内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 鶴丸のないJAL機
2008-05-31 Sat 11:14
 翼を広げた丹頂鶴をモチーフにした円形にJALのロゴが入った“鶴丸”のマークが掲げられた日航機が、今夜(31日)の大阪発羽田行きのフライトを最後に姿を消すのだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 世界1周航路開設

 これは、1967年3月6日に発行された世界1周航路開設の記念切手です。

 1951年8月に設立された日本航空株式会社(JAL)は、当初、日本が占領下に置かれていたという事情もあって、アメリカに運行を委託するかたちでスタートしました。1952年4月に講和条約が発効すると、同年8月、日米航空協定が調印され、10月からJALの自主運航が開始されます。しかし、当時の協定は、アメリカ側が占領中に獲得した既得権益に基づいたものであったため、日本側に不利な内容となっており(たとえば、アメリカ側は東京に乗り入れられるが、日本側は東海岸のワシントンやニューヨークに乗り入れられなかった)、その改訂が大きな課題となっていました。

 1961年5~7月と1964年6~8月の2度にわたって行われた航空協定の改訂交渉はいずれも不調に終わりましたが、1965年8~12月の第3次交渉で、ようやく、わが国は、ニューヨークまでの運航権と大西洋を越えてヨーロッパまでの運航権(以遠権)を獲得し、航空分野でのアメリカとの互恵平等の立場を獲得しました。

 これを受けて、1966年11月、従来のサンフランシスコ線を延長したサンフランシスコ線が開設され、翌1967年3月6日から、東京→ホノルル→サンフランシスコ→ニューヨーク→(大西洋横断)→ロンドン→パリ(一部はフランクフルト)→ローマ→カイロ→テヘラン→ニューデリー→バンコク→香港→東京を結ぶ世界一周航路が開設されました。当時の所要時間は、東回りで58時間55分、西回りで79時間55分でした。

 今回ご紹介の記念切手は、その世界1周航路の開設に合わせて発行されたもので、世界1周の航空路線図にダグラスDC8型機が描かれていますが、尾翼には鶴丸のマークは入っていません。

 実は、鶴丸のマークじたいは1959年から採用されており、1964年にはJALの正式な社章にもなっているのですが、旅客機の垂直尾翼に掲げられるようになるのは、ボーイング747型機が導入された1970年以降のことです。したがって、1967年に発行された切手のJAL機には、当然、鶴丸は入っていないということになります。

 ちなみに、この時代のJAL機の塗装は、赤と青のラインを用い、尾翼には機種名(この場合だったらDC8)を大きく書くというものでしたが、切手には機種名は書かれていません。おそらく、特定の企業の特定の製品(といっても、飛行機なんかは見る人が見ればすぐにわかると思うんですが…)の宣伝になってはいけないという配慮があったためと思われます。

 なお、世界1周航路の開設に当たっては、いわゆる初飛行カバー(FFC)が作られましたが、JAL作成のFFCはすべて西回りの飛行機に搭載されていました。ところが、西回りの1番機が出発した翌日には東回りの1番機が出発したことから、各寄港地への到着時刻の関係上、たとえば、東京=ロンドン間のものについては、翌日の東回りの便に搭載されていたものこそが本来の意味でのFFCとなり、JALの作成した“FFC”は一部の路線に関しては、世界一周便の一番機に載せられたというだけのものとなっています。また、ロンドンからニューヨーク宛の郵便物に関しては、イギリス側の航空郵便の規定で、日航機ではなく他の航空会社の飛行機に積み替えられ、大西洋の部分に関しては実際にはJALではなく他社の飛行機が搭載されるなど、このときのFFCをめぐってはいろいろと騒動があったようです。

 このあたりの事情については、拙著『一億総切手狂の時代』でもご説明しておりますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

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 90年前の偽造切手
2008-05-30 Fri 20:54
 韓国・釜山で日本の収入印紙や切手2億3000万円分を偽造した偽造団が摘発されたことが新聞などでも大々的に報じられています。すでに、一部は日本国内の金券ショップなどで売りさばかれ、流通しているとか…。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ゲルマニア(偽造)

 これは、ドイツのゲルマニア切手10ペニヒの偽物で、第一次大戦末期の1918年にイギリスで作られたものです。下に本物の画像もUPしておきますので、比べてみてください。

 ゲルマニア(本物)

 第一次大戦中、イギリスはドイツに潜入させたスパイの通信用として彼らに偽造切手を持たせ、郵便に使用させていました。偽造切手は相当な数が作られましたが、連合国側にスパイからのレポートが届き、情報の解析が済むと文書はすべて処分されたため、郵便物に貼られた状態のモノはほとんど残っていません。使われないままになっていた未使用切手については、1921年になって、イギリスの業者が入手し、発表したことで、その存在が広く知られるようになりました。
  
 偽造切手の製造を請け負ったのは、ロンドン郊外のウォータールー・ブラザーズ&レイトン社で、シートは10×10の100面または11×10の110面で印刷されました。細かく観察すると、版面には本物と異なるところがいくつかあるのですが、上下の目打が、本物は切手1枚当たり14穴なのに対して、偽造品では15穴になっているのが一番わかりやすい見分け方だと思います。なお、偽物には無目打のモノもあります。

 ゲルマニアの偽造切手は、ここでご紹介している10ペニヒのほか、15ペニヒのものも作られました。これは、当時のドイツの郵便料金が、20グラムまで15ペニヒで、20グラムを超えて250グラムまでは25ペニヒ(10+15)だったことによります。

 なお、戦時下での謀略・偽造切手の使用は、第二次大戦中にピークを迎えますが、それらについては、拙著『これが戦争だ!』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。

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 ネパールとエベレスト
2008-05-29 Thu 12:39
 昨日(28日)、ネパールの制憲議会が招集され、新しい政体として連邦共和制の導入を宣言し、約240年続いた王制は終了しました。また、今日(29日)は1953年5月29日にニュージーランドのエドモンド・ヒラリーとネパール人シェルパのテンジン・ノルゲイ がエベレストの東南稜で世界初登頂に成功したことにちなみ、“エベレストの日(エベレスト登頂記念日)”なんだそうです。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ネパール・エベレスト

 これは、昨年(2007年)、ネパールが発行したエベレストの切手です。

 現在、一般にエベレストと呼ばれているこの山は、かつてはサンスクリット語でデヴギリ(神聖な山)またはデヴァデュルガと呼ばれていました。

 この山が、ベンガル出身のインド人数学者・測量技師、ラダナート・シクダールによって世界最高峰であることが確認されたのは1852年のことで、その後、1865年になって英国インド測量局のアンドリュー・ウォーが、局長のジョージ・エベレストにちなんで、この山を“エベレスト”と命名。局長本人は、現地名を重視すべきとの考えで、自分の名がつけられるのを嫌っていましたが、本人の死後にこの名前が定着してしまいます。

 一方、現地ネパールでは、この山はサンスクリットで“世界の頂上”を意味するサガルマーターと呼ばれていますが、これは、1960年代になってから、ネパールの歴史学者、バブラム・アチャリャが命名したものです。それ以前は、ネパールの人口が集中している首都のカトマンドゥとその周辺の人々は、そもそもこの山のことを知らなかったそうで、この山は忘れられた存在だったといわれています。

 なお、日本ではこの山をチョモランマと呼ぶことも多いようですが、これは“大地の母”を意味するチベット語で、シェルパ族の間では用いられているものの、ネパール国家としてはこの名称を正式なものとは認めていません。

 ところで、日本ではこの山のことを“中国名・チョモランマ”として紹介することも多いのですが、既に述べたように、チョモランマというのはチベット語であって中国語(北京語)ではありません。チベット語の名称を、わざわざ“中国名”として紹介するというのは、チベットは中国の不可分の領土であるという中国側の主張を追認することと表裏一体なわけですが、その点について自覚している日本人がどれほどいるのか、いささか怪しいところです。

 さて、昨日、王制を廃止したネパールの議会では、現在、ネパール共産党毛沢東主義派(マオ派)が第一党となっています。宿願の王制打倒を果たしたマオ派ですが、毛沢東主義の看板を掲げているものの、中国共産党とのつながりはほとんど無く、また思想的には毛沢東思想よりもむしろ南米の共産主義勢力に近いとされています。このため、既存の王室と外交関係のあった中国は、反体制派としてのマオ派のことを「毛沢東とは無関係」、「毛沢東の名を汚す利敵行為」として王室を支援していました。

 とはいえ、現実にマオ派がネパールの実験を握ってしまった以上、中国としても、かつてのようにマオ派を敵視すれば事足れりというわけにはいかなくなっているのが現状です。まぁ、「お前らは毛沢東主義者なんだから、チベット同様、“偉大なる祖国”である中華人民共和国に復帰すべきだ」というロジックを掲げて人民解放軍がカトマンドゥに武装進駐するということは…ないと思いたいですけどね。

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 ガボンのゲイシャ?
2008-05-28 Wed 17:05
 きょう(28日)から、アフリカ地域の包括的な支援策を協議する第4回アフリカ開発会議(TICAD4)が横浜で始まりました。この会議に合わせて、福田首相は3日間で40人と話し合う「マラソン首脳会談」を行うとかで、トップバッターとなったガボンのボンゴ大統領との2ショットの写真がネットのニュースにでていました。というわけで、ガボンの切手が何かないかと思って探していたら、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)
 
 ガボン・大阪万博

 これは、1970年の大阪万博に際してガボンが発行した記念切手です。

 ガボンは、中部アフリカの大西洋に面した国(面積は26万7667平方キロで日本の約3分の2)で、1960年にフランスから独立しました。政治的には比較的安定しており、石油も産出するため、経済的にも、アフリカ諸国の中では比較的豊かな国です。ただし、海底油田のほか、ウラン、マンガンなどの鉱産資源が発見され、それらが輸出されるようになったのは1970年代に入ってからのことで、独立後まもない1960年代は、全土のわずか0.5パーセントの耕地で全労働人口の7割以上を占める農民が生活するという状況でした。

 ちなみに、今回の切手の題材となった大阪万博の開催された1970年の時点では、東京にガボン大使館は開設されていたものの、ガボンの首都リーブルヴィルに日本大使館はまだ開設されていません。

 万博の記念切手というと、実際にはパビリオンやブースを出展しないにもかかわらず、収集家目当てに便乗して切手を発行する国も少なくありませんが、1970年の大阪万博に関しては、ガボンはきちんと参加しています。貧しい新興国だった彼らにとって、大阪万博は経済大国・日本との関係を強化し、国家建設に必要な経済支援を得る上でも重要な外交上のイベントとして位置づけられていたのでしょう。

 さて、肝心の記念切手は、三味線を弾く日本女性(と思しき人物)と太鼓をたたくガボンの男性を並べたデザインとなっています。もっとも、女性の服装や髪型はかなり怪しげですし、三味線にいたっては弦が3本ではなく4本として描かれているほか、バチもなんか変です。

 おそらく、ガボンにしてみれば、切手を用いて、精一杯、日本との友好をうたいあげたつもりだったのでしょう。しかし、彼らの痛々しい努力が伝わってくるだけに、アメリカに次ぐ西側第2位の経済大国の名声は、あるがままの日本の姿ではなく、フジヤマ・ゲイシャ風のイメージをアフリカの小国にまで浸透させるという皮肉な結果をもたらすことになったといえるのかもしれません。

