内藤陽介 Yosuke NAITO
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 『郵趣』今月の表紙:ガンビアのカメオ
2008-06-30 Mon 13:33
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年7月号は、おそらくできあがっているものと思います。現在、ルーマニアをふらふらしている僕としては現物を確認するすべはないのですが、とりあえず、月が変わってしまう前に7月号の表紙のことを書いておいた方が良いでしょう。

 雑誌『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 ガンビア・カメオ

 これは、1869年3月にアフリカのガンビアで発行された1番切手です。

 16世紀以降、イギリスはアフリカ大陸西岸のガンビア川の周辺に進出しましたが、気がつくと周囲は次第に仏領に取り囲まれるようになったため、1783年、同川流域の細長い地域を英領ガンビアとして確保することになりました。現在、セネガルの領内にガンビア川の周囲だけ、くさびを打ち込むようにガンビア国家が存在しているのはこうした事情によるものです。

 さて、1866年、ガンビアの行政官だったパティはロンドンの植民地省に切手の使用許可を求めました。植民地側の予算はわずか100ポンドでしたが、この金額では版を作るだけで吹っ飛んでしまいます。当然、偽造防止対策を施した精巧な切手なんてできっこありません。

 ところが、ガンビアに先立ち切手発行が決まっていたヘリゴランドでは、ベルリンの帝国印刷会社が30ポンド弱で切手製造を受注していました。このため、植民地省はロンドンのデラルー社に相談を持ちかけましたが、デラルー社は、ヘリゴランドの切手は偽造対策がなにも施されていないことを指摘。同様のスタイルで作られた旧サルディニア切手を示して、「この切手はその後、多くの偽造が横行し困ったことになりましたよ(だから、こんな切手はおやめなさい)」という趣旨の返答を送っています。そのうえで、「その値段ならこの程度のものしかできませんよ」ということで、シルエットをエンボス(型押し)をしただけの切手制作の見積もりを提出しました。デラルー社としては、植民地省側が相場というものを理解し、まともなビジネスの話を持ってくることを期待していたと思われます。

 ところが、デラルー社の案に相違し、植民地省はヘリゴランドと同様の切手製造を同社に発注。このため、同社はやむなく、茶色に女王の肖像などを型押ししただけの切手を製造することになりました。

 こうして1869年3月18日に発行されたガンビア最初の切手は、刷色とエンボスの組み合わせがカメオのブローチのように見えることから、現在では、“カメオ・エンボス”ないしは“ガンビア・カメオ”の名で収集家に親しまれています。まぁ、切手のことを“紙の宝石”と称することもありますから、ガンビアのカメオというのもそれなりに魅力的なネーミングではありますな。

 お知らせ
 7月1日付で福村出版から刊行予定の『韓国現代史:切手でたどる60年』は、すでに本として出来上がったとの連絡が出版元からメールで入りました。が、いかんせん、ルーマニア滞在中で実物を確認できませんので、詳細は、あさって7月2日に帰国した後で、ご紹介します。

 もう一度切手を集めてみたくなったら 
 雑誌『郵趣』の2008年4月号は、大人になった元切手少年たちのための切手収集再入門の特集号です。発行元の日本郵趣協会にご請求いただければ、在庫がある限り、無料でサンプルをお送りしております。くわしくはこちらをクリックしてください。
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 荒城の月
2008-06-29 Sun 14:04
 6月29日は1903年のこの日に作曲家・滝廉太郎が亡くなったことにちなみ、“廉太郎忌“というのだそうです。というわけで、まずはこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 荒城の月

 これは、1979年8月24日、「日本の歌シリーズ」の第1集として発行された「荒城の月」です。

 「日本の歌シリーズ」と滝廉太郎については、以前の記事でも触れましたが、滝廉太郎の生誕100年を記念して企画されたもので、そのトップを飾る「荒城の月」は滝の誕生日に合わせて発行されています。

 ところで、「荒城の月」は、現在、山田耕筰によって第2章節の部分を原曲とは異なったメロディにアレンジしたものが広く歌われていることから、切手上の楽譜も山田によって編曲されたものが掲載されています。このため、滝の作曲したオリジナルの楽譜を取り上げるべきではないかとのクレームが新聞紙上などでも紹介されて話題となりました。

 さて、現在、僕はルーマニア東北地方を回っていて、モルダビアの古都、スチャバのホテルでこの記事を書いています。で、昨日は周辺の世界遺産を含む“5つの修道院”をまわったのですが(この地域で実際に撮った“モルダビアの牛”の写真は、さきほど追記として昨日の記事に付け加えました)、今日は市内の“玉座の砦“の跡地などを見に行こうと思っています。

 この砦は、1388年、モルダビア公国の初代大公、ペトゥル1世が築いたもので、モルダビアの全盛期を築いたシュテファン大公の時代に、円形の見張り塔を備えた大城塞として完成しました。2~4メートルもの暑さの壁は、ポーランドやオスマン帝国の攻撃を跳ね返し、モルダビアの国土防衛に大いに貢献しています。

 ところが、シュテファンの死後60年経った1564年、オスマン帝国を和を結んだモルダビア公、アレクサンドル・ラプシュネアスは、オスマン帝国のスルタンの意向に沿って“玉座の砦”を放棄して150キロ南のヤシに遷都。砦は破壊されています。

 現在の“玉座の砦”跡は、まさに「昔の光いまいづこ」といった風情で趣があるのでしょうが、いかんせん、夏でも夕方6時までしかオープンしていないため、ここでルーマニア版“荒城の月”を楽しみながら、酒を飲むということはできません。まぁ、飲み始めてしまえば、“花より団子“派の僕にとっては、景色なんてどうでもよくなってしまうんですがね。

 なお、「日本の歌シリーズ」については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でいろいろと解説をしていますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。

 * ルーマニア時間で昨日(日本時間だと、29日未明)、カウンターが35万PVを越えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

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 7月1日付で福村出版から刊行予定の『韓国現代史:切手でたどる60年』は、すでに本として出来上がったとの連絡が出版元からメールで入りました。が、いかんせん、ルーマニア滞在中で実物を確認できませんので、詳細は7月2日に帰国した後で、ご案内します。

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 モルダビアの牛を訪ねて
2008-06-28 Sat 14:42
 ブカレストで開催されていた世界切手展EFIROは終わりましたが、僕はもう少しルーマニアに留まって、ルーマニア東北のモルドバ(モルダビア)地方をまわってくるつもりです。というわけで、遅ればせながら、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 EFIRO小型シート

 これは、昨年(2007年)8月、ルーマニアが今回の切手展のプロモーションのために発行した小型シートで、切手部分は“モルダビアの牛”の紋章部分と切手展のマークを描き、シートの地には同じく“モルダビアの牛”が刻まれたコインが並べられています。まさに、“モルダビアの牛”がテンコ盛りの一枚ですな。なお、ルーマニア人の自称ではモルダビアではなくモルドバなのですが、“牛”に関しては“モルダビアの牛”が定着していますので、ここでも、そのように表記することにします。

 さて、現在のルーマニア国家は、基本的に、かつてのモルドバ、ワラキア、トランシルバニアの3地域(国)から構成されていますが、このうち、オスマン帝国の支配下にあったモルドバでは、1858年、牛の紋章を大きく描いた最初の切手を発行しています。これが、名品切手として有名な“モルダビアの牛”で、収集家の間では、ルーマニアといえば条件反射的にこの切手のことを思い浮かべる人も少なくないようです。

 モルドバと牛の関係については、次のような伝承が伝えられています。

 昔、知性に優れ、勇壮なドラゴシュという男がいた。彼は、仲間とともに狩りに出かけ、高い山々のふもとで雄牛を追いかけて行った。牛を追う一行には女子供も加わり、彼らはマラムレシュ(ルーマニア北方)から高い山を越え、森を切り開いていったが、ある場所でドラゴシュが雄牛を殺した。以後、彼らはそこに住みつくようになり、モルドバの国が始まった…。

 日本でも、「牛に引かれて善光寺参り」というのがありますが、モルドバの場合には、牛に導かれて国までできてしまったということになるんでしょう。牛が紋章として重要な意味を持っているのも納得できます。

 とりあえず、これからブカレストのホテルを出て列車でスチャバに向かい、“モルダビアの牛”が発行されたころのモルドバの首都、ヤシにも立ち寄ってから30日にブカレストに戻ってくる予定です。それでは、かの地の牛が、本当に切手に取り上げられているような顔をしているのかどうか、じっくり拝んでくるとしましょうか。

 <追記>
 モルダビア地方の実際の牛の写真を撮ってきましたので、いかにアップしてみます。

 モルダビアの牛(ホンモノ)

 もちろん、切手の“モルダビアの牛”で有名な紋章は、修道院の門の上など、いたるところで見かけられます。(画像は、スチェヴィツァ修道院の入口の門の上に彫られていた紋章の彫刻です)

 スチェヴィツァ修道院の牛の紋章

 近々、ルーマニア本を書くときには、こういう写真なんかもいろいろと盛り込んでいく予定です。
 
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 バルカンの小パリ
2008-06-27 Fri 08:52
 ブカレストで開催されていた世界切手展EFIROも気がつけば今日が最終日。とりあえず、日本人出品者の受賞速報が出ていないようなので、掲載しておきましょう。受賞者の皆様にはお祝い申し上げます。(って、自分もその一人なので、なんだか変な気分ですが…)

 なお、このリストは会場で張り出されたもののメモなので、誤りなどがあったらご容赦ください。フレーム番号順にアルファベットで敬称略のお名前(苗字は大文字)、賞:点数、の順です。

 ・OTA Yasuki LS:78
 ・SAITO Tamaki V:81
 ・TAKAKU Kenichi LV:87
 ・IIDA Fumio V:84
 ・KODAMA Hiroaki V:84
 ・MIZUMURA Nobuyuki LS:75
 ・WADA Fumiaki LV:85
 ・OHBA Mitsuhiro V:82
 ・SASAKI Yasuhiro G:90
 ・MURAOKA Yasuhiro LS:76
 ・KOMIYAMA Satoshi V:80
 ・NAITO Yosuke V:88 (オープンクラスにはLVのメダルはありません)

 さて、ブカレストの切手展のためにルーマニアに行っていたくせに、今までの会期中、ブカレストがらみの記事を何も書いていないことに気がつきましたので、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ブカレスト国立図書館

 これは、1928年にルーマニアで発行された観光宣伝葉書の1枚で、ブカレストの国立図書館(大学図書館)の写真が印刷されています。

 ブカレストの国立図書館は、1836年、聖サヴァ・アカデミーの図書館として創設され、1838年夏から一般に公開されました。近代図書館としての体制が整えられたのは、モルダヴィア・ワラキア統一後の1859年のことです。

