内藤陽介 Yosuke NAITO
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 表紙の消印
2010-08-31 Tue 13:21
 きょう(31日)は拙著『事情のある国の切手ほど面白い』の奥付上の刊行日です。いつもですと、プロフィール画像にも使っている表紙カバーに取り上げた切手についてご説明するのですが、今回は、“つくし”さんによる架空の切手がデザインされているパターンなので、切手の説明はちょっと難しそうです。しかし、よくよく見てみると、こんなモノが使われていました。(画像はクリックで拡大されます)

      事情のある国の切手ほど面白い(消印拡大)     ペルピニャン

 左の画像は、表紙のイラストのうち、左側の中ほど、タイトル文字の『(~面)白い』の脇の部分を拡大したものですが、“切手”に押されている消印にご注目ください。消印の局名は“PERPIGNAN”となっていますので、フランスのペルピニャンの消印を探してみたら、そのものズバリ、元ネタになったと思われるモノが出てきました。右側の画像がそれです。

 ペルピニャンは、フランス南部、ラングドック=ルシヨン地域圏、ピレネー=オリアンタル県の県庁所在地で、地中海に面したフランス領カタルーニャ(北カタルーニャ)の中心都市。人口は約28万人です。

 都市としての歴史はローマ時代にまでさかのぼります。ピレネー山麓という立地もあり、アラゴン、フランス、カスティリヤ等、中世には支配者が目まぐるしく後退しましたが、1642年9月、30年戦争の最中にフランス軍が占領し、以後、フランスの支配下に置かれています。

 消印の表示について少し解説しておくと、局名の前の66はフランスの県番号で、ピレネー=オリアンタル県を意味しています。また、局名の後のCTCは“centre de tri du courrier”の略で、日本語に直すと郵便物仕分けセンターとでもなりましょうか。

 拙著の表紙のイラストでは、消印下段の“FRANCE”の部分が“MEDIA FACTORY SHINSHO(メディアファクトリー新書)”に変えられている以外は、基本的に、元の消印がそのまま使われています。日付が09年8月7日になっているのは、おそらく、つくしさんのお手元にあったものをそのまま使ったためで、特に意味はないと思います。

 さて、ペルピニャンは地中海に面した南仏の都市ですので、当然、観光客も多いのでしょうが(そういえば、偶然ですが、今回の消印が押されている切手は“バカンス”を題材にしたものですな)、僕としては、ラングドック・ルシヨンということで、まずはワインを連想しますな。10月末から11月頃には拙著の増刷が決まり、この地域の新酒で祝杯をあげられたら良いなぁ。
 

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 世界漫郵記:聖ドミニコ教会
2010-08-30 Mon 14:17
 ご報告が遅くなりましたが、『キュリオマガジン』2010年9月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記:マカオ篇」は、今回は、聖ドミニコ教会を取り上げました。その記事の中から、今日は、こんなモノをもってきてみました。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      聖ドミニコ教会     聖ドミニコ教会・実物

 これは、1983年に発行された聖ドミニコ教会の切手と、教会の実物の写真です。

 聖ドミニコ教会は、1587年、メキシコ経由でマカオに到着したフレイ・アントニオ・デ・アルセディアーノら3人のドミニコ会宣教師によって創建されました。教会の漢字表記“玫瑰聖母堂”の玫瑰は、中国語ではバラのことで、“玫瑰聖母”となると、いわゆる“ロザリオの聖母マリア”のことを指しています。

 ロザリオというと、日本では十字架のついた首飾りというイメージが強いのですが、もともとは、聖母マリアに霊的なバラの冠を捧げるために繰り返される祈りの言葉のことです。そして、そこから転じて、祈りの回数を数えるための数珠のこともロザリオと呼ぶようになりました。それゆえ、手にかけて祈りながら数を数えるのがロザリオ本来の使い方となります。

 さて、“ロザリオの聖母マリア”の物語は、ドミニコ会の創始者・聖ドミニコ(1170-1221)と密接に結びついています。

 聖ドミニコは、1170年、スペイン、ナヴァラの生まれ。少年時代は、羊の世話をしながら、教会の典礼、聖書、祈りの本をよく学び、サン・ミリャン・ド・コゴリャのベネディクト会に入りました。若くして修道院長に選ばれましたが、修道院の土地の所有権をめぐってナヴァラ王ガルシア3世と対立して追放され、カステリャ王フェルナンド1世により、ブルゴス教区のシロスのサン・セバスチャン修道院に招かれ、同修道院をスペイン最大の修道院に育て上げました。修道会として聖ドミニコ会を創立したのは1206年のことで、同会は、1216年、ローマ教皇ホノリウス3世によって正式に認可されています。

 聖ドミニコは、あるとき、人々の回心(神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返ること)を求め、森の中で3日3晩、不眠不休で祈りました。彼が疲れて昏睡状態に陥ると、聖母マリアが天使とともにあらわれて彼を慰め、“聖母のバラの冠”と呼ばれる数珠を賜ったとされています。目覚めた彼が大聖堂に行き説教を始めると、雷が鳴り、稲妻が光ったため、人々は恐れ、聖母の絵を見あげると、聖母は天に向かって祈り、「回心して神の母のご加護を求めるように」と人々に告げたといわれています。

 これが、ロザリオの祈りの言葉と、それを数える数珠のルーツで、マカオの聖ドミニコ教会も、この故事にちなみ、“ロザリオの聖母マリア”に捧げられました。

 なお、教会の敷地には、当初、木の板を打ち付けた塔が経っていたので、地元の華人たちは教会のことを板樟堂と呼びました。教会前の聖ドミニコ広場を板樟堂前地と呼び、そこから延びる繁華街が板樟堂街と呼ばれているのはこのためです。

 さて、『キュリオマガジン』は10月号から誌面を大幅にリニューアルする予定です。これに伴い、僕の連載も隔月掲載となり、次回は、11月号の掲載となりますので、ご了承ください。


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 切手に描かれたソウル:光化門
2010-08-29 Sun 17:59
 『東洋経済日報』8月27日号ができあがりました。先月から、月1回のペースで「切手に描かれたソウル」という連載を始めましたが(7月の第1回目では戦争記念館を取り上げたのですが、こちらは以前こんな記事を書いたことがあるので、特にこのブログではご紹介しませんでした。あしからず、ご了承ください。)、今回は先ごろ再建された光化門にちなみ、この切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

         光化門

 これは、1972年6月14日に発行された「アジア・太平洋理事会閣僚会議」の記念切手で、朴正熙政権下で再建されて間もない光化門と各国の国旗が描かれています。

 光化門は、1394年に李成桂が漢陽(現・ソウル)に遷都し、景福宮を建設した際に作られました。

 その後、光化門は1553年の大火で景福宮とともに焼失。さらに、1592年、文禄の役で国王が漢城から逃亡した後、再び焼失しました。なお、このときの焼失については、朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』25年(1592年)4月晦日条にも、秀吉軍の入城前に朝鮮の民衆によって略奪・放火されたとの記述があるのですが、韓国では、日本人が破壊したと思い込んでいる人も多いのは困ったものです。

 さて、“倭乱”の後、景福宮と光化門ははながらく再建されず、離宮の昌徳宮が正殿として使用されていましたが、1865年、国王・高宗の父親である大院君が再建し、景福宮は1868年から正殿として復活します。ところが、1896年に国王はロシア公使館へ逃げ込んだことから、景福宮は再び主なき宮殿となり、正殿は慶運宮(現・徳寿宮)、昌徳宮へと移転しました。

 1910年の韓国併合後、日本の朝鮮総督府は、景福宮の敷地内に、総督府の庁舎を建設。この結果、敷地内の建物の8割以上が破却され、光化門も取り壊されそうになりましたが、柳宗悦らの運動により、南側に移動して保存されます。

 解放後は、1950年の朝鮮戦争でまたもや焼失しましたが、朴正熙政権時代の1968年、門上部を鉄筋コンクリートによって再建する工事が開始され、1972年に完成しました。再建された門には、朴正熙にがハングルで“クヮンファムン”と揮毫した扁額が架けられていました。切手でも扁額は見えるのですが、さすがに、その文字までは確認できません。

 今回の復元事業は、1995年に決定された景福宮の復元計画の一環として行われたもので、東宮、泰元殿、興禮門などの復元が終わった後、2006年から工事が行われていました。その際、門の位置は王朝時代の位置に戻されたほか、扁額も、建立時に忠実に、任泰瑛の筆跡を復元したものが新たに掲げられたそうです。

 ところで、光化門といえば、僕などは門そのものよりも、門から世宗路を南に下り、鐘路との交差点を曲がってすぐのところにある光化門郵便局を思い出します。同局には、2004年の竹島切手発行時に窓口に並んで切手を買ったこともあるのですが、その竹島切手については、、新刊の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも1章を設けて取り上げています。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 泰国郵便学(9)
2010-08-28 Sat 11:42
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第44巻第4号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は1932年の立憲革命とその後の状況について取り上げました。その中からこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         タイ表示の最初の切手

 これは、1940年5月13日に発行されたチャクリー宮殿の切手です。

 立憲革命後の1932年12月に発布された恒久憲法は、形式的にはイギリス型の議会制民主主義の体裁を取っていました。しかし、議会制民主主義が定着するまでの“経過措置”として、国会は人民が選挙する民選議員と国王(実際には幼少の国王に代わって人民党政権)が任命する任命議員が同数を占めるものとされていました。当然のことながら、人民党はこの“経過措置”を利用して権力の独占をはかり、純粋に民意を背景に当選してきた民選議員と対立することになります。

 こうした状況の下で、民選議員が激しい政府批判を展開すると、パホン政権は民選議員に対して弱腰であるとの批判が人民党内部で強まり、内閣は退陣に追い込まれ、41歳のピブーンが首相として表舞台に登場してきました。

 ピブーンは首相就任早々、反対派を逮捕・投獄するなどの大弾圧を行うとともに、王室財産とそこから生じる収益を流用して議員たちに利益を分配することで、短期間に議会を掌握。権力基盤を確立したピブーンは、1939年6月24日の革命7周年の記念日から、従来、チャクリー王朝の創始記念日であった4月6日に代えて、6月24日をナショナルデーとしました。もはや、王室ではなく革命を主導した人民党政権こそがタイの権力の中心にあることを宣言したといってよいでしょう。

 さて、1939年6月24日の革命記念日に際して、ピブーンは「文明国人と同一の完全な愛国心をタイ人にもたせるための出発の日にすべき」と演説して、ラッタニヨム政策(国家信条)を発動。その第一弾として、彼は従来の国名であった“サヤーム(シャム)”は外国人による蔑称だとして国号を“タイ”に変更することを明言。同年10月6日の憲法改正により、国号は正式にタイへと変更されました。今回ご紹介の切手は、この国号変更に伴って、切手の国名表示が“タイ”となった最初のケースとなりました。

 なお、切手に取り上げられたチャクリー宮殿については、拙著『タイ三都周郵記』でも取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 


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 戸籍上は…
2010-08-27 Fri 21:11
 江戸時代に生まれた人が除籍されず、戸籍上は生存扱いになっている問題で、長崎県壱岐市では、1810年生まれの“200歳”の男性の戸籍が残っていることがわかりました。というわけで、きょうは“戸籍”の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         戸籍制度100年

 これは、1971年10月27日に発行された“戸籍制度100年”の切手で、子供の顔に100を配したデザインとなっています。なお、発行日は法務省主催の記念式典が行われた日でした。

 わが国における戸籍は、670年、律令国家形成の過程で唐の制度を真似て作られた「庚午年籍」が最初のものです。

 しかし、律令制度が衰退すると、中央政府が戸籍によって人民を把握しようとする試みは放棄され、中央・地方を問わず、為政者は“家”を把握し、個々人の管理はそれぞれの“家”にゆだねるという体制が続いていました。江戸時代、住民を把握する基礎となっていた人別帳も、こうした“家”を単位に編成されています。

