内藤陽介 Yosuke NAITO
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 チェンマイ・ソーセージ
2007-09-30 Sun 07:53
 プロ野球のパリーグは日本ハムが優勝しました。というわけで、ハムやソーセージの類が描かれている切手はないかと思って探していたら、こんなモノが見つかりました。(画像はクリックで拡大されます)

カントーク・ディナー

 これは、2002年に発行された“タイ国際切手展(2003年に開催)”の事前プロモーションのバーツ切手で、タイ各地の伝統的な料理のうち、北部の郷土料理が取り上げられています。おそらく、カントーク・ディナーを意識したデザインでしょう。

 カントーク・ディナーというのは、カントークと呼ばれる丸い足つきのお膳を並べ、それを囲んでみんなで食事を取りながらショーを見るというもので、特定の食材や調理法などのことを指しているわけではありません。

 もともと、カントークはタイのちゃぶ台ともいうべきもので、いまでも田舎に行けば日常的にも用いられているようです。

 こうした日常の食事の舞台であったカントークをショーつきの“ディナー”にしたのが、ニマンヘミン通に名を残すグライシー・ニマンヘミンでした。チェンマイの有力者だったニマンヘミンは、1953年、地元の地方司法長官の送別会とチェンマイ駐在アメリカ公使ジョージ・ウィニーの歓迎会を兼ねて晩餐会を開いたのですが、その時、カントーク料理を並べてショーを見せ、非常に好評を博しました。その後、ニマンヘミンの演出に倣って、ホテルやレストランでのカントーク・ディナーが普及したといわれています。

 切手に取り上げられているのは、右端から時計回りに、野菜のカービング(食用ではなく飾り)、ナムプリック・オン(トマトと豚肉の野菜ディップ)、サイウア(ハーブ入りのソーセージ)、カオ・ニャオ(炊いたもち米)とそのお櫃、ケープムー・ティットマン(豚の皮を揚げたチップ。ディップにつけて食べる)です。

 チェンマイ・ソーセージとも呼ばれるサイウアは、豚肉の赤身と脂身が半々のひき肉に、唐辛子、ニンニク、玉ねぎ、レモングラス、ウコンで作ったナムプリックとバイマックルー(こぶみかんの葉)、万能ネギ、パクチーを加えて腸詰にして焼いたものです。生の状態から炭火でじっくり焼くと余計な油分が落ちておいしさが増すのですが、手間がかかるので、油で揚げて火を通してしまい、香り付けに表面だけ焦がして売っている店が多いようです。

 切手ではカオ・ニャオの隣に置かれているサイウアは、チェンマイの市場に行くと、とぐろを巻いた状態で焼かれているをよく見かけます。切手では、食べやすいように一口大に切った状態の部分が前面に置かれていますが、よく見ると、その後ろには切る前の“とぐろ”の残骸も見えています。

 切手では、カオ・ニャオのおかずという扱いですが、僕の個人的な好みとしては、やはり、ビールのおつまみとしたいところです。この記事を書いていたら、まだ午前中だというのに、なんだか、ビールが飲みたくなってきました。
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 英雄/テロリスト図鑑:周恩来
2007-09-29 Sat 11:36
 1972年の日中国交樹立(国交正常化)から、今日(9月29日)でちょうど35年になります。というわけで、現在発売中の『SAPIO』10月10日号で僕が担当している連載「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、今回は、当時の中国の首相、周恩来を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

南昌蜂起

 周恩来は、1898年、江蘇省淮安で生まれました。

 天津の南開中学に学んだ後、アメリカ留学のための清華学校の受験に失敗。代わりに、1917年に来日して東京・神田の東亜高等予備学校などで2年近く聴講生をやり、日本語を学んで官費留学生になろうとしますが、失敗して帰国します。周の人物情報ではこれを“留学”と呼ぶことも多いのですが、その本質は、ペパーダイン大学に“留学”したという元国会議員となんら変わりません。もっとも、彼は日本の国会議員ではないので“学歴詐称”で非難されることはないようですが…。

 1919年に帰国後、南開大学の学生となった彼は中国全土を吹き荒れていた反帝国主義ナショナリズムの五・四運動に参加し、逮捕・投獄されてしまいます。この時期、彼はコミンテルンが派遣したロシア人工作員のポレヴォーイと知り合い、そのことが、後に共産主義に傾倒していくきっかけとなりました。ちなみに、五・四運動を通じて、周は、後に彼の妻となる穎超とも出会っています。周が逮捕されるほどに運動にのめりこんだのは、案外、自分の彼女にいいところを見せたかったという単純な動機からだったんじゃないかと僕のような俗物は想像してしまいます。

 さて、前科者になってしまった周恩来は、大学を辞めて、翌1920年に当時流行の勤工倹学運動でフランスへ留学します。勤工倹学というのは、第一次大戦後の労働者不足で困っていたフランスが、中国人留学生を無償で受け入れる代わりに彼らに工場などで労働させるというもので、小平などもこれに参加して渡仏しています。ただ、苦学生の新聞少年の生活が肉体的にかなりしんどいのと同様、勤工倹学の学生たちも労働がきつくて勉学どころではないというのが実情でした。コミンテルンはそこに目をつけ、学生たちに共産主義運動に専念すれば資金を援助すると申し出て、彼らを取り込んでいくのです。(ちなみに、小平もその一人でした。)

 そのなかで周恩来は次第に頭角を現し、コミンテルンの肝いりで作られた“中国共産党欧州総部”の幹部に抜擢されます。そして、1924年には、モスクワの命令によって帰国し、第一次国共下の広州に成立した革命軍将官の養成機関“黄埔軍官学校”(校長は蒋介石)の政治部(思想工作を担当する部署)副主任に就任。国共合作を通じて国民党内に共産主義勢力を拡大させることに力を注ぎました。

 周らの工作は一定の成果を上げ、1925年から翌年にかけて中国共産党(以下、中共)は急速に勢力を拡大します。しかし、これに危機を抱いた蒋介石との対立は深刻なものとなり、1927年4月、蒋は上海で反共クーデターを敢行して共産党員の大量逮捕と虐殺に踏み切りました。

 これに対して、テロにはテロをと巻き返しを狙う中共は、同年7月、江西省南昌の江西大旅社という旅館を拠点として、周恩来をリーダーとする前敵委員会を組織し、8月1日を期して、大掛かりな対抗テロを起こして市街地を占拠しました。いわゆる南昌起義(南昌蜂起)です。しかし、中共側は早くも8月3日には国民党軍の反撃で南昌から撤退。広州を目指して南下したものの、壊滅的な打撃を被ってしまいました。

 なお、現在の中国人民解放軍は、南昌起義の起こった8月1日を、国民党に対して最初の銃声を放った記念日と位置づけ、建軍の記念日としています。そして、そのリーダーであった周は建軍の父の一人として中共内で絶大な権威を持つようになり、毛沢東が権力を掌握した後もしぶとく生き残って、1949年の中華人民共和国の建国から1976年に亡くなるまで、同国の首相を務めることになりました。

 今回ご紹介の切手は、1957年8月1日に中国が発行した“中国人民解放軍建軍30周年”の記念切手のうち、南昌起義の場面を取り上げた4分切手です。周恩来は、蜂起の中心人物として、反乱軍(=テロリスト集団)の輪の中央、ワイシャツで描かれています。アジ演説をぶって、メンバーを煽りに煽っている感じですな。(下の拡大図参照)

周恩来(拡大)

 なお、この切手では、周の隣で椅子に腰掛けている朱徳など、教科書の写真では老人として写っている“革命の元勲”たちの若き日の姿が描かれているのも興味深いところです。
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 ビルマロード
2007-09-28 Fri 09:04
 先月から反政府デモが続いていたビルマ(軍事政権の自称はミャンマーですが、この呼称を認めていない人も多い)で、軍事政権がデモ隊への武力弾圧を一段と強め、僧侶1500人以上を拘束するとともに、集まった市民らを自動小銃などで強制排除。日本人ジャーナリストも亡くなりました。

 一連のニュースを見ていて、ふと、こんな切手を思い出して持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ビルマロード

 これは、1991年にアメリカが発行した“第2次世界大戦50年シリーズ”の1枚で、中国支援のためのビルマロードが取り上げられています。これは、アメリカ側が、「自分たちにとっての第2次大戦は日本の侵略を受けた中国を支援することから始まった」という歴史認識を持っていることを示すものと考えてよいでしょう。

 ところで、一口にビルマルートといっても、新旧2つの陸路と1つの空路があります。古来の交易路に沿って作られた最初のビルマルートは、英領ビルマのラングーンに陸揚げした物資を、ラシオ(シャン州北部の町)まで鉄道で運び、そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路でした。しかし、このルートは太平洋戦争の開戦後、日本軍が全ビルマを平定したことで、1942年に遮断されます。

 その後、米英はインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空輸に切り替え、中国への支援を続けていましたが、1945年1月、北ビルマの日本軍を駆逐して、英領インドのアッサム州レドからビルマを経て昆明まで至る新自動車道路(レド公路)が開通しました。

 さて、かつては中国にとっての命綱だったビルマですが、現在では、中国こそがビルマにとっての命綱になっています。

 すなわち、アウンサン・スーチーの軟禁から今回のデモ隊の武力鎮圧にいたるまで、国内の批判勢力と民主化要求を徹底して抑えこもうとしていることで、ビルマの軍事政権は欧米諸国から強く非難されており、国際的にも孤立しています。ところが、そうしたビルマにつけこむかたちで、中国は軍事政権に肩入れし、天然ガスを初めとするビルマの資源を確保することに躍起になっています。また、みずからも共産党の一党独裁体制を取っている中国にとって、周辺諸国で“民主化”が進み、それが自国に波及することはなんとしても避けたいという思惑もあり、そのことが、ますます、ビルマの軍事政権に親和的な姿勢をとる要因にもなっているわけです。

 なお、今日のラストは当初「まぁ、60年前の日中戦争のときのビルマロードの恩義を忘れずにいるというわけではないのでしょうが…」といった感じでしめようかと思っていたのですが、よくよく考えると、あの国は現在なお“抗日戦争”の話を要所要所で持ち出してくるんですよねぇ。結局、今も昔も、我々日本人にとっては、中国とビルマがくっつくとロクなことにならないのだけは、確かなようです。
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 『郵趣』今月の表紙:バーゼルのハト
2007-09-27 Thu 12:08
 (財)日本郵趣協会発行の『郵趣』2007年10月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げ、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

バーゼルのハト

 これは、1845年に連邦成立以前のスイス・バーゼルで発行された切手で、“バーゼルのハト”と呼ばれている1点です。

 スイス・ドイツ・フランス三国の国境地域に位置するライン河畔の都市、バーゼルは、古代ローマ時代に起源を持つ古い都市で、中欧の商業・交通の中心地として栄えていました。