 1901年5月27日の法令によって、国内の中央図書館は1867年創立のルーマニア・アカデミー図書館となり、国立図書館の建物は格下げされてしまいますが(今回の葉書はこの時期のものです)、共産政権時代の1955年6月、再び国立中央図書館として利用されるようになり、現在に至っています。ブカレスト市内中心部の革命広場に面した場所にあるため、1989年の銃撃戦では火災の被害に遭い、貴重な古文書など多くの書籍が失われたそうです。

 その昔、ブカレストは“バルカンの小パリ”とも呼ばれた瀟洒な街並みを誇っていましたが、共産政権時代に多くの歴史的建造物は“ブルジョア的”として取り壊され、無味乾燥な社会主義建築が乱立するようになったといわれています。それでも、この国立図書館をはじめ、往時を偲ばせる建築はところどころに残っており、我々の目を楽しませてくれます。

 ちなみに、僕がブカレストにいた間は、サッカーのUEFA欧州選手権2008の真っただ中でしたので、この葉書と同じ構図で写真を撮ると、正面に巨大な垂れ幕がかかっていました。(こんな感じです)

 大学図書館2008

 このすぐ脇の広場には、サッカー観戦のための超大型スクリーンと観客席も設けられていましたから、きっと、試合のある日はこのあたりは大変な騒ぎで、とても落ち着いて本なんか読める状況じゃなかったんでしょうね。なお、正面のカロル1世の巨大な騎馬像は、近年、人々の浄財を集めて建てられたもので、以前の葉書にはありません。

 さて、昨年刊行の『タイ三都周郵記』につづく切手紀行シリーズの1冊として、そう遠からずルーマニアの本を出すこともあるでしょうが、その時には、かつての“バルカンの小パリ”のかけらを現在とつなぎ合わせるような1章を書いてみるつもりです。

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 小笠原復帰40年
2008-06-26 Thu 13:15
 小笠原諸島が日本に復帰してから、今日(6月26日)でちょうど40年だそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 小笠原復帰

 これは、1968年6月26日、小笠原諸島復帰に際して発行された記念切手です。

 1593年、松本城主の孫・小笠原貞頼が“発見”したとされる小笠原諸島は、幕末の1861年、江戸幕府が父島の扇ヶ裏村に仮役所を設け、日本領であることを内外に宣言。その後、1876年3月、明治政府は小笠原諸島を正式に日本領土に編入し、内務省の直轄(のちに東京府に移管)としたうえで、同年10月、各国にその旨を通告しています。

 郵便に関しては、1885年7月、父島に小笠原局(普通局)が設けられたのをはじめ、1944年に戦況の悪化で島民が本州に強制疎開させられるまでの間に、同局のほか、扇ヶ裏(父島)、北村(母島)、母島(母島)、硫黄(硫黄島)の無集配特定局が活動しています。

 太平洋戦争末期の1945年、米軍は小笠原諸島を占領し、1946年1月、小笠原諸島の施政権は東京都から分離されます。その後、1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効すると、同条約に基づき小笠原諸島はアメリカ海軍の軍政下に置かれ、欧米系の住民は帰島を認められたものの、日本人の帰島は、認められませんでした。なお、米軍政下の小笠原諸島発着の郵便物は、月1回の米海軍のLST船(貨物船)もしくは週1回の飛行艇によって、父島からグアム島を経由して運ばれていたほか、硫黄島の野戦局でも郵便の取扱が行われました。

 これに対して、旧島民らは、1947年7月、小笠原島帰郷促進連盟を組織して祖国復帰運動を開始したものの、アメリカ側は軍事上の理由からこれを一蹴します。しかし、旧島民の中には、早期帰島を信じて本土での定職につくことを拒む者も少なくなく、その結果、彼らの中で生活苦から一家心中するものが後を絶ちませんでした。こうしたことから、アメリカも旧島民の境遇には同情し、1961年には旧島民に対して600万ドルの見舞金を支払っています。

 その後、復帰運動の中心は、1965年5月に発足した小笠原協会に引き継がれ、1967年11月15日、佐藤=ジョンソンの日米首脳会談の結果、小笠原諸島の日本への早期返還の方針が決められます。そして、翌1968年4月5日の小笠原返還協定の調印を経て、同年6月26日付で小笠原諸島の施政権は日本に返還されました。

 さて、小笠原諸島では、日本復帰当日の6月26日付で父島大村地区に小笠原郵便局が開局することになっていましたが、復帰当日の6月26日は、正午から午後3時まで一連の記念行事が行われたため、小笠原局で記念切手の発売や郵便物の引受等の窓口業務が開始されたのは午後3時15分以降のことだったそうです。また、小笠原局には初日カバーの郵頼が殺到しましたが、局長以下2名という小規模な局では、当然、これに対応することはできず、カバーの大半は東京中央局で処理されました。その際、東京中央局では、櫛型印の押印依頼に対しては、時刻欄を午前8-12時(実際には小笠原局の業務がまだ始まっていない時間帯)として対応するなど、現場はいろいろと苦労したようです。

 なお、小笠原復帰をめぐる切手や郵便の動きについては、拙著『一億総切手狂の時代』でもいろいろと解説していますので、よろしかったら、そちらもご覧いただけると幸いです。

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 カナダから国連軍宛
2008-06-25 Wed 18:17
 今年もまた、朝鮮戦争がはじまった“ユギオ(625)”の日がやってきました。現在、ルーマニアで開催の国際切手展EFIROに展示中の僕の作品 A History of Hong Kong にも、朝鮮戦争がらみのこんなマテリアルがありますので、今日のユギオにちなんでご紹介してみましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 カナダから国連軍宛

 これは、朝鮮戦争末期の1953年1月26日、カナダ・モントリオールから香港のイギリス野戦局宛に差し出されたカバーです。押されている中継印をたどってみると、1月28日にバンクーバーを経て、香港へ届けられたものの、名宛人が移動していたため、2月3日、米軍機に乗せて転送され、2月9日に名宛人の元へ届けられたというストーリーになりそうです。

 1949年10月1日、北京で中華人民共和国の成立を宣言した毛沢東は、あえて、香港のを“解放”せず、英領のままにとどめておくことを選択します。これは、香港を西側社会に対する“窓”として確保するためには中国に編入せず、英領のままにしておく方が得策との判断によるものでした。一方、イギリスにとっても、英領香港の枠組みが維持されることは望ましいことでしたから、1950年1月、イギリスは西側先進国の中で最初に中華人民共和国を承認してこれに応えます。

 ただし、イギリスは、国連の代表権については依然として台湾の国民政府を支持しており、また、1972年までは両国の間で正規の大使は交換されず、臨時大理大使が交換されるのみでしたから、両国の関係は“半国交”とでもいうべき状態が続くことになります。

 こうした状況の下で、1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると、西側陣営の大国であったイギリスは国連軍の一員としてこれに参加。香港は朝鮮へと向かうイギリスの拠点となりました。

 一方、朝鮮戦争の勃発を機に、膨大な軍事特需が発生したため、英中両国の商人たちは香港での大量の物資の買い付けに乗り出します。特に、中国側は輸入代金を調達するため、大量の中国製品を香港に輸出。また、国共内戦末期の1949年6月以来、国民党軍が行っていた大陸封鎖は、トルーマンによる台湾海峡中立化の方針によって解除され、香港と中国大陸の貿易を妨げていた要因がなくなったことも、香港の好景気に拍車をかけることになりました。なお、1950年8月、イギリスの香港政庁はアメリカの圧力に屈して中国への戦略物資の輸出禁止令を発していますが、実際には、香港政庁はせっかくの好景気を冷やしたくないと考えていたこともあって、これはザル法で、中国大陸と香港の貿易額はかえって拡大しています。

 ところが、1950年10月、中国が壊滅寸前の北朝鮮を救うため、“人民志願軍”の派遣というかたちで朝鮮戦争に参戦すると事態は一変。1950年12月3日、アメリカは香港・マカオを含む中国全土に対して全面禁輸を実施し、同月16日にはアメリカの客船・航空機が中国へ行くことを禁止します。さらに、翌1951年5月には、国連が香港・マカオを含む中国全土への禁輸措置を決議し、6月にはついにイギリス本国が中国と香港の間の貿易を管制下に置いてしまいました。

 一連の禁輸措置によって香港は経済的に大きな打撃を受けたばかりか、内戦を逃れて流入してきた大量の難民を抱えて、一時期、途方にくれることになります。しかし、彼らはほどなくして逆転の発想で、大量の難民たちを安価な労働力として活用し、それまでの中継貿易を中心とした経済構造から、加工貿易を中心とした経済構造への転換をはかるようになり、メイド・イン・ホンコンの商品が世界に流通していくことになるのです。

 なお、中華人民共和国と香港の関係については、拙著『香港歴史漫郵記』でもいろいろとまとめてみましたので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 ベルリン封鎖60年
2008-06-24 Tue 14:39
 東西冷戦下のベルリン封鎖から、きょうでちょうど60年だそうです。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 クマと献金皿

 これは、1949年12月1日、西ベルリンで発行された「通貨改革の犠牲者のために」と題する寄付金つき切手で、ベルリンの象徴である熊と献金皿が描かれています。

 第2次大戦後、敗戦国ドイツの首都であったベルリンは、ドイツ全土の縮図として、東地区がソ連、西地区米英仏の3国によって分割占領されましたが、西ベルリンはソ連占領地区の包囲の下、他の西側占領地区からは孤立した存在となっていました。もっとも、初期の段階では、東西の往来は自由で、東側からは電気・ガス・水道が西側に供給されています。

 ところが、東西冷戦が進行していく中で、戦後のドイツ国内では、ハイパー・インフレが進行していたため、1948年5月、米英仏の3国は、西側占領地区での通貨の切り下げを計画。これに対して、西側の占領地域で通貨の切り下げが行われ、新通貨が導入されれば、西側に比べ経済基盤の弱いソ連占領地域の通貨は暴落し、物価が高騰することが予想されました。このため、西側占領地区が、ベルリンを除く占領地域で6月20日から新マルクを発行すると、その報復として、6月24日、ソ連は東西ベルリンの往来を禁止し、橋の破壊や国境の封鎖でベルリン周囲のソビエト占領地区との交通も遮断し、西ベルリンへの送電も停止しました。これがいわゆるベルリン封鎖です。

 当初、さらに、ソ連は自らの占領地区と全ベルリン地区の通貨改革を発表。26日以降、ソ連占領地区と全ベルリンで旧ライヒスマルクと西側の発行したマルクを無効にし、ソ連側が用意した証紙付き紙幣を東西のベルリンに流通させようとしました。

 このため、米英仏は、それまで西ベルリンには適用しないとしていた通貨改革を西ベルリン地区でも実施。ソ連に対して徹底的に抵抗する姿勢を示し、アメリカを中心とする西側占領軍当局は、西ベルリン地区住民を救済するため、ただちに食糧・物資の空輸を開始します。ベルリン空輸は、最盛期には1分に1機の飛行機が離陸したといわるほどの規模で行われましたが、結局、西側の強硬姿勢の前に、最終的にソ連も妥協を余儀なくされ、1949年5月、ベルリン封鎖は解除されました。

