内藤陽介 Yosuke NAITO
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 女子団体追い抜きで銀
2010-02-28 Sun 10:56
 ヴァンクーヴァー五輪のスピードスケート女子団体追い抜きで、日本チームが銀メダルを獲得しました。というわけで、メダル獲得競技シリーズの4弾、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      スピードスケート(長野)

 これは、1998年2月5日に発行された長野五輪の記念切手のうち、スピード・スケートを取り上げた1枚です。スピード・スケートのユニフォームは男女同じデザインですし、顔も半分はゴーグルで隠れてしまいますので、パッと見には切手の選手が男性なのか女性なのか、断定はできません。(まぁ、雰囲気的に、なんとなく男子選手ではないかと思いますが)なお、長野五輪では、男子の清水宏保が500mで金、1000メートルで銅を、女子では、岡崎朋美が500mで銅を獲得しています。

 長野五輪は、1998年2月7日から2月22日まで、長野市とその周辺を会場にして開催されました。20世紀最後の冬季五輪であると同時に、冬季五輪としては、それまでで最も南に位置する都市での開催となりました。このとき、日本代表は地元開催の強みを生かして、冬季五輪史上初の2桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得しています。

 今回日本チームがメダルを獲得した“女子団体追い抜き”は、前回(2006年)のトリノ五輪から採用された種目で、今季ワールドカップ(W杯)ランキングでは、日本は3位となっています。前回のトリノ五輪では、日本は3位決定戦で最後尾の選手が転倒し、惜しくもメダルを逃していただけに、今回、みごと雪辱を果たしたという結果になりました。

 ちなみに、現在、スピード・スケートで用いられているスケート靴は、スラップ・スケート(クラップ・スケートとも)と呼ばれるタイプのもので、氷を蹴る時にかかと部分で刃が離れ、キックした後にバネ仕掛けで戻る仕組みとなっていますが、長野五輪は、この靴が登場した最初の冬季五輪です。もっとも、切手の図案では、葉の部分がかかとから離れているかどうかは識別できませんが…。

 さて、日本時間の13日(現地時間では12日)から始まったヴァンクーヴァー五輪も、いよいよ、明日(現地時間では28日)が閉会式です。今回、日本勢は5個のメダルを獲得しました。金メダルが一つもなかったのは残念ですが、さりとて、前回のトリノ五輪の時のように、荒川静香の金1つのみという方がよかったかといわれれば、なかなか判断に困りますな。

 まぁ、民主党政権の行った“事業仕分け”作業に際して、科学技術開発の予算削減を主張して「どうして世界1位じゃなきゃだめなんですか。2位じゃだめなんですか」と放言した女性代議士なら、金メダルなんて分不相応なものはいらない、とあっさり切り捨てるかもしれませんがね。


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 浅田は銀
2010-02-27 Sat 11:31
 ヴァンクーヴァー五輪の女子フィギュア・スケート、浅田真央は銀メダルを獲得しました。金が期待されていただけに残念といえば残念ですが、自己ベストを更新した上での世界で第2位ですからね。十分に立派なものです。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第3弾、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フィギュアスケート(1977)

 これは、1977年3月1日に発行された“フィギュアスケート世界選手権大会”の記念切手です。大会の正式名称は“世界フィギュアスケート選手権大会”ですが、一般には切手のように“世界”を後にした呼称の方が用いられているようです。

 世界フィギュアスケート選手権大会は、1896年に第1回大会がロシアのサンクトペテルスブルクで男子のみの大会として開催されました。女子の世界選手権は1906年にスイスのダボスにて行われたのが最初で、ペア競技の選手権は1908年にサンクトペテルブルクで行われたのが最初です。当初、フィギュアスケートの世界選手権は、男子・女子・ペアが別々に開催されていましたが、1930年のニューヨーク大会からは3種目統合して一つの大会で行われるようになりました。わが国では、これまでに1977年と1985年の東京大会、1994年の千葉大会と2002年の長野大会が開催されています。

 このうち、1977年の大会は、アジアでは初めての開催で、東京の国立代々木競技場で3月1日から6日までの日程で行われました。参加選手は男女のシングル、ペア、アイスダンスの3種目あわせて20ヵ国約150名で、日本勢としては佐野稔が日本人選手としては初めて銅メダルを獲得したことが話題となりました。

 今回ご紹介の切手は女子シングルスを取り上げたもので、選手が上半身を弓なりに反らせるレイバックスピンと呼ばれる技の場面が描かれています。切手では、スピンを示す曲線が銀色で示されていますが、実際のスピンを行った後は氷がらせん状に削れるため、これはデザイン上の表現と見るべきでしょう。女性の衣装や雰囲気には、やはり時代の流れを感じますねぇ。

 なお、今回ご紹介の切手と同時代の記念切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 高橋是清の切手
2010-02-26 Fri 11:15
 2月26日ですから、2・26ネタで行きましょう。今日はこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      工業所有権100年

 これは、1985年4月18日に発行された“工業所有権制度100年”の記念切手で、2・26事件で暗殺された高橋是清の肖像が入っています。

 226事件の時の大蔵大臣であった高橋是清は、1854年、幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として江戸芝中門前町に生まれ、生後まもなく仙台藩足軽・高橋覚治の養子になりました。横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾(現・明治学院高校)で学び、1867年、仙台藩の命令により海外へ留学しましたが、ホームステイ先で騙されて奴隷契約書にサインし、奴隷として売られるなど苦難の日々を過ごします。1868年に帰国し、1873年、文部省に入省。以後、文部および農商務官僚として活躍し、農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任しました。今回ご紹介の“工業所有権制度100年”の記念切手に取り上げられたのは、このときの業績によるものです。

 その後、官を辞しペルーで銀鉱事業を行うものの失敗。帰国後、日本銀行に入行し、日銀副総裁、日銀総裁などを務め、日露戦争の戦時外債の公募などで成果を上げました。1905年、貴族院議員に勅選。1913年、山本権兵衛内閣の大蔵大臣に就任し、立憲政友会の原敬内閣でも大蔵大臣となります。原の暗殺後、政友会総裁ならびに内閣総理大臣に就任しましたが、閣内不一致で政権は半年で瓦解。普通選挙実現を求める第二次護憲運動では“護憲三派”の一翼を担い、加藤高明内閣では農商務大臣に就任。その後、政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退しましたが、1927年の昭和金融恐慌に際して3度目の大蔵大臣に就任し、恐慌の鎮静化に尽力します。犬養毅、斎藤実、岡田啓介の3内閣でも大蔵大臣に就任(通算6度)し、インフレ抑制のため軍事予算を縮小しようとしたことで、1936年の2・26事件で陸軍の青年将校らに暗殺されました。

 さて、切手の題材となった工業所有権とは、知的財産権のうち、特許権・実用新案権・意匠権・商標権などの総称で、現在では産業財産権と呼ばれていますが、もともとはフランス語の“propriété industrielle”または英語の“industrial property”の翻訳です。

 発明者の権利を保護するとともに、発明内容を公開することで社会的技術水準の向上をはかるための近代特許制度のルーツは、15世紀イタリアのヴェネツィア共和国にまでさかのぼります。すなわち、1443年、ヴェネツィア共和国では発明に対して特許が与えられたほか、1474年には世界最古の成分特許法として「発明者条例」が公布されています。その後、1624年にはイギリスで専売条例が成分特許法として制定され、これが現在の特許制度の原型となりました。

 18世紀後半から19世紀にかけて、欧米やオスマン帝国などで各種の特許法が制定されていきましたが、江戸時代のわが国では伝統を重視し、新奇なものを忌避する傾向が強く、1721年には「新製品を作ることは一切まかりならぬ」というお触れが出されたほどでした。

 しかし、幕末の開国により欧米の特許制度が紹介されると、近代化(=西洋化)の観点から特許制度整備の必要性が認識されるようになり、1871年、わが国最初の特許法である専売略規則が公布されました。しかしながら、当時の国民には特許制度を理解できる者が少なかったこともあり、翌1872年には同法の施行は中止されてしまいます。

 その後、近代化が一応の進展を見たことを踏まえ、1885年4月18日、初代専売特許局長・高橋是清の尽力により、あらためて「専売特許条例」が公布され、同年7月1日、東京府堀田瑞松により出願された「堀田式錆止塗料とその塗法」に特許第一号が与えられました。

 一方、意匠(デザイン)に関する権利保護の規定については、1580年、イタリアのフィレンツェの織物組合の規則で、新規の意匠考案者には二年間これを専用する権利を付与することが定められていましたが、国家の法制度としては、1711年、フランスのリヨンの執政官が絹織物業界における図案の保護を目的として発した命令に始まるとされています。わが国における意匠の保護は、1888年の「意匠条例」が最初で、1889年、栃木県足利市の須永由兵衛による織物縞の意匠が意匠登録の第1号となりました。

 これに対して、商標に関しては、当初イギリスやアメリカで普通法により、詐欺(虚偽の商標使用)を取り締まっていましたが、1857年、フランスで「製造標及び商業標に関する法律」が制定され、商標権の概念が確立されます。わが国では、1884年6月7日、最初の商標法である「商標条例」が制定され、翌1885年、京都府の平井祐喜による膏薬丸薬の商標が登録第一号となりました。

 切手は横顔のシルエットに、特許を意味する“patent”、実用新案を意味する“utility”、商標を意味する“trade mark”、意匠を意味する“design”の語を配し、初代専売特許所長・高橋是清の肖像を描いています。ちなみに、一般に実用新案に相当する英語は“utility model”ですが、切手ではレイアウトの関係からか、後半のmodelの語が省略されています。
 
 なお、この切手を含む昭和末期の記念・特殊切手については、拙著『昭和終焉の時代』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 世界漫郵記:ペンニャの丘周辺(前篇)
2010-02-25 Thu 12:28
 『キュリオマガジン』2010年3月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記:マカオ篇」は、今回と次回の2回に分けてペンニャの丘周辺を取り上げます。その記事の中から、今日は、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます) 

      港務局大楼     港務局大楼(実物)

 左は港務局大楼のアーチとバルコニーを図案化した1984年の切手で、右側は建物の実物です。

 中国語では一般にマカオのことを“澳門”と呼びますが、これは、マカオ半島南側のペンニャの丘(西望洋山、南台)と北側のギアの丘(東望洋山、北台)のふたつの丘を門柱に見立て、その間にある“澳”(入江)という意味でつけられた名前です。