 1648年、ウェストファリア条約(ヨーロッパのほぼ全域を巻き込んだ宗教戦争、30年戦争の講和条約)により、神聖ローマ帝国からの独立を認められた当初のスイスは、統一国家というよりも、独立性の高いカントン(州)の連合体という性質の強いものでした。ちなみに、現在の連邦国家体制が確立するのは、1874年の連邦憲法が採択されてから後のことです。

 そうしたスイス連邦を構成するカントンの一つであったバーゼルでは、1842年、独自の近代郵便制度の導入が検討されはじめました。そして、その料金徴収のシステムとして、イギリスのペニーブラックにならった“支払票(etiquettes-franco)”を発行することとなり、1844年1月までに、重さ1ロット(=15.5グラム)以下の郵便物に対して1クロイツェル(=21/2ラッペン)を、それ以上の郵便物に対しては2クロイツェルを、それぞれ徴収するために切手を発行するという方針が決まります。

 切手のデザインは建築家のメルキオール・ベリが担当しました。ベリは、デザインの中心に、手紙をくわえた白いハトを据え、その周囲を深紅の盾形で囲みました。“バーゼルのハト”の名の由来です。よく誤解されるのですが、このハトはバーゼルの紋章ではなく、通信の象徴として取り上げられたものです。ちなみに、バーゼルの紋章は、盾の中央上部、窪みの部分に描かれています。

 バーゼル市内郵便(STADT POST BASEL)の表示は、盾の下部を囲むように黒色で記され、4隅は薄青で彩色されています。額面の21/2Rp.は、その薄青をバックに切手の下部に入れられました。

 切手の周囲は、横18.5ミリ、縦20ミリの枠で囲まれています。この枠は、黒色の細い線が深紅の太い線を挟むスタイルになっていますが、一番外側の黒色の線まで完璧に残っているものはなかなかありません。切手の印刷は銅版を用いた凹版印刷で行われ、エンボス部分はフランクフルトのベンジャミン・クレブスが担当し、1845年に522シートが、1847年に515シートが作られました。1シートは日本の手彫切手と同じく横8x縦5の40面ですから、4万1480枚が製造された勘定になります。

 切手の発行は、1845年7月1日のことで、これは、スイスのカントンの中では、チューリッヒ、ジュネーヴについで3番目、ペニーブラックから数えると5番目(1843年にブラジルが“牛の目”を発行している)のことでした。

 その後、1850年にスイス連邦統一の切手が発行されると、バーゼルでもこの切手が用いられるようになり、1852年には“バーゼルのハト”の印刷用の原版は破棄されました。そして、1854年9月末日で、“バーゼルのハト”を含むスイスのカントン切手はすべて使用禁止となりました。ちなみに、ベルンにあるスイス郵政博物館には、この切手の現存する最大のマルティプルである3x5の15枚ブロックが収蔵されています。

 さて、今月号の『郵趣』では、<JAPEX>の事前予告として特別出品の“マーチン切手40周年”を巻頭特集で取り上げました。このほかにも、同じく<JAPEX>の事前予告として、英国王ジョージ5世の即位25周年を記念して全世界の英領で発行された1935年のジュビリー・イッシュー(たとえばこれもその1枚です)やボーイスカウト100周年の特集や戦後記念切手の試作品がテンコ盛りのサマーペックス・特別展示“なつかしの昭和”CD-ROMのご紹介など、カラー特集は盛りだくさんの内容となっていますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 サザン・アルプス
2007-09-26 Wed 11:10
 1907年9月26日にニュージーランドがイギリス連邦内の自治領となって事実上独立してから、今日でちょうど100年になります。というわけで、今日は、ニュージーランド切手の中から、僕のお気に入りの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ニュージーランド・平和記念

 これは、1946年4月1日、第二次大戦の勝利を祝って発行された“平和記念”の切手の1枚で、教会の窓から眺めたサザン・アルプスとフランツ・ジョセフ氷河が描かれています。

 サザン・アルプスは、ニュージーランド南島を形作る“背骨”にあたる山脈で、ヨーロッパのアルプス山脈にその姿が似ていることから、この名がつけられました。最高峰のクック山は標高3754mで、ニュージーランドで最も高い山です。このサザンアルプスの万年雪がゆっくりと西海岸へ滑り落ちることで出来たのがフランツ・ジョゼフ氷河で、周辺には氷河による侵食でできた湖やフィヨルドがあります。風景の美しさもさることながら、温帯にある氷河というのはとても珍しいので、その点でも人気の観光スポットになっています。

 氷河の名前となったフランツ・ジョゼフは、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフの名前を英語読みしたものですが、これは、1865年に氷河を探検したオーストリアの地理学者が自国の皇帝にちなんで命名したことによるものです。後に、両国は第一次大戦で敵国同士になりますが、この名前はそのまま維持されました。イギリス王室が、敵国ドイツとの関係を考慮して、ハノーバー朝からウィンザー朝に改名したことを考えると、おおらかな話です。

 切手は、教会の窓に置かれた十字架の黒と雪に覆われた背景のコントラストが秀逸で、画面全体を流れる静謐な雰囲気が見る者に自然と“平和”を感じさせる演出は、さすが、旧英領諸国の切手です。

 いわゆる太平洋戦争は、日本がアメリカ・イギリスと戦った戦争ということになっていますが、その“イギリス”のなかには、いわゆる英本国だけではなく、オーストラリアやニュージーランドの兵士たちも少なからず含まれていました。こうした視点から、あの戦争を見直してみると、従来とは違った歴史像が見えてくるということを、静かに語りかけてくれるような1枚といってよいでしょう。
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 かぐや姫
2007-09-25 Tue 11:02
 今日は旧暦8月15日の中秋節です。というわけで、ストレートに十五夜の切手ということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

かぐや姫

 これは、1974年7月29日に「昔話シリーズ」の第4集“かぐや姫”の1枚として発行されたもので、かぐや姫が“八月十五夜”に月へ帰る場面が描かれています。切手の原画を作成したのは日本画家の森田曠平です。

 竹取物語のラストでは、かぐや姫はもともと、罪を償うために地上に下った月の都の住人で、別れの時、御門に不死の薬を贈ったことになっています。その後、御門はそれを駿河の日本で一番高い山で焼くように命じ、それが“不死の山”(後の富士山)の由来になったと説明しています。

 また、かぐや姫に求婚してきた5人の男、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂のうち、阿部御主人、大伴御行、石上麻呂は平安期に編纂された貴族の名簿に同じ名前の人物の記録があるほか、車持皇子は“車持”の姓を持つ母親から生まれた藤原不比等、石作皇子は宣化天皇の4世の子孫で“石作”氏と同族の多治比嶋がモデルであったと考えられているようです。いずれも天武天皇・持統天皇の時代の人物ですから、物語の時代設定は奈良時代初期ということになるのでしょう。そうなると、僕たちがイメージしている十二単を着ているかぐや姫というのは、ちょっとおかしなことになるのですが(十二単が登場するのは平安時代の10世紀以降のこととされています)、まぁ、そのあたりをうるさくいうのは野暮でしょう。

 ちなみに、月の満ち欠けの周期は平均29.5日で、新月から満月までの日数が15日になるとはかぎらないため、“十五夜”が必ずしも満月になるわけではありません。ちなみに、今年は十五夜から2日後の27日が満月だとか。まぁ、そうはいっても、気分的にはやはり月見酒は今日の方がしっくり来るような気がしますが…。

 なお、この切手を含む「昔話シリーズ」についての詳細は、拙著『沖縄・高松塚の時代』でまとめていますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
別窓 | 日本:昭和・1972~1979 | コメント:2 | トラックバック:0 | top↑
 黒豹だったら、こうはいかない
2007-09-24 Mon 11:56
 福田康夫元官房長官が自民党の新総裁に選ばれました。明日、国会で首班指名だそうです。群馬県出身の総理は4人目ということで、群馬県がらみの切手のなかから、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

黒船屋

 これは、1980年10月27日、近代美術シリーズの第8集として発行された竹久夢二の『黒船屋』です。この作品は表具屋・彩文堂の飯島勝次郎氏の依頼によって描かれたもので、夢二の最高傑作といわれています。作品名の由来は女性の座っている木箱の文字で、制作を依頼した彩文堂は、この作品にちなんで、1918年4月11日、屋号を黒船屋に改めています。

 描かれている女性は、東京美術学校で藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめたお葉こと永井カ子ヨとされていますが、1918年10月に別れた内妻・笠井彦乃(夢二の最愛の女性とされる人物)の姿が色濃く投影されているようです。なお、お葉は夢二のモデルとして東京・本郷の菊富士ホテルに逗留していた夢二のもとに通ううちに同棲するようになり、その後、渋谷ならびに世田谷で1925年まで夢二と生活を共にしています。

 現在、『黒船屋』は群馬県の竹久夢二伊香保記念館の収蔵品となっており、毎年、夢二の誕生日にあたる9月16日の前後1週間のみ、予約制での公開となっています。ということは、昨日(=23日)までなら、実物を拝みに行くことができたんですねぇ。群馬県からの総理誕生ということで、特別に年内一杯まで公開期間を延長するという粋な計らいをしてくれないかなぁ。

 ところで、福田新総裁はその昔、早稲田大学(そういえば、新総裁の出身校ですな)のサークル、スーパーフリーの集団レイプ事件に関して「男は黒豹なんだから。情状酌量ってこともあるんじゃないの?」と発言していたことが、総裁選の直前に報じられていました。マスコミに散々たたかれた「産む機械」発言や「原爆投下はしょうがない」発言は、前後の文脈を読めば、まだ弁護の余地もありますが、“黒豹”発言ってのは流石にちょっとねぇ。普段だったら、フェミニスト団体や左派系の論調を展開する新聞が政治家の資質という点で大騒ぎするはずなのですが、なぜか、今回はあまり騒がれないのが不思議です。

 まぁ、話が横道にそれましたが、「黒船屋」の美女は黒猫だから安心して抱いていられるのであって、たしかに、これが黒豹だったらとんでもないことになるよなぁ、と切手を見ながら、ふと思ってしまった内藤でした。
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 タイのお墓
2007-09-23 Sun 12:44
 今日は彼岸の中日。日本ではお墓参りの日です。(僕は今年も行きそびれてしまいましたが…)というわけで、11月2~4日の<JAPEX>に併催のタイ切手展に合わせて刊行予定の拙著、『タイ三都周郵記』で使う予定の切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ワット・スワンドーク

 これは、1973年の“国連の日”の切手で、チェンマイの名刹、ワット・スワンドークの大仏塔が取り上げられています。

 ワット・スワンドークは、1383年、マンラーイ王朝第6代の王、クーナーが王宮の敷地内に建てた寺で、“スワンドーク”というのは“花の庭”という意味です。かつては敷地の周りには塀と堀がめぐらされており、巨大な本堂の中にはタイ全土でも一、二を争う大きさの青銅の仏像が安置されていることでも知られています。また、敷地内には、歴代の王族の遺骨を納めた小さな仏塔があります。

