内藤陽介 Yosuke NAITO
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 308議席
2009-08-31 Mon 18:53
 きのう(30日)投票が行われた総選挙は、衆議院480議席のうち民主党が小選挙区と比例代表を合わせて単独で過半数(241議席)を大きく上回る308議席を獲得して圧勝。政権交代が確実となりました。この問題については、このブログでもこれからちょくちょく触れることになると思いますが、きょうのところは、こんな切手をもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 第49回列国議会同盟会議(5円)

 これは、1960年9月27日に発行された“第49回列国議会同盟会議”の記念切手のうち、議会の議席と英文の会議名を組み合わせた5円切手です。

 列国議会同盟会議(IPU)は、1870年の普仏戦争が当時としては甚大な被害をもたらしたことの反省から、国家間の紛争防止のために各国の国会議員がたがいに話し合う機会を設けるべきとして、ロベルト・フォン・ウォルテスキルヒェン(オーストリアの下院議員)とドン・アルトロ・マルコアルト(スペインの国会議員)が提案したもので、1889年6月にパリで第1回会議が開かれました。

 わが国がIPUに加盟したのは、1908年のことで、議員団の派遣は1910年のブリュッセル会議以降のことです。第二次大戦後、占領下では議員団の派遣は見送られてきましたが、1952年のベルン会議を機に議員団の派遣が再開され、現在にいたっています。

 その1960年度の会議は、9月29日から10月7日の日程で、東京の国会議事堂で行われ、初日の29日には昭和天皇ご臨席の下、開会式が行われました。なお、切手の発行日については、当初、郵政省サイドはIPU会議の初日にあたる9月29日が適当と考えていましたが、切手発行の申請を行った衆議院側は開会に先立ち執行委員会の開かれる27日の発行を強く希望。結局のところ、これに押し切られるかたちで、9月27日の発行となりました。

 さて、きのうの選挙で民主党が獲得した308議席というのは、衆議院の定数(480)のうち64.2%にあたります。これがどのくらいの割合か、今回ご紹介の切手に描かれた議席に当てはめてみると、おおよそ議長席と一番外側の議席のTOKYOの文字の右端を結んだ線よりも右側(議長席から見て左側)が民主党の議席というイメージになります。ちなみに、右翼・左翼という言葉の語源は、フランス革命時の議会での議長席から見た左側の席を共和派が占めていたことによるものですが、日本の民主党も自治労や日教組が支持母体ですから、議長席の左側に陣取るイメージで考えても、当たらずとも遠からず、といったところでしょう。
 
 それにしても、4年前の郵政選挙で小泉自民党に熱狂した国民が、今度はこぞって民主党に投票というのもねぇ…。まぁ、4年前には自民党に投票せず、今回は民主党に投票しなかった僕なんかは、よっぽどの変わり者ということなんでしょうな。


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 選挙切手と交換された葉書
2009-08-30 Sun 14:59
 今日(30日)は総選挙の投票日です。というわけで、選挙がらみのネタの中から、こんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 選挙ハガキ(1948)

 これは、1949年1月に投票が行われた総選挙の際の選挙葉書で、“選挙”の文字が入った1948年12月27日付(公示日)の消印が押されています。このときの総選挙は、日本の郵便史の上では、いわゆる“選挙切手”(選挙事務証紙)が使われた唯一の総選挙として知られています。

 “選挙切手”は候補者1人につき1000枚ずつ配布され、候補者はこれを郵便局に持ち込んで同数の官製はがき(当時の葉書料金は2円ですが、残っていた15銭葉書が用いられています)と交換するか、そのまま開封の郵便物に貼って差し出すことができました。今回ご紹介のマテリアルは、選挙切手と交換された葉書の使用例で、右下には無料の選挙郵便であることを示す朱線が引かれています。

 さて、投票の受付時間は原則として午後8時までです。僕も、お昼前に近所で投票をしてきましたが、まだ投票がお済みでない方は、ぜひとも、貴重な一票を無駄にしないよう、お出かけください。

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 洗礼者ヨハネ殉教の日
2009-08-29 Sat 15:34
 きょう(8月29日)は、洗礼者聖ヨハネの殉教の日です。というわけで、こんな切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 アルボーレ修道院

 これは、1996年にルーマニアが発行した切手で、南ブコヴィナ地方の“5つの修道院”のうちのアルボーレ修道院が取り上げられています。

 アルボーレ修道院は、1503年、モルダヴィアの貴族だったルカ・アルボーレが洗礼者ヨハネ(ルーマニア語でいうとイオアンですが)の殉教にささげるために建立されました。

 洗礼者ヨハネは、人々に神の国の到来と悔い改めを説くとともに、ヨルダン川でイエスを含む多くの人々に洗礼を授けていましたが、当時、この地域を治めていたヘロデ王が弟の妻ヘロディアを自分の妻としたことを批判し、投獄されてしまいます。その後、ヘロデは、自らの誕生日の宴席で、ヘロディアの娘サロメが披露した踊りに感心し、褒美として望むものは何でも与えると公衆の面前で約束。これに対して、ヨハネを憎んでいたヘロディアは、娘のサロメをそそのかしてヨハネの首を望ませました。ヘロデは、ヨハネを投獄したものの、彼が人々の尊敬を集めていることを知っていたため、ヨハネの処刑には躊躇しましたが、最終的に、王として公の約束を破るわけにはいかず、ヨハネの首を斬ってしまいました。これが、洗礼者ヨハネの殉教です。

 今回ご紹介した修道院を建立したアルボーレは、シュテファン大公、ボグダン3世、シュテファニツァの三代のモルダヴィア公に仕えましたが、後にシュテファニツァと対立し、1532年、二人の息子とともに斬首されてしまいます。まぁ、彼も修道院を建立した際には、まさか自分がヨハネと同じ運命をたどることになろうとは想像だにしていなかったでしょうが、なんとも皮肉な話です。

 さて、今年はチャウシェスクの処刑で全世界に衝撃を与えたルーマニアの民主革命から20周年にあたります。これにあわせて、現在、11月にルーマニアがらみの本を刊行すべく準備を進めているところです。正式タイトルや内容の詳細などが決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお願いします。

 * このブログでご案内しておりました「タイ」フォーラム <タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>(9月4日)は申し込みが定員に達しましたので、受付を終了しました。ありがとうございました。


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 『郵趣』今月の表紙:観光切手
2009-08-28 Fri 17:54
 (財)日本郵趣協会の機関誌『郵趣』2009年9月号ができあがりました。『郵趣』では、毎月、表紙に“名品”と評判の高い切手を取り上げて、原則として僕が簡単な解説文をつけていますが、今月はこんなモノを取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 エグモント山

 これは、1935年から発行が開始されたニュージーランドの通常切手(いわゆる“観光切手”)のうちの最高額3シリング切手です。

 観光切手はニュージーランドは自国の動物や風景などを描いた14種セットの通常切手で、今回ご紹介の3シリング切手は、L.C.ミッチェルの原画をもとに、デラルー社が凹版印刷で製造しました。

 切手の用紙は、当初、ニュージーランドを示すNZの文字と星の間隔が大きく、それゆえ、小型の単片切手にはNZの文字と星が一つずつしか入らないものが使われていましたが、翌1936年から1941年にかけて、図案はそのままで透かしの文字と星の間隔を詰めた用紙(その結果、1枚の切手に複数の星と文字が入るようになりました)に印刷された切手が発行されています。今回ご紹介のものは、その表紙の1936年から発行された切手です。

 切手に描かれているエグモント山は標高2518メートルの成層火山で、ニュージーランド北島で2番目に高い山です。もともとは、現地のマオリ族からタラナキ山と呼ばれていましたが、ジェームズ・クックがイギリス名でエグモント山と命名しました。過去に8回、大きな噴火をしていますが、1755年の噴火を最後に現在は休火山となっています。また、(西洋人の目から見ると)形が富士山に似ていることから、その山麓が映画『ラストサムライ』のロケ地として使われたことで話題になったこともあります。

 今回の『郵趣』の表紙ではセットの14種すべてを並べてご紹介していますので、残りの13種につきましては、雑誌をお手にとってご覧いただけると幸いです。


 「タイ」フォーラム <タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>のご案内

 9月4日(金)午後2時より、東京・丸の内の三井住友銀行丸ノ内クラブにて、タイ王国大使館、財団法人日本タイ協会、日本タイクラブの主催、日本経済新聞社 日メコン交流年2009事業の後援により、「タイ」フォーラム<タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>が開催されます。『タイ三都周郵記』の著者・内藤陽介も、学習院大学の川嶋辰彦先生(紀子妃殿下のお父上です)やタレントのいとうまい子さんとともに、パネラーとして登場する予定です。

 入場は無料ですが、会場スペースの都合から、ご参加いただけるのは先着100名様(要・事前申込)となっております。イベントの詳細や、お申し込み方法などは、主催者特設HPをご覧ください。

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 松園没後60年
2009-08-27 Thu 21:46
 日本画家の上村松園が1949年8月27日に亡くなってから、きょうでちょうど60年です。というわけで、この1枚をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 序の舞

 これは、1965年の切手趣味週間の切手で、松園の代表作「序の舞」が取り上げられています。

  1965年以降の趣味週間切手の題材を日本美人画に求めようというプランは、1964年の趣味週間切手「宿木」の発行を間近に控えた同年2月20日の郵便切手図案委員会で決定されました。そして、委員会メンバーのうち、海外に造詣の深い東京国立博物館美術課長の岡田譲、洋画家の宮本三郎、日本画家の山田申吾らの専門家によって、五年分の題材(日本画3回、洋画2回)として、上村松園の「序の舞」、藤島武治の「蝶」、小林古径の「」、黒田清輝の「湖畔」、土田麦僊の「明粧」が候補として挙げられ、その第一弾として「序の舞」を取り上げることがメンバー全員の一致によって決定されています。

 オリジナルの軸装された絵画を切手の原画として構成したのは長谷部日出男で、切手発行と同時に用いられた特印(こちらは、軸装の状態の「序の舞」が取り上げられている)も彼がデザインしました。その際、オリジナルの絵では若草色となっている裾の色が水色に変えられるなど、着物を中心に、色調が変更されています。

 今回の切手は、一般にも人気の高い松園の美人画ということで前評判が高く、発行枚数も前年よりも1000万枚も多い3800万枚とされたため、切手の製造には通常よりも時間がかかり、発行日の4月20日の段階では、全数量が印刷局から納品されたわけではなく、東京中央局切手普及課への補給が少量ずつ五月雨式に続けられました。このため、一般の収集家の間では、「今回の切手は発行枚数が多く、いつまでたっても売れ残っている」という印象が強かったようですが、実際には、補給分の在庫の消化率も悪くはなかったと伝えられています。

