内藤陽介 Yosuke NAITO
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 塀の中のハロウィン
2007-10-31 Wed 10:06
 今日はハロウィン。というわけで、ハロウィン・カボチャをデザインしたモノがないかと探していたら、こんなのが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

タイのハロウィン封筒

 これは、2001年(タイの仏暦では2544年)6月28日、バンコク近郊のノンタブリーからバンコク宛に差し出されたカバーで、余白に、ハロウィン・カボチャと女の子のかわいらしいイラストが印刷されています。仏教国のタイでも、アメリカ式のハロウィンがイベントとして認知されていることにちょっと驚かされますが、このカバーを裏返してみると、ちょっと面白い印が押されています。

タイのハロウィン封筒(裏)

 実はこのカバーは、ノンタブリーのバンクワン刑務所の囚人から差し出されたもので、押されている赤い印には、囚人宛の郵便物に現金や貴重品を同封することは刑務所の規則や法律に違反することであり、紛失の場合も当局は責任を持てない、といった趣旨の文章が記されています。右下に刑務所側の検閲印が押されているのも、いかにもといった感じです。

 バンクワン刑務所は、バンコク市内からチャオプラヤー・エクスプレス(チャオプラヤー川の水上バスで、王宮やワット・ポーなどに行くのに便利です)の終点、ノンタブリーの船着場の近所にあります。収容されているのは主として重罪受刑者ですが、外国人を収容する刑務所として日本のマスコミでもときどき紹介されています。外の名宛人に対して、英文で注意を促す印が用意されているのも、そうした施設の特性なのでしょう。

 そういえば、かつて一世を風靡した元光GENJIの赤坂晃が覚醒剤の所持で捕まったというニュースがありましたが、タイでは、覚醒剤の所持や使用は日本以上に厳罰に処せられます。バンコク旅行中、ちょっとした好奇心からご禁制の品に手を出して、今回ご紹介したバンクワン刑務所送りになるなんてことにならないよう、十分、お気をつけください。

 【トーク・イベントのご案内】  
 11月2~4日、東京・池袋のサンシャイン文化シティで開催の<JAPEX>にて、以下のトーク・イベントを行います。 ぜひ、遊びに来てください。
 
 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
 『タイ三都周郵記』を題材としたトークを行います。なお、同書の奥付上の刊行日は11月15日ですが、会場では先行発売を行います。

 会場で一人でも多くの皆様にお会いできるのを楽しみにしております。
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 開幕まであと3日
2007-10-30 Tue 10:00
 凹版カード(2007)

 毎年恒例の全国切手展<JAPEX>は、今年も東京・池袋のサンシャイン文化会館を会場として、今週金曜日、11月2日から(4日まで)開催されます。

 切手の面白さ・奥深さを一人でも多くの方に知っていただくためは、僕が毎日このブログに記事を書いているだけではダメで、やはり、しかるべき場を用意してきちんとした内容のソフトを社会に向けて発信することが必要です。日本最大の切手イベント<JAPEX>は、まさに、そのための絶好の機会なのですが、こうしたイベントをやるには巨額の資金が必要です。そこで、いろいろな方に“基金”というかたちでご寄付をお願いしております。(もちろん、ブースをご出店いただいている切手商の方々にも、足を向けて眠れません。)

 僕は、昨年に引き続き、今年も実行委員長という立場で<JAPEX>に関わっていますが、とにかく、多くの方から頂戴した浄財を有効に活用することと、そのために運営面を可能な限り効率化すべく精一杯努力しているつもりです。

 さて、<JAPEX>実行委員会では、毎年、基金にご協力いただいた方へのささやかなお礼として、精巧な凹版印刷によって切手を複製した記念カードを準備しております。

 今年は、わが国が万国郵便連合(UPU)に加盟してから130年ということで、“外国郵便”を題材とした企画展示を行うのですが、それにちなみ、冒頭のような凹版カードを作りました。その実物が出来上がってきましたので、ここにご報告します。(画像はクリックで拡大されます)

 カードに取り上げたのは、1949年10月に発行された「万国郵便連合75年」の24円切手です。

 1947年、第2次大戦後最初のUPU大会議がパリで開催され、加盟各国は1949年のUPU創立75年にあわせて記念切手を発行するよう、申し合わせがなされました。この結果、1949年5月16日のスイスを皮切りに、100を超える加盟国から続々と記念切手が発行ています。

 ところで、パリ大会議には、敗戦国の日本とドイツ、それから会議開催時には独立を達成していなかった韓国が参加できなかったため、連合側では、これら各国も連合国の許可を得れば連合に復帰できることを同会議の最終議定書第17号第2項で規定。これを受け、1948年6月、日本は万国郵便連合への復帰を果たしました。

 これに伴い、日本の郵政も、パリ大会議での申し合わせに従い、1949年10月の連合創立記念日にあわせて 記念切手の発行を計画します。

 国際社会への本格的復帰の第一段となる今回の記念切手に関しては、郵政省の気合も充分で、1946年の「郵便創始75年」以来の凹版4種セットという構成が企画され、国内および外信用の葉書料金に相当する2円と14円は、日本地図の周囲に封筒で75の文字をあしらったデザイン、国内および外信用の書状基本料金に相当する8円と24円に関しては、今回のカードに取り上げた“地球と通信の象徴”と題するデザインの切手が発行されました。なお、このデザインは、記念切手と同時に発行された記念航空書簡(額面は62円)の印面にも流用されましたが、こちらは平版印刷で製造されたため、切手と同図案でありながら、製品としての雰囲気はかなり異なったものとなっています。

 今回の記念切手は、図案の決定から発行までに1ヶ月ほどの期間しかありませんでしたが、2円切手と8円切手は各200万枚が、14円切手と24円切手は各100万枚が製造されており、日本の切手製造能力が完全に戦後復興を果たしたことを内外に強く印象ました。

 ご参考までに、凹版カードの元になった切手の画像を下にアップしておきましょう。(画像はクリックで拡大されます)

  UPU75年・24円

 ホンモノと比べていただいても、今回の凹版カードの出来栄えは遜色のないものと思いますが、いかがでしょうか。

 なお、<JAPEX>基金について、詳しいことを知りたいという方がおられましたら、是非、こちらをクリックしていただき、<JAPEX>基金のページをご覧いただけると幸甚に存じます。

 以上、<JAPEX>実行委員長としての内藤からのお願いでございました。

 【トーク・イベントのご案内】  
 <JAPEX>期間中、池袋会場内の特設スペースで以下のトーク・イベントを行います。 ぜひ、遊びに来てください。
 
 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
 『タイ三都周郵記』を題材としたトークを行います。なお、同書の奥付上の刊行日は11月15日ですが、会場では先行発売を行います。

 会場で一人でも多くの皆様にお会いできるのを楽しみにしております。
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 エビータの再来
2007-10-29 Mon 08:34
 昨日(28日)投票が行われたアルゼンチンの大統領選挙で、現職のキルチネル大統領の妻で上院議員(正義党)のクリスティナ・フェルナンデス候補が当選しました。新大統領は、その美貌と情熱的な演説から、かつてファーストレディーとして絶大な人気を誇ったエバ・ペロン元大統領夫人になぞらえて“エビータの再来”と呼ばれているのだとか。それなら、というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

エビータ

 これは、1952年8月にアルゼンチンで発行されたエヴァ・ペロンの追悼切手です。

 マリア・エバ・ドゥアルテは、1919年、アルゼンチンの貧しい農村、ロス・トルドスで生まれました。

 15歳で家出をしてブエノスアイレスに上京した彼女は、“女性”を武器に、職を転々としながらステップアップを重ね、次第にラジオドラマの声優や映画女優として活動するようになります。その後、当時の軍事政権の副大統領だったフアン・ドミンゴ・ペロン大佐と出会い、彼の庇護を受けるとともに、自分のラジオ番組でペロンの民衆向け政治宣伝を行ったのが、政治的なキャリアの出発点となりました。

 1945年10月、エドワルド・アバロス将軍によるクーデターが発生し、ペロンは軍事裁判で有罪判決を受けて収監されると、エバはペロンの釈放のために奔走。その後、アバロスは政権を放棄してペロンは釈放され、2人は結婚し、翌1946年3月、ペロンは選挙で2アルゼンチン大統領に就任しました。

 大統領夫人としてのエバは、慈善団体「エバ・ペロン財団」を設立し、貧困者の優遇政策に務め、女性参政権を実現。労働者階級の絶大な支持を受けます。ただし、選挙の洗礼を経ず、また、正規の閣僚にも任命されたわけでもない“大統領夫人”の政治への関与に批判的な国民が少なからずいたことも事実です。

 その後、ペロンはエバに副大統領の地位を与えようとしましたが、彼女が子宮ガンに侵されていることが判明して断念。1952年7月26日、エバは33歳の若さで亡くなりました。

 今回の切手は、彼女が亡くなって1月後の1952年8月26日に発行されたものです。切手発行のタイミングからして、すでに彼女が重篤の間に準備が始められ、亡くなったとの報を受けて、突貫作業で製造されたものでしょう。そのせいか、この切手には版面の傷による印面バラエティがいろいろと報告されていて、コレクター魂をくすぐられます。ちなみに、今回ご紹介しているもののうち左上の切手は、彼女の鼻の横に大きな白抜きがあるため、“鼻にハエ”と呼ばれているものです。

 【トーク・イベントのご案内】  
 11月2~4日、東京・池袋のサンシャインシティ文化会館で開催の<JAPEX>期間中、会場内の特設スペースで以下のトーク・イベントを行います。 ぜひ、遊びに来てください。
 
 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
 『タイ三都周郵記』を題材としたトークを行います。なお、同書の奥付上の刊行日は11月15日ですが、会場では先行発売を行います。

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 正倉院といえば
2007-10-28 Sun 10:49
 昨日(27日)から奈良国立博物館で正倉院展が始まったそうです。正倉院といえば、切手小僧にとっては、やっぱりこの1枚でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

正倉院御物

 これは、1948年4月15日に発行された通常10円切手で、正倉院御物の螺鈿模様が取り上げられています。前年の1947年には、ほぼ同じデザインで横型の凹版切手も発行されていますが、画像として模様を見る場合には、今回ご紹介のモノ(1948年発行の縦型・平版印刷の切手)のほうが見やすいように思います。

 螺鈿というのは、貝殻の真珠質の部分を細かく切って平らに磨き、漆地や木地にはめ込む技法のことで、西方よりシルクロードを経て唐に伝わったものが、さらに日本にも伝えられたと考えられています。

 今回ご紹介の切手では、貝の真珠質の雰囲気が上手く伝わってこないのですが、1月ほど前の9月26日に発行された日タイ修好120年の記念切手をみると、光沢の感じが良くわかるかと思います。(下の画像は、シートのうち、関係する部分を取り出したものです)

ワット・ポーの螺鈿

 こちらの切手に取り上げられているのは、タイのバンコクにあるワット・ポーの涅槃仏(寝釈迦像)の足の裏に施されている螺鈿細工の一部です。

 ワット・ポーの巨大な涅槃仏の足の裏は、妙に四角く角ばっていて、親指から小指まで同じ長さで極端な偏平足になっています。各地を歩き回っていた釈迦なら、足の裏にしっかりと土踏まずの窪みがあってもよさそうなものですが、じつは、偏平足というのは釈迦が常人とは異なる聖人であることを示す身体的な特徴の一つなのだそうです。

