内藤陽介 Yosuke NAITO
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 サヨナラ歌舞伎座
2010-04-30 Fri 10:45
 建て替えのため、今月いっぱいで閉場となる東京・銀座の歌舞伎座で、きょう(30日)、歌舞伎座閉場式が行われます。その閉場式では、坂東玉三郎らによる「京鹿子娘道成寺」などの舞踊や中村芝翫らの口上、手締め式が行われるとのことなので、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      娘道成寺

 これは、1970年7月10日、古典芸能シリーズの第1集として、助六・勧進帳とともに発行された娘道成寺の切手です。

 娘道成寺は、正式には「京鹿子娘道成寺」といい、女方舞踊の代表的作品といわれています。

 安珍・清姫伝説に題材を取った能の「道成寺」をもとに作られたもので、1753年、江戸中村座で中村富十郎(初代)によって初演されました。

 鐘供養の日に女人禁制の道成寺にやって来た白拍子の花子は、舞を奉納するという理由で寺の境内に入り込みます。そして、舞を舞っている間に、隙を見て鐘に飛び込みます。実は花子は、昔鐘の中に隠れた男を恨んで蛇体になり、鐘ごと焼き殺した女の亡霊で、僧の祈りで鐘が引き上げられると蛇体が現れるという筋書きになっています。

 この作品は、物語よりも女形舞踊のさまざまな要素が取り入れられているところに魅力があり、竹本で踊る花道での“道行”での扇をくわえて鐘をじっと見る場面や、烏帽子をかぶり、能をまねて踊る“乱拍子”、娘の恋を切々と表現する“クドキ”などが見どころとされています。

 切手は、中村歌右衛門(6代目)の舞台を吉田千秋の撮影した写真をもとに、大塚均が原画として構成しました。

 6代目歌右衛門は、切手の発行日には、切手のモデルにして伝統芸術歌舞伎保存会会長代行という肩書で、道成寺住職らとともに、郵政省の大臣室で郵政大臣(井出一太郎)から新切手の贈呈を受け、「ただきれいなだけでなく、古典の感じがよく出ています。第一集に歌舞伎を取り上げていただいて感激です。また私個人としてもたいへん名誉に思います」と感想を語っています。

 なお、今回ご紹介の切手を含む古典芸能シリーズについては、拙著『一億総切手狂の時代』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 昭和の日
2010-04-29 Thu 09:21
 きょう(29日)は“昭和の日”です。というわけで、きょうはストレートにこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      昭和天皇在位60年(京都御所)

 これは、1986年4月28日(天皇誕生日の前日)に発行された「天皇陛下御在位60年」の記念切手の1枚で、京都御所と雌雄の鳳凰が描かれています。
 
 1986年は、1926年12月25日に皇太子裕仁親王が天皇として践祚し、昭和の時代が始まってから60周年にあたっていました。このため、10年前の在位50年の先例にならって、在位60年の記念式典が計画されました。ただし、その日程は、天皇が践祚された12月でもなければ、1928年に即位の大礼が行われた11月でもなく、天皇誕生日の4月29日に設定されました。その背景には、当時の中曽根康弘内閣の政治的な意図があったといわれています。

 すなわち、政府は、1986年7月の参議院選挙にあわせて衆議院を解散し、衆参同日選挙を行うことを計画し、その実施に向けて周到な準備を重ねていました。

 その一環として、中曽根は、参院選(あるいは衆参同日選)の前に、さらには1986年11月の自民党総裁の任期切れの前に、政治ショーとしての天皇在位60年の式典を行うことを計画。在位60年の記念式典には天皇の長寿を祝う意味合いもあるのだから、天皇誕生日が適切であるとの理屈をつけて、式典の日程を4月29日に設定したのです。

 実際、政府式典とは別に、民間で行われた“天皇陛下御在位六十年大奉祝まつり(主催は黛敏郎を委員長とする天皇陛下御在位六十年奉祝パレード実行委員会)”は、在位50年のときの先例に倣い、11月10日に行われています。

 当然、こうした天皇の露骨な政治利用は各方面から激しく攻撃されました。

 たとえば、1986年2月6日の衆議院予算委員会で日本共産党の松本善明は中曽根に対して、次のような質問をぶつけています。

 松 本:天皇在位60年の祝賀式典をするのは戦前への反省が足りない。

 中曽根:ご長寿をお祝いし、みんなでことほぐのが自然の感情だ。

 松 本:天皇が即位の儀式をしたのは11月10日で、在位50年の祝いもこの日だ。なぜ4月29日に繰り上げたのか。夏の参院選前に宣伝して選挙を有利にするのが目的か。

 中曽根:そういう考えは、はしたない勘ぐりだ。

 これは、天皇制そのものに対して批判的な共産党からの批判でしたが、右翼団体の側も、中曽根による天皇の政治利用を激しく批判し、中曽根内閣の官房長官だった藤波孝生は、国会内の一室で右翼団体から追及を受けています。

 ちなみに、時代が平成に変わった後、中曽根は、新聞記者のインタビューに答えて、在位60年の記念式典を4月に実施したことについて「政治利用と受け取られてもやむを得なかったかもしれない」と述べ、当時、左右の反対派から寄せられた批判が的外れなものではなかったことを自ら明らかにしています。

 そういえば、いわゆる陸山会問題で、検察審査会が満場一致で起訴相当の判断を下した与党幹事長の小沢一郎も、昨年、習近平の陛下への謁見をごり押ししたことがありましたねぇ。いずれは、彼も中曽根と同じような回想を漏らすことになるんでしょうな。

 なお、この切手を含む昭和末期の記念切手については、拙著『昭和終焉の時代』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 疑惑の14座初制覇
2010-04-28 Wed 14:49
 きのう(27日)、韓国の女性登山家・呉銀善がネパールのアンナプルナ(標高8091メートル)の登頂に成功。韓国のテレビは登頂の瞬間を生放送し、“女性初のヒマラヤ8000メートル峰14座制覇”をたたえましたが、早くも、呉が実際に14座すべてに登頂したのか、疑惑が持ち上がっているのだそうです。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・エベレスト登頂

 これは、1977年11月に韓国が発行したエベレスト登頂の記念切手です。

 韓国山岳チームのヒマラヤ挑戦は、朴正煕政権の発足後まもない1962年、慶煕大学山嶽会の挑戦が最初のことです。このとき、慶煕大学隊は8月15日の光復節にあわせて、アンナプルナ山群の西側、世界第7位の高峰・ダウラギリ(標高8167メートル)を擁するダウラギリ山群のダウラギリ2峰(標高7751メートル)を目指して出発したものの、頂上には到達できず、近隣の無名峰(標高約6700メートルと推定される)に上っただけに終わりました。

 それから15年後の1977年9月、大韓山岳連盟の高相敦が、エベレスト登頂に成功しました。1953年にイギリス隊が世界で初めて登頂に成功してから24年のことで、今回ご紹介の切手は、これを記念して、急遽発行されたものです。

 さて、今回の“女性初のヒマラヤ8000メートル峰14座制覇”ですが、彼女と初制覇を競っていたスペインの登山家、エドゥルネ・パサバンによると、彼女が14座のうちのカンチェンジュンガ頂上で撮影した写真では、彼女自身が雪の上に立っているのに対して、ほぼ同じ時期に呉が頂上で撮ったとされる写真では、背景がむき出しの岩の上になっているなどの不審な点があり、そのことが疑惑のもとになっています。まぁ、遠からず真相は明らかになるでしょう。

 なお、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』では、韓国の登山史についても簡単にではありますがまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 ラクダの郵便配達
2010-04-27 Tue 12:31
 今月11-15日、24年ぶりに複数政党で民主的に実施されたスーダン大統領選挙で、きのう(26日)、同国の選挙管理委員会は現職のオマル・バシル大統領の再選を発表しました。というわけで、スーダン切手といえば、やっぱりこの1枚でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

      スーダン・ラクダ

 これは、1898年3月1日に発行された1ミリーム切手で、ラクダに乗った郵便配達夫が描かれています。

 現在のスーダンの地における最初の近代郵便制度は、1867年、スワキンにエジプト局が設置されたのが最初です。当時、エジプトはイギリスの支援を受けてスーダンを支配していましたが、1883年、これに反発する現地住民はムハンマド・アフマドを指導者とするマフディー運動(マフディーの乱)を起こし、1885年にはチャールズ・ゴードンをハルツームで戦死させ、マフディー国家を建設します。しかし、その後も郵便事業はエジプト郵政が担っており、1897年に“SOUDAN"加刷の切手が発行されるまでは、無加刷のエジプト切手がそのまま使われていました。

 その後、ホレイショ・キッチナー率いるイギリス・エジプト軍はオムドゥルマンの戦いなどでマフディー国家を制圧。1899年以降、スーダンはエジプト・イギリスの両国による共同統治下に置かれます。

 これと並行して、1898年3月1日から、今回ご紹介しているようなラクダの郵便配達夫を描く切手が発行されました。切手の原画作者はE.A.スタントンで、印刷はロンドンのデラリュー社です。このデザインの切手は、用紙を変えたり、切手上の字体を変更したりして第二次大戦後まで使われました。

 さて、スーダンといえば、約30万人の犠牲者、200万人以上の避難民が発生したダルフール紛争のことを連想する人も多いかと思われます。僕も、ダルフール紛争がらみのカバーをずっと探しているのですが、残念ながら、入手できていません。来年1月に南部の分離独立を問う住民投票が行われるまでには、なんとか、手に入れたいものですな。


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 世界漫郵記:風順堂と三巴仔
2010-04-26 Mon 11:10
 『キュリオマガジン』2010年5月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記:マカオ篇」では、今回は「風順堂と三巴仔」と題して、世界遺産に指定されている“聖ローレンス教会”(風順堂)と“聖ヨゼフ修道院・聖堂”(三巴仔)を中心に取り上げました。その記事の中から、今日は、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      聖ヨゼフ聖堂・小型シート     聖ヨゼフ聖堂の門(実物)

 左の画像は、1998年に発行された“マカオの門楼”の切手のうち、聖ヨゼフ修道院・聖堂の門を取り上げた小型シートです。右側には、その門の実物の画像を貼っておきます。なお、小型シートの背景に描かれている聖堂の実物は↓のような感じです。

      聖ヨゼフ聖堂

 聖ヨゼフ修道院は、1728年、イエズス会アジア布教の宣教師育成所として作られました。ドーム型の屋根を持つ聖堂が併設されるようになったのは、1758年のことです。

 この年、ポルトガル本国では、国王ジョゼ一世と宰相のポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョに対する暗殺未遂事件が発生。その背景には、政治に無関心な国王の下で独裁的な権力をふるっていたポンバル侯に対する不満があったのですが、ポンバル侯はこの事件を奇禍として政敵を一層。翌1859年には、イエズス会に対してもこの陰謀に加わったとしてイエズス会をポルトガルから追放したうえで、彼らが持っていた財産を没収し、教育に対する支配権を剥奪しました。

 当時のヨーロッパ諸国は国民国家の形成期にあたっていましたが、そうした中で、国王や政府にではなく教皇に忠誠を誓い、国境を越えて自由に活躍するイエズス会の存在は、国家統合の障害とみなされるようになっていました。このため、ポンバル侯がポルトガルからイエズス会を追放すると、列強諸国もこれに倣い、イエズス会は受難の時代を迎えることになります。さらに、イエズス会の庇護者となっていた教皇クレメンス13世が没すると、後継のクレメンス14世はヨーロッパ諸国との関係改善を重視して、1773年7月、イエズス会を解散させ、財産を没収してしまいました。

