内藤陽介 Yosuke NAITO
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 切手に描かれたソウル:漢江大橋
2011-05-31 Tue 16:46
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』5月27日号ができあがりました。僕の連載「切手に描かれたソウル」では、今回は漢江大橋を取り上げましたが、きょうはその中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        漢江大橋

 これは、2005年9月23日に発行された「韓国の橋」シリーズ第2集のうち、漢江大橋を取り上げた1枚です。

 漢江大橋は、前身の漢江人道橋の時代から含めると、現在、ソウル特別市と京畿道の範囲で漢江にかかる27のうち、1900年に竣工の漢江鉄橋(韓国鉄道公社の京仁線が走る橋)に次ぎ、2番目に古い近代橋梁です。

 漢江鉄橋の東側、ソウルの龍山区と銅雀区を結ぶ漢江人道橋の最初の橋梁は1917年10月に完成しました。しかし、この橋は1925年7月の洪水で流失してしまったため、1935年10月、2度目の橋がかけられました。

 この2度目の橋は、1950年6月28日、朝鮮戦争の際に南侵してきた朝鮮人民軍(北朝鮮軍)のソウル侵入を遅らせるため、橋を渡っている途中の避難民もろとも、漢江鉄橋などとともに爆破され、休戦まで再建されませんでした。ちなみに、朝鮮人民軍の漢江人道橋到達は、爆破から6時間後のことです。

 1953年に朝鮮戦争が休戦となると、漢江人道橋は1954年に完全復旧します。その後、1961年の“516革命”では、朴正煕・陸軍少将らのひきいる約3600名の“革命軍”(空挺団、海兵第一旅団、第五砲兵団)が、海兵隊を先鋒として、この橋を渡り、ソウル市内に侵入。橋の付近で憲兵隊と短時間の銃撃戦の後、陸軍本部と放送局、ついで、中央庁や国会議事堂などソウル市内の主要部分を制圧しました。これにちなみ、事件から1年後の1962年5月16日、朴政権が発行した“革命1周年”の記念切手には、漢江人道橋を渡る革命軍の姿が描かれています。

 なお、現在の橋は、1981年の拡幅工事で、1954年に復旧された橋に車線が追加したもので、このとき、橋の名称も漢江人道橋から現在の漢江大橋へと改称されました。


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 1億5000万円のライカ
2011-05-30 Mon 23:58
 オーストリア・ウィーンで行われたオークションで、ドイツの高級カメラメーカー「ライカ」の1923年製の試作機が、カメラとしては史上最高値となる約1億5000万円で落札されたそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ライカ・広告葉書

 これは、1965年にベルギーで使われた広告付きはがきで、ライカの広告が入っています。説明文によると、カメラではなく、映写機(プロジェクター)の広告のようですが、まぁ、ご勘弁ください。

 ライカ社のルーツは、1849年にカール・ケルナーが設立した顕微鏡メーカーオプティシェス・インスティトゥートに遡るとされています。ケルナーの死後、会社を引き継いだ未亡人は、従業員のフリードリヒ・ベルトと結婚し、社名はオプティシェス・インスティトゥート・ケルナー・ウント・ベルトレと変更されます。

 その後、同社にはスイスの熟練機械職人、エルンスト・ライツ1世が参加。ベルトレの死後、事業はエルンスト・ライツ1世が引き継ぎ、社名をオプティシェス・インスティトゥート・フォン・エルンスト・ライツ、さらにエルンスト・ライツ・オプティッシェ・ヴェルケとして、1905年からカメラの生産を開始しました。

 このエルンスト・ライツに勤めていた技術者、オスカー・バルナックが、1914年、35mm映画用フィルムの2駒分を使用する小型カメラを試作。これが、後に現在のライカのカメラの原型といわれる“ウル・ライカ”です。

 その後、1920年に父の跡を継いだエルンスト・ライツ2世はウル・ライカに着目し、改良を加えた製品を“ライツのカメラ”との意味で“ライカ”と命名し、1925年から市販一号機の販売を開始しました。今回落札されたカメラは、その試作品ということになりますな。

 こうして、“カメラの王者”ライカの歴史が本格的にスタートするわけですが、切手の原画となった写真のうち、ライカのカメラで撮影されたものというのは、いったいどのくらいあるのでしょうかね。どなたか、「たとえば、日本切手でいえば、これが典型的なライカの写真だよ」と例をあげて教えていただける方がありましたら、ぜひ、ご教示いただけると幸いです。


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 内モンゴルに戒厳令か
2011-05-29 Sun 23:52
 中国・内モンゴル自治区では、今月中旬、炭鉱開発に反対していたモンゴル族遊牧民2人の事故死をきっかけに反政府抗議行動が拡大していましたが、きょう(29日)までに、同自治区の一部で戒厳令が敷かれた模様です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        蒙古連合委員会・絵葉書

