内藤陽介 Yosuke NAITO
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 TVブロス4月26日号
2008-04-30 Wed 11:36
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『TVブロス』4月26日号(2008年4月26日-5月9日の番組表が掲載されています)が発売になりました。今号の同誌は“切手”の特集を組んでいて、僕も、今一番ホットな話題であるチベットのことなんかも取り上げながら、切手から垣間見える国際情勢や歴史などを語るコラムを寄稿しています。そこで取り上げたネタの中から、こんなモノをご紹介しましょう。

 プロ野球50年

 これは、1984年11月15日に発行された「日本プロ野球50年」の記念切手です。

 日本における職業野球の歴史は、1920年に結成された日本運動協会がそのルーツになっています。現在の東京読売巨人軍の前身にあたる大日本東京野球倶楽部の発足は、それから10年以上も後の1934年のことですから、巨人軍の歴史=プロ野球の歴史というのは、歴史的事実としてはかならずしも正確とはいえません。

 ところが、自他ともに日本プロ野球界の盟主をもって任ずる読売としては、1984年の大日本東京野球倶楽部発足50周年にあわせて、なんとしても「巨人軍50年」の記念切手発行を実現したいとかんがえていました。このため、読売は郵政省に対して「巨人軍50年」の記念切手の発行を申請。ところが、一民間企業の創立を祝う切手の発行など、当時は当然認められるはずもなく、申請はあっさり却下されてしまいます。

 そこで、読売は日本プロ野球機構に働きかけ、下田武三コミッショナーの主導の下、1984年に“プロ野球50年”の記念切手発行を求める申請を行おうと画策しました。

 これに対して、パ・リーグの関係者からは「プロ野球の五十周年は(日本職業野球連盟の発足から起算して)1986年のはずだ」との異論が続出しましたが、最終的に、コミッショナーとセ・パ両リーグ会長、12球団代表から構成される実行委員会は1984年を“プロ野球50年”とすることで合意。文部省を通じて、郵政省に記念切手の発行を申請しました。そして、郵政省側も“プロ野球50年”ならば、ということで申請を受理し、記念切手の発行を決定します。

 すると、1984年3月、プロ野球機構側は、郵政省が制作するはずの切手のデザインを「正力松太郎と王貞治」として勝手に“内定”し、スポーツ新聞各紙に発表。これには郵政省も困惑を隠せず、「正力松太郎は読売新聞社創業者としてのイメージが強く、民間企業の宣伝になるので切手の図案になりえない」「王貞治氏に関しても、切手には生存中の人物は描かないのが大原則だ」と発表するなど、対応に追われました。

 結局、すったもんだの末、郵政省はプロ野球機構側に押し切られ、記念切手としては、沢村栄治をモデルとした「投手」と景浦将をモデルにした「打者」、それに「球場にプロ野球創設者正力松太郎像を配す」という3種類が発行されました。

 こうして、読売の悲願が達せられたわけですが、今回ご紹介の図版のような配列で、1枚20面の切手シートは「投手」と「打者」を2枚ペアにしたものが6組(12枚)、「正力」が8枚という構成であったため、利用者が3種類を1枚ずつ購入すると正力だけがバラで売れ残り、郵便局の現場では売れ残りの正力切手の処理に手を焼いたといわれています。

 まぁ、巨人軍というと、会長(前オーナー)の強引なやり方がしばしば話題になるわけですが、この記念切手が発行された時、現在の会長さんはまだ巨人軍の経営にはタッチしていません。ということは、時として世の顰蹙を買う巨人のやり方というのは、会長なりオーナーなりの個人的資質が原因ということではないんでしょうな。

 なお、プロ野球50年の記念切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しく説明しておりますので、よろしかったら、そちらもぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 昭和記念公園
2008-04-29 Tue 10:22
 今日は“昭和の日”。というわけで、“昭和”を記念するモノということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 昭和記念公園

 これは、1983年10月に発行された国営昭和記念公園開園の記念切手です。

 昭和記念公園は、昭和天皇の在位50年を記念して造成された大規模公園で、全体計画面積は180ヘクタール。これは、ロンドンのハイドパーク(145ヘクタール)を上回る、世界最大規模のものです。
建設テーマは“緑の回復と人間性の向上”で、公園内は文化施設、展示施設、広場、森、水の5つのゾーンで構成されており、現在も建設工事が続いています。

 公園の土地は、もともとは、1922年に陸軍航空部隊の中核地点として開設された立川飛行場の一部で、第二次大戦後は米軍に接収され、立川基地として使用されていました。これが、1977年に返還されたのを受けて、跡地が三分割され、その東部には陸上自衛隊駐屯地のほか、海上保安庁・警視庁・東京消防庁など各官公庁の施設が設けられ、立川広域防災基地が建設されました。一方、その西部については現在も利用法が決まっていません。

 今回ご紹介の記念切手は、昭和記念公園のうち、立川口広場、展示広場、花木園、みんなの原っぱ、駐車場、レストハウス、サイクリングコースなどからなる五十ヘクタール部分が開園し、1983年10月26日に昭和天皇ご臨席の下、第一期開園式が行われたのにあわせて発行されたものです。

 さて、切手の図案は、昭和記念公園と公園内のモニュメントということですが、収集家の間では「よく分からない」との理由で不評でした。もっとも、原画作者の久野実によると、原画の制作にあたって提供された資料は公園の航空写真が一枚だけしかなかったそうで、これでは他に図案を作りようがなかったのもやむをえないかもしれません。

 なお、今月20日付で刊行の拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』では、この切手を含め、昭和50年代後半の記念切手について詳しく解説しておりますので、よろしかったら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 ブラジル移民100年
2008-04-28 Mon 11:07
 1908年4月28日にブラジル移民第一陣を乗せた笠戸丸が神戸港を出港してから今日でちょうど100年。ということで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ブラジル移住50年

 これは、1958年6月18日に発行された「ブラジル移住50年」の記念切手です。切手発行日の6月18日は、日本人移民第一号を乗せた笠戸丸がブラジルのサントスに到着した記念日で、、1958年のこの日には、東京・日比谷公会堂で、ブラジル移住50年祭典委員会主催(外務省・駐日ブラジル大使館・東京都後援)の記念祝賀大会が開催されたほか、ブラジルでも、同日から9月30日まで、各地で記念のイベントが行われ、三笠宮夫妻がこれに参加しました。

 今回ご紹介の切手は、こうした記念事業の一環として、「半世紀にわたるブラジル在住日系人の労苦をねぎらうとともに、国民の海外発展の意欲を昂揚させる(当時は、まだブラジルへを含む中南米諸国への日本人の移住が奨励されていた)」ためのものとして企画されました。

 デザインの制作の方針としては、両国の国旗(日本切手に外国の国旗が入るのは、1942年の満洲国建国10年についで2度目)、地図、笠戸丸などを取り上げることとなり、デザイナーの久野実と渡辺三郎の2人が下図の制作を担当しました。その結果、移民家族のシルエットと南米地図を描いた渡辺の作品の、移民家族を笠戸丸に入れ替えたものを正式の原画とすることが決定されています。なお、笠戸丸にとって変わられることになった移民家族のシルエットの一部は、南米地図と組み合わせて、切手発行にあわせて用いられた特印のデザインに転用されました。

 切手に描かれた笠戸丸は、1900年にイギリスで建造されたもので、もとはカザン(KAZAN)の名で呼ばれていたロシア・バルチック艦隊の病院船でした。それが、1905年の日本海海戦で日本側に捕獲されて笠戸丸と改名され、南米航路で用いられていたものです。ブラジルへの第1回移民に用いられた際には、海軍省の所属で東洋汽船による依託運航が行われていましたが、1912年3月、大阪商船に払い下げられています。大阪商船は、主として笠戸丸を神戸~門司~基隆航路に利用していましたが、1930年に大阪の船主に売却。以後、笠戸丸は船主を転々としつつ、漁業工船として北洋で操業します。第2次大戦時には日本水産所属の蟹工船として用いられていましたが、敗戦直前の1945年8月9日、ソ連軍の空爆によって沈められました。

 なお、この切手の詳細については、拙著『ビードロ・写楽の時代』でもご説明しています。同書は現在、版元品切れですが、アマゾンなどでは結構な高値で売りに出されているようです。なんとか重版してもらいたいのですが…。

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 ドイツ航空のあけぼの
2008-04-27 Sun 10:37
 スタンプショウ’08はきょうが最終日で、表彰式が行われます。併催の競争切手展(オープン切手展とトピカル切手展)には、僕も特別賞として賞品を提供しているのですが、今回は、その嫁入り先は「ドイツ航空のあけぼの」をご出品の樋口豊さんに決まりました。というわけで、 きょうは樋口さんに敬意を表して、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 バイエルン・航空ラベル

 これは、バイエルンで1912年に発行された航空郵便用のラベルです。

 南独ミュンヘンを首都とするバイエルンの地は1180年からヴィッテルスバッハ家の支配下に置かれていましたが、ドイツ帝国の成立後も、王国は帝国の領邦として維持されました。切手に関しては、1849年にドイツの諸邦として最初の切手を発行し、ドイツ帝国の成立後も帝国郵政とは別の切手を発行し続けています。1918年、第一次世界大戦でドイツ帝国が敗れ、革命が勃発すると、バイエルン国王ルートヴィヒ3世も退位に追い込まれ、王国は滅亡し、バイエルン自由国の成立が宣言されました。その後、バイエルン自由国はワイマール共和国に合流しますが、バイエルンでは1920年3月31日まで独自の切手が使われていました。

 ドイツの帝国郵政は、1912年3月19日、マンハイム=ハイデルベルク間で航空郵便を開始しますが(それ以前にも、たとえば、1911年11月13日にベルリン周辺での試験的な航空郵便が行われるなど、郵政当局の承認を得ないプライベート・エアメールの例はあります)、これを受けて、バイエルンでも1912年10月3日、ミュンヘン=ニュルンベルク間で航空郵便が行われました。

 今回ご紹介のモノは、バイエルンでの航空郵便の実施にあたって、航空料金(25ペニヒ)を別途徴収するためのラベルとして発行されたもので、1912年から1913年にかけて、ミュンヘンとニュルンベルクの郵便局で販売されました。デザインは、翼のあるライオンで、BAECの文字はBavarian Aero Clubの略です。“切手”として扱うべきかどうかは微妙な存在ということで、ミッヘルにはリストされていますが、スコットやギボンズ、イベールなどには記載がありません。

 さて、『近代美術・特殊鳥類の時代』の刊行を記念して、昨日スタンプショウ会場内で行なった講演とサイン会は無事終了いたしました。お越しいただきました皆様には、この場を借りて、改めてお礼申し上げます。

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 人権の炎
2008-04-26 Sat 09:37
 いよいよ、今日、北京五輪の聖火リレーが長野市で行われます。というわけで、新刊の拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』のなかから、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 世界人権宣言35年

 これは、いまから25年前の1983年12月5日に発行された「世界人権宣言35年」の記念切手です。

 世界人権宣言の採択から節目にあたる年には、世界各国が記念切手を発行することが慣例となっており、1958年の採択10周年 、1968年の採択20周年を記念して設けられた“国際人権年” 、1978年の採択30周年の“(第30回)人権週間” には、それぞれ、12月10日の世界人権デーに記念切手が発行されています。

 1983年の人権宣言採択35周年に関しても、国連の要請を受けて、外務省と法務省が記念切手の発行を申請。これを受けて、当初発表された昭和58年度の記念特殊切手発行計画では、従来の先例に従って12月10日に記念切手が発行されることが発表されていました。

 ところが、1983年8月から金融機関が毎月第2土曜日に休業することとなり、これにあわせて郵便局でも貯金・為替・保険の窓口を閉め、無集配局では郵便窓口を含めて全面休業することになりました。このため、12月10日の土曜日に記念切手を発行することができず、人権週間の初日にあたる4日も日曜日であるため、記念切手の発行ができないということになり、人権週間最初の平日である5日の発行で落ち着いたというわけです。