 さて、涅槃仏の足の裏の螺鈿細工は、それぞれの指に指紋に模した法輪が2つずつ計20点、踵から指の付け根までの部分に仏教における吉祥の図案108点あります。なかなか、見ごたえのある細工なのですが、いかんせん、仏の姿勢に合わせて、それぞれの文様は横向きになっているから、僕なんかは、根を詰めて見ていて、すこし首が痛くなりました。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』は、そうした僕の旅の体験談を切手や郵便と絡めながら展開した“切手紀行”です。軽めで読みやすい本になったと思いますので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 【トーク・イベントのご案内】  
<JAPEX>期間中、池袋会場内の特設スペースで以下のトーク・イベントを行います。 ぜひ、遊びに来てください。
 
 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
 『タイ三都周郵記』を題材としたトークを行います。なお、同書の奥付上の刊行日は11月15日ですが、会場では先行発売を行います。

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 『郵趣』今月の表紙:牛の目
2007-10-27 Sat 09:44
 (財)日本郵趣協会発行の『郵趣』2007年11月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げ、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

牛の目

 これは、1843年に発行されたブラジル最初の切手の1枚です。ブラジルの切手発行は、1840年のペニー・ブラック以来、国としては世界で2番目(州などを入れると4番目)で、このとき発行された切手は“牛の目”の名で親しまれています。

 1822年にポルトガルから独立したばかりのブラジルは急速な近代化政策を進め、はやくも1829年には郵便事業を国営に一本化しました。そして、1842年にはイギリスに倣った料金前納制が布告され、これに対応すべく、パーキンス・ベーコン社のリオ代理店に切手の製造と印刷機材が発注され、翌1843年8月1日に最初の切手が発行されました。原版の彫刻はブラジル造幣局、印刷は輸入したばかりの新機材で有価証券印刷局が担当しています。

 額面数字のバックには、紙幣の偽造防止にも使われる機械彫刻の模様、彩紋が使われています。画像ではわかりにくいかもしれませんが、実物の切手の大ぶりで楕円形の彩紋を見ていると、たしかに、動物の目を覗き込んでいるような錯覚にとらわれてくるから、不思議なものです。

 なお、初期のブラジル切手のパターンは、この切手のように彩紋と額面数字を組み合わせたものですが、1843年発行のこの切手が“牛の目”と呼ばれているのにあわせて、1850年発行の切手は“山羊の目”、1854年発行の切手は“猫の目”と呼ばれています。

 さて、今月号の『郵趣』では、目前に迫った<JAPEX>の事前予告として、池袋会場の企画出品の“外国郵便”ならびに“25~協会財団化25周年”、特別出品の“日本切手の銘版”、目白会場の“船の郵便展”をカラーで特集しています。ぜひ、<JAPEX>を参観していただく際のガイドとしてご活用いただけると幸いです。

 【トーク・イベントのご案内】  
<JAPEX>期間中、池袋会場内の特設スペースで以下のトーク・イベントを行います。 ぜひ、遊びに来てください。
 
 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
 『タイ三都周郵記』を題材としたトークを行います。なお、同書の奥付上の刊行日は11月15日ですが、会場では先行発売を行います。

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 モーターショーには出ないけど
2007-10-26 Fri 08:41
 今日(10月26日)から東京モーターショーが始まります。というわけで、今日は近日刊行の拙著『タイ三都周郵記』で使った“自動車”がらみの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

トゥクトゥク

 これは、1997年の“国際文通週間”に発行されたトゥクトゥクの切手です。

 東南アジアではオート3輪を使ったタクシーが営業を行っていますが、タイでは、それらはサームロー(“3輪車”のタイ語)ないしはトゥクトゥクと呼ばれています。トゥクトゥクという単語の語源ははっきりしていませんが、どうやら、排気音がタイ人の耳にはそのように聞こえるからということのようです。

 もともと、タイでの3輪タクシーは自転車ないしはオートバイによるものが主流でしたが、日本の郵政省が郵便収集車として使用していたダイハツの3輪トラックのミゼットを、4輪トラックに変えた際、中古のミゼットをODAとしてタイに輸出。これが現在のトゥクトゥクのルーツとなりました。独特な外観は日本でもファンが多く、今年5月に東京の代々木公園で行われたタイ・フェスティバルでは、売り物としてのトゥクトゥク(ナンバープレートはついていましたので、日本でも走行は可能みたいです)が展示されていました。

 通常の4輪自動車に比べて小回りが効くことから、庶民の足として重宝がられているということですが、東南アジアの3輪タクシーの常として、料金は運転手と客の交渉によって決まります。このため、観光客が利用する場合には、メーター制タクシー(こちらはエアコンつき)の方が割安になることも少なくないようです。

 ちなみに、今年8月に『タイ三都周郵記』の取材でタイを訪れたとき、メーター制タクシーの初乗りは35バーツでしたが、トゥクトゥクの料金交渉で40バーツ以下になったことはほとんどありませんでした。このため、僕は現地では基本的にタクシーで移動し、トゥクトゥクは使っていません。まぁ、この辺に関しては、少々高くて排ガスまみれになっても“旅情”を優先するか、快適さを優先するか、人によって好みが分かれるところでしょう。

 もっとも、メーター制タクシーなら明朗会計かというと必ずしもそうではなくて、なかには、事情のわからない観光客とみると、メーターを倒さずに料金を吹っかけてくる輩もいるので、なかなか油断はできません。金額的には大したことはないとはいえ、やはり“ぼられる”のは決して愉快なことではありませんから、僕は、必ず「チャイ・ミートゥー(メーターを使ってください)」と言ってメーターの使用を確認していました。

 おかげで、タクシーの料金で厭な思いをすることはなかったのですが、今度は、タイ語を話せるものと勘違いされて、車中で延々話し込まれて往生したことが少なからずあります。ちなみに、僕のタイ語のボキャブラリーは、こんにちは(サワディ・クラッ)とありがとう(コップクン・クラッ)と、この“チャイ・ミートゥー”ぐらいしかありません。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』は、そうした僕の旅の体験談を切手や郵便と絡めながら展開した“切手紀行”です。軽めで読みやすい本になったと思いますので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

【トーク・イベントのご案内】  
<JAPEX>期間中、池袋会場内の特設スペースで以下のトーク・イベントを行います。 ぜひ、遊びに来てください。
 
 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
 『タイ三都周郵記』を題材としたトークを行います。なお、同書の奥付上の刊行日は11月15日ですが、会場では先行発売を行います。

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 今日から“船の郵便”展
2007-10-25 Thu 10:54
 今日(10月25日)から、東京・目白の切手の博物館で、“船の郵便”展がスタートします。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

天洋丸

 これは、1976年4月22日、「船シリーズ」の第4集として発行された“天洋丸”の切手です。

 天洋丸は、日露戦争後の太平洋航路においてアメリカのパシフィック・メールやイギリスのカナディアン・パシフィックなどの各社が一万総トンを越える大型の客船を就航するようになったことに対抗して、1907年9月、浅野総一郎の創立した東洋汽船会社によって建設されました。総トン数は1万3454トン、長さ167.64メートル、幅19.20メートル、深さ11.73メートル、最大速力は20.608ノットです。わが国の船舶史上では、①一万総トン以上、②タービン船、③液体燃料、④船舶用無線電信装置の装備、などの点で最初のもので、空前の優秀船といわれ、長く太平洋横断の旅客を運びましたが、1933年に老朽化のため解体されました。

 切手は横浜港を出帆する場面で、画面の左側には桜木町にあった灯台が描かれています。切手を拡大してみると、マストには〒マークの郵便旗が翻っており、“船の郵便”展にふさわしい1枚として、ポスターにも取り上げました。

 今回の展覧会は、「郵便事業は、国家や人々の信頼と協力によって成り立ち、文化や産業の架け橋となっています。近代では、外国とのコミュニケーション手段の主たるものと位置づけられていました。特に外国への郵便物の輸送には船が利用され、船の性能の向上、航路の整備と充実につながりました。本展では、各種郵便船の活躍、船に開設された郵便局の活動、国際的な郵便交換条約の存在などを、関係する郵便切手や郵便物で紹介します。」との趣旨の下、日本財団の助成を得て、11月4日まで開催するものです。会期中、11月2~4日は、池袋のサンシャインシティ文化会館で開催される<JAPEX>の“目白会場”として、今回ご紹介の切手をデザインした小型印も使用される予定です。

 <JAPEX>の会場からは無料(ただし、入場券をご提示ください)のシャトルバスも出ておりますので、ぜひ、目白の博物館にも足をお運びください。

 なお、今回ご紹介の切手を含む「船シリーズ」に関しては、拙著『沖縄・高松塚の時代』にて解説しておりますので、こちらも、よろしかったらご覧いただけると幸いです。

* トーク・イベントのご案内
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 国連デー
2007-10-24 Wed 11:03
 今日(10月24日)は国連デーです。というわけで、まもなく刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』の中から、タイで発行された“国連デー”の記念切手の1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

大理石寺院

 これは、1971年の国連デーに発行された記念切手で、大理石寺院ともよばれるワット・ベンチャマボーピットが取り上げられています。

 タイでは、1957年以来、不定期ながら国連デーの記念切手を発行していますが、このうち、1970年代から1980年代にかけては、タイを代表する伝統的な建築物がしばしば取り上げられています。以前、このブログでご紹介したチェンマイのワット・スワンドークバンコクのサオ・チン・チャーなどもその一例です。

 さて、今回の切手に取り上げられているワット・ベンチャマボーピットは、バンコクのドゥシット地区にあり、昨日の記事でご紹介したラーマ5世騎馬像からも歩いていける距離にあります。

 19世紀後半の近代化政策の一環として、当時の国王、ラーマ5世はドゥシット地区の新市街を建設しましたが、その際、この地にあったワット・レームならびにワット・サイトーンの2つの寺院が壊されることになりました。このため、1899年、国王は2つの寺を統合して新たな寺を建立。それが、このワット・ベンチャマボーピットです。

 この寺は、国王の異母兄弟で、この時代を代表する芸術家としても有名なナリット・サーラーヌワッティウォンが設計しました。十字型で左右対称の本堂はレンガ積みの上にイタリア・カララ産の大理石を貼り付けているため、“大理石寺院”とも呼ばれています。また、四層になっている屋根瓦は通常のタイの寺院とは焼き方の異なるオレンジ色のものが使用され、金張りの窓にはステンドグラスがはめ込まれているなど、既存の仏教寺院の枠にとらわれない斬新な発想が随所に見られ、タイでも最も洗練された寺院建築といわれています。

 本堂に安置されている本尊は、ピサヌロークのワット・プラシー・ラタナー・マハタートに安置されており、タイで最も美しいとされるチナラート仏のレプリカです。その台座にはラーマ5世の遺骨も納められています。本堂の裏の回廊には骨と皮ばかりに痩せたブッダの像やスコータイの遊行仏をはじめ、ビルマや日本から持ち込まれたものを含めて計51体の仏像が並んでいて、仏像博物館のようだと紹介しているがいるガイドブックもあります。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』では、今回ご紹介のワット・ベンチャマボーピットをはじめ、バンコクのさまざまな見所を切手でたどる「曼谷三十六景」なる一章も設けてみました。刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

