内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 『郵趣』今月の表紙:パリUPU大会議
2008-08-31 Sun 11:22
 ご報告が遅くなりましたが、(財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』の2008年9月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げていて、原則として僕が簡単な解説文をつけていますが、今月は、こんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 パリUPU大会議

 これは、1947年5月7日にフランスが発行した「第12回パリUPU会議」の航空切手で、パリのシテ島を西側から見た景観が取り上げられています。

 花の都・パリの名は、セーヌ川の中州のシテ島に住み着いたケルト系のパリシー人に由来するといわれており、それゆえ、シテ島は“パリ発祥の地”と呼ばれています。

 切手の画面の一番手前、島の先端部にはアンリ4世にちなむヴェール・ギャラン公園がありますが、その緑のすぐ後ろに架かっているのがポン・ヌフです。直訳すると、“新しい橋”の意味ですが、実は、パリに現存する一番古い橋です。

 その右奥には、川に面してコンシェルジュリーが見えます。この建物は、もとはフィリップ4世の宮殿でしたが、後に牢獄として使われるようになり、フランス革命の際にはかのマリー・アントワネットも投獄され、ここから引き出されて断頭台へ向かったのだとか。

 さらにその右奥には、ノートル・ダム大聖堂の二つ並んだ屋根の塔も見えます。その左側、画面中央にそびえたつ尖塔は、ゴシック建築の最高傑作として名高いサント・シャペルのものです。
 
 切手は、マリアンヌやサビーヌ、リベルテなど普通切手でもおなじみのピエール・ガンドン48歳の時の作品。ガンドンが最初に手掛けた切手は1941年に仏領ダホメーで発行されたもので、同年、本国の紋章切手にも作品が採用されています。今回ご紹介の切手は、第2次大戦後の1945年、“ガンドンのマリアンヌ”で彼の名がフランスのみならず広く世界に知れ渡るようになってから間もなくの作品で、直線的な島の街並みと宙を舞うカモメの丸みを帯びた姿のコントラストが印象的な1枚に仕上がっています。

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 I have a dream から45年
2008-08-30 Sat 10:47
 アメリカの民主党大会は、昨日(29日)、大統領候補に正式に指名されたバラク・オバマの受諾演説で幕を閉じました。なんでも、昨日はマーチン・ルーサー・キングが人種を超えた社会を訴える“I have a dream.”の歴史的演説を行った日から45周年の記念日だったそうで、そういうことなら、というわけでこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 キング牧師

 これは、1979年1月13日に“ブラック・ヘリテージ”シリーズの1枚として発行されたマーチン・ルーサー・キングJr牧師の切手です。アメリカでは、前年の1978年から、歴史に名を残した偉大なアフリカ系アメリカ人(黒人)たちを顕彰するため、毎年、“ブラック・ヘリテージ”(直訳すれば、黒人の遺産、ということになりましょうか)と題する切手を発行していますが、これはその2回目の切手になります。

 南北戦争中の1863年に発せられた奴隷解放宣言により、黒人奴隷は制度的には消滅しましたが、南部の旧奴隷州では、奴隷解放宣言の後も黒人差別は解消されず、19世紀末になると、交通機関やレストラン、学校などで白人と黒人を分離する人種分離政策が進められ、黒人は居住地域も制限されていました。

 このため、全米黒人地位向上協会は、こうした差別の撤廃を求めて活動し、第2次世界大戦では多数の黒人が志願して米兵として戦い、犠牲になっています。しかし、それにもかかわらず、南部では黒人に対する差別は改められませんでした。

 こうした状況の中で、1955年12月、アラバマ州モンゴメリーで、バスで白人に席を譲らなかった黒人女性のローザ・パークスが州法違反で逮捕された事件に抗議し、キング牧師らが一年におよんでバス・ボイコット運動を展開。翌1956年に連邦最高裁がバス車内での人種分離を違憲とする判決を下すと、これを機に、黒人をはじめとする有色人種がアメリカ市民(公民)として法律上の平等な地位を求める運動が全米に拡大することになります。

 これが、いわゆる公民権運動で、日本では、指導者であるキング牧師のイメージが強いせいか、黒人の反差別運動と同一視されることも少なくないのですが、実際には、アメリカ先住民(いわゆるアメリカ・インディアン)やアジア系の人々の運動も含まれているほか、彼らに賛同した白人も個人としてさまざまな活動に参加しており、一口に公民権運動といってもその内容は実に多種多様なものとなっています。

 その後、キング牧師は大統領選挙戦さなかの1960年10月19日、ジョージア州アトランタのリッチ百貨店の食堂の白人専用席に座り、立ち退かなかった容疑で逮捕されていますが、このとき、共和党候補で現職副大統領のニクソンが事態を静観していたのに対して、ケネディ陣営は牧師の釈放に向けて積極的に動いており、そのことが、ボビーは、黒人票を取り込むうえで絶大な効果を発揮したことは広く知られています。

 切手で肖像の下に描かれているのは、1963年8月、人種差別撤廃を訴えて行われた20万人のワシントン大行進のイメージで、有名な“I have a dream.”演説はこのときに行われました。

 リンカーン記念堂の前で行われた演説は、「私には夢がある(I have a dream) ある日、ジョージアのレッドヒルの上で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟愛というテーブルをともにすることを。 私には夢がある。ある日、不正と抑圧という熱で苦しんでいる不毛の州、ミシシッピーでさえ、自由と正義というオアシスに変わることを。 私には夢がある。私の4人の子ども達がある日、肌の色ではなく人物の内容によって判断される国に住むことを…」といった具合に、“I have a dream”のフレーズを何度も繰り返す印象的なもので、J.F.ケネディの就任演説と並んで、20世紀のアメリカを代表する名演説として知られています。

 今回の選挙戦において、オバマの指名受諾演説が“I have a dream”演説にゆかりの日に行われたのは、もちろん、アメリカの2大政党として初の黒人大統領候補という点を最大限に強調するためのもので、オバマの演説も「一人一人が夢を追いながら一つのアメリカの家族として団結することは可能だ」として、人種や党派を超えた「一つのアメリカ」を訴えるなど、キング牧師の“I have a dream”演説の本歌取りのようなスタイルとなっています。

 なお、9月10日に中公新書ラクレの1冊として刊行予定の拙著『大統領になりそこなった男たち』では、ロバート・ケネディを中心に、公民権運動とベトナム戦争に翻弄された1960年代のアメリカについても書いてみましたので、刊行の暁には、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

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 スパイに注意せよ!
2008-08-29 Fri 16:14
 脱北者を装って韓国に侵入し、軍関係者に近づいて情報収集を行っていた北朝鮮の女スパイが摘発されました。というわけで、今日はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 防諜と勝共の月

 これは、1971年3月、韓国で発行された“防諜(スパイ防止)と勝共(反共産主義)の月”のキャンペーン切手で、共産主義者たちの国際スパイ活動をクモの巣で表現し、それを打ち破る松明が描かれています。韓国側としては、北朝鮮国家の存在を大っぴらに認めるわけにはいかないので、切手上の地図では、朝鮮半島はすべて非共産圏の黄色になっていますが、いまも昔も、韓国にとって最も警戒すべきは北朝鮮のスパイであるわけで、“防諜と勝共”の最大の敵が切手に書き込まれていないのは違和感がないわけではありません。

 ちなみに、韓国では、翌1972年5月にも“防諜と勝共の月”のキャンペーン切手が発行されています。1971年と1972年で“防諜と勝共の月”が異なっているのは、おそらく、このキャンペーンが毎年決まった月に行われるものというよりも、その時々の政治的・社会的状況に応じて、適宜、政府が設定していたためなのでしょう。

 1967年、大統領として再選を果たした朴正熙は、1969年10月、李承晩独裁の反省から3選を禁じていた憲法を改正し、3選に向けて動き出します。

 さて、大統領選挙の日程は1971年4月27日に設定されましたが、この選挙の政策上の争点は安保論争にありました。

 論争の発端は、1970年10月16日、野党・新民党の大統領候補に指名された金大中が、候補者としての初の記者会見の席上、①郷土予備軍の廃止、②労使共同委員会の設置、③非政治的な南北交流、④朝鮮半島の4大国共同安全保障案、を打ち出したことにあります。

 このうちの最大の争点は、④の四大国共同安全保障案で、金大中は、まず、米・ソ・日・中の4大国の共同合意によって、朝鮮半島の戦争を抑制することを主張。その後の選挙戦の過程で、南北間の人道的・文化的交流の推進を公約として掲げていくことになります。

 すでに1970年8月15日、現職大統領の朴は、①北朝鮮側が挑発と武力による共産化の野望を捨てることを条件に、南北の人為的障壁を段階的に除去する、②北朝鮮が国連の権威と権能を認めれば国連で同席することに反対しない、③北朝鮮は韓国と善意の競争をすべきである、とする8・15宣言を発し、従来の韓国の対北朝鮮政策からすると、相当、柔軟な姿勢を示していましたが、金大中の提案は、さらに北朝鮮に対して融和的な姿勢を示したもので、当時、その実現の可能性とは別に、多くの国民の関心を集めるものとなりました。

 これに対して、与党側は「韓国と敵対関係にある中共・ソ連等を含む4大国に国家の安全保障を委託するということは国の基礎を危うくするものであり、発案者の真意を疑わざるをえない」との批判を展開。それを補強するかのように、選挙戦終盤の1971年3月を“防諜と勝共の月”とし、その初日にあたる1日にそのキャンペーン切手を発行したというわけです。

 それにしても、朴正熙時代の強圧的な政府が良いとは言いませんが、北朝鮮国家の本質は、その当時からほとんど変わっていないわけで、その意味では、今回の女スパイ事件も、韓国側の緊張感の欠如が一因と言ったら言い過ぎでしょうかねぇ。

 なお、今回ご紹介の切手が発行された当時の時代背景などについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいろいろとご説明しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 アフガニスタンの農村
2008-08-28 Thu 16:55
 アフガニスタン東部ジャララバード近郊で武装勢力に拉致された日本人・農業ボランティアの伊藤和也さんが、昨日(27日)、遺体で発見されました。というわけで、およそ5年にわたり、乾いたアフガンの大地に水と緑を与えてきた伊藤さんのご冥福を謹んでお祈りするとともに、哀悼の意を表するため、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 アフガン・化学肥料

 これは、アフガニスタンがソ連軍侵攻時の左翼政権の支配下にあった1983年、パキスタンのペシャワルあてに差し出された書留便です。左翼政権時代の航空書簡には、アフガニスタンの風景や人々の写真を余白にあしらったものが何種類か発行されていますが、これもその一種で、化学肥料を使った農業の様子が取り上げられています。航空書簡を発行した左翼政権としては、自分たちのもたらした社会主義的政策により、農村でも化学肥料が使われるようになり、収穫が増加していると主張したかったのでしょう。