 この間、1762年には、マカオでもイエズス会士が逮捕されてポルトガルに送還され、聖ヨゼフ修道院・聖堂も事実上の閉鎖に追い込まれます。

 その後、聖ヨゼフ修道院・聖堂は、ポルトガル政府の管理下に置かれ、神学とポルトガル語、英語、ラテン語の授業が行われる王室の神学校として再出発。1800年、ポルトガル女王のドナ・マリア一世が、聖ヨゼフ修道院に“伝道信徒団の館”という王家の称号を与えたのも、こうした経緯によるものです。

 1814年、教皇ピウス7世はイエズス会の復興を許可しましたが、その後も聖ヨゼフ修道院・聖堂はポルトガル政府の管理下に置かれ続け、1893年になって、ようやく、イエズス会に返還されました。ただし、1910年にポルトガル本国で共和革命が起こると、管理権はポルトガルのカトリック教会に移され、現在にいたっています。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた門には“1897”との年号の入ったプレートがつけられていますので、おそらく、イエズス会への返還後に現在の姿になったのでしょう。

 なお、聖堂の内部や近隣の聖ローレンス教会につきましては、機会がありましたら、ぜひ、『キュリオマガジン』2010年5月号の拙稿をご覧いただけると幸いです。


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 イタリア解放記念日
2010-04-25 Sun 23:35
 きょう(4月25日)は、イタリアにとって第二次大戦の終戦記念日となった“解放記念日”です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      トリエステ1945カバー

 これは、イタリア解放直前の1945年4月3日、トリエステのドイツ顧問団がゴリツィア宛てに差し出した書留公用便です。

 1943年7月、イタリアではムッソリーニが失脚し、後継のバドリオ政権は連合国に降伏します。これに対して、同年9月、ドイツは逮捕・幽閉されていたムッソリーニを救出し、北イタリアにムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国を樹立しました。この結果、イタリアはドイツの傀儡政権である共和国と、米英の支援する王国(バドリオ政権)の内戦に突入。しかし、連合軍の北上や反独パルチザンの活動により、次第に共和国は追い詰められ、1945年4月25日に崩壊。同27日にはムッソリーニも市民のリンチによって処刑されました。

 さて、今回ご紹介のカバーの差出地であるトリエステは、1943年9月以降、ドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国領となっており、ドイツ人顧問が統治の実権を握っていました。今回ご紹介のカバーに用いられている封筒にナチス・ドイツの紋章が入っているのも、そうした事情を反映したものといってよいでしょう。

 イタリア社会共和国の崩壊後、トリエステでは、1945年4月30日、大戦中のパルチザンによる“イタリア反ファシスト解放委員会”が組織され、翌5月1日、ユーゴスラビア・パルチザン軍が到着し、市の大半を解放(=占領)しました。ただし、サン・ジュスト城と庭園にあった兵舎には、ニュージーランド軍以外に降伏することを拒んだ者たちが集まっていたため、翌2日のニュージーランド軍到着を待って、降伏が行われています。以後、6月12日までの約40日間、トリエステを掌握したユーゴスラビア軍は、彼らにとっての“好ましからざる人物”に対する大規模な虐殺を行いましたが、ニュージーランド軍によって退けられます。

 その後、トリエステと周辺地区は、国際連合管理下において、連合国占領地域の北部(Zone A)とユーゴスラビア占領地域の南部(Zone B)に分割され、1954年にZone Aのトリエステ市は、イタリアへ返還されましたが、南部のZone Bは、ユーゴスラビア領となりました。

 なお、上記のZone AとBの境界線上に位置していたのが、カバー宛先地の旧ゴリツィア県で、戦後、旧ゴリツィア県はイタリア領とユーゴスラビア領に分断されています。

 * 先ほど、カウンターが68万PVを超えました。いつも遊びに来てくださる皆様には、あらためて、お礼申し上げます。


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 きょうから平城遷都1300年祭
2010-04-24 Sat 09:03
 きょう(24日)から、奈良市の平城宮跡で“平城遷都1300年祭”のメーンイベントがスタートします。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      奈良遷都1250年

 これは、1960年3月10日に発行された“奈良遷都1250年”の記念切手です。

 1960年は平城京遷都から1250年にあたっていたことから、奈良市はこの機会をとらえて、同年3月から奈良遷都1250年祭を開催するとともに、大規模なキャンペーンを展開し、観光客のより一層の誘致に力を注ぐことになりました。その一環として、記念切手の発行を実現しようという計画が、前年の1959年9月頃に、地元観光協会の関係者の間で持ち上がります。

 このため、観光協会の関係者が、地元在住の著名な収集家であった柳原友治に記念切手発行のための手続きや、切手が発行された場合の地元での買取額などについて問い合わせたところ、柳原は、「1960年3月の切手発行ということだが、すでに昭和34年度の切手発行計画は決定済みであり、しかも、年末を控えていることから日程的にも発行は難しいのではないか」との見通しを示していました。

 このため、観光協会側は、正規のルートでは切手発行は実現できないと判断。元逓信院(戦時中、一時、郵政を担当していた機関)次長で、当時、地元選出の参議院議員であった新谷寅三郎を動かし、切手発行にむけて郵政省に圧力をかけています。

 この結果、郵政省では、当初の年度計画になかった記念切手の割り込み発行を内定。これを受けて、11月6日、奈良市観光商工課の職員が郵政省を訪ね、市長(高椋正次)名の記念切手発行の申請書を郵政大臣・植竹晴彦宛に提出。この申請を受けて、年末の12月23日、遷都記念行事の行われる翌1960年3月10日にあわせて記念切手を発行することが正式に決定されました。

 切手発行の正式決定を受けて、郵政省は奈良市側と図案その他について具体的な打合せを開始。その際、奈良市側は、春日舞楽、春日大社、東大寺、興福寺など図案30種余を資料として郵政省に提供しています。そして、これをもとに、年末年始にかけて、デザイナーたちによって下図が作成され、切手の図案としては、正倉院御物の「板締め染めの鹿」を取り上げた木村勝の作品が採用されました。

 切手に取り上げられた「板締め染の鹿」は、麟鹿草木夾纈屏風十七畳のひとつです。夾纈とは、文様を彫った二枚の板の間に二つ折りにした布を挟み、これを染汁に浸すという技法のことですが、一般にはなじみのない言葉なので、切手図案の報道発表に際しては、「板締め染」との表現が用いられました。

 なお、この切手の発行に汗をかいたことから、郵政族議員だった新谷寅三郎は、地元の観光業界との関係を深めていきます。この結果、奈良の観光宣伝の一手段として、彼は、郵政大臣在任時、第一次国宝シリーズの発行を発案することになるのです。

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 聖ゲオルギウスの祝日
2010-04-23 Fri 09:04
 きょう(4月23日)は、キリスト教の聖人の1人、聖ゲオルギウスの祝日です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      聖ゲオルギウス(モルドヴィツァ)     聖ゲオルギウス壁画(実物)


 これは、1971年にルーマニアが発行した切手で、聖ゲオルギウス(ルーマニア語ではスフント・ギョルゲ)の龍退治を描くモルドヴィツァ修道院の壁画が取り上げられています。右側には、修道院南面の西側上部に描かれている壁画実物の画像を貼っておきました。

 現在のモルドヴィツァ修道院の場所には、もともと、アレクサンドル善公が1410年に物見の塔のある要塞を兼ねた石造りの教会を建てたといわれています。これをもとに、1532年、モルダヴィア公のペトゥル・ラレシュが要塞としての防御機能を強化して建てたのが現在の修道院の原型です。

 切手に取り上げられた聖ゲオルギウスはカッパドキアの出身で、ローマ皇帝ディオクレティアヌスの軍隊の連隊長も務めました。龍に苦しめられていたリビア州シレネを訪れた際、龍を退治して生贄となっていたセルビオス王の娘を救い、感謝した住民はこぞってキリスト教に改宗したという、龍退治の伝説で有名です。

 その後、異教の王に捕えられ棄教を求められ、釘で拷問を受けたり、毒入りの葡萄酒を飲ませられたり、車裂きの刑に処せられてもことごとく生き延びましたが、最後は首をはねられて殉教しました。

 ちなみに、聖ゲオルギウスの殉教した4月23日は、小説『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスの命日(1616年)であり、さらにシェイクスピアの誕生日(1564年)であって命日(1616年)でもあるという、文学と縁の深い日でもあることに結びつけて、スペイン・カタルーニャ地方では、男性が女性に赤いバラを贈り、女性は男性に本を贈る風習があります。これを真似て、日本でも4月23日を“サン・ジョルディ(聖ゲオルギウスのカタルーニャ語での表記)の日”として、本と花を贈りあおうと関係業界がキャンペーンを行っていますが、バレンタイン・デーのチョコのようには定着していませんな。

 なお、モルダヴィアの壁画修道院については、拙著『トランシルヴァニア・モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 荻原守衛100年
2010-04-22 Thu 10:29
 彫刻家の荻原守衛が1910年4月22日に亡くなってから、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      荻原守衛・女

 これは、近代美術シリーズ第8集として1980年10月27日に発行された切手で、荻原守衛の彫刻「女」が取り上げられています。

 荻原守衛(号は碌山)は、1879年、長野県南安曇郡東穂高村(現・安曇野市)の出身で、青年時代に同郷の先輩、相馬愛蔵・黒光夫妻から精神的な影響をうけ、またキリスト教にも傾倒しました。1901年に渡米してニューヨークで絵画の勉強をしたのち、1903年に渡仏。翌1904年のサロンでロダンの「考える人」をみて感動して彫刻に転向し、パリのアカデミー・ジュリアンで彫刻をまなびます。1908年に帰国して、相馬夫妻の経営する新宿中村屋近くにアトリエを設け、第2回文展の「文覚」、第3回同展の「北条虎吉像」、さらに第4回同展に遺作として出品された「女」で、いずれも三等賞を受賞しました。

 相馬黒光がモデルとされる「女」はロダン流の伸びのある自由闊達なタッチが、流れるような量感を表現した傑作とされ、その石膏原型は近代彫刻として初めて重要文化財に指定されました。現在は東京国立近代美術館の所蔵品です。

 なお、この切手を含む「近代美術シリーズ」については、拙著『近代美術・特殊鳥類の時代』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 泰国郵便学(7)
2010-04-21 Wed 23:09
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第2号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は第一次大戦とタイとのかかわりを中心に取り上げました。その中からこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ワチラーウット1次+2次

 これは、第一次大戦後の1920年12月にバンコクからエリトリア(アフリカ北東部、エチオピアの北側にある紅海沿岸の国で、当時はイタリア領でした)宛に差し出された葉書で、ウィーン印刷の2サタン切手とロンドン印刷の3サタンが貼られています。

 第一次大戦が勃発したときのタイの基本的な外交姿勢は、とりあえずは中立を維持しておき、戦局の帰趨をしっかりと見極めたうえで勝ち馬に乗り、あわよくば参戦の代償として不平等条約改正にこぎつけるというものでした。このため、開戦後まもない1914年8月6日、国王ラーマ6世(ワチラーウット)が早々に中立を宣言しています。

