内藤陽介 Yosuke NAITO
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 パレスチナ分割決議60年
2007-11-30 Fri 09:18
 昨日(11月29日)は、1947年に現在のパレスチナ紛争の直接の引き金となった国連パレスチナ分割決議が採択されてから60周年にあたっていましたが、守屋前次官の逮捕ということで“元祖・防衛汚職”のネタで記事を書いてしまいました。というわけで、1日おくれですが、今日はパレスチナのネタで行きましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ユダヤ国民評議会

 これは、1948年5月にイスラエルが建国されるまでの間、ユダヤ国民評議会の支配下にあったメイル・シェフェヤからテルアビブ宛に差し出されたカバーです。

 第2次大戦末期の1945年4月、ローズヴェルトの死により、急遽、アメリカ大統領となったトルーマンは、いわゆる中東地域に関して具体的な戦略的見通しを持っておらず、アラブ・ユダヤの双方と十分な協議をすることなくパレスチナの基本的な状況を変えることはしないとアラブ側に約束した前任者の方針を基本的には継承します。しかし、ナチス・ドイツの敗北により悲惨な収容所の実態を知ることになった彼は、ユダヤ人犠牲者の救済という視点から、シオニストに同情的な姿勢をとるようになっていきます。

 このため、1945年7月、トルーマンはイギリス政府に対して、ユダヤ人のパレスチナへの移住制限を解除するよう要請。さらに、同年8月には、パレスチナが10万人のユダヤ系難民を移民として受け入れるよう、アトリー(イギリス首相)宛の書簡で求めています。

 これを契機として、米英両国の代表団からなるパレスチナ問題調査委員会が設立され、委員会は、1946年5月、①パレスチナはアラブ州・ユダヤ人州に分割せず、国連による暫定的な信託統治を行う、②ナチスの犠牲者となった10万人のユダヤ系難民のパレスチナ入国を認める、③パレスチナの土地譲渡制限を撤廃する、との報告書をまとめます。しかし、報告書発表の直前、シオニスト過激派によりイギリス人兵士6人が殺害されるというテロ事件が発生。態度を硬化させたイギリスは、ユダヤ人テロ組織の武装解除を優先させるよう主張し、ユダヤ系難民のパレスチナ受け入れに強い難色を示しますが、このことは、イギリスの対応に不満を持つシオニストたちの反英闘争をより激化させる結果をもたらしました。

 シオニストの反英テロに手を焼いたイギリスは、ついに、自力でのパレスチナ問題の解決を放棄。1947年2月、国連に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これを受けて、5月に設立された国連パレスチナ問題特別委員会は、パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くというパレスチナ分割案を多数派意見として発表。同案が、同年11月29日、国連決議第181号(パレスチナ分割決議)として採択されます。

 しかし、パレスチナ分割決議は、当時、全体の1割の土地を所有していたに過ぎないユダヤ系住民に対して、東地中海の肥沃な農耕地を含むパレスチナ全土の過半数が与えられるというもので、アラブ系住民にとっては、とうてい承服しがたいものでした。しかも、この分割案の作成に際しては、当事者であるパレスチナのアラブ住民の代表が意見を求められることもありませんでした。この結果、アラブ地域では、国連決議が採択された11月29日は「服喪と圧政の日」とされ、第2次大戦中は比較的収まっていたパレスチナ全土で反シオニストの武装闘争が再燃。アラブ住民とシオニストとの間でテロの応報が繰り広げられ、パレスチナ全土は事実上の内戦の突入していきます。

 これに対して、パレスチナの治安に責任を負うべきはずのイギリスは、イギリス人兵士や警官の死傷があいついだことを理由に、1947年12月、先の国連決議で決められた8月1日という日程を2ヵ月半も繰り上げ、1948年5月15日をもってパレスチナから撤退すると発表。委任統治国としての責任を放棄し、みずからの中東政策の失敗が招いた混乱を放置してパレスチナから逃げ出すのです。

 さて、事実上の内戦に突入したパレスチナでは、1948年3月、シオニストたちは、パレスチナ分割の国連決議を受けて、テルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府“ユダヤ国民評議会”を樹立し、新国家樹立に向けての具体的なスタートを切り、イギリス撤退の軍事的空白を利用して、パレスチナを制圧する準備を進めていきました。

 その一環として、1948年5月に入ると、ユダヤ国民評議会は、テルアビブ、ハイファ、エルサレムの各郵便局でユダヤ国民基金の義捐証紙などにヘブライ語で“郵便”を示す加刷したものを、臨時の切手として発行し、自らの支配地域内における郵便物に貼付させるようになりました。こうした暫定切手は、5月3日(1日説もある)からイギリスの委任統治が終了する同月14日(一部では15日)まで発売され、イスラエル建国宣言後の同月22日まで有効とされています。また、これらの切手は、ユダヤ人地区(間)においてのみ有効で外国郵便には無効でした。

 今回ご紹介のカバーは、その一例で、テルアビブの切手商が作ったフィラテリックなものです。押されている消印の外側の円には“郵便”の文字と局名が、中央には“暫定政府”の文字が、それぞれ入っているのみで日付は入っていません。また、カバーの余白には、ユダヤの象徴であるダビデの星をはさんで、上下に、シオニズム運動の父と呼ばれるテオドール・ヘルツルの『ユダヤ人国家』の一節(1896年2月14日)と、パレスチナ分割によるユダヤ人国家の創設を決めた国連決議第181号(1947年11月29日)の文字が入っており、イスラエル建国直前のシオニスト側の昂揚した雰囲気が伝わってくるようです。

 こうした混乱を経て、1948年5月15日にイスラエル国家の建国宣言と、それを認めないアラブ諸国の宣戦布告による第1次中東戦争の勃発という事態につながるわけですが、このあたりは郵便史的にもいろいろと面白いマテリアルがありますので、いずれ、コレクションとしてきちんとまとめてみたいものです。

 *昨晩、カウンターが26万ヒットを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、改めてお礼申し上げます。

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 明日・12月1日(土)、東京大学駒場キャンパス・16号館119教室で開催のシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」にて、日本占領時代の香港のことを中心に「切手というメディアが含蓄するもの」と題してお話しします。

 僕の出番は、13:20スタートの「収集されるメディア―絵はがき、切手、ポスター」と題するセッションの2番目。入場は無料でどなたでもご参加いただけますので、ぜひ、遊びに来てください。
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 元祖・防衛汚職
2007-11-29 Thu 10:57
 防衛省の前次官・守屋武昌が、在任中、航空・防衛分野の専門商社・山田洋行の元専務・宮崎元伸から接待を受けていたとして、収賄容疑で逮捕されました。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

台湾行啓絵葉書

 これは、1923年、皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)の台湾行啓にあわせて台湾総督府が記念に発行した絵葉書で、皇太子の肖像を中心に、皇太子旗とお召し艦の“金剛”が取り上げられています。貼られている切手は、皇太子行啓の記念切手ではなく、震災切手の1銭5厘が2枚で、1924年1月の皇太子ご成婚の特印と当日の日付印が押されています。おそらく、本来のご成婚記念の絵葉書が関東大震災の影響で不発行になったため、肖像が大きく取り上げられたモノとして、この葉書が記念押印に代用されたのでしょう。

 さて、今日問題にしたいのは、裕仁親王の肖像ではなくて、左下に描かれている“金剛”です。というのも、この“金剛”は、日本の元祖防衛スキャンダルとでもいうべきシーメンス事件に深くかかわっているからです。

 事件の発端は、シーメンス社社員のカール・リヒテルが会社の重要書類を盗み出し、東京支店長を脅迫したことからはじまります。

 恐喝に失敗したリヒテルは、ロイター通信特派員アンドルー・プーレーに問題の書類を売り、ドイツへ帰国しますが、その後、恐喝未遂罪で起訴されました。そして、1914年1月、ベルリンでの裁判で、彼の盗んだ書類の中に発注者の日本海軍将校に対して会社側がリベートを贈ったとの記載があることが明らかになり、国会でも立憲同志会の島田三郎がこれを取り上げて、一大疑獄事件に発展しました。

 捜査が進展すると、汚職事件はいっそう広がり、3月には、1910年の巡洋艦“金剛”の発注に際して、当初計画のアームストロング・ホイットワース社からヴィッカース社に変更するための裏工作として、ヴィッカース社の日本代理店である三井物産が海軍高官に贈賄した事実が判明。当時の艦政本部長で元呉鎮守府司令長官の松本和が収賄で軍法会議にかけられ、同年5月、懲役3年・追徴金40万9800円の実刑判決を下されました。この間の3月24日、当時の山本権兵衛内閣は、予算不成立の責任を取るというかたちで総辞職に追い込まれています。

 ちなみに、日清・日露の両戦争で軍功を挙げた松本は、1908年8月から1913年12月まで、実に5年以上にもわたって、海軍のすべての艦艇を統括する艦政本部長の地位にとどまっていました。今回、逮捕された守屋も次官在任が4年という異例の長さです。

 軍事費・防衛費の類は、その金額が巨額であるにもかかわらず、機密保持という問題もあって“透明性”という点では不十分にならざるをえない面もあり、洋の東西を問わず、汚職の温床となりがちです。そうしたお金の使途を決定できるポジションに1人の人物が長く居座り続けるとどうなるか、今も昔も、その結果は変わらないといえそうです。

 なお、拙著『皇室切手』では、今回ご紹介の葉書について、裕仁親王の肖像という観点からいろいろと分析しています。よろしかったら、ぜひ、こちらもご覧いただけると幸いです。

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 税関の日
2007-11-28 Wed 10:50
 今日(11月28日)は税関記念日。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

税関100年

 これは、1972年に発行された税関100年の記念切手です。

 1858年、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの各国と日本が結んだ修好通商条約(安政の五箇国条約)によって、翌1859年、神奈川(横浜)、長崎、箱館(函館)の港が開港となると、貿易関係の事務ならびに外交事務を取り扱う機関として各地に運上所が設けられました。運上所は、明治維新後の1871年、運上所は大蔵省(現・財務省)の所管に移され、翌1872年11月28日、“税関”と称されました。この日を記念して、1952年の税関80年を機会に、11月28日を“税関記念日”とすることが定められました。

