内藤陽介 Yosuke NAITO
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 試験問題の解説(2007年7月)-2
2007-07-31 Tue 01:11
 現在、都内の某私立大学で“中東郵便学”と題する授業を週に1回やっているのですが、昨日(30日)はその前期試験をやりました。そこで、例によって、3日に分けて、その解説をしてみたいと思います。僕が大学でどんなことを話しているのか、という一つのサンプルとして、しばし、お付き合いください。

 さて、初回の今日は、「この郵便物(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

ガザ・ドイツ軍事顧問団

 これは、1917年2月6日、オスマン帝国に派遣されていたドイツの軍事顧問団のメンバーがガザから差し出した軍事郵便のカバーです。料金は無料扱いなので切手は貼られていません。防諜上の理由から消印やカバーにはガザとの表示はありませんが、消印のAOK4という表示から、このカバーがガザ差出のモノであることがわかります。

 19世紀以来の数次にわたるロシアとの戦争でコーカサス地方を喪失したオスマン帝国にとって、コーカサスの奪還は悲願となっていました。このため、1914年に第一次大戦が始まると、オスマン帝国は当初こそ中立を保っていたものの、戦争はドイツ有利との判断の下、8月2日にドイツとの秘密同盟を締結。10月29日、黒海のロシア海軍基地を砲撃し、ドイツ側にたって参戦することになります。

 なお、オスマン帝国とドイツとの軍事的な関係は、露土戦争に敗れたオスマン帝国がドイツから軍事顧問団を招いて陸軍力の再建に乗り出したことから始まります。ドイツとしては、イギリスのライフラインであるスエズ運河の咽元を押さえているオスマン帝国を取り込むことは、イギリスとの戦争遂行していく上で重要なことでした。実際、一時的にではありますが、ドイツの支援を受けたオスマン帝国は中東地域のイギリス軍に打撃を与えており、ドイツの目論見はある程度効果を挙げたといってよいでしょう。

 こうして、東地中海地域はドイツとイギリスを主役とする第一次大戦に巻き込まれ、そのことが、英仏によって現在の“中東”の枠組が作られていく端緒となるのです。
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 バオダイ没後10年
2007-07-30 Mon 02:40
 今日(7月30日)は、ベトナムのラスト・エンペラー、バオダイ(保大)が1997年に亡くなって10周年の日です。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

バオダイ

 これは、フランス領インドシナ(仏印)時代の1936年11月20日、アンナンで使用するために発行された切手で、バオダイの肖像が描かれています。

 バオダイは阮王朝の皇帝、啓定帝の息子として1913年10月22日に生まれました。幼名は阮福晪です。当時のインドシナはすでにフランス支配下にあり、植民地貴族の常として彼もフランスで教育を受けていました。啓定帝の崩御により、フランスから帰国して、1926年1月8日に皇帝として即位。年号を保大(ベトナム語の発音でバオダイ)とします。バオダイないしはバオダイ帝というのは、この年号にちなむものです。

 皇帝として即位したものの、政治の実権を持たないバオダイはすぐにフランスに帰国。ベトナムの完全独立を認めるよう、フランスでのロビー活動を展開します。また、第2次大戦中は仏印に進駐してきた日本軍に協力し、フランスからの独立も宣言しました。

 しかし、1945年8月、後ろ盾となっていた日本が降伏すると、彼も退位に追い込まれ、阮朝は名実ともに滅亡。同年9月2日にホー・チ・ミンひきいるベトミンがベトナム民主共和国の独立宣言を行うと新政府の“最高顧問”になりますが、外交代表団の一員として訪中した機会をとらえて亡命。1946年には香港へ移りました。

 その後、インドシナ独立を阻止するフランスの支援で、1949年には“ベトナム国”の元首としてベトナムに帰国。1954年のジュネーヴ会議によって正式にベトナム国元首となります。その後、ゴ・ディン・ジエムを首相に指名したものの、彼と対立し、クーデタを企図するも失敗。逆に、アメリカの支援を受けたゴは、1955年に国民投票(このときの国民投票の郵便投票用紙はこちら)を行なってバオ・ダイを免職し、ベトナム共和国の設立して自らが初代大統領に就任してしまいます。

 バオダイはフランスへの亡命を余儀なくされ、1997年に亡くなるまで、パリですごしました。

 こうやってみると、バオダイの生涯もまた、同じくラスト・エンペラーの溥儀同様、波乱に富んだもので興味をそそられます。なお、インドシナの切手と現代史については、以前、拙著『反米の世界史』でも概観してみたことがありますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。
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 ボルネオのオーストラリア軍
2007-07-29 Sun 01:06
 今日(29日)まで東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内で行われている第35回全国ユース切手展のユースクラス(6~17歳)では、竹上真司さんの「オーストラリアの記念切手」が日本郵政公社総裁賞を受賞しました。というわけで、今日は竹上さんに敬意を表して、こんなマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

バリックパパンのカバー

 これは、1945年12月10日、ボルネオ島(カリマンタン島)のバリックパパンのオーストラリア野戦局からメルボルン宛に差し出された書留便で、1945年2月19日発行の新総督就任記念の51/2p切手(右側の切手)が貼られています。

 英連邦の一角をなすオーストラリアでは、国王の代理として総督が派遣されています。この記念切手の総督は、1945年1月30日から1947年3月11日までその任にあったグロチェスター公ヘンリー・ウィリアム・フレデリック・アルバートで、隣の女性は彼の妻、公爵夫人です。

 ところで、ボルネオ島は、現在、いくつかの国が分割領有していますが、第二次大戦以前は、英領地域と蘭(オランダ)領地域に分かれていました。太平洋戦争中は両地域ともに日本軍に占領されましたが、終戦直後、とりあえず両地域に進駐して日本軍の降伏を受理したのはオーストラリア軍でした。

 このカバーは、終戦直後に同島のバリックパパン(現・インドネシア領)に進駐したオーストラリア軍の野戦局から差し出されたという点がミソで、僕は、オーストラリアの記念切手が貼られたカバーというより、終戦直後のボルネオ島にオーストラリア軍が進駐したことを示す資料として入手しました。

 なお、太平洋戦争の終結とともに、バリックパパンを含む戦前の蘭領地域は、独立宣言を発してオランダとの戦争に突入したインドネシア領に組み込まれますが、それ以外の地域は、当面、英領にとどまり、イギリスの支配が復活することになります。

 ボルネオ島の歴史というのは、さまざまな勢力が入り乱れていろいろと面白いので、いずれ、1冊の本を作ってみたいものです。特に、英領時代のノース・ボルネオの切手にはこんな感じの綺麗なものも多いですから、きっと楽しい本になるんじゃないかと思います。もっとも、人気のある地域ですから、当然、切手やカバーも高いものが多くて、制作費を捻出するのは相当しんどそうですが…。
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 試験問題の解説(2007年7月)-1
2007-07-28 Sat 05:32
 僕の本業はモノ書きですが、そのほかに、現在、都内の大学で週に何度か、非常勤講師をしています。講義の題目は学校によってさまざまですが、基本的には、何らかのかたちで“切手”を絡めた話をしています。 そのうちの『反米の世界史』をテキストに話をしている授業の前期試験を昨日やりました。4問出題したうち、2問を選んで回答したもらうスタイルですが、このうち切手に関わる問題は3問。で、そのうちの一つは下の絵葉書について説明してもらうものでした。(画像はクリックで拡大されます)

白船絵葉書

 これは、1908年に逓信省が発行したアメリカ大西洋艦隊歓迎の絵葉書です。

 1898年にフィリピンを領有したアメリカは、1904年の日露戦争に関して、日本がロシアに対してそこそこの勝利を収めるのが、最も好ましいシナリオであると考えていました。同時に、アメリカは、日露戦争後の国際秩序の変化をにらんで、具体的な敵国を想定した国防計画に着手。ドイツを仮想敵国としたプランをブラック戦略案と名づけたのをはじめ、イギリスはレッド、日本はオレンジ、南米はパープル、カナダはクリムゾン(臙脂)、メキシコはグリーン、といったように、それぞれ、色の名前のついた戦略案を策定します。

 ところが、1905年5月27~28日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊が全滅したことで、アメリカの太平洋戦略の前提となっていた軍事バランスが崩れ、日本の海軍力が突出したものとなると、慌てたアメリカは、6月9日、大統領セオドア・ローズヴェルトが日露両国に対して講和を勧告。さらに、7月、陸軍長官のウィリアム・タフト(後にローズヴェルトの後をついで大統領になる)が東京で首相・桂太郎と極秘に会談し、アメリカのフィリピン統治と日本の韓国支配を相互に承認する協定(桂=タフト協定)を締結し、日露戦争後に備えようとしました。以後、アメリカは日本に対して警戒観を強めていきます。

 一方、東洋人が白人を破った戦争は、アジアの人々に勇気を与えた反面、欧米では黄禍論を巻き起こします。特に、日系移民が急増していたカリフォルニアでは排日運動が激化し、1907年には、移民法が改正され、日系移民に対する実質的な制限が加えられました。また、アメリカ国内の大衆紙は国民の排日感情をあおる記事を掲載して部数を伸ばし、日本がアメリカ西海岸を攻撃する内容のシミュレーション小説が多くの読者を獲得します。

 国民の反日感情が高まる中、西海岸の人心を安定させるとともに、海軍拡張政策への国民への支持を取り付けようと考えたローズヴェルトは、1907年12月、大西洋艦隊をサンフランシスコへ向けて出航させました。これに関して、無責任な大衆紙は「アメリカ海軍は日本と戦うために太平洋へ出発!」と報じましたが、当初、政府は沈黙を守ります。しかし、艦隊が南米最南端のマゼラン海峡を廻って太平洋を北上し、1908年3月、メキシコのマグダレナ湾に到着すると、ローズヴェルトは、突如、大西洋艦隊の目的地はサンフランシスコではなく“世界一周”であると発表。艦隊が日本を威嚇するために太平洋を渡ろうとしていることは、もはや、誰の目にも明白となりました。

