内藤陽介 Yosuke NAITO
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 暫定×石油
2008-03-31 Mon 23:55
 国会で与野党が激しく対立していた揮発油(ガソリン)税の暫定税率をめぐる問題は今日(31日)、打開策を見いだせないまま期限切れを迎えました。というわけで、今日は暫定×石油というキーワードで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 アゼルバイジャン暫定加刷

 これは、1922年、ソヴィエト政権下のアゼルバイジャンで発行された切手で、同国の油田地帯を描いた3000ルーブル切手に額面5万ルーブルの改値加刷を施した暫定切手です。

 カスピ海西南の油田地帯に位置する小国・アゼルバイジャンは、1813年に帝政ロシアに併合されましたが、1917年のロシア革命の混乱の最中、オスマン帝国によって占領され、第一次大戦でオスマン帝国が敗れると、イギリス軍に占領されます。

 アゼルバイジャン人の民族主義政党ミュサヴァト(ムサヴァト、ムサワトとも)党は、これら占領軍の支援を受けて、1918年5月にアゼルバイジャン民主共和国の独立を宣言しますが、1920年4月の赤軍の侵攻により、首都バクーが陥落。アゼルバイジャン民主共和国は約2年でその幕を下ろし、ソヴィエト政権の時代が幕を開けることになりました。

 当初、赤軍はミュサヴァト政権時代の切手の原版を再利用して切手を印刷し、使用していましたが、1921年10月1日以降、“アゼルバイジャンソヴィエト社会主義共和国“名でオリジナルデザインの切手を発行し始めます。しかし、革命後の混乱の中、ハイパーインフレが進行したため、次第に正刷切手の発行が追い付かなくなり、1922年以降、以前発行した切手に必要な額面を加刷した暫定的な切手が使われるようになりました。

 アゼルバイジャンの油田地帯を描く切手は、1921年10月に5ルーブル切手が発行されましたが、翌1922年1月には、ハイパーインフレに対応して3000ルーブル切手が発行されます。さらに、同年中に、この3000ルーブル切手にナンバリングの機械を用いて5万ルーブルの加刷を施したのが今回ご紹介の切手というわけです。なお、今回ご紹介のモノに関しては、ナンバリングがうまく打てなかったのか、2重加刷になっているのがミソです。

 その後、アゼルバイジャンは、1922年末のソ連結成に伴い、ザカフカス・ソビエト連邦社会主義共和国の一部に組み込まれ、1936年以降はアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国として、以後、1991年8月に独立を回復するまで、ソビエト連邦を構成する共和国の一つにされてしまいました。

 アゼルバイジャンのこの時期の切手は、昔のマッチのラベル風の素朴な味わいがなんともいえず、単純に集めていて楽しくなります。ただし、消印データの読める使用済や実逓カバーの入手は滅多にない上、加刷によって値段がべらぼうに跳ね上がるものには偽物がうようよしていますので、あんまり深入りすると火傷しそうですが・・・。

 さて、暫定税率の失効で明日(4月1日)からガソリンの値段は一時的に下がることになりそうですが、原油の値段そのものが下がっているわけではありませんから、むしろその他の生活用品なんかは値上がりするものも多く、頭の痛いところです。ハイパーインフレというのは、切手やカバーのコレクションを楽しむ分にはいいのですが、自分がその当事者となるのは勘弁してほしいですからねぇ。
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 チベット遠征軍の野戦局
2008-03-30 Sun 22:50
 14日の暴動以来、緊張が続くチベットで、昨日(29日)午後、首都・ラサ中心部にあるラモチェ寺前のほか、近くのジョカン寺前などで大規模なデモ(ダラムサラの亡命政府によると数千人規模、アメリカ系のラジオ自由アジア(電子版)によると数百人規模)が発生したそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ラサ・イギリス局

 これは、英領切手にイギリスのチベット遠征軍の野戦郵便局の消印を押したものです。

 1858年にインドを植民地化したイギリスは、インド防衛のために周辺諸国を侵食していくことになりますが、その過程で、チベットをめぐって、これを保護国とする清朝と対立します。
 
 こうした状況の中で、1903年3月、イギリスはフランシス・ヤングハズバンド大佐率いる遠征軍(チベット辺境使節団)の派遣を決定。同年7月、遠征軍はチベットに到着し、現地のチベット軍を破って進軍し、8月3日、ラサに到着しました。この間、6月にはダライラマ13世がガンデン・ティ・リンポチェおよびロザン・ギャルツェン・ラモシャルの2人を摂政に任じてラサを脱出してモンゴルに亡命しています。

 ラサに到着したヤングハズバンド一行は、9月7日、ポタラ宮で摂政とラサ条約(イギリス・チベット条約)を調印。同条約には、①チベット-シッキム間の国境確定、②ギャンツェ・ガントク・ヤトンでの通商解放、③外交的に重要な案件(領土の譲渡・売却・租借、外国によるチベット内政への干渉、外国代表団の受け入れ、外国への鉄道・鉱山・電信などの利権の供与など)にはイギリスの同意を必要とすることなどが含まれており、清朝のチベットに対する宗主権を実質的に否定するものでした。

 その後、清朝は1906年の「チベットに関する条約」でラサ条約を追認させられますが、翌1907年の英露協商で、イギリスのチベット特権は否定されましたが、清朝のチベットに対する宗主権の問題は英露の協議の対象とはなりませんでした。

 さて、ヤングハズバンドの遠征軍は、ラサ条約の調印後、9月23日にはラサを出発して撤退を開始しますが、この間、彼らは野戦郵便局を設置し、英領インド切手を持ち込んで使用しました。これが、チベットにおいて、切手が用いられた最初の事例となります。

 今回ご紹介のモノは、彼らがラサに到着した1904年8月3日の消印が押されたもの(おそらく、“記念品”として作られたものでしょう)です。当時はすでにエドワード7世の切手が使われていましたが、ここでは、ヴィクトリア女王の3パイス切手(折れ目のあるものが貼られているのが残念ですが)が使われています。消印の表示は、現在、一般的に見られるLHASAではなく、LAHSSAです。

 さて、今回のデモは日米欧の15カ国の北京駐在各国外交団の訪問に合わせて行われたと考えられていますが、中国当局は治安部隊を投入し、主要な寺院を包囲・封鎖したほか、戦車や装甲車両などを投入しデモを鎮圧したそうです。中国の圧政に徒手空拳で抵抗しているチベットの人たちのニュースを聞くたびに、つい5年ほど前、“自由なイラクの実現のために”という大義名分を掲げてイラク戦争を起こした人たちや、人道介入の名目でコソボへの空爆を行った人たちの間から、自由なチベットの実現のために、チベット遠征軍を派遣しようという声が上がってきてもよさそうなものなのに・・・と、ついつい思ってしまうのは僕だけなんでしょうかねぇ。
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 渡嘉敷・座間味の戦い
2008-03-29 Sat 11:52
 太平洋戦争末期の沖縄・渡嘉敷島と座間味島の集団自決をめぐって、集団自決を命じたとの虚偽の記述により名誉を傷つけられたとして、座間味島の守備隊長だった梅沢裕元少佐と、渡嘉敷島の守備隊長だった赤松嘉次元大尉の弟が、ノーベル賞作家で『沖縄ノート』著者の大江健三郎と出版元の岩波書店に出版差し止めと損害賠償などを求めていた裁判で、大阪地裁は旧日本軍が集団自決に「深く関与」していたと認定した上で原告の訴えを棄却する判決を出しました。

 というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 慶良間上陸カバー

 これは、1945年3月28日、米軍の慶良間列島(渡嘉敷島・阿嘉島・座間味島)への上陸を記念して作られた“愛国カバー”で、上陸の日のバーモント州ビクトリー局の消印が押されています。イラストは「兵士たちが早く凱旋帰国できるように、国債を買おう」という趣旨のものです。おそらく、もともと戦時国債の購入を訴える封筒を慶良間列島上陸の記念カバー用に流用したのでしょう。

 さて、今回の裁判で問題となっている渡嘉敷・座間美の集団自決については、占領時代の1950年に朝日新聞社から刊行された沖縄タイムス編『鉄の暴風』の記述を根拠に、軍が住民に集団自決を命じたとされてきました。占領時代の刊行ということを考えると、当時のラジオ番組「真相はかうだ」と同様、事実関係としての真偽はともかく、ことさらに日本軍の“旧悪”の噂を暴きたてようという時代の要請があったことは容易に想像がつくのですが、このあたりについては、とりあえず深入りするのは止めておきましょう。

 今回の裁判となった大江の『沖縄ノート』の記述は、この『鉄の暴風』に依拠して書かれたものですが、『鉄の暴風』の記述に関しては、作家の曽野綾子が渡嘉敷島の集団自決の生存者を取材して1973年に発表『ある神話の背景』によって、隊長“命令”説は根拠に乏しいことが明らかになっています。さらに、座間味島についても、元守備隊長が自決命令はなかったと主張しており、隊長に自決用の弾薬をもらいに行ったが断られたという女性の証言があるほか、戦後の琉球政府で旧軍人軍属資格審査委員として軍人・軍属 や遺族の援護事業に携わった照屋昇雄も「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類をつくった」と証言し、当事者として軍命令説 を否定しています。

 こうしたことから、沖縄戦の過程では、末端の軍人が住民に手榴弾を配って自決を強要したり、住民を殺傷したりすることがあったのは事実ですが、日本軍として組織的に沖縄住民に自決を強要したことがあったのかどうかは、大いに疑問であるという見方が近現代史の専門家の間では主流のようです。

 昨年の昨年の高校日本史教科書の検定では、例えば「日本軍に集団自決を強制された」との記述が「日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた」と改められたのも、軍の“強制”の有無についての確証がない以上、教科書としては断定的な記述は避けるべきだという常識的な判断によるものです。この点を“誤解”して、ときどき、文部省は集団自決に軍がかかわっていたことを否定しようとしていると騒ぐ人がいますが、これは明らかに議論を取り違えています。

 今回の裁判でも、原告側は集団自決に軍ないしは軍人が全く無関係であったと主張しているわけではなく、「軍が組織としてそれを命令したことはなかった」として『沖縄ノート』の記述に異議を唱えているわけですが、判決は「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない」として肝心の“命令”についての判断をさけており、やはり、議論がかみ合っていない印象を禁じえません。控訴審では、ぜひとも、正面からかみ合った論戦を期待したいものです。

 ちなみに、大江健三郎同様、いわゆる“進歩的知識人”の方々が高く評価している家永三郎の『太平洋戦争』では、以前は、渡嘉敷島での集団自決に関して隊長命令があったとの記述がありましたが、歴史学的に疑問が呈されるようになった1986年以降、問題の記述は削除されています。

 もっとも、大江健三郎は作家であって歴史家ではないと考えるのなら、彼の著書の記述が事実であるかどうかは、それほど重要な問題ではないという議論もありうるのかもしれません。というよりも、僕としては、歴史家としてではなく、フィクションの大家としてノーベル賞までもらった大江が、なぜ、「自分の作品と事実を混同してもらっては困る」と言わないのか、不思議でならないのですが…。
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 開城からの葉書
2008-03-28 Fri 21:45
 朝鮮半島の南北経済協力の象徴とされる開城工業団地内の南北経済協力協議事務所(経協事務所)に常駐していた韓国側当局者が、李明博政権の対北朝鮮政策に不満を持つ北朝鮮側によって、事実上の追放処分(表向きは北側の撤収要請で撤収)となったそうです。というわけで、開城がらみのブツはないかと探してみたら、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

 開城の葉書

 これは、朝鮮戦争の休戦(1953年7月)から1年余りしかたっていない1954年10月、開城からチェコスロバキア宛に差し出された葉書です。

 開城は北朝鮮南西部、38度線のすぐ南にある都市で、919年、当時、松嶽と呼ばれていたこの地に高麗王朝が遷都したことから歴史の表舞台に登場します。その後、元の支配下で、これに抵抗した高麗王が江華島に移った時期(1232-1270)もありましたが、1392年に李氏朝鮮が成立し、都がソウルに移るまで、開城は高麗の都でした。このため、市外北西の万寿山一帯には、高麗時代の王陵が数多く残されています。

 高麗の滅亡後、旧高麗の遺臣たちは、開城簿記と呼ばれる独自の簿記方式を考案して商業活動に専念し、開城は商業都市として発展。開城商人は朝鮮人参・陶器・衣類などの行商で活躍し、李氏朝鮮における物流の重要な担い手となりました。特に、朝鮮人参に関しては、14世紀に開城で人工栽培が初めて本格的に行われるようになったこともあり、開城はその集散地として名をはせ、朝鮮人参を用いた伝統料理・参鶏湯(サムゲタン、内臓を取り出した雛鳥にもち米と朝鮮人参、各種の木の実類などを詰めてスープで煮込んだもの)は開城の郷土料理の枠を超えて、朝鮮を代表する伝統料理となっています。

 1945年の解放当初、北緯38度線の南側にある開城はアメリカ軍政下に置かれていましたが、ソウルに近い要地として1950年に始まる朝鮮戦争では激戦地となり、最終的には北朝鮮に占領されました。そして、1951年7月、当時の両軍の前線の中間に位置していたという事情で休戦会談場に指定されたものの、翌8月の国連軍機による開城誤爆事件の影響で、会談場は板門店に移されてしまいます。この結果、開城は交渉期間中は中立地帯とされ、休戦後、正式に北朝鮮領内に編入されることになりました。開城市民の7割が離散家族とその関係者といわれているのはこのためです。