 1972年は、そうした税関の百周年にあたっており、大蔵省関税局(当時)の主催により各種の記念行事が行われています。しかし、1972年2月28日付で発表された、当初の昭和47年度の記念特殊切手発行計画には、この切手は含まれておらず、8月21日付の郵政省の報道発表で追加発行が明らかにされました。

 その理由は定かではありませんが、郵政省OBの天下り団体である財団法人・全日本郵便切手普及協会の機関誌『切手』の1972年11月6日号には、郵政省郵務局国際業務課の課長補佐であった田中貢が「外国郵便と税関」という文章を寄稿し、①外国郵便も輸出入貨物として税関の輸出入検査が必要なこと、②税関への郵便物の交付や通関の必要から税務職員が全国の通関局に常駐していること、③以上のようなことから、郵便局職員と税関職員の緊密な連携が重要であること、などを説明していますから、郵政省としても、当初の切手発行計画の発表後になって、「税関百周年」の記念行事に当事者として参画することが必要と判断するようになったのかもしれません。

 今回の記念切手に関しては、企画の段階では、歌川芳幾 の「横浜英吉利商館繁栄図」を図案として取り上げる計画もあったようですが、最終的には三代広重の「横浜波止場より海岸通異人館の真図」の一部がトリミングして取り上げられました。作品は、1870年に制作されたもので、横浜の東波止場(現在のホテルニューグランド所在地の前)から望んだ景観として、外国船でにぎわう港内と海岸通に面した外国商館や外国人などが描かれています。

 なお、この切手を含む額面20円時代の記念切手に関しては、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しく解説しておりますので、よろしかったら、そちらもあわせてご覧いただけると幸いです。

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 『郵趣』今月の表紙:スイス高額切手
2007-11-27 Tue 10:49
 (財)日本郵趣協会発行の『郵趣』2007年12月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げ、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

スイス高額

 これは、1914年に発行されたスイスの3フラン切手で、ミーテンが描かれています。

 1914年、スイスで3フラン、5フラン、10フランという高額切手が発行されました。ちなみに、当時の通常切手、テル・シリーズ(以前の記事でご紹介のものは、このうち、1920年代に入ってから発行されたものです)の最高額面は30サンチーム(1フランは100サンチーム)でしたから、現地では、これらの切手は日本でいう神宮皇后の高額切手のようなイメージで受け止められていたのだろうと思います。

 3フラン切手に取り上げられたミーテンは、スイス中央部の古都、シュヴィーツ(チューリヒから特急列車で1時間ほど)のシンボルともいうべき山です。ミーテンには大ミーテンと小ミーテンの二つがありますが、一般にミーテンというと大ミーテンの方を指します。フィールヴァルトシュテッテル湖畔の平らな盆地から突如盛り上がった大ミーテンの釣鐘型の景観は絵葉書などでもおなじみの風景で、1年間に100回ミーテン山に登ることを目的とする団体、フンデルター・クラブ(100er Club)なるものが存在するほど、スイス人には愛されている名峰です。

 さて、今月の『郵趣』では「拝見!10枚の愛蔵コレクション」のコーナーで、来年の干支にちなんで10枚のネズミ切手をカラーで取り上げています。そろそろ、年賀状の準備が気になる時期ですが、切手を使った年賀状を出してみたいという方にはちょっと参考になる記事ではないかと思います。

 かくいう僕も、毎年、干支にちなんだ切手の中から、刊行予定の本に絡んだものをあしらった年賀状を出しているのですが、なかなか、現時点では1枚に絞りきれないでいるところです。あんまりのんびりもしていられないのは重々承知なんですが…。

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 極東共和国の幻
2007-11-26 Mon 09:07
 極東共和国の指導者だったアレクサンドル・ミハイロヴィチ・クラスノシチョーコフが、1937年11月26日にスターリンの粛清で銃殺されてから、今日でちょうど70年になります。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

極東共和国

 これは、1921年に発行された極東共和国の切手です。

 極東共和国とは、ロシア革命後の1920年4月、干渉出兵でシベリアに駐留を続ける日本軍との緩衝国としてボルシェビキ政権が樹立したもので、ボルシェビキ政権の支配地域とは別個に、独自の切手も発行しています。当初の首都はウラン・ウデでしたが、後にチタに遷都。この切手はチタで発行されたものです。

 もともと、極東共和国はボルシェビキ政権の衛星国といった性格のものでしたから、1922年10月に日本軍がシベリアから撤退すると、ボルシェビキ政権にとって同国の存在意義もなくなり、同年12月のソヴィエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)の成立にあわせて、同国はソ連に吸収され、消滅してしまいます。

 この極東共和国の成立に尽力したのが、革命政府で共産党国際部東洋部長に就任したクラスノシチョーコフでした。

 クラスノシチョーコフは、帝政時代の1902年にアメリカに亡命して、そこで教育を受け、革命後に帰国した人物で。極東共和国の樹立後は同国の首相に就任し、アメリカの支援で極東共和国の経済的自立をはかるべく、1921年には経済使節団をアメリカに派遣しています。同共和国では、アメリカ型の自由主義経済を一部取り入れたり、ボルシェビキ政権下では非合法とされていた各種政党を認めたり、男女平等を掲げる進歩的な憲法を制定したりするなど、自由主義的な国家作りを目指していました。

 しかし、このことが、結果として教条主義的な共産主義活動家との対立をもたらし、クラスノシチョーコフは失脚。スターリン時代に銃殺されてしまいました。

 ロシアの反プーチン派の指導者で、チェス元世界王者のカスパロフが、野党連合勢力の集会で、当局が許可していないデモ行進を強行し警察に抵抗したとしてモスクワの裁判所から拘禁5日間の決定を言い渡されたそうです。 ロシアに全体主義を復活させてはならないと奮闘中のカスパロフですが、ロシア国内ではプーチンの終身独裁体制が着々と進みつつあるようで、どうにも分が悪いのは否定できません。こういうニュースを聞くたびに、かつての極東共和国が存続していたら、リベラルな政治風土がロシアの一部にでも根付いていたかもしれないのに…、という思いを禁じえないのは僕だけではないでしょう。

 なお、極東共和国に関しては、拙著『反米の世界史』でも簡単に触れていますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

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 早めに撤退すりゃ良かった?
2007-11-25 Sun 11:37
 オーストラリアの連邦議会(上下両院)選挙で与党の保守連合がハワード首相みずから落選という大敗を喫し、11年ぶりに労働党政権が誕生することになりました。このニュースを聞いて思い出したのがこんな切手です。(画像はクリックで拡大されます)

南ベトナム・国際協力の日

 これは、1968年に南ベトナムが発行した“国際協力の日”の記念切手です。切手を見ればすぐにわかるように、ここでいう“国際協力”というのは、ベトナム戦争において南ベトナム支援のために自由主義諸国が派兵することで、その一員としてオーストラリアの国旗も描かれています。

 東南アジアと隣接するオーストラリアは、ベトナム戦争にも積極的に関与し、1965年以降、軍隊を派遣しています。ところが、その前年の1964年にオーストラリアでは徴兵制(兵役義務制度)が導入され、しかも、ベトナム戦争の長期化でオーストラリア兵の犠牲も急増したことから、次第に国民世論は派兵反対へと傾くようになりました。

 その結果、1972年の選挙では、ベトナムからの撤兵を公約に掲げるゴウ・ウィットラムの労働党が勝利し、オーストラリア軍はベトナムから撤退することになります。その後、ウィットラム政権は、兵役義務と高等教育費を廃止し、自由に広く利用できる健康保険制度をつくり、アボリジニーに対して土地の所有権を認めるなど、リベラルな政策を展開しています。

 今回の選挙でも、ベトナム同様、泥沼化するイラクからのオーストラリア軍の撤退問題が大きな争点になっていたわけですが、やはり、派兵にこだわり続けた与党が敗北し、撤退を公約に掲げた労働党が勝利を収める結果となりました。まもなく発足する新政権は、アメリカとの同盟を外交の基軸としながら、イラク駐留部隊の部分撤退や京都議定書の批准など、ハワード路線の軌道修正を図るのだそうですが、まずはお手並み拝見というところでしょうかね。

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 ロイ・クラトーン
2007-11-24 Sat 12:12
 今日は陰暦12月の満月の日。タイではロイ・クラトーンのお祭りが行われる日です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

ロイ・クラトーン

 これは、1969年に発行されたタイの「風俗習慣シリーズ」の1枚で、ロイ・クラトーンが描かれています。

 ローイクラトーンとは、陰暦12月の満月の夜、バナナの葉で蓮の花や船の形をした灯篭(クラトーン)を作り、雨期明けで満々と水を湛えた川に流す行事です。日本の灯篭流しと雰囲気は似ていますが、水の精霊(ピー)に感謝の意を表わすとともに、自らの罪や災いを流し、魂を清めるために行われるもので、その意味合いは大きく違います。

 もともと、この祭りは、ヒンドゥー教の3神、イスワン(イーシュヴァラ)神、ブラフマ神、ナライ(ナラヤン)神を迎えるための儀式で、3本の高い竿の先に3日間灯篭を吊るし、祭りが終わった後、灯篭だけを沈まないように竹で編んだ小さな筏様のものに載せて川に流すものでした。そこに、自らの罪や不幸を川に流すという仏教の要素が加味され、13世紀のスコータイ王朝時代、ノッパマート王妃によって現在の儀式の原型が作られたといわれています。

 現在でも、発祥の地であるスコータイで開催されるローイクラトーン祭りは、遺跡がライトアップされ、幻想的な雰囲気の中で30万人を超える人々がタイ全土から集まるのだとか。タイでは、この日は一番大切な恋人と過ごすことになっており、意中の相手と一緒にいられるかどうか、気が気でない若者も少なくないそうです。