 世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights:UDHR)は、1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択され、その後の国際連合で結ばれた人権条約の基礎として、世界の人権に関する規律の中でもっとも基本的なものとされています。“人権の炎”とも呼ばれるシンボルマークは、平和と実りの象徴であるオリーブの葉で作られた環の中に、命を象徴する炎を配しており、“世界の平和と生命の尊厳”が表現されているそうです。

 したがって、オリンピックの聖火リレーが世界の平和と諸国民の友好親善を増進するために行われるというのであれば、それは、“人権の炎”の精神とも相通じるところがあるはずです。この点について、国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」のロベール・メナール事務局長は「五輪の象徴である聖火が正しく扱われず、混乱に陥ったのは残念だった」としたうえで、「我々が目指すのは暴力的な妨害ではなく、抗議行動だ。民主的な意見表明は(中国の)天安門では『暴力行為』かもしれないが、パリでは認められている」、「多くの人々やメディアが長野を見つめ、最終的には日本の首相が北京五輪開会式を欠席することを望む。日本は世界第2位の経済大国で影響力が大きいが、人権についてはしばしば態度を明確にしない。長野での聖火リレーを重視している」、「日本と中国には複雑な過去があることは承知しているが、日本の人々も、問題を抱えた巨大な隣人に抗議してほしい」と主張しています。

 まぁ、基本的人権の尊重ということは、本来、国連の常任理事国ということになっている中国には“釈迦に説法”であるべきなんでしょうが、なにせ相手はチベットの仏教徒の人権を踏みにじって何ら恥じるところのない連中ですからねぇ。「そもそも、僕の記事にある“釈迦に説法”という表現じたいが気に入らない」などと抗議のメールを送ってよこすかもしれませんな。

 さて、聖火リレー終了(予定)後の本日13:00より、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館にて開催のスタンプショウ’08会場内にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の刊行を記念してトークイベントを行います。会場にて拙著をお買い求めいただきました方には、企画展示の“ネコ”にちなんで、昨日ご紹介の「黒き猫図」「黒船屋」の2枚の切手をあしらった特製ポストカードをプレゼントする予定です。ポストカードに取り上げられている切手はいずれも額面が50円ですから、これを貼って、会場内の臨時出張所でネコをデザインした日替わり小型印を押して楽しんでいただくのも一興かと存じます。(数に限りがありますので、万一、品切れの際はご容赦ください。)

入場は無料で、スタンプショウ会場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 

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 きょうからスタンプショウ
2008-04-25 Fri 08:24
 きょう(25日)から、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館スタンプショウ’08がスタートします。というわけで、今日はスタンプショウ開催地の浅草にちなんでこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 日本の歌・花

 これは、“日本の歌シリーズ”最後の第9集として1981年3月10日に発行された「花」です。
 
 「花」は、1900年11月に発行の歌曲集『四季』に収録されたもので、武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲によるものです。原画作者の林静一といえば、僕なんかがすぐに連想するのは“小梅ちゃん”ですが、今回の切手は梅ではなく桜を題材としたものとなりました。

 武島羽衣は1872年東京生まれ。東京帝国大学を卒業後、東京音楽学校や日本女子大学などの教授を務めました。一方、滝廉太郎は1879年に東京で生まれ、父の郷里、大分県竹田市で少年時代を過ごしました。東京音楽学校卒業後、ドイツに留学しましたが、病気のため帰国し、少年時代を過ごした竹田市で23歳の若さで亡くなりました。

 日本の歌シリーズは、もともと、1979年、滝廉太郎の生誕100周年にあわせて企画されたもので、滝の誕生日である8月24日、滝の代表作である「荒城の月」の切手でスタートしましたが、最後を締めくくったのも滝の作品ということになります。

 日本の歌シリーズは、浅草出身の音楽家で切手収集家としても有名だった鈴木正康の努力によって実現したものです。(余談ですが、スタンプショウが浅草で行われるようになったのも、日本のフィラテリーにおける鈴木の事績の一つです)

 当初、鈴木は、チェコスロバキアで発行された音楽切手の名品が同国の国歌を取り上げていたことから着想を得て、「君が代」を題材とした切手の発行を目指していたようですが、これは賛同者が得られず、失敗に終わりました。

 その後、彼は1979年が、母校・東京芸術大学のルーツとなる音楽取調掛が文部省内に設置されて100周年にあたることから、その記念切手発行を目指して運動を開始しますが、当時の郵政省は特定の学校の周年記念切手を発行することに対して強い拒否感を持っていたため、この計画も頓挫してしまいます。

 そこで、鈴木は、やはり1979年が作曲家・滝廉太郎の生誕100周年でもあることに目をつけ、日本郵趣協会内に“事務局”を設けて、同協会の理事で衆議院議員の後藤茂、著名な収集家の三井高陽や、収集家で郵政審議会の専門委員でもあった三島良績、郵政OBの山下武夫らを巻き込んで、滝廉太郎生誕100周年の記念切手発行を求めて、音楽関係者に切手発行の賛同を求める運動を開始しました。特に、大分県竹田市が滝ゆかりの地とされており、この曲をイメージした風景印も使われていることから、鈴木らは大分県に重点を置いて、大分県知事以下、県下の音楽団体に協力を呼びかけ、彼らの賛同を得て、郵政省の切手室に「日本の歌シリーズ」発行の要望書を提出。こうした鈴木の尽力もあって、昭和54年度から発行が開始されるシリーズ切手のテーマの一つが「日本の歌」に決定されたというわけです。

 このあたりの事情については、新刊の拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』で詳しくご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 さて、スタンプショウ会期中の明日26日(土)13:00からは、会場内特設スペースにて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の刊行を記念してトークイベントを行います。当日、会場にて拙著をお買い求めいただきました方には、企画展示の“ネコ”にちなんで、昨日ご紹介の「黒き猫図」「黒船屋」の2枚の切手をあしらった特製ポストカードをプレゼントする予定です。ポストカードに取り上げられている切手はいずれも額面が50円ですから、これを貼って、会場内の臨時出張所でネコをデザインした日替わり小型印を押して楽しんでいただくのも一興かと存じます。(数に限りがありますので、万一、品切れの際はご容赦ください。) 

 なお、『近代美術・特殊鳥類の時代』では、今回の「花」のほか、切手趣味週間の「待乳山の雪見」や伝統工芸品シリーズの「江戸木目込人形」(浅草橋の人形製造販売会社・吉徳大光の所蔵品です)など、浅草がらみの切手についても解説しております。ぜひ、会場で拙著をご覧いただき、その足で浅草めぐりをお楽しみください。

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 あすからスタンプショウ
2008-04-24 Thu 09:36
 あす(25日)から、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館スタンプショウ’08がスタートします。というわけで、きょうはスタンプショウ企画展示“世界のねこ切手大集合!”にちなんで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 黒き猫

 これは、“近代美術シリーズ”の第3集として、1979年9月21日に発行された菱田春草の「黒き猫図」です。

 文化人切手にも取り上げられた菱田春草は、1874年9月21日(切手の発行日は彼の誕生日です)、長野県飯田の出身。はじめ結城正明に師事していましたが、1890年、東京美術学校に入学し、橋本雅邦・川端玉章らの指導を受けました。美術学校の卒業後、一時は母校の助教授となりましたが、1895年の日本美術院の創立に参加。西洋絵画の技法を大胆に取り入れ、日本画の近代化に尽力しました。1903年、横山大観とともにインドを訪問したほか、1904-05年には岡倉天心、横山大観と欧米を訪問。日本美術を再認識して帰国します。横山大観・下村観山・木村武山らとともに雅邦門下の四天王と称され、活躍が期待されましたが、1911年、病気のため37歳という若さで亡くなりました。

 「黒き猫図」は、彼の代表作 の一つで、亡くなる前年の1910年、第4回文展に出品されました。当時、春草は眼病を患っており、それまで出品を考えて作成していた作品を放棄した後、わずか1週間で「黒き猫図」を完成させたそうです。現在は、永青文庫の所有で熊本県立美術館に寄託されており、重要文化財に指定されています。

 さて、スタンプショウ会期中、あさって26日(土)13:00からは、会場内特設スペースにて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』刊行を記念してトークイベントを行います。会場にて拙著をお買い求めいただきました方には、今日ご紹介の「黒き猫図」と「黒船屋」の2枚の切手をあしらった特製ポストカードをプレゼントする予定です。ポストカードに取り上げられている切手はいずれも額面が50円ですから、これを貼って、会場内の臨時出張所でネコをデザインした日替わり小型印を押して楽しんでいただくのも一興かと存じます。(数に限りがありますので、万一、品切れの際はご容赦ください。)

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 パリの矜持
2008-04-23 Wed 10:35
 パリ市議会がチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世に名誉市民の称号を贈る議案を可決しました。当然のことながら、中国政府はこれを激しく非難していますが、中国政府からの“非難”は、現在の世界の圧倒的多数の人々の目には、世界平和と人権に貢献する栄誉として映っているわけで、ここは、僕も素直にパリの矜持に敬意を表したいと思います。

 というわけで、僕のイメージの中のパリの雰囲気に近い1枚として、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 テラスの広告

 これは、近代美術シリーズの第12集として1982年2月25日に発行された佐伯祐三の「テラスの広告」です。

 佐伯祐三は、1898年に大阪・中津の寺、光徳寺の次男として生まれ、北野中学(現・大阪府立北野高校)を卒業後、1918年、川端画学校を経て東京美術学校に入学し、藤島武二に師事しました。卒業後の1924年1月から1926年1月までの約2年間、パリに滞在し、ヴラマンクやユトリロの影響を受け、パリの街頭風景を描いた作品を多く残しましたが、持病の結核が悪化し、家族の説得に応じて一時帰国。その後、1927年8月から再びパリに渡りましたが、1928年3月頃から再び結核が悪化し、さらに精神面でも不安定になり、同年8月、入院中のセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院で客死しました。

 佐伯は、パリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いた作品を多数残していることで知られていますが、その中には、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色となっています。

 切手に取り上げられた「テラスの広告」は、2度目の渡仏直後の1927年の作品で、佐伯の最高傑作の一つとされており、ブリヂストン美術館の所蔵品です。

 パリが芸術の都として発展を遂げた理由はいくつかあると思いますが、今回取り上げた佐伯祐三のような“よそ者”を広く受け入れてきたことで、文化的な多様性を確保してきたという点も見逃せないと思います。じっさい、佐伯は渡仏直後の1924年初夏、パリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズに、フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ね、自作の絵を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けたというエピソードがありますが、考えようによっては、極東から訪ねてきた名もなき若手画家に御大みずからが対応するという懐の深さは、やはり大したものだと思います。

 以前の記事でも書いたことがありますが、文化の質的な向上には“表現の自由”が不可欠で、この点で、現在の中国の共産党一党独裁体制は決定的に不利な状況にあります。そうした本質的な欠陥に気付かない限り、どれほど経済的・軍事的に大国になろうとも、中国が文化国家として世界的に認められることはあり得ないわけですが、まぁ、難しいでしょうな。

 なお、今回ご紹介の切手を含む「近代美術シリーズ」については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しく説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

  イベントのご案内 
 4月26日(土)13:00より、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館にて開催のスタンプショウ’08会場内にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の刊行を記念してトークイベントを行います。入場は無料で、スタンプショウ会場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 

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 地球と光ファイバー
2008-04-22 Tue 11:46
 今日(4月22日)はアースデイ。というわけで、先日刊行の拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の中から“地球”に関するものということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ITU加盟100年

 これは、1979年10月13日に発行された「国際電気通信連合加盟(ITU)100年」の記念切手で、光ファイバーで表現したITUの文字と地球がデザインされているそうです。もっとも、この切手の“地球”には地図なり雲なりが描かれているわけではないので、説明を受けないと、ちょっとわかりづらいですな。ちなみに、1979年当時、中学1年生だった僕は光ファイバーなるものを知りませんでしたので、“ボールと縄とび”の切手がITUとどう関係があるのか、かなり悩んだ記憶があります。