 もともとアフガニスタンは決して農業に適した国ではなかったのですが、1970年代半ばには食糧の自給が達成され、綿花栽培も盛んに行われていました。

 1978年4月、ソ連の支援を受けたアフガニスタン人民民主党(共産党)による反政府クーデタ(4月革命)が発生。同年12月、人民民主党の党首で革命評議会議長兼首相のヌール・ムハンマド・タラキーがモスクワを訪問してソ連=アフガニスタン友好善隣協力条約を締結し、アフガニスタンは完全にソ連の勢力圏内に組み込まれることになりました。

 ところで、4月革命の結果、1747年以来のパシュトゥン人支配体制は終結し、パシュトゥン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人のアフガニスタン主要4民族の参加する政治体制が樹立されることになりますが、人民民主党の指導部は、長年にわたってアフガニスタンの支配層を構成してきたパシュトゥン人のドッラーニー族ではなく、ギルザイ族の出身者で構成されていた。それゆえ、従来は民族的に傍流であった勢力がヘゲモニーを握り、旧支配層の粛清に躍起になっているという構図は、複雑で保守的な部族社会から構成される地方において、新政権への嫌悪感を抜きがたいものとすることになります。もちろん、イスラムの信仰に基づく伝統的なアフガニスタン社会では、共産主義(=無神論)が悪魔の思想として嫌悪されていることはいうまでもありません。

 そうした新政権が、“土地改革”と称して、部族の族長を地主ないしは反動派と決め付けて彼らの土地を強制的に接収し、勝手に他の人々に分配していったことで農村での不満が爆発。1978年10月以降、各地でムスリムの抵抗運動が頻発し、翌1979年3月、ヘラートでイスラム原理主義者による大規模な武装デモが展開され、5000人もの死者が発生したことで、アフガニスタン全土は実質的な内戦に突入していきます。

 このため、1979年12月、ソ連はソ連=アフガニスタン友好善隣協力条約の内乱条項(アフガニスタンで内乱やクーデターが発生し、政府が危機的な状況になった場合には、政府の要請がなくてもソ連軍がアフガニスタンの秩序回復のため、アフガニスタンに軍事介入できるという条項)に基づき、アフガニスタンに軍事進攻を行い、これに対抗するムジャーヒディーン(イスラム戦士)の反ソ闘争が展開されます。その後、ソ連軍は撤退し、左翼政権は崩壊すると、今度は、それまで反左翼連合を形成していたムジャーヒディーン諸派の内紛が勃発。いったんはタリバンがアフガニスタンの大半を征圧したものの、911同時多発テロ事件に絡んでアメリカがタリバン政権の攻撃に踏み切り、カルザイ政権がつくられますが、同政権は首都とその周辺しか掌握できず、アフガニスタンは再び軍閥割拠の混迷状態に陥っていることは広く知れられている通りです。

 今回、犠牲となった伊藤さんは、長年の戦乱で荒廃したアフガニスタンの農業の復興を支援するために現地で活動し、地元の人たちの信頼を得ていたわけですが、その彼を外国人だからというだけの理由で殺害してしまうような連中が、はたして、一般のアフガニスタン国民の支持を得られるのかどうか、大いに疑問です。われわれ外国人はアフガニスタンの復興支援をサポートすることはできるかもしれませんが、何よりもまず、彼ら自身が自国の復興のためには何が必要なのか、冷静に考え、しかるべき環境を整える努力をしてもらわないと、どうしようもありません。

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 蛇マニアにお勧め
2008-08-27 Wed 22:40
 東京都内でコブラなど51匹もの毒蛇を無許可で飼っていた男が動物愛護法違反(無許可飼養)容疑で逮捕されました。なんでも、コブラにえさをやろうとして左手人さし指をかまれ、119番通報したのが悪事発覚のきっかけとか。というわけで、今日はこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 キングコブラ(タイ)

 これは、1981年にタイで発行された毒蛇の切手で、キングコブラが取り上げられています。

 現在でも、タイ北部の山岳地帯では毒蛇の被害が多発していますが、20世紀初頭までは、首都バンコクでも、パドゥン・クルン・カセーム運河の外側の新市街では毒蛇の被害が後を絶たず、人々は夜間の外出を控えていたといわれています。

 このため、1923年、タイ赤十字協会は研究部門としてバンコク市内にスネーク・ファームを設け、毒蛇の特徴や被害を受けたときの抗血清の効用などの周知徹底に努めてきました。

 タイの赤十字は、1893年のシャム危機に際して、フランスとの戦闘で傷ついた将兵の看護にあたった民間のボランティア組織がそのルーツです。ただし、当時は英仏による植民地化の危機の真只中で、国際赤十字への加盟申請を行うどころではなかったこともあり、国際赤十字への正式加盟は1920年になってからのことでした。この間、1911年には狂犬病対策としてクイーン・サオワパー研究所が作られ、ワクチンの製造が開始されています。

 このクイーン・サオワパー研究所に続いて設立されたのがスネーク・ファームで、啓蒙活動に力をいれているということもあって、タイ国内に住むあらゆる種類の毒蛇が飼育され、見学できるようになっています。ちなみに、今回ご紹介の切手を含め、1981年、タイでは4種セットの毒蛇の切手が発行されていますが、もちろん、それらもすべてスネークファームで飼育されています。

 このほか、スネーク・ファームでは、スライドの上映や蛇毒採取のデモンストレーションも1日2回(土日祝日は1日1回)行われており、デモンストレーションの後は蛇との記念撮影もできるので、家族連れには人気のスポットのようです。

 毒蛇の中には姿形の美しいものも少なくないようなので、近くで愛でていたいという気持ちもわからなくはないのですが、素人が個人で毒蛇を飼うのは管理の問題もあってかなり難しいでしょう。それだったら、実物の代わりに毒蛇の切手を集めていただくことをお勧めしたいと思います。実際、今回ご紹介しているタイを含め、人々への周知のために毒蛇を切手に取り上げるというケースは少なからずあるようですから、蛇マニアの方ならそれなりに楽しめるのではないかと思います。なにより、噛まれたり、逃げられたりする心配はゼロ。いたって安全なわけですから…。

 なお、昨年刊行の拙著『タイ三都周郵記』には、スネーク・ファームをはじめ、切手を片手にバンコクの観光スポットを歩いてみた「曼谷36景」なる1章もありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 バンコクの反政権デモ
2008-08-26 Tue 21:31
 きょう(26日)未明から、タイのバンコクでは反政府市民団体「民主主義市民連合」(PAD)がサマック首相の退陣を求めて大規模な抗議行動を行っており、国営テレビのオフィスが占拠されたほか、3万人近いPAD支持者らが首相府と4つの官庁を包囲。PAD関係者によると、数十万人がバンコク市内で街頭デモに参加し、政府の主要庁舎の機能は停止を余儀なくされ、バンコクに続く幹線道路3本も封鎖されたとのことです。

 というわけで、今日はこの1枚を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 民主記念塔の憲法
 
 これは、1975年の総選挙に際してタイで発行された民主記念塔の切手の1枚で、塔の頂上に収められている憲法が描かれています。

 民主記念塔は、1932年の立憲革命を記念して1940年に作られたモニュメントで、バンコクの王宮からもほど近いラーチャダムヌーン通にあります。中央の塔を囲むように、民主主義の飛躍を象徴する4つの翼が配されたデザインになっており、翼の下には立憲革命の主役となった人民党員の活躍を描いたレリーフも飾られています。

 1973年10月、タイでは社会正義・公正・平等の実現を求めて、いわゆる学生革命が発生し、タノーム軍事政権が崩壊してタンマサート大学学長のサンヤー・タンマサックを首班とする文民政権が発足します。文民政権は、1975年1月に総選挙を実施し、民主党を第1党とするセーニー・プラーモート内閣が発足。これが、タイの歴史上、実質的に初めての民主的な政権交代となりました。今回ご紹介の切手は、この選挙の投票日にあわせて発行されたものです。

 その後も、タイでは、1992年の民主化運動や2006年のクーデターなどの政治的な危機が発生すると、記念塔の周辺には多くの人々が集まり、民主主義の擁護を求める集会が行われています。

 今回のPADの抗議行動は、サマック首相が憲法を改正し、タクシン前首相の職権乱用罪を回避させようとしていると批判して起こったものですが、騒動が長引けば、“憲法記念塔”とも呼ばれる民主記念塔の前で抗議行動を行う市民の映像が日本のニュースでも流れるケースも多くなるでしょうね。

 なお、民主記念塔とその周辺の歴史スポットについては、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろとご紹介しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 次はロンドン
2008-08-25 Mon 20:19
 北京オリンピックはようやく昨日、閉幕となりました。で、次の夏季五輪は2012年のロンドンというわけで、オリンピック便乗企画の最後はこんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 韓国・ロンドン五輪(1948)

 これは、大韓民国発足直前の1948年6月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮で発行されたロンドン五輪の記念切手です。

 朝鮮系アスリートが国際大会に本格的に参戦したのは、植民地時代の1932年に行われたロサンゼルス五輪が最初のこととされています。その後、1936年のベルリン五輪ではマラソンの孫基禎が金メダルを獲得したほか、南昇龍も銅メダルを獲得するなどの好成績を収めるなど、朝鮮系の選手はそれなりに実績を残していますが、当時は、朝鮮そのものが日本の統治下にありましたので、朝鮮系の選手は“日本人”という扱いになっていました。

 1945年の解放により、国際スポーツの世界においても“朝鮮”は独立した存在として認知されましたが、南北の分断が固定化されていく中で、全朝鮮の統一的なスポーツ組織の結成は、事実上、不可能となります。

 このため、1948年7月29日に開幕した戦後最初のオリンピック、ロンドン五輪の際には、“朝鮮”の五輪代表をめぐってさまざまな混乱が生じることになりましたが、結局、アメリカ軍政下の南朝鮮が“KOREA”チームを構成し、“朝鮮”代表を派遣しています。

 当時、李承晩は、国連決議に基づいて、南朝鮮での単独選挙を実施するなど、ソ連軍占領下の北朝鮮地域を除く大韓民国の樹立に向けて準備を進めており、ロンドンへの代表チーム派遣も、そうした政治的な文脈の下、南朝鮮から大韓民国につながるラインこそが朝鮮の正統政府であることを内外にアピールするためのものでした。

 一方、1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を発足させて以来、北半部での単独政権樹立を着々と進めていた北朝鮮にとっても、南朝鮮の一連の動きは、南北分断に向けた自分たちの過去の行動をカムフラージュするとともに、「南側が先に分断を仕掛けたために“やむをえず”自分たちも独自の政府を樹立するにいたった」と主張するアリバイ作りとして好都合でした。このため、北朝鮮は、南側のこうした動きに抗議していたものの、ソウル五輪の時のような妨害行動には出ていません。