* トーク・イベントのご案内
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 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
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 チュラロンコーン大王記念日
2007-10-23 Tue 10:11
 今日(10月23日)は、1910年に当時のタイ国王ラーマ5世(チュラロンコン大王)が亡くなった日で、タイでは国の祝日になっています。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ラーマ5世騎馬像

 これは、1908年11月11日に発行されたラーマ5世在位40年の記念切手で、バンコク・ドゥシット地区の旧国会議事堂前の国王騎馬像(銅像)が取り上げられています。なお、切手の発行日は銅像の除幕式の日です。

 国王の在位40年にあわせて、タイでは、これを記念するために国民の浄財が集められ、フランス人彫刻家のジョルジュ・ソーロが外遊中の国王に直接謁見して彫刻を制作しました。なお、国民から集められた浄財は、建設費用を大きく上回ったため、その剰余金を基金として公務員養成学校が作られています。これが現在のチュラロンコーン大学のルーツです。

 タイの近代化に貢献した国王ということでラーマ5世に対する国民の敬愛の情は篤く、現在でも、像の周囲には線香や献花が絶えません。即に、毎年10月23日の“チュラロンコーン大王記念日”には周辺は花で埋め尽くされるほどです。おそらく、今年もそのような光景が現地では見られるのでしょう。

 今回ご紹介の切手の凹版印刷は、ドイツ・ライプツィヒのギーゼッケ・デブリエント社が手がけた見事なもので、タイ切手を代表する1枚といって良いと思います。日本で言う“見返り美人”や“月に雁”のような存在といったらいいでしょうか。1993年のバンコク国際切手展に際しては、この切手の“切手の切手”も発行されているほどです。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』では、今回ご紹介のラーマ5世騎馬像をはじめ、バンコクのさまざまな見所を切手でたどる「曼谷三十六景」なる一章も設けてみました。ちょっと変わった切手紀行となっていますので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
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 北朝鮮切手にTの印
2007-10-22 Mon 08:25
 今日(10月22日)は、1797年にフランスのアンドレ・ガルネランが高度約2400mから布製の傘のようなもので飛び降りたことにちなんで、パラシュートの日なんだそうです。というわけで、パラシュートがらみのモノで何かないかと探してみたら、こんなカバーが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

北朝鮮・パラシュートほか

 これは、1980年12月に北朝鮮の咸興(北朝鮮北部・咸鏡南道の道都)から日本宛に差し出された書留便で、パラシュート競技を描く1973年の人民体育大会(日本の国体のようなもの)の40チョン切手が貼られています。その隣に貼られているのは、1978年発行の貨物船“清川江”号の10チョン切手で、この2枚には咸興の消印が押されています。

 ところが、カバーの上部に貼られている1973年の“万寿台芸術団(音楽人・演劇俳優・舞踊団・管弦楽団など300人余りで構成される芸術団)”の25チョン切手と、その隣の1980年発行の“青山里革命史跡(1960年に金日成が現地指導を行った農業協同組合の記念碑)”の5チョン切手には、咸興の消印は押されておらず、郵便の世界では一般に料金不足を意味する“T”の紫色の印が押されています。なお、カバーの表面には、やはり1973年の“万寿台芸術団”の40チョン切手が貼られていますが、こちらにはしっかり咸興の消印が押されています。(下はカバー表面の画像)

北朝鮮・パラシュートほか(表)

 この点については、差出時に貼られていた切手は咸興の消印が押されている合計90チョン分で、不足料金分の30チョン(不足分15チョンの倍額という計算か?)が別の切手で徴収されたということもありうるのでしょうが、カバー上には不足額を徴収した痕跡はありません。フツーは、料金不足の郵便物には、不足金額やペナルティとして徴収すべき金額などが書き込まれるものなのですが、それが見当たらないのです。

 それに、このカバーは書留便ですから、郵便局の窓口に差し出されて局員が料金を確認したうえで受理されているわけですから、料金不足のまま咸興の外に出た可能性は低いと思います。また、表と裏に“万寿台芸術団”の切手が貼られているのも、カバー上の切手が差し出し時にまとめて貼られたことによるものと考えるのが自然ではないでしょうか。

 そこで、おそらく、カバー裏面の上の2枚の切手には咸興の消印が押されていないことが途中で発覚し、それを抹消するため便宜的にTの印で切手が抹消されたんではなかろうかと考えてみたのですが、なにぶんにも、この時期の北朝鮮の料金体系についての資料が手元にないので、あくまでも推測の域を出ないのが忸怩たる思いです。

 というわけで、どなたか詳しい事情をご存じの方がおられましたら、お手すきの折にでも、コメント欄にてご教示いただけると幸甚に存じます。
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 タイの龍
2007-10-21 Sun 12:07
 プロ野球のセリーグは中日が日本シリーズに進出し、日本ハムと戦うことになりました。というわけで、日本ハム巨人がリーグ制覇したときにもタイの切手の中から1枚選びましたので、今回もこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ナーガ

 これは、1976年に発行された伝説上の生物の切手の1種でナーガが取り上げられています。

 ナーガは、頭が七つで尾が一つの龍で、それぞれの頭には冠をかぶっており、雨を降らせる能力あるとされています。ヤマタノオロチのような形態をイメージしていただくのがわかりやすいかもしれません。

 古代インドの神話では、巨大な龍がうずを巻いたその上に、地下世界を象徴するウミガメが乗り、さらに、その甲羅の上、東西南北に4頭の象が乗って半球状の大地を支えていると考えられていましたが、その影響からか、タイのナーガは地下7層の最下層に生息していると考えられています。

 また、伝説によると、現在のメコン川は、雲南の大里で争った2匹のナーガのうち、敗れた1匹が東南方向に逃げた跡に雨水がたまってできたのだとか。なんともスケールの大きな話です。

舳先のナーガ

 特殊な霊力を持つとされるナーガは、王室の御座船・アナンタナーガラージュの舳先の装飾(上の切手は1975年発行のもの)にも取り上げられているほか、寺院の装飾にもしばしば見られます。

 11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』では、今回ご紹介の切手以外にも、タイ各地のナーガの画像が登場します。刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 赤福からの連想
2007-10-20 Sat 11:10
 伊勢の老舗和菓子店「赤福」による製造日改竄問題が連日、マスコミで報じられています。餡子モノが苦手な僕は、和菓子の類をほとんど食べないので、この問題にもあまり関心はなかったのですが、テレビで「赤福」のパッケージが映し出されているのを毎日見ていると、ついつい、こんな切手を思い出してしまいました。(画像はクリックで拡大されます)

式年遷宮

 これは、1929年10月に発行された伊勢神宮の式年遷宮の記念切手です。いま話題の赤福のパッケージ(下の画像)とは向きが違いますが、神宮の社殿を大きく描くのではなく、屋根の部分だけをちょこんと顔を出して描く構図は共通しています。

赤福

 さて、伊勢神宮には内宮と外宮がありますが、このうち内宮の皇大神宮には天皇家の祖先とされる天照大神が祀られています。この内宮と外宮では、7世紀末の持統天皇の時代以来、20年ごとに(ただし、江戸時代以前は、このサイクルは必ずしも守られていたわけではなく、戦乱により百年以上も遷宮が行われなかったこともあります)新しく社殿を造営して御神体を奉遷する儀式が行われてきました。

 明治以降は、1869年、1889年、1909年に遷宮が行われ、今回ご紹介している切手が発行された1929年10月の遷宮が第58回目ということになります。

 このときの遷宮は、前年の1928年に昭和の大礼が行われてから、ほぼ一年後というタイミングで行われています。これはまったくの偶然ですが、昭和大礼の際には、やはり、神道の重要儀式である大嘗祭がらみの切手が発行されており、2年続けて、皇室と神道の持つ伝統の重みを意識させる切手が登場したことになります。

 日本の切手において、建国神話や神道に直接かかわる題材が登場したのは、1908年に発行された神功皇后の5円および10円切手が最初です。その後、大正時代に入っても神功皇后の切手は使用されつづけ、大震災によって原版が焼失すると、1924年、“考古学上の考証を加えた”とされる新たな神功皇后の切手が発行されました。おそらく、髪型を変更し、古墳の壁画などに見られる直孤紋と呼ばれる文様を肖像の周囲に配したことを、このように説明したのでしょう。

 しかし、神功皇后の切手に関していえば、旧版・新版のいずれであっても、一般の国民が頻繁に使用するというものではありませんでした。

 その後、1926年には、外国郵便用として、日光の東照宮陽明門を描く6銭切手が発行されていますが、ここでの陽明門は、神道の重要なシンボルというより、日本の代表的な観光地(ちなみに、同時に発行された外国郵便用の切手は、富士山を描く2銭切手と名古屋城を描く10銭切手です)として切手に取り上げられたと考えるのが妥当でしょう。

 また、記念切手に目を転じてみても、明治・大正期には、神道が直接的なテーマとなったのは、大正9年(1920年)に発行された明治神宮鎮座記念の切手の1件しかありません。

 こうしてみると、明治・大正期の切手においては、建国神話や神道という題材は、けっしてメジャーなものではなかったといえそうです。

 これに対して、昭和に入ると、1928年の昭和大礼の切手の大嘗宮から1929年の伊勢神宮の式年遷宮、翌1930年の明治神宮鎮座10年など、神話や神道を題材とした切手が増えてきます。このような時代の空気の変化については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析してみましたので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 タイ・シルク伝説
2007-10-19 Fri 09:59
 1956年の映画『王様と私』でユル・ブリンナー(王様役)とともに主役(家庭教師アンナ役)を務めたデボラ・カーが、昨日(18日)、亡くなりました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

タイ・シルク

 これは、1991年の“文化遺産保護の日”に発行された切手の1枚で、タイ・シルクが取り上げられています。

 映画『王様と私』やその元になったミュージカルは、ラーマ四世と彼の子弟の家庭教師であったアンナ・レノーウェンズをモデルとするとされていますが、国王の描き方が不敬であるとして、タイ国内では上演・上映が禁じられています。しかし、そうした『王様と私』の衣装として採用されたことで、タイ・シルクが世界的に認知されるようになったという、ポジティブな面もあることは指摘しておいても良いと思います。

 タイの伝統産業といわれることの多いタイ・シルクですが、現在のような製品の歴史は第二次大戦以降に始まったものでしかありません。

 もともとタイにおける絹織物の歴史は古く、東南アジア最古の文明といわれるバーンチェン遺跡(ラオスとの国境に近い東北部のウドンターニー県にある)からも、絹織物の断片が出土しています。

 しかし、野生の蚕の繭をつむいでいることから地厚でごわごわする感じ(それが魅力の一つでもあるのですが)のタイ・シルクは、しだいによりしなやかな中国の絹織物に押されて衰退。さらに、産業革命以降は諸外国の機械織製品に押されて、19世紀末には北部や東北部の一部地域で細々と生産されるだけになっていました。

 タイ近代化の最大の立役者とされるラーマ5世は、“お雇い外国人”として多くの日本人の専門家を招きましたが、日本の富国強兵を支えているのが生糸の輸出であることにも注目。1902年には東京帝国大学農科大学助教授だった外山亀太郎を政府の蚕業顧問技師として雇い入れ、タイの伝統的な絹産業の復興・近代化に乗り出します。