 さて、電気通信に関する本格的な国際機関のルーツは、フランス政府の提案で1865年に創設された(実施は1866年1月1日から)万国電信連合ですが、わが国と同連合との関係は、1872年、ローマで開催された第3回万国電信会議にロンドン駐在の権大書記・塩田三郎が出席したところからはじまります。その後、1875年にロシアのサンクトペテルブルクで開催された第4回会議へのオブザーバー的な参加を経て、1887年3月、日本政府はロシアの駐日臨時代理公使、ロマン・ロマノヴィッチ・ローゼンを通じてロシアに連合加盟の仲介を依頼。1889年1月29日に正式に条約への加盟を果し、同年10月13日、条約への加盟が正式に日本国民に対して公布されました。

 当時の万国電信連合は、電話を含む有線電信全般をカバーしてはいたものの、無線電信については、発展途上を理由に、その対象外となっていました。このため、1906年のベルリン条約に基づいて国際無線電信連合が発足。日本は同連合に1913年に加盟しています。

 この国際無線電信連合は、1932年にマドリードで締結された国際電気通信公約により、万国電信連合と合併。有線・無線を問わず、電気通信事業全般の国際協力機関として、現在の国際電気通信連合となりました。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられている光ファイバーは、もともとは1951年に内視鏡用として開発されたものですが、1971年にアメリカのコーニング社はこれを改良して、1km先に1%の光が届く水準のものを完成。現在の通信機材としての光ファイバーの本格的な歴史が幕を開けることになります。

 これを機に、光ファイバーの改良は一挙に進み、1974年には、やはりアメリカのベル研究所によって1km先に78%の光が届く水準のものが完成。さらに、ベル研究所がその製法を公開したことで、1979年には日本の電電公社(当時)が、1km先に95%の光が届き、かつ遥かに生産効率の優れる独自の製法を生み出しています。

 したがって、今回の切手を発行するにあたって、郵政省としては、何としても日本が世界に誇る最先端の光ファイバーの技術を切手に盛り込みたかったのでしょうが、光ファイバーの外観そのものはなんといっても地味ですからねぇ。デザイナーの久野実も相当苦労したんじゃなかろうかと思います。

 なお、この切手が発行される25年前の1954年には加盟75年の記念切手が発行されていますが、こちらについては、<解説・戦後記念切手>シリーズの第2巻『ビードロ・写楽の時代』をご覧いただけると幸いです。

  イベントのご案内 
 4月26日(土)13:00より、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館にて開催のスタンプショウ’08会場内にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の刊行を記念してトークイベントを行います。入場は無料で、スタンプショウ会場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 

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 切手の中の日本と韓国:解放切手
2008-04-21 Mon 09:34
 雑誌『表現者』の第18号が出来上がりました。僕の連載「切手の中の日本と韓国」という連載では、1946年発行の南朝鮮(大韓民国ができるのは1948年のことです)の正刷切手である“解放切手”と(画像はクリックで拡大されます)と日本との関係について取り上げました。

 解放切手

 1946年5月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮で“解放切手”と称する6種類の切手が発行されました。解放切手は、オフセット印刷で、3銭、5銭、10銭、20銭、50銭、1円の6種類で、低額4種には上の画像に示すような家族と太極旗が、高額2種には太極文様が、それぞれ描かれています。

 解放切手は、名目上は“(米軍による南朝鮮)解放の記念切手”でしたが、総計4470万枚発行され(うち、1946年の製造数は3000万枚)、実質的に通常切手として用いられました。ちなみに、1946年に南朝鮮郵政が発行した他の記念切手の発行枚数は30万枚もしくは50万枚ですから、解放切手の発行枚数は突出しています。

 当時の南朝鮮内には、これだけの量の切手を短期間に確実に製造しうる印刷所はありまsんでしたから、解放切手は、デザイナーの金重鉉がソウルで作成した原画をもとに、日本の印刷局の彫刻課長・加藤倉吉が原版を彫刻し、印刷局で印刷するという方式で調製されました。ただし、当時は日本国内でも、切手には目打や裏糊がないのが当たり前でしたから、解放切手も日本で印刷された後、目打作業は現地で行われています。

 ところで、日本側が南朝鮮の切手の印刷を受注した背景には、一種の賠償のような意味合いがあったと説明する人がときどきいるのですが、むしろ、当時の日本人の多くは、敗戦後の朝鮮で資産を没収ないしは接収されたことに対して、賠償を求めるのは自分たちのほうだという意識のほうがはるかに強かったとおもわれます。実際、1953年の日韓国交正常化交渉に際して、日本側首席代表の久保田貫一郎は「日韓併合は負の側面ばかりではなく日本は朝鮮半島の工業・農業基盤を整備し、日本は年間2000万円も朝鮮半島に持ち出した時もあった。韓国側が“日帝36年”についての請求権を要求するなら、日本も朝鮮半島に投資し、戦後、接収された日本資産についての請求権の行使を要求する」という趣旨の発言をしていますが、おそらくこれが、当時の日本人の標準的な認識だったのではないでしょうか。

 したがって、日本の印刷局が解放切手を製造することになったのは、当時の朝鮮内では大量の切手を短期間に調整できないという現実に直面した米軍政庁が、日本を占領していたマッカーサー司令部に対して支援を求めた結果と考えるのが自然ではないかとかんがえられます。いずれにせよ、日本時代の過去と訣別するために発行されたはずの“解放切手”が、実は、日本の印刷局によって製造されたものであったというのは、なんとも皮肉な話ではありますが…。

 さて、昨日(20日)、韓国の李明博大統領が来日しました。“実利主義”を掲げる現大統領は、就任直前の外国メディアとの会見では、「私自身は新しい成熟した韓日関係のために、“謝罪”や“反省”は求めない」、「日本は形式的であるにせよ、謝罪や反省はすでに行っている」、「こちらが要求しなくても、日本は(謝罪と反省を)言うくらいの成熟した外交をするだろう」と述べ、 未来志向の関係構築に向け、歴史認識問題で日本に謝罪を求める考えはないことを明らかにするとともに、日本側の自発的取り組みを促すという姿勢をとっていますが、先代の盧武鉉も就任当初は、さかんに“未来志向”と言っていましたからねぇ。韓国の歴代政権には、国内の政局運営がうまくいかなくなると“反日”でガス抜きを図ろうとする悪癖がありますが、李政権がそれを克服できるかどうか、我々としても注視していきたいところです。

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 台所美人の奮闘
2008-04-20 Sun 11:51
 今日(4月20日)は日本の郵便創業の記念日で、例年ですと、「切手趣味週間」の記念切手が発行される日です。(今年は、曜日の関係で18日の金曜日に発行されました)

 というわけで、去年一昨年の先例にならい、今年も、本日付けで刊行の『(解説・戦後記念切手Ⅵ)近代美術・特殊鳥類の時代 切手がアートだった頃 1979-1985』で取り上げた切手の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 台所美人

 これは、25年前の1983年の趣味週間切手として発行された歌麿の「台所美人」です。今回の『近代美術・特殊鳥類の時代』でカバーしている年代のうち、1981~84年の4年間は、春信・清長・歌麿・写楽という、かつて1950年代の趣味週間切手に登場した画家(の作品)が再び登場した時期に当たっています。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられている「台所美人」は、大判2枚続きの錦絵で、松平定信による寛政の改革で、浮世絵版画の刊行にさまざまな制約が課せられた後に制作されました。

 題名の通り、台所で働く女性の群像を取り上げられたものですが、左の切手の手前、茄子の皮を剥く女性が鬢を形よく張るために鯨のヒゲを利用した“びん張り”が使っているさまや、その背後の子供を背負う女性の櫛巻きという髪形、右側の切手の火吹き竹を持つ女性の絣模様の下掛けが現在のスカートのように下半身全体を覆う特殊な仕立て方などは、当時の風俗資料としても興味深いものです。また、勢いよく噴き出した熱気の描写法は、それまでの浮世絵には見られなかった新しい表現で、当時の厳しい制約の中で、女性美の表現に新境地を開拓しようとする画家の心境がうかがえます。

 古今東西、政府による文化統制が厳しい時代には、そうした制約と戦うことによって、傑作と呼ばれる作品が生み出されてきたわけで、この作品もその一例ということができましょう。

 同じように考えると、たとえば、中国による事実上の植民地支配の下で伝統文化消滅の危機にさらされているチベットなんかでも、文学なり美術なりの分野で歴史に残るような作品がひそかに生み出されているのかもしれません。もっとも、そうした作品が公開されても、中国側はチベット人の作品ではなく、あくまでも“中国人”の作品だと言い張るのでしょうけれど…。

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 善光寺の英断
2008-04-19 Sat 11:40
 いまや、チベットへの弾圧を続ける中国への世界的な抗議の場と化した北京五輪の聖火リレーですが、日本でのスタート地点となる予定だった長野の善光寺が、「チベットの宗教指導者が立ち上がり、それに対し弾圧しているので、仏教の寺として考えた」ことなどを理由に、出発地を辞退しました。この英断をたたえて、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 長野平和博

 これは、1949年4月1日、善光寺の戦後はじめての御開帳にあわせて開催された長野平和博覧会の記念切手です。

 善光寺の本尊である「一光三尊阿弥陀如来」は、552年に日本に伝来し、603年に都から移り住んだ本田善光が信州にもたらしたと伝えられます。その後、644年に勅願により善光寺が建立されるとその本尊となり、654年には秘仏となりました。

 この結果、秘仏のレプリカにあたる前立本尊が拝まれるようになりましたが、この前立本尊も、普段は特別の宝庫に安置され、数えで7年に1度(丑・未の年)、ご開帳として公開されるだけになっています。ただし、1943年(未年)のご開帳は戦時中の混乱で中断されてしまいましたので、戦後最初の1949年4月のご開帳は1937年(丑年)以来のこととなりました。
 
 このご開帳にあわせて、1949年4月1日から5月31日まで、長野市内で開催されたのが、今回ご紹介の記念切手の題材となっている平和博覧会です。

 ご開帳の復活と平和博覧会の実施により、会期中、長野市には多数の観光客が訪れ、その経済効果は非常に大きなものがありました。ちなみに、平和博覧会の総入場者は76万人を超え、地元商工会議所は、博覧会が復興の機運を盛り上げた功績は計り知れぬものがあったと年史に記しています。

 さて、平和博覧会の開催にあたって、長野逓信局は、地元収集家の要望もあって、記念切手の発行を申請。これを受けて、逓信省は、地元長野にゆかりのあるものとして外信用の穂高岳を描く藍色の16円切手(1949年1月15日発行)を、同系統の濃青色に変更しただけのものを発行しました。

 こうした安易な“記念切手“に、地元はかなり落胆したようですが、それでも、記念切手への期待は大きく、長野局では地元紙への広告掲載や地元ラジオ局を通じての宣伝活動、ポスターや立て看板の掲示、旅館などへのチラシ配布、さらには博覧会場内での宣伝放送など、およそ考えられる限りの宣伝・周知活動を行い、配給された20万枚(切手全体の発行枚数は50万枚)の完売をめざしました。

 しかし、そもそも、切手本体にはどこにも“平和博覧会”の表示がない(シートには上部の耳紙に記念名が印刷されている)上、封書の基本料金が5円であるにもかかわらず16円という額面は高額であることや、図案が平和博とは全く無関係であることなどから、切手は全くと言ってよいほど売れず、大量の売れ残り在庫を抱えた長野局は、逓信省への報告書の中で、今後はこのような切手は発行してもらいたくないと愚痴るほどでした。

 さて、今回の善光寺の聖火リレー事態に関しては、少なくともぼくの周囲ではこれを英断として高く評価する声が圧倒的(聖火リレーの受け入れそのものをやめた方が良いという声さえ少なくありません)なのですが、福田首相は「残念だ」とのコメントしたそうです。

 まぁ、1949年の平和博に際して、本来、平和博を側面からサポートするはずだった記念切手が、その安易な内容ゆえに、かえって地元に余計な負担をかけたという先例を見ると、長野+平和というキーワードに関しては、今も昔も、政府や中央省庁の頓珍漢ぶりは何も変わらないということなんでしょうな。

