内藤陽介 Yosuke NAITO
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 アホウ(ドリ)の島
2008-01-31 Thu 14:09
 南太平洋に浮かぶ珊瑚礁の国、ナウルが1968年1月31日に独立してからちょうど40周年になりました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックだ拡大されます)

 ナウル加刷

 これは、イギリス支配下で発行されたナウル最初の切手の1枚です。

 ナウルが西洋人によって“発見”されたのは1798年のことでした。1888年、ドイツ領となったこの島で、翌1889年、豊富なリン鉱石が発見されます。これは、地下の鉱脈があったというわけではなく、島に積もっていたアホウドリの糞が長い年月をかけてリンに変化していったというものです。

 ナウルにおけるリン鉱石の採掘は1906年から本格的に始まりましたが、1914年に始まる第一次大戦の過程でオーストラリアがこの島を占領。ナウルはイギリスの支配下に入ります。これに伴い、今回ご紹介しているような加刷切手が1916年から使われるようになりました。

 さて、第一次大戦後、ナウルはイギリス、オーストラリア、ニュージーランド3国の委任統治下におかれ、リン鉱石はイギリスが採掘することになります。第2次大戦中は日本軍に占領されますが、戦後の1946年、アメリカが占領。翌1947年からは国連の信託統治領となり、1968年1月31日に英連邦内の共和国として独立しました。

 さて、 島全体がリン鉱石の塊といっても良い状態だったナウルは、1990年代までは、リン鉱石の輸出によって経済的に潤っていました。当時はほぼすべての食料品と工業製品の調達はもちろん、政府職員を除くほぼすべての労働力も出稼ぎ外国人がになっており、貿易依存度は輸出、輸入とも100%を超えていました。借金してまで一切の物資を輸入するため、先物のような形で輸出もすべて予約が入っているという状況です。

 特に、1982年から1990年にかけてナウル政府がリンの採掘を行っていた時期は、リンの輸出によって入ってきた収入を国民にばら撒きつづけていたため、国民の労働意欲は極限まで低下。働くことを知らない国民(!)が相当数を占めるようになってしまいました。

 それでも、リン鉱石が無尽蔵に採れれば問題ないのですが、1990年代後半から資源は枯渇し始め、ナウル経済は急速に悪化して行きます。貧すれば鈍するの言葉どおり、ここでナウル政府は、海外からの資金流入と国際金融業の参入を狙って、ほぼすべての規制を廃止するという賭けに出ますが、結果として、やってきたのはマネーロンダリングをしようという輩ばかりで、世界の警察官・アメリカを激怒させ、元通り規制を復活せざるを得なくなりました。

 さらに、2001年には、オーストラリアに向かったアフガニスタン難民を受け入れる見返りとして、オーストラリアから援助を引き出していますが、肝心の難民たちがオーストラリア入りを希望し、ハンガーストライキを始めてしまったため、彼らはオーストラリアに引き渡されるというありさまでした。

 そのほかにも、2003年2月には、諸外国からナウルへの通信が途絶し、すわ政変かと国際社会が注目していたところ、単にお金がなくて通信設備が維持できなくなっただけだったことが判明したり、財政危機により政府所有の旅客機がオーストラリアに差し押さえられたりと、なんとも間抜けな話題が次から次へと出てきます。

 現在、ナウル政府は、まず国民に“働く”ことを教えようと、小学校の高学年で働き方を教える授業を行っていますが(大人たちに関しては、もう諦めたということなんでしょうね)、これも一朝一夕に効果が出るというものではありません。そもそも、現在のナウルには企業そのものがほとんど存在していませんし、約90年間に及ぶリン鉱石採掘のため、島の中央部は一切の車両通行が不可能なほど荒れており、インフラの整備もままならないという状況では、リンが枯渇したこの島に投資しようという奇特な外国企業なんてあるはずもないのが現状です。

 いっそ、ここまできたら、アホウ(ドリ)の島として売り出したら・・・なんていうのは、やっぱり酷でしょうかね。
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 ガンジー没後60年
2008-01-30 Wed 14:51
 インド独立の父、ガンジーが1948年1月30日、ヒンドゥー至上主義者に暗殺されてから、今日でちょうど60年です。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ガンジー(国際児童年)

 これは、1980年にインドで発行された国際児童年の切手で、泣いている子供をあやすガンジーが描かれています。温厚な聖人というガンジーのイメージがそのまま表現されたような1枚といってよいでしょう。

 ガンジーというと非暴力・不服従という言葉のイメージから誤解されがちですが、実際には決してリベラルな人物ではなく、かなり過激でしたたかな人物です。

 すなわち、ガンジーの非暴力・不服従というのは、非常に単純化していうと、侵略者に対しては「持ち物はくれてやるが、侵略者には協力しない」ないしは「侵略者の意志に服従するよりはいさぎよく死んでゆく」ということであって、決して無抵抗ということではありません。

 じっさい、ガンジーは「ヒンドゥー教徒もムスリムも、殺さず自ら死ぬ勇気を培って欲しい。もしその勇気がなければ、せめて殺し殺される術を身につけることだ。卑怯にも危険から逃れてはならない。逃げる者は精神的なヒンサー(暴力)を振るうのだ。逃げるのは、殺そうとして殺されるだけの勇気がないからだ」と発言しています。この発言を読む限り、ガンジーの戦略とは、不服従の結果、イギリスの理不尽な弾圧によって、多くのインド人が無抵抗のまま犠牲になれば、国際世論はそれを放置できなくなって、インドは正義の国として独立できるだろうというものだったと理解するのが妥当なように思われます。

 このほかにも、たとえば、カースト制度をめぐるガンジーの姿勢はかなりしたたかです。すなわち、一般的にはガンジーは、不可触民を“神の子(ハリジャン)”と呼んで尊重したことになっていますが、ガンジーの考える“平等社会”というのは、下層労働力としての不可触民の存在を前提にしたものであり、“古きよきカースト社会”を理想とするものでした。

 彼は「ヒンドゥー社会が存続するとしたら、それはカースト制度のうえに成り立っているからである。自治独立の芽はカースト制の中にこそ求められるべきだ」、「異カーストの間で食事をともにせず、結婚しないからといってカースト制が悪いとはいえない」、「カーストを超えて結婚し、職業を選ぶのは、ヒンドゥー教徒にカーストの真髄である世襲的職業原理を放棄せよといっているのと同じだ。世襲的原理は永遠の原理だ」などと主張し、イスラム教徒の分離独立選挙は認めたものの、不可触民の分離独立選挙には最後まで反対しています。

 このように、イギリスの植民地支配に対しては人権という視点からの人道的批判を期待しておきながら、たとえばカースト制のようなインド国内の人権問題に関しては、インドの伝統やヒンドゥー教徒としての信仰という領域に逃げ込んで批判をかわそうとするなど、ガンジーの独立運動はダブル・スタンダードを巧みに使い分けたものでした。それゆえ、独立インドの初代法務大臣にして“インド憲法の父”と呼ばれているアンベードカルは、カースト制度に関するガンジーの欺瞞を厳しく批判し、ガンジーと対立しています。

 もっとも、あれだけの巨大な国の独立運動を率いたカリスマですから、考えようによっては、それくらいのしたたかさというか、狡猾さというか、そういうものがないとやっていけなかったであろうことは十分に理解できますがね。
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 日本最初のハンドボール切手
2008-01-29 Tue 12:44
 中東などに偏った審判判定でやり直しとなったハンドボールの北京五輪アジア予選が、今日・明日(29・30日)の2日間、東京・国立代々木競技場で行われます。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第19回国体(ハンドボール)

 これは、1964年の第19回国民体育大会(国体)の記念切手で、日本の切手の中ではハンドボールを描いた最初のものとなります。なお、このときの国体切手は、ハンドボールと女子体操の平均台の連刷になっていますが、今回はハンドボールのものだけを持ってきてみました。

 通常、国体切手は国体の秋季大会開催に合わせて発行されますが、1964年は東京オリンピックの開催年にあたっていました。このため、オリンピックとほぼ同時期に国体を開催することを不可能と判断した日本体育協会と文部省は、1962年6月、1964年の第19回大会は通常の秋季大会に替えて春季大会を行うことを決定。これを受けて、新潟国体のメインは、通常の10月開催ではなく、6月開催という変則日程で行われることになり、切手も6月6日に発行されました。

 新潟県では、国体が始まってまもない1947年の金沢国体(第2回大会)に際して、早くも、第5回大会を誘致しようという動きがありました。その後も、1958年の富山国体の際に、第15回大会の誘致運動が展開されていますが、これらはいずれも失敗に終わっています。

 このため、県議会は、1959年7月、1963年開催予定の第18回大会の招致に関する決議を採択。以後、県の関係者により、日本体育協会と文部省に対する陳情攻勢が展開され、1960年12月、第18回大会を山口で、第19回大会を新潟で行うことが内定しました。

 なお、水泳を対象とした夏季大会(漕艇とヨットは春季大会に含まれた)は、当初、8月に行われる予定でしたが、春季大会終了直後の6月16日に発生した新潟地震(震源は日本海新潟沖、マグニチュード七・五)によって県内に大きな被害が出たために中止され、新潟での国際開催はマネージメントの面では異例尽くめの展開となりました。

 さて、異例といえば今回の五輪予選のやり直しというのも異例の出来事です。今回の試合は、中東勢と女子のカザフスタンは参加せず、男女とも日本と韓国の一騎打ちですし、なにより、日本が五輪出場を決めれば、女子は32年ぶり、男子は20年ぶりの快挙だとか。ともかくも吉報を期待したいところです。

 なお、1964年の国体切手や東京オリンピック関連の切手については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく解説していますので、よろしかったら、そちらもご覧いただけると幸いです。

 PS アマゾンでは古書としてとんでもない値段が付いていますが、版元サイトでは定価販売です。
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 『郵趣』今月の表紙:病院船と野戦病院
2008-01-28 Mon 15:42
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年2月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 フランス赤十字(1917)

 これは、1918年8月にフランスが発行した赤十字切手で、病院船と野戦病院が描かれています。

 人類史上初の総力戦となった第1次世界大戦は、切手にもさまざまな影響を与えましたが、赤十字関連の切手が本格的に発行されるようになったのもその一つといってよいでしょう。

 フランスが最初の赤十字切手を発行したのは1914年8月のことで、まさに、第一次大戦の勃発と時を同じくしています。このときの切手は、10サンチームの通常切手に加刷したもので、赤十字をプラスの記号に見立てて附加金額の5サンチームの文字を加刷したものです。この加刷パターンは、このブログで以前ご紹介したものだと、第1次大戦末期の1918年10月に発行された英領北ボルネオの赤十字加刷切手なんかにも見られます。
  
 今回『郵趣』の表紙でご紹介のものは、大戦末期の1918年8月に発行されたもので、中央の赤十字を挟み、左側に赤十字のマークをつけた病院船を、右側に瓦礫の中の野戦病院で働く白衣の天子を配した凸版2色刷です。抑制の効いたトーンながら戦争の悲惨さを見る者に訴えかけてくる一品といってよいでしょう。

 この切手が発行されてから3月後の11月11日、第1次大戦はドイツの降伏によって終結します。すでに、前年(1917年)のアメリカの参戦により戦局の帰趨は連合国有利に大きく傾いていましたが、それでも、戦争そのものは1919年に入っても続くと見ていた人は少なからずいました。

 たとえば、欧米との不平等条約の改正を目指していたタイは、なんとか勝ち馬に乗ろうとして、ドイツの敗戦を確信してからドイツに宣戦を布告し、義勇兵を派遣していますが、義勇兵たちのマルセイユ上陸は1918年7月30日、彼らの実際の出陣は10月17日のことでした。タイとしても、半年くらいは戦わねばなるまいと考えていましたから、結果として1ヶ月弱の参戦ですんだのは予想外のことだったようです。(この辺の事情については、拙著『タイ三都周郵記』でも少し触れていますので、よろしかったら、ご一読下さい)