 ところで、今回来日したボンゴ大統領は、1967年以来、40年にわたって政権を維持しているそうですから(ガボンの大統領職は1期7年で、ボンゴ大統領は5選を果たし、6期目です)、この切手が発行された時はすでに大統領だったんですねぇ。あの時代と比べて、大統領やガボン国民の日本に対する知識はどう変わったのか、ちょっと聞いてみたい気がします。

 なお、大阪万博に合わせて発行された世界の不思議な“フジヤマ・ゲイシャ“切手については、拙著『外国切手に描かれた日本』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 『郵趣』今月の表紙:アデンの1番切手
2008-05-27 Tue 12:45
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年6月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 アデンの1番切手

 これは、1937年に発行されたアデンの1番切手で、この地域の伝統多岐なダウ船が描かれています。雑誌の表紙では同時にシリーズの12種類(色違い)をご紹介していますが、ここでは、1ルピー切手を取り上げました。

 古来、イエメンと呼ばれていたアラブあ半島性南岸の地域は、近代以前は群小首長国が割拠する地域でしたが、19世紀に入ると、インド洋のシーレーン確保を目指すイギリスが首長国同士の争いに調停者として介入。重要拠点のアデン港を直轄植民地としたほか、イエメン南部の首長国を次々と保護領としていった。これに対して、イエメン北部の地域はオスマン帝国の支配下に置かれていましたが、第一次大戦で敗れたオスマン帝国が撤退すると、1918年、イエメン・ムタワッキル王国として独立しました。

 一方、南イエメンの地域では、1937年4月1日、イギリスの影響下にある地域で“アデン保護領”を結成し、この地域で使うための切手12種類が発行されました。これが、今回ご紹介の切手です。

 この切手は、イスラム世界の伝統的な木造帆船、ダウ船を大きく描いたもの。ダウ船は、大きな三角帆と釘を使わず紐やタールで組み立てる構造が特徴で、そのルーツは西暦の紀元前後にまでさかのぼるといわれています。かつては季節風を利用したインド洋貿易の主役として、ペルシャ湾岸のナツメヤシや魚介類、東アフリカのマングローブ木材をはじめ、奴隷や胡椒などを含むあらゆる商品がこの船で運ばれていました。

 切手の左右には南アラビアで成人男子の象徴とされている短剣、ジャンビーヤも描かれています。デラルー社の美しい印刷ともあいまって、海運の要衝として繁栄してきた船乗りの都市、アデンのイメージにふさわしい1枚といってよいでしょう。

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 駒沢体育館
2008-05-26 Mon 19:25
 私事で恐縮ですが、今日は娘の運動会で東京・世田谷の駒沢体育館(駒沢オリンピック公園総合運動場体育館)に行ってきました。で、なんか見覚えのある建物だと思って家に帰って確認したら、やっぱり、この切手に取り上げられていました。(画像はクリックで拡大されます)

 駒沢体育館

 これは、1964年10月10日に発行された東京オリンピックの記念切手で、オリンピックの際にはレスリングの会場となった駒沢体育館が取り上げられています。

 駒沢体育館は、都立駒沢オリンピック公園の一部で、駒沢陸上競技場に隣接して作られました。

 駒沢オリンピック公園は、もともとは駒沢ゴルフ場の跡地で、1940年に行われるはずだった幻の東京オリンピックのメイン会場として利用される予定でした。第2次大戦後の1953年、あらてめてプロ野球の東急(東映)フライヤーズの本拠地として、東京急行電鉄などが建設した駒沢球場として開設されたましたが、1964年の東京オリンピックの開催に伴うスポーツ公園の整備(サブ会場としてサッカー、バレーボールなどが行われました)を行うため東京都に用地が返還され、1962年に工事がスタート。オリンピック直前の1964年に完成しています。

 切手に取り上げられている体育館は、観客席は3000席、2面のバスケットコートをもつ正方形平面の体育館で、施設全体が地盤よりも低い位置にあり、観客席の上部に直接アプローチできるようになっています。設計は、芦原義信が行いました。ただし、切手の制作時には体育館は完成していませんでしたので、原画担当の渡辺三郎は完成予想図をもとに作業を進めたものと思われます。ちなみに、現在の駒沢体育館はこんな感じです。

 駒沢体育館(写真)

 なお、この切手が貼られたオリンピック選手村局の消印が押されたカバーなんてのも以前の記事で紹介したことがありますが、東京オリンピックにまつわる切手については、拙著『切手バブルの時代』で詳しくご説明しておりますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 ブルガリア発祥の地
2008-05-25 Sun 21:48
 大相撲夏場所は大関・琴欧洲の初優勝で幕となりました。というわけで、ブルガリアがらみのネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ドブルジャ復帰

 これは、1940年9月20日、ブルガリアが発行したドブルジャ奪還の記念切手にドブリチの特印を押したものです。

 ドナウ・デルタを含むドナウ川下流域から黒海にかけての一帯はブルガリア語でドブルジャ、ルーマニア語でドブロジャといい、現在はその北部がルーマニア領、南部がブルガリア領となっています。このうち、ドブリチはブルガリア領ドブルジャの都市で、古くは、7世紀に建国された第1次ブルガリア帝国の発祥の地でした。

 1420年、ドブルジャ一帯はオスマン帝国に編入され、長らくその支配を受けていましたが、1829年になって今度はロシアがアドリアノープル条約によってドナウデルタの支配権を獲得します。その後、クリミア戦争の結果、ドナウデルタはオスマン帝国に返還されますが、1878年のベルリン条約により、ドブルジャは南北に分割され、北ドブルジャはルーマニア領に編入されました。

 一方、ブルガリアは1908年にオスマン帝国からの独立を宣言。これに伴い、南ドブルジャはブルガリア領となりましたが、1913年の第2次バルカン戦争で敗れたため、南ドブルジャはルーマニアに割譲されてしまいました。ちなみに、ルーマニア統治下では、今回の消印のドブリチはバザルジクと呼ばれていました。

 民族発祥の地を失ったブルガリアの不満は大きく、1919年にはドブルジャのブルガリアへの返還を求める大ドブルジャ会議が設立されます。同会議の下、1923年には内部ドブルジャ革命組織が結成され、ドブルジャの領土問題に関連して、国際連盟監視の下でのドブルジャの自治権確保を要求してルーマニア当局に対する武装闘争も展開されました。さらに、1925年には、ブルガリア共産党の影響を受けたドブルジャ革命組織が、内部ドブルジャ革命組織から分離し、ドブルジャのソビエト体制化を目指す活動を展開しています。

 第2次大戦が起きると、ブルガリアは枢軸国側に立ち、当初は中立国だったルーマニアに圧力をかけてクライヨヴァ協定を押しつけ、南ドブルジャの奪還に成功します。今回ご紹介の切手と特印は、これを記念したものです。
 
 独ソ戦の開戦後もブルガリアはソ連に対して宣戦布告をしませんでしたが、1944年9月、ソ連はブルガリアに対して一方的に宣戦を布告。ブルガリア領内に侵攻し、第2次大戦後はソ連の16番目の共和国とも揶揄された親ソ政権を樹立しました。ちなみに、共産党時代、ドブリチはソ連の軍人、ヒョードル・トルブキンの名前をとってトルブキンと改名されてしまい、ふたたびドブリチの名前が復活するのは共産政権崩壊後の1990年のことでした。

 さて、6月にブカレストで開催の国際切手展に合わせて、僕も出品者としてルーマニアに行く予定です。せっかくの機会なので、昨年刊行の『タイ三都周郵記』に続く切手紀行シリーズの第2弾としてルーマニアの本を作るつもりで、現在、にわか勉強を始めたところです。まぁ、なにか具体的な進展がありましたら、このブログでも逐一ご報告したいと思いますので、よろしくお願いします。

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 祝・女子バレー五輪出場決定
2008-05-24 Sat 10:13
 バレーボール女子の北京五輪世界最終予選兼アジア地区予選で、昨日(23日)、日本は韓国を3-1で降して無傷の5連勝となり、アジア4カ国中1位を確定。2大会連続の五輪出場が決定しました。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 東京五輪・女子バレー

 これは、1963年6月23日に発行された東京五輪募金切手(第4次)のうち、女子バレーボールを描いたものです。
 
 1964年の東京オリンピックを前に、大会資金を捻出する手段の一つとして、1961年10月から1964年6月まで6次に分けて20種類の切手が発行され、さらに、大会直前の1964年8月には小型シートも追加発行されたことは広く知られています。このうち、第4次発行分の題材は、当初の予定では、“蹴球(サッカー)”、“ヨット”、“ボクシング”の3種が考えられていましたが、実際には、第6次発行に予定されていた“バレーボール”と“蹴球”が差し替えになりました。

 切手に取り上げられている“バレーボール(六人制・女子)”は、東京大会から正式種目に採用されたもので、原画の作成に際しては、担当デザイナーの渡辺三郎のみならず、管理課長も同行して大阪へ出張し、日紡貝塚チームを取材したそうです。まぁ、原画の政策に直接関係のない管理課長の同行というのは、かぎりなく公私混同に近い物見遊山という感じがしないでもありませんが…。

 日紡貝塚(現・ユニチカ)の女子バレーボールチームは、当時名実ともに日本一のチームで、監督の大松博文の下、日本代表として1964年の東京オリンピックに出場し、金メダルを獲得。“東洋の魔女”と賞賛されたことは有名です。

 郵政の取材を受けた日紡貝塚側は、自分たちの切手が出るということで大喜びし、当時、世界一と謳われた河西昌枝(主将)・宮本恵美子の両選手をはじめベストメンバーによる模範試合を行い、その様子は一般のメディアでも大きく取り上げられました。切手に取り上げられている選手のモデルは、アタックを打っているゼッケン3番の選手が宮本、その脇に立っているゼッケン1番の選手が河西だろうと思うのですが、いかがでしょうか。なお、郵政省側が資料用に撮影した写真を見てみると、短パンの選手とトレーナーの長ズボンの選手が混じっており、いかにも練習風景といった感じです。

 さて、今年1月に発表された女子バレーの世界ランキングによると、日本は8位ということなので、冷静に考えると、北京でのメダル獲得はかなり厳しいのが現実でしょう。ただ、短期決戦の場合は運や勢いというのも大きく作用しますから、僕らとしては、幸運な“番狂わせ”を期待したいところです。

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 沖縄・奄美で梅雨入り
2008-05-23 Fri 10:08
 気象庁によると、沖縄と奄美地方が昨日(22日)、梅雨入りしたそうです。全国で最も早い梅雨入りですが、沖縄は平年より14日、奄美は12日遅いのだとか。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 宇検カバー

 これは、1950年3月、奄美大島の宇検村役場から“臨時北部南西諸島“の知事宛に差し出されたカバーで、琉球の1円切手が2枚貼られています。

 占領下の1946年1月29日、GHQは「外郭地域分離覚書」を発し、北緯30度以南の南西諸島の行政権は日本から分離されました。この北緯30度以南の枠の中には、沖縄だけでなく、戦前の行政区域では鹿児島県に属していた奄美諸島なども含まれていました。

 「外郭地域分離覚書」に伴い、2月2日、郵政事業を含めたすべての行政権はアメリカにうつり、3月13日、アメリカ海軍軍政チームが名瀬に到着。翌14日から奄美諸島全域に対する軍政布告や命令が交付され、本格的な軍政がスタートしました。