 明治維新によって成立した新政府は、中央集権的な国民国家体制を目指して、“家”を通さない国家の個別個人支配の基盤とするため、戸籍の復活を決定。これを受けて、1868年10月、まず京都府で「京都府戸籍仕法」が制定され、各府県はこれをモデルに戸籍を編成することになりました。しかし、各府県の作成する戸籍には細部で若干の相違があったため、1871年4月、明治政府は全国統一の戸籍をつくるべく戸籍法を布告。翌1872年2月、同法に基づく戸籍制度を実施しました。これが、近代的な戸籍制度のルーツになります。なお、この戸籍は干支で壬申の年につくられたため、だったので、“壬申戸籍”といわれています。

 当時の戸籍は“戸”を単位として編成され、本籍は住所地とされていました。この結果、身分登録とともに住所登録という性格を持ち、現在の住民票の役割も兼ねています。

 その後、1898年に民法(旧民法)が施行され、“家制度”が制定されると、戸籍は“家”を基本単位として、戸主を中心に夫婦親子関係などの一切を記録するものとなりました。そして、第二次大戦後の1948年、民法改正によって戦前の“家制度”が廃止されたことに伴い、戸籍制度も一組の夫婦と子を基本単位とする編成に改められ、現在にいたっています。

 さて、今回明らかになった200歳の男性の場合は、当然、壬申戸籍にも登録されていたはずですが、その時点ですでに62歳ですから、当時としてはそれなりの高齢者ということになりますな。壱岐市の市民福祉課は「明治期の戸籍法に基づいて作成されたのかもしれない。現在はすべての戸籍を電算化しているが、(電算化した際)削除するのを忘れたのだろう」と話しているそうですが、明治末には生きていれば100歳を迎えていたという人ですから、電算化が始まったときにはとっくに亡くなっておられたと考えるのが自然なわけで、言い訳としてはちょっと苦しいですな。

 
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 事情のある国の切手ほど面白い
2010-08-26 Thu 11:57
 以前からこのブログでもご案内しておりました拙著『事情のある国の切手ほど面白い』(メディアファクトリー新書007:出版元の特設HPはこちらです)が出来上がりました。奥付上の刊行日は8月31日で、当初の発売予定日は8月27日でしたが、すでに、一部の書店・インターネット書店では販売も開始されたようですので、あらためて刊行のご挨拶を申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

         事情のある国の切手ほど面白い(表紙)

 さて、今回の拙著は、さまざまな“事情のある国”を、①政情が不安定な国、②表と裏を使い分ける国、③奇妙な独裁者がいる国、④領土争いをしている国、⑤外貨をぼったくる国に分類し、それぞれ、切手から読み取れるお国事情を概観してみた短編コラム集となっています。
 
 このうち、①政情が不安定な国~④領土争いをしている国では、

 ・北朝鮮が発行した反核切手
 ・捕鯨反対のニュージーランドが発行した捕鯨礼賛切手
 ・経済危機のギリシャが発行したユーロ10周年記念切手の皮肉
 ・北方領土・竹島問題と切手  

 といった話題も取り上げています。

 一方、⑤外貨をぼった来る国は、切手を輸出して外貨を稼ぐというシステムについて歴史的な経緯を踏まえてまとめたものです。もっとも、このテーマはまじめに書こうとすると、対象があまりにも多岐にわたっているうえ、さまざまな事柄が複雑に絡み合っており、それだけで大部の著書が1冊できあがってしまいます。そこで、今回は入門編ということで、ごく簡単な概略を示すことにとどめました。いずれ、このテーマについては独立した仕事としてまとめてみたいと思っています。

 「切手がわかれば世界がわかる」を合言葉に、メディアでしばしば話題となる“事情のある国”とその背景について「なるほど、そうだったのか」とご理解いただけるような本を目指したつもりです。
 
 書店などで実物をご覧になりましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 なお、この日記をご覧の方で、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または取り上げることを検討したいという方がおられましたら、本ブログのメール送信機能(右のずーっと下の方にあります)ご連絡いただけると幸いです。


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 チュニジアを知るための60章
2010-08-25 Wed 14:11
 本日(25日)付で、明石書店よりエリアスタディーズの1冊として、鷹木恵子編著『チュニジアを知るための60章』が刊行となりました。同書では、僕も「郵便から見えるチュニジア支配権の変遷」と題するコラムを書いています。今日は、その中からこの切手を御紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

         チュニジア最初の切手

 これは、1888年に発行されたチュニジア最初の切手です。

 フランス・イタリア両国の勢力角逐の場となっていたチュニジアでは、1848年、フランスがチュニスに郵便物取扱所(後に郵便局に昇格)を設置し、アルジェリアのボーヌ(現アンナバ)に設置されていたフランス郵便局を経由して、本国との通信を取り扱い、チュニジア植民地化の足掛かりとしていました。

 翌1849年、フランス本国では最初の切手が発行されましたが、当初、チュニスのフランス局では切手や郵便印は持ち込まれず、1852年になって郵便印(料金受領印の性格も兼ねていた)が導入され、ついで、1862年からフランス本国の切手がチュニスで使用されるようになります。ただし、1860年代には、切手の導入後も従来通り、郵便印のみで対応していたケースも少なくありません。ちなみに、チュニス以外の主要局の開局状況は、ラ・グレットが1867年、スース、スファックス、バルドー、マフディア、ガベス、ジェルバ、モナスティルが1882年です。

 一方、フランスとともにチュニジアの支配を企図していたサルディニアも1858年にチュニスに郵便局を開設し、近代郵便業務を開始します。サルディニア局は、イタリア王国の成立に伴い、1861年3月にイタリア郵政が継承しましたが、経過措置として1862年まではサルディニア切手が用いられ、その後はイタリア切手が使用されました。なお、イタリア局は、チュニスのほか、ル・グレットとスースにも置かれています。

 さて、1869年いらい、財政破綻を理由に英仏伊三国の共同管理下に置かれていたチュニジアは、1881年、フランスと結んだバルドー条約によって国家主権を事実上喪失し、1883年にはフランスの保護領となります。これを受けて、フランス当局は1888年7月1日、今回ご紹介しているようなチュニジア専用の切手を発行しました。ただし、フランスによる保護領化以降も、イタリア局は既得権を理由にチュニジアから撤退せず、1897年まで活動を続けていました。したがって、それまではフランスはチュニジアにおける郵便主権を確立できなかったということになります。
 
 今回のコラムでは、初期のスタンプラレス時代から1957年のチュニジア共和国発足までの切手と郵便の概要について、ご説明しております。機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 英領ソマリランド加刷
2010-08-24 Tue 22:45
 きのう(23日)、ソマリアで暫定政府軍などに対する“大規模戦争”の開始を宣言したイスラム過激派組織アッシャバーブが、きょう(24日)、首都モガディシオの暫定政府大統領宮殿近くのホテルに自爆テロなどを仕掛け、国会議員十数名を含むを含む31人が死亡、多数が負傷する事件が起きました。というわけで、きょうはソマリアがらみの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

         英領ソマリランド加刷

 これは、1903年に発行された英領ソマリランド加刷の切手です。

 いわゆるアフリカの角の北側、アデン湾に面した部分は、1870年代までエジプトのムハンマド・アリー朝が支配しており、1876年にはエジプトの郵便局も開設されました。しかし、1884年、アデン駐留のイギリス軍が駐屯するようになり、エジプトはソマリランドから撤退。イギリスはソマリランドの各部族と協定を締結し、1887年には同国を保護領化します。これに伴い、1884年にイギリス局が開局し、英領インド切手が用いられるようになりました。

 ソマリランドは、1898年までは行政上英領インド帝国の統治下に置かれていましたが、1903年にイギリス外務省の管轄に移ります。今回ご紹介の加刷切手は、これに伴い、英領インド切手に“BRITISH SOMALILAND”と加刷したものです。なお、英領ソマリランドの管轄権は1905年には植民地省に移りました。

 その後、1908年に現在のソマリアの南部(内陸部)に相当する地域はイタリア領ソマリランドとなり、現在のソマリア国家の領域は英領とイタリア領に分割された状態が続きましたが、第2次大戦中の1941年2月16日、イギリス軍はイタリア領ソマリランドの首都であったモガディシオを占領。その後、1950年まで、この地はイギリスの占領下に置かれます。

 第2次大戦後の1947年、連合諸国とイタリアの講和条約が結ばれ、イタリアはイタリア領ソマリランドを含むアフリカの全植民地を放棄させられましたが、イタリア撤退後の旧イタリア領ソマリランドの帰属については連合国の間でも合意が成立しなかったため、1949年11月、10年以内にこの地域を独立させることを条件に、この地域を国連の信託統治下に置き、その間、イタリアが統治権を行使することが決定されます。

 こうして、1950年4月1日、イタリア信託統治領ソマリアが成立。イタリアによる南部ソマリアの信託統治期限が切れる直前の1960年6月26日、北部の英領地域がソマリランド共和国として独立。7月1日には南部のイタリア領地域も独立し、この両者が統合されて現在のソマリア国家が誕生しました。

 しかし、独立後のモガディシオ中央政府は旧イタリア領出身者が主導権を掌握し、南部優遇の経済政策などを推し進めた結果、旧英領地域ではソマリア中央政府および南部地域への反感が強くなり、ソマリアからの脱退を求める声も高まっていきます、そして、1991年1月にモハメド・シアド・バーレ独裁政権が崩壊した後、それまでの南部優遇政策と混迷を極めるソマリア情勢に失望したイサック主体のソマリ国民運動が、同年5月に北部の旧イギリス領ソマリランド地域の分離・再独立を宣言。新生ソマリランド共和国を発足させました。

 現在、国際社会は、ソマリランドはあくまでもソマリアの一部であるとの立場を取っています。この結果、事実上、国家としては崩壊して実体がない“ソマリア”が国際的に承認されているにもかかわらず、事実上、独立国家として機能しているソマリランドが承認されていないというねじれ現象が生じています。

 さて、今回の“大規模戦争”がいつまで続くかはわかりませんが、いずれにせよ、当面、ソマリア情勢の混迷は続くことでしょう。きのうも、ソマリア沖・アデン湾での第6次派遣海賊対処行動部隊として、むつ市の海上自衛隊大湊基地の護衛艦「せとぎり」が大湊港から出航したということもありますし、今後も機会をとらえて、ソマリア関連の切手を御紹介していくつもりです。


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 イランが無人爆撃機開発
2010-08-23 Mon 23:05
 きのう(22日)、イランのアフマディネジャド大統領は、同国が開発を進めていた無人爆撃機カラール(ペルシャ語で“攻撃者”の意)が完成したと発表し、国営テレビは同機が離陸、飛行する模様を放映しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

         イラン空軍50年(ユンカー)

 これは、1974年にイランが発行した“空軍50年”の記念切手の1枚で、同国空軍の1番機であるユンカース社のJU-F13が描かれています。

 ガージャール朝末期の1921年、クーデターで首都テヘランを掌握したレザー・パフラヴィーは、同年、アメリカから航空機を購入して空軍を創設することを計画しましたが、アメリカは大戦後の国際的な軍縮を理由にこれを拒否。このため、イランはドイツと交渉し、JU-F13の購入を決定します。しかし、国や集には購入のための予算がなかったため、レザー・パフラヴィー自身が国民から募金を募り、これに応えたギーラーン州とマザンデラン州の住民の献金によって2機のJU-F13が購入されました。ついで、イラン側はソ連からの戦闘機購入も決めています。

 1923年、最初のJU-F13がイランに到着したことを受けて、翌1924年、アフマド・ハーン・ナフジャヴァンを司令官とする空軍が組織されるとともに、訓練のため、パイロットとメカニックがロシアとフランスに派遣され、1929年、6名がフランスの東部航空学校を、9人がソ連のセバストーポリ航空学校を卒業しています。