 もっとも、赤十字の活動というのは、戦時のみならず、戦後の復員や傷病兵たちの看護といったことにも及んでいるわけですから、戦争が終っても赤十字の活動資金を集める必要がなくなるわけではありません。その意味では、今回の切手によって集められた資金も、戦後の赤十字の活動にとって有用なものとなったのではないかと思われます。

 いずれにせよ、イタリア統一戦争でのソルフェリーノの戦いをきっかけに生まれた赤十字の歩みは、そのまま、戦争の歴史と重なっているわけですが、今回の切手もまた、そうした歴史の証言者といってよいでしょう。
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 西イリアン問題とスハルト
2008-01-27 Sun 22:32
 インドネシアのスハルト元大統領が亡くなりました。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 西イリアン獲得

 これは、1963年にインドネシアが発行した“西イリアン(ニューギニア島西部)獲得”の記念切手です。イリアンジャヤの獲得によって領土が東方に拡大されたことを示すため、国土の東西にインドネシア国旗を立てたデザインになっています。

 ニューギニア島は、かつてドイツ、イギリス、オランダの3国によって分割支配されていましたが、このうち、東経141度以西の西イリアンはオランダ領として“オランダ領ニューギニア”となっていました。オランダ領ニューギニアは、 オランダ領東インドと隣接した地域であったため、1949年12月27日にオランダから独立したインドネシアは領有権を主張。これを否定するオランダと対立することになりました。

 その後、1956年8月17日、 イリアン地方自治省を設置したインドネシアは、翌1957年12月、 ついにオランダの資産を接収。両者の交渉が難航する中、1960年、インドネシアはオランダとの国交を断絶し、武力解決も辞さない構えを示します。その一方で、インドネシアは西イリアン問題を国連に提訴し、植民地解放が世界的な潮流をなっていた中で、国際世論を味方につけて、押し切ろうとしました。

 これに対して、1961年12月1日、オランダは、オランダ領ニューギニアを西パプアとして独立させますが、これを認めないインドネシアとの間で翌1962年1月、海戦が勃発します。このオランダとの戦争で、1962年7月、インドネシア国軍を率いて“マンダラ作戦”を指揮し、西イリアンを事実上制圧したのが、当時陸軍少将だったスハルトでした。

 結局、西イリアン紛争は翌8月15日にアメリカの調停で停戦が成立。西イリアンは国連仲裁委員会にゆだねられた後、1963年5月1日、インドネシアの統治下に移管されました。今回ご紹介の切手は、それを記念して発行されたものです。

 しかし、西イリアンではインドネシアへの併合に反対するOPM(Organisasi Papua Merdeka:パプア独立組織)が結成され、反インドネシア闘争が続けられます。特に、1969年8月、国連監視下で行われた住民投票では、80万人のパプア人がインドネシアへの併合にNOの意思表示をしたものの、西イリアンがインドネシア領とされたことから、パプア人による反インドネシア闘争は激化していくことになりました。

 西イリアン併合の英雄であったスハルトは、1965年にスカルノを失脚させて国家の実権を握り、1967年には正式に大統領に就任しますが、西イリアンへのジャワ人の移住を奨励し、同化政策を強行。パプア独立組織の抵抗に対しては、力でこれを押さえ込んできました。

 その後、スハルトが1998年に失脚すると、西イリアンの独立運動はさらに活発化し、2000年には、西パプア住民大会が新国家パプアの樹立を宣言。さらに、2006年には独立運動家がオーストラリアに亡命しオーストラリア政府がビザを発行したため、インドネシア・オーストラリアの関係が悪化しています。

 失脚してから10年が過ぎ、すっかり過去の人として亡くなったスハルトですが、彼の率いた落下傘降下作戦に始まる西イリアン問題は、決して、過去の問題にはなっていないようです。

 * 昨日のメディア史研究会は無事、終了いたしました。ご参加いただきました皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。
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 メディア史研究会・予告編
2008-01-26 Sat 10:42
 かねてご案内のとおり、本日(26日)14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)で開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題して、研究発表をしてきます。というわけで、その予告編を兼ねて、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 議事堂(1939年)

 これは、1939年6月24日にタイで発行された“6月24日革命(立憲革命)”の記念切手です。

 1925年、ラーマ6世の跡を継いで即位した弟のラーマ7世は、ラーマ6世時代の放漫財政によって生じた赤字の解消を最優先の課題としていました。このため、国王は大胆な行政整理を行ったが、そのことは官僚層の不満を鬱積させることになりました。

 ところで、当時のタイは絶対君主制で一般国民の参政権は認められていませんでしたが、国王は立憲君主制への移行措置として1927年に勅撰議員からなる枢密院委員会を創設。1932年3月には外相から提出させた憲法草案を修正のうえ、同年4月のバンコク建都150周年の記念式典をめどに公布しようとしていましが、有力王族の反対もあって果たせませんでした。

 こうしたなかで、おりからの世界恐慌の中でタイ経済の落ち込みがひどくなり、給与税などの新税が導入され、一般の官吏が減俸されている中で、特権的王族への支出は削減されず、国民の不満が爆発。1932年6月24日、立憲君主制の実施を求めていた人民党がクーデターを起こして王族を人質に取り、国王に憲法公布を要求します。国王の側近たちはクーデターを武力で鎮圧することを主張しましたが、国王は「憲法公布は自分も考えていた」としてこれに応じ、6月27日、人民主権の憲法に署名・公布し、タイは無血革命で立憲君主制へと移行しました。これが、立憲革命のあらましです。

 ところが、革命後の人民党は、かつての“民主化”要求とは裏腹に複数政党制の導入を拒否して独裁色を強めていきます。これに対して、巻き返しを図る国王は“真の議会制民主主義”の実現を求めて人民党政権と対立しますが、かえって“護憲民主勢力”と自称する人民党は反対派を“旧体制への復帰を意図する憲法の敵”として弾圧。このため、立憲君主制のお飾りとなることを嫌った国王は1934年1月、眼病治療の名目でイギリスに渡り、1935年3月2日、そのまま退位。2度と帰国することのないまま、1941年にロンドンで客死しました。

 さて、今回の僕の発表の主役となるプレーク・ピブーンソンクラーム(ピブーン)は、立憲革命の際に陸軍の青年将校として指導的な役割を果たした結果、革命後、次第に権力を拡大。1938年、ついに首相に就任します。ピブーンはヨーロッパにおけるナチス・ドイツの勢いに感嘆して国家主義を掲げ、首相就任後初の革命記念日となった1939年6月24日、「文明国人と同一の完全な愛国心をタイ人にもたせるための出発の日にすべき」と演説して、ラッタニヨム政策(国家信条)を発動します。

 その第一弾として、従来の国名であった“サヤーム(シャム)”は外国人による蔑称だとして国名を“タイ”に変更したほか、タイ語を国語とする国民形成、国民の服装の西洋化、国産品の愛用、華僑の同化政策、全タイ民族の大同団結などの民族主義政策を展開していくことになるのです。

 今回ご紹介の切手は、そうしたラッタニヨム政策の出発点となった1939年の革命記念日に発行されたもので、革命の成果として国会議事堂(旧アナンタ・サマーコム宮殿)が取り上げられています。もっとも、切手を発行したピブーン政権が議会制民主主義を尊重していたかというと、話はまったく逆で、1944年8月1日までの前期ピブーン政権の時代、総選挙はまったく行われていません。

 なお、この切手の国名表示は“サヤーム”ですが、この切手が発行されてすぐに国名はタイに変わりますので、翌1940年に発行の切手からは切手の国名表示も変更されることになります。

 今日の発表では、こうしてスタートしたピブーン政権の時代の切手や郵便が、当時の政治状況や社会状況とどのように関わっていたのか、また、1940年に仏印に進駐し、1941年に対米英戦争に突入した日本とどのように関わっていたのか、ということを、拙著『タイ三都周郵記』の内容を補いながら、お話しする予定です。

 なお、メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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 白瀬中尉の南極探検
2008-01-25 Fri 11:52
 女性登山家の続素美代さんが、24日午前(現地時間23日午後)、日本人女性としては初めて南極点に到着したそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました.(画像はクリックで拡大されます)

 白瀬中尉

 これは、1960年に発行された“白瀬中尉南極探検50年”の記念切手で、白瀬の肖像と南極の地図が描かれています。

 日本人としてはじめて南極探検隊を率いた白瀬矗は、1861年、秋田県由利郡金浦村の浄蓮寺で生まれました。

 18歳で陸軍教道団(下士官養成所)に入った彼は、当初、北極探検をめざし、33歳のときには千島探検に参加して占守島で越冬しています。しかし、1909年、アメリカの探検家ピアリーが北極点を踏破したことから南極探検へと目標を変更。帝国議会に資金の下付を請願したものの、国の補助が得られなかったため、1910年7月、南極探検の計画を公表し、民間の浄財を集めて南極点を目指すことにしました。

 白瀬の計画は、①前人未踏の南極大陸を踏破して九十度の極地に日章旗を立てること、②極地の水陸の分布、地質、動植物、気象、潮流およびそれらが人体に及ぼす影響等の学術上の研究調査、の2点を主たる目的として掲げた壮大なもので、計画が発表されるや国民的な反響を呼び、大隈重信を会長とする南極探検後援会が結成されました。

 一行は、同年11月29日、開南丸で東京芝浦を出航し南へ向かいましたが、翌1911年3月、南緯74度16分の地点に到達したところで結氷に阻まれて前進することができなくなりました。このため、探検隊はいったんシドニーに引き返し、1911年11月、あらためて、シドニーから南極に向けて出帆します。そして、1912年1月16日、ロス海に到着してここを開南湾と命名し、接岸上陸して二手に分かれてイヌゾリでの南下。同月28日、南緯80度5分の地点にまで到達しました。

 しかし、気象条件の悪化や食糧の枯渇などから、それ以上の南下は困難となったため、白瀬はこの地点を最終到達点として、日章旗と三角形のブリキの旗を立て、隊員とともに皇居の方向を向いて万歳三唱をした後、募金協力者の名簿を入れた箱を埋めました。そして、一帯の視界の範囲を「大和雪原」と命名して帰国の途につき、同年6月、芝浦に凱旋しました。

 ちなみに、アムンゼン率いるノルウェー隊によって世界最初の南極点到達が達せられたのは、1911年12月14日のことで、当時、白瀬の探検隊はシドニーから南極へと向かう洋上にありました。

 こうした白瀬の功績を顕彰する切手については、すでに、郵政の内部では、1957年の国際地球観測年に際しても発行が検討されていたようですが、結局、白瀬一行が芝浦を出航してから50周年にあたる1960年11月の発行となりました。

 なお、この切手については、拙著『ビードロ・写楽の時代』でも詳しく解説していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 <おしらせ>
 明日(1月26日)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

 メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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 回向院の太鼓やぐら
2008-01-24 Thu 12:14
 東京都墨田区の回向院が、ペットの骨の保管施設は宗教施設ではないとの理由で固定資産税など約138万円を課されたのを不服とし、都に課税処分の取り消しを求めた訴訟の控訴審判決で、課税を認めた1審・東京地裁判決を取り消し、都の課税処分を違法とする判決がでたそうです。というわけで、回向院がらみの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 回向院

 これは、1978年7月1日に発行された“相撲絵シリーズ”の第1集で、歌川(安藤)広重の「両国回向院太鼓櫓の図」が取り上げられています。

 回向院は、現在の東京都墨田区両国2丁目にある寺院です。1768年に境内で初めて勧進相撲が行われ、1833年以降は、1909年に国技館ができるまで、回向院の境内が定期的な相撲興行の場となりました。

 太鼓櫓は、興行を知らせる音をより遠くまで届かせるため、回向院の境内ではなく、隅田川沿いの両国橋のたもとに立てられ、その音は気象条件によっては上総・房州方面まで聞こえることがあったといわれています。