 1948年に南北両政府が相次いで発足する前後の動きは、切手や郵便物にもいろいろと痕跡を残していますが、それらについては、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもまとめていますので、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 大統領になりそこなった男たち:ジョン・フレモント
2008-08-24 Sun 10:10
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、雑誌『中央公論』9月号が発売になりました。僕の連載「大統領になりそこなった男たち」では、今回は、共和党として最初の大統領候補になったジョン・フレモントを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 フレモント

 これは、1898年6月に発行されたトランスミシシッピ博の記念切手で、ロッキー山頂で星条旗を掲げるフレモントが描かれています。

 フレモントは、1813年、ジョージア州サバンナの出身。1838年から1839年にかけて、フランス人地理学者、ジョセフ・ニコレットによるミシシッピ川=ミズーリ川間の探検に助手として参加しました。1841年にはフレモント自身もミシシッピ川支流のデモインズ川の地図を作製しています。また、1841年から1846年にかけて、オレゴン・トレイルを通ってシエラネバダ山脈に入る遠征隊を率い、この間、タホ湖を“発見”し有名になったほか、セント・へレンズ火山の地図を作成しました。

 1846年春、フレモントは国務省の命を受けてロッキー山脈からコロンビア川に到着する最短ルートを求めてカリフォルニアに到着します。当時のカリフォルニアはメキシコ領。首都のメキシコシティからは遠く離れ、人口わずか1万人の辺境の地でした。

 探検隊の隊長として、フレモントはメキシコの上カリフォルニア軍事総督のカストロに探検の許可を求め、カストロもいったんはこれを許可するのですが、後にカストロは、フレモントがカリフォルニアの独立運動を扇動しているのではないかと疑い、探検の許可を撤回します。しかし、フレモントはこれを無視して探検を断行。さらに、地元の入植者を扇動してメキシコ当局に対して反乱を起こさせました。

 これが、カリフォルニアにおける米墨戦争の発端となりました。

 ウィリアム・アイダひきいる反乱軍は1846年6月6日、カリフォルニア共和国の独立を宣言しますが、同国は7月5日、ロバート・ストックトン准将ひきいるアメリカ艦隊の上陸とともに合衆国に吸収されています。その後、フレモントはストックトンの指揮下で行動し、サンタバーバラ攻略のために300名の遠征部隊を率いて軍功を挙げました。

 さて、1847年1月、フレモントはメキシコのアンドレ・ピコ将軍にカフエンガ条約を調印させ、カリフォルニアにおける米墨戦争は終結します。この功に対して、ストックトンはフレモントをカリフォルニア州軍事知事に任命しましたが、これを不服とするスティーブン・カーニー(アメリカ軍騎馬隊の父と呼ばれる人物で、やはり、米墨戦争中のカリフォルニア攻略に軍功のあった将軍)は、連邦政府に対して、命令を下す権威は自分にあることの確認書を要求するとともに、自分の許可を得ず知事に就任したフレモントの行為は反乱罪にあたるとして彼を逮捕し、ワシントンDCに送還しました。フレモントは軍法会議にかけられ、有罪判決を受けたが、ポーク大統領の特赦により赦免されています。

 その後、フレモントはカリフォルニア州選出の上院議員となり、1856年の大統領選挙では、探検家にして米墨戦争の英雄というキャリアが買われ、反奴隷主義者として毀誉褒貶の激しいスワードに代わって、奴隷制反対を掲げて誕生した共和党初の大統領候補となりました。

 選挙戦では、共和党が「自由な言論、自由な出版、自由な土地、自由な人間、フレモントそして勝利!」とのスローガンを掲げて、新しい領土への奴隷制拡張に反対。奴隷制は共和制の価値観を破壊していると主張したのに対して、民主党は共和党が勝てば内乱が起こると警告することで反論しています。

 投票の結果、民主党のブキャナンが大統領に当選しましたが、フレモントは大いに検討しており、奴隷制の存続をめぐるアメリカ合衆国内の対立はますます先鋭化していくことになります。

 なお、雑誌『中央公論』の連載をまとめて、9月10日、中公新書ラクレの1冊として『大統領になりそこなった男たち』を刊行する予定です。無事刊行の暁には、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。

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 ランナーの切手
2008-08-23 Sat 11:05
 昨日は、北京五輪・男子400メートルリレーで、日本がトラック競技としては1928年の人見絹江以来80年ぶりとなる銅メダルを獲得しました。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第11弾は、ランナーの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

 第3回国体(ランナー)

 これは、1948年10月、福岡県で開催された第3回国民体育大会(国体)の記念切手のうち、短距離のスタート場面を取り上げた1枚です。

 第3回国体(秋季大会)は、1948年10月29日から11月3日まで、1万9498名(25競技)の選手が参加して、福岡市を中心に7市2町1村で開催されました。国体旗リレーや天皇杯・皇后杯の下賜、府県対抗形式の導入など、現在の国体のモデルがつくらてたのはこのときの大会です。なお、初代の天皇杯獲得は東京都、同じく皇后杯は京都府で、開催地の福岡県は天皇杯第2位、皇后杯3位という好成績を収めました。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられた“スタート”は、前年の第2回大会の記念切手の際にも計画されていましたが、このときは主催者側の要望でハードルに変更されています。ただし、前年の企画段階で原図を作成したのは日置勝俊でしたが、今回は、渡邉三郎がデザインを担当しています。また、走者の背景に描かれているのはコースラインですが、一般にはスタンドの塀と思った収集家が多かったようです。

 なお、この切手を含む終戦直後の記念切手については、拙著『濫造・濫発の時代』でいろいろと解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 ソフトボールの切手
2008-08-22 Fri 11:35
 昨日の北京五輪といえば、何といっても、女子ソフトボールで日本代表チームが悲願の金メダルを取ったことに尽きるでしょう。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第10弾は、当然のことながら、ソフトボールの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第17回国体(ソフトボール)

 これは、1962年10月、岡山県で開催された第17回国民体育大会(国体)の記念切手です。

 岡山県による国体誘致の活動は、1953年10月、四国で開催された第8回国体に、当時の県知事・三木行治が県選手団の先頭に立って入場行進した際、深い感銘を受け、ただちに関係者に対して、1961年に開催予定の第16回国体を誘致したいと申し出たことから始まります。

 これを受けて、翌1954年1月、三木を会長とする国体誘致委員会が結成され、積極的な誘致活動が展開され、山口県との激しい誘致合戦の末、第16回大会を山口県で、第17回大会を岡山県で開催することで決着しました。この間、1956年7月に赤字県では国体開催を認めない旨の閣議決定がなされたことから、岡山国体の開催も一時はご破算となりましたが、岡山をはじめ開催予定県は地元選出の国会議員を動員して抵抗し、最終的に大会開催にこぎつけています。

 さて、切手に取り上げられたソフトボールの原画作成にあたっては、郵政省のデザイナー、大塚均と長谷部日出男の2人が、日本体育協会の紹介で、ソフトボール協会の専務理事・技術部長の御喜正を、彼の勤務先である神田女子学園に訪ね、同校が優勝した際の八ミリ映画のスチール写真を資料として借り受けています。なお、このスチール写真のネガは、ベースボール・マガジン社が版権を有していたため、郵政省サイドでは、作業を進めるにあたって、同社からネガを買い受け、長谷部が原画を作成しました。

 ところが、新聞紙上等で原画が発表されると、原画のフォームが反則になるのではないかとの指摘が一部からなされます。

 すなわち、当時のソフトボール規則第九条・投球規定第一項には、「投手が打者に対して投球する際は体は本塁に正対(両肩、腰は一塁と三塁を結ぶ線と同方向線上)にあることとし、両手で球を体の前面で保持して両足の爪先及び踵を正しく地につけ、かつプレートに触れて立ち少なくとも一秒間は全く停止していなければならない」とあるのに対して、切手のデザインは違反しているのではないかというのです。

 これに対して、御喜は、国際ソフトボール公式規則の原文を論拠として示しつつ、「原画は、球が手を離れる寸前の状態をとらえたものではなく、モーションを起こしたときのポーズであるから問題はないはずだ」と郵政省に説明。これをうけて、郵政省も、当初の予定通り、長谷部の原画を用いた切手が発行されました。

 なお、この切手を含む1960年代前半の記念切手については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 なみはやドームとシンクロ
2008-08-21 Thu 18:32
 昨日は北京でシンクロナイズド・スイミング(以下、シンクロ)のデュエットで鈴木絵美子・原田早穂組が銅メダルを獲得しました。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第9弾として、シンクロの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 第52回国体

 これは、1997年9月12日に発行された第52回国民体育大会(国体)の記念切手で、シンクロの女性ペアが描かれています。女性選手の体勢からして、水中での演技を始める前の場面のようですが、まぁ、水面から脚だけが飛び出している切手を出すわけにもいかないということなのでしょう。

 1997年の国体は、冬季大会が北海道の釧路市と秋田県鹿角市で、夏季ならびに秋季大会が大阪府の大阪市とその周辺で開催されました。国体の記念切手というと、通常は秋季大会に合わせて発行されることが多いのですが、このときは夏季大会に合わせて9月12日の発行となりました。

 夏季大会の開催に合わせての切手発行となったのは、夏季大会のメイン会場となった“なみはやドーム”(門真市)の完成記念を兼ねるという意味合いが込められていたためだろうと思われます。当然、背景に描かれている水面らしき模様も、ドームのプールをイメージしていると考えるのが自然でしょう。

 なみはやドームは、正式には大阪府立門真スポーツセンターといい、夏季は国際公認50mコースや短水路(25m)コースを保有する水泳場、冬季はアイススケートリンクとしても利用されるメインアリーナをはじめ、サブアリーナ、サブプールなどがあります。このサブアリーナでは、しばしば、プロレスの試合が行われることでも有名です。最近では、橋下府知事が財政再建のためドーム売却の方針を出したものの、結局は府立施設としての存続が決まったことでも話題になりました。

 切手左上のキャラクターは、大阪府の鳥“もず”をマスコット化したもので、もずの“モ”とハッピーの“ッピー”をあわせて“モッピー”というのだそうですが…まぁ、コメントは差し控えさせていただきます。

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 続・レスリング切手
2008-08-20 Wed 10:19
 昨日の北京のメダルは、レスリングの男子フリースタイル55キロ級の松永共広が銀、同60キロ級の湯元健一が銅メダルという結果でした。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第8弾は、2度目のレスリング切手です。(画像はクリックで拡大されます)

 東京五輪募金(レスリング)

 これは、1961年10月11日、東京オリンピックの資金を集めるための寄付金つき切手(第1次)の1枚として発行されたレスリングの切手です。

 1959年、ミュンヘンで開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会で、1964年に開催されるオリンピック夏季大会を東京で開催することが正式に決定されましたが、多くの国民の間では、当時の日本の経済力では、オリンピックの開催に必要な経費をまかなうことは相当に難しいのではないか、との懸念が強くありました。