 もっとも、国王本人はイギリスに留学していたこともあって、心情的にはドイツよりもイギリスに親近感を持っていたといわれています。じっさい、1915年にイギリス国王ジョージ5世がワチラーウットに英陸軍の名誉大将の位を授与した際には、局外中立というタイの公式な立場とは別に、これをタイが国際社会から一人前とみなされたことの証として、喜んで受け入れています。

 一方、当時の一般国民の間には、ドイツに対して好感を持っている者も少なくありませんでした。ドイツは、と異なり、タイの領土を蚕食したこともありませんでしたし、高品質のドイツ製品の人気も高かったからです。

 しかし、大戦の勃発により、連合国の英仏(の植民地)に包囲された格好のタイには、ドイツやオーストリアからの商品が輸入しにくくなっていました。切手もまた例外ではありません。

 ラーマ6世即位後の切手はウィーンのオーストリア帝室印刷局で製造されていましたが、大戦により、切手の輸入も困難になったため、1915年4月、需要の多い2サタン切手については、とりあえず、先代のラーマ5世(チュラーロンコーン)時代の切手に加刷したものを発行。その一方で、オーストリア帝室印刷局製のものと同じ図案の切手をロンドンのウォータールー・アンド・サン社に発注しています。

 こうして、ロンドン印刷の切手は1917年1月1日に発行されました。ウィーン印刷の切手とロンドン印刷の切手は、同額面のものについては刷色も同じですが(ただし、12、14、28サタンはウィーン印刷のみ、10および15サタンはロンドン印刷のみ)、目打の違いで区別できます。

 ちなみに、ロンドン印刷の切手が発行された直後の1917年1月、ドイツが無制限潜水艦作戦を再開し(ドイツは1915年2月から無制限潜水艦作戦を展開していますが、同年5月、客船ルシタニア号の撃沈により、中立国の米国人128人を含む多くの民間人が犠牲になり、国際的に非難を浴びたため、作戦を中止していました)、アメリカ国内の反独世論が高まると、アメリカは同じく中立国であったタイに対してもドイツへの抗議に加わるよう勧誘します。

 また、同年2月、革命によってロシアのロマノフ王朝が倒れ、チュラーロンコーンとも個人的な親交のあったニコライ2世は退位を余儀なくされたが、臨時政府はタイとの友好関係を継続し、タイに参戦を勧めるとともに、その代償として、タイの悲願である条約改正についても英仏に対して根回しを行いました。

 こうした経緯の後、4月6日にアメリカがドイツに対して宣戦を布告し、戦局の帰趨が定まってくると、5月28日、ラーマ6世は閣議を招集し、英仏側に立っての参戦の方針を明らかにします。そして、タイ政府は、ドイツならびにオーストリア人のお雇い外国人を解雇し、政府系新聞でのドイツ非難キャンペーンによる国内世論の地ならしを経て、7月22日、ドイツ・オーストリアに対して宣戦を布告。戦後は戦勝国としての立場を確保することになるのです。

 なお、第一次大戦前後のタイの状況については、拙著『タイ三都周郵記』でも、簡単にではありますがまとめていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 夢二の趣味週間切手
2010-04-20 Tue 15:27
 今日(4月20日)は日本の郵便創業の記念日で、「切手趣味週間」の記念切手が発行される日です。というわけで、毎年恒例ですが、昭和の趣味週間切手の中から、この1点を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      夢二・趣味週間

 これは、1985年の趣味週間切手で、竹久夢二の「女十題」のうち、「北方の冬」と「朝の光へ」の2点が取り上げられています。

 「女十題」は1921年から翌年に制作された夢二の水彩画の連作で、その内訳は「朝の光へ」、「産衣」、「北方の冬」、「木場の娘」、「黒猫」、「三味線堀」、「ネルの感触」、「紅梅」、「逢状(あいじょう)」、「舞姫」の十点です。このシリーズは大正期の夢二の大首絵の集大成とも評価されており、抒情主義から絵画主義への意向を示す作風が見られます。

 切手に取り上げられた「北方の冬」は、冬の雪大和小立を背景に紫の御高祖頭巾を被った弘前の娘を描いた水彩画で、清純な中にも芯の強さを秘めた彼女の性格がよく表現された一枚です。画面の右下には「女十題の内 北方の冬 夢二」との署名が入っているほか、“愁人山行” の印が押されています。

 もう一方の「朝の光へ」は、ブドウの髪飾りをつけた女性が肘をついた両手に頬を託しているさまを描いた水彩画です。こちらも、画面の左上には「女十題の内 朝の光へ 夢二」との署名と“愁人山行”の印があります。

 趣味週間切手は、1955年の「ビードロを吹く娘」 以来、5年ないしは10年周期で題材やスタイルを変えており、前年の1984年の写楽の浮世絵の切手 が連刷スタイルの10年目だったことから、今回から連刷のスタイルが取りやめになるのではないかと噂されていました。しかし、最終的には連刷の形式はそのまま継続となり、切手を小さくして(国際文通週間や国民体育大会の切手と同じ大きさ)題材を近代絵画にするという変更となりました。

 なお、この形式で近代絵画を取り上げた趣味週間切手のうち、昭和の間に発行されたものについては、拙著『昭和終焉の時代』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 “4・19”から半世紀
2010-04-19 Mon 12:12
 韓国で李承晩政権を退陣に追い込んだ1960年4月19日の“4月革命(4・19学生革命とも)”から、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      419学生革命1年

 これは、1961年4月19日に韓国で発行された“4月革命1年”の記念切手で、反李承晩のデモを行う学生たちの写真が取り上げられています。

 1950年代も末になると、ドル危機に直面したアメリカは経済援助政策の見直しにより、韓国向けの経済援助を大幅に削減。この結果、韓国経済は苦境に陥りましたが、李承晩政権は何ら有効な対策を講じることができませんでした。

 経済失政に対する国民の不満に対して、李政権は強権支配で乗り切ろうとします。野党・進歩党の指導者で、1960年の大統領選挙の有力候補と目されていた奉岩が、1958年、“アカ”容疑で粛清されたのは、その象徴的な出来事といえましょう。しかし、こうした姿勢は、長期政権につきものの各種の腐敗ともあいまって、国民の不満をいっそう募らせることになり、李政権が末期的な状況に陥っていたことは誰の目にも明らかとなっていました。

 こうした状況の下で、1960年1月、野党・民主党の大統領候補として李承晩の4選を阻止する可能性が大きいと見られていた趙炳玉は、5月に予定されていた選挙を前に、持病の治療のために渡米します。すると、李政権はその留守をねらって、大統領選挙の実施を3月15日に変更。その後、趙は手術の結果が思わしくなく、選挙を1ヵ月後に控えた2月15日に急死してしまいました。

 こうして、大統領選挙での李承晩の4選はほぼ確実になり、焦点は準大統領ともいうべき副大統領に移ります。

 李政権は与党候補の李起鵬の当選を希望んでいましたが、野党候補で現職(当時は、大統領と副大統領を別個に選んでいたため、両者が与野党に分かれることもあり得た)の張勉が優勢と見られていました。このため、政府は露骨な選挙干渉に乗り出し、選挙当日の未明、李起鵬への票を投票箱に前もって入れておくことや、有権者を小人数のグループに分け、組長が組員の記入内容を確認した後、投票箱に入れるようにしたり、投票箱と投票用紙をすり替えたりすることも行われました。

 結局、選挙の結果は、大統領候補としての李承晩が963万票を獲得して当選。副大統領に関しては、李起鵬833万票、張勉184万票と発表されます。

 しかし、選挙結果が発表されるや、あまりにも露骨な不正に対して、国民の間ではこれを糾弾するデモが相次ぎました。特に馬山で行われたデモは激しく、警察の発砲により、8人が死亡し、200人余が負傷しました。さらに、デモに参加した後、行方不明となっていた中学生・金朱烈(当時17歳)が、4月11日になって、馬山の沖合で、目に催涙弾が突き刺さった惨殺体で発見されると、これを機に、李政権に対する国民の不満が爆発。4月19日には、ソウルで大規模な学生デモが発生しました。このときのデモでは、学生と警官隊との衝突で183人が死亡し、6200人が負傷しました。さらなる騒擾状態が続く中で、アメリカも李承晩不支持を明らかにし、万策尽きた李承晩は退陣を表明してハワイに亡命。また、副大統領に当選したばかりの李起鵬は28日にピストルで自殺しました。

 以上が、いわゆる4月革命(4・19学生革命)のあらましです。

 なお、今回ご紹介の切手は革命1周年の1961年4月19日に発行されましたが、その直後の5月16日、朴正煕による軍事クーデターが発生し、“民主化”よりも社会秩序の回復が優先されるようになると、以後、この“革命”をたたえる切手も発行されなくなっていきます。このあたりの事情については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 ジンバブエ独立30年
2010-04-18 Sun 23:42
 アフリカ南部のジンバブエが1980年4月18日に独立してから、きょうでちょうど30年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジンバブエ・現代芸術小型シート

 これは、昨年(2009年)、ジンバブエで発行された“ジンバブエ人アーティストによる現代絵画”の小型シートで、収められている切手の額面が数字ではなく、用途を示す記号になっているのがミソです。

 現在のジンバブエに相当する地域は、かつてイギリスの植民地支配下で南ローデシアと呼ばれていました。1960年代に入って黒人の独立運動が激しくなると、1965年、現地の植民地政府は白人中心のローデシア共和国として独立を宣言し、南アフリカ共和国のアパルトヘイトにならった人種差別政策を展開。これに対して黒人側はゲリラ活動で抵抗し、1980年、イギリスの調停により、ローデシア共和国を解消したうえで、あらためて独立国家ジンバブエが誕生しました。初代大統領はカナーン・バナナ、首相はロバート・ムガベです。

 首相に就任したムガベは、当初、黒人と白人の共存した国づくりを訴え、白人の土地を黒人に分け与える農地改革の実施も凍結。イアン・スミス元首相ら旧政権の白人指導者も逮捕されず、教育や医療に資金を充てたことで低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成し、経済運営も順調でした。現在となっては信じられないことですが、独立当初のジンバブエ・ドル(ZWD)の対外レートは、米ドル1に対してZWD0・68と、ZWDの方が米ドルよりも価値が高かったほどです。

 ところが、1987年末、大統領に就任したムガベは次第に独裁傾向を強め、徐々に教育や医療の予算は削られ、一族による国費の濫費が目立つようになります。はたして、1990年には17%(年率。以下同)だったインフレ率は、1991年には一挙に48%にまで急上昇。その後、1993-97年には、インフレ率はおおむね20%で落ち着きますが、1998年には再び48%を記録。1999-2000年には50%台となりました。

 その背景には、1998年に勃発したコンゴ内戦がありました。1999年、ムガベは、コンゴ国内に一族の名義で所有していたダイヤモンド鉱山を守るとともに、コンゴでの新たな資源獲得を目指して、大規模な兵力を派遣しましたが、経済状況が悪化する中での大義なき戦争は、当然のことながら、国民の怨嗟の的になります。

 このため、対応を迫られたムガベは、2000年8月、白人の所有していた大農場を強制的に接収し、協同農場で働く黒人農民に分配し始めました。いわゆる“ファスト・トラック”政策です。この結果、白人の持っていた農業技術や農場経営のノウハウが失われ、ジンバブエの農業は壊滅状態に陥り、食糧危機が発生しました。インフレは加速され、2001年にはついにインフレ率132%を記録。以後、ZWDの価値はつるべ落としのごとく急落し、2004年にはインフレ率624%に到達します。