 外山は3年間にわたってタイに滞在しましたが、その間、養蚕から製糸にいたる各分野の専門家を呼び、タイ農務省に蚕業課を設置。バンコクとナコーンシーチャシーマー(コラート)に養蚕試験場を設けて、蚕の改良と飼育の指導にあたりました。また、外山はカイコの交配実験からカイコの一代交雑蚕種が生産に有利であることを発見し、世界の養蚕業界に大きな功績を残しましたが、養蚕試験場そのものはさしたる成果を得られぬまま、外山の帰国後しばらくして閉鎖されてしまいます。

 こうして、タイの絹蚕業はすっかり忘れられた存在になっていましたが、第2次大戦の終結後まもない1945年8月、OSS(現在のCIAの前身)の諜報員としてバンコクに入ったジェイムズ・トンプソンは、任務のかたわら、バンコクを離れてしばしばタイとラオスの国境地帯を訪れるうち、この地にかろうじて残っていた伝統的な絹織物に魅せられ、1948年にタイ・シルク商会を設立。トンプソンは同社の専務でしたが、実質的な経営者として自らを“タイ・シルク王”とPRし、従来の植物染料を褪色しない化学染料に変えたほか、どちらかといえば渋い感じの色彩であった従来の製品に代えてヨーロッパ人好みの鮮やかな色彩の商品を売り出しました。

 こうした戦略が当たって、“色の魔術師”との異名をほしいままにしたトンプソンのタイ・シルクは欧米で評判となり、1956年の映画『王様と私』で世界的なファッション・ブランド治しての地位を確立します。こうして、トンプソンの名声は揺るぎないものになりましたが、彼自身は、1967年3月、マレーシアの避暑地で忽然と姿を消し、現在なお、その生死は不明とされています。
 その後、トンプソンの成功を受けて、雨後の筍のようにタイ・シルクの製造・販売業者がタイ国内にあふれかえるようになり、現在では、タイ政府も自国の“伝統産業”としてタイ・シルクをアピールすることに余念がありません。今回ご紹介の切手も、その一環として発行されたものといってよいでしょう。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』では、今回の切手をはじめ、タイの切手に取り上げられた織物や陶器などの雑貨・民芸品についても、いろいろと薀蓄を傾けてみました。刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 ダライ・ラマの“切手”
2007-10-18 Thu 09:52
 昨日(17日)、アメリカ議会が、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世に対して、民主主義・人権問題で功績のあった市民を対象とする最高勲章“ゴールド・メダル”を授与しました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ダライ・ラマ

 これは、1970年代にチベット亡命政府が発行した“切手”の1枚で、ダライ・ラマとチベットの地図が描かれています。

 1911年の辛亥革命以降、チベットは中国中央政府の支配が及ばない地域となっており、域内ではチベット政府が独自の切手も発行していました。

 1949年に建国を宣言した中華人民共和国は、1951年、“平和解放”としょうしてチベットに軍事進駐し、チベットに対して「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる17ヵ条協定)を押し付けます。その後、1955年から、まずはチベット北半部(アムド地方、カム地方東部)における社会主義化が開始されていきました。当然のことながら、チベットでは中国の侵略に対する抵抗運動が起こることになります。

 こうした中で、1959年、中国側がダライ・ラマ14世を観劇に“招待”すると、そのまま、ダライ・ラマが中国に拉致されることを恐れたラサ市民による暴動が発生。中国側が暴動を武力で抑え込む中、ダライ・ラマはチベットを脱出し、“チベット臨時政府”(いわゆるチベット亡命政府)の樹立を宣言しました。

 今回ご紹介の“切手”は、この亡命政府が1970年代に作成したもので、4種セットのうちの1枚です。もっとも、“切手”といっても、チベット亡命政府には領土もありませんし、彼らが独自の郵便サービスを提供することは現実の問題として不可能です。したがって、この“切手”も実際には切手としての効力はなく、一種のラベルのようなものなのですが、独立チベットの存在を内外にアピールするメディアとしては重要な意味を持っているものといえましょう。

 なお、現在のチベット亡命政府は、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして、独自の通貨・切手を発行していたことを挙げていることを付記しておきます。
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 スターリン以来
2007-10-17 Wed 10:00
 ロシアのプーチン大統領がイランを訪問しました。ソ連時代を含め、ロシア首脳のイラン訪問は、第2次大戦中の1943年に行われた米英ソ3国のテヘラン会談でのスターリン以来とのことです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

テヘラン会談

 これは、1943年11月、テヘラン会談の開催にあわせてソ連が発行した会談の記念切手です。

 テヘラン会談は、1943年11月28日から12月1日にかけて、アメリカ(ルーズベルト)、イギリス(チャーチル)、ソ連(スターリン)の3首脳が一堂に会した初めての会談で、ヨーロッパでドイツに対する第2戦線(西部戦線)を形成することが主な議題でした。

 会談の結果、①トルコがドイツから攻撃された場合にはソ連が支援する、②北フランスへの上陸作戦1944年5月に開始する、③戦後のポーランド国境は西はオーデル・ナイセ線、東はカーゾン線とする、といったことが主な合意事項として決められました。また、これ以降、連合国の首脳会談は戦争上の諸問題から戦後処理問題へと移っていくことになります。

 対日戦争に関しては、テヘラン会談の直前に行われたカイロ会談の内容が原則承認されたほか、ビルマ作戦やドイツ降伏後のソ連の対日参戦などが話し合われているものの、あくまでも、こちらはサブという扱いです。

 さて、テヘラン会談に関しては、米英両国は記念切手を発行していませんので、当事国が会談当時に発行した切手としては、今回ご紹介しているソ連のものが唯一の例となります。なお、テヘラン会談といえば、ドイツ側が作ったパロディ切手が有名ですが、このパロディ切手については、拙著『これが戦争だ!』もあわせてご覧いただけると幸いです。

 さて、今回の切手は、3国の国旗と並んで、3国の団結を謳ったスターリンの言葉(ロシア語でスターリンとの署名があります)が印刷されています。“お言葉”を切手に取り上げる例としては、文革時代の中国が有名ですが(たとえば、こんなモノもあります)、まぁ、独裁者の考えることってのはどこでも一緒ということなんでしょう。

 そういえば、最近、ますます独裁者としての風格が増してきたプーチン閣下ですが、せっかく、今回、スターリン以来の行動に出るわけですから、先達を見習って“お言葉”を刷り込んだ記念切手を発行してくれるとわかりやすいんですけどねぇ。あわせて、どこかの国でドイツの先例に倣ったパロディ切手も作ってくれれば完璧なんだけどなぁ…と不埒なことを考えてみる内藤でした。
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 難民潮
2007-10-16 Tue 11:09
 今日(10月16日)は世界食糧デー。1945年に国連食糧農業機関(FAO)が設立されたことにちなみ、開発途上国等での栄養失調や飢餓について考える日だそうです。というわけで、その趣旨にかなうものとしてこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

反飢餓運動

 これは、1963年、香港が発行した“反飢餓運動(飢餓救済キャンペーン)”の切手です。“反飢餓運動”はFAOが1960年から1965年にかけて展開したもので、その運動期間の中間にあたる一九六三年の春分の日を中心に、各国で啓蒙のためのさまざまなイベントが展開されました。その一環として、各国はキャンペーンし、わが国も“飢餓救済運動”の名目で3月21日に切手を発行しています。

 今回ご紹介の切手は、当時の英連邦共通デザインのもので、香港での切手発行は6月4日のことでした。

 この切手が発行された頃、香港社会は大陸からの“難民潮”が深刻な問題となっていました。

 1958年、中国では毛沢東が“大躍進”と称して、鉄鋼の生産を一挙に3倍にすることを目標とするなど、無謀な大増産政策を発動しました。当然のことながら、これは惨憺たる失敗に終わり、1959年6月から1961年秋まで、毛沢東と共産党政府のもたらした人災としての“三年自然災害”が中国全土で猛威をふるい、どんなに少なく見積もっても2000万人、実際には4000万人以上と見られる餓死者が発生します。現在でも、60代以上の香港の人々の間では、この時期に大陸の親族・知人に食糧を送った記憶が生々しく残っているそうです。

 この“三年自然災害”の余波が、1962年4月以降、大量の難民となって香港に押し寄せたのが、いわゆる“難民潮”です。

 共産中国が建国された当初の1949年から1950年にかけて、中国から香港へ押し寄せた難民の数は、ピーク時には週2万人にも上りました。その後、英中双方の話し合いの結果、中国から香港にわたるためには中国の出境許可証が必要となり、許可証のない者は不法越境者として中国に送還されることになっていました。

 さて、“大躍進”の失敗に伴い、疲弊した農村から都市部への流民が急増すると、中国政府は彼らを強制的に農村に送還しようとしたのですが、農村に帰っても生活ができない農民たちは、故郷には帰らず、香港へ向かいはじめます。農民たちの窮状に同情的であった中国の国境警備隊は6週間にわたって不法越境者の取締りを放棄。難民潮はこうして発生したのです。

 当時、深圳から羅湖にかけての国境地帯には難民が殺到し、ピーク時には1日1万人近くが越境。難民潮はおよそ2ヵ月続き、その間の越境者は少なく見積もっても11~12万人、一説によれば26万人にも達したといわれています。

 1950年代後半から香港では工業化が進み、安価な労働力が必要とされてはいましたが、さすがにこれだけの難民を吸収するだけの余力は当時の香港社会にはありませんでした。このため、香港政庁は捕らえた難民のうちのおよそ6万人を列車で中国へ強制送還しましたが、難民潮は彼らにとって、香港社会を根本的に破壊しかねない深刻な脅威として受け止められていました。

 今回ご紹介の切手は、この難民潮の翌年に発行されたものです。切手発行のタイミングはFAOの決定に従ったもので、香港政庁独自の判断によるものではありませんが、大陸の“三年自然災害”とそれに続く難民潮の記憶が生々しい時期であっただけに、飢餓救済という言葉は香港の人々にとってはきわめて切実なものとして受け止められていたであろうことは想像に難くありません。

 なお、大陸の共産中国が英領香港に及ぼしてきたさまざまな影響については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくまとめていますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
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 建設の風景:日干し煉瓦の建築
2007-10-15 Mon 09:34
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の10月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月号はこんなモノを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

アデン・建設現場

 これは、南アラビアの伝統的な建設風景を描いた東アデンのハドラマウト保護領(クアイティー国)の切手です。

 アラビア半島の南岸は、かつては群小首長国が割拠する地域でしたが、19世紀、首長国同士の争いに調停者として介入したイギリスは、重要拠点のアデン港を直轄植民地としたほか、周囲の首長国を次々と保護領としていきます。

 そのうちのハドラマウト保護領を構成していた首長国のひとつ、クアイティー国では、1942年以降、独自の切手が発行されていましたが、今回ご紹介の1枚は、そのうちの1963年10月20日に発行された35セント切手です。もともと、このデザインの切手は1955年にも発行されていますが、今回のモノは、首長の交代にあわせて1963年に肖像部分のみを入れ替えて発行されたものです。

 切手のデザインは、この地方の伝統的な建設現場の風景を取り上げたもので、画面の手前には日干し煉瓦を作っていると思しき職人の姿が描かれ、その背景には盛り土を運ぶ二人組や、ゴンドラに乗って作業する人々の姿もみえています。