 はたして、政府はこの大会を成功させるために担当大臣のポストをつくって準備を進め、国立競技場、武道館、駒沢競技場、国立室内競技場などを建設しましたが、その総工費だけで160億円がかかっており、施設の整備や運営資金については、民間から資金を調達する必要があるのは明らかでした。

 このため、(財)東京オリンピック資金財団(以下、資金財団)が設立され、資金調達のための各種の活動が本格的に行われています。当初、資金財団の計画では、記念切手、記念葉書、電話番号簿(電話帳)広告、タバコ、国鉄(現JR)の広告などが資金調達のための手段として考えられていました。

 このうち、記念切手に関しては、1961年2月に資金財団と郵政省の間で具体的な討議が始まりましたが、その際、最大の論点となったのが、オリンピックの寄附金を調達するために独自の切手・葉書を発行するのか、あるいは、年賀葉書の寄附金をオリンピック資金に充てるのか、という点でした。

 結局、年賀葉書の寄附金については、当時、「お年玉つき郵便葉書及び寄附金つき郵便葉書等の発売並びに寄附金の処理に関する法律」(昭和24年法律第224号)の第5条が「社会福祉の増進を目的とする事業を行う団体、風水害、震災等非常災害による被災者の救助を行う団体、がん、結核、小児まひその他特殊な疾病の学術的研究及び治療を行う団体又は原子爆弾の被爆者に対する治療その他援助を行う団体の当該事業の実施に必要な費用に充てることを寄附目的とするものでなければならない」と定められていたため、別途、6月15日に「オリンピック東京大会の準備等に必要な特別措置に関する法律(以下、五輪準備特措法)」が公布・施行され、寄附金つき切手の発行も同法によって処理されることになりました。

 こうして、1961年10月11日に発行の第1次寄附金つき切手が発行されたわけですが、当初はその題材として、柔道も候補に挙がっていました。しかし、同年6月に切手デザインの制作作業が行われていた時点では柔道がオリンピックの正式種目として採用されるかどうか不透明だったため、見送りになったことは以前の記事でもご紹介したとおりです。

 まぁ、最初の寄附金つき切手に柔道が取り上げられていたら、格闘技が重なるという理由でレスリングは第2次以降に回ったのかもしれません。しかし、レスリングだって、1952年のヘルシンキ大会以来、日本不参加のモスクワ大会(1980年)を除いて半世紀以上もメダルを取り続けている(今回の切手が発行された時点でも3大会連続のメダル競技ということになりますな)お家芸ですから、寄附金つき切手のトップを飾るのにふさわしい題材だったと思います。

 なお、今回の切手を含む一連の東京オリンピックの寄附金つき切手と、この寄附金つき切手が火付け役となった切手ブームについては、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 世界のダム:葛州覇ダム
2008-08-19 Tue 12:34
 ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の8月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手の中の世界のダム」では、北京五輪の開催にあわせて、今回はこの1枚を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 葛州覇ダム

 これは、1984年に中国で発行された葛州覇ダムの切手で、建設中のダムの水門を船が通過する様子が描かれています。

 現時点で中国・長江最大のダムである葛洲覇ダムは、宜昌市の西、南津関の下流3キロの地点にあり、38キロ上流では、2009年に完成すれば中国最大のダムとなる三峡ダムの建設が進められています。

 建設が開始されたのは、毛沢東時代の1970年。ダム建設の目的は、①ダム建設で水位を上昇させ宜昌市上流200km区間の航路を確保すること、②華東・華中・上海への電力供給、③三峡ダム建設にむけての技術的ノウハウの蓄積、の3点にまとめられます。

 なかでも、孫文以来の悲願とされる三峡ダムの建設に向けてのリハーサルとして、葛州覇ダムの建設は重要な意味を持っているようで、仮締め切り方式や平面配置閘門の施工、堆砂処理技術などは、現在建設中の三峡ダムの建設にも応用されています。

 1988年に完成した重力式のコンクリートダムは、船舶用水門3、27の洪水排出水門27、土砂排出水門3を備えており、発電所は、21台の発電機、総発電量2710MW、3000人の従業員で運用・保守されています。

 また、遊覧船での水門通過ツアーが行われており、毎年、多くの観光客が訪れています。もっとも、今年に限っては、オリンピック開催中の厳戒態勢のため、外国人が気軽に中国各地に足を運べるような状況ではないようですから、この切手に見られるような光景を見に行く外国人は決して多くはないのかもしれません。

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 石膏像風のレスリング切手
2008-08-18 Mon 10:25
 昨日の北京のメダルは、競泳の男子400mメドレーリレーで日本チームが銅、レスリング女子63キロ級で伊調馨が連覇の金、72キロ級で浜口京子が銅という結果でした。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第7弾。きょうはレスリングの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 フリースタイル・レスリング世界選手権大会

 これは、1954年5月22日に発行された「フリースタイルレスリング世界選手権大会」の記念切手です。

 フリースタイル レスリング世界選手権大会は、1954年5月21日、東京・千駄ヶ谷に完成した東京体育館のオープン記念イベントとして、5月22日から25日まで開催されました。参加は15ヶ国91名の選手で、日本人では、フェザー級の笹原正三が金メダルを獲得したほか、フライ級の北野裕秀が銀メダルを、ウェルター級の兼子隆とミドル級の桂本和夫が銅メダルを、それぞれ、獲得しています。ちなみに、団体の総合成績で1位となったのはトルコで、日本は4位でした。

 切手の図案作成作業は、1954年2月から着手され、日本レスリング協会会長で大会組織委員の八田一朗 と郵政側の担当者との間で具体的な打合せが行われました。また、1952年の第7回国体の記念切手が、外国人選手の写真を元に原画を作成し、物議をかもしたことから、郵政省側の担当者は、2月13日、中央大学の道場で学生選手の練習を撮影し、その写真をもとに、日本人レスラーの切手を作るよう努力しています。その甲斐あってか、石膏像をイメージした凹版切手はなかなかの出来栄えに仕上がっており、収集家の評判も上々だったようです。

 なお、1952年から1960年までの記念切手については、以前、拙著『ビードロ・写楽の時代』でいろいろと解説したことがあるのですが、残念ながら、同書は現在、版元品切れで重版未定という状況です。アマゾンの古書市場でもそれなりの値段が付いていることですし、何とかしてほしいのですが…。

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 自転車+青森県
2008-08-17 Sun 13:04
 昨日の北京のメダルは、女子200メートル背泳ぎで中村礼子が銅、レスリングの女子55キロ級で吉田沙保里が2大会連覇の金、同じく48キロ級の伊調千春が2大会連続の銀、男子ケイリンで永井清史が日本人としてこの種目初めての銅、という結果でした。というわけで、きょうはメダル獲得競技シリーズの第6弾。レスリングについては今日もメダルが期待できそうですので、今回は自転車競技の切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第32回国体

 これは、1977年10月1日に発行された第32回国民体育大会(国体)の記念切手で、津軽国定公園の岩木山と岩木川を背景に、自転車競技が描かれています。

 1977年の国体・秋季大会は、10月2日から7日までの日程で、青森県下8市17町の各会場で開催されました。ちなみに、この年の国体は、冬季大会・夏季大会も青森県で行われたため、秋季大会とあわせて、青森県は史上初の完全国体の開催県となっています。秋季大会の参加者は、28競技・約1万7000名で、主催者側はこの大会を“あすなろ国体”と呼んでいました。 ちなみに、青森県といえば、レスリングの伊調姉妹は八戸市の出身です。もっとも、この切手が発行された時、彼女たちはまだ生れていませんでしたが…。

 ところで、1977年という年は、中野浩一がプロ・スクラッチ(現在のスプリント)種目で優勝したことを受け、日本自転車競技連盟(日本車連)が国際自転車競技連合(UCI)に世界自転車選手権での競輪の採用を打診しており、日本発祥の“ケイリン”が国際競技に向けて歩み始めた年といってよいでしょう。

 その後、世界選手権では、1980年のフランス・ブザンソン大会で、プロだけの種目として、正式に「ケイリン」として採用され、オリンピックでも、2000年のシドニー大会から正式種目として採用されています。

 ちなみに、自転車競技を描いた日本最初の切手は1948年発行の第3回国体(田型の1種)で、ついで、1963年発行の東京オリンピックの寄附金つき切手(第5次)がありますので、この切手は3番目の発行です。

 なお、今回ご紹介の切手を含む1970年代後半の記念切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でいろいろと解説しておりますので、よろしかったら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 続・柔道の切手
2008-08-16 Sat 11:25
 北京オリンピックの柔道は、昨日、柔道の男子100キロ超級で五輪初出場の石井慧が金メダル、女子78キロ超級の塚田真希が銀メダルという形で有終の美を飾りました。というわけで、きょうはメダル獲得競技シリーズの第5弾、シリーズ2度目の柔道切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 東京五輪募金(柔道)

 これは、1962年6月3日、東京オリンピックの資金を集めるための寄付金つき切手(第2次)の1枚として発行された柔道の切手で、跳腰の場面が描かれています。

 東京オリンピックの寄附金つき切手は、1961年10月11日に第1次分の3種が発行されましたが、このときのは、やり投げ、ランナー、水泳、レスリング、女子飛び込みの5点の候補の中から、最終的に、やり投げ、レスリング、飛び込みの3点が切手に採用されました。

 実は、郵政省側は最初の切手に柔道を取り上げることを検討していたのですが、最初の寄附金つき切手を10月中旬に発行するためには、6月20日までに原画を印刷局へ渡さねばなりませんでした。ところが、柔道をオリンピックの正式種目に採用するか否かを決めるアテネのIOC総会は6月19日からの開幕で、さらに、東京大会の競技種目を柔道を含む20種目とし、大会の会期を10月11日(開会式は10日)から25日とすることが正式に決定されたのは、6月21日のことでした。

 こうしたことから、東京大会からの正式種目採用は確実視されていたとはいえ、万一、採用見送りとなった時のことを考えて、とりあえず1961年10月発行の第1次の寄附金つき切手からは柔道は外されることになったのです。

 ちなみに、第2集以降の切手の題材が決定されたのは、第1次の寄付金つき切手が発行された後の1961年12月6日のことで、このとき、第1次のときと同様、女子競技を取り上げた切手を毎回1点ずつ入れるという方針が確定されるとともに、ペンディングになっていた柔道のほか、平均台と水球が第2次発行の切手に取り上げられることが決定されました。

 さて、切手の発行当日、東京中央局(中郵)に早朝から並んでいた人の証言によると、午前6時半の時点では並んでいたのは15人程度でしたが、時間とともに行列は数を増し、8時に切手の発売が始まった時には、局の中央入口から通りに沿って建物を北に流れ、さらに左側に迂回して三菱銀行の前まで延びていたそうです。このため、銀行側からは、中郵に対して、業務に支障が出るとの苦情も出されたとか。