 その一方の門柱にあたるペンニャの丘は、ポルトガル人が命名した“マカオ”という地名の由来とされる媽閣廟のすぐ北側にありますが、廟の背後から、内港側の大通りではなく、一本入った媽閣斜巷の坂道を少し上っていくと、ほどなくして見えてくるのが港務局大楼の建物です。

 1874年に建てられた港務局大楼は、もともとは、ゴアから派遣されたムーア人(漢字で書くと摩爾人)の営舎で、200人以上が収容可能だったといわれています。

 一般にムーア人というと、一般に北西アフリカのムスリム(イスラム教徒)、特に、非アラブのベルベル人を指すことが多いのですが、マカオでは単に(インド出身の)ムスリムの意味で使われることが多いようです。

 マカオに本格的にインド兵が上陸したのは、1840年のアヘン戦争のときが最初です。ただし、このときのインド兵はイギリスが派遣したもので、彼らは、清朝とポルトガル人居留地としてのマカオとの境界にあった“関門”を占領しました。

 ポルトガルはアヘン戦争の直接の当事者ではありませんでしたが、清朝の衰退を目の当たりにして、マカオを自国の完全な植民地にしようと画策し、1862年、第2次アヘン戦争の講和条約として結ばれた天津条約でマカオの統治権を清朝に認めさせ、1887年の中葡友好通商条約により、マカオを第三国に譲渡しないことを条件に、ポルトガルがマカオを永久に占有することを清朝に認めさせました。こうして、ポルトガルによるマカオの植民地化が完成します。

 港務局大楼が建設された1874年は、まさに、ポルトガルがマカオの支配を強化していく過程にあたっており、ポルトガル当局としても、社会の変動期として治安の維持に神経をとがらせていました。このため、インドのムーア人がマカオに動員され、主として警察業務にあたることになり、彼らの営舎が必要となったわけです。

 こうして、イタリア人建築家カッスートの設計による営舎が建てられました。営舎は、花崗岩の強固な石組みの基盤にレンガが積み重ねられており、長さ67.5メートル、幅37メートル。淡いクリーム色と白を基調とした漆喰の壁が美しい。ムーア人が住むことを意識して、シンプルなネオクラシック様式を基調としつつも、通りに面した回廊と外壁のアーチが、どことなく、イスラム世界のモスクをイメージさせる風貌となりました。

 現在、この建物は港務局ならびに海上警察のオフィスとして使われており、それゆえ“港務局大楼”と呼ばれているのですが、ポルトガル語では、いまなお“ムーア人の営舎”を意味するクァルテウ・ドス・モウロス(Quartel dos Mouros)の名で通っています。なお、港務局大楼はオフィスとして使用されているため、毎年5月20日の“港務局の日”の前後に公開される以外は、一般の観光客は、外観と回廊は見学できるものの、建物の中に立ち入ることはできません。

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 泰国郵便学(6)
2010-02-24 Wed 17:52
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第1号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回はラーマ5世(チュラーロンコーン)からラーマ6世(ワチラーウット)への代替わりのことを中心に取り上げました。その中からこの1枚をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ・1912年シリーズ(高額)

 これは、ワチラーウット即位後最初に発行された1912年シリーズの1バーツ切手です。

 1910年10月のチュラーロンコーン崩御に伴い、皇太子であったワチラーウットがラーマ6世として即位します。

 ワチラーウットは1880年1月1日、チュラーロンコーンの第29子として生まれました。幼少時には王宮内のスワンクラープ校でタイ語と英語による教育を受けましたが、1893年にイギリスに留学し、当初はロンドン北西のアスコットに滞在。1898年以降はサンドハーストの陸軍士官学校で軍事教育を受けました。士官学校を卒業した1899年には、一時、オルダーショットの歩兵部隊にも配属され、軍人としての実地訓練も受けています。

 当初、ワチラーウットに期待されていた役回りは、国王を支える藩屏としての皇族官僚・政治家としての研鑽を積むことでしたが、1895年に兄で皇太子ワチルナヒットが16歳で亡くなったため、皇太子に指名されました。1900年以降は、オクスフォード大学クライスト・チャーチ・カレッジで法律と歴史、経済、地理などを学んでいます。

 1902年12月、留学を終えたワチラーウットはアメリカ、日本などを経由し、翌1903年1月末に帰国し、陸軍監察総監に就任。イギリス留学で得た知見を活かして、タイにおける近代徴兵制度の導入に向けて尽力しました。

 近代以前のタイでも、制度上は首都近郊の平民に兵役が課せられていたが、実際には一定の金額を支払い役務の免除を受ける者が多く、軍の構成員は基本的には軍人の子弟もしくは志願者のみでした。ワチラーウットらによる近代徴兵制度の実施は、このように形骸化した徴兵制度の立て直し、近代常備軍を編成することによって、列強による植民地化の危機に対抗するためのもので、1903年、東北タイのコーラート州で試験的に実施された後、1905年に正式な徴兵令公布となりました。

 この他にも、1903年にワチラーウットが帰国してから1910年に即位するまでの期間は、青年将校を留学生としてさかんに列強諸国に派遣するなどして、タイ国軍の近代化が急速に進められ、一定の成果を上げつつある時期でした。

 かくして、1911年1月13日付で完成した第一軍管区の3師団は、チュラーロンコーンの喪が明けた後の同年12月2日に行われたワチラーウットの即位戴冠式の記念イベントの一環として、欧米ならびに日本の計13ヵ国から出席した国賓を前に、王宮前広場で大観兵式を行い、タイが曲がりなりにも近代常備軍を備えた国家であることを列強諸国に認識させようとしています。

 今回ご紹介の切手は、こうした経緯を経て1912年10月15日に発行されたもので、ウィーンのオーストリア帝室印刷局に製造が委託されました。切手の図案は、1バーツ以上の高額面が大型で軍装姿(右手に指揮杖を持ち、左手を剣の上に置いている)の国王のほぼ全身像を描いたもので、額面1バーツ未満の低額面は、そのうちの胸から上の部分を取り上げた小型のものとなっています。

 チュラーロンコーン時代の切手は、基本的には国王の胸像のみを取り上げたもので、軍装であるか否かが必ずしも判然としないデザインでしたが、新しく発行された切手は、従来以上に、国軍の長としての国王のイメージを強調するものとなっています。その背景には、曲がりなりにも近代国家としての軍制が整ったことに伴い、国王もまた近代的な国軍の最高指揮官へと脱皮したことを諸外国にアピールする意図が込められていたことは言うまでもありません。

 同時に、国王としてのカリスマ性という点において、新国王のワチラーウットは、とうてい父王チュラーロンコーンに及ぶべくもありませんでした。それゆえ、タイ国家は、国王の代替わりに際して、偉大なる先王チュラーロンコーンの権威を損なうことなく、新国王としてのワチラーウットのイメージを国民に速やかに浸透させていくという課題を抱えむことになりましたが、この点でも、“国軍の長”というわかりやすい記号は好都合だったといえましょう。

 なお、今回の記事では、このほかにも有名なボーイスカウト加刷についても触れていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 1979年のカーター・朴会談
2010-02-23 Tue 14:38
 きのう(22日)、韓国政府が1979年を中心とした外交文書を公開され、同年の米韓首脳会談にいたる経緯等が明らかにされました。というわけで、きょうはこの1枚です。

      朴・カーター会談

 これは、1979年6月30日に発行されたカーター訪韓の記念切手です。

 1977年1月にアメリカでカーター政権が発足した頃、韓米間には3つの深刻な懸案事項がありました。

 1つ目は、1975年10月に発覚したコリア・ゲート事件とその処理をめぐる韓米間の確執です。この事件は、韓国人の朴東宣(韓国政府機関要員だったといわれています)が、アメリカの剰余農産物を購入するため、韓国政府高官の側近と自称し、アメリカの議会関係者に対して大掛かりな買収工作を行ったもので、朴を召還して事件の全容解明を目指していたアメリカ側に対して、韓国側がこれを拒否。最終的に、朴に対する刑事訴追をアメリカが行わないということを条件に、朴が1979年2月に渡米し、アメリカ議会と法廷で証言を行うことで決着が図られました。

 2つ目の懸案事項は、上記の朴東宣事件に関連して、アメリカの情報機関が韓国の大統領官邸をターゲットに盗聴活動を行っていたというもので、結局、この問題も真相は明らかにされないまま、1976年末、政治的決着がはかられています。

 懸案事項の3つ目は、1976年11月、駐米韓国大使館の参事官・金相根が家族ともどもアメリカに亡命した事件です。

 これらの事件に加えて、アメリカ国内で韓国・朴正熙政権の人権抑圧に対する批判が強まるなかで、人権外交を掲げ、駐韓米軍の撤退を公約の一つとして、1978年の大統領選挙でジミー・カーターが当選します。

 カーターは、大統領就任早々、駐韓米地上軍撤退計画を発表。その背後には、アメリカとしては、曲がりなりにも経済成長を達成した韓国に対して、安全保障の面でも相応の負担を求めたいという意向とともに、人権抑圧を一向にやめようとしない朴正煕政権に対する不信感があったことはいうまでもありません。

 大統領の方針を受けて、1978年11月には、朝鮮戦争以来、米軍が有していた韓国軍の作戦指揮権は、原則として、新設の韓米連合司令部に移され(ただし、連合司令部の作戦指揮権については、実質的に、米軍が掌握しつづけます)、駐韓米軍が大幅に削減される可能性も現実のものとして語られるようになりました。
 
 こうして、韓国側が在韓米軍の撤退に不安を抱く中で、1979年4月、北朝鮮がソウル攻撃を想定した軍事訓練を実施したとの情報を在米韓国大使館がCIAから入手。駐米韓国大使は、米国務省高官に「北朝鮮の対韓奇襲攻撃の可能性を過小評価してはならない」と訴えます。これを受けて、6月15日には、駐韓アメリカ大使が朴東鎮外相に対して、カーターが朴正熙の意見を聞くと述べ、撤退方針変更の可能性を示唆していました。