 一方、空軍司令官となったナフジャヴァンは、1925年2月25日、一足先にフランスからイランまで自ら航空機を操縦して帰国し、レザー・パフラヴィーの歓迎を受けます。これが、イラン人による初の本格的な国際飛行となりました。なお、レザー・パフラヴィーは前年の1924年にカージャール朝の廃止を議会で議決し、翌年に自ら帝位に就いてパフラヴィー朝を創設しています。

 さて、1924年の空軍創設から85年を経て、今回開発された無人爆撃機カラールは、移動可能な発射台から打ち上げられ、航続距離は約1000キロで、巡航ミサイル4発または115キロ爆弾2発を搭載できるのだそうです。これが事実だとすれば、イランはペルシャ湾岸の米軍基地への攻撃も可能となります。実際に、イランが米軍基地やイスラエルを攻撃するかどうかはともかくとして、いわゆる“核”問題ともあわせて、今後もイラン情勢からは目が離せない状況が続きそうです。

 なお、今週刊行の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』では、近年のイランの核開発問題についてもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 “日韓併合”の切手
2010-08-22 Sun 19:13
 1910年8月22日に漢城府(現ソウル)で「韓国併合ニ関スル条約」が調印されて、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         解放切手銘版

 これは、1946年5月1日、アメリカ軍政下の南朝鮮(大韓民国はまだ発足していません)で発行された“解放切手”10銭の銘版つき田型です。

 米軍政下の南朝鮮で発行された最初の正刷切手である解放切手は、名目上は“(米軍による南朝鮮)解放の記念切手”でしたが、総計4470万枚発行され(うち、1946年の製造数は3000万枚)、実質的に通常切手として用いられました。

 当時の南朝鮮内には、これだけの量の切手を短期間に確実に製造しうる印刷所はありませんでしたから、解放切手は、デザイナーの金重鉉がソウルで作成した原画をもとに、日本の印刷局の彫刻課長・加藤倉吉が原版を彫刻し、印刷局で印刷するという方式で調製されました。ただし、当時は日本国内でも、切手には目打や裏糊がないのが当たり前でしたから、解放切手も日本で印刷された後、目打作業は現地で行われています。

 このため、解放切手の銘版は“大日本帝国印刷局製造”となっていましたが、今回ご紹介のマテリアルでは、南朝鮮で穿孔された目打が大幅にずれてしまったため、銘版の“大日本帝国印”の部分が右下の切手の印面に入っています。1枚の切手上に“(解放)朝鮮”のハングル(右書き)と日本の文字が同時に入っている“日韓併合”切手といってもよさそうです。

 さて、誰しも外国人に支配されるのは嫌なものです。しかし、不愉快ではあっても、一定以上の年月の植民地支配を受けていれば、好むと好まざるとにかかわらず、植民地側が宗主国の影響を受けるのは避けられませんし、独立した植民地は植民地時代の遺産の上に、彼ら自身が努力することによってしか、新国家を建設することができません。

 韓国の現代史は良くも悪くも“日帝36年”と称される日本統治時代の遺産の上に成立しています。おそらく、当時の朝鮮人(日本統治下の正式名称は“朝鮮”です)の多くは、内心では、日本人の支配下に置かれていることを不快に思っていたことでしょう。したがって、日本の支配下でインフラ整備が進み、教育・医療水準が飛躍的に向上したことが事実であったとしても、それを日本人が「してやった」といえば、喧嘩になるのは避けられません。

 しかし、当時の朝鮮人の中には、自分たちを支配している日本から学ぶことで朝鮮の発展や独立につなげていこうと真摯に努力を重ねていた人々も少なくありませんでした。というよりも、そうした日本時代に教育や職業訓練を受けた人々こそが、日本統治時代の遺産としてのインフラや社会システムとともに、1945年以降の韓国の国家建設を支えてきたことは、まぎれもない事実です。その意味では、“日帝36年”を単なる暗黒時代として全面否定することは、実は、韓国とその現代史を根幹から否定するということになってしまいます。それゆえ、過去の朝鮮統治に対して日本人が卑屈になることは、かえって、日本から学び、韓国の国家建設に携わった人を愚弄することになりかねません。

 今月10日、日韓併合100年に際して発表された首相談話は「植民地支配がもたらした多大な損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」との内容でした。この談話では“日帝36年”は全面的に否定されるということになるのでしょうが、ということは、当然、韓国の国家建設に従事した“親日派”も断罪されるということなんでしょうから、ひどい話です。

 また、国際社会の常識でいえば、損害に対してお詫びするということは、追加の補償なり賠償なりを支払うという意味になりますが、そうだとすると、1965年の日韓基本条約をもひっくり返すことになりかねません。両国間の補償問題は日韓基本条約で完全に解決していますから、追加の補償なり賠償なりというのは全く筋の通らない話です。仮に、条約に伴って日本から得た資金を、当時の韓国政府が個人補償に使わず、インフラ整備と重要産業への集中的な投資に回し“漢江の奇跡”と呼ばれた高度経済成長を実現したことが悪かったとでもいうのなら、それは内政干渉にほかなりません。まぁ、わが国の教科書検定にクレームをつけるという内政干渉を韓国はしばしばやっていますから、それに倣ったということなのかもしれませんがね。

 いずれにせよ、韓国に対する安易な贖罪意識から発せられた首相談話は、実は、その本質において、韓国の国家建設の源流を否定し、“漢江の奇跡”までをも否定しています。この点において、談話は韓国の現代史を愚弄した実に非礼なものでしかありません。こうした“非礼”の代償がいかに高くつくか、いい加減、政治家諸氏にも学習してもらわないと困りますな。


 * 本日未明、アクセスカウンターが73万PVを超えました。いつも遊びに来てくださる皆様には、あらためて、お礼申し上げます。

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 ムルタンの兵士
2010-08-21 Sat 21:42
 パキスタン北西部の豪雨による洪水の被災者支援のため、国際緊急援助隊派遣法に基づき派遣される自衛隊のヘリコプター部隊の第1陣が、きょう(21日)、福岡空港を出発しました。あす、パキスタン陸軍の飛行場がある同国中部のムルタンに到着する予定だそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         ムルタンの戦い

 これは、1948年にインドの藩王国の一つであったバハワルプールが発行したムルタンの戦い100年の記念切手で、1848年と1949年の兵士が並べて描かれています。

 旧英領インド帝国時代のパンジャブ州は、1947年にインドとパキスタンが分離独立した際、インドとパキスタンで2分されましたが、このうちのパキスタン・パンジャブ州の南東は、かつてはバハワルプール藩王国の支配下に置かれていました。同国最後の君主であったサーディク・ムハンマド・ハーン5世は熱心な収集家で、1945年から1949年にかけて、自分の趣味を満足させるために英国製の美麗な切手をいくつか発行しましたが、今回ご紹介しているモノもその一例です。

 切手の題材となったムルタンの戦いは、19世紀前半にパンジャブ州を支配していたシーク教国とイギリスとの一連の戦争のうち、1848-49年の第2次シーク戦争の発端となったムルタンでのイギリス士官殺害事件と、それに続く暴動のことを指しているものと思われます。なお、当初、シーク側の士気は高く、イギリス側は苦戦を強いられ、1849年1月にはチリアンワーラで大敗を喫しました。しかし、後にシーク内部の裏切りによって戦況が逆転し、同年3月には、イギリスが前パンジャブの併合を宣言して戦争は終結しました。

 さて、今回、わが自衛隊が救援活動の拠点とするムルタンは、地理的にはだいたいパキスタンのほぼ中央にあり、道路、鉄道、空路などの集まる交通の要衝です。本来であれば、自衛隊の活動は国際協力の一環として行われる人道的な救援活動ですから、地元住民の攻撃対象となるものではないのですが、パキスタンでは、イスラム過激派も多発しており、自衛隊には恨みはないがパキスタンの現政権を揺さぶるために外国の支援者を攻撃するテロリストが出現する可能性は否定できません。にもかかわらず、今回の派遣部隊は武器を携行しないのだとか。

 まぁ、自衛隊の最高指揮官であるはずの菅直人は「防衛大臣は自衛隊員じゃないんですね」と発言して国民を唖然とさせた人物ですからねぇ。憲法9条を掲げていれば日本は他国から攻撃を受けることはないとの信仰心をお持ちの方は武器をもたずに危険地帯に赴くことも平気なのでしょうが、もう少し、わが国を代表して困難な任務についておられる方々のことを親身になって考えてもいいんじゃないでしょうか。

 とまれ、自衛隊の皆様のご活躍と、無事のご帰還を、一国民として心よりお祈りしております。

 なお、ここ数年のパキスタン情勢については、来週刊行予定の拙著『事情の明日国の切手ほど面白い』でも1章を設けて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。


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 セネガル共和国発足50年
2010-08-20 Fri 12:30
 1960年8月20日にセネガル共和国が発足してから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         セネガル独立1周年

 これは、1961年4月4日にセネガルが発行した“独立記念祭”の記念切手のマキシマムカードです。

 現在のセネガル、マリギニアコート・ディヴォワールに相当する地域は、かつて、仏領西アフリカと呼ばれていましたが、1958年、フランス共同体内の自治権を持つ国として、仏領スーダン(現マリ)、セネガル、オートヴォルタ(現ブルキナファソ)、ダオメー(現ベナン)、ニジェールトーゴ、コートディヴォワールなどの自治共和国がつくられました。このうちスーダンとセネガル、オートヴォルタ、ダオメーの4ヵ国は1959年1月、14世紀にニジェール川流域で繁栄した黄金の帝国“マリ”にちなみ、マリ連邦を結成することになりました。

 ところが、連邦のあり方をめぐっては、完全な独立国家を目指す旧仏領スーダンおよびセネガルと、フランス共同体の中で対等な地位を目指そうとするオートヴォルタおよびダオメーが対立。1959年4月4日、スーダンとセネガルだけでフランス共同体内のマリ連邦を結成。翌1960年6月20日、同連邦として完全独立を達成します。今回ご紹介の切手は、同連邦の結成記念日である4月4日を“独立記念日”としたものです。

 ところが、仏領西アフリカの首都でアフリカ有数の大都市ダカールを有するセネガルに対して、面積・人口は多いものの経済的には貧しい旧仏領スーダンの格差は埋めがたく、連邦政府の税収の大半がセネガルからのものでありながら、旧仏領スーダンが政治的主導権を握ることに対してセネガル側の不満は次第に増大。さらに、フランスとの協調路線を掲げるセネガルと反仏闘争の闘士モディボ・ケイタが率いる旧仏領セネガルとの政治路線の対立もあり、1960年8月20日、セネガルは連邦からの分離独立を宣言し、現在のセネガル共和国が発足しました。

 なお、セネガルは、1982年2月、ガンビアとセネガンビア国家連合を発足させたものの、旧仏領のセネガルと旧英領イギリス領であったガンビアの体制の違い、主権問題、経済格差などの問題で対立し、1989年9月に国家連合を解消しています。懲りないなぁ。

 さて、ことしは“アフリカの年”50年なので、1960年にアフリカで独立した国のうち、いままでこのブログで取り上げたことのない国についても1度は取り上げてみようと考えました。そうした国々の独立記念日は8月に集中していましたので、それにあわせて記事をアップしていったため、今月はなんだかアフリカ特集のようなかたちになってしまいました。次は、9月22日にマリ連邦解体後のマリ共和国発足の話(今回の記事の姉妹編ということになりますかね)を書くことになると思いますので、しばらく、ブラック・アフリカがらみのネタもお休みとなりそうです。


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 エポックメイキング・プロジェクト⑤
2010-08-19 Thu 12:04
 ご報告が遅くなりましたが、(財)建設業振興基金の機関誌『建設業しんこう』の8月号が出来上がりました。僕の担当する連載「切手で見るエポックメイキング・プロジェクト」では、今回は、最高裁判所庁舎の建設を取り上げましたが、記事で使った中から、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます) 

         最高裁庁舎

 これは、1974年発行の「最高裁判所庁舎落成」の記念切手です。

 最高裁判所(最高裁)は、1947年、日本国憲法の施行により設けられ、当初は、皇居大手門内の旧枢密院庁舎が仮庁舎として利用されていました。その後、同年9月、東京地方裁判所庁舎の3~4階に移転。1949年(昭和24)10月からは、東京都千代田区霞ヶ関の旧大審院の庁舎が用いられていました。