 一連のベルリン危機を通じて、ソ連と西側諸国との対立は決定的なものとなりましたが、その結果、ドイツの東西分裂も急速に促進され、1949年5月8日、西ドイツの憲法制定会議がドイツ連邦共和国基本法を可決したのに対して、東ドイツは同年10月7日、ドイツ民主共和国の成立を宣言することになります。

 なお、第2次大戦後のドイツの分割占領と冷戦に関しては、拙著『反米の世界史』でもごくごく簡単にではありますが、まとめてみたことがありますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。

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 ノグチゲラ対決
2008-06-23 Mon 10:44
 今日は沖縄の慰霊の日。というわけで、現時点での僕の最新作『近代美術・特殊鳥類の時代』の中から、沖縄がらみのこんな1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ノグチゲラ

 これは、1983年11月25日、特殊鳥類シリーズの第2集として発行された「ノグチゲラ」です。

 ノグチゲラはキツツキ目キツツキ科に属し、1種で1属(ノグチゲラ属)を形成しています。沖縄本島の与那覇岳を中心にした照葉樹林にしか生息しない珍鳥で、沖縄県の県鳥にも指定されています。

 体長は約31センチ。全身は暗褐色の羽毛で覆われ、背面や腹面、尾羽基部の下部(下尾筒)は赤味を帯びています。また、側頭部や咽頭部の羽毛の色は淡く、嘴は白です。切手に描かれているように頭頂部が赤いのはオスの特徴です。スダジイ、ウラジロガシなどの常緑広葉樹林に生息し、昆虫類、果実、種子等を食べますが、開発による生息地の破壊や、人為的に移入されたイエネコ、ジャワマングースの食害等により絶滅の危機に瀕しています。

 ところで、ノグチゲラは返還前の沖縄でも、1966年2月15日、天然記念物シリーズの1枚として取り上げられていますので、その画像もご紹介しておきましょう。

 ノグチゲラ(琉球)
 
 特殊鳥類シリーズの切手が森田基治お得意の図鑑風の写実的なデザインで印刷物として緻密な印象を与えるのに対して、玉那覇正吉のデザインした琉球切手は油絵を思わせる野性的なタッチになっています。僕のような鳥の素人からすると、いわれなければ、とても同じ鳥とは思えぬほど、印象が違いますねぇ。人によって好みは分かれるのでしょうが、僕個人としては、バックの雰囲気からして南国・沖縄の雰囲気がプンプン漂ってくる琉球切手の方に軍配を上げたい気分になります。

 なお、特殊鳥類切手に関しては、文字通り拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』で詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 ドラキュラの城
2008-06-22 Sun 12:52
 今回のルーマニア旅行は、まずは世界切手展EFIROの参加が目的ですが、それと並行して昨年の『タイ三都周郵記』に続く“切手紀行シリーズ”の第2弾として、ルーマニアの本を作るべく、その取材も兼ねています。そうなると、ブカレストに張り付いているわけにもいかないので、こんなところに足を延ばしてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ブラン城

 これは、王制時代の1932年に発行された観光宣伝の葉書の1枚で、“ドラキュラ城”として知られるブラン城が取り上げられています。この写真は円形の塔が左側に見えますので、背後の山側から撮影したもので、実際にバスを降りて敷地の入口のところでフツーに写真を撮ると、電線なんかも邪魔をして、こんな感じになります。

 ブラン城2008

 ブラン城はトランシルヴァニア地方南西部の都市、ブラショフ郊外の山中にあります。13世紀ごろにテュートン騎士団によって建造されましたが、長らく、ハンガリー王の支配下にありました。

 19世紀アイルランドの作家ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』は、15世紀のワラキア公、ヴラッド・ツェペシュをモデルにしたフィクションで、小説では、ヴラッドはブラン城を居城としていたという設定になっていますが、実際には、この城はヴラッドとはほとんど関係がありません。(ハンガリー王の招きで、何日か滞在した可能性までは否定できないそうですが)

 もっとも、トランシルバニアの森の中にひっそりと建ち、秘密の抜け道や薄暗い廊下などがあるというブラン城の姿は、ストーカーの小説のイメージにはたしかにピッタリで、それゆえ、“ドラキュラ城”としてすっかり観光名所化しています。

 王制時代、ブラン城は王室の財産でしたが、第2次大戦後、共産党政権によって接収され、政府の所有となりました。共産党政権は、小説としてのドラキュラのイメージがヴラッド・ツェペシュと混同されることを嫌い、小説『ドラキュラ』を発禁処分としました。その一方で、オスマン帝国と戦った民族の英雄であるヴラッドを国民統合の象徴として最大限に活用しています。ちなみに、ヴラッドは自分の支配地域で反対や不満分子を徹底的に弾圧する恐怖支配を行っていましたが、チャウシェスク政権は「ヴラッドの恐怖支配のおかげでワラキアには犯罪者がいなかった。ヴラッドは社会革命の指導者である」と称賛しています。まさに、彼らにとって、ヴラッドはお手本だったのでしょう。

 共産政権の崩壊後もブラン城はルーマニア政府が所有していましたが、2006年になって、ルーマニア王家の末裔でニューヨーク在住の建築家、ドミニク・フォン・ハプスブルクに返還されています。これは、EUへの加盟とあわせて、ルーマニアが、スラブ・ロシアよりも、ハプスブルク家のヨーロッパとの関係が深かったことを示すためのパフォーマンスだったとみられています。

 いずれにせよ、誰もが知っている数少ない“ルーマニア人“としてのヴラッド・ツェペシュの評価は、その時々のルーマニア政府の姿勢と密接に結びついているわけで、そういった視点からルーマニア史を眺めてみるのも面白いかもしれません。

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 登録審査員による切手展
2008-06-21 Sat 10:48
 きょう・あす(21・22日)の2日間、東京・目白の切手の博物館で、<登録審査員による切手展 ’08>が開催されます。僕は、現在ルーマニアにいて東京にはいないのですが、今年3月のアジア国際切手展<TAIPEI08>に出品した作品“Making of Pacific-Asian Order from WWII to the EarlyPeriod of the Cold War”(邦題:“戦後”の誕生)を展示しています。そのなかから、現在、ブカレストに展示中の“A History of Hong Kong”でも使っているため、東京の会場ではカラーコピーの展示になっているものについて、ここでご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 英軍再上陸

 これは、第二次大戦直後、香港に再上陸したイギリス軍の野戦局から差し出されたカバーです。裏面には、香港から差し出されたことを示すNo222の印が押されていますので、そちらの画像も下にアップしておきましょう。

 カバー裏面

 第二次大戦中、香港は日本軍によって占領され、イギリスはその支配権を失いました。しかし、イギリスは、戦後、香港の支配を復活させることを露ほども疑っておらず、イギリス支配の中断を機会に香港を回収しようとする中国と対立していました。

 このため、1942年から始まった中国に対する不平等条約の改正交渉では、新界問題をめぐって英中間で激しい応酬がありましたが、最終的には中国側が妥協し、「戦勝後にその将来について再交渉する」というかたちで問題は棚上げされました。「九龍(新界)問題だけのために、新条約がふいになり、さらには連合国の団結にひびが入ることのないよう譲歩した」というのが蒋介石の弁です。
 
 もっとも、日本軍の降伏に際して中国が力ずくで香港を回収してしまえば、状況が一変する可能性は少なからず残されていました。

 1945年8月15日、昭和天皇が“終戦”を正式に発表すると、重慶政府は翌16日、香港の日本軍の降伏を受け入れるとの声明を発表。すでに8月11日、アメリカは中国に対して、北緯16度線以北の“中国戦区”内の日本軍は中国当局に降伏するようにとの命令を連合国軍最高司令官の名義で出すことを約束していました。ただし、中国は「香港における日本軍の降伏受理は中国戦区の統帥部が行うが、中国政府は香港に対してなんら領土的野心を持っておらず、香港の問題は最終的に外交交渉を通じて解決されるべきである」とイギリスに伝えており、新界の返還問題はとりあえず棚上げにする姿勢を示しています。

 すでに、終戦とともに中国大陸の各地では、日本軍の降伏受理をめぐって、国民党と共産党が激しい主導権争いを演じており、蒋介石としては、とりあえず香港で日本軍の降伏受理を行って、共産党との主導権争いを有利に進めたいとの思惑がありました。来るべき共産党との内戦に備え、共産党が旧日本軍を接収した地域で占領軍として居座るということだけは、何としても阻止したいというのが、彼の本音です。

 一方、蒋介石が共産党による占領の既成事実化を恐れたのと同様に、イギリスも蒋介石の軍隊が香港に駐留し、それを既成事実として香港に居座ることを恐れていました。

 このため、すでに1943年から、イギリスは香港計画局を設立し、戦後の香港統治再開に向けて動き出していたが、一九四五年五月には、中国軍の香港進駐を阻止するために香港計画局の軍備化に着手。1945年8月16日、赤柱の収容所で日本の降伏が発表された際、戦前の行政長官だったフランクリン・ギムソンは自分が香港の臨時総督であると宣言しています。

 これ受けて、8月20日、イギリス政府は、香港での日本軍の降伏受理はイギリス側が行うことを表明。結局、英中の対立は、中国政府が香港占領のために軍隊を派遣しないという前提の下、イギリス側が投降接受の委託を中国側から受けるという形式を取ることで妥協が成立。8月29日にイギリス軍が進駐することになったというわけです。

 なお、第二次大戦中の香港をめぐる米英中ソの連合諸国の駆け引きについては、拙著『香港歴史漫郵記』でもご説明しておりますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

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 EFIRO 開幕
2008-06-20 Fri 13:27
 今日から、世界切手展<EFIRO 2008>が開幕となります。というわけで、今日は“EFIRO”ネタということで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

EFIRO 1932

 これは、1932年11月20日から12月5日まで、ブカレストで開催された<EFIRO 1932>を記念して発行された小型シートです。

 EFIROというのは、ルーマニア語の“Expozitia Filatelica Romana”の略で、直訳すると“ルーマニア切手展”ということになります。1932年の展覧会は、ワラキアとモルドヴァが統一され、1862年には新国家が正式にルーマニアと称されてから70周年になるのを記念して開催されたもので、郵趣誌『フィラテリック・トリビューン』が企画・運営の中心となり、国王カロル2世の援助を得て開催されました。

 切手展の開催にあたっては、周知宣伝と開催資金の募集を兼ねて、ここでご紹介しているような寄付金つきの小型シートが発行されました。ちなみに、これがルーマニア最初の小型シートになります。