 切手に取り上げられた「両国回向院太鼓櫓の図」は、広重晩年の画集『名所江戸百景』の一枚で、両国回向院から対岸の元柳橋を臨む風景を描いたものです。

 回向院というと僕なんかは、この切手のせいもあって、どうしても相撲のイメージが強いのですが、もともと、この寺は、明暦の大火の後、身寄りや身元の分からない人々の亡骸を手厚く葬るための万人塚と念仏堂がルーツということで、“有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く”という理念により、江戸時代から将軍家の愛馬など動物の供養も行ってきた歴史があります。したがって、 信仰のペット葬祭寺院などとは一線を画すものというのが、裁判所の判断なのでしょう。

 もっとも、僕のような世俗主義者からすると、宗教法人が非課税という現在の税制は、どう説明されても納得できませんねぇ。きちんと確定申告を行い、その上で赤字だから納税する必要がないというのならともかく、最初から免除というのはおかしな話です。文化財の維持・保存に経費がかかるというのなら、それはそれで別途、補助金なり助成金なりを支給すれば済む話で、そのことと税の免除は別の次元の話でしょう。固定資産税にしたって、“宗教法人の財産は個人のものではなく、檀信徒のもの”というのなら、その檀信徒が分担して負担しなければ筋が通りません。

 まぁ、宗教団体の組織票が政治的に大きな影響力を持っている以上、宗教法人に課税する法律ができる可能性は限りなくゼロに近いわけですが、財政赤字が深刻な問題になっているというのなら、あらゆる免税特権は、それこそ“聖域”なく見直すべきだと僕は思います。

 <おしらせ>
 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

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 永代橋際の雪
2008-01-23 Wed 12:06
 今日の東京は小雪がちらついています。前回、初雪が舞ったときには江戸の雪景色の切手を持ってきたので、今日は明治の東京の雪景色の切手ということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 中央銀行100年

 これは、1982年10月12日に発行された“中央銀行制度100年”の記念切手で、井上安治の錦絵「永代橋際日本銀行の雪」が取り上げられています。

 現在の日本銀行(日銀)本店は東京・日本橋にありますが、この場所に現在の建物が完成したのは1896年のことで、1882年の設立当初は、隅田川に架かる永代橋際の旧北海道開拓使物産売捌所の建物が使用されていました。切手に取り上げられているのは、こちらの方です。

 わが国における最初の近代通貨制度は、1871年に制定された新貨条例からはじまります。この条例により、明治政府は金銀貨による幣制の統一を目標としていましたが、材料や技術面での制約から、金銀貨の鋳造高は当初計画を大幅に下回る水準にとどまっていました。このため、金銀貨に代わる支払手段として、政府紙幣や国立銀行券などの不換紙幣が大量に発行されます。

 1877年に西南戦争が勃発すると、政府は戦費調達のため、政府紙幣・国立銀行券の大規模な増発をおこないましたが、その結果、猛烈なインフレが発生しました。このため、1881年に大蔵卿に就任した松方正義は、インフレ収束を狙いとして、増税、歳出削減という緊縮財政措置を実施し、そこで生じた財政剰余金で市中の紙幣を回収する政策を断行します。その結果、インフレは鎮静化したものの、日本経済は深刻なデフレに陥ってしまいました。

 こうしたことの反省から、紙幣の濫発を防止するとともに通貨価値の安定を図るためには、紙幣発行権限を政府から独立させるとともに、兌換銀行券の一元的な発行制度を整備する必要が生じ、1882年10月、ベルギー中央銀行の制度にならって、日本の中央銀行として日本銀行が設立されました。

 今回ご紹介の切手は、それから100年を記念して発行されたものです。なお、日銀の創立記念日は10月10日ですが、当時、この日は祝日の“体育の日”であり、さらに切手が発行された1982年はそれが日曜日と重なっていて翌11日も振替休日となったため、記念式典は12日に行われ、記念切手もそれに合わせて発行されたというわけです。

 さて、2001年から刊行が始まった、戦後記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズですが、その第6巻を4月に刊行すべく、現在、作業を進めています。今回は、1979年の「近代美術シリーズ」から、1985年のつくば博までのすべての記念・特殊切手についての解説を載せる予定で、今日ご紹介の切手も含まれています。書名や刊行日などの詳細が決まり次第、このブログでもご案内いたしますので、今しばらくお待ち下さい。

 <おしらせ>
 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

 メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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 41になりました
2008-01-22 Tue 14:29
 私事ながら、本日をもって41歳になりました。まぁ、とりたてて感興は沸かないのですが、それでも年に1度のことなので、誕生日に絡めて額面41の切手の中から、こんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 世界デザイン博

 これは、1989年7月14日に発行された世界デザイン博覧会の記念切手(の見本)で、光の三原色と印刷の三原色が瑞雲に乗って訪れる場面を描いたものです。原画作者(の一人)が著名なデザイナーの杉浦康平であったことから、発行当時はそれなりに話題になりましたから、ご記憶の方も少なくないことでしょう。切手はなんとなくおめでたい雰囲気なので、自作自演ですが、“誕生日のお祝い”ということで取り上げても罰は当たらないように思います。

 世界デザイン博は、1989年7月15日から11月26日まで、「ひと・夢・デザイン-都市が奏でるシンフォニー」をテーマとして、名古屋市内の3会場に分かれて開催されました。デザインを主題として取り上げる博覧会としては世界初の開催で、そもそもは、名古屋市制100周年の記念企画だったそうです。

 名古屋といえば、今月7日から『中日新聞』でスタートした僕の連載、「きょうの切手」は、おかげさまでご好評をいただいているそうで、ありがたい限りです。連載は毎週日曜日から木曜日までの週5日で、金・土曜日の2日はお休みなのですが、昨日、担当者からもらったメールによると、先週の18・19日には、「なんで『きょうの切手』が載ってないんだ」という問い合わせの電話が少なからずあったとか。僕にとっては、これが今年なによりの誕生日プレゼントになりました。

 これを励みに、今後とも読者の皆様の期待にお応えするよう、精一杯がんばっていきたいと思いますので、よろしくお付き合い下さい。

 <おしらせ>
 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

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 日本インドネシア友好年開幕
2008-01-21 Mon 11:08
 今年(2008年)は、日本とインドネシアの外交関係樹立から50年ということで、“日本インドネシア友好年”だそうです。で、その開幕記念式典が、昨日(20日)、ジャカルタで開かれたということなので、手持ちのインドネシア関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 インドネシア・独立一周年

 これは、インドネシアの独立戦争時、共和国側の切手にインドネシア独立一周年の特印を押したものです。

 第2次大戦中、オランダ領東インド(蘭印)を占領した日本軍は、政治犯としてオランダに捕らえられていたスカルノやハッタらインドネシア民族主義指導者を解放します。日本側は、石油資源の安定確保のため(そもそも、これこそが戦争の目的でしたから)、蘭印を直轄の軍政地域としました。しかし、戦局が悪化してきた1945年3月、インドネシアを親日国家として独立させるよう方針を転換。独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させています。

 こうして、終戦間際の8月7日、スカルノらは独立準備委員会を設立。その第1回会議は18日に開催される予定でしたが、8月15日、日本が降伏したことで、日本の軍政当局の主導による独立準備は中止されてしまいます。そこで、2日後の8月17日、スカルノらインドネシアの民族主義者たちは、オランダ軍が再上陸してくる前に、機先を制してインドネシア共和国の独立を宣言しました。場所はスカルノの私邸、約1000名が立会ったそうです。

 その後、9月4日にスカルノを首班とするインドネシア共和国が成立。また、独立宣言後の8月22日には人民治安団が政府布告によって結成され、政府は日本軍政下で結成された旧ペタ(郷土防衛義勇軍)系の将兵、兵補らに参加を呼びかけます。さらに、10月になって日本軍の武装解除のため、イギリス軍やオランダ軍が本格的に進駐してくると、スカルノらはこれに対抗すべく人民治安軍を組織しました。

 なお、戦争に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、東南アジアの各占領地域を現状維持のまま、上陸する連合軍部隊に引き渡すことになり、インドネシア人の独立派への武器引渡しは禁止されていました。しかし、一部の地域では、独立派の要請に対して武器庫を開放することもあったほか、旧日本軍の将兵の中には、“東亜解放”の理念に準じて独立派に身を投じ、そのまま日本に帰らなかった者もいるなど、終戦から正規の国交樹立までの間も、日本とインドネシアとは浅からぬ関係が続くことになるのです。

 <おしらせ>
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 無名のレスリング選手
2008-01-20 Sun 11:45
 国際試合で6年以上無敗だったレスリング女子55キロ級の吉田沙保里がアメリカのマルシー・バンデュセンにまさかの敗北を喫し、連勝記録が119で止まりました。というわけで、今日はレスリングがらみの切手ということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第7回国体

 これは、1952年の“みちのく国体”の記念切手で、レスリングが取り上げられています。

 “みちのく国体”は、宮城・福島・山形の南東北三県で開催されましたが、三県に分れての開催ということで、各県の調整には相当の苦労があったようです。特に、大会の主軸を担った宮城・福島の両県の間では互いの体面を保つために何度も協議が重ねられ、大会の華というべき陸上競技は宮城県で、開・閉会式は福島県で行うというかたちで妥協がはかられました。ちなみに、この切手に取り上げられたレスリングは宮城県の会場で行われ、同時に発行された切手の山岳競技は山形県の鳥海山を会場として行われたもので、ここでも、三県開催ならではの配慮がなされています。

 ところで、“みちのく国体”が開かれる直前の1952年7月、フィンランドのヘルシンキで戦後初めて日本が参加したオリンピックが開催されました。このオリンピックでは、レスリング・バンタム級で中央大学の石井庄八が日本人として同大会唯一の金メダルを獲得。また、レスリングでは、他にフライ級の北野祐秀が銀メダルを獲得したほか、他の選手も全員6位入賞を果たす輝かしい成績を残し、敗戦に打ちひしがれていた日本国民に大きな夢と希望を与えました。

 郵政省は、こうした日本レスリング陣の活躍を称える意味を込めて、今回の国体切手の題材にレスリングを取り上げたわけですが、その図案が、日本人選手(特に、金メダルを獲得した石井庄八)の姿ではなく、1936年のベルリン・オリンピックに際して撮影された外国人選手をもとに作成されていました。すなわち、攻めているのがエストニアのパルサル、首を床につけて抵抗しているのがドイツのホルンフィッシャーです。この2人は、日本ではほとんど無名の存在だったこともあり、切手のデザインが公表されると、レスリング関係者からは、なぜ、日本人選手の写真をもとに原画を構成しなかったのかとの不満の声があがっていました。

 さらに、このことが大会終了後の11月8日、『毎日新聞』に取り上げられたことで、郵政省に対しては、レスリング関係者や切手収集家はもとより、一般社会からも轟々たる非難が浴びせられることになります。

 すなわち、毎日新聞の記者に対して、日本体育協会(体協)顧問の春日弘が「あきらかに當局の失態だ。國体關係者として憤慨にたえない。レスリングを取り上げるなら當然石井選手を選ぶべきだ。寫眞としていいのがなければポーズしてもらつてうつせばよい。文化切手には日本文化の先覺者を選ぶのに國体切手にはなぜ日本選手をとらないのだろう」と不満をあらわにしているほか、日本アマチュア・レスリング協会理事の村山修も「この問題は國体ひいてはスポーツに對する官僚の認識不足を露呈したもので、切手というような國家的、國際的なものを單なる印刷技術とか奇麗さの點から考えるのは間違いではないか、少くとも今度の場合あらかじめ協會にも相談してもらいたかった」とコメントしています。