 アデン地域は、イギリスの保護領から南イエメンを経て、現在のイエメンにいたるまで、めまぐるしく支配者が変わっていますので、郵便史的には非常に面白い対象だろうと思います。ただ、実際に僕自身がそこまで手を広げられるかというと、ちょっと難しそうですが…。
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 “戦場に架ける橋”の現在
2007-10-14 Sun 11:37
 今日(10月14日)は鉄道記念日。そこで、現在制作中の拙著『タイ三都周郵記』の中から、鉄道がらみのモノということでこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

クウェー川鉄橋

 これは、2003年3月、バンコクで開かれた国際切手展の記念切手の1枚で、タイを代表する観光地の一つとしてクウェー川鉄橋が取り上げられています。

 クウェー川鉄橋は、第2次大戦中、もともと日本軍が建設した泰緬鉄道の鉄道橋で、映画『戦場に架ける橋』の舞台としても知られています。ただし、映画の内容は完全なフィクションで、史実とはだいぶ違っていますので、その辺は割り切って純粋な娯楽作品としてみるのが良いでしょう。

 もともと、クウェー川とは、ビルマとの国境地帯テナセリム山地に源流を発し、カンチャナブリーでメークローン川に合流する川のことでした。日本軍が橋を架けたのは、このうちのメークローン川の方で、したがって、完成当初の橋には“メクロン河永久橋”と名前が付けられています。

 ところが、1957年に公開された映画『戦場に架ける橋』(原題はThe Bridge on The River KWAIです)のヒットにより、橋が架かっている川がクウェー川であるとの“誤解”が広まり、世界的に定着してしまったため、タイ政府は、メークローン川の合流地点から上流(問題の橋はここに架かっています)を“クウェーヤイ(大クウェー川)”と改称。従来のクウェー川を“クウェーノーイ(小クウェー川)”としてしまいました。ちなみに、合流地点から下流、シャム湾に注ぐ河口部分までは、従来どおり、メークローン川の名前が使われています。

 さて、クウェーノーイ川沿いの道は、古来、タイ=ビルマ国境の三仏塔峠(スリー・パゴタズ・パス)を越えてビルマのダボイ、モールメンにいたる重要な交通路でしたから、泰緬鉄道の建設も、基本的にはこのルートに沿って行われました。バンコク方向から来た列車は、カンチャナブリーを越えてクウェーヤイ川を渡り、再び南下してクウェーノーイ川沿いに進んでいくのですが、この渡河ポイントとして建設されたのが、メクロン河永久橋だったわけです。

 橋の建設は、日本軍の鉄道第9連隊第3大隊第5中隊を中心に、多数の連合軍捕虜や労務者を動員して行われましたが、クウェーヤイ川の急流のため、工事は難航。そこで、まずは永久橋完成までの間に使う資材運搬用の橋として、永久橋の下流100メートルのところに木製の橋梁が架けられました。木橋は1942年末から1943年2月にかけて建設され、ついで永久橋も1943年5月には完成します。ちなみに、泰緬鉄道の全通は同年10月です。

 完成したメクロン河永久橋は連合国の攻撃目標となり、1944年に入るとしばしば空爆の目標となりました。1945年2月の爆撃で鉄橋は破壊され通行不能となりましたが、おなじく破壊された木橋は捕虜や労務者を動員して間もなく復旧。鉄橋の代用として使われています。その後も、木橋は1945年4月に6月に空爆を受けていますが、そのたびに復旧され、日本軍のビルマ方面への輸送はなんとか維持されていました。

 このように、第2次大戦中、“戦場に架ける橋”としての機能をなんとか果たしていた木橋ですが、1946年、大雨による増水であっけなく流されてしまいます。やはり、自然の猛威の前には人間は無力ということなのでしょう。

 一方、鉄橋の方は1950年、戦後賠償の一環として、日本の横河橋梁と日本橋梁によって修復されました。その際、橋脚の間隔ならびにトラスの形の一部が変更されており(オリジナルは曲弦ワーレントラス橋梁、修復箇所は平行弦トラス橋梁)、それが現在の“クウェー川鉄橋”の特徴となっています。

 映画の効果もあって、現在の橋はタイを代表する観光名所となっており、周囲には土産物屋や飲食店がひしめいています。また、この鉄橋を通る便が平日は1日3往復(土日は4往復)しかないため、列車の来ない時間には映画のモデルにもなった鉄橋を自分で歩いてみようという観光客で鉄橋の上はごった返しています。日本だったら、ほぼ確実に鉄橋饅頭が売られているでしょうね。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』では、今回の切手をはじめ、鉄道建設に動員された捕虜たちの郵便物などもご紹介しながら、旧泰緬鉄道に載ってみた体験記も載せています。刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 ノーベル平和賞と温暖化問題
2007-10-13 Sat 11:27
 今年のノーベル平和賞は、記録映画「不都合な真実」などを通じて地球温暖化防止を訴えているアル・ゴア前アメリカ副大統領と、温暖化防止研究を政策決定に生かすための国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC、事務局・ジュネーブ)に授与されることが発表されました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

アメリカ・環境保護

 これは、1970年にアメリカが発行した環境保護キャンペーンの切手で、環境保護をアピールした切手としては古典的な1枚です。切手は田型連刷で、それぞれ、左半分に地球を描き、右側には、土壌・都市・水・空気のイメージが配されています。そして、切手の上部にはそれぞれ、「我々のXXを大切に」というスローガンが入っています。

 地球環境の保全というのは重要なことで、そのために我々一人一人ができることを考え、実行していかねばならないのは言うまでもありません。しかしながら、へそ曲がりの僕は、いわゆる環境保護派の人たちの議論や主張には、どうしても胡散臭さを感じずに入られません。

 たとえば、今回のノーベル平和賞の受賞理由にもなった映画「不都合な真実」ですが、温暖化防止を呼びかけるという趣旨は良いとしても、気候変動に関するデータが不正確で、地球温暖化の不安を過度にあおっているとの批判が根強いことは広く知られています。

 たとえば、映画では、この50年間で氷河が減ってきていることが強調されていますが、ナポレオン戦争の時代の19世紀初頭、つまり、産業革命が起こって工場による二酸化炭素排出が始まる以前から氷河が縮小し続けていることについては触れられていません。また、南極の2%が劇的に温暖化している図も出てきますが、残りの98%がこの35年間で大幅に寒冷化していることも無視されています。

 映画では海面が20フィート(7メートル)上昇した際の予想図もでてきますが、国連の委員会の予想では、今世紀中に海面が上昇する規模は1-2フィート(数十センチ規模)とされており、この数値はあまりにも危機を煽りすぎている嫌いがあります。ちなみに、前世紀の海面上昇はおよそ1フィートの上昇でした。  

 さらに、2003年のヨーロッパでの熱波を取り上げ、地球温暖化により今後多くの死者が出るとの警告も出てきますが、冷静に考えれば、温暖化の“恩恵”として寒波で亡くなる人が減少するということは考えられないのでしょうか。実際、寒波で亡くなる人と熱波で亡くなる人では、寒波で亡くなる人の方がはるかに多いわけで、イギリスを例にとっても、温暖化による暑さで亡くなる人は2050年までで2000人増えるものの、寒さによる死者は20000人減るとの試算も出されています。

 近年、温暖化のせいとされることの多い気候災害ですが、被害が拡大した要因は、都市部への人口集中や堤防などのインフラ設備の不備といった“人災”の側面が大きいことも見逃してはいけません。このことは、同じように集中豪雨に見舞われても、中国と韓国にくらべて北朝鮮(極端な森林伐採が行われていることで悪名高い)の被害が格段に大きいことを考えてみれば容易に想像がつくわけで、“人災”の部分を軽視してなんでもかんでも“温暖化”のせいにしてしまうのは、政治の責任放棄でしかありません。

 僕は、温暖化防止という理念に異議を唱えるつもりはありませんし、その意義も十分に認めているつもりですが、“温暖化防止”に注ぐ莫大なエネルギーとコストのなにがしかを、もっと別の問題解決のために費やす方が有益ではないかと思っています。たとえば、HIV、下痢、マラリアといった病気を予防すれば、熱波で亡くなるよりもはるかに多くの人の命(年間1500万人といわれている)が救われるわけですし、世界の半分以上の人が栄養不足に苦しんでいるということを見逃していいはずがありません。また、全世界では、基礎的な教育を受けられない人は8億人いるといわれており、10億人が綺麗な水を得られずにいるという数字もあります。こうした諸問題を解決するためのプログラムと、温暖化防止のために行われている試みとでは、コスト対効果という点で、どちらが有効なのでしょうか。

 今回のノーベル平和賞をきっかけに、一部のヒステリックな“環境保護派”や、グリーンピースのようなテロリスト(わが国の捕鯨船や海上保安庁の巡視船に船をぶつけたり、船のスクリューに鎖を巻くなどの彼らの行動については、日本政府も“テロリズムである”と認定しているものがあります)が勢いを得て、今まで以上に傍若無人な振る舞いが目立つようになるとしたら、非常に困ります。

 もっとも、ノーベル賞の選考委員会は「授賞が議論を呼ぶことは事前に分かっていた」と述べているわけですから、これをきっかけに、感情的ではない、冷静な議論が深まるようになれば、自然とおかしな人たちも淘汰されていくのではないかと期待したいところです。

 *今朝起きてきたら、カウンターが24万ヒットを超えていました。いつも遊びに来てくださっている皆様には、あらためてお礼申し上げます。
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 祝・内藤選手勝利
2007-10-12 Fri 10:37
 本日(12日)20:00~21:00、CS(衛星放送)の日本文化チャンネル桜で放送の「報道ワイド・日本フライデー」に出演します(視聴方法などはこちらをご覧ください)。よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。

 さて、ボクシングの世界ボクシング評議会(WBC)フライ級タイトルマッチは、内藤大助選手が初防衛を果たしました。格下相手(同級14位)の試合とはいえ、“内藤・勝利”のニュースは、僕にとってはめでたい限りです。今後、内藤選手は12月にタイで前王者ポンサクレックと戦うことになる予定だそうです。というわけで、今日はタイのボクシング、すなわちムエタイがらみの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ムエタイ

 これは、1966年に発行されたムエタイの切手で、ムエタイを取り上げたものとしては最初の1枚になります。

 ムエタイのルーツは必ずしもはっきりしませんが、おそらく、戦闘における素手での格闘が競技としてまとめられたものとみてよいでしょう。1548年頃、アユタヤ王朝のナレースワン大王はビルマとの戦争にたたかって勝利を収めましたが、その際、タイの戦士によるムエタイが大きな役割を果たしたといわれています。

 1767年、アユタヤ王朝はビルマによって滅ぼされますが、このとき、捕虜となったナヒ・カノム・トムは、ビルマ王の奴隷としてビルマの拳法家と戦って勝利を収め、解放されたというエピソードもあります。

 その後、ムエタイは各地で盛んに行われていましたが、決闘がしばしば行われて死者も続出したことから、ラタナコーシン王朝はムエタイを禁止し、その歴史は一時途絶しました。

 しかし、1921年、第一次大戦後の財政難の中で、国王ラーマ6世が増収策の一環としてムエタイのトーナメントを開催し、ムエタイは復活します。このときから、試合はボクシングのリング上で行われ、時間をはかり、レフェリーが置かれるなど、スポーツとしての体裁が整えられました。これが、現在の近代ムエタイの直接のルールです。