 これは、1938年9月、日本占領下の内モンゴル・張家口(カルガン)から差しだされた日本宛ての葉書で、裏面にはさらに半分の切手が貼られています。

 モンゴル族の居住地域は、ながらく、かつては帝政ロシアと清朝に分割されて支配され、清朝支配下の地域は、ゴビ砂漠をはさんで、それぞれ、南側が“内蒙古”(“蒙疆”とよばれることもある)、北側が“外蒙古”と呼ばれていました。

 1911年11月、滅満興漢をスローガンとする辛亥革命が起こり、清朝が亡んで中華民国が発足すると、モンゴル族には新たな中国中央政府に対して忠誠を誓う大義名分がなくなります。新政府は、建前として“五民族(漢族、チベット族、満洲族、モンゴル族、ウイグル族)の平等”を掲げていましたが、孫文であれ袁世凱であれ、政治の中枢は漢族の出身者がほぼ独占しており、清朝の時代のように、満州族やモンゴル族が優越的な地位を占めることはもはやありえません。このため、彼らはロシアの援助を受けて独立を宣言しました。

 しかし、“清朝の継承者”を名乗る中華民国政府は、1912年4月23日、内務部に蒙蔵事務処(同年7月、蒙蔵事務局に改組)を設置し、おなじく清朝の滅亡と同時に“中国”からの離脱を宣言したチベットとともに、モンゴルはあくまでも自国の領土であるとする姿勢を強調。革命後の混乱の中で、1913年にはモンゴルの自治を認めたものの、その宗主権だけは絶対に手放そうとはしませんでした。

 その後、1921年になって、外蒙古の地域はモンゴル国として独立を達成しました(ただし、すぐにソ連によって衛星国化されますが)が、内蒙古の地域は中国に留め置かれ、モンゴルは民族分断の憂き目に遭います。

 こうした状況の中で、内蒙古の察哈爾部の王族の一人であった徳王は、内蒙古・外蒙古・ソ連領ブリヤート(北蒙)を統一し、大モンゴルを再興する「汎蒙古主義」を掲げ、1934年、百霊廟蒙政会を組織し、中国政府に対して高度な自治権を要求します。しかし、蒋介石率いる国民政府はさまざまな口実を設けて、これを阻害しました。

 このため、徳王らは、中国に対抗するために、満洲国の事実上の支配者であった関東軍に注目し、日本の影響力を背景に中華民国からの独立を企図。もちろん、華北への支配を拡大したかった関東軍にとって、内蒙古の実力者である徳王が、中国からの独立を唱えてみずから接触してきてくれたのは、非常に好都合でした。かくして、1936年2月、関東軍の支援の下、徳王を首席とする蒙古軍政府をします。

 その後、1937年7月に盧溝橋事件が起こると、同年8月27日、東条英機を長とする察哈爾派遣兵団は、まず張家口を占領。9月4日、ここに“察南自治政府”を樹立しました。

 さらに、関東軍は中央の制止を振り切り、山西省内にも兵を進め、9月13日に大同を占領。10月14日には綏遠を、同17日には包頭を、それぞれ占領し、10月15日には大同に“晋北自治政府”を、同28日には包頭に“蒙古連盟自治政府”を樹立。これら3政権(蒙彊政権と総称される)を管轄する機関として、張家口に蒙彊連合委員会を設置し、この地域を支配するシステムを確立しました。

 蒙彊地域では、他の日本軍占領地域と同様、中国切手が使用されましたが、郵便物に押される消印に関しては、日本式の櫛形印が用いられています。

 今回ご紹介の葉書はその一例です。消印の形式は日本式の櫛型印ですが、年号は西暦ではなく(もちろん、昭和年号でもなく)、中華民国暦(1912を元年とすし、月日は西暦と同じ)が用いられています。

 なお、この絵葉書は、蒙彊連合委員会と蒙古連盟自治政府の連名により制作・発行されたものですが、発行の正確な時期などは調べきれていません。題材として取り上げられているのは現地のお祭で、蒙彊政権としては、民族独自の行事を絵葉書として内外に宣伝することによって自らの存在をアピールする意図があったのでしょう。

 さて、今回問題となった内蒙古自治区では、近年、石炭採掘など自治区の資源をあさる漢族への感情的な反発に加え、炭坑開発による大気や水質汚染の深刻化に遊牧民が反発。業者や政府に対応を求めていました。このため、事故で亡くなった2人に関しては、中国側による事故に見せかけた謀殺ではないかとの噂が流れていたようです。

 このため、住民らは今月23日ごろから、死亡原因の究明やモンゴル族の人権尊重などを求めてデモを開始。当局が24日に事故を起こした運転手らの拘束を発表した後も抗議行動は激化。25日にはシリンホト市で、モンゴル族の学生らを中心に数千人が政府庁舎を取り囲むなどする騒ぎが発生したほか、27日には同市郊外で、遊牧民や学生らと治安部隊が衝突し、40人以上が拘束されました。