 クーナーがスコータイから招いた高僧、スモンテラが持ち込んだ仏舎利は、今回の切手に取り上げられた仏塔と、以前、このブログでもご紹介したワット・ドイステープの仏塔の2ヵ所に分けて収められており、それゆえ、チェンマイにとっては重要な寺となっています。

 実は、タイには日本のようなスタイルのお墓というのはなく、タイ人は遺骨を川に流すのが一般的です。ただ、王族等の遺灰や遺骨に関しては、例外的に寺院を建立してそこに収めることが行われています。その意味では、今回ご紹介のワット・スワンドークの境内の仏塔群などは、日本のお墓に近いものといっていいのかもしれません。

 さて、8月にチェンマイを訪れた際、僕はワット・スワンドークの実物を見に行きましたが、大仏塔はこんな感じで金ぴかに改修されていました。

ワット・スワンドーク(現状)

 地元の人にしてみれば、寺が綺麗になったことは喜ぶべきことなのかもしれませんが、それまで蓄積されてきた“時代”を全部塗りつぶしてしまうというのもねぇ…。まぁ、諸行無常が仏教の教えである以上、大仏塔の姿も昔と同じではないということになるのでしょうが、切手のような、白くすっきりとした塔を見られるものと期待していた僕にとっては、かなりショッキングな風景でした。 
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 Y1カバー
2007-09-22 Sat 09:12
 今日は(財)日本郵趣協会の会員大会ということで、横浜に出かけてきます。そこで、横浜がらみのマテリアルということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

Y1カバー

 これは、1876年、横浜に置かれていたイギリスの郵便局から差し出された郵便物で、香港切手が貼られ、Y1の文字の入った消印が押されています。

 1842年の南京条約の結果、中国大陸では広州・厦門・福州・寧波・上海の5ヵ所が開港地となり、各地に設けられた領事館内には郵便取扱所が置かれて、極東とヨーロッパを結ぶ本格的な郵便業務が行われるようになりました。

 その後、この5ヵ所に加えて、1858年には日本の開港に伴い、箱館(函館)、兵庫(神戸)、長崎、新潟、横浜が、1860年にはアロー戦争の結果として、牛荘、芝罘、漢口、九江、鎮江、台湾府、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津が開港され、これらの地域にもイギリスの郵便局が置かれ、各種条約に基づく開港地は21ヵ所にまで膨らみます。

 このうち、1862年に開局したとされる横浜局でも、1864年10月15日以降、香港切手が用いられるようになりました。その後、1866年2月17日には、厦門、広州、福州、寧波、上海、汕頭、横浜、長崎の各局に対しても、香港同様の抹消印が支給されることとなり、横浜にはY1というコード番号の入った印が支給されました。その後、1871年には日本政府による郵便が創業されますが、横浜のイギリス局は1879年末まで活動を続けています。今回のカバーの場合、裏面に押されている日付印からすると、横浜のイギリス局がこのカバーを受け付けたのは1876年7月25日で、8月3日に香港を経由し、さらに、マルセイユを経て9月14日にロンドンに到着しています。

 なお、東アジア各地で使われた初期の香港切手については、拙著『香港歴史漫郵記』でも説明していますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 アラブの都市の物語:バスラ
2007-09-21 Fri 03:25
 NHKのアラビア語会話のテキスト10・11月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回は、イラク第2の都市、バスラを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

バスラのカバー

 これは、第1次大戦中、バスラを占領した英印軍の野戦郵便局からミラノ経由でジュネーブ宛に差し出された書留便です。書留ラベルにはしっかりと“BASRA BASE”の文字が入っているます。また、貼られている切手は、インド切手にIEFの文字を加刷したインド遠征軍用のものです。

 イラク南部の港湾都市であるバスラは、第1次大戦以前はオスマン帝国の支配下にありました。

 列強の世界分割が進む中で、ベルリン・ビザンティウム(イスタンブール)・バグダードの3B政策を展開していたドイツは、イスタンブールとバグダードを結ぶ鉄道建設を進めましたが、各国は、いずれその路線がバスラまで延長され、ペルシャ湾へと繋がるものと考えていました。このため、インド防衛の観点から両国の進出を警戒したイギリスは、1899年、バスラに隣接するクウェートの支配者であったサバーフ家との間に、オスマン帝国の頭越しにクウェートを保護国とする条約を調印。さらに、第一次大戦が勃発すると、英印軍がバスラに上陸してこの地を占領しています。

 その後、イギリスの占領下でバスラは補給基地としてインフラ整備が進められ、1917年には近代港湾施設が築港されます。その結果、大戦後、イギリスの委任統治領時代を経て親英政権のイラク王国として独立すると、バスラは同国随一の貿易港として発展していくことになりました。

 今回の「切手に見るアラブの都市の物語」では、西暦7世紀に軍営都市としてバスラが建設されてから、イラク戦争後、この地に駐留していたイギリス軍の縮小・撤退が論議されている現在までのバスラの歴史をご紹介しています。ご興味をお持ちの方は、是非、現在発売中のNHKアラビア語会話のテキストをお手にとってご覧いただけると幸いです。
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 蔵王に産廃は似合わない
2007-09-20 Thu 09:05
 工事で出たコンクリート片などを蔵王国定公園にある自分の別荘に不法投棄したとして、仙台のリフォーム会社社長らが逮捕されたそうです。社長らは自分の別荘なら構わないと考えたのかもしれませんが、なんといっても国定公園のエリアですからねぇ…。困った人たちです。

 さて、蔵王といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

観光地百選・蔵王

 これは、1951年2月15日に「観光地百選」の第1集として発行された“蔵王”の8円切手です。

 観光地百選はもともと、毎日新聞社の企画で、10部門の観光地のベスト10を全国からの投票によって決めようというもので、各部門の1位となった10点が切手として取り上げられました。このうち、“山岳”の部で、233万676票(全部門を通じて200万票以上を獲得したのは蔵王のみ)を獲得し、第一位となったのが蔵王山です。

 蔵王は、宮城・山形の両県にまたがる連峰で、中央火口丘の五色岳(1674メートル)、外輪山の熊野岳(主峰:1841メートル)、刈田岳(1759メートル)などから構成されています。蔵王の名は、修験道の開祖・役の行者小角が、690年に金剛蔵王大権現をまつったことに由来するといわれ、冬のスキーと樹氷観光を中心に、火口湖の五色沼(通称・お釜。一日に何度も色を変えることからこの名がついた)や高山植物、温泉など、年間を通じて楽しめる観光資源にあふれています。 特に、シベリアからの湿った風が朝日連峰に突きあたって上空にのぼり、氷点下になっても水滴のままで飛んできたものが、アオモリトドマツに触れた瞬間に凍りつくという繰りかえしによってできる真冬の華・樹氷は、1936年にドイツのファンク映画製作所が撮影・紹介したことで、世界的にも知られるようになりました。

 さて、観光地百選切手の第一陣としての蔵王切手は、8円と24円の2種類が発行されていますが、今回ご紹介の8切手には堀修一が1947年に撮影したザンゲ坂下の風景写真が取り上げられています。堀は山形県観光係の職員で、当時、蔵王山写真の第一人者といわれていました。

 切手の発行にあわせて、地元では贈呈式が行われ、初日に印刷されたシートが関係者に贈呈されました。贈呈されたシートは、パラフィンの小窓がついた封筒(表面余白には、「贈呈 日本観光地百選観光郵便切手」などの文字が印刷されている)に封入され、封筒の裏面には「印刷廳封緘章」が捺されています。この贈呈用のシートは、単片にしてしまうと窓口発売の切手特別できませんが、耳紙に綴穴の痕跡がないため、シートの状態では一般のものと区別することは可能です。

 なお、切手発行にあわせて、山形県蔵王温泉・同笠井・宮城県青根・同刈田の各局では風景印の使用が開始されました。このうち、山形県の両局で使用された風景印のデザインは、蔵王山頂から北西部を望む風景に高山植物の「むしとりすみれ」を描くものと報道発表されましたが、これに対して、描かれているのは「むしとりすみれ」ではなく「こまくさ」の誤りではないかと収集家からの指摘がありました。一方、宮城県の各局で使用された風景印には、蔵王山頂の火口湖の大景が取り上げられています。

 なお、この切手を含む「観光地百選」の切手については、発行にいたるまでの経緯を含めて、拙著『濫造・濫発の時代』で詳しく解説していますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 タイの軍事郵便所
2007-09-19 Wed 04:58
 昨年9月19日のタイの軍事クーデターからちょうど1年がたちました。というわけで、タイの国軍関係のブツが何かないかと思って探してみたところ、こんなものが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

タイのベトナム戦争カバー

 これは、ベトナム戦争中の1968年(タイの仏暦で2511年)8月23日付の軍事郵便所の印が押されたカバーです。表にも紫色の軍事郵便所の印が押されていたのですが、不鮮明で日付もわかりませんでしたので、今回は裏面のみのご紹介としました。右側には、やはり8月23日付のバンコクの標語印が押されています。

 第2次大戦後の東西冷戦という国際環境の中では、インドシナ紛争に関する“ドミノ理論”が広く信じられていました。これは、南北に分かれて戦っているベトナムで北の共産政権がベトナムを統一するようなことがあれば、その影響で周辺諸国の共産主義勢力が力を得て、最終的には東南アジア全体が共産化するのではないかという考え方です。

 第2次大戦の終結から1991年まで、一時的な例外はあるにせよ、タイでは基本的に軍事政権が続いていました。王室を戴き権力を掌握していた国軍にすれば、共産主義の国内への波及はなんとしても阻止しなければなりませんから、タイは西側陣営の一員として“反共の防波堤”としての役割を積極的に買って出ることになります。

 具体的には、東南アジア条約機構(民族解放運動の展開を抑え、社会主義勢力を封じ込めることを目的に、1954年9月の東南アジア防衛条約によって作られた東南アジア・太平洋地域の軍事同盟。タイ、フィリピン、パキスタンの3ヵ国が加盟)に参加するとともに、ベトナム戦争ではアメリカ支持の立場を鮮明にして、1964年以降、東北地域を北ベトナム空爆(北爆)のための空軍基地として米軍に提供。さらに、1967年には約2000名の地上部隊をベトナムに派兵しています。今回のカバーもそうした状況下で差し出されたものです。

 こうした親米反共政策の結果、タイはアメリカの直接的な経済援助・軍事援助を獲得するとともに、インドシナへ派遣される米軍の補給・休養のための後方基地となり、急激な経済成長を遂げていくことになりました。

 ちなみに、他の東南アジア諸国に比べてタイでは道路の舗装率が高く、しかも、その舗装はアスファルトではなくコンクリートが主流になっています。これは、高温多湿の気候ではアスファルトが溶けてしまうという事情もさることながら、ベトナム戦争時に軍事目的を考慮して主要幹線の舗装が進められたという事情によるもので、重量のある軍用車両が通行しても大丈夫なように設計されているそうです。