 国家経済の破綻に直面したジンバブエ準備銀行(中央銀行)は、2006年8月、1000旧ZWDを1第2ZWDとするデノミネーション(デノミ)を断行。米ドルに対する交換レートも1米ドル=101第2ZWDへと切り下げ、事実上の預金封鎖や暴力による交換の阻止などを行って、マネー・サプライの22%に相当する数十兆の旧ZWDを第2ZWDに交換させずに紙屑とするという荒療治に打って出ます。ちなみに、資産防衛の必要に迫られた人々が、手持ちの旧ZWDを使いきるために証券を買いあさったため、ジンバブエ証券取引所の株価指数は、2006年6月から2007年6月までの1年間で株価が3万9000%上昇するという異常なバブルとなりました。

 しかし、こうした荒療治を持ってしても、政府の根本的な経済政策が収まらない以上、物価は沈静化せず、2006年のインフレ率は1281%を記録。苛立つジンバブエ準備銀行は、インフレーションを“違法”と宣言。生活必需品の値上げが法律によって禁止され、製品を値上げしたとの理由で会社経営者が逮捕されるという前代未聞の出来事まで起こっています。もはや、ジンバブエにまともな経済政策が存在しなくなったことは誰の目にも明らかになり、2007年のインフレ率は6万6212%にまで跳ね上がりました。

 このため、2008年8月1日、100億第2ZWDを1第3ZWDとする再デノミが行われましたが、インフレはとどまるところを知らず、2008年のインフレ率は35万5000%を記録。日本でも話題となった100兆ZWD紙幣の登場は、この第3ZWDの時期のことです。

 その後、2009年2月2日には1兆第3ZWDを1第4ZWDとするデノミが行われましたが、第4ZWDの寿命も長くはないものと予想されたため、第4ZWDの導入に先立ち、ジンバブエ政府は、米ドルおよび南アフリカ・ランドでの国内決済を可能とし、公務員の2月分の給与を米ドルで支払いました。ついに、政府が自ら自国通貨での支払いをストップしたのです。

 以後、ジンバブエのハイパー・インフレは急速に終息していくのですが、同時に、このことは、ZWDという彼らの通貨が完全に壊死してしまったことの裏返しでしかないといえましょう。

 さて、ハイパー・インフレの進行に伴い、郵便料金も毎日のように値上げされ、それに伴い、新発行の切手の額面もうなぎ上りにつりあがっていきましたが、当然のことながら、度重なる料金の改定に新額面の切手の供給が追い付かず、また、多数の切手を貼らなければ葉書1通差し出せないという状況が続いていました。

 このため、2008年4月24日に発行された“ネズミの切手”を最後に、ジンバブエ郵政は額面数字の入った切手の発行を断念。切手には、額面数字の代わりに、国内向け料金を意味するZ、アフリカ諸国宛料金を意味するA、ヨーロッパ諸国宛料金を意味するE、その他諸国宛料金を意味するRの文字が表示され、日々の郵便料金に応じて切手を発売するという方式が採られるようになりました。

 当初、料金の精算は“X月X日のE切手は51万7000ZWD”といった具合に、ZWD建てとなっていましたが、政府がみずから実質的にZWDを放棄したことから、現在では米ドルないしは南アフリカランド建てとなっているようです。ちなみに、現在、ジンバブエ郵政のHPは閉鎖されてしまったようでアクセスできないのですが、今年3月にチェックした時には、2009年9月1日以降の郵便料金として、国内宛の郵便物の基本料金は米ドルで25セント、外国宛の郵便物に関しては、アフリカ諸国宛が米ドルで50セント、南アフリカ・ランドで5ランドとなっていました。

 このように、郵便料金が外貨建ての設定になり、それゆえ、インフレにもほとんど左右されることがなくなっている以上、新たに発行される切手には、ZやAなどの用途を示す文字ではなく、額面数字を入れてもよさそうなものですが、最近発行されたサッカーW杯の記念切手でも、そうはなっていません。やはり、国家の名において発行される切手の額面を外貨で表示するのはまずいということなのでしょうな。
 
 もっとも、経済失政のゆえに失業率が9割を超えているというジンバブエの現状では、手紙を出そうにもお金がないという人が大半で、切手の額面がどうなっていようと大した問題ではないのかもしれませんがね。

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 火山国アイスランド
2010-04-17 Sat 23:29
 14日にアイスランドのエイヤフィヤットラヨークトル氷河の地下で大規模な噴火が発生。火山灰は上空約1万6000mに達して南下し、その影響で、欧州26ヵ国の空港が閉鎖される事態となっています。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      アイスランド・国際北極年

 これは、2007年にアイスランドが発行した国際極年(1957-58年には“国際地球観測年”といわれていたヤツですな)の記念切手で、同国の北極圏内にあるグリムスボートン火山の噴火の模様が取り上げられています。グリムスボートン火山は、最近では、1983年と1998年に噴火を起こしていますが、切手の写真では、普段は凍結しているカルデラの南側の部分から噴煙が上がっています。

 アイスランド島は巨大な火山島で、ヘクラ山を含む多くの火山が活動し、多くの間欠泉が見られます。平時には、これが観光資源となっているわけですが、その一方で、火山噴火による深刻な被害が生じることもしばしばあります。その最悪のケースとしては、1783年のラキ火山の噴火が有名で、このときは噴火が原因で農作物の生産が大打撃を受け、人口の4分の1が餓死するほどの飢饉が発生。欧州、アジア、アフリカの上空を数ヶ月間にわたって火山灰が覆っっていました。

 今回は、噴火そのものによる犠牲者は出ていないようですが、今後、氷河が解け洪水が発生する恐れがあるとして周辺約700-800人には避難勧告を出ているそうで、欧州の航空網をマヒさせた火山灰のこととあわせて、あらためて、自然の猛威の前には人間がいかに無力であるか、思い知らされます。

 
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 エポックメイキング・プロジェクト①
2010-04-16 Fri 09:40
 (財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の4月号が出来上がりました。3月までの連載「切手で巡る庭園散歩」に代わり、今月からは「切手で見るエポックメイキング・プロジェクト」と題して、日本の近現代史を彩った大型建設プロジェクトとその関連切手をご紹介する新連載がスタートしました。その記念すべき第1回には、こんなモノをもってきてみました。(画像はクリックで拡大されます) 

      地下鉄開業ポスター

 これは、2000年1月21日に発行された「20世紀デザインシリーズ」第5集のうち、東京地下鉄開業字のポスターを取り上げた切手です。

 1914年、鉄道と港湾の調査で欧州を視察した早川徳次は、ロンドンにおける地下鉄の発達を目の当たりにし、東京での地下鉄建設の必要性を痛感。1920年に東京地下鉄道株式会社を設立し、1925年に浅草=上野間の地下鉄工事を開始しました。その結果、1927年12月30日、浅草=上野間2.2キロに日本最初の地下鉄が開業しました。当時の運賃は10銭均一で車輌数は10輌、5分間隔の単車運転でした。

 その後、地下鉄は神田、日本橋、京橋、銀座と逐次延伸し、1934年に新橋=浅草間の8キロが全線開通します。一方、1939年1月には五島慶太ひきいる東京高速鉄道が渋谷=新橋間の6.3キロを開通させ、同年9月から、現在の東京地下鉄の銀座線に相当する渋谷=浅草間の直通運転が開始されました。

 なお、雑誌『しんこう』の記事では、1977年発行の地下鉄50年の記念切手もご紹介しておりますが、こちらについては拙著『沖縄・高松塚の時代』をご覧いただけると幸いです。


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 “首領様”新婚の地
2010-04-15 Thu 09:32
 きょう(4月15日)は金日成の誕生日ということで、北朝鮮では“太陽節”という民族最大の祝日に指定されています。というわけで、“首領様”がらみの切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      金日成と金貞淑

 これは、2002年3月15日に北朝鮮で発行された“偉大なる首領・金日成生誕90年”の小型シートの1枚で、切手部分には若き日の金日成とその妻・金貞淑(現在は、金正日にあわせて金正淑と表記されていますが、もともとは、同じ発音の貞淑です)の2ショット写真が取り上げられています。

 北朝鮮で“神”の地位を獲得した金日成の生涯については、いろいろと謎も多いのですが、現時点で確認されている資料によると、彼は1932-33年頃、当時のコミンテルンの一国一党原則に従い中国共産党(以下、中共)に入党し、中共の指導下で、豆満江沿岸で遊撃隊を組織して抗日武装闘争を展開。1935年2月には中共系の東北人民革命軍第2軍第2独立師第1団第3師隊長に就任し、1936年以降、中共系の東北抗日聯軍のメンバーとして抗日パルチザン闘争に従事していました。

 1937年、いわゆる普天堡戦闘で日本側警察部隊と交戦するなどの活躍(日本側から見れば、単なる強盗放火殺人事件ですが)をみせたものの、このころから日本側の弾圧は強化され、満州でのゲリラ活動は事実上不可能になっていきます。このため、1940年秋にはソ連領に逃れ、以後、ソ連極東方面軍の指導下で政治・軍事訓練を積み、ソ連極東方面軍歩兵第88特別教導旅団・第1教導営営長、中国共産党東北東組織特別支部局委員会常任委員、同委員会朝鮮工作団責任者などを歴任。ハバロフスク近郊のヴャツコエを拠点として日本の敗戦まで活動をしていました。

 一方、金貞淑は、1917年、咸鏡北道・会寧の生まれで、1932年、16歳で朝鮮共産主義青年同盟(パルチザン部隊)に炊事婦として入隊。後に東北抗日聯軍第2軍第6師(師長・金日成)の部隊付となりました。1940年末までにソ連領内に逃れますが、これと前後して金日成と結婚。1942年2月、ハバロフスク近郊のヴャツコエの野営地で金正日を生みました。

 なお、北朝鮮当局は、金日成がソ連領内に逃れて抗日闘争の訓練を受けていたという事実を隠し、終始、満州にとどまってゲリラ活動を展開していたと主張していますが、これは事実ではありません。また、息子の金正日も、金日成がソ連領内で訓練を受けていたときに生まれたことが確認されています。ただし、出生地については、上記のヴャツコエのほか、ウラジオストック近郊のオケアンスカヤという説もあります。

 今回ご紹介の切手の場合、1941年3月1日との日付が入っていますが、これが写真の撮影日だとすると、写真の撮影地はヴャツコエと考えるのが妥当だと思われます。

 ところで、僕は、一月ほど前、仕事でハバロフスクに行きましたが、その空き時間を利用して、金日成・金正日ゆかりの地であるヴャツコエにも足を延ばしてきました。

      ヴャツコエ(看板)

 ヴャツコエは、ハバロフスクと北部の工業都市コムソモリスク・ナ・アムーレを結ぶ幹線道路から少し入ったところにあり、ハバロフスク市内からは車で70-80分位かかりました。上の写真の看板は、幹線道路からヴャツコエへ入る角の所に立っているもので、下の数字の1859は、この地に入植者が入り、村ができた年だそうです。