 ローズヴェルトの発表に全世界は驚愕。フランスでは日米開戦必至と見て日本国債が暴落。米西戦争の記憶が生々しいスペインでは、日本への資金援助を申し出る貴族や資本家が続出したといわれています。

 これに対して、日本政府は、アメリカの攻撃を恐れながらも、欧米世論の挑発には乗らず、むしろ、大西洋艦隊を“歓迎”することで危機を脱しようと考えました。

 このため、国内では朝野を挙げて、“白船(大艦隊は船体の色からグレイト・ホワイト・フリートと呼ばれており、これが日本語では白船と訳された)”歓迎のありとあらゆるキャンペーンが展開され、メディアでは、「文明開化もつまるところはペリーの黒船のおかげだった」との論説が日米友好の名の下にさかんに繰り返されました。その一環として、逓信省はここに挙げたような歓迎の記念絵葉書を発行し、白船の乗務員たち全員に無料で配布しています。

 結局、1908年10月18日に横浜に入港した白船は、同月25日、歓迎責めに当惑する乗員を乗せて無事、横浜を出航。欧米で予想されていた日米戦争は回避されました。

 もっとも、白船が横浜を出港してから2週間後、日本海軍の連合艦隊は、米軍が奄美大島を占領したことを想定した大規模な演習を実施。こうして、大日本帝国は、“仮想敵国・アメリカ”に対する準備を開始することになるのです。

 なお、この問題以外の切手がらみの出題は、①この郵便物について説明せよ、②勅額切手とは何か、説明せよ、という2問です。これらに関しては、このブログの過去記事のうち、リンク先をご覧いただけると幸いです。
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 明日からサマーペックス
2007-07-27 Fri 01:10
 明日(28日)から、東京・大手町のていぱーく(逓信総合博物館)で第35回夏休み切手まつり<サマーペックス>が開催されます。今回は“なつかしの昭和 戦後記念切手の秘宝、大集合”と題して、ていぱーく秘蔵の記念切手の原画・試刷などが展示されます。その中には、この切手の原画も展示される予定です。(画像はクリックで拡大されます)

東海道新幹線開通

 これは、1964年10月1日に発行された東海道新幹線開通の記念切手です。大塚均のデザインしたこの切手は、1960年代、東京オリンピックの時代の切手ブームを象徴するものとして、ご記憶の方も多いかと思います。

 この切手は、題材そのものの人気に加え、デザインのよさから、発行後間もなく完売となりましたが、そのことは切手投機という副作用をもたらしてしまいました。

 すなわち、前年の1963年後半になると、記念・特殊切手の発行枚数が大幅に増加されたこともあり、一部の例外を除いて、新切手が発行早々、何倍にも値上がりすることはなくなり、オリンピック募金の第5~6次切手(単片)などのように、業者間の取引では額面割れとなるものも散見されるようになりました。

 こうした状況の中で、東京オリンピックの終了とともに、切手の市場価格が大幅に値崩れするのではないかと怖れた一部の投機業者が、オリンピック後の切手市場における新たな投機材料として、今回の新幹線切手に目をつけ、市場価格の釣り上げを画策したのです。

 その舞台となったのが、切手経済社(社長:米原徹夫)の発行するタブロイド紙『切手経済』でした。

 切手経済社は、切手を投機対象として“投資家”を募っていた会社で、株式などと同じように、切手の売買を仲介する手数料を主たる収入とする建前になっていました。このため、同社は、通常の切手商間の取引金額を大幅に上回る“相場” をでっち上げ、それを『週間朝日』などの一般メディアでも大々的に宣伝。“切手は儲かる”という印象を一般の人々に振りまくことで、新規の顧客を募り、多額の現金を集めていました。

 もちろん、切手経済社が、彼らの主張する相場で切手の取引を実際に仲介できていれば問題はなかったのですが、実際には、同社は素人の投資家に高値で切手を売りつけるものの、買取に際しては、業者間の実勢価格以下の値段でしか引き取っていません。

 今回ご紹介の新幹線切手は、こうした切手投機の標的とされ、“値上がり確実”との『切手経済』のキャンペーンを真に受けた一般の“切手投資家”たちがこの切手をこぞって買い求めました。この結果、新幹線切手の市価はじわじわと上昇しはじめます。

 たとえば、当時の旬刊郵趣紙『京都寸葉』に毎回掲載されていた某切手商の買入広告で値動きを追ってみましょう。

 この切手商によると、1964年12月から1965年1月までの新幹線切手の買入価格は、1シート(額面200円)240~50円でした。その後、購入価格は、2月は260~70円、3月は270~90円、4月は270円と推移し、5月に入ると320~380円と値上がりしていきます。そして、6月中旬には一挙に500円となり、一時は570円の最高値をつけています。

 新幹線切手の直前に発行されたIMF総会の記念切手の場合、同じ切手商の買入価格は1964年12月から1965年6月まで、180円のまま全く動いておらず、他の切手に関しても事情はほぼ同じですから、新幹線切手の値動きは明らかに異常なものでした。

 当然、こうしたバブル的な相場は通常の切手取引においては持ちこたえられるはずもありません。また、6月末に発行の雑誌『郵趣』7月号が切手投機反対のキャンペーンをはって切手経済社の問題を大々的に取り上げます。その効果もあって、新幹線切手の業者間取引価格は急落。前述の切手商の買入広告でも、7月中旬には1シート300円にまで値下がりしてしまいました。

 ところが、切手経済社は強気の姿勢を崩さず、新幹線切手は1シート700円台が適正価格で、近々一シート1000円まで上昇するというような記事を『切手経済』に掲載し続けたほか、“(『郵趣』の発行元である)郵趣協会も額面10円の切手を1枚20円(この場合、シートでは400円にしかならないはずなのですが…)で売っているではないか”との反論を展開します。

 しかし、客観的に見れば、『切手経済』の主張には無理が多く、結局、1965年7月下旬、切手商組合が翌年版のカタログでの新幹線切手の評価を1枚30円(シートでは600円)と決定したことで、この問題は事実上決着します。ほかならぬ、切手経済社の『切手でもうける本』は、“投資家”の手取りは小売市価の半値であると説明しており、その説明によれば、新幹線切手の一シートの売値は高くても300円ということが、切手業界のコンセンサスとなったためです。

 以後、新幹線切手の市価は、おおむね、カタログ値の近辺に落ち着き、この切手を材料として切手投機は影をひそめることになりましたが、それに引きずられるかたちで他の切手の相場も軒並み下落。こうして、1960年代の切手バブルは崩壊したのです。

 なお、新幹線切手とその投機に関しては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、是非、ご覧いただけると幸いです。また、サマーペックスの会場では、28日(土)の午後2時30分から、この時代の記念切手についての解説トークを僕がやりますので、是非、遊びに来てください。
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 『郵趣』今月の表紙:第1回五輪
2007-07-26 Thu 09:31
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2007年8月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

円盤投げ

 これは、1896年にギリシャが発行した第1回近代五輪の記念切手のうち、ミュロンの彫刻“円盤投げを取り上げた10レプタ切手です。今回の表紙では12種セットすべての写真を掲載していますが、シリーズの華ともいうべき最高額の1ドラクマ切手は以前の記事でも取り上げてしまいましたし、8月には大阪で世界陸上も開かれることですから、今日はこの1枚を持ってきたと言うわけです。

 ちなみに、12種類のデザインは、レスリング(1及び2レプタ)、ミュロンの“円盤投げ”(5および10レプタ)、アテナイの女神を描く花瓶(20および40レプタ)、戦車競技(25および60レプタ)、アクロポリスの丘と競技場(1ドラクマ)、プラクシテレスの“ヘルメス”(2ドラクマ)、パエオニウスの“勝利の女神”(5ドラクマ)、アクロポリスとパルテノン神殿(10ドラクマ)となっており、“近代五輪”とはいいながら、古代ギリシャのイメージが濃厚です。なお、切手はフランス政府印刷局によって印刷されました。

 ギリシャ政府は、大会の開催資金を捻出するためにこの切手を発行し、その収益はじっさいに会場建設費の一部に充てられています。ただし、売上げは期待されたほどではなく、高額切手の多くは半数以上が売れ残りました。このため、そのうちの5種は後に改値加刷を施して再発行されています。

 さて、今月の『郵趣』では“満洲国”の特集を組んでいますが、その末席で僕も不発行切手についてのコラムを書いています。昨年観光の拙著『満洲切手』を補足するような内容になっておりますので、同書とあわせてご覧いただけると幸いです。
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 香港の美人
2007-07-25 Wed 06:16
 こないだの日曜日(22日)に、めでたく“ミス香港”のグランプリに選ばれた張嘉兒(下の画像の中央の女性。以下、画像はクリックで拡大されます)に対して、地元では、「最も不細工なミス香港」「顔がデカすぎる」「“ミス子豚”コンテストに改名したほうがいい」「彼女を外してやり直しを熱望する」などの酷評が噴出しているそうです。

張嘉兒

 まぁ、美の基準というのは人によってそれぞれでしょうが、この写真で見る限り(好みは別として)何もそこまで酷評しなくても、と僕などは思ってしまいます。

 それじゃ、どういうのが香港の人にとって“美人”なのか、と思って探してみたのが、この1枚です。

花旦

 これは、1992年9月24日に発行された“中国戯劇”の切手の1枚で、女優(花旦)が取り上げられています。北京を中心に発達した京劇では女性の役割を男性が女形として演じますが、広東・広西地方に伝わる伝統的な広東語による歌舞劇の粤劇では、女性の役は女優が演じます。

 今回ご紹介の切手は、特定のモデルがあってデザインを制作したというよりは、イメージとして花旦を描いたもののようですから、デザイナーの感覚では、この手の顔が伝統的な美人ということになるのでしょう。たしかに、切手の彼女と比べると、今回のミス香港はポッチャリ型ではありますな。

