ナポレオン3世の切手80サンチームと40サンチーム、計1フラン20サンチーム相当が貼られています。

 ナポレオン3世ことシャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルトは、周知の通り、ナポレオン・ボナパルトの甥で、第2共和政下の1848年12月、対抗馬のカヴェニャック将軍に圧勝してフランス共和国の初代大統領に当選しています。その後、大統領として権力を蓄えた後、1851年12月2日にクーデタを起こし、翌1852年には国民投票を経て帝政を開始してナポレオン3世となりました。今回のカバーに貼られている切手は、帝政時代に発行されたものです。ホントは大統領時代の“REPUB FRANC”と表示されたものを持ってこれれば良かったのですが、まぁ、勘弁してください。

 さて、このカバーは、1867年11月、幕末の横浜からスイス北西部のヌーシャテル宛に差し出されたもの。フランス船ファーズ号で運ばれており、菱形に錨の入った印と、1867年11月15日の船内印(八角形でYOKOHAMAの表示がある)が押されています。差出人のシボーヌはスイス出身の絹商人で、このカバー同様、夫人宛のカバーが相当数残されています。

 このカバーは、2004年の<JAPEX>で、日本とスイスの国交140周年を記念してのスイス特集をやった際、“幕末の日本からスイス宛のカ郵便物”という触れ込みで、にぎやかしに展示したものですが、それ以来、なかなか表に出す機会がありませんでしたので、今日は虫干しを兼ねて、ご紹介してみました。

 【飛鳥美人の救出まであと2日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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 トルコの世俗主義
2007-05-07 Mon 01:47
 昨日(6日)、トルコ国会の大統領選挙(国会で選出される国家元首だが、政治的な権力者というより名誉職的な色彩が強い)で、唯一の立候補者でイスラム色が強い公正発展党(AKP)のギュル外相が立候補を取り下げ、選挙が事実上、頓挫しました。これは、政教分離の原則が揺らぐことを懸念する野党陣営の大半が投票をボイコットし、投票成立要件である定数の3分の2(367人)に満たない358人しか議員が出席しなかったことが原因です。

 このニュースを聞いて思い出したのが、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

トルコ交通安全

 これは、1977年にトルコで発行された交通安全のキャンペーン切手で、事故で引っくり返った自動車が描かれています。この切手でご注目いただきたいのは、車のナンバープレートです。

 実は、このとき発行された切手は、当初、ナンバープレートがアラビア文字の数字で書かれていたのですが、そのことが“言語純化政策”に触れて、急遽、プレートの部分をラテン文字のアルファベットに置き換えた切手が発行されました。今回、ご紹介しているのは、そのラテン文字バージョンのほうです。

 言語純化政策というのは、ケマル・アタテュルクによって開始されたトルコ語の固有語復活とアラビア語、ペルシア語からの借用語の除去によってトルコ語の純化を行おうとする運動のことで、文字改革によるアラビア文字の禁止とラテン文字の採用も含まれています。

 1923年にトルコ共和国を建国したケマルは、独裁的な指導力を行使して大胆な欧化政策を断行。イスラム勢力を一掃し、1928年には憲法からイスラムを国教と定める条文を削除することに成功します。言語純化政策もその一環として行なわれたもので、アラビア文字はイスラムと結びつきやすいとして廃止されました。

 その後も、トルコではイスラム勢力が政治的な影響力を増大させることへの懸念から、徹底した政教分離政策が国是となっており、切手に描かれたわずかなアラビア文字も容赦なく排除されてしまったというわけです。

 もっとも、トルコ国民の99%はイスラム教徒なわけで、そういう国でイスラムを問答無用で公の場から排除してしまうことが妥当なことなのか、疑問がないわけではありません。実際、イスラム主義政党のAKPは2002年の選挙の結果、単独与党になっているのですが、現職のセゼル大統領や参謀総長を始めとする軍部、検察・憲法裁判所などの世俗主義エスタブリッシュメント層は、明らかに職権の範囲を越えて政権への批判・介入を行なっており、このことがトルコの政局を不安定にしていることは否定できません。

 まぁ、“政教分離”をめぐる議論というのは、どの国においても一筋縄では行かないものですが、切手を通して各国の事例を眺めていくようなことができれば面白いでしょうね。

 【飛鳥美人の救出まであと3日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。

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 続・外国切手の中の中国:最終回
2007-05-06 Sun 00:49
 ご報告が遅れましたが、日本国際貿易促進協会の発行する週刊紙『国際貿易』の4月24日号に、僕の担当する「世界の切手で見る中国」の第6回目(最終回)が掲載されましたので、ご報告いたします。今回取り上げたのは、こんな切手です。(画像はクリックで拡大されます)