 さて、切手に取り上げられた「序の舞」は、1936年、松園62歳の時の作品で、松園の作品の中でも最も有名なもので、現在は東京藝術大学の所蔵となっています。なお、この作品についての、松園は次のように語っています。

 この絵は、現代上流家庭の令嬢風俗を描いた作品ですが、仕舞のなかでも「序の舞」はごく静かで上品な気分のするものでありますから、そこを選んで優美のうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。何者にも犯されない、女性のうちにひそむ強い意志をこの絵に表現したかったのです。幾分古典的で、優美で、端然とした心持を私は出し得たと思っています。

 ちなみに、24歳で絵のモデルとなった藤沢宮(旧姓・広田)は、後に、切手の発行時には52歳で東京都渋谷区に住んでいることが判り、話題となりました。


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 世界漫遊記:5つの修道院①
2009-08-26 Wed 15:17
  『キュリオマガジン』2009年9月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫遊記」は、今回から4回の予定でルーマニア北東部・南ブコヴィナの“5つの修道院”を取り上げます。今回は、そのなかから、こんなモノをもってきました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

 ヴォロネツ・全景

 これは、“5つの修道院”のうちのヴォロネツ修道院の全景を取り上げた1967年の切手です。

 中世のブコヴィナでは一般の農民や兵士たちは教会内に入ることを許されておらず、また、彼らの多くは文字がほとんど読めませんでした。そこで、一般庶民の信仰にこたえるため、教会の外壁に聖書の場面やキリスト教史の重要なエピソードなどが描かれるようになり、外壁がフレスコ画で埋めつくされた独特な修道院が生まれることになりました。その代表的なものが“5つの修道院”で、その中には“モルダヴィアの聖堂郡”として世界遺産に登録されているものもあります。

 今回ご紹介のヴォロネツ修道院は、1475年のヴァルスイの戦いでオスマン帝国軍を打ち破り、ローマ教皇から“キリストの戦士”と讃えられたシュテファンが、自らの指南役であった修道僧ダニエルに感謝して寄進したもので、“ヴォロネツ・ブルー”と呼ばれる独特の青色をベースにした壁画で有名です。

 なかでも、西面に描かれている「最後の審判」は最高のフレスコ画と評されており、これがあるがゆえに、ヴォロネツ修道院は“東欧のシスティーナ礼拝堂”と称されているほどです。下の写真は、その「最後の審判」を実際に撮影した写真と、それとほぼ同じ構図で修道院を取り上げた1996年の切手です。切手に関しては、紙面の都合で連載記事では掲載できませんでしたので、ブログに掲載しました。

 ヴォロネツ「最後の審判」(写真)   ヴォロネツ「最後の審判」(切手)

 今回の記事では、ヴォロネツ修道院を中心に、切手に取り上げられた壁画の部分とその実物を対比させながらご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧ください。 

 なお、今年はチャウシェスクの処刑で全世界に衝撃を与えたルーマニアの民主革命から20周年にあたります。これにあわせて、現在、11月にルーマニアがらみの本を刊行すべく準備を進めているところです。正式タイトルや内容の詳細などが決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお願いします。


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 名古屋城
2009-08-25 Tue 13:08
 夏の甲子園(全国高等学校野球選手権)は、愛知県代表の中京大中京が1966年以来、43年ぶりの全国制覇を決めて幕を閉じました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 名古屋城・赤

 これは、1937年に発行された外信用の10銭切手で、名古屋城が描かれています。中京大中京高校は、前身の中京商業時代から通算すると、春・4回(1938年・1956年・1959年・1966年)、夏・7回(1931年・1932年・1933年・1937年・1954年・1966年・2009年)の甲子園を制していますが、これだけ優勝回数があれば、その優勝年に名古屋がらみの切手が1回くらい発行されていてもおかしくはあるまい、と思って探してみた結果、ヒットしたのがこの1枚だったというわけです。

 さて、名古屋城を描く10銭切手は外信書状料金用として、1926年に青色のものが発行されていますが、1937年4月1日の郵便料金値上げに伴い、葉書料金用として、同じデザインで赤色に改色したものが発行されました。当時は、万国郵便連合条約により、外信書状料金の切手は青系統の刷色、同葉書料金用の切手は赤系統の刷色とすることになっていたためです。なお、赤の名古屋城10銭切手には、偽造防止に着色繊維をすきこんだ“毛紙”に印刷されたものと、白紙に印刷されたものがありますが、これは、白紙に印刷されたものです。

 今回ご紹介の切手のデザインは、田山宗尭の『日本写真帖』所収の写真をもとに、吉田豊が切手として構成したものです。

 田山宗堯は、1859年、宍戸藩士の子として江戸に生まれ、1917年に亡くなった人物で、1900年に設立された警察協会の機関誌『警察協会雑誌』を出版する警眼社の社主を務めました。1910年に朝日新聞社が主催した第2回世界1周会に参加し、そのとき撮影した写真をもとに制作・刊行した『世界写真帖』は、2円50銭と当時としては高価だったにもかかわらず、明治末のベストセラーになりました。『日本写真帖』は世界写真帖の成功を受けて1912年に刊行されたもので、樺太、朝鮮半島、満洲(関東州・満鉄付属地)、台湾など、当時の大日本帝国の支配地域の観光地や都市の風景、乗り物、社会風俗などの写真が収録されています。
 
 なお、名古屋城は1945年5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて焼失したため、切手に取り上げられた城は現存していません。天守については、名古屋開府350年にあたる1959年に再建されましたが、本丸御殿の再建工事は2022年に完成予定とのこと。その時までには、もう1回くらい、中京大中京が甲子園を制することがあるかもしれませんな。
 

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 ソウルの国会議事堂
2009-08-24 Mon 14:39
 きのう(23日)、韓国の金大中元大統領の告別式がソウルの国会議事堂前広場で国葬として営まれ、李明博大統領ら約2万4000人が参列しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 ソウルの国会議事堂

 これは、1975年9月に韓国で発行された“新議事堂竣工”の記念切手で、漢江の中洲にある汝矣島の国会議事堂の建物が描かれています。建物の前に広がる緑地帯が、きのう国葬が行われた議事堂前広場です。

 韓国の国会は、1948年5月末の開院当初、旧朝鮮総督府の建物を議事堂としていましたが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、国会もソウルを離れて、大邱の文化劇場、釜山の文化劇場、同・武徳殿が臨時議事堂として用いられました。1953年に朝鮮戦争が休戦になり、ソウルが韓国の首都として復活したのに伴い、国会もソウルに戻ることになり、旧京城府民館(現・ソウル特別市議会議事堂)が改装され、議事堂として使用されます。そして、光復30年にあたる1975年8月には、漢江の中洲、汝矣島に新議事堂(現在の議事堂)が完成し、移転しました。

 現在でこそ、汝矣島は、国会議事堂をはじめ、KBSなどの報道機関や株式市場、銀行などが立ち並ぶオフィス街となっていますが、日本時代の飛行場が1958年に閉鎖された後は、開発から取り残されていました。その汝矣島の再開発の手始めとして、島の西端に建設されたのが、新議事堂だったのです。

 汝矣島が新議事堂の建設予定地に選ばれた理由はいろいろと考えられますが、そこには、国会前では反政府デモが行われることも少なからずあったため、それらを市内の中心部から動かしてしまいたいと政府側が考えていた面もあるようです。

 ちなみに、新議事堂が完成したのは、朴正熙による維新独裁体制の真只中で、当然のことながら、金大中は韓国内で政治活動を行うことができませんでした。それだけに、彼が大統領経験者として議事堂前広場で国葬をもって送られる日が来るとは、当時は想像だにできなかったでしょう。

 なお、朴正熙・金大中とその時代については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもまとめていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 

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 独ソ不可侵条約70年
2009-08-23 Sun 13:32
 「欧州情勢は複雑怪奇」として日本の内閣総辞職の原因ともなった独ソ不可侵が1939年8月23日に調印されてから、きょうでちょうど70年です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 チェルナウツィ(ソ連占領下)

 これは、第二次大戦中、ソ連占領下の北ブコヴィナ・チェルナウツィ(現ウクライナ領)からヴィシー政権下のフランス・トールゥーズ宛てに差し出された葉書で、途中でナチス・ドイツの検閲を受けたことを示す印も押されています。

 独ソ不可侵条約は、それまで共産主義撲滅を叫んでいたナチス・ドイツとソ連が結託したという点でも当時の国際社会に衝撃を与えました。また、条約と合せて締結された秘密議定書において、バルト三国、ルーマニア東部のベッサラビア、フィンランドがソ連の勢力圏とされ、独ソ両国はカーゾン線におけるポーランドの分割占領に合意。これを受けて、ドイツは同年9月1日、ソ連は9月17日にポーランドに侵攻、東西から分割占領し、第二次世界大戦が勃発することになりました。

 さて、第二次大戦の勃発後、ドイツ軍はヨーロッパ大陸を席巻し、1940年6月23日、フランスが降伏。ルーマニアの後ろ盾となっていたフランスの敗北を受けて、ソ連は独ソ不可侵条約の密約に基き、ルーマニア領ベッサラビアを併合するとともに、突如、ブコヴィナの割譲も要求します。

 ブコヴィナというのはカルパティア山脈とドニエストル川に挟まれた地帯一帯のことで、歴史的にはオスマン帝国やハプスブルク帝国の支配下に置かれていたこともありましたが、帝政ロシアの時代にもロシア領となったことはなく、1918年以降、その全域はルーマニア領となっていました。

 このため、ソ連によるブコヴィナ併合の要求は何ら合理的な根拠はなく、また、独ソ間の密約の範囲も超えていたため、ドイツもこれに抗議しました。しかし、結局、ブコヴィナ地方のうちウクライナ系住民の多い北ブコヴィナのみをソ連に割譲することで独ソの妥協が成立。6月26日、ソ連から24時間の時限つきで最後通牒を突きつけられたルーマニアも、翌27日、これを受け入れ、28日にはソ連軍が北ブコヴィナに進駐しました。そして、8月2日、ソ連は北ブコヴィナを南部ベッサラビアと合わせて、連邦を構成するウクライナに割譲。このときひかれた境界線が現在のルーマニアとウクライナとの国境となります。今回ご紹介の葉書も、こうした状況下で差し出されたものです。

 その後、1941年6月に独ソ戦が勃発すると、ルーマニアはベッサラビアと北ブコヴィナの失地を回復するためにドイツ側に立って参戦し、一時は北ブコヴィナを回復しました。しかし、スターリングラードの戦い以降、独ソ戦の戦局は急速にドイツ不利に傾いていくと、ルーマニア国内では1944年8月23日、クーデターが発生し親独派政権は崩壊。新政権はドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定を調印しました。その結果、ルーマニアは1940年6月の国境を受け入れ、北ブコヴィナはルーマニアから切り離され、ソ連領に編入されることになります。そして、1991年のソ連崩壊により、両者の境界線がルーマニアとウクライナの国境に受け継がれているというわけです。