 さて、11月初めの<JAPEX>にあわせての刊行を目指して、現在制作中の拙著『タイ三都周郵記』(仮醍)では、今回ご紹介のカバーも使いながら、ベトナム戦争期のタイのことについても触れる予定です。同書の内容については、追々このブログでも予告編的にご紹介していくつもりですので、よろしくお付き合いいただければ幸いです。
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 満洲事変1周年の特印
2007-09-18 Tue 14:32
 今日(9月18日)は1931年に満洲事変の発端となった柳条湖事件が起こった日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

満州事変1周年特印カバー

 これは、1932年9月19日に奉天からドイツ・ポツダム宛に差し出された書留便で、満洲事変1周年の特印が押されています。先日刊行された(財)日本郵趣協会の『日本郵便印ハンドブック』では、スペースの関係からこの印影は省略されていましたので、その補足としてご覧いただければよろしいかと思います。なお、本来の事変1周年は9月18日ですが、このカバーは翌19日の使用例です。

 日露戦争後のポーツマス条約により、東清鉄道の一部をロシアから継承した日本は、当然のことながら、鉄道付属地の権益も継承。満鉄(南満洲鉄道株式会社)は、撫順の炭鉱や鞍山の鉄鉱の経営、付属地の土木・教育・衛星などを担当し、条約に明文規定はなかったものの、実質的に付属地内の治外法権が設定されていました。その一環として、満鉄付属地には日本の郵便局が設けられ、日本切手が発売され、使用されています。

 こうした満鉄付属地は1932年3月の満州国建国後も維持され、満鉄付属地は実質的な治外法権区域として、日本の満洲経営の拠点として機能し続けていました。今回ご紹介のカバーも、そうした満鉄付属地内の奉天に置かれていた日本の郵便局から差し出されたものです。なお、当然のことながら、奉天には満州国の郵便局もあり、そちらでは今回ご紹介のものとは別に、このような特印(こちらの画像は奉天ではなく、安東ですが、まぁ勘弁してください)が使用されました。

 満洲国の建国後、満鉄付属地の問題は、満洲国の権限を一元的に掌握しようとしていた関東軍にとって微妙な存在となっていきます。

 そもそも、関東軍のレゾンデートルは、満鉄付属地を周囲の外敵から防衛することにあったわけですが、満洲国の建国により、満鉄付属地がその領内に包摂されるようになると、“周囲の外敵”の存在は考慮する必要がなくなりました。また、付属地内で従来同様の治外法権が維持されたことが、今度は、満洲国政府の権限がそこに及ばないという状況を生み出すことになり、それは、満洲国の実質的な支配者となった関東軍にとって不都合ということになります。

 このため、1935年8月、日本政府は、満鉄付属地の行政権を満洲国に移譲することを閣議で決定。1937年11月5日に締結された「滿洲國ニ於ケル治外法權ノ撤廢及南滿洲鐵道株式會社附属地行政權ノ委譲ニ關スル日本國滿洲國間条約」により、同年12月1日をもって満鉄附属地は撤廃されるまで、日満両国間でさまざまなやり取りがなされていくことになります。

 この辺の事情については、昨年刊行の拙著『満洲切手』でもいろいろと書いてみましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 *今日の昼過ぎ、アクセスカウンターが23万ヒットを超えました。沢山の方々の御訪問、心よりお礼申し上げます。
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 香港のお年寄りと年金
2007-09-17 Mon 11:12
 今日は敬老の日です。というわけで、なにかお年寄りが描かれている切手がないかと探してみたところ、こんな1枚が出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

太極拳と競馬

 これは、英領時代の1989年に香港で発行された「港人生活剪影(Hong Kong People)」の切手の1枚で、香港の代表的なスポーツとして、太極拳の老人と競馬が組み合わされています。

 2006年の統計によると、香港には65歳以上のお年寄りが85万2100名、率にして総人口の12.4%住んでいます。このうちの3割が老後は大陸で過ごしたがっているとのアンケート結果がありますが、これはお年寄りの多くが、香港で生まれ育ったのではなく、若い頃に大陸から香港に渡ってきたという事情も関係しているのでしょう。

 香港のお年寄りの多くは毎月2400香港ドル〜4000香港ドルの年金を受けていますが、そのお金で、広東省にある設備の比較的整って、コストの安い(入居費用は月額1000元程度)老人ホームで老後を過ごす香港人が増えてきているのだそうです。ただ、香港では年金を受けている高齢者の医療費は無料ですが、広東省の場合は高額の医療費が請求されるというデメリットがあります。

 香港では、返還後の2000年12月より、日本の国民年金制度にならって、強制年金制度(MPF(Mandatory Provident fund:MPF)が実施されています。この制度は、会社と従業員の双方が積み立てを行う強制拠出型の年金制度で、18歳〜64歳の労働者(現地雇用の外国人を含む。ただし、現地雇用ではない駐在員などは除く)が対象です。会社と従業員はそれぞれ、従業員の毎月の現金収入の5%(上限1,000香港ドル)を、登録されたMPFプログラムに預託。従業員が退職する際に、会社はMPF積み立て金を解雇保証金、長期服務金(日本の退職金に相当)として使うことができることになっています。

 年金の支給は60才以降で、60才になった時点で働いている人の場合は65才からの支給となります。また、一定金額以下の低所得者には免除制度がありますが、この免除制度も日本の制度に倣ったもののようです。

 中国香港政府による年金資金の運用は順調とのことですが、やはり、幼少時から投資の精神を徹底的に叩き込まれているかの地の役人は、日本のようにお金が余ったら無駄な箱物を作って使い切ろうとは考えないんでしょうねぇ。ただ、私物化とか使い込みというのは、どんな社会でもありうる現象ですから、香港の年金役人がすべて信用できるということにもならないでしょうけど。

 なお、現在香港在住のお年寄りの多くは、1949年に大陸で共産政権が成立した後、香港に渡ってきたものと考えられていますが、彼らが過ごしてきた香港現代社会の歩みについては、拙著『香港歴史漫郵記』で詳しくご説明していますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 『東京人』巻頭エッセイ
2007-09-16 Sun 10:41
 ご報告が遅くなりましたが、現在発売中の雑誌『東京人』10月号の巻頭エッセイに「昭和の遺産、東京中央郵便局」と題する文章を書きました。その中では、この切手が発売されたときのすさまじい行列の話にも簡単に触れましたが、スペースの都合であまり詳しく書けなかったのでこの場で補足します。(画像はクリックで拡大されます)

雨中湯帰り

 これは、1958年の「切手趣味週間」に発行された切手で、鳥居清長の浮世絵「雨中湯帰り」が取り上げられています。

 この切手は、前年来の切手ブーム(いわゆる“グリコの切手ブーム”)の中で、発行前から異常な人気を呼んでいました。このため、当初、1000万枚の発行が計画されていたのに対して、図案が正式に決まらない2月7日の段階で1200万枚に増加され、さらに、3月14日には1500万枚に、4月1日には2000万枚に、そして、4月12日には2100万枚へと増やされていきます。半年ほど前に発行された前回の趣味週間切手(まりつき)の発行枚数が、増刷文を含めて850万枚であったことを考えると、その増加ぶりがうかがえましょう。

 それでも、加熱するブームの中で、膨大な量の切手は瞬時に売切れてしまいます。

 発行日の4月20日早朝、東京中央郵便局には徹夜組を含む8000名が並び、その行列は、4列で東京駅側から東京ビル、三菱銀行本店の前を通って再び中央郵便局西側へと一巡。丸の内警察署から整理のための警官隊が出動し、在京のマスコミ各社の取材陣も殺到するなど、周囲は騒然とした空気に包まれていました。

 なお、当日は日曜日であったため、全逓が組合員に休日出勤をしないよう指示し、切手を販売するスタッフは課長クラスと非常勤の臨時雇用職員しかいなかったことも、混乱に拍車をかける一因となったといわれています。

 さて、当日の窓口は、一般用(1階窓口)と大口需要者専用(3階の切手普及課)の2ヶ所に分けられ、一般は1人5シートまで、大口購入者には1軒300シート(完封3個)までの販売制限が行われました。

 初日押印に関しては、4階の小会議室で40名ほどの学生アルバイトを動員して5万組の初日カバーを作っていましたが、一般の押印希望者は、切手の販売窓口とは別に、押印の窓口にも改めて並びなおさなければならず、初日の午前中の消印を取れずに悔しがる収集家も多かったようです。さらに、中央郵便局の職員の中には、初日押印の意味を理解していない者も少なくからずおり、行列の収集家をなだめるつもりで「切手は明日も売りますから」と説明したところ、殺気だった収集家から「2日目の初日カバーなんてモノがあるか、このバカ野郎!」との罵声が飛んでいます。

 結局、この日の東京中央郵便局では、怪我人が発生し、窓ガラスも割れるほどの大混乱の中で、同局だけで176万枚もの趣味週間切手が発売されました。

 東京中央郵便局ほどではないにせよ、今回の趣味週間切手に関しては、切手ブームの中で“切手は儲かる”との俗説に踊らされた多くの人々が競って買い込んだことから、初日の発売枚数は全国で490万枚に達し、用意された2100万枚は瞬く間に売切れてしまいました。そして、彼らの思惑に支えられるかたちで、この切手の市価は、発行後間もなく、14円前後にまで急騰します。

 これに対して、加熱する切手ブームが、記念切手そのものへの批判(すでに、教育関係者の間では切手収集は児童に悪影響を及ぼすとの認識が定着しつつあった)を招きかねないことを恐れた郵政省は、まず、5月初旬、全国4万6000の小中高校に「切手趣味の正しい在り方」を記した“お願い”のパンフレットを配布。学童・生徒による行き過ぎた切手購買熱には郵政省自身も憂慮していることを訴え、なんとか、教育関係者からの批判をかわそうとします。

 さらに、切手発行から約1ヶ月後の5月16日、郵政省は、ついに「最近の記念切手需要の激増に応ずるため本年度の切手趣味週間、日本開港記念をはじめとして今後発行する特殊切手については需要のあるだけいくらでも増刷する」と発表。これを機に、値上がりを期待する人々の信じていた“希少価値”は消滅し、利ざやを稼ぐ目的で大量の買入広告を出していた業者の買受取消(最も大口のもので350万円分のキャンセルがあったといわれている)や投売りがはじまり、それまで1枚14円前後で取引されていた趣味週間切手の市価は、一挙に、額面割れの9円前後にまで暴落しました。この結果、今回の趣味週間切手には、図案の雨傘にちなみ、“破れ傘”とのニックネームがつけられることになります。