 香港では、今回の“中国戯劇”の切手以前にも、1974年2月1日に発行の“香港芸術節”の記念切手で、京劇の臉譜(くまどり)を取り上げています。

 京劇と粤劇は共通点も多く、京劇の広東語バージョンが粤劇と紹介されていることもあるのですが、おそらく、ネイティブにとっては、両者の差はそれだけではないのだろうと思います。ビジュアル的にハッキリしているのは、勇士や英雄などを演じる武生という役回りに関していうと、京劇では役者の元の顔がほとんど識別できないほどにきつい臉譜をするのに対して、粤劇では武生のメイクも基本的に役者の顔が塗りつぶされるという感じはしない点でしょうか。

 もっとも、切手に取り上げられた花旦に関しては、京劇でも臉譜をせずに役者の顔立ちを活かしたメイクのようですから、粤劇との差というのは、正直なところ、僕にはよくわかりません。ただ、切手に関しては、香港で発行されたものですから、やはり、粤劇のメイクの可能性が高いんじゃなかろうかと思っています。

 なお、粤劇は香港の初期の映画にも大きな影響を与えているのですが、この点に関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でも少し触れています。ご興味がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。

 PS 昨日夕方、アクセスカウンターが21万PVを越えました。これも、いつも遊びに来ていただいている皆様のおかげです。ありがとうございました。
別窓 | 香港:1945~1997 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 満鉄初代総裁にちなんで
2007-07-24 Tue 00:55
 後藤新平が1857年7月24日(和暦だと安政4年6月4日)に生れてから、今日でちょうど150年になります。後藤には、台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(現・NHK)初代総裁など、さまざまな肩書きがありますが、今日はその中から満鉄がらみのモノということで、こんなマテリアルを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

満鉄葉書

 これは、1914年1月25日、日本の植民地であった朝鮮・京城(現ソウル)からベルギーのリエージュ宛に差し出されたもので、満鉄によって運ばれたことを示す楕円形の印が押されています。

 日清戦争後の1896年、三国干渉で日本から遼島半島を還付させたことの見返りとして、帝政ロシアはモスクワ=ウラジオストック間を結ぶシベリア鉄道の短絡線として、チタ=満洲里=綏芬河=グロデコヴィというルートを通って満洲の地を横切る東清鉄道(清朝の東という意味で“東清鉄道” と呼ばれた)の敷設権を獲得します。

 東清鉄道の本線は満州里からグロデコヴォ間の1510キロでしたが、シベリア鉄道本線と連結させるために、西側には満州里とキタイスキ・ラズエズトーを結ぶザバイカル鉄道(355キロ)、東側にはグロデコヴォとニコリスク・ウスリスキーを結ぶウスリー鉄道(97キロ)も建設されました。また、ロシアが1898年に旅順・大連を租借すると、東清鉄道の途中駅であった哈爾浜から長春=奉天=大連を経て旅順へといたる772キロの南満洲支線も建設されています。

 1905年、日露戦争で勝利を収めた日本は旅順と大連を中心とした遼島半島先端部を“関東州”として租借し、東清鉄道のうち、寛城子(長春)=大連間の鉄道経営とそれに付随する諸権利、ならびに安東(丹東)=奉天間の鉄道(安奉線)の経営権を獲得しました。

 これらの鉄道を経営し、それに付随するさまざまな業務(付属地経営など)を担当する国策会社として1906年に設立されたのが、南満洲鉄道株式会社、すなわち、いわゆる満鉄です。

 ロシア側と接続する満鉄の急行列車には、1911年9月1日から第1および第2移動郵便局が設けられ、外国郵便物の取り扱いが開始されました。これに伴い、これらの移動郵便局で取り扱ったことを示すために、この葉書に押されているような楕円形の印が、外国からの、または外国宛の郵便物に押されるようになります。この葉書に押されている印には、上段には“I.J.P.O.1(Imperial Japanese Post Office 1:第1大日本帝国郵便局) MUKDEN-CHANGCHUN(奉天=長春間)”、下段には“SOUTH MANCHURIA(南満洲)”との表示が入っています。

 葉書は、朝鮮半島を北上して国境の町である新義州まで運ばれた後、鴨緑江鉄橋(日本が朝鮮を植民地化した翌年の1911年に完成)で国境を渡り、安東から満鉄の安奉線に載せられて奉天を経由して長春まで運ばれ、ロシア側に引き渡されてヨーロッパまで運ばれたというわけです。
 
 なお、その後の満鉄と郵便に関しては、昨年刊行の拙著『満洲切手』でも1章を設けてご説明しておりますので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 ケマルの文字改革
2007-07-23 Mon 10:05
 イスラム主義拡大の是非をめぐって国論が二分されていたトルコで昨日(22日)、総選挙が行われ、イスラム系の単独与党・公正発展党(AKP)が第1党の座を維持。エルドアン政権が続投となりました。

 というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ケマルの文字改革

 これは、1938年に発行された文字改革10周年の記念切手で、ラテン文字(一般にアルファベットといわれている文字のことです)を自ら国民に教えるムスタファ・ケマル(ケマル・アタテュルク)が描かれています。

 1923年にトルコ共和国を建国したケマルは、独裁的な指導力を行使して大胆な欧化政策を断行。イスラム勢力を一掃し、1928年には憲法からイスラムを国教と定める条文を削除することに成功しました。

 その一環として、トルコ語の固有語復活とアラビア語、ペルシア語からの借用語の除去によってトルコ語の純化を行おうとする言語純化政策が実行に移され、アラビア文字はイスラムと結びつきやすいとの理由から廃止。ラテン文字が採用されました。

 切手は、文字改革の実施にあわせてケマルが行ったパフォーマンスの写真を元にしたもので、縦長の写真を横長の切手に収めるため、オリジナルの写真の下の部分がかなり大胆にカットされています。

 今回の選挙でAKPは単独与党の地位を維持し、首相も国民に対して和解を呼びかけているそうですが、なにせ、ケマルが“神”の地位を得ている国ですからねぇ。ケマル以来の世俗主義の伝統が侵されることには根強い抵抗もあるはずで、エルドアン政権も、議会をおさえたとはいえ、今後も難しい政権運営を迫られることになりそうです。

 ちなみに、トルコでは「アタテュルク擁護法」という法律も存在し、公の場でアタテュルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもあるのだとか。そういう話を聞くと、僕のようなへそ曲がりは、一介の税関官吏の息子が独裁者としての地位を確立し、ついには“神”の地位に上りつめるまでの物語を切手でフォローしてみたいと思ってしまいます。まぁ、以前出した『マオの肖像』のトルコ版というわけですが、『マオの肖像』もあんまり売れなかったからなぁ。この企画の実現は、AKPが政権を維持していくよりもはるかに難しそうです。
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 ラジャスタンの女性
2007-07-22 Sun 12:56
 インドの大統領選で、プラティバ・パティル前ラジャスタン州知事が当選。この結果、インド初の女性大統領が誕生することになったのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

ラジャスタンの女性

 これは、1980年にインドで発行された“インドの花嫁”切手の1枚で、ラジャスタンの伝統的な花嫁衣裳の女性が取り上げられています。

 ラジャスタン州はインド北西部に位置する同国最大の州で、州都のジャイプールは約10kmの赤い城壁に囲まれ、“ピンク・シティー”とも呼ばれています。

 花嫁のファッションのポイントは、なんといっても、アクセサリーでしょう。耳から頬を経て鼻にいたるチェーンは勿論、髪の生え際に沿ったシルバーのチェーンとか、コーン型のピアスもかなり印象的です。

 大統領閣下もかつてはこういう格好をしたのかと思ってのですが、よくよく調べたら、彼女はラジャスタンの人ではなく、ムンバイのある西南部のマハラシュトラ州の出身なんですね。ということは、彼女の花嫁衣裳も切手とはかなり違ったものだったのかもしれません。

 ところで、新大統領には、1973年に自ら創立したプラティバ・マヒラ・サハカリ銀行が2003年に倒産したという過去があり、そのせいか、金銭スキャンダルもいろいろと囁かれているようです。具体的には、彼女の親類が巨額の債務を不履行にしたほか、彼女自身もボンベイ・プネ共同組合銀行から借りた1億7500万ルピーを返済しなかったのだとか。さらに、殺人事件に関与したとされる彼女の兄弟をかばっているともいわれているようです。

 まぁ、日本でも、大臣になったとたんに金銭スキャンダルが露見するケースはままあるとはいえ、果たしてホントに新大統領、大丈夫なんでしょうかねぇ。
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 欧州の悲願
2007-07-21 Sat 10:44
 フランス・イタリア国境の欧州最高峰モンブラン(4808m)の頂上近くに、このほどトイレが設置されました。1786年8月8日に、ジャック・パルマとミッシェル・ガブリエル・パッカールが初登頂に成功して以来、およそ220年目にして初のことだそうで、ある意味では、欧州登山者の悲願がかなったといってよいでしょう。

 というわけで、今日は、モンブランがらみということで、この切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

モンブラン・スキー大会

 これは、1937年1月18日、モンブランの麓にあるスキーリゾート地、シャモニー(正確にはシャモニー・モンブラン)で開かれた国際スキー大会を記念して、開催国のフランスが発行した切手です。

 スキーのジャンプの場面が描かれていますが、現在とは異なり、両手を大きく広げているのが目を引きます。以前、1949年に日本で発行された冬季国体の記念切手をご紹介しましたが、この切手は1936年のオリンピックの写真を元にデザインが作られています。ということは、やっぱり、当時のジャンパーたちは、現在のような“気をつけ”の姿勢ではなく、手を広げて飛ぶのが一般的だったということなんでしょうね。

 ところで、今回、モンブランの山頂に設けられたトイレはくみ取り式で、排せつ物を入れた袋は夏の登山シーズン終了後、ヘリコプターで麓へ下ろされて処理されるそうです。ってことは、シャモニーあたりがその処分場になるんでしょうか。切手のジャンパーが飛んでいる下の辺りは雪に隠れているものの、実は…なんてことになったら、ちょっと厭だなぁ、と思ってしまった内藤でした。
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 ブルース・リー
2007-07-20 Fri 00:45
 7月20日は1973年にブルース・リー(李小龍)が亡くなった忌日だそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ブルース・リー