 さて、今年はチャウシェスクの処刑で全世界に衝撃を与えたルーマニアの民主革命から20周年にあたります。これにあわせて、現在、11月にルーマニアがらみの本を刊行すべく準備を進めているところです。当然のことながら、今回ご紹介したようなマテリアルも取り上げていくことになるでしょう。正式タイトルや内容の詳細などが決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお付き合いください。

 *きょうのお昼過ぎにカウンターが57万PVを超えました。いつも遊びに来ていただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。


 「タイ」フォーラム <タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>のご案内

 9月4日(金)午後2時より、東京・丸の内の三井住友銀行丸ノ内クラブにて、タイ王国大使館、財団法人日本タイ協会、日本タイクラブの主催、日本経済新聞社 日メコン交流年2009事業の後援により、「タイ」フォーラム<タイの魅力-タイは私をなぜ虜にしたのか?>が開催されます。『タイ三都周郵記』の著者・内藤陽介も、学習院大学の川嶋辰彦先生(紀子妃殿下のお父上です)やタレントのいとうまい子さんとともに、パネラーとして登場する予定です。

 入場は無料ですが、会場スペースの都合から、ご参加いただけるのは先着100名様(要・事前申込)となっております。イベントの詳細や、お申し込み方法などは、主催者特設HPをご覧ください。

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 泰国郵便学(3)
2009-08-22 Sat 14:09
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第43巻第4号が出来上がりました。僕の担当している連載「泰国郵便学」では、今回は1893年のパークナーム事件(シャム危機)を中心に取り上げました。その中から、今日はこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 ルアン・パバーン(仏印)

 これは、現在ラオス領となっているルアン・プラバーン(ルアン・パバーン)で使われた仏印切手のオンピースです。

 現在のラオスの領域には、ヴィエンチャン、ルアン・プラバーン、チャンパーサックのラーオ族3王国が併存していたが、これらはいずれもかつてのタイの属国でした。

 この地域の北部に対しては、1872年から漢族ホー(太平天国の残党といわれている武装集団)の襲撃が繰り返し行われてきましたが、1885年の襲撃でヴィエンチャンが襲撃されると、タイとフランスがそれぞれ討伐隊を派遣。これを機に、1886年5月7日、フランスはルアン・プラバーンに領事館を設置します。さらに、1887年にルアン・プラバーンの王都が襲撃された際、フランス領事館のオーギュスト・パヴィがルアン・プラバーン王とその家族を救出したことで、ルアン・プラバーンはフランスに対する親近感を持つようになりました。

 こうした状況の中で、1888年、タイとフランスはラオス地域での国境線画定交渉を行い、現地軍が駐屯する範囲をそれぞれの領土とすることとして、ルアン・プラバーンの属国(タイから見ると属国の属国)であったシップソーンチュタイ(十二主タイ)がフランス領に編入されます。これ以後、フランスは「ルアン・プラバーン地域の宗主権はヴェトナムにあり、ヴェトナム領を有する仏領インドシナがルアン・プラバーンの宗主権を持っている」とのロジックで、バンコク駐在のフランス領事がメコン川左岸(東岸)はヴェトナムの保護領であると主張するようになりました。

 1892年、ルアン・プラバーン王救出劇の英雄だったパヴィはルアン・プラバーン領事となり、タイ側が提案していた交渉による国境画定を拒否して、メコン川左岸からのタイ軍の撤兵を要求。両国の緊張が高まる中、カムムアン県の知事であったプラ・ヨートムアンクワーンが現地に駐留していたフランス軍と衝突し、フランス人将校が死亡する事件が発生。これを機に、フランスではタイ討つべしとの世論が高揚します。

 そして、1893年7月13日夕方、フランス海軍の戦艦2隻が、タイ側官憲の制止を無視してチャオプラヤー川の河口を強行突破したため、パークナーム(“河口”の意。現・サムットプラーカーン)に置かれていたタイ側の要塞では備え付けの大砲と軍艦で攻撃しました。しかし、フランス側はこれを一蹴。チャオプラヤー川を遡って、午後10時頃までにバンコクのフランス領事館(チャオプラヤー川に面している)へ到着し、港を封鎖してタイ政府に対して、メコン川左岸の割譲を求める最後通牒を突きつけました。これがいわゆるパークナーム事件ないしはシャム危機です。

 国家存亡の危機というべき事態に直面したタイ政府は、当初、賠償金の支払いによって領土の割譲を免れようと考えました。その間に、タイに莫大な経済的権益を有するイギリスが介入してフランスの横暴を食い止めてくれるかもしれないとの淡い期待もあったようです。しかし、最終的にイギリスはこの問題に関しては“中立”を守り、タイを支援することはなく、賠償金支払いのための借款も供与しませんでした。

 結局、1893年10月にタイとフランスの間で結ばれた“講和条約”の内容は、①メコン川左岸の割譲、②メコン川の中州すべての割譲、③ メコン川西岸25キロ地域の武装解除、④カンボジアのバッタンバン州、シェムリアップ州での武装解除ならびに徴税権の喪失、⑤フランス領からタイへの輸入時における関税自主権の放棄、⑥保護民を含むフランス人の自由貿易を容認し、タイの司法権の管轄外とすること、⑦300万フランの賠償金支払い、というタイにとって苛酷な内容のものとなりました。さらに、フランス側は、賠償金支払い完了までの保障占領としてチャンタブリーならびにトラートの両県に駐留し、港湾施設を占領し続けたほか、講和条約の規定を悪用し、仏印のヴェトナム人、ラオス人、カンボジア人のみならず、タイ国民(特に華僑)にまでワイロで保護民の地位を与えています。この結果、治外法権を悪用してタイ国内で不法行為を働く者が急増。タイの治安は急速に悪化していきました。

 このため、タイ側はさらなる譲歩として、1904年にはチャンタブリーならびにトラートの両県からのフランス軍の撤退と保護民の登録制限を求めて、1904年、メコン川右岸のマノープライ、チャンパーサック、ルアン・プラバーンの各州をフランスに割譲せざるを得なくなった。こうして1905年1月22日、フランス海軍はようやくチャンタブリー県から撤退。ルアン・プラバーンのフランスへの割譲に伴い、今回ご紹介するようなマテリアルが生まれることになったわけです。

 なお、一連の事件の後、タイは英仏両国に対する不信感を募らせ、ロシア、ドイツ、日本などとの関係を重視する外交の多角化を志向するようになっていくのですが、その点については、連載の次回で書いてみたいと思います。


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 ハワイ州50年
2009-08-21 Fri 16:34
 1959年8月21日にハワイがそれまでの準州から昇格してアメリカ合衆国の正式な州になってから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ハワイ暫定加刷

 これは、1893年に発行された“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府(以下、臨時政府)”の切手です。

 1795年以降、ハワイ王朝(カメハメハ王朝)の支配下にあったハワイには、1820年代以降、白人(その中心はアメリカ人)による捕鯨や白檀貿易などが行われるようになり、1835年からサトウキビのプランテーション栽培も始まりました。

 こうして、白人たちが上陸するようになると、ハワイには外来の疫病が蔓延し、ハワイの人口は激減。15~25万人いたとされるハワイ人は一挙に4万人にまで減少する。あわせて、アメリカ人(白人)によるプランテーション経営の規模は拡大の一途をたどり、ハワイにおけるアメリカのプレゼンスはますます増大していくことになります。

 そして、1876年のアメリカ・ハワイ互恵条約により、アメリカはオアフ島の真珠湾を軍事目的で利用する権利を獲得し、ハワイの軍事基地化を開始。その代償として、ハワイ産の砂糖は無関税でアメリカに輸出できるようになり、アメリカ人の経営するハワイの砂糖産業は急激に発展を遂げることになります。

 こうした状況の下、近代化の推進に伴うハワイ人の民族意識の高まりを背景に、ハワイ人による王制の強化を求める王制派と、アメリカ人資本家を中心に、王制を打倒しアメリカへの併合をめざす共和派の対立が深刻化。1887年、共和派はクーデタを敢行し、国王カラカウアに新憲法への署名を強要します。この新憲法は、国王の権限を大幅に制限して議会へ委譲するものでしたが、参政権が一部の富裕層にしか与えられていなかったため、実質的に、ハワイ人とアジア系移民の参政権を排除するものでしかありませんでした。

 1891年に即位した女王、リリウオカラニは共和派との対決姿勢を強め、1893年1月14日、国王の権限強化を盛り込んだ憲法草案を閣議に提出しました。これに対して、1月16日、アメリカ公使スティーブンスの要請により、アメリカ海兵隊がイオラニ宮殿を包囲。翌17日には共和派が政府庁舎を占拠し、王政廃止と“アメリカが正式にハワイを併合するまでの臨時政府(以下、臨時政府)”の樹立を宣言するという事件が発生しました。これが、いわゆるハワイ革命です。

 共和派のクーデタによって臨時政府が発足したことに対して、アメリカ政府は現地のアメリカ系財閥の暴走を苦々しく見ており、“革命”を不法なものとして、ハワイ併合を拒否。このため、臨時政府側は、1894年7月4日(アメリカ独立記念日)、ハワイ共和国の独立を宣言します。

 着々と体制を固めていく共和派に対して、1895年1月、王制派は反乱を起こしましたが、反乱はほどなくして鎮圧され、リリウオカラニも首謀者の容疑で逮捕されてしまいます。彼女は、イオラニ宮殿に幽閉され、反乱で捕らえられた約200人の命と引き換えに、女王廃位の署名を強制され、ここに、ハワイ王国は完全に滅亡しました。

 その後、米西戦争の勃発に伴い、ハワイがフィリピンへの中継基地としての役割を担うようになると、1898年8月、アメリカはハワイの領有を宣言。1900年にはハワイを準州として正式な属領に編入し、米領としてのハワイの歴史が始まるのです。


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 バーミヤーンの大仏
2009-08-20 Thu 12:17
 2001年のターリバーン(タリバン)政権崩壊後、5年ぶり2度目となるアフガニスタン大統領選挙の投票がはじまりました。といわけで、きょうはアフガニスタンといえば、やっぱりこれだろうという1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 バーミヤン(単色)

 これは、1951年にアフガニスタンが発行した20プル切手で、いまはなきバーミヤーン(バーミヤン)の大仏が取り上げられています。

 バーミヤーンはカブールの北西約240 km、アフガニスタンのほぼ中央部に位置する都市で、西暦1世紀からバクトリアによって近郊に仏教の石窟寺院が開削され始めました。有名な大仏は5世紀から6世紀にかけて彫られたもので、周囲の壁画などから弥勒菩薩像と考えられています。また、630年にこの地を訪れた玄奘(いわゆる三蔵法師ですな)は、大仏が金色に光り輝き、僧院には数千人の僧が居住していたと記録しています。