 こうした経緯を経て、6月28日の米韓国防相会談では、盧載鉉国防相がブラウン国防長官に対して、北朝鮮が急激に軍事力を増強している状況を説明。戦争抑止のために米地上軍の駐留が必要だと強調。これを受けて6月30日に行われたカーター・朴会談では、韓国側が人権問題で譲歩する代わりに、アメリカ側は駐韓米軍の撤退計画を修正し、戦闘部隊を継続して韓国内に駐屯させることを韓国側に約束しました。この約束通り、7月17日、韓国政府が政治犯86人を釈放すると、7月20日、アメリカ側はカーターの任期である81年まで在韓米軍の追加撤退はしないことを公式に表明しています。

 その後、人権外交を掲げたカーターは1980年の大統領選挙で敗れ、1981年、かわって反共を前面に打ち出すレーガン政権が発足すると、駐韓米軍の撤退という問題は、両国の間で話題にさえならなくなりました。

 なお、朴正熙時代の韓国については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


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 2並び
2010-02-22 Mon 22:22
 きょうは平成22年2月22日で、2が5つ並ぶ日です。というわけで、手元のカバーの中から2のゾロ目印のモノがないかと探してみたら、こんなモノが出てきました。(画像はクリックで拡大されます)

      立憲同志会(表)     立憲同志会(裏)

 これは、大正2年(1913)2月2日、桂太郎名で差し出されたカバーで、中身は立憲同志会設立の宣言書や入会申込書が入っていました。このうち、設立宣言書の文言部分の画像を下に貼っておきましょう。

      立憲同志会(中身)

 1912年12月、日露戦争後の財政難から緊縮財政の方針をとっていた第2次西園寺内閣が陸軍の2個師団増設要求を拒むと、陸軍大臣・上原勇作は単独で即位直後の大正天皇に直接辞表を提出しました。その後、陸軍は後任を送らなかったため、西園寺内閣は総辞職に追いこまれます。当時の陸海軍大臣は現役軍人でなければならないという規定があったためです。

 西園寺内閣総辞職を受けて、元老会議は後継首相に桂太郎を指名しましたが、桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりで、この点に関して“宮中・府中の別”を乱すものとして非難の声があがります。また、軍閥の横暴に対する国民の批判も高まり、憲政擁護運動(護憲運動)が始まりました。

 12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して2個師団増設反対を決議。年が明けて翌1913年になると、“憲政擁護”を叫ぶ大会が各地でひらかれ、多くの国民がこれに参加しました。これに対して、桂内閣は1月21日に議会の15日間停会して事態の鎮静化を図りますが、かえって国民の反感を買います。さらに、桂が明治天皇の諒闇中(服喪期間)であるから政争を中止するように諭した大正天皇の詔勅(優詔)を受けて乱発し、政府批判を封じようとしたことも批判されました。

 2月5日、議会が再開されると、政友会や国民党などの野党は内閣不信任決議案を議会に提出。2月9日の憲政擁護大会には2万人が集まり、さらに、翌10日には数万人の民衆が議会を包囲して野党を激励しました。これに対して、桂は議会解散を決意しましたが、解散は内乱誘発を招くとの大岡育造衆議院議長からの忠告により、2月20日、桂内閣は発足よりわずか53日で総辞職に追い込まれました。

 この間、桂は、自らも“政党政治家”であると主張しようとして政党を組織しようとします。これが立憲同志会で、今回ご紹介しているマテリアルは、その設立にあたって入党を呼びかけるために全国の有権者宛てに刺し刺されたものです。カバーの差出人は“公爵 桂太郎”となっていますが、桂内閣の総辞職は2月20日のことでしたので、カバーが差し出された2月22日の時点では、すでに桂は総理大臣ではありませんでした。ちなみに、“桂新党”とも呼ばれた立憲同志会が政党として正式に成立したのは、1913年12月23日のことですが、桂本人はその2ヶ月前に病死しています。

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 キャタピラー
2010-02-21 Sun 18:41
 第60回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門の結果が発表され、日本から出品されていた『キャタピラー』(若松孝二監督)で寺島しのぶが最優秀女優賞を受賞しました。というわけで、きょうは、キャタピラーの描かれた日本切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      大東亜戦争1周年(陸軍)

 これは、1942年12月8日に発行された“大東亜戦争1周年”の記念切手で、図案はフィリピンのバターン半島を進軍する日本軍戦車です。また、額面の2銭に対して、1銭の国防献金がつけられています。

 英語の“キャタピラー(caterpillar)”は、本来、“(幼虫の)芋虫”の意味で、戦車やブルドーザーのキャタピラーは動きが毛虫に似ていることからつけられた名です。 今回の映画は、戦争で四肢を失った傷痍軍人と妻を題材にした江戸川乱歩の短篇「芋虫」を下敷きにしているようですが、乱歩の作品は日中戦争以前の1929年に発表されたものですから、「太平洋戦争中の農村を舞台に、両手足を失い中国戦線から復員した軍人」という映画の設定は、原作とは全く異なります。似たような設定の映画としては、1971年のアメリカ映画「ジョニーは戦場へ行った」(こちらの原作は1939年の小説)がありますので、ベルリンの映画人たちは、今回と比較しながら見ていたかもしれません。もっとも、一般にはキャタピラーの名で戦争を題材にした映画というと、日本では、戦車のことを連想する人の方が多いかもしれませんが…。

 さて、1941年12月8日の日米開戦とともに、日本軍はアメリカの保護領であったフィリピンへの攻撃を開始します。

 アメリカは、日露戦争時より、フィリピンを防衛するため、日本を仮想敵国とするオレンジ戦略案を策定していましたが、現実には日米開戦時には米比軍(開戦直前、フィリピン軍はアメリカ極東軍に統合されていました)の戦争準備は完了していませんでした。このため、米比軍の司令官であったダグラス・マッカーサーは、マニラの非武装都市を宣言してバターン半島方面に撤退。日本軍は1942年1月2日、マニラに無血入城しました。

 その後、3月17日にマッカーサーはフィリピンを脱出し、“アイ・シャル・リターン”と語ってオーストラリアで再起を期していましたが、バターン半島では、米比軍がジャングルの地形を利用して日本軍に激しく抵抗していました。そして、5月6日、ついに日本軍は半島全域を占領。バターン・コレヒドールでの勝利は、真珠湾攻撃やシンガポール攻略と並び、日本軍の輝かしい戦果の代表的な事例として、今回ご紹介の切手にも取り上げられることになりました。

 一方、バターン半島で捕虜となった米比軍8万人は、バターン半島からサンフェルナンドまで約60キロの距離を徒歩で行軍させられたまし。この間、炎熱や疲労、食糧や衣料品の不足などから、1200人の米兵と1万6000人のフィリピン兵、さらに民間人抑留者が死亡しました。この護送は“バターン死の行進”と呼ばれ、日本軍の残虐行為を示すものとして、いわゆる南京事件などと共に連合国側によって大きく報じられています。

 いわゆる“死の行進”の実態は、日本軍が積極的に捕虜を虐待したということではなく、食糧・医薬品の不足と無理な行軍スケジュールのゆえに、結果として、多くの犠牲者が生じたと理解すべきものでしょう。もちろん、捕虜の管理者として、多大な犠牲者を出した日本側の責任は免れるものではありませんが、基本的には、重過失という性格のものと考えるのが妥当と思われます。しかし、アメリカにとっては、敵国日本に対する国民の敵愾心を煽り立てるためにも、“死の行進”は日本軍の残虐性を示す格好の素材として活用されなければなりませんでした。

 こうして、悲劇の将軍マッカーサーと彼の名フレーズ“アイ・シャル・リターン”、さらには、“死の行進”の3つが重なり、アメリカにとっての“バターン”は、真珠湾と並んで、日本に対するアメリカのリベンジを象徴する重要な記号としての地位を獲得することになるのです。

 なお、このあたりの事情については、マッカーサーについて扱った拙著『大統領になりそこなった男たち』でも書いてみましたので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。
 
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 トーゴの船
2010-02-20 Sat 10:30
 きのう(19日)、環境テロリスト団体シー・シェパードによる日本の調査捕鯨船団への妨害行為を受け、トーゴ政府が12日付で一味の所有する抗議船ボブ・バーカー号の船籍を剥奪していたことが明らかになりました。というわけで、きょうはトーゴの船切手です。

      トーゴ・カイザーヨット

 これは、トーゴがドイツ領だった時代の1900年に発行された3ペニヒ切手で、当時のドイツ皇帝の御用戦艦(いわゆるカイザー・ヨット)が描かれています。もっとも、このデザインはトーゴ独自のものではなく、当時の全ドイツ植民地に共通図案で、切手上部の地名表示のみが異なるスタイルです。

 トーゴはギニア湾に面した南北に細長い国で、早くからポルトガル人が寄港し、貿易と布教を行っていました。19世紀以降、英仏独の列強がこの地域に進出しましたが、1884年、ドイツが海岸地帯を保護領とすることを宣言。これを受けて、翌1885年、独仏両国の協議により、ベニン寄りの地域もドイツの保護領に組み込まれ、以後、ドイツの勢力は奥地へも進出することになりました。ちなみに、ドイツ支配下のトーゴでの最初の郵便局は、1888年3月1日、クライン・ポポ(現・アネホ) に設置されました。

 第一次大戦の勃発によりトーゴは英仏両国に占領され、戦後の英仏分割統治の時代を経て、英領部分は1957年にガーナの一部として分離したものの、1960年4月27日、仏領地域が独立すると、旧英領地域がこれに合流し、現在のトーゴの枠組が出来上がりました。

 独立後のトーゴは、ブラック・アフリカ諸国によくあるパターンで、エヤデマ-ニャシンベ父子による独裁体制が続いており、お世辞にもまともな国とはいえないのですが、それでも、今回、テロリスト集団の船籍剥奪要求に応じたところをみると、テロリスト支援国家の汚名を着せられたくないという、国としての最低限の一線だけはなんとか守ったといってよいでしょう。

 それにひきかえ、オーストラリアで首相をやっているケビン・ラッドは、きのう(19日)、南極海での調査捕鯨中止について、日本と合意に至らない場合、今年11月までに国際司法裁判所(ICJ)に提訴する考えを明らかにしたのだとか…。

 シー・シェパードのようなテロリストを英雄視してなんら恥じることがないオーストラリア国民によって選ばれた指導者ですから、当然といえば当然の対応なのでしょう。しかし、何度でも書きますが、“テロとの戦争”が世界的な課題であるのなら、テロ支援国家に対しては国際社会が一致団結して経済制裁を行い、必要とあらば軍事制裁を行うぐらいのことをしなければ、同じような理由で軍事攻撃を受けたアフガニスタンやイラクの国民は納得できないはずです。