 西洋のボクシングにならったグラブが使われるようになったのは1929年のことで、それ以前は、拳の保護のために紐が巻かれているだけでした。今回ご紹介の切手では、選手はテーピングをしているだけで、グラブをつけていません。おそらく、実際の試合というよりも演舞をイメージしてデザインが制作されたためでしょう。

 今回の切手をよく見てみると、選手は頭に鉢巻のようなものを巻いているのがお分かりいただけると思います。これはモンコンと呼ばれる戦いのお守りで、選手のランクによって色が決められており、本来は、試合の際には外されます。また、腕にも紐のようなものが巻きつけられていますが、これもパープラチアットと呼ばれるお守りです。

 ムエタイの技は、頭・両拳・両肘・両膝・両脚(脛・踝・足の甲)の9つの部分を使って繰り出され、108種類あり、①頭や額で突くもの、②拳で殴るもの、③肘で突くもの、④膝で突くもの、⑤脚で蹴り、踏み、挟むもの、に大別されます。

 ムエタイの試合では、通常のボクシングでいう“クリンチ”の状態が多いのですが、これは、ムエタイ独自の技を相手にかける必要からやむをえざる面があるためで、必ずしも観客のブーイングを呼ぶものではありません。とはいえ、昨日(11日)の試合のように、挑戦者が自棄になってチャンピオンを投げ飛ばすようなことをやらかせば、それはムエタイでもはげしいブーイングの対象になるわけですが…。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』の制作作業もいよいよ大詰めにさしかかってきました。ムエタイの聖地、ラーチャダムヌーン・ボクシング・スタジアムをはじめ、バンコクのさまざまな見所を切手でたどる「曼谷三十六景」なる一章も設けてみましたので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 “チャンネル桜”に出ます
2007-10-11 Thu 09:44
 突然ですが、明日(12日)20:00~21:00、CS(衛星放送)の日本文化チャンネル桜で放送の「報道ワイド・日本フライデー」に出演します。(視聴方法などはこちらをご覧ください)

 というわけで、今日は時季外れですが“桜”ネタで行きましょう。先日わが家に届いた郵便物に、こんな切手が貼られていました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

日タイ120年(タイ)カバー

 これは、今年(2007年)9月26日にタイで発行されたばかりの“タイ日修好120周年”の記念シートが丸ごと貼られたカバーです。書留便で、表には他にも合計124バーツ分の記念切手がゴチャゴチャ貼られていましたが、裏側はシートのみが貼られていてすっきりしています。

 近代国家としての日本とタイとの国交は、1887年に調印の「修好通商ニ關スル日本國暹羅國間ノ宣言」によって樹立され、東京とバンコクに両国公使館が置かれたことから始まり、今年はその120周年にあたります。日本でも、タイと同じ日に、10種類の記念切手を収めたシートが“国際文通グリーティング(日タイ修好120周年記念)”として発行されていますので、ついでにその画像もご紹介しましょう。

日タイ120年(日本)

 日本側の切手は、シート地にタイのイメージとしてワット・プラケオ(エメラルド寺院)の一部が取り上げられていますが、タイ側は日本のイメージとして富士と桜を取り上げています。富士と桜は、20年前の修好100年の記念切手でも取り上げられており、タイ切手における“日本”の表現としては、今後も定番の題材として登場しそうです。

 両国のシートを見ると、共通のデザインのものが4点ありますが、印刷会社が違うこともあって、印刷の雰囲気はかなり異なっています。この辺を見比べてみるのも面白いかもしれません。

 今回の放送は、明日の午後収録して、そのまま夜には放送という段取りになっていますので、現時点では、まだ何を話すか、細かいところまでは決めていません。先方からの依頼では、『反米の世界史』や『満洲切手』の内容を中心に話してほしいといわれているのですが、可能なようでしたら、11月2~4日に東京・池袋で開催のタイ切手展(<JAPEX>に併催)にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』の予告編のような話も少しはしたいと思っています。

 僕自身はテレビをあまり見ないこともあって、我が家には衛星放送の設備はなく、自分の放送をリアルタイムで見ることができませんが(後日、ビデオでも送ってもらおうかと思っています)、視聴可能な環境にある方で、お時間がある方は、よろしかったら、放送をご覧いただけると幸いです。なお、放送番組の常として、突発的な事態で放送の中止や延期があるかもしれませんが、その場合にはあしからずご容赦ください。
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 英雄/テロリスト図鑑:ゲバラ
2007-10-10 Wed 11:03
 キューバ革命で活躍したチェ・ゲバラ(本名はエルネスト・ゲバラ)が亡くなって、昨日(9日)でちょうど40年だそうです。というわけで、現在発売中の『SAPIO』10月24日号の僕の連載、「世界の『英雄/テロリスト』裏表切手大図鑑」では、ゲバラを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

ゲバラ

 ゲバラは、1928年6月14日、アルゼンチン第2の都市、ロサリオの裕福な家庭に生まれました。少年の頃、近所の工場でストライキがあったとき、工場側が雇ったスト破りの男たちに対して、仲間とともにパチンコで攻撃したというエピソードは、まさに、「栴檀は双葉より・・・」といった感じです。

 もともと、放浪癖があったせいか、ブエノスアイレス大学医学部に在学中、高校時代からの友人、アルベルト・グラナードと2人でいきなりオートバイでアメリカ大陸縦断の旅に出てしまいます。途中、ハンセン氏病の医師であるかのように振舞って宿と食事、旅費をくすねたり、密航がばれて船員の仕事をすることで勘弁してもらったり、その冒険譚はそれなりに面白いのですが、同時に、中南米諸国の絶望的な貧富の格差やアメリカによる経済支配の実態などを目の当たりにして、社会変革の必要を痛感したといわれています。

 1953年に大学を卒業した後、軍医として徴用されることを嫌った彼は出国し、ボリビアを皮切りにペルー、エクアドル、グアテマラなどを経てメキシコにいたり、1955年6月、そこで亡命キューバ人のフィデル・カストロと出会い、キューバ革命に向けて邁進することになります。

 ところで、ゲバラは生まれつき喘息持ちでしたが、山中でのゲリラ戦を通じて“虫除け”の必要から葉巻を吸う習慣が身についたといわれています。また、ゲバラのみならず、カストロらのゲリラ兵たちがそろってあごひげを蓄えているのも、やはり、山中での生活に由来しているとのことです。なお、ゲリラ時代の体験をもとにゲバラが書いた『ゲリラ戦争』は実戦的なゲリラのマニュアルとして評価が高く、現在でもテロリストの必読書といわれています。

 1959年の革命後、革命政府の元勲となったゲバラは、当初、米国という共通の敵と対峙するソ連との関係強化を唱えていましたが、キューバ危機でのソ連の“裏切り”に憤激。ソ連への批判を強め、ソ連への依存を強めていったカストロ政権から離れていきました。

 そして、およそ1年間、アフリカのコンゴで軍事政権に対抗する左翼反乱軍に参加した後、“世界革命”の理想を抱えて、1966年11月、ボリビアに潜入。革命に向けてのゲリラ活動を展開しました。しかし、先住民族が多数派を占めるボリビアでは、ゲバラらの左翼ゲリラは余計なことをする“よそ者”という見方が強く、勢力を拡大できないまま、1967年10月8日、ゲバラはボリビア政府軍に逮捕され、翌日、銃殺されました。なお、当時は危険きわまりない反政府ゲリラ、テロリストとしてゲバラを逮捕・銃殺したボリビアですが、現在では、全世界の観光客を誘致すべく、ゲバラの足跡をたどるツアーがさかんに売り出されているのは、なんとも皮肉な話です。

 ご紹介している切手は、ゲバラの没後1周年を記念してキューバが発行した追悼切手で、革命後間もない1960年3月15日、アルベルト・コルダが撮影した報道写真が取り上げられています。撮影当初は編集で没になりましたが、1967年にイタリア人ジャーナリストがコルダの許可を得て持ち出し、ゲバラの死後、“GUERRILLERO HEROICO”(ゲリラヒーロー)の名でポスターとして売り出されて有名になりました。その後、世界各地でTシャツなどにも印刷されるようになり、現在では、ゲバラのもっとも有名な写真として定着しています。
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 フィラデルフィア違い
2007-10-09 Tue 11:32
 新聞を見ていたら、明日(10日)から東京・上野の東京都美術館で「フィラデルフィア美術館展」が開催されるという記事が出ていました。というわけで、ちょっと毛色の変わった“フィラデルフィア”ネタとして、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

アンマンのモザイク

 これは、1989年にヨルダンで発行された切手で、首都アンマンの古代の風景を描いたモザイク画が取り上げられています。モザイク画の上部には、アンマンの旧称である“フィラデルフィア”の文字がギリシャ語でしっかりと入っています。

 現在のアンマンの地に人々が定住するようになったのは、およそ9000年前の石器時代のことと考えられています。

 古代エジプト王朝は、アメン神の名を冠した“アンモン”という名の都市を建設しましたが、旧約聖書の時代、この地は“アンモン人の都”の意味でラバト・アンモンと呼ばれていました。その後、ラバト・アンモンは、アッシリア、ペルシャ、マケドニアの征服を経て、ギリシャ語でフィラデルフィアと呼ばれるようになります。そして、紀元前1世紀にはローマ帝国の支配下に置かれ、ビザンツ時代には主教区としてキリスト教文化が栄えました。ちなみに、アラビア語のアンマンという地名は、西暦5世紀末から7世紀はじめにかけてシリア一帯を支配したガッサーン朝の下で使われてから定着した名前です。

 アラブの大征服によってイスラム世界に編入された後も、ウマイヤ朝の時代は首都のダマスカスに近いこともあって、アンマンはそれなりに繁栄していました。しかし、アッバース朝の時代にバグダードが帝国の首都になると、首都から離れたアンマンは次第に衰退。19世紀半ばまで、ローマ時代の遺跡しかない寒村として、忘れられた存在となっていました。

 ところが、1887年、北カフカスのチェルケス人が帝政ロシアの弾圧を逃れて、当時オスマン帝国の支配下にあったシリアに亡命し、フィラデルフィアの廃墟周辺に居住するようになったことで、アンマンにはふたたび街区がつくられはじめます。

 そして、第一次大戦後、オスマン帝国が崩壊し、英仏が帝国のアラブ地域を分割していく過程で、東地中海南部を勢力圏に収めたイギリスが、1921年にヨルダン川東岸地域に委任統治領としての“トランスヨルダン”を創設すると、アンマンはその首都となりました。

 その後、パレスチナ問題が深刻化すると、パレスチナの地に隣接するヨルダンとアンマンの重要性が増し、郵趣的にも面白いマテリアルがいろいろと登場してきます。そのあたりについては、以前、『中東の誕生』という本でまとめてみたことがあるのですが、その後いろいろとマテリアルも増えましたから、近いうちに改訂版を作れれば良いな、と考えている今日この頃です。
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 これもスポーツ
2007-10-08 Mon 10:17
 今日(10月8日)は体育の日です。というわけで、現在制作中の拙著『タイ三都周郵記』で使う予定のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

凧揚げ

 これは、2004年の国際文通週間にタイが発行した小型シートです。タイでは、毎年、国際文通週間にあわせて伝統文化を紹介する内容の切手を発行していますが、この年は凧が取り上げられました。