 ちなみに、今夜の僕の予定は家で原稿を書いているだけですが、我が家の近くには小さな川が流れているので、気が向いたら、ロイ・クラトーンもどきの灯篭を流してみるかもしれません。もっとも、事情を知らないご近所さんが見たら、火のついた小船を川に不法投棄している挙動不審の人物ということで、警察に通報されてしまいそうです。

 先ごろ刊行の拙著『タイ三都周郵記』は、バンコク、アユタヤ、チェンマイと旧泰緬鉄道の旅に内容を絞ったため、スコータイでのロイ・クラトーンについては触れられませんでしたが、ロイ・クラトーンはタイの旧正月(ソンクラーン)と並ぶ重要な行事な行事なので、拙著の補足として、今回ご紹介してみました。

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 お酉様
2007-11-23 Fri 12:07
 今日は酉の市、二の酉の日です。というわけで、拙著『タイ三都周郵記』が重版になりますようにとの願いを込めて、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

タイの軍鶏

 これは、1991年に発行されたタイの「国際文通週間」の切手で、つがいのチャボが取り上げられています。

 タイという国の魅力の一つに料理の美味しさが挙げられますが、なかでも鶏に関しては、どんな調理法で出されても美味しいのが魅力的です。なかでも、単純素朴に鶏の旨味を味わうのなら、一押しは焼き鶏というストレートな名前の料理、“ガイ・ヤーンです。ガイ・ヤーンは、2002年に発行された“タイ国際切手展(2003年に開催)”の事前プロモーションの切手にも取り上げられているので、ついでにご紹介しておきましょう。

 東北料理

 切手では右奥に置かれているガイ・ヤーンは、鶏肉をタレに漬け込んで焼いただけのシンプルな一品です。ネット上でもいろいろなレシピが公開されていますが、日本でタレを再現するなら、ナンプラー(漁醤)大さじ1、醤油大さじ1、ニンニク2~3かけ(すりおろし)、ショウガ1かけ(すりおろし)、一味唐辛子小さじ1、砂糖大さじ1、というのを基本的なブレンドにして、好みで味を調整するのが良いみたいです。タイのメコン・ウイスキーがあれば香り付けに少し加えると、よりそれらしくなります。

 ガイ・ヤーンの手前には、青パパイヤのサラダとして紹介されるソムタムも見えます。ソムタムの作り方は、ニンニクやプリック・キー・ヌー(タイの小ぶりの唐辛子)、干しエビを石臼で叩き潰しながら混ぜたもに、熟していないパパイヤをささがきにして混ぜ合わせ、さらにプチ・トマトやナムプラー、砂糖、ライムの絞り汁を入れるだけ。石臼の中で材料がよくなじむまで叩いて混ぜるのがポイントで、最後にクラッシュしたピーナッツを加え、キャベツとインゲンを添えれば出来上がりです。作り方が簡単なので、タイ料理の入門書には必ず出てくるのですが、日本では手ごろな石臼を入手するのが大変で、その意味では家庭で作るのは難儀なことかもしれません。

 ガイ・ヤーンもソムタムも、もともとはタイの東北地方の郷土料理ですが、現在では東北地方でなければ食べられないということはなくて、タイ全土、どこへ行っても食べられる国民食になっています。ちょうど、大阪で生れた“たこ焼き”が、いまや日本全国どこへ行っても気軽に食べられるのと似ているかもしれませんね。

 一日も早く、拙著『タイ三都周郵記』がめでたく重版になって、ソムタムとガイ・ヤーンを肴にタイのシンハー・ビールで祝杯を挙げる日がきますように!

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 お菓子の家
2007-11-22 Thu 12:29
 東京・池袋のテーマパーク、ナムコ・ナンジャタウンで、明日23日から25日まで、高さ2メートル70センチの巨大な“お菓子の家”が展示されるというニュースを見ました。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

お菓子の家

 これは、1961年に西ドイツ(当時)で発行された児童福祉切手の1枚で、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』のうち、有名なお菓子の家を取り上げたものです。

 『ヘンゼルとグレーテル』のストーリーをおさらいしておくと、飢饉の最中、ヘンゼルとグレーテルの兄妹が口減らしのため母親に捨てられるところから物語は始まります。森の中を放浪するうち、兄妹は“お菓子の家”を発見し、空腹のあまりお菓子を食べてしまうのですが、そこは魔女の家で2人は捕らえられてしまいます。しかし、パンを焼くことを命じらたグレーテルは、パンの焼き方がわからないから教えてほしいと竈の火の具合を魔女に覗かせ、彼女を竈に押し込めて焼き殺すことに成功。宝石や真珠を持って家に帰る、というものです。

 これを現代風に読み替えると、ストリート・チルドレンが勝手に他人の家に上がりこんで、その家を破壊して勝手に食べた上、その家に住む老人を焼き殺して、金目のものを奪って逃走したということになります。立派な強盗殺人です。当然、家に帰った後で警察がやってきて2人は逮捕されるでしょう。幼い凶悪犯の話題はワイドショーの格好のネタになり、4~5年後、人々が事件のことを忘れかけた頃に、未成年だからという理由で2人が娑婆に出てきたら、電車の中吊り広告には「あの凶悪兄妹はもう出所!これでいいのか少年法」という類の見出しが躍るにちがいありません。

 さて、現在の絵本などでは、魔女の住む家はお菓子の家ということになっていますが、オリジナルでは、壁がパンで、屋根はクッキー、窓は透き通った砂糖でできていたと記述されているそうです。まぁ、マリー・アントワネットは「パンがなければケーキを食べれば良い」と言いましたが、いくら腹が減っていても、普通はケーキの類はそうそう食べられるもんじゃありませんからねぇ。飢饉の最中という物語の設定を考えると、パンの家の方がありがたみがあるような気がします。もっとも、甘いものは別腹という人も世の中に入るようなので、お菓子の家というのも、それはそれでいいんでしょうかね。

 【イベントのご案内】  
 12月1日(土)、東京大学駒場キャンパス・16号館119教室で開催のシンポジウム「戦争とメディア、そして生活」にて、日本占領時代の香港のことを中心に「切手というメディアが含蓄するもの」と題してお話しします。

 僕の出番は、13:20スタートの「収集されるメディア―絵はがき、切手、ポスター」と題するセッションの2番目。入場は無料でどなたでもご参加いただけますので、ぜひ、遊びに来てください。
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 韓国人の指紋
2007-11-21 Wed 10:37
 昨日(20日)から、ボーダーレス化するテロや組織犯罪を水際で防ぐため、来日外国人に指紋提供を義務付ける入国審査制度が始まりました。というわけで、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

韓国・2006趣味週間

 これは、2006年8月2日、韓国が発行した“切手趣味週間”の記念切手で、バラの花を背景に、ふたつの指紋で作られたハートがデザインされています。切手を発行した韓国郵政のHPによると、2006年の趣味週間切手のテーマは“結婚”だそうで、ハート型に重ねたふたつの指紋は、永遠の愛の誓いを表現しているのだそうです。なお、僕の手元には単片切手しかないのですが、韓国郵政のHPでは小型シートが紹介されており、シートの余白にはケーキやシャンパン、指輪など、結婚をイメージするイラストも描かれています。

 その昔、外国人登録に際して指紋の押捺が義務付けられていた時代に、一部の人たちが在日コリアンの指紋押捺は差別もしくは人権侵害だと大騒ぎしたことがありました。その結果、現在、在日コリアンをはじめとする特別永住者の外国人登録に際して指紋の登録がなくなり、今回の制度でも彼らは例外として指紋採取の対象から外されています。

 ところが、韓国では現在でも在住外国人が外国人登録証の交付を受けようとすれば指紋の押捺が必要です。というよりも、韓国人であっても住民登録の際には両手すべての指紋を登録することになっており、個人の身分証として携帯が義務付けられている住民登録証の裏面には、右手親指の指紋が鮮明にプリントされています。もともとは、1970年代に北朝鮮からのスパイの侵入を防ぐために始まった制度ですが(当時は北朝鮮の工作員が朴正煕大統領の暗殺を企ててソウルの青瓦台のすぐ近くまで侵入するという事件も起こってますからねぇ。けっして過剰な警戒措置とはいえないでしょう)、現在では制度として完全に定着し、住民登録時の指紋押捺に疑問を持つ韓国人はほとんどいないようです。

 今回ご紹介の切手で指紋が大きく取り上げられているのも、おそらく、新生活のスタートにあたっての新郎新婦の住民登録を象徴的に表現したもので、韓国社会では、指紋の押捺が必ずしもネガティブなイメージを持つものではないことがわかります。(まさか、切手に取り上げられた指紋が在韓日本人のモノというオチはないでしょうね。)

 たしかに、指紋は犯罪捜査に使われることが多いので、制度として指紋を採取されることに抵抗を感じるという人がいるのは理解できないことではないのですが、韓国で堂々と行われている指紋採取に目をつぶったまま、日本で在日コリアンの指紋を採取するのは人権侵害だと騒ぎ立てる人たちには大いに首を傾げざるを得ません。ひょっとすると、そういう人たちは「在日コリアンは犯罪者予備軍だから指紋を取られるとまずいのだ。わかってやれよ」とでも考えているのでしょうか。そうだとしたら、それこそ、とんでもない差別にしか思えないのですが…。

 この点、“人権派”を自称する方々のご意見を、ぜひとも拝聴してみたいものです。
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 QEIIのダイヤモンド婚式
2007-11-20 Tue 11:49
 イギリスのエリザベス女王が1947年11月20日にフィリップ殿下と結婚されてから60周年だそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

エリザベス女王銀婚(香港)

 これは、1972年11月、女王の銀婚式を記念して香港で発行された記念切手です。当時、英領・英連邦諸国では女王の銀婚式の記念切手をいっせいに発行しました。その際、中央のご夫妻の写真は共通で、周囲の枠のみを国や地域ごとに変えるスタイルが取られました。今回ご紹介の香港バージョンでは、左右に鳳凰と龍が配されています。