 なお、この切手に関しては、拙著『濫造・濫発の時代』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。

 * 今朝、カウンターの数字が32万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 今日から韓国切手展
2008-04-18 Fri 10:31
 今日(18日)から20日まで、東京・目白の切手の博物館3階で、韓国切手展が開催されています。同展には、僕も「朝鮮現代史抄 1945-1953」と題して、3月の台北展に出品した作品の中から、朝鮮半島に関する部分を抜粋して展示しています。今日は、その中からこんなモノをご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 平壌宛・返送

 これは、終戦直前の1945年8月9日、愛知県・大高から平壌宛に差し出されたものの、平壌に届けられることなく返送されたカバーです。

 第2次大戦中の1943年11月、ローズヴェルト、チャーチル、蒋介石の3国首脳は「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、しかるべき順序を経て朝鮮を自由かつ独立のものとする」ことをうたったカイロ宣言を発表。のちに、ソ連もこれを承認したことから、朝鮮の独立が連合国側の究極的な目標のひとつとして策定されることになります。

 しかし、日本の降伏は1946年以降にずれ込むものと考えていたアメリカは、実際に日本が降伏した1945年8月の段階では、カイロ宣言にうたわれた「しかるべき順序」について、朝鮮を信託統治下に置くという以外、なんら具体的なプランを持っておらず、沖縄を最前線として来るべき九州上陸作戦の準備を進めていました。

 これに対して、8月9日、満洲の関東軍に宣戦布告して攻撃を開始していたソ連軍は、13日、朝鮮北部の清津港攻撃作戦を開始し、16日には同港を占領しています。それゆえ、アメリカが朝鮮に進駐する以前に、ソ連が朝鮮全土を占領する可能性は非常に大きかったといえます。

 そこで、アメリカは、朝鮮を米ソの共同管理に持ち込むためには、ソウルを含むできるだけ広い範囲を占領することが必要と考え、ソ連に対して、日本全土をアメリカが単独占領する代わりに、朝鮮については北緯38度のラインで両国が分割占領することを提案。ソ連は千島を占領することを条件にこれを承認しています。

 この結果、9月2日、東京湾停泊中のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本の降伏文書が調印されると、連合国軍最高司令官のマッカーサーは、各地の日本軍の降伏を受理する担当国を指定するために、連合国(軍)最高司令官総司令部一般命令第一号(一般命令第一号)を発し、朝鮮半島に関しては、北緯38度以北はソ連極東軍司令官が、同以南は合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官が、それぞれ、駐留日本軍の降伏受理を命じました。

 当初、占領の境界線となった北緯38度線は、朝鮮を自立させるまでの暫定的なものとされていたのですが、ソ連はこれを封鎖し、北朝鮮における衛星国の建設を開始しています。じっさい、ソ連による38度線の封鎖は極めて厳格で、ヒトやモノのみならず、郵便物の交換も厳しく制限されていました。

 たとえば、戦争終結と同時に取り扱い停止となっていた、敗戦国・日本から海外宛郵便物は、1945年11月16日、私信の場合には個人の安否消息に関する葉書に限るなどの制約はあったものの、とりあえず再開されましたが、ソ連占領地域宛の郵便物はその対象外とされ、北朝鮮に関しては1946年8月まで、日本から郵便物を送ることができませんでした。

 今回ご紹介のカバーも、終戦直前に平壌宛に差し出されたものの、上記のような事情から、日本国内に留め置かれ、平壌に届けられることなく「本郵便物ハ送達不能ニ付一先返戻ス」との事情説明の印が押されて返送されたものです。

 こうして、郵便物の交換もままならないほどの閉鎖的な状況の中で、北緯38度線以北では親ソ衛星国の建設が急ピッチで進められ、朝鮮半島分断の現代史がスタートすることになります。

 今回の展示では、米ソによる南北朝鮮の分割占領から大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国両政府の成立を経て、朝鮮戦争の終結にいたるまでの経緯を概観したものです。本来であれば、充分に5フレーム以上の展開が可能な大きなテーマですが、今回は1フレームのダイジェスト版として展示しています。
 
 会場の切手の博物館は、地下鉄・東西線の高田馬場から徒歩7~8分というロケーションですから、やはり東西線が通っている大手町で開催中の全日本切手展をご参観の折には、ぜひ、韓国切手展にも足を延ばしていただけると幸いです。

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 恐竜の日
2008-04-17 Thu 10:28
 いまから85年前の1923年4月17日、アメリカの動物学者ロイ・チャプマン・アンドルーズが、後に恐竜の卵の化石を発見することになるゴビ砂漠探検のため、北京を出発したことにちなんで、4月17日は恐竜の日なのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 中国・恐竜

 これは、1958年4月15日に中国が発行した「古代生物」の1枚で、ルーフェンゴサウルス(許氏禄豊竜)が描かれています。いわゆる恐竜切手としては世界最初のものとされていますから、今年は恐竜切手50年ということにもなりますな。

 ルーフェンゴサウルスは、ジュラ紀に生息していた古竜脚類の一種で、全長が約6mあります。草食、肉食、雑食性であるとの議論がありますが、胃石が骨格と一緒に発見されていることから、草食である可能性があると考えられています。

 1938年、中国恐竜学の父と呼ばれる楊鐘健に勧められた地質学者の下美年らは、雲南省での恐竜発掘を行い、古竜脚類のほぼ完全な骨格を発見します。これが、1941年になって楊により学術的に登録され、その際、発見地の禄豊(ルーフオン)にちなんでルーフェンゴサウルスと名付けられました。

 それ以前の中国における恐竜発掘の歴史は、主として外国人の手によるもので、中国人の手による最初の恐竜発見とされる1922年の山東省莱陽県においてハドロサウルス類の部分骨格化石を発見でも、中国人地質学者の渾錫疇ち、スウェーデンのグンナール・アンデルセンによる共同発掘でした。このため、ルーフェンゴサウルスの発見は、純粋に中国人による業績として、近代中国の科学史においては重要な意味を持っており、今回ご紹介の切手もその20周年に合わせて発行されています。

 さて、恐竜というと、僕なんかは、どうしてもその巨体ゆえに環境の変化に適応できず、滅亡していったというストーリーを連想してしまうのですが、この切手を発行した中華人民共和国という国はどうなんでしょうかねぇ。

 現在の中国政府は、チベットやウィグル、トルキスタン、内蒙古などの周辺諸民族の居住地域を強引に抱え込んで、その独立運動や自治の要求を力ずくで抑え込むことによって、なんとか巨大国家としての統制を保っているわけですが、中国国内の人権抑圧はひとえにそうした巨体を維持するためのものでしかありません。そして、巨体を維持するための抑圧的な体制が、結果としてさらなる抵抗を生み、それを抑え込むために人権抑圧がますますひどくなるという悪循環は、彼らがその巨体のなにがしかを放棄しない限り、延々と続いていくことになるでしょう。

 ここで、思い切って周辺諸国を分離・独立させたうえで、友好・善隣関係を築くという発想の転換ができれば、恐竜は哺乳類に進化して生き延びていくことも可能なんでしょうが、共産党による一党独裁体制という化石にしがみついている限り、それも難しいでしょうね。
 
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 世界のダム:黒部ダム
2008-04-16 Wed 11:27
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の4月号が出来上がりました。3月までの連載「切手に描かれた建設の風景」に代わり、今月からは「切手の中の世界のダム」という新連載がスタートしました。その記念すべき第1回には、こんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 黒部峡谷とダム

 これは、1994年4月25日に富山県の“ふるさと切手”として発行された黒部峡谷と黒部ダムの切手です。

 映画「黒部の太陽」で有名な黒部ダムは、戦後の高度成長期の電力不足を補うため、1956年から7年の月日とのべ1000万人の労働力を動員して関西電力が富山県東部の黒部川上流に建設されたアーチ式コンクリートダムです。総貯水容量は約2億トンという巨大なもので、186メートルという堤高は現在でも日本一の規模を誇っています。ちなみに、総工費の513億円は当時の関西電力の年間電気収入のおよそ半分だそうで、その点でも、このダムのスケールの大きさがうかがえましょう。

 黒部ダムの建設過程に関しては、建設を行った関西電力の委託で、日本映画新社による4部作の記録映画(①黒部峡谷-黒部川第四水力発電所建設記録第1部:1957年、②地底の凱歌-黒部川第四水力発電所建設記録第2部:1958年、③大いなる黒部-黒部川第四水力発電所建設記録第3部:1961年、④くろよん-黒部川第四発電所建設記録:1963年)が作られ、建設開始から完全竣工まで全ての映像が記録されているほか、完成直後の1963年には、当時としては珍しかった空中撮影を含むNHKの生中継放送も行われています。

 石原裕次郎主演の映画『黒部の太陽』(主演:三船敏郎、石原裕次郎)は、完成から5年後の1968年の作品ですが、完成までには、1962年に日活から独立した石原が当時の五社協定(俳優・監督の専属制)で俳優・スタッフの確保が難航したほか、巨額の制作資金の調達や撮影中の事故など、関係者の苦労は非常に大きかったようです。完成後、映画は後に文部省の推薦映画に選ばれたこともあり、当時の小中学生たちはかなりの割合で鑑賞したといわれていますが、石原が「こういった作品は映画館で見て欲しい」と断ったためビデオ化されておらず、現在では“幻の名画”といった趣になっています。

 なお、黒部ダムは世界的にも大規模なダムというだけでなく、中部山岳国立公園・立山黒部アルペンルートのハイライトとして観光名所にもなっており、毎年、6月下旬から10月中旬にかけて行われる落差100メートル以上の観光放水は人気を集めています。

 1994年に発行された富山県版のふるさと切手は、地元・富山県庄川町出身の日本画家、斉藤清策略による「黒部峡谷と黒部ダム」を取り上げたもので、遠くの雪山と目の前の新緑の対比の中に、北アルプスの雄大な自然に溶け込むダムの姿が表現された1枚です。

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 人口学的侵略の名残り
2008-04-15 Tue 14:07
 1965年の第2次印パ戦争以来、運航が中断されていたインドのコルコタ(カルカッタ)とバングラデシュのダッカを結ぶ旅客列車の運行が、昨日(14日)、43年ぶりに再開されたそうです。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 インド・難民救済加刷

 これは、1971年12月にインドで発行された難民救済の加刷切手です。

 1947年に英領インド帝国が解体された際、現在のバングラデシュに相当する地域は東パキスタンとして、現在のパキスタンに相当する西パキスタンとともに“パキスタン”を構成していました。“パキスタン”の政治的な実権を握っていたのは西パキスタンで、東パキスタンで生産されるジュートによってもたらされる外貨は、西パキスタン地域に優先的に支出される状況が続いていました。また、1970年の集中豪雨によって東パキスタン国土のほとんどが水没、17万人に上る死者が出たにもかかわらず、パキスタン政府の西パキスタン偏重政策は変わらず、東パキスタン住民の不満は高まります。

 このため、1970年の総選挙では、東パキスタンを地盤とした政党・アワミ連盟が“バングラ民族主義”を掲げて大躍進。東パキスタンの分離・独立運動は一挙に高揚することになりました。

 この動きに目をつけたインドは、パキスタンを弱体化させるために、東パキスタンの独立運動を支援。パキスタン軍が東パキスタンの独立運動を阻止すべく武力での征圧を開始し、東パキスタン難民がインドに流入するようになると、インドはこれを“人口学的侵略”としてパキスタンに侵攻。パキスタン軍はわずか2週間で降伏し、東パキスタンは1971年12月、バングラデシュとして独立します。

 こうした状況の下で、インドでは1971年11月15日から1973年3月31日まで、インド政府はバングラデシュ地域から流入する難民の救援資金を集めるため、葉書・新聞・盲人用郵便・軍事郵便・カシミール地域からの郵便などを除く郵便物に対して郵便料金とは別に5パイサの課金をすることを決定。そのための強制貼付切手を1971年12月1日に発行しました。ただし、当初は全インドの需要を満たす正刷切手を供給することができなかったため、家族計画キャンペーンの切手に“Regugee Relief”の文字を加刷したものが追加的に発行されています。