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 高橋が銅メダル
2010-02-19 Fri 22:41
ヴァンクーヴァー五輪の男子フィギュア・スケートで高橋大輔が銅メダルを獲得しました。日本の男子フィギュア選手のメダル獲得は高橋が初めてです。というわけで、メダル獲得競技シリーズの第2弾。今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      札幌五輪(スケート)

 これは、1972年2月3日に発行された札幌オリンピックの記念切手のうち、フィギュア・スケートを描く50円切手です。男子シングルのフィギュアスケートを描く日本切手は他にもあるのですが、男子選手が描かれているものは、これが最初ですので、今回はこちらを持ってきてみました。

 さて、札幌オリンピックの記念切手は開会式の日にあわせて発行されましたが、通常のシート切手に関しては、日本初のテートベッシュ形式となっています。

 テートベッシュ(tête-bêche)とは、もともとはフランス語で“上下対象”の意味ですが、切手の用語としては、隣り合う切手の向きを変えて印刷された状態を意味しています。今回の切手に関しては、切手上半分の青色のバックが余白なしに目打ギリギリまで入っているデザインであったため、通常のシート構成にした場合、目打の穿孔がわずかでもずれると、単片に切り離した場合、隣の切手の青色ないしは白色が目打の内側に入り込んでくる可能性があります。その防止策として、一列おきに切手の天地を180度回転させて切手の天(青色の部分)と天、地(白色の部分)と地をあわせることになり、テートベッシュ構成のシートになりました。

 もっとも、テートベッシュ構成のシートはわが国初の試みであっただけに、印刷局では今回の切手の製版にかなり苦労したようです。

 すなわち、切手の製版には一枚分の切手のネガ写真をもとにして、特殊な撮影機で上下左右の寸法を厳密に連続撮影し、シート状のポジ写真を作る必要があります。今回の切手の場合は、この作業の途中でネガ写真を180度反転させ、1列ごとに天地逆に撮影するという変則的な方法がとられたのですが、この回転の操作は寸分の誤差なく行わなければなりません。誤差があると、1列ごとに上下左右にズレが生じ、シート全体の印面構成が歪んでしまうからです。こうしたことから、製版段階の撮影作業は、通常の切手の場合と比べて、相当に難航したといわれています。

 もっとも、今回の切手は、印刷局の苦心の割に、その評判は一般にはあまり芳しいものではなかったようで、たとえば、大会終了後の2月14日付『朝日新聞』文化面「標的」欄には、【向】名で次のようなコラムも掲載されています。

 去る二月三日発売の札幌オリンピック冬季大会の記念切手をみて、がっかりしてしまった。昭和も前半の少年少女雑誌の挿絵のようなやぼったさである。
 この大会を記念して、世界各国で発行された切手は、一八五種といわれるが、目に触れた数カ国の切手だけをくらべても、日本よりいいものが多い。切手オリンピックで、日本は、とてもメダルをとれそうにない。

 平生あまり記念切手をみていないので、札幌大会の切手だけが特によくないのかと思っていたら、切手マニアの間でも、日本切手のデザインは評判がよくないようだ。昨年発行された日本切手を、日本郵趣協会の各支部で合評した結果をみると、きびしい点がついている(『郵趣』二月号、東京都渋谷区代々木二丁目二・日本郵趣協会)
 いいのは、切手趣味週間、南極条約十周年、政府印刷百年記念の切手ぐらいで、これらを除く二十数種類の切手には、平均が六十点を下まわる点がついている。どうもスポーツ切手がわるいらしく、第二十六回国体記念切手など、四十点以下という採点である。

 今回発売の札幌大会の記念切手には、三枚一組の小型シートもあるが、切手よりもこのシートの図柄のほうがいい。青地に大会の公式マークと雪の結晶をあしらったデザインでこれをみると、なぜ雪の結晶を切手に使わなかったのか、と不思議に思われる。北海道はそこに降る雪の結晶の多様さと美しさで、世界に名高いという。これを切手に生かす絶好の機会を逸したものである。

 それでも、大会そのものへの社会的な関心の高さもあって、記念切手の売れ行きはきわめて順調で、切手発行初日、地元の札幌中央局には長蛇の列ができ、当初は1人10シートまでの販売だったものが、途中から、1人4シートに販売制限が強化されたものの、同局割り当て分は同日中に完売となっています。

 なお、札幌五輪とその記念切手については、拙著『沖縄・高松塚の時代』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 ドレッド・ヘアといえば
2010-02-18 Thu 17:07
 ヴァンクーヴァー五輪は、きょう(日本時間18日・現地時間17日)、スノーボード男子ハーフパイプが行われ、移動中の“服装の乱れ”がきっかけで問題児扱いされていた国母和宏は8位(とりあえず入賞)という結果になりました。というわけで、国母の“服装の乱れ”の一つとされるドレッド・ロックス(ドレッド・ヘア)の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ボブ・マーレー生誕50年

 これは、1995年、ジャマイカで発行されたボブ・マーレー生誕50年の切手の1枚です。レゲエ・ミュージシャンとして世界的に名高いボブ・マーレーの切手は祖国ジャマイカでも何度か発行されていますが、今回ご紹介のモノは、その中でもドレッド・ヘアの髪型がはっきりとわかる1枚です。

 長期間にわたり、ブラシ、櫛、剃刀、はさみを使用せず、頭髪を自然に成長させるままにしておくと、互いに絡まり合ってロープのような髪型になります。このような髪型は、古今東西、あらゆる文化圏で見られるものですが、ジャマイカでは、1950年代から“ドレッドロックス”の名前で呼ばれるようになりました。

 もともと、この言葉は、1930年代からジャマイカの貧困層の間に広がっていた宗教的思想運動、ラスタファリズムに対する蔑称だといわれています。ちなみに、ラスタファリズムは、キリスト教の聖書を聖典としつつも、エチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世をジャーの化身、もしくはそれ自身だと解釈するアフリカ回帰主義(またはアフリカ中心主義)の運動で、菜食主義やドレッドヘア、ガンジャを聖なるものとしています。

 彼らがドレッド・ヘアを重視する根拠としては、モーセ五書のうち『民数記』に、ナジル人(自ら志願して、あるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者)の3つの誓いの内の1つとして、「ナジル人でいる間は、頭上に剃刀を使ってはならず、自らの主に使えている間は、彼は聖なる存在であり、頭の毛髪を伸ばし続けなければならない」とあることに求めるのが一般的です。

 もっとも、国母を含め、現実に日本でファッションとしてドレッド・ヘアをしている人の多くは、美容院などで髪形を整えているのでしょうし、それゆえ、頭髪を全く切らない訳ではないでしょうから、ラスタファリズムの立場から見るとインチキと見られても仕方ないかもしれません。

 さて、(日本人としては)奇抜なファッションでマスコミの注目を集めた国母ですが、肝心の五輪成績が8位というのはどう考えたら良いんでしょうかねぇ。世界で8位というのは冷静に考えると十分に立派なことではあるのですが、とかく態度の悪さでマスコミから大バッシングを受けていた人物ですから、まぁ、メダルを逃したことについて「そら見たことか」ということになるんでしょう。自業自得とはいえ、ちょっと気の毒な感じがしないでもありませんな。
 

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 切手で巡る庭園散歩:偕楽園
2010-02-17 Wed 11:50
 ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の2月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手で巡る庭園散歩」では、今月は梅の季節ということで、この1枚をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      偕楽園

 1966年2月25日、「名園シリーズ」の第1集として発行された偕楽園の切手です。

 1965年12月9日、郵政省は突如、次のような報道発表を行いました。

 郵政省では、わが国が誇る庭園美術を内外に紹介する目的で、日本名園シリーズ郵便切手の発行を計画していたが、その第一集として、好文亭と梅林で有名な「水戸・偕楽園」を画題とした次のような10円郵便切手を2月25日から発売するよう準備を進めている。

 この発表では、“日本名園シリーズ”の発行は以前から準備されていたように述べられていますが、昭和40年度の記念・特殊切手の発行計画には、当初、このシリーズは含まれておらず、いわゆる割込の発行です。それまでにも、単発モノの記念切手が当初の発行計画とは別に割込で発行される例はいくつかありましたが、シリーズ切手の割込というのは、きわめて異例なことです。

 実は、当時、郵政大臣の任にあった郡祐一は茨城県の選出で、この切手はいわゆる“大臣切手”として企画されたものでした。このため、12月9日の報道発表の時点では、シリーズの構成について具体的なことはなんら発表されず、翌1966年1月になって、ようやく、“日本三名園”の形式を整えるために残りの2種(兼六園後楽園)を発行することが明らかにされるというありさまでした。

 ところで、切手に取り上げられた水戸・偕楽園は、1842年7月、当時の水戸藩主・徳川斉昭が、水戸城下・常盤の高台に造営した公開の回遊式庭園で、名前は、孟子「梁恵王上」の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」の一文にちなんだものです。1873年、“常盤公園”として茨城県の公園に編入されたのち、1920年、内務省から史蹟名勝に指定され、1932年に“偕楽園”の旧名に復しました。

 園内の梅林は、斉昭が江戸藩邸の梅の実を採取して植えたのが始まりといわれ、それまで梅がほとんどなかった水戸の地をいちやく梅の名所とすることになりました。

 一方、切手にも描かれている園内の“好文亭”は、二層三階の木造こけら葺の建造物で、その名は、漢籍で梅の別名を“好文木”と呼ぶことにちなんでいます。1945年の水戸大空襲で焼失しましたが、戦後、復元されました。

 ちなみに、切手発行の背景に露骨な政治的意図があったため、今回の切手発行に眉を顰める収集家も少なくありませんでしたが、切手そのものの評判は必ずしも悪くはなく、業者間の取引では額面割れとなる新切手が多かった中で、数少ないプレミアムつきの切手として取引されていたようです。


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 長島が銀、加藤が銅
2010-02-16 Tue 13:25
 ヴァンクーヴァー五輪の男子スピードスケート500mで、長島圭一郎が銀、加藤条治が銅メダルを獲得しました。今大会での日本人のメダル獲得はこれが最初です。というわけで、今日はこの切手を持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