 さて、今回ご紹介の葉書は、北朝鮮領内に正式に編入されて間もない時期の開城から差し出されたもので、差出人は、北朝鮮支援のために派遣されていたチェコ人と思われます。

 ここでご注目いただきたいのは、葉書の用紙そのもので、画像の下部に”PRINTED IN U.S.A.”の文字が印刷されている点です。また、裏側の絵面にはソウルの“Ancient North Gate”の写真が印刷されているのですが、画像の左上に印刷されている説明文には、(一部、切手が上から貼られているためにやや読みにくいのですが)「2年間の戦争でソウルは4度はげしい戦闘に見舞われたが、この建物は破壊を免れた」との内容が記されています。この文面からすると、この葉書は朝鮮戦争中の1952年後半に作成されたものとみてよさそうです。

 おそらく、この葉書は、朝鮮戦争中、国連軍が開城を制圧していた時期に持ち込まれ、その後、共産側の開城占領により、撤退した国連軍将兵の遺留品として押収され、休戦後、使用されたのでしょう。アメリカ製の葉書に北朝鮮切手が貼られ開城から差し出されているということは、朝鮮戦争の結果、開城の主権が韓国から北朝鮮へと移ったことを象徴的に示しているといえます。
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 東京の桜満開!
2008-03-27 Thu 18:02
 気象庁によると、今日(27日)、東京と静岡で平年より9日早く桜(ソメイヨシノ)が満開になったのだそうです。東京の満開は、1953年の統計開始以降、3番目の早さだとか。というわけで、今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 さくらさくら

 これは、1980年3月21日、「日本の歌シリーズ」の第4集として発行された「さくらさくら」です。

 「日本の歌シリーズ」は、1979年の滝廉太郎生誕100年を機会に発行が開始されたシリーズで、昭和55年度から実施が決まっていた新学習指導要領で指定されている26曲の歌のうち、18曲(各学年2曲ずつ)が取り上げられました。ちなみに、今回ご紹介の「さくらさくら」は小学校4年生で学ぶ曲とされています。

 切手の原画については、著名な画家、絵本作家などに委嘱し、歌の持つイメージを絵として表現し、それに楽譜および歌詞の一部を盛り込んだものとするとの方針の下、森田曠平(日本画家)、石川滋彦(洋画家)、河野鷹思(デザイナー)の意見を参考にして、原画制作を委嘱する人物が選ばれましたが、「さくらさくら」については森田が自ら原画を手掛けました。また、「日本の歌シリーズ」の切手には、すべて、それぞれの歌の楽譜が入っていますが、このため、シートの耳紙には、銘版やカラーマークのほか、曲名と作詞・作曲者名、さらに、音楽著作権承認番号(著作権者が明らかな場合)が入れられています。
 
 切手に取り上げられた「さくらさくら」は、江戸時代から歌われていたとされる古謡ですが、現在の我々が親しんでいるものは、1888年10月、筝曲近代化の第一歩として文部省取調掛が編集し、東京音楽学校が発行した『筝曲集』に収録されているものです。

 ちなみに、「さくらさくら」と同時にシリーズ第4集として発行されたのは「春の小川」です。このため、今回の切手発行に際しては、東京の代々木局で発行日に絵入ハト印が使用されています。これは、「春の小川」の舞台が東京府豊多摩郡代々幡村(現在の渋谷区代々木)を流れていた渋谷川の上流である河骨川(現在は暗渠)とされているからですが、東京の代々木公園が桜の名所であることも考慮されたものと思われます。

 今週末の代々木公園は花見客でかなりにぎわうんでしょうねぇ。ここ数年、お花見らしいお花見はとんとご無沙汰ですが、今夜あたり、お酒とおつまみを持って近所の公園に行ってみるのも悪くないかもしれません。もっとも、身なりに気をつけないと、挙動不審のホームレスに間違えられて通報されてしまいそうですが・・・。

 なお、この切手を含む「日本の歌シリーズ」については、4月20日付で刊行予定の拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』(クリックすると出版元特設ページに飛びます)で詳しく取り上げておりますので、刊行の暁には、ぜひ、御手にとってご覧いただけると幸いです。
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 韓国の温泉マーク
2008-03-26 Wed 22:34
 韓国の行政安全部(旧行政自治部)が24日、日本時代以来100年にわたって使われてきた従来の温泉マークにかわり、新しいマークを採用し、今後は温泉業以外の業者が使用した場合(いままでは温泉業だけでなく、宿泊業者や銭湯など区分なしに使われてきた)、2年以下の懲役または1000万ウォン以下の罰金が科すことにしたそうです。

 というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 東莱温泉
 
 これは、日本統治時代の1931年11月8日、釜山郊外の東莱温泉局で使用された風景印です。

 その土地の名所旧跡やゆかりの人物、特産品などをあしらった風景印は、日本本土では1931年7月10日から使用が開始されましたが、日本統治下での朝鮮では同年10月20日から使用開始となりました。最初の使用局は、今回ご紹介の東莱温泉の他、東莱、元山、朱乙、朱乙温泉、開城、慶州、仏国寺の各局で、京城(現・ソウル)での使用開始は同年11月1日です。

 さて、東莱温泉は現在の韓国の行政区域でいう釜山広域市東莱区にある温泉で、高麗の僧侶である一然 が書いた『三国遺事』には、新羅31代新文王3年(683年)に宰相の忠元公が東莱温泉で沐浴をしたとの記述があります。また、これとは別に、千数百年前、東莱村の脚が不自由な老婆が、この温泉の場所にとまった鶴が脚の怪我を治したのを見て、ここに薬泉があることを発見したとの伝説も伝えられています。いずれにせよ、古来、王族が湯治に訪れていた温泉であることは間違いないようです。

 ただし、前近代の朝鮮においては、温泉を愛好するという習慣はほとんどなく、東莱温泉についても、その本格的な開発は李氏朝鮮末期から日本統治時代にかけてのことで、観光地としての歴史は必ずしも古いものとはいえません。

 今回ご紹介の風景印のデザインは、逓信省の発表では「南鮮の三大名刹の一、梵魚寺の山門と東莱温泉場」と説明されていますが、我々からすると、局名表示にしっかりと“温泉”の文字が入っており、いわゆる温泉マークも描かれているのが嬉しいところです。

 ちなみに、この風景印では、温泉マークの周囲に桜と思しき花のシルエットが描かれていますが、実際の東莱温泉では、現在でも桜を見ながら露天風呂につかるということが可能なんでしょうかねぇ。もし、可能なら、一生に一度くらいは、そういう風流な体験をしてみたいものです。

 * 本日午後、カウンターが31万ヒットを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。
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 今日から薬師寺展
2008-03-25 Tue 15:13
 今日(25日)から、東京・上野の東京国立博物館で「国宝 薬師寺展」が始まりました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 薬師寺吉祥天

 これは、1968年2月1日に「(第一次)国宝シリーズ」の第2集(奈良時代)の1枚として発行された「薬師寺吉祥天」です。

 「薬師寺吉祥天」は、正式には“麻布著色吉祥天像”の名で国宝に指定されています。麻布に描かれた独立画像としては日本最古の彩色画で、一見、通常の美人画のようにも見えますが、頭部の背後に光背(後光)があることから仏画であることがわかります。

 吉祥天は福徳豊穣の守護神として崇敬され、その前で年中の罪業を懺悔し、除災招福を祈る、いわゆる吉祥悔過の本尊として祀られるものです。薬師寺では毎年1月1日から15日までの間、切手に取り上げられた絵が、本尊として金堂薬師三尊像の御宝前に祀られています。

 画像のモデルは、聖武天皇の皇后であった光明皇后とされているようですが、その聖武天皇の時代の出来事として『日本霊異記』には、和泉の国の山寺の僧、優婆塞は吉祥天とセツクスした夢をみて、目が覚めて像を仰ぐと、自分の精液が染み付いていたという物語が採録されています。まぁ、この像にはそうしたシミは付いていませんが…。

 ところで、「薬師寺吉祥天」のモデルとされる光明皇后は施薬院(病者に薬を施す施設)や悲田院(貧窮者の救済施設)などの福祉事業で功績を残したことで知られていますが、このことは、明治以降の近代日本において彼女の歴史的価値を大いに高めることになりました。

 すなわち、幕末から明治初期かけては、歴代の皇后の中では神功皇后が文明開化と富国強兵のシンボルとして重要視され、紙幣にも取り上げられていましたが、明治20年代以降、対外戦争が現実のものとなり、看護婦の活動が脚光を浴びるようになると、女性でありながら自ら出征した神功皇后に代わって、光明皇后が重要視されるようになります。これは、福祉事業で名を残した光明皇后の物語に、戦時下において赤十字活動に従事し、国民に仁慈を与える存在としての、現実の皇后の姿が投影された結果と見ることができます。

 ちなみに、日清・日露戦争の時代、傷病兵と接する看護婦の選考基準には、性的なトラブルへの危惧から、“美貌ナラザル者”という一項が入っていました。“美貌ナラザル”の判断は個人の好みに左右されるとはいえ、現実に、兵士たちが接することのできる看護婦たちが“美貌ナラザル者”である以上、傷病兵の慰問に訪れる皇后以下貴婦人たちの姿は、彼女たちの“美貌”を際立たせることになります。このことは、軍隊という男だけの社会の中で無聊を慰めるだけでなく、単純素朴な皇室への憧れを彼らの中に植えつける上でも、重要な役割を果たすことになっているわけですが、その意味でも、天平時代最高の美女と謳われた光明皇后と現実の皇后をだぶらせて語ることは効果的といえそうです。

 なお、明治以降の社会状況の中で、シンボルとしての神功皇后と光明皇后がどのような意味を持っていたのかという点については、拙著『皇室切手』でもいろいろと分析してみました。また、今回ご紹介の「薬師寺吉祥天」を含む「(第1次)国宝シリーズ」に関しては、同じく拙著『一億総切手狂の時代』でご説明しております。機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 ブータンの総選挙
2008-03-24 Mon 23:28
 レコード切手や立体切手などで切手収集家にはおなじみのヒマラヤの王国・ブータンで、今日(24日)、絶対君主制から立憲君主制に移行するための初の総選挙が行われました。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ブータンCD切手

 これは、昨年(2007年)発行されたワンチュク王朝(現王朝)100周年の記念切手で、CD-ROMがそのまま切手となっています。ブータンではかつてソノシートをそのまま切手にした“レコード切手”を発行したことがありますが、現在ではレコードよりもCDということなのでしょう。

 さて、国家としてのブータンの歴史は、1616年、 チベット仏教の内紛でチベットを追われた高僧、シャブドゥン・ガワン・ナムゲルがこの地の支持者に迎えられて建国のが始まりとされています。

 19世紀に入り、インドを制圧したイギリスが周辺地域に勢力を伸ばしていく過程で、1864年、 イギリス=ブータン戦争(ドゥアール戦争)が勃発。この戦争に敗れた後、ブータンはイギリスの強い影響下に置かれ、王室に対してはイギリスから年金が支給されることになりました。

 ところが、この年金の分配をめぐって有力者の間で対立が生じ、1880年代にはブータンは内戦状態に突入。この内戦を鎮定して、1907年にブータンを再統一したのが、ワンチュク王朝の初代国王、ウゲン・ワンチュク(切手では右上のひげの人物です)でした。

 ウゲン・ワンチュクは、1910年、プナカ条約を締結してブータンをイギリスの保護国とします。ウゲン・ワンチュクにすれば、チベット支配を強化しつつあった清朝の脅威に備えるとともに、英領インドの近代化政策に倣うというのが、イギリスの保護下に入った最大の動機でした。

 1948年に英領インドが独立すると、第2代国王のジグメ・ワンチュク(切手では右下の人物です)は1949年にインド・ブータン条約を調印。、「インドはブータンの内政には干渉しないが、外交に関しては助言を行う」というプナカ条約の方針が継承され、ブータンが独立インドに依存する関係が築かれます。

 1952年に即位した第3代国王のジグミ・ドルジ・ワンチュク(切手では左下の人物です)は、鎖国政策を廃止して1971年に国連加盟を果たしたほか、国民議会の設置、第1次5カ年計画の実施などの近代化政策を行い、ゆるやかな民主化に着手。この民主化は第4代国王のジグミ・シンゲ・ワンチュク(切手では左上の人物です)にも継承され、今回の立憲君主制への移行につながったというわけです。

 ただし、ジグミ・シンゲ・ワンチュクの近代化政策は、ナショナル・アイデンティティを強調する面があり、1989年に施行された「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」では、チベット系の民族衣装着用の義務付け、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などが定められました。この結果、ブータン南部のネパール系住民はこれを不満として反政府運動を展開することになり、政府の弾圧を逃れる難民が発生しました。

 なお、2005年に発表された総選挙実施の声明では、国王は2008年に皇太子に譲位するとされていましたが、実際には予定を繰り上げて、2006年に現国王のジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが即位しています。

 ブータンというと、今回のCD切手をはじめ、色モノ切手をいろいろと出す国というイメージが強いのですが、その歴史をまじめにフォローしてみると、結構、面白いことが出てきそうです。いずれ、ブータンのことをまとめた仕事をしてみるのも悪くないでしょうが、ただ、切手に関心のない一般の人にとってブータンっていってもまったくなじみはないでしょうからねぇ。商業出版の企画としてはしんどいかもしれません。
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 “台湾切手”の命運やいかに
2008-03-23 Sun 22:20
 昨日(22日)、台湾では総統選挙が行われ、台湾独立を否定し、“中華民国”体制の現状維持を主張する国民党の馬英九が与党・民主進歩党(民進党)の謝長廷・元行政院長を破って当選。さらに、同時に行われた“台湾”名義での国連加盟ならびに国民党が提案した正式名称“中華民国”名義での国連復帰を問う2つの国民投票も不成立に終わりました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 台湾表示の切手