 ところで、今回ご紹介の切手については、僕はカタログの図版を見間違えて当初、“全インド共通”のものと書いてしまったのですが、これは誤りで、バンガロールで発行の地方加刷です。お詫びして訂正いたします。なお、この点については、黒崎卓先生から丁寧な解説を頂きましたので、そのまま、以下に転載しておきたいと思います。

 ブログで紹介されている切手は、インド政府が地方に有する印刷所(官報などを印刷するオフィス)において凸版やオフセットなどで加刷したLocal Typographed Provisionalsと呼ばれる一群の臨時切手の1つで、バンガロールの印刷所で加刷したものです。6箇所ないし7箇所で作成され、加刷文字にはいくつかのパターンがあって、全部共通ではありません。発行日は定かでありませんのでギボンズのCommonwealthなどは発行日を載せず、インドの専門カタログでは救済税開始の11月15日を採用しています。同じ11月15日には、ISPによる凸版加刷の臨時切手が発行され、これを、ISP所在地にちなみNasik Provisionalと呼びます。このほかに各地の郵便局が思い思いにゴム印などを押した臨時切手がありLocal Provisionalsと呼ばれています。ポイントは、全インド共通に使われたのは、正刷切手とNasik Provisionalの2種類だけ。地方で使われたものにLocal Typographed ProvisionalsとLocal Provisionalsがあって、前者は6種類ないし7種類、後者は星の数ほど種類があるということになります。
 (転載はここまでです。黒崎先生、ありがとうございました)

 さて、上述のように、インドがバングラデシュの独立を支援したのは、あくまでも、パキスタン(旧西パキスタン)を弱体化させることが目的でしたから、独立後のバングラデシュから大量の難民や不法入国者が流入してくることに対しては、これを何とかして阻止したいというのがインドの本音でした。このため、インド側はバングラデシュとの国境の往来には非常に慎重で、長らく鉄道が再開されなかったのもそのためです。

 今回の鉄道再開は、近年、インド経済が急成長を遂げる中で貿易拡大への期待が高まったことや、最大の仮想敵国である中国の躍進に対抗するため周辺諸国との関係改善が必要になってきたことなどの事情があると思われます。ただ、インドとバングラデシュの間の経済格差が埋まらない限り、“人口学的侵略” も収まらないでしょうから、そのあたり、インドとしても頭の痛いところでしょうな。

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 高山祭と古池信三
2008-04-14 Mon 14:23
 今日・明日(14・15日)は飛騨の高山祭です。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。

 高山祭

 これは、「お祭りシリーズ」の第1集として1964年4月15日に発行された“高山まつり”の切手です。高山祭は、毎年、春(4月14・15日の山王神社の祭)と秋(9月14・15日の八幡神社の祭)の2回行われますが、切手は春の祭の2日目に発行されました。この年の4月14日(祭りの初日)は火曜日ですが、あえて2日目を選んで切手が発行されたのは、祭りのハイライトとなる屋台の曳きそろえ、からくり人形奉納、祭り行列(御巡幸)などが15日に行われることを考慮したためかもしれません。

 高山祭の起源は、元禄時代に、高山でも江戸風の祭を取り入れたのが始まりといわれ、延享年間(1744~48)から現在のような屋台が作られるようになったといわれています。当初、屋台は踊る人間が上に乗っていましたが、しだいに、からくり人形の発達によって人間に代わって人形が上で踊るようになりました。そして、それにともない、屋台は重量に耐えうるものから装飾的なものへと変化し、他に例のない華やかなものとなりました。切手に取り上げられている屋台は、地元教育委員会のスタッフであった塚越勇次郎によれば“豊明台”と呼ばれるもののようです。

 ところで、「お祭りシリーズ」は、この高山祭を切手に取り上げるために企画されたシリーズでした。

 すなわち、1964年スタートのシリーズ切手の題材としては、当初、郵政省の事務方では、各地の民俗芸能を取り入れたものを念頭に検討するつもりだったようです。

 ところが、1963年12月、当時の郵政大臣・古池信三が地元の高山(岐阜県)に帰郷し、高山郵便局の起工式に出席したことから、事態は思わぬ方向に動きはじめます。

 じつは、高山では、すでに十年以上も前から高山祭の屋台を切手に取り上げてほしいという運動が展開されていましたが、この運動は、中央ではまったくといってよいほど相手にされず、事実上頓挫していました。そこへ、古池が郵政大臣として“お国入り”したことから、切手発行運動がにわかに再燃。おそらく、古池周辺のアドバイスを受けてのことと思われますが、高山屋台保存会会長・直井修三が、弥吾や郵政局長を通じて、郵政大臣としての古池宛に、高山祭の屋台を取り上げた切手を発行してほしいとの陳情書を提出します。

 この結果、昭和39年度の新切手発行計画を正式に決定するのは、年明け1月27日の郵政審議会の専門委員会ということになっていましたが、大臣の強い意志の下、高山祭の切手発行は、委員会の開催以前に既定の路線としてほぼ確定してしまいました。

 これを受けて、デザイナーの木村勝は、委員会開催前の1月16日までに屋台の原画を完成。やはり委員会以前の20日に大臣決裁を受けています。当初、木村の原画では、屋台の背景は無地となっていましたが、古池は背景に乗鞍岳の遠望を入れることを主張。このため、乗鞍岳に関しては、原画を別に作った上で、製版時にこれを加えるということで決着しました。

 こうして、高山祭の切手を発行する準備が事実上ととのえられた状態で、1月27日、専門委員会は、昭和39年度からスタートするシリーズ切手の題材を検討することになりますが、委員会では、高山祭の切手を発行するにしても、以前から事務方が計画していた民俗芸能シリーズの企画をどうするのか、高山祭の切手は各地の山車を取り入れた山車シリーズの名目で発行するのはどうかといった議論が交わされたようです。結局、委員会は、山車のみを取り上げた切手が延々と続くのではバラエティに乏しいとの判断に立ち、民俗芸能シリーズの企画も一部取り入れるため、両者の折衷案として、各地の祭の風景を取り上げた切手、つまり、“お祭シリーズ”を発行するという結論に到達しました。

 このように、高山祭の切手は、発行までの経緯に関しては、前述のように政治家の不明朗な介入がなされ、それに眉をひそめる収集家も少なくありませんでしたが、切手そのものの出来栄えは悪くなく、人気も上々でした。

 また、切手発行直前に刊行された少年週刊誌等で「新切手は東京中央局の切手普及課に通信で申込むのが確実」という記事が掲載されたこともあって、切手普及課への郵頼は激増。4月5日頃には1日1000通だった申込が、6日には3000通、7日には4000通と急増し、10日以降は1日平均5000~6000通にも上っています。もちろん、この中には、高山祭の切手だけでなく、発行日の近い切手趣味週間や鳥切手の“ほおじろ”なども含まれているものの、1962年中に普及課が受け付けた郵頼の総数が3万5000通であったことを考えると、その激増ぶりもわかろうというものです。

 このため、郵政省の事前の発表では、高山祭の切手の発行枚数は1800万枚となっていましたが、実際には、500万枚増刷されて、2300万枚の発行となりました。

 なお、高山祭を含む「お祭りシリーズ」の切手に関しては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく解説しておりますので、よろしかったら、ぜひご一読いただけると幸いです。

 イベントのご案内
 4月26日(土)13:00より、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館にて開催のスタンプショウ’08会場内にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の刊行を記念してトークイベントを行います。入場は無料で、スタンプショウ会場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 

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 瀬戸大橋20年
2008-04-13 Sun 12:03
 10日に開通20周年を迎えた瀬戸大橋で、今日(13日)、記念のイベントとして、通行止めにした橋の上でマラソンが行われたそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 瀬戸大橋

 これは、1988年4月8日に発行された瀬戸大橋開通の記念切手です。瀬戸大橋の開通は4月10日ですが、1988年のこの日は日曜日だったため、切手の発行は金曜日の8日となりました。ちなみに、画像の左側2枚は岡山県側から、右2枚は香川県側からの景観です。

 瀬戸大橋は、瀬戸内海を跨いで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ本州四国連絡橋のひとつで、上部に4車線の瀬戸中央自動車道が走り、下部にJR本四備讃線(瀬戸大橋線)が通る2階建てになっています。橋梁部9,368 m、高架部を含めると13.1kmという大きさは鉄道道路併用橋としては世界最長で、人工衛星の写真でも確認できるほどです。

 瀬戸大橋の構想は、はやくも1889年に香川県議会議員の大久保之丞が提案していますが、当時の技術では実現の見込みのない与太話として、まともに相手にされなかったようです。

 それが、現実のものとして検討されるようになったきっかけは、第2次大戦後の1955年、国鉄連絡船・紫雲丸による事故で、修学旅行の小学生など168名が亡くなってからのことで、事件後、香川県議会が「宇高連絡鉄道建設促進に関する意見書」を国に提出しています。香川県と国との交渉の結果、工事は認可され、1970年には本州四国連絡橋公団も設立されますが、オイルショックなどの影響もあって、実際に坂出市番ノ州で工事が始まったのは1978年10月10日のことでした。

 9年6ヶ月の歳月と1兆1338億円の経費をかけた瀬戸大橋の工事では、世界初の技術として「海底無線発破」「設置ケーソン工法」などが導入されるなど、日本の技術力を世界に知らしめるものとなっています。

 その一方で、巨額の建設費用を回収するため、早島=坂出間の片道通行料金が普通車で4100円という超高額(これでも、2003年に値下げされたそうです)という超高額に設定されていることもあって、開通以来、通行量は芳しくなく、維持費の分も加わって赤字は雪だるま式に膨らんできたという負の面もあることも忘れてはなりません。

 なお、この切手に関しては、来年刊行するつもりの<解説・戦後記念切手>シリーズの第7巻で詳しくご説明することになると思います。ただ、先日出来上がったばかりの第6巻がまったく売れず、瀬戸大橋並みの大赤字になってしまうと、シリーズは今回で打ち切りになってしまうかもしれません。そうならないためにも、ここはひとつ、人助けと思って、出来立てほやほやの第6巻『近代美術・特殊鳥類の時代』をよろしくお願いいたします。

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 大統領になりそこなった男たち:ロバート・タフト
2008-04-12 Sat 12:08
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『中央公論』5月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回はこの人物を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 ロバート・タフト

 これは、1960年に発行されたロバート・タフトの切手です。

 アメリカ史上最も偉大な上院議員五人“フェイマス・ファイブ”の一人とされるロバート・タフトは、1889年、オハイオ州シンシナティで生まれました。祖父はグラント政権の陸軍長官、父親も陸軍長官を経て大統領になったという超名門の出身で、ロバートの孫も現在のオハイオ州知事を務めています。

 1938年、上院議員に当選した彼は、当時の民主党・ルーズベルト政権のニューディール政策を激しく批判して“小さな政府”を主張し、保守派の代表的な論客となりました。また、外交面では、いわゆる孤立主義の系譜に連なる不干渉・中立政策を主張し、1939年に第二次欧州大戦が勃発した後も、1941年12月の真珠湾攻撃まではアメリカの大戦への参戦に断固反対という立場をとっています。ちなみに、第二次大戦についてのタフトの評価は(アメリカ人にしては珍しく)極めて冷静で、彼はナチスの戦犯を裁くニュルンベルク法廷を“勝者による恣意的な裁き”と批判している点は注目に値します。

 なお、政治家タフトの最大の業績は、第二次大戦後、上院労働委員長として、国民生活に深刻な影響を及ぼす労働争議には大統領による指揮権発動を認めた「タフト・ハートレー法」を成立させたこととされています。
 
 さて、タフトはその華麗なる出自ゆえに“ミスター共和党(Mr. Republican)”とも称されており、1940年、1948年、そして1952年の3回、大統領選挙にチャレンジしています。このうち、“三度目の正直”をめざした一九五二年の選挙では、当初、彼は指名確実の大本命と見られていました。