 その後、この地域はムスリムの支配下に入り、一部は略奪を受けたりもしましたが、多くの壁画は残され、19世紀以降、この地を探検した西洋人や日本人によって、その美術的価値が世界的に高く評価されるようになりました。しかし、2001年には、当時アフガニスタンを実効支配していたターリバーン政権の手により爆破され、現在では国際支援による修復作業が進められているのはご存じのとおりです。

 なお、バーミヤーンの大仏を取り上げたマテリアルというのは、今回ご紹介の切手以外にもいろいろあるのですが、それらについては拙著『切手が語る仏像:意匠と歴史』でも取り上げていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 DJ 歿す
2009-08-19 Wed 11:41
 きのう(18日)、韓国の金大中(韓国ではしばしば“DJ”と略されます)元大統領が多臓器不全のため、ソウル市内の病院で亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 金大中ノーベル賞

 これは、2000年12月9日、金大中のノーベル平和賞受賞を記念して韓国で発行された切手です。

 金大中は、1924年(戸籍上は1925年)、全羅南道の木浦沖合、荷衣島でうまれました。朝鮮戦争の休戦後まもない1954年に国会議員に初当選し、反李承晩派の実力者である張勉の引き立てにより、野党政治家として頭角を現しました。1960年代以降は朴正煕政権の掲げる開発独裁政策に対して民主化を主張する野党政治家として活躍。1970年9月には民主党の大統領候補になり、翌1971年の大統領選挙では現職の朴正煕に97万票差まで迫る健闘を見せました。

 その結果、朴政権からは危険人物視され、交通事故を装った暗殺工作に遭遇。さらに、1972年の10月維新後は国内での政治活動が事実上封じられたため、日米両国に滞在しながら民主化運動に取り組みました。1973年8月、東京に滞在中、韓国中央情報部によって拉致され、暗殺の危機に遭いましたが、米国の介入により解放され、ソウルで軟禁状態に置かれた“金大中事件”は日本人にとってもなじみが深いところです。

 朴正煕暗殺後の1980年2月、公民権を回復し、政治活動を再開しましたが、全斗煥の新軍部によって5月に逮捕されます。その抗議に端を発した民主化デモを軍部が鎮圧して流血の惨事となったのが光州事件です。事件後は、軍法会議で死刑判決を受けたものの、無期懲役に減刑後、刑の執行を停止されて米国に出国しました。

 1985年に帰国した後、1987年に公民権を回復し、同年末の大統領選挙では盧泰愚に挑んだものの敗退。さらに、1992年の大統領選挙でも金泳三に敗れ、政界引退を表明しました。しかし、1995年に新政治国民会議を結成して政界に復帰し、1997年の大統領選挙で悲願の当選を果たし、1998年2月から5年間、政権を担当しました。

 1997年後半に韓国がアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の大不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った中で大統領に就任した金大中は、韓国史上初の全羅道出身の大統領でした。このため、既得権益を持つ政治家や高級官僚とのしがらみが薄かったことが幸いし、彼は韓国社会の抜本的な改革に着手。一定の成果をあげることに成功しています。具体的には、官界に根強かった慶尚道優先の慣例を排除し、非慶尚道出身者を重要なポストに大幅に登用するなどの“地域主義”の是正、財務部を解体し経済部とするなどの行政機構改革、経済危機に対処するための現代財閥の分割や大宇財閥の解体とIT産業の育成などが挙げられます。また、こうした改革の成果として、任期中の2001年8月までにIMFに対する借入金を完済できたことは、金大中政権の業績として、高く評価されてしかるべきでしょう。

 その反面、外交面では、北朝鮮に対する“太陽政策”を展開し、2000年6月には北朝鮮の金正日総書記との南北頂上会談を実現。その功績によって、ノーベル平和賞を受賞したわけですが、結果的に、“太陽政策”は期待された北朝鮮の軟化をもたらさず、彼らをつけあがらせるだけに終わったことは周知のとおりです。特に、頂上会談の直前に金大中政権が現代グループを巻き込んで北朝鮮に不正送金を行っていた疑惑も明らかになったことから、彼のノーベル平和賞は“金で買ったもの”という批判の声も上がるようになり、韓国人初のノーベル平和賞受賞という金看板も色あせてしまうことになりました。

 現在の大韓民国の骨格は、良くも悪くも、朴正熙と金大中の二人によって作られたと僕は理解しています。その一方の主役であった朴正熙の功罪(あくまでも対日関係ではなく韓国の歴史的文脈においてですが)が7:3の割合であったとするなら、金大中の功罪もやはり同じくらいの比率になりましょうか。すくなくとも、金大中は、盧武鉉やその支持基盤であった386世代の連中のような単純な“左派”とは一線を画すスケールの大きな政治家だったことは間違いありません。

 なお、金大中と彼の軌跡については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいろいろと取り上げておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

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 国より党が大事
2009-08-18 Tue 10:13
 今月8日に鹿児島県内で行われた民主党の衆院選立候補予定者の決起集会で、会場に掲げられた民主党のマークが国旗を切り貼りして作られたものだったことが明らかになり、問題となっています。(下の画像左:以下、画像はクリックで拡大されます)というわけで、日本の民主党ではありませんが、党旗を取り上げた切手ということで、この1枚(下の画像右)を持ってきました。

 国旗切り貼り   中国共産党80年

 これは、2001年に中国で発行された“中国共産党(以下、中共)成立80年”の記念切手で、中共の党旗が大きく描かれています。

 あらためて言うまでもないことですが、現在の中華人民共和国という国は中共の一党独裁体制を取っています。かつては、ナチス・ドイツやソ連、東欧共産諸国、サダム・フセイン政権下のイラクなど、政治制度として一党独裁体制を取っている国は少なからずありましたが、現在では中国の他は、北朝鮮(朝鮮労働党)、ベトナム(ベトナム共産党)、ラオス(ラオス人民革命党)、シンガポール(人民行動党)、ビルマ(国家平和発展評議会)、シリア(バアス党)、キューバ(キューバ共産党)など8ヶ国のみとなっています。なお、日本のいわゆる55年体制のことを自民党の一党独裁体制と称する人がときどきいますが、わが国の場合は、複数の政党が選挙で争った結果、自民党が政権を独占し続けてきたというだけで、制度として野党の存在や活動が禁止ないしは制限されていたわけではありませんので、一党独裁制というのは適切ではありません。

 さて、一党独裁制の下では、党が政府や軍を指導するという形態を取っています。中国の人民解放軍が、もともとは、中共の軍隊として出発したことはその象徴的な事例です。また、北朝鮮との外交交渉がしばしば混乱するのも、政府と党の関係が一党独裁体制とその他の通常の国とでは大きく異なっていることが一因となっています。すなわち、北朝鮮では朝鮮労働党の決定はそのまま政府の決定となりますが、他の国では、与党の決定が必ずしもそのまま政府の政策になるわけではありません。わが国の例でいえば、絶頂期の田中角栄であっても、彼の一存だけで閣議決定をひっくり返すのはほとんど不可能でした。

 また、かつて、北朝鮮は自民党の実力者であった金丸信個人を呼び出していろいろと交渉しましたが、これは、政権党の実力者との了解事項はそのまま政府の方針になるはずだという彼らの発想を反映したもので、金丸がどれほど自民党内における政治的発言力を持っていようとも、彼の一存で日本の外交政策がすべて決定されることなどあり得ないということが(理屈としてはわかっていても)感覚的に理解できなかったことによるものでしょう。

 さて、今回問題となった会場の写真を見る限り、国会議員選挙の決起集会ではあるものの、党旗が掲げられているにもかかわらず、国旗は掲揚されていないようです。したがって、この集会を主催した関係者は、国よりも党の方が重要であるという認識を持っているように思われます。じっさい、今回の一件に関して、同党の鳩山由紀夫代表は、国旗の棄損については「そんなけしからんことをやった人間がいるとすれば、大変申し訳ない」と謝罪したものの、党旗について「我々の神聖なマークなので、マークをきちんと作らなければならない話だ」と述べていますが、この報道を見る限り、僕は、彼らが国旗よりも党旗の方が重要であると考えているかのような印象を受けますねぇ。

 まぁ、現在の民主党の中には、かつて、ソ連をはじめとする共産主義諸国に憧れを抱いていた旧社会党のメンバーも少なからず含まれていますので、彼らの発想からすると、一党独裁体制にならって国(政府)よりも党が大事というロジックは自然に導かれるということなのかもしれませんな。

 そういえば、共産圏では、異論を圧殺するための独裁体制のことを“民主集中制”といっていましたっけ。きょう(18日)公示された総選挙で民主党に票が集中することが、左翼的な意味での民主集中制につながることだけは、ほんと勘弁してもらいたいものです。


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 ソマリアの海
2009-08-17 Mon 18:38
 海賊対策で今年3月14日からアフリカ・ソマリア沖へ派遣されていた海上自衛隊の護衛艦「さざなみ」と「さみだれ」が、7月下旬、第2陣の護衛艦2隻と任務を交代し、きのう(16日)、母港の海上自衛隊呉基地に無事帰港したそうです。というわけで、きょうはソマリアがらみのネタの中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 ソマリア・香料貿易

 これは、1959年9月28日、イタリア信託統治時代のソマリアで発行された“第5回ソマリアフェア”の記念切手で、紀元前15世紀の香料貿易のイメージが表現されています。

 アフリカの角に位置するソマリアは、古来、インド洋海域の交通の拠点となっており、紀元後40年から70年ごろのインド洋海域の貿易について記された『エリュトゥラー海案内記』には、すでにモガディシュ地域とインド沿岸との通商関係のことが記されています。その後、900年ごろ、アラビア半島からアラブ系の商人たちが住み着き、以後、海上貿易のみならず、内陸との交易の拠点としても発展。12世紀初頭にはアフリカ東海岸を代表する商業都市に成長しまし、14世紀のイブン・バトゥータや15世紀の鄭和といった大旅行家たちもこの地を訪れています。

 19世紀から20世紀にかけて、ソマリアはイタリアならびにイギリスの支配を受けますが、その時代も交通の要衝としての価値は減じることはなく、1960年に独立を達成した新生ソマリア国家もインド洋交易の拠点としての地位を国家建設の重要な手段として位置付けていました。今回ご紹介の切手は、独立直前、すなわち、イタリアによる信託統治期限切れ直前に発行されたものですが、やはり、海上交通の拠点としてソマリアが歴史的に重要な位置を占めてきたことをアピールする内容となっています。