 この庁舎が手狭になったため、1965年9月、各界有識者によって構成される最高裁判所新庁舎新営審議会が設置され、1966年8月の同審議会の答申に基づいて公開コンペが実施されます。コンペの結果、1969年、最優秀作品に選ばれたのは、鹿島建設・岡田新一グループの作品でした。ちなみに、前年の1968年、鹿島建設は三井建設との共同企業体として霞が関ビルディングを約3年かけて完成させており、戦後建築史に残るプロジェクトが続きました。

 工事は1971年(昭和46)6月に着工し、1974年3月末に竣工となりました。岡田らの設計した新庁舎は、敷地面積3万7400平方メートル、延床面積4万7600平方メートルの鉄筋コンクリート造の地下2階地上5階。旧庁舎が赤レンガ造りであったのに対して、新庁舎は茨城県稲田村産の花崗岩を用いているのが特徴となっています。

 切手は、建物が最も美しく見える位地ということで、新庁舎を正面左側から見たところが描かれています。なお、最高裁関連の切手としては、ほかに、最高裁に置かれている“正義(の女神)像”が切手にも取り上げられています。こちらについては、以前の記事でもご紹介しておりますので、よろしかったら、ご覧いただけると幸いです。


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 ロシアに続いてウクライナも
2010-08-18 Wed 13:56
 ロシアが穀物および穀物から作られる関連製品の輸出を今月15日から12月末まで禁止したのに続いて、隣国のウクライナも年末までの穀物輸出量を250万トンに制限することになりそうです。というわけで、きょうはウクライナ切手の中からこの1枚をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         ステパン・バンデラ

 これは、2009年にウクライナが発行したステパン・バンデラ生誕100年の記念切手です。

 バンデラはウクライナの民族主義活動家で、ウクライナ民族主義組織(OUN)ならびにその武装組織であるウクライナ蜂起軍(UPA)のリーダーとして活動しました。反ソ闘争のためには、ナチス・ドイツとも協力関係にあったとされ、第二次大戦後の1959年、ドイツのミュンヘンでKGBによって暗殺されています。

 2004年のオレンジ革命で、親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチを退けて政権を獲得したヴィクトル・ユシチェンコは、親西欧との接近とNATOへの加盟を掲げてロシアから距離を置く路線を推進しました。

 これに対して、ウクライナを自らの“裏庭”とみなしていたロシアは不快感を隠さず、鉱産資源の乏しい農業国、ウクライナの生命線である石油・天然ガスを大幅に値上げし、供給を一時的にストップしてウクライナ経済に揺さぶりをかけます。ユシチェンコも「親西欧」の旗印の下、ロシアへの抵抗姿勢を変えようとはせず、08年8月、ロシアとグルジアのあいだで勃発した南オセチア紛争でもグルジアを支持する立場をとり、ロシアとの対立を深めていくことになりました。

 こうした状況の中で、2008年9月、リーマン・ショックから世界金融危機が発生。ウクライナ経済も甚大な打撃をこうむり、もはや欧米諸国の経済支援もあてにできない状況となってはじめて、ウクライナ国民のあいだにも「ロシアと妥協し経済を立て直すべきだ」との声が大勢を占めるようになりましたが、ユシチェンコはロシアに屈することを潔しとせず、ウクライナ経済は低迷を続けます。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で発行されたもので、経済低迷によって国民の支持を失っていたユシチェンコ政権としては、あらためて“反ロシア”を強調することで求心力を回復しようとしたものと思われます。

 結局、2010年1~2月に行われた大統領選挙(第1回投票は1月17日、決選投票は2月7日)では、親ロシア派ヤヌコーヴィチが元首相のユーリア・ティモシェンコを抑えて2004年の雪辱を果たし、現職のユシチェンコは第1回で5位に終わり、決選投票にも残れない惨敗を喫しました。

 ヤヌコーヴィチ政権は、ユシチェンコ時代の金看板のひとつであった北大西洋条約機構(NATO)への加盟方針を撤回。10年4月には、ロシア黒海艦隊に対するクリミア半島セバストポリの基地貸与期限を2042年まで25年間延長することに同意するなど、対露接近の姿勢を鮮明にしています。

 さて、8月27日付で刊行予定の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』では、今回ご紹介の切手こそ取り上げていませんが、ロシアとウクライナの複雑に入り組んだ関係を解説してみました。近々、書店の店頭で実物をご覧になりましたら、ぜひ、お手に取っていただけると幸いです。


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 ガボン独立50年
2010-08-17 Tue 12:48
 ギニア湾に面した中部アフリカの国、ガボンが1960年8月17日に独立してから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         ガボン最初の切手

 これは、1886年に発行されたガボン最初の切手です。

 現在のガボンに相当する地域はもともと、奴隷貿易と象牙貿易が行われていました。1839年、当時は無人の土地だった現在のリーブルヴィルの地をフランスが占領し、1843年、交易都市としてガボンが建設されます。この土地に解放奴隷が多く送られたことから、1848年、都市としてのガボンはフランス語で“自由都市”を意味する“リーブルヴィル”に改称されました。

 リーブルヴィルに最初の郵便局が設置されたのは1862年のことで、当時はフランス植民地共通の切手が使われていました。また、域外との郵便は、フェルディナンド・ポーのイギリス局を経由して行われています。

 最初の切手が発行されたのは、フランスが1885年に現在のガボン国家の領域を支配下に置いた後の1886年7月31日のことです。切手は、現地に在庫のあった植民地共通切手に、ガボンを意味するGABの文字をドットで囲んだ印と、額面の印を手押ししたものでした。いずれも手押しのため、今回ご紹介のモノのように、印が重なってしまっているケースもあります。

 1910年、ガボンは、中央コンゴウバンギ・シャリチャドとともガボンを仏領赤道アフリカに編入されましたが、1934年までは独自の切手が使われていました。1934年以降、仏領赤道アフリカ共通の切手が使われるようになり、ガボン独自の切手は発行されなくなりますが、1958年11月に自治共和国が発足したことで独自の切手も復活。1960年8月17日に完全独立を果たしました。

 独立当初は貧しい農業国でしたが、1970年代以降、海底油田のほか、ウラン、マンガンなどの鉱産資源が発見され、輸出されるようになったため、経済的にも比較的安定し、それが政治の安定にも結びついたと説明されることが多いようです。実際、ボンゴ前大統領が1967年から2009年に亡くなるまで、41年にも及ぶ超長期政権を維持することに成功したのも、他のアフリカ諸国に比べれば、ガボンの経済運営が比較的上手く行っていたからだという面はあるでしょう。

 もっとも、これだけの長期政権ですから、そこには綺麗事だけでなく、さまざまな腐敗・汚職や人権弾圧があったことは容易に想像がつきます。ほかならぬボンゴ自身が、リーブルヴィルの病院ではなく、スペイン・バルセロナのキロン病院で亡くなったということは、彼自身、自国の医療を信用していなかったことの裏返しであり、ボンゴの政府が、必ずしも国民に満足のいく医療を提供できなかったことの証明ともいえるでしょう。そして、このことは、医療だけが例外なのではなく、教育やインフラなど、国民生活全般に関しても同じような現象が観察できそうです。

 ところで、長期政権の主として巨額の財産を築いたボンゴは、かつて、フランス大統領選挙に際してミッテラン陣営に融資していたことが発覚し、問題となったことがあります。わが国では近隣の超長期(独裁)政権から資金の融通を受けているような政治家はいないと信じたいところですが、現行憲法の規定を無視して外国人に地方参政権を与えようとしたり、明白な反日教育を行っていることが明らかな外国学校に税金を使って支援しようとしたりする政治家が少なからずいるのを見ると、どうにも不安になってきますな。


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 乙支文徳
2010-08-16 Mon 23:00
 北朝鮮のミサイル攻撃や潜水艦による侵入などを想定し、主にコンピューター上で米韓両軍の連携や指揮命令系統の確認を行うための定例の米韓合同軍事演習“乙支フリーダム・ガーディアン”が、きょう(16日)から韓国各地で始まりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      薩水の戦い     薩水大勝・原画


 これは、1982年6月15日に韓国が発行した「歴史絵画シリーズ」第1集のうち、“乙支文徳将軍の薩水大勝”を取り上げた切手とその原画です。

 西暦612年、隋の煬帝は大軍を率いて第二次高句麗遠征を行いました。このとき、高句麗の将軍だった乙支文徳は嬰陽王の命を受けて、隋軍の内実を探るために偽りの投降を行ない、隋軍の兵士たちが餓えていることを察知して隋軍を抜け出します。そして、隋軍が追ってきたところを、1日に7回戦ってその度にわざと負けて敵を誘い込みます。そして、敵将・于仲文に対して、撤兵すれば高句麗の王を隋の皇帝の仮御所に連れていくといって再び偽りの投稿を行い、隋軍が薩水(現在の北朝鮮の清川江)を渡って戻ろうとしたところを攻撃し、隋軍に壊滅的な打撃を与えたとされています。今回の絵画は、その時の模様を再現したもので、原画の写真は、ソウルの戦争記念館で撮影しました。

 この薩水大勝により、朝鮮半島では、南北を問わず、乙支文徳は外敵の侵入から祖国を守った英雄として尊敬を集めることになりました。今回の軍事演習に“乙支”の語が入っているのも文徳将軍にちなんだものです。

 今回の演習に関して、北朝鮮は、例によって、「朝鮮半島と北東アジアの平和と安定を破壊し、核戦争の火を放つ重大な軍事挑発だ」と非難し、朝鮮人民軍総参謀部も「無慈悲な鉄槌を下す」と警告しているそうです。もっとも、乙支文徳の偽りの投降ならぬ、偽りの核廃棄の約束を繰り返したうえ、結局は核武装し、天安艦事件を引き起こしたのは北朝鮮の方ですからねぇ。客観的に見れば、鉄槌を下されるべきはどちらなのか、明々白々ですな。


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 コンゴ共和国独立50年
2010-08-15 Sun 23:43
 1960年8月15日にコンゴ共和国がフランスから独立して、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうは終戦記念日でもありますし、第二次大戦にも絡めて、こんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         仏領コンゴ・ドゴール絵葉書     仏領コンゴ・ドゴール絵葉書(裏面)

 これは、第二次大戦中の仏領コンゴで発行されたドゴール到着記念の絵葉書とその裏面です。葉書は官製のモノですが、印面はついていません。ただし、現在残されているものは、僕が確認した限り、ドゴールのブラザヴィル(仏領コンゴおよび現コンゴ共和国の首都)到着の日付である“1940年10月24日”の加刷がある仏領赤道アフリカの切手が貼られているケースがほとんどです。なお、葉書の印刷は、南アフリカ共和国のケープタウンで行われました。

 19世紀のアフリカ分割の過程で、ベルギーは探検家スタンレーをコンゴに派遣し、多数の基地を設けて現地勢力の長たちと様々な取り決めを結んでいました。これに対して、以前から沿岸部の権益拡大を進めていたポルトガルが反発し、1882年にはコンゴ川河口地域における主権を宣言。イギリスはポルトガルを支持しましたが、フランスはベルギーを支持する一方で、自ら探検家ピエール・ド・ブラザをアフリカ内陸部に派遣。ドイツもポルトガル支持を見送りました。このように、各国の思惑が錯綜する中で問題解決のためのベルリン会議が1884年11月15日から1885年2月26日まで開催され、コンゴ盆地はベルギー国家でなくベルギー王の私財となり、フランスが権益を築いたコンゴ盆地北西端は中央コンゴとしてフランス領とされました。

 1910年、フランスは、現在のガボン、コンゴ共和国、ウバンギ・シャリ(現・中央アフリカ)チャドをまとめて仏領赤道アフリカを形成しますが、その植民地政府はブラザヴィルに置かれました。