 ところが、東西冷戦が本格化していく中で(当時は朝鮮戦争のさなかです)、孤立主義外交を掲げ、ソ連の軍事力よりも政府の放漫財政こそが国家にとっての深刻な危機するタフトの主張には、共和党内でも“容共的”との批判がありました。このため、タフトの主張を快く思わないグループは、第2次大戦の英雄で反共姿勢が鮮明なドワイト・アイゼンハワーを対抗馬に担ぎ出し、国民的英雄の参戦で無風と見られていた指名争いは一挙に白熱化することになりました。

 共和党の候補指名争いは史上まれにみる大接戦となり、決着は1952年6月の共和党大会に持ち越されます。党大会では、当初、タフト派が有利と見られていましたが、大会の冒頭、アイゼンハワー派がテキサス(アイゼンハワーの地元です)を含む南部諸州の代議員選出に際して、タフト派が不正を働いたとのクレームをつける騒動が起こります。実際には不正の事実はなくタフト陣営は反論したのですが、党大会本部は南部のタフト派代議員を排除することを決定。この結果、アイゼンハワーが僅差で大統領候補の指名を獲得しました。

 アイゼンハワー派に煮え湯を飲まされた形のタフトでしたが、その後は潔くアイゼンハワーの選挙戦に協力。11月の本選挙では、共和党候補=アイゼンハワーの当選に尽力しています。

 共和党は、大統領選挙と併行して行われた上院選挙も圧勝しますが、これを受けて、タフトは共和党上院の院内総務となります。しかし、それから間もなくして癌が発見され、1953年7月31日に亡くなりました。ちなみに、院内総務時代のタフトは、名門ゆえの“大統領にならなければならない”とのプレッシャーから解放され、非常に温和だったそうです。

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 100年前ならこの講堂
2008-04-11 Fri 11:27
 皇孫・愛子内親王殿下が学習院初等科にご入学だそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 旧学習院初等科正堂

 これは、1983年8月15日、「近代洋風建築シリーズ」の第9集として発行された旧学習院初等科正堂の切手です。

 旧学習院初等科正堂は、1899年、学習院初等科の正堂(講堂)として、東京府東京市四谷区尾張町(現・東京都新宿区)に建てられました。建物は木造平屋建てのスレート葺きで中は広間になっており、正面には階段によって演壇が設けられ、演壇中央は半円形に張り出しています。ちなみに、聖堂の完成した翌年の1900年に皇太子嘉仁親王(大正天皇)がご結婚。さらにその翌年の1901年には皇孫・裕仁親王(昭和天皇)のご誕生ということになっていますから、昭和天皇もこの正堂で入学式に臨んだということになるんでしょうね。

 その後、学習院では初等科の正堂を1936年に立て直すことになり、そのためにこの建物は宮内庁下総御料牧場のあった印旛郡遠山村へ下賜されました。ということは、1933年にお生まれの明仁親王(今上天皇)の入学式が行われた時には、この建物は学習院の敷地内にはすでになかったことになります。

 移築後、この建物は、1938年から、千葉県印旛沼郡の遠山尋常高等小学校(現・成田市立遠山中学校)の講堂として使われていましたが、新東京国際空港(成田空港)の建設に伴い、遠山中学校が防音校舎を新築することになったため、1973年に重要文化財に指定され、解体の後、現在地の“千葉県立房総のむら”内に再度移築され、復元されています。

 現在の学習院初等科の講堂がどういう建物なのか、不勉強にして僕は知らないのですが、こういう歴史的建造物での入学式や卒業式というのは、生徒本人よりも、参列した親が喜びそうですな。もっとも、儀式というのは概して退屈なものですから、子どもにとっては、会場がどこであろうと、一刻も早く終わってほしいというのが正直なところでしょうが・・・。

 なお、この切手を含む「近代洋風建築シリーズ」に関しては、新刊の拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しくご説明しています。同書は、奥付上の刊行日は4月20日ですが、すでに現物は出来上がっており、一部切手商などではすでに販売されておりますので、実物を見かけたら、ぜひ、手にとってご覧いただけると幸いです。

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 4月26日(土)13:00より、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館にて開催のスタンプショウ’08会場内にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の刊行を記念してトークイベントを行います。入場は無料で、スタンプショウ会場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。 

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 近代美術・特殊鳥類の時代
2008-04-10 Thu 11:34
 以前からこのブログでもご案内しておりましたが、4月20日付で<解説・戦後記念切手>シリーズの第6巻として、日本郵趣出版(切手関係の専門出版社です)から『近代美術・特殊鳥類の時代:切手がアートだった頃 1979-1985』が刊行となります。その現物が出来上がってきましたので、あらためてご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

 近代美術・特殊鳥類の時代

 <解説・戦後記念切手>シリーズは、1946年以降に発行された記念・特殊切手(ただし公園・年賀切手を除く)について、切手発行の経緯やデザイン、当時の人々の評判などの情報を網羅的にまとめた“読む事典”です。2001年の刊行以来、昨年までに刊行した第1~5巻では、1946年12月の「郵便創始75年」から1979年の「国土緑化運動」までを採録しましたが、今回の第6巻は、それを引き継ぎ、1979年5月の「近代美術シリーズ(第1集)」から1985年3月の「国際科学技術博覧会(つくば博)」までの全記念切手についてまとめました。

 この時代の切手は、いわゆる切手ブームが終わった後に発行されたものであり、発行当初から“額割れ”扱いされてきたため、これまで、収集家の興味や関心の対象となることはあまりありませんでした。しかし、この時代、印刷局の技術は飛躍的な進歩を遂げており、純粋に印刷物としてみると非常にクオリティの高い切手が少なからず生み出されていることは見逃せません。

 そうした技術的な面での解説に加えて、本書では、

 ・「ふみの日」の切手はどのような経緯で発行されるようになったのか?
 ・国際文通週間の切手の題材に、突如、“人形”が登場したのは何故か?
 ・「消防100年」の切手で、ぼかしで隠されている文字とは?
 ・わずか12歳の少女の信じられないほど艶っぽい後ろ姿の切手とは?
 ・「プロ野球50年」の記念切手が発行されるまでの郵政省と読売新聞社との暗闘とは?

 といったエピソードもご紹介しています。

 このように、本書はバラエティ豊かな内容で、切手収集家の方はもちろん、戦後史に興味をお持ちの方にも関心を持っていただけるのではないかと考えております。

 奥付上の刊行日は4月20日ですが、一部切手商の店頭などでは、早ければ今週末には実物をご覧いただけると思います。書店等でも実物をお見かけになりましたら、是非、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 なお、4月26日(土)13:00より、東京・浅草の都立産業貿易センター台東館にて開催のスタンプショウ’08会場内にて、本書の刊行を記念してトークイベントを行います。入場は無料で、スタンプショウ会場ならではの特典もご用意しておりますので、是非、遊びに来てください。皆様のお越しを心よりお待ち申しております。

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 60年前の韓国総選挙
2008-04-09 Wed 12:49
 韓国では今日(9日)、国会議員総選挙の投開票が行われています。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 南朝鮮・第1回総選挙

 これは、大韓民国成立直前の1948年5月10日、アメリカ軍政下の南朝鮮で行われた第1回総選挙の記念切手が貼られたアメリカ宛の初日カバーです。

 日本の敗戦後、連合国軍最高司令官一般命令第1号により、朝鮮は米ソにより北緯38度線で南北に分割占領されます。これは、当初はあくまでも暫定的な措置とされていましたが、その後、東西冷戦の進行により、5年間を限度とする信託統治の後、南北統一の政府を樹立するというモスクワ協定(1945年12月)のプランは実現が困難になっていきます。

 米ソ間の調整が難航する中、アメリカは自力での問題解決をあきらめ、1947年9月17日、朝鮮問題を第2回国連総会に上程。国連臨時朝鮮委員会を設置し、1948年3月末までに、同委員会の監視下に総選挙を実施するとの決議を採択させます。

 しかし、すでに北朝鮮のソビエト化をほぼ完成させていたソ連は、朝鮮半島からの米ソ両軍の同時撤兵を主張。選挙監視のために国連委員会が北緯38度線以北に立ち入ることを拒絶しました。このため、1948年2月、国連総会中間委員会は、“選挙の可能な地域”、すなわち南朝鮮での単独選挙を決議。こうして、同年5月10日、米軍政下の南朝鮮で第1回総選挙が実施されました。

 総選挙が行われた当時、南朝鮮の人口は2000万人で、選挙前日の5月9日までに選挙登録を行ったのは、全有権者の8割弱にあたる783万7504名でした。選挙は1区1人の単純小選挙区制で総定数200です。

 日本の植民地支配下では、ながらく、朝鮮を含む“外地”に関しては選挙区が設定されておらず、その結果、住民の選挙権もありませんでした。終戦直前の1945年4月になってようやく、朝鮮・樺太・台湾で男子住民に対する選挙権が与えられたものの、選挙が行われる前に終戦となってしまいます。

 このため、1948年の総選挙は朝鮮史上初の本格的選挙というべきもので、それを記念し、あわせて周知するための切手として、投票日当日の1948年5月10日に発行されたのが、今回ご紹介の切手です。なお、切手のデザインは2種類ありますが、このうちの20ウォンおよび50ウォンの切手には投票する男女の姿が描かれており、日本時代には認められていなかった婦人参政権も認められるようになったことがアピールされています。

 ただし、このときの選挙に関しては、南北統一政府の樹立を主張する金九や金奎植が、単独選挙は南北分断を固定化するとの理由から投票をボイコットするなど、総選挙をめぐる国内情勢は非常に不安定でした。また、済州島では大規模な武装蜂起が起こったため選挙は実施されていません。

 ちなみに、選挙の投票率は90・8%で、投票の結果、済州島の2選挙区を除き、198名が当選。このうち、53議席を獲得して第1党となったのは、大韓独立促成国民会(1946年2月に米軍政庁の支援を受けて組織された李承晩系の組織)で、29議席を獲得した韓国民主党(韓民党)がこれに続くという結果になりました。

 今回ご紹介の第1回総選挙を含め、アメリカ軍政時代末期から大韓民国成立までの重要な出来事は、南朝鮮の切手にことごとく取り上げられているので、それらを並べてみると、この時期の政治の流れを把握することができます。ただし、この時代の切手は未使用は多いのですが、気の利いたカバーなどが少ないので、リーフとしてまとめようとすると、ここに挙げたような初日カバーも使わざるを得なくなってくるのが、辛いところですが・・・。

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 歓迎は強要できない
2008-04-08 Tue 23:18
 先月24日にアテネからスタートした北京オリンピックの聖火リレーは、世界各地で中国政府のチベットに対する弾圧への抗議を受けています。中国側は各地の“妨害“行動にいら立ちを隠せないようですが、こんな風に歓呼の人波で迎えられると思っていたんでしょうかねぇ。(画像はクリックで拡大されます)

 康蔵・青蔵公路

 これは、1956年に中国が発行した康蔵・青蔵公路開通の記念切手で、毛沢東の肖像を掲げた車を歓迎するチベットの人々という、いかにもプロパガンダ臭の強いデザインが取り上げられています。

 康蔵公路は四川省の西康からカムを経てラサに至る全長2413kmの道路。一方の青蔵公路は青海省の蘭州から西寧経由でラサに至る全長1965kmの道路で、いずれも1954年に貫通しました。道路の建設に際しては、中国から膨大な数の政治犯が送り込まれるとともに、地元チベットの労働者が動員され、現在の中国側の公式発表でも、1キロにつき1人の犠牲者が出たとされるほどの過酷な労働に従事させられました。

 中華人民共和国の建国当初、中国中央政府の交通網はチベットまで伸びておらず、このため、中共政府としては、新たに“平和解放”したチベットを統制するためにも、中央直結の交通網を確保することは急務だったといえます。

 もっとも、“平和解放”に際して結ばれた「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(いわゆる17条協定)では、中国政府はチベットの自治を尊重するという建前でしたから、中国側は両公路や同時期の飛行場建設を“チベット人の利益にのみ利用される”と発表していました。しかし、現実には、完成した公路や飛行場は、チベット人の利益のためというよりも、チベットに駐屯している中国兵のための物資補給に用いられ、北京政府によるチベット支配と同化圧力は強化されていきました。実際、公路完成後の1955年には、北京政府はチベット政府に代わる「西蔵自治区準備委員会」の設立を提案 。この切手が発行された1956年には同委員会を公式に発足させ、チベットの自治を大幅に制限する方向へ舵を切っています。