 さて、今回の展覧会には、僕は、オープン・クラス部門に A History of Hong Kong と題する作品を出品しています。今回の作品は、2004年に香港のアジア展に出品した同名の作品を全面的にリニューアルしたもので、マテリアルの概要は、昨年刊行の拙著『香港歴史漫郵記』をご覧いただければお分かりいただけるかと思います。

 オープン・クラスに関しては、日本でもスタンプショウでオープン切手展があり、僕も審査員をやっていますが、ほかの分野に比べて、いまいち諸外国の状況が伝わってこないのが実情です。そこで、今回、みずから参戦して、他国の作品をじっくり拝んでくるとともに、審査員との対話などを通じていろいろと研究してこようと考えたわけですが、さてさて、どうなりますことやら。

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 無事到着
2008-06-19 Thu 09:46
 さきほど、無事にブカレストに到着し、ホテルにチェックインしました。というわけで、ルーマニア上陸記念ということで、まずはこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

ルーマニア・大阪万博

 これは、1970年の大阪万博に際してルーマニアが発行したもので、塔の切手を収めた小型シートのように見えますが、注意深く観察してみると、目打で囲まれた塔の部分には額面は入っておらず、小型シートの地の部分に見えるところに5レイとの表示があります。したがって、形式上は、これ全体が1枚の切手ということになるんでしょうな。

 さて、切手に見える部分には、古河パヴィリオン(古河電工や富士通など、古河グループのパヴィリオン)として再現された東大寺七重塔の外観が描かれていますが、この切手で重要なのは、むしろその周囲にえがかれた、女性たちの絵です。これは、古河パヴィリオン内で行われていたアトラクションのひとつ、当時最新鋭の純国産コンピュータ(富士通製FACOM)を用いた「コンピュータ・ドレス・デザイナー」のサンプルを元に構成されたもので、そのまま、1970年当時の日本のさまざまな女性ファッションが描かれているのがミソです。

 いわゆる“ジャポニカ“切手で日本女性が取り上げられる場合、“ゲイシャ”や浮世絵など、伝統的な日本文化のイメージに合致した(と発行国が考えているもの)か、あるいは、著名人であることがほとんどで、ごくごくフツーの一般人の日常の姿が登場することはごく稀です。まぁ、切手というのは、ある意味で“ハレ”の場ですから、そもそも、近代化された日常の都市生活というのは題材になりにくいという面があるわけで、このことは、日本の切手にスーツ姿のサラリーマンがほとんど登場しないということからもお分かりいただけると思います。

 それゆえ、今回の切手のように、現実の日本女性の姿を切手上で正確に表現しようとしたケースというのは決して多くはありません。それゆえ、この切手は、1970年前後の日本の社会風俗の記録として、それなりに資料価値があるといってもよいでしょう。ただし、当時のルーマニア郵政としては、目打に囲まれた“切手”風の部分に描かれた塔こそが、外貨を獲得するための商品としての肝になると考えていたのでしょうけれど…。

 ところで、私事で恐縮ですが、僕の父親は長年、古河電工に勤めていました。その関係で、わが家には、二つ折りのタトウに入ったこの切手があり、子どもの頃、何度か両親から見せてもらったことがあります。おもえば、世界にはルーマニアという国が存在するということを僕が初めて知ったのは、まさにこの切手がきっかけだったわけですな。

 あれから30年以上が過ぎ、現在、実際にルーマニアの土地を踏んでいるわけですが、僕の脳内イメージにあるルーマニアと現実のルーマニアがどう違っているのか、そのあたりをこれから2週間で少しでも体感できたらいいな、と考えている内藤でした。

 なお、今回ご紹介のルーマニアの切手を含め、1970年の大阪万博に合わせて諸外国が発行した切手については、拙著『外国切手に描かれた日本』でもいろいろとご紹介しておりますので、よろしかったら、ご一読いただけると幸いです。

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 いざ突撃!
2008-06-18 Wed 09:10
 私事で恐縮ですが、今日(18日)から2週間ほど、ルーマニアのブカレストで開催される世界切手展<EFIRO 2008>に出品者として参加するため、日本を留守にします。今回は、2004年に香港のアジア展に出品したA History of Hong Kongの全面的なリニューアル作品をオープンクラスに出品するのですが、出発前に「いざ突撃!」という気分を奮い立たせるため、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 小磯良平の絵葉書

 これは、1943年12月8日に発行された「大東亜戦争記念報国葉書」の1枚で、小磯良平の戦争画「香港黄泥涌高射砲陣地奪取」が取り上げられています。

 1941年12月8日の日英開戦とともに香港への攻撃を開始した日本軍は、10日後の18日、香港島北岸に上陸を開始。イギリス側守備隊との激しい戦闘の末、19日未明までに渡海作戦を完了し、香港島北東部を確保しました。その後、日本軍は香港島南部、赤柱(スタンレー)の海軍基地へ向かう部隊と、島の中央部、大平山に立てこもるイギリス軍主力部隊を攻撃する部隊の2手に分かれて進撃を続けることになります。

 このうち、大平山に向かった部隊は、19日から23日にかけて、黄泥涌(ウォンナイチュン)ダム付近の通称“五叉路”で激戦を繰り広げました。

 この場所は、当時、香港島の北岸と赤柱の海軍基地を結ぶ唯一の道であった黄泥涌道が五方向に分岐する交通の要衝で、イギリス軍はここに高射砲の陣地を構えていたこともあって頑強に抵抗し、香港攻略線で最大の死傷者が出ています。この葉書もそうした黄泥涌の激戦を描いたもので、小磯良平の戦争画としては珍しく、直接的な戦闘場面を取り上げたものです。

 結局、12月23日に黄泥涌の高射砲陣地を陥落させた日本軍は、翌24日、この地の貯水池を征圧して香港島内の給水を停止させます。この結果、香港市街は全面断水に陥り、イギリス側の抗戦継続はきわめて困難となり、25日に香港のイギリス軍は降伏することになりました。このあたりの事情につきましては、拙著『香港歴史漫郵記』をご覧いただけると幸いです。

 僕の今回の作品も、この葉書にあやかって、1週間後には勝利の吉報を手にしたいものです。

 なお、展覧会の実質会期は20日から27日までなのですが、作品搬入の都合上、前日までには現地入りしないといけないので、きょう(18日)の便で出発します。また、ルーマニアという滅多に行けない国への旅ということで、昨年の『タイ三都周郵記』に続く切手紀行シリーズの本を作る企画が持ち上がっているため、その取材旅行も兼ね、会期終了後もルーマニア国内を少し回ってくるので、帰国は7月2日のお昼頃(現地発は1日)の予定です。

 この間、ノートパソコンを持っていきますので、このブログも可能な限り更新していく予定ですが、諸般の事情で記事の更新が遅れたり、そもそも書けなかったりすることもあるかと思います。その際は、あしからずご容赦ください。
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 旧RCDのきずな
2008-06-17 Tue 10:46
 イラン南東部で武装麻薬密輸団に誘拐された横浜国立大生、中村聡志さんが先週。およそ8ヶ月ぶりに解放され、今夜帰国だそうです。まずはメデタイといったところですが、今回の事件解決までにはイランとパキスタンの連携があったという話がニュースに出ていましたので、こんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 RCD 10周年

 これは、1974年7月21日にイランが発行した“開発のための地域間協力協定(Regional Co-operation for Development Pat:一般にRCDと略される)”10周年の記念切手で、右から順に、協定の締約国であるイラン・トルコ・パキスタン三国の絨毯が取り上げられています。

 RCD体制は、東西冷戦時代の1964年、反ソ包囲網を構成していた西アジアの非アラブ系3ヵ国(イラントルコ・パキスタン)によって構成されたもので、実質的に西アジアにおける親米国家同盟といった趣を持っていました。1970年代には、各国で絵画やモスク、遺跡などの文化遺産を題材にした切手が協定の調印記念日(7月21日)に合わせて発行されており、3国の友好関係をうたい上げる手段となっていました。

 ところが、1979年にイラン・イスラム革命が勃発すると、イラン外交は反米路線へと転換。革命直後の1979年こそ、すでに準備されていたRCD切手は発行されましたが、1980年以降、RCD体制そのものがうやむやになってしまいました。

 その後、RCDは1985年に“経済協力機構(ECO)”として復活しましたが、隣接するアフガニスタンの内戦が、実質的にイランとパキスタン(およびその他の反イラン諸国)の代理戦争のような状況となり(イランの支援するラッバーニー、イランとパキスタンの関係は冷却化しました。

 ところで、現在のイラン外交は、テロ、麻薬密売、大国による介入の3点を国家と地域の安定に対する重大な脅威として、その排除に力を注いでいますが、そのためにはパキスタンとの連携を許可する必要があります。このため、今回の中村さん誘拐事件に関して、麻薬密輸団の討伐という大義名分は、両国の関係改善のきっかけとして格好のものとなったようです。

 実際、イランのアフマディネジャド大統領は、事件発生後の4月下旬、パキスタンなど南アジアを初めて歴訪。イランからパキスタンを経由しインドに至る天然ガスのパイプライン敷設計画の推進で基本合意しており、事件解決へ向けての連携を通じて、両国の信頼関係が醸成されたことがうかがえ、興味深いものがあります。

 ちなみに、現在のECO加盟国は、RCD時代のイラン・トルコ・パキスタンに加え、中央アジア5ヶ国にアゼルバイジャンとアフガニスタンを加えた11ヶ国となっています。これらの国々が、かつてのRCD切手のように、いっせいに加盟国の文化財を取り上げた切手を発行したら、さぞや壮観でしょうな。

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 自動車残酷物語
2008-06-16 Mon 23:27
 きょう(6月16日)は、1903年にヘンリー・フォードがフォード・モーター・カンパニー(いわゆるフォード社)を創設した日だそうです。というわけで、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 ソ連・フォーディズム批判

 これは、おそらく1920年代のソ連で作られたプロパガンダ葉書で、アメリカ資本主義の象徴としてのヘンリー・フォードを揶揄したものです。 

 フォード社は、ベルトコンベアに代表される大量生産システムで自動車のコストダウンに成功し、1908年に発売を開始したT型車は、1927年までの間に1500万7033台を売り上げ、自動車の大衆化を実現。1927年に新型のA型車が発売されたときは、そのことがアメリカで年間の10大ニュースに選ばれるようなビッグニュースになるほどの国民的企業へと発展しました。

 その一方で、作業の機械化と分業によって生産性の向上を目指そうとするフォーディズムは、チャップリンが1936年の映画『モダン・タイムス』で指摘したように、労働者の人間性を大きく犠牲にするものでもありました。じっさい、当時のフォードの工場では、1920年代も半ばになると、連日の単純作業に精神的な苦痛を感じた労働者が、毎日、数十人単位で辞めていったといわれています。