 第二次大戦中の1940年6月、フランスはドイツに降伏して占領され、親独ヴィシー政府とドゴールの自由フランスに分裂しますが、ブラザヴィルには1940年10月にドゴールが入城し(今回ご紹介の葉書は、この時の様子を撮影したものです)、仏領赤道アフリカは自由フランス軍の拠点となります。そして、1944年6月、ブラザヴィルでアフリカのフランス植民地と自由フランスとの間で会議が持たれ、アフリカのフランス植民地は戦争協力と引き換えに、戦後の自治権拡大を約束するブラザヴィル宣言が発せられたのを受け、戦後、仏領中央コンゴはフランス議会に議席を獲得。1958年には自治共和国を宣言し、1960年の完全独立となりました。

 アフリカのフランス植民地は、第二次大戦中、自由フランスの戦争に協力することによって、すなわち、自由フランスとともに血を流すことによって、政治的な発言権を獲得し、最終的に独立を獲得したわけです。戦前の大日本帝国も、1944年に朝鮮での徴兵制を実施し、その対価として終戦直前の1945年4月に朝鮮(同時に樺太・台湾にも)で男子住民に対する選挙権を与えたわけですが、残念ながら、選挙が行われる前に終戦となってしまいました。あの戦争が長引けばよかったとは思いませんが、仮に、日本の敗戦以前に朝鮮でも選挙が行われていれば、いずれ“朝鮮”(日本統治下の正式名称は朝鮮です)が独立したにせよ、その後の日本との関係も現在とはだいぶ違っていたでしょうね。
 

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 アーリントンと靖国
2010-08-14 Sat 23:21
 あす(15日)は 言わずと知れた終戦記念日です。というわけで、一日早いのですが、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         靖国神社75年

 これは、1944年6月に発行された靖国神社75年の記念切手で、靖国神社の本殿が描かれています。靖国神社の切手としては、ほかに、第2次昭和切手17銭・27銭の大鳥居や第3次昭和切手1円切手の第二鳥居がありますが、グラビア印刷は今回ご紹介したものだけです。

 さて、昨年9月に発足した民主党政権として、初めて終戦記念日を迎える菅直人首相と全閣僚は、「A級戦犯が合祀されており、首相や閣僚の公式参拝には問題がある」「閣僚として公式参拝を自粛するのが政府の考えだ」などとして、だれひとり靖国神社を参拝しないのだそうです。

 このうち、首相の菅に関しては、副総理兼財務相だった今年6月、アメリカのワシントン近郊のアーリントン国立墓地を訪れ、無名戦士の墓に献花したことは記憶に新しいところです。もちろん、他国を訪問した時に、その国の戦没者墓地や英雄記念碑を訪れて、黙祷や献花を捧げることは、その国に対する敬意を表し、友好親善を深めるために意味のあることだと思います。

 しかしながら、広島・長崎への原爆投下をはじめ、日本の大都市に対する無差別空襲を行い、多くの日本人市民を殺傷した旧敵国の兵士たちを追悼することはできても、わが国のために犠牲となった英霊の方々をきちんと追悼しないということが、日本国の首相という立場にある人間として理にかなった行動であるとは、とうてい思えません。戦没者者追悼式典に出るからいいじゃないかという言い訳もあるかもしれませんが、英霊の方々は、死後、靖国に祀られるということを前提に出征されたわけですから、その約束を勝手に変更するのであれば、英霊の方々に納得いただけるような説明がなければならないはずです。

 8月10日には、日韓併合100年に関して韓国に対する謝罪の談話を発表した菅ですが、まずは、英霊の方々に対して、自らが靖国神社に参拝しないことについての謝罪をすることが先なのではないでしょうか。

 そういえば、あすの終戦記念日を前に、ヨーロッパ8ヵ国・9政党の幹部らが靖国神社の本殿に上がって参拝したそうです。参拝後、「合祀されているA級戦犯にも敬意を表するのか?」との記者の質問に対して、フランス国民戦線のジャン=マリー・ル・ペンは「“戦犯”という言葉の意味を客観的に考えてください。(勝者であっても)村を破壊し数千万人の命を奪った者は自らも“戦犯”であることに気付くはずです」と語り、イギリス国民党のアダム・ウォーカーは「私は亡くなった方々に敬意を表しているだけです。彼らは国のために命を捧げた英雄です」と応えています。

 ル・ペンもウォーカーも“極右”として、日本ではネガティヴなイメージで語られることの多い人物ですし、僕も、彼らの主張を全面的に支持しているわけではありませんが、この問題に関する限り、彼らの言っていることは至極まっとうなものとしか思えません。


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 中央アフリカ独立50年
2010-08-13 Fri 17:52
 1960年8月13日に中央アフリカ共和国が独立してから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

         ウバンギシャリ加刷

 これは、1922年に発行されたウバンギシャリ加刷の切手です。

 現在の中央アフリカ共和国に相当する地域は、かつては、ウバンギシャリとして、チャドガボン、中央コンゴとともに、仏領赤道アフリカを構成していました。当初、ウバンギシャリとチャドはウバンギシャリ=チャドとして、一括してフランスの軍政下におかれていましたが、1915年に民政に移行し、1920年、チャドが分割されて、ウバンギシャリは単独の植民地となっています。

 ウバンギシャリの中心都市で、現在の中央アフリカ共和国の首都になっているばんぎにフランスの軍事郵便局が開設されたのは1893年のことで、その後、フランスはウバンギ川流域に沿って郵便網を拡大していきます。民間人用の郵便局が開設されたのは1907年のことで、当初は仏領中央コンゴの切手が無加刷で使用されていました。

 1915年には、中央コンゴの切手に“OUBANGUI-CHARI-TCHAD”(ウバンギシャリ=チャド)と加刷された切手が発行されましたが、1920年にウバンギシャリとチャドが分割されたことに伴い、1922年、今回ご紹介しているような“OUBANGUI-CHARI”(ウバンギシャリ)加刷の切手が発行されました。なお、1922年には、このウバンギシャリ加刷切手に、さらに“AFRIQUE EQUATORIALE FRANCAISE”(仏領赤道アフリカ)”と加刷された切手が発行されています。

 なお、中央アフリカ最大の有名人といえば、なんといっても、かつての“皇帝”ボカサですが、彼については、以前、このブログでもご紹介したことがあります。その記事はこちらですので、よろしかったら、こちらをご覧ください。


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 切手が語る宇宙開発史(9)
2010-08-12 Thu 15:22
 雑誌『ハッカージャパン』の2010年9月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

         人工衛星と反核

 これは、スプートニク3号打ち上げ直後の1958年7月1日にソ連が発行した切手で、3機の人工衛星を誇示するとともに、反核を訴える内容が描かれています。

 1958年5月15日にソ連がスプートニク3号の打ち上げに成功した時点で、アメリカが打ち上げていた人工衛星はエクスプローラー1号・2号の2回。このうち、エクスプローラー2号は結果的に軌道投入に失敗していますから、人工衛星打ち上げ成功の回数は、ソ連の3回に対してアメリカの1回とみなすこともできます。

 人工衛星を打ち上げるためのロケットは、そのまま、大陸間弾道ミサイル(ICBM)に転用することが可能です。そして、その弾頭に、人工衛星ではなく核兵器を搭載すれば、地球上のどこからでも敵国を攻撃することができます。それゆえ、宇宙開発においてソ連がアメリカに先んじているとすれば、西側諸国にとっては大いに脅威となります。

 もっとも、米ソの総合的な軍事力を比べれば、実際にはアメリカは圧倒的にソ連を凌駕していました。そして、アメリカ政府も、1956年7月以降、U-2型偵察機をもちいてソ連の偵察(もちろん、領空を侵犯してのことですが)を繰り返した結果、そうした実情を正確に把握していましたし、ヨーロッパ・中東・東アジアなどで東側陣営を包囲し、どこからでもソ連を核攻撃できる体制を整えていました。

 しかし、U-2型機による偵察は極秘裏に行われたため、ソ連の軍事的な実態は一般国民には知らされませんでした。このため、西側世界では、スプートニクの打ち上げ以降、戦略爆撃機や戦略ミサイルの数において、アメリカはソ連に劣っているという“ボンバー・ギャップ”や“ミサイル・ギャップ”の議論が説得力をもって語られていました。

 そこで、ソ連は、こうした“誤解”を活用して、ソ連に対する圧力と攻撃は深刻な反撃を招きかねないので、ソ連とは一定の妥協をはかり、平和共存を目指すべきだという国際世論を誘導しようとします。その真の目標は、米ソ両国の軍縮という形式をとって、アメリカにより多くの核兵器を削減させ、ソ連包囲網を緩和させようという点にありました。

 かくして、「ソ連の宇宙開発は純粋な科学技術研究で平和目的のものである」、「アメリカが膨大な核兵器を保有するがゆえに、ソ連は、自衛のため、やむを得ず最低限の核を保有しているのみである」といった論調が、西側諸国でも、ソ連に親和的な左派リベラル勢力を中心に盛んに唱えられるようになります。スプートニク3号打ち上げ直後の1958年7月1日にソ連が発行した切手は、まさに、こうした文脈に沿って発行されたもので、原子力の平和利用を象徴するものとして原子力船と3機の人工衛星を描きつつ、核兵器に×印をつけたデザインとなっています。

 かつてのわが国でも、いわゆる“進歩的知識人”を中心とした反核運動は、アメリカの核のみを問題視し、ソ連の核については口をつぐんできました。それがソ連による国際プロパガンダの影響を強く受けていたことは、その元ネタともいうべきこの切手を見れば一目瞭然といえましょう。

 まぁ、東西冷戦の終結から20年以上が経過した現在なお、中国や北朝鮮の核という現実的な脅威に目をつむったまま、アメリカの核の傘からの離脱を堂々と口にするような人物が被爆地・広島の市長に当選し、首相と官房長官は、国民世論の批判を無視して、いそいそと“植民地支配”に対するお詫びの談話を発表し、日本が合法的に入手した文化財の返還まで申し出るというありさまですからねぇ。この切手に見られるような左翼勢力のプロパガンダ工作は、少なくともわが国(の指導層)に対しては、十分に成功を収めたといえそうですな。


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 チャド独立50年
2010-08-11 Wed 14:26
 アフリカ中央部のチャドが1960年8月11日に独立してから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         チャド航空加刷

 これは、1960年12月にチャドが発行したローマ五輪の記念切手で、仏領赤道アフリカ時代の航空切手に、新国名と新額面、記念銘を加刷したものです。

 さて、アフリカ内陸部、チャド湖とその周辺は、ながらくカネム・ボルヌ帝国の支配下に置かれていましたが、19世紀に入ると、列強諸国の進出にさらされることになります。すなわち、1822年、イギリス人のディクスン・デンハムとヒュー・クラッパートンが1822年にチャドに到達。ついで、トリポリから南下したドイツ人のハインリッヒ・バルトが1853年に周囲を含めて探査、1870年と1871年にはやはりトリポリからドイツ人のギュスタフ・ナハティガルがチャドを調べています。その後、1884年から1885年にかけてのベルリン会議では、フランスがリビア以西のアフリカの大半を勢力圏内とすることが決められましたが、ドイツもチャド湖南岸からカメルーンにいたるエリア(現在のチャドの一部)を植民地としています。

 一方、カネム・ボルヌ帝国は1883年から1890年にかけて、スーダンから進入したラビー・ズバイルの攻撃を受け、苦戦していました。この状況を見たフランスは、1891年、カネム・ボルヌ王国の保護を口実にチャドに侵入。1900年、ラビー・ズバイル軍を破ると、周辺諸民族の制圧を進め、1910年、チャドのフランス領併合を断行します。そして、1913年頃までにはチャド全域の支配を確立し、1920年、チャドの地域は正式に仏領赤道アフリカへ編入され、ブラザヴィル(現在のコンゴ共和国の首都)に置かれた総督の支配下に置かれました。