 切手に関しては、当初は日本切手がそのまま使用されていました。その後、1947年12月1日に日本切手に“検”の字の印を押した暫定切手(丸検院切手)が発行されると、無加刷の日本切手は使用停止となりましたが、1948年7月1日に正刷の琉球切手が発行されると、奄美でも琉球切手が使われることになり、丸検印切手は使用停止となりました。

 今回ご紹介のカバーは、そうした奄美での琉球切手の使用例で、消印の局名表示は、戦前のまま“鹿児島・宇検”(右書)ですが、アメリカの統治下ということで、年号表示は西暦になっています。宇検は奄美大島の西南部、焼内湾に面した地域ですが、行政区域としての宇検村は90%以上が山地です。1908年4月1日に発足した焼内村がその前身で、宇検村に改称されたのは1917年11月でした。

 なお、奄美における琉球切手の使用は、1953年12月25日に奄美大島が日本に返還されるまで続けられました。

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 源氏物語絵巻
2008-05-22 Thu 10:13
 『源氏物語絵巻』の巻頭部分が見つかり、昨日(21日)から、名古屋市東区の蓬左文庫で公開が始まったそうです。今回公開されているのは、江戸時代の1655年に完成のものだそうですが、『源氏物語絵巻』といえば、平安時代後期、白河・鳥羽上皇の院政期(1120~1140頃)に作られた“隆能源氏”でしょう。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 宿木

 これは、1964年の切手趣味週間切手で、『源氏物語絵巻』のうち「宿木」の場面が取り上げられています。切手に取り上げられた『源氏物語絵巻』は、かつては、作者は藤原隆能といわれていましたが、最近では、4人程度の宮中の画家と書家の分担作業によって作られたものと考えられています。

 絵巻の内容は、題名どおり、『源氏物語』54帖の各帖から1ないしは3場面を選んで絵画化し、対応する本文の1節を料紙に書写した詞書として添えられています。当初は、80~90場面が10~12巻くらいの絵巻に構成されていたようですが、現在では19段の画面と20段の詞書が徳川黎明会と五島美術館とに分蔵されているほかは、詞書の断簡8種、絵の断簡1種が伝えられているだけとなっています。

 切手に取り上げられた「宿木」の帖は、『源氏物語』の「宇治十帖」のひとつ(第49帖)で、光源氏の子供・孫である薫・匂宮と宇治の八宮の姫君たちの物語です。中君(八宮の姫君)は匂宮に愛され二條院に迎えられたものの、肝心の匂宮は夕霧左大臣の六君と結婚後、六の君に惹きつけられ、中君の許に通ってきません。次第に離れていく匂宮の心に悩む中君は宇治にいた頃を思い出し、薫と文を交わすようになります。これに対して、匂宮は薫と中君の関係を疑うという、複雑な人間関係が展開されています。

 切手に取り上げられている場面は、そういう状況の中で、秋の夕暮れ、中君をなぐさめるために琵琶を奏でる匂宮と几帳の端で脇息にもたれながら、その音色に聞き入っている中君の姿を描いたもので、原作では以下のように描写されています。

 かれがれなる前栽の中に、尾花の、物より殊に手をさし出て招くが、をかしく見ゆるに、まだ穂に出でさしたるも、露を貫きとむる玉の緒、はかなげにうち靡きたるなど、例の事なれど、夕風なほあはれなる頃なりかし。
 穂にいでぬもの思ふらししのすすき 招くたもとの露しげしくて
 なつかしきほどの御衣どもに、直衣ばかり着たまひて、琵琶を弾きゐ給へり。黄鐘調のかきあはせを、いとあはれにひきなし給へば、女君も心に入れ給へる事にて、物怨じもえい果て給はず、小さき御几張のつまより、脇息に寄りかかりて、ほのかにさし出で給へる、いと見まほしくらうたげなり。

 さて、今回の趣味週間切手は、オリンピック直前の切手ブームの中での発行であっただけに、発行以前から収集家の高い人気を呼び、東京中央局の切手普及課には通信での申込が殺到しています。

 このため、郵政省としても、当初の発行枚数は前年の趣味週間切手を大きく上回る1800万枚と予定していましたが、実際には1000万枚も多い2800万枚の発行となりました。

 また、切手ブームが加熱していく中で、鹿児島県串木野市では、串木野小学校の児童274名(生徒数の約1割)、同中学校の生徒383名(生徒数の約2割)が、新切手購入のため、切手発行日の4月20日に授業をサボって(または遅刻して)郵便局前に行列。なかには、午前4時40分から郵便局に並んでいた児童も現われる始末でした。

 こうした状況を“目にあまる”と考えた市の教育委員会は、ついに、翌4月21日付で、生徒・児童間の切手の売買・交換を禁止。さらに、この串木野市教育委員会の措置と前後して、『中部日本新聞(中日新聞)』が「狂っている収集熱」「少年犯罪が危険」などの脇見出しとともに報じたことから、おなじように、加熱する切手ブームを苦々しく思っていた愛知県豊田市の教育委員会は、4月28日付で、児童・生徒相互の切手売買は勿論、彼らが切手商から切手を購入することまでも禁止する通達を発したほどでした。

 なお、この時代の切手ブームのすさまじさについては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書としてとんでもない高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 馬新政権のスタートに思う
2008-05-21 Wed 16:06
 3月22日の台湾総統選挙で当選した馬英九氏が昨日(20日)、正式に第十二任総統 に就任しました。新総統は香港・九龍の生まれで、生後間もなく台湾に渡ってきたということなので、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 反共抗俄美術展

 これは、1951年4月3日、台北から香港宛に差し出された航空書留便で、鄭成功の切手が裏面の1角(=10分)と合わせて計2円5角(250分)貼られており、「自由中国 反共抗俄美展」の臨時局の特印が押されています。また、裏面には4月7日付の九龍の着印も押されています。新総統の誕生日については、7月13日説と10月31日説の二つがあるようですが、生後間もなくの1950年中には両親とともに台湾に渡ってきたとのことですから、まぁ、彼とほぼ入れ替わりに台湾から香港へ運ばれたカバーといってもよいでしょう。
 
 1949年に大陸を追われて台湾に逃げ込んだ中国国民政府は“大陸反攻”を呼号し、そうしたプロパガンダに沿った切手を数々発行しています。当時の通常切手のデザインに鄭成功が取り上げられているのも、北方から来た満州族の王朝である清朝を打倒して漢人の明王朝を復活させるべく、台湾で活躍したという鄭成功の故事が、当時の国民党のイデオロギーに合致する人物であったからにほかなりません。

 特印が使用された“自由中国 反共抗俄美展”というのが、どういう内容の美術展だったのかは現時点では調べきれていないのですが、案外、共産主義に反対し、ソビエトロシアの侵略に抵抗するという掛け声とは無関係に、展示の中身はフツーの美術展だったのかもしれません。

 当時の国民党政府が反共抗俄だったのは事実ですが、はたして“自由中国”を名乗るにふさわしい体制だったかどうかは、大いに疑問があります。というのも、蒋介石政権による戒厳令の下では、国民の言論の自由は大幅に制限されており、反政府的とみなされた人物は次々に逮捕・投獄されていたからです。じっさい、新総統となった馬じしんも、ハーバード大学に留学中は、『波士頓通訊(ボストン通信)』という国民党系雑誌の編集長をしながら、“職業学生”として反政府、民主化勢力の監視と報告を行っています。

 かつての馬は、中国国民党の伝統的な路線に従い、究極的には大中国としての統一を目指すものの、共産党とは対立するという“反共主義”の路線が鮮明でしたが、近年は、台湾経済の落ち込みもあって、対中関係改善による“実利”を重視し、中国との間で、欧州連合加盟国同士並みに関税、資金、労働力の自由流通を目指す「両岸共同市場」を提唱したりもしています。もっとも、この両岸共同市場構想については、「中国による台湾の事実上の吸収合併につながる暴挙」との批判も根強く、総統選挙の際には釈明に追われています。

 なお、総統候補になってからはあまり表面化していないようですが、馬は、台湾には珍しく反日的な傾向が強い人物で、学生時代から、「釣魚島(尖閣諸島)奪還」を叫ぶ反日活動を続けているほか、国民党主席就任後の2006年には国民党本部ビルに「抗日戦争勝利60周年記念」の垂れ幕を掲げるなどの前科もあるのが気になるところです。

 まぁ、とりあえずのところはお手並み拝見としか言いようがありませんが、国内世論の批判をかわすため、安易な反日に走るのだけは止めてもらいたいと思うのは僕だけではないでしょうね。

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 成田空港30年
2008-05-20 Tue 13:20
 成田空港が開港30周年を迎えました。というわけで、今日はストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 成田開港

 これは、30年前の1978年5月20日に発行された新東京国際空港開港の記念切手です。

 成田空港の開港に向けて1期工事の用地取得が行われたのは1971年のことでしたが、その後も、空港反対派の抵抗により工事は難航。開港時期は全く読めない状況が続いていました。

 郵政省では、すでに1974年頃には開港時に記念切手を発行する方針が固められていましたが、開港時期が決まらないため、記念切手の発行日も決められず、昭和52年度末の1978年3月30日の開港に合わせて記念切手の発行が正式に発表されたのは、2ヵ月前の1月30日のことでした。

 ところが、開港予定日を4日後に控えた1978年3月26日、空港開港の絶対阻止を唱える極左ゲリラの学生らが管制塔に乱入し、管制塔内の機器を破壊するという事件が発生。このため、成田空港の開港は5月20日まで延期されてしまいます。

 すでに、郵政省は、3月30日の空港開港にあわせて、記念切手を発行し、特印を使用すべく準備を進め、26日までには全国の郵便局への新切手の配給も全て完了していましたが、事件の発生を受けて28日朝から緊急会議を開き、午前中に切手発行を当分の間延期することを決定。ただちに全国の郵便局に対して発行延期を通達しています。

 本省からの連絡を受けた各局では、局内に発行延期を知らせる掲示を出したり、切手のポスターの発行日の箇所を消したりして一般への周知に努めましたが、これだけでは不十分と判断した郵政省は、28日の午後、マスコミ各社に対して記念切手の発行延期を公式に発表するとともに、主要メディアの担当者に対して直接電話で連絡をしたほか、当初発行予定の前日にあたる翌29日付の各紙朝刊には、発行延期の広告も出すなどの対応に追われました。

 ところで、今回の切手に関しては、初日印の指定局が成田局となっていたため、同局には郵便での申込が締め切られた3月23日までに大量の初日カバー等の郵頼が届けられていました。このため、同局では、順次、郵頼のカバー類を処理し、切手の発行延期が決定される以前に、発行予定日である3月30日付の消印の押印処理をほぼ完了していましたが、それらはすべて焼却処分されることになりました。

 このため、成田局では、郵頼を申し込んできた人に事情を説明。市販品で入手可能なカバーについては郵政省が各版元から実費で調達して代替品としました。また、自作カバーを送ってきた人に関しては、大半が、郵政省側の用意した白カバーを代替品とすることで了解を得ましたが、一部、どんな代替品でも満足しない人に対しては、再びカバーを送ってもらい、その人から申し出のあった金額を封筒代金として支払うことも行われました。また、3月26日の時点で押印されていなかったカバーに関しては、「発行日が決まったら正規処理(註:押印のこと)をしますが、それまで成田局で保管しておきます」という主旨の挨拶状が送られています。この場合も、成田局は、カシェに印刷されている発行日の3月30日と実際の発行日が違うことを不服として新規にカバーを作って送った人の分も受け付けています。