 これに対して、郵政省の切手係長であった中村宗文は、「今回は横型切手を出す既定方針があつたので、ずいぶん色々な資料をさがしたが、横型には適當なのがなく、結局美しいフオームでわかりやすいという點からこれが採られたわけだ。いままでの國体切手にもハンマー投の外國選手を取入れたものがあり、よりよい切手を出すために廣く資料を求めるために外人選手が入つたので深い意味はない」と開き直っていますが、当然のことながら、このような郵政側の対応は、関係者の怒りや不満に対して火に油を注ぐ結果をもたらし、毎日新聞に記事が掲載された11月8日には、岸体育館(東京・御茶ノ水)で体協の臨時理事会が開かれ、この問題に対する体協の対応が協議されるほどでした。

 もっとも、切手上に外国人選手を取り上げたことの是非はともかく、今回の切手がデザイン的には高く評価されたことも事実で、1954年になってから、イタリアのオリンピック委員会が主催して開催された国際スポーツ切手コンクール(1952年中に発行された切手が対象となった)でも、登山切手が“エミリオ・コミッティ杯(スポーツフィラ新聞社提供)”を、レスリング切手が“カルロ・ガリムベルティ牌(イタリア重量競技連盟提供)”を、それぞれ、授与されています。

 当時、郵政省内に事務局を構えていた全日本郵趣連盟の週刊紙『切手』は、このことをトップ記事として報じています。記事では、メダルを手に満足げな表情を見せる郵務局長・松井一郎の写真を大きく取り上げられており、切手の発行時に寄せられた不評に対して、郵政側としては大いに溜飲をさげているようすがはっきりとうかがえるのが、ちょっと笑えるところです。

 なお、この切手を含む1950年代の記念切手については、拙著『ビードロ・写楽の時代』で詳しく解説していますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

 <おしらせ>
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 アラブの都市の物語:マスカット
2008-01-19 Sat 11:55
 NHKのアラビア語会話のテキスト2・3月号が出来上がってきました。僕の担当している連載「切手に見るアラブの都市の物語」では、今回はオマーンの首都、マスカットを取り上げました。その記事に使ったものの中から、今日は、こんなモノをお見せしましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 マスカット加刷切手

 これは、オマーンの現王朝、ブーサイード朝200年の記念切手です。当時、イギリスがオマーンに持ち込んで使用していたインド切手にアラビア語で“ブーサイード家 1363”の文字が加刷されています。

 アラブ連盟加盟国のうち最も東側に位置しているオマーンの首都・マスカットはアラビア半島の東南、アラビア海に望む港湾都市です。

 ながらくペルシャ人の支配下に置かれていたオマーンの地は、7世紀の預言者ムハンマドの時代にイスラム化し、アラブが独立を回復。マスカットもオマーンのイマームの支配の下、インド西海岸やアフリカ東海岸との交易の拠点として繁栄します。

 交通の要衝であるがゆえに、マスカットには対岸のペルシャ人がしばしば侵攻し、14世紀以降はホルムズ王国の支配下に置かれます。さらに、1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインド洋に入って来ると、1507年にはマスカトもポルトガル軍に占領されました。1649年、ヤアーリバ朝のイマーム、スルターン・イブン・サイフはポルトガル人を駆逐してアラブの支配を回復。ザンジバルからパキスタン沿岸にいたる広大な海域に勢力を拡大しました。しかし、スルターン・イブン・サイフが1679年に亡くなるとヤアーリバ朝は衰退し、1737年からしばらくの間、マスカットも一時的にペルシャに占領されます。

 その後、1749年ごろに成立したブーサイード朝はペルシャ勢力を追い払い、ザンジバルからグワダル(現パキスタン)にいたる海洋帝国を樹立。19世紀前半のサイイド・サイードの時代に全盛期を迎えます。1833年、サイイド・サイードは首都をマスカトからザンジバルに移しますが、その後も、オマーンは大英帝国とインド洋の勢力を二分する海洋帝国としての地位を維持し、オマーン本土の重要都市としてのマスカトの重要性は揺るぎませんでした。

 しかし、1856年にサイイド・サイードが亡くなると、ザンジバルを中心としたアフリカ東部沿岸地域が分離独立したことにくわえ、蒸気船の登場やスエズ運河の開通により、帆船貿易は打撃を受け、オマーンは次第に衰退。これに乗じてイギリスが進出し、1864年にはマスカットにイギリスの郵便局も設けられました。

 イギリスによる実質的支配が強まるなか、マスカットのスルターンに反発する内陸部では別個の首長としてイマームが擁立され、両者が激しく対立。第2次大戦後、スルターンとイマームとの抗争は、イマームを支援するアラブ諸国とスルターンを支援するイギリスとの代理戦争の様相を呈するようになり、1960年には南部のドファール地方で南イエメンの支援を受けた反乱が発生するなど、オマーンは危機的な状況に陥ります。しかし、当時のスルターン、サイード・イブン・タイムールは有効な手だてを打たなかったので、1970年、イギリスの支援を受けた息子のカーブース(現国王)がクーデターを起こして自ら王位に就きました。

 カーブースは、即位すると、1913年以来の国号“マスカット・オマーン”をかつてのオマーンに戻すとともに、1971年中にはオマーンとしての国連加盟を実現。それまでの鎖国政策から開国政策に転換して、人材開発を柱とした近代化政策に乗り出すとともに、1975年までにドファール地方の反乱をほぼ制圧するなど、国家再建に精力的に取り組み、現在のオマーン繁栄の基礎を築きました。なお、カーブース国王の治世は、かつてのオマーンの栄光の日々を回復する“ルネサンス”と称されることもあるそうです。

 さて、4年にわたって続けてきた「切手に見るアラブの都市の物語」も、今回が最終回となりました。長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。メッカやメディナ(サウジアラビア)、アレッポ(シリア)、トリポリ(リビア)、アレキサンドリア(エジプト)、ハルトゥーム(スーダン)、ラバト(モロッコ)などなど、連載では取り上げられなかった都市も追加して、いずれ1冊の本にまとめてみたいものです。

 <おしらせ>
 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

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 神功皇后の絵葉書
2008-01-18 Fri 11:35
 歴代天皇や皇族を埋葬した陵墓について「御霊の安寧と静謐を守るため」などとして学術調査を認めてこなかった宮内庁が、17日、古墳時代のものとされる奈良市の神功皇后陵(五社神古墳)の立ち入り調査を許可することを決めたそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 朝鮮総督府始政絵葉書(神功皇后)

 これは、1910年に朝鮮総督府による朝鮮支配が始まったことを記念して総督府が発行した記念絵葉書の1枚で、切手が貼られて仁川の特印が押されています。絵葉書に描かれているのは、神功皇后と香椎宮です。朝鮮総督府の始政記念の絵葉書に神功皇后と香椎宮が取り上げられているのは、いうまでもなく、現実の朝鮮支配を伝説の三韓征伐と結びつけようというロジックによるものです。

 記紀神話に記されている神功皇后の事蹟については、以前の記事でもご紹介しましたが、一言でいうと、神託を受けて新羅に遠征し、これを平定して凱旋した後、誉田別命(後の応神天皇)を出産。その後、大和に戻り、仲哀天皇の他の二人の王子の反乱を鎮め、誉田別命を皇太子に立てて摂政として善政を敷いたというものです。

 絵葉書に取り上げられている香椎宮は福岡県福岡市東区にある神社で、神功皇后が自ら祠を建て仲哀天皇の神霊を祀ったのが起源とされています。なお、御祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神で、三韓征伐の主要メンバーが網羅された格好になっています。

 さて、絵葉書の神功皇后の肖像は、旧高額切手に取り上げられたものと同じで、印刷局の女子工員をモデルに、キヨッソーネが描いたものが元になっていますが、凹版印刷が見事な旧高額切手と比べると見劣りするのは致し方ないでしょう。

 神功皇后の肖像については、関東大震災後に発行された新高額切手では“考古学的な考証”を加えて修正されたことになっていますが、切手に描かれている直弧紋が実際に神功皇后陵の内部にも描かれているかどうか、収集家としては、今回認められた調査の結果がちょっと気になるところです。

 なお、明治以降の神功皇后イメージの変遷については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析してみましたので、よろしかったら、こちらもご一読いただけると幸いです。

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 江戸の雪
2008-01-17 Thu 14:33
 昨夜、平年より14日遅れて東京都心で初雪が降ったそうです。というわけで、東京の雪に絡む切手はないかと思って探してみたら、こんなモノがありました。(画像はクリックで拡大されます)

 待乳山の雪見

 これは、1982年の「切手趣味週間」の切手で、鳥居清長の「待乳山の雪見」が取り上げられています。ちなみに、清長の作品は1958年趣味週間切手にも取り上げられていますが、このときは「雨中湯帰り」 です。清長の作品にも晴れた日の情景を描いたものはあるはずなのですが、切手の世界では、清長=悪天候というイメージが強いですな。

 さて、「待乳山の雪見」は1785年ごろの作品。大判二枚続きで、雪見を楽しむ江戸の男女が描かれています。

 作品の舞台となった待乳山は、隅田川に架かる今戸橋の南詰(現在の地番で言うと、東京都台東区浅草7丁目)にあり、古くは“亦土山”、“真土山”とも書かれました。もともとは大きな松山でしたが、吉原へ通じる道路建設のために切り崩され、現在のような丘になりました。それでも、江戸の下町には他に丘がなかったため、ここからの景観は人気を集め、風向の地として知られていました。丘の上には大聖歓喜天を祀った聖天宮(正式には天台宗金龍山本龍寺)があり、江戸市民、特に花柳界の信仰を集めています。

 切手に描かれている女性のヘアスタイルは鬢を横に張った“燈籠鬢”とよばれるもので、1770年代後半から1780年代末にかけて流行ったものです。また、着物の文様も、作品が描かれた頃に江戸で創作されたもので、その意味では、芸術性もさることながら、風俗史の資料としてもこの作品は興味深いものがあります。

 なお、この切手に関しては、今年4月に刊行予定の拙著、<解説・戦後記念切手>シリーズ第6巻(まだ、書名は決まっていません)に解説文を収録しています。同書が刊行されるころには、東京で雪が降ることはないでしょうが、この切手の舞台となった待乳山の近くにある都立産業貿易センター台東館ではスタンプショウが開催されますので、たぶん、出版記念のトークをやることになると思います。詳細が決まりましたら、また、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。

 PS 本日お昼ごろ、カウンターが28万ヒットを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、改めて、お礼申し上げます。

 <おしらせ>
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 お題は“火”
2008-01-16 Wed 14:16
 今日は新春恒例の宮中行事「歌会始の儀」の日です。今年のお題は“火”だそうで、そういうことならストレートにこの切手をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 炎舞

 これは、近代美術シリーズの第2集として1979年6月25日に発行された切手で、日本画家・速水御舟の「炎舞」が取り上げられています。

 速水御舟(1894-1935)は東京・浅草に生まれ、1908年、松本楓湖の画塾に入門。1911年、巽画会展に出品した「室寿の讌」が一等褒状となり宮内省買い上げになりました。1917年には第4回院展に出品した「洛外六題」が横山大観、下村観山らに激賞され、日本美術院の同人となっています。

 切手に取り上げられた「炎舞」は1925年の作品で、炎の明るさに誘われて集まってきた蛾が、妖しく燃えさかる炎に身を焼かれながらも、そこから離れることのできずに舞う幻想的なさまが緻密な写実で表現された作品です。まさに、「飛んで火にいる~」の世界ですが、このモチーフはイスラム世界などでは、神にあこがれつつも神の前ではその眩さにわが身を焦がして命まで落としてしまう人間の比喩として使われることもあると学生時代に読まされたテキストに出てきた記憶があります。まぁ、速水御舟にとっちゃ、どうでもいいことでしょうけどね。

 さて、切手は、一見、単純な赤と黒の切手に見えますが、バックの黒い部分がなかなかの曲者で、オリジナルに見られる色の深みを出すため、黄・赤・茶・黒の4色が混色されています。これにより、青い一匹の蛾の部分では青色の固有色を用いることでコントラストが際立つという仕掛けです。

 また、印刷作業の際、赤色と茶色にチョボ(印刷版面上の余分なインクを掻き落とすドクター・ナイフが原因となって生じるわずかな汚れ)が発生したほか、額面数字の“50”の刷り合わせ(この部分も実は4色)の調整が機械では上手くいかず、最終的に人手による微調整が必要となったのだそうです。