      男子スピードスケート世界選手権

 これは、1954年1月16日に発行された「男子スピードスケート世界選手権大会」の記念切手です。

 スピードスケートの世界選手権は、1889年、アムステルダムで第1回大会が開催されて以来、途中、2度の大戦による中断の時期を除いて毎年行われています。当初は、男子のみの大会でしたが、1936年からは女子大会も行われるようになり、1954年には、札幌で男子の大会が、エステルランド(スウェーデン)で女子の大会が行われました。

 このうち、1954年1月16-17日、札幌市郊外の円山スケートリンクで行われた札幌大会には、日本、ソ連、ノルウェイ、スウェーデン、フィンランド、韓国の選手19名が参加 。500メートル、1000メートル、5000メートル、1万メートルの各種目の総合得点で優勝したのは、ソ連のシルコフ選手でした。

 大会は、世界規模のスポーツ大会としては、戦前戦後を通じて日本で行われる最初のもので、開催直前の1953年11月には、当時、日本と国交のなかったソ連選手の入国の可否をめぐる問題も発生したため、社会的にも大きな注目を集めています。また、大会の模様は、開局まもない日本テレビによって放送され、以後、プロ野球や力道山のプロレスなど、同局によるスポーツ中継番組のさきがけとなりまし。

 なお、札幌での大会終了後、参加選手たちは引き続き1月20日から日光で国際スピード選手権大会に出場する予定でしたが、こちらの方はリンクの状態が悪く、大会そのものが中止となってしまいました。

 今回の大会に関しては、日本最初の世界規模のスポーツ大会ということで、郵政省サイドでは、ある時期、記念切手の発行を検討したこともあったようです。

 しかし、日本体育協会(以下、体協)サイドから郵政省に対して記念切手発行の申請はなかなか行われず、体協関係者がこの件に関して郵政省に最初に接触してきたのは会期まで残り2ヶ月ほどとなった1953年11月13日午後のことでした。

 このため、郵政サイドでは、準備期間の不足を理由に、いったん事務的に切手発行の要請を断っています。

 しかし、翌14日に行われた雑誌『切手趣味』の座談会の席上、スポーツ切手の収集家として知られていた関本篤は、体協から郵政省への切手発行の要請があったことを察知し、学生時代からの友人で郵政省で切手発行政策を担当していた八田知雄に接触。関本はソ連やドイツ、ルーマニア、ノルウェーなどの発行したスピードスケートの切手を送った上で、発行は難しいとする八田に対して、各国の切手発行事情を説明。「日本に於て汎世界的な競技大会が開かれるのは最初である」ことを強調したうえで、「今迄は極東オリムピックか精々対抗競技大会であつたのが今回のは国際オリムピック大会と迄は行かなくとも世界選手権である。スケート界に於ては冬季オリムピックと並んで重要イベントである。モナコやフランスの様にオリムピック協賛のスポーツ切手の発行はしなくとも今回の様な時に発行しなければ・・・」と力説しました。

 こうした関本の熱意が通じたのか、八田も部内の調整に奔走。最終的に、郵政部内は「世界選手権大会記念のため各種競技に各国で(記念切手を)発行している例も多く、我国では初めての催でもあり、1回限り認めるとしてはどうか」との意思統一が行われ、同月16日、郵政審議会の専門委員会で切手の発行が正式に決定されました。ちなみに、体協から正式に切手発行の申請書が届いたのは、委員会終了後の18日のことでした。

 こうして記念切手の発行が正式に決定されたものの、大会の初日まで残された時間は、すでに2ヶ月を切っていました。しかも、その間には年末年始の休業日があり、実際に製作に当てられる日数は、実質的には、ほぼ1ヶ月といったところでした。

 このため、八田は印刷局と折衝を開始。作業の予定を途中で変更されることに不満を隠さない印刷局に対して、①300万枚が普通であった記念切手の発行枚数を、今回に限り、200万枚に減らす、②1月20日発行予定の通常20円切手(中尊寺金色堂)の目打穿孔作業を一部後回しにする、という2条件と引き換えに、記念切手の年内納入を印刷局に約束させています。

 一方、10月16日の委員会で切手発行が正式に決定される以前から、切手発行の提案が否認された場合には無駄になるのを覚悟の上で原画の制作が開始され、デザイナーの渡辺三郎は図案資料 をもとに体協スキー連盟の責任者と協議を重ねており、11月末には原画は完成。12月に入ると、印刷局も“他のいっさいの仕事を放棄した”とまでいわれる超人的なスピードで製版作業を進め、年末の25日には郵政省への納品を完了。切手の完封が年賀状の隙間を縫って全国各地への発送が開始されています。

 こうして綱渡りに綱渡りを重ねて完成した今回の記念切手は、発行日の1月16日には、大会会場の札幌をはじめ、全国の主要な郵便局でなんとか発売にこぎつけています。ただし、本省からの切手の発送が年末年始にかかっていたこともあり、一部、末端の小局では発行日に切手が届かなかった事例もあったようです。
 
 一方、切手そのものの評判は、題材の親しみやすさともあいまって一般にも好評で、発行新切手の2%の配給を受けていた東京中央郵便局切手普及課では、配給された4万9000枚が1日半で完売となるなど、八田らの苦労は充分に報われる結果となりました。

 なお、トリノや北京の時と同様、五輪期間中は、日本人選手がメダルを獲得したら、その競技の切手をご紹介していくつもりです。男女別とか、細かい種目については、大目に見てください。


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 切手が語る宇宙開発史(6)
2010-02-15 Mon 10:01
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『ハッカージャパン』の2010年3月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・スプートニク(1957)

 これは、1957年11月6日にルーマニアで発行された人工衛星をたたえる切手で、地図にはソ連を示すクレムリンも図示されています。

 1957年のスプートニク1号・2号の打ち上げ成功後、当事国のソ連以外に、1957年中に記念切手を発行した国としては東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニアが挙げられますが、このうち、東ドイツチェコスロヴァキアが“国際地球観測年”の名目でそれぞれ1回ずつ切手を発行しているのに対して、ルーマニアはストレートに人工衛星を題材とした切手を2度に分けて計6種発行しており、その突出ぶりが目立っています。

 第二次大戦勃発直前の独ソ不可侵条約の密約により国土の一部をソ連に奪われたルーマニアは、1940年に独ソ戦が始まると、ドイツ側に立ってソ連に対して宣戦を布告し、一時的にではあるが失地を回復しました。ところが、1943年降のソ連軍の攻勢によって追い詰められ、失地の回復はおろかルーマニア本国もソ連による占領の危機にさらされるようになると、1944年8月、ソ連と休戦条約を結び、国王はドイツに対して宣戦を布告します。

 こうした経緯もあって、大戦後のルーマニアにはソ連軍が駐留し、ソ連の強い影響力の下で、1947年末に王制が廃止され、共産党主導のルーマニア人民共和国が成立。ソ連との友好協力相互援助条約が締結され、ソ連の衛星国として、ソ連憲法をモデルとする新憲法の採択や大企業の国有化、スターリン式の富農一掃と農業集団化、第1次5ヵ年計画が強行されていきました。

 その過程で、ルーマニア国内では共産党内部での熾烈な権力闘争が展開され、土着の共産主義者であったゲオルゲ・ゲオルギウ・デジが権力を掌握し、ソ連派(ソ連からの帰国者)の有力者は粛清されたが、デジ自身は“小スターリン”として君臨し、スターリン式の政策を推進して、親ソ外交を展開します。そして、1956年10月、フルシチョフによるスターリン批判を機に隣国ハンガリーで反ソ暴動が発生すると、デジ政権は率先してソ連軍の介入を支持するなど、ソ連の“忠臣”として行動しました。

 この背景には、ルーマニア国民の3分の1を占めるハンガリー系住民が動揺し、彼らによる反体制活動が起こることを封じ込めたいとの意図があったことは明白で、換言すれば、ルーマニア政府としては、“宗主国”であるソ連の威を借りるかたちで少数民族としてのハンガリー系の不満を抑え込もうとしたのだともいってよいでしょう。

 一方、デジ政権は、ソ連に対する“忠誠心”をアピールすることで、大戦後の懸案であった駐留ソ連軍のルーマニア領からの撤退を粘り強く要請。1958年5月にはついに、悲願のソ連軍撤退を実現させています。ルーマニア郵政が、1957年11月6日と12月20日の2度にわたって、ソ連の人工衛星をたたえる切手を矢継ぎ早に発行しているのも、当時のルーマニアが強いられていた面従腹背の状況を反映したものに他ならないといってよいでしょう。

 その後、ソ連軍の撤退を成功させたデジ政権は、1960年代に入ると、産油国としての立場を生かして次第にソ連からの自立路線を採るようになり、それは後継のチャウシェスク政権にも受け継がれていくことになります。

 なお、共産主義時代のルーマニアについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 春節快楽
2010-02-14 Sun 17:55
 きょう(2月14日)は春節です。というわけで、トラ年の正式なスタートにあたり、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      マレーのトラ

 これは、1931年3月10日に英領マレー連邦で発行された1ドル切手です。

 マレー半島を植民地化したイギリスは、重要な港であったペナン、マラッカ、シンガポールを直轄の海峡植民地とし、残る地域では在地の首長であるスルタンを通じた間接統治を行っていました。このうち、ネグリ・スンビラン、パハン、ペラ、スランゴールの各州は、1896年7月1日、英領マレー連邦を構成することになりました。

 連邦の結成当初、各州では従来からの切手がそのまま使われていましたが、1900年、ネグリ・スンビランならびにペラの切手に“FEDERATED MALAY STATES”と加刷した連邦共通の切手が発行されたのに続き、今回ご紹介のようなデザインのトラの切手が発行されました。

 その後、“マレーのトラ”切手は30年以上にもわたって使われましたが、発行時期によって透かしが異なっているため、大きく3つのシリーズに分類されています。また、1900年のシリーズでは、1ドル以上の高額切手は3頭の像を描くデザインでしたが、1930年代に入ると、最高額の25ドルを除き、1ドル・2ドル・5ドル切手もトラのデザインとなりました。地元の人たちの感覚としては、20世紀初頭の1ドルは1930年代の25ドルくらいに相当するということだったのかもしれませんな。