 当時、フォード社(およびその系列会社)の商品の品質が優れたものであることは否定できなかったソ連にとって、フォーディズムの欠陥が資本主義社会においても指摘されるようになったということは、“労働者の国家”として、資本主義に対する社会主義の優越性を主張するうえで大きなポイントとなったことはいうまでもありません。

 今回ご紹介の絵葉書も、そうした文脈に沿って制作されたもので、死神の運転するフォード車に乗るヘンリー・フォード(フォード社の社長)のカリカテュアが描かれており、“悪魔に魂を売ったフォード”を揶揄する内容となっています。

 さて、いわゆるワーキング・プア問題が社会的に深刻なものとなり、『蟹工船』がベストセラーになっている状況をみると、フォードに始まる工場での単純労働者をめぐる“残酷物語”が、けっして過去のものではないことを思い知らされて、慄然とさせられます。特に、先日の秋葉原の事件の犯人は、自動車部品工場で働いていた派遣労働者で、生活の不安から自暴自棄になり、あのような凶行に及んだのではないかという話は、もっと深刻に受け止められるべきではないかと思います。

 もちろん、僕は秋葉原の事件の犯人を擁護するつもりはありませんし、彼に対する処罰は極刑以外にあり得ないいと考えていますが、いままで、ワーキングプアの問題が幾度となく話題に上りながらも、あの事件が起こるまで、誰も抜本的な解決策を真剣に考えようとしなかったことは大いに問題だったと思います。社会に対して疎外感を感じているワーキングプアの人たちの中には、「自分たちがどれほどデモをやり、署名運動をやっても、誰も自分たちのことに注目しなかった。しかし、秋葉原の事件が一件起こっただけで、少なくとも社会は自分たちに注目するようになった。そうであるならば、テロというのは、実は、弱者の主張を訴える上で、やはり、効果的な手段なのではないか・・・」などと考える人が出てきてもおかしくはありません。じっさい、かつての“パレスチナ・ゲリラ”たちのなかには、似たような発想から、パレスチナへの世界の耳目を集めるために無差別テロを展開していたグループもあるのですから・・・。

 もっとも、『蟹工船』なりマルクスなりを読んで、本当に理解して感化されるという若い人たちがそれなりの数いるというのであれば、それはそれで、彼らの知的水準が一定のレベルをクリアしていることの証左として歓迎すべきことなのかもしれませんがね。

 なお、今回ご紹介したのと同じような、ソ連のプロパガンダ絵葉書については、以前の拙著『反米の世界史』でもいくつかご紹介したことがありますので、機会がありましたら、ぜひ、そちらもご覧いただけると幸いです。

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 CasaBRUTUS
2008-06-15 Sun 22:52
 今月10日発売の雑誌『CasaBRUTUS(カーサブルータス)』特別号は、「世界に自慢したい!ニッポンのモダニズム建築100」と題する特集が組まれていますが、その中のひとつに東京中央郵便局も取り上げられていて、僕も簡単なインタビューに答えています。というわけで、東京中央局がらみのネタとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 世界コミュニケーション年

 これは、1983年10月に発行された世界コミュニケーション年の記念切手の1枚です。

 1981年の第36回国連総会において、「コミュニケーションの発展に関する政策の深い考察および分析を行う機会とし、通信インフラストラクチャーの発展を促進する」ことを目的に、1983年を“世界コミュニケーション年”(World Communication Year:WCY)とすることが決議されました。これを受けて、わが国でも記念切手を発行することになり、世界コミュニケーション年国内委員会の主催、郵政省の後援、文部省、通産省、全日本郵便切手普及協会、日本郵便友の会協会の協力により、「世界コミュニケーション年切手デザインコンクール」が開催され、図案が公募されることになりました。

 その結果、小中学生の部で特賞を受賞した春日井恵子(愛知県豊田市立若園中学校)の作品「世界を結ぶ子どもたち」が、今回ご紹介の切手として発行されました。この作品は、地球上の3人の少女が“誰にでも平等に降りそそぐエネルギーを持つ太陽”を支えており、人間は皆仲良くしたいとの気持ちを表現したもの、ということです。

 さて、この切手の発行にあわせて、東京中央局の前には、「世界を結ぶ子どもたち」の銅板レリーフを取り付けた記念ポストも設置されました。(下の画像)

 コミュニケーション年ポスト

 ポストが設置されている入口の全景はこんな感じです。

 ポスト遠景

 東京中央郵便局の局舎をめぐっては、同局の再開発計画が進められる中で、初期モダニズム建築の傑作として保存運動が展開されていますが、局舎本体の行く末が不透明な中で、このポストの運命なんて塵芥も同然ということになるんでしょうかねぇ。まぁ、大したポストではないといってしまえばそれまでですが、ちょっとさびしい気もしますな。

 なお、世界コミュニケーション年は、政府が内閣総理大臣(中曽根康弘)を本部長とする推進本部(事務局は郵政省内)を設置するほどの大々的なイベントでしたが、その詳細については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でまとめてみましたので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 岩手ゆかりの高山植物
2008-06-14 Sat 10:44
 きょう(14日)午前8時43分ごろ、東北地方で強い地震がありました。気象庁によると震源地は岩手県内陸南部、震源の深さは約10キロ、地震の規模を示すマグニチュードは7.0と推定されるそうです。被災者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。

 さて、お見舞いにはお花、ということで、震源地の岩手県がらみの花の切手ということでこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ナンブイヌナズナ

 これは、1985年2月28日、高山植物シリーズの第4集として発行された「ナンブイヌナズナ」の切手です。

 ナンブイヌナズナはアブラナ科の多年草で、北海道の夕張山、戸鳶別岳と岩手県の早池峰山など、蛇紋岩地帯の高山の小石の多い場所に生育しています。丈は10センほどで、根茎をよく分枝させ密生します。6-7月頃、茎の先にレモンイエローの花を穂のようなかたちでつけ、茎には毛が多いのが特徴です。

 学問的な意味で、ナンブナズナを発見したのは、ロシアの植物学者カール・ヨハン・マクシモビッチで、彼により、Draba japonicaとの学名が付けられました。

 マクシモビッチは、“東亜植物学の父”と呼ばれる人物で、アムール川地方や沿海州などの植物を調査。1860年には函館に来日し、箱館山および近辺の植物を採取して日本産の植物を採集・命名しました。1864年に帰国した後は、帝政ロシアの帝国植物園学術部長を務めています。

 ところで、マクシモビッチは、彼の下働きをしていた須川長之助(岩手県紫波町出身)にも植物の採集整理の技術を教えました。須川は、マクシモビッチの帰国後、幕末維新の混乱期にあった日本国内の採集旅行を続け、その押し葉標本を多数ロシアに送りましたが、そのうちの一つで新種として彼の名前がつけられたのが、おなじく、高山植物シリーズの第4集に取り上げられたチョウノスケソウ(下の画像)です。

チョウノスケソウ

 チョウノスケソウはバラ科の草木状小型常緑性低木で、本州中部以北や北海道の高山の岩場や崩壊地などに生えています。枝は地を這うようにして伸び、葉は広い楕円形で裏側に白い毛が入った特徴あるもので、7-8月に8枚前後の花弁を持った直径3センチほどの白い花を咲かせます。
 
 なお、今回ご紹介の切手を含む高山植物シリーズについては、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』で解説しておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

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 世界のダム:バークラ・ダム
2008-06-13 Fri 11:12
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の6月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の世界のダム」では、今回はこの1枚を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 バークラダム

 これは、1967年3月15日にインドで発行された5ルピーの通常切手で、バークラ・ダムが取り上げられています。

 チベット南西部のランカ湖に発するサトレジ川は、インド北西部をヒマラヤ山脈に沿って流れる1400キロの大河で、インダス平原でインダス川と合流します。

 1947年にイギリスから独立したインドは、早速、治水・灌漑・発電を目的としたサトレジ川の総合開発、バークラ・ナンガル計画に着手し、1948年からダムの建設に着工。15年の歳月を費やして1963年に高さ226メートルのバークラ・ダムを完成させました。ダムによってもたらされた4万平方キロの灌漑はパンジャブ地方にいきわたり、インド随一の小麦・麦の一大穀倉地帯を支えています。なお、ダムによる人造湖、ゴビンドサガル湖はこの地域最大の湖です。

 近年、インド経済の急速な成長に伴い電力需要は激増していますが、CO2削減を目指す必要から、石炭火力をどこまで他のエネルギー源に置き換えられるかが大きな課題となっています。このうち、水力に関しては、インドは潜在的に14万8701MWの発電能力があるとされていますが、現時点ではその70%が未開発のままになっています。このため、インド政府は2008年から2011年までの第11次5ヵ年計画で、とりあえず1万6553MWの水力を開発することにしています。

 その一環として、バークラ・ダムにあわせて1961年に建設された水力発電所については、バークラ渓谷管理会社(ダム管理のため、インド北部の4州が共同で運営)が日本の住友商事と日立製作所に水力発電所の増強工事を発注したことが先日報じられました。工事は今夏に始まり、2012年に完成の予定といわれています。

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 フィリピンの独立記念日
2008-06-12 Thu 21:38
 今日はフィリピンの独立記念日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 アギナルド政府の切手

 これは、1898年、フィリピンのアギナルド政府が発行した切手です。

 フィリピンでは、1896年8月、スペインからの独立を求める革命が勃発しましたが、革命側は内紛が続き、戦況は一貫してスペイン有利に展開されていました。こうした状況の下で、1897年5月、革命派内の主導権を掌握したエミリオ・アギナルドは、ともかくも、自らを大統領としてフィリピン共和国(総司令部の置かれていた地名にちなみ、ビアクナバト共和国とよばれることもあります)の成立を宣言するのですが、最終的にスペインと妥協し、半年後の12月20日、80万ペソ(40万米ドルに相当。ただし、この段階でスペイン側がアギナルドに支払ったのは半額の40万ペソ)の補償金と引き換えに香港へ亡命。革命はいったん終結します。

 ところが、皮肉なことに、アギナルドの亡命後、革命戦線はフィリピン全土に急速に拡大。さらに、1898年には米西戦争が勃発し、スペイン領フィリピンに狙いを定めたアメリカは、アギナルドらを支援して、フィリピンからスペインを放逐することを考えました。

 当初、アメリカ側はアギナルドらに対して独立の口約束を与え、これを信用したアギナルドらは亡命先の香港から帰国し、1898年5月24日、「偉大かつ強力なるアメリカ合衆国が、この国の自由の確保のために、利害抜きの保護を提供してくれたので」スペイン軍を殲滅して憲法を制定し、政治の組織を完成するまでの間、みずからを総帥とする独裁政府を樹立すると宣言。6月12日には、アギナルドの私邸で独立宣言が行われ、アメリカの独立宣言にならった宣言文が読み上げられたほか、国旗・国歌も正式に披露しています。さらに、アギナルド政府は、8月1日には各地の議員選挙を行い、本部をカビテからマニラ北方のマロロスに移し、フィリピン人のみの第一議会を招集。9月29日には正式に初代大統領に就任しました。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の中で、革命政府が自己の存在を内外にアピールするために発行したもので、太陽と三ッ星という彼らのシンボルがデザイン化されています。