      ヴャツコエ・バス停     ヴャツコエ・丸太小屋

 車一台分だけ雪かきされた田舎道を5分くらい進んでいくと、レンガ造りの小さなバス停があり(上の画像左)、その周囲に数軒の集落がありました。その近くには、丸太小屋もありました。(上の画像右)いまから70年ほど前に、金日成らが住んでいたのも、こんな感じの小屋だったのじゃないかと思います。さすがに、この小屋がその当時のモノというわけではないでしょうが…。

      ビヤツク・小川

 バス停の向こう側は一面の雪原が広がっていました。バス停の場所から車で3分ほど、少し坂を上ったところに、下の雪原方向へと降りる階段がありましたので、降りてみたところ、上の画像のように、小さな川が見えました。もともと、炊事婦としてパルチザン部隊に加わっていたという金貞淑は、この川で洗い物などをしていたのかもしれません。

 ヴャツコエには、都合、小一時間ほどいたのですが、いままで文書でしか知らなかった土地を実際にこの目で見てみると、いろいろとイマジネーションが膨らみます。いずれ、ハバロフスクの“漫郵記”を書く機会があれば、その番外編として、ヴャツコエ訪問記も付け加えてみたいと思っています。       
 

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 切手が語る宇宙開発史(7)
2010-04-14 Wed 12:18
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『ハッカージャパン』の2010年5月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

      北朝鮮・国際地球観測年(平壌天文台)

 これは、1958年3月、北朝鮮が発行した「国際地球観測年」の記念切手の1枚で、平壌天文台の上空を人工衛星が通過する場面が描かれています。

 北朝鮮は、もともと、ソ連が極東の防波堤として樹立した衛星国でした。ソ連の支援と承認を得た北朝鮮は、1950年6月25日、38度線を越えて韓国領内に侵攻し、朝鮮戦争を起こしましたが、10月20日に国連軍の反攻によっては国家壊滅の危機に追い込まれます。これに対して、アメリカとの直接対決を回避したかったソ連は北朝鮮を積極的には支援せず、金日成政権の崩壊を前提に極東政策を再検討するようになりました。結局、1950年10月末、中国が人民志願軍を派遣して戦争に介入したことで、北朝鮮はなんとか国家として存続するのですが、このことは、後年、ソ連に対する北朝鮮の不信感を醸成する要因となりました。

 1953年7月、朝鮮戦争が休戦となると、ソ連は北朝鮮に対して戦後復興のために10億ルーブルの経済援助を行いましたが、その使途は細かく規定されていました。これは、国際分業路線を採るソ連の意向に沿ったものでしたが、重化学工業建設を優先したい金日成の意向とは一致しませんでした。とはいえ、戦後復興のために、ソ連などからの援助が不可欠であった北朝鮮は、ソ連の指示を受け入れています。

 しかし、1956年、フルシチョフによるスターリン批判を契機として、北朝鮮でも金日成個人崇拝に対する批判が発生。また、同年8月には、ソ連国籍をもつなどソ連と関係の深いソ連派の朴昌玉が、中国共産党中央と関係の深い延安派の崔昌益らとともに、党全員会議で公然と金日成批判を行う8月宗派事件も起こりました。金日成批判の背景に中ソ両国の意向があっったことは明白です。

 結局、8月宗派事件は金日成らの勝利に終わり、朴・崔の二人は逮捕され、党から除名されました。さらに、1956年末からソ連派・延安派に対する本格的な粛清が開始され、1958年までに、中ソ両国と関係のある“反党分派”勢力は根こそぎ弾圧され、ソ連国籍をもっていた人物の多くは北朝鮮を後にします。以後、北朝鮮はソ連・中国の影響を排して自主路線を模索するようになりました。

 ただし、この段階では、朝ソ関係は完全に決裂したわけではありません。北緯38度線をはさんで韓国・アメリカと直接対峙している状況の下では、ソ連を盟主とする東側諸国の団結を後ろ楯とせざるをえないという、基本構造に変化はなかったからです。

 今回ご紹介の切手は、こうした背景の下に発行されたもので、他国の人工衛星が自国の安全保障に有益であることを、これほど明瞭に示したデザインの切手というのは、決して多くはありません。同時に、そこには、北朝鮮がソ連に従うのは、ソ連が北朝鮮を経済的・軍事的に支援しているからであって、その前提が崩れた場合には、その限りではないとの寓意を読み取ることも可能かもしれません。


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 タイの旧正月
2010-04-13 Tue 13:40
 今日(4月13日)から15日まではソンクラーン。タイの旧正月です。現在、タクシン派と反タクシン派の対立で混乱のさなかにあるタイですが、彼らにとって今日から始まるトラ年の1年が落ち着きを取り戻しますように、との意味を込めて、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      スア・パー加刷2次

 これは、1919年にタイで発行されたスア・パー加刷(2次)の1枚です。

 スア・パーとは、もともとは斥候や偵察を意味するタイ語で、英語の“スカウト”に相当します。1911年5月、ラーマ6世(ワチラーウット)が、国民の愛国心を涵養するための手段として組織しており、野虎隊とも呼ばれました。加刷がトラの顔と“Scout's Fund”となっているのはこのためです。ちなみに、タイではボーイスカウトのことをルーク・スアと呼んでいますが、ルーク・スアはスア・パーの下部組織として、スア・パー結成から2ヵ月後の1911年7月に組織されました。

 イギリス留学の経験から、現地でボーイスカウトの活動を実際に見聞きしていたラーマ6世は、スカウト運動の柱となる①神(特定の宗教の神を指すものではない)と国家に対する忠誠、②他者への奉仕、③心身の健全の“三つの誓い”を、国王を中心としたタイのナショナリズムを構築していくうえでも格好の支柱たりうるものと考え、帰国後の1905年頃から、近習の小姓たちを動員して“疑似戦争”を始めます。疑似戦争はサラーンロム宮殿周辺を演習場とし、彼らを2つのグループに分け、基本的には夜間に行われました。疑似戦争の目的は、参加者に国家と国王に対する忠誠心が刷り込んでいくのとあわせて、チュラーロンコーンの重臣団とは別に、ワチラーウット自身の側近グループを育成していくことにあたっとされています。

 こうした経緯を経て1910年に国王となったラーマ6世は、はやくも同年末には、近習学校に最初のルーク・スア部隊として“ルーク・スア・クルンテープ第1隊”を組織し、国王の警護が命令。以後、ルーク・スアは全国に拡大していきますが、国王はその一部を“国王直属隊”として、後に特別な制服や制帽を支給しています。

 しかし、正規軍とは別にスア・パーやルーク・スアを組織したことは、当然のことながら、正規軍の側の不満を醸成。はたして、1912年3月、陸軍士官学校軍医のクン・トゥアイハーンピタックらを首謀者とするクーデター未遂事件が発生しました。これが、ラッタナコーシン暦130年反乱事件です。

 事件の本質は、専制君主の濫費(彼らから見れば、スア・パーはその最たるものでした)により国家財政が疲弊し、国防がないがしろにされていると考えた彼らが、専制君主を廃して立憲民主主義を樹立することで問題を解決しようとしたもので、彼らの主張は、20年後の1932年革命へとつながっていくことになります。

 結局、事件は鎮圧され、スア・パーやルーク・スアもそのまま維持されていくことになるのですが、全国民的な運動としてのスカウト活動の展開には、反乱将校たちが指摘したように、巨額の経費がかかることもまた事実でした。このため、第1次大戦後の1919年から1921年にかけて、タイ郵政は、今回ご紹介したような寄付金つき切手を発行したというわけです。ちなみに、今回ご紹介の切手に関しては、額面2サタンの切手に3サタンの寄付金が上乗せされて発売されました。

 なお、第一次大戦前後のタイの状況については、拙著『タイ三都周郵記』でも、簡単にではありますがまとめていますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 300億€のギリシャ支援
2010-04-12 Mon 12:05
 きのう(11日)、欧州単一通貨ユーロを採用している16ヵ国の財務相は財政危機に陥っているギリシャ支援を協議するための緊急電話会議を開催。ギリシャからの要請があった場合、2010年度に最大300億ユーロ(約3兆8000億円)を各国の2国間融資(金利5%)のかたちで支援することで合意しました。国際通貨基金(IMF)との合同で策定するギリシャへの緊急支援計画は、3年間では総額800億ユーロ(約10兆円)に達する見通しだそうです。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ギリシャ・ユーロ10年

 これは、昨年(2009年)、ギリシャが発行したユーロ10年の記念切手のマキシマムカードです。

 1999年1月1日にユーロが欧州11ヵ国の決済通貨として導入されましたが、当時、ギリシャはユーロ加盟基準(当時のポイントは“財政赤字はGDPの3%以内”でしたが、2005年には“国債残高はGDPの60%以下”とする修正が加えられています)を満たしていませんでした。しかし、翌2000年6月19日、欧州理事会は「ギリシャは高い水準で持続的な収斂性を有しており、ユーロの導入に必要な状況になった」として、2001年1月1日からのギリシャでのユーロ導入を承認します。

 ユーロ圏への加盟により、ギリシャは従来の自国通貨ドラクマを放棄し、信用力の高いユーロ建て国債を発行し、低利で資金を融通できるようになり、ギリシャ経済は好転。1999年に12.13%だった失業率は2008年には7.65%まで低下しました。こうした好景気を背景に、ギリシャ政府は、公務員の給与引き上げなど、財政支出の拡大を続けていました。また、2004年のオリンピック開催も、ギリシャの経済力からすると、分不相応なイベントだったという面は否定できません。

 ユーロ加盟後も、ギリシャの財政状況は、対GDP比で財政赤字は3%以内、国債残高は60%以下という基準をクリアしたことは一度もありませんでしたが、ギリシャはGDP統計に地下経済などの通常はGDP統計に加えられない数値を上乗せして統計を水増したり、国債発行をスワップとして処理して債務額を減らすなどの細工をして、体裁を取り繕っていました。なお、ユーロ加盟時にギリシャから提出された財政収支のデータは、2004年になって大幅に訂正されており、実は加盟基準を満たしていなかったことが判明しています。

 こうした弥縫策は、2008年のリーマンショックで世界経済が急激に落ち込み、税収が激減して財政赤字が膨らんだことで、ついに続かなくなります。さらに、2009年10月、政権交代で中道左派政権が発足すると、前政権による財政赤字の粉飾が発覚。国立病院の未払い金に計上漏れがあったとして、2009年の財政赤字見通しが対GDP比で当初の3.7%から12.5%へ大きく修正され、一挙に経済危機が深刻化したというわけです。

 ギリシャ政府は2010年に8.7%、2012年には2.8%にまで赤字を削減する目標を掲げ、公務員人件費削減や燃料税増税、年金支給年齢の引き上げなど緊縮策を発表していますが、まぁ、実現は困難でしょうな。

 今回ご紹介の切手は、ユーロそのものの10周年を記念したモノですが、ギリシャがユーロに加盟してから10周年に当たる2011年には記念切手が発行されるでしょうかねぇ。もちろん、ギリシャとしては記念切手を発行したいところでしょうが、それまで、彼らがユーロ圏から追放されずにいられるかどうか…。

 ちなみに、ユーロ圏最大の経済大国であるドイツは、放漫財政を続けてきたギリシャへの支援に関しては消極的ですが、この点をとらえて、ギリシャ国内では「ナチスによる過去の侵略」を持ち出してドイツを批判する動きもあるのだとか。支援を受ける側が“侵略”カードを持ち出して、弱者の恫喝に走るという構図は、洋の東西を問わないということなんですかね。