 したがって、この切手に見られる中国からの自動車を歓迎するチベットの人々という構図は、北京政府にとってあるべき姿だったかもしれませんが、すでに当時の段階でも、虚構のプロパガンダの中にしか存在していなかったといったら言い過ぎでしょうか。

 そもそも、オリンピックの聖火リレーというのは、ベルリン・オリンピックの時にナチス・ドイツが東欧・バルカンへの侵略経路の調査も兼ねて行ったというのが始まりですからねぇ。国内では言論の自由を封じ込め、チベットやウィグル、モンゴルなど、周辺諸民族を抑圧し続けている中国共産党政府とは相性がいいイベントというのもわからないことではありません。まぁ、人民解放軍がロンドンやパリ、サンフランシスコまで攻め込んでいくということはないでしょうが、心配性の僕なんかは、我が国がのんきに長野での聖火リレーを受け入れてしまったことに一抹の不安を感じてしまいます。

 いずれにせよ、中国がチベット政策を根本的に改めない限り、北京オリンピックの聖火が、この切手に描かれているような歓迎を世界各地で受けることはありえないでしょうな。ちなみに、明後日(10日)、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世はアメリカに向かう飛行機の乗り換えのため、日本に数時間だけ立ち寄るのだそうですが、こちらの方こそ、本来はもっと歓迎されるべきではないかと僕なんかは思ってしまいます。

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 アスクレピオスの蛇
2008-04-07 Mon 18:08
 今日は世界保健デー。いまから60年前の1948年に世界保健機関(WHO)が設立されたことにちなむものです。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 世界保健デー(メキシコ)

 これは、1978年にメキシコが発行した世界保健デーの記念切手で、地球を背景に蛇と聴診器を持つ手が組み合わされています。世界保健機関のマークは国連マークと、ギリシャ神話の医学神アスクレピウスに由来する蛇と杖のマークを組み合わせたものですが、今回ご紹介の切手は、それをバラバラにして組みなおしたような雰囲気があります。

 アスクレピオスはアポロンとコロニスの子。アポロンの使いであるカラスの虚偽の報告により、コロニスがアスクレピオスを身ごもったまま、アポロンに射殺された後、母親の胎内から救い出されてケンタウロスの賢者ケイロンに育てられました。

 幼少時から医学に才能を示し、ついに死者まで生き返らせることができるようになりましたが、冥界の王ハデスから“世界の秩序(生老病死)を乱すもの”との抗議を受けたゼウスは、彼を殺してしまいます。しかし、死後は天に上げられてへびつかい座となり、神の一員に加わったとされています。ちなみに、かのヒポクラテスはアスクレピオスの子孫だそうです。

 アスクレピオスは常に聖蛇が巻き付いた杖を持っていましたが、彼の死後、彼を慕う人々は各地に神殿を造って祀り、救いを求めて巡礼する病人や身体障害者がつぎつぎと訪れるようになりました。旅人が神殿で祈り、用意された居間で眠りにつくと、そこにアスクレピオスの神聖な召使である聖蛇をつれた神官が病人の間を廻って歩き、夢の中で病の治療法を告げて、蛇に治療させたということから、蛇に杖の巻き付いたモチーフを“(医学の神である)アスクレピオスの杖”と呼びならわすようになりました。なお、ギリシャに限らず、古代世界では、蛇の脱皮を死と再生を司るとして蛇は医術・呪術の象徴と見なされていたそうです。

 現在、アスクレピオスの杖は、医の象徴として、WHOのみならず、各国の医師会のマークに取り込まれたり、救急車の車体に描かれていたり、軍医や衛生兵などの兵科記章にも用いられています。

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 ラタナコーシン王朝記念日
2008-04-06 Sun 18:25
 今日(4月6日)は、タイでは現在のラタナコーシン王朝(チャクリー王朝とも)の創立記念日で祝日です。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 王朝150年(ラーマ1世+7世)

 これは、ラタナコーシン王朝150年を記念して1932年4月1日に発行された8種セットのうちの50サタン切手で、王朝の始祖であるラーマ1世と当時の国王であるラーマ7世が並べて描かれています。
 
 1925年に即位したラーマ7世の最大の課題は、先代のラーマ6世時代の放漫財政による財政赤字問題の解決でした。このため、国王は官吏の大規模な人員整理を行い、財政は一時的に好転しましたが、1929年に世界恐慌が起こると、タイの輸出は激減し、タイ経済は壊滅的な打撃を受けてしまいます。

 一方、当時は世界的に共産主義勢力の拡大が問題視されていた時代で、国王は革命を防止するためにも、漸次国会開設の方針を打ち出し(当時のタイは絶対君主制で一般国民の参政権は認められていませんでした)、国民の政治参加の訓練を目的として、市制(地方自治制度)導入を検討していました。しかし、このとき範例の一つとされた日本の地方自治制度に関する文献(日本語)のタイ語への翻訳に時間がかかってしまい、結局、市制は実施されませんでした。また、国王は立憲君主制への移行措置として1927年に勅撰議員からなる枢密院委員会を創設。1932年3月には外相から提出させた憲法草案を修正のうえ、同年4月のバンコク建都150周年(今回の切手の題材であるラタナコーシン王朝150年とほぼ同義です)の記念式典をめどに公布しようとしていました。

 ところが、1932年4月4日から8日の日程で行われた“バンコク建都150年祭”では、国王は、国家を人体になぞらえ、王族と人民は“一身一体”であると演説しましたものの、肝心の参政権の付与については明言を避けざるをえませんでした。有力王族の強硬な反対があったためです。

 150年祭が終わると、タイ政府は財政再建を目的として、給与税(年600バーツ以上の給与所得者への累進課税)の導入を決定します。この結果、それまで、課税対象の国民が一挙に拡大。さらに、家屋土地税も導入する一方で、王族に支給される歳費は非課税のままであったことから、ついに国民の間でも参政権要求の声が高まり、同年6月24日、立憲革命が勃発することになるのです。

 なお、王朝150年を記念するものとしては、今回ご紹介の切手のほか、バンコクのラタナコーシン地区とトンブリー地区を結ぶラーマ1世橋(ラーマ1世像はそのたもとにあります)があります。この橋やトンブリー地区などについては、拙著『タイ三都周郵記』でいろいろとご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 ODAの効果
2008-04-05 Sat 12:35
 経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)が昨日(4日)発表した、加盟22ヵ国の2007年の政府開発援助(ODA)実績によると、日本は前年比31.3%減の76億9100万ドルで、国別では、ドイツ、フランスに抜かれて前年の3位から5位に順位を下げたほか、経済規模に比べた援助の貢献度は、ODA実績額を国民総所得(GNI)で割った比率が、2006年の0.25%から0.17%に低下し、1964年以来の低水準となったそうです。というわけで、今日はODAネタということでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 日本ニカラグア友好

 これは、1999年11月12日に中米のニカラグアが発行した“日本・ニカラグア友好”の記念切手で、左上から、プエルト・カベサスの漁船、日本・ニカラグア友好病院、ニカラグアの農村で活躍するクボタのコンバイン、日本人学校、汎米高速道路の橋、マナグアの日本水道、が描かれています。日本人学校以外は、いずれも、日本のODAによるもので、ニカラグア政府としても切手を通して日本への感謝の気持ちを表現してくれています。

 ODAは、先進工業国の政府や政府機関が発展途上国に対して行う援助や出資のことで、そのルーツは第2次世界大戦後の1945年12月、戦後の世界の復興と開発のために設立された国際通貨基金 (IMF) と国際復興開発銀行(IBRD、世界銀行)に求められます。

 戦後の復興時には、わが国も東海道新幹線や東名高速道路建設のために世界銀行から融資を受けましたが、その一方で、早くも1954年にはビルマと結んだ「日本・ビルマ平和条約及び賠償・経済協力協定」でODAを拠出しています。この時期、ビルマに加えて、フィリピン、インドネシアとの経済協力が行われましたが、それら初期の日本のODAは戦後賠償としての意味合いが強いものでした。

 ODAは発展途上国であれば、どの国にでも援助できるわけではなく、①環境と開発を両立させる、② 軍事的用途及び国際紛争助長への使用を回避する、③テロや大量破壊兵器の拡散を防止するなど国際平和と安定を維持・強化するとともに、開発途上国はその国内資源を自国の経済社会開発のために適正かつ優先的に配分すべきであるとの観点から、開発途上国の軍事支出、大量破壊兵器・ミサイルの開発・製造、武器の輸出入などの動向に十分注意を払う、④開発途上国における民主化の促進、市場経済導入の努力並びに基本的人権及び自由の保障状況に十分注意を払う、といった4原則があり、 無秩序なバラマキに対しては、一応の歯止めがかかっています。

 とはいえ、ODAを皮切りに現地への日本企業の進出を促進しようという思惑もあるため、政財界ないしは現地政府の癒着を招きやすいほか、経済的利益を優先するために上記の原則が無視されることも少なくありません。

 たとえば、日本がこれまで巨額のODAを行ってきた中国という国は、環境と開発を両立させているわけでもなく、援助を軍事的用途及び国際紛争助長に使用している疑いが濃厚であり、民主化の促進や基本的人権と自由の保障状況にはほとんど関心を払っていないわけで、上記の4原則からすれば、こうした国にODAを行うなど論外ということになります。しかし、実際には、ODAによって日本企業にも少なからず旨みがあることから、経済的実利の前には、建前としての原則論は無視されてきたというのが実情です。中国側が、日本のODAに対して“感謝”ではなく“評価”という言葉で表現するなど、われわれ国民からすれば度し難い態度をとっているのも、日本側の下心が見え見えだからにほかなりません。

 まぁ、痩せても枯れても世界全体から見れば日本は経済大国なわけで、途上国支援のために一定の資金を拠出するのはやむを得ないわけですが、人情として、いくら援助をしても感謝してくれない国と、援助に感謝して切手まで発行してくれる国では、どちらと仲良くしていきたいと思うかは、改めて問うまでもなく明らかでしょうな。
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 33年ぶりの開通
2008-04-04 Fri 18:17
 地中海の分断国家・キプロスの中心都市ニコシアで、30年以上にわたって封鎖されてきたレドラ通り(全長約1キロのうち、南側約800メートルはギリシャ系のキプロス共和国に、北側部分はトルコ系の北キプロス・トルコ共和国にあり、境界付近の80メートルは国連管理下の緩衝地帯)の交通が、昨日(3日)、再開されたそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 キプロス・郵便税切手(1977)

 これは、1977年にキプロス共和国が発行したキプロス難民救済のための郵便税切手で、鉄条網を背景に子供が描かれています。
 
 イギリスの支配下に置かれていたキプロス島は、1960年に“キプロス”として独立しましたが、同島にはもともとトルコ系住民とギリシャ系住民が並存しており、それぞれ、トルコないしはギリシャとの併合を求める声が根強いという事情がありました。こうした状況の下で、1974年7月15日、ギリシャ併合賛成派によるクーデターが発生すると、トルコ系住民の保護を名目にトルコが出兵して同島北部を占領。混乱の中で、トルコ系住民が北部のトルコ占領地域へ、ギリシャ系住民が南部の非占領地域へ移住した結果、キプロスは分断状態に陥り、翌1975年、トルコ系住民は、トルコの強い影響下にキプロス連邦トルコ人共和国(現在の北キプロス・トルコ共和国)を結成しました。

 この過程で発生したギリシャ系難民の救済のため、キプロス共和国では、1974年12月以降、郵便料金とは別に“郵便税切手”を郵便物に貼ることを義務付け、難民救済のための寄付金を集めました。今回ご紹介のものもそうしたものの1枚で、その後も同じデザインで年号部分を変えたものが発行されました。