 これは、昨年(2007年)2月28日に発行された“228国家記念館”の記念切手で、切手の国名表示が“台湾”となった最初のものです。

 国共内戦に敗れて台湾に逃げ込んだ蒋介石の国民政府(国府)は“大陸反攻“を呼号し、みずからが中国を代表する正統政権であると主張していました。もっとも、この“中国”政府は、福建省沿岸の小島を除くと、中央政府と地方政府である台湾省政府の管轄が同じという異常な構造になっています。このため、台北への“遷都”早々、国府は台湾での“地方自治“を実施し、県・市長を公選として県議会を開設したものの、省主席は官選という事態が長く続いていました。これは、当時の総統(蒋介石のポストです)が住民によって公選されないにも関わらず、台湾省主席が公選されるということになると、台湾の人々にとっては、台湾省主席の方が総統よりも権威をもつことになるためです。台湾では、“中央”と“地方”がほぼ同じサイズである以上、蒋介石としては自己の権力基盤を維持するためにも、そうした事態は何としても避けなければならなかったのです。

 こうした異常事態は、1996年3月23日に住民の直接投票による総統選挙が実施されるまで続いたわけですが、その後も、切手の国名表示は長らく“中華民国”のままとされていました。

 これに対して、“中国とは別の台湾“を掲げ、台湾化政策を推進してきた陳水扁政権は、昨年2月、今回ご紹介の切手から国名表示を“台湾”に変更し、切手の面でも台湾化を進める姿勢を打ち出しています。このときの名称変更は、台湾の郵便事業を行ってきた中華郵政公司が台湾郵政公司に社名変更したことに伴うものと説明されていますが、題材が“228国家記念館”ですから、台湾化政策の一層の推進と当時の野党・国民党への批判の意図が込められていたことは明白です。

 すなわち、228国家記念館のテーマとなっている228事件とは、台北市で闇タバコを販売していた本省人(日本敗戦以前から台湾に居住していた中華系住民)女性に対し、外省人(第二次大戦後、台湾に渡ってきた中華系住民)の役人が暴行を加えたのをきっかけに、本省人に対して差別と弾圧を繰り返していた外省人への本省人の不満が爆発、台湾全土に暴動が発生し、国府は大陸から大軍を派遣して武力でこれを徹底的に鎮圧した事件で、国府による本省人への白色テロの最大のものとされているものです。

 こうしたこともあって、記念館のオープンに際して、陳水扁は「政府はこれまで(228事件の)被害者や家族に補償する一方、首謀者の責任は追及してこなかった。国民党は責任を台湾における共産党に押し付け、最近は役人の抑圧が民衆の反逆を引き起こしたと説明しているがこれも責任回避だ」と指摘し、国民党を批判しています。もちろん、その背景には、与党の党首として、野党・国民党の旧悪を指摘し、政権基盤を強化しようという政治的な思惑があったことは言うまでもありません。

 ちなみに、記念館の建物は、もともとは日本統治時代に美術館として建てられたものですが、第2次世界大戦後は、参議会→アメリカ在台湾ニュース処→アメリカ文化センターという変遷を経て、現在の用途に落ち着いています。

 いずれにせよ、切手の国名表示が“台湾”と改められた背景に上述のような政治的事情があったことを考えると、新たに発足した国民党の馬英九政権がこれをこのまま放置しておくとは考えにくいのも事実です。となると、やはり、台湾の切手は以前のように“中華民国”表示に戻ってしまうんでしょうかねぇ。とはいえ、いったん、現実を反映した“台湾”という表示を再移用してしまった以上、いまさら中国の正統政権として“中華民国”を名乗るのは、ちょっと難しいような気もします。

 いずれにせよ、誕生から1年余が過ぎた“台湾切手”が今後どうなっていくのか、しばらく注目、といったところですな。
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 建設の風景:仏塔を作る人たち
2008-03-22 Sat 11:27
 ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の3月号が出来上がりました。(って、もう3月も下旬ですが・・・)僕が担当している連載「切手に描かれた建設の風景」は今回が最終回ですが、こんなの切手を取り上げてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 敦煌の壁画

 これは、1988年に中国が発行した「敦煌壁画」の切手の1枚です。画面を見るだけではよくわからないのですが、切手の下に“北周・建塔”と書かれているので、塔(おそらく仏塔でしょう)の建設場面が描かれていることがわかります。

 かつてシルクロードの分岐点として栄えたオアシス都市、敦煌の周辺には数多くの石窟があり、その中には仏像が安置され、壁には一面に壁画が描かれていることで知られています。壁画の題材は仏教関連のものだけでなく、当時の人々の生活や歴史的事件などを記録したものなど多岐に及んでいますが、今回ご紹介の切手には、その両方を兼ね備えたものといえそうです。

 北周は中国の南北朝時代、鮮卑の宇文氏によって建てられて国で556年から581年まで、長安を都として中国大陸の西部一帯を支配していました。この北周を滅ぼして興ったのが、小野妹子の遣隋使で日本人にもなじみの深い隋といえば、時代的な感覚もつかみやすいでしょう。

 さて、切手に取り上げられた壁画は、2人の職人が塔の完成した部分に乗って、下から運ばれてきた建材を受け取っている場面を描くものです。緑とオレンジ、黒の色鮮やかな組み合わせの塔は極楽浄土をイメージしていすのでしょうか。上半身裸で作業にいそしむ職人たちの風貌が、どことなく、中央アジア風に見えるのも敦煌ならではの風景といえます。

 中華人民共和国の発足当初から、中国は敦煌の壁画を題材とした切手を何度か発行していますが、これは、ただ単に敦煌の壁画が文化財として重要な意味を持っているからというだけでなく、歴代の中国中央政権がこの地域を支配していたことを誇示する意図があったことは言うまでもありません。実際、現在、敦煌市が属している甘粛省は、西に新疆ウイグル自治区、青海省、北に寧夏回族自治区、内モンゴル自治区、南に四川省、東に陝西省と接しており、省内にはイスラム教徒の回族が多数居住しているほか(特に、蘭州は“イスラム都市”といっても過言ではありません)、南部と西北部には、チベット族の自治州・自治県があり、まさに、現在の中国にとっても民族問題の最前線といった感があります。

 まぁ、歴史的にみれば、敦煌はいわば国境の街で、その西には防御拠点の玉門関と陽関が設置されていたわけで、敦煌よりも西側は中華世界とはみなされていなかったといえます。その意味では、現在の中国共産党政府が西域やチベットに漢族を大量移住させ、現地の伝統文化を破壊して、“中国化”政策を強引に推し進めることが果たして妥当なことなんでしょうかねぇ。日本に対して、しばしば、「歴史に学べ」というお説教をしている中国側の人たちに、そのままその言葉をお返ししたい気分です。
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 切手と学会
2008-03-21 Fri 22:41
 たまには新切手の話でもしましょう。というわけで、まずは下の画像(クリックで拡大されます)をご覧ください。

天文学会100年

 これは、今日(21日)発行されたばかりの「日本天文学会創立100年」の記念切手です。

 日本天文学会は1908年1月、天文学の進歩と普及を目的として任意団体として創立され、1935年に文部省の承認による社団法人となりました。国際天文学連合への加盟は1956年のことで、現在の会員数は約3000人。事務局は東京都三鷹市の国立天文台内に置かれています。

 今回の切手発行は、3月23日に東京都千代田区の学士会館本館で“日本天文学会創立百周年記念祝賀会”が行われるのにあわせて発行されたもので、学会の創立記念日は1908年1月19日のことでした。

 郵便事業会社の説明によると、切手の図案は左上から順に①太陽と太陽系の天体I 、②太陽と太陽系の天体II 、③系外銀河、④X線天文衛星「すざく」、⑤小惑星探査機「はやぶさ」、 ⑥小惑星と地球、⑦国立天文台「すばる望遠鏡」、⑧銀河系と様々な天体、⑨火星、⑩国立天文台「野辺山45m電波望遠鏡」となっています。

 このうち、①と②の太陽と太陽系の天体では、2006年に見直された太陽系の惑星の定義を反映し、冥王星が外されているのが話題となりました。また、小惑星探査機はやぶさや、国立天文台すばる望遠鏡など、最近、成果を上げた日本の観測装置などが描かれていますが、⑤の「はやぶさ」の切手の小惑星は、実際にはやぶさが探査した「イトカワ」ではなく、既存のイラストが採用されています。このため、学会に所属する専門家からは「このデザインは誤解をうむので、はやぶさが撮影した画像を使った方が正確ではなかったか」との批判もあるようです。

 さて、今回、この切手を取り上げてみたのは、岡本真さんから頂戴したトラックバック記事「学会と切手」の中で、この切手のことを取り上げて「学会の創立記念が切手になるとは驚く。このような例は他にもあるのだろうか。それとも日本天文学会が初めてのケースなのだろうか。ディープな世界なので見当がつかない。ぜひ、この話題は…(僕のブログで)取り上げてほしい」とリクエストがあったからなのですが、たしかに、外国ではともかく(たとえば、イギリスではリンネ協会創立200年の記念切手が出ています)、日本で学術団体がらみの記念切手というと、イベントとしての国際学会(大会)のモノばかりが目につきます。

 ただ、ストレートに“(学術団体としての)OO学会創立XX周年記念”の切手というのは思いつかないのですが、少し視点を変えると2000年の「第100回日本外科学会総会記念」(学会創立は1899年とするのが一般的なようです)、2001年の「第100回日本皮膚科学会総会」(日本皮膚科学会の創立は1900年12月)なんかは、学会の周年記念切手の一種といえそうです。ちょっと毛色の違うところでは、1999年の「日本学術会議50周年」なんてのがありますが…。

 ただし、内外の学術団体が創立XX周年の記念事業として国際学術会議を開催するというパターンは結構あるようで、それに合わせて記念切手が発行されるケースというのもあります。たとえば、1977年の「第27回万国外科学会議」は万国外科学会の創立75周年の記念事業として初めて欧米以外での開催となり、京都で開催された大会にあわせて記念切手が発行されています。これなどは、考えようによっては、“隠れ周年記念”の一種とみなすことも可能かもしれません。

 いずれにせよ、このあたりのことは2001年から刊行を始めた拙著<解説・戦後記念切手>シリーズで取り上げた切手については、ある程度すぐに調べがつくのですが、同シリーズは4月刊行予定の第6巻『近代美術・特殊鳥類の時代』でも1985年までしかカバーしていませんからねぇ。平成以降の切手を細かく探してみると、思わぬところで“隠れ周年記念”の切手が見つかるかもしれません。

 ちなみに、“学会”ちがいですが、ウルグアイでは2000年にSGI創立25年の記念切手が発行されています。こちらについては、また別の機会ということで…。
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 春来たる
2008-03-20 Thu 22:21
 今日は春分の日。日本ではお墓参りの日ですが、イランを中心とした中央アジアの国々では今日から新年というところもあります。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ノールーズ1965

 これは、1965年3月6日、イランで発行された年賀切手で、チューリップの花を小麦の苗で囲み、ケーキのようにリボンを結んだデザインが、いかにも春の訪れを寿ぐといったデザインになっています。

 ご承知のように、イスラム世界では預言者ムハンマドと信徒たちがメッカからメディナに移住し、イスラムの共同体を作った“ヒジュラ”のあった年を紀元とするヒジュラ暦が使われています。

 このヒジュラ暦は完全太陰暦で、かつての日本の旧暦のように閏月を入れて調整するということは行われていませんから、毎年、11日ずつ、太陽暦の日付とズレが生じます。 この点について、ムスリム(イスラム教徒)たちは、信徒の義務であるラマダン月(ヒジュラ暦の9月)の断食が、毎年、少しずつ季節を移動していくことによって、地域ごとの断食の負担の格差が是正されるメリットがあると説明しています。たとえば、ラマダン月が真冬の時期に当たると、熱帯の国では比較的楽に断食が行えますが、寒冷地域の断食は非常に厳しいものがあります。逆に、ラマダン月が真夏にぶつかると、熱帯と寒冷地域では、その負担の重さは逆転します。

 したがって、全世界の信徒にとって、断食の負担の平準化を図るためには、ラマダン月が毎年季節を移動していくことは良いことであり、それゆえ、ヒジュラ暦は調整なしの完全太陰暦なのだ、というロジックが導き出されることになります。

 とはいえ、いくら宗教的に重要な意味があるとはいえ、毎年、暦の日付と季節がずれていけば、農作業などでは不便も多く生じます。このため、イスラム世界の各地では、イスラム暦とは別に、太陽暦に連動した農事暦が用いられることも多く、イランの場合は、イスラム以前から使われていたイラン暦として春分を元日とした太陽暦も用いられています。

 この元日が、いわゆる“ノウルーズ”(直訳するとペルシャ語で“新しい日”の意味)と呼ばれるもので、今回ご紹介の切手も、この元日を祝う“年賀切手”として発行されたものです。