 その後、成田空港の開港日が5月20日と決定されたことを受け、記念切手の発行日も確定しますが、3月の事件に懲りた郵政省は、こんどは、事前の押印作業を一切行わず、押印作業は切手の発売が確認された5月20日の午前8時が過ぎるのを待って開始したそうです。

 なお、今回ご紹介の記念切手をめぐる一連の騒動に関しては、拙著『沖縄・高松塚の時代』で詳しくご説明しておりますので、よろしかったらぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 バンコク中華街の黄金仏
2008-05-19 Mon 10:19
 日本ではお釈迦様の誕生日は西暦4月8日で決まっていますが、東南アジア諸国では旧暦のため、毎年、西暦の日付は異なります。で、今年は今日(5月19日)が仏誕節の日に当たるということで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ワットトライミット

 これは、1995年の仏誕節にタイが発行した仏像切手の1枚(他にはこんな切手も発行されました)で、バンコクのワット・トライミットの黄金仏が取り上げられています。

 ワット・トライミットは、バンコク地下鉄の終点、ファランポーン駅(タイ国鉄の起点となるバンコクの中央駅との乗り換え駅になっていますが、乗り場は離れています)を降りて、すぐのチャイナ・タウンにある寺院で、華人たちの信仰を集めています。

 切手にも取り上げられた本堂の黄金仏は、もともと、バンコク市内の廃寺に長らく放置されていましたが、ブッダ生誕2500年祭を控えた1953年5月、ワット・トライミットへ移転する途中で表面を覆っていた漆喰がはがれて、中身の黄金の像が露出したものです。なお、この間の細かい経緯については、仏像を吊り上げようとしたクレーンのロープが仏像の重みで切れて漆喰が割れたとも、クレーンで吊り上げたものの、あまりの重さに一晩放置しておいたところ、夜の間に降った雨で漆喰が剥がれて仏像が顔を出したともいわれています。

 黄金仏は、14世紀のスコータイ王朝時代の作品で、高さ3メートル、重さ5・5トン。金として60%以上の純度があります。16世紀にはアユタヤに運ばれ、その後、バンコクに運ばれたと考えられますが、そのいきさつは明らかになっていません。仏像が漆喰で覆われていたのは、ビルマとの相次ぐ戦争の中で、ビルマ軍の略奪から仏像を守るための偽装工作だと考えられています。

 こうした来歴のゆえに、この仏像は華人たちの間では非常に人気があり、東南アジア各地はもとより、中国大陸からも連日、多くの中国人が参拝に訪れています。20世紀以降でも日中戦争や国共内戦、文化大革命などの動乱の中で自分の財産や貴重な文物を守るために心血を注いできた経験を持つ彼らにとって、この仏像のエピソードは決して他人事とは思えないのでしょう。

 なお、バンコクの中華街については、昨年刊行の拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろと書いてみましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 50年前から不変
2008-05-18 Sun 15:12
 昨日(5月17日)付の大紀元時報によると、今年4月の時点で、中国地震局の専門家が、1年以内(2008・5月~2009年4月)に蘭州より南、四川、甘粛、青海の境界付近で震度6~7の大地震が発生する可能性があること、さらに、磁気嵐の状況から、アバ・チベット族自治区(5月12日に起こった四川大地震の震源地)における震度7以上の危険時期が5月8日(前後10日間以内)と予想していたにもかかわらず、当局がこれを無視して何ら対策を取らなかったことが明らかになったそうです。

 このニュースを聞いて、僕はこの切手のことを思い出しました。(画像はクリックで拡大されます)

 大躍進・目標超過達成

 これは、1959年5月27日、いわゆる大躍進政策の目標を超過達成したとして中国が発行した切手で、1958年の鉄鋼生産が1108万トンを超過したことが誇示されています。

 スターリンの死後、対米宥和路線に転じたソ連を“修正主義”として攻撃していた中国は、1957年11月、フルシチョフが「ソ連は工業生産(鉄鋼・石油・セメント)および農業生産において15年以内にアメリカを追い越すだろう」と宣言したことに刺激され、1958年の第2次5ヵ年計画において当時世界第2位の経済大国であったイギリスを15年で追い越すという無謀な計画を立案します。

 その一環として、1957年に約535万トンであった鉄鋼生産高を1958年には倍の1070万トンにするよとの目標が掲げられ、1958年10月以降、原始的な溶鉱炉(土法炉)を用いた製鉄が全国の都市、農村で大々的に展開されました。土法炉とは、煉瓦製の原始的な小規模溶鉱炉で、燃料としては木炭ないしはコークスが用いられました。しかし、銑鉄1トンを生産するのに、近代的高炉では2トンの石炭で済むところを、土法炉では、4~6トン、場合によっては8~10トンもの石炭が必要とされたうえ、生産される鉄の品質もきわめて粗悪なものでした。

 また、前年の倍の量の鉄鋼を生産するという計画自体が無謀なもので、材料の鉄を確保するために
都市部では鉄製の各種設備・構築物を解体し、農村部では鉄製の農機具・炊事用具を供出させることが行われたほか、農村部では燃料の確保のために森林・樹木が無計画に乱伐され、多くの農民が強制的に製鉄現場に動員されたため、農村は荒廃し、食糧生産も激減。国民生活は大きな打撃を受けました。

 結局、鉄鋼大増産政策は、使い物にならない粗悪な鉄鋼を大量に作り出しただけで惨憺たる失敗に終わり、翌1959年、毛沢東は政策の失敗を自己批判し、国家主席の座を劉少奇に譲らざるを得なくなっています。

 大躍進政策は、そもそも、現実を無視して毛沢東の夢想を強引に実行に移したもので、その発動以前から、専門家の間では成功の見込みが薄いことは明らかだったものと思われます。しかし、すでに前年(1957年)までに共産党を批判した知識人は徹底的に弾圧されていたため、科学技術的な見地からの批判は、共産党と毛沢東のイデオロギーの前に沈黙せざるを得なかったのが現実でした。

 さて、今回、大紀元時報で紹介された地震の予知というものが、実際にはどの程度の確度をもったものだったのか、僕にはわからないのですが、研究者の誠実な警告が、五輪開催の前にネガティブな情報を流してはならないという“政治”の判断によって無視され、結果として、多くの人命が失われたのだとしたら、中国共産党政府の基本的な精神構造というのは、実は50年前の大躍進の時代となんら変わっていないのだといえそうです。

 もっとも、共産党政権が、この50年以上もの間、ひたすらチベットで行い続けてきた弾圧の歴史というのを見れば、彼らの本質が半世紀前から全く変わっていないことなんて、いまさらとやかく言うまでもないのでしょうが…。

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 世界のダム:アスワン・ハイ・ダム
2008-05-17 Sat 12:24
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の5月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の世界のダム」では、今回はこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 アスワン・ハイ・ダム

 これは、アスワン・ハイ・ダムの着工を記念して1960年にエジプトが発行した切手です。工事の概要を英語とアラビア語で説明する10ミリーム切手と完成予想図の35ミリーム切手がセットになっていますが、普通は額面なしのタブで済ます説明文も切手にしてしまうところがエジプトっぽいといえばエジプトっぽいかもしれません。

 “エジプトはナイルの賜物”というヘロドトスの言葉は、ナイル川の氾濫が流域の肥沃な土壌を作ってきたことの表現ですが、近代に入って人口が急増すると洪水の被害を抑えることも必要になってきます。このため、エジプトを保護国化したイギリスは、1901年、ナイル川上流にアスワン・ダムを建設しますが、1952年に発足したナセルの革命政権は、より上流のアスワン・ハイ・ダムの建設に着手しました。

 ダムの建設資金としては、当初、エジプトは米英両国と世界銀行の資金援助をあてにしていました。ところが、イスラエルへの対抗上、アメリカをはじめとする西側諸国から最新兵器を購入しようとしたエジプトに対して、米英仏の三ヶ国が、中東への武器供与を制限する3国宣言を理由にこれを拒絶したため、エジプトがチェコスロバキア経由で大量のソ連製兵器を輸入したことから、エジプトと西側との関係がこじれます。
 
 そして、1956年7月19日、アメリカがアスワン・ハイダム建設への資金援助の約束を突如撤回。イギリスと世界銀行も同様の声明をエジプトに対して発すると、資金不足からダム建設中止の瀬戸際に追い込まれたナセルは、同年7月26日、年間1億ドルのスエズ運河の収益をアスワン・ハイダム建設の資金に充てるべく、運河の国有化を宣言。管理会社である国際スエズ運河株式会社を接収して全資産を凍結しました。これに対して、運河国有化を阻止しようとして、英仏両国がイスラエルとともに干渉出兵したのが第2次中東戦争です。

 結局、英仏によるスエズ侵攻作戦は、米ソを含む国際社会の厳しい非難を浴び、英仏両国は1956年12月2日に作戦を中止。その後、エジプトは1958年にはソ連から資金と技術の援助を受けて、1960年からダム建設を着工しています。

 当初の計画では、ダムの完成により、ヌビア遺跡のアブシンベル神殿が水没することになっていましたが、貴重な文化遺産を保護すべきとの国際世論の声が強く、ユネスコの援助により、巨額の費用をかけて神殿はダムの人造湖(ナセル湖と名付けられた)の湖畔に移築されました。なお、僕が小中学生の頃は、学校の教科書などでヌビア遺跡移築の話がしつこいくらいに出てきましたので、いまでも個人的にはアスワン・ハイ・ダムというと条件反射的にヌビア遺跡を連想してしまいます。

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 独立記念切手の子ども
2008-05-16 Fri 10:16
 今月3日に発生した大型サイクロンの被災にも関わらず、一部地域を覗いて、10日に憲法草案に関する国民投票を強行したビルマ(ミャンマー)の軍事政権は、昨日(15日)、投票の結果、賛成が92.4%になったと発表しました。なんだかなぁ…という話ですが、ともかく、ビルマがらみということで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ビルマ独立試刷(赤)

 これは、第二次大戦中の1943年8月1日、日本軍占領下でビルマが独立を宣言した際の独立記念切手の試刷です。

 1941年12月の日英開戦後、1942年5月末までにビルマ全土をほぼ制圧した日本軍は、イギリスの支配下で投獄されていた独立運動の闘士、バーモ(バモオ)を行政府長官兼内務部長官として、8月1日、ビルマ中央行政府を樹立します。その際、日本軍は戦勝後のビルマ独立を予定し、即時独立を認めませんでした。また、ビルマ国民には軍政への協力を要求する一方で、批判的な民族主義者や若いタキン党員の政治参加を抑圧したこともあって、ビルマ側の不満が鬱積。

 このため、戦況が悪化する中で、ビルマにより一層の戦争協力を求めるための見返りを用意する必要に迫られた日本政府はビルマ独立の方針を具体化し、1943年3月10日に『緬甸独立指導要綱』を決定。同年8月1日、軍政を廃止し、バーモを首班とするビルマ国としての独立を承認しました。ただし、独立と同時に、日本ビルマ同盟条約が締結され、ビルマは連合国へ宣戦布告することになり、日本軍の駐留はその後も終戦まで続けられることになります。
 