 この切手が発行された当時は中国が文革の時代で、北京政府は「イギリス帝国主義の挑発に断固反対する」との声明を発していたものの、彼らとて本音では、資本主義社会に開かれた窓としての香港の“現状維持”を放棄するメリットは何もないことを十分に承知していました。毛沢東は、当時、西側の中国封じ込め政策の一環として香港に米軍が寄港することを非常に恐れていましたが、じっさいに、イギリスが中国に敵対する政策を取らず、香港を軍事的に利用しない方針を堅持していることを確認すると、香港に関しては“放任”の姿勢をとっています。

 じっさい、今回ご紹介の切手が発行された1972年、中国は悲願の国連代表権を獲得し、国連非植民地委員会で香港問題についての見解を表明せざるを得なくなりましたが、その際、中国は「香港問題は国内問題であり、香港は暫定的にイギリスが支配しているが、中国の領土である。この問題は国連の議題から外すべきである」と主張し、香港問題を非植民地委員会の議題から外させているほどです。

 1997年の返還まで、香港では女王の肖像切手が使われ続けていたというのも、こうした中国側の香港政策を反映したものといってよいでしょう。

 なお、英領時代の香港をめぐる英中間の駆け引きは、国家のメディアとしての切手の上にもさまざまな痕跡を残しています。それらについては、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとご紹介していますので、よろしかったらご一読いただけると幸いです。
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 アラブの都市の物語:ガザ
2007-11-19 Mon 08:34
 NHKのアラビア語会話のテキスト12・1月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回はガザを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

ガザ・イスラエル占領使用

 これは、第2次中東戦争(いわゆるスエズ動乱っていうヤツです)期の1956年12月25日、イスラエル占領下のガザで使用されたイスラエル切手です。

 イスラエル国家が建国される以前、現在のガザ地区はイギリス委任統治領としてのパレスチナ(英領パレスチナ)の一部でした。1947年、英領パレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分割する決議(パレスチナ分割決議)が国連で採択された際、ガザ地区はアラブ国家の領域とされます。

 翌1948年にイスラエルが建国を宣言すると、これを認めないアラブ諸国はイスラエルに対して宣戦を布告。ところが、彼らはパレスチナでのアラブ国家樹立を支援せず、エジプトとトランスヨルダンはどさくさに紛れて、旧英領パレスチナの一部を自国の領土に編入してしまいます。このとき、ガザ地区はエジプトに併合されました。

 その後、1956年に第2次中東戦争が勃発すると、イスラエル軍はあっという間にガザ地区を占領。今回ご紹介しているように、ガザ地区ではイスラエル切手が持ち込まれて使用されるようになります。

 第2次中東戦争は、エジプトがチラン海峡の封鎖を解除する代わりにイスラエルは背領地から撤退することでエジプト=イスラエル間の休戦が成立。ガザは再びエジプトの領土に復します。しかし、第3次中東戦争の結果、ガザは再びイスラエルに占領され、1993年のオスロ合意によって1994年にパレスチナ自治政府が発足するまで、およそ四半世紀にわたってイスラエルの占領が続けられました。

 今回の記事では、まもなく1987年12月にガザ地区でインティファーダが始まってから20周年になるのを機に、こうしたガザ地区の複雑な歴史を切手や郵便物を使って概観してみました。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 テルのリンゴから700年
2007-11-18 Sun 10:52
 スイスの伝説の英雄、ウィリアム・テルが息子の頭に載せたリンゴをクロスボウで打ち抜いたとされるのが、1307年11月18日。ちょうど700年前のことです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

テル&テル・ボーイ

 スイスでは、1924年にウィリアム・テルを描く10サンチーム切手(1921年発行)1枚とクロスボウとりんごを持つテルの息子を描く5サンチーム(同じく1921年発行)5枚を組み合わせた切手帳ペーンを発行しました。ペーンは大きなシートから切り離して作られましたが、そのもとのシートでは、版の構成から、一部、ペーン単位で左右に並ぶ6枚が上下逆の状態で印刷されています。イメージとしては、下の図のような感じです。

 ⑤⑤⑩VVV
 ⑤⑤⑤XVV
 (⑤はテル・ボーイ、⑩はテル。Vは⑤とは逆向きのテル・ボーイ、Xは⑩とは逆向きのテル)

 今回ご紹介の2枚の切手は、このシートから⑩Vの部分、もしくは⑤Xの部分を切り離したもので、その結果、テルと息子が逆向きでつながった状態となりました。

 さて、ウィリアム・テルの物語を簡単におさらいしておくと、当時ハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝の代官として、ウーリの街にやってきたヘルマン・ゲスラーは、その中央広場にポールを立てて自身の帽子を掛け、その前を通る者は帽子に頭を下げてお辞儀するように強制していました。

 しかし、テルは帽子に頭を下げなかったために逮捕され、罰を受ける事になります。ゲスラーは、クロスボウの名手であるテルが、自分の息子の頭の上にある林檎を見事に射抜く事ができれば彼を自由の身にすると約束。そこで、1307年11月18日、テルはクロスボウから矢を放ち、一発で見事に林檎を射抜きます。

 その後、テルは、もし自分が失敗して息子を殺していたならば、自分はゲスラーにクロスボウを向けていただろうと発言。これに怒ったゲスラーはテルを逮捕しますが、テルは逆にゲスラーを射殺しました。町へ戻った彼は英雄として迎えられ、スイス独立の反乱が幕を開けることになります。

 この経緯を冷静に見てみると、テルはもともと政治犯ないしは思想犯として捕らえられた人物で、おまけに代官を殺して逃げた後、反乱軍の指導部に加わっているのですから、ハプスブルグ帝国から見たら立派なテロリストといえそうです。雑誌『SAPIO』で連載中の「テロリスト図鑑」は年内一杯で終わってしまうのですが、機会があれば「続・テロリスト図鑑」のようなかたちで取り上げてみてもいいかもしれませんね。
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 スリンの象祭り
2007-11-17 Sat 10:05
 タイ東北部の都市、スリンでは毎年11月第3週の週末に象祭りが行われます。象を使って戦争をしていた頃の再現や綱引きなど、100頭近い象による数々のパフォーマンスは圧巻で、多くの観光客が訪れることで有名です。今年は、今日・明日がその象祭りの日ということで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ナレースワン大王

 これは、1992年に発行された“ドーンチェディの戦い400年”の記念切手で、アユタヤのナレースワン大王とビルマの王子との騎馬戦ならぬ騎象戦の場面が取り上げられています。

 ナレースワンは1555年、アユタヤ王朝のマハータンマラーチャー王の王子として生れました。彼の少年時代、アユタヤはビルマに敗れ、その属国となっており、ナレースワンもビルマの人質として苦渋に満ちた生活を送っています。

 16歳でアユタヤに戻った彼は、副王としてピサヌローク(バンコクから北へ500キロほどの都市)を治めながら、アユタヤの独立回復に尽力。1548年、ついにアユタヤの独立回復に成功します。

 ナレースワンは1590年にアユタヤの王として即位しますが、その後もビルマ軍との熾烈な戦いは続きました。そうした中で、1592年1月25日、彼はアユタヤ近郊のドーンチェディーの森でビルマの王子との騎象戦での一騎討ちに勝利を収め、翌1593年には同じくアユタヤ近郊のスパンブリーでの合戦でも勝利するなど、赫々たる戦果を挙げています。なかでも、ドーンチェディの戦いは、国王自らビルマの王子を撃退したということから、タイ人にとっても思い入れの強い戦いになっており、現在のタイの“国軍の日”は、この戦いにちなんで1月25日と定められているほどです。もちろん、スリンの象祭りでも、ドーンチェディの戦いの模様を再現するパフォーマンスが行われています。

 切手に取り上げられているのは、アユタヤのワット・スワン・ダーラーラームの壁画のうち、ドーンチェディの戦いをとりあげたものです。同寺院には、このほか、ナレースワンの英雄譚に満ちた生涯を再現した洋風の壁画が納められています。

 近代以前のタイの歴史というのは、ある意味でビルマとの戦いの歴史でした。このため、タイの観光ツアーで現地人ガイドの解説などを聞いていると「この塔はビルマとの戦争の勝利を記念して建てられた」とか「この仏像はビルマ軍によって破壊された」などなど、とにかくビルマ=悪役という解説をたっぷりと聞かされることになります。まぁ、南京観光に出かけると現地のガイドから散々“南京大虐殺”の話を聞かされるのと似たようなものかもしれません。(ただし、語り口は中国人よりもタイ人の方がはるかにマイルドですが)

 このたび彩流社から刊行の拙著『タイ三都周郵記』では、そうしたタイとビルマの因縁の関係についても、現地でいろいろと見聞きした体験を綴ってみました。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 首領様の脱北
2007-11-16 Fri 08:47
 今日(16日)は19:30から、東京・新宿のロフトプラス1で、恒例のトークショー、先軍ナイト-北鮮祭に出てきます。今回のキャッチコピーは、そろそろ冬が来て中朝国境の豆満江・鴨緑江が凍ることにちなんで、「まもなく脱北シーズン到来! 中朝国境沿いの写真から北朝鮮の現実をウォッチング」です。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

金成柱少年

 これは、1969年に北朝鮮で発行された金日成の少年時代を題材にした切手の1枚で、「祖国解放の大志を抱いて鴨緑江をわたる金日成少年」が描かれています。元の絵は、いわゆる革命絵画(=プロパガンダ絵画)としては有名なもので、北朝鮮側の説明では「(金日成は)14歳のときに祖国解放をめざして鴨緑江を渡り、2年後には中国東北の吉林で共産主義青年同盟を組織、朝鮮革命のたたかいに加わる」ということになっています。

 もっとも、歴史的事実としては、1912年4月、平壌郊外の万景台の農家に生まれた金日成は、12歳で家族とともに満州へ移住し、撫松小学校、華成義塾を経て、吉林毓文中学校に進学しており、14歳のときに1人で朝鮮から満洲に渡ったわけではありません。なお、彼は吉林毓文中学校に在学中、共産主義に興味を持つようになったとされていますが、当時の金日成少年が共産主義を真に理解していたか否かについても大いに疑問があります。そもそも、当時の彼は本名の金成柱で生活しており、伝説の英雄にあやかって金日成と名乗ることさえしていないのですが…。

