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内藤陽介 Yosuke NAITO
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 切手に描かれたソウル:光化門
2010-08-29 Sun 17:59
 『東洋経済日報』8月27日号ができあがりました。先月から、月1回のペースで「切手に描かれたソウル」という連載を始めましたが(7月の第1回目では戦争記念館を取り上げたのですが、こちらは以前こんな記事を書いたことがあるので、特にこのブログではご紹介しませんでした。あしからず、ご了承ください。)、今回は先ごろ再建された光化門にちなみ、この切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

         光化門

 これは、1972年6月14日に発行された「アジア・太平洋理事会閣僚会議」の記念切手で、朴正熙政権下で再建されて間もない光化門と各国の国旗が描かれています。

 光化門は、1394年に李成桂が漢陽(現・ソウル)に遷都し、景福宮を建設した際に作られました。

 その後、光化門は1553年の大火で景福宮とともに焼失。さらに、1592年、文禄の役で国王が漢城から逃亡した後、再び焼失しました。なお、このときの焼失については、朝鮮王朝の正史『朝鮮王朝実録(宣祖修正実録)』25年(1592年)4月晦日条にも、秀吉軍の入城前に朝鮮の民衆によって略奪・放火されたとの記述があるのですが、韓国では、日本人が破壊したと思い込んでいる人も多いのは困ったものです。

 さて、“倭乱”の後、景福宮と光化門ははながらく再建されず、離宮の昌徳宮が正殿として使用されていましたが、1865年、国王・高宗の父親である大院君が再建し、景福宮は1868年から正殿として復活します。ところが、1896年に国王はロシア公使館へ逃げ込んだことから、景福宮は再び主なき宮殿となり、正殿は慶運宮(現・徳寿宮)、昌徳宮へと移転しました。

 1910年の韓国併合後、日本の朝鮮総督府は、景福宮の敷地内に、総督府の庁舎を建設。この結果、敷地内の建物の8割以上が破却され、光化門も取り壊されそうになりましたが、柳宗悦らの運動により、南側に移動して保存されます。

 解放後は、1950年の朝鮮戦争でまたもや焼失しましたが、朴正熙政権時代の1968年、門上部を鉄筋コンクリートによって再建する工事が開始され、1972年に完成しました。再建された門には、朴正熙にがハングルで“クヮンファムン”と揮毫した扁額が架けられていました。切手でも扁額は見えるのですが、さすがに、その文字までは確認できません。

 今回の復元事業は、1995年に決定された景福宮の復元計画の一環として行われたもので、東宮、泰元殿、興禮門などの復元が終わった後、2006年から工事が行われていました。その際、門の位置は王朝時代の位置に戻されたほか、扁額も、建立時に忠実に、任泰瑛の筆跡を復元したものが新たに掲げられたそうです。

 ところで、光化門といえば、僕などは門そのものよりも、門から世宗路を南に下り、鐘路との交差点を曲がってすぐのところにある光化門郵便局を思い出します。同局には、2004年の竹島切手発行時に窓口に並んで切手を買ったこともあるのですが、その竹島切手については、、新刊の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも1章を設けて取り上げています。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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