 なお、ノウルーズは、イランを中心に中央アジアの5共和国でも祝日になっているほか、トルコでもクルド人に対する宥和政策の一環として国民の休日になっていますが、イスラム圏全体に共通の行事ということではなく、アラブ世界ではほとんど無視されているよいようです。ちなみに、イスラム世界全体としては、イスラム教徒としての新年はヒジュラ暦のムハラッム月(第1月)1日に祝うのが主流ですが、こちらは上述のように年によって季節は一定していません。

 まぁ、日本でもかつては“立春”から1年が始まったわけで、イランのノウルーズを持ち出すまでもなく、春の訪れというのはめでたい出来事のはずなのですが、花粉症に悩まされている僕としては、素直に春が来たことを喜べないのがちょっと辛いところです。
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 明日からは主不在
2008-03-19 Wed 23:54
 今日(19日)付で任期切れとなる福井日銀総裁の後任人事は、前回の武藤敏郎・日銀副総裁(元財務事務次官)の昇格案に続き、田波耕治・国際協力銀行総裁(元財務事務次官)の起用案も野党が多数を占める参議院で不同意とされたため、明日以降、総裁ポストが空席という異例の事態になっています。

 というわけで、今日は日銀ネタということでこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 日本銀行本店本館

 これは、1984年2月16日、「近代洋風建築シリーズ」の第10集として発行された切手で、日本銀行本店本館の建物が取り上げられています。

 「近代洋風建築シリーズ」は、1981年3月に完結した「日本の歌シリーズ」 の後継として、1981年8月から発行が開始されたシリーズです。シリーズのテーマが決定された理由は明らかにされていませんが、明治以前の文化遺産を扱った「国宝シリーズ(第1次・第2次とも)」 が、絵画・彫刻だけでなく建築物も扱っていたのに対して、1979年から発行されていた「近代美術シリーズ」 では建築物が除外されていたため、バランスを取ることも考慮されたのかもしれません。
 
 切手に取り上げる建築物に関しては、関野克(博物館明治村館長・文化財保護審議会委員)、村松貞次郎(東京大学教授・文化財保護審議会第二専門調査会専門委員)、稲垣栄三(東京大学教授・文化財保護審議会第二専門調査会専門委員)の意見を参考に、国宝・重要文化財指定のものの中から20点が選ばれました。

 また、今回のシリーズに関しては「シリーズとして一貫したものとする」との方針の下、すべての原画を洋画家の近岡善次郎が切手用にあらたに作成しています。

 近岡善次郎は山形県新庄市の出身で、東京の文化学院を卒業後、美術団体「一水会」草創に携わり、昭和洋画奨励賞、一水会優賞などを受賞し、1956年、文部省留学生として渡欧しました。1943年頃から、全国300ヵ所以上を取材して制作したライフワークの「明治西洋館」のシリーズは、美術の枠を超えた文化的な業績として高い評価を受けています。ただし、切手の原画は、「明治西洋館」の作品をそのまま流用したものではなく、切手の大きさを考慮して新たに作成されたものです。

 さて、今回の切手に取り上げられている日本銀行の本店店舗は、1882年の開業当初は永代橋のたもとにありましたが、手狭なうえ、都心からやや遠かったこともあり、開業の翌年には早くも日本橋への移転が決定され、1890年、東京駅などを手がけた辰野金吾によって新店舗が設計されました。
 
 辰野の設計した建物は、日本の中央銀行制度のモデルとなったベルギーの中央銀行に外観もならっており、柱やドームなどのバロック様式に、規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス様式を取り入れたネオ・バロック建築が採用されました。当初は総石造りの予定でしたが、1891年の濃尾大地震の被害状況を検証して、耐震性を考慮して積み上げたレンガの上に、外装材として石を積み上げる工法に変更されています。

 その後、1923年の関東大震災でも建物本体はほとんど被害を受けませんでしたが、近隣の火災が延焼して丸屋根が焼けてしまったため、その部分のみは復元されたものとなっています。建物は、1974年に国の重要文化財に指定されましたが、現在でも、日本銀行の本店本館として使用されています。

 さて、今回の総裁ポスト空席騒動に関しては、日経新聞の「福田の無策と小沢の無責任」という社説の表現が至言というべきで、僕が何も付け加えることはありません。ただ、報道などを見ていると「総裁空席は戦後初めて」という表現が時々出てくるので、ちょっと気になって調べてみたところ、戦前は在任中の死去や蔵相就任による退任で5度ほど日銀総裁が空席だった例があるそうで、初代総裁の吉原重俊も在職中の1887年12月19日、現職のまま43歳で亡くなっており、1888年2月22日に2代目総裁の富田鐵之助が着任するまでは総裁ポストは空席だったとのことです。

 なお、この切手を含む「近代洋風建築シリーズ」の切手については、4月に刊行予定の拙著『(解説・戦後記念切手Ⅵ)近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しくご説明しておりますので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧ください。
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 半世紀前の中国とチベット
2008-03-18 Tue 23:48
 中国の温家宝首相が、今日(18日)の記者会見で、14日以来のチベットでの騒乱に関して「もしもダライが独立の主張を放棄し、チベットが中国領土の分割できない一部分であることを認め、また台湾が中国領土の分割できない一部分であることを認めれば、対話に向けた我々のドアは常に開かれている」と言い放ったそうです。

 というわけで今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 全国郵政会議

 これは、1950年11月、成立間もない中華人民共和国が発行した「全国郵政会議」の記念切手で、中国地図を背景に、郵便ポストや鉄道・船・飛行機など郵便輸送の手段が描かれています。

 ここでご注目いただきたいのは、背景の中国地図で、“中国”の範囲を示すシルエットの中にはチベットも含まれていますが、中国の郵便網を示す路線図はチベット地域にまで伸びていないことがわかります。東北部(満洲)に関しては、“會議紀念”の文字がかぶさっていますのでデザイン的に路線図を書き込めなかったという説明も成り立ちますが、西南のチベットに関しては“障害物”はなにもありませんので、路線図が書かれていないは、単純に、この地域に中国側の郵便網が達していなかったことを中国側は自ら告白していることになります。

 以前の記事でも説明しましたが、辛亥革命後、1951年に中国人民解放軍がチベットに武力進駐するまでの間、チベットは独立を宣言し、独自の通貨や切手も発行していました。もちろん、中国側は国民党・共産党を問わず、チベットの独立を一貫して否定していましたが、実際には、チベットには中国中央政府の統制は及んでおらず、チベットは実質的に(半)独立国のような存在となっていました。

 チベットを“中国”の一部として描きながら、チベットにまで郵便網が伸びていない路線図を書かざるを得なかった今回の切手には、まさに、そうした建前と現実のズレが現れているといってよいでしょう。

 今回の切手が発行されてからまもない1951年4月、中国大陸の大半を制圧した中国共産党政権とチベット地方政府との関係を規定するための交渉が北京で始まり、5月23日、「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(いわゆる17条協定)の署名が行われました。現在、中国側は同協定を根拠にチベット支配の正当性を主張しているわけですが、この協定は、もともと、代表団が個人の資格でサインしたもので、チベット政府やダライラマの承認・批准は受けていません。じっさい、中国側も署名に際しては、同協定には国際法上の効力はないとチベット代表団に説明していながら、チベット側の印璽を偽造するなどして、同協定の既成事実化を図っていきました。そして、同年12月、人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに軍事進駐し、チベットにとって苦難の現代史が幕を開けることになります。

 ちなみに、17条協定では、中国軍のチベット入りを許可し、チベットの外交権を中国政府に委譲する一方で、チベットの政治制度を変更しないことや、ダライ・ラマやパンチェン・ラマの地位・職務・権限に干渉しないことなどが保障されていたほか、チベットには自治権を与え、宗教と伝統を尊重し、また、内政改革についても、チベット指導者の意見を入れて強制はしないことも規定されていました。

 もっとも、当初からチベット代表団を騙して17条協定を押し付けたことからもわかるように、中国共産政府には、そもそも、17条協定に記されているように、チベットの文化や伝統を尊重しようという意識は希薄でした。同協定の内容からさほど隔たっているとは思えない“高度な自治”を求めるダライラマ14世を中国側が露骨に敵視しているのはその何よりの証拠といえるわけで、チベットの人たちが中国に不信感を持つのも当然のことです。
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 満洲切手とTの印
2008-03-17 Mon 23:50
 今年は曜日の関係で、例年だと3月15日締め切りの所得税の確定申告が2日後の17日締め切りで助かりました。手回し良く2月中に済ましたという方も多いのでしょうが、僕なんかは今年もまた〆切ギリギリの提出で、ようやくホッと一息ついたというところです。

 というわけで、今日は“taxe(=tax)”がらみのネタを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 満洲・不足料カバー

 これは、1933年8月、満洲国の支配下にあった延吉から北平(現・北京)宛に差し出されたカバーで30分(=3角)の切手が1枚貼られています。当時、満州国から中国本土宛の封書の基本料金は4分でしたが、延吉のYMCAの封筒を用いているところを見ると、差出人は外国人で(宣教師か?)、手元にあった切手をそのまま使ったのでしょう。30分という金額は、当時の中国人にとっては無駄にするには惜しい金額だったでしょうが、欧米人の感覚からするとたいしたことはなかったのかもしれません。

 さて、1932年3月1日に満州国は建国を宣言しますが、当初は中華郵政の時代の切手がそのまま使われており、満州国独自の切手が発行されたのは1932年7月26日のことでした。ところが、満洲国の存在じたいを認めなかった中国側は、満洲国の発行した切手についても、郵便には無効なラベルとして扱い、満洲国の切手が貼られた中国宛の郵便物については、受取人から不足料金を徴収するという対応をとっています。

 すなわち、1932年7月、東三省からの郵政撤退に際して中国側が発した声明には「(満洲国の支配下にある地域の郵便)業務停止期間中、欧米各地宛の郵便物はシベリアを経由せず、スエズ運河あるいは太平洋経由で逓送するよう改め、万国郵便連合加盟国の郵便局は中国と各国との往来郵便物に対しても、これに準じて扱ってほしい。東三省(=満洲国の支配地域)において発行される切手は、中国郵政総局の許可を得ていないもので、これは絶対に承認せず、この種の切手を貼った各種書状や小包は、すべて料金不足として処理する」との内容が記されています。

 この声明にしたがって、このカバーの場合、郵便物を受け取った中国側は、満洲切手を無効のものとして、カバーの表面に料金の未納・不足を示すTの印を押し、受取人から徴収すべき金額として10(分。ペナルティ込み)と青鉛筆で記しました。なお、Tの文字は、万国郵便連合の公用語・フランス語で郵便料金(=郵税)を意味する“taxe”の略で、郵便物の上にTの表示がある場合には、不足料を徴収すべきであることを意味しています。

 このカバーの場合は、到着地の北平で10分相当の不足料切手(未納・不足分の料金を徴収するために用いられる切手)が貼られており、その金額が受取人から徴収されていることがわかります。このように、中国側としては、満洲国の切手の有効性を否定することによって、切手を発行した満洲国の正統性も否定しようとしていたわけです。 

 なお、このあたりの事情については、拙著『満洲切手』でもいろいろとまとめてみましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 独立チベットの切手
2008-03-16 Sun 22:39
 一昨日(14日)、チベットで中国人民解放軍の装甲車が群集に突っ込み、多くの市民が負傷ことを発端として、中国共産政府の強圧的な支配に不満を持っていたチベット市民の抗議デモが大規模な暴動へと発展。これに対して、中国共産党政府は暴動を武力で鎮圧し、ダライ・ラマ14世の支持者らとの“人民戦争”を戦う姿勢を鮮明にしたそうです。

 というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 2/3タムカ(ギャンツェ)

 これは、1912年にチベットで発行された切手です。以前の記事では、ラサの消印が押されたオンピースを持ってきましたので、今回は、ギャンツェの使用例をお見せします。

 かつての清朝の体制は、満洲族の皇帝が漢族を含む他の諸民族を中央集権的に支配するというのではなく、どちらかというと、域内諸民族の緩やかな連合国家という性質の強いものでした。これに対して、孫文らの革命活動は、“駆除韃虜 恢復中華”のスローガンの下、満州族の支配を打倒して漢民族の政治的・文化的支配を復活させることを建前としていました。

 したがって、“韃虜”に分類される満洲・チベット・モンゴル・ウィグルの各民族からすれば、自分たちを駆除するということを公言してきた革命政権に服属しなければならない理由はまったくないわけで、清朝の滅亡後、チベットは中華民国に対して分離・独立を宣言することになりました。

 これに対して、中華民国側は自分たちが清朝の継承者であるとの建前から、チベットの独立を認めず、中国領チベットの支配を継続しようと目論見ます。しかし、革命後の混乱により、中国中央政府の統制はチベットには及ばず、チベットは実質的に中国とは別の国になりました。

 こうした状況の下で、今回ご紹介しているようなライオンのデザインのチベット独自の切手が発行され、チベット域内の郵便に使用されることになりました。現在のチベット亡命政府は、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして、独自の通貨・切手を発行していたことを挙げていますが、この切手は、まさにその証拠ともいうべきものです。

 もっとも、独自の切手を発行したとは行っても、中国側がチベットの独立を承認しなかったこともあって、チベットは万国郵便連合には加盟できず、それゆえ、チベット切手は外国郵便に使うことはできませんでした。ただし、かつての清朝も万国郵便連合には加盟できなかったわけですから、このことをもって直ちにチベットの“独立”が否定されることにはならないでしょう。

 1951年、中国人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに武力進駐し、以後、半世紀近くにわたって中国共産党政権はこの地域を支配し続けています。この間、漢族の急激な流入により、チベットの伝統的な社会構造が破壊され続けていることもあって、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられています。また、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行っており、そのことが国際社会から厳しく指弾されているのは周知のとおりです。