 しかし、アメリカはアギナルドを裏切り、革命政府抜きでスペインとの講和を進め、同年12月10日、パリで講和条約を調印。この結果、アメリカはフィリピンを2000万ドルで買収することが決定され、アメリカは“友愛的同化”をスローガンとする植民地支配をスタートさせることになります。
 
 結局、フィリピンがアメリカから独立するのは第2次大戦後の1946年7月4日のことでした。ただし、現在のフィリピン政府は、この7月4日ではなく、1898年にアギナルドが独立を宣言した6月12日を独立記念日として祝っています。

 なお、このあたりの経緯については、拙著『反米の世界史』でもまとめてみたことがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 シベリア鉄道で運ばれた葉書
2008-06-11 Wed 16:39
 映画評論家の水野晴郎さんが亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 さて、水野さんといえば、やはり「シベリア超特急」ということで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 シベリア鉄道

 これは、1912年5月27日、満洲里から差し出された葉書で、ロシアの中東鉄道(東清鉄道)からシベリア鉄道を経て、イルクーツクを経由して運ばれています。

 日清戦争後の1896年、三国干渉によって日本から遼島半島を還付させたロシアは、その見返りとして、モスクワ=ウラジオストック間を結ぶシベリア鉄道の短絡線として、チタ=満洲里=綏芬河=グロデコヴィというルートを通って満洲の地を横切る東清鉄道(清朝の東という意味で“東清鉄道” と呼ばれた)の敷設権を獲得します。

 東清鉄道の本線は満州里からグロデコヴォ間の1510キロでしたが、シベリア鉄道本線と連結させるために、西側には満州里とキタイスキ・ラズエズトーを結ぶザバイカル鉄道(355キロ)、東側にはグロデコヴォとニコリスク・ウスリスキーを結ぶウスリー鉄道(97キロ)も建設されます。また、ロシアが1898年に旅順・大連を租借すると、東清鉄道の途中駅であった哈爾浜から長春=奉天=大連を経て旅順へといたる772キロの南満洲支線も建設されました。

 1905年、日露戦争で勝利を収めた日本は旅順と大連を中心とした遼島半島先端部を“関東州”として租借し、東清鉄道のうち、寛城子(長春)=大連間の鉄道経営とそれに付随する諸権利、ならびに安東(丹東)=奉天間の鉄道(安奉線)の経営権を獲得。これが、いわゆる南満州鉄道のルーツとなります。

 一方、東清鉄道(1912年に中華民国が成立した後は、“中東鉄道”と呼ばれるようになります)のうち、長春以南はポーツマス条約によって日本に譲渡されたものの、長春以北の1732.8キロの区間に関しては、日露戦争後も、帝政ロシアが営業権のみならず沿線の鉱山権や林業権も含めて保持しており、その経営権はロシア革命後はソビエト政府に維持されています。

 これに対して、中国側は中東鉄道の利権回収を強く主張し、1929年には東北軍閥の張学良が強引に鉄道を回収しようとしましたが、ソ連側の反撃により手痛い打撃を被っています。このため、1931年の満洲事変の際にも、関東軍は長春以北へは容易に進軍できず、1935年9月に満鉄が中東鉄道を買収するまで、満洲域内の鉄道網は、長春を境界として、ソ連と日本が勢力を二分する状況が続くことになりました。

 なお、満鉄と郵便については、拙著『満洲切手』でもその概要についてご説明したことがありますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。

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 九龍の時計塔
2008-06-10 Tue 23:00
 今日は時の記念日。というわけで、時計ネタのなかから、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 九龍時計塔(香港小型)

 これは、1996年に英領香港で発行された香港アジア国際切手展<香港97>の記念小型シートで、シートの地の部分には、九龍駅(当時)の時計塔がはっきりと見えます。九龍市街地の方から見た時計塔については、以前の記事でも取り上げたことがありますが、今回は、海よりの方向から見た写真です。

 時計台のあった旧九龍駅は、香港の九龍と中国の広州を結ぶ九広鉄路の始発駅でした。

 1898年、イギリスが新界を租借したことに伴い、九龍半島の先端から広州までの鉄道の敷設権がイギリスに付与されますが、これを受けて、イギリスと清朝との間で鉄道建設のための具体的な話し合いが進められます。その結果、広州の羅湖にある深圳河の国境を境に、香港側の35.5キロ(英段)をイギリスが、広州側(華段)の143.2キロを清朝が、それぞれ、分担して建設することになりました。

 開通当時の英段の駅は、九龍(尖沙咀)、油麻地(後に旺角)、沙田、大埔、大埔墟、粉嶺です。現在、九広鉄路・九龍側の始発駅は尖沙咀の東側、尖東になっていますが、当時は尖沙咀のスターフェリーの乗り場のすぐ脇が駅になっていました。この点については、今回の小型シートの写真でもお分かりいただけると思います。駅の移転後も時計塔が取り壊されずに残ったのは、塔が九龍側のランドマークとして人々の生活の中に定着していたためです。

 ちなみに、ときどき、「九広鉄路から粤漢鉄路(広州=漢口間)、京漢鉄路(北京=漢口間)、シベリア鉄道を経て香港からロンドンまでの直通列車が走っていた」と記述しているガイドブックがあるのですが、九広鉄路の広州のターミナル駅は広州市東部の大沙頭にあり、その西部にあった粤漢鉄路のターミナル駅、黄沙駅とは離れていますから、厳密にいうと、この記述は正確ではありません。

 さて、現在、6月18日からルーマニア・ブカレストで開催の世界切手展EFIROのオープン・クラスに、A History of Hong Kong と題する作品を出品すべく、最終作業に追われています。今回の作品は、2004年に香港で開催されたアジア展に出品した作品を全面的にリニューアルしたものですが、来週18日の出国ギリギリまで粘って、できるだけ良い作品に仕上げたいと思っています。

 現時点では、ブカレスト版のA History of Hong Kong を国内で公開する予定はないのですが、その中身は、 昨年刊行の拙著『香港歴史漫郵記』をほぼ踏襲したものとなっていますので、ご興味をお持ちの方は、ぜひ、拙著の方をご覧いただけると幸いです。

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 大統領になりそこなった男たち:ヘンリー・クレイ
2008-06-09 Mon 20:12
  雑誌『中央公論』7月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は、19世紀前半のアメリカを代表する政治家で、ロバート・タフトとともにフェイマス・ファイブ”(アメリカ史上もっとも偉大な上院議員5人)の一人に挙げられているヘンリー・クレイを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 ヘンリー・クレイ

 ヘンリー・クレイは、独立宣言翌年の一七七七年、バージニア州で生まれました。

父親のジョンは地元では名の知られたバプテスト派の牧師だったが、ヘンリーが四歳の時に亡くなった。実の父親は彼が4歳の時に亡くなりましたが、9人の子供たち(ヘンリーはその7番目)には奴隷を2人ずつ、妻のエリザベスには18人の奴隷と464エーカー(190万平方メートル弱)を遺産として残していたことに加え、エリザベスはほどなくして再婚しており、父親を亡くしたヘンリーが生活に困窮するということはなかったようです。

 初等教育を終えた後、クレイは民事裁判所の小僧になりますが、そこで法律に対する抜群の理解力を示したことで、判事のジョージ・ワイトの秘書に抜擢されます。ワイトはクレイを気に入ってかわいがり、彼自身が教鞭をとっていたバージニア州のウィリアム・メアリー大学で正規の法学教育を受けさせ、1797年、クレイは20歳で弁護士資格を取得しました。

 弁護士資格を取得したクレイはケンタッキー州のレキシントンに移って弁護士としての実務経験を積み、すぐに腕のいい若手弁護士として知られるようになります。そして、1803年にケンタッキー州の下院議員に、さらに、その後は連邦議会に議席を獲得。“アメリカン・システム”の名の下、工業化の促進と政府主導の公共事業によるインフラの拡充、輸入品への高関税による国内産業の保護を主張して長年にわたり上下両院に議席を維持し、下院議長も通算6期務めています。

 さて、クレイが初めて大統領を目指したのは1824年の選挙でした。当時、連邦議会には民主共和党しか政党が存在していませんでしたが、同党からはクレイのほか、アンドリュー・ジャクソン、ジョン・クインシー・アダムズ、ウィリアム・クロフォードの計4名が立候補。一般投票ではジャクソンが99人の選挙人を獲得し、84人獲得のアダムズが次点となりました。しかし、ジャクソンの獲得選挙人も過半数に満たなかったため、選挙は下院での上位3名による決選投票に持ち込まれます。

 ここで最下位のクレイは脱落するのですが、たまたま彼は下院議長として選挙を仕切る立場にあったため、ジャクソンを追い落とし、アダムズの逆転勝利を後押ししています。その論功行賞として、アダムズ政権の発足とともに、クレイは次期大統領への最短ポストといわれた国務長官に指名されました。

 おさまらないのはジャクソン陣営で、彼らはクレイとアダムズの“裏取引”を非難。政治的主張の相違もあって、選挙後、民主共和党はジャクソンの民主党とアダムズ、クレイの国民共和党に分裂することになります。これが、現在の民主・共和両党の原型になりました。

 その後、クレイは、1832年には国民共和党候補として、また1844年にはホイッグ党(1834年に国民共和党が改名)候補として、民主党候補(1832年はジャクソン、1844年はジェームズ・ポーク)と大統領の座を争っていますが、いずれも当選は果たせず、党の候補指名を逃した1840年ならびに1848年も含めると、計5回の大統領選挙に挑戦して全敗するという稀有の記録を残しています。

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 チチハルからの葉書
2008-06-08 Sun 11:41
 中国黒竜江省斉斉哈爾(チチハル)市で5日に有毒ガスが漏れ、3人が死亡する事故がありました。当初、一部のメディアは旧日本軍の遺棄化学兵器であるかのように報じていましたが、結局、問題のガスは旧日本軍とは何の関係もなかったことが明らかになりました。まぁ、なんだかなぁ…というお騒がせニュースですが、斉斉哈爾がらみということで、今日はこんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 チチハルの葉書

 これは、満洲国時代の1943年7月3日、斉斉哈爾から福岡県宛の葉書です。消印には、斉斉哈爾の属する“龍北(省)”の文字も小さく入っています。使われている葉書は、満洲国の建国10周年にあたる1942年9月15日に発行された“一徳一心葉書”と呼ばれるもので、下部には“死生存亡斷弗分攜”の標語が入れられています。