 また、“破れ傘”の暴落に引きずられるように、1958年3月には80円前後で取引されていた「ビードロを吹く娘」が、6月には55円前後に、同じく50円前後で取引されていた「写楽」は35円前後に、25円前後で取引されていた「まりつき」は17円前後に、それぞれ、下落。前年夏のグリコのオマケに端を発した切手ブームは崩壊してしまいました。

 こうしたバブルの崩壊について、いわゆる切手ブーム以前からの収集家の多くは、“郵趣界正常化の第一歩”としてこれを歓迎していましたが、収集家の中には、素朴にカタログ価の値上がりを楽しんでいた層も少なからずあり、そうした人々の中には、突然の市価の暴落に戸惑う声も少なくなかったようです。

 もっとも、“破れ傘”に見られる切手ブームの終焉という実態は、切手には興味のない一般の人々の間ではそれほど認識されることはありませんでした。このため、4月20日の東京中央局での混乱の記憶が生々しかったこともあって、週刊誌の中には、5月16日の郵政省発表の後も“切手ブーム”を特集し、“切手は儲かる”との俗説を広めるものが少なからずあり 、切手ブームの社会的影響がいかに大きかったか、現在の我々にも再認識させてくれます。

 今回の『東京人』のエッセイは、一言でまとめると「皆さんお忘れかもしれませんが、昭和30~40年代には切手ブームが列島中を覆っていて、“切手”の社会的影響力というのは非常に大きかったんですよ。その中で、東京中央郵便局はさまざまなドラマの舞台だったことを思い出してください」という趣旨でまとめてみました。東京中央郵便局の建て替え問題については、建築としての価値云々を議論する人は多いのですが、そこにまつわるさまざまなエピソードも“戦後”という時代を語る上で見落としてはならないというのが、この問題についての僕の思いです。

 機会がありましたら、ぜひ、ご一読ください。
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 高山辰雄の「するめいか」
2007-09-15 Sat 12:06
 日本画家の高山辰雄さん(以下、敬称略)が、昨日(14日)、肺炎のため95歳で亡くなったそうです。心よりご冥福をお祈りいたします。というわけで、今日は追悼の意味を込めて、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 するめいか

 これは、魚介シリーズの第11集として、1967年6月30日に発行された“するめいか”の切手です。

 1966年から発行が開始された魚介シリーズは、それまでにも世界各国で発行された魚介関連の切手とは一線を画し、日本独自の切手を作りたいという意気込みから、当代一流の日本画家に原画の制作が委嘱されました。ただし、画家の芸術作品は、必ずしも、生物学的に魚介類の生態を正しく表現するものではありませんでしたので、その点で、いくつかの切手に関しては“不正確”という批判が浴びせられています。

 デザインを委嘱する画家の選定は、郵政省と図案審議委員で日本画家の山田申吾によって決められ、日展の加藤栄三、森日甫、山口蓬春、福田平八郎、杉山寧、橋本明治、山口華楊、青龍社の川端龍子、院展の前田青邨、岩橋英遠、堅山南風、新制作派の上村松篁、吉岡堅二らが最初の候補となりましたが、この時点では日展を舞台に活動していた高山辰雄の名前は入っていません。高山といえば人物画のイメージが強かったからかもしれません。ただ、実際に発行された切手では、日展の森、福田、山口華楊の作品はありませんから、高山は彼らの代役として白羽の矢が立てられたのでしょう。なお、画料は、一枚十万円として予算が計上されました。

 画題となったスルメイカは、北はサハリンから南は台湾まで広く分布しており、日本近海のほぼ全域で獲れますが、三陸や北海道では、特に晩秋から冬にかけての漁獲量が多くなっています。胴の長さは約30センチで、足の長さは胴の3分の1程度です。赤茶色の小さい斑点が多数あり、それらが収縮して体色を変えます。イワシとともに、最もポピュラーな大衆魚として、日本の食文化に欠かせない存在です。

 全国に分布するだけに、初日押印の指定局を絞りこむのは難しかったようですが、最終的には、北海道の森局が指定されました。同局の担当する北海道茅部郡森町は全国でも有数のイカの産地で、名物の“いかめし”もあることが決め手となったといわれています。

 なお、この切手を含む「魚介シリーズ」全体については、拙著『切手バブルの時代』で詳しく解説していますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 鳥居風のブランコ
2007-09-14 Fri 11:01
 バンコクの名所のひとつ、ジャイアント・スウィングことサオ・チン・チャーが建て直され、一昨日(12日)夕方、国王もご臨席の下、祝賀式典が行われたというニュースを新聞で読みました。というわけで、そのサオ・チン・チャーの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

サオチンチャー

 これは、1974年の“国連の日”に発行された切手で、サオ・チン・チャーと、背後には隣接する名刹、ワット・スタットが取り上げられています。

 サオ・チン・チャーは、王宮から東に向かって走るバムルンムアン通の最大のランドマークで、高さ21メートルの2本の柱の先端を横木で結んだ総チーク材の巨大建造物で、ちょうど大鳥居のような形をしています。現在のラタナコーシン王朝を開いたラーマ1世時代の1784年、王都バンコクの建設にあたって、インドラ神の降臨を仰ぎ、その年の豊作を祈念するための宗教儀礼を行う施設として建設されました。

 木製の柱は、1920年にチーク材の伐採権を与えられていたイギリス人(皇太子時代のラーマ五世の英語の家庭教師だったアンナ・レオのウェルズの息子)がバンコク市に寄付した2代目のものに交換されており、先ごろ取り替えられた柱は3代目のものということになります。

 サオ・チン・チャーでの儀式は、毎年旧暦の2月、横木に4人乗りのブランコを吊るし、傍らに設けた竹ざおの先に金の入った袋を置いて、ブランコを思い切り揺らして、それを口にくわえて取るというもの。儀式の日には多くの観衆が周辺に集まって、喝采を送るのが高齢の景色でした。サオ・チン・チャーが英語で“ジャイアント・スウィング”と紹介されることも多いのはこのためです。

 サーカスの空中ブランコまがいの儀式を行うのは、はじめのうちは僧侶でしたが、彼らがそのための特殊な訓練を積んでいるはずもなく、6-7階建のビルに相当する高さから地面にたたきつけられて死傷するものが続出。後には罪人がブランコに乗せられたそうです。このため、あまりにも危険が大きすぎるということで、ラーマ七世の時代に儀式は中止されてしまいますが、サオ・チン・チャーじたいは撤去されずに現在でもバムルンムアン通の中央に残されているというわけです。

 さて、自民党次期総裁の有力候補の一人、福田元官房長官に関して、中国側が『新京報』紙上で、「アジア外交を重視し、首相の靖国神社参拝に賛成していない」と期待感を表明しているそうです。まぁ、彼らには彼らのロジックがあるので放っておけばいいのですが、こういうコメントが出ると、毎度のことながら、その尻馬に乗って「だから福田が良い」などと騒ぎ出す輩が出てくるんでしょうねぇ。他国の支持を背景に一国の総理になるなんて、それこそ、売国奴といわれかねないことですから、中国側のコメントが出ることじたい、当の福田氏にとっては(まともな人間なら)迷惑千万だと思うのですが…。

 いっそ、そういう“親中派”の連中は、靖国神社の大鳥居をサオチンチャーに見立てて、空中ブランコに乗せ、竹ざおの先“日中友好”と書いたお金入りの袋を吊るして、それを口にくわえて取らせてみたらどうか、とついつい罰当たりなことを考えたくなります。
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 日印交流年は継続中
2007-09-13 Thu 12:18
 昨日(13日)の安倍総理の辞意表明にはビックリしました。安倍政権の業績を(とりあえず、評価については判断を保留して)探してみると、とりあえず、防衛庁の防衛省昇格、教育基本法の改正、国民投票法の制定などがあげられると思いますが、どれも直接の切手にはなっていません。ただ、目先を変えてみると、安倍政権がらみといえないこともないモノが切手がありましたので持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

日印交流年

 これは、今年(2007年)5月23日に発行された“日印交流年”の記念切手で、郵政公社の報道発表では次のように各切手のデザインを説明しています。

【タージ・マハル】((1)タージ・マハル/(2)ラクダとタージ・マハル)
 インド北部アグラにあるムガール帝国王妃の白亜の霊廟。1983年に世界文化遺産に登録された大理石に宝石等が散りばめられている美しい建物で、イスラム建築の至宝とも言われています。

【ベンガルトラ】((3)ベンガルトラ)
 インドを中心としてアジア各国に生息しており、トラの中ではシベリアトラに次いで2番目に大きい種類です。密猟や森林伐採など人間の活動により生存が脅かされており、1992年現在、インドに約3,000頭、バングラデシュに約300頭、ネパールに約100頭と言われています。

【インドクジャク】((4)インドクジャク)
 主に中国から東南アジアに分布しているキジ科の鳥で、インドの国鳥。毒虫や毒蛇類を好んで食べるため益鳥として尊ばれ、このことが転じて、邪気を払う象徴として孔雀明王の名で仏教の信仰対象にも取り入れられました。

【サーンチーの仏教建造物群】((5)サーンチー仏教遺跡/(6)サーンチー仏教遺跡の女神像)
 1989年に世界文化遺産に登録された、インドに残る最古の仏塔です。紀元前3世紀頃から仏教信仰の場となりました。

【インド細密画】((7)インド細密画)
 18世紀、ラージャスタン州で発達した細密画です。

【インド更紗】((8)インド更紗)
 粗密のある木綿の生地に、媒染模様染というインド更紗特有の技法で模様が染め表されたものです。

【民族舞踊】((9)民族舞踊バーラット・ナティアム)
 南インドの舞踊で、インドの代表的な舞踊のひとつです。

【古典舞踊劇】((10)古典舞踊劇カタカリ)
 インドの四大古典舞踊のひとつで、世界三大化粧劇のひとつとも言われています。世界最古の演劇クリヤッタムや武術の要素が加わって1500年頃に成立しました。「カタ」は物語、「カリ」は舞踊を表します。

 日印交流年の企画そのものは、2005年4月に小泉総理(当時)がインドを訪問した際、マンモハン・シン首相との間で“日印文化協定締結50周年”を記念して、2007年を“日印交流年”とするとしたことによるものでした。

 アジアにおける中国の影響力が急速に拡大し、それがあらゆる面でわが国の脅威になっている現実を考えるなら、中国を牽制するため、中国と隣接するアジアの大国、インドとの結びつきを強めるのは、わが国として当然の選択です。安倍総理が8月にインドを訪問して、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯全員の無罪を主張した故パール判事のご長男と会談したり、第二次大戦中に日本と連携して戦った独立の英雄、チャンドラ・ボースの記念館を訪れたりしたのは、いずれも、中国を牽制するための日印連携という文脈に沿ったものでした。その意味では、今年の“交流年”のイベントは、国民にインドとの友好をアピールするうえで悪くない企画だったように思います。