 まぁ、北朝鮮当局の語る彼らの歴史に関しては突っ込みどころが満載で、いちいちあげつらっていてはキリがないのですが、中朝国境を流れる鴨緑江・豆満江の大河が冬にはこの絵画のように凍りつくことだけは事実なのでしょう。

 当然のことながら、現在の北朝鮮政府は国境の川を渡って中国側に逃れる“脱北者”と厳しく取り締まっているわけですが、彼らが「自分たちは、偉大なる首領様(=金日成)に倣って、祖国解放の大志を抱いて満州へ渡ったのだ」と主張したら、どう反応するつもりなんでしょうね。なにせ、かの国では“偉大なる首領様”は神に等しい権威を持っているわけですから…。まぁ、現実には四の五の言わさず収容所送りになるのがオチでしょうけど。

 さて、今夜の“先軍ナイト-北鮮祭”ですが、タイトルに似合わず、基本的には北朝鮮ウォッチャーのまじめなトークショーです。今回は、中朝国境沿いの最新の写真も交えながら、かの国の現状をいろいろと分析していく予定ですので、お暇な方はぜひ遊びに来てください。
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 芦田均生誕120年
2007-11-15 Thu 11:12
 今日は、占領期の1948年3月から10月にかけて政権を担当した芦田均の生誕120年の日にあたります。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

芦田均の葉書

 これは、1946年2月15日、厚生大臣在職中の芦田が差し出した葉書です。

 芦田は、1887年11月15日、京都府福知山市の出身で、東京帝国大学卒業後、外務省に入り、外交官として活躍しました。満洲事変後の1932年、衆院選で初当選して政界入り。天皇機関説問題では美濃部達吉を支援し、戦時中の翼賛選挙では非推薦で当選を果たすなど、リベラルな政党政治家として筋を通しました。

 こうしたキャリアが認められて、終戦後の1945年10月から翌1946年5月まで幣原内閣では厚相として初入閣。この間、1945年11月には、鳩山一郎らと日本自由党を結成しています。こうしたこともあって、1946年4月の総選挙で、幣原の日本進歩党に代わって鳩山の自由党が第一党となると、閣僚でありながら“憲政の常道”を掲げて自由党への政権交代を主張し、厚相を辞職。これが引き金となって幣原内閣は総辞職します。今回ご紹介の葉書は、その総選挙の前に差し出されたものです。

 総選挙後、鳩山が追放され、第1次吉田茂内閣が発足すると、芦田は衆議院帝国憲法改正案委員会委員長に就任。憲法第9条に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を追加、第2項に「前項の目的を達するため」を加え、侵略のための軍事力を明確に否定する一方で、自衛のための軍事力を持つことができる可能性を残したとする「芦田修正」を付け加えています。

 1947年、芦田は自由党内の反吉田派を率いて脱党し、民主党結成に参加。4月の総選挙で片山哲の日本社会党が第1党となり、6月には片山を首班とする連立政権が発足すると、副総理・外相に就任しました。

 片山内閣が1948年3月に党内事情から総辞職すると、芦田は自ら外相を兼務して後継内閣を組織します。ところが、芦田内閣の発足後まもなく、GHQ内部の路線対立から、復興金融公庫の融資をめぐる贈収賄事件(昭電事件)が明るみに出て、大蔵省主計局長だった福田赳夫(後の総理)の逮捕を皮切りに、栗栖赳夫経済安定本部総務長官と西尾末広前副総理が逮捕され(来栖有罪、西尾一審有罪・二審無罪)、内閣は総辞職に追い込まれます。さらに、芦田自身も内閣総辞職後、逮捕され起訴される(1958年に無罪確定)というオマケつきでした。

 こうして、短命に終わった芦田内閣でしたが、中小企業庁設置法、石炭庁設置法、国家行政組織法、建設省設置法、海上保安庁法、水産庁設置法、教育委員会法、日本学術会議法、地方財政法、検察審査会法、軽犯罪法、警察官職務執行法、経済調査庁法などの重要法案を少なからず成立させており、政策実務の面ではそれなりの実績を残している点は評価しても良いと思います。

 事件後の芦田は、改進党を経て、自由民主党顧問などを務めた後、1959年、現職議員のまま亡くなりました。

 何年か前、1945年の敗戦までの“昭和の戦争”について切手でたどった『切手と戦争』という本を作ったのですが、いずれは、その続編として占領時代を扱った本(タイトルは『切手と占領』とでもなるのでしょうか)を作ってみたいと考えています。そのときには、今日ご紹介の葉書なんかも登場することになると思いますが、なにぶんにも『切手と戦争』の在庫がまだ残っている状況ですからねぇ。『切手と占領』の実現には、まだ当分、時間がかかりそうです。
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 そっくりさん
2007-11-14 Wed 12:10
 昨日の記事で、タイの伝統的な作業着としてのモーホームについて触れましたので、きょうはそのモーホーム姿が良くわかる切手をお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

木彫り職人

 これは、2003年に発行された“タイ国際切手展”の1枚で、モーホームと呼ばれる上着とサドーと呼ばれるタップリしたズボンを組み合わせた伝統的な作業着姿の木彫職人が描かれています。

 もともと、木綿で藍染のモーホーム・スタイルは、北部の農民の作業服でしたが、1953年、チェンマイの有力者であったグライシー・ニマンヘミンが、地元の地方司法長官の送別会とチェンマイ駐在アメリカ公使ジョージ・ウィニーの歓迎会を兼ねて晩餐会を開いた際(これがいわゆるカントーク・ディナーのルーツになります)、ホストのニマンヘミンがモーホームを着て登場。以来、モーホームとサドーの組み合わせはカントーク・ディナーには欠かせない“正装”となり、モーホームは作業着でありながら礼服としても用いられるという特殊な服になりました。

 ところで、この切手の木彫職人を見た僕の友人たちからは、“彼”と僕がよく似ていると言われています。自分でも、確かに、“彼”のことは他人と思えませんので、前々から、次にタイに行ったら、是非とも“彼”と同じ服を買って帰りたいと思っていました。はたして、今年の8月、チェンマイでモーホームとサドーを手に入れたので(上下セットで日本円で1000円程度でした)、宿に帰ってから着替えて、切手と似たようなポーズで写真を撮ってみました。

切手の真似

 このたび、彩流社から刊行した拙著『タイ三都周郵記』は、このエピソードも含めて、タイの切手を見ながら現地でいろいろとやってみた体験をまとめた切手紀行です。奥付上の刊行日は明日、11月15日ですが、すでに紀伊国屋などの大手書店の店頭には並んでいますし、アマゾンなどのインターネット書店でも入手が可能ですので、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 建設の風景:カナヅチ・ノコギリ
2007-11-13 Tue 11:14
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の11月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月は、拙著『タイ三都周郵記』の刊行にあわせて、タイ切手の中からこんなモノを取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

タイ・住宅開発

 これは、1988年にタイで発行された切手で、コンクリート作りのように見える高層住宅をバックに、足場を組んでカナヅチやノコギリを使う職人の姿が描かれています。カナヅチの職人は釘を打っているわけではないし、ノコギリの職人も材木を切っているわけではないのですが、昔ながらのスタイルで家を建てる“大工さん”のイメージにぴったりといえましょう。

 1970年代、タイはベトナム戦争の特需景気で急激に経済発展を遂げましたが、その副作用として、首都バンコクへの人口集中とスラムの発生が深刻な社会問題となります。このため、1973年、低・中所得者向けに賃貸及び分譲住宅の供給、スラム改善事業を目的とした国家住宅公社が設立され、1976年から99年3月までの間に、低・中所得者向け住宅12万戸、公務員住宅4万戸、スラム改善事業で13万戸、の合計29万戸が国家プロジェクトとして建設されました。

 今回の切手は、同公社の設立15年にあわせて、住宅開発の重要性をアピールする目的で発行されたものです。

 ところで、この切手に描かれている職人たちの仕事着が、どことなく、タイ北部の伝統的な作業着、モーホームを思わせるデザインになっているようにも見えます。ただし、本来のモーホームは藍染で切手のような色のものはありません。おそらく、伝統的な作業着のスタイルが現代風にアレンジされるとこういう感じになるのでしょう。現在の日本でも地下足袋・鳶装束が実際に使われているのと同じ現象といってもいいかもしれません。どれほど道具や技術が進化しようとも、伝統的なものがしっかりと受け継がれていくという点では、どこの国の職人も一緒なんですね。
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 龍の燭台
2007-11-12 Mon 09:01
 アジアの4ヵ国・地域のプロ野球リーグ代表チームによる“アジア・シリーズ”は、1次リーグ2位の中日(日本)が6―5で同1位のSK(韓国)に競り勝ち、初優勝しました。というわけで、今日は龍がらみの1枚ということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

サッタパーン

 これは、1996年に発行された“チェンマイ700年”の切手の1枚で、チェンマイの国立博物館所蔵のサッタパーンが取り上げられています。

 現在、タイの行政区域でいう、チェンマイ、チェンラーイ、ランプーン、ランパーンなどの北部の八県は歴史的に現地語で“100万の田”を意味するラーンナー・タイと総称され、近代以前は、スコータイからアユタヤを経てバンコクを王都とするタイ中部とは別の王国の支配下にありました。その始祖ともいうべきマンラーイ王は、チェンセーン(タイの最北、ビルマとの国境の町)を拠点としていたムアン・ラーオ国の王でしたが、1262年頃、南下政策を採ってチェンラーイを建設。さらに、経済的に豊かなランプーンのハリプンジャヤを攻略して、北部タイ一帯を支配下に収め、1296年に王都チェンマイを建設します。切手の“チェンマイ700年”というのは、ここから起算した年回りです。