 まぁ、現在からは想像もつかないような切手ブームの時代の光景ですが、そもそも、東京駅の周りでも、中郵そのものが建て替えとなり、三菱銀行も三菱東京UFJ銀行となってしまいましたからねぇ。昨日の終戦記念日が63回目を数え、平成生まれの若者が五輪でメダルを取るご時世ですから、昭和も遠くなりにけり、というのも無理からぬことなのかもしれません。

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 大韓民国60年
2008-08-15 Fri 10:41
 昨日は北京五輪で、内村航平が体操男子個人総合で銀メダルを獲得したので、体操切手を持ってこようかとも思ったのですが(いずれ、機会を見つけて何か紹介します)、まぁ、今日ばかりは『韓国現代史:切手でたどる60年』の著者として、この切手を取り上げないわけにはいかないでしょう。(画像はクリックで拡大されます)

 大韓民国政府樹立(ムクゲ)

 これは、いまから60年前の1948年8月15日、大韓民国政府の正式樹立を記念して発行された切手の1枚で、韓国の国花・ムクゲが取り上げられています。

 日本の敗戦後、連合国軍最高司令官一般命令第1号により、朝鮮は米ソにより北緯38度線で南北に分割占領されます。これは、当初はあくまでも暫定的な措置とされていましたが、その後、東西冷戦の進行により、5年間を限度とする信託統治の後、南北統一の政府を樹立するというモスクワ協定(1945年12月)のプランは実現が困難になっていきます。

 米ソ間の調整が難航する中、アメリカは自力での問題解決をあきらめ、1947年9月17日、朝鮮問題を第2回国連総会に上程。国連臨時朝鮮委員会を設置し、1948年3月末までに、同委員会の監視下に総選挙を実施するとの決議を採択させます。

 しかし、すでに北朝鮮のソビエト化をほぼ完成させていたソ連は、朝鮮半島からの米ソ両軍の同時撤兵を主張。選挙監視のために国連委員会が北緯38度線以北に立ち入ることを拒絶しました。このため、1948年2月、国連総会中間委員会は、“選挙の可能な地域”、すなわち南朝鮮での単独選挙を決議。こうして、同年5月10日、米軍政下の南朝鮮で第1回総選挙が実施されました。

 この選挙結果を受けて、5月31日、大韓民国の正式成立に先立ち、憲法制定を最大の目的とする国会が開院。李承晩が議長に選出され、6月10日には国会の組織・運営方法等を正式に定めた南朝鮮国会法を制定し、同25日には国連の臨時朝鮮委員会も正式に南朝鮮国会の成立を認定します。そして、7月17日の憲法制定を経て、24日には李承晩が大韓民国の初代大統領に就任。8月15日の解放3周年にあわせて、大韓民国政府が正式に樹立され、翌16日午前零時をもってアメリカ軍による南朝鮮の軍政は解消されることになります。

 なお、新たに発足した韓国政府の主要メンバーは以下のとおりでした。

 大統領   李承晩
 副大統領  李始栄
 国務総理  李範奭
 内務部長官 尹致暎
 外務部長官 張沢相

 その後、現在にいたるまでの韓国の歴史は、まさに激動の60年間と呼ぶべき展開を辿っていきます。そうした歴史の物語を、切手を片手に眺めてみたのが、最新の拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』です。もともとが新聞連載のコラムをまとめたものなので、各項目は見開き2ページの読みやすい構成になっております。韓国史の本というと、これまでは政治的な主義主張が強すぎて、フツーの日本人にとっては読みづらいものが多かったように思うのですが、本書は、そうした点でもバランスの取れた記述を目指しましたので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 男か女か
2008-08-14 Thu 12:30
 北京からは連日、日本人のメダル獲得のニュースが届き喜ばしい限りですが、それに連動して、このブログのメダル獲得競技シリーズも第4弾です。昨日の午後から今日の午前中までの日本人選手の獲得メダルは、柔道女子70キロ級の上野雅恵が五輪2連覇の金、フェンシング男子フルーレの太田雄貴が日本人としてこの種目初の銀、競泳男子200メートル平泳ぎの北島康介が2大会連続の2種目連覇となる金、という結果ですが、ここはやはり初ものということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 東京五輪募金(フェンシング)

 これは、1962年10月10日、東京オリンピックの資金を集めるための寄付金つき切手(第3次)の1枚として発行されたフェンシングの切手です。

 日本でフェンシングの切手が発行されたのは、1959年10月の第14回国体の記念切手が最初のことで、この切手は日本のフェンシング切手としては第2号ということになります。ただし、切手の制作に際しては、第14回国体の記念切手の制作時に撮影された資料写真が使われました。切手のモデルとなったのは慶応義塾大学の女子選手です。注意深く切手を見ると、マスクの後ろから長い髪が出ているので女性であることがわかるのですが、素人がパッと見た限りでは男女どちらか瞬時に判断するのは難しいんじゃないでしょうか。

 ところで、この切手が発行された当時は、東京オリンピックを控えた好景気の中で、空前の切手ブームが日本全体を覆っていました。このため、この切手に関しても、値上がりを見越した業者筋による買占めがあいつぎ、多くの局では発行初日に切手は完売となっています。

 こうした状況のなかで、日本郵趣協会(以下、郵趣協会)の機関誌『郵趣』は、切手発行後の1962年12月号で「記念切手はナゼ買えない? 制限発行をみんなで打ち破ろう」と題する特集を組み、日本の経済成長率や各種消費財の延びから推計して、記念・特殊切手の発行枚数は平均1400万組(この切手の実際の発行数は500万組)が妥当であるとの提案し、それに賛同する各界著名人の声を掲載しています。

 さらに、『郵趣』1963年1月号の巻頭には、「全郵普の買占めを許すな!! 五輪切手の配給数5分の1を独占」と題する記事が掲載され、波紋を呼びます。

 記事によると、通常、切手普及課は、1000万枚程度発行される記念切手の場合、郵趣協会に1万2000組(このほか、郵趣協会では各局に手配して、合計2万組を確保していたという)、全日本郵便切手普及協会(全郵普)に1万組弱となっていました。このため、400万組の発行となった第1次の募金切手については、郵趣協会への切手普及課からの割当は、通常よりも少ない1万組とされました。

 ところが、全郵普に対する割当量は、通常よりも減らされるどころか、大幅に増やされて8万組にも上っています。東京中央局への配給が40万組ですから、実に、その2割が全郵普に回された勘定です。

 それでも、この全郵普への配給分が市場に放出されていれば良かったのですが、『郵趣』によると、全郵普は、郵政省の関係者が切手を横流しして個人的な利益を得るために、切手をストックとして抱え込んでおり、「新橋のガード下のTというキャバレーで、切手係の某が頭文字だけでよばれて大金を使って遊んでいる」事実を挙げ、募金切手をめぐる全郵普のやり方には「利権と汚職の臭いがプンプンしています」とのことです。

 いずれにせよ、募金切手の品薄状態は深刻で市価も暴騰しています。たとえば、第3次の募金切手が発行されてまもなくの業者間の取引では、発行されたばかりの切手3種のシートには、一時、1750円(郵便局の窓口売価は、寄付金分を入れても3種シートで600円)の値がつけられたとの報告もあったほどで、当時の『読売新聞』朝刊には、「切手業者への優先横流しを摘発:東京中郵普及課の慣行を読売暴露」と題する記事も掲載されたほどです。

 もっとも、それだけ人気を集めた五輪の募金切手ですが、日本の切手マーケットの規模からすると、500万組の発行でも決して少なくなかったというのが実情でした。このため、多くの切手が未使用のまま退蔵され続けた結果、現在では、未使用の切手には額面相当の価値しかなく、換金しようとすれば手数料分を差し引かれて額面以下にしかならないのが現実ですから、郵便に使うのがベストでしょう。

 ただし、この時代の記念切手に関しては、ほとんどが未使用で退蔵された結果、発行当時の消印が押されている使用済みは、かえって希少価値が出てそれなりの値段で取引されていますので、押し入れの中などに、この時代の記念切手が貼られたはがきや封筒が眠っていたら、捨ててしまわず、大事に保管されるなり、ヤフオクあたりで処分されることをお勧めします。

 なお、そうした東京オリンピック前後の切手バブルの状況については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ご一読いただけると幸いです。(アマゾンでは古書として高値が付いていますが、発売元にはまだ在庫がありますので、定価でお求めになれます)

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 体操切手(吊輪)
2008-08-13 Wed 14:22
 昨日から今日の午前中にかけての北京での日本人選手の獲得メダルは、柔道女子63キロ級で谷本歩実が五輪史上初の2大会連続オール1本勝ちで2連覇の金、男子体操の団体総合で日本チームが銀、競泳男子200メートル・バタフライで松田丈志が銅、でした。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第3弾。すでに、柔道は10日、水泳は11日の記事で、取り上げましたので、きょうは体操ネタということで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 第5回国体(吊輪)

 これは、1950年に発行された第5回国民体育大会(国体)の記念切手のうち、体操の吊輪を取り上げたもので、いわゆる体操競技に関する切手としては日本で最初の1枚になります。

 1947年から1949年にかけて、日本の記念切手は濫造・濫発状態が続いていました。これに対して、日本国内はもとより、アメリカの日本切手収集家グループからも不満の声が上がり、アメリカに拠点を置く日本郵便切手研究クラブ(International Japanese Philatelic Specialists Study Club)の副会長・R.P.アレクサンダーがマッカーサー宛に、日本の記念切手発行政策の是正を求める書簡を出すほどでした。

 そのせいもあってか、1950年に入ると、記念切手の発行件数は大幅に減らされ、国体切手の発行も中止されるのではという観測がなされていました。実際、1948年・1949年の2年にわたって発行されていた冬季及び夏季大会の記念切手は、1950年は発行されていません。

 その流れで、秋季大会についても“ローカル・イベント”として記念切手の対象とすべきではないとの声が、収集家の間ではもちろん、郵政省内でも支配的になっていたようです。さらに、国会での大臣答弁で、周年記念の切手は四半世紀単位を原則とすると明言されたことから、「国体五周年」の記念切手の発行はありえないだろうというのが、当時の大方の見方でした。

 ところが、1950年8月に入ると、今回の国体に際しても従来同様の記念切手を発行すべきとの議論が郵政省内で急浮上。結局、9月4日の切手図案委員会において、会期初日の10月28日にあわせて、従来どおり、4種連刷の記念切手が発行されることになりました。ちなみに、1950年の国体(秋季大会)は、10月28日から11月1日まで、愛知県下8市町の50余の会場で開催され、29種目・1万7804名が参加しています。