 これは、1995年11月、映画100年を記念して香港郵政が発行した“香港影星”と題する4種セットの記念切手の1枚で、ブルース・リーが取り上げられています。

 ブルース・リーこと李小龍(本名:李振藩)は、1940年11月27日、サンフランシスコで粤劇(広東劇)の名優として知られた李海泉の息子として生れました。生後3ヵ月のとき、父親の縁で映画『金門女』に赤ん坊役で出演したのが、彼の映画デビューです。

 一家は1941年7月に香港に移り、ネイザン・ロードに居を構えるのですが、同年末には香港は日本軍に占領され、香港では映画制作そのものがストップしてしまいました。

 第二次大戦後、香港での映画制作が復活すると、李は童星(子役スター)として映画に出演するようになります。実質的なデビュー作は1948年の『富貴浮雲』で、以後、1960年までに22本の広東語映画に出演しました。ちなみに、李は英語と広東語は不自由なく操れたものの、北京語はほとんどできませんでした。

 子役を“卒業”した後、李は渡米します。これは、この年の誕生日までにアメリカに戻っていないとアメリカの市民権を失うからというのが建前でしたが、実際には、学業をおろそかにし、喧嘩に明け暮れていた息子に手を焼いた両親が勘当同然で彼を追い出したという面が強いものでした。

 渡米後の彼は、ブルース・リーとして、高校卒業資格を得てワシントン大学で勉学に励むかたわら、生活費及び学費を稼ぐために自らの道場を開き武術の指導を開始。その後、大学を中退し、道場経営に専念した彼は截拳道を創始。1964年にロングビーチの国際空手選手権大会の公開演武などで注目を集め、1966年、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』で準主役の日系人のカトー役に抜擢されました。これをきっかけに、ハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになります。

 『グリーン・ホーネット』の後、ブルース・リーは、連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』の企画を作成し、自ら主演する予定でしたが、東洋人であることなどが理由で主演することができなかったため、1971年、香港の映画会社ゴールデンハーベスト社の鄒文懐と契約し、『唐山大兄』(邦題:『ドラゴン危機一髪』)を制作。これが3週間で300万香港ドルを稼ぎ出す記録的なヒットとなり、ブルース・リーないしは李小龍の名は一躍、香港映画界にとどろくことになりました。

 『唐山大兄』の後、ブルース・リーの主演映画としては、翌1972年には、清末の上海を舞台に悪徳日本人との戦いを描いた『精武門』(邦題『ドラゴン怒りの鉄拳』)が、さらに、1973年には、ローマの中華街で用心棒として活躍する『猛龍過江』(邦題『ドラゴンへの道』)とハリウッドとのコラボレーションによる『龍争虎鬥』(邦題『燃えよドラゴン』)が、あいついで公開され、いずれも、空前ヒットを記録。この間、『龍争虎鬥』がアメリカで公開される直前の1973年7月20日、リー本人は32才の若さで亡くなりました。

 しかし、その後も彼の人気は衰えることなく、1973年末には『燃えよドラゴン』が日本でも正月映画として公開され、大ヒットとなったことは広く知られている通りです。

 さて、今月1日付で刊行の拙著『香港歴史漫郵記』では、今回ご紹介のブルース・リーの切手以外にも、さまざまな切手から見た香港の演劇・映画史についても簡単にまとめた1章も設けてみました。機会がありましたら、是非ご一読いただけると幸いです。
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 昭和のマルクス・ボーイ
2007-07-19 Thu 02:05
 戦前・戦後の左翼のカリスマで、日本共産党の名誉議長だった宮本顕治が亡くなりました。というわけで、日本の左翼運動がらみで何か面白いものはないかと手持ちのストックをさがしてみたところ、とりあえず、こんなモノが見つかりました。(画像はクリックで拡大されます)

思想犯の葉書?

 これは、1934年6月、東京の市谷刑務所に収監されていた人物に宛てて差し出された葉書で、“裁照”ならびに“不許”の印が押されています。おそらく、宛名の人物は裁判中の被告で、刑務所当局としては、検閲を行った結果、葉書を宛名の人物に渡して良いかどうか裁判所に判断を仰いだ結果、“不許可”という結論になったため、このような印が押されたのだと推測されます。ちなみに、刑務所としての検閲印は、葉書の右下の方に押されている桜型の印です。

 この葉書が“不許”となったのは、おそらく「斎藤内閣の命数は尽きました。同志一同健在です」という箇所が引っかかったためでしょう。

 文面にある“斎藤内閣”というのは、5・15事件で犬養毅が暗殺された後に発足した斎藤実内閣(1932年5月26日~1934年7月8日)のことで、この葉書が差し出された1934年6月の時点では、いわゆる帝人事件(帝人株をめぐる贈収賄疑惑)で商工大臣や大蔵次官が逮捕されるなどのスキャンダルで総辞職寸前の状況にありました。“斎藤内閣の命数は尽きました”というのは、このことを指していると見てほぼ間違いありません。

 続いて、葉書には“同志一同健在です”という一文がありますが、“同志”という独特の言い回しは当時の左翼独特のもの。したがって、この葉書の宛名の人物も、おそらく、左翼運動に関わって収監されていたとみるのが自然と思われます。

 僕は社会主義や共産主義などは全く支持していませんが、それでも、戦前期の日本において言論弾圧に屈せずに自説を貫こうとした人々の姿勢には(主義主張を越えて)素直に敬意を表したいと思います。網走刑務所などで12年近い獄中生活(まぁ、直接の逮捕容疑はリンチ事件での殺人ですが)を送った宮本顕治は、その代表的な人物なわけですが、今回の葉書は、そうした昭和初期のマルクス・ボーイたちの受難の時代が刻印されたものとして、ちょっと興味をそそられる1枚じゃないでしょうか。
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 アラブの都市の物語:ヌアクショット
2007-07-18 Wed 09:19
 NHKのアラビア語会話のテキスト8・9月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回は、アラブ連盟加盟国で一番西側の国・モーリタニアの首都、ヌアクショットを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ヌアクショット

 これは、1962年に発行された国連加盟の記念切手で、国連本部のあるニューヨークとヌアクショットの風景が対比して描かれています。

 15世紀以降、ポルトガルやスペイン、オランダなどの西洋人が交易を求めてモーリタニア沿岸に姿を現すようになりましたが、17世紀以降はサンルイ(現セネガル)に基地を確保したフランスが影響力を拡大。19世紀末から20世紀初頭にかけての征服戦争を経て、1904年、モーリタニアは“民政区”としてフランス領西アフリカ(1895年設立)されました。

 第2次大戦末期の1944年、植民地各国の独立運動が高揚する中で、フランスはフランス領コンゴでブラザヴィル会議を開催し、植民地の自治を拡大することを決定。これに伴い、戦後制定されたフランス第4共和制憲法で、フランス領西アフリカはフランス連合を構成する海外領土となり、モーリタニアにも地方議会が置かれ、フランス本国に代表を送るための選挙が1946年に実施されました。

 その後、アルジェリア情勢が緊迫する中で、フランス植民地の自治拡大は急速に進み、1956年6月の基本法でフランス人の高等弁務官を首相とし、アフリカ系を副首相とする行政府が組織され、弁護士のムフタール・ワルド・ダッダーが初代のモーリタニア副首相に就任しました。

 翌1957年、新政府は将来の独立を見据えて、それまでのフランス支配の拠点だったサンルイに代えて、大西洋岸の漁港だったヌアクショットを新首都に指定。1万5000人を目標に人口を増やすとともに、本格的な都市建設が開始されます。

 1958年の国民投票により、モーリタニアはフランスからの完全独立はせず、セネガルなどのアフリカ諸国とともにフランス共同体内の共和国として残留することを選択。これに伴い、同年10月、モーリタニア・イスラム共和国(al-Jumhuriyah al-Islamiyah al-Mauritaniyah)が発足します。しかし、その後、フランス共同体の解体は急速に進み、1960年夏には旧フランス領アフリカ諸国の大半が独立。同年11月28日には、モーリタニアも独立を宣言することになり、ヌアクショットは新生国家の首都となりました。

 今回ご紹介の切手には、その当時の首都の遠景が取り上げられているわけですが、なにぶんにも、本格的な都市建設が開始されてから日が浅い時代のことですから、インフラ整備はほとんど整っていません。第1回の国会はテントのような建物の中で行われたともいわれていますが、切手の画面奥に描かれているのがそうなのかもしれません。

 ちなみに、1990年代までのヌアクショットは一国の首都としてはのんびりとした田舎町の雰囲気が色濃く残っていましたが、都市開発が進むにつれ、周辺から職を求めて流入する人口が急増。くわえて、近年は沖合いで石油と天然ガスが見つかったこともあって、1969年に2万人だった人口は2000年には50万人を突破し、サハラ地域では最大の都市になりました。

 今回の「切手に見るアラブの都市の物語」では、日本ではあまり語られることのないヌアクショットとモーリタニアの歴史について、簡単にではありますがご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、現在発売中のNHKアラビア語会話のテキストをお手にとってご覧いただけると幸いです。
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 お見舞い申し上げます
2007-07-17 Tue 09:52
 昨日(16日)発生した中越沖地震により、今朝の時点で判明しているだけで、新潟県内では柏崎市を中心に死者9人、重軽傷者886人、住宅の被害は全壊が342棟、半壊を含む一部損壊は363棟という甚大な被害が出ました。被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。

 というわけで、今日は、今年3月に刊行の拙著『沖縄・高松塚の時代』の中から、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ヒメハルゼミ

 これは、自然保護シリーズの第16集(昆虫の第3回目)として、1977年8月15日に発行された“ヒメハルゼミ”の切手です。

 ヒメハルゼミは、半翅目セミ科のハルゼミの一種で、体長約3センチの小型のセミ。体は緑色を帯び、これに黒い小班と淡褐斑があり、羽は透明です。わが国では本州・四国・九州のほか、屋久島・奄美大島・沖縄などに分布しています。シイ・カシの林に多く見られ、多数がいっせいに鳴きだすと相当な音量となることから、地域によっては「大ゼミ」とも呼ばれています。