 チャドとしての最初の切手は、1922年に仏領中央コンゴ切手に“TCHAD”と加刷して発行されています。この時点では、チャド、ガボン、中央コンゴ、ウバンギシャリの仏領赤道アフリカの4連邦はそれぞれ別の切手を発行していましたが、1934年以降は連邦共通の切手が使われるようになり、チャド単独の切手は発行されていません。

 第2次大戦中、シャルル・ド・ゴールの呼びかけに応じ自由フランス政府を支持したことから、1957年、チャドは自治が認められ、1958年、自治共和国が発足。1960年8月11日、完全独立を果たしました。

 今回ご紹介の切手は12月の発行ですが、発行の名目となっているローマ五輪の会期は8月25日から9月11日でしたから、会期終了後、かなり後れての切手発行ということになります。ちなみに、チャドの五輪参加は、ローマ五輪の次、1964年の東京五輪からになりますので、フツーなら、無理に切手を発行しなくてもよかったのでは…と思ってしまいます。まぁ、海外の五輪(切手)コレクターの懐を狙って、急遽、発行を決めたということなのでしょう。

 なお、8月27日に刊行予定の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』(メディアファクトリー新書007)では、いわゆる切手で外貨を稼ぐというシステムについても、その歴史的な展開を概観する1章も設けています。今回ご紹介のチャドについての直接的な記述はないのですが、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 道の日
2010-08-10 Tue 11:57
 きょう(10日)は、いまから90年前の1920年8月10日に日本で最初の近代的道路整備計画となる「第一次道路改良計画」がスタートしたことにちなみ、“道の日”なのだそうです。というわけで、道路を題材とした切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      新馬路
 
 これは、2000年に中国澳門で発行された文物保護シリーズの“新馬路”の切手です。

 新馬路は、民政総署とセナド広場の前を通るマカオの目抜き通りです。

 もともと、セナド広場の前からは北西方向に向かって、營地大街との交差点まで大鵬巷とよばれる細い道が通っていましたが、1918年、これを拡張・延伸し、南灣大馬路と内港を結ぶ620メートルの道として、現在の新馬路が作られました。当時は南灣大馬路がマカオ半島東の海岸線でしたから、新馬路は東西両岸を結ぶ幹線道路だったことになります。

 その後、南灣は埋め立てが進められ、南灣大馬路の東側に伸びた新馬路の延長線は“殷皇子大馬路”と名付けられ、現在では有名ブランドが軒を連ねています。新馬路が殷皇子大馬路と名前を変える地点から、内港の方を見ると、こんな感じになります。

      新馬路全景

 切手にも取り上げられているように、新馬路の両側には20世紀前半のデコラティヴな建物が数多く残されています。その一端は、上の画像で右側手前に映っている大西洋銀行のビルからもお分かりいただけるのではないかと思います。ただし、道の両脇の歩道部分はアーケード形式になっていて、建物の軒下を歩く格好になるので、案外、せっかくの建物に気がつかない人も多いようです。

 さて、今秋、彩流社の切手紀行シリーズ第3巻として刊行予定の『マカオ歴史漫郵記』(仮題)では、新馬路周辺のコロニアルな雰囲気あふれる建物についてもご紹介する予定です。正式なタイトルや刊行日など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。
 

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 4年ぶりの演説
2010-08-09 Mon 09:52
 きのう(現地時間7日)、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が、2006年7月に病気療養で第一線を退いてから約4年ぶりに、人民権力全国議会(国会)の臨時会で演説しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      演説するカストロ

 これは、2009年にキューバが発行した外務省50年の切手で、国連総会で演説するフィデル・カストロが描かれています。

 あらためていうまでもなく、キューバは共産党の一党独裁国家ですが、他の独裁国家で見られるような強制的な個人崇拝が見られない点が最大の特色とされています。

 実際、キューバではバティスタ政権時代への反省から、存命中の人物のモニュメントを公式の場に飾ることを禁じる法律も存在しています。また、カストロ本人も、自身の肖像がTシャツにプリントされたり、絵画に取り上げられたりするのを極点に嫌っており、現役時代のフィデルの肖像が切手に取り上げられたケースは皆無ではないものの、毛沢東やホーチミン、金日成・正日父子、サダム・フサインなど、他の独裁者とくらべると、驚くほど少ないのは事実です。

 しかし、抽象的なイデオロギーを人々に浸透させるためには、やはり、目に見える偶像が必要なわけで、キューバにおいては、長年にわたり、カストロに代わってゲバラがその役割を担ってきました。

 ところが、最近はいささか事情が変わりつつあり、カストロの神格化が徐々に進行しつつあると指摘されています。

 すなわち、2000年代以降、さすがのカストロも年齢からくる体力の衰えは隠せなくなり、演説時に倒れこむ場面も見られるようになりました。このため、後継者問題が急速に現実のものとして浮上するようになりましたが、半世紀にわたってカストロが築き上げてきた国内の権威を簡単に継承できる人物は存在しません。そこで、カストロの負担が軽減され、彼の権限が少しずつ委譲されるようになると、キューバの国家体制は、カストロ本人の意思とは無関係に、カストロを神格化し、行政実務の現場は神官の立場として神の意志を実行するという建前の下でまわしていかざるを得なくなったのもやむを得ないところでしょう。

 じっさい、カストロが腸の病で外科手術を受けたのは2006年のことでしたが、その前年の2005年には彼の肖像切手が2種類発行されており、以後、今回ご紹介のモノも含め、彼の肖像切手が相次いで発行されるようになっています。また、革命50年にあたる2009年にはカストロの生家とその一帯が歴史博物館として国の文化財に指定されました。

 かつて、「歴史は私に無罪を宣告するであろう」と高らかに宣言したカストロですが、みずからが急速に歴史上の人物として祭り上げられていく中で、半世紀に及ぶ革命の“成果”(ちなみに、現在のキューバが社会主義政策の失敗により、経済的にきわめて困窮していることは万人の認めるところです)をどのように総括するつもりなのでしょうか。
 
 さて、8月27日付で、メディアファクトリー新書の1冊として『事情のある国の切手ほど面白い』を刊行いたします。タイトル通り、さまざまな事情を抱えた国の歴史と現状を切手を通じて読み解いていくという内容で、今回ご紹介のキューバについても、ゲバラとカストロの切手を取り上げながら、いろいろと考えてみました。現物ができあがりましたら、また、このブログでもご案内いたしますので、よろしくお願いいたします。


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 2001年のシリーズ第1巻『濫造濫発の時代』から9年。<解説・戦後記念切手>の最終巻となる第7巻は、1985年の「放送大学開学」から1988年の「世界人権宣言40周年」まで、NTT発足や国鉄の分割民営化、青函トンネルならびに瀬戸大橋の開通など、昭和末期の重大な出来事にまつわる記念切手を含め、昭和最後の4年間の全記念・特殊切手を詳細に解説。さらに、巻末には、シリーズ全7巻で掲載の全記念特殊切手の発行データも採録。

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 日豪戦争①
2010-08-08 Sun 11:34
 ご報告が遅くなりましたが、7月25日配信の本のメルマガ400号から「日豪戦争」と題する連載を始めました。さすがに電子媒体で発表した記事を最新号のうちに転載するわけにはいかないのですが、6日に401号が配信され、晴れて(?)僕の記事はバックナンバーになりましたので、きょうは、その記事を転載します。

*****

 間もなく8月15日がやってくる。

 毎年、この時期になると、新聞等で日本が米国と戦争をしたことを知らない若者が少なからずいるとの調査結果が発表され、識者と称するタレントが歴史の風化や若者の無知を嘆いてみせるというのがお約束となっている。

 しかし、こうした光景を見るたびに、僕にはあるひとつの疑問がわきあがってくる。なぜ、米国だけではなく、“英国”とも戦ったのだと一言付け加える者が少ないのか、と。

 昭和天皇の開戦の詔勅には、「朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戦ヲ宣ス」としっかり書かれている。また、当時の帝国臣民の生活の中には、“鬼畜米英”というスローガンが氾濫していた。さらに、“大東亜戦争”の大義が、欧米列強の植民地支配からアジアを解放するためことにあったのなら、大日本帝国の主敵は、フィリピンしかアジアに植民地を持たなかった米国ではなく、アジアの広範な地域を植民地支配下に置いていた英国というのが戦争の大義に沿った理解であろう。

 ところで、一口に“英国”といっても、日本が戦ったのは英本国=イギリスに限定されているわけではない。かつて日の沈まぬ帝国と呼ばれた大英帝国は、第一次大戦後の国力の衰退に伴い、海外自治領の発言力をある程度認めざるを得なくなった。このため、1931年のウェストミンスター憲章により、海外自治領には外交権が与えられ、英本国と海外自治領は、英国王を共通の国家元首とした主権国家の平等な共同体、すなわち英連邦を構成することになった。

 この結果、自治領の議会は英本国の議会の支配を受けず、英本国は自治領に対して法律を押しつけることができなくなり、自治領は事実上の独立国となったが、国家元首はあくまでも英国王であり、その意味では旧大英帝国の枠組みも辛うじて残されたといってよい。

 1939年9月にナチス・ドイツとの戦争が勃発したことで、英連邦に加盟するカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦の各主権国家はドイツと戦うことになった。また、英連邦加盟の主権国家以外にも、英領インドや直轄植民地も“英国の戦争”に否応なしに動員されている。

 たとえば、直轄植民地だった香港では、日中戦争下の中国との国境沿いに構築されていた醉酒灣防線のほかに、香港島南岸には鉄条網が準備され、灯火管制の演習も繰り返されたほか、白人男性の徴兵も始まった。1941年初頭の段階では、香港に駐留していた“イギリス軍”は本国から派遣された歩兵二個大隊とインド軍二個大隊が中心で、日英開戦直前の11月に香港に到着した増援部隊はカナダ軍であった。

 この一事をもってしても、日本が戦った鬼畜米英の“英”の部分が、決して、イギリスを指すのではなく、英連邦のさまざまな地域から成り立っていたことがわかる。

 このように、さまざまな要素をはらんだ“英国”のなかでも、日本との戦争の実質的な主役となったのがオーストラリア軍であった。そのひとつの証拠として、1枚の切手を紹介しておこう。

      BCOF 2シリング

 これは、オーストラリア地図の輪郭の中に、カンガルーが描かれたデザインの2シリング切手の上に“B.C.O.F. JAPAN 1946”の文字が加刷(すでにある切手の上に文字などを後から印刷すること)されたものだ。

 加刷に用いられた切手は、1946年1月3日にオーストラリアで発行されたものだが、このデザインそのものは1913年に発行されたオーストラリア連邦最初の切手(それ以前のオーストラリアには連邦共通の切手はなく、州ごとに異なる切手が発行されていた)と同じで、デザイナーはB.ヤングである。

 加刷されている文字の“B.C.O.F.”は“British Commonwealth Occupation Forces”、すなわち、“英連邦占領軍”の意味である。中学・高校の歴史教科書では「敗戦後の日本は連合国の占領下に置かれたが、実質的には米軍の単独占領だった」と説明されている。もちろん、この記述は間違いではない。

 ただし、“実質的に”という表現が入っているのは、割合は少ないながらも、米軍以外の占領軍が進駐していたことを意味している。そして、米軍以外の占領軍のうち、一番規模が大きかったのが英連邦軍であり、その主力はオーストラリア軍だったのである。

 日本に進駐してきた英連邦軍が、オーストラリアの切手に“B.C.O.F. JAPAN 1946”の文字を加刷した切手を発行・使用したのも、英連邦対日占領軍におけるオーストラリア軍のプレゼンスが圧倒的に大きかったからにほかならないそして、多くのオーストラリア軍将兵が勝者として日本に上陸してきたのは、彼らが、対日戦争で払った多大なる犠牲の対価によるものである。

 このため、現在でもオーストラリア国内では、“対日戦争”は国家にとって多大なる苦難の時代として語り継がれている。その中には、日本人としてとうてい看過できないような事実の捏造も少なくないし、その結果として、かの国では反日感情が伏流しつつ再生産され続けているという現実は見逃してはならない。