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 きょうからヴァンクーヴァー五輪
2010-02-13 Sat 09:51
 日本時間のきょう(現地時間では12日)から、いよいよ、第21回冬季五輪ヴァンクーヴァー大会(以下、ヴァンクーヴァー五輪)が開幕します。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブリティッシュ・コロンビア&ヴァンクーヴァー島

 カナダ西岸のヴァンクーヴァー島は1849年、本土側のブリティッシュ・コロンビアは1858年にそれぞれイギリスの植民地となりましたが、両者は1860年に“ブリティッシュ・コロンビアおよびヴァンクーバー島”の名で、今回ご紹介しているような共通の切手を発行しました。これは、両植民地をあわせると独自の切手を発行するだけの郵便需要があるのに対して、それぞれの植民地単独では独自の切手を発行するだけの需要はなかったためです。発行された切手は額面2.5ペンスで、ビクトリア女王の肖像を描くもの。デラルー社によって23万5440枚製造されました。

 その後、ヴァンクーヴァー島では1862年に10進法の通貨を導入したため、旧2.5ペンス額面の切手は5セントで売られました。なお、ヴァンクーヴァー島独自の切手が発行されたのは1865年9月のことでした。

 一方、ブリティッシュ・コロンビアでは、1864年6月に郵便料金が3ペンスに値上げされましたが、1865年11月にブリティッシュ・コロンビア独自の切手が発行されるまでは、2.5ペンスの切手が3ペンスの切手として発売・使用されました。

 なお、両植民地は1866年、ブリティッシュ・コロンビア植民地として統合され、ブリティッシュ・コロンビア側の切手がヴァンクーヴァー島でも使われるようになります。そして、同植民地が1871年7月20日に“カナダ自治領”に加入しブリティッシュ・コロンビア州となったことで、ブリティッシュ・コロンビア切手の使用も停止されました。ちなみに、今回の五輪の会場となっているヴァンクーヴァー市は、ヴァンクーヴァー島ではなく、大陸本土側に位置していますので、今回ご紹介の切手の後は、ブリティッシュ・コロンビアの切手が使われていたということになります。

 * 昨晩、カウンターが65万PVを超えました。いつも遊びに来てくださる皆様には、あらためて、お礼申し上げます。

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 ギリシャを救え
2010-02-12 Fri 11:30
 ギリシャの経済危機問題に関して、きのう(11日)、EUのファンロンパイ大統領(首脳会議の常任議長)、欧州委員会のバローゾ委員長、フランスのサルコジ大統領、ドイツのメルケル首相、欧州中央銀行(ECB)のトリシェ総裁、ギリシャのパパンドレウ首相による協議が行われ、ギリシャへの支援を行うことで合意しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      イタリア・バイロン

 これは、1959年4月21日にイタリアが発行した切手で、デンマーク人彫刻家トーヴァルセンによるバイロン像(ローマにあります)が取り上げられています。バイロンの切手は、当然のことながら、ギリシャでも何度か発行されていますが、今回はギリシャを救済する側のユーロ圏の国の切手がよかろうと思って、この1枚を持ってきました。

 バイロンは、1788年、ロンドン生まれ。情熱の詩人として知られ、社交界の寵児として恋に憂き身をやつす生活を送っていましたが、1824年、ギリシャ独立戦争に参加するためミソロンギに上陸。かの地で熱病にかかり没したことは広く知られています。一方、バイロン像の作者であるトーヴァルセンは、1770年、コペンハーゲン生まれ。26歳の時にローマに留学し、以来24年間、ローマを拠点に活躍し、ヨーロッパ各地に作品を残しました。

 「ヨーロッパ文明の源であるギリシャをオスマン帝国の圧政から救え!」とのバイロンの訴えは、当時のヨーロッパ社会に大きなインパクトをもたらし、多くの文化人たちがギリシャの独立運動を支援していました。もっとも、オスマン帝国の支配層には、ギリシャ人やギリシャ正教も組み込まれており、トルコ人によって抑圧されるギリシャ人という構図はあまりにも単純化されすぎたものでしたし、なによりも、ヨーロッパ各国の政府首脳はオスマン帝国があまりにも弱体化すればバルカンから東地中海にかけての地域が大混乱に陥ることを恐れ、ギリシャをオスマン帝国宗主権下の自治国とすることで問題の解決を図ろうとしていました。はたして、1832年のロンドン議定書でギリシャの独立が認められましたが、その後、バルカン情勢は不安定化の道をたどっていくことになります。

 さて、現在問題になっているギリシャの経済危機ですが、問題の根はなかなか深いものがあります。すなわち、もともとギリシャは放漫財政が問題視されていましたが、2008年のリーマンショック以降の金融危機で税収が減少し、財政状況が悪化。さらに、昨年(2009年)10月の政権交代後、前政権が財政赤字を過少計上していたことが明らかになり、国内総生産(GDP)比5%超とされていた2009年の赤字は12.7%にまで膨れ上がり、統計データへの信頼失墜から、債務返済能力も疑われ、ギリシャ国債の格付けが引き下げられ、経済危機が深刻化したのです。 

 従来、経済危機に陥った国に対しては、IMFの支援による解決が図られることが多かったのですが、ギリシャに関しては、アメリカ主導のIMFの介入を嫌ったフランス・ドイツがユーロ防衛のために欧州による問題解決を強く主張。このため、今回のようなギリシャ支援への合意となりました。

 かねがね、ユーロ圏内のポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペインの各国は“PIIGS”として財政破綻予備軍とされており、ここでギリシャを救わなければドミノ現象が起こってユーロ圏全体が危機的な状況に陥ることも想定されています。その意味では、今回ご紹介の切手を発行したイタリアにとっても、「ギリシャを救え」とのバイロンの言葉は他人事ではないのでしょうね。


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 お姑さんは神功皇后
2010-02-11 Thu 10:52
 きょうは“建国記念の日”です。というわけで、記紀神話に絡む1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      木造仲津姫命坐像

 これは、1988年9月26日に「第3次国宝シリーズ」の第5集として発行された“木造・中津姫命坐像”の切手です。

 記紀によれば、中津姫命は五百城入彦皇子(景行天皇の皇子)の孫娘で、父は品陀真若王。姉の高城入姫・妹の弟とともに応神天皇の妃となり、天皇との間に仁徳天皇・荒田皇女・根鳥皇子を産んだとされています。

 平安時代前期、仏教の浸透に伴い、日本古来の神祇信仰と仏教が混じり合う神仏習合の現象が生じました。日本の神々は仏や菩薩などが姿を変えて日本に現われたものとする本地垂迹説が唱えられ、古代日本の自然崇拝や山岳信仰と仏教が結びついた修験道も成立します。仏の仮の姿としての神(権現)を祀る神社を運営するための神宮寺が建立され、応神天皇を主神とする八幡神は“八幡大菩薩”になり、各種の権現像や仏像を意識した神像もつくられるようになりました。

 薬師寺の鎮守八幡神社に伝わる八幡三神像(現在は奈良国立博物館に寄託)もそうした信仰から生まれたもので、平安時代前期の寛平年間(889-898)に薬師寺別当の栄紹によって神社の創建と同時に勧請祭祀されました。ひとまわり大ぶりに造られた僧形八幡神(応神天皇)を中心にし、向かって右に神功皇后(応神天皇の母)、向かって左に仲津姫命(応神天皇の妃)を配した三神一具の像として安置されています。確認されている限り、現存する神像彫刻の最古の作例です。
 
 ちなみに、現在でこそ、天皇・皇后両陛下という表現がしばしば使われますが、“両陛下”という表現は、基本的に明治以降の発想です。すなわち、明治の初期まで、皇室の中で一番序列の高い女性は、皇后ではなく、天皇の母親である皇太后でした。これは、天皇家といえども、伝統的なイエの論理で見る限り、嫁である皇后よりも姑である皇太后のほうが上だという考え方によるもので、明治10年代になっても、天皇→皇太后→皇后という序列で描かれた肖像画が多数存在しています。薬師寺の八幡三神像も同様の発想によるものですが、切手に登場した順番としては、皇太后→天皇→皇后となりました。まぁ、(少なくとも名目上は)最高権力者である内閣総理大臣が月々1500万円の“子供手当”を母親からもらう国ですからねぇ。奥さんよりもお母さんが大事というのも、自然なことなのかもしれません。

 さて、切手に取り上げられた中津姫命坐像は、檜材の一木造りで高さは約37センチ。美しく彩色され、長い髪をたらし、右ひざを浮かせ気味にした姿勢で当時の貴族女性の衣装をまとっており、この時代の彫刻の傑作の一つとして知られています。

 なお、今回ご紹介の切手を含む「第3次国宝シリーズ」に関しては、拙著『昭和終焉の時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 スリランカの弥勒菩薩
2010-02-10 Wed 11:43
 先月、内戦終結後初の大統領選挙が行われたスリランカで、一昨日(8日)、大統領選の野党統一候補だったフォンセカ前政府軍参謀長が逮捕されたのに続き、きのう(9日)はラジャパクサ大統領が議会を解散するなど、反対派への弾圧が強まっています。というわけで、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      セイロン・ミロク菩薩

 これは、1977年にスリランカが発行した“国立博物館100年”の記念切手のうち、弥勒菩薩像を取り上げた1枚です。

 サンスクリットで“マイトレーヤ”と呼ばれる弥勒菩薩は、釈迦の次に仏陀となることが約束された最高位の菩薩で、釈迦の入滅後、56億7000万年後の未来に姿を現し、多くの人々を救うとされています。

 長年に及んだ内戦が終結し、新大統領も無事に選挙で決まり、いよいよ国民の融和と国家の再建が進むものと期待されていたスリランカですが、ここ数日の報道を見ると、真の平和はまだまだ遠い状況のようです。スリランカ国民に心の平安をもたらす弥勒菩薩は、釈迦の入滅後、56億7000万年後なんて悠長なことを言わず、すぐにでもあらわれてくれないものですかねぇ。

 ところで、わが国では弥勒菩薩といえば広隆寺や中宮寺などの半跏思惟像(椅坐して左足を下ろし、右足を上げて左膝上に置き、右手で頬づえをついて瞑想する姿)のイメージが強いのですが、世界的にみると、必ずしも半跏思惟像ばかりではなく、どっかりと腰をおろした座像立像もあります。拙著『切手が伝える仏像:意匠と歴史』では、そうした弥勒菩薩のさまざまなバリエーションについても、各国の切手を使ってカラーでご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 ビール造りの難しさ
2010-02-09 Tue 12:27
 世界最大級の酒類・飲料会社を目指して進められていたキリンとサントリーの経営統合交渉が、きのう(8日)、決裂しました。というわけで、きょうはビールがらみの切手ということで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ビール純粋令