 親日バーモ政権に関しては、日本の傀儡政権に過ぎなかったという見方も根強いのですが、真摯にビルマの独立のために戦っていたバーモ政権の関係者は私利私欲のために国を売ったわけではなく、現在の視点から単純に“傀儡”と断じてしまうのはいささか酷なようにも思います。当時の国際環境の下で、それがかたちだけのものであったとしても、日本の差し出した“独立”の名をとって本格的な独立のための一つのステップとするのか、旧宗主国に操を立てて植民地・占領地という立場に甘んじ続けるのか、そのいずれかを迫られたとき、彼らがどちらを選ぶかは明らかでしょう。

 さて、このときのビルマ“独立”に際しては、ビルマ人を対象に独立記念切手の図案の懸賞募集が行われ、その優秀作品が3種の切手として発行されました。以前の記事では、ビルマ語で“独立”の文字を彫刻する男性を描いた切手をご紹介しましたが、今回は国旗を担ぐ少年を描くデザインのものをご紹介します。独立やその周年記念の切手に子供を取り上げるケースは、洋の東西を問わずしばしば観察される現象ですが、これは、今後の成長が楽しみな子どもの姿に将来の国家の発展を重ね合わせて表現しようとするものとみなすことができます。

 ところで、昨日の軍事政権の発表では、サイクロンによる死者数が4万人に達し、不明者との合計でも7万人(ちなみに、国連の推計では死者・行方不明者合わせて最大10万人)に達したそうです。民間の国際援助団体、セーブ・ザ・チルドレンによると、「少なくとも死者の40%が12歳以下の子ども」と推計されているそうで、被害が深刻なデルタ地帯には救援物資の2割以下しか届いておらず、牛や人の遺体が浮く川で魚をとって飢えをしのぐ子どもが多く、マラリアやデング熱などの伝染病も発生。子どもの5分の1が下痢を起こしているという惨状が報告されています。

 政権の維持を最優先し、国際社会の批判を内政干渉として退けてきたビルマの軍事政権は、14日になって、ようやく、中国、インド、タイ、バングラデシュの4国から医療などでの緊急支援要員160人の受け入れを決めたそうですが(欧米諸国の支援に対しては、依然として断固拒否なのだそうです)、連中にとっては、国の将来を担う子どもたちを救うことよりも、目下の自分たちの権力を維持することの方がはるかに重要ということなんでしょうね。

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 第一次中東戦争の返戻便
2008-05-15 Thu 10:01
 イスラエルの建国に伴う第一次中東戦争の開戦から今日(5月15日)で60年。というわけで、昨日に引き続き、今日はこんなマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第一次中東戦争・返戻便

 これは、イスラエル建国前後の混乱の中で、1948年4月21日にニューヨークからエルサレム宛に差し出されたものの、配達不能で差出人戻しとなったものです。カバー上には、第一次中東戦争開戦後の5月18日の日付の印が押されていますが、エルサレム宛の郵便がストップしたのは開戦の影響によるものなのか、あるいは、それ以前から既に配達不能となっていたのか、これだけではイマイチ判然としませんが、第一次中東戦争勃発前後の混乱を物語るカバーであることには間違いありません。

 1947年11月29日、パレスチナ分割を決めた国連決議第181号が採択されて以来、パレスチナは事実上の内戦状態に突入し、多数のアラブ系住民が隣接するトランスヨルダンやシリアなどへと脱出。今日にいたるまで続く「パレスチナ難民」の問題が発生しました。

 こうしたパレスチナ難民の存在は、アラブ諸国で難民への同情を喚起し、パレスチナへの本格的な軍事介入を求める世論が形成されていくことになります。この結果、1948年1月、シリアならびにトランスヨルダンからの義勇兵がパレスチナに到着。同年2月には、エジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、サウジアラビア、イラクの6ヶ国がカイロで会議を開き、パレスチナでのユダヤ人国家の建設阻止の決議を採択。義勇兵の派遣を決定します。また、パレスチナにおいても、現地のアラブ系住民からなる義勇兵組織・アラブ救世軍が編成され、アブドゥル・カーディルを中心にゲリラ戦が展開されていきました。

 これに対して、シオニストたちは、パレスチナ分割の国連決議を錦の御旗として、テルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府「ユダヤ国民評議会」を樹立し、新国家樹立の準備を進め、イギリスによる委任統治の期限が切れる1948年5月14日、ユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言しました。

 一方、イスラエルの独立を認めない周辺のアラブ諸国(エジプト、トランスヨルダン、レバノン、シリア、イラク)は、即日、イスラエルに宣戦を布告。翌15日、パレスチナに出兵しました。こうして、パレスチナの内戦は、イスラエルとアラブ諸国との第一次中東戦争へと拡大することになります。

 開戦当時、アラブ側は兵員・装備ともにイスラエルを圧倒しており、緒戦の戦局はアラブ側有利で推移しました。特に、トランスヨルダンの精鋭部隊、アラブ軍団は、イラク軍とともに、エルサレム旧市街を含むヨルダン側西岸地区を占領。終戦までこの地を保持しています。また、エジプト軍は、5月15日、ガザ地区を占領し、自国領に編入しています。

 もっとも、アラブ側の優位は長くは続かず、開戦から1週間後の5月22日には、国連安保理が再びパレスチナ問題を議題として取り上げ、パレスチナ全域での軍事行動の即時停止の呼びかけを決議。これを受けて、国連の仲介により、6月11日から7月8日までの4週間にわたり、第1次休戦が両軍の間で合意されることになります。

 イスラエルが、この休戦期間を最大限に利用し、5月28日に創設されたイスラエル国防軍を中心に態勢を建て直していったのに対して、アラブ側では、休戦期間中に、各国の路線対立から指導部内の不協和音が表面化。イスラエルはアラブ側の足並みの乱れに乗じて緒戦での失地回復を目指して攻勢を展開し、次第に戦況は逆転していくことになります。

 結局、イスラエルが華々しい戦果を挙げ、イギリス委任統治時代の旧パレスチナの領域を越えてシナイ半島に進攻したことで、エジプトを事実上の支配下に置いていたイギリスがイスラエル軍にシナイ半島からの撤収を強く要求。これをうけて、1949年2月23日、イスラエルとエジプトの間で休戦条約が調印されたのを皮切りに、3月23日にはレバノンが、4月3日にはトランスヨルダンが、7月20日にはシリアが、それぞれ、休戦条約を調印。これら各国とイスラエルとの停戦ラインが事実上の“国境”となり、イスラエル国家の存在が認知されることになりました。

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 イスラエル国家60年
2008-05-14 Wed 11:59
 イギリスによるパレスチナ委任統治の終了に伴い、ユダヤ国民評議会がイスラエル国家の独立を宣言したのは1948年5月14日。今からちょうど60年前のことです。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 イスラエル最初の切手

 これは、1948年5月16日、イスラエル建国後発行された最初の切手で、古代の貨幣が描かれています。
 
 第二次大戦後の1947年2月、イギリスは委任統治領パレスチナでのアラブ・シオニスト対立の自力解決を放棄し、国際連合に問題の解決を一任すると一方的に宣言。これを受けて、同年5月、国連にパレスチナ問題特別委員会が設立され、同委員会によるパレスチナ分割案(パレスチナにアラブ、ユダヤの二独立国を創設し、エルサレムとその周辺は国連信託統治下に置くという内容)が11月29日に国連決議第181号として採択されます。

 国連決議をめぐってパレスチナがアラブ対シオニストの内戦に突入する中、1948年3月、シオニストたちは、パレスチナ分割の国連決議を受けて、テルアビブにパレスチナのユダヤ人居住区を統治する臨時政府「ユダヤ国民評議会」を樹立し、新国家樹立に向けて動き出しました。同時に、シオニストたちは、イギリスの撤退後の軍事的空白を利用して、軍事的にパレスチナを制圧するダレット計画(パレスチナのアラブ社会を破壊してアラブ住民を追放し、パレスチナ全土を制圧してユダヤ人国家創設を既成事実とすることをめざす計画)を発動します。
  
 内戦が激しさを増し、アラブ系住民のパレスチナ脱出が相次ぐ中で、シオニスト側は着々と建国準備を進め、パレスチナにおけるイギリスの委任統治が終了する1948年5月14日午後4時すぎ(現地時間)、テルアビブの博物館でユダヤ国民評議会が開催され、イスラエル初代首相となったベングリオンが、“ユダヤ民族の天与の歴史的権利に基づき、国際連合の決議による”ユダヤ人国家イスラエルの独立を宣言しました。

 これを受けて、アメリカのトルーマン政権は、即日、主要国の中で最初にイスラエルを承認。ついで、5月17日にはソ連もイスラエルを承認しています。

 今回ご紹介しているイスラエル最初の切手は、こうした状況の下で発行されたわけですが、切手上には「ヘブライ郵便」との表記はあるものの、「イスラエル」との表記がないのは注目に値します。これは、切手の制作時にはまだ新国家の正式な国号が決定されていなかったことによるもので、このことからも、イスラエル国家の建設準備がいかに慌ただしく進められたか、イメージがわいてきます。

 こうして建国を宣言したイスラエルに対して、周辺アラブ諸国はその存在を否定すべく宣戦布告。第一次中東戦争が勃発するのですが、この点については、明日の記事でご説明しようかと思います。

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 四川大地震
2008-05-13 Tue 18:28
 昨日(12日)、中国の四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県付近で大規模な地震が発生し、四川省だけでも現時点で死者が1万人を大きく超える甚大な被害が出たそうです。亡くなられた方々のご冥福と被災地の一刻も早い復旧をお祈りいたします。

 さて、今回の地震で大きな被害を受けたと中国南西部(西南地域)については、この切手を見ていただくとイメージがわきやすいかもしれません。(画像はクリックで拡大されます)

 西南解放

 これは、1950年1月、中国共産党支配下の西南解放区で西南郵政総分局が発行した“西南解放”の記念切手です。

 この切手が発行された当時の西南解放区は、当時の中国の省名でいうと、四川・貴州・雲南・西康の4省を包括するエリアで、その位置関係は、切手上で国旗が立っている雲南の北側に、東から、貴州・四川・西康という並びになっています。ちなみに、西康省の西側の細長いエリアがチベットです。なお、この地域の主要都市への人民解放軍の進駐は、貴州が1949年11月15日、重慶が11月30日、昆明と康定が12月9日、成都が12月27日となっていますが、いずれも、北京で中華人民共和国の成立が宣言された1949年10月1日以降のことでした。

 ところで、この切手が発行された時点で存在していた西康省は、いわゆるチベットのカム地方にほぼ相当する地域(そもそも、“康”はカムのことです)で、チベット人の居住地域です。

 この地域には、ながらく、中国中央政府の統制は及んでおらず、蒋介石の国民政府はここを“特別地区”としていました。また、1934年から1935年にかけて、中国共産党が長征を行った時期は、一時的に“チベット人民共和国”が設立されたこともありましたが、紅軍が撤退すると、同共和国はすぐに崩壊しています。

 その後、日中戦争の勃発にともない、国民政府は国内の戦時統制を強化する必要から、この地域を“西康省”に再編したものの、その実効支配はディチュ河東岸に限られていましたが、1949年にいたり、人民解放軍の侵攻によって“中国”に組み込まれ、1955年、四川省に吸収合併されました。このため、現在では“西康省”は存在しません。
 
 さて、今回の地震のニュースを見ていると、中国政府は、13日午前6時30分までに人民解放軍と武装警察チーム1万6760人(うち軍隊が1万1760人、武装警察が5000人)を被災地に派遣しましたが、新たに人民解放軍3万4000人を被災地に派遣するとともに、20機の軍用飛行機を投入するのだそうです。まぁ、日本でも災害時の救援活動は自衛隊の力を借りなければならないわけで、そのこと自体は当然の処置といえましょう。