 こうしたことを踏まえて、昨年末から今年初めにかけては、秋の全国切手展<JAPEX>と併催の外国切手展の企画に関しては、「今年は日印交流年の切手も出ることだし、“インド”を取り上げたらどうか」という話が出たことがあります。ただ、検討を進めていく過程で、「日印交流年は“政治銘柄”の色彩が強いため、安倍政権が11月まで安泰なら問題はないが、こけてしまったら…」という懸念(幸か不幸か的中してしまったわけですが)にくわえ、今年修好120年を迎える“タイ”のほうが日本人にとっては親しみやすい(たとえば、旅行者の数を比べると、その差は一目瞭然です)と思われましたので、最終的には、タイ切手展をやることになり、現在、準備を進めているところです。

 まぁ、日印交流年そのものは誰が首相になろうと今年の末までずっと続いているわけですが、中国の意向を必要以上に忖度するような人物が後継総理に就任してしまって、日印の連携を強めるという路線が有耶無耶になってしまうのは困りものです。この切手を見ながら、ふとそんなことを考えてしまいました。
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 建設の風景:レンガ積み
2007-09-12 Wed 10:44
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の9月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月号はこんなモノを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ハンガリー・レンガ積み

 これは、1955年にハンガリーで発行されたレンガ積み職人の切手です。

 機械化が進む建設現場の中でもレンガを積む作業だけは現在でも手作業で行われているため、各地の現場では、多くのレンガ職人たちが昔と変わらず日々汗を流しています。

 レンガの積み方の代表的なものとしては、フランドル積み(フランス積み)とイギリス積みがあります。前者は、正面から見たときに、1つの列に長手(レンガの長辺)と小口(短辺)が交互に並んで見える積み方(Ⅱ=Ⅱ=Ⅱ・・・となります)で、後者は一つの列が長手、その上の列は小口、その上の列は長手…と重ねていく積み方(1列目はⅡⅡⅡ…、2列目は===…となります)です。フランドル積みの方が見た目は良いのですが、手間がかかるうえに構造的にはやや弱いということで、現在はイギリス積みが主流となっています。

 今回ご紹介している切手の職人は、イギリス積みの作業に汗を流しているようです。なお、ヨーロッパではレンガで構造を組み立てた後で表面を石や漆喰で仕上げることも多いため、この職人の仕事も、建物が完成した暁には目に見えないところへ隠れてしまったかもしれませんね。
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 柔道からjudoへ
2007-09-11 Tue 11:04
 国際柔道連盟(IJF)の総会で、任期満了に伴う理事の改選の結果、再選を目指していたロサンゼルス五輪金メダリストの山下泰裕候補(現職の理事)が落選し、日本は1952年のIJF加盟以来、初めて執行部から姿を消すことになりました。というわけで、こんな切手をもってきて見ました。(画像はクリックで拡大されます)

モナコ・柔道

 これは、1964年の東京オリンピックに際してモナコが発行した記念切手で、judo(柔道)が取り上げられています。東京オリンピックに際しては、“日本”をイメージするスポーツとして、judoは世界各国の切手に取り上げられましたが、モナコの切手には赤と青の柔道着で組み合う選手が描かれており、柔道着は白が当然という当時の常識から見れば“トンでもデザイン”とみなされていました。

 しかし、1986年にマーストリヒトで開催されたIJFの理事会で初めて、東京オリンピックの金メダリスト、ヘーシンク氏がカラー柔道着(一方を白、他方を青とするもので、切手のように完全に色を自由化しようということではありません)を提案。以後、1989年と1993年の2回にわたり、IJFの総会で欧州柔道連盟(EJF)が提案したカラー柔道着の提案は否決されたものの、1997年にパリで開催されたIJFの総会では、カラー柔道着の導入は圧倒的多数で可決されました。

 ヨーロッパのカラー柔道着推進派が一貫して主張してきたのは、①観客に分かりやすい、② 誤審が少なくなる、③テレビ映えするので、放映権料など連盟の収入増につながる、④これらのことが、結果的に国際競技としてのjudoの存続・発展につながる、というものでした。これに対して、柔道発祥の地である日本側は常に反対の立場をとり、さまざまな反論を展開しましたが、最終的には、①白い柔道着に黒帯は柔道の伝統的ユニフォームである、②カラー柔道着の導入によって用意する柔道着の数が増えることは選手の負担増につながる、というのがその論拠となっていたようです。

 僕のような柔道の門外漢からすると、両者の主張を比べてみた場合、どう考えてもヨーロッパ側の主張のほうに理があったように思えます。少なくとも、柔道着の色を変えたら柔道の本質が変わるということはありえないわけですし(このことは、ほかならぬ山下泰裕氏ご本人がご自身のHPでそう言っています)、微妙な判定が問題になるケースも少なくないわけですから、連盟側として誤審を防ぐ最大限の努力をするのはあたりまえのことで、そこに伝統云々というだけの精神論・感情論を持ち出しても説得力はないでしょう。ただし、これらはあくまでも国際大会などのルールとして理があるかということであって、個人や同好のサークルで趣味として柔道を楽しむ場合には、必ずしもそうした制約にとらわれる必要がないのは当然です。

 今回の山下候補の落選でIFJに日本人の理事がいなくなったことについては、一日本人としては残念に思いますが、日本の柔道が国際競技のjudoとして浸透していく中では、いずれは避けられないことだったのではないかと思います。世界的に見たら日本ローカルのままで終わっても伝統を固守するのが良いのか、伝統をある程度犠牲にしても世界スポーツとして普遍性を追求していくのが良いのか、そのあたりについては議論が分かれるのでしょうが、今回の一件は、あらためて柔道がjudoとなっている現実を我々に見せ付けてくれたといえそうです。

 なお、今回のモナコの切手を含め、柔道がjudoになりつつあった時代に各国で発行された柔道切手については、拙著『外国切手の中の日本』でもいろいろと取り上げていますので、よろしかったらご一読いただけると幸いです。
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 アマチュア無線80年
2007-09-10 Mon 11:49
 今日(9月10日)は、いまから80年前の1927年、兵庫県の草間貫吉に無線電信電話実験局第一号(コールサインJXAX)の免許が交付された日で、アマチュア無線の記念日とされています。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

アマチュア無線50年

 これは、1977年に発行されたアマチュア無線50年の記念切手で、図案は、昭和初期のホーン型スピーカーと電鍵を描き、電波の波形が配されています。

 1895年にイタリアのマルコーニが無線電信を発明した際、無線にはプロもアマチュアもなく、興味を持った人が自由に交信していました。しかし、1904年に勃発した日露戦争や1912年のタイタニック号事件などを通じて無線の有用性が広く認識されるようになると、国際的な電波管理の枠組みが構築され、電波の国家管理が本格的に始まります。

 すなわち、1912年にはアメリカで電波法が施行され、個人の楽しむアマチュア無線が営業用ないしは公共の無線を妨害しないよう、周波数の制限が始められました。わが国でも、1915年に施行された無線電信法により、無線は原則として軍、官公庁、船舶、飛行機にしか使えないことになり、民間には無線の研究をすることを建前として団体に「実験局」の設立が許可されるだけになりました。

 しかし、無線の発達に伴い、世界各国で個人にも「実験局」開局を許可するよう求める声が高まり、1924年にはアメリカ政府が世界で初めてアマチュア無線用の周波数を公認。わが国でも、1926年5月、アマチュア無線家が日本アマチュア無線連盟(JARL)を結成して運動を展開。翌1927年9月、兵庫県の草間貫吉がJXAXのコールサインを得て個人として初めて実験局の開局を許可されました。これが、わが国におけるアマチュア無線の始まりとされています。

 当初、JARLでは、連盟創立50周年に当る1976年の記念切手発行を目指して郵政省に申請を行っていました。しかし、JARLが公的機関ではないということからこの申請は却下され、代わりに、草間に免許が公布されたことから起算して五十周年にあたる1977年9月に、「アマチュア無線50年」の記念切手を発行することが決定されます。ただし、草間への免許交付は、一般には9月10日とされていますが、記念切手の発行は9月24日で2週間ほどのズレがあります。

 なお、この切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも解説していますので、よろしかったら、ぜひご一読いただけると幸いです。
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 重陽の節句
2007-09-09 Sun 11:38
 今日(9月9日)は重陽の節句。旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれ、邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりする日です。

 というわけで、今日はストレートにこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

菊切手

 これは、1899年10月1日に発行された15銭切手です。1899年1月1日から発行が始まった通常切手のシリーズは、菊花紋章を中央に大きく描いていることから“菊切手”と呼ばれていますが、これもその1枚です。

 日清戦争後の1897年、逓信省は通常切手のデザイン一新を計画します。その理由は、公式には次のように説明されています。いわく、従来の切手(いわゆる小判切手のことです)は、1876年以来、断続的に額面を追加して発行してきたため、デザインが不統一で、現場の郵便局員の間では額面を見誤る例が少なからずあった。また、急激な技術水準の向上に比べて、低いレベルの技術のままで作られた切手では、偽造のおそれも出てた…

 もっとも、こうした技術的な面に加え、日清戦争後の三国干渉を経て、日本社会全体に国粋主義的な傾向が急速に広がっていく中で、明治10年代の欧化主義を象徴するかのような切手のデザインに対する不満が広がっていたという背景を見逃すことはできないでしょう。ちなみに、当時の逓信大臣・末松謙澄も、小判切手のデザインに不満を述べています。ちなみに、通常切手のデザインを一新するに当たって、印刷局と逓信省との協議の結果、「切手に欧文を入れるのは独立国の体面上妥当ではない」「大日本帝国の切手であることを示すには菊花紋章のみで十分」「(小判切手に見られる)“IMPERIAL JAPANESE POST”の表示は絶対に外す」ことなどが基本方針として決定されています。

 この方針の下、印刷局の斉藤知三が原図を作成し、原版を彫刻して完成したのが、今回ご紹介している菊切手です。

 菊切手のデザインは、額面の表示以外、文字は全て漢字で、小判切手に見られる英文の国名表示はありません。また、欧化主義の時代に発行が開始された小判切手では、西洋の交通・通信のシンボルである車輪、スクリュー、気球などが入れられていましたが、菊切手では、それらは駅鈴に置き換えられています。駅鈴とは、律令制下で公用の駅馬を利用する際の一種の身分証として携行される鈴のことで、使者はこれを鳴らしながら往来したといわれており、日本古来の伝統的な通信のシンボルとして、現在でも、図案化されて使われることがあります。

 いずれにせよ、小判切手と比べると、きわめて国粋主義的な色彩の強い切手であり、日露戦争に向かいつつある、当時の日本社会全体の空気が切手上にも影を落としているといってよいでしょう。