 まぁ、このあたりの詳しい事情については、今年4月に刊行予定の<解説・戦後記念切手>シリーズの第6巻で説明していますので、刊行の暁にはご覧いただけると幸いです。

 ところで、両陛下をはじめとする皇族方はたしなみとして和歌を詠まれるわけですが、その道に詳しい人の話によると、明治天皇は和歌の名手で大正天皇は漢詩の達人だったが、昭和天皇はどうも・・・ということのようです。まぁ、天皇は“現人神”ではあっても万能の神ではないのですから、それぞれ、得意不得意があるのも当然で、微生物学者でもあった昭和天皇に詩歌の才を求めるほうが酷なような気もします。

 ちなみに、今回ご紹介の「炎舞」をご覧になった際の昭和天皇のご感想は、「蛾の眼が生きているね」だったとか。やっぱり、根っからの理系人間であらせられた、ということなんでしょうかねぇ。

 <おしらせ>
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 ナセル生誕90年
2008-01-15 Tue 14:38
  エジプトの元大統領、ガマール・アブドゥン・ナーセル(一般に“ナセル”と呼ばれている人物です)が1918年1月15日に生まれてから、今日でちょうど90年です。というわけで、ナセルがらみの切手の中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 イエメン・ナセル表
 イエメン・ナセル裏

 これは、1971年にイエメンで発行されたナセルの追悼切手が貼られたカバーです。消印がハッキリ読めないのですが、上の画像・右下の5B切手の消印では、“21.1.?1”との日付がかろうじて読めますので、おそらく、1971年の使用例だろうと思います。

 エジプト革命を成功させ、スエズの国有化を宣言。さらに英仏の攻撃に屈せず、第2次中東戦争を勝利に導き、アラブ世界の英雄となったナセルでしたが、1958年に行ったエジプト・シリアの国家連合は1961年に破綻し、その威信は大きく揺らぐことになります。

 こうした状況の中で、1962年9月、イエメンで共和革命が発生。これに抵抗する王党派が山岳地帯に逃れ、いわゆるイエメン内戦が勃発します。

 イエメン内戦は、そのまま放置しておけば、いずれ王党派が投降して終わりという雰囲気が強かったのですが、革命政権がエジプトに支援を要請したことから事態は転換。国家連合破綻の失点を回復しようとしたナセルは、ただちにイエメン内戦への介入を決断し、エジプト軍を派遣して、革命政権への全面的支援を約束します。

 これに対して、保守派君主国の雄サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じ、王党派を支援。こうして、イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈するようになります。

 イエメン内戦は、アラブ世界の保守派と革命派を巻き込み、泥沼のアラブ内戦の様相を呈しながら、1970年まで続くことになるのですが、内戦への介入が長引くにつれ、エジプト経済は次第に疲弊していきます。また、イエメンへの派兵により、イスラエルに対するエジプトの軍事力も次第に低下し、ナセルの国際的威信はさらに低下するという悪循環をもたらしました。その帰結が、1967年の第3次中東戦争での惨敗であり、1970年のヨルダン内戦とその調停途中でのナセルの死というかたちでつながっていくことになります。

 こういう経緯もあって、イエメンの革命政権は1971年早々にナセルの追悼切手を発行したわけですが、その実逓使用例は決して多くはありません。その意味では、今回ご紹介したカバーは決して状態の良いものではないのですが、とりあえずのところ、これで我慢をせざるを得ないというのが正直なところです。

 ところで、今回ご紹介のカバーは、“キプロスのニコシア郵便局長”宛になっている点にもご注目下さい。当時、アラブ諸国はイスラエル宛の郵便物を取り扱いませんでしたが、現実には、イスラエル占領地域にはパレスチナ人が多数住んでおり、彼らと海外のパレスチナ人との間では郵便交換が必要でした。このため、海外のパレスチナ人は、イスラエル支配地域宛の郵便物を、いったん“中立国”のキプロスに送り、そこから宛先地まで転送してもらうという方法を取っています。このカバーも、おそらく、そのような事情でイエメンのサナアからキプロスまで送られたものでしょう。

 現在、都内の某大学で“中東郵便学”と題するパートタイムの授業をやっているので、ナセルとその時代に関する切手や郵便物は少なからず集めています。前々から、それをまとめたコレクションを展覧会に出品してみようと考えているのですが、2006年のスエズ運河国有化50年、2007年の第3次中東戦争40年のタイミングには間に合わいませんでした。今年は、ナセル生誕90年とエジプト・シリアの国家連合50年ということでタイミング的にはばっちりなのですが・・・。

 <おしらせ>
 1月26日(土)の14:00から、東京・水道橋の日本大学三崎町キャンパス法学部6号館1階 第6会議室(6号館入口を入ってすぐ左手の会議室)にて開催のメディア史研究会にて、「タイ・前期ピブーン政権とポスタル・メディア」と題してお話をします。内容は、拙著『タイ三都周郵記』の内容をベースに、日本との関係が濃密だった第2次大戦中のタイについて、切手や郵便物から読み解いてみるというものです。

 メディア史研究会はまったく自由な研究会で、会員以外の方でも気楽にご参加いただけますので(もちろん、無料)、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。
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 建設の風景:スノーウィー・マウンテンズ計画
2008-01-14 Mon 15:52
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の1月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」では、今月は、この切手を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 スノーウィー・マウンテン

 これは、1999年にオーストラリアが発行したスノーウィー・マウンテンズ計画50周年の記念切手です。雑誌では、スペースの関係もあってトンネル掘削作業の様子が取り上げられた左上の1枚のみのご紹介でしたが、今日は、完成したダムの風景や移民労働者のための学校の風景などの切手もまとめて、4種田型でお見せしましょう。

 オーストラリアのニューサウスウェールズ州南東部スノーウィー・マウンテンズ(オーストラリア・アルプス)を源流とするスノーウィー川の進路を変えてマランビジー川に合流させ、灌漑に利用しようというプランは、 1881年、クーマの測量技師フィリップ・アダムズが、ニューサウスウェールズ王立調査委員会に提出したのが最初といわれています。ただし、このときは資金不足で着工にはいたりませんでした。

 その後、キャンベラがオーストラリア連邦の首都となると、キャンベラに水と電力を供給するため、お蔵入りしていたスノーウィー川開発計画が再検討されるようになり、1926年、シドニーの都市汚水・排水局のT.W.キールが、シドニーまで続くトンネルや水路の建設によって、スノーウィー川の水をルート上の各地に供給するという案を立てています。

 その後、灌漑と発電を併せたスノーウィー側の開発計画は、さまざまなかたちで検討され、1946年までに、利害関係のあるニューサウスウェールズ州、ヴィクトリア州と連邦政府の間で大まかな合意が得られ、1949年に労働党首相チフリーのイニシアティヴにより、スノーウィー・マウンテンズ水力発電事業局(本部はクーマ)によって工事がスタートしました。実行に移された計画は、スノーウィー川の上流にダムを作って川の水を貯め、それを山地の地下に建設したトンネルを通して、西側の乾燥地域を流れるマーレー川とその支流に流し込み、発電と灌漑用水の供給を実現しようという壮大なものです。

 さて、1949年に始まった工事では、1955年には最初の発電所が完成します。ついで、1956年から1958年にかけてのユーカンビーン・ダムの工事によって、1840年代に建設されたジンダバインの町は、人造湖のレイク・ジンダバインの湖底に沈み、新しい町が1964年に建設されました。なお、現在のジンダバインの町は、スキーや水上スポーツの盛んなリゾート地となっています。計画全体の完成は1972年のことで、最終的には、合計160キロのトンネルによってつなげられた17の貯水ダムと7つの発電所が建設され、建設費は総額9億ドルに上りました。

 20年以上もかけて行われた壮大な工事を担った労働力の主力は、ヨーロッパから新たにやってきた移民たちでした。右上の切手には、そうした移民たちへの英語教育の場面が取り上げられており、オーストラリア政府が彼らの功績に感謝の意を示していることが分かります。

 なお、切手では女性教師が黒板に英語で曜日を書いている場面が取り上げられていますが、これをみる限り、僕が中学校のときに受けた英語の授業とあんまり変わらないような感じです。それにもかかわらず、移民の人たちは(おそらく)英語が出来るようになって、僕はそうならなかったというのは、やっぱり、授業を受ける側の真剣さの度合いが違うことによるのでしょうね。きっと。

 <おしらせ>
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 国民党のルーツ
2008-01-13 Sun 12:41
 昨日(12日)、投票のあった台湾の立法院選挙では野党の国民党が圧勝しました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 国民党70年

 これは、1964年に台湾で発行された中国国民党(以下、国民党)70周年の記念切手で、“創立者”の孫文と彼の掲げる三民主義のスローガン“民族・民権・民生”が取り上げられています。

 この切手を発行したロジックは、1894年11月24日、ハワイのホノルルで孫によって創設された反清朝の革命組織、興中会を現在の国民党のルーツとみなして、そこから起算して70周年ということなのですが、歴史的事実を考えると、これはいささか牽強付会なように思います。

 1895年と1900年の2回にわたって反清朝の武装蜂起を起こしたものの、いずれもあっけなく失敗した興中会は、1905年8月20日、同じく非合法の革命団体であった光復会、華興会などと合併して、中国同盟会(以下、同盟会)になります。軍事的に無能な孫が総理を務めていた同盟会は、清朝を打倒すべく何度も各地で蜂起を行ったがことごとく失敗。1911年の武昌蜂起(辛亥革命の発端となった武装蜂起)でも、多くの同盟会のメンバーが参加していたものの、彼らが指導的な役割を果たさなかったことが、蜂起成功の最大の要因ではなかったかと思います。

 その後、1912年に中華民国が発足すると、ともかくも同盟会のメンバー3人が閣僚(9人)に収まりますが、内部は路線対立で四分五裂の状態。このため、1912年8月25日、年末に予定されていた国会選挙に備えて、宋教仁を中心に、同盟会を母体として、統一共和党、国民共進会、国民公党、共和実進会、全国聯合進行会を糾合した“国民党”が結成されます。もっとも、この“国民党”は、国会で多数派を獲得するための寄り合い所帯で、宋のカリスマ性に依拠した集票機関という色彩の強いものでした。

 ちなみに、宋は、議院内閣制に基づいた法による統治を行い、大総統の権限を制限することが、中国を安定させるとの思想の持ち主で、エリート意識丸出しの独裁体制論を掲げる孫文とは激しく対立しています。ちなみに、このときの国民党では、孫は形式的に理事長に祭り上げられていますが、党の実権は理事長代理の宋が握っていました。

 さて、1912年12月から1913年1月にかけての選挙では、国民党は大勝しますが、この結果に脅威を感じた袁世凱は、先手を打ち、刺客を放って宋を暗殺します。歴史にifは禁物ですが、宋が暗殺されずに革命中国の主役であり続け、かの国に議院内閣制がきちんと定着していたら、その後の中国はかなりまっとうな国になっていたんじゃないかと思います。

 独裁傾向を強める袁に対しては、1913年7月から9月にかけて、国民党の一部が参加して第二革命をおこしますが、これは失敗。同年11月、国民党議員の資格は剥奪され、国民党は解散においこまれています。興中会以来の系譜は、ここでいったん途絶えることになります。

 その後、第二革命に失敗して日本に亡命していた孫文は、1914年に非合法の革命組織として中華革命党を組織します。これが、1919年に改組されて誕生したのが現在の国民党の直接的なルーツです。したがって、宋教仁の国民党と、孫文が創立した現在の国民党はまったく別の組織とみるべきで、さらにそれ以前の興中会にまで遡るのは、ちょっと強引な気がするのですが、彼らはそうは考えていないようです。僕なんかの感覚からすると、“経歴詐称”のような気もするんですがね。