 さて、ヒメハルゼミといえば、なんといっても新潟県の能生が有名です。この地は国の天然記念物に指定されているだけでなく、能生局は切手発行時の初日押印の指定局にもなっています。

 切手が発行された当時、能生は行政区画上、西頚城郡能生町となっていましたが、いわゆる平成の大合併を経て、現在では糸魚川市の一部になりました。その糸魚川市も、今回の地震では震度4が記録されています。実際、地震の影響で、北陸自動車道は新潟県の能生インターと名立谷浜インターの間で新潟方面への下り線が現在、通行止めとのこと。

 あらためて、被災地の一日も早い被災地の復興を心よりお祈り申し上げます。

 ところで、この地域には能生海洋公園風力発電所があり、試験的にではありますが、風力発電も行われています。今回の地震で火災を起こした柏崎の原発を廃止しろとは言いませんが、安全性を考えると、今後の復興支援対策も兼ねて、能生の風力発電を拡充してみたらどうだろうか、と思ってしまいます。
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 九龍の海
2007-07-16 Mon 01:48
 今日(7月16日)は海の日です。海がらみの切手は沢山ありますが、せっかくなので、今日は新刊の拙著『香港歴史漫郵記』の中から、この1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

九龍湾

 これは、1987年に発行された“香港舊日風貌”の1枚で、アヘン戦争以前の1838年の九龍湾の風景を描くオーギュスト・ボルジェの絵画が取り上げられています。

 ボルジェは、1808年に中部フランスの地方都市、イスーダンの出身。21歳のときにパリに出て、作家のバルザックと親交を結び、1833年にスイス・イタリア旅行を題材とした作品で評価を得ました。その後、4年間に渡る世界周遊の旅に出て、各地の風景を題材とした作品を数多く残しています。

 このときの旅行では、ボルジェは、南北アメリカの各地を廻った後、当時はサンドイッチ諸島と呼ばれていたハワイを経て、1838年7月3日までにマカオに到着。以後、少なくとも1839年6月20日までは、広州、香港、マカオなどに滞在していたことがわかっています。

 その後、ボルジェはマニラ、シンガポール、インドを経て1840年夏にパリに戻り、華南旅行を題材とした作品集を出版。大いに評判を得たのですが、残念ながら、1843年の火災で、その原画は大半が焼失してしまいました。

 今回の切手に取り上げられているのは、そうしたボルジェの作品のうち、1838年8月に制作されたもので、九龍の海岸風景が描かれています。船の上で暮らす水上生活者たちとその船が画面の中心を占めており、船のマストに翻る洗濯物など、彼らの生活の様子がしのばれるほか、背景には対岸の香港島も見えていますが、高層ビルが林立する現在の香港からは想像もつかないほどのどかな風景です。

 さて、先ごろ刊行の拙著『香港歴史漫郵記』では、今回ご紹介の切手の他にもいろいろなマテリアルをご紹介しながら、アヘン戦争以前の香港についてもいろいろと書いてみました。機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 英雄/テロリスト図鑑:アラファト
2007-07-15 Sun 08:54
 イスラム原理主義組織ハマスが、パレスチナのガザ地区を制圧してから、昨日(14日)でちょうど1ヶ月。これに伴い、パレスチナ自治政府のアッバス議長が発令した非常事態宣言の期限が切れることを受け、議長は、親欧米派のファイヤド氏を首相とする非常事態内閣を発足させました。

 で、このタイミングを狙っていたわけではないのですが、現在発売中の『SAPIO』7月25日号で僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、ヤーセル・アラファトを取り上げていますので、ご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

オスロ合意

 アラファトは1929年にエルサレムで生れました。1948年にイスラエルが建国されると故郷を追われて難民となり、大学はカイロで卒業しました。大学在学中、政治活動に目覚めた彼は、第1次中東戦争のドサクサでエジプトが占領したガザ地区でパレスチナ学生連盟議長を務めていましたが、1956年に第2次中東戦争が勃発したのを機に“パレスチナ民族解放運動”、すなわちファタハを結成。イスラエルに対する本格的な武装闘争(=テロ活動)を開始します。
 
 現在でこそ、アッバース議長率いる穏健派のファタハに対して、過激派のハマスというイメージが強いようですが、どうしてどうして、ファタハだって、そもそもはかつては過激なテロリスト集団として恐れられていました。

 1956年の第2次中東戦争では、エジプトは英仏の介入を排してスエズ運河の国有化を達成し政治的勝利を収めたものの、イスラエル軍に簡単にスエズ運河地帯への侵攻をゆるすなど、純軍事的には敗けたも同然でした。このため、イスラエルとの戦争に勝ち目がないことを悟ったナセルは、反イスラエル各派を糾合したPLO(パレスチナ解放機構)結成のお膳立てをします。勇ましいイスラエル打倒の掛け声とは裏腹に、ナセルの本音は、反イスラエル闘争を一括してコントロールすることで、アラブの反イスラエル感情に応えるとともに、反イスラエル闘争の暴発してイスラエルを本気で怒らせることを防止する(=イスラエルとの全面戦争を回避する)ことにありました。

 アラファトのファタハもPLOに参加しましたが、彼らはナセルの微温的な姿勢に反発。PLO最大派閥として、ナセルのコントロールを振り切ってイスラエルへのテロ活動を繰り返します。当時のアラファトは、「反イスラエルのテロ行為を繰り返せばイスラエルはアラブとの全面戦争に踏み切るだろうが、その場合には、全アラブの団結によってイスラエルを粉砕できる」と考えていたわけですが、じっさいに1967年6月に第3次中東戦争が勃発すると、イスラエルの圧倒的な軍事力の前にアラブ側は惨敗してしまいます。

 それでも、PLO(1969年にアラファトが議長に就任)は「パレスチナに世界の注目を集める」ためとして、テロの対象を非イスラエル国民にも拡大。1970年9月には、PLO傘下の武装組織PFLP(パレスチナ民族解放戦線)が4機を同時にハイジャックする事件を起こします。(そういえば、以前、PFLPがらみで、こんなマテリアルもご紹介しましたっけ)

 この事件に激怒したヨルダンのフセイン国王は、激しい戦闘の末、PLO本部をアンマンから追放。ベイルートに移駐したPLOは、秘密テロ組織のブラック・セプテンバーを創設し、ミュンヘン・オリンピックの選手村に侵入してイスラエルの選手・コーチ11人を殺害するなど、テロ活動を繰り返しました。

 1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻でベイルートからチュニスに撤退した後も、PLOは反イスラエルのテロ路線を維持していましたが、1987年にPLO不在のパレスチナで反イスラエル暴動の(第1次)インティファーダが発生します。インティファーダに際して、現地のパレスチナ人は、パレスチナから離れた土地で、イスラエル国家の解体という非現実的な主張を展開するPLOの主張に反して、イスラエル国家の存在を認めた上で自分たちの権利を保障するよう要求。このため、パレスチナ人を代表する組織ということになっていたPLOも路線転換を迫られ、アラファトもテロの放棄を公式に宣言しました。

 その後も、PLOをテロ組織とみなしていたイスラエルはアラファトとの対話を長らく拒否していました。しかし、湾岸戦争でアラファトがイラクを支持した結果、PLOは国際的に孤立。アラブ諸国からの経済支援もストップし、その影響力が大きく損なわれてしまいます。

 そうした中で、パレスチナでは、より過激な反イスラエルの“殉教作戦(=自爆テロ)”を展開するハマスが台頭。この頃には、PLOには昔日の勢いは全くなく、彼らは、イスラエルとの対話路線を定着させており、もはやイスラエルにとっての脅威ではなくなっていました。むしろ、PLOとその主流派であるファタハの退潮が進めば、彼らに代わってより過激なハマスがパレスチナ人の代表権を獲得することも危惧されるようになります。

 こうして、ハマスがイスラエルとPLO双方にとって共通の脅威となったことで、彼らは反ハマス連合として和解に到達。1993年9月、イスラエルとPLOの相互承認とガザならびにイェリコ(ヨルダン側西岸地区の重要都市)でのパレスチナ人の自治を骨子とするオスロ合意が調印され、パレスチナ自治政府が発足。かつてはテロリストの頭目として恐れられたファタハのアラファトは、一転して、ノーベル平和賞を授与されたというわけです。

 今回ご紹介している切手は、1994年のノーベル平和賞でアラファト(とイスラエル首相のラビン、同外相のペレス)がノーベル平和賞を受賞したことを記念して、パレスチナ自治政府が発行した切手で、ワシントンでのオスロ合意調印式の場面が取り上げられています。ちなみに、切手に取り上げられているのは、左からラビン(イスラエル首相)、クリントン(米大統領)、アラファトです。

 1990年代のパレスチナの動きについては、2001年に刊行の拙著『なぜイスラムはアメリカを憎むのか』でもまとめてみたことがあるのですが、切手や郵便物を使って展開するという仕事はまだやったことがありません。“切手で読み解く中東・イスラム世界”とサブタイトルをつけた『中東の誕生』でも、あまり新しい時代の話は入れていませんでしたし、そろそろ、中東がらみのニューバージョンの本を作らなくっちゃいけないかな、と考える今日この頃です。
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 香港経由パリ行き
2007-07-14 Sat 08:29
 今日(7月14日)はパリ祭の日です。10日前のアメリカ独立記念日のときは新刊の拙著『香港歴史漫郵記』にちなんで香港からアメリカ宛のカバーを紹介しましたので、今回も平仄を合わせてこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

香港スタンプレス

 これは、1848年、上海から香港を経由してパリまで送られたカバーです。

 1842年にアヘン戦争の講和条約として南京条約が結ばれると、広州・厦門・福州・寧波・上海の5ヶ所が開港地となり、各地に設けられた領事館内には郵便取扱所が置かれて、極東とヨーロッパを結ぶ本格的な郵便業務が行われるようになります。これらの郵便物の多くは、中継地点として香港を通過していました。