 さて、切手に取り上げられているサッタパーンは、寺院の本尊の前に置かれている7本立ての燭台とついたてを兼ねたもので、中央上部に仏を守護する鬼神が置かれ、画面全体を28頭の龍(ナーガ)が複雑に絡み合いながら覆いつくすデザインとなっています。精緻な彫刻に色ガラスと金箔で装飾を施した極めて芸術性の高い逸品です。実際に暗いお堂の中でローソクの火をともしてみたら、さぞや幻想的な雰囲気になるんじゃないかと思います。

 今年8月、チェンマイを訪れた際には、4種セットで発行された“チェンマイ700年”の記念切手に取り上げられた寺院などのうち、このサッタパーン以外はすべて現物をチェックすることができたのですが、サッタパーンに関しては、チェンマイ滞在中には、その所在がわからずじまいでした。しかたなく、あきらめてバンコクに戻ってきたところ、ふと立ち寄った本屋で美術書を立ち読みしていたら、切手と同じものがチェンマイの国立博物館にあることを発見。博物館にはすぐ近くにまで行っていたのに、時間の都合で立ち寄れなかったものですから、非常に悔しい思いをしたことを思い出します。

 まぁ、済んでしまったことをいまさら悔いても仕方がないので、次にチェンマイを訪れた時には、かならず博物館に行ってサッタパーンの実物を拝んでこようとリベンジを誓っています。

 さて、このたび彩流社から刊行したばかりの拙著『タイ三都周郵記』には、切手に取り上げられたチェンマイの古刹・名刹について、僕自身が実際に歩いてみた体験記も収録しています。奥付上の刊行日は11月15日ですが、すでに紀伊国屋三省堂などの大手書店の店頭には並んでいるようですので、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 第一次大戦とタイ
2007-11-11 Sun 10:26
 今日(11月11日)は、第一次大戦終結の記念日です。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

victory二重加刷

 これは、タイが発行した第一次大戦の戦勝記念の切手で、当時の通常切手にVICTORYの文字が加刷されていますが、加刷もの文字が二重印刷になっています。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、タイは連合国側での参戦を表明。その見返りとして、関税自主権の回復を代償として要求しました。これに対して、不平等条約の維持をもくろむフランスは、タイの参戦に否定的な態度を示しています。

 しかし、戦争が長期化したことで、連合諸国もタイの参戦を強く求めるようになり、1917年7月22日、国王ラーマ6世はついに参戦を決意。同年9月28日付でドイツに対して宣戦を布告しました。その後、タイではヨーロッパ派遣の義勇兵を募り、その第一陣がマルセイユに上陸したのは1918年7月30日のことでした。それから、彼らはフランス軍による訓練を受け、その一部は10月17日に陸上輸送部隊として出陣します。

 ところが、それから1月もたたない11月11日には大戦が終結。タイはちゃっかり戦勝国となりました。この結果、敗戦国となったドイツ、オーストリアとの不平等条約は即座に撤廃。講和会議にも参加する資格を与えられ、国際連盟が設立されるとその原加盟国になるなどタイの国際的な地位は向上しました。

 一方、パリの講和会議でタイは連合諸国との不平等条約改正を訴えたが、実質的にタイの主張は無視されています。ただし、1920年9月1日、アメリカがタイとの新条約を締結して、治外法権の撤廃と関税自主権の獲得が達せられると、他のヨーロッパ諸国もタイの国内法が整備されれば不平等条約を撤廃するとの条約を締結せざるを得なくなり、1926までにヨーロッパ各国との不平等条約は改正されました。

 こうしたことから、王宮前広場の西北には第一次大戦で戦死した将兵をたたえる碑が建てられたほか、参戦が決定された日にちなむ“7月22日広場”がバンコクに作られました。

 今回ご紹介した切手は、そうした第一次大戦記念の一環として、1918年12月に発行されたもので、タイ語と英語で“勝利”の文字が加刷されています。

 バンコクの旅行ガイドを見ると、“7月22日広場”の項には、かつてはその周囲にバックパッカー御用達の安宿がいくつかあった場所という記述がありますが、そうしたこととは別に、タイにとっての第一次大戦の意義をつたえる史跡として興味深いものと僕は思います。

 このたび彩流社から刊行したばかりの拙著『タイ三都周郵記』は、今回の7月22日広場をはじめ、タイの近現代史にとっての重要スポットを僕自身が歩いてみた体験記をいくつか収めています。奥付上の刊行日は11月15日ですが、すでに紀伊国屋ジュンク堂などの大手書店の店頭には並んでいるようですので、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。
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 香港大学
2007-11-10 Sat 09:25
 イギリスの雑誌「タイムズ」が、毎年恒例の世界大学ランキングを発表しました。1位は昨年同様、ハーバード、2位はオックスフォード、以下、アジア勢では17位の東大がトップでしたが、昨年33位の香港大が一挙に15ランクもアップして18位になり、36位(前年14位)の北京大を追い抜いたことが注目されているそうです。

 というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

香港大学カバー

 これは、香港大学開校の記念印が押されたカバーです。

 20世紀初頭、人口の急増に対応してインフラの再構築が進められていた香港では、ハード面での対応と並行して、行政機構を拡充すべく、エリートの人材育成に乗り出す必要にも迫られていました。

 このため、1908年、香港総督のフレデリック・ルガードは、聖士提反書院(セント・ステファン・カレッジ)の卒業式で新大学設置の意向を表明。これを受けて、1910年3月16日、香港島の西部、西營盤(サイインプン)エリアの丘陵地の16ヘクタールの敷地に香港初の総合大学である香港大学の建設が開始されました。翌1911年には、大学の運営の基本方針として「香港大学堂憲章」が公布され、香港大学は香港政庁に隷属するものでなく、イギリス政府に直接帰属すること、校長は総督が任命すること、実際の職務は副校長が担当し、理事会によって意思決定がなされること、などが定められています。

 ただし、イギリス政府による財政支援は年間300ポンドのみで、建築費用等は各界の寄付によって賄うものとされましたが、これに応じて、インド系の大商人でルガード総督とは家族ぐるみの付き合いがあったホルムスジー・ノウロジー・モディは15万香港ドルもの大金を気前よく払っています。この功績により、モディは大学起工式の後、イギリス本国のナイトに叙せられたほか、九龍市街地の通には麼地道(モディ・ロード)との名前がつけられ、麼地廣場(モディ・スクエア)もつくられました。

 こうして、1912年3月11日、香港大学が開校し、同月16日までの6日間にわたって各種の記念式典が行われています。

 総督の念願だった、香港初の総合大学の開校にあわせては、記念切手こそ発行されませんでしたが、セレモニー期間中の3月11日から16日までの6日間、大学の構内には臨時の郵便局が設けられ、今回ご紹介のカバーに見られるような記念印が使われました。

 今回ご紹介のカバーは、記念印の使用初日にあたる3月11日付のもので、香港島内の卑利街(ピール・ストリート)宛のものです。卑利街は、上環の中環寄りの地点、皇后大道中からは山側に上がる道沿いに位置しており、日用品・食品の路上マーケットでも知られています。

 大学のあった西營盤地区に最初の郵便局が開設されるのは1914年のことでしたから、大学の開校セレモニーが終わり臨時の郵便局が閉鎖されてしまうと、しばらくの間、大学関係者にとっては、郵便物の差出が不便な状況になりました。

 開講当初の大学周辺は、ほとんどなにもない丘陵地帯で、現在のようにバスの交通網も発達していませんでした。1916年に卒業した28人の第1期生たちは、他にやることもなかったでしょうから、周囲の誘惑に悩まされることなく、さぞかし勉学に励むことができたことでしょう。

 なお、香港大学の本部大楼(メイン・ビルディング)は、古い教会を思わせる瀟洒な建物で、1941年発行の英領香港100年の記念切手にも取り上げられています。

 今年7月に刊行の拙著『香港歴史漫郵記』では、今回ご紹介のカバーのほかにも、開校当初の香港大学を取り上げた絵葉書なども紹介しながら、香港大学について、僕自身の体験も交えてご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 “一衣帯水”の不安
2007-11-09 Fri 08:46
 数日前の新聞を整理していたら、今月6日、来日中のエドワード・ヤウ(邱騰華)香港環境長官が東京の帝国ホテルで講演し、広東省の汚染対策で日本に環境技術の協力を要請したとの記事が出ていました。これを読んで、こんな葉書を思い出しました。(画像はクリックで拡大されます)

大亜湾原発

 これは、1994年に大亜湾原発の全面稼動を記念して発行された、中国の記念葉書です。

 香港から50キロの風上にある大亜湾に面した地域に原子力発電所を建設する計画は、中国水利電力省と香港のイギリス系企業、中華電力公司(チャイナ・ライト・アンド・カンパニー)を事業主体とする合弁事業として、1986年3月、両者の間で主な契約が調印されました。原子炉は
フランス製、主な発電設備はイギリス製です。

 ところが、この1986年という年は、チェルノブイリ原発の事故があった年で、世界的に反原発の世論が強まっており、香港でも、原発建設の中止や立地の変更を求める大規模な市民運動が起こり、その後の調整は難航していました。

 このため、新華社香港分社長として中国の香港政策を実質的に取り仕切っていた許家屯は、副首相だった李鵬の意を受けて、香港政庁とも協力の上、各方面に手を回して反対運動を沈静化。さらに、中華電力公司のオーナー、カドゥーリーを説得し、原発の稼動後、同社が大亜湾原発から電力を購入することを約束させています。この結果、中国は原発建設のために受けた融資の返済資金を確保することになりました。

 その後、大亜湾原発は(少なくとも公式には)無事故で運転を続けているとのことですが、かの国のとんでもない環境汚染や、人体への危険がテンコ盛りのいかがわしい中国製品・食品などのニュースがしばしば報じられているのを目にすると、ほんとに大丈夫なのかな、とついつい不安になってしまいます。

 現在でさえ、中国本土の大気汚染や水質汚染は周囲に悪影響を及ぼしており、今回も香港の環境長官が日本に協力を求めてくるほどなのですが、原発のトラブルはそれとは比較にならないほどのダメージを香港をはじめ周辺各地にもたらすことが予想されます。それだけに、慎重の上にも慎重を期してもらわないと困ります。