 ただ、日本でも関東大震災の時に、朝鮮人が井戸に毒を入れたという流言飛語が発生し、多くの罪なき人々が暴行・殺害されたほか、憲兵隊によって大杉栄ら社会主義者たちが殺害されるなどの事件が発生したことを思い起こしてみると、人民解放軍が大挙してかの地へ押し掛けることで、チベット人やそのシンパとみなされた人々への不当な抑圧が加速されるのではないかという不安を感じるのは僕だけではないと思います。

 “非常事態”の発生によって、チベットの人権問題がうやむやにされてしまわないためにも、国際社会は被災地への人的支援を申し出るべきだと思うのですが、中国側がこれを受け入れるかどうかは微妙なところでしょうな。

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 大統領になりそこなった男たち:ウィリアム・ブライアン
2008-05-12 Mon 12:31
 雑誌『中央公論』6月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は、アメリカ史上最高の雄弁家の一人とされるウィリアム・ジェニングス・ブライアンを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 ウィリアム・ブライアン

 ウィリム・ジェニングス・ブライアンは、1860年3月、イリノイ州セイラムの出身。1880年代後半にネブラスカ州に移り、以後、同州を拠点に政治活動を展開しました。

 南北戦争後のアメリカはデフレ不況下にありました。特に、1873年、実質的に金本位制に移行すると物価の下落は深刻な状況となりました。これは、当時の国際社会で金本位制を導入する国が相次いだことで、金の絶対量が不足し、その結果として金と連動していた通貨価値が上昇し、物価の下落を招くという構図によるものです。

 この結果、アメリカ国内では、東部の銀行からの借金に頼っていた南部や西部の農民の負担は増し、農村の犠牲の上に資本家が豊かになるという状況が生まれました。そこで、金本位制から金銀複位制に移行し、銀貨の自由鋳造を認めて通貨の供給量を増やすことによってインフレを起こし、農家の負債を実質的に軽減しようとする自由銀運動が起こります。

 自由銀運動の熱心な活動家だったブライアンは、1896年の民主党大会で「人民を金の十字架にかける(金本位制の維持によるデフレで人民が苦しめる)べきではない」とする“金の十字架”演説をぶちます。この演説はアメリカ史上もっとも有名な演説の一つとされていますが、これにより、集まった聴衆を熱狂させた彼は、36歳にして民主党大統領候補の座を射止めてしまいます。このあたりは、現在のオバマ人気とも通じる面があるといえるかもしれません。

 選挙戦では、持前の弁舌を生かして大統領候補としては初めて全国遊説を行い、前回の当選者(現職大統領のクリーブラント)を100万票上回る得票を得ましたが、残念ながら、共和党のマッキンリーに破れます。

 その後も、ブライアンは1900年と1908年の2度、民主党の大統領候補となりましたが、いずれも落選。1913年に誕生したウッドロー・ウィルソン政権で国務長官に就任し、社会的弱者を尊重するリベラリストの立場から、累進課税制、上院議員の直接選挙制、婦人参政権などの実現に尽力しました。しかし、第1次大戦中の1915年、ドイツによる潜水艦攻撃への対応をめぐって大統領と対立し、職を辞し、中央政府でのキャリアはわずかな期間に終わりました。

 国務長官辞任後のブライアンは、弱肉強食の資本家の横暴を正当化するものとの誤解からダーウィンの進化論を排斥するキリスト教原理主義に接近。進化論を公立学校で教えて逮捕された教師の裁判では検察側の代表として出廷したが、かえって原理主義側の主張の矛盾を突かれ、晩節を汚しています。

 * 昨晩、カウンターの数字が33万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 母の日
2008-05-11 Sun 10:27
 今日は母の日。というわけで、今日はこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 母子(上村松園)

 これは、近代美術シリーズの第6集として、1980年5月12日に発行された上村松園 の「母子」です。

 上村松園は、1875年4月23日、京都市四条御幸町西入ル奈良物町にて、葉茶屋を営む上村家の次女として生まれました。本名は津禰です。

 幼い頃より画才を認められ、1887年、京都府画学校に入学し、鈴木松年に師事。1890年の第3回内国勧業博覧会に出品した「四季美人図」が一等褒状を受賞。この作品が、来日中の英国コンノート殿下の買上げとなり、評判になりました。その後、幸野楳嶺、竹内栖鳳に師事し、1900年、第9回日本絵画協会・日本美術院連合共進会に出品して銀牌を受け、画壇での地位を固めました。1948年には女性として初の文化勲章を受賞し、翌1949年、奈良県生駒郡で亡くなっています。

 1936年に制作された代表作の「序の舞」は、1965年の趣味週間切手にも取り上げられていますが、今回ご紹介の「母子」は、1934年の作品で、亡き母への思慕がこめられているといわれている名品です。

 ところで、この切手に関しては、従来の250線のスクリーン(グラビア印刷では、1インチの間に印刷される線数で、印刷の決めの細かさを表す)よりもはるかに細かい390線のマイクロスクリーンが初めて日本切手の印刷にも用いられました。この結果、母親の唇の階調や、かんざし、神のシャドー部にある鹿の子絞りの手絡の部分など、従来の技術では十分に再現できなかった箇所も見事に再現されています。

 1970年代後半から1980年代前半にかけての記念・特殊切手は、市場価格という点でいうといわゆる“額割れ”切手になるため、いままではあまり収集家の関心を集めてきませんでした。しかし、この時代は、印刷技術が飛躍的な向上と、切手ブーム後の生き残りを目指して“良い切手”を作ろうとしていた郵政省の意欲がしっかりかみ合い、印刷物としてはきわめて質の高い切手が少なからず生み出されており、無関心のまま通り過ぎてしまうのはいかにももったいない気がします。

 今回ご紹介の「母子」も、まさにその一枚なわけですが、この時代の“方寸の芸術”をめぐるさまざまな物語については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でもまとめてみましたので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 * 昨日の切手市場での即売・サイン会は無事、終了いたしました。遊びに来ていただいた皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。

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 きょうからバードウィーク
2008-05-10 Sat 08:59
 今日から16日まではバードウィーク(愛鳥週間)です。というわけで、“特殊鳥類”という単語の本を出したばかりの僕としては、この話題を避けて通ることはできませんので、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 特殊鳥類小型シート

 これは、1984年12月10日に発行された特殊鳥類シリーズの小型シートです。

 特殊鳥類とは、わが国において絶滅のおそれがある鳥類のことで、1972年の「特殊鳥類の譲渡等の規制に関する法律」(現「種の保存法」)によって、以下のような規制があります。

 ①特殊鳥類又はその卵は、環境庁長官(当時。以下同)が認める例外を除き譲渡譲受等を禁止する。
 ②特殊鳥類又はその卵は、国際協力として学術研究、養殖を行なう場合、その他輸出することが特にやむを得ない場合であって政令で定める要件に該当する場合を除き、輸出してはならない。
 ③なお、要件として本邦における種の保存に支障がないことを含めて、環境庁長官の認定が必要。
 ④特殊鳥類又はその卵は、輸出国の輸出許可書又は適法捕獲証明書を添付したものでなければ原則として輸入してはならない。

 1974年から発行が開始された自然保護シリーズ では、こうした特殊鳥類のうち、アホウドリ、タンチョウ、ハハジマメジロ、アカヒゲの4種が切手に取り上げられました。

 その後、1981年になって、山階鳥類研究所により、沖縄県で地元の人々にアガチ、アガチャ、ヤマドゥイ等の名で知られていたクイナ科の鳥が、学問的には新種のヤンバルクイナとして発表されると、これを機にヤンバルクイナ・ブームが到来。おそらく、このブームに便乗する形で、1983年のシリーズ切手の企画として、“特殊鳥類”が選ばれたものと思われます。

 さて、特殊鳥類シリーズは、すべての切手の原画を森田基治が手がけ、写実的で統一感のあるシリーズであったことから収集家の人気を集めました。特に、第1集の「シマフクロウ」の人気は高く、雑誌『郵趣』が行った1983年発行の日本切手の人気投票でも、デザイン面でよかった切手の第1位に選ばれています。

 こうしたことを踏まえて、郵政省は「シマフクロウ」と第3集の「カンムリワシ」、第5集の「シマハヤブサ」の3種を収めた小型シートを、シリーズの発行が終わった1984年12月10日(年賀状の繁忙期を迎える前の時期に設定された)中に発行することを決定しました。

 小型シートに取り上げられた切手は、原画は普通シートで使われたものと同じものを使っていますが、凹版として再彫刻されています。この点について、郵政省は「希少な鳥を原色で見せるという、シリーズ本来の役割は単片切手で果たされているため、小型シートでは、収集家からの要望が高い凹版印刷で切手の良さを味わってもらいたい」と説明していますが、当時の印刷技術では6色刷が限界であったため、刷色の違う各切手の色を掛け合わせて印刷することが不可能であったという技術上の問題もあったようです。なお、実際に発行された小型シートは、地の部分はグラビア3色で、切手の部分は異なった刷色の3種を同時に刷るザンメル凹版で刷られており、6色刷りとなっています。

 また、シート地のデザインは、シリーズ第1集が発行されたときに配布された『特殊鳥類シリーズ記念スタンプ帳』の表紙と同じもので、中央に、“BIRDS ON DANGER OF EXTINCTION”(絶滅の危機に瀕した鳥たち)との文字が入っています。今回の小型シートは、もともとデザイン面でも評判の良かった切手を、収集家の要望に応えて凹版で再現したものだけに、収集家の評判は上々で、シリーズとしての有終の美を飾るにふさわしい一点となりました。

 なお、特殊鳥類シリーズ全体については、先月刊行の拙著拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しく解説しております。本日10時からは、東京・池袋の桐杏学園にて開催の切手市場にて、同書の刊行を記念して即売・サイン会も行っております)切手市場ならではの特典もご用意しております)ので、ぜひ、遊びに来てください。

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 双頭体制スタート
2008-05-09 Fri 10:44
 一昨日(7日)、ロシアの新大統領にメドベージェフ第1副首相が就任。これを受けて、昨日(8日)、プーチン前大統領は首相に就任するとともに、下院で憲法改正などが可能な3分の2以上の議席を持つ与党・統一ロシアの党首にも就任し、プーチンを実質的に頂点とした異例の“双頭体制”が始動しました。

 というわけで、ロシアの“双頭の鷲”にちなむマテリアルの中から、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ロシア・満洲軍

 これは、日露戦争末期の1905年9月、ロシア軍の将兵が差し出したもので、ロマノフ家の紋章である双頭の鷲の入った紫色の印はロシア満洲軍のものです。日露戦争時のロシアの軍事郵便の葉書やカバーには、双頭の鷲の印が押されているものが少なからずあります。ただし、印影がつぶれているものも多く、今回ご紹介のように鷲の顔までクリアに見えるものは案外少ないように思います。

 以前の記事でも書きましたが、 双頭の鷲は、もともとは、東ローマ帝国で東洋と西洋の両方にローマ皇帝の支配を意味するものとして使われていました。東ローマ帝国の後継者を自負していたロマノフ朝は、東ローマ帝国にならい「西(ヨーロッパ)」と「東(アジア)」にまたがる統治権を象徴するため、この紋章を採用しています。