 これに伴い、イギリス本国も香港における郵便の管理を強化する必要に迫られ、1843年10月17日、それまで現地で暫定的に作られ、使われていた印に代えて、王冠と“香港にて支払済み(PAID AT HONG KONG)”の表示の入った印を本国で制作し、香港に向けて発送。この印は1844年以降、香港の郵便局で郵便物に押されるようになります。

 おなじく1844年には、香港政庁は中国各地の開港地に置かれていた郵便取扱所を硬式に認可し、この結果、中国各地のイギリスの郵便局から差し出された郵便物には、香港を通過する際に、料金が支払済みであることを示す印が押されることになりました。

 今回ご紹介のカバーはその実例です。裏面に押されている各種の印などから判断すると、このカバーは、差出の日付は不明ですが、上海から差し出された後、1848年11月29日に中継地の香港に到着し、そこで“香港にて支払済み”の印を押されています。その後、スエズを経て翌1849年1月19日にマルセイユに到着。さらに、パリまで運ばれたというわけです。

 もっとも、“支払済み”との表示とは裏腹に、このカバーは着払いで送られているため、英仏郵便交換条約(1843年、英仏両国が郵便物の交換と料金精算に関して取り決めた条約)に基づいて、2分の1オンスにつき30デシーム(1シリング相当)の料金が到着時に徴収されています。

 当時の最先端の情報伝達の手段であった郵便ネットワークの結節点として香港を育成しようとしていたイギリスにとっては、まずは、中国各地の開港地から差し出された郵便物が香港を経由する体制を構築するということが重要でしたから、その意味では、香港を通過時にはまだ料金が回収されていない郵便物であっても、きちんとチェックをしたという意味で事前に“支払済み”の印を押し、最終的に料金の精算を済ませればそれで十分と考えられたのかもしれません。

 なお、このカバーについては、拙著『香港歴史漫郵記』でもご紹介していますので、機会がありましたら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 日本標準時刻記念日
2007-07-13 Fri 01:38
 7月13日は、1886年の勅令第51号(本初子午線経度計算方及標準時ノ件)が公布されたことにちなみ、日本標準時刻記念日なのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

日本標準時制定75年

 これは、1961年に発行された“日本標準時制定75年”の記念切手です。

 近代以前の世界では、それぞれの地域でその土地固有の地方時が用いられていましたが、交通・通信の発達に伴い、さまざまな不都合が生じてきました。このため、1884年、ワシントンで世界標準時についての国際会議が開催され、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を本初子午線(経度〇度の子午線)とし、これを基準に東西に経度が15度ずつ離れるたびに1時間ずつ異なる地域ごとの標準時を置くことが決定されました。

 わが国では、1886年7月12日、1889年1月1日から東経135度の時刻を日本の標準時とすることが決定され、翌13日に「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」と題する勅令が発せられています。こうして、明石地方時が日本標準時として用いられることになり、現在にいたっています。

 1961年の日本標準時制定から75周年に際しては、明石市長・丸尾儀兵衛が、前年の1960年9月2日、大阪郵政局長を通して郵政大臣・鈴木善幸宛に記念切手発行の申請書を提出。その後、天文科学館の館長や文部省(現・文部科学省)大学学術局長名での申請書も提出され、これを容れるかたちで記念切手の発行が実現しました。

 当初、渡辺三郎が制作した切手の原画では、“明石”の文字が入っていませんでした。また、当初案では、“無限の宇宙”を表現することを意図して、バックは目打部分まで青味黒で印刷するというプランになっていましたが、“印面”の解釈をめぐり、現場の郵便局で混乱が生じることをさけるため、通常どおり、ガッター部分は白地のものとし、バックはうす黄茶とすることとされました。この結果、当初、赤味橙と青味黒の2色刷で製造するはずだった切手は3色刷へと変更され、印刷局では、グラビア4色機を用いて3色刷を行っています。

 また、切手の発行日は、勅令の公布された7月13日ではなく、標準時を設定することが決定された7月12日とされました。発行当日は、明石市の天文科学館で、文部省・兵庫県・兵庫県教育委員会・明石市・明石市教育委員会の主催による“日本標準時制定七十五年記念式典”が行われ、そのプログラムの一つとして、郵政政務次官・森山欽司(郵政大臣・小金義照の代理として出席)から明石市長・丸尾儀兵衛宛に、大臣の署名入りの記念切手1シートと贈呈状が贈られています。

 なお、この記念切手については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しくご紹介していますので、機会がありましたら、是非、ご覧いただけると幸いです。
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 善光寺と提灯屋の娘
2007-07-12 Thu 08:29
 7月12日(旧暦で、ですが)は、いまから200年前の宝永4(1707)年に善光寺の大伽藍が完成した日なのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

長野われらの逓信文化展

 これは、1948年10月16日に発行された「われらの逓信文化展」の記念小型シートで、余白に描かれている建物の一部は善光寺です。

 1948年7月10日の郵便料金改正を契機として、逓信省は、戦後復興のために働く人々に焦点をあてた新普通切手“産業シリーズ”(現在、“産業図案切手”と呼ばれているシリーズです)の発行を開始します。

 その先陣を切って1948年10月16日に発行されたのが、紡績女工を図案とする15円切手(主たる用途は速達)でした。同時に、この切手は長野で開催の「われらの逓信文化展覧会」(以下、長野展)の記念小型シートにも取り上げられました。

 長野展は、1948年10月16日から20日までの間、長野市公民館で開催されました。内容的には、他の「逓信展」同様、逓信事業全般を紹介するもので、かならずしも切手のみに焦点を当てたものではなかったようです。

 小型シートは、善光寺と日本アルプスの連山に九羽の鳩を描いた背景の中に、件の15円切手1枚を配したもの。用紙は当時の通常切手と同じく昭和透かし入りの白紙で、印刷は、背景部分のオフセット印刷を最初に行ってから凸版平台で切手部分を印刷するという方法で行われました。

 15円切手が長野展の小型シートに取り上げられたのは、繊維産業が長野にゆかりの深いものであったためと考えられます。ただし、この切手のデザインに関しては、紡績女工ということがわかりにくく、収集家の間では「提灯屋の娘」とのニックネームがつけられていました。

 なお、今回ご紹介のマテリアルを含めて、終戦直後、普通切手を流用して作られた小型シートについては、拙著『濫造・濫発の時代』で詳しくまとめていますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。
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 世界の良心にゆだねる
2007-07-11 Wed 09:14
 今月3日から続いていたパキスタンの首都イスラマバードでのモスク、ラル・マスジード籠城事件は、昨日、治安部隊がモスク敷地内のマドラサ(イスラム神学校)に突入。現時点で確認されているだけで約60名の死者を出しながらも、モスクなどの施設を完全に制圧して、一応の決着となりました。

 というわけで、今日はパキスタンがらみのマテリアルということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

第3次印パ戦争

 これは、1973年6月、ラホールから差し出されたカバーで“インドの収容所にいる9万人のパキスタン人捕虜の命運は世界の良心にゆだねられている”という標語印が押されています。

 1947年にイギリスから独立した時点でのパキスタンは、現在のパキスタンに相当する西パキスタンと、現在のバングラデシュに相当する東パキスタンから構成されていました。このうち、政治的な実権を握っていたのは西パキスタンで、東パキスタンで生産されるジュートによってもたらされる外貨は、西パキスタン地域に優先的に支出される状況が続いていました。また、1970年の集中豪雨によって東パキスタン国土のほとんどが水没、17万人に上る死者が出たにもかかわらず、パキスタン政府の西パキスタン偏重政策は変わらず、東パキスタン住民の不満は高まります。

 こうした状況の中で、1970年の総選挙では、東パキスタンを地盤とした政党・アワミ連盟が“バングラ民族主義”を掲げて大躍進。東パキスタンの分離・独立運動は一挙に高揚することになりました。

 この動きに目をつけたインドは、パキスタンを弱体化させるために、東パキスタンの独立運動を支援。パキスタン軍が東パキスタンの独立運動を阻止すべく武力での征圧を開始し、東パキスタン難民がインドに流入するようになると、インドはこれを“人口学的侵略”としてパキスタンに侵攻。パキスタン軍はわずか2週間で降伏し、東パキスタンは1971年12月、バングラデシュとして独立しました。
 
 今回のカバーに押されている標語印は、こうした状況の下で用いられたもので、インド側による捕虜虐待の問題を取り上げて、一連の経緯におけるインド側の非道を内外にアピールする意図が込められています。

 さて、当時のパキスタン人捕虜の問題に関して、国際世論の関心がいかばかりのものであったかは良くわからないのですが、今回の籠城事件に対しては、世界中が強い関心を持っていることは間違いありません。

 各国によるイスラム過激派のテロ組織の温床とされることの多いパキスタンですが、彼らが同国内で勢力を拡大していった背景には、隣接する対アフガニスタン政策で、イランへの対抗上、パキスタン政府がサウジアラビアとともにタリバン政権を支援していた過去の経緯や、それにもかかわらず、現在のパキスタン政府が“現実的”な対応として親西側路線を採って、イスラム過激派の取り締まりを強化せざるをえなくなっていることなどがあります。

 今回の一件でムシャラフ政権に対する自爆テロなどが続発する事態にでもなれば、パキスタンの政局は一挙に流動化する可能性もあるわけで、そうなってくると、この地域全体を巻き込んだ混乱が生じるかもしれません。いずれにせよ、パキスタンからは、今後しばらくの間は目が離せない状況が続きそうです。
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 建設の風景:竹の足場
2007-07-10 Tue 01:45
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の7月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月号は拙著『香港歴史漫郵記』の刊行を記念して、こんなモノを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

竹の足場

 これは、英領時代の1989年に香港で発行された「港人生活剪影(Hong Kong People)」の切手の1枚で、背景に竹の足場で作業する職人の姿が描かれています。

 香港の街を歩いていると、竹とビニール紐だけでできた足場の上を、職人たちが曲芸さながらに作業を進めている場面に出くわすことがあります。遠目に見ると、建設中のビルはすっぽりと竹細工の中に入っているような格好となっており、足場といえば鉄の骨組みを思い出すわれわれの目を楽しませてくれます。