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 大統領になりそこなった男たち:マッカーサー
2008-01-12 Sat 11:54
 中央公論2月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は、ダグラス・マッカーサーを取り上げました。

 マッカーサー

 これは、1971年1月26日に発行されたマッカーサーの切手です。1月26日はマッカーサーの誕生日ですが、彼の生年は1880年、没年は1964年なので、1971年というのはちょっと半端な年回りになります。

 さて、マッカーサーといえば、日本占領の最高司令官として有名ですが、3回にわたって大統領選挙の脇役として登場したことは、日本では、案外知られていないようです。

 マッカーサーが大統領候補になりかけた最初は、太平洋戦争中の1944年。当時、リベラルなルーズベルト政権に不満を持っていた共和党右派の議員たちの間には、フィリピン奪還を目指して奮闘する“リンカーン以来の英雄”マッカーサーを担ぎ出す動きがあり、マッカーサー本人もそれなりに食指を動かしていました。しかし、ワシントンでの十分な根回しが行われないまま、マッカーサー出馬のうわさが先行したため、マッカーサー本人が戦場から出馬を否定せざるを得なくなりました。

 つづく1948年の選挙では、民主党の現職トルーマン(ルーズベルトの死により、1945年に副大統領から昇格)への対抗馬として、やはり共和党の保守派の中にはマッカーサーを推す声がありました。当時のマッカーサーは日本占領の総司令官であり、彼自身、占領の実績を元に真剣に大統領選挙への出馬を検討しています。

 “お膝元”の日本でもマッカーサー人気は絶頂に達しており、日本国内では「マッカーサー元帥を大統領に!」とする“国民運動”さえ行われています。ただし、こうした動きに対して、アメリカ人の中には、「日本人はマッカーサーを追い出したかったのか?」と“誤解”する者も少なくなかったようですが…。

 しかし、1930年代にアメリカを離れて以来、フィリピンと日本を拠点にしていたマッカーサーが“落下傘候補”のように本国で支持を得られるはずもなく、結局、緒戦のウィスコンシン州の予備選で彼が獲得した代議員は27名中8名。6月の共和党全国大会では第1回の投票1094票のうち11票という惨憺たる結果で、マッカーサーは選挙戦から撤退しました。ちなみに、占領下にあった当時の日本では、マッカーサーの選挙に関する報道は、検閲により、マッカーサーに有利な内容のものしか許されなかったため、共和党全国大会の結果(さすがに、これはGHQも隠すわけにいかなかったようです)を知った日本人は、マッカーサーの予想外の敗退に驚いたようです。

 こうした経緯もあって、1951年、トルーマンに解任されて帰国した彼は、日本占領の成果と太平洋戦争ならびに朝鮮戦争での戦果を自画自賛しながら全米各地を遊説して回り、1952年の大統領選挙で共和党の候補指名を得ようとしていました。しかし、すでに70歳を超える高齢であったことに加え、中国・北朝鮮との全面戦争も辞さずという過去の言動が明らかになるにつれ、軍人マッカーサーを政治家として支持しようとする声は急速にしぼんでいくことになります。

 結局、1952年の選挙で共和党から出馬して当選を果たしたのは、マッカーサーが参謀総長だった当時の副官で、欧州戦線での英雄、ドワイト・アイゼンハワーでした。

 なお、マッカーサーの切手としては、今回ご紹介したアメリカ発行のものの以前に、1948年にフィリピンで発行されたものがあります。その試刷については、以前の記事でご紹介したこともありますので、よろしかったら、比べてご覧ください。
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 台湾島と中国政府
2008-01-11 Fri 12:08
 学研の子会社・学研トイズが、中国で生産した音声ガイド機能付き地球儀“スマートグローブ”で、中国政府の圧力により、地球儀上の台湾を“台湾島”と表記し、音声では“中華人民共和国”と紹介していることが明らかになり、問題の地球儀は販売中止となりました。

 というわけで、今日は“台湾島”を取り上げたこんな切手をもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 台湾光復

 これは、1947年10月25日、中国・蒋介石政権が、1945年10月25日に日本の降伏式典が行われてから2周年になることを記念して発行した“台湾光復”の記念切手です。

 日本の敗戦直後、台湾では国民政府(国府)軍の進駐を歓呼して迎えました。しかし、長年の戦乱で疲弊し、さらに共産党との内戦に突入しつつあった国府にとって、資源と資産の豊かな台湾は“金の卵を産む鶏”でしかなく、台湾人の期待が失望へと変わるのにそう時間はかかりませんでした。

 すなわち、旧日本資産の接収に際しての横領や縁故による無能・無規律な人物の官吏への登用、賄賂の公然たる要求など、新たに台湾に渡ってきた“外省人”たちの腐敗はすさまじく、“発光復財(光復成金)”が続出。台湾経済は急速に悪化し、はやくも1946年には、日本時代に「一年の豊作で3年食べられる」といわれていた台湾でコメ不足が生じたり、日本時代の1920年代以来途絶えていたコレラが流行したりしています。

 このため、戦前から台湾にいた“本省人”たちは、「狗去猪来(犬が去って豚が来た)」と称し、「犬なら吠えても人間を守ることはできるが、豚はただ食って寝るだけだ」と説明しました。いうまでもなく、日本の植民地支配が、厳しいものであった反面、法と秩序は維持されていたのに対して、外省人たちは汚職と腐敗にしか興味がないことを含意した、痛烈な批判です。

 こうした状況の下で、1947年2月27日、台北市でヤミタバコを販売していた老婆を国民党政府官憲が発見し、暴行を加えた上、商品と所持金を没収するという事件が起こると、かねてから国民党の台湾支配に不満を持っていた市民の怒りが爆発。自然発生的な暴動が台湾全土を覆うことになりました。いわゆる228事件です。

 これに対して、国府は大陸から第21師団を派遣して、本省人に対する大規模な弾圧を開始。裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、約3万人が犠牲になったといわれています。

 事件後、国府は台湾支配を強化するために台湾省を設置。さらに、1949年には国共内戦に敗れて台湾に移転し、事件から40年後の1987年に戒厳令が解除されるまで恐怖政治を続けることになります。

 今回ご紹介の切手は、こうした経緯を経て、1947年10月に発行されたものですが、台湾島に突き刺さる晴天白日旗というデザインは、国府による台湾制圧を誇示する以外のなにものでもありません。ちなみに、当時の台湾では通貨が大陸と違っていたため、大陸とは別の切手が使用されていましたが、“台湾光復”の記念切手は発行されていません。このことからも、“台湾光復”を祝っているのは大陸と外省人だけであり、台湾にもともと住んでいた本省人たちにとっては、中国中央政府による台湾支配なんて、決して喜ぶべきものではなかったことがうかがえます。

 ちなみに、かつて中国共産党は228事件を国民党政府攻撃の格好の材料として、さかんに“国民党政府に対する台湾人民の英雄的抵抗”を賞賛していましたが、彼らがチベットや東トルキスタンなどで同じようなことを現在なおやっていることが国際的に問題視されるようになると、いつの間にか、228事件についても、積極的な発言は控えるようになっています。まぁ、中国の中央政府というものは、体制やイデオロギーが異なっていても、その本質は大して変わらないということなんでしょうね。
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 9年ぶりの中東歴訪
2008-01-10 Thu 11:42
 アメリカのブッシュ大統領が9日、最初の訪問国イスラエルに到着しました。アメリカ大統領のイスラエル訪問は1998年12月のクリントン前大統領以来9年ぶりだそうです。というわけで、今日はこんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ワイ合意

 これは、1998年10月23日のワイ合意調印を記念してパレスチナ自治政府が発行した切手で、合意文書に署名するアラファトとクリントンの二人が取り上げられています。

 1993年のオスロ合意の後、中東和平プロセスは順調に進んでいくかに見えましたが、1995年11月、和平プロセスを推進してきたイスラエルのラビン首相がユダヤの宗教系右派の青年により暗殺されると、イスラエルとパレスチナの関係は一転して悪化の一途をたどっていきます。

 ラビンの暗殺後、イスラエルの後継首相となったシモン・ペレス(ラビン政権時代の外相)は、ラビンの路線を継承して中東和平プロセスを進展させようとしていたが、1996年4月の首相公選で、対パレスチナ強硬派のリクード連合を基盤とするベンヤミン・ネタニヤフに敗退しました。

 ネタニヤフ政権は、対外的にはパレスチナ和平を進展すると主張しながら、実際には、パレスチナ人自治区域でのイスラエルの権利擁護に熱心でした。このため、和平プロセスの停滞を危惧したアメリカのクリントン政権は、イスラエルとパレスチナ自治政府との関係改善に乗り出し、1997年1月、ネタニヤフに対してヨルダン側請願のヘブロンからのイスラエル軍の撤退を認めさせています。

 イスラエル軍のヘブロンからの撤退を受けて、パレスチナ自治政府のアラファトがエルサレムをパレスチナとイスラエルの共同首都とすることを提案すると、ネタニヤフはこれを即座に拒否。エルサレムがイスラエルの首都であることを示すため、同年3月からユダヤ人の大規模住宅地の建設を開始しました。

 当然のことながら、こうしたネタニヤフの強硬姿勢はパレスチナ人の反発を招き、ハマスなどによる自爆テロ(彼らの呼称は“殉教作戦”)が頻発し、和平プロセスは停滞します。

 これに対してクリントンは、和平プロセスを進展させるため、ネタニヤフとアラファトの両首脳を強引に説得し、1998年10月、ヨルダン川西岸からのイスラエル軍の追加撤兵と、パレスチナ民族評議会憲章からのイスラエル破壊条項の削除を定めたワイ合意を実現させました。さらに、11月にワシントンで開催されたパレスチナ支援国会議では、和平プロセスの進展に経済的な裏づけを与えるため、アメリカは5年間で9億ドルの支援をパレスチナに対して約束しています。

 前回のアメリカ大統領の中東歴訪は、こうした状況の下で行われたもので、今回ご紹介の切手も、パレスチナ側が、一連のアメリカの動きを歓迎する意味を込めて、クリントンの帰国後に発行したものといってよいでしょう。

 しかし、合意文書の調印に向けてアメリカのメリーランド州でクリントン、ネタニヤフ、アラファトが3者会談を行っている間、エルサレムのバスセンターではハマス活動家による自爆テロが発生するなど、パレスチナではイスラエルとの妥協を頑なに拒むハマスの勢力が強かったことにくわえ、ネタニヤフ政権じたいも後にワイ合意を反故にしてしまうなど、このときのクリントンの和平努力は結果として実を結ぶことはありませんでした。

 その後も、クリントン政権は、1999年9月のシャルム・シェイク合意(2000年9月までにパレスチナの最終地位合意を達成することを目標に、ワイ合意の実施スケジュールを定めた)、2007年7月のキャンプ・デーヴィッド交渉(クリントン政権下での最後の調停)などをまとめたものの、結果として、中東和平を進展させることなく不調に終わっています。

 さて、今回、中東和平への個人的な関与を避けてきたブッシュ大統領が同地域訪問に踏み切ったのは、任期1年を残して大統領としての“歴史的評価”を意識した結果との見方が有力ですが、クリントン時代以上に、成算は低いでしょうねぇ。すくなくとも、パレスチナを含むアラブ諸国が、イラク戦争を発動した張本人を“平和の使徒”であるかのようなかたちで記念切手に登場させる可能性は、限りなくゼロに近いように思われます。
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 OAPEC40年
2008-01-09 Wed 13:42
 クウェート・リビア・サウジアラビアの3国が、1968年1月9日に石油輸出国機構(OPEC)とは別組織として、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成してから、今日でちょうど40年になりました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 サウジ油田

 これは、1960年に発行されたサウジアラビアの通常切手(200キルシュ)で、ブッカのガスオイル分離プラントが描かれています。サウジアラビアとしては、石油産業を題材とした最初の切手で、その後、デザインはそのままに、右上の国王の名前の部分を変えた切手も発行されています。