 キプロス共和国では、今年2月の大統領選で、“北キプロス”との対話重視を掲げるフリストフィアス大統領が当選し、3月21日には南北首脳会談も行われました。今回のレドラ通りの交通再開は、その成果として実現したもので、南北双方とも、再統合交渉を仕切り直したい意向と伝えられています。

 ただし、経済的に反映し、EUへの加盟を実現したキプロス共和国に対して、トルコ以外からは承認されておらず、国際的な孤立から経済的に遅れている北キプロスとの格差は大きく、南が北を吸収合併することには抵抗感も強いようです。

 実際、再統合後の国家像でも、北キプロス側はトルコ系とギリシャ系が対等な共同体として国家運営する方法を主張しているのに対して、キプロス共和国側はこれを一蹴するなど、両者の間には埋めがたい溝があり、住民のお祝いムードとは裏腹に、再統合が実現する可能性は限りなくゼロに近いというのが実情です。
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 清水寺の小型シート
2008-04-03 Thu 23:48
 今日は、京都市の清水寺をはじめ全国の“清水寺”で作る全国清水寺ネットワークが1998年に“し(4)み(3)ず”(清水)の語呂合せで制定した“清水寺・みずの日”だそうです。というわけで、清水寺がらみの切手の中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 京都切手展

 これは、1947年8月19日に発行された“郵便切手を知る切手展(京都切手展)”を記念して発行された小型シートで、清水寺を描く2円の通常切手が5枚収められています。

 1947年5月に東京・日本橋の三越百貨店で開催された「郵便切手を知る展覧会」(東京展)は、1週間の会期で入場者総数が26万人を超えるなど、イベントとしては大成功を収めました。これを受けて、東京展の展示パネルを使いまわして全国各地での巡回展を行うことが決定され、逓信省は巡回展の開催地決定のため、各逓信局の意向を打診します。

 しかし、打診を受けた各逓信局では、会場の確保や予算上の問題を理由に、ことごとく切手展の開催に難色を示し、巡回展の開催地はなかなか決定しませんでした。結局、やはり東京の次は関西で開催すべきということに意見が集約され、8月19日から24日までの6日間、京都市四条高倉の大丸百貨店6階催事場を会場に、大阪逓信局の主催で「郵便切手を知る展覧会」が開催されることが決定されます。このとき、すでに7月半ばを過ぎており、会期までは残り1ヶ月を切っていました。

 展覧会を引き受けた大阪逓信局では、当初、東京展の展示内容に改良を加える予定でしたが、なにぶんにも準備期間が少なかったため、結局、地元収集家・鹽見芳水の手になる使用済切手で法隆寺を描いた衝立を除くと、東京展とほぼ同内容の展示におわりましたが、6日間の会期中、約5万人の入場者を動員し、成功裏に終わっています。

 このように、切手展の準備があわただしく進められるなか、東京展の先例に倣い、会場内で記念小型シートを発売する計画も実行に移されました。

 当初、逓信省の内部では、東京展の際に発行した小型シートが大量に残っていたことから、これに“京都”の文字を加刷したものでお茶を濁すことも考えられていたようですが、やはり、新規に小型シートを作成しようということになり、清水寺を描く2円切手に白羽の矢が立てられます。

 清水寺の2円切手が小型シートに利用されたのは、なにより、図案が開催地の京都にゆかりのものであったためです。また、この2円切手が平版・無目打・無糊で製造されていたため、小型シートの製造が簡便であったことも、短期間で製造・発行するための好要因となっていました。

 小型シートは、会期初日から会場内の京都郵便局臨時出張所で販売され、会期中、1万540シートが販売されました。これは、東京展の場合と比べると、対入場者数比で比較的好成績でしたが、それでも、15万枚という発行枚数からすると、相当数の売れ残りを生じることになりました。このため、京都郵便局では、在庫を消化するために、相当数の売れ残り小型シートを単片に切り離して窓口で売りさばいたと伝えられています。

 なお、この小型シートは、切手部分としては既存の普通切手を流用していたため、その発行告示も、1946年12月3日付で出された逓信省告示第171号(清水寺2円切手の発行告示)をもって代用するとして、小型シート(当時の逓信省の表現では「組合せ郵便切手」)そのものとしては出されませんでした。このため、アメリカのスコットカタログなどでは、この小型シートは清水寺の2円切手のサブナンバーとして記録されています。

 なお、この切手と京都切手展に関しては、拙著『濫造・濫発の時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 独立前後のジンバブエ
2008-04-02 Wed 23:51
 アフリカ南部のジンバブエで先月29日に投票が行われた大統領選挙は、選管の公式発表はまだですが、野党・民主変革運動のモーガン・ツァンギライ議長が勝利宣言を行い、1980年の独立以来、27年ぶりに政権交代となる公算が強くなってきたようです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ジンバブエFFC

 これは、ローデシア時代最末期でジンバブエ正式独立直前の1980年4月2日、首都のソールズベリー(現ハラレ)からロンドン宛の初飛行カバー(FFC)です。

 現在のジンバブエの前身となる英領南ローデシアでは、1960年代から黒人による独立運動が行われていました。これに対して、少数の白人による支配体制の維持を主張する植民地政府首相イアン・スミスらは、国際世論の反対を押し切って、1965年、白人中心のローデシア共和国の独立を宣言。人種差別政策を推し進めていきます。

 当然のことながら、スミス政権に対しては黒人の抵抗運動が組織されましたが、ローデシア政府は国民民主党(NDP)の活動を禁止したのをはじめ、黒人による独立運動を徹底的に弾圧していきます。のちの大統領となるロバート・ムガベも、こうした独立運動の闘士で、1964年に逮捕されて10年間を獄中で過ごした後、1974年に釈放されると、中国の軍事支援を受けてジンバブエ・アフリカ民族解放軍(ZANLA)を結成し、ローデシア政府軍に対する武装闘争を展開。ローデシアは内戦状態に突入します。

 これに対して、アメリカの圧力を受けた南アフリカ大統領、バルタザール・フォルスターが内戦の調停に乗り出し、1978年3月3日、スミス政権と、アベル・ムゾレワ司教ら黒人穏健派指導者の間で停戦協定が調印されます。協定の結果、暫定政権樹立を準備するための議会選挙が実施されることになり、暴力を放棄した唯一の黒人政党・統一アフリカ民族会議(UANC)が勝利します。しかし、スミス政権はこの結果を認めず、居座りを図ったため、、1979年9月、イギリス政府の呼びかけで、ジンバブエ・ローデシアの全政党の参加によるランカスター・ハウス協定が調印され、100議席中、20議席を白人の固定枠とすることで合意が成立、1980年2月の総選挙を経て、1980年3月4日、ムガベが初代首相に就任。4月18日、黒人国家・ジンバブエが正式に独立しました。

 今回のカバーは、まさにローデシア→ジンバブエの過渡期にあたる4月2日に差し出されたものですが、4月18日の正式独立後も、このカバーに貼られているローデシア表示の切手はしばらく使われていたようです。
 
 このとき誕生したムガベ政権は、その後、実に27年の長きにわたってジンバブエを支配し続けてきたわけですが、長期政権の常として、近年は政権の腐敗が深刻化し、経済運営の失敗により国民生活は惨憺たる状況と伝えられています。それらを示すマテリアルというのもいくつか思いつくのですが、現時点ではあいにく入手できていません。いずれ、機会があれば手に入れて、ご紹介してみたいものです。
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 『郵趣』4月号
2008-04-01 Tue 23:05
 今日から新年度がスタートしました。すでに、JPS(財団法人・日本郵趣協会)会員の皆様のお手元には、雑誌『郵趣』の4月号が届いていることと思います。この4月号については、僕も企画段階からいろいろと絡んでいるので、ちょっとご説明したいと思います。(画像は雑誌の表紙です)

 『郵趣』2008年4月号表紙

 現在、40代以上の男性であれば、程度の差こそあれ、一度は切手を集めた経験をお持ちの方は多いと思います。その後、受験や就職など、いろいろと身辺が忙しくなって収集を中断された方も多いかとは思いますが、社会人としてある程度、時間とお金に余裕が出てきたときに、もう一度切手を集めてみようかと思う方もあるでしょう。そうした“カムバック組”をいかに取り込んでいくかが、今後、日本のフィラテリーが社会的に生き残っていくうえで重要な課題であることは言うまでもありません。

 ところが、これまでは、せっかく切手をもう一度集めてみようかという人がでてきても、そうした人たちに対するフォローはきわめて不十分な状況が続いていました。たとえば、切手に関する入門書の多くは、切手収集を全くしたことのない人や子供たちを対象に書かれており、かつて切手をかじったことのある人たちには退屈な印象を持たれてしまうのが現実です。もちろん、たいていの入門書は、じっくりと読めば、決して子供だましの内容で終わってはいないことがわかるのですが、最初のところで「切手を扱う際にはピンセットを使いましょう」などと書かれていると、その後を続けて読む気にならないというのが正直なところだろうと思います。

 そこで、僕たちは、かつて切手を集めたことのある人が切手収集を再開するきっかけになるようなブックレットを作ることを考えました。それが、今回の『郵趣』4月号というわけです。

 もちろん、僕たちは、最近の若い女性たちが“かわいい切手”や“きれいな切手”を自分の好みで好きなように楽しむというやり方を否定するつもりはありません。ただ、彼女たちと元切手少年たちとでは、価値観や趣味嗜好が全く異なるのは当然のことで、両方を一度に相手にしようとすると、どうしても、中途半端な内容になってしまいます。そこで、今回はターゲットを元切手少年にしぼって、切手収集が大人の男の趣味であるということを前面に打ち出し、その魅力を紹介するとともに、切手少年だった大人たちが収集を再開したくなるような内容とすることを目指しました。

 こうしたコンセプトにしたがって、最初のカラー特集では、元切手少年なら誰もが知っている内外の“良い切手”をじっくりとお見せしています。批判を覚悟であえて言うなら、女子供にへつらった“かわいい切手”の類は基本的に相手にしていません。同じくカラー特集の「切手で選ぶ世界の美女(10)」も、最近の流行りやガキの好みは一切斟酌せず、大人が共感できる人選にしました。(もちろん、“美女”の判定基準は人それぞれでしょうから、異論があれば、それは甘んじて受け入れますが・・・)

 ついで、モノクロページでは、元切手少年たちがすんなりと収集を再開できるような情報を盛り込むことに努めました。切手ブームの時代から現代までの郵趣史年表をつけたのも、“カムバック組”の方々が切手の世界を離れてから現在まで何があったのか、おおよそのことを理解していただきたかったからです。また、コレクションの作り方にはどんなスタイルがあるのか、ピンセットやストックブックにはどんなものがあるのか、といった具体的なノウハウも掲載しました。

 そのうえで、元切手少年の人たちが実際にどのように収集を再開し、現在楽しんでおられるのか、その実例として、大沼幸雄さんと安西修悦さんにご登場いただいています。

 このように、今回の『郵趣』4月号は、1冊丸ごと、大人のための切手収集入門といった体裁で作っております。

 つきましては、このブログをご覧の皆様のなかで、子供の頃にやっていた切手収集を再開してみるのも悪くないとお考えの方がおられましたら、ぜひとも、JPS事務局(〒171-0031 豊島区目白1-4-23、電話:03-5951-3311、FAX:03-5951-3315、e-mail:info@yushu.or.jp)までご一報ください。JPS事務局より、『郵趣』4月号を見本誌としてお送りいたします。また、皆様の身近に、以前切手収集をやっていたが、現在では止めてしまったという方がおられましたら、差し支えない範囲で、その方連絡先を教えていただければ、やはり事務局より『郵趣』4月号をお送りするよう手配いたします。

 使い古された表現ですが、切手収集は“趣味の王者”です。印刷物としての切手はそれ自体が美しいだけでなく、切手に描かれた文化や歴史、自然や風物を通じて世界のかけらに直接触れることができます。そうした“切手”の楽しさ・奥の深さを1人でも多くの方々に知っていただくためにも、まずは一人でも多くの方に『郵趣』4月号を手に取っていただきたく、心より皆様のご協力をお願いする次第です。
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