 ちなみに、現在の中国政府は、「アヘン戦争から中華人民共和国の成立まで、中国は日本を含む列強によりひたすら侵略され続けてきた」と主張しているわけですが、その中国はみずから、チベットでかつての帝国主義列強もびっくりの苛烈な強権支配を行っており、そのことを指摘されると「内政干渉するな!」と逆ギレするのがいつものパターンになっています。

 日本でも、大日本帝国の“中国侵略”を批判する人たちの中には、「足を踏んだ者には踏まれた者の痛みはなかなかわからない」としたり顔でお説教する人が時々いますが、そういう人に限って、現在のチベットの痛みについて鈍感なケースが多いのは不思議な現象です。もっとも、“足を踏んだもの”である中国政府がチベット人の痛みをわからなくても仕方がないのだ、といわれればそれまでなのですが…。

 *お知らせ
 12日午後から不通になっていたメール環境ですが、本日夕方とりあえず復旧し、従来どおり、y-naitoで始まるアドレスにお送りいただいたメールも読むことができるようになりました。この間、多くの方々にご不便とご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
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 『図書新聞』 3月15日号
2008-03-15 Sat 04:40
 ご報告が遅くなりましたが、先週8日に発行の書評専門紙『図書新聞』に、ヘレン・モーガン著(藤井留美・訳)の『世界最高額の切手「ブルー・モーリシャス」を探せ! コレクターが追い求める「幻の切手」の数奇な運命』 (光文社)についての僕の書評が掲載されました。というわけで、まずは、この切手を見ていただきましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 ポストオフィス150年

 これは、1997年にモーリシャスが発行した切手発行150年の記念切手で、今回の書評のほんのテーマである有名なポストオフィス切手が取り上げられています。ホンモノのポストオフィス切手はウン千万という値段で到底、手の届く値段ではありませんが、こちらは4種セットでも300円でした。

 まぁ、モーリシャス切手については、僕がくどくど説明するよりも、ヘレン・モーガンの本を読んでもらうのが良いと思うので、今回は、以下、『図書新聞』の書評を転載します。(数字などは漢数字を算用数字に改めました)

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 切手1枚1枚の軌跡を丹念に掘り起こした物語:単なる物欲だけでない収集家の心理
 
 インド洋に浮かぶ英領のモーリシャス島では、1847年、ヴィクトリア女王の肖像を描き“ポストオフィス(郵便局)”と表示された同島最初の穂切手が発行された。その数は1ペニーと2ペンスが500枚ずつ。そのほとんどが郵便に使われ、捨てられたという。翌1848年には、表示を“ポストペイド”(郵便料金支払済み)と改めた切手が発行されたこともあり、モーリシャスのポストオフィス切手はわずか1年の短命に終わった。書名の“ブルー・モーリシャス”とは、このポストオフィス切手のうち、藍色の2ペンス切手の愛称で、残存数の少なさもあって珍品切手の代表格とされている。

 オードリー・ヘップバーンの『シャレード』(1963年)は25万ドルの金を高価な切手に変えて隠すトリックが有名だが、ポストオフィス切手が貼られた封筒の1968年のオークションでの落札値は38万ドル。これだけの“紙の宝石”ともなると、当然のことながら、その残存する26枚(他に真贋の疑わしいものが1枚ある)をめぐって、さまざまな伝説が流布し、人間ドラマが展開されてきた。

 たとえば、1904年、イギリスのオークションでポストオフィス切手に1450ポンドの値がついたとき、ある男が皇太子(後のジョージ5世)に「どこかの馬鹿者が1枚の切手に1450ポンドも払ったそうです」と報告すると皇太子は「私がその馬鹿者だよ」と答えたという。また、ナチス崩壊のドサクサで帝国郵便博物館から持ち出されたポストオフィス切手の1枚が再び世に出てきたとき、東西ドイツの双方が所有権を主張して譲らず、米国政府の保管を経て統一後にようやく返還されることになった。

 本書は、そうしたポストオフィス切手1枚1枚の軌跡を丹念に掘り起こし、それに付随する物語を発掘した労作。切手の知識がなくても、単純にお宝物語として面白い。

 これに類する仕事としては、中国・清代の名品切手“紅印花小字1円”の未使用32枚(市価は1枚4-5000万円程度か)の軌跡を丹念にたどった研究が思いつくが、専門家以外の目に触れる機会はまずないだろう。その意味でも、本書のような本がひろく一般向けの書籍として刊行されたことは、日本のフィラテリー(切手・郵便史の収集・研究)にとって大いに喜ばしいことである。

 ただ、ひとつ補足しておくと、“紙の宝石”を求める収集家の心理的背景には、単なる物欲だけでなく、“コレクション”を作って切手展に出品したいという、知的生産活動・表現活動に対する欲求があることを強調しておきたい。この点を見落とすと、金井宏之(ポストオフィスに傾倒し、個人としては過去最高の6枚を所有した日本人)のエピソードも、単なる好事家の物語(それはそれで面白いが)に堕してしまう。

 フィラテリーの世界では、ほぼA4台の台紙に切手などの実物を貼り込み、その周囲に研究成果などを書き込んだもの(リーフ)を一定数集めて構成・展示することが、成果発表の形式として重要視されている。全国規模の競争展覧会では、出品された展示作品は、専門家による審査の結果、出品者の獲得した点数(100点満点)に応じて、金、金銀、銀などの各賞によって格付けされる。そして、国内で金銀賞を獲得した展示作品は、切手のオリンピックともいうべき国際切手展への出品資格が与えられ、さらに世界を相手に上位入賞を目指すことになる。

 さて、作品は、展示されている切手の希少性はもとより、展示作品の構成・展開の論理的な明快さ、展示されている切手や郵便物についての独自の研究、さらには、作品全体の美観など、さまざまな角度から採点される。切手展に出品されるコレクションとは、単なるモノの集積ではなく、切手を素材として行われる知的生産活動・表現活動の成果だからだ。したがって、いくら高価な切手を羅列しようとも、それだけで高評価を得る可能性はほぼない。

 日本では“コレクション”というと、すぐに分量や金銭的価値を話題にする傾向があるが、それは欧米語で言う“アキュムレーション(蓄積)”への関心であって、コレクションの本質ではない、。ファッションの世界でいうパリ・コレクションやミラノ・コレクションが、登場する服やモデルの数とか服地の値段に重きを置いていないことを考えてみれば、容易にご理解いただけるだろう。

 金井が作り上げたモーリシャスのコレクションも、こうした関門を潜り抜け、1970年のロンドン国際切手展で全部門最高の大賞(Grand Award)を受賞したものだ。したがって、金井のモーリシャス切手への情熱の源に、国際切手展で大賞を獲得したいという強い意志があったことを見落とすと、彼のコレクションつくりも単なる物欲の結果としてしか理解されなくなってしまうだろう。その結果、フィラテリーの知的かつクリエイティヴな面が捨象され、切手収集は所詮、好事家が物欲にまかせてやる手遊びに過ぎないとの世間一般の印象が補強されてしまうとしたら、きわめて残念なことだ。

 もちろん、展覧会の話を別にしても、珍品切手の系譜を追い求めるのは物語として十分に楽しいし、本書がその点で十分に成功していることは言を俟たない。ただ、そこにもう一歩踏み込んで“コレクション”にかける収集家の情熱や展覧会をめぐる人間模様なども加味すれば、より深みのある作品に仕上がったであろうことは容易に想像がつく。

 今後、本書をきっかけにして、たとえば、一般に世界最高額の切手とされることの多い“英領ギアナの1セント”や、殺人事件の原因となったハワイの宣教師切手、エラーモノとして有名な米国の“宙返りジェニー”などについても、本書同様、丹念に一枚ずつの軌跡をたどり、物語を掘り起こす仕事が出てくるかもしれないが、その際には、本書から抜け落ちた視点をもカバーした、もう一回りスケールの大きな作品が生まれることを期待したい。

 (以上・文中敬称略)

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 大統領になりそこなった男たち:アルフレッド・スミス
2008-03-14 Fri 11:28
 今日は“ホワイト・デイ”。ということで、“ホワイト”がらみのネタという意味もこめて、ご報告が遅くなりましたが、雑誌『中央公論』に連載中の「大統領になりそこなった男たち」の最近の記事で取り上げた、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 アル・スミス

 これは、1945年11月に発行されたアルフレッド・スミスの追悼切手です。

 アルフレッド・スミス(“アル・スミス”と呼ばれることのほうが多い)は、貧しいカアイルランド系カトリック信徒の移民3世として、ニューヨークのブルックリン・ブリッジのマンハッタン側、いわゆるローワー・イースト・サイドに生まれました。

 早くに父親を亡くし、フルトン魚市場で肉体労働者として働きましたが、そこでの勤勉な働き振りがアイルランド系住民の強い影響下にあった政治団体、タマニー協会の目に留まり、政治家としての道を歩むことになり、1903年、ニューヨーク州議会議員に当選。1911年に起こったグリニッジ・ビレッジのトライアングル社火災事件(避難設備が劣悪なブラウス工場の火災で、女子工員ら145名が亡くなった事件)を機に、労働環境改善法を成立させたことで名をあげました。

 大きな鼻で葉巻のチェイン・スモーカー、口角泡を飛ばしてしゃべりまくる姿は、いかにもニューヨーカーの雰囲気で女性の人気も高く、1918年、ニューヨークで婦人参政権が最初に認められた州知事(任期2年)選挙では、事前の予想を覆して初当選を果たします。その後、1920年の選挙では落選するものの、合計4期、知事を務め、ニューヨークの顔として全米に知られる存在となっていきました。

 スミスが民主党の大統領候補として指名を受けたのは1928年の選挙のときのことです。当時は世界恐慌の直前、未曾有の好景気が全米を覆っていたこともあり、与党・共和党の候補が圧倒的に有利と見られていました。このため、民主党候補は一種の“自殺候補”と見られていましたが、そうした事情から、アイルランド系の彼に大統領候補となるチャンスがめぐってきたものと思われます。というのも、当時のアメリカでは、ワスプ(WASP)すなわちWhite(白人) Anglo-Saxon(アングロサクソン) Puritan(ピューリタン)ないしは Protestant(プロテスタント)の男性でなければならないとの不文律があり、“勝てる選挙”であれば、スミスが大統領候補となる可能性はきわめて低かったでしょう。

 アメリカの建国神話では、清教徒が信仰の自由を求めて新大陸に渡ってきたことが建国のルーツになっているということもあって、カトリックに対する差別や偏見は根強いものがありました。はたして、共和党のフーバー陣営はスミスに対して「彼が大統領に当選したら、アメリカをローマ法王に献上してしまうのではないか」といったネガティブ・キャンペーンを展開。冷静に考えれば馬鹿げた話ですが、当時の一般有権者には結構、これが効果的だったようで、スミスの政策で恩恵を受けるはずの労働者層までもが共和党支持に回り、11月の選挙では、スミスはお膝元のニューヨーク州も落とすほどの惨敗を喫してしまいます。

 1929年に発足したフーバー政権は、同年10月の世界恐慌に対してまったく無力であったことから、1932年の選挙では、今度は民主党が有利と予想されていました。スミスは、大恐慌後の経済再建が最大の争点になるのであれば、“カトリック”という要素は問題になるまいと捲土重来を期していましたが、“勝てる選挙”に際して、民主党の候補になったのはワスプ出身で後輩のニューヨーク知事、フランクリン・ルーズベルトです。

 その後、スミスは政界を事実上引退し、ルーズベルトがアメリカ史上唯一の4選を果たした1944年に亡くなりましたが、ルーズベルトにとって、地元の有力な“先輩”は煙たい存在だったようで、彼の追悼切手が発行されたのは、ルーズベルトが亡くなった後の1945年11月のことでした。

 今回の大統領選挙の有力候補の顔ぶれを見ていると、共和党がアイルランド系のマケイン、民主党がアフリカ系(黒人)のオバマか女性のヒラリー・クリントンか、といった具合で、ワスプ男性の有力候補者は一人もいません。スミスの時代と比べると、まさに隔世の感がありますな。

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 青函トンネル20年
2008-03-13 Thu 14:11
 津軽海峡を結ぶ世界最長のトンネル、青函トンネルが1988年3月13日に開通してから、今日でちょうど20年です。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 青函トンネル

 これは、青函トンネル開通時に発行された記念切手で、“日本海”のヘッドマークをつけたED79型の電気機関車とトンネルの地図が描かれています。

 本州と北海道をトンネルで結ぶという構想は第2次大戦以前からありましたが、それが具体的に検討されるようになるのは、1950年代に入ってからのことでした。

 すなわち、1950年に朝鮮戦争が勃発し、朝鮮周辺で使われた機雷が津軽海峡に流れ着くようになったほか、1954年の洞爺丸事故で多くの犠牲者が出たことなどから、青函連絡船に代わる北海道=本州間の安全な交通の確保が課題となったためです。

 北海道側吉岡で斜坑の掘削が始まったのは1961年3月23日のことで、 トンネル本体の建設費は計画段階で5384億円でした。しかし、実際の工事費用はトンネル本体だけで7455億円に達し、これに鉄道取り付け線を含めた海峡線としての建設費9000億円にも上ってしまいました。そのうえ、建設途中で整備新幹線計画による北海道新幹線でも用いられる計画が浮上したものの、結局、新幹線の建設は凍結になってしまい、さらに、開通時には、関東から北海道への旅客輸送は既に航空機が9割を占める状況になっていたため、開業前には要した巨額の費用と収益があまりにも釣り合わないとして“無用の長物”と批判されることも少なくありませんでした。