 1991年以降の内戦により、ソマリア本土は無政府状態に陥っているわけですが、だからといって、国際交易ルートとしてのソマリア沖の重要性が減じるわけでなく、そのことが、結果的に、治安の空白による海賊の跋扈を招いていることは周知のとおりです。海賊の取り締まりは、本来、ソマリア政府が行うべきものですが、現実にそれがきちんと行われていない以上、貿易立国であるわが国が、関係各国と連携して、この地域における海上輸送の安全を自ら確保するのはきわめて当然のことです。そして、ロケット砲まで持ち出す海賊連中を相手に漁船・商船を守るには、やはり、海の警察としての海上保安庁だけでは無理な話で(話を陸上に置き換えてみれば分かりやすいでしょう)、海上自衛隊こそが適任であることは明らかです。

 そういえば、月末の総選挙では、ソマリアに派遣するのは海上保安庁で十分と言っていた某政党が衆議院の第1党になりそうだというのが大方の予想ですが、かの政党が政権を取った後、自衛隊を派遣せずに、わが国の船舶が襲われるようなことになったら、彼らはどう説明するつもりなんでしょうかねぇ。

 いずれにせよ、過酷な環境の中で任務を終え、無事に帰国された自衛官の皆様には「お疲れさまでした。ゆっくりお休みください」と、日本国民の一人として、お礼申し上げたいと思います。

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 東名高速全面復旧
2009-08-16 Sun 11:22
 駿河湾を震源として11日に起きた地震で路肩が崩落し通行止めになっていた東名高速道路上りの袋井-焼津インターチェンジ(IC)間の復旧工事が完了。きょう(16日)午前零時、5日ぶりに全線が開通しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 東名高速完成

 これは、1969年5月26日に発行された“東名高速道路完成”の記念切手です。

 日本における高速道路網の整備は、1957年10月、建設大臣(根本龍太郎)の施行命令により、わが国で最も交通需要の多い東京=神戸間のうち、まず、名古屋=神戸(小牧=西宮)間を貫通する191キロの区間が着工となり、1963年7月、栗東(滋賀県)=尼崎(兵庫県)間の71.1キロの部分開通を経て、1965年7月、名神高速道路が完成しました。

 名神高速道路の工事と併行して、東京=名古屋間の高速道路は、1960年の「東海道幹線自動車国道建設法」に基づいて、1962年5月に着工されます。この間、1966年には、東京=静岡間の建設に対して世界銀行から一億ドルの融資を受け、1968年4月25日に、東京=厚木、富士=静岡、岡崎=小牧の各区間が開通。翌1969年2月1日の静岡=岡崎間、同年3月31日の厚木=大井松田ならびに御殿場=富士の両区間の開通を経て、同年5月26日、大井松田=御殿場間の開通により、東京=小牧間の346.4キロの全区間が完成します。7年間の工事期間で掛かった費用は、3425億円でした。

 東名高速道路の開通により、すでに開通していた名神高速道路とあわせて、京浜・中京・京阪神というわが国の中枢部三地域を貫く東京=神戸間の大動脈がつながり、日本経済の成長に大きな役割を果たすことになります。

 さて、今回ご紹介の切手は、東名高速道路の酒匂川橋付近を描いたものです。酒匂川橋は、神奈川県と静岡県の県境に近い酒匂川(神奈川県)に掛かる橋で、東名高速道路の区間中、最も急峻な橋です。川床から路面までの高さは75メートルで、橋脚は65メートルもありますが、橋の上部に鉄橋の梁などを出さず、ドライバーに橋を橋と感じさせないような設計がなされています。なお、切手発行にあわせて用いられた特印は富士と東名高速道路を描くものでしたが、初日印の指定局には、最後の工区であった大井松田=御殿場間にちなみ、松田局(神奈川県)が選ばれています。

 それにしても、本格的な補修工事は今後も続けられるとはいえ、余震が続く中、わずか5日で復旧工事を無事完成させたとは、あらためて、日本の土木技術のレベルの高さに驚かされます。世間一般のお盆休みはきょうまででしょうが、復旧工事に関わった皆様、どうぞこれから、ゆっくりと疲れを癒してください。

 なお、この切手を含む額面15円時代の記念切手については、拙著『一億総切手狂の時代』でもいろいろと解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 ハングル加刷の靖国神社
2009-08-15 Sat 11:19
 きょうは言わずと知れた終戦記念日です。というわけで、靖国神社がらみのマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 ハングル加刷カバー

 これは、1946年7月4日、米軍占領下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していません)からアメリカ宛ての郵便再開に際して差し出された郵便物で、靖国神社を描く昭和切手にハングルを加刷した5ウォン切2枚と、いわゆる解放切手の1ウォン切手10枚が貼られています。

 南朝鮮では、米軍が進駐した1945年9月以降も日本時代の切手がそのまま流通していましたが、1946年2月1日になって、ようやく、日本時代の切手に“朝鮮郵票”を意味するハングルと新たな額面を加刷した暫定切手が発行されています。

 ただし、暫定切手の発行後も、暫定切手よりも日本時代の無加刷切手が貼られているケースのほうが圧倒的に多く、暫定切手が貼られた郵便物は非常に少ないのが実情です。まぁ、そもそも暫定切手の発行数は最も需要が見込まれる書状基本料金用の10銭切手でさえ68万枚しかありませんでしたから、実用性という点では、米軍政庁が暫定切手を発行する意義には疑問符がつくのですが、切手の発行を権力の象徴と捉えてみると、そのプロパガンダ的な意味は非常に大きなものがあります。

 すなわち、新たな無加刷切手を発行する以前に、“儀式”として、菊花紋章と大日本帝国郵便の表示がある切手の上にハングルを黒々と加刷することは、同じ時期に日本国内で行われていた墨塗り教科書同様、(朝鮮における)日本支配の終焉を人々に強烈に印象づけるうえで、絶対に必要な措置でした。換言するなら、南朝鮮の新たな支配者となった米軍政庁は、こうした加刷切手を発行することによって、体制の転換を可視化しようとしたといってもよいでしょう。

 結局、1946年5月1日に解放切手が発行されたことを受け、同年6月30日限りで無加刷の日本切手とハングル加刷の暫定切手はともに使用禁止となります。今回ご紹介のカバーも、本来であれば、使用禁止後の7月4日に差し出されたものですから、暫定切手の部分には消印は押さないはずなのですが、差出人がアメリカ人で記念のカバーということもあって、切手としては無価値なラベルの上に捨印を押したという感覚なのでしょう。その意味では、郵便史的にきちんと説明のできるカバーではないのですが、ほかにハングル加刷切手のカバーを持っていないので、現時点では暫定的にコレクションに加えているという次第です。

 なお、アメリカ軍政下の南朝鮮とその切手や郵便については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもいろいろと解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 

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 切手が語る宇宙開発史(3)
2009-08-14 Fri 21:16
 雑誌『ハッカージャパン』の9月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回はこんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

 スプートニク2号

 これは、1957年にソ連が発行したスプートニク2号打ち上げの記念切手です。

 1957年10月4日、ソ連は人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功しましたが、当初、ソ連の最高権力者であったフルシチョフは人工衛星の打ち上げを単純に科学技術上の問題と考えており、そのことの持つ軍事的ないしは政治的な意味をほとんど理解していませんでした。ところが、全世界が大騒ぎになるのを見た彼は、ただちに、事態の重大さを認識。国威発揚の手段として、すでに準備が進められていた2発目の衛星の打ち上げをロシア革命40周年の記念日(11月7日)までに行うよう指示します。

 最初の人工衛星打ち上げに成功した後、2発目の衛星では生物を宇宙に連れ出すことが目的とされましたが、そのための研究は早くも1949年にはスタートしていました。

 当初、衛星に乗せる実験動物の候補は猿と犬でしたが、最終的に、躾が容易で飢えにも強く、なおかつ、見栄えが良い(実験成功の暁には、大々的にそのことが報じられることを考慮してのことです)、などの理由から犬が採用となりました。そして、スペースの都合から、体重6キ以下、体長は35センチを越えない雌犬(排泄の時に片足を上げない)のうち、実験結果の撮影のために体色は白もしくは明るいもの、ロシア原産の種であること、などの条件で野良犬がかき集められます。

 その後、大気圏内での犬を乗せたロケット打ち上げ実験が繰り返され、集まったデータをもとに、巻き毛の“クドリャフカ”という名の犬が人工衛星スプートニク2号に乗って宇宙に飛び出すことになりました。ちなみに、この犬は“ライカ犬”という名前でも知られていますが、これは、ソ連側が犬種を“ロシアン・ライカ”と発表したことによるものです。

 さて、クドリャフカを乗せ、10日分の酸素と食糧と実験データを取るための各種の計測器を積み込んだスプートニク2号は、スプートニク1号の打ち上げから1ヵ月後の1957年11月3日、バイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、記念切手も発行されました。

 ただし、このとき発行された記念切手には、打ち上げのハイライトともいうべき犬の姿はどこにも描かれていません。その代わりに、背景にクレムリンが描かれているあたりは、衛星の打ち上げが革命40周年の記念事業であったという事情を如実に反映しているといってよいでしょう。もっとも、クドリャフカに関しては、切手のデザイナーには実験の詳細な内容など知らされていなかっただろうし、クドリャフカの宇宙飛行は国家のために片道燃料で死地に向かう“特攻”のようなものだったから、動物愛護派の国際世論からの批判を恐れたということもあったのかもしれません。

 なお、スプートニク2号からの地上への通信は11月10日に途絶え、機体そのものも打ち上げ162日後の1958年4月14日に大気圏に再突入し消滅しましたが、打ち上げ後4周目にしてすでに衛星からの信号では生体反応は確認できなかったそうです。そのとおりだとすると、衛星はおよそ100分で地球を一周していましたから、6時間後にはすでにクドリャフカは死んでいたということになります。ただし、当時のソ連当局者はこの事実を隠蔽して、“ライカ犬”は一週間程度生きていたと発表しました。まぁ、このあたりは、いかにも共産圏といってしまえばそれまでですが。


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 切手で巡る庭園散歩:識名園
2009-08-13 Thu 13:34
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の8月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手で巡る庭園散歩」では、今月は夏ということで沖縄ネタの中からこんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 識名園

 これは、1999年10月に発行の沖縄県の“ふるさと切手”で、識名園が取り上げられています。

 琉球王家最大の別邸・識名園は、琉球王朝の王城であった首里城の南側に位置しており、南苑とも呼ばれています。尚温王(在位1795-1802)の時代の1799年に造営され、翌1800年に琉球を訪れた清朝の冊封使(皇帝の使者)趙文揩らの接待に用いられたのを皮切りに、歴代の冊封使を迎える迎賓館として、また、王族の保養所として用いられました。

 園内は“心”の字をくずした形の心字池を中心に、周囲に御殿、築山、花園などを配した廻遊式庭園となっています。この形式は同時代の日本でもしばしば見られるものですが、池に浮かぶ島へは琉球石灰岩でつくられたアーチ橋が架かっており、島のあずまやは中国風の六角堂になっているなど、琉球独自のスタイルもみられます。ちなみに、切手に取り上げられているのは、左が御殿と石橋を、右が六角堂です。