 なお、日清戦争から日露戦争へと向かう時代の中で、明治政府が切手のメディアとしての側面をどのように認識し、活用していたかという点については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析していますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
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 パヴァロッティの眠る街
2007-09-08 Sat 01:29
 6日に亡くなった世界的テノール歌手、ルチアーノ・パヴァロッティの葬儀が、今日(8日)、生まれ故郷モデナの世界遺産に指定されている大聖堂で営まれるのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

イタリアン・ステイツ:モデナ

 これは、イタリア統一以前の1859年、モデナで発行された切手です。

 イタリア北部の都市で、中世の学問の府であったノナントラの修道院や、特産品バルサミコ酢で有名で知られるモデナは、フェラーラやレッジョとともに、イタリアの有力貴族であったエステ家の支配下に置かれていました。このうち、フェラーラは1597年に教皇領に併合されますが(教皇領としてのフェラーラから差し出されたカバーはこちら)、その後も、エステ家は以後もモデナおよびレッジョ公国(モデナ公国)を支配し続けました。

 ナポレオン戦争の時代、モデナ公国はナポレオン・ボナパルトの創設したチザルピーナ共和国に併合されますが、戦後の1814年に復活します。しかし、いわゆるリソルジメントのイタリア統一運動の過程で、1859年6月にサルデーニャ王国に併合され、1861年3月17日に発足したイタリア王国の一部になりました。

 モデナ公国としての最初の切手は1852年に発行されました。デザインは王冠と鷲を組み合わせたエステ家の紋章です。1859年にサルディーニャに併合されると、この切手に代わり、十字の楯と王冠のサヴォイ家(サルディーニャの王家)の紋章が入った切手が発行されました。今回ご紹介している切手は、サルディーニャ併合後に発行された5センティシミ切手です。

 ところで、パヴァロッティの葬儀がモデナの大聖堂で行われるのは現地時間の今日午後1時からだそうで、日本時間では午後8時(サマータイム期間中のため、現在の時差は7時間)になります。ちょうど晩飯時でもありますし、今夜は、モデナ特産のバルサミコをきかせた料理を肴に、イタリア・ワインで献杯といきますか。
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 パナマ運河
2007-09-07 Fri 04:19
 1999年末のパナマ運河返還を決めた新パナマ運河条約の調印から、今日(7日)で、ちょうど30年になります。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

パナマ米軍事局のカバー

 これは、1982年11月13日、パナマ運河地帯に設けられていた米軍の野戦局から差し出されたカバーで、消印には“パナマ共和国/アメリカ合衆国軍事郵便局/パナマ運河条約によって公認済”との表示も見えます。

 パナマ地峡に運河を建設しようという計画のルーツは、古くは1534年、スペインのカルロ1世が調査を指示したことに求められます。

 19世紀になり、スエズ運河を設計したレセップスはパナマ運河の建設を計画し、実際に1880年1月1日に工事も開始しましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題、資金調達の面などから、1889年に計画は放棄されてしまいます。

 これに対して、1902年、アメリカが運河建設を決定。当時、パナマ地峡は自治権をもつコロンビア領でしたが、運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくため、1903年1月22日、コロンビアとの間に、①コロンビアがレセップスの設立した新パナマ運河会社の運河建設権を米国に売却することを認めること、②運河地域の排他的管理権等を米国に付与すること、③米国は一時金1,000万ドル及び運河地域の年間使用料として25万ドルをコロンビアに支払うこと等を規定したヘイ・エルラン条約を結び、運河の管轄権を握ろうとしました。

 しかし、コロンビア議会が条約を批准しなかったため、同年11月3日、アメリカはコロンビアの支配に不満を持っていたパナマ住民を扇動して独立を宣言させます。こうして発足したパナマ共和国を、アメリカは10日後の11月13日に承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を締結。運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手しました。

 工事は1903年から始まり、3億ドル以上の資金を投入し、1914年8月15日に開通。運河収入はパナマに帰属するものの、運河地帯の施政権と運河の管理権はアメリカに帰属することになります。その後、運河地帯両岸の永久租借地にはアメリカの軍事施設がおかれ、南米におけるアメリカの軍事拠点として機能していました。このカバーの軍事郵便局も、そうした経緯で設けられていたものです。

 しかし、1960年代にパナマの民族主義が高まり、運河返還を求める声が強くなる中で、軍事クーデターによってオマル・トリホスが権力を掌握。これより運河返還をめぐる協議が開始され、1977年、カーター政権の時代に新パナマ運河条約が締結され、1999年末をもって、運河および運河地帯の施政権はパナマへ正式に返還されることになりました。

 その後、通航量の増加や船舶の大型化に対応すべく、パナマ政府は2006年4月に運河の拡幅計画を発表。同年10月の国民投票での承認を経て、今月3日に工事が開始されました。なお、完成は運河開通100周年の2014年の予定だそうです。
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 ベルギーの南極基地
2007-09-06 Thu 12:55
 昨日(5日)、ベルギーが40年ぶりに建設する南極基地がブリュッセル市内で公開されました。新しい基地は真上から見るとほぼ8角形で、全エネルギーを太陽と風力で賄う世界初の“ゼロエミッション(廃棄物排出量ゼロ)”基地なのだそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ベルギー・南極の犬

 これは、1957年から1958年の南極観測隊派遣に際して発行された寄付金つき切手の小型シートで、ベルギー最初の南極基地(おそらく、イメージ図でしょう)を背景に犬ぞりの犬が描かれています。

 ベルギーと南極の関係としては、1897年にベルギー人のアドリアン・ド・ジェルラシによって多国籍の探検隊がアントワープで結成され、彼らの探検船ベルジカ(BELGICA)が、1898年2月28日から1899年3月14日まで越冬したことにさかのぼります。

 こうした伝統もあって、1957年7月1日から翌1958年年12月31日までの“国際地球観測年”に際しては、各国と並んで、ベルギーも南極に観測隊を派遣。その資金を得るため、1957年10月18日に発行されたのが今回の切手というわけです。

 ところで、ベルギーの南極基地は、日本の昭和基地とロシアの基地の間に設置されており、日本にとっては、約700キロ離れた“お隣さん”になります。このため、こんなエピソードも残されています。

 1937年、ノルエー隊が作った南極の地図には、南緯71度、東経36度あたりに“多くの氷をかぶらない山々ある”の記録があり、この山脈は一般に“1937年山脈”と名づけられていました。

 1960年10月、日本隊とベルギー隊は、この山脈に名前をつけようと調査・観測活動にしのぎを削っていました。先にこの山脈を測量・調査していたのは日本側で、彼らはここを“やまと山脈”と命名するつもりでした。ところが、公式の手続きという点では、ベルギー隊が日本に先んじて、ここを“クイーンファビオラ山脈”と命名してしまいます。

 ところで、このときの観測・測量作業中、ベルギー隊のデブロイク(地質学者)が遭難。このため、日本隊のメンバーは彼の救助に乗り出しました。ところが、デブロイク救出のために日本隊の隊員の大半が出払っているときに、日本隊の福島隊員が遭難。このため、デブロイクが自力でベルギー基地に帰還できたものの、日本隊は福島を捜索できず、福島は行方不明のまま殉職ということになりました。

 こうしたことから、ベルギー隊も日本に対する負い目があり、双方の協議の結果、①山脈の名前は“クイーンファビオラ山脈”と“やまと山脈”を併記する、②山脈D群の最高峰を“福島岳”とする、③山脈のそれぞれのピークの名前については、福島岳以外はA、B、C、D、E、F、G山群という仮称のままにする、ということで決着が図られました。ちなみに、アメリカ地理学協会の南極地形図(500万分の1)では、これをふまえて、“クイーンファビオラ山脈(やまと山脈)”と記載されています。
 
 まぁ、領有権が直接絡まない南極ならではの出来事だったと言ってしまえばそれまでですが、“日本海”の名称に難癖をつけているどこかの国の人たちにも、ぜひとも知っていただきたいエピソードです。
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 ルール炭鉱と韓国
2007-09-05 Wed 12:03
 今日(9月5日)は、石炭の良さを見直そうという趣旨のクリーン・コール・デイ(Clean Coal Day)なのだそうです。というわけで、石炭がらみということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ドイツ社会福祉(1957)

 これは、1957年10月1日に西ドイツ(当時)で4種セットで発行された社会福祉切手の1枚で、炭鉱内での採炭場面が取り上げられています。このときのセットは、いずれも、炭鉱労働者を題材に取り上げたもので、ほかの切手にはカンテラを持つ炭鉱夫や石炭をベルトコンベアで運ぶ場面などが取り上げられていますが、やはり、直接採掘している場面を取り上げたこの切手が、それらしくて僕は好きです。

 ルール炭田、ザール炭田、ザクセン炭田などを抱えるドイツは、ヨーロッパ最大の石炭生産国かつ消費国、また世界最大の褐炭生産国かつ消費国です。しかし、炭鉱での仕事はかなりの重労働ですから、ドイツのように経済的に豊かで社会保障も手厚い国では、炭鉱夫を確保するのは容易なことではありません。いまから50年前、この切手が発行された当時でさえ、すでに、切手に描かれているようなドイツ人の炭鉱夫は慢性的に不足していました。

 その対策として彼らが考えたのが、日本(ドイツと同じ敗戦国)や韓国(ドイツと同じ分断国家)などから外国人労働者(ガスト・アルイバイター)を募ることでした。当初は、日本人もかなりドイツに渡りましたが、1950年代後半に始まる高度経済成長の影響でドイツへの出稼ぎは減少。しだいに、当時は経済的に貧しかった韓国人労働者が“派独鉱夫”の中心を占めるようになっていきます。

 じっさい、1963年当時、公式統計に現れただけでも失業者は250万名にものぼっていた韓国で、月収600マルク(当時の米ドル換算で160ドル)の条件で、ルール炭鉱で働く労働者を募集すると、100倍を越える希望者が殺到。その後、1978年までに7800人余りの“派独鉱夫”がルール炭鉱に渡ることになりました。

 “派独鉱夫”の労働は非常に苛酷なもので、1966年12月、3年間の雇用期間を終えて帰国した第一陣(142人)のほとんど全員がドイツ滞在中に骨折を経験していたほか、失明者・死亡者も少なからずいたといわれています。

 “派独鉱夫”が西ドイツで受け入れられると、これにつづいて、月収440マルクの条件で、韓国人女性が看護婦として西ドイツに派遣されるようになります。彼女たちもまた、死体洗浄など、ドイツ人の嫌がる重労働を担い、激務をこなしていました。

 “派独鉱夫”および“派独看護士”による本国への送金は、まだまだ貧しかった当時の韓国に貴重な外貨をもたらし、その額は、一時GNPの2%台に達したこともあったといわれています。このため、1964年12月、ルール炭鉱を訪れた朴正煕は“派独鉱夫”のブラスバンドが演奏する愛国歌に感激し、涙ながらに彼らへの感謝の演説を行ったというエピソードもあります。