 凧揚げというと日本では子供の遊びというイメージが強いのですが、タイではれっきとした大人の競技スポーツとして扱われています。その基本的なルールは、チュラーと呼ばれる星型の雄凧(画像では右上の切手)が南側の風上に、パック・パオと呼ばれる縦長の菱形の凧(画像では左下の切手)が北側の風下に陣取り、雄凧が上空で雌凧をとらえて自陣に引き落とせば雄凧の勝ち、無事に逃げおおせれば雌凧の勝ちというものです。

 今回ご紹介している切手は、この雄凧、雌凧に蛇凧と鳴り凧を加えた4種類で一つのセットが構成されています。

 ところで、小型シートの地の部分には、バンコクの王宮前広場(バックに王宮やエメラルド寺院が見えます)で凧揚げに興じる人々の姿が描かれています。これは、王宮前広場がタイでの凧揚げの定番スポットとなっているためです。

 バンコクのチャクリー宮殿の北側に位置する広場は、もともと、国王と王族の葬儀場でした。このため、この広場は王が亡くなると須弥山に澄む神に戻るとのヒンドゥー神話に基づき、“須弥山の広場”を意味する“トゥン・プラーメン”と呼ばれていました。現在のように“サナーム・ルアン”と呼ばれるようになったのは、1855年、ラーマ四世が発した布告によります。

 この広場がまだ“トゥン・プラーメン”と呼ばれていたラーマ3世の時代、ここは一時的に田圃だったことがあります。国境地域の領有をめぐって、ベトナムがタイに宣戦を布告しようと使者をバンコクに遣わした際、国王は広場に稲を植えて迎え入れたのですが、ベトナムの使者は、王宮の前でも食糧が作られているほどだからタイには兵糧の備えが十分あるはずだと報告し、本国はタイ領への出兵を断念したのだというエピソードがあります。

 この故事にあやかってか、ラーマ4世の時代以降、王宮前広場では国王臨席の下、旧暦六月の上弦の月の日、牛の選ぶ餌によって稲の作柄を行う始耕祭が行われるようになっています。この祭りは、1932年の立憲革命後、一時中断されたものの、1960年に復活。1980年以降、始耕祭の日は“農業の日”に指定されています。

 現在、国王は広場に隣接したチャクリー宮殿ではなく、少し離れたチットラダー宮殿にお住まいのためということもあって、王宮前広場は原則として国民に開放されており、ステージもあって夜にはロック・コンサートが行われることもあります。広場で凧揚げに興じる人が多いのは、バンコクでは、ここ以外には、電線等の障害物がなく、なおかつ国民が自由に使える広いスペースというのがほとんどないことが理由じゃないかと思います。

 なお、もともと、タイでは2月上旬からタイ暦旧正月の4月中旬が凧揚げのシーズンですが、実際には王宮前広場では、今回の小型シートのように、季節に関係なく凧をあげている人を見ることができます。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』の制作作業もいよいよ大詰めにさしかかってきました。今回は、この切手の舞台である王宮前広場以外にも、バンコクのさまざまな見所を切手でたどる「曼谷三十六景」なる一章も設けてみましたので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 沖縄返還と切手投機
2007-10-07 Sun 07:44
 昨日(6日)、1969年11月の佐藤=ニクソン会談の際、返還後の沖縄に米軍が有事の際に核兵器を持ち込むことを認めた“密約”が交わされていたことを裏付けるアメリカ政府の公文書が見つかったそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

沖縄・返還協定批准

 これは、1972年4月17日、返還協定の批准を記念して発行された琉球切手です。

 アメリカ施政権下の沖縄では、1948年7月1日から“琉球郵便”の表示の入った正刷切手が発行・使用されていましたが、これらの沖縄切手も、復帰から20日間の移行期間を経て、1972年6月3日限りで使用禁止となりました。これに先立ち、本土への復帰を前にした1971年12月10日、琉球政府郵政庁は突如、1972年1月10日をもって沖縄切手の通信販売の受付を停止すると発表します。

 その後、復帰までの間に新切手が発行されなければ何も問題はなかったのですが、実際には、郵政庁は“海洋シリーズ”をはじめ、新たな記念特殊切手を発行し、その発売を窓口に限定してしまったことから、混乱が生じ、伊藤淳也の切手投資センターを中心とした切手投機の集団が暗躍することになりました。

 1969年から1970年にかけて、大阪万博を契機とした好景気が日本中を覆う中で切手ブームが到来すると、一部の記念切手の市価が大幅に値上がりし、そのことがマスコミなどで批判的に取り上げられることが少なからずありました。このため、批判を恐れた郵政省は、記念切手の発行枚数を大幅に増やし、市価の“暴騰”を防ごうとしました。

 このため、それまで投機的な思惑買いをしていた一部業者の中には、郵政省の施策によって日本の新切手の値上がりが期待できないと判断し、“投資”の対象を日本切手から沖縄切手へとシフトする者が出てきます。彼らは、本土復帰を前に琉球政府郵政庁が通信販売の受付を停止したことを奇禍として、“入手困難な沖縄切手”を一般向けに大々的に宣伝。1958年10月18日発行の「守礼門復元記念」の切手を中心とした沖縄切手の投機的な売買を仕掛けていきます。この結果、三越をはじめとする有名百貨店では切手投資センターを中心とした大掛かりな即売会が開催され、“沖縄切手ブーム”がマスコミなどを通じて大々的に報じられるようになりました。

 こうした動きに煽られるかのように、1972年4月17日に今回の記念切手が発行された際には、郵政庁の窓口に本土から飛行機をチャーターしてやってきたブローカーやデパート関係者、彼らに切手を売って利益を得ようとする地元民が殺到し、切手の入手をめぐって怒号が飛び交っていたといわれています。また、郵政庁近隣の路上には「切手高価にて買います」との張り紙をした車が並び、札束を持ったブローカーが額面合計10ドルの切手を、すぐさま30ドルで買いあさるという光景もみられました。

 しかし、1種類で300万枚も発行された切手が大きく値上がりするということは常識的に考えられないことで、こうした沖縄切手のバブル相場は沖縄の本土復帰から1年がすぎた1973年5月ごろにははじけてしまいます。切手経済社(社長:矢沢敬一郎)が、1973年6月14日と15日の2回にわたって、それぞれ1000万円と160万円の不渡り手形を出して倒産したように、破綻する投機業者が相次ぎました。

 なお、沖縄返還前後の切手投機に関する詳細は、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも解説していますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただください。
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 マダガスカルの検閲カバー
2007-10-06 Sat 09:26
 人を笑わせ、考えさせて科学への興味を誘う研究などに毎年贈られる“イグ・ノーベル賞”の化学賞を、日本人研究者の山本麻由さんが受賞したそうです。受賞対象となったのは、ウシの排泄物からバニラの香り成分、バニリンを抽出した研究なんだとか。まぁ、素直に凄いとは思いますが、僕はやっぱり天然モノのバニラを味わいたいですね。

 さて、バニラといえば、やはりマダガスカル(世界の生産量の70%のシェアを占めています)。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

マダガスカル・検閲カバー

 これは、第二次大戦中の1942年12月、イギリス占領下にあったマダガスカルの首都、タナナリブ(現アンタナナリボ)から島内のディエゴ・スアレズ宛に差し出されたカバーで、イギリス軍による開封・検閲が行われています。

 1940年6月、フランス本国がドイツに降伏すると、各地の仏領植民地は、本国の親独ヴィシー政府に対する支持派と徹底抗戦派に分裂しますが、マダガスカルは本国支持を表明しました。

 ドイツ軍がヨーロッパの大半を制圧する状況下で、連合国側は地中海からスエズ運河を経てインドへいたるルートを取ることができず、喜望峰からマダガスカルを経てインド洋へ抜けるルートを採るしかありませんでした。しかし、1941年12月に太平洋戦争が勃発し、日本軍が東南アジアを占領すると、日本軍がインド洋を西進してマダガスカルに上陸し、そこを基地として潜水艦攻撃を仕掛けてくる可能性が懸念されるようになりました。

 このため、1942年5月5日、イギリスを中心とする連合国部隊はマダガスカル島への上陸作戦を敢行。抵抗するヴィシー・フランス軍を援護するため、日本海軍の潜水艦も派遣され、同年11月5日にヴィシー・フランス側が降伏し連合国が全島の占領を完結するまで、断続的に戦闘が行われました。

 今回ご紹介のカバーは、連合国がマダガスカル全島を占領した後の12月のもので、検閲テープにしっかりと“BRITISH CENSORSHIP”の文字が入っているのが良い感じです。

 競争展に出品するテーマティク・コレクションの要諦は、地理的・時代的にできるだけ広い範囲から、可能な限り多様なマテリアルを集めてくることにあります。僕のメイン・コレクションは“昭和の戦争”を扱ったものだけに、どうしてもマテリアルが日本を中心として東アジア地域のモノに偏らざるを得ないのですが、それでも、とりあえずこのカバーが入っていることで、アフリカのマテリアルへも目配りをしたという格好だけはつきました。とはいえ、展示用に使えそうなアフリカがらみのマテリアルは現在のところ、この1点しか手持ちのコマがありませんから、次の国際展に出品するとき(何年後になるかわかりませんが)までには、もう1~2点、何か探してこないといけませんね。
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 パレスチナ国籍
2007-10-05 Fri 09:42
 法務省は4日、これまで無国籍として扱ってきた在留パレスチナ人について今月15日から“パレスチナ籍”とし、生まれた子供についても同国籍とすると全国の法務局などに通知しました。

 というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

パレスチナから日本宛

 これは、2004年9月、パレスチナ自治政府管理下のラマラから日本宛(というよりも僕宛ですが)に届けられたカバーで、自治政府発行の児童画の切手が貼られています。

 1993年のオスロ合意によって1994年に発足したパレスチナ自治政府は、当初から、独自の切手を発行して郵便サービスを提供しています。パレスチナ自治政府はあくまでもヨルダン川西岸の一部とガザ地区を管理する自治機関で、正規の国家ではありませんが、その切手は国際郵便でも有効と認められているため、このカバーでも不足料が徴収されてはいません。

 現在のところ、日本をはじめ多くの国々は、パレスチナ自治政府を“暫定政府”として扱っており、国家承認はしていません。法務省が日本国内のパレスチナ人を無国籍として扱ってきたのも、このためです。

 しかし、自治政府が将来的にパレスチナ国家の原型となることは、イスラエルを含む関係各国が暗黙の了解として認めていることに加え、2002年からは自治政府の旅券で日本への出入国が認められるようになるなど、小泉政権以降、日本・パレスチナ関係が深まったことなどから、今回の国籍承認ということになったのでしょう。

 今回の措置により、これまで“無国籍”扱いだったパレスチナ人は“パレスチナ籍”となるため、15日以降、日本で生まれたパレスチナ人の子供はパレスチナ籍になります。これに対して、それ以前に、“無国籍”だった時代のパレスチナ人の両親から日本で生まれた子供は、すでに日本国籍を取得しているため(日本の国籍法では、父母が“無国籍”の場合、日本で生まれた子どもは日本国籍となります)、新たにパレスチナ籍を与えられた上で、将来、どちらかの国籍を選択するということになります。

 パレスチナ籍が正式に国籍として認められたということは、パレスチナ人にとっては喜ばしいことにちがいはないのですが、ただ、これから日本で生まれるパレスチナ人の子供の多くは、パレスチナに帰らず(帰れず)、将来にわたって日本国内で生活していく可能性が高いということを考えると、本音の部分では、従来どおり日本国籍を取得できる方がありがたかったという人もいるのかもしれません。