 満洲国では、1942年3月1日、郵便料金が改正され、葉書料金は2分から3分に値上げされましたが、あらたに新料金用の葉書である一徳一心葉書は、料金改正から半年以上も過ぎてから、ようやく、発行されました。

 葉書の印面は、日本の象徴である菊と満洲国の象徴である蘭をならべて“一徳一心”のスローガンを入れたもの。ここでいう“一徳一心”とは、1935年に最初の訪日から帰国した溥儀が発した“囘鑾訓民詔書”の一節、「朕、日本天皇陛下ト精神一体ノ如シ爾衆庶等更ニ當ニ仰イテ此ノ意ヲ休シ友邦ト一徳一心以テ両国永久ノ基礎ヲ奠定シ東方道徳ノ真義ヲ発揚スヘシ」からとったスローガンで、ここでは、日本と満洲国が一体であり、日本の戦争に満洲国が協力するのは義務であるという主旨で使われています。

 一方、下部に入っている“死生存亡斷弗分攜”の標語は太平洋戦争の開戦時に溥儀が発した詔書の一節「死生存亡斷シテ分攜セス」を引用したもので、やはり、日満両国は生きるも死ぬも一体であることを訴えたものといえます。その意味では、日満の一徳一心を表現した印面のデザインを補強するようなものといってよいでしょう。

 なお、一徳一心葉書の下部に入っている標語には、中文4種・和文4種のバリエーションがありますが、その内容や歴史的背景などについては、拙著『満洲切手』でご説明しておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

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 大統領杯サッカー
2008-06-07 Sat 11:10
 きょう(6月7日)から、スイスとオーストリアの共催で、サッカーのUEFA欧州選手権2008がスタートするということで、グーグルのトップページはサッカーの画像になっていました。というわけで、欧州ネタではありませんが、7月1日付で福村出版から刊行予定の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』のなかから、こんなサッカー切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 朴大統領杯

 これは、1971年5月2日に発行された“朴大統領杯争奪アジアサッカー大会”の切手です。一見、なんの変哲もないサッカー切手に見えますが、切手の発行日と“朴大統領”の文字がミソです。

 1967年の大統領選挙以来、韓国では、ポスト朴正煕問題が重要な関心事となっていました。当時の韓国の憲法では、1960年に退陣した李承晩長期政権が腐敗の温床となっていたことへの反省から、大統領の三選は禁じられていたからです。

 結局、この問題に関しては、朴正煕は憲法を改正して三選を目指すことを選択。1969年1月1日には、共和党議長代理の尹致暎が、「韓国の歴史始まって以来の偉人である朴正煕大統領に引き続き政権を担当させるためには改憲が必要である」と発言したのを皮切りに、1968年に北朝鮮が起こしたいくつかの事件を背景に、北朝鮮の挑発に備えつつ、近代化を達成するためには強力なリーダーシップが必要であり、その任を果し得るのは現職の朴大統領しかいない、との世論誘導が行われるようになっていきます。

 当然、野党側は大統領3選のための改憲に強く反対しましたが、政府・与党は資金力・組織力・行政力をフル活用して、10月17日の国民投票で661万5000票もの賛成票(ちなみに、反対票は315万7000票)を獲得し、改憲を実現させています。なお、憲法改正案が、国民投票の結果、大差で可決された背景には、政府・与党による活動もさることながら、朴政権の近代化政策が全体としては一定の評価を得ていたことをふまえ、改憲の是非を朴正煕個人に対する信任・不信任と結びつけるという戦術が効を奏した結果とみることができましょう。

 こうして、1971年4月27日の選挙での朴大統領は三選を果たすわけですが、その強引なやり方には国民の批判も多く、野党候補の金大中は予想外の健闘をおさめています。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で投票日から1週間と経たない5月2日に発行されたもので、企画・制作は大統領選挙のさなかに進められていたことは明らかです。もちろん朴正熙が仮に選挙で破れて“前大統領”となったとしても、大会に“朴大統領杯”の名称を使えないわけではありませんが、やはり、切手を発行する側としては、選挙で順当に勝利をおさめて現職大統領として大会を迎えるというのが望ましいのはいうまでもありません。逆に、そういうリスクを冒してまで、選挙の直後に“朴大統領杯”の冠名称がついた大会を企画し、記念切手まで発行しようというのは、与党候補として、ありとあらゆる手段を用いることで、絶対に当選する自身が無ければ、なしえない企画でしょう。このあたりは、まさに、開発独裁政権の負の側面が強く出た結果といってよいと思います。

 漢江の奇跡と呼ばれた高度経済成長と、強権的な政治手法と人権抑圧という、朴政権時代の光と影は、いずれも、当時の韓国切手にさまざまな痕跡を残しているのですが、7月1日付の拙著『韓国現代史』では、それらをいろいろな角度から読み解いています。同書の詳細につきましては、追ってまたこのブログでもご案内してまいりますが、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 顕忠日
2008-06-06 Fri 14:45
 6月6日は、韓国では国家のために殉じた人に敬意を表する祝日・顕忠日です。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 顕忠日

 これは、1961年に発行された”顕忠日”の切手です。

 顕忠日は、もともと、朝鮮戦争の戦没将兵を追悼し顕彰するために、1956年に“顕忠記念日”として制定されました。したがって、この記念切手はその5周年の節目に発行されたことになります。なお、現在のような祝日(公休日)となったのは、朴正熙時代の1970年のことで、このときに祝日としての名前も“顕忠日”と改称されています。

  この切手が発行される直前の1961年5月16日、朴正熙の軍事クーデター(“5・16革命”)が発生していますが、切手の発行計画は、クーデター以前の張勉政権時代に企画されたものです。

 張勉政権は、李承晩の独裁体制が1960年4月に学生革命によって倒れた後、同年8月に発足しました。このため、混乱を収拾して社会的安定を回復することが最大の課題でしたが、同政権は、与党・民主党内の新旧両派の深刻な対立を解消できず、政権基盤はきわめて脆弱でした。一方、李承晩政権打倒の主役となった学生たちの勢いは一向に衰えず、張勉政権にも批判の矛先を向けるようになっていきます。

 これに対して、北朝鮮は学生たちの運動を「李承晩徒党のファッショ・テロ統治を撤廃するための英雄的ソウル学生、市民たちの大衆的蜂起」として評価。順調な社会主義建設をアピールしつつ、張勉政権に対して南北対話を呼びかけることで、韓国内の「反帝・反封建民主主義革命」を促し、「平和的統一」のイニシアティブを取ろうとしました。こうした北朝鮮側の宣伝攻勢は、学生たちに好感をもって迎えられ、急進化した学生たちは、「板門店で会おう」とのスローガンを掲げ、「民族統一全国学生連盟」を結成して自主統一運動を展開していくことになります。

 一方、北朝鮮からの攻勢に対して、張勉政権は、李承晩時代の清算と併行して、1960年11月19日、朝鮮戦争を引き起こした金日成を断罪し、国連の決定と大韓民国の主権への服従を要求する声明を発表。急進派学生を媒介に韓国内への影響力拡大をはかろうとする北朝鮮を牽制しています。顕忠日の切手発行も、こうした文脈に沿って計画されたもので、学生や世論の中に、北朝鮮に同調しかねない動きが出てきたことを警戒した政府が、あらためて、朝鮮戦争の惨禍を国民に思い起こさせ、そうした動きを戒めようとしたためと考えてよいでしょう。

 ところで、朝鮮戦争は北朝鮮の侵略によって始まったものですが、北朝鮮側は韓国とアメリカを“侵略者とその傀儡徒党”として非難しています。しかし、そうであっても、顕忠日に韓国政府の要人が国立墓地で行われる式典に参加することを非難することはないでしょう。朝鮮戦争に人民志願軍を派遣して、韓国・国連軍と戦った中国も同様と思われます。また、韓国側も、北朝鮮の侵略を非難はするものの、北朝鮮側が自国の兵士の犠牲弔うことについてクレームをつけたりはしないでしょう。

 そうであるならば、なぜ、彼らは日本の靖国神社だけを目の敵にするのか、どなたか合理的な説明をしていただきたいものです。

 ところで、2002年から2007年にかけて、週刊『東洋経済日報』に連載していた「切手で見る韓国現代史」が、『韓国現代史:切手でたどる60年』として7月1日付で福村出版から刊行されることになりました。詳細につきましては、追ってまたこのブログでもご案内してまいりますので、よろしくお願いいたします。

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 熱気球の日
2008-06-05 Thu 14:58
 6月5日は、いまから225年前の1783年6月5日、フランスのモンゴルフィエ兄弟が世界初の熱気球の公開飛行を行ったことにちなみ、“熱気球の日”なんだそうです。というわけで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ガボン・モンゴルフィエ

 これは、1973年5月3日、中部アフリカの大西洋に面した国・ガボンが“航空の歴史”として発行した切手の1枚で、モンゴルフィエ兄弟の気球が取り上げられています。モンゴルフィエ兄弟の気球を取り上げた切手はいろいろとありますが、これはその中でもかなり出来の良い部類に入るのではないかと思います。

 モンゴルフィエ兄弟は、フランスのリヨンの南方の町アノネーで製紙業者の家に生まれました。幼い頃から紙に親しんでいた彼らは、焚き火をした際に発生する煙を紙袋に溜めると、紙袋が浮かび上がることに気がつき、袋を大型にすれば、人も浮かび上がることができるのではないかと考えるようになったのだそうです。

 その後、1782年頃から、兄弟は絹や麻布を材料に飛行試験を行うようになり、1783年には地元のアノネーでリンネル製の袋を使って最初の公開飛行を行います。このとき、袋は1600-2000mまで上昇し、2Kmの距離を約10分に渡って滞空しましたが、これが“熱気球の日”の起源となりました。

 その後、兄弟の評判は宮廷にまで届き、1783年9月19日には、当時のフランス王ルイ16世を前にしての“御前飛行”も行われます。教科書などには、このときの模様がしばしば取り上げられています。ちなみに、このときは有人飛行ではなく、ヒツジ、アヒル、ニワトリが気球から吊り下げられた籠に入れて飛ばされています。
 
 最初の有人飛行が行われたのは、9月の御前飛行が成功した後、同年11月のことです。ただし、このとき気球に乗ったのは、モンゴルフィエ兄弟ではなく、ピラトール・ド・ロジェとフランソワ・ダルランドの2人でした。このとき、気球は100mまで上昇し、パリ上空の9Kmの距離を25分間に渡って飛行しました。背景にパリの町並みが見えるところを見ると、今回の切手の絵はこのときの様子を描いたものなのかもしれませんね。

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 虫歯予防デー
2008-06-04 Wed 10:35
 今日(6月4日)は“虫歯予防デー”。というわけで、ストレートに“歯”の切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 世界歯学大会