日中海底ケーブル

 これは、1976年10月25日に発行された「日本・中国間海底ケーブル開通」の記念切手です。

 1972年の日中国交正常化後、日中間の通信量が増大することが予想されたため、既存の電気通信施設、衛星通信路(東京=北京間、東京=上海間)、バックアップ用の短波無線連絡に加えて、海底ケーブルが敷設されることになりました。このため、1973年5月4日に日本の郵政省と中国の電信総局の間で「日本・中国間海底ケーブル建設に関する取極」が取り交わされます。これは、国交正常化後、日中間で結ばれた最初の「実務協定」でした。

 通常、国際通信回線の建設工事に関しては、事業者(当時は国際電信電話会社=KDD、現・KDDI)が郵政大臣の認可を受けて相手国の建設業者と協定を結ぶことになっていますが、今回は、具体的なケーブル建設保守協定をKDDと締結するための前提として、両国の電気通信主管庁間で基本的な了解を取りまとめておきたいとの中国側の意向により、こうした変則的な形式が取られています。また、この「取極」は実質的には二国間協定と同等のものでしたが、「協定」は外務省の所管で国会承認も必要なことから、スムースな回線工事の実施のため、あえて、協定ではなく、取極という形式が取られました。

 この取極を受けて、実務担当者としてのKDD(国際電信電話会社、現・KDDI)と上海郵電管理局が1974年5月に建設保守協定を締結。以後、本格的なケーブル工事が始まります。

 その結果、建設費用60億円をかけて、熊本県天草郡苓北町=上海市南匯間の約850キロを結ぶ電話480回線のケーブルが敷設され、1976年10月25日に開通式典が両国で開催されました。

 今回ご紹介の記念切手は、この開通式典にあわせて発行されたものです。なお、この切手の詳細については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも解説していますので、是非、ご覧いただけると幸いです。

 さて、2005年4月~2007年3月号の2年間にわたってNHKラジオ中国語講座のテキストで続けていた「外国切手の中の中国」の続編としてスタートした「世界の切手で見る中国」も、今回で最終回となりました。いままでご愛読いただきました皆様には、この場をお借りして、お礼申し上げます。

 【飛鳥美人の救出まであと4日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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 かわいげのない子供
2007-05-05 Sat 00:39
 今日はこどもの日です。というわけで、単純素朴にこんな切手を持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

世界こどもの日

 これは、1956年5月5日に発行された「世界こどもの日制定」の記念切手です。

 世界こどもの日というのは、1954年11月、「あらゆる国によって、児童間の世界的友愛および理解、ならびに(国連)憲章の理想および目的、世界児童の福祉の増進、かつ、世界のあらゆる児童のために国連が行う努力の強化および拡充に貢献する活動の日」として定められたもので、1956年から各国で実施されています。

 わが国では、外務省と厚生省との協議の結果、“こどもの日”である5月5日を“世界こどもの日”とし、1956年以降、関係官庁や民間団体でしかるべき行事が行われることになりました。今回の切手は、その第1回を記念して発行されたものです。

 さて、実際に発行された切手の子供は、なかなか、時代を髣髴させるかわいらしい顔で描かれていますが、もともと、新聞などに発表された原画はこんな感じでした。(『切手』紙より)

世界こどもの日(原画)

 この原画について、当時、郵政審議会の専門委員だった三井高陽は「男の子の目が鋭すぎてフイリツピンやインドネシヤの子供のように見えるから、もつと目をやさしくして日本人らしくするように」と注文をつけています。また、この原画が新聞などで発表されると、「以前に発行された子供関係の切手に比較してなんと可愛らしくない表情であることか」(阿部俶彦)と感想を述べる収集家も少なからずいたようです。

 それにしても、フィリピンやインドネシアにだって、かわいらしい子供は沢山いると思うのですが、当時の日本人のイメージでは、どうもそうではなかったみたいですね。

 なお、この切手の詳細については拙著『ビードロ・写楽の時代』でまとめています。同書は現在、版元品切れですが、先ほどの時点ではアマゾンでは中古を含めて入手が可能でした。じっさい、一部では、同書は定価以上で取引されていることですし、版元の日本郵趣出版さんには、是非とも、重版をかけていただきたいものです。

【飛鳥美人の救出まであと5日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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 18万アクセス
2007-05-04 Fri 15:40
 つい先ほど(午後2時過ぎ)、韓国から戻ってきて自分のブログをチェックしたら、昨日のうちにアクセスカウンターが18万を越えていました。というわけで、韓国から帰ってきて、また頭を『香港歴史漫郵記』の制作モードに切り替えるリハビリを兼ねて、“18”がらみの切手としてこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