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 カティンの森事件と亡命政府
2010-04-11 Sun 18:59
 きのう(10日)、ロシア西部のスモレンスクでポーランド政府専用機が墜落し、“カティンの森事件”の慰霊祭に向かう予定だったカチンスキ大統領夫妻のほか、軍参謀総長や中央銀行総裁、主要政党幹部ら同国の国家要人多数が亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ポーランド亡命政府書留便     ポーランド亡命政府書留便・中身

 これは、1943年11月1日、ロンドンのポーランド亡命政府の切手を貼って差し出されたアイルランド宛の書留便ですが、イギリスの検閲当局により、海外宛に郵送することを禁じられていた物品が同封されているがゆえに差出人戻しにされています。カバーに貼られている付箋には、別紙の理由により差出人戻しになったことが説明されていますが、その別紙として封筒に入れられていたのが右側の紙片です。

 第二次大戦中、独ソ両国によって分割されたポーランドの旧政府は、当初はパリに、後にロンドンに亡命政権を樹立するとともに、自らの正統性を示すために切手を発行し、“ポーランド(もちろん、亡命政府のことですが)”船籍の船で運ぶ郵便物などで実際に使用されました。このカバーもその一例です。

 さて、ソ連占領下のポーランド東部では多くのポーランド人が捕虜として強制収容所へ送られました。1941年の独ソ戦の勃発後、ポーランド亡命政府はソ連と条約を結び、ポーランド人捕虜を釈放して部隊を編成し、ドイツと戦うことになりました。

 ソ連の占領下では、将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明となっていましたが、実際に対独戦のポーランド人部隊に集められたのは、将校1800人、下士官と兵士27000人に過ぎませんでした。このため、亡命政府側はソ連に対して捕虜の即時釈放を要求しましたが、ソ連側は、事務手続きや輸送の問題で遅れているだけで、すでに捕虜は釈放したと回答しています。しかし、実際には、4400人のポーランド人捕虜がスモレンスク近郊のグニェズドヴォの森で銃殺されていました。

 独ソ戦の勃発後、スモレンスクを占領下に置いたドイツ軍は、1943年2月27日、カティン近くの森・山羊ヶ丘でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見。“国際的に通用しやすい名前”であるカティンの名にちなみ、カティン虐殺事件として報告書を作成し、ワルシャワ、ルブリン、クラカウの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告しました。これが、4月13日に世界各国で報じられ、“カティンの森事件”は全世界に知られるようになりました。

 これに対して、ソ連側は、ポーランド人の遺体はドイツ軍によって殺害されたものと主張しました。しかし、ソ連側は、それまで、捕虜がスモレンスクにいたことを亡命政府に説明しておらず、亡命政府の調査によれば、ポーランド人捕虜の殺害時期は独ソ戦以前1940年3-4月であることが判明。このため、ポーランドとドイツの赤十字社はジュネーブの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼します。すると、ソ連は亡命政府を猛烈に批判し、亡命政府に対して、“カティンの森事件”はドイツの謀略であったと声明することを要求。亡命政府がこれを拒否すると、ソ連は亡命政府と断交しました。

 その後、1944年8月のワルシャワ蜂起で亡命政府系のポーランド国内軍を見殺しにしたソ連は、1944年7月に占領地域のルブリンを首都として樹立していた親ソ政権(いわゆるルブリン政権)を戦後のポーランド政府として育成し、ポーランドを自国の藩屏となる衛星国として確保するための具体的な行動を開始しました。

 1945年2月、戦後の国際秩序を決めたヤルタ会談がはじまると、ロンドンの亡命政権と、ルブリン政権のどちらを正統政府とするかで、英ソは激しく対立。結局、アメリカのとりなしで、総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、また新生ポーランド国家の領域を、戦前よりも大幅に西へ移動させることで決着がはかられました。

 ところが、選挙のためにロンドン亡命政権の指導者がポーランドに戻ると、ソ連の息のかかったルブリン政権は彼らを逮捕し、裁判にかけてしまいます。この結果、ポーランドの共産化は決定的となりましたが、このことが米英を強く刺激し、東西冷戦が幕を開けることになるのです。


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 国労のゴネ得
2010-04-10 Sat 12:33
 1987年の国鉄分割・民営化に反対した国鉄労働組合(国労)の組合員らがJRに採用されなかった問題に関して、与党3党と公明党はきのう(9日)、1人あたり約2200万円の和解金を支払う案を示し、政府、組合員側ともにこれに合意しました。これにより、いわゆるJR不採用問題は、金銭面では23年ぶりに解決に向かうことになりました。というわけで、きょうはこの1枚です。

      JR発足

 これは、1987年4月1日、JR発足にあわせて発行された“新鉄道事業体制発足”の記念切手で、国産第1号の860形蒸気機関車が取り上げられています。
 
さて、公共企業体としての日本国有鉄道(以下、国鉄)は、1949年6月1日、運輸省鉄道総局の管轄にあった鉄道事業を行政機構から切り離し、鉄道事業を独立採算制で運営することを目的として発足しました。

 1957年から1964年にかけて、国鉄は急速に施設の建替えや建設、輸送力の強化などを推進し、1964年に開業した東海道新幹線は国鉄の技術力を世界に示すシンボルとなりました。しかし、1970年前後から、自動車や航空機との競合が激しくなったほか、政治的判断により、採算性を無視したローカル線が次々に建設されていったことや、過剰な雇用による人件費の負担が経営を圧迫。さらに、経営改善を理由に運賃値上げが繰り返されたことで、ますます国鉄の利用者が減少するという悪循環の中で、国鉄の経営は危機的な状況に陥っていきました。

 さらに、いわゆる55年体制下での最大野党・日本社会党の支持母体であった国鉄労働組合(国労)が展開してきた “遵法闘争”(安全確認などを名目に、通常よりもゆっくりと列車を走らせ、ダイヤを混乱させるという闘争)や違法なスト権スト、組合員による怠惰で横柄な態度、ヤミ手当ての発覚などは利用者の反発を招き、都市部での国鉄離れを加速させて行くことになりました。

 こうしたことから、1982年に発足した中曽根康弘政権は、国鉄の経営再建(債務解消)と労働組合の弱体化を目的として、国鉄の分割を民営化の方針を決定。左翼・組合勢力の抵抗を排して、1986年11月28日、いわゆる国鉄改革関連8法 が成立し、翌1987年4月1日付で、国鉄は地域別の旅客鉄道会社6社と貨物鉄道会社1社に分割・民営化されました。

 いわゆるJR不採用問題は、国鉄からJRへの移行に際して不採用となった1047人の大半が国労の組合員だったことから、国労つぶしの不当労働行為だとの批判がありました。しかし、かつての国労がやってきたことが、いかにでたらめで、利用者に不快感を与えて来たか、国鉄時代を体験している人ならだれもが記憶にあることだと思います。

 実際、国労関係者を排除して再出発したJRのサービスが格段に向上し、毎年のように値上げされていた山手線の運賃も据え置きになっています。このことからも、通常の感覚からすれば、当時のJRの判断は、基本的に間違っていなかったといえましょう。

 余談ですが、僕自身、高校時代は通学に国鉄を利用してきましたが、駅員の対応で不愉快な思いをしたことは数え切れません。幸い、自宅は私鉄(後に地下鉄)の沿線で、高校卒業後の通学先・勤務先はいずれも私鉄ないしは地下鉄の沿線でしたから、日常的にJRを利用せずにすんでいましたが、国鉄・JRには、どうしても乗る気にはなれず、代替可能な場合は極力、私鉄と地下鉄を利用し、必要最小限しかJRは利用しないという状況がずっと続いていました。まぁ、40歳になる頃から、ようやく、山手線・中央線に乗ることにも抵抗感がなくなりましたが、物心両面で人間が丸くなったということなんでしょう。

 これまで、国労組合員らは、鉄道建設・運輸施設整備支援機構を相手どって損害賠償などを求める複数の裁判を起こしていますが、裁判で認められた最高の賠償額は、遅延金利分を含め1人当たり約1100万円、つまり、今回の決定の半額です。くわえて、原告らの生活を支援してきた団体などにも約58億円が支払われるそうですが、本来なら、政府ではなく、1人あたり2200万円を受け取った原告らこそがそうした団体に援助相当額を返済するというのが筋ではないでしょうか。

 さらに、政府は、約200人の採用をJRに要請するそうですが、この問題について、最高裁は、JRに採用責任はないとの判断を示しており、法的にはすでに決着しています。大卒新人でも就職難のこのご時世、政府がJRに就職を要請すべきのは、意欲も能力もありながら、仕事にありつけない優秀な若者ではないのでしょうか。すくなくとも、民間会社であるJRは連中の再就職など門前払いにすべきです。

 本来、労働組合は労働環境の改善のための組織であるはずですが、どうも、わが国の場合は、政治活動を優先させておかしなことをやる団体が目立つようです。かつての国労もそうですが、最近、あいついで不祥事が明らかになっている日教組などを見ていると、日本では巨大労組イコール反社会的集団ではないかと思いたくなるほどです。まぁ、日本人を拉致して恥じることのない連中も“労働党”を名乗っていますからねぇ。まじめな労働者ではなく、労働者を騙る連中というのは、その時点で十分にいかがわしいということなんでしょうな。

 なお、“新鉄道事業体制発足”の記念切手は、今回ご紹介したモノのほかに、リニアモーターカーを描く切手もありますが、そちらについては、拙著『昭和終焉の時代』をご覧いただけると幸いです。


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 キルギスの政変
2010-04-09 Fri 10:15
 中央アジアのキルギスで、7日、大統領の退陣を求める野党支持者数千人と警官隊が衝突。きのう(8日)、バキエフ大統領は首都ビシケクを脱出し、野党側が臨時政府の樹立を宣言しました。というわけで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      キルギス政府庁舎

 これは、1951年にソ連が発行したキルギス自治共和国成立25周年の記念切手で、当時のキルギス政府庁舎が描かれています。本来であれば、独立後のキルギス切手の中から気の利いたものを持ってきたかったのですが、あいにく、良いモノが見つからなかったので、ソ連時代の関連切手を持ってきました。まぁ、後述するように、独立後も、キルギスの政治風土はあまり変わっていないとされていますので、ソ連時代の切手でもご容赦ください。

 キルギス人が現在のキルギス共和国の領域に居住するようになったのは16世紀のことでした。1863年、帝政ロシアはこの地域を併合。1922年に成立したソ連もこれを引き継ぎました。ソ連支配下のキルギスは、当初、トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の一地域とされていましたが、1924年のカラ・キルギス自治州、1925年のキルギス自治州を経て、1926年にキルギス自治共和国となりました。その後、1936年には、キルギス・ソビエト社会主義共和国となっています。現在のキルギス共和国は、1991年、ソ連から独立して生まれたもので、翌1992年には国連にも加盟しました。

 独立後は、1990年に改革派政治家として旧共和国の大統領に就任したアスカル・アカエフが初代大統領に就任しましたが、アカエフは次第に独裁傾向を強めて行きます。このため、2005年の不正選挙をきっかけに、アカエフ独裁体制に対する国民の不満が爆発。アカエフは政権の座を追われます。これが、いわゆるチューリップ革命で、このときの野党指導者であったクルマンベク・バキエフが新大統領に就任しました。