 伝統的に不凍港を求めて南下政策をとっていたロシアは、1877-78年の露土戦争で勝利をおさめ、バルカン半島における大きな地歩を獲得しましたが、このことは列強の警戒を招き、ドイツのビスマルクはベルリン会議を開催して露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約を破棄させ、バルカンにおけるロシアの南下を食い止めます。このため、新たな不凍港を求めるロシアは進出の矛先を極東地域に変更。日清戦争後の1895年に三国干渉をおこなって日本に放棄させた遼東半島の南端の旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を推し進めました。

 その後、1900年の義和団事件に出兵して全満洲に展開したロシア軍は撤退期限が過ぎても居座り続け、朝鮮への南下をうかがう構えを見せたため、これを脅威と感じた日本との間に、1904年、日露戦争が勃発することになります。

 日露戦争は日本海海戦と奉天会戦で日本側が大勝利を収めたものの、1905年8月の時点では、ロシアは依然として満洲に78万の大軍(この葉書の差出人もその1人です)を擁していました。

 この辺のロシアの底力については、日露戦争後間もなく発行された戦没者遺児に対する義捐金を募るための寄付金つき切手の出来栄えからもその一端がうかがえるように思われます。

 なお、こちらの寄付金つき切手に関しては、拙著『これが戦争だ!』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

 ご案内
 明日・5月10日(土)10:00より、東京・池袋の桐杏学園にて開催の切手市場にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の即売・サイン会を行います。当日は、切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。

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 タイの赤十字切手
2008-05-08 Thu 11:15
 今日(5月8日)は世界赤十字デー。というわけで、赤十字がらみの切手の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 タイ赤十字募金

 これは、1917年1月、タイで発行された赤十字募金の切手です。切手上には寄付金つきの表示はないのですが、当時の普通切手(ラーマ6世シリーズ)に赤十字のマークを加刷したうえで、額面に一定の金額を上乗せして販売したもので、今回ご紹介の3サタン切手の場合は、2サタンの寄付金が上乗せされています。

 タイの赤十字は、1893年のフランスの侵攻によるシャム危機に際して、フランスとの戦闘で傷ついた将兵の看護にあたった民間のボランティア組織がそのルーツで、同年4月26日、当時の国王・ラーマ5世によって設立が認可されました。ただし、当時のタイは英仏による植民地化の危機の真只中で、国際赤十字への加盟申請を行うどころではありませんでした。そうこうしているうちに、1914年に第1次世界大戦が始まってしまい、タイの加盟申請はますます遅れ、結局、第一次大戦後の1920年5月27日になって、ようやく国際赤十字への正式加盟が認められています。

 この間もタイ赤十字協会は活動を続けており、1911年には狂犬病対策としてクイーン・サオワパー研究所が作られ、ワクチンの製造が開始されました。今回ご紹介の切手は、こうした活動資金を捻出するために発行されたものです。なお、この切手への加刷は、バンコクの日本企業、大山商店が担当したもので、20世紀初頭の日本企業の海外での活動を考える上でも興味深い史料となっています。

 なお、タイの歴史と切手については、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろとご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 亡命政府25周年のラベル
2008-05-07 Wed 13:15
 中国の国家主席・胡錦濤が昨日(6日)来日しましたが、これにあわせて、都内ではチベット弾圧に抗議する集会やデモが都内であり、主催者発表で4000人のデモ参加者がチベット国旗を手に「チベットに自由を」とシュプレヒコールを上げて行進したのだそうです。

 というわけで、つい先ほど、我が家に届いたこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 亡命政権25周年ラベル(ポタラ)

 これは、1984年に作られたと思われるチベット亡命政府25周年記念の切手状のラベルです。デザインはチベット国旗とポタラ宮を組み合わせたもので、下部には“チベット1984 闘争と再建の25年”との文字が入っています。額面(といっていいのかどうかわかりませんが)は、10タムカとチベットの独自通貨で表示されていますが、実際の売価がインド・ルピーなり米ドルなりでいくらだったのかはよくわかりません。

 このラベルが、いかなる団体によって作られたのか、その詳細については現時点では調べきれていないのですが、オンピースの右側にはインド切手の断片(1982年に発行された灌漑の10パイサ切手のようです)が見えますので、インド国内でプライベートな義損証紙のようなものとして販売され、郵便物に貼られたものではないかと思います。

 ちなみに、今回入手したのは4種セットで、他には、中国によって破壊される以前の建築物と現状を並べて、中国の侵略をストレートに攻撃するようなデザインのものもあります。

 チベット亡命政府がらみのプロパガンダ・ラベルというと、今回ご紹介のモノが作られる10年前、1974年の万国郵便連合100年にあわせて作られたモノが有名ですが、どちらも実際の郵便には使えません。それでも、国連に議席を持たない(持てない)チベット側にとっては、こうしたラベルも、独立チベットの存在を内外にアピールするメディアとしては重要な意味を持っています。ちなみに、現在のチベット亡命政府は、かつてのチベットが独立国であったことの根拠の一つとして、独自の通貨・切手を発行していたことを挙げているわけで、彼らにとっての“切手”の意味はわれわれが想像する以上にはるかに重いものといってよいでしょう。

 今回ご紹介のモノ以外にも、チベットのプロパガンダ・ラベルに関しては、欧米で作られたと思しきモノもいろいろとあります。それらと、中国側がチベット支配を正当化するために発行してきたプロパガンダ切手を組み合わせて、チベット=中国関係史の本を作ってみたいのですが(ご興味をお持ちの編集者の方は、ぜひ、ご連絡ください)、さすがに、8月の北京五輪には間に合わないでしょうねぇ。それでも、来年3月の亡命政府50年の機会までには、なんとか形にしたいものです。

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 5月10日(土)10:00より、東京・池袋の桐杏学園にて開催の切手市場にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の即売・サイン会を行います。当日は、切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。

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 台湾の独自性②
2008-05-06 Tue 13:52
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『東亜』の2008年5月号ができあがりました。3ヶ月に1回のペースで僕が担当している連載「郵便切手の歴史に見る台湾の独自性」では、今回は台湾民主国の話を取り上げました。台湾民主国の切手は以前の記事でもご紹介しましたので、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
 
 丘逢甲

 これは、1973年10月5日に台湾が発行した丘逢甲の切手です。丘は1864年生まれ。曽祖父の代に福建省から台湾にわたってきた客家の出身で、26歳で進士参甲に合格した台湾籍の漢人官僚です。

 1894年8月1日に始まった日清戦争は、本質的には、朝鮮の権益をめぐる戦いであって、台湾からみれば遠くの戦争でした。ところが、1895年4月7日に締結された講和条約(下関条約)では、敗戦国となった清朝は日本に対して台湾を割譲することが規定され、同年5月8日の批准交換の完了によって、台湾は国際法的に日本の領土に編入されることになります。
 
 清朝にとっての台湾は、自国の領土ではあるが、あくまでも辺境の未開の土地としてしか認識されていなかった。そのことが端的に表れているのが、1871年の牡丹社事件です。

 1871年11月、琉球の宮古島から首里への年貢を運んで帰る途中の御用船が台風による暴風で遭難し、台湾南部の琅●(王へんに喬)付近の八瑤湾に漂着。漂着した乗員は原住民のパイワン(排湾)族牡丹社に救助を求めたものの、逆に牡丹社にあった彼らの集落へ拉致され、逃げ出したところをパイワン族から敵対行為とみなされて54名が殺されました。生き残った12名は漢人の移民により救助され、宮古島へ送り返されています。

 この地では、翌年にも漂着した日本船が略奪にあったため、1873年、日本の外務卿・副島種臣が清朝に対して賠償を求めると、清朝側の交渉窓口となっていた吏部尚書・毛昶熙は「台湾生蕃の地は化外に置き政教逮はず」などと返答し、清国の領土ではないことを主張して責任を逃れようとしました。結局、この件は、1874年5月、西郷従道ひきいる3000名の兵による台湾出兵がおこなわれ、清朝が50万両の賠償金を支払うことで決着するのですが、当時の清朝の台湾に対する姿勢を象徴的に示すものといえましょう。

 さて、下関条約の批准に伴い、日本側は5月10日に樺山資紀を台湾総督および台湾接収の全権委員に、清朝側は李経芳(李鴻章の息子で駐日公使)を台湾引き渡しの全権委員に任じ、台湾授受の手続を行うことになりました。

 ところが、自分たちの頭越しに日本への割譲を知らされた台湾の漢人たちの間では、これに反発する声が高まり、割譲阻止を叫ぶ官僚と一部住民が5月23日に“台湾民主国”(以下、民主国)の独立を宣言。24日には独立宣言を各国語に翻訳して、台湾駐在の各国領事館に通知するとともに、25日に独立式典を挙行し、元台湾巡撫の唐景を総統に、台湾籍進士の邱逢甲を副総統兼義軍統領に選出するとともに、虎を描いた国旗を定め、清朝による統治が永続するようにとの意味を込めて、元号を永清と定めています。

 これに対して、台湾で割譲反対の動きが盛り上がっていたことに恐れをなした李経芳は台湾への上陸を拒み、5月29日になってようやく、三貂角沖の海上で日本側と領土授受の手続きを完了。これを受けて、日本側は北白川能久親王ひきいる近衛師団第一旅団が台湾島東北部の澳底に上陸。5月31日に三貂嶺を占領し、6月3日には基隆を制圧しました。

 一方、当初こそ、「誓死抗日」、「与台共存亡」と豪語し、徹底抗戦を呼びかけて民衆を煽っていた唐景や丘逢甲ら民主国の幹部は日本軍が上陸するや浮足立ち、基隆が陥落すると我先に大陸へと逃亡。民主国の中央政府は事実上崩壊。さらに、混乱の中で、基隆から台北城内に落ち延びてきた敗残兵たちは、住民に対して放火や略奪、婦女暴行などを働き、場内は阿鼻叫喚の生き地獄となりました。このため、台北住民の中には、日本軍の入場による秩序の回復を望む者も少なくなく、辜顕栄が基隆に派遣され、日本軍の入城を先導したほどでした。

 こうして、6月7日、日本軍は台北に無血入城しましたが、その後も台湾に残った劉永福の黒旗軍(清朝の元軍務督弁で、民主国では大将軍の地位にあった)などは、住民から構成された義勇軍とともに台南などを拠点として日本軍に頑強に抵抗を続けたため、結局、日本の台湾総督・樺山資紀が大本営に対して「全島平定」を報告したのは、同年11月18日のことです。

 ご案内
 5月10日(土)10:00より、東京・池袋の桐杏学園にて開催の切手市場にて、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』の即売・サイン会を行います。当日は、切手市場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。

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 子どもの日
2008-05-05 Mon 11:39
 きょうは子どもの日。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 韓国・子どもの日

 これは、1949年5月5日、韓国で発行された“第20回子どもの日”の記念切手です。

 韓国の“子どもの日”は、日本統治時代の1923年、方定煥を中心とする日本留学生のグループ・色動会が「国と民族の未来でもある子どもの成長を祝い、子どもに対する愛護精神を昂揚させる」ことを目的として5月1日を“子どもの日”と制定したのが始まりです。