 1941年に国の名勝に指定されたものの、沖縄戦で壊滅的な打撃を受け、戦後の1975年から1995年にかけて復元されました。2000年に国の特別名勝に指定され、同年12月世界文化遺産に登録されています。


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 本に埋もれて
2009-08-12 Wed 14:07
 きのう(11日)発生した静岡県沖地震で、静岡市の会社員・池本美和さんが地震で崩れた大量の本に埋もれて窒息死しているのが見つかりました。ご冥福をお祈りいたします。さて、本に埋もれて亡くなったケースといえば、歴史上の人物としてはこの人が有名です。(画像はクリックで拡大されます)

 ジャーヒズ

 これは、1968年にシリアが発行した“第9回科学週間”の切手で、アラブ古典文学の大成者として知られるジャーヒズ(切手発行時は没後1100周年)の肖像が取り上げられています。

 ジャーヒズは西暦776年頃、バスラに生まれました。“ジャーヒズ”というのは、“目玉が出ている”という意味のあだ名ですが、本名よりもこちらが定着しており、切手の肖像もそうした風貌の特徴を表現したものとなっています。

 もともとは貧しい家庭の出身でしたが、勉学好きで写本屋を間借りして一晩中書物を読んで過ごしていたといわれるほどの愛書家でした。815年頃、彼の書いた論文が時のカリフ、マァムーンに認められてバグダードの宮廷に召され、アッバース朝体制を擁護する論客として活躍。200点に及ぶ著作を残したと伝えられています。その大半は現在では散逸していますが、博物学を扱った『動物の書』やペルシャ人を風刺した『けちんぼども』など現存する作品はアラブ古典文学の傑作として高く評価されています。

 さて、ジャーヒズは晩年、故郷のバスラに戻り、868年に亡くなりますが、その死因は大量の蔵書が崩れてきて生き埋めになったためといわれています。

 学生時代、この話を聞いたときには、僕自身を含め周囲の友人たちも狭い部屋で本に囲まれた生活をしていたものですから、大きな地震が起こったら平気かなぁ…と漠たる不安に駆られたものですが、反面、まさかジャーヒズみたいなことがほんとうに起こりうるとは思っていなかったことも事実です。それだけに、今回のニュースを聞いて、実際にジャーヒズみたいなかたちで命を落とすことがありうるということがわかり、ちょっとびっくりしました。特に、落ちてきた本が頭に当たって致命傷になったのではなく、窒息死だったことは二重の驚きです。

 まさに現在この瞬間も、陋屋の中で本とコピーの山に囲まれてパソコンに向かっている僕としては、つくづく、他人事じゃないよなぁというのが素直な感想です。


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 焼津のカツオ
2009-08-11 Tue 15:03
 きょう(11日)午前5時7分頃、静岡県の駿河湾を震源とする地震(同県伊豆市、焼津市、牧之原市、御前崎市で震度6弱を観測)があり、東海道新幹線が始発から午前8時まで運転を見合わせたほか、東名高速道路の静岡―袋井インターチェンジ間が通行止めとなり、また、焼津で60センチ、御前崎で30センチの津波も観測されたそうです。被害にあわれた方には、お見舞い申し上げます。というわけで、きょうは焼津がらみのモノということでこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 カツオ

 これは、1966年5月16日に魚介シリーズの1枚として発行された“カツオ”の切手です。

 魚介シリーズは、日本を代表する画家に魚介類を題材とした切手の原画を書いてもらおうというシリーズで、カツオに関しては、橋本明治が1965年秋に、郵政省から生きて泳いでいるカツオを描くよう依頼され、魚屋からカツオを届けさせて原画を作成しました。

 ところで、カツオは、背は青黒く腹は銀白色で、腹に数本の縞があるのが有名です。ただし、一般的には、この模様は死後でないと現れません。体型は紡錘形で遊泳に適しており、群れをなして春に太平洋岸を北上して秋に南下することが知られています。日本では古くから食用魚として親しまれ、宮城県・高知県の県魚、茨城県の夏の県魚、静岡県の五月の県魚、鹿児島県の春の県魚に指定されています。

 さて、1965年早々、魚介シリーズの企画が公表され、カツオが切手として取り上げられることが明らかになると、当時、全国一のカツオの水揚高を誇っていた静岡県焼津市では、焼津局が初日印適応局の指定を受けるべく、市当局、焼津局、地元の漁協関係者、郵趣関係者を巻き込んで、猛烈な陳情攻勢を展開。その甲斐あって、1966年2月22日の郵政省による報道発表では、焼津局は、“土佐の一本釣り”で有名な土佐清水局(ただし、切手発行時の同局の風景印にはカツオは取り上げられていない)とともに、“かつお”の初日印適応局に指定されています。

 ところが、同時に発表された切手の原画では、いわゆるカツオ縞が描かれていなかったため、焼津では、「腹に縞のないカツオはナンセンスである」として原画に対する不満が噴出。これに対して、郵政省側は「イキの良いカツオには縞がない」と説明し、地元の抗議を一蹴しました。

 その対応が、いかにも木で鼻をくくった官僚的なものであったため、実際にカツオ漁を行っている漁業関係者をはじめ焼津市民は激昂。さらに、“かつお”切手の初日印指定局になったことを考慮して、発行日1ヶ月前の4月15日から使用が開始されることになった新風景印でも、カツオに縞が描かれていなかったことから、地元の不満が爆発しましたが、結局、郵政省が焼津市に対して、「切手に不満があるなら、初日印適応局の指定を取り消す」と申し渡したことで強引に決着させられることになりました。

 なお、実際に、カツオに縞を描くことの是非については、水産学の専門家である海老名謙一が『京都寸葉』に、次のような文章を寄せています。
 
 かつおのシマはあるか、ないか。見えることもあり、見えないこともある。

 なぜか?シマは色素細胞で出来ており、神経興奮状態如何によって伸縮するからである。色素細胞が拡大すれば黒くなり、縮小すれば色が見えなくなる。多くの漁師がかつお漁場で泳いでいるかつおを見て、シマがないと云うのは餌を求めて筋肉が緊張し、神経が興奮している状態であると思われる。

 伊豆の三津浜にある海水の地で静かに泳いでいたかつおに、明瞭なシマがあるのを絵私は確認した。水産大学黒沼教授によれば、ハワイ水産研究所報告にある、船に設備した水中写真でかつおの遊泳群を写したら、きれには明らかに縦縞と横縞が見える。かつおのシマは死相であるというのは誤りである。

 かつおの習性について最も深い研究者は富永盛治郎氏(元岩手水産学校長)で、その著書『鰹』(昭和32年、石崎書店発行)によれば、餌付良好な魚群では横縞鰹と呼んでシマが見える、餌付不良群はシマが見えないと記している。即ちシマが見えたり見えなかったりするのは環境要因によってかつおの生理的変化、神経興奮の強弱如何によるものと思われる。どんな時にシマがどの様に変化するか、今後の研究課題であろう。

 庶民の感情、われわれは常に魚屋のかつおを見ており、シマのあるのが親しいかつおの印象である。せっかくかつお切手として発行されるなら、シマのあった方が一般日本人として親しみが深かったと思う。

 海老名は、以上のように述べた上で、今回の切手について、①尾びれ付根にある背部副ひれ八枚は明瞭に出ているが、下腹部に全くないのは問題、②腹部の銀白色は生きた状態かもしれないが、背部濃紫色の横縞がないのは死んだ背中の状態である、指摘しています。やはり、専門家の目から見れば、腹部の縞があろうとなかろうと、魚屋から取り寄せた、死んだカツオをモデルとしていたということは明らかだったようです。
 
 なお、今回ご紹介の切手を含む魚介シリーズの全体については、拙著『切手バブルの時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 台湾の独自性⑦
2009-08-10 Mon 14:55
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『東亜』の2009年8月号ができあがりました。3ヶ月に1回のペースで僕が担当している連載「郵便切手の歴史に見る台湾の独自性」では、今回は国府の台湾遷移の話を取り上げましたので、その中から、こんなマテリアルをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

 遷移直後の加刷切手

 これは、国府の台湾遷移直後の1949年12月12日に発行された切手で、もともとは、満洲国崩壊後の東北部で使用するための切手が持ち込まれ、台幣で5分切手とする旨の加刷が施されています。

 1949年4月23日の首都・南京の陥落以来、国府は広州、重慶、成都を転々としていましたが、11月4日、台北を臨時首都とすることを決議。7日に中央政府の台北移転を正式に決定し、11日までに政府ならびに国民党中央の移転が完了しました。

 この間、10月17日には人民解放軍が厦門島を占領し、対岸の金門島にも攻撃を仕掛けましたが、国府側はこれを撃退。福建省沿岸の金門島・馬祖島ならびに浙江省沿岸の大陳列島を確保することによって、かろうじて台湾省に限定されない“中国政府”としての体面を保ち、台湾を拠点に“大陸反攻”を呼号していくことになります。

 とはいえ、大局的に見れば、中共が台湾を“解放”することは時間の問題と考えられており、米国も台湾の共産化やむなしと覚悟していました。

 ところが、1950年6月、朝鮮戦争が勃発すると事態は一変。トルーマン政権は共産軍による台湾解放を阻止するため第七艦隊を台湾に派遣するとともに、国府に対しても“大陸反攻”の停止を要求します。いわゆる台湾海峡中立化宣言です。

 米国が台湾海峡の中立化を志向したのは、国際法上の台湾の地位が未確定であり、それゆえ、台湾の帰属に関しては「太平洋における安全保障の回復、対日講和条約の締結、ないしは国連による検討を待つべき」であるとの判断によるものでした。

 あらためていうまでもないことですが、領土の割譲・移転は当事国間による正式の条約締結がなければ、国際法上は無効です。この点において、第二次大戦中、連合国によって発せられたカイロ宣言やポツダム宣言は、敗戦後の日本に台湾を中国に返還させるという戦後処理の方針を示したものでしかなく、道義的・政治的な責任はともかくとして、国際法上の拘束力は一切ありません。よって、日本の敗戦後、国府が台湾に進駐し、日本軍を武装解除したのも、あくまでも便宜的ないしは暫定的な措置でしかないのです。

 さらに、1951年9月に調印され、翌1952年4月に発効した対日講和条約では「日本は台湾、澎湖諸島に対するすべての権利、権限および請求権を放棄すべし」との規定(第2条B項)はありますが、その後の台湾の帰属については何ら規定がなく、未確定のまま放置されています。また、講和条約の発効を待って日本と国府の間で結ばれた日華平和条約でも、すでに台湾の領有権を放棄した日本は台湾の帰属について言及しないとの立場をとっており、以後現在にいたるまで、これが日本政府の公式見解です。