 なお、記念切手の濫造・濫発を止めるきっかけになったとされるアレクサンダーの書簡や、その前後の状況については、拙著『濫造・濫発の時代』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 イギリスへの亡命
2008-08-12 Tue 11:15
 タイのタクシン元首相が昨日(11日)、渡航先のロンドンから地元メディアに声明を送り「公正な裁判が望めないため、帰国せず英国に滞在する」として事実上の亡命を表明しました。タイからイギリスへの(事実上の)亡命というと、僕なんかが思いだすのは、やっぱりこのお方でしょうかねぇ。(画像はクリックで拡大されます)

 ラーマ7世(高額)

 これは、1928年にタイで発行された1バーツの通常切手で、立ち姿の国王ラーマ7世が描かれています。

 ラーマ7世は、1893年、ラーマ5世と側室の間の子として生まれ、青年時代にはイギリスやフランスに留学し、1924年の帰国後は軍務に就いていました。ところが、翌1925年に国王で異母兄のラーマ6世が成人した子を残さないまま亡くなったため、急遽、王として擁立されます。

 物心両面での準備が全く整わないまま国王となってしまったラーマ7世は、即位するといきなり、先王時代に膨らんだ財政赤字の問題に直面。このため、大規模な人員整理などの財政再建策に取り組み、財政を好転させることに成功します。しかし、当時のタイは一般の国民には参政権が与えられていなかったこともあって、王室や貴族の特権は維持されているにもかかわらず、国民に負担を強いたことで、フランス留学組の中堅官僚・軍人を中心に絶対王制への不満が高まりました。

 一方、国王は世界的に猛威をふるっていた共産主義がタイ国内にも流入し、革命が発生することを真剣に恐れ、次善の策として、段階的な国会開設の方針を立てました。具体的には、まず、国民の政治参加を訓練するための移行措置として、市制(地方自治制度)の導入が検討されましたが、そのモデルのひとつとされた日本の市制に関する文献の翻訳に手間取り、このプランは立ち消えになってしまいます。

 そうしているうちに、1929年10月、世界恐慌が発生。タイの輸出は大幅に減少し、経済状況が一挙に悪化すると、ふたたび、王制に対する不満が高まることになります。このため、国王は1932年4月のバンコク建都150年祭にあわせて、立法議会法案を含む憲法の公布を目指したものの、有力王族の反対で実現できませんでした。

 このため、同年6月24日、立憲君主制の実施を求めていた人民党がクーデターを起こして王族を人質に取り、国王に憲法公布を要求する立憲革命が発生。国王は人民党の要求を受け入れて人民主権の憲法に署名・公布し、ラーマ5世以来の絶対王制は終焉を迎え、タイは立憲君主制に移行します。

 ところが、革命後の人民党は、かつての“民主化”要求とは裏腹に複数政党制の導入を拒否して独裁色を強めていきます。これに対して、巻き返しを図る国王は“真の議会制民主主義”の実現を求めて人民党政権と対立しますが、かえって“護憲民主勢力”と自称する人民党は反対派を“旧体制への復帰を意図する憲法の敵”として弾圧してしまいました。

 このため、人民党の傀儡となることを嫌った国王は1934年1月、眼病治療の名目でイギリスに事実上亡命し、いつまで経っても民主制に移行しようとしない革命政権に抗議するため、1935年、自らの意志で退位してしまいました。このため、人民党政権は、スイス修学中の国王の甥をラーマ8世として即位させ、急場をしのいでいます。ただし、ラーマ8世は即位の大礼を終えた後、再びスイスへ戻ってしまい、タイは一時期、実質的に国王不在の状況に陥りました。
 
 なお、退位後のラーマ7世はその後もイギリスにとどまり、2度と帰国することのないまま、1941年にロンドンで客死。遺骨がタイに戻ったのは1949年のことでした。

 ちなみに、このあたりの事情については、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろとご説明していますので、機会がありましたら、ぜひ、ご一読いただけると幸いです。

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 フジヤマのトビウオから60年
2008-08-11 Mon 14:29
 北京のオリンピックは、昨日から今日にかけて、柔道男子66キロ級の内柴正人が金、女子52キロ級で中村美里が銅、そして、競泳男子100メートル平泳ぎで北島康介が世界新記録で金メダルを獲得しました。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第2弾です。柔道の切手は昨日の記事で取り上げましたので、今日は水泳の切手をご紹介しましょう。(画像はクリックで拡大されます)

 第3回国体(夏季)

 これは、1948年9月、第3回国民体育大会(国体)・水上大会(当時は夏季大会のことをこう呼んでいた)の記念切手で、水泳選手が描かれています。

 1948年8月、戦後最初のオリンピックとなったロンドン五輪が開催されましたが、敗戦国日本の参加は認められていませんでした。このため、日本水泳連盟は、オリンピックの水泳競技が行われる8月8日、東京の神宮プールで日本選手権を開催。オリンピック記録よりも好記録を出して実力世界一を示そうとしました。

 その結果、400メートル自由形で、オリンピック優勝タイムが4分41秒0であったのに対して、当時日大生の古橋廣之進が当時の世界記録(4分35秒0)を更新する4分33秒4というタイムをマークし、敗戦に打ちひしがれた日本国民に大きな希望を与えたことは広く知られています。

 第3回国体の夏季大会は、こうした古橋フィーバーの真只中で、1948年9月16日から19日まで、福岡県八幡市(現在は北九州市八幡)の大谷プールを会場として開催され、会期1週間前の9月9日、今回ご紹介の記念切手が発行されました。

 なお、この切手のシート上部には、「第三回國民体育大會記念 THE THIRD NATIONAL ATHLETIC MEETING」と和英両文表記の題字が入っていますが、これは、第3回国体の招致をめぐって、東京都と福岡県が激しい誘致合戦を展開した際、福岡県側が地元の占領当局を動かして大会開催を勝ち取ったことと無縁ではないのかもしれません。

 さて、今回ご紹介の切手に関しては、当時、切手に描かれているのは古橋ではないかとの噂が流れましたが、逓信省側は「この切手はたゞ單に水泳を現したものであつて特定の個人を描いたものではない」と噂の否定に躍起になっています。もっとも、古橋を描くと誤解されたことで切手じたいの評判が高まったかというと、事実は全く逆で、当時の郵趣雑誌は「將に水に溺れんとするあがきか、或ひは泥沼をもがきつゝあるか」(『郵趣』)とか、「肥溜へ落ちてもがいている圖」(『京都寸葉』が紹介した三島良績の評)といった具合に、評判は散々でした。実際、逓信省側も、「殘念な事には資料の不足と資材の貧困はこの切手をして成功の部類に入れる事が出來なかつた」として、失敗を認めています。

 なお、いまから60年前の第3回国体に関しては、夏季大会のほか秋季大会の記念切手も発行されていますが、それらについては、拙著『濫造・濫発の時代』で詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご一読いただけると幸いです。

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 最初の柔道切手
2008-08-10 Sun 15:54
 北京オリンピックでは女子柔道の谷亮子が今大会日本人選手の初メダルとなる銅メダルを獲得しました。金が期待されていただけに残念といえば残念ですが、何はともあれ、世界で第3位ですからね。とりあえず、健闘を讃えたいと思います。というわけで、今日は日本初(というよりも、世界初)の柔道切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 第8回国体

 これは、1953年10月の第8回国体の記念切手です。このときの国体切手の題材選定に際しては、当時の郵務局長・松井一郎が柔道の愛好家であったことから、彼が柔道切手の発行を強く主張したといわれています。
 
 切手のデザイン制作に際しては、郵政省のデザイナーだった木村勝と久野実の2人が東京・水道橋の講道館に取材に赴き、写真等の資料を借り出したのですが、講道館側の資料には切手向きのものがなかったため、木村らは、著名な柔道家であった醍醐敏郎に各種の型を実演してもらって写真を撮影。それをもとに、木村が「跳ね腰」を、久野が「巴投げ」を描く原画を作成しましたが、同時に発行されるラグビーの切手の原画が横型であったことから、柔道も横型にあわせることになり、木村の「跳ね腰」ではなく、久野の「巴投げ」が採用となりました。

 ところが、久野の「巴投げ」に対しては、講道館側から、「絵画としては良いのだが、巴投げのような寝技はレスリングにもあり、間違えられても困るから変更したほうが良いのではないか」との意見が出されたため、あらためて、三船久蔵 による型の演技を撮影した映画を資料として久野が「肩車」の場面を描く原画が作成し、切手となりました。なお、三船は、1956年に発行の世界柔道選手権の記念切手のモデルにもなっています。

 なお、今回ご紹介の切手については、印影の加減で技を掛けている選手が足袋を履いているように見えるとか、あるいは、柔道着が柔道着らしく見えない、などの批判が寄せられるなど、デザイナーの苦労の割には、評判はいま一つでした。

 なお、五輪期間中は、日本人選手がメダルを獲得したら、その競技の切手をご紹介していくつもりです。男女別とか、細かい種目については、大目に見てください。今回は、とりあえず、日本人のメダル第一号ということで、柔道も“一番切手”をご紹介しました。

 * 先ほど、カウンターが38万PVを突破しました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、あらためて、お礼申し上げます。

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 台湾の独自性③
2008-08-09 Sat 11:40
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『東亜』の2008年8月号ができあがりました。3ヶ月に1回のペースで僕が担当している連載「郵便切手の歴史に見る台湾の独自性」では、今回からいよいよ日本時代に突入です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 総督府始政21年・絵葉書

 これは、1916年6月17日に台湾総督府が発行した「台湾総督府始政21回記念」の絵葉書で、新旧の台湾総督府が取り上げられています。

 下関条約により、台湾を領有した日本は、台湾総督府を設けて台湾統治を開始します。

 総督府の庁舎は、当初は、清朝時代の布政使衙門が接収されて用いられていましたが、1907年、新庁舎の設計案が公募されています。そして、審査の結果、1909年、第二等(第一等は該当作なし)となった長野宇平治(辰野金吾の高弟で早稲田大学教授。後に日本建築士会初代会長)の作品をもとに、台湾総督府営繕課の技師、森山松之助が大幅に修正を施して、1916年、赤レンガ造りの新庁舎が竣工し、一九一九年から使用されることになりました。

 新庁舎は東向き、すなわち、日本の方向を向いて建っており、上空から見ると“日”の字の構造となっているのが特徴です。正面入り口は東側の中央にあり、高さ60メートルの中央塔には台湾初のエレベーターが設置され、塔からは台北市街が一望できました。

 今回ご紹介の絵はがきには、その新旧ふたつの庁舎が並べて取り上げられており、旧庁舎と比較対照することで新庁舎の威容や、日本の統治下で台湾の近代化が急速に進展したことなどを見る者に強く印象づけるデザインとなっています。ちなみに、画面上部の肖像は、左が民政長官の下村宏、右が台湾総督の安藤貞美です。

 旧総督府の庁舎は、現在でも、台湾の総統府として使われています。

 台湾・総統府

 この写真は、今年の3月に台北に行った時に撮影したもので、ちょうど、総統選挙と同時に台湾名での国連加盟申請の是非を問う国民投票が行われる直前だったため、そのことを訴えるスローガンが時計台に取り付けられています。
 