18歳の孫文

 これは、昨年(2006年)、香港が発行した孫文生誕140周年の記念切手の1枚で、18歳の時の孫文の肖像が取り上げられています。

 以前の記事でもちょっと書きましたが、1866年、広東省香山県(現中山市)の農家に生れた孫文は、12歳のとき、兄を頼ってハワイへ渡り、彼の地のキリスト教系の学校に通っていたものの、息子のあまりの“西洋かぶれ”を心配した両親によって17歳のときに故郷に呼び戻されてしまいます。

 帰郷の途中、香港で両親に無断でキリスト教に改宗した彼は、当然のことながら、保守的な地元社会とさまざまなトラブルを起こし、最終的に、村人の信仰の対象であった北帝廟(悪魔の王を倒して神の称号を与えられたとされる北帝を祀った廟)の神様を単なる“土人形”と罵り、その腕をもぎ取ってしまいます。このことが原因で村にいられなくなった彼は、学校に行くという名目で香港に逃れることになりました。

 今回の切手の写真は、香港でキリスト教に改宗した直後のもので、なかなかの男前です。

 孫文の生涯を冷静に振り返ってみると、大法螺ふきで怪しげなヤクザモノと付き合い、武装蜂起をやれば悉く失敗、女性関係も派手で癇癪持ち、オマケに彼が掲げる三民主義はエリート意識丸出しの独裁体制論…といった具合に、我々の通常の常識で考えると、どうしようもないろくでなしにしか思えないのですが、そんな彼が中華世界で絶大な人気を誇っている一つの大きな原因が、その“イケメン”ぶりにあるのではないかと僕は考えています。(別に、自分が不細工だから僻んでいるわけではありません。念のため)

 たとえば、ハバロフスク近郊で軍事訓練を受けていた金日成が、1945年の解放後、突如戻ってきて北朝鮮の最高権力者になれたのは、ソ連の後押しがあったことが最大の要因ですが、彼が伝統的な朝鮮の感覚に照らして美丈夫だったという点も見落としてはなりません。

 ちなみに、中国の切手には、孫文と同時代の革命の指導者(烈士)が少なからず取り上げられていますが、それらを見ると、孫文の2枚目ぶりは際立っています。やっぱり、ちょっと前のベストセラーのタイトルじゃないですが、『人は見かけが9割』ということなんでしょうかねぇ。それなら、いっそ、『テロリスト図鑑』とは別に、世界の独裁者たちの若い頃の肖像を取り上げた切手を集めて『独裁イケメン図鑑』なんて本を作ってみようかなと考えてしまいます。

 なお、今回ご紹介の切手と同時に、中国香港では、香港内の孫文ゆかりのスポットの地図を取り上げた小型シートも発行されています。6月下旬刊行予定の『香港歴史漫郵記』では、その地図に描かれたポイントを歩く“香港・孫文ツアー”の話も取り上げる予定です。

 【飛鳥美人の救出まであと6日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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 憲法施行60年
2007-05-03 Thu 00:31
 今日(3日)は憲法記念日。しかも、今年は憲法施行から60周年ということなので、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

憲法施行カバー

 これは、1947年5月3日に発行された「日本国憲法施行」の記念切手2種を貼って、切手発行日に中国東北の哈爾浜宛に差し出されたカバー(封筒)です。ただし、当時はすでに国共内戦が激化していたため、このカバーも長春までは運ばれたものの、そこから先へ運ぶことはできず、「郵路被阻 退回原寄」との印が押されて差出人戻しとなっています。

 なお、戦後、外国郵便が再開された後、1947年7月31日までは日本から中国・朝鮮宛の郵便物は国内料金と同額であったため、このカバーの料金も1円20銭で良かったのですが、収集家同士のやり取りということから切手をセットで貼ることを優先したため、30銭分、料金が多く貼られています。

 新憲法の公布・施行は、いうまでもなく、国家にとっての最重要事ですから、これにあわせて記念切手の発行が計画されるのは当然のことといえましょう。

 もっとも、記念切手発行の具体的な計画が立案されるようになったのは、公布まであと2ヶ月弱となった1946年9月中旬のことで、記念切手発行の概要が正式に決定された時には、すでに11月3日の公布まで残り1ヶ月をきった10月10日のことでした。このため、当然のことながら、記念切手は新憲法の公布に間に合わせることはできず、翌年5月の施行にあわせて発行することが計画され、図案の懸賞公募が行なわれます。

 その結果、1等には「議事堂に鳩を配して平和の表現を主張した図案」(中尾龍・広島)、2等には「花束」(堀本正親・奈良)、「議事堂と門扉」(大越英男・埼玉)、「幼児を抱いた婦人と議事堂」(釜谷市太郎・東京)が、それぞれ選ばれました。