 なお、1990年代のパレスチナの動きについては、2001年に刊行の拙著『なぜイスラムはアメリカを憎むのか』でもまとめてみたことがあるのですが、切手や郵便物を使って展開するという仕事はまだやったことがありません。また、“切手で読み解く中東・イスラム世界”とサブタイトルをつけて刊行した『中東の誕生』でも、あまり新しい時代の話は入れていませんでしたし、そろそろ、中東がらみのニューバージョンの本を作らなくっちゃいけないかな、と考える今日この頃です。
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 スプートニク50年
2007-10-04 Thu 11:28
 1957年10月4日にソ連が世界最初の人工衛星、スプートニク1号を打ち上げてから、ちょうど50年になりました。というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

スプートニク加刷

 これは、1957年11月28日にソ連が発行したスプートニク1号打ち上げ成功の記念切手で、10月7日に発行された“コンスタンチン・エドゥアルドヴィチ・ツィオルコフスキー生誕100年”の記念切手に、1957年10月4日の日付と打ち上げ成功を記念する文字が加刷されています。

 ツィオルコフスキーは、1935年に亡くなったソ連の科学者で、1903年に『反応機器を使った宇宙空間の探検』を出版し、世界で初めて、宇宙旅行を真面目に科学の対象として扱いました。彼は宇宙移民によって人類が種として完成し、不死性を獲得すると信じており、「地球は人類のゆりかごだが、人類が永遠にゆりかごに留まることはないだろう」という有名な言葉を残しています。また、ロケット理論や、宇宙服や宇宙遊泳、人工衛星、軌道エレベータなどの着想で知られ、現代ロケット工学の基礎的理論を構築したことから、“宇宙旅行の父”“宇宙開発の父”“ロケット工学の父”などとも呼ばれている人物です。

 ソ連が1957年10月という時期を選んでスプートニク1号を打ち上げたのは、1957年から翌58年にかけての国際地球観測年の期間中とあわせて、ツィオルコフスキーの生誕100年を記念してのことでした。ただし、ツィオルコフスキーの誕生日は9月17日、スプートニク1号の打ち上げは10月4日、生誕100年の記念切手発行は10月7日、と微妙なズレがありますが…。

 さて、生誕100年の記念切手は、ツィオルコフスキーの肖像を中心に、右側に彼の想像した宇宙旅行のイメージ画が、左側にスプートニク1号が、それぞれ描かれています。右側のイメージ画のチープな感じが、現在の我々の目には、なんともいえない味をかもし出していますねぇ。

 スプートニク1号の打ち上げに関して、ソ連は打ち上げから1月後の1957年11月5日にも地球の周りを回る人工衛星を描く切手を発行していますが、人工衛星の打ち上げがツィオルコフスキーの生誕100年を期して行われたものを考慮して、今回の加刷切手も発行されることになったのでしょう。

 その昔、宇宙切手は子供の切手収集の定番のテーマで、切手雑誌なんかでは何度か特集が組まれた記憶があります。その当時の僕は、ただ単に宇宙切手を格好いいと思って眺めていただけですが、考えてみれば、宇宙開発は、軍事と密接に結びついているのみならず、冷戦時代の体制間競争のシンボルでもあったわけで、プロパガンダとしての宇宙切手という視点で見てみると、いろいろと面白いものが見えてきそうな気もします。

 このあたりのことは、以前の拙著『反米の世界史』でもちょこっとだけ触れてみたことがあるのですが、機会があれば、一度じっくり腰を据えて取り組んでみるのも悪くはないな、と思っています。
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 タイの巨人
2007-10-03 Wed 12:50
 プロ野球のセリーグは巨人が優勝しました。パリーグの日本ハムのときもタイの切手の中から1枚選びましたので、今回もこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

トッサカン

 これは、2001年に発行されたヤック(鬼の姿をした守護神)の切手の1枚で、王宮内のエメラルド寺院(ワット・プラケオの出入口のところに置かれています)トッサカンの像が取り上げられています。

 切手ではわかりにくいのですが、下の絵葉書(1930年代に作られたものです)を見ていただくと、人間の大きさに比して、この像の大きさがお分かりいただけると思います。

ワット・プラケオ境内絵葉書

 今回の切手に取り上げられているトッサカンは、インドの『ラーマーヤナ』のタイ版ともいうべき『ラーマキエン物語』に登場する悪魔の国ランカー国の王で、物語では、アユタヤ王国のラーマ、ラックの両王子の敵役です。戦いの発端は、トッサカンがラーマ王子の婚約者であったシーダー姫をさらい、自らの妻としてランカー国内の庭園に閉じ込めたこと。ラーマ王子とラック王子は、シーダー姫を取り戻すべくトッサカンと戦うというのが、『ラーマキエン物語の』骨子です。

 戦いは延々と続き、戦況は一進一退を繰り返したが、最終的にはトッサカンが滅び、王子たちが勝利を収めるというものですが、この間、トッサカンはさまざまな術を繰り出して王子たちを苦しめます。その霊力にあやかって、王宮と寺院を守る役割を付すため、日本でいう仁王様のような意味合いの守護神としてこの場所に置かれるようになったのでしょう。

 さて、11月2~4日の<JAPEX>にあわせて刊行予定の拙著『タイ三都周郵記』の制作作業もいよいよ大詰めにさしかかってきました。今回は、この切手の舞台である王宮やワット・プラケオ以外にも、バンコクのさまざまな見所を切手でたどる「曼谷三十六景」なる一生も設けてみましたので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 現代の朝貢
2007-10-02 Tue 11:59
 韓国の盧武鉉大統領が2000年6月の金大中大統領以来7年ぶりに北朝鮮を訪問しました。4日まで平壌に滞在して金正日総書記と会談し、核問題を含む朝鮮半島の平和体制や経済協力などについて意見交換し、「南北平和繁栄宣言」(仮称)の採択を目指のだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。

南北頂上会談(北朝鮮)

 これは、2000年6月の“南北頂上会談”を記念して北朝鮮が発行した記念切手です。切手は、会談当日の写真が使われていることからもわかるように、会談の当日ではなく、会談終了後の10月に発行されました。おそらく、北朝鮮側としては会談の“成功”を確認してから準備にとりかかったため、こうした日程になったものと思われます。

 会談に先立つ2000年3月9日、金大中は外遊先のベルリンで講演を行い、対北朝鮮政策に関する「ベルリン宣言」を発表しました。その主なポイントは以下の通りです。

 1)韓国は北朝鮮が経済的困難を克服できるよう手助けする準備がある。道路、港湾、鉄道、電力、通信など社会間接資本の拡充や投資保障協定と二重課税防止協定などの投資の環境整備、食糧難の抜本的な解決のための北朝鮮農業の構造改革など、政府当局間の協力が必要な事項については、北朝鮮からの要請があれば、韓国はこれを積極的に検討する準備がある。

 2)韓国の当面の目標は、統一よりも平和定着である。したがってわが政府は、和解と協力の精神で力が及ぶ限り、北を手助けしていく。

 3)北朝鮮は人道的見地から、離散家族問題解決に応じるべきだ。

 4)これらすべての問題を効果的に解決するため、南北当局間の対話が必要だ。

 このベルリン宣言の発表を受けて、3月17日、北京で特使級の非公開接触がおこなわれ、南北頂上会談の実施が合意されました。

 2000年4月に行われた韓国の国会議員選挙で、政権与党の民主党は、“太陽政策”(対北宥和政策)に批判的な野党ハンナラ党に119対133で敗れていました。このため、世論の支持を得て巻き返しを図るためにも、金大中政権は南北頂上会談という切り札を使う必要に迫られていました。

 一方、北朝鮮側には、なによりもまず、経済的苦境を脱するために韓国からの経済支援が必要という事情があります。このため、北朝鮮に親和的な金大中の政治的影響力が弱まることはなんとしても避けたい彼らは、金大中政権の支持率浮揚に協力して恩を売ろうという意図をもって頂上会談の実施に合意したというわけです。

 さて、2000年6月13日に訪朝した金大中は、翌14日、金正日とともに南北共同宣言に署名します。

 共同宣言は、今回の頂上会談が「祖国の平和的統一を念願する全民族の崇高な意志により」行われたものであることを明らかにした上で、①統一問題を自主的に解決していくこと、② 統一のため、南側の連合制案と北側の緩やかな連邦制案がお互い、共通性があったと認め、今後、この方向から統一を志向していくこと、③離散家族、親戚訪問団を交換し、非転向長期囚問題を解決すること、④経済協力を通じて、社会、文化、体育、保健、環境など、諸分野の交流を活性化させること、などがうたわれていました。また、答礼のため、金正日がソウルを訪問することも盛り込まれています。

 こうして、金大中は所期の目的を果たし、翌15日、ソウルに帰着しました。

 会談後の6月27日には、平壌で南北赤十字会談が行われ、8月15日の解放記念日にあわせて離散家族100名ずつがソウルと平壌を交換訪問することならびに、9月2日(日本が降伏文書の調印を行った日で、旧連合諸国では対日戦勝利の日とされている日)に韓国にとらえられている非転向長期囚を北朝鮮に送還することについて、南北間での合意が成立。日本人原敕晁さんを拉致した北朝鮮の元スパイ、辛光洙もこれによって北朝鮮に帰国して、“英雄”になっています。

 また、韓国の民主化に対する長年の功績と南北頂上会談を実現により、金大中はノーベル平和賞を受賞しています。

 しかし、軍事政権時代の民主化の闘士として、アジアにおける民主主義と人権のシンボル視されてきた金大中ですが、彼大統領としてが進めてきた太陽政策は、皮肉にも、それまでのような北朝鮮批判はタブー視する風潮を生むという副作用をもたらしてしまいました。

 この結果、大統領就任以前は世界的な人権活動家であったはずの金大中が、北朝鮮で行われている圧政と抑圧には目をつぶり、同胞の人権と民主主義の問題にはなんら救いの手を差し伸べない/差し伸べられない、という皮肉な結果をもたらすことになっています。

 当選のことながら、北朝鮮の人権問題に真剣に取り組んでいる人々からは、金大中のこうした“変節”と、それを後押しするようなノーベル平和賞の授与に対しては批判も根強く、さまざまな議論が巻き起こりました。

 さらに、金大中の退陣後、受賞理由の一つとなった南北頂上会談の実施にあたって、金大中政権が現代グループを巻き込んで北朝鮮に不正送金を行っていた疑惑も明らかになったことから、金のノーベル平和賞は“金で買ったもの”という批判の声も上がるようになり、金大中のノーベル平和賞受賞については、次第に、韓国国内でも冷めた見方が広がっていきました。

 さて、かつての金大中以上に深刻な支持率低下に悩む盧武鉉政権は、金正日による答礼のソウル訪問という約束を無視してまで北朝鮮を訪問し、巨額の支援を約束して“南北宥和”を謳いあげて帰ってくるつもりなのでしょうが、それが政権浮揚につながるかどうかははなはだ疑問です。僕なんかの目からすると、巨額の貢物を携えて“将軍様”に拝謁を賜り、その威光をもって国内での権力基盤を固めようという発想は、かつての朝貢そのままにしか見えないんですけどねぇ。
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