 総統府の1階部分はツアー形式での見学が可能で、僕も参加してみたのですが、日本時代を知るボランティアのお年寄りが、「日本時代は本当によかった。蒋介石父子の時代は暗黒時代だった。李登輝さんの時代にようやくまともになった。台湾の人間は人が良いから、しっかりしないと(大陸の)シナ人に騙されてばかりだ。」という趣旨のことをことあるごとに語っていましたが、その後すぐに、馬政権が発足してしまいましたからねぇ。あのご老人、今頃どうしてるんでしょうかねぇ。

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 五輪開幕
2008-08-08 Fri 10:59
 2008年8月8日の午後8時という8の4並びということで、今夜、北京オリンピックの開会式が行われます。お騒がせの聖火が紆余曲折を経ていよいよオリンピック会場にともされるわけですが、それにちなんで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ソウル五輪成功

 これは、1988年のソウル五輪(そういえば、ソウル大会も88オリンピックと言われてましたな)終了後の同年12月20日、“ソウルオリンピック成功”と題して韓国が発行した小型シートで、オリンピック開会式の模様が取り上げられています。

 ソウル五輪の開会式は、1988年9月17日、ソウルの松浪区にあるソウル蚕室総合運動場(通称・ソウル・オリンピック・スタジアム)でおこなわれました。開会式ではソウル芸術団による民俗舞踊をはじめさまざまなパフォーマンスが行われましたが、客席が一番沸いたのは、聖火リレーのランナーとして孫基禎が満員のスタジアムに入ってきた瞬間でした。

 孫は、南昇龍とともに日本統治下の1936年にベルリン・オリンピックのマラソン代表として出場。孫が金メダル、南が銅メダルという好成績を残しましたが、当時の朝鮮は日本の植民地であり、孫と南は“日本代表”としての出場であったため、表彰台では彼らの望む太極旗ではなく、日章旗を見上げることになりました。このため、孫は悲劇の英雄として、ベルリンでの金メダル獲得から約半世紀後の1988年、祖国で開催されたオリンピックの聖火ランナーとしてトラックを半周した後(当時の孫は76歳という高齢ですからね。ハードな走りは無理です)、聖火を若い選手に渡して退場します。

 ところが、その選手が聖火台に聖火を点火した瞬間、聖火台の縁にとまって羽を休めていた鳩の群が一瞬にして炎に巻き込まれて一部が焼け死ぬというハプニングが発生。平和のシンボルが聖火で丸焼けになるとは何事かという韓国国民のクレームが相次ぎ、孫による“ウィニング・ラン”の感動もいささか水をさされた格好となりました。ちなみに、今回ご紹介の切手では、当然のことながら、聖火に焼かれている鳩の姿は分からないよう、トリミング処理が施されています。

 まぁ、韓国の場合は、開会式が生放送でそのまま中継されていたため、全世界の人々が“鳩の丸焼き”の瞬間を目撃することになったわけですが、今回の北京の場合は、実際よりも10秒間送らせて映像を配信するそうですから、こうしたハプニングを見ることはまず不可能でしょうな。もっとも、“鳩の丸焼き”なら単なる笑い話ですみますが、五輪開催の陰で、民主活動家や、チベットやウイグルの独立運動家たちが“丸焼き”にされたり、焼きごてをあてられるなどの拷問を受けたりしているとなると、笑いごとではありません。

 なお、いまから20年前の“88オリンピック”については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいろいろとご紹介しています。20年前、“先進国”の入口に立ったばかりの韓国でも、オリンピックの開催をめぐっては、西側諸国では考えられないような事件がいろいろと起こっていますが、当時の韓国と似たような立場にあるとされる中国でも、きっと、トンでも事件がいろいろと起こるんじゃないかと思います。比較のためにも、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 試験問題の解説(2008年7月)-7
2008-08-07 Thu 11:31
 昨日に引き続き、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「この郵便物(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 ジェッダ(オスマン帝国)

 これは、紅海に面したアラビア半島の港町、ジェッダからエジプト宛に差し出された郵便物です。貼られているのは、1908年に発行されたオスマン帝国の1ピアストル切手で、1909年11月17日のオスマン帝国の消印が押されています。

 イスラムの二大聖都、メッカ・メディナを含むアラビア半島・紅海沿岸のヒジャーズ地域は、第一次大戦以前はオスマン帝国の支配下にありました。このため、この郵便物が示しているように、ヒジャーズ地域では主権者としてのオスマン帝国が郵便局を設置し、郵便サービスを提供するというのが自然な姿になります。

 ただし、オスマン帝国が最初の切手を発行したのは1863年のことでしたが、ヒジャーズにおいてオスマン帝国が近代い郵便制度を実施するのは1870年代以降のことです。これは、郵便という西洋的な制度を聖地に持ち込むことへの躊躇や、郵便を通じて異教徒が(間接的とはいえ)聖地と自由に接触し得るようになることへの懸念があったためとも考えられるが、確かなことはわかっていません。

 この間、1865年6月には、当時、紅海航路の汽船を運行していたエジプトがジェッダに郵便局を開設し、エジプト本土と同様の切手を発売して、ヒジャーズから域外宛郵便物の取扱を開始しています。このサービスは、汽船の主な利用者であったエジプト人巡礼者の便宜をはかることを目的に行われたものです。

 本来、ジェッダ発着の郵便物に関してはジェッダの主権者であるオスマン帝国郵政が取り扱うべきで、エジプト郵政(国際的には形式的な宗主国のオスマン朝からは自立した存在とみなされており、オスマン帝国とは別に独自の切手も発行しています)の活動は、現在の視点からすれば、越権行為といえます。しかし、現実の問題として、オスマン帝国がジッダ発着の外信便を取り扱っていない以上、エジプト郵政がジェッダに郵便局を開設し、汽船の利用者を念頭に外信を取り扱ったのも無理からぬことでありました。実際、ジェッダにおけるエジプト郵政の活動は、ジェッダ発着の外信便を取り扱うのみで、ジェッダを拠点にヒジャーズ域内の業務を取り扱うわけではなく、あくまでも便宜的な色彩の濃いものであったことがうかがえます。

 一方、ジェッダでのエジプト郵政の活動に刺激を受けたオスマン帝国郵政は、ようやく1870年代初頭になってジェッダとメッカに郵便局を開設し、ヒジャーズの主権者として自前の郵便活動を開始しましたが、その後も、ジェッダにおいては、一般の商人や巡礼者などはエジプト郵便局を好んで利用し、オスマン朝郵便局の利用者はトルコ系の兵士などに限られていたといわれています。

 このように、ジェッダにおいてオスマン朝郵政とエジプト郵政とが併存している状況の中で、1874年10月、外国郵便物を取り扱うための国際機構として一般郵便連合(現在の万国郵便連合の前身)が創設され、エジプトとオスマン朝は原加盟国としてこれに参加。この結果、同連合の境域内宛の郵便料金は発信国の切手によって納入することが定められ、ジェッダにおけるエジプト郵政の活動はその根拠を失い、オスマン朝郵政はヒジャーズの発着の郵便物を取り扱う責任が生じました。

 これを受けて、ヒジャーズにおけるオスマン朝の郵便網の整備も急速に進められ、1875年には、メディナ、ターイフ、ヤンブー、アブハ、クンフダなどの主要な郵便局とその周辺の小規模な郵便局が相次いで開局ます。そして、これらの郵便局の活動が軌道に乗ったことで、ジェッダのエジプト郵便局も1881年10月30日限りで閉鎖され、ヒジャーズにおけるオスマン朝の郵便主権もようやく確立されました。以後、1916年に“アラブ叛乱”が発生するまで、ヒジャーズの郵便は主権者であるオスマン朝の郵政が担当していくことになります。

 試験問題の解答としては、切手を発行し、郵便局を設置して郵便サービスを提供することは(少なくともこの時代は)その地域の主権者が行うべき行政サービスであることを明らかにした上で、オスマン帝国支配下のジェッダでは、当然のことながら、オスマン帝国の切手が使われていたことを説明することが基本になります。その際、エジプト郵政の活動についても触れられていれば、文句のつけようはありません。

 さて、1週間にわたって続けてきた“試験問題の解説”と銘打ったコーナーは、とりあえず、本日で終了です。授業とは関係のない皆様もお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

 明日(8日)からは平常通りの内容に戻りますので、よろしくお付き合いください。

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 試験問題の解説(2008年7月)-6
2008-08-06 Wed 10:15
 きのうに引き続き、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 イラク国王像(民族服)

 これは、1927年にイラクで発行された通常切手で、国王ファイサルの肖像が取り上げられています。

 オスマン帝国時代の旧バスラ州・バグダード州・モースル州の地域のうち、旧バスラ州と旧バグダード州は、第一次大戦中、英印軍によって占領され、軍政が敷かれていました。一方、モースル州に関しては、休戦時にはオスマン帝国が維持していたのですが、1918年11月、イギリスが休戦時の混乱に乗じて占拠。これら3州は、第一次大戦後の1920年4月、サンレモ会議の決定により、一括してイギリス委任統治領のイラクとされました。

 これに対して、戦後のアラブ国家独立の密約を反故にされたアラブ側は激昂。同年6月から10月にかけて、イラクのほぼ全域で反英暴動(1920年革命)が起こります。

 このため、現地住民を慰撫する必要に迫られたイギリスは、同年11月、暫定アラブ政府(国民評議会)を設置。翌1921年3月、イギリスの植民地相であったウィンストン・チャーチルは、いわゆるカイロ会議を招集し、①イラクの行政権をアラブ政府に委譲する、②アラブの英雄・ファイサルを確実にイラク王とするためにイギリスは影響力を行使する、③委任統治に代わる同盟条約をアラブ政府と締結する、というイラク政策の基本方針を決定しました。これを受けて、同年8月に行われた国民投票の結果、イギリスの目論見どおり、ファイサルがイラク国王(アミール)となり、イラクにおける親英政権の基盤が確立しました。

 その後、1922年10月、1926年1月、1927年12月、1930年6月の4回にわたり、イギリス・イラク間での各種の協定ないしは条約が調印されることでイラク側の自立性が高められ、1932年にイラクが国際連盟に加盟したのを受けて、イギリスの委任統治は完全に終結します。

 今回の切手は、ファイサルを描く切手としては最初のもので、伝統的な民族衣装の姿で描かれています。額面がアラブ式のフィルス・ディナールではなく、インド式のアンナ・ルピー(この切手は1ルピー)となっているのは、大戦中、英印軍がイラクを占領して以来の名残りで、1932年の独立以降は通貨改革により、フィルス・ディナール額面の切手が発行されるようになっています。