 なお、今回ご紹介の大亜湾原発をはじめ、中国が返還直前の香港で行った「イギリス資本を引き留め、華人資本を逃さず、華僑資本・台湾資本を取り込み、欧米外貨を誘い込み、中国系資本を増大させる」ための各種工作に関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でも解説しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 やめたんじゃなかったの?
2007-11-08 Thu 09:30
 民主党の小沢一郎代表がいったん辞意を表明しながら、慰留されて代表を続けることになったんだそうです。というわけで、やめたと思われていたものが、しばらくして復活してきた例として、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

エメラルド仏

 これは、1995年5月13日の仏誕節を記念してタイで発行された切手の1枚で、バンコクのワット・プラケオ(エメラルド寺院)の本尊であるエメラルド仏が取り上げられています。日本では、お釈迦様の生まれた日は4月8日で固定されていますが、タイでは旧暦でお祝いするため、毎年、日付が異なってきます。

 この切手は、当初、1987年7月11日に発行される予定で、図案も公表されていたのですが、予定日には発行されませんでした。その後しばらくの間、この切手が発行される気配はまったくなく、このため、何らかの理由で切手の発行は中止されたものと誰もが思っていました。ところが、1995年になって、突如、この切手が仏誕節の記念切手として復活することになって、収集家はビックリしたというわけです。不発行に終わったと思われていた切手が、何年か後に、加刷もされずにそのまま発売されるケースというのは、あまり例がないでしょうね。

 さて、切手に描かれているエメラルド仏は、実際にはエメラルドではなく、濃緑色の硬玉でできています。もともと、1434年にタイ北部のチェンライで発見され、その後、ランパーン、チェンマイ、ルアン・ブラパーン(現ラオス領)、ウィヤング・チャンなどを経て、1778年、現王朝(ラタナコーシン朝)の始祖であるラーマ1世がラオスを占領した際、トンブリーのワット・アルン(暁寺院)に伝えられ、1784年3月22日、王宮付属寺院であるワット・プラケオに移されました。

 以後、ワット・プラケオの本尊として現在まで祀られていますが、毎年3回、暑季・雨季・乾季の季節の変わり目ごとに国王みずから“金の衣”を着替えさせる儀式が行われており、切手には雨季用の衣をまとった姿が取り上げられています。

 そういえば、今日は立冬。冬のスタートですね。タイでも、雨季の間に修行していた僧侶がお寺から出てくる出安居(オークパンサー)が10日ほど前の10月26日に行われ、乾季に入ったそうです。暑さも多少は和らぐ季節ですし、これからが旅行のベストシーズンというわけで、年末年始のタイ旅行をお考えの方は、ぜひ、旅行のお供に拙著『タイ三都周郵記』を連れて行ってくださると幸いです。
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 ロシア革命で届かなかったカバー
2007-11-07 Wed 11:40
 1917年11月7日(当時、ロシアで使われていたユリウス暦だと10月25日)に、ロシア10月革命が起こってから今日でちょうど90年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

アトス山からロシア宛カバー

 これは、10月革命勃発直後の1917年11月21日、アトス山(ギリシャ)カリエスのロシア正教会の修道院からロシアのオレンブルグ(ウラル山脈南端の都市で、モスクワから南東に1480kmの地点にあります)宛に差し出されたものの、革命でロシア宛の郵便物が送達不能となり、差出人に返送されたものです。カバーの裏面には下に示すように、合計16枚、35レプタ分のギリシャ切手が貼られているほか、中継地のロンドンで開封・検閲された後に書き込まれたと思われる「ギリシャ・アトス山のロシア修道院へ返送」との表示も読み取れます。

アトス山からロシア宛のカバー(裏)

 アトス山は、ギリシャ北部の中央マケドニアにある山(半島全体が山岳になっています)で、ギリシャやロシアなどの東方正教会の修道院による治外法権が認められた自治共和国区域(アトス自治修道士共和国)になっています。ただし、切手に関しては、アトス自治修道士共和国が独自の切手を発行しているわけではなく、ギリシャ切手が使われています。

 カバーに押されている消印類の日付を整理すると、このカバーは1917年12月4日(消印上のユリウス暦表示では11月21日)にカリエスから差し出された後、翌1918年1月2日にロンドンに到着。そこで検閲を受けてギリシャのアテネに戻されたのが同年12月7日(同11月24日)、そこからテッサロニキを経て、12月24日(同12月11日)にカリエスに戻っています。この間、ロシアの革命政府はドイツと単独講和を結んで第一次大戦を離脱。これに対して、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という名目で連合諸国はシベリアに出兵するなど、ロシア情勢はめまぐるしく変転しており、このカバーを差し出したロシア正教会の修道院も気が気ではなかったのではないかと思います。

 ロマノフ王朝時代、ロシア正教会が政権と強く結びついていたことに加え、10月革命によって成立したソヴィエト政権は無神論を掲げていたことから、革命後のロシアでは、多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収されました。また、外国のスパイなどの容疑をかけられて逮捕・処刑される聖職者や信者も後を絶たず、1991年にソ連が崩壊するまで、ロシア正教会は苦難の歴史を歩むことになります。このカバーは、まさに、そうした彼らのとっての苦難の歴史のスタートを記録するものといってよいでしょう。
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 ブタかネズミか
2007-11-06 Tue 09:23
 1937年11月6日の日独伊防共協定から、今日でちょうど70年です。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

アンチ防共協定絵葉書

 これは、1939年にソ連で作られたプロパガンダ絵葉書です。ブタかネズミか、いまいちハッキリとしませんが、日本の軍服を着た動物がソ連との国境地帯で赤い銃剣に突かれている絵が描かれています。背後には、ドイツとイタリアの軍人の姿も描かれています。1939年といえば、張鼓峰事件やノモンハン事件の時代ですから、ソ連側としては、防共協定を背景にソ連を攻撃した日本を撃退したことを誇示する意図が込めて、この葉書を作ったのではないかと思います。

 日独伊防共協定は、1936年11月に調印された日独防共協定(共産「インターナショナル」ニ対スル協定及附属議定書)にイタリアが参加することによって発展的に成立したものです。日独協定は、ドイツ語では“Antikomminternpakt”となっており、反コミンテルンの色彩が明確になっているのに対して、日本側の通称では、そのあたりは微妙にぼかされているのが興味深いところです。

 日独伊防共協定が調印された当時、日本は日中戦争に突入していましたが、欧米諸国の主たる関心はスペイン内戦に注がれており、日中戦争もそうした文脈に従属して捉えられていました。

 すなわち、スペインでフランコ派を支援していたイタリア・ドイツの両国は、共和派を支援していたソ連への対抗上、日本との関係を強化し、背後からソ連に圧力を加えようとしたわけです。このため、ソ連は、長年にわたり共産党への攻撃を続けてきた中国国民政府が反共を優先させて、日本との戦争を中断して防共協定に加わることを懸念。ベルギーのブリュッセルで開催された9ヶ国条約(第一次大戦後のワシントン条約のうち、中国の主権の尊重と領土保全、各国の権益の“現状維持”を定めた条約)の締結国会議の席上、中国を支援し、日本に対する制裁を強く主張しています。

 日中戦争を題材としたコレクションを作る場合、どうしても、日本と中国のマテリアルにのみ関心が集中しがちなのですが、ちょっと見方を変えてみると、欧州諸国のマテリアルも組み込むことができるのが楽しいところです。

 なお、この葉書に関しては、拙著『これが戦争だ!』でもご紹介したことがあります。同書では、このほかにもソ連製の反日プロパガンダ葉書をいくつか取り上げていますので、よろしかったら、ぜひ、お読みいただけると幸いです。
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 <JAPEX>開催御礼
2007-11-05 Mon 00:09
 おかげ様で、第42回全国切手展<JAPEX07>は昨日(4日)をもって無事、終了いたしました。 今回の<JAPEX>では、外国郵便・“25”・タイ切手展・日本切手の銘版・マーチン・シリーズの5大特別展示をはじめ、見ごたえのある競争出品作品が多数並び、ご参観者の皆様にもご満足いただけたものと思います。 これもひとえに、皆様のご支援・ご協力の賜物です。実行委員長として、この場を借りて厚くお礼申し上げます。

 というわけで、今日は“お礼”の意味を込めて、こんなものを持ってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

ワイクルー

 これは、1975年にタイで発行されたムエタイの切手のうち、“ワイクルー”を取り上げた5バーツ切手です。(ムエタイについては、以前の記事をご覧ください)

 日本では、ムエタイの“試合の前の踊り”というイメージが強い“ワイクルー”ですが、もともとは“教師に合掌する”もしくは“教師に礼を示す”という意味の言葉です。実際、タイでは毎年6月16日を“ワイクルーの日”として、学校では生徒が教師に対して感謝・尊敬を示す日となっており、ムエタイに限って使われるものではありません。

 ムエタイの試合の前に行われる“ワイクルー”も、本来はそうした意味を持つもので、“教師”に相当するコーチやトレーナーに礼を示し、自分の闘争心を高めるとともに、また戦いの神に無事と勝利を祈るためのものです。もっとも、実際には試合前のウォーミング・アップといった面が強いようですが…。

 なお、いよいよ明日(6日)、拙著『タイ三都周郵記』が一般書店への配本となります。すでに<JAPEX>会場でお買い上げいただいた方々は勿論、書店の店頭でお手に取っていただいた方を拝見すると、その場で、僕の感謝の気持ちを示すためにワイクルーを踊ってさしあげたい気分になるのですが、いきなり、ヒゲ面の中年男が目の前でクネクネとやりだしたら、おそらく気色悪いだけでしょうから、心の中でそっと手を合わせるだけにしておこうかと思います。
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 25万ヒット
2007-11-04 Sun 00:12
 昨日の夜、アクセスカウンターが25万ヒットを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

 というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

法隆寺25銭

 これは、1938年10月11日に発行された通常25銭切手で、西院方向から見た法隆寺の伽藍が取り上げられています。当初、25銭切手の図案には薬師寺も候補に挙がっていたようですが、最終的に法隆寺が採用されました。