 20世紀初頭の段階では、石油といえばカスピ海岸やアメリカ大陸が一大産地でした。ところが、1932年にペルシャ湾岸のバハレーンで石油が発見されると、隣接するサウジアラビアでも油田発見の可能性があると睨んだアメリカ石油メジャーのスタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア(SOCAL、現・シェブロン)は、早くも翌1933年、油田の開発権を国王(アブドゥルアズィーズ)から取得しています。

 SOCALはテキサス石油会社(TEXACO、現・シェブロン)と共同で、1938年にペルシャ湾岸のダンマームやホバルから約10~15km内陸のダハラーン(ダーラン)で石油を発見します。さらに、1940年にブカイク(アブー・カイク)油田が、1948年にはガワール油田(面積4360平方kmに及ぶ世界最大級の油田)が発見されたほか、サファニーヤやクウェートとの中立地帯、ペルシャ湾の海底などで油田の発見が続きました。

 こうして、一大産油国となったサウジアラビアでは、エクソンやモービルなど他のメジャーも加わってアラブ・アメリカン・カンパニー(ARAMCO、のちに国有化され現在はサウジ・アラムコ)が設立され、本格的な石油の生産と輸出が開始されます。

 当時の石油メジャーは各社で販売シェアを固定し、国際カルテルを結んでいたため、原油価格は低水準で安定していました。このため、産油国側への利益配分はごくわずかで、第2次大戦後、世界的にナショナリズムが高揚する中で、産油国側はこうした体制に不満を持っていました。そして、1959年2月、石油を寡占していたメジャー側が、産油国の了承なしに原油公示価格の引き下げを発表すると、これに強い不満を抱いた産油国はカイロでアラブ連盟第1回アラブ石油会議を開催。国際石油資本に対して、原油価格改訂時の事前通告を要求します。しかし、これが受け入れられなかったため、1960年9月14日、中東を中心とした産油国はイラクの呼びかけに応じて、OPECを設立しました。

 今回ご紹介の切手も、ちょうどこの時期に発行されたもので、サウジアラビア政府による資源ナショナリズムが切手にも反映された一例と見ることも可能でしょう。

 OAPECは、さらにそこからアラブ諸国のみの別組織として1968年に発足したものです。これは、アラブ諸国間では“アラブの同胞”という意識もあり、非アラブ諸国との外交とアラブ諸国との外交を同列に扱うと、いろいろと不都合もあったからではないかと考えられます。

 さて、昨年から続く原油の値上がりについては、第3次オイルショックという言い方をする人もあるようですが、“オイル・ショック”という言い方はあくまでも我々消費国の見方であって、産油国からすると、現状は好景気をもたらす“オイル・ブーム”ということになります。昨今のアブダビ投資庁の鼻息の荒さなんか見てると、たしかに、そういう裏表の関係を実感できますな。

 もっとも、現在の原油高の要因は、産油国側の事情というよりも、中国やインドによる急激な需要の拡大と、サブプライムローン問題などでアメリカの金融市場から石油市場へ投機的資金が流れていることによるものということらしいですから、産油国に増産してもらえば(彼らが簡単に応じてくれることはないでしょうが)即解決というほど、話は単純ではなさそうです。まぁ、我々としては、せいぜい、省エネに励んで自衛するしか仕方ないんでしょうねぇ。
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 勝手にあてにされても・・・
2008-01-08 Tue 12:32
 核放棄と改革・開放を条件に北朝鮮への経済支援を提示し、国際協力基金設立(400億ドル規模)の検討を進めている韓国の李明博次期大統領ですが、この国際協力基金構想に関連して「日朝関係改善による“賠償資金”が約100億ドル(約1.1兆円)になる」と推計していることが明らかになりました。というわけで、こんな切手をもってきてみました。

 韓国・スタジアム

 これは、2000年に発行された“2002FIFAワールドカップ”(日韓共催の大会です)の記念切手で、大会のために建設された蔚山と水原のサッカースタジアムが取り上げられています。

 2002年のサッカー・ワールドカップを日韓共催で行うことは1996年に決まりましたが、その後、1997年後半、韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の大不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入ります。その後、1998年に発足した金大中政権の下、韓国経済は、IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって急速に回復します。(ただし、大量の失業者が出ましたが…)

 ところが、この経済回復は、もともと対米輸出への依存度が高いという韓国経済の性格をますますが強調することになったため、2001年のアメリカ同時多発テロ事件でアメリカ経済が失速すると大打撃を受けることになります。このため、韓国経済は再び失速し、スタジアムの建設も滞るようになってしまいました

 結局、このときは大会の開催まで残り1年をきっており、いまさら、日韓共催という枠組みを壊すわけにも行かないという事情から、日本での単独開催への変更は行わず、日本政府が韓国のスタジアム建設費用として輸銀の30億ドル融資を行うことで、なんとか、日韓共催にこぎつけています。ちなみに、このときの日本側が融資を行った大義名分は、「ワールドカップの開催は韓国経済を回復させ、結果的に東アジア全体に好影響を及ぼす」というものです。

 今回ご紹介の切手に取り上げられているスタジアムも、こうした経緯で完成したものですが、2002年のワールドカップが仮に韓国単独開催の予定で進められていたら、延期や中止の可能性も少なからずあったでしょう。その意味では、おそらく、韓国側に「いざとなったら助けてくれるのでは・・・」と日本をあてにする面もあったのではないかと思います。

 今回の国際協力基金構想にしても、次期大統領周辺は勝手に日本の“賠償資金”をあてにしているようですが、「なんだかなぁ・・・」という気がしないでもありません。もちろん、日朝関係が改善されれば、日本も北朝鮮に対してなにがしかの援助(“賠償金”という名目はありえないでしょう)をせざるを得ないことはわかっていますが、その金額まで勝手に試算されるとねぇ・・・。もっとも、過去の日本外交を見ていると、こうした目論見がえてして“取らぬ狸の皮算用”で終わらないことが多いのも事実なわけで、なんとも頭の痛い話です。
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 “きょうの切手”スタート
2008-01-07 Mon 12:18
 今日(1月7日)から、『中日新聞』で僕の新連載“きょうの切手”がスタートします。今日は、その記念すべき第1回目に取り上げた切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 1938年用年賀

 これは、1937年末に発行された1938年(今からちょうど70年前ですな)用の年賀切手で、注連飾りが描かれています。

 さて、正月の注連飾りが飾られている期間を“松の内”といいますが、具体的にどの時点で注連飾りを外す(=松が取れる)のかということについては、時代や地域によってもバラつきがあります。現在では、7日の朝に七草粥を食べた後で外すというのが一般的とされていますが、江戸時代後期から明治時代にかけては、6日の夕方(つまり、7日になる前)に外すというのが一般的だったようで、現在でも当時の習慣を守っているケースがあるそうです。

 まぁ、今年の場合は、4日が金曜日でしたので、4日は正月休みを続けて週明けの今日から仕事始めというオフィスも多いでしょうから、注連飾りを外すのが今年最初の仕事という方もいらっしゃったかもしれませんね。この切手も、そんなことを考えながら選んでみました。

 さて、“きょうの切手”は、毎日1点ずつ、その日にちなんだ切手をご紹介しながら、それに140字程度の短い文章をつけるというコラムで、週5回、毎週日~木曜日の『中日新聞』朝刊の文化面に掲載されるほか、週1回、木曜日の『東京新聞』夕刊にも、当日の『中日新聞』に掲載のものが転載されることになっています。

 全国紙ではないので、実際の紙面をご覧いただける方が限られているのは残念なのですが(かくいう僕じしんも首都圏の住民なので、掲載紙は後でまとめて送ってもらうことになります)、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。
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 出初式
2008-01-06 Sun 12:49
 今日(1月6日)は消防の出初式の日です。というわけで、ストレートにこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 消防100年

 これは、1980年5月31日に発行された“消防100年”の記念切手で、三代広重 による三枚綴りの「東京名所八代洲町警視庁火消でぞめはしごのりの図」のうち、左の一枚がトリミングして取り上げられています。

 わが国の近代消防組織は、1880年6月1日、内務省警視局に消防本部が設置されたのが最初です。ただし、100周年の1980年は、記念日の6月1日が日曜日だったので、切手は前日の5月31日の発行になりました。

 ちょっと専門的な話になるのですが、今回の切手はグラビア3色(赤味紫、うす緑、こい緑味青)と凹版1色(灰黒)の掛け合わせと発表されており、カタログにもそのように記載されていますが、じつは通常の凹版ではなく、局式凹版ということはあまり知られていないようです。

 局式凹版は日本の印刷局が開発したことからその名がつけられており、戦前の1940年2月に発行された“紀元2600年”の切手で最初に用いられました。

 凹版の細かい画線を手工的な彫刻によって行うのではなく、写真的に画線を形成し、腐食によって凹画線を得た版を用いてグラビア印刷機で凹版印刷を行うというもので、単純化していえば、スクリーンを用いないグラビア印刷というべきものです。通常の凹版よりもツヤがあり、インコの盛り上がりが良く、細線に線切れがないなどの特徴があります。また、グラビア輪転機のみでグラビアと凹版の組み合わせ切手を印刷することができ、刷り合わせの精度もきわめて高いなどの利点があります。

 今回の切手では、原画の細かい線を再現するために局式凹版が用いられたわけですが、それでも、切手の印面が小さいため、印刷した際に画線がつぶれて見えるのを防ぐため、建物の屋根やひさし、窓の格子、纏の細かい模様やその下の馬簾などの線はかなり省略されています。その一方で、梯子に乗った人物の鉢巻が頭から外れて建物の屋根のあたりに落ちているところなど、画面構成上のポイントとなる部分については、局式凹版ならではの細線を用いて忠実に再現されています。

 また、切手の左上方の短冊形の中ですが、オリジナルの錦絵では“東京裁判所”という文字がかなりハッキリと見えます。ただ、“裁判所”の文字が目立ちすぎると、今回の切手を見た人が“消防百年”ではなく裁判所関係の切手と誤解する恐れがあるということから、意図的に、この部分の文字は読みにくくしてあります。

 さて、2001年から毎年春に刊行している記念切手の読む事典、<解説・戦後記念切手>シリーズですが、現在、4月頃に第6巻を刊行できるよう、鋭意作業中です。今回は、1979年の近代美術シリーズから昭和末までを対象とする予定で、この切手についてのより詳しい解説も当然含まれています。

 いずれ、タイトルや発売日など詳細が決まりましたら、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。
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 モーリタニアの地図
2008-01-05 Sat 11:52
 今日(5日)スタートの予定だったダカール・ラリーは、コース途中のモーリタニアの治安が悪化したことにくわえ、テロ組織からと見られる脅迫があったため、開幕前日の4日になって、急遽、レース全体が中止になりました。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

モーリタニア地図切手

 これは、1988年にモーリタニアで発行された国勢調査の記念切手で、各州の名前を書き込んだモーリタニア地図が取り上げられています。

 独立以前のモーリタニアは、セネガルなどとともにフランス領西アフリカ(現在の国名でいうと、モーリタニア、セネガル、マリ共和国、ギニア、コートジボワール、ニジェール、ブルキナファソ、ベナンに相当する地域をカバーしていました)を構成する“民政区”でしたが、この地域のフランス支配の拠点はサンルイ(現ダカール)にあり、現在のモーリタニア地域は、どちらかというと軽んじられていました。

 ただし、中世のサハラ越え貿易の時代には、シンゲッティ(切手の地図で中央北よりAdrar:アドラール州にあります)、ウワダン(同じくアドラール州にあります)、ウワラタ(切手の地図で中央東よりTagant:タガン州にあります)、ティシット(同じくタガン州にあります)などが隊商交易の拠点として繁栄しており、その古い町並みはユネスコの世界遺産にも登録されているほどです。