 本来であれば、これら入選作品のうち、1等となった中尾作品が切手に取り上げられるものと考えるのが自然ですが、審査委員会の席上、中尾作品は、画材・構図とともに当時の封緘葉書の料額印面に似ているという理由で、一部委員から、切手図案として採用することに異議が唱えられ、1等でありながら不採用という珍事が現出しました。

 このため、2等の3作品のうち、堀本作品と釜谷作品が切手図案に採用されることとなり、大越作品はポスター図案に採用ということで決着します。ただし、切手図案として採用された2作品は、いずれも、そのままでは縮写して切手の図案にするには不備な点があったため、切手の原画とするためには、専門家による修正作業が施されています。

 このうち、母子と議事堂を描く釜谷作品は、人物の描き方を修正することとして、洋画家・木下孝則に作業が依頼され、原作の女児が男児に改められました。ただし、木下は絵画部分の修正のみを担当し、文字や菊花紋章などは逓信省の加曾利鼎造が担当しています。

 一方、花束を描く堀本作品の修正作業は加曾利が担当し、原作の左右にあった柱が取り除かれたほか、原作では必ずしも種類を特定できなかった花は、実際に五月に咲く花で、憲法施行にふさわしい花言葉を持つものに置き換えられています。

 ところで、この切手の制作作業が進められていた時期は、戦後のインフレが急進していた時期で、切手発行直前の1947年4月には郵便料金が改正されるものと予想されていました。このため、本来であれば、憲法施行の記念切手も改正後の料金体系にあわせて制作されるべきだったのですが、原画の修正作業が行われていた時点では、新料金についての具体的な見通しは立っていませんでした。そこで、苦肉の策として、最悪の場合には、記念切手を補助用の額面として使用することも想定して、議事堂と母子像の額面は50銭とし、花束は1円とされました。

 結局、4月の料金改正では、封書基本料金が30銭から1円20銭に、葉書が15銭から50銭に、それぞれ値上げされたため、花束の1円は補助用として使用されることになりました。

 なお、図案を公募した際には、記念銘は「改正憲法施行記念」とすることとされていました。これは、形式的には日本国憲法が大日本帝国憲法の改正によって成立したことになっていることをふまえたものですが、実際の記念切手上では、やはり、新憲法の正式名称を掲げたほうがよいということになり、記念名も「日本国憲法施行記念」と改められています。

 なお、この切手については、拙著『濫造・濫発の時代』でも詳しくまとめていますので、是非、そちらもご覧いただけると幸いです。

 【飛鳥美人の救出まであと7日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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 切手で世界旅行:崇礼門
2007-05-02 Wed 00:51
 今日(2日)から2泊3日の日程でソウルに行ってきます。2004年の竹島切手騒動の時以来、3年ぶりのソウルなのでゆっくりできれば良いのですが、実質的な滞在は明日1日で4日の昼には東京に戻っているという強行軍。結局、用事を済ませたらすぐに帰るといういつものパターンです。

 まぁ、せっかくのソウル行きですので、以前、時事通信社の配信用コラム「切手で世界旅行」(各社での掲載は一通り終わったようです)に送った原稿の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ソウルの南大門

 これは、大韓民国の正式発足から間もない1949年7月に発行された50ウォン切手で、韓国の象徴としての崇礼門が描かれています。

 ソウルの中心部、中区にある南大門は、正式には崇礼門といい、現存する韓国最古の木造建築として、韓国の国宝第一号に指定されています。

 もともと崇礼門は、城壁都市であった漢城(ソウルの旧称)の正門だったのですが、1908年、街路整備のために両側に続いていた城壁が撤去され、門だけが道路に残されて現在のかたちになっています。1950年に始まる朝鮮戦争ではソウルは甚大な被害を受けたましたが、崇礼門は奇跡的に消失を逃れています。

 休戦後、門の立ち入りは長らく禁止されていましたが、2005年5月、門の南側に芝生の広場が造成されて間近に見ることができるようになり、さらに、2006年3月からは門をくぐることが出来るようになったとのこと。

 今回、僕の宿は東大門の近くなのですが、せっかくですから、昼飯でも食いに行きがてら門の下をくぐりながら、細部の技巧なんかもしっかりと拝んで来ようかと思います。

 【飛鳥美人の救出まであと8日】
 5月10日、劣化の激しい高松塚古墳・西壁壁画“飛鳥美人”の取り外し作業が始まります。この壁画の発見当時の美しい姿を再現した「高松塚保存基金」の切手(1973年3月発行)と、当時の高松塚ブームならびに切手ブームについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧ください。
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