 しかし、当初は民主化の旗印を掲げて政権を掌握したバキエフも、アカエフ同様、権力者が権力を私物化する中央アジアの“伝統”を克服することはできず、長男のマルタを情報機関、次男のマキシムを経済開発・投資機関の幹部に据え、政権に批判的な野党勢力に圧力をかけるなど、独裁色を強めていきました。特に、マキシムは、最近民営化された通信会社や電気会社を支配下に収めたとされており、このことが、政治の私物化に対する国民の憤激を買い、今回の政変につながったとみられています。

 ちなみに、今回の臨時政府の首班となったローザ・オトゥンバエワは、2005年にはバキエフとともにアカエフ政権の不犯を厳しく追及し、バキエフ政権下では外相を務めていた人物ですが、5年後にはまたもや独裁を批判されて失脚…なんてことにならないように頑張ってほしいものですな。


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 香港の天壇大仏
2010-04-08 Thu 21:07
 きょう(8日)は、花祭りの日です。というわけで、お釈迦様ネタの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      香港大仏     香港大仏(実物)

 左は、1991年に香港で発行された天壇大仏の切手で、隣は、昨年(2009年)、香港を訪れた際に撮影した大仏の写真です。

 天壇大仏は、香港国際空港(香港國際機場)香港ディズニーランド(香港迪士尼樂園)のある大嶼島(ランタオ島)の西方にある青銅製の釈迦如来像で、高さは26.4メートルあります。

 大嶼島の西部には19世紀から僧侶が入っていました。彼らは、1924年、丘のふもとに寶蓮禅寺を建立。その後、寺の伽藍は徐々に整備されていきます。伽藍に面した丘の上に大仏を建立しようという計画は、1970年代に始まり、中国の航空関係企業の設計・製作により、1993年に現在の大仏が完成しました。したがって、今回ご紹介の切手は、完成前の発行ということになります。

 切手と同じ角度で写真を撮ろうとすると、ふもとのかなり離れた場所から写真を撮ることになり、切手のように、大仏の胸の卍はほとんど見えません。ちなみに、大仏へと至る階段の下から眺めは、こんな感じです。

      香港大仏(真下から)

 この階段を汗を拭き拭き登っていくと、大仏の足元にたどり着きます。切手では省略されていますが、実際の大仏の周囲には、青銅製の菩薩たちが供物を捧げながら大仏に伺候しています。この菩薩たちも、人間と比べるとかなりの大きさです。

      天壇大仏に使える菩薩

 天壇大仏は、その大きさゆえに、香港のランドマークとしてしばしば切手にも取り上げられていますが、実際に見てみると、荘厳な宗教建造物という雰囲気はあまりしませんでした。まぁ、1度は拝んでみる価値はあると思いますが、2度目は?という感じです。このあたりは、あと100年位が経過して、歴史の重みが加わってこないと仕方ないでしょうね。

 なお、拙著『切手が伝える仏像』では、今回ご紹介の切手のほかに、天壇大仏の俯瞰写真を取り上げた官製絵葉書もご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 天安門の肖像画
2010-04-07 Wed 21:29
 本日(7日)付の香港紙・明報によると、中国・北京中心部の天安門で5日夜、毛沢東の巨大な肖像画に汚物が投げつけられる事件があり、陳情のため上京していた多数の男女が警察に拘束されたそうです。というわけで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      天安門1版     天安門3版

 画像は、いずれも、中華人民共和国初期の天安門を描く通常500円切手ですが、左は1950年2月10日に発行された第1版、右は同年10月1日に発行された第3版です。

 国共内戦の時代、中共支配下の解放区では毛沢東の通常切手が盛んに発行されていました。しかし、1949年10月1日に建国を宣言した中華人民共和国は、建前としては、中国共産党(中共)の一党独裁ではなく、“連合政府”の形態をとっていました。ちなみに、新中国の国旗とされた五星紅旗は、大きな導きの星である中共の周囲に、労働者・農民・小資産階級・民族資本階級を示す4星を配し、連合政府の政体を表現するものとなっています。

 したがって、一過性の記念・特殊切手はともかく、日常的に使用される切手に、中共のシンボルともいうべき毛沢東の肖像を取り上げることは、中共みずから連合政府の建前を否定することになりかねません。このため、中共ではなく、中国全体を象徴するものとして、新国家の通常切手には天安門が取り上げられたものと考えられます。

 その際、最初に発行された第1版の制作時には、新中国成立以前の天安門の写真が資料として用いられたため、門の上には毛沢東の肖像は取り上げられていません。これに対して、1950年10月1日に発行された第3版以降の切手では、門の上に毛沢東の肖像が取り上げられており、中華人民共和国成立後の状況を反映したデザインとなっています。連合政府という建前とは裏腹に、首都北京の中心に位置する天安門から人民を睥睨する毛沢東の肖像画を、わざわざ切手にも描き加えさせるというのは、やはり、独裁国家ならではのメンタリティといってよいでしょう。

 ちなみに、天安門にかけられている肖像画は、同じものが何枚も保管されており、汚れた場合などには交換されるのだとか。たしかに、1年中、屋外に置かれているわけですから、今回のように汚物を投げられなくとも、それなりに汚れたり、痛んだりということもあるのでしょうな。

 なお、切手に取り上げられた毛沢東の肖像が、中国現代史の中でどのような意味を持っていたのかという点については、拙著『マオの肖像』でいろいろと分析してみたことがあります。10年以上前の本で、いまから見るとアラも目立つのですが、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 良い死刑・悪い死刑
2010-04-06 Tue 13:53
 中国の大連空港から日本へ麻薬2.5キロを密輸しようとして、麻薬密輸罪で現地警察に拘束され、死刑判決が確定していた日本人、赤野光信に対する死刑の執行が、きょう(6日)、大連で行われました。中国での日本人処刑は、日中国交正常化後、これが最初のことだそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)
 
      中国・反麻薬デー絵葉書

 これは、2000年6月26日の“国際禁毒日”(国際麻薬乱用・不正取引防止デー)に中国で発行された官製絵葉書の絵面で、画面の右側には連行される麻薬犯の写真等がフィルム状の枠に入れられてレイアウトされています。

 1840年のアヘン戦争の経験もあって、中国では麻薬・覚醒剤に対する取り締まりが非常に厳しく(というよりも、日本が甘すぎるような気もしますが)、麻薬事犯はほぼ死刑になっています。今回、処刑された赤野の場合も、本人が罪を認めており、冤罪の可能性は低いようですから、今回の中国側の措置は当然のことといえましょう。僕は中国共産政府に対しては批判的な人間ですが、今回の一件に関しては、彼らを支持します。

 赤野は、高校卒業後、不動産や衣料品販売などのビジネスを手がけていたものの、資金繰りに苦しみ、運び屋を引き受けて拘束されたということのようです。ということは、彼に運び屋を依頼した人物なり組織なりが、日中双方にいるわけで、こうした輩を捕まえて厳罰に処さない限り、問題の解決にはなりません。

 もっとも、中国側はともかく、現在の日本の法務大臣・千葉景子は、就任後半年間、死刑執行の署名を全く行わなかったことを得意気に語っている人物ですからねぇ。首尾よく、赤野に麻薬の持ち込みを依頼した犯人を摘発できても、連中は刑期を終えて畳の上で死ぬということになりかねません。そうなると、赤野も浮かばれませんね。

 ちなみに、今回の件に関して、千葉は「中国の内政問題。日本が関与する問題ではない。」とだけコメントしたそうですが、死刑反対の闘士としての日頃の勇ましさは一体どこへ行ったんでしょうか。まさか、日本の死刑は悪い死刑だが、共産中国の死刑は良い死刑とでもいうのでしょうか。

 なお、アムネスティは、どこの国であっても死刑は反対として、今回の死刑執行に対しても抗議しているようです。僕はこの点では彼らと意見を異にしていますが、まぁ、主張の一貫性という点では、彼らの言うことはわからんでもありませんね。

 ちなみに、千葉は学生時代、日本赤軍派の母体であった共産主義者同盟ブントの活動家だったといわれている人物。かつて、左翼の連中が、アメリカの核は悪い核だが、ソ連の核はやむを得ない核だなどと言っていたことを思い起こすと、日中両国の死刑についての千葉の態度の差も、これにならった“良い死刑・悪い死刑”論なんじゃないかと、勘繰りたくなりますな。


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 メコン川問題に思う
2010-04-05 Mon 23:46
 メコン川の異常な水位低下への対応を協議するための、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの流域4ヵ国首脳会議が、きょう(5日)、タイ中部ホアヒンで開催されました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ラオス・洪水救済

 これは、1967年1月18日、前年(1966年)9月の大水害の被災者救援のためにラオスが発行した寄付金つき切手の1枚で、冠水するビエンチャン空港が描かれています。

 メコンデルタ地域の洪水災害は、5月末から12月始めまでの雨季に集中し、地域によって若干異なるものの、おおむね9-10月にピークを迎えるというパターンになっています。このうち、1966年の大水害は、近代史上最大の流域被害を出したもので、このときは、首都ビエンチャン市内の全域が冠水しました。

 さて、チベットに源流があり、中国を経て東南アジア地域に流れ込むメコン川の水位は、今年に入ってから過去30年で最低レベルにまで下がり、流域各国では水運や漁業、農業用水取水などに大きな影響が出ています。このため、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの各国では、中国が1990年代後半以降、相次いで完建造した4つのダムがメコン川の水位に影響を与えているとの見方が一般的で、住民の間には中国への反発が広がっています。

 これに対して、中国は「水位低下は地球規模の気候変動に伴う雨量の減少が原因」と反論していますが、ダムの放水量などのデータを公開しておらず、ダムと水位低下の関連は解明されていません。まぁ、中国のことですから、内々に「ダムのおかげで下流域の水害も減っているではないか」くらいのことは言っているかもしれませんな。

 きょうの会議には中国もオブザーバーとして参加しましたが、援助や貿易関係を通じて影響力を強める中国への遠慮から、参加各国は中国に対しては強い姿勢を取れず、水資源管理のための協力強化をうたった共同宣言を採択し、流量や水質の維持のために各国間の情報交換システムを作るとしたものの、中国のダムについての直接の言及もありませんでした。

 わが国でも近年、山間部の水源地域の土地を中国系資本が買いあさっていることが問題視されていますが、今回のメコン川の問題などを聞くと、巨額の援助をしてきた側でありながら、中国に対しては弱腰になりがちな日本政府の姿勢ともあわせて、とても他人ごととは思えません。

 かつて、「日本では水と安全はタダ」といわれていましたが、このうちの安全が、近年、決してタダではなくなりつつあるのは周知のとおりです。この先、水までもがそうならないとは言い切れないことに、大いなる不安を感じるのは僕だけではないはずです。


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 興南ちがい
2010-04-04 Sun 15:26
 甲子園の選抜高校野球は、沖縄代表の興南高校が優勝しました。というわけで、“興南”違いですが、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      興南化学工場

 これは、1958年8月21日に北朝鮮が発行した朝鮮民主主義人民共和国10周年の記念切手の1枚で、興南の化学工場が描かれています。

 興南は、現在の北朝鮮・咸鏡南道咸興市のうち、咸興湾に面した港湾都市・化学工業都市で、現在は咸興市の一部になっていますが、歴史的には、しばしば興南市として独立しています。