 香港では、どんな高層ビルの建設でも竹の足場が組み立てられるのが一般的で、日本のように、床の部分を組み立てて、内側から作業を行うということはほとんどありません。高層ビルの建設現場の場合だと、一定の階ごとに落下防止用の囲いが設けられ、補強用の十字ブレースが作られており、一応、作業上の安全に対する配慮もなされてはいるのですが、命綱もヘルメットもつけずに高所での作業をこなす職人たちの姿はまさに曲芸さながらの迫力です。

 今回ご紹介している切手は、そうしたとび職人と、オフィスで働くネクタイ姿のサラリーマンの2人を、現実に香港経済を支えている労働者の代表格として取り上げたものといってよいでしょう。

 なお、「港人生活剪影」の切手には、香港におけるエスニシティの多様性を表現した1枚も含まれています。このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも取り上げてみましたので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 残念、落選
2007-07-09 Mon 00:51
 07年7月7日にちなんで選ばれた“新・世界の七不思議”は、万里の長城(中国)タージ・マハル(インド)、コロッセウム(イタリア)、マチュ・ピチュ(ペルー)、ペトラ(ヨルダン)、チチェン・イツァのピラミッド(メキシコ)、リオのキリスト像(ブラジル)に決まり、日本から唯一最終候補に残っていた清水寺は残念ながら落選となりました。

 まぁ、“新・世界の七不思議”なんてものに選ばれなくたって、外国人もこれを見たら清水寺の良さをわかってくれるんじゃなかろうかと思って、この1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

清水寺

 これは、第2次国宝シリーズ第6集の1枚として発行された「清水寺本堂」です。

 清水寺は、延暦年間(782-806)に坂上田村麻呂が造営したのが始まりといわれていますが、その後、焼失と再建を繰り返し、現在の本堂が建てられたのは1633年のことです。本堂は、急な崖に大規模な建物を建てているため、前面の床を高くして長い束柱で支える懸け造りの構造をとっています。建物本体は大きな寄棟造りでその前面は庇までふきおろしています。さらに、前面の左右には翼廊が突き出し、それぞれに小屋根を架け、両翼廊の間は「清水の舞台」で親しまれている広い舞台になっています。複雑な屋根をたくみに処理しており、江戸時代初期の和洋復古式建築の傑作といわれています。

 切手は増井国男の撮影した写真をもとに久野実が原画構成を担当しました。増井の写真では、通常の清水寺の写真と同様、本堂には大勢の観光客の姿が写っていたのでしょうが、切手ではそれらはトリミングでカットされて誰もいない風景になっているので、ちょっと不思議な感じがします。

 原版の彫刻は鈴木哲也です。今回の切手は、戦後の名人と謳われた押切勝三の日光東照宮陽明門と並んで、第2次国宝シリーズの傑作の名にふさわしいものと思います。

 なお、この切手を含めて、第2次国宝シリーズに関しては、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しくまとめていますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
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 英雄/テロリスト図鑑:蒋介石
2007-07-08 Sun 09:56
 ご報告が遅れましたが、現在発売中の『SAPIO』7月11日号で僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、“7・7”70周年にちなんで、当時の中国側の指導者だった蒋介石を取り上げています。(画像はクリックで拡大されます)

蒋介石

 蒋介石は若い頃、日本の陸軍に留学した経験もある根っからの軍人です。留学中、反政府組織である同盟会との関係ができた彼は、1911年に辛亥革命が起こると帰国して革命に参加。1916年には帝政復活を目論む袁世凱に抵抗して、上海で無法者集団を兵士として組織して江陰要塞を襲撃して占領しています。まぁ、これが最初のテロ行為といえるかもしれません。

 しかし、このときの要塞襲撃はたった5日で鎮圧。意気消沈した蒋は一時期、上海で女と賭博の遊興三昧のデカダンス生活を送っていました。その後、上海証券取引所の仲買人の職を得た彼は、インサイダーまがいの取引を駆使して巨額の利益を得るとともに、杜月笙をはじめとする上海裏社会の実力者とも関係を構築。また、この時期、蒋は株で得た巨額の利益を気前良く孫文に差し出し、孫文の懐に入り込むことに成功。日本陸軍への留学経験を見込まれて、順調に出世していくことになります。

 晩年、政治的に孤立して弱体化していた孫文は、他の軍閥に対抗すべく、中国共産党とその背後にいるソ連との連携を模索し、1924年に国共合作を行いました。しかし、共産党は次第に国民党内に勢力を浸透させ、国民党は次第に庇を貸して母屋を取られる状況に追い込まれていきます。このため、蒋介石は1927年4月12日、いわゆる上海クーデターを発動。前日の11日に共産党の影響下にある上海の総工会(労働組合)に“国共合作”の錦旗を送って相手を油断させた上で、暴力団組織の青幇の力を借りて労働者・共産党員を一網打尽にして多数殺害。国共合作を解消して共産党の殲滅に本格的に乗り出しました。

 その後、1928年に北伐を完了して統一政権最大の実力者にのし上がった蒋は、ライバルたちの粛清に着手。たとえば、1930年には国民党中央執行委員会の全体会議で有力者の一人、胡漢民に論駁された蒋は、胡にいきなり日本仕込みのビンタを食らわせたうえ、胡がこれに抗議すると胡の手足を荒縄で縛り上げ、3日間監禁しました。まさに台湾名物の乱闘国会のルーツを髣髴させる事件です。

 また、同じく国民党の実力者であった汪兆銘に対しては、1936年の国民党中央委員会全体会議での写真撮影の際に、蒋の意を受けたとみられるテロリストが拳銃を乱射。さらに、日中戦争勃発後の1939年3月、汪が日本に同調して重慶を離脱しハノイに亡命した際には、蒋は部下を通じて旅券と旅費を汪一族に渡して安心させた上で、その日の晩に汪の寝込みを襲う殺害未遂事件を起こしています。

 1945年、蒋介石の国民政府は日中戦争にはなんとか勝利を収めたものの、つづく国共内戦に敗れて1949年には台湾に逃れます。その後、大陸の共産政権と対決する中で、1955年にはバンドン会議に向かうため周恩来が乗る予定だった飛行機を爆破(カシミール・プリンセス号事件)するなど、金正日もビックリの国際テロ事件を起こしています。もちろん、台湾内では、戒厳令を施行して特務機関を用いた恐怖支配(白色テロ)を行うなど、まさに、口より先に手が出る軍人ならではのエピソードがテンコ盛りです。

 切手は、蒋介石の没後3年を記念して台湾で発行された1枚で、1937年7月17日、日本と断固戦う決意を示す演説をする蒋の姿が取り上げられています。この演説については、また、日を改めてご紹介することになるでしょう。

 なお、カシミール・プリンセス号事件に関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しく取り上げていますので、よろしかったら、こちらもご覧いただけると幸いです。
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 “7・7”70年
2007-07-07 Sat 01:26
 今日は07年7月7日のスリー・セブンの日。おまけに、日中戦争の発端となった1937年7月7日の盧溝橋事件から70周年ということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

七七抗戦紀念

 これは、1946年7月7日、ソ連占領下の旅大地区(旧関東州)で発行された“七七抗戦紀念”の切手3種のうちの1枚です。

 第2次大戦末期のヤルタ会談では、米英ソ三国の間で、①外蒙古の現状維持=モンゴルの独立承認、②大連港の国際化とソ連の海軍基地としての旅順口の租借権回復、③中ソ合同会社の設立による東支鉄道と南満洲鉄道の共同運営、④満洲における国府の完全な主権の保持とソ連の優先的利益の擁護、が秘密協定として決められていました。

 1945年8月9日、日本に対して宣戦布告し、満洲への侵攻を開始したソ連は、8月14日、中国国民政府との間に、①対日戦遂行に関する相互援助(降伏文書の調印によって戦闘が正式に停止となるのは9月2日のことで、この時点では戦争は継続している)、②単独不休戦・不講和、③日本の再侵略を防止するためのあらゆる措置の共同での行使、④相互の主権と領土保全の尊重などを規定した中ソ友好同盟条約を調印(同24日から発効)。さらに、条約本文とあわせて、ソヴィエト政府が中華民国に対する援助を(すべて中華民国の中央政府たる国民政府にたいして)与えることを誓約した交換公文、長春鉄道に関する協定、旅順口に関する協定、東三省に関する協定などが中ソ両国の間で調印されました。この結果、ソ連はヤルタの密約を国府に認めさせることに成功します。

 これを受けて、ソ連の占領下に置かれた旅大地区には、ソ連軍が旧満洲で接収した切手が持ち込まれ、現地で接収された日本切手とともに、さまざまな加刷を施して使用されています。

 今日ご紹介している切手もその一例で、盧溝橋事件9周年にあたる1946年7月7日に“七七”の日付と“抗戦紀念”の文字が加刷されています。占領当局としては、日本支配の痕跡を払拭し、旅大地区が日本の支配から“解放”されたことをアピールするため、“抗日戦争”の意義を強調するような加刷を行ったものと考えて良いでしょう。

 こうした旅大地区の終戦直後の郵便事情については、拙著『満洲切手』でも簡単にではありますが、まとめてみたことがあります。ご興味をお持ちの方は、是非、ご覧いただけると幸いです。
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 ソチ
2007-07-06 Fri 00:57
 日本時間の昨日開かれたIOC総会で、2014年の冬季オリンピックの開催地がロシアのソチに決まったそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ホテル・コーカサス

 これは、1966年7月に当時のソ連が観光宣伝のために発行した切手の1枚で、当時の措置の最高級ホテル、ホテル・コーカサスが取り上げられています。切手右上の地図で、ソ連領内におけるソチの位置が示されているのも、我々にとっては嬉しいところです。

 ソチは、黒海に面したリゾート地で、ソ連時代に保養地として整備されました。砂浜からは雪をかぶった大コーカサス山脈が見えるほか、温泉もあり、スターリンからプーチンにいたるまで、歴代のソ連・ロシアの指導者たちの別荘があり、ロシア随一の避暑地としても知られています。スポーツ施設も整っており、かのシャラポアはこの地のテニススクールで修業を積んだそうです。ただ、避暑地ってことは、ロシアの中でも、冬の寒さは特に厳しいんじゃなかろうかと思うのですが、その辺は大丈夫なんでしょうか。