 しかし、旅客輸送こそ、期待されていた収益を上げることはできませんでしたが、貨物輸送に関しては天候に左右されず、また、鉄道ゆえに運行時間が正確ということもあって、その重要性は極めて大きなものがあります。

 さて、毎年4月に刊行の、記念切手の“読む事典”<解説・戦後記念切手>シリーズですが、今年も4月に第6巻として『近代美術・特殊鳥類の時代』を刊行します。今回は、1979年5月の「近代美術シリーズ」から1985年3月の「国際科学技術博覧会(つくば博)」までの記念・特殊切手について、発行にいたる経緯やデザインの解説、切手印刷の技術的な情報などを網羅的に採録しています。

 今回ご紹介の切手については、来年(2009年)にシリーズ第7巻が刊行できれば、そこで詳細をご説明しようと思いますが、そのためには、まずは4月に刊行の第6巻の売り上げをある程度確保しなければなりません。というわけで、第6巻が刊行の暁には、なにとぞ、ご協力のほどよろしくお願いいたします。

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 無事帰国しました
2008-03-12 Wed 23:32
 台湾の台北世界貿易中心(TWTC)で開催されていたアジア国際切手展<TAIPEI 2008>は昨日閉幕し、僕も自分の作品を持って今日の午後、無事に帰国しました。コミッショナーの岩崎善太さん、アシスタント・コミッショナーの藤井堂太さんをはじめ、現地でお世話になった皆様には、この場を借りてお礼申し上げます。

 さて、無事の帰国ということで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 航空(故宮)

 これは、1967年4月1日、中華航空の台北=大阪=東京線ならびに台北=香港線の就航に合わせて台湾が発行した航空切手で、台北の國立故宮博物院の上空を飛ぶ中華航空機が描かれています。今回の台湾行きは、コスト・パフォーマンスを重視して中華航空を使ったため、口の悪い友人連中からは「落ちるぞ~」と散々脅かされていたのですが、まぁ、何はともあれ、無事に帰国することができました。もっとも、僕の座席は通路側でしたから、実際に飛行機が故宮上空を通過したのかどうかは確認できませんでしたが・・・。(まぁ、実際に故宮上空を飛行機が飛ぶということはないのでしょうけどね)

 ご承知のように、台湾の國立故宮博物院は、国共内戦の末期、蒋介石の国民党政権が台湾へと撤退する際に北京の故宮博物院から精選して運び出された美術品が主に展示されており、その数が合計60万8985 件冊にも及ぶことから世界4大博物館のひとつに数えられています。

 現在の故宮博物院の建物は、2001年から2006年までかけて大規模な耐震・改装工事が行われた結果、切手に取り上げられたものとはかなり雰囲気が違っています。参考までに現在の博物館の前で撮った写真を下にアップしておきますので、切手と見比べていただくのもよいかと思います。

 故宮前にて

 ちなみに、今回ご紹介の切手は日本の印刷局が作ったモノですが、台湾で印刷局製の切手が発行されるようになった経緯については、拙著『外国切手に描かれた日本』でもまとめていますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

 さて、今回の切手展に出品した僕の作品、“Making of the Pacific-Asian Order from WWII to the Early Period of the Cold War”(邦題「“戦後”の誕生」)は、84点の金銀賞という結果になりました。8フレ出品の資格が得られる大金銀賞まであと1点。となると、次は8フレ資格の大金銀賞を目指して国際展(アジア展を含む)に出品したくなるのが人情というもので、帰国早々、次はどこの展覧会にエントリーしようかなぁ…などと考えています。

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 撤収直前
2008-03-11 Tue 08:30
 早いもので7日から始まった<TAIPEI 2008>も今日が最終日。今日の夕方には作品を引き取り、明日朝の便で東京に戻ります。というわけで、今日は“撤収”ネタにからめて、<TAIPEI 2008>に出品中の作品“Making of the Pacific-Asian Order from WWII to the Early Period of the Cold War”のなかから、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 重慶1949

 これは、1949年10月21日、重慶からロンドン宛に差し出された書留便で、国民政府(国府)側の切手が銀円で75分相当貼られています。銀円というのは当時の中華民国の通貨単位で、国共内戦によるハイパーインフレの結果、それまでの金円制度(1948年8月、それ以前の国幣300万円を1円として作られた)が破綻し、1949年7月からは銀元を基準に各地の実勢レートで換算することになったことに伴い、導入されたものです。

 さて、国共内戦の結果については、中国共産党(中共)に敗れた国府が南京を撤退して台湾に逃げ込んだと説明されることが多いのですが、正確に言うと、国府の首都はいきなり南京から台北に遷ったわけではなくて、戦況に応じて、南京→広州→重慶→台北というルートをたどっています。ちなみに、中共の人民解放軍が南京に入城したのは1949年4月23日、広州を占領したのは同年10月14日、重慶を占領したのは11月30日のことで、国府が台北を臨時首都とすることを決議したのは12月4日(移転は7日)のことでした。

 この日程を見ていただくとお分かりのように、1949年10月1日に北京で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したときには、国府はまだ大陸に残って中共との戦いを続けており、中国大陸全土が中共の支配下に入っていたわけではありません。今回ご紹介のカバーは、1949年10月以降も、重慶が国府の首都であった時期に差し出されたもので、貼られている金円の切手と合わせて、国府の撤退直前の状況を物語るカバーといってよいでしょう。

 ところで、国府が大陸から台湾に撤退するにあたって、故宮の名宝を大陸から運び出したことは広く知られています。これにあやかって、僕のコレクションも無事に台北から撤収成功、と行きたいものです。
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 鵞鑾鼻燈台を訪ねて
2008-03-10 Mon 07:33
 せっかく台湾に来ているのだから、台北ばかりではなく、他の場所も見てみたいということで、昨日(9日)は思い立って、この切手の景色を見に行ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ガランピ燈台


 これは、1939年6月1日に発行された6銭切手で鵞鑾鼻燈台が描かれています。なお、鵞鑾鼻の読み方については、カタログでは“ガランピ(日本語読み)”もしくは“オーロワンピ”と表記されていますが、実際の地元の人たちの発音だと、“オーランピー”と聞こえます。

 鵞鑾鼻は東経120度51分・北緯21度54分に位置する、台湾島最南端の岬で、太平洋と南シナ海を分け、南はバシー海峡を隔ててフィリピンと対面しています。この地の灯台は、1882年に日本とイギリスの協力を得て清朝が建設したのが最初ですが、切手に取り上げられているのは、日本時代に建てられたものです。

 鵞鑾鼻燈台は、日本統治時代は「帝国最南端の灯台」として広く知られており、その風景は“台湾八景”の一つにも数えられていました。現在、燈台とその一帯は“鵞鑾鼻公園”として整備されており、出入り口から芝生の斜面の中を上っていくと“台湾八景”の碑があって、その前に燈台があるという位置関係になっています。下の画像は、今回撮影したもので、“台湾八景”の碑の前から燈台を望む構図です。公園到着時ににわか雨に遭い、おまけに風も強かったので、髪の毛がグチャグチャになっていますが、まぁ、このあたりはご愛敬でしょう。

 ガランピ実物

 ところで、この写真の構図は、一般的な観光客(鵞鑾鼻までやってくることじたい“フツー”ではない、というツッコミはなしですぜ)が燈台をバックに撮影するときの定番パターンのようで、露店の土産物屋なんかも映っています。ただ、切手の原画はこの写真の方向からの風景ではなく、燈台の後ろに回って海側・猫鼻岬側をバックにした構図です。燈台の後ろ側に回り込むのは、地形的に一般の観光客には難しいのですが、鵞鑾鼻公園の入場券(さすがに、旅先にスキャナーを持っていくわけには行かないので、入場券の画像は帰国後に挿入します)には、切手とほぼ同じ方向から見た燈台の写真が印刷されています。入場券の写真を見ると手前には樹木が茂っていますが、切手の画面前方にもやはり熱帯の樹木が描かれており、この樹木が単なるデザイン上の演出ではなかったことも分かりました。

 なお、切手では、燈台のすぐ前が海であるかのようにも見えますが、実際には、燈台は岬の丘の部分に建てられており、燈台から海岸までは若干の距離があります。その間には、ガジュマルなどの森があり、その中の小道を通って岩場の海岸に出るわけですが、海岸に近いところには“親吻岩(キスしているように見えるところから、この名がついた:下の画像)”のような奇岩も見られます。

 親吻岩

 さて、切手には、最初の画像の6銭切手のほか、1942年発行の40銭切手(凹版)、さらに版式を凸版に改めて発行された1944年発行の40銭切手があります。個人的には、凹版で紫色の40銭切手が一番きれいだと思うのですが、今回は<TAIPEI 2008>に出品中の僕の作品“Making of the Pacific-Asian Order from WWII to the Early Period of the Cold War”(邦題「“戦後”の誕生」)のメダルに金ケがつく(金銀賞以上をとること)を目標にしていますので、金に近い黄色の切手を持ってきてみました。

 いずれにせよ、鵞鑾鼻燈台は、子どもの頃から切手の図案として慣れ親しんでいただけに、やはり、実物を見るとなんともいえない感慨が沸いてきますねぇ。去年の『香港歴史漫郵記』『タイ三都周郵記』でも書きましたが、切手で見慣れた風景を訪ねて歩く旅というのは、収集家にとってはなんとも楽しいものです。皆様もぜひ、お試しあれ。
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 関門トンネル50年
2008-03-09 Sun 07:40
 下関と門司を結ぶ関門国道トンネルが1958年3月9日に開通してから、今日でちょうど50年です。さすがに、半世紀の節目の日というのはなかなかないので、今日は台湾や僕の作品のことは離れて、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 関門トンネル開通

 これは、50年前に発行された“関門トンネル開通”の記念切手です。

 下関市椋野と北九州市門司区を結ぶ関門トンネルは、海底部分780メートルを含む3461メートルの海底トンネルで、直径約十mのトンネル内は3層に分かれており、最下層は歩行者道路(自転車も通行可)、中央は自動車専用道(上下線1本ずつ)、上層は排気ダクトの3層となっています。

 吊り橋ないしはトンネルで関門海峡をつなごうとする計画は、昭和の始め頃から検討されるようになり、1932年には、内務省が下関=門司間の連絡ルートについて具体的な調査を検討。その結果、吊り橋に関しては、当時の社会状況から見送られ、トンネル方式が採用されることになりました。その後、1934年頃から、関門トンネルの調査・研究が開始され、1937年8月からの試掘立坑工事を経て、1939年に本工事がスタートします。しかし、戦争の影響で工事は一時中断され、さらに、終戦後も関門トンネル工事の続行は日本の復興にとって負担が大きすぎると判断したGHQの反対もあり、工事はなかなか進展しませんでした。

 本格的な工事の再開は、1952年のことで、このとき、関門トンネルの工事は(旧)道路整備特別措置法 による特定道路に指定され、工費31億5000万円・工期5年のプロジェクトとなります。さらに、1956年には、日本道路公団の発足に伴い、関門トンネルは有料道路として公団が工事を引き継ぎ、建設省(現・国土交通省)関門国道工事事務所に思考が委託されました。

 こうして、1958年3月、19年の歳月と総額80億円、のべ380万人の労働力を費やした世界最大(当時)の海底トンネル、国道・関門トンネルが開通しました。

 ちなみに、関門海峡を結ぶ陸上交通のルートとしては、現在、この関門トンネルとは別に、1942年11月に開通した、世界初の海底トンネルの“関門鉄道トンネル”(JR下関駅=門司駅間)、1973年11月に開通した関門橋、1975年3月に営業開始となった山陽新幹線の新関門トンネル(JR新下関駅=小倉駅)、の3つがあります。

 切手デザインの構想としては、すでに1942年に開通していた鉄道のトンネルと区別するため、自動車・自転車・歩行者を入れるということで、道路公団側と原画担当者の久野実の思惑が当初から一致していており、この線に沿って、トンネルの縦断面を描いた横型の原画と横断面を描いた縦型の原画の二種類が制作され、このうちの横型のものが採用となりました。その後、久野の下図では道路部分が片側2車線となっていたものを、実際のトンネルにあわせて片側1車線に直し、自転車は人間が乗っている状態ではなく歩きながら推している状態にするなどの修正を施されています。

 なお、この切手の詳細については、拙著『ビードロ・写楽の時代』でもご説明しています。同書は現在、版元品切れですが、アマゾンなどでは結構な高値で売りに出されているようです。なんとか重版してもらいたいのですが…。
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 ティモールの女王
2008-03-08 Sat 09:34
 今日は国際婦人デー。というわけで、現在、国際切手展<TAIPEI 2008>に出品中の作品の中から、なにか女性を描いた切手はないかと探してみたら、こんなモノがありました。(画像はクリックで拡大されます)

 ティモール加刷

 これは、第二次大戦の終結直後、西ティモール島支配の復活を目指すオランダが、現地に上陸して発行した切手です。もともとの台切手は、戦前のオランダ領東インドの切手ですが、大戦中は日本海軍の占領下で“大日本”の文字と海軍を示す錨が加刷され、戦後、さらに“NICA TIMOR”の文字が加刷されています。このNICAは、Netherland Indies Civil Administrationの頭文字を取ったものです。