 東西冷戦という国際環境の中で、共産主義封じ込めを国是としていた米国にとっては、共産中国に対する前線基地としての台湾を確保することが重要なのであって、その意味では、台湾島の帰属問題は棚上げにして、台湾と大陸に別個の政権が存在することこそが好都合であり、対日講和条約や日華平和条約もそうした文脈から考案されたものでしかありませんでした。

 かくして、台湾と大陸に併存することになった二つの“中国”は、それぞれ、別個の切手を発行していくことになります。ちなみに、1971年に中共は国府に代わって国連の代表権を獲得し、以後、国際社会は中共を中国の正統政権として承認せざるを得なくなりました。その後も中共は倦むことなく“一つの中国論”を持ち出していますが、大半の国では台湾の帰属については法的に未定という姿勢をとっており、現在にいたるまで「台湾は中国の領土の不可分の一部である」との主張をそのまま承認しているのは全体としてごく少数でしかありません。


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 足首の刺青
2009-08-09 Sun 13:10
 きょうもメディアは覚醒剤取締法違反の疑いで逮捕された酒井法子容疑者の話題でもちきりですが、ニュースを見ていたら、彼女が足首に入れていたという刺青のデザインがちょっと気になったので、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 スワミ・シヴァナンダ   足首の刺青

 左の画像は、1986年9月8日にインドで発行されたスワミ・シヴァナンダ生誕100周年の記念切手とその初日印です。ここでご注目いただきたいのは、切手そのものよりも初日印のほうで、蓮と宝珠、梵字の“オーム”の組み合わせは、右の画像の酒井容疑者の刺青(産経新聞のサイトから拝借しました)と基本的に同じものです。なお、初日印の画像では梵字のオームがちょっと見づらいので、何か良い画像はないかと探してみたら、アメリカのPスタンプを作っているザズル社のサンプルに、はっきりとわかるモノがありましたので、ついでに下に貼っておきます。

 オーム(梵字)

 さて、スワミ・シヴァナンダは、1887年9月8日、南インド・タミルナドゥ州のパッタマダイ村の裕福かつ敬虔なバラモンの3男として生まれました。大学でタミル文学を学んだ後、タンジョール医科大学で西洋医学を修め、卒業後、マレーシアのゴム園に医師として赴任します。そこで過酷な労働と病に苦しむ人々と接するうちに、人々の肉体のみならず精神的な救済をも志すようになり、すべてを捨ててインドに帰り、ヨーガの行者としての修行の旅に出ました。

 放浪の末、ヒマラヤの麓のガンジス河沿いの寒村、リシケシに辿り着いた彼は、スワミ・ヴィシュワーナンダの下、修行を続け、1930年、悟りの境地に到達。以後、修行と布教に専念し、多くの弟子を育てました。名僧としての彼の評判は全インドにとどろき、弟子たちの尽力によって彼自身の僧院(シヴァナンダ・アシュラム)が開かれたのを皮切りに、1939年は精神活動ならびに奉仕活動の拠点としての“ディヴァイン・ライフ・ソサエティ”が設立され、インド独立後の1948年には、ヨーガ・ヴェーダーンタ・フォレスト・アカデミー大学もアシュラム内に設立されています。さらに、1953年には、同大学で「世界宗教者会議」を主催し、「真実は一つ、すべての宗教の教えも一つ。狭い心が不必要な争いを起こし、不幸をもたらしている」と演説するなど、インドの思想界に絶大な影響を与え、1963年7月14日に亡くなりました。

 初日印のデザインは、現代ヨーガの聖人・シヴァナンダにちなんでヨーガのマントラとしても唱えられる“オーム・マニパドメフーム(オーム、宝珠と蓮華よ、幸いなれ)”をイメージして蓮華と宝珠、オームの文字を組み合わせたもの。ヨーガのみならず、ひろくインド文化全般、さらにはチベット仏教などの関連ではしばしばみられるモノです。

 ちなみに、いわゆるドラッグ・カルチャーの世界では、ヨーガやチベット仏教の悟りの境地と薬物による幻覚と同一視する傾向がありますが、厳しい修行の末にようやく得られる(かもしれない)悟りの境地を、非合法のドラッグによって擬似体験しようとするのは、やはり、安直にすぎるわけで、インド文化やチベット仏教に対する冒涜と批判されてもしかたないでしょう。

 なお、“オーム・マニパドメフーム”を造形化したモノとしては、チベット仏教の六字観音が有名ですが、こちらについては、拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。

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 酒井法子の吸毒騒動
2009-08-08 Sat 22:24
 ここ数日、マスコミをにぎわせていたタレントの酒井法子をめぐる騒動は、きょうの午後8時頃、覚醒剤取締法違反(所持)の疑いで逮捕状が出ていた酒井本人が警視庁の施設に出頭したことで、一応は解決の方向に向かうことになりそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 台湾・非合法ドラッグ撲滅運動

 これは、1995年に台湾で発行された非合法ドラッグ撲滅キャンペーンの切手で、非合法ドラッグを意味する“毒”の字にNOという手が図案化されています。今回の騒動では、台湾・中国・香港でも事件が大きく報じられていることが紹介されていましたが、その際、新聞の見出しに“吸毒”の文字がでかでかと躍っている映像が繰り返し流されていたことにお気づきの方も多かったものと思われます。

 酒井は、1990年代以降、日本で彼女の出演したドラマが台湾・香港・中国で放送されたことで人気に火が付き、中国語で歌った楽曲も発表されています。また、1992年5月には台湾で日本人初のワンマン・コンサートを行っていることなどからもわかるように、中華世界での人気は、日本での活躍以上のものといってよさそうです。余談ですが、彼女が台湾での初コンサートを行った翌年の1993年10月には、彼女は、厚生省(現・厚生労働省)などが所管する「麻薬・覚せい剤乱用防止センター」主催した麻薬撲滅キャンペーンに、ゲストとして出演しています。まさか、その当時は、台湾の人々も厚生省の関係者も、こんな日が来るとは思ってなかったでしょうな。

 彼女の今後については、自身が非合法ドラッグの売買に関わっていたことなどが明らかにならず、単なる末端使用者ということになれば、初犯で社会的制裁も十分に受けているということで、執行猶予付きの判決が出るということになるのでしょうし、過去の先例に照らして、日本の芸能界への復帰ということも十分にあり得るかもしれません。

 ただし、薬事犯に厳しいアメリカ(ハワイ・グアムを含む)や、彼女の活動の場でもあった中国・台湾・香港への入国は事実上不可能となるでしょう。特に、中華世界の人間にとっては、アヘン戦争以来の屈辱の歴史というのがありますから、今回の事件の衝撃は大きく、それだけに、薬事犯としての彼女が再びかの地で脚光を浴びる可能性はほとんどなくなったはずです。
 
 いずれにせよ、非合法ドラッグの害というのは、どれほど強調してもしすぎるということはないわけで、日本でも、今回ご紹介のようなキャンペーン切手を発行するなど、切手や郵便というメディアをもっと有効に活用しても良いのではないかと思います。
 
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 残暑お見舞い申し上げます
2009-08-07 Fri 18:53
 きょう(7日)は立秋。暦の上では、きょうから秋ですが、実際には残暑厳しき折、皆様もご自愛ください。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 アイス・カチャン

 これは、今年7月17日にシンガポールで発行された“アイス・カチャン”の切手に発行初日の消印を押したもので、友人の劉裕仁さんから送っていただいた葉書の一部です。劉さん、ありがとうございました。

 常夏の国、シンガポールでは一年中冷たいデザートが楽しめますが、その代表ともいうべきなのが、アイス・カチャンです。名前は、英語の“アイス”とマレー語の“豆”を意味するカチャンを組み合わせたもので、直訳すれば“冷豆“ということなのですが、まぁ、豆入りのかき氷と訳すのが妥当でしょう。かき氷の中には、コーンや米でできた緑色のゼリーが入っているほか、いろんな色のシロップがかかっていて、いかにも南洋らしい雰囲気です。

 日本でも、夏のグリーティング切手として、かき氷やスイカの切手なんかを出してくれませんかねぇ。

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 無事帰国しました
2009-08-06 Thu 09:41
 韓国・ソウルのCOEXで開催されていたアジア国際切手展<PHILAKOREA 2009>はおととい(4日)閉幕し、僕も昨日(5日)の午後、無事に大韓航空機に乗って帰国しました。コミッショナーの川上弘さん、アシスタント・コミッショナーの井上和幸さんをはじめ、現地でお世話になった皆様には、この場を借りてお礼申し上げます。ということで、今日はこんな切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 韓日国交正常化20年
 
 これは、1985年12月18日に韓国が発行した“対日国交正常化20周年”の記念切手で、富士山を背景に飛ぶ大韓航空機が描かれています。仁川→成田の便ではこういう構図にはならないのですが、まぁ、大韓航空機ということで勘弁してください。ちなみに、切手の発行日は、1965年にソウルで批准書が交換され、日韓条約が発効した記念日です。

 1983年1月、韓国を訪問した中曽根康弘首相は、韓国の全斗煥大統領とともに「首相と大統領は、国民的基盤に立脚した交流の拡大が長期的な観点から両国関係の発展に極めて重要であるということについて認識を同じくし、このための方途として、学術、教育、スポーツ等両国間の文化交流を漸次拡大していくことにした」とする共同声明を発表。これを受けて、同年8月の第12回日韓定期閣僚会議で文化交流のための実務者協議開催が決まり、さらに12月にソウルで開かれた局長レベルの協議で1985年の“日韓国交正常化(日韓基本条約調印)20周年”を機に記念行事を行うことが合意されました。

 そして、その具体的な企画・調整のため、1984年3月28日、外務大臣(安倍晋太郎)の私的諮問機関として、前駐韓大使(元外務事務次官)の須之部量三を座長とする日韓文化交流連絡会が発足。日韓青年交流、青年の船、日韓姉妹都市、芸術・スポーツ交流等の様々な企画が立案され、その一環として、日韓両国での記念切手発行ということになりました。ただし、日本側の記念切手発行日は条約の調印や批准などとは直接関係のない9月18日に設定されています。おそらく、記念式典が行われた日か何かだったのでしょう。

 なお、“日韓国交正常化20周年”の日本側発行の記念切手については、年末刊行予定の<解説・戦後記念切手>第7巻で触れることになると思います。2001年から始まった<解説・戦後記念切手>のシリーズも、いよいよ、次が最終巻。ソウルの国際展も終わったことですし、そろそろ、こちらの作業も本腰を入れていかねば。 