 昨年(2007年)のダカール・ラリーのコースは、かつての交易ルートをなぞってアドラール州を南下して州都のアタールを通過した後、東進してタガン州のティシットを通り、西南方向に進んでマリ経由でセネガルのダカールを目指すというルートでしたが、2006年のコースは、アタールの後、いったん西進して首都のヌアクショット(切手の地図ではNouakuchott)を経由してから東のティシットを回って西南方向、セネガルを目指すというルートでした。ちなみに、今年のレースが予定通り行われていれば、アタールの後、コースはほぼまっすぐ南西方向に進み、セネガルに入るルートとなっていました。ご参考までに、ウィキペディアに出ていた去年のルートの地図を貼っておきましょう。

昨年のパリダカ地図


 こうした世界遺産のオアシス都市と比べると、首都のヌアクショットは歴史のない街です。

 もともと、ヌアクショットは大西洋岸の漁港にすぎなかったのですが、1950年代後半になって、フランス領西アフリカの解体とモーリタニアの分離独立が現実味を帯びてきたことで、突如、“首都”に指定されます。こうしたことから、1990年代までは市内に信号機は一箇所しかなく、伝統的なテント・スタイルの宿屋も営業しているなど、一国の首都としてはのんびりとした田舎町の雰囲気が色濃く残っていました。

 ところが、インフラが整備され、都市化が進んだことで、ヌアクショットへは周辺諸国からも人口の流入が進み、1969年に2万人だった人口は2000年には50万人を突破。さらに、2004年末、首都のヌアクショット沖合で石油と天然ガスの埋蔵が確認されたことで、世界各国のビジネスマンがこの地に殺到し、都市化の流れにますます拍車がかかるという状況が続いています。ダカール・ラリーを中止に追い込んだ“治安の悪化”もまた、その副作用というべきものなのでしょう。

 まぁ、ラリーが中止になってしまった代わりといっては何ですが、今夜は、近所のスーパーで買ってきた“モーリタニア産”のタコでもつまみながら、遠いかの地に思いをはせてみることにしますかね。
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 ビルマ独立60年
2008-01-04 Fri 14:19
 1948年1月4日にビルマ(ミャンマー)がイギリスから独立して、今日でちょうど60年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ビルマ・独立準備政府

 これは、ビルマ独立直後の1948年3月24日、アメリカ宛に差し出されたカバーで、“過渡政府”加刷の1.5アンナ切手が13枚貼られています。

 第2次大戦中の1943年8月1日、ビルマではバーモを中心とする親日政府が独立を宣言しましたが、1945年、日本軍の撤退とともに、イギリスはビルマを再占領して軍政を施行。さらに同年10月には、インドのシムラに避難していたイギリス・ビルマ政庁が復帰し、イギリスによる植民地支配が復活します。

 このため、アウンサンを総裁とするパサパラ(反ファシスト人民自由連盟、AFPFL)は、ビルマの完全独立達成のため、イギリス側と交渉を開始。1947年1月、ロンドンでのアウンサン=アトリー協定の締結にこぎつけ、イギリス政府にビルマ独立を認めさせました。

 ところで、国内では、独立“ビルマ”の範囲をめぐって、さまざまな対立がありました。すなわち、英領ビルマは、大きく分けて、“辺境地区(高原・山岳地帯を中心とした地域で、英領ビルマ政庁による間接統治がなされていた行政区域)”と“管区ビルマ(平野部を中心とした地域で、英領ビルマ政庁が直接的に統治責任を負った行政区域)”の2つの部分から成り立っていましたが、このうち辺境地区のカレン族などは、アウンサンのビルマ行政参事会代表団とは別にロンドンに代表団を派遣し、カレン族の独立国家樹立を目指していました。その背景には、長年の民族的対立に加え、ビルマ族が、イギリス支配下で比較的優遇されていたカレン族を潜在的なスパイと見なして、彼らを弾圧したという事情もありました。

 このため、ロンドンから帰国したアウン・サンは、1947年2月、シャン州の州都タウンジーの東方にあるピンロン(パンロン)で、辺境地域(管区ビルマ外)の少数民族の代表らと会談。独立後、少数民族に自治権を与えることを約束し、辺境地域と管区ビルマを合わせた“英領ビルマ”の全域を、連邦制国家として独立させるとのパンロン協定の調印に成功します。

 しかし、この協定に調印した少数民族の代表は、シャン、カチン、チンの3民族に限られており、カヤー、カレン、モン、アラカンからは、カヤーとカレンから数名のオブザーバーしか認められていませんでした。このため、“連邦制”に反対するカレンは、1947年4月の制憲議会選挙をボイコットしたほか、連邦成立後も、独立闘争を展開することになりました。

 その後、1947年6月の制憲議会、10月のウー・ヌ=アトリー協定、12月のイギリス両院でのビルマ独立法案可決を経て、1948年1月4日、ビルマは、イギリス国王を国家元首とするコモンウェルス(英連邦)内の自治領としてではなく、独自の国家元首(大統領)を有する共和制国家として完全独立を達成します。

 今回ご紹介のカバーに貼られている切手は、独立直前の1947年10月に発行された“過渡政府”時代のもので、英領時代の切手に“過渡政府”を意味するビルマ語が加刷されたものです。

 さて、軍事政権による人権抑圧が続いている現在のビルマに関しては、昨年、僧侶が主導する大規模なデモが発生し、現地を取材していた日本人カメラマンが殉職したことは記憶に新しいところですし、年明けからは、言論統制の一環として、衛星テレビの視聴料金をこれまでの年間6000チャット(実勢レートで約525円)から100万チャット(同約9万円)に大幅に引き上げられるというニュースも入ってくるなど、目が離せない状況が続いています。1冊の本としてまとめられるかどうかは別として、とりあえず、いまのうちにビルマ史のポイントを抑えたマテリアルは整理しておくと、後々役に立つことがあるかもしれないと考えている内藤でした。
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 ねずみの餅つき
2008-01-03 Thu 11:20
 まだ3が日のうちですから、お正月ネタで行きましょう。今日は今年の干支、ネズミの切手の中から、こんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ねずみの浄土:もてなし

 これは、“昔ばなしシリーズの第7集として、1975年4月15日に発行されたのは「ねずみの浄土」(一般には「おむすびころりん」の名で知られている)のうち、ネズミに餅(一般には握り飯のイメージが強いのですが)を与えた爺さんが、ねずみの歓待を受けている場面を取り上げた1枚です。爺さんにお酌をする振袖姿のネズミや餅つきのようすなどが、お正月の雰囲気に似合いますから、今年の年賀状にこの切手の画像を使ったという収集家の方も多かったのではないかと思います。

 「童話」を題材とした特殊切手のシリーズを発行しようというプランが最初に浮上したのは、1964年10月頃、“お祭シリーズ” に続くシリーズ企画が検討された際のことで、このとき、郵政省内でシリーズ切手の企画候補として上げられたのは、「芸能」、「昆虫」、「果物」、「魚」、「(第2次)文化人」、「日本の風俗」、「童話」、「国宝」、「文化財」、「乗物」、「美術工芸」などでした。このうち、「童話」については、「昆虫」、「果物」、「魚」、「国宝」、「文化財」とともに、具体的な資料も作成され、省内での検討対象となりましたが、最終的に、シリーズ切手の題材として採用されたのは“魚”で、1966年1月から“魚介シリーズ” の発行が開始されました。

 その後、童話切手発行のプランは何度となく浮上しては消えていくのですが、1970年9月、群馬郵趣連盟の切手展開会式に参列した地元選出の衆議院議員で郵政政務次官の小渕恵三(後の首相)が、来賓挨拶の中で、古典芸能シリーズの次には“童話シリーズ”が話題に上っていることを明らかにしています。

 検討中の企画が政務次官の口から公表されてしまったことに対して、郵政省の事務方は相当困惑したようですが、結局、昭和48年度の特殊切手発行計画を策定する段階で“昔ばなしシリーズ”の発行が正式に決定されることになったというわけです。

 当初のプランでは、第1集の「花さかじいさん」を1973年9月頃に発行するのを皮切りに、第2集の「つる女房」を1974年1~2月頃に発行。その後、第3集の「こぶとりじいさん」と第4集の「一寸法師」を昭和49年度中に発行し、昭和50年度に第5集の「ねずみの浄土」と第6集の「かぐや姫」を発行してシリーズの完結とするということになっていたようですが、実際には、「浦島太郎」が追加されているほか、発行の順序も異なっています。

 なお、「昔ばなし」シリーズの詳細については、昨年刊行の拙著『沖縄・高松塚の時代』でまとめていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。
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 年賀状の切手
2008-01-02 Wed 18:24
 例年のことですが、“郵便学者”という看板を掲げて生活している関係から、僕は毎年、年賀状には干支にちなんだ切手を取り上げることにしています。もっとも、ただ単に干支の切手を持ってくるだけではつまらないので、①できるだけ他の人が使いそうにないモノ、②その年の仕事のひそかな予告編になりそうなモノ、という二つの基準で切手を選んでいます。で、今年はこんな切手を選んでみました。

韓国年賀切手(子年)

 これは、1959年末に韓国が発行した1960年用の年賀切手です。おめでたい双喜の文字を背景に、韓姿をした男女のネズミが手をつないでいる絵が、なんとも愛嬌のある1枚です。

 韓国の年賀切手は、1957年12月に発行された1958年用のものが最初になりますが、そのデザインは、“年賀切手”をうたっていながら、松笠と十字架(15ファン)、クリスマス・ツリーとノリゲ(25ファン)、クリスマス・ツリーと犬(30ファン)となっており、韓国の伝統的な正月の風景から題材を取っているというより、クリスマスに力点が置かれています。

 周知のように、現在、韓国では人口の4人にひとりがキリスト教徒といわれており、社会的に儒教色が濃い一方で、アジア最大のキリスト教国のひとつとなっています。この現象は、われわれ日本人の感覚からするときわめて奇異に映るのですが、朝鮮と日本では、伝統的に儒教ないしは儒学の理解が根本的に異なることを考えると、案外、不思議ではないのかもしれません。

 すなわち、朝鮮社会に抜きがたく染み付いている“朱子学”の根本理論(の1つ)に“理気二元論”というものがあります。抽象的で難解な議論なので、正確に要約する自信はないのですが、きわめて大づかみに言ってしまうと、ここでの“気”とは目の前の物質的世界の次元のことを指し、“理”はそこに法則性・秩序性を与えるような超越的、あるいは神的な精神のようなものです。そして、世界は、この“理”と“気”によって成り立っている、というのが、“理気二元論”というわけです。

 この“理”の発想が身についている韓国人にとっては、(それが本来の正しい理解であるかどうかは別として)唯一絶対なる神が天地万物を創造し、人間の運命を規定して、世界の終末に最後の審判を下すというキリスト教をはじめとする一神教の理論は、案外、受け入れやすいものなんじゃないかと僕は勝手に考えています。ちなみに、北朝鮮では、この“理”(を与える存在)としての地位を獲得したからこそ、金日成・正日父子の独裁体制が可能になったと見ることも可能でしょう。

 ところで、2002年から昨年3月までの5年間、僕は在日コリアン系の週刊紙、『東洋経済日報』に「切手に見る韓国現代史」というコラムを連載していました。連載は、1945年8月の“解放”から、2003年の盧武鉉政権発足まで、毎回、1点ずつ切手やカバーなどをご紹介しながら、韓国の現代史をたどるというものでした。

 単行本化にあたっては、連載では取り上げなかった盧武鉉時代のことも加筆し、今年2月に李明博政権が発足するまでをカバーする予定です。ちなみに、今年は1948年8月に大韓民国が成立してからちょうど60周年ですので、このタイミングにはなんとしても間に合わせたいところです。今回の年賀状の切手も、そうした意図を込めて選んでみたのですが、はたして、この目標が実現できるかどうかは、現時点では神のみぞ知るといったところです。

 なお、例によって、年賀状の投函は年末ぎりぎりになってしまいましたので、まだお手元に届いていない方も多いのではないかと思います。早々に賀状を頂戴した皆様方におかれましては、今しばらくお待ちいただきますよう、伏してお願い申し上げます。
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