 これは、1983年に西ドイツで発行された“ビール純粋令450年”の記念切手で、16世紀のビール業者を描く絵画が取り上げられています。

 ビール純粋令は、1516年に、バイエルン侯ヴィルヘルム4世が「ビールは大麦とホップと水の3つの原料以外を使用してはならない」と定めた法令で、現在でも有効な食品に関連する法律としては世界最古とされています。ビール史の本などでは、純粋令の公布は1516年と出てくるのですが、切手は1533年から起算して450年後の1983年の発行です。どうしてこのようなギャップが生じたのか、その理由については、調べきれませんでしたので、どなたかご存知の方があれば教えていただけると幸いです。

 さて、ビール純粋令の第一の目的は、パンを焼く小麦が不足がちだったため、ビール醸造に小麦を使わせないようにすることでしたが、バイエルンのビールの品質を北ドイツのアインベックビールに対抗できるものへと向上させるという狙いもありました。このため、純粋令に基づき、バイエルン領内では、偽物や不純な添加物の入ったビールを一掃すべく、厳しい品質検査が行われるようになりました。

 その後、1556年にビールの原料として“酵母”が加えられ、「大麦、ホップ、水、酵母」の4つがビールの主原料として定められ、現在にいたっています。

 ところで、わが国におけるビールの醸造・販売の歴史は、1869年、ローゼンフェルトとウィーガントが横浜山手46番に“ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー”を創設し、居留地の外国人向けにビールの醸造を開始したのが始まりとされています。翌1870年には、ノルウェー系アメリカ人のコープランドが横浜山手123番(天沼)に“スプリング・バレー・ブルワリー”を開設し、大衆向けビールとしては日本で初めて継続的な醸造・販売を開始しました。

 その後、“ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー”は何度かの統廃合を経て、その流れを汲むビール会社としては、1874-75年ごろ、“ババリア・ブルワリー”となります。1876年には、スプリング・バレー・ブルワリーがこのババリア・ブルワリーを吸収する形で、コープランドとウィーガントによる商事組合“コープランド・アンド・ヴィーガント商会”が結成されましたが、 コープランドとウィーガントの間で経営上の対立が浮上。結局、裁判の結果、商事組合は解散となり、工場は競売にかけられて、これを落札したコープランドが改めて醸造所を経営することになりました。

 こうした内紛は、当然のことながら、経営にも悪影響を及ぼし、1884年、コープランドの醸造所は倒産。このため、トーマス・ブレーク・グラバーやイギリスのビール会社バターフィールド社のジェームス・ドッズらに三菱財閥の岩崎弥之助らが発起人として加わり、1885年、外国資本による香港国籍の新会社“ジャパン・ブルワリー(2代目)”が設立され、1888年から、明治屋を通じて“麒麟ビール”の販売が開始されました。

 これが、現在のキリンビールのルーツで、麒麟のイラストは翌1889年から採用されています。なお、企業としての麒麟麦酒株式会社は、1907年、三菱財閥と明治屋の出資による純粋日本資本の新会社として設立されたもので、ジャパン・ブルワリー社から組織や事業をそのままの状態で買収・継承したものです。

 まぁ、キリンとサントリーの場合も、両者の企業風土はあまりにも違っていますからねぇ。仮に経営統合が実現したとしても、明治初年のコープランド・アンド・ヴィーガント商会の時と同じように、すぐに空中分解ということになっていたかもしれません。まぁ、切手に取り上げられた職人さんたちのように仲良くビールを作っていくというのは、現実にはなかなか難しいということなんでしょうかね。

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 チェルノヴィッツ/チェルニウツィー
2010-02-08 Mon 14:33
 昨日(7日)行われたウクライナ大統領選挙の決選投票は、ヤヌコビッチ前首相が勝利宣言を行い、ティモシェンコ首相に辞任を求める結果となりました。というわけで、ウクライナがらみのマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)

      チェルノヴィッツ葉書

 これは、1905年4月、ハプスブルク支配下のチェルノヴィッツ(現・ウクライナ領チェルニウツィー)から差し出された葉書です。

 カルパティア山脈とドニエストル川に挟まれたブコヴィナ地方は、1775年以降、ハプスブルク帝国の支配下に置かれ、ドイツ語名でチェルノヴィッツと呼ばれていた都市がブコヴィナ州の州都となりました。今回ご紹介の葉書は、ハプスブルク支配下のチェルニウツィーから差し出されたもので、オーストリア切手が貼られ、ドイツ語風に“チェルノヴィッツ”と表示された消印が押されています。

 これに対して、第一次大戦でドイツ、オーストリアが降伏すると、その直後の1918年11月28日、ブコヴィナの人々はチェルニウツィに集まり、ブコヴィナとルーマニア王国との統一を決議。これは、翌1919年のサンジェルマン条約(オーストリアに対する講和条約)で認められ、ブコヴィナは正式にルーマニア領となり、チェルノヴィッツはルーマニア語でチェルナウツィと呼ばれるようになりました。

 しかし、大戦勃発直前の1939年8月23日に結ばれた独ソ不可侵条約と、9月1日の開戦を経て同月28日に結ばれた独ソ境界・友好条約を経て、ソ連はルーマニア東部、ベッサラビアを勢力圏とする密約が結ばれ、フランス降伏翌日の1940年6月23日、ソ連は独ソ不可侵条約の密約に基づいてルーマニア領ベッサラビアを併合するとともに、突如、ブコヴィナの割譲も要求しました。

 ブコヴィナは帝政ロシアの時代にもロシア領となったことはなく、密約の範囲を超えたソ連の要求に対してはドイツも抗議しましたが、結局、ブコヴィナ地方のうちウクライナ系住民の多い北ブコヴィナ(チェルナウツィ県)のみをソ連に割譲することで独ソの妥協が成立。同月26日、ソ連から24時間の時限つきで最後通牒を突きつけられたルーマニアは、翌27日、これを受け入れ、28日にはソ連軍が北ブコヴィナに進駐します。そして、8月2日、ソ連は北ブコヴィナを南部ベッサラビアと合わせて、連邦を構成するウクライナ・ソビエト社会主義共和国に割譲しました。このときひかれた境界線が現在のルーマニアとウクライナとの国境となり、チェルナウツィーはロシア語でチェルノフツィーないしはウクライナ語でチェルニウツィーと呼ばれるようになります。

 その後、1941年に独ソ戦が始まると、ドイツ・ルーマニアの連合軍がブコヴィナに進攻しこの都市は再びルーマニアの支配下に入りますが、1944年、ソ連が再奪還。以後、1991年にウクライナが独立するまで、ソ連の支配下に置かれていました。ちなみに、現在のウクライナ領チェルニウツィーは、同州の州都となっています。 

 なお、ブコヴィナをめぐるハプスブルク帝国、ルーマニア、ソ連、ウクライナの複雑な関係については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 北方領土の日
2010-02-07 Sun 16:08
 きょう(7日)は“北方領土の日”です。というわけで、拙著『昭和終焉の時代』の中から、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      日本標準時制定100年

 これは、1986年7月11日に発行された“日本標準時制定100年”の切手です。

 1884年、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を本初子午線(経度0度の子午線)とし、これを基準に東西に経度が15度ずつ離れるたびに1時間ずつ異なる地域ごとの標準時を置くことが決定されたことを受けて、東経135度の子午線の“時”をもって日本標準時とすることが定められたのは、1886年7月12日のことでした。今回ご紹介の切手は、それから100年を記念してのものですが、記念日当日の1986年7月12日が土曜日だったため、前日の11日が記念切手の発行日となっています。

 さて、切手の図案は日本地図と明石市を通る東経135度の子午線、それに時計を描いたものですが、日本地図に関しては九州・四国の一部が時計で隠されているほか、北方領土に関しては国後島の一部が描かれているだけです。

 まぁ、歯舞諸島や竹島に関しては、縮尺の関係で小さすぎて確認できないという弁解も成り立ちうると思いますが、択捉島が全く描かれていないのはいただけませんねぇ。デザイナーとしては、単純に画面に入らなかったのだといいたいのでしょうが、逆に、正確な地図ではなく図案であるのですから、縮尺を変えるなどして北方4島をきちんと描いておくべきです。こういうところできちんと主張しておかないと、国際社会に対して、日本が択捉島の領有権を放棄したとの誤解を与えかねません。

 どういうわけか、切手に描かれる日本地図では択捉島が除外されているケースが目立ちます。占領下の1949年に発行されたUPU75周年はともかく、1981年に“北方領土の日”が設定された後に発行された天気予報100年でも、択捉島が“日本地図”に含まれていないのは、どう考えてもおかしい。これじゃぁ、いったい何のための“北方領土の日”なのか、首をかしげたくなります。
 

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 ハイチへのPKO派遣
2010-02-06 Sat 09:03
 陸上自衛隊のハイチへのPKO派遣が閣議決定されました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ハイチ救援

 これは、今年(2010年)1月19日にフランスで発行されたハイチ地震救援の寄付金つき切手です。切手本体の額面は46サンティーム(20グラムまでの国内書状料金)で、44サンティームの寄付金が上乗せされています。中央には目打状の印刷があり(穴は開いていません)、デザイン的には切手+タブというイメージです。なお、実物は注文したのですがまだ手元に届いていないので、フランス郵政のHPから画像を拝借しました。

 さて、今回の陸上自衛隊のハイチ派遣では、首都ポルトープランスを宿営地とし、仮設住宅の建設に必要ながれきの除去や整地作業などを行い、派遣期間は当面、11月末までの約10カ月間です。いままで、陸上自衛隊のPKO派遣には最低でも2ヶ月近くの準備が必要でしたから、今回、国連の派遣打診(正式要請は1月29日)から閣議決定までわずか半月というのは、わが国としては異例のスピード決着になるのだそうです。もっとも、今回ご紹介の切手は、12日の地震発生から1週間後ですし、すでに多くの国が現地で救援活動をしていますからねぇ。残念ながら、世界標準からすると、日本政府の対応は遅いということになるんでしょうな。