 試験の解答としては、この切手がイギリス委任統治下のイラクで発行されたモノであること、肖像の人物が国王ファイサルであること、を示したうえで、現在の“イラク”という枠組みが出来上がるまでの経緯を説明してもらえれば十分です。

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 試験問題の解説(2008年7月)-5
2008-08-05 Tue 09:35
 きょうから3日間は、都内の某大学でやっている「中東郵便学」の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)について説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 エルサレム・ロシア局

 これは、1909年、エルサレムのロシア局で使用するために発行された切手です。

  オスマン帝国の領内における帝政ロシアの郵便活動は、1721年にサンクトペテルスブルグ=イスタンブール間で外交文書を運んだのが最初といわれています。その後、1774年になるとイスタンブールの領事館で郵便物の定期的な取り扱いが始まり、ロシア側は“カピチュレーション”を援用するかたちで郵便網を拡充していきます。

 郵便印が用いられるようになったのは1830年ごろのことで、1856年にはロシア通商航海会社(ROPiT)による郵便サービスが始まり、翌1857年以降、オデッサ経由でオスマン帝国内の同社のオフィスからロシア全土への郵便物の配達が可能となりました。

 オスマン帝国内のロシア局では、1909年までは各局共通の切手が用いられていましたが、1909年以降、使用局を限定した加刷切手が発行されるようになりました。今回ご紹介の切手もその一例で、ロシア通商航海会社による郵便50年(1857年から起算されています)の記念切手として用意されたものに“Ierusalem”(エルサレム)の文字と5パラとの額面表示が加刷されています。

 試験の解答としては、①この切手がエルサレムのロシア局で使用するためのものであること、②ロシアをはじめとする列強諸国は、カピチュレーションを援用する形で、オスマン帝国内に郵便局を設けたこと、の2点がきちんと説明できているかどうかがポイントになります。

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 試験問題の解説(2008年7月)-4
2008-08-04 Mon 10:12
  昨日に引き続き、都内の某大学でやっている『タイ三都周郵記』をテキストにした「宗教学」の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)に描かれている寺院について、右側の人物との関係にも触れつつ説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 パラマチーヌチット・チノーロット生誕200年

 これは、1990年に発行されたパラマチーヌチット・チノーロット生誕200年の記念切手で、背後には彼のゆかりの寺として、バンコクのワット・ポーが描かれています。

 巨大な涅槃仏(寝釈迦)で有名なワット・ポーは、バンコクの王宮の南側に隣接する場所にあります。アユタヤ時代に建立された古刹で、王立寺院に序せられたのはトンブリー王朝時代のことですが、現在の建物の多くと涅槃仏は、この寺の住職であったパラマチーヌチット・チノーロットに篤く帰依したラーマ三世の時代のものです。

 パラマチーヌチット・チノーロットは、ラーマ1世の王子として1790年に生まれましたが、12歳のときにワット・ポーの沙弥(見習い僧)となり、以後、この寺で一生を過ごしました。パーリ語に堪能な詩人としても多くの作品を残しており、僧として最高位の大僧正になっています。

 かつてのワット・ポーは仏教の教学はもちろん、パーリ語やタイ式医学、薬草学、占星術、美術、詩文などを教授する学問所でもありました。現在でも、タイ式マッサージの教習所が境内にあるのはその名残です。パラマチーヌチット・チノーロットは、そうした学問の府を代表する碩学でした。

 切手に取り上げられているのは、この寺の本堂にあたる布薩堂で、高さ4メートルの本尊が安置されています。なお、ワット・ポーの名を有名にしているのは境内の北西部にある巨大な涅槃仏ですが、こちらは、長さ46メートル、高さ15メートルの巨大なもので、足の裏には、指に指紋に模した法輪が2つずつ計20点、踵から指の付け根までの部分に仏教における吉祥の図案108点の螺鈿細工が施されています。

 試験の解答としては、切手の寺がワット・ポーであることを明らかにした上で、ワット・ポーが学問所に役割を果たしていたこと、ならびに、その代表的な碩学としてのパラマチーヌチット・チノーロットのことを説明できているかどうかがポイントになります。もちろん、布薩堂や涅槃仏のことについて書いてあれば、それも加点要因とします。

 さて、『タイ三都周郵記』をテキストにした「宗教学」の試験問題としては、いままで取り上げてきたもののほか、「アユタヤのワット・ヤイ・チャイ・モンコンについて説明せよ」というものもあるのですが、こちらは切手とは無関係に容易に調べられる内容のものですので、解説は省略します。明日からは、引き続き、「中東郵便学」の試験問題のうち、切手にかかわるものを取り上げることにします。

 * きのう・おととい(8月2・3日)のトークイベントは、無事、盛況のうちに終了いたしました。ご参加いただきました皆様には、あらためて、この場を書利してお礼申し上げます。

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 試験問題の解説(2008年7月)-3
2008-08-03 Sun 09:43
 昨日に引き続き、都内の某大学でやっている『タイ三都周郵記』をテキストにした授業の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)とに描かれているものについて説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 ガルーダ

 これは、1925年に発行されたタイ最初の航空切手の1枚で、ガルーダが描かれています。

 ガルーダは頭・翼・爪・口は鷲、胴・腕・脚は人間の半鳥半人の半神。もともとはインド神話に登場する想像上の動物ですが、仏教・イスラム伝来以前よりヒンドゥー教圏であった東南アジア諸国で、他のヒンドゥー教の神々と併せて取り上げられています。

 インドの『マハーバーラタ』によると、造物主であるプラジャーパティにはヴィナターとカドゥルーという2人の娘がいました。あるとき、2人は賭けをしましたが、カドゥルーがいかさまで勝ち、ヴィナターを奴隷にしてしまいます。

 その後、ヴィナターの産んだ卵から、ガルーダが生まれました。ガルーダは生まれたときから天をつくほどに巨大で、稲妻のような瞬きをし、大山も風神とともに逃げるほどに羽ばたき、口から吐く光は四方に広がって火事のようであったため、神々は驚いて火の神と崇めたといわれています。

 母親がいかさまによって奴隷となったことを知ったガルーダは、母親を解放するための条件として要求された聖水を得るため、天上界に乗り込みます。ガルーダは天上界の神々を次々に打ち破り、聖水を奪って飛び去ります。その勇気と力に感動したヴィシュヌ神は、ガルーダに不死の命を与え、ガルーダはそれを受けてヴィシュヌの乗り物(ヴァーハナ)となりました。ガルーダがタイでは国王の御座船の舳先の飾りとなっていたり、インドネシアでは航空会社のシンボルになっていたりするのは、このためです。ここで取り上げている航空切手のモチーフに使われているのも、同様の理由と考えてよいでしょう。

 その後、ガルーダは聖水を追ってきた最強の神、インドラをも打ち破り、インドラとは永遠の友情を誓うようになります。そして、聖水を地上に持ち帰り、母親を無事に解放しました。一方、聖水がガルーダの手を離れたことを確認したインドラは、聖水を奪還しています。

 試験の答案としては、『マハーバーラタ』の詳細な内容を記す必要はありませんが、ガルーダがインド起源の半神であることや、なぜ、タイの国章や国王の御座船に用いられていることの意味などについては、きちんと説明をしてもらう必要があります。

 トーク・イベントのご案内
 本日(3日)14:30から、東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。内容は、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

 * 昨日のトークは、無事、盛況のうちに終了いたしました。遊びに来ていただいた皆様には、この場をお借りしてお礼申し上げます。

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 試験問題の解説(2008年7月)-2
2008-08-02 Sat 09:57
 昨日に引き続き、都内の某大学でやっている『タイ三都周郵記』をテキストにした授業の試験問題の解説です。今日は、「この切手(画像はクリックで拡大されます)とについて説明せよ」という問題を取り上げてみましょう。

 アイサワン亭

 これは、1941年に発行された5バーツの通常切手で、アユタヤのバーン・パイン宮殿のアイサワン亭が取り上げられています。

 バーン・パイン宮殿は、もともとは、アユタヤ王朝第24代の王、プラーサート・トーンが1632年にチャオプラヤー川の中洲、バーン・パインに建てた離宮で、当初は舟遊びに用いられていたといわれています。1767年、アユタヤが滅亡すると、バーン・パインの離宮も破壊されましたが、ラーマ4世の時代に再建が始められ、次のラーマ5世の時代に、現在の離宮の主な建物が建てられています。

 バーン・パインのシンボルともいうべき、アイサワン亭(正式名称はプラ・ティナン・アイサワン・ティッパアット)は、ラーマ4世がバンコクの王宮内に建てたアーポーン・ピモーク・プラサートを息子のラーマ5世がコピーして建てたもので、建物の中にはラーマ5世の銅像が立っていますが、この切手では確認できません。

 ところで、タイの通常切手は、1883年以来、原則として国王の肖像を描くものばかりでしたが、1941年シリーズでは、国王の肖像を描くもののにくわえ、水牛による耕作風景を描くモノや、アイサワン亭を描くモノなど、国王の肖像のない切手も登場しています。

 1932年の立憲革命の後、革命を主導した人民党は、かつての“民主化”要求とは裏腹に複数政党制の導入を拒否して独裁色を強め国王と対立を深めていきました。このため、1934年、国王ラーマ7世は眼病治療の名目でイギリスに渡り、1935年3月2日、そのまま退位。幼少の甥、ラーマ8世が即位するものの、新国王は第二次大戦の終結までスイスにとどまり、タイは実質的に国王不在の状態となります。

 こうした状況の下、1938年に首相に就任したピブーン・ソンクラームは、ナショナリズムを宣揚するラッタニヨム政策(国家信条)を発動。従来の国名であった“サヤーム(シャム)”は外国人による蔑称だとして国名を“タイ”に変更したほか、タイ語を国語とする国民形成、国民の服装の西洋化、国産品の愛用、華僑の同化政策、全タイ民族の大同団結などの民族主義政策を展開していきました。その一環として、切手のデザインも、国王の肖像のみならず、広く“タイ“を象徴するものとして、バーンパイン宮殿などが取り上げられることになったというわけです。

 試験の解答としては、この切手に描かれているのがバーンパイン宮殿のアイサワン亭であることを明らかにした上で、バーンパイン宮殿とアイサワン亭についてきちんと説明し、この切手がラッタニヨム政策の時代のものであることを指摘できていれば、十分です。

 トーク・イベントのご案内
 きょう・あす(8月2・3日)の2日間、東京・大手町のていぱーくで開催のサマーペックス会場内にて、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』の刊行を記念したトーク・イベントを行います。2日は14:00から、いわゆる“竹島切手“についての話題を中心に、3日は14:30から、韓国切手に見る日本時代の“遺産”についての話題を中心に、お話しする予定です。サマーペックスのHPにアクセスしていただくと、無料の招待チケットをプリントアウトしていただくことができます。当日は、会場ならではの特典もご用意しておりますので、よろしかったら、ぜひ、遊びに来てください。

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