 方定煥は、1899年11月9日、ソウル鍾路区の出身。1919年3月の3・1独立運動の際に独立宣言文を配布するなどして投獄されたこともあって、朝鮮内にいづらくなり、日本に留学。上述の色動会のほか、青年クラブ、少年運動協議会などを組織したほか、朝鮮最初の純粋児童雑誌『子供』(1923創刊)に童詩、童謡、童話、童劇を発表したり、雑誌『新青年』、『新女性』、『学生』などの編集・発刊に尽力したりするなどして、1931年7月に32歳で亡くなるまで、児童文化運動に生涯を捧げました。方が児童文化運動に熱心に取り組むようになったきっかけについては調べきれなかったのですが、かれが留学した当時の日本では、鈴木三重吉の『赤い鳥』が華々しく脚光を浴びており、そのことが大いに刺激になったのかもしれません。

 さて、当初、方らが定めた“子どもの日”は5月5日ではなく、5月1日でした。ちなみに、アメリカのChildren's Dayも5月1日です。その後、1927年から“子どもの日”は日付を固定するのではなく、5月の第1日曜日とされます。おそらく、記念式典などへの集客その他の都合からそうなったのでしょう。ところが、“子どもの日”の記念式典が独立運動家のデモンストレーションの場になることへの懸念からか、1937年以降、“子どもの日”の記念式典は1945年まで中止されてしまいます。

 解放後の1946年に“子どもの日”は復活し、以前と同じように5月の第1日曜日に記念式典も行われましたが、この年の5月の第1日曜が5日だったことから、以後、5月5日が韓国(南朝鮮)の“子どもの日”として固定されることになりました。したがって、日韓両国の“子どもの日”が同じ日になっているのは偶然でしかありません。

 その後、韓国政府は1961年に公布の「児童福祉法」によって5月5日を“子どもの日”として正式に制定。1975年以降は国の祝日に指定し、現在にいたっています。ちなみに、今回ご紹介の切手は“第20回子どもの日”という名目で発行されていますが、1946年に復活した“子どもの日”では記念式典の主催者は第24回とカウントしています。これは、日本統治下の中断の時期をカウントするか否かについての考え方の違いによるものです。

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 みどりの日
2008-05-04 Sun 10:26
 きょうは“みどりの日”です。というわけで、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 緑化運動(1965)

 これは、1965年5月9日に発行された“国土緑化運動”の切手です。

 日本における全国規模の組織的な緑化運動としては、1934年に“愛林日”が設けられ、4月3日の“神武天皇祭”を中心にさまざまな活動が行われたのが、最初です。愛林日の各種行事は、戦争によって一時的に中断しますが、戦後の1947年に復活。全国緑化運動が多角的に展開され、1948年にはキャンペーンのための特殊切手も発行されました。この全国緑化運動は、翌1949年、国土緑化運動(以下、緑化運動)に発展し、このときもキャンペーン切手 が発行されています。

 もっとも、この時期の緑化運動は、森林愛護連盟や全日本観光連盟がそれぞれの事業の一環として担っており、かならずしも緑化運動そのもの専門とする団体が責任を持って行うという体制にはなっていませんでした。

 このため、1950年1月、緑化運動を国民運動として盛り上げ、推進する母体として、衆議院議長(幣原喜重郎)を長とする国土緑化推進委員会(現・国土緑化推進機構)が結成されました。国土緑化推進委員会は、同年4月、山梨県で昭和天皇夫妻臨席の下、ご夫妻によるお手植えを中心とする「第一回植樹行事および国土緑化大会」を開催。これが、現在の緑化運動の直接的なルーツとなります。

 1965年は、そうした国土緑化推進委員会による緑化運動の開始から15周年にあたっており、委員会として、郵政省に対して記念切手の発行を強く要望していました。この結果、1月28日に開かれた郵政審議会専門委員会では、5月9日に鳥取県で開催される「植樹行事および国土緑化大会」にあわせて記念切手を発行することを決定します。

 したがって、この切手の題目は、“国土緑化運動”となっていますが、実質的には、キャンペーン切手というより、“(国土緑化推進委員会による)緑化運動15周年記念”という色彩が強いものと考えてよさそうです。実際、3月19日付の郵政省の報道発表では、「国土緑化運動にちなむ郵便切手」の“発行の趣旨”は「鳥取県において行われる『植樹行事および国土緑化大会』にちなむ」と説明されており、“緑化運動の啓蒙・宣伝”という文言は見られません。その後、1971年の全国植樹祭まで、緑化運動切手の空白時期があるのも(ただし、記念葉書は1968年から発行されていましたが)、今回の緑化運動切手が“周年”モノとしての性格が強いことの傍証といえるのかもしれません。

 さて、この切手のデザインは、樹木と陽光を描くものということですが、当時、女性に好評だったようです。そういわれてみれば、“かわいい切手”が好きな女性に受けそうな雰囲気がありますな。

 なお、今回の緑化運動切手を含め、昭和40年前後の記念切手に関しては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読ください。(アマゾンでは古書としてとんでもない高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 済南事件80年
2008-05-03 Sat 11:42
 1928年5月3日に済南事件が起こってから今日でちょうど80年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 済南事件・軍事はがき

 これは、1928年6月20日、済南事件に参加した兵士が差し出した葉書で、当時の通常葉書に“軍事郵便”と赤字で加刷されたものが用いられています。

 1926年に国民革命(北伐)を宣言した蒋介石は各地の軍閥と戦いながら北上し、1928年5月1日、山東半島の重要都市である済南に到達しました。当時、済南には日本人を中心に多くの外国人が居住していましたが、日本側は北伐軍が山東半島に入ると、居留民保護を理由として1928年4月下旬に現地に出兵しており、戦闘が城外の商埠地に波及することを防ぐためにバリケードを築いていました。これに対して、蒋介石は「この地域の治安は中国軍が保障するので日本軍は撤退してほしい」と要望。これを受けて、日本軍はバリケードを解除します。

 ところが、進駐してきた北伐軍の兵士の一部が、日本人経営の満州日報取次販売店を襲撃して略奪をおこない、店主の吉房長平方に暴行。さらに、中国側の兵舎に逃げ込んだ犯人グループを追って駆け付けた日本軍に対して、中国側が銃撃してきたため、日本側はこれに応戦。これをきっかけに、大規模な武力衝突が発生しました。

 一連の衝突の過程で、中国側による日本人居留民への暴行・略奪によって、日本人の死者12、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280という被害が発生。被害額は当時の金額で35万9000円に達したといわれています。これに対して、中国側は外交官16名が日本軍によって殺害されたことを強く非難。この結果、いったんまとまりかけた停戦交渉は決裂し、5月8日、日本軍が攻撃を開始し、5月11日に済南を占領しました。

 その後、外交交渉を経て、1929年3月28日、日本軍が山東から撤退し、双方の損害は共同で調査委員会を組織して改めて調査することを骨子とした停戦協定が締結され、事件は一応決着することになります。

 今回ご紹介の葉書は、そうした済南事件に際して山東半島に派遣された兵士が差し出したものですが、裏面には「吾等上陸以来毎日青島市街地の日本倉庫に人馬の食料を運搬し 馬と共に國家の為働くを現在の仕事と致て居候 尚北部の方にては多少の戰も之有り様子に候へ共 青島附近は便衣隊退却以来更に戰ふ気分も之無 今は安全…」といった風に現地の様子を伝える文面がつづられています。

 ところで、いままで僕は、候文なんて大正以降はあまり使われなくなったものと勝手に思い込んでいたのですが、今回の葉書をきっかけにちょっと調べてみたら、1934年の尋常小学校の『国語読本』に掲載されている「手紙」という文章(手紙の書き方のサンプルとして取り上げられたもの)が候文になっていました。ということは、戦前までは候文の手紙を書ける小学生が存在したということになります。ひるがえって、小学生どころか大学生でさえ、そもそも“候”という字をきちんと読めるかどうか…という現状は、あの時代の教育を受けた人たちからすると、まさに“驚入候”ということなんでしょうね。
 
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 五輪と香港
2008-05-02 Fri 10:23
 北京五輪の聖火リレーは、今日(2日)、香港を通過します。というわけで、五輪がらみの香港切手ということで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 香港・五輪メダル

 これは、1996年のアトランタ五輪で、香港の李麗珊がセーリング女子の部で金メダルを獲得したことを記念して、同年10月29日に発行された小型シートです。

 香港の五輪参加は、英領時代の1951年、国際オリンピック委員会で香港オリンピック委員会(Amateur Sports Federation and Olympic Committee of Hong Kong)が承認されたことをうけて、翌1952年のヘルシンキ大会に選手団を派遣したのが最初です。その後、1964年の東京大会の際には聖火の初めて通過地点となり、これを記念して啓徳空港跡地そばの道路が世運道(Olympic Avenue)と命名されています。ちなみに、このときの聖火は、香港の後、沖縄へ飛びましたが、台風のために当初予定から一日遅れの9月7日に那覇に到着。このため、当時の琉球郵政は、記念切手の発行を当初予定の6日から7日にずらしています。

 英領香港としてのオリンピックでのメダル獲得は、今回ご紹介の切手にも取り上げられているアトランタ大会の李麗珊が最初で、同年開催のパラリンピックでは、元消防士の張偉良がフェンシングで金メダルを獲得しています。翌1997年には、香港は中国に“返還”されてしまいますので、大陸とは別の“香港”としてのメダル獲得は、李麗珊が最初で最後の事例です。当然、香港人にとっては記念すべき事柄で、これを記念して、返還後の1998年に開通した地下鉄東涌線の駅のひとつは、当初予定の大角咀ではなく、奥運(オリンピックの中文:奥林匹克運動會の略)と名付けられています。

 返還後の中国香港は、1国2制度の建前から、大陸とはオリンピック委員会を別に組織し続けていますが、実際には、大陸の選手が香港にやってきて出場する選手も少なくないようで、前回、2004年アテネ大会で銀メダルを獲得した卓球選手も、中国からやってきた“なんちゃって香港選手”です。まぁ、このあたりは、世界各地の中国大使館が聖火の“応援”のため、現地の留学生に動員をかけているのと基本的な精神構造は一緒というわけですな。

 こうしたこともあって、1997年の返還以降、中国共産政府による“愛国教育”を受けた若者は単純素朴に“なんちゃって香港選手”を応援しているものの、李麗珊の時代を知っている大人たちの中には釈然としない思いで五輪を見ている人も少なくないようです。

 今回の聖火リレーに際しては、香港の民主派グループが、チベット弾圧への抗議と中国政府に人権と民主化を求める行動として“民主のたいまつリレー”を実行し、“中国人”の中にも民主と人権を支持する声があることを発信したいとしていますが、香港当局はこれに難色を示しています。じっさい、香港当局は、最近、リレーへの抗議行動が予想される欧米の人権活動家の入国を拒否するなど、リレーを前に警備を強化しています。

 その一方で、香港当局は、スーダンのダルフール問題に関連して中国政府を非難し、北京五輪開催に反対しているアメリカの女優、ミア・ファローに関しては、昨日(1日)、講演のための入国を認めており、とりあえず、(少なくとも大陸に比べては)言論の自由を保障するという1国2制度の建前をなんとか維持しようとする姿勢も見せています。

 いずれにせよ、香港の中国化が年々ひどくなる進行していくなかで、「“中国人”の中にも民主と人権を支持する声があることを発信したい」とする民主派グループの人たちにはぜひとも頑張ってもらいたいですし、彼らのことが日本でももっと報じられればいいのに、とついつい思ってしまいます。

 なお、返還前後の香港の状況や、近年の香港の中国化に関しては、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろと書いてみましたので、よろしかったら、ぜひ、ご一読ください。

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