 とまれ、国際的には非常に高い評価を受けていたインド洋での給油作業が民主党への政権交代で終了してしまい(そういえば、隊員の皆さんは今日ご帰国だそうですね。お疲れさまでした)、残念な思いをしていた国民も少なくないだけに、新たな国際貢献策としてのハイチPKOには日本国民として大いに期待したいところです。


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 サヨナラ朝青龍
2010-02-05 Fri 09:58
 きのう(4日)の横綱・朝青龍の引退表明は、ある程度予想されていたとはいえ、やはりビックリしました。というわけで、モンゴル仏像ネタの中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      モンゴル・釈迦如来

 これは、1988年にモンゴルが発行した釈迦如来像で、切手上部のキリル文字は、モンゴル語で“釈迦如来”を意味するボルハン・バクシとなっています。モンゴルで発行された釈迦如来像の切手は、今回ご紹介のもののほか、黄色い衣のものもあるのですが、今回は朝青龍にちなんで青い衣のものです。数あるモンゴルの仏像切手の中でも僕のお気に入りの一枚で、拙著『切手が伝える仏像』では、扉にこの切手を大きく引き伸ばして載せました。

 さて、像の印相(手の形)は右手指を下に向け地面に触れている降魔印(触地印)の形をとっています。これは悟りを得る前の釈迦がガヤー村(現ブッダガヤー)の菩提樹の下で瞑想にふけっていた際、それを妨害する魔物を調伏した様子を表現したものです。

 原始仏教で重要視されていたのは、各人が己の煩悩を滅却して悟りの境地に達することですから、釈迦による魔物の調伏というのも、実際に彼が妖怪の類と戦ったということではなく、煩悩と格闘し、それを克服したさまを比喩的に表現したものと理解するのが自然でしょう。

 相撲のアスリートとしては超一流だった朝青龍ですが、私生活では煩悩まみれで、いろいろとトラブルを起こし、今回のような事態になったのはなんとも残念な話です。もっとも、力士にとっては“土がつく”のはマイナスですからねぇ。釈迦のように地面にふれることで魔物を追い払うということを求めるわけにもいかないのかもしれませんな。


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 前島密生誕175年
2010-02-04 Thu 10:22
 日本の“郵便の父”と称される前島密が1835年2月4日(天保6年1月7日)に生まれてから、きょうでちょうど175年です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      前島密150年

 これは、1985年6月5日に発行された「前島密150年」の記念切手で、三代広重による「駅逓寮」の絵を背景に前島の肖像が配されています。

 前島密は、1835年2月4日、越後国頸城郡津有村下池部(現・新潟県上越市)の豪農、上野助右衛門の2男として生まれました。幼名は房五郎です。

 江戸で医学、蘭学、英語を学んだ後、航海術を学ぶために函館に赴き、武田斐三郎の諸術調所で学び、1865年、薩摩藩の洋学校(開成所)の蘭学講師となりました。

 1866年、幕臣・前島家の養子となり、維新後の1869年、明治政府の招聘により民部省・大蔵省に出仕。翌1870年3月、租税権正となり、ついで同年5月、自ら望んで駅逓権正を兼任しています。就任早々、前島は、東京=京都間を往復する文書に関して、政府が莫大な逓送費を飛脚業者に支払っていることを知り、これを官業とすることで、政府の支出を抑えることを考えつき、6月2日、郵便創業に関する建議を民部・大蔵両省の会議に諮ります。しかし、その直後の6月24日、大蔵大丞・上野影範の特別弁務官としてイギリスへの差遣を命ぜられたため、1871年4月の郵便創業の実務は、留守を預かった杉浦譲が取り仕切ることになりました。

 1871年8月、イギリスから帰国した前島は駅逓頭に任じられ、創業まもない近代郵便制度の基礎を確立すべく奔走。 翌1872年には陸海元会社(現・日本通運株式会社)、郵便報知新聞(現・スポーツ報知)の設立及に関与しています。

 その後、1877年には駅逓局長、1879年には内務省駅逓総監に任じられましたが、1881年、いわゆる“明治14年の政変”で下野し、大隈重信らとともに立憲改進党を創立。1886年には東京専門学校(現・早稲田大学)校長に就任しました。

 1888年、逓信次官として官界に復帰し、1891年3月まで在職。この間、官営電話交換制度を実施。1902年、逓信行政に対する多年の功績から男爵を授与され、1905年、貴族院議員に選任。1919年、神奈川県三浦郡西浦村芦名(現・横須賀市芦名)の別荘“如々山荘”で亡くなりました。

 ちなみに、今回ご紹介の記念切手の発行日は6月5日ですが、これは、東京・大手町の逓信総合博物館で行われた「前島密生誕150年記念展覧会」の会期初日にあわせたもので、前島個人の誕生日や命日などとは直接関係ありません。

 なお、この切手を含む昭和末期の記念切手については、拙著『昭和終焉の時代』でも詳しくご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 夜叉のルーツ
2010-02-03 Wed 11:30
 きょう(3日)は節分です。というわけで、に関する切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ヤクシャ

 これは、1961年にインドで発行された「インド考古局100年」の切手で、インド西部マハーラーシュトラ州のピタルコラ遺跡から発掘されたヤクシャ像が取り上げられています。

 ヤクシャは“夜叉”の語源となったインドの鬼神で、その女性形はヤクシーもしくはヤクシニーです。古代インドの神話では、ヤクシャは財宝の神・クベーラの眷属という位置づけで、森林に棲む神霊として、人を食らう鬼神である反面、人間に恩恵をもたらす存在でもありました。

 後に、クベーラが四天王の多聞天(毘沙門天)として仏教に取り込まれると、その配下のヤクシャたちも天界八部衆、八大夜叉大将、十二神将などとして仏界を守護する護法善神になりましたが、同時に、人間に害をなす悪鬼に対しては、ヤクシャの音訳である夜叉の語があてられ、現在にいたっています。

 なお、拙著『切手が伝える仏像』では、インドのヤクシャ・ヤクシーとその系統に属する仏教彫刻を取り上げた切手をいろいろと取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 投票箱と立会人
2010-02-02 Tue 11:33
きのう(1日)、(財)日本相撲協会(以下、相撲協会)の理事選挙が行われ、事前の予想では圧倒的に不利と見られていた貴乃花親方が初当選を果たしました。その要因の一つに投票方法の変更があったといわれていますが、そのことにちなんで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・婦人参政権

 これは、2000年にフランスが発行した20世紀シリーズの1枚で、1944年に女性の参政権が認められたことが題材になっています。

 フランスでは、1789年に始まるフランス革命で普通選挙が実現しましたが、このとき、参政権が付与されたのは男性のみでした。当時は世界的に、政治は原則として男性が担うべきもの(その代わり、兵役の負担も男性のみ)で、女性は男性に保護され、男性を支えるものという意識が強く、女性の参政権などは全くの想定外というのが常識でした。その後、19世紀末から20世紀にかけて、欧米を中心に女性の参政権を認める国や地方が徐々に現れますが、フランスにおいて女性の参政権が認められたのは意外に遅く、第二次大戦中の1944年のことでした。おそらく、大戦中の男性労働力不足を補うため、女性の社会的な重要性が増したことが背景にあるものと思われます。

 今回ご紹介のマキシマムカードは、フランスで初めて女性が参政権を行使した選挙の際の投票のようすを描くもので、切手が貼られている絵葉書には実際の写真が印刷されています。

 ところで、このマキシマムカードで僕が興味をひかれたのは、投票立会人が投票箱のすぐ目の前にいる点です。(切手でも投票箱に立会人の腕がかかっているのが見えますが、いまいちわかりにくいので、マキシマムカードにしました)

 相撲協会の理事選挙の場合、前回までは、今回ご紹介のマテリアルのように立会人が投票箱の前に陣取って“誤字や無効票がないかどうかチェックするため”として投票用紙を確認していたことが“公正な選挙”とはならないとして問題になったわけですが、フランスの場合は、切手の図案を見る限り、投票用紙を封筒に入れて投票していたみたいです。これなら、たしかに目の前に立会人がいても問題にはなりませんな。ただし、開票には恐ろしく手間ひまがかかるでしょうから、それを“民主主義のコスト”と割り切れるかどうかは意見が分かれるでしょうけど。

 ちなみに、今回の相撲協会の選挙では、秘密投票の原則を完全に守るため、立会人のいる場所を投票箱から5メートルほど離し、投票も記名式ではなく、あらかじめ印刷された名簿に丸をつける方式に変更され、その結果、一門の締め付けを脱して貴乃花親方への票が流れたといわれています。もっとも、こちらの場合は、有権者も少ないことですし、今回ご紹介のマテリアルのように、投票用紙を封筒に入れる代わりにいままでどおり立会人が投票箱のすぐそばにいるという方法もありだったかもしれません。

 いずれにせよ、相撲協会始まって以来という“公正な選挙”で理事になった貴乃花親方の今後に期待したいものです。

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 雪にお気をつけください
2010-02-01 Mon 18:46
 気象庁によると、関東地方では今夜から明日朝にかけて大雪になり、都心でも積雪の恐れがあるそうです。雪国の人たちからは笑われてしまいそうですが、皆様、お気をつけください。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      吹雪

 これは、1983年1月24日、「近代美術シリーズ」の第15集として発行された1枚で、伊東深水の「吹雪」が取り上げられています。

 伊東深水は1898年、東京・深川に生まれました。1911年、鏑木清方に入門し、翌1912年、第12回巽画会展に「のどか」で初入選。1915年には「十六の女」で文展にも初入選を果たします。1927年には深水画塾を設立したほか、1932年には人物画の再興を目指して「青々会」を設立。1948年には「鏡」で日本芸術院賞を受賞し、1958年には日本芸術院会員に推挙され、1972年に亡くなるまで精力的に活動を続けました。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた「吹雪」は1932年の作品で、蛇の目傘を深くさして雪を避けながら足早に行く躍動感がよく出ており、特に、傘や竹の雪の柔らかさが抜群の表現力と評されています。

 なお、この切手を含む「近代美術シリーズ」の全体については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 * 2010年1月、頂戴した拍手の数の多かった記事のベスト3は以下のとおりです。ありがとうございました。
 1位(9票):ジュゴン
 2位(8票):ニュージーランドの捕鯨憲法違反の神社?
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