 ティモール島は、1520年にポルトガル人が領有を宣言していましたが、1640年にオランダ人がオランダ東インド会社の下で島の西部に定住を開始。その後、1859年に両国のまで条約が結ばれ、ティモール島は、ポルトガルの支配する東ティモールとオランダの支配する西ティモールに分割されました。ただし東西の境界線は長らくあいまいなままにされ、境界線が正式に確定するのは1914年のことでした。

 第二次世界大戦中、日本軍は中立国・ポルトガルの領土であった東ティモールを含め、全島を占領しましたが、1945年8月15日の敗戦を受け、同17日、スカルノがインドネシア共和国の独立を宣言。これをうけて、ティモール島の領有権を主張するインドネシアと、そもそもインドネシアの独立を認めず、西ティモールを含む旧蘭印全域の支配を復活しようとするオランダとの間で、インドネシア独立戦争が勃発することになりました。

 結局、1949年12月27日、オランダはハーグの円卓会議でインドネシアの独立を正式に認め、独立戦争は終結。1950年にインドネシアは西ティモールを東ヌサ・トゥンガラ州の一部とすると宣言しています。

 インドネシア独立戦争に関しては、いろいろと面白いマテリアルがあるので、それだけで独立したコレクションを作ることも十分に可能だろうと思います。今年は、日本とインドネシアの外交関係樹立から50周年を記念して“日本インドネシア友好年”だそうですから、あちこちで友好イベントも開かれるんでしょうけれど、それにあわせて、なにか関連の切手イベントをやれたら良いな、となんとなく思っている内藤でした。
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 台湾でデビュー
2008-03-07 Fri 10:49
 今日から、アジア国際切手展<TAIPEI 2008>が開幕となります。昨日の日記でも書きましたが、今回の僕の出品作品、“Making of the Pacific-Asian Order from WWII to the Early Period of the Cold War”(邦題「“戦後”の誕生」)は、実質的には新しい主題への挑戦になりますので、台湾展の初日にあたる今日が事実上の国際展デビューの日ということになります。

 というわけで、今日は“デビュー”ネタということで、台湾切手の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 蒋介石69歳

 これは、1955年10月31日、台湾郵政が蒋介石の69歳の誕生日に合わせて肖像切手です。実は、この切手は、1954年10月に印刷局が当時の西ドイツから導入したゲーベル社のグラビア印刷機で製造した最初の外国切手で、海外における印刷局製造のグラビア多色刷のデビュー作ともいうべきものです。

 まず、この切手が発行された背景について簡単にまとめておきましょう。

 1949年、大陸を追われて台湾に逃げ込んだ蒋介石の国民党政権は、翌1950年に朝鮮戦争が勃発し、アメリカが“台湾海峡の中立化”を宣言したことで、アメリカの軍事保護下で生き長らえることになります。

 すでに国共内戦末期の1948年5月、国民党政権は2年間の時限立法として「動員戡乱時期臨時条款」を制定。反乱団体である中国共産党を平定(戡乱)するまでの国家総動員体制の構築を目指していました。この臨時条款は、期限満了となる1950年5月以降も“反乱”が平定できていないことを口実に延長され、台湾では、蒋介石と蒋経国の父子二代の総統を頂点とした一党独裁体制が築かれていきます。

 こうした状況の中で、国民党政権は、1952年以降、蒋の総統就任記念日や誕生日などに合わせて、彼の肖像の切手をさかんに発行し、国民に対して個人崇拝を浸透させることに努めており、今回ご紹介の切手も、そうした政策の一環として発行されたというわけです。

 もっとも、今回のもの以前の蒋介石切手は、凹版の単色または凹版と凸版の掛け合わせ印刷であしたから、台湾内での製造が技術的に可能だったのですが、今回の切手は台湾最初のグラビア切手、それも三色印刷であったため、台湾内で調整することは技術的に不可能でした。

 このため、友好関係にある国(当時の日本は、1952年に調印した日華平和条約により、台湾の国民政府を中国の正統政府とみなしていた)のうち、グラビア印刷にすぐれた国として、日本に白羽の矢が立てられたものと思われます。また、日本での製造コストが、欧米の業者等に発注するよりも安かったことも、当然、考慮されていたと考えられます。

 もっとも、台湾側は、当初、必ずしも日本の印刷局に全幅の信頼を置いていたわけではないようで、この切手の翌年、1956年に発行された「蒋総統誕生70年」の記念切手の製造は印刷局ではなく、ロンドンのハリソン・アンド・サンズに発注しています。おそらく、台湾側としては、印刷局と欧米の老舗の印刷会社を競争させ、製品の品質やコストなどを検討してみるつもりだったのでしょう。

 しかし、最終的には、1958年3月に発行された印刷局製の切手、「台湾の昆虫と花」がすばらしい出来栄えであったこともあり、印刷局は台湾側の信頼を獲得し、1958年の蒋介石誕生日に発行された肖像切手は、ふたたび、印刷局で製造されています。その後も、台湾郵政は、台湾内でも精巧なグラビア印刷の切手が安定的に調整できるようになる1970年代後半まで、ハリソン・アンド・サンズのみならず、スイスのクールボアジェ社やオーストリア国立印刷局など、世界の一流会社等にグラビア切手の製造を発注していくのですが、そのなかでも、日本の印刷局は圧倒的なシェアを誇っていました。その大半は、日本が中国(大陸)と国交を回復し、台湾と断交する以前のものですが、断交後の1975年にも印刷局は台湾の切手印刷を受注しており、台湾側が、政治的な立場はともかく、日本の切手製造技術を非常に高く評価していたことがわかります。

 なお、今回の切手をはじめ日本の印刷局による外国切手製造の歴史については、拙著『外国切手に描かれた日本』でもまとめていますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。
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 台湾に行ってきます
2008-03-06 Thu 10:06
 明日(7日)から、台湾の台北世界貿易中心(TWTC)でアジア国際切手展<TAIPEI 2008>が開催されます。今回は、僕も出品者として自分の作品の搬入・搬出をやりますので、今日から12日まで台湾に行ってきます。というわけで、まずはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ミカドキジ

 これは、今回の切手展を記念して、会期初日の明日発行予定の切手の1枚(画像は台湾郵政のHPから取りました)で、彼の地の1000元札のほか、切手展のシンボルマークにもなっているミカドキジがとりあげられています。

 ミカドキジは台湾固有種のキジで、台湾最高峰の玉山(日本時代、新高山といわれていた山です)や阿里山などの高地に生息しています。

 日本時代の1906年のことで、現地調査に来ていたイギリス人の博物学者、ウォルター・グッドフェローが、玉山付近で在地のツォウ人が髪飾りとしてつけている白黒の羽を見て新種の鳥と確信し、これをイギリスに持ち帰って鑑定したことで、その存在が広く知られるようになりました。ミカドキジとの名前は、 当時、台湾が日本領だったことを踏まえ、グッドフェローが明治天皇に敬意を表してこの鳥に“Syrmaticus mikado”との学名をつけたことに由来しています。

 自分が出品者として参加している切手展の初日に、こういう“ジャポニカ”切手が発行されると、日本人としては単純素朴に嬉しいものですな。

 さて、今回の切手展では、僕は、2005年の<JAPEX>に出品した「“戦後”の誕生」をリニューアルした作品“Making of Pacific-Asian Order from WWII to the EarlyPeriod of the Cold War”を出品しています。

 これまで、国際展に出品した作品は、大きく分けて、①昭和の戦争(満洲事変~1945年の終戦まで)、②香港の歴史、③戦後史(1945年以降)の3種類があるのですが、このうちの戦後史のコレクションの一番初期のかたちは、1995年の全日展に出品した『戦後史』という作品で、それをもとに、2000年のバンコク展(アジア展)には“A History of Occupied Japan”として出品しました。ただし、このときの作品は、タイトルからもご想像いただけるように、日本国内の民主化・非軍事化の流れを中心にすえたものだったため、どうしても“ジャパン・ローカル”のようなコレクションになってしまい、外国人審査員の評判も芳しいものではありませんでした。

 その後、2005年に<JAPEX>の企画展示「1945」に「“戦後”の誕生」を出品した際には、“A History of Occupied Japan”をベースに、欧州・日本・中国・朝鮮・東南アジアの地域ごとに、“戦前”から“戦後”への流れをまとめたのですが、今回は、その構成をもう一度組み直し、日本国内の出来事を取り上げるのは最小限にして、戦前、列強諸国の植民地支配を受けていたアジア・太平洋地域が、日本の占領時代を経て、第二次大戦後の東西冷戦という新たな枠組みの中でどのように変わっていったのか、という国際関係史の流れを中心とするよう、全面的にリニューアルしました。今回の英文タイトルはそうした事情を反映したものですが、邦題としては、2005年以来の「“戦後”の誕生」を使うつもりです。

 作品は、前史として、日本のアジア・太平洋地域への拡大と撤退を示した後、ヤルタ会談と日本の降伏、日本撤退後の中国、朝鮮、東南アジアの状況、そして、アジアにおける冷戦構造の枠組みを決定した中華人民共和国の成立・朝鮮戦争・(第1次)インドシナ戦争をとりあげています。インドシナ戦争まで含めたのは、1954年のジュネーブ協定によって、ベトナムの南北分割が確定し、アジア・太平洋地域における冷戦構造が完成したことを表現したかったからなのですが、ちょっと範囲を拡大しすぎたかもしれません。

 まぁ、今回の作品は、過去の出品作品のリニューアルとはいえ、実際にはほとんど新作のようなものですし、取り扱っている時代も新しく、「昭和の戦争」コレクションのようにフルスケール(8F)での参戦ではありませんから、賞の結果にはあまり期待していないのですが、何年か後にLVのメダルを取ってフルスケール出品の資格を得るためにも、審査員をはじめ作品をご覧いただいた方々の忌憚のないご意見をうかがって勉強させていただければ幸いと思っています。

 なお、台湾へは自分のパソコンを持って行き、あらかじめ、取り込んでおいた切手類の画像を元に、いつもどおり毎日1本ずつ記事を書いていく予定ですが、現地のネット環境等により更新ができないことがあるかもしれません。その場合は、あしからずご容赦ください。

 * 昨日の香港協会のパーティーでの講演は無事、終了いたしました。お集まりいただきました多くの方々には、この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございました。
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 香港上海銀行
2008-03-05 Wed 11:05
 かねてご案内のとおり、今日(5日)は夕方18:30から開催の日本香港協会の春節パーティーで、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。というわけで、会場となる香港上海銀行(HSBC)に敬意を評して、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 香港上海銀行・穿孔(裏側)

 これは、ヴィクトリア女王時代の香港切手で、香港上海銀行を意味する“H&S BC”の穿孔が施されています。上の画像は穿孔を見やすくするため、裏側から穿孔されたものをお見せしていますが、これとは別に表面から穿孔を施された切手のイメージはこんな感じになります。

 香港上海銀行・穿孔

 切手を大量に使用する企業などが、社用の切手の盗難や従業員による私的流用を防ぐため、切手に会社の頭文字や屋号などの文字を入れる例は、戦前では、洋の東西を問わず良く見られた現象である。香港では、1878年に社用の切手にそうした表示を行うことが公認され(それ以前にも、実際には一部で行われていたが)、1890年ごろから広く行われるようになりました。当初、社名などの表示はスタンプを押す方式が採られていましたが、消印類との混同を避けるため、後に印を押すことは禁じられ、今回ご紹介の切手のように穿孔を施すことがルールとなりました。

 現在、アジア有数の国際金融都市となっている香港で最初の銀行ができたのは、香港島が英領となって間もない1840年代のことですが、当時の銀行はロンドンやインドに拠点を置く“アングロ・インディアン銀行”でした。このため、彼らの取引はイギリス本国やインドとの決済が優先されており、中国や香港での取引には制約も多く、香港在住のイギリス商人たちは不満を持っていました。

 さらに、1864年初め、インドにおける金融の中心地であったボンベイの金融業者たちがイギリス本国の勅許を得て、彼ら独自のバンク・オブ・チャイナを創立する計画が浮上します。この計画が実現されてしまうと、香港の経済・金融はますます、イギリス本国やインドに従属することになってしまうため、このことに危機感を抱いたP&O汽船の香港支配人、トーマス・サザーランドは、他地域の利害に左右されない効率的な銀行を香港でも創設することを提案。彼が書き上げたスコットランドの銀行業に関する文献を参考に設立趣意書草案は、香港のイギリス商人たちの圧倒的な支持を得て、数日のうちに香港上海銀行設立準備委員会が結成されました。

 設立準備委員会は、1864年7月、設立趣意書を発表。資本金は500万香港ドルで、1株が250香港ドルの株が2万株、募集されました。こうして、1865年3月3日、地元金融機関の連合体ともいうべきHSBCが香港で営業を開始する。さらに、翌4月3日には上海支店でも営業が始まりました。初代頭取はパリ割引銀行香港支店長だったビクター・クレッサーが任命です。

 同行の創業間もない1866年、アメリカの南北戦争で綿花栽培が打撃を受けたことに加え、ヨーロッパでの普墺戦争などによって、イギリスの大手信用機関、オーバーレンド・ガーニー・カンパニーが破産すると、ロンドンの金融不安から世界的な恐慌が発生。その結果、多くの金融機関が破綻し、香港でもジャーディン・マセソン商会とならぶ繁栄を誇ったデント商会が倒産に追い込まれました。しかし、HSBCは取締役会メンバー企業の支援もあって危機を乗り切ったばかりか、破綻した金融機関を吸収して成長を続け、この年、日本にも支店を開設しています。