 ひるがえって、そもそも、“日英戦争”があったことさえ、もはや曖昧になっている日本では、オーストラリアが日英戦争の“英”の主要な構成要素であったことなど、ほとんど忘れられているのが実情である。

 そこで、この連載では、日本が戦った先の戦争を、オーストラリアを軸に見直してみようと思う。その際、ひとつの切り口として、当時の切手や郵便物を狂言回しとして使ってみたい。

 ある地域で切手を発行し、郵便サービスを提供するということは、その地域が切手発行国の政治的ないしは経済的な影響下におかれていることの証となる。このため、戦争や革命などの混乱期には、その地域の実効支配者は通貨に次いで切手を発行するのが常であるし、それが不可能な場合には、スタンプだけでも用いて郵便事業を行うものである。郵便事業を民営化する国が少なくない現在ではなかなか見えづらくなっているが、郵便活動というのは、本来的には主権行使の具体的な一例だったのだ。

 改めていうまでもなく、オーストラリアと英本国で使われている切手は全く別のものだ。英連邦の一員であるとはいえ、オーストラリアが英本国とは別の主権国家である以上、当然のことである。

 したがって、第二次世界大戦中にオーストラリア軍の展開していた地域から、オーストラリアの切手を貼って、オーストラリアの郵便システムを用いて運ばれた郵便物を眺めていけば、英本国ではなく、オーストラリアにとっての戦争を具体的にイメージしやすくなるのではないかと考えたのだ。

 近年、環境保護を騙る犯罪者集団“シーシェパード”がオーストラリアを根拠地の一つとし、日本の調査捕鯨に対して卑劣なテロ攻撃を繰り返しているが、これに対してオーストラリアの政府高官がテロリストではなくわが国を非難するという、信じがたい事態が起こっている。

 その背景には、オーストラリア社会に抜きがたく浸透した反日感情があることは間違いない。そして、国家としての“対日戦争”の体験が、そのひとつの源泉になっていることはだれにも否定できないであろう。

 中国や韓国の反日感情は、彼らの主張が妥当なものであるかどうかは別として、僕たちにもわかりやすい。これに対して、日本人の新婚旅行先としても人気の高い“コアラとカンガルーの国”と反日のイメージはなかなか結び付かない。それだけに、彼らのバックグラウンドとしての“日豪戦争”(彼らの視点からいえば“豪日戦争”というべきか)の痕跡をたどってみることは、それなりに意味のあることだと思う。

 同時に、郵便学者という看板を掲げている僕としては、切手や郵便物というフィルターを通じて、新事実の発見や歴史的事実の新解釈という点でのオリジナリティはともかく、いささかなりとも従来とは異なった視点からの歴史絵巻を展開することで、読者のみなさんに楽しんでいただけるのであれば、これに勝る喜びはない。

 次回以降、よろしくお付き合いいただければ幸いである。

*****(転載終わり)

 お読みいただければお分かりのように、今回は連載の初回ですので「まえがき」として企画の趣旨を説明する内容となっていますが、次回(8月25日配信予定)以降は具体的なマテリアルを御紹介しながら話を進めていきたいと思っています。なお、本のメルマガは毎月5日・15日・25日の3回配信ですが、僕の連載「日豪戦争」は毎月25日配信の予定です。メルマガへの登録は無料ですので、よろしかったら、ご登録の上、お読みいただけると幸いです。


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 コート・ディヴォワール独立50年
2010-08-07 Sat 19:30
 西アフリカのコート・ディヴォワールが1960年8月7日に独立してから、ちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      コート・ディヴォワール

 これは、1892年に発行されたコート・ディヴォワール最初の切手のうちの5サンチームで、航海と商業の神を図案化した“サージュ”タイプの共通図案の雛型に、国名表記のみを“コート・ディヴォワール”としたスタイルになっています。

 コート・ディヴォワールは西アフリカのギニア湾に面した国で、東にガーナ、北にブルキナファソ、マリ、西にギニア、リベリアと国境を接しています。

 もともと、この地域は、15世紀にポルトガル、イギリス、オランダなど西欧の貿易船が奴隷と象牙の売買に来航し、以来、象牙海岸と呼ばれていました。1960年の独立に際しては、フランス語の“コート・ディヴォワール(Côte d'Ivoire)”が国号とされましたが、その後も多くの国は“象牙海岸”を自国語に訳してしまい、日本語・中国語の“象牙海岸”、英語の“Ivory Coast”、ドイツ語の“Elfenbeinküste”、スペイン語の“Costa de Marfil”、イタリア語の“Costa d'Avorio”等の表記が各国で用いられていました。このため、コート・ディヴォワール政府は、各国に対して翻訳国名ではなくフランス語国名の使用を要請。現在では、日本の公文書でも“象牙海岸”ではなく、“コートジボワール”と表示されるようになりました。

 さて、この地域におけるフランスの進出は17世紀から本格的に始まり、今回ご紹介の切手が発行された翌年の1893年にはフランスが植民地化します。ただし、現地住民の抵抗も強く、現在のコート・ディヴォワール国家に相当する領域全域をフランスが制圧したのは1917年のことでした。

 1958年12月、フランス共同体内の自治共和国となり、1960年8月7日に正式に独立。初代大統領にはコートジボワール民主党(PDCI)のフェリックス・ウフェ=ボワニが就任しました。ボワニ政権は、独立後も親仏政権を採用し、いわゆる開発独裁の手法により、1960年代から1970年代にかけて年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成。アフリカの新興独立国の多くが経済的に低迷を続ける中で、彼の国家運営は“イヴォワールの奇跡”と称賛されました。

 しかし、PDCIの一党独裁に対する国民の不満も高まり、1990年10月には初めて複数候補による大統領選が行われます。このときの選挙ではボワニが圧勝して7選したものの、翌11月の総選挙では、イボワール人民戦線(FPI)など野党もわずかながら初めて議席を獲得しています。

 1993年、ボワニは現職大統領のまま亡くなり、憲法の規定に則って、国民議会議長でPDCI党員のコナン・ベディエが第2代大統領に就任しますが、以後、政局は次第に不安定化。1999年12月には軍によるクーデターが発生。2002年9月には政府軍と反政府勢力との対立から、反政府勢力が国土の北部・西部を支配下に置き、事実上国を二分する内戦状態となりました。その後、2007年3月、紛争当事者であるバグボ大統領と反政府勢力ソロ“新勢力”事務局長との間で和平プロセスを進めるための合意(ワガドゥグ合意)が成立し、とりあえず、国を二分する状況は解消されましたが、現在なお、和平ならびに選挙プロセスは進展せず、中断されたままになっている大統領選挙を2010年中に行うよう調整が進められていますが、先行きは不透明なままです。

 過去の植民地支配に対する怨念にとらわれず、西側寄りの穏健かつ現実的な外交政策をとってきたことで“イヴォワールの奇跡”と称される経済成長を実現したボワニの物語は、一党独裁体制下での長期政権ということともあわせて、“漢江の奇跡”を実現した韓国の朴正熙時代をなんとなく連想させます。いずれにせよ、外国人による植民地支配の経験がその国の人々にとって不愉快なものであることは事実ですが、そのこととは別に、植民地支配によってもたらされた“恩恵”の部分を冷静に受け止め、現実的な国益という観点から、旧宗主国に対しても穏健な外交政策を展開できるか否かが、新興独立国の国家建設が成功するかの分かれ道となっているといえそうです。その意味でも、漢江とイヴォワールのふたつの“奇跡”の物語を比較してみると、いろいろと興味深いことが浮かび上がってくるかもしれません。


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 ロシアの小麦
2010-08-06 Fri 16:07
 昨日(5日)、ロシアのプーチン首相は、記録的な猛暑と少雨による旱魃被害が拡大していることをうけ、穀物および穀物から作られる関連製品の輸出を今月15日から12月末まで禁止する法案に署名しました。というわけで、きょうは“ロシアと小麦”に絡んでこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ロシア・飢餓救済(小麦)

 これは、1922年、内戦期(革命後、ソビエト社会主義共和国連邦成立までの時期)のロシアで発行された飢餓救済の寄付金つき切手で、希望の星の下、小麦の穂を背景にした労働者と農民の握手が描かれています。

 1917年11月、ロシアで社会主義革命が勃発し、ソヴィエト労農臨時政府(ボリシェヴィキ政権)が誕生します。そもそも、私有財産制度と階級秩序を否定し、無神論を掲げる社会主義・共産主義とその信奉者は多くの国々で既存の体制と衝突していましたが、ロシア国内でもボリシェヴィキ政権に抵抗する白軍がシベリア各地で蜂起し、ロシアは内戦状態に陥りました。

 一方、ボリシェヴィキ政権が、1917年12月、帝政時代の債務を一方的に破棄し、外交上の密約を曝露したうえ、翌1918年3月、無併合・無賠償の原則を掲げてドイツと単独講和を結んだことで、列強諸国は激怒。ボルシェヴィキ政権に対する敵意をあらわにし、白軍を支援する干渉出兵を行うとともに、同政権に対する経済封鎖を発動しました。

 こうした状況の下で、ボリシェヴィキ政権は、戦時共産主義と称して、あらゆる企業を国営化するとともに、農民から“余剰”農産物を強制的に徴発。私企業を禁止して、国民に対しては食糧・日用品を配給し、反対者は容赦なく処罰します。しかし、強引な社会主義化政策は既存の社会を疲弊させ、貨幣は事実上無価値となり、飢餓が蔓延して経済は停止状態に陥ってしまいました。このため、1921年3月21日には、穀物の強制徴発を廃し、中小企業の民営化を認めるなど、市場原理を部分的に許容する新経済政策(ネップ)が導入されることになりました。

 ネップの実施による経済再建政策の一環として、ボリシェヴィキ政権は、飢餓救済などの名目でさかんに寄付金つき切手を発行しました。今回ご紹介の切手もその1枚です。

 さて、現在、ロシアでは猛暑のため、南部や中部の穀倉地帯を中心に穀物の作付面積の2割以上が旱魃被害を受けており、ロシア政府はすでに非常事態宣言を発しています。今月3日には、ロシア農業省が収穫見通しを、昨年度比26%減の7000-7500万トンへと下方修正しましたが、ロシア国内の穀物の年間消費量は約7500万トンとされていますから、輸出を維持した場合、国内分が不足し、小麦製品価格や穀物飼料の値上げに伴う食肉価格の上昇などのインフレを招くことは必至です。それゆえ、今回の輸出禁止措置は、彼らの立場からすればやむを得ないでしょうな。

 全世界の小麦生産の1割を占めるロシアの小麦が国際市場に出回らなくなれば、当然のことながら、小麦の価格は上昇することになります。したがって、小麦の大半を輸入に頼っているわが国の場合、ロシアからの小麦の輸入がないからと言って、全くの無傷でいられるとは思えません。もちろん、かつての石油危機の時のように、必要以上にパニックになることはないと思いますが、農水大臣が「小麦の総生産に占めるロシアの割合は(世界全体の)1割ぐらい。価格にはそう影響ないんじゃないか。この世界的な天候不順だから、いつ、何時、どのようなことがあってもおかしくない状況」と発言しているのは、どうも呑気すぎるような気がします。まぁ、こういう緊張感のなさが、先日の口蹄疫問題を深刻化させる結果を招いたわけですがね。
 

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 ブルキナファソ独立50年
2010-08-05 Thu 14:30
 西アフリカのブルキナ・ファソが1960年8月5日にオート・ヴォルタとして独立してから、きょうでちょうど50年になりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      オートボルタ独立

 これは、1960年8月5日の独立にあわせてオート・ヴォルタ(当時)が発行した記念切手で、国旗と同国の農村風景、同国の男女が描かれています。

 ブルキナファソは西アフリカの内陸国で、北にマリ、東にニジェール、南東にベナン、トーゴ、南にガーナ、南西にコートジボワールと国境を接しています。

 首都のワガドゥグーとその周辺には11世紀に成立した王国が19世紀末まで存続していましたが、1896年、当時のモシ王国がフランスの保護領となり、1898年には現在のブルキナファソに相当する領域全体がフランス保護下に入りました。