 1937年5月に発行の乃木大将の2銭切手を皮切りにスタートした(第1次)昭和切手は、それまでの抽象的な図案の切手に代わって、“世界に冠たる神国・日本”をテーマにさまざまなトピックが取り上げられています。

 しかし、“世界に冠たる神国・日本”というスローガンとは裏腹に、いわゆる国家神道に直接関係が深いものは8銭切手の明治神宮くらいなもので、10銭切手の東照宮陽明門や14銭切手の春日大社、30銭切手の厳島神社などは、神道の宗教的なモチーフというよりも、日本を代表する文化遺産として取り上げられたと考えるのが妥当でしょう。その意味では、神道とは無関係の法隆寺のほうが、古代大和朝廷のスーパーヒーローであった聖徳太子にゆかりの深い寺として、皇室と日本の伝統をアピールする力を持っているのではないかと思います。

 ところで、本日(4日)16:00まで、東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催中の<JAPEX>では、主催団体である日本郵趣協会が財団法人の認可を受けて今年(2007年)で25周年になるのを記念して、“25”にちなむ企画展示を行っています。

 今回ご紹介している法隆寺の25銭切手については、林国博さんのコレクションが展示されていますが、このほかにも、額面が25銭・25円などの切手や、25周年の記念切手など、さまざまな角度から“25”にこだわったミニ・コレクション(日本切手だけでなく、外国切手もあります)をいろいろと展示しています。今回の<JAPEX>を逃すと、なかなか一度にまとめて見ることのないテーマだと思いますので、ぜひ、この機会にご覧いただけると幸いです。

 * 昨日、<JAPEX>会場内にて行いました『タイ三都周郵記』発刊記念のトークは無事、盛況のうちに終了いたしました。お越しいただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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 タイ切手展
2007-11-03 Sat 00:25
 昨日に引き続き、現在、東京・池袋のサンシャイン文化会館で開催中の<JAPEX>にちなんで、今日はこんなモノをご紹介しましょう。ブルテン(出品目録)の表紙に掲載されているマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)

タイ試刷

 これは、1883年に発行されたタイ最初の切手の試作品で、今回の展示では“タイ切手展”のコーナーの和田俊夫さんのコレクションに展示されています。参考までに、実際に発行された切手の画像も下に貼っておきましょう。

タイ最初の切手

 タイと欧米諸国との本格的な外交関係は1855年にラーマ4世がイギリスとの間にボーリング条約(英泰友好通商条約)を結んだことに始まります。

 この条約によりイギリスは首都バンコクに領事館を開設しましたが、当時、タイには近代郵便制度はなく、タイ国内はともかく、バンコクから海外へ郵便を送ることにタイ側が責任を持つ体制にはなっていませんでした。このため、領事館は、タイ駐在の外国人商人や宣教師の要請に応えて“郵便局”を開設し、1858年からタイと英本国やインド、シンガポールなどとの通信を取り扱っています。これが、タイにおいて実施された近代郵便制度の最初で、当時の郵便物は蒸気船でシンガポールまで運ばれ、そこから宛先へ送られていました。

 イギリスがバンコクに開設した郵便局では、当初は英領インドの切手が、1867年からは主にイギリス海峡植民地(現・マレーシア、シンガポール)の切手が無加刷で使われていましたが、1882年になると、海峡植民地の切手にバンコクを意味するBの文字を加刷した切手が使用されています。

 これに対して、ラーマ5世による近代化政策の一環として、タイが自前の郵便制度導入を計画するようになったのは、1881年のことでした。ただし、当時のタイには切手を製造するための設備がなかったため、切手の製造はイギリスのウォータールー・アンド・サン社に委託されました。
 
 このとき準備された切手は、ラーマ5世の横顔を描く凹版印刷のもので、1ソロト、1アット(=2ソロト)、1シロ(=2アット)、1シク(=2シロ)、1サルン(=4シク)の5種類。国号の“シャム”の表示はなく、額面はタイ語のみの表示でアラビア数字も記されていません。これら切手は1883年に入ってからバンコクに到着し、同年8月4日の郵便創業から使用されています。

 今回のタイ切手展では、岩崎善太さんと和田俊夫さん、松沢孝一さんの3人の方が、今回ご紹介の切手を含む、ラーマ5世時代の切手のコレクションを出品しておられます。日本でタイのクラシックのコレクションがまとまって出品される機会はめったにないと思いますので、ぜひ、ご覧ください。

 なお、本日13:30より、会場内の特設コーナーにて、拙著『タイ三都周郵記』の刊行を記念してのトークを行います。こちらの方にも、ぜひ、お運びいただけると幸いです。

 昨日の<JAPEX>会場での『香港歴史漫郵記』のトークは、盛況のうちに無事終了いたしました。お越しいただいた皆様には、この場を借りて、あらためてお礼申し上げます。
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 今日から<JAPEX>
2007-11-02 Fri 00:40
 いよいよ、今日(11月2日)、毎年恒例・日本最大の切手展<JAPEX>が開幕します。今年の目玉は、なんといっても、UPU加盟130年記念と銘打って行われる“外国郵便”の企画展示でしょう。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

幕末の横浜発のカバー

 これは、1864年7月26日、横浜にあったイギリスの郵便局で引き受けられ、香港、スエズ(ただし、まだ運河は開通していません)を経てマルセイユまで届けられた郵便物です。

 1858年に安政の5ヵ国条約が結ばれ、日本が本格的に開国すると、横浜を中心とした開港地には外国人商人が訪れるようになります。このため、1860年7月、イギリスは開港直後の横浜に郵便局を設置し、本国との通信を取り扱い始めました。なお、これに先立つ同年5月、英仏郵便交換条約が改定され、日本発着の郵便物にも同条約が適用されることになり、日本からフランス宛の郵便物も香港経由で取り扱われるルートが作られています。

 さて、今回ご紹介している封筒の表面にはGBの文字の入った菱形の印が押されています。これは、英仏郵便交換条約に基づいて料金を精算するためのもので、印の下に1F62 4/10Cの数字が入っています。これは、「イギリスは30グラム(=1オンス)ごとに1フラン62.4サンチーム(=1シリング4ペンス)をフランスから受け取る」という意味です。そして、この計算式に基づいて算出されるこの郵便物の料金、9デシームが封筒の中央に大きく表示されており、受取人はこの金額を配達時に支払いました。なお、経由地の香港を通過したのは、封筒に押されている消印によれば、1864年8月20日となっています。

 今回の企画展示“外国郵便”では、この郵便物同様、幕末・維新期の在日外国局のコレクションから第2次大戦後まで、日本発着の国際郵便のコレクションを幅広く展示しています。有名な“八戸カバー”をはじめ、眼福間違いなしの名品・稀品が多数展示されるばかりでなく、“外国郵便”でこれだけの網羅的な展示の機会はめったにないことと思います。つきましては、是非、この機会に会場にお越しいただき、実物の迫力を堪能していただけると幸いです。

 なお、本日(2日)15:00より、僕も会場内の特設スペースにて『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。トークの会場内には、同書の元になったオープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定ですが、その中には、今日ご紹介のカバーも含まれています。 よろしかったら、こちらにも、ぜひ、遊びに来てください。

【トーク・イベントのご案内】  
<JAPEX>期間中、池袋会場内の特設スペースで以下のトーク・イベントを行います。
 
 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
 『タイ三都周郵記』を題材としたトークを行います。なお、同書の奥付上の刊行日は11月15日ですが、会場では先行発売を行います。

 よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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 タイ三都周郵記
2007-11-01 Thu 12:01
 以前からこのブログでもご案内しておりましたが、11月15日付で彩流社より拙著『タイ三都周郵記:バンコク・アユタヤ・チェンマイ+泰緬鉄道の旅』が刊行となります。その現物が出来上がってきましたので、あらためてご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージで、クリックで拡大されます)

タイ三都周郵記

 今回の拙著は、バンコク、アユタヤ、チェンマイの3都市と旧泰緬鉄道についての切手を使った歴史紀行です。前作『香港歴史漫郵記』が思いのほかご好評をいただきましたので、“切手紀行”の第2弾として作ってみました。前作が歴史的な流れをメインに、香港を歩いた体験をスパイス的にちりばめていたのに対して、今回は“旅”を前面に押し出して、1冊お読みいただくと、結果としてタイという国の歴史や文化のアウトラインがご理解いただけるよう工夫したつもりです。

 内容的には、バンコク、アユタヤ、チェンマイという日本人旅行者に人気の三都市を各1章ずつと旧泰緬鉄道の旅の1章の計4章。フツーの観光客がフツーにいける観光スポットを中心に、実際に僕自身が歩いてみた体験を交えて解説してみました。文章は軽めのタッチに仕上げていますので、気軽にお読みいただけるのではないかと思います。

 なお、本書は、日タイ修好120年記念事業実行委員会による「日タイ修好120周年記念事業草の根助成金」の助成を受けて刊行するもので、奥付上の刊行日は11月15日、書店への配本日は11月6日以降になりますが、明日からスタートの<JAPEX>会場内で先行販売を行います。また、会期中の11月3日、13:30からは会場内特設コーナーにて刊行記念のトーク・イベントも行います。

 ぜひ、明日からの<JAPEX>会場にて、現物をお手にとってご覧いただけると幸いです。

 【トーク・イベントのご案内】  
 <JAPEX>期間中、池袋会場内の特設スペースで以下のトーク・イベントを行います。 ぜひ、遊びに来てください。
 
 2日(金・初日) 15:00~
 『香港歴史漫郵記』を題材にしたトークを行います。会場内には、オープンクラス作品“A HISTORY OF HONG KONG”も展示する予定です。

 3日(土・祝日) 13:30~
 『タイ三都周郵記』を題材としたトークを行います。なお、同書の奥付上の刊行日は11月15日ですが、会場では先行発売を行います。

 会場で一人でも多くの皆様にお会いできるのを楽しみにしております。
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