 1870年代に入るとHSBCの経営は次第に安定し、1876年、トーマス・ジャクソン(1871~74年のHSBC横浜支店長)が総支配人に就任すると、彼の在任中にHSBCは急成長を遂げ、極東随一の大銀行としてゆるぎない地位を確立しました。

 HSBC本店の所在地は、創業以来、現在にいたるまで皇后大道中の一番地ですが、社屋は何度か建て直されており、現在の本社ビルは、1985年に完成した4代目のものです。

 なお、拙著『香港歴史漫郵記』では、19世紀以来、アジアの金融都市・香港の顔であり続けた香港上海銀行とその社屋の歴史についてもいろいろとご説明していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。
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 ペルリ150年
2008-03-04 Tue 11:01
 幕末の浦賀に黒船を率いてやってきたマシュー・ペリーが1858年3月4日に亡くなってから、今日でちょうど150年になります。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ペリー来琉

 これは、1953年5月26日、アメリカ施政権下の沖縄で発行された“ペルリ来琉100年”の記念切手です。

 浦賀にやってきたペリーの艦隊は、太平洋を横断してダイレクトに沖縄に到達したわけではなく、大西洋から喜望峰、セイロン、シンガポール、香港、上海などを経て沖縄、そして日本へとたどり着くというルートを取りました。

 ペリー艦隊の究極の目的は、清朝との貿易を進めるとともに、捕鯨の寄港地として日本に開港を求めることにありましたが、沖縄はそのための前進基地として重要な役割を持っていました。特に、浦賀に到着する前に、琉球王朝を恫喝し、那覇の開港に成功したことで、日本を目指すアメリカにとって、沖縄の価値が飛躍的に上昇することになります。

 1854年に開港交渉のために再来日した際、ペリーの腹積もりでは、日本の東南に5~6ヶ所、北に2~3ヶ所を開港させる予定でしたが、日本側は長崎の代わりに1港のみの開港を認めるという方針を崩そうとせず、交渉は難航します。結局、妥協の末、ペリーは日本に下田と箱館しか開港させることができませんでした。その意味では、ペリーの対日交渉は(彼らから見れば)成果の薄いものだったといえます。

 ところが、表向き日本とは別の国として扱われていた琉球を、日本の“属領”として考えるなら、下田と箱館に那覇を加えることで、ペリーは日本の北と中央、それに南の三地点の開港を実質的に成功させたことになります。その意味では、アメリカと日本とを結ぶ太平洋上の要石という沖縄の価値は、今も昔も、なんら変わらないといえましょう。

 なお、第二次大戦後、1950年代までの沖縄は、アメリカの施政権下で中国内戦での国民政府支援のための補給・中継基地として、また、朝鮮戦争への出撃基地として、最大限に活用されていました。また、今回の切手が発行される約2年前の1951年9月に調印された対日講和条約の第3条では、「(日本政府は沖縄等を)合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下に置くこと」が定められ、同時に調印された日米安保条約とともに、アメリカにとっての太平洋の要石としての沖縄の地位が確定することになります。

 今回ご紹介している沖縄のペリー切手は、こうした状況の下で、宗主国アメリカと沖縄との最初の出会いを記念するものとして、ペリーの艦隊が那覇港に到着した記念日にあたる5月26日に発行されたものです。
 
 ちなみに、新里金福・大城立裕 『沖縄の百年 第一巻人物編』(大平出版社)によると、ペリーの肖像に対して沖縄の住民が持っているイメージは次のようなものだそうです。

 写真でみるペリーは、いかめしい面構えをしている。金モールの正装からして仰々しいが、半身にかまえてふんぞりかえったその表情がまた、尊大と威厳を絵で描いたように厳粛である。・・・(中略)・・・その表情のいかめしさは何も旧時代のせいばかりではなかったろう。ペリーの顔が明治天皇やヒットラーの顔にどこか似ているのは、おそらくそれらの顔の属していた社会が、その体質に共通するものを持っていたからであった。・・・(中略)・・・当時のペリーの写真には、こうした新興国アメリカの野望と、その野望を力ずくでも押し通さずには止まない凶暴な意思とが、その血走った眼にも、への字に結んだ口元にも、端的にあらわれている。

 この記述が収められた『沖縄の百年』は、アメリカ時代の1969年に書かれたもので、ペリーはその冒頭に取り上げられています。僕らから見ると、人相としてはどう見ても似ているとは思われない明治天皇やヒットラーとペリーの顔を「どこか似ている」と評しているのは、当時の琉球政府を恫喝することで那覇を開港させたペリーの高圧的な姿に、太平洋戦争後も長期にわたって続けられていたアメリカによる軍事支配の歴史が重ね合わせられているからなのかもしれません。もっとも、このことは、アメリカにとって必ずしもマイナス要因とはなるものではないでしょう。アメリカにしてみれば、支配者である自分たちに対する畏怖の念を、“植民地”沖縄の住民に強烈に植え付けておくことは、なにかと好都合でもあるからです。
 
 なお、ペリーの肖像は同じく1953年のアメリカ切手にも取り上げられていますが、今回の沖縄切手とアメリカ切手との比較などは、拙著『外国切手に描かれた日本』をご覧いただけると幸いです。

  ご案内 
 明日(3月5日)18:30より、東京・日本橋の香港上海銀行10階の大会議室にて、日本香港協会の春節パーティーが行われますが、その余興(?)として、拙著『香港歴史漫郵記』の内容を元に、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。パーティーの会費はお1人6000円ですが、皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加いただけると幸いです。(パーティーの詳細やお申し込みはこちらからお願いします)
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 30万ヒット
2008-03-03 Mon 12:45
 昨日の午後、カウンターが30万ヒットを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。というわけで、今日は“耳の日”でもありますので、額面30円のこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 小児科・耳鼻咽喉科

 これは、1965年10月に発行された「第8回国際耳鼻咽喉科学会議・第11回国際小児科学会議』の記念切手です。

 1965年10月から11月にかけて、東京で2つの国際的な医学会議があいついで開催されました。

 最初に行われたのは、10月24日から30日まで、東京・上野の東京文化会館を中心に開催された第八回国際耳鼻咽喉科学会議です。

 国際耳鼻咽喉科学会議は、耳鼻咽喉科学の国際学術会議として、1928年にデンマークで第1回会議が開催されて以来、第2次大戦による中断の時期はありましたが、4年に1回、世界各地で開催されています。東京で開催された1965年の第8回会議には65ヶ国から約1500名が参加し、会議の名誉総裁は高松宮夫妻、総裁は首相の佐藤栄作が務めるなど、医学系の国際会議としては、いままで日本で開催されたものの中でも最大規模のものでした。

 つづいて、11月7日から13日まで、ホテル・ニューオータニを主会場に、赤坂プリンスホテルと上智大学を文化会場として、第11回国際小児科学会議が開催されています。

 小児科学の国際学術会議である国際小児科学会議は、1912年にパリで第1回会議が開かれた後、第2次大戦以前は不定期の開催となっていましたが、1947年にニューヨークで開催された第5回会議以降は3年に1回の定期開催となっています。

 1965年に東京で開かれた第11回会議には、海外から3000名、国内から1000名が参加しており、参加者数の点では、10月に開催された国際耳鼻咽喉科学会議を凌駕しています。

 この二つの国際医学会議は、本来、相互になんら関係のないものでしたが、開催期間が比較的近いとの理由で、一枚の記念切手として発行されることになりました。発行日は、両会議の間をとって、国際耳鼻咽喉科学会議の最終日、10月30日とされました。

 切手の図案は、郵政省の報道発表によると“耳鼻咽喉を表す横顔を描き、小児を配す”というもので、原画作者は渡辺三郎です。なお、切手左下のICORLは“International Congress of Oto-Rhino-Laryngology(国際耳鼻咽喉科学会議)”を、ICPは“International Congress of Pediatrics(国際小児科学会議)”を、それぞれ意味しています。

 また、両会議の期間中の10月24日から11月13日まで、両会議の記章(切手とは逆に、こちらは国際小児科学会議が左側に位置している)を描いた特印も使われたのですが、日程の関係から、特印の使用が開始されたときには、まだ、記念切手が発行されていないという現象が起きています。

 ちなみに、切手の額面が30円となっていることについて、当時の切手係長の瀬川清は「(この切手は)おなじく10月に国際文通週間の切手が40円で登場するし他の記念切手が大体10円だから30円の加貼用切手もたまによいという省内の意見が(郵政審議会の専門委員会で)諒解された」と説明していますが、要するに、必然的な根拠や理由はなかったようです。

 なお、この切手を含め、東京オリンピック前後の記念切手については、拙著『切手バブルの時代』で詳しく解説していますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 *アマゾンでは古書としてバカ高い値段がついていますが、発売元にはまだ在庫があり、定価で販売されています。

  ご案内 
 3月5日18:30より、東京・日本橋の香港上海銀行10階の大会議室にて、日本香港協会の春節パーティーが行われますが、その余興(?)として、拙著『香港歴史漫郵記』の内容を元に、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。パーティーの会費はお1人6000円ですが、皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加いただけると幸いです。(パーティーの詳細やお申し込みはこちらからお願いします)
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 クレタの双頭の鷲
2008-03-02 Sun 11:39
 きょうはプーチン大統領の任期満了に伴うロシア大統領選の投票日です。プーチンが後継指名したメドベージェフ第1副首相の圧勝は確実で、大統領が退任後に首相に就任して後任大統領を支える“2頭政権”が誕生するということで、帝政ロシア時代の“双頭の鷲”にちなむマテリアルの中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 クレタ・ロシア局

 これは、ギリシャのクレタ島に置かれていた帝政ロシアの郵便局から差し立てられたカバーで、ロマノフ家の紋章である双頭の鷲を描く切手が貼られています。

 双頭の鷲は、もともとは、東ローマ帝国で東洋と西洋の両方にローマ皇帝の支配を意味するものとして使われていました。東ローマ帝国の後継者を自負していたロマノフ朝は、東ローマ帝国にならい「西(ヨーロッパ)」と「東(アジア)」にまたがる統治権を象徴するため、この紋章を採用したもので、その意味では、東西の境界地帯ともいうべきクレタ島のロシア局にはピッタリです。

 1897年2月、オスマン帝国支配下のクレタ島でギリシャ正教徒の反乱がおこると、かねてからクレタ島に対する領土的な野心を抱いていたギリシャは、総動員を下令。テッサリアに軍を集中するとともに、クレタ島に艦隊を派遣し、同月14日、クレタ島の併合を宣言します。これに対して、バルカンの安定を求める6大国(イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリア、オーストリア)は反発。英仏伊三国が地中海艦隊を派遣してクレタ島を封鎖し、6大国が共同でハニアを占領し反乱を鎮圧しました。その一方で、6大国は、ギリシャ系住民に対して、オスマン帝国の援軍を排除することを約束し、列強の監督下での“クレタ自治政府(以下、自治政府)”の樹立を約束します。これは、もともとは、この地域の不安定要因となっていたクレタ島を、いったん、オスマン帝国とギリシャの双方から切り離すことによって、バルカン地域の勢力均衡を維持しようという発想に基づくものでした。

 こうした状況の下で、クレタ島は、早々に撤退したドイツとオーストリアを除く、イギリス・フランス・ロシア・イタリアの4カ国の軍隊によって分割占領され、その結果、封鎖以前から同島において郵便活動を展開していたオーストリアとあわせて、計5ヶ国の郵便局が、それぞれの占領地域において郵便業務を展開することになりました。

 このうち、クレタ島中西部、現在のレティムノン県にほぼ相当する地域を占領した帝政ロシアは、1899年5月1日、レティムノンに郵便局を開設し、まず、ロマノフ家の紋章である双頭の鷲を描く切手を発行。その後、三叉の鉾を描く切手を発行しています。今回のカバーは、そのうちの双頭の鷲を描く切手2メタリク(島内の書状基本料金分)相当の切手が貼られています。ギリシャ文字で“レティムノン”と表示された1行の印が消印で、日付の表示はありません。なお、この切手は、極めて簡易なつくりのものですから、偽造防止のために田型ごとに双頭の鷲を描くコントロールマークが押されており、今回のカバーの切手でもその上半分、鷲の上半身の部分が見えます。

 さて、クレタ問題はオスマン帝国がクレタ島からの撤兵し、高等弁務官としてギリシャ国王の次男ゲオルギオス(Georgios)を受け入れてクレタ自治政府を発足させるということで解決が図られますが、その自治政府の発足に伴い、1899年7月24日、ロシア局は閉鎖されます。したがって、クレタのロシア局の活動期間はわずか3ヶ月弱しかなく、フィラテリックではないカバーを入手するのはかなり困難です。 

 ご案内 
 3月5日18:30より、東京・日本橋の香港上海銀行10階の大会議室にて、日本香港協会の春節パーティーが行われますが、その余興(?)として、拙著『香港歴史漫郵記』の内容を元に、切手や絵葉書、郵便物などから古きよき香港をたどるトークを行います。パーティーの会費はお1人6000円ですが、皆様お誘い合わせの上、ぜひご参加いただけると幸いです。(パーティーの詳細やお申し込みはこちらからお願いします)

 * 昨日、東京・下高井戸の日本大学文理学部図書館3階オーバルホールにて開催のシンポジウム「デジタルアーカイブ活用による東アジア史研究の新たな可能性」はおかげさまで無事終了いたしました。ありがとうございました。
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