 切手に取り上げられた工場は、日本統治時代の1928年に日本窒素が建設した朝鮮窒素・興南肥料工場(1930年操業開始)が前身で、当時は世界第3位の年産量(50万トン)を誇っていました。戦後、北朝鮮はこの工場を引き継ぎ、興南の地を化学工業の中心地としました。

 朝鮮戦争中は北朝鮮側の重要拠点として国連軍の空爆と艦砲射撃により、復旧には30年かかるともいわれたほどの壊滅的な打撃を被ります。しかし、ソ連や東ドイツの支援により、休戦後2年たらずで復旧し、1955年8月には第一段階の操業を開始して硫酸アンモニウム(硝酸アンモニウム)を生産しました。このため、黄海製鉄所(当時)とともに戦後復興のシンボル的存在として、今回ご紹介の記念切手にも取り上げられたというわけです。

 ちなみに、硝酸アンモニウムは、肥料、火薬原料、硝酸塩製造、爆薬、花火、殺虫剤、ペニシリンの培養、オフセット印刷、二酸化窒素の製造などに用いられますが、興南工場の主力商品はダイナマイトといわれています。また、近年問題となっている北朝鮮の核開発に関していうと、硝酸アンモニウムは6フッ化ウラン(濃縮ウランの原料となる化合物)の製造過程で用いられています。

 いずれにせよ、北朝鮮の“興南”がニュースに取り上げられる場合には、工場の爆発や核開発がらみの話題という可能性が高そうです。やっぱり、ニュースに登場する興南は、沖縄の高校の方が良いですな。
 

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 きょうから大遣唐使展
2010-04-03 Sat 17:58
 きょう(3日)から、奈良国立博物館で、平城遷都1300年を記念し遣唐使ゆかりの品々を紹介する“大遣唐使展”がスタートしました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      遣唐使船

 これは、1975年8月30日に「船シリーズ」の第1集として発行された“遣唐使船”の切手です。

 遣唐使船は、奈良時代を中心に西暦7世紀から9世紀にかけて、先進的な唐の文化を導入するため、前後12回にわたって派遣された使節船です。航海は、1艘に120人以上が乗り込み、2艘から4艘の編成で行われました。帆は2本の帆柱に、竹を裂いて編んだ網代帆を張るという当時としては進歩的なものでしたが、横風や逆風でも自由に帆を操れるだけの操帆技術がなかったため、舷側に櫓棚を設け、風の悪い時は櫓で漕ぐという方法で前進していました。

 切手の原画は、平安時代の「聖徳太子絵伝」と「吉備大臣入唐絵詞」を資料として、TEM研究所の砂川康子を中心に作成されたものです。

 TEM研究所は武蔵野美術大学を卒業した当時20代の男女8名による研究所で、人間の実生活における建築や環境、工芸、デザインなどを扱っており、漁村における船の研究なども行っていました。こうしたことから、船シリーズの題材選考委員会のメンバーで、水産庁漁船研究室の石井謙治とのつながりがあり、石井を通じて、今回の切手図案の制作がTEM研究所に対して依頼されたという経緯がありました。

 なお、郵政省の発表では、砂川が「遣唐使船」の原画作者であるとされていますが、砂川本人は、今回の作品は、いわゆる個人の制作によるものではなく、あくまでも研究所全員によるチームワークによって完成したものという姿勢を崩していません。

 原版の彫刻を担当したのは、凹版彫刻の名手として有名だった押切勝造です。今回の彫刻は、通常は1ミリの間に8本程度の画線が掘り込まれているところを、10-12本の画線を掘り込むというもので、当時の日本の凹版彫刻の技術水準の高さを誇示するものとなっています。また、完成した切手は、波の部分が広重や北斎など浮世絵風の雰囲気になっていますが、これは砂川の原画を元に、押切が独自のアレンジを加えたもので、切手の仕上がりに独特の雰囲気を与えることに成功しています。

 なお、この切手を含む船シリーズについては、拙著『沖縄・高松塚の時代』で詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 東京の桜満開!
2010-04-02 Fri 15:28
 気象庁によると、昨日(1日)、東京の桜(ソメイヨシノ)が平年より4日早く満開になったそうです。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      国際放送50年

 これは、1985年6月1日に発行された「国際放送50年」の記念切手で、横山大観の「夜桜」が取り上げられています。

 『夜桜』は1929年、大観61歳の時の作品で、翌1930年4月26日から6月1日まで、イタリア・ローマのパラッツオ・ナッツィオナーレ・デッラ・エスポジッツィオーネで開催された「日本美術展」(以下、ローマ展)のために制作された六曲一双の屏風絵です。

 ローマ展は、1928年、大倉喜七郎がイタリアの首相、ベニト・ムッソリーニに大観の『立葵』を寄贈したのをきっかけとして開催されることになったもので、イタリアに日本美術を紹介することだけでなく、観光シーズンのローマを訪れている欧米人に日本美術を紹介し、最終的には美術を通じて海外から日本へ観光客を誘致しようという壮大な理想の下、大倉が全額費用を負担して開催されました。大観は実際の運営と出品作家の選択を大倉から一任され、展覧会場の建築を指導したほか、自らも出品者の中で最多の15作品を出品しています。

 『夜桜』は、大量の金泥を地塗りに使用した上に、大きめの山桜の花と白緑の葉、緑青の赤松林と篝火の鮮やかな朱色を配すことで、幽玄にして絢爛、静寂にして豪華な詩情溢れる夢幻の世界が描きだされた傑作です。切手に取り上げられているのは、オリジナルの屏風のうち左側の半双です。

 『夜桜』が切手の題材として取り上げられた理由としては、国際放送の放送開始の合図が50年間一貫して「さくら」のメロディーであったためと説明されていますが、日本美術を広く欧米に紹介するために開催されたローマ展の目玉であったこの作品に、日本を諸外国に紹介するための国際放送の意義を重ね合わせているという面もあったと考えるのが自然でしょう。

 さて、今夜あたり、満開の桜の下で花を愛でつつ一献といきたいところですが、首都圏は昼過ぎにかけて強風の吹き荒れる大荒れの天気で、わが家でもベランダに置いていた植木鉢が転んで割れてしまいました。午後3次の時点では、風もほぼ収まっていますが、きっと、花もだいぶ散ってしまったんでしょうねぇ。

 なお、この切手を含む昭和末期の記念切手については、拙著『昭和終焉の時代』で詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 NTT25周年
2010-04-01 Thu 11:09
 1985年4月1日に電電公社がNTTになってから、きょうでちょうど25年です。というわけで、この1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      NTT発足

 これは、1985年4月1日に発行された“新電気通信制度発足”の記念切手です。

 1949年6月1日に旧逓信省が郵政省と電気通信省に分離されると、電信・電話業務は電気通信省の所管となりました。その後、1952年8月1日、電気通信省は廃止されて日本電信電話公社(以下、電電公社)が発足。わが国の電信・電話事業は創業以来の官業の殻を脱して、公共企業体による自主経営へと移行しました。

 ところで、明治以来、わが国の電話事業は積滞解消とダイヤル即時通話の二点を最大の課題としていました。

 電話の積滞とは、電話利用者の増加に対して電話交換局の整備や回線の充実などが間に合わないため、電話の新規加入を申し込んでも実際に電話を使用できるようになるまで一定期間、利用者が待たされる情況のことです。かつてのわが国では郵便局が電話の交換業務を行っていましたが、そこには、とりあえず、交換局の不足を補うためという側面も少なからずありました。また、地方の名士であった郵便局長が私費を投じて局内に電話をひき、地域での電話の利用を促すケースも少なからずあり、局長の負担が大きいことも問題視されていました。

 このため、電電公社は1953年以降、6次にわたる“電信電話拡充改良5ヵ年計画”を実施し、第5次計画(1973-77)半ばの1975年前後には回線の全国整備を完了し、利用者が電話加入を申し込めばすぐに設置されるようになって積滞問題は解消されることになりました。

 一方、ダイヤル即時通話に関しては、1926年1月、東京中央電話局京橋分局で自動交換機とダイヤル式電話による自動交換が行われて以来、即時通話の範囲が拡大され、1971年11月、大阪府でダイヤル化100%が達成されたのをはじめ、1975年の神奈川県、1976年の千葉・埼玉県など、各県でダイヤル化100%が達成され、1979年3月14日、東京都(利島電話交換局)・沖縄県(南大東および北大東電話交換局)のダイヤル自動化が達せられたことで、小笠原諸島を除く日本国内での電話自動化が完了 。さらに、1983年6月21日には、本土と小笠原諸島との間の通話に関しても、静止通信衛星利用の即時ダイヤル自動化が行われ、日本国内の即時ダイヤル通話網が完成しました。

 この結果、従来の業務の主要な部分を完了した電電公社は、従来の銅線の電話ケーブルを光などに張り替えるとともに、交換のために使っていたコンピュータを情報の処理や蓄積に使って新たな情報サービスを行なう“INS計画”を打ち上げて、新規の事業目標としました。

 また、1980年代になると、通信事業を民間にも開放し、かつては独占企業であったAT&Tを地域通信会社に分割していたアメリカが、巨額の対日貿易赤字解消のため、日本の通信市場への参入を強く要求。電電公社を中心とする電信・電話の独占体制を批判し、日米間の通信摩擦が激しくなっていました。

 さらに、コンピュータ技術の発達に伴い、情報通信網の拡充が望まれるようになると、それまで電電公社による通信事業の独占を維持するためにとられてきたさまざまな規制策によって、かえって電電公社による新規事業への参入を阻害されるという弊害も目立つようになってきました。

 このため、民間に通信事業を開放する代わりに、電電公社による多方面への事業の拡大を可能とするため、1984年には日本電信電話株式会社法・(改正)電気通信事業法・両法の施行に伴う関係法律の整備に伴う法律の“電気通信三法”が成立。1985年3月31日付で電電公社は廃止され、翌4月1日付で日本電信電話株式会社(NTT)が発足しました。

 さて、今回ご紹介の切手の中心的な題材は、当時の最先端技術のひとつであった衛星通信方式の象徴、衛星通信用のアンテナで、背景には電波をイメージする直線も描かれています。

 画面の左上に描かれているのはNTTのシンボルマークで、亀倉雄策の作品です。亀倉はこの曲線を金星の軌道からイメージして造形したと説明していますが、郵政省の公式発表などでは無限運動を表すリマソン曲線をデザイン化したものと説明されました。デザインの意図は、企業のダイナミズム、NTTが創意と挑戦を繰り返し、絶え間なく自己革新を続ける決意の表現で、特に、マーク上部の小さなループは「常にお客様、社会の声を、企業活動の原点として吸収し、広く社会のお役に立って行こうとする」NTTの企業姿勢をリズミカルに表現したもの、なのだそうです。

 なお、1985年4月1日には放送大学が正式に開校しており、こちらもきょうで25周年ですが、こちらについては、拙著『昭和終焉の時代』をご覧いただけると幸いです。

 * 先ほど、カウンターが67万PVを超えました。いつも遊びに来てくださる皆様には、あらためて、お礼申し上げます。

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 * 2010年3月、頂戴した拍手の数の多かった記事のベスト3は以下のとおりです。ありがとうございました。
 1位(8票):逮捕から始めよう
 2位(5票):つくば博25年白熱電球の製造中止
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