 これは、1983年11月14日に発行された“第71回世界歯学大会”の記念切手です。

 世界歯学大会は、国際的な学術情報の交換、歯科保健福祉の向上、歯科医師の親睦を目的にとして、1900年に創設された国際学術団体、国際歯科連盟(FDI)の年次大会。その第71回大会は、1983年11月14日から20日までの日程で、東京のホテル・ニューオータニをメイン会場として開催され、約95ヵ国・1万8000名が参加しました。

 切手は、網目模様にデザインされた象牙質をバックに歯鏡と大会のシンボルマークを描いたものということですが、ちょっとわかりにくいですな。

 ところで、この切手を見ていて思い出したのですが、その昔、某歯科大学で国家試験の問題が事前に漏洩するという不正事件がありました。このとき、事前に漏洩した問題は詰め物に関するものだったそうです。で、僕の友人が近所の歯医者で歯を治してもらったところ、どうも詰め物の具合がよくなくって、ちょくちょく外れてしまうということがあったので、「もしや」と思ってさりげなく先生に出身校を聞いたところ、やはり、というべきか問題の学校の卒業生だったという笑うに笑えない話があります。(もちろん、その学校を卒業した歯医者さんがすべて、詰め物がへたくそということではないのでしょうが)

 ちなみに、僕の場合は、10年ちょっと前にまとめて虫歯を治したのですが、この1~2年、詰め物が外れて歯医者に行くことが時々あります。こちらは、前の治療をしてくれた先生のせいではなくて、単純に寿命ということのようです。

 なお、この切手を含む1980年代前半の記念・特殊切手については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しくまとめておりますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 今年の韓国は梅雨明けなし?
2008-06-03 Tue 22:22
 気象庁は昨日(2日)、関東甲信・東海・近畿の各地方が梅雨入りしたとみられると発表しました。関東甲信は平年より6日早く、最も遅かった昨年と比べると20日早いのだそうです。というわけで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 風旗台・測雨台

 これは、1987年4月21日、韓国が発行した“科学シリーズ”の第2集で、風旗台(左)と測雨台(右)が取り上げられています。

 このうち、風旗台は、風の方向と強さを測定する気象観測器具で、切手に取り上げられているものは1732年に作られたものと推定されており、現在、1418年に世宗大王(ハングルを作った王)が建てた離宮、昌慶宮にあります。

 一方、測雨台は、雨量を図るための円筒形の“測雨器”を立てるための台で、現存するものはごくわずかです。切手に取り上げられているものは、ソウルの国立気象台に置かれているものと思われます。ソウルの国立気象台にある測雨台は、台石の前面と裏面の真ん中に「測雨台」、裏面の左側には1770年に作られたことを示す「乾隆庚寅五月造」と刻まれているのですが、切手では前面からの図になっているためか、制作年代を示す「乾隆庚寅五月造」の文字は見えません。かつては大邱監営宣化銅の前庭に置かれていましたが、日本統治時代に仁川に移され、その後、ソウル測雨所を経て、現在はソウルの国立気象台に置かれています。ちなみに、朝鮮戦争の際に受けた銃弾の跡が残っているのですが、切手上で確認するのは無理なようです。
 
 さて、古今東西を問わず、気象観測は大自然が相手の仕事だけにいろいろと苦労の種は尽きないようで、われわれが何気なく使っている“梅雨入り”という表現も、専門家の間では、X月X日に梅雨入り/梅雨明けしたというのはなかなか断定しづらいそうです。実際、気象庁の発表では「XX日に梅雨入りしたとみられる」という表現がされていますが、これも正確な統計を出すため、後日、「今年の梅雨はX月X日からO月O日までだった」と修正されるのだとか。

 実際、今回ご紹介している切手の韓国でも、梅雨入り・梅雨明けについての“誤報”が多く、国民からのバッシングが絶えないため、ついに今年は「今夏、梅雨は例年どおり来月下旬から始まるとみられているが、終わりは予想できない」として、梅雨明けの予報を止めてしまったとか。韓国気象庁では、その分、毎日の予報を詳細なものとすることで対応しようということらしいのですが、潔いというべきか、大胆というべきか、 このあたりもお国柄なんでしょうな。

 ところで、2002年から2007年にかけて、週刊『東洋経済日報』に連載していた「切手で見る韓国現代史」が、7月上旬をめどに『韓国現代史:切手でたどる60年』として福村出版から刊行されることになりました。現在、校正のチェックもほぼ終了といったところですが、表紙や正式な刊行日など、詳細情報が決まりましたら、またこのブログでもいろいろとご案内してまいりますので、よろしくお願いいたします。

 * 本日お昼ごろ、カウンターが34万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 イブ・サンローランの切手
2008-06-02 Mon 21:21
 きのう(1日)、20世紀を代表するフランスのデザイナー、イブ・サンローラン氏が71歳で亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。で、切手の世界でサンローランといえば、やはり…ということで、今日はこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 サンローラン(蛇)

 これは、2000年1月8日、バレンタイン用に発行されたハート形の切手の1枚で、サンローランがデザインを担当したことで当時話題となりました。切手は、2匹の絡み合う蛇でハートを表現したもので“蛇”というタイトルが付けられており、左側にはサンローランのサインも入っています。

 フランスでは前年の1999年からハート形のバレンタイン切手を発行していますが、2000年以降、有名デザイナーを原画作者として起用しています。サンローランはそのトップに登場したということになります。ちなみに、このとき発行された残りの1枚は、“顔”と題されたこんな感じのものです。

 サンローラン(顔)

 イブ・サンローランは、1936年8月1日、当時は仏領だったアルジェリアのオランで生まれました。家族はイブが子供の頃にパリに引っ越し、イブは1953年、17歳の時にファッション・デザイン学校に入学。デザイン・コンクールでカクテルドレスを発表し、最優秀賞を受賞しました。これがきっかけとなり、サンローランはファッション界の大御所、クリスチャン・ディオールの知遇を得ることになります。ディオールは若きサンローランの才能を激賞し、1957年には「私は彼(=サンローラン)に認められたい」と、までいわせています。

 1957年、ディオールが亡くなると、サンローランはディオール・ブランドの主任デザイナーに就任。1958年に発表したコレクションでTrapze Line(ブランコ線) と呼ばれるデザインを発表して絶賛を浴び、フランスを代表するファッションデザイナーとしての地位を確立しました。

 その後、1960年にはアルジェリア独立戦争のため徴兵されましたが、わずか20日後、激しいストレスに襲われ、精神病院に入院して事実上除隊。以後、神経衰弱に悩まされることになります。

 しかし、1962年、ピエール・ベルジェの出資により、彼自身のレーベル、イブ・サンローラン(YSL)を設立。さらに、1966年に自身の既製服ブティックとして、イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュをパリに開店し、カトリーヌ・ドヌーブをはじめ、ヨーロッパのセレブたちの絶大な人気を得たのは周知のとおりです。
 
 今回ご紹介の切手が発行されたのは2000年のことでしたが、翌2001年、サンローランはシラク大統領からレジオンドヌール勲章も授与されています。そして、翌2002年、デザイナーとしては引退し、モロッコのマラケシュに構えた邸宅で過ごすようになっていたとのことですが、今回亡くなったのはパリの自宅だったそうです。

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 おかげさまで3周年
2008-06-01 Sun 18:23
 おかげさまで、本日6月1日をもって、ブログの開設から3周年を迎えることができました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。

 というわけで、“3周年”がらみのマテリアルとして、こんなモノを引っ張り出してきました。(画像はクリックで拡大されます)

 マライ・大東亜戦争3周年

 これは、1944年12月8日、日本占領下の昭南(シンガポール)市内便で、“大東亜戦争3周年”の特印が押されています。貼られている切手は、1943年4月29日の天長節に発行された8セント切手で、昭南忠霊塔が描かれています。

 切手に描かれた昭南忠霊塔はシンガポールの戦闘での日本軍の戦死者を祀る塔で、日本軍の命令により、連合軍の捕虜によって建てられました。高さは12メートルで木造ですが、先端は円錐状の銅で覆われていましたが、日本の敗戦後、連合軍がシンガポールに上陸する前に日本軍によって取り壊されました。また、忠霊塔の後ろには、連合軍の戦死者を弔うための高さ3メートルの木造の十字架も建てられていました。

 さて、このカバーに押されている特印には、当時の“大東亜共栄圏”の中の親日派政権の国旗が一堂に集められています。その内訳は、左側から、フィリピン、ビルマ満洲国日本、タイ、自由インド仮政府中華民国(汪兆銘政権)という順番で、ちょうど1年前の1943年11月に開催された大東亜会議のメンバーと同じです。

 大東亜会議に関しては、日本の勢力圏内の親日派政権が集まっただけの茶番にすぎないという見方もありますが、ともかくも有色人種のみが一堂に会して国際会議が開かれたのはこのときが最初で下から、まったく無意味なものと切り捨てることはできないでしょう。

 もっとも、今回の特印が使用されたマライは、1943年の「大東亜政略指導大綱」によってが“(大日本)帝国領土”と位置づけられていたため、いかなる民族代表も大東亜会議への参加を許されていなかったのは、何とも皮肉な話です。このあたりに、日本による“アジアの解放”の本音と建前のずれを感じるのは僕だけではないでしょう。

 いわゆる大東亜戦争に関して、僕はそれが単なる侵略戦争にすぎず、日本のみがひたすら悪役だったという考え方には決して与しませんが、戦後アジア諸国の独立は“日本のおかげ”であるとする論調にも非常に強い嫌悪感を覚えます。

 たしかに、日本が東南アジアを占領し、一時的にせよ、欧米勢力を駆逐したことは、東南アジア諸国の民族運動に大きな影響を与えたことは事実でしょう。しかし、戦後の東南アジア諸国の独立は何よりもまず、彼ら自身が血を流し、多大な犠牲を払った上で達せられたものであるという基本的な事実を忘れてはいけません。彼らが日本を感謝してくれることがあるとすれば、それはそれで光栄なことではありますが、基本的に異民族に占領・支配されて嬉しいということはあり得ないのですから、彼らの社交辞令を真に受けていい気になってしまうのは、見苦しいだけだと僕は思います。だからといって、頼まれもしないのに、海外で日本の“過去”を断罪し、土下座まがいのことをして歩くのは論外ですが…。

 「日本が占領したから東南アジアが独立できた」と言うのは“保守派”とされる人たちに多いようですが、そういう人たちはアメリカ人から「戦後日本の繁栄はアメリカが占領してやったおかげだ」と言われたらどういう気分になるんでしょうかねぇ。その一方で、「何が何でもアメリカから押しつけられた頂戴した憲法9条を守らねばならない」とする人たちには、「あなたたちがアメリカの占領に感謝している以上に、日本による占領体験を糧として、日本に“感謝”している人もいるんですよ」と言ってやりたい気もします。まぁ、できれば、どちらの立場の人たちともあまりお付き合いしたくはありませんがね。

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