 今回の切手に取り上げられているホテル・コーカサスは、いかにも社会主義的な建物の造りになっていますが、現在では、おそらく西側資本が入って西側風のリゾート・ホテルに生まれ変わってるんでしょうね。まぁ、泊まり心地としてはそのほうが快適なのは間違いないのでしょうが、スターリン時代のホテルってのも、機会があれば、1度くらいは史蹟として拝みに行ってみても良いかなと思ってしまいます。

 <告知>
 今週土曜日の7日、急遽、東京・目白で開催の切手市場にて『香港歴史漫郵記』の販売・サイン会を行うことになりました。時間は、オープンから12:00ごろまでです。切手市場ならではの特典もいろいろとご用意しておりますので、よろしかったら、是非、遊びに来てください。
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 原爆が戦争を終わらせた
2007-07-05 Thu 09:11
 第2次大戦中の広島・長崎への原爆投下は“しょうがなかった”と発言したことを責められて防衛大臣が辞任しました。というわけで、今日はこんなものを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

“原爆切手”カバー

 これは、1995年9月、アメリカが発行した第2次大戦50年シリーズのうち、日本降伏を発表するトルーマンの切手が貼られた初日カバーで、切手の脇には、きのこ雲を描き“原爆が第二次大戦を終わらせた”との説明文の入ったラベルが貼られています。

 アメリカの第2次大戦50年シリーズは、1941年から毎年、50年前の重要な出来事10件を表現する切手を組み合わせたシートの形式で発行されました。その1945年の分の1枚として、原爆のきのこ雲を描き“原爆が戦争の終結を早めた”との説明文をつけた切手の発行が計画されていることが1994年末に明らかになったことで、この問題が日米間で政治問題化。結局、アメリカ側は、“原爆が戦争の終結を早めた”との政府見解は撤回しないものの、対日関係を配慮して“原爆切手”の発行は撤回。代わりに、日本降伏を発表するトルーマンを描く1枚をセットに組み込んで、切手を発行しました。

 これに対して、原爆投下の正当性を主張するアメリカ国内のグループは幻に終わった“原爆切手”を模したラベルを独自に作成。政府の弱腰を批判するとともに、あらためて“原爆が戦争の終結を早めた”ことをアピールしています。今回ご紹介のカバーは、そうしたラベルと“原爆切手”の代わりに発行されたトルーマンの切手を並べて貼られています。

 歴史的な事実関係からいえば、アメリカが原爆を投下したのは、東西冷戦が始まりつつある中で、当時世界唯一の核保有国としてのパワーを見せつけるとともに、戦後の東アジアにおいてソ連に対する優位を確保するためのものでした。したがって、結果として、原爆の投下により戦争終結が早まったということは事実かもしれませんが、アメリカ側の主張するように、米軍が日本本土で戦闘を行った場合に予想された数十万の将兵の犠牲を防ぐための止むを得ざる措置であったとするのは、無理があります。もちろん、“しょうがない”の一言で片付けてしまった前防衛大臣の不勉強は非難されてしかるべきでしょう。
 ただ、今回の一件に関して、アメリカ側は改めて原爆投下の正当性を主張していますが、彼らに対して、ただ単に“遺憾”“不快”“国民感情を逆なで”など、感情論を爆発させているだけでは、事態は何も変わらないでしょう。やはり、この問題については、原爆が投下されるにいたった歴史的経緯を、事実に基づいてきちんと説明することで、アメリカの主張に反駁していくことが必要なのではないかと思います。

 なお、1994年末の“原爆切手”騒動に関しては、以前、『外国切手に描かれた日本』の中で、その経緯を含めて詳しくまとめてみましたので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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 旧金山
2007-07-04 Wed 08:36
 今日(7月4日)は、いわずと知れたアメリカ独立記念日です。というわけで、最近刊行したばかりの拙著『香港歴史漫郵記』の中から、アメリカがらみのブツということで、こんなカバーを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

旧金山宛カバー

 これは、1896年4月1日、香港からサンフランシスコ宛に差し出されたカバーで、中文の宛先表示が“舊金山(旧金山)”となっています。

 1848年、カリフォルニアで金鉱が見つかり、アメリカはゴールドラッシュの時代に突入。金を求めてまずはヨーロッパから、そして、中国からも多くの移民たちがカリフォルニアに渡っていきました。中国人たちは、ゴールドラッシュで湧く太平洋岸での鉱山労働や、ついで1869年に開通する大陸横断鉄道の建設の現場で働き、有名なサンフランシスコのチャイナタウンも形成されていきます。

 ときあたかも、海禁政策によって国民の海外渡航を制限していた清朝は、アロー戦争に敗れ、1860年の北京条約で中国人の自由な海外渡航を認めさせられています。この結果、中国人の移民を扱う業者(こう書くと体裁は良いのですが、要は人身売買の口入屋です)が、中国南部で苦力を買い取り、それを香港に集めて輸出することが盛んに行われるようになりました。この結果、アヘンと人身売買による“汚れた富”が、初期の香港の経済的な繁栄を支えるという図式ができあがります。

 その名残で、アメリカ政府によるアジア系移民の制限により、苦力貿易が衰退した後も、カリフォルニアの海の玄関となったサンフランシスコは“旧金山”と呼ばれており、今回のような宛名表示のカバーが登場することになったというわけです。ちなみに、同じく19世紀半ばにゴールドラッシュに突入したオーストリアのメルボルンは、この“旧金山”に対応して“新金山”と呼ばれています。できることなら、“新金山”の表示のあるカバーも、今回のカバーと一緒に並べてみたいところですが、こちらはあいにくご縁がありません。

 なお、アメリカ以外の土地への中国人移民の拡散については、拙著『香港歴史漫郵記』でもスペースを割いて説明していますので、よろしかったら、そちらもあわせてお読みいただけると幸いです。
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 『郵趣』今月の表紙:ランスの微笑み
2007-07-03 Tue 01:12
 拙著『香港歴史漫郵記』の刊行があったり、香港展があったりしてご報告が遅くなりましたが、(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2007年7月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

ランスの微笑み

 これは、1930年3月15日にフランスが公債の減債を目的として発行した寄附金つき切手で、“ランスの微笑み”と呼ばれる天子像の顔の部分が大きく取り上げられています。

 パリの東北およそ130キロの位置にあるシャンパーニュ地方の古都、ランスには歴代のフランス王が戴冠の秘蹟を受けたゴシック様式のノートル・ダム大聖堂があります。“ランスの微笑み”は、その大聖堂ファサード西正面扉口の左側にあり、1245-55年ごろの制作と考えられています。

 今回のマテリアルは、その“ランスの微笑み”の寄附金つき切手を4枚収めた切手帳ペーンで、完本の状態の切手帳は、このペーン2枚をガッター部分でつないで、表紙をホチキス止めして発売されました。

 ところで、ヨーロッパ王室御用達というアンリ・アベレのシャンパンのラベルには、今回の切手とほぼ同じ構図でトリミングされた“ランスの微笑み”が印刷されています。高級シャンパンなので、僕の懐具合では普段気軽に飲むというわけにはいかないのですが、『香港歴史漫郵記』の重版が決まったら、版元の大修館書店さんから、わが家にも1本、祝杯をあげるために差し入れしてくれたらいいなぁ…と密かに思っています。
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 香港からタイへ
2007-07-02 Mon 07:42
 おかげさまで、「香港返還10周年記念・香港切手展 香港歴史漫郵記」は、昨日(1日)、無事に終了いたしました。会場に来て下さった方々には、この場を借りて改めてお礼申し上げます。

 さて、1冊で何年も食べられるベストセラー作家と違って、僕の場合は年に何冊か本を出さないと生活が成り立ちません。というわけで、早速、次回作の作業にとりかかっています。次回作は、磯風さんのブログでも書かれているように、タイを取り上げたものとなる予定です。というわけで、香港とタイの両方にからんだ1枚として、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

香港のタイ料理

 これは、香港で英領時代の1990年に発行された“世界の料理(International Cuisine)”と題する6種セットの1枚で、タイ料理としてプラー・プリアオワーン(魚の丸揚げに甘酢ソースをかけたもの)が取り上げられています。

 “世界の料理”切手では、このほか、フランス料理や日本の寿司、インド料理、それに勿論中華料理などを取り上げられています。その意図が、香港では世界のあらゆる料理が味わえることをアピールすることで、“グルメ天国”香港への外国人観光客を誘致しようという点にあるのは明らかです。

 ところで、香港における“食”の多様性ということは、そのまま、香港社会そのものの多様性を示すことになります。

 香港社会は中国系が98パーセントと圧倒的多数を占めているとはいえ、イギリス人をはじめとする欧米人、インド系(貿易商としてやってきたパル-シー教徒、グジャラート人、マルワル人、シンド人、軍事・警察要員としてやってきたシーク教徒など)、主としてメイドとして働いているフィリピン人などのエスニック・グループも社会的に無視できない存在です。これらの少数派と中国系との融和が香港社会にとって重要な課題であることはいうまでもありません。

 その真意はどうあれ、1990年代に入って、香港に“民主化”の置き土産を残していこうとしたイギリスの香港政庁は、民主主義の前提である多様な価値観の共存を、理念ではなく、よりリアルなかたちで人々に実感させるため、香港にもマイノリティのエスニック集団がいて、彼らの権利を十分に尊重する必要があることをさまざまな機会を通じてアピールしていましたが、“世界の料理切手”もまた、こうした文脈にそって、香港社会の多様性を“食”という側面から表現したものとみてよいでしょう。

 ちなみに、1997年7月以降の中国香港の切手においては、このように、さまざまなマイノリティ集団を含むという意味での社会の多様性が強調されることはほとんどなく、“中国の香港”という側面が強調されているような印象を受けます。この点については、拙著『香港歴史漫郵記』でも、いろいろと書いて見ましたので、よろしかったら、是非、ご一読いただけると幸いです。
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