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 これから帰国します
2009-08-05 Wed 08:17
 早いもので、今回のソウル滞在も最終日となりました、30日から始まったアジア国際切手展<PHILAKOREA2009>も昨日(4日)で閉幕し、きょうはお昼前の便で東京に戻ります。というわけで、無事に日本にたどりつけるよう、今回の出品作品“Greater East Asia after Japanese Withdrawal”のなかから、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

 麗水:戦前→戦後

 これは、終戦10日前の1945年8月5日、朝鮮半島南部の麗水から仙台宛てに差し出された葉書です。“朝鮮隼第9877部隊”からの差出で、“軍事郵便“の表示の入ったはがきが使われていますが、朝鮮は終戦まで“戦地”ではありませんので、通常の有料郵便物として扱われています。

 この葉書が差し出された戦争末期は、日本側は完全に制海権を失っており、玄界灘をわたって朝鮮半島から日本本土に郵便を届けるのも容易なことではありませんでした。このため、この葉書も機会をうかがっているうちに終戦となってしまい、終戦後、連合国の占領下で検閲を受けた後に名宛人に配達されたものと思われます。ちなみに、金魚鉢型の検閲印の上部にはCCDJ-109との検閲担当者のコード番号の印が入っていますが、末尾のJは担当者が日本人であることを示しています。

 偶然ではありますが、きょうはこの葉書の消印と同じ8月5日です。戦前と戦後をまたいでもきちんと宛先まで届いたこの葉書にあやかって、僕も無事日本に帰りつきたいものです。

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 チョッパリですから
2009-08-04 Tue 07:49
 きのうは<PHILAKOREA2009>のパルマレス(授賞式)があって、僕も出席してきました。下の画像はその時の写真です。(隣に写っているのは、友人のキム・キフンさんのお母上です)

 和服とチマチョゴリ

 日本にいる時もさることながら、海外でのパーティーの際には、僕は日本人として和装で出席するよう心がけています。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 韓国・2007年用年賀   チョッパリ実物

 これは、韓国で発行された2007年(亥年)用の年賀切手で、ブタが描かれています。亥年の動物に関しては、日本ではイノシシですが、他のアジア諸国ではブタ(中国語の漢字では猪。西遊記の猪八戒は豚ですな)とされるのが一般的なのは御承知のとおりです。なお、切手展の会場では、この切手をはじめ、最近の韓国の年賀切手のデザインを担当しているパク・ユンキョンさんにお会いすることもできました。作品のイメージ通りの素敵な女性(下の画像)です。

 パク・ユンキョン

 さて、韓国語の表現で、日本人に対する蔑称として“チョッパリ”というものがあります。これは、“豚足”を意味する“チョッパル”に由来するもので、下駄の鼻緒や足袋のつま先が分かれている(切手の隣に僕の足元の画像を貼っておきます)のを、豚の蹄の先が二つに割れていることになぞらえた表現です。なお、過去に韓国で発行された亥年の年賀切手の中では、ブタの蹄の部分が一番はっきり見えるのは、今回ご紹介の切手ではないかと思います。

 さて、僕と同世代の韓国の友人たちは、チョッパリという言葉を知ってはいても、実際にその語源となった和装の足元は見たことがなかったようです。というよりも、そもそも、和装の日本人にナマで遭遇したのは、今回の僕が初めてというのが正確なところでしょう。まぁ、日本にいても和装姿の日本人は少数派ですから、当然といえば当然ですな。

 基本的に、海外での和装は評判が良いのですが、それは、反日感情が強いとされるソウルでも例外ではありませんでした。もちろん、日本大使館前で反日デモをやっているような場面に和装で乗り込めば話は別でしょうが、国際展のパーティーのような場所では、日本人が日本人らしい格好をするのは歓迎されこそすれ、否定される要因がないのは当然のことです。むしろ、韓国は反日感情が強いから、できるだけ“日本”のイメージを出さないほうが良いなどと卑屈な態度を取ることのほうが、よっぽど失礼ですし、相手に対して不信感を与えるのではないでしょうか。少なくとも、僕自身はまぎれもなく日本人であり、これからも日本人として生きていくしかないのですから、外国人に対しては堂々とそのことを主張すべきだと思っています。

 ちなみに、韓国では、漢字の“豚”を韓国語読みした“トン”が“お金”と同音異義語になるので、ブタは金運をもたらす幸運の象徴なのだとか。まぁ、日本の経済援助が韓国の経済成長を支えてきた歴史や、僕はともかく日本人観光客がソウルに莫大な外貨を落としていくことなどを考えれば、やっぱり“チョッパリ”は金運の象徴なんだといえないこともないかもしれませんな。

 * きのう、アクセスカウンターの数字が56万PVを超えました。いつも遊びに来ていただいてる方には、あらためてお礼申し上げます。

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 漢江クルーズ
2009-08-03 Mon 06:55
 きのう(2日)は夕方から第14次韓日郵趣人懇談会というイベントがあり、僕もご招待を受けて、夕方からソウル市内を流れる漢江のクルーズに行ってきました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

 漢江   

 これは、1986年に韓国で発行された「漢江総合開発」の切手で、この時期、急激に発展を遂げたソウル江南地区を代表する光景として、漢江鉄橋と63ビル(ユクサン・ビルディン)、遊覧船と高層ビル群、ソウルタワーとビル群が、それぞれ描かれています。ちなみに、下の左の画像は、船上から画面の右側にタワー(80ウォン切手の中央上部)が入るように撮った写真、右の画像は、30ウォン切手右端のツインタワービルを漢江鉄橋の向こう側あたりから撮って見た写真です。

 漢江の夜景   漢江夜景(ツインタワービル)

 1970年代半ば、経済発展に伴い急激な都市化・産業化が進んだソウルでは、それまでの四大門(東西北の大門)を中心とした江北地域の人口が飽和状態となり、開発も限界に達していました。このため、それまで漢江を南端としていたソウル地域(江北)を、漢江の南側、すなわち江南にまで拡大することで問題を解決するというプランが自然発生的に建てられることになります。

 かつての江南地域は大根と白菜を主要な作物とする農村地帯で、漢江を往来する交通も不便でしたが、この地域へのアパート建設に合わせて、1982年12月、地下鉄2号線第2期区間(総合運動場~教大間の5.5km)が開通したことで、一挙に交通アクセスの便が改善されます。そして、1984年5月の地下鉄2号線(環状線)全線開通により、地下鉄2号線の江南駅は1日の利用者が15万人を数える巨大ターミナルとなり、駅周辺の開発が急激に進むことになりました。

 その後も、ソウル・オリンピックの競技施設が相次いで建設されたこともあって、江南地区のインフラ整備は急ピッチで進められ、地下鉄の江南駅の上空には、江北と江南を結ぶ漢南大橋から伸びる江南大路が通り、南部の良才洞や郊外の京畿道城南などと接続すると、さらに江南地域の人口が増加。オリンピック終了後の1990年代に入ると、江南の地域開発はさらに南の地域へも広がり、ソウル市の範囲を超えて京畿道南部地域にまで拡大していきました。

 特に、オリンピック以後の大規模土木プロジェクトとして、1988年、政府は住宅建設200万戸計画を発表。ソウル圏への人口集中に伴う住宅不足を解消するため、京畿道内に、城南市盆唐、高陽市一山、安養市坪村、富川市中洞、軍浦市山本の5つの“新都市(住宅の供給を目的に、ほとんど一から人工的につくった、文字通り新しい都市)”を建設します。さらに、これらの新都市に続いて竜仁、水原などにアパート団地、大学、工業団地などが相次いで建てられ、1990年後半には、江南駅の東西を軸とした道路、テヘラン路周辺が韓国最大のオフィス街のひとつとして発展していきました。

 こうして、江南駅周辺を中心に、京畿道南部までを含む巨大な経済圏が建設され、現在にいたっているわけですが、切手に描かれている光景と現在の夜景を比べてみると、やはり20年という歳月を感じますねぇ。

 なお、ソウル・オリンピックを挟んでの韓国社会の変容については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でも各種の事例をご紹介しておりますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。

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 アキノ元大統領亡くなる
2009-08-02 Sun 08:16
 フィリピンのアキノ元大統領が昨日(1日)、ガンで亡くなりました。というわけで、きょうはフィリピンのネタで行きましょう。現在、ソウルで開催中のアジア国際切手展<PHILAKOREA2009>に出品中の僕の作品の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

 リサール試刷

 これは、1948年12月30日に発行された“ホセ・リサール没後52周年記念”の切手つき封筒の印面部分の試作品です。実際に発行された封筒の印面は赤色印刷ですが、試作品は黒一色です。

 ホセ・リサールは、スペイン統治時代のフィリピンで活動した独立運動の闘士でしたが、1896年、志半ばにして捕らえられ、銃殺されました。しかし、彼の遺志は人々に受け継がれ、現在でもフィリピン独立の英雄として尊敬を集めている人物です。

 リサールが亡くなって2年後の1898年、米西戦争が勃発し、フィリピンはスペインからの独立を宣言しましたが、結局、アメリカに植民地化されてしまいます。

 その後、1934年3月23日、アメリカで“タイディングス・マクダフィー法”が成立し、10年後をめどにフィリピンを独立させることが決定され、独立準備政府としてのフィリピン連邦(コモンウェルス)が1935年11月に発足したものの、1941年に太平洋戦争がはじまり、1942年に日本軍がフィリピンを占領したため、ケソンはアメリカにわたって亡命政府を組織。フィリピンの独立も第二次大戦後の1946年7月4日までずれ込んでいます。

 もっとも、アメリカによる独立の約束に対しては、かつて、スペインの圧制からフィリピンを解放するという名目で行われた米西戦争が、結果的に、アメリカによるフィリピン支配の道を開いただけに終わったという事情もあって、フィリピンの独立運動家たちからは必ずしも信用されていたわけではありませんでした。このため、フィリピンに残ったホセ・ラウレルらは、自分たちを利用している日本側の意図を十分承知の上で、それでも、“独立”という形式を取っておくことが、戦後のアメリカとの独立交渉において有利に働くと考え、1943年、日本占領下での“独立”を宣言しました。

 今回ご紹介のマテリアルは、1946年の独立後まもない時期のモノですが、横向きの肖像をエンボスで表現するという形式は、アメリカの切手つき封筒のスタイルをそのまま踏襲しています。 

 さて、現在、ソウルで展示中の作品“Greater East Asia after Japanese Withdrawal”は、昨年の台北展に出品した作品のリニューアルで、1945年を挟んで、かつて“大東亜共栄圏”を構成していた地域がどのように変貌を遂げたかをまとめたものですが、フィリピンに関しては、日本占領下の独立から米軍の再上陸、そして、1946年のフィリピン共和国成立までをまとめてみました。今回のご紹介のマテリアルは、フィリピンの部のラストに置いたマテリアルです。

 いずれ、今回の作品をもとに、“大東亜共栄圏の戦後史”とでも題した本を作ってみたいのですが、さて、いつのことになりますやら。

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