 朴正煕というと、政権末期の“維新体制”のイメージが強いせいか、現在でも強権的な独裁者というイメージで語る人も多いのですが、韓国に驚異の経済成長をもたらした功績は、そうしたマイナス面を補って余りあるものであると思います。盧武鉉をはじめとする左派の人たちは、とにかく、朴正煕=悪と決め付けてしまい、今回のような彼の美談を意図的に無視されることが多いようですが、そうした歴史の歪曲に腹を立てている良識派の韓国人も少なからずいるんじゃないかと期待したいところなんですが…。
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 ビルマの“軍政”
2007-09-04 Tue 10:48
 軍政から民政に移行するための新憲法制定を審議してきたビルマ(ミャンマー)の国民会議は、昨日(3日)、新憲法の基本原則を採択し、1993年の開会から14年半を経てようやく閉会しました。というわけで、ビルマと“軍政”ということに絡めてこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ビルマBMAカバー

 これは、第二次大戦末期の1945年7月、イギリス軍政下のラングーン(ヤンゴン)からインド宛に差し出された切手つき封筒で、左上に“イギリス軍政”を意味する“BRITISH MILY ADMN”の文字と新額面2アンナの表示が入った印が押されています。なお、ここでいう“軍政”は、現在のような“軍事政権”ということではなくて、“軍隊による占領行政”という意味です。念のため。

 第二次大戦中、日本軍の占領下にあったビルマでは、1943年8月に親日派のバーモ(バモオ)政権が独立を宣言しました。しかし、インパール作戦で失敗を繰り返すなど日本の敗色濃厚とみるや、アウンサン将軍(スーチーさんのお父上ですな)が指揮するビルマ国民軍は、1945年3月、日本及びその指導下にあるビルマ国政府に対してクーデターを起こしイギリス側に寝返り、5月1日にはラングーンに入場します。

 イギリスは再占領した地域で軍政を施行。郵便に関しては、戦前の切手などに“イギリス軍政”を示す“BRITISH MILY ADMN”の文字を加刷したものを発行・使用しました。こうした加刷切手は、日本軍が降伏した1945年9月以降はビルマ全土で使われることになりますが、今回のカバーは、日本降伏以前の1945年7月、まだ一部に日本の占領地が残っていた時期の使用例というのがミソです。

 当然のことながら、日本の占領下で(形式的にせよ)“独立”を得ていたビルマの人々は、戦後、イギリス支配が復活したことに反発。イギリスは1946年には民政移管も行いましたが、独立運動はおさまらず、最終的に、過渡期の独立準備政府を経て、1948年1月、ビルマは正式に独立しました。したがって、イギリス軍政の時期は実質的に半年間しかなかったのですが、その割には、軍政加刷のカバーはそこそこ見かけます。

 さて、昨日採択された基本原則では、①国家運営における軍の主導的役割を保証する、②地域代表院と民族代表院の議席の各25%を軍が任命する、③正副大統領3人のうち1人は軍が選出する、など、軍の権力を確保する条項が盛り込まれています。また、“外国人の影響下にある者”は正副大統領にはなれず、イギリス人の夫(すでに亡くなっています)と結婚していたスーチーさんが正副大統領になる途は事実上閉ざされています。さらに、今回の基本原則に基づいた憲法起草作業の開始時期や草案策定のめども示されていません。

 この分だと、現在のビルマの軍政(軍事政権)が純然たる民政(文民政権)に移行するには、まだ当分時間がかかるでしょうね。それにしても、現在のビルマの軍政はかなり長期に及んでいますが、そのわりには、気の利いたカバーはなかなか入手が困難です。短期間に終わったイギリス軍政下のカバーのほうがずっと入手しやすいというのも、なんだか変な話ですね。
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 世界一の空港ラウンジ
2007-09-03 Mon 09:50
 イギリスの航空業界専門調査会社スカイトラックス社の今年度のラウンジ部門の調査で、世界90カ国以上・約60万人による投票の結果、スワンナプーム国際空港(バンコク)のタイ国際航空ファーストクラス・ラウンジが世界一に選ばれたのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

スワンナプーム空港

 これは、昨年(2006年)9月28日に全面開港となったスワンナプーム国際空港の開港記念に発行された切手です。

 従来のバンコク・ドンムアン空港が手狭になったため新空港を建設しようという計画は古く、すでに、1973年には、スワンナプーム空港の用地買収は完了していました。しかし、同年10月14日の政変で計画は頓挫。その後、何度か新空港建設計画が現れては消えていきます。1996年にはバンコク新空港株式会社が設置され、いよいよ新空港の建設がスタートかと思われましたが、その直後、1997年にアジア通貨危機がおこり、結局、建設工事が始まったのは2002年のことでした。

 当初の予定では、コンコース本体は2005年9月に開港予定だったのですが、空港の計画変更、システムチェックなどにより工事は遅れます。そうしているうちに、昨年(2006年)9月19日に軍事クーデターが発生し、またもや開港延期が危惧されましたが、予定通り、9月28日に無事、正規開港にこぎつけました。

 ターミナルはドイツ人建築家のヘルムート・ヤーンの設計によるもので、ガラスを多用した斬新なデザインで格好は良いです。ただ、空港そのものが巨大すぎて空港内の移動に時間がかかる上、スタッフが新しい設備に慣れていないのか、それとも、何事にものんびりしたお国柄の故なのか、手続き等がスムースに進まないというクレームが良く聞かれます。また、沼地を埋め立てて作ったために地盤が弱いせいか、滑走・誘導路上での亀裂・損傷も少なからず発生しているとか。これは、下手すると大惨事にもなりかねないのですから、何とかしてくれないと困ります。

 さて、先月、僕がタイに出かけたときは、当然のことながら、この空港での出入国でした。上記のような事情から、出国時には、通常なら出発の2時間前にチェックインすればいいところを3時間前にチェックインするよう、周りから強く勧められましたが、午前6時発の早朝便だったので利用者も少なく、比較的順調にコトが進んだのはラッキーだったと思います。ただ、とにかく案内表示が少ないので、だだっ広い空港の中を歩いていても、果たしてこっちでいいのだろうかとかなり不安になりました。また、24時間オープンという触れ込みの空港内郵便局に行ってみたところ、「朝8時半に戻ってきます」という看板が出ていて閉まっていました。それなら、オープンの時間をきちんと決めて表示しておいてくれれば良いのに…。

 まぁ、今回の投票で世界一のお墨付きを得たのは、あくまでもファースト・クラスのラウンジの話ですから、普段は格安エコノミーしか乗らず、切手展の作品を持っていくため、重量制限の関係からごく稀にビジネスに乗るだけという僕にとっては、縁のない話ですけどね。
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 フィリピンのV‐J DAYカバー
2007-09-02 Sun 09:16
 日本では“終戦の日”というと玉音放送のあった8月15日ですが、世界的には、ミズーリ号で太平洋戦争の降伏文書が調印された9月2日が対日戦争終結の日(V-J DAY)とされていることが多いようです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

フィリピンVJカバー

 これは、1945年9月2日、“対日戦争勝利”の記念印を押されてマニラから差し出されたカバーです。ちょっとかすれていますが、“日本の無条件降伏(UNCONDITIONAL SURRENDER OF JAPAN)”ならびに“V-J DAY”の文字が入っており、非常にわかりやすい内容です。

 貼られている切手は、いわゆるVICTORY加刷切手。第二次大戦末期、フィリピンに再上陸した米軍が再占領した地域で発行・使用した切手で、早い地域では1945年1月には使われています。

 米軍の再占領によって、戦時中、日本軍占領下で独立を宣言した親日派政権(第2共和国)は解体され、アメリカ支配が復活します。とはいえ、アメリカは戦前の1934年、タイディングス・マクダフィー法で10年後のフィリピン独立を承認しており、翌1935年には独立準備政府として自治領政府(フィリピン・コモンウェルス)発足していたという経緯もあって、1946年7月4日、フィリピン第3共和国(現在のフィリピン)として独立を果たしました。

 なお、アメリカ側はフィリピンを支配していた“恩恵”を強調する意味でフィリピンの独立記念日を7月4日に設定したわけですが、現在のフィリピン政府は1898年にアギナルド政府がアメリカによるフィリピン併合の動きに対抗して独立宣言を行った6月12日としています。

 このあたりのフィリピンとアメリカの微妙な関係については、拙著『反米の世界史』でもまとめてみましたので、よろしかったらご一読いただけると幸いです。 
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 旧労働省発足から60年
2007-09-01 Sat 02:13
 1947年9月1日に労働政策を担当する中央省庁として労働省が発足してから、今日でちょうど60周年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

労働省設置小型印

 これは、労働省発足に際して用いられた記念の小型印で、スパナを持った工員風の男性とシャベルを持った男性が肩を組み、右端に上半身裸でつるはしを持った鉱夫風の男性の3人が描かれています。背広姿の事務系サラリーマンとか女性労働者が登場していないところは、当時の“労働者”のイメージがどのようなものであったか垣間見えるようで、なかなか興味深いものだあります。

 1947年5月の総選挙で第一党となった社会党は、労働行政の充実のため、労働省を設置することを公約として選挙戦を戦いました。このため、社会党の片山哲を首班とする内閣が発足すると、公約を実現すべく、厚生省の労働行政部門が分割され、労働省として独立することになりました。

 省庁発足までの準備期間が短かったこともあり、当初の庁舎は、旧内務省社会局庁舎(現在の東京消防庁所在地)と旧陸軍東部軍管区司令部庁舎(現在の国立近代美術館所在地)とに分散していました。また、初代の労働大臣となった米窪満亮は、5月の内閣発足と同時に労働政策担当の無任所相として入閣しており、労働省の発足と同時に晴れて初代大臣となりました。

 2001年の中央省庁再編で厚生省と一緒になって厚生労働省となったのも、このように、もともとは両者が一体であったものを分割したという経緯があったためでしょう。

 さて、先ごろ、就任したばかりの舛添要一厚生労働大臣は、母親の介護体験から、福祉や介護問題を始めとした厚生行政への働きかけや問題提起を活発に行っており、それが政界入りのきっかけになったとのことで、年金・福祉問題に熱心に取り組む姿勢を示しています。じっさい、社会保険庁改革や厚生労働省九州厚生局の前局長の金銭スキャンダルなど、 新大臣としては、旧厚生省マターに優先的に取り組まざるを得ないのも現実でしょう。

 とはいえ、かつての終身雇用型の労働システムがかなりな程度に崩壊し、その結果、非正規雇用で働かざるを得ない人が増え、所得格差が拡大する一方という現状は、決して看過すべきものではないはずです。考え方によっては、雇用や労働環境の問題は、現時点での受益者が限られている福祉に比べて、より多くの国民に直接かかわってくる問題なわけですから、新大臣には、ぜひとも、旧労働省マターについても大いに頑張っていただきたいものです。
別窓 | 日本:昭和・1945~1952 | コメント:3 | トラックバック:0 | top↑
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