 1904年に、フランスは西アフリカの仏領地域をフランス領西アフリカとしましたが、1919年、ヴォルタ川上流域(これがオート・ヴォルタの語源です)をオート・ヴォルタとして“オート・セネガルならびにニジェール”の南部から切り離して別個の植民地を創設。これに伴い、1920年には“オート・セネガルならびにニジェール”に“HAUTE VOLTA”と加刷した切手も発行されました。

 しかし、1933年には、オート・ヴォルタの地域は、仏領スーダン(現マリ)、コート・ディヴォワール、ニジェールの各植民地に分割・統合され、オート・ヴォルタ切手の発行も停止されます。

 その後、オート・ヴォルタという枠組みは、第二次世界大戦後の1958年にフランス共和国の自治共和国として復活し、1960年8月5日に独立しました。

 現在のブルキナ・ファソ(現地語で“清廉潔白な人の国”の意)に国名が変更されたのは1984年のことで、前年の1983年のクーデターで権力を掌握し、社会主義路線を推進したトーマス・サンカラ政権によるものです。なお、サンカラは、清廉潔白な人物であったかどうかはともかくとして、一種のカリスマ性をもっていたことには間違いなく、また、1987年には若くして暗殺されていることから、“アフリカのゲバラ”との異名を持つ人物だとか。僕自身、不勉強で彼のことはよく知らないのですが、今後、調べてみるといろいろと面白い物語が出てくるかもしれません。

 さて、8月1日の記事でも少し書きましたが、今年は1960年の“アフリカの年”50年なので、この年に独立した国については、今年中に少なくとも1回はこのブログで取り上げようと思っています。ただし、どういうわけか、8月に独立宣言を発した国が多いので、今月はこのブログがアフリカ国めぐり特集のような雰囲気になってしまいそうですが、あしからず、お付き合いいただけると幸いです。


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 橋の日
2010-08-04 Wed 13:53
 きょうは8・4の語呂合わせで“橋の日”だそうです。というわけで、今秋刊行を目指して現在制作中の切手紀行シリーズ③『マカオ歴史漫郵記』(仮題)のなかから、こんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      澳氹大橋MC     澳氹大橋(実物)

 左は、1981年6月10日に発行された“ルイス・カモンエス逝去400年”の記念切手を嘉楽庇総督大橋の絵葉書に貼り、1982年12月7日の消印を押したものです。切手の発行日と消印の日付は全く関係ないのですが、切手の背景に澳氹大橋が描かれているので、マキシマム・カードのつもりで作ったものなのでしょう。ちなみに、右の画像は、2009年5月にペンニャの丘から眺めた嘉楽庇総督大橋とマカオ・タワーの風景です。どちらの場合も、背景に見えるのは中国の珠海市です。
 
 マカオ半島とタイパ島を結ぶ橋は、現在、嘉楽庇総督大橋、澳門友誼大橋、西湾大橋の3本がありますが、このうち、もっとも古いのが嘉楽庇総督大橋です、このため、一般には単に澳氹大橋と呼ばれることも多く、他の2本と区別する必要があるときは、舊(旧)澳氹大橋ないしは舊大橋と呼ばれることもあります。

 嘉楽庇総督大橋は、その名の通り、ポルトガルのマカオ総督だったノブレ・デ・カルバリョの在任中の1970年に着工され、彼の退任(1974年11月)直前の1974年10月に完成しました。総距離は2569.8メートル、幅は9.2メートルです。当初は有料道路でしたが、後に無料となりました。ちなみに、マカオ半島とタイパ島を結ぶ第2の橋として友誼大橋が完成したのが1994年のことです。

 完成から30年以上が過ぎた2005年4月8日から、半年間、橋を閉鎖しての大規模な修復工事が行われ、橋の中央部両側に補強のための支柱がつけられました。左右の画像を見比べると、その違いがお分かりいただけると思います。なお、右側の写真にそびえたっているマカオタワーがオープンしたのは2001年12月のことです。

 今秋、彩流社の切手紀行シリーズ第3巻として刊行予定の『マカオ歴史漫郵記』(仮題)では、マカオ半島の世界遺産のみならず、今回ご紹介の嘉楽庇総督大橋を渡って、タイパ・コロアネを歩いた時のことについても別に1章を設ける予定です。正式なタイトルや刊行日など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内していきますので、よろしくお願いいたします。


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 ニジェール独立50年
2010-08-03 Tue 13:05
 アフリカ西部・サハラ砂漠南縁の国、ニジェールが1960年8月3日に独立してから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ニジェール独立加刷

 これは、独立直後のニジェールが発行した切手で、自治共和国時代に発行された100フランの切手に、“独立”を意味するフランス語と独立の年月日、それに200フランの新額面が加刷されています。

 ニジェールの国名の由来となったニジェール川は、もともと、この地域の遊牧民トゥアレグ族の言葉で“川”を意味する“ニエジーレン”ないしは“エジーレン”と呼ばれていました。しかし、この地を征服したフランス人は、これをラテン語の“黒”を意味するニジェールと誤解し、これが川の名前として命名されたといわれています。なお、ニジェールの南側に隣接するナイジェリアの地域は英領であったため、“ニジェール”の語を英語読みにした呼び方になりました。

 さて、建国時のニジェールは台湾と国交関係を築いており、共産中国とは国交がありませんでした。しかし、1974年4月に陸軍のセイニ・クンチェ参謀長がクーデターで軍事政権「最高軍事評議会」を樹立すると、台湾と断交し、中国と国交を樹立します。

 1987年11月、クンチェは亡くなり、彼の後を継いだサイブ政権は民政移管を宣言し、1989年12月、新憲法下でサイブが初の共和国大統領に選出されました。その後、1991年11月に改めて、国民投票・議会選挙・大統領選挙が実施され、軍事政権時代の野党連合である「変革勢力同盟」が勝利をおさめ、ウスマン党首が大統領に選出されます。ウスマン政権は、前政権の政策をことごとく否定しましたが、その一環として、1992年6月、台湾と国交を回復。これに激怒した中国は、翌7月、ただちにニジェールと断交しました。

 その後、1996年1月、マイナサラ参謀長による軍事クーデターが発生し、2月の民政移管宣言を経て7月の大統領選挙でマイナサラが新大統領に選出されます。マイナサラは、再び台湾と断交し、中国との国交を回復。以後、中国はニジェールの石油とウランに目をつけ、積極的なニジェール支援を展開しました。

 マイナサラは、1999年4月、軍事クーデターによって殺害され、同年11月の大統領選挙で「発展社会国民運動」のママドゥ・タンジャが当選。タンジャは中国からの支援を背景に、国内の政治基盤をかため、10年間にも及ぶ長期政権を運営していましたが、2009年に憲法を改正し、自身任期延長と大統領の三選禁止規定の廃止を強行したことから、これに反発する軍事クーデターが2010年2月に発生。タンジャは拘束され、「民主主義復興最高評議会」議長のサル・ジボが“暫定国家元首”に就任しています。

 これまでの歴史からすると、親中派大統領を追放して誕生した新政権は、台湾との国交を回復してもよさそうなものですが、現状ではそうした動きは見られません。このため、ニジェール駐在の中国大使は、政権交代後も、引き続き、ニジェールの資源開発とインフラ整備に数10億ドル規模の資金を投じることを表明しています。

 ただし、ニジェールは海をもたない内陸国であるため、資源採掘から輸送に至るまでの交通インフラの整備には周辺国、なかでも、ニジェールからの石油パイプラインの通過地点として想定されている隣国ベナンとの友好関係が必須条件となります。それゆえ、中国としては、ニジェールの資源を確保するためにも、ベナンに対してニジェールとの友好関係を維持させるべく、いっそうの札束攻勢を展開していくということになりそうです。

 そういうことであれば、わが国も、中国がベナンなりニジェールなりに支援しているのと同額を対中支援から削減し、その分、両国への直接支援を上積みしたほうが良いように思えてならないんですがねぇ。
 

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 クウェート侵攻から20年
2010-08-02 Mon 14:03
 湾岸戦争の原因となったイラク軍のクウェート侵攻が1990年8月2日に起きてから、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはこんな切手をもってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      クウェート6

 これは、1992年8月2日、クウェートが発行した“クウェート侵攻2周年”の切手で、クウェート侵攻時ならびに湾岸戦争時のようすを描いた児童画が取り上げられています。

 さて、イラクのサダム・フセイン政権がクウェートに侵攻した理由は概ね、以下のようにまとめることができます。

 まず、現在のイラク国家の国境線は1932年にイラクが独立国としてスタートした際に定められましたが、これは第一次大戦の戦勝国であるイギリスの意図に沿って定められたものでした。すなわち、現代イラクは旧オスマン帝国のバスラ州・バグダード州・モスル州を継承するものとされていましたが、クウェートの領域はもともとはバスラ州の一部でした。ところが、1899年、イギリスがオスマン帝国の頭越しにクウェートを保護国化したことから、イラク国家の成立に際しては旧バスラ州からクウェートを除いた部分がイラク領とされました。「歴史的に見てクウェートはイラクの一部である」というイラク側の主張は、こうした過去の史実に基づいており、1957年のイラクの共和革命に際して革命政権がクウェートに侵攻する可能性が危惧されたのもそのためです。

 こうした大義名分論に加えて、イラクには、対イラン戦争(イラクは、この戦争により湾岸諸国を革命イランの脅威から守ったと自負しています)によって疲弊した国内経済の再建に対して、クウェートが非協力的で阻害要因となっているとの認識がありました。

 すなわち、対イラン戦争の終結後も引き続き湾岸諸国からの資金援助を希望するイラクに対して、湾岸諸国の反応は極めて冷淡で、特に、クウェートの場合、対イラン戦争中に同国から借り入れた資金(金額的には諸説ありますが、300-600億ドルといわれています)の全額返済免除や新規融資など、イラク側の要求をことごとく一蹴し、両国関係は急激に冷却化していました。

 さらに、イラクは戦後復興のための資金源として石油輸出の拡大をめざしていましたが、当時、世界の原油価格は低迷を続けていました。すなわち、原油価格は、イラン・イラク戦争のはじまった1980年に1バレルあたり35ドル台でしたが、同戦争の終結時には1バレルあたり10ドル台に低迷、さらに、イラク軍のクウェート侵攻直前の1990年4-5月には1バレルあたり6ドル前後にまで急落していました。原油価格が1バレルあたり1ドル上下するだけで、年収が10億ドル上下するといわれるイラクにとって、原油価格の急落はまさに死活問題でした。このため、イラクは原油価格維持のために産油国による生産調整を主張しましたが、クウェートとアラブ首長国連邦はOPEC(石油輸出国機構)の定めた国別生産割当量を無視して増産を続けていました。

 そのうえ、そのクウェートは、かねてからイラクが領有権を主張しているルマイラ油田からも石油を採掘していました。クウェートがイラクの石油を盗掘しているとの主張はこのためです。

 こうして、イラクとクウェートの関係が極端に悪化する中で、1990年7月31日、サウジアラビアが両国代表をジェッダに招き、話し合いによる解決を求めましたが、交渉は決裂。さらに、イラクが駐在アメリカ大使に対して武力行使を含む問題の当事者間解決を示唆したところ、アメリカ側はこれを黙認すると取られかねないような反応をイラク側に示したとされています。

 以上のような要素にくわえ、野心的なサダム・フサインの領土欲や「アラブの盟主」の座をねらう名誉欲などが絡み合い、1990年8月2日、イラク軍はついにクウェートに侵攻し、即日、クウェート全土を占領したというわけです。
 
 なお、このあたりの事情については、拙著『なぜイスラムはアメリカを憎むのか』でまとめてみたことがあります。現在、同書は紙の本としては“版元品切れ”ですが、電子書籍としては生き残っていますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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