 チベットウイグルと比べて、内モンゴルのことが日本のメディアで話題になることは少ないのですが、日本ともゆかりのある地域でもありますし、中国の抱える重大な民族問題の一つとして、今後の動向に注目したいところです。


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 世界漫郵記:ハバロフスク⑥
2011-05-28 Sat 10:41
 『キュリオマガジン』2011年6月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、極東ロシア・ハバロフスク篇の6回目。今回と次回の2回に分けて栄光広場の話を書きますが、その前編にあたる今回の記事の中から、この切手をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

         ハバロフスク・永遠の火      ソ連・戦勝勲章

 左は、栄光広場の“永遠の火”です。火の背後には、祖国戦勝勲章(対独戦の勝利を記念して制定された勲章)のレリーフが刻まれていますので、その勲章を大きく描いた1945年のソ連切手を右側に並べてみました。

 ウスペンスキー大聖堂前の大聖堂広場からツルゲーネフ通りを南へ、極東ロシアで最大というスパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂を目印に、ウスリースキー並木通りとの交差点までは下り坂、そこから先は上り坂を上って行くと、栄光広場にたどりつきます。

 栄光広場は上下の2段式になっていて、下の広場の中心に位置するのが、今回ご紹介の“永遠の火”で、この火は“大祖国戦争”(独ソ戦のソ連側の故障)の勝利以来守り続けられているそうです。

 ハバロフスクは対独戦争の前線からは遠く離れていましたが、それでも、約3万人がドイツとの戦争に動員され、多くが帰らぬ人となりました。

 また、ハバロフスクに残った者も物資の増産に尽力し、1944年には7300万ルーブルもの防衛基金が集められたといわれています。ちなみに、1948年頃、ソ連の一般市民のひと月当たりの生活費に相当する金額として、シベリアに抑留された日本人は賃金から456ルーブルを差し引かれていました。単純計算すると16万人強が一月生活できる金額です。少し古いのですが、総務省統計局の平成19年の家計調査によると、単身者の標準生活費は12万2120円ですから、それを16万倍して日本円で約195億円の基金を集めた(集めさせられた)という感覚でとらえればいいのでしょうかね。

 さて、“永遠の火”の背後には、切手などでもおなじみの祖国戦勝勲章のレリーフを埋め込んだ盾形の巨大なオブジェがあり、その両脇から延びる黒御影石の壁に林立する慰霊碑には独ソ戦で亡くなったハバロフスク出身の兵士たちの名前が刻まれています。この慰霊碑は1985年に戦勝40年を記念して建てられました。

 もちろん、1945年8月9日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄してわが国に宣戦を布告し、満洲・朝鮮・樺太・千島に侵攻して暴虐の限りをつくしたことは、日本人として決して許すことのできない蛮行であることはいうまでもありません。しかし、1945年5月9日に終わった独ソ戦の戦没者は、8月のソ連の対日参戦とは無関係なわけですし、そもそも、いかなる国家であれ、彼らが彼らなりの流儀で祖国のために犠牲となった兵士たちに哀悼の誠を捧ぐことは尊重されなければならないでしょう。実際、戦没者の慰霊施設を前にしたら、おのずと粛然たる気持ちになるのが人間としての自然な感情というものだと思います。A級戦犯がどうのこうのといって靖国神社にクレームをつけてくる一部の外国人のように、僕は下品な人間ではありません。

 さて、今回の記事では、独ソ戦についての簡単なおさらいとともに、栄光広場の“永遠の火”を前にいろいろと考えたことなども綴ってみました。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。
 

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 今年のサミット開催地
2011-05-27 Fri 20:37
 きのう・きょう(26・27日)の2日間、フランス北西部のドーヴィルでサミット(主要国G8首脳会議)が開かれています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ドービル

 これは、1961年にフランスで発行されたドーヴィル100年の記念切手です。。

 今年のサミット開催地となったドーヴィルはパリ北西、ノルマンディー海岸最大のリゾート地で、パリから約200キロ、鉄道だとパリ・サンラザール駅からトゥルーヴィル・ドーヴィル駅へ約2時間の地点にあります。

 もともと、この地域はア・エニラという名の漁村で、一帯は湿地帯が広がるばかりでした。ところが、1858年、この地を訪れたナポレオン3世の異父兄弟モルニー公爵が避暑地として目を付け、1861年に上流階級のための競馬場建設が進められたのを皮切りに開発が進みました。1863年にはトロヴィル=シュル=メールに鉄道が開通してパリから6時間で行けるようになり、貴族の保養地としての地位を確立しました。現在では、カジノやホテルが立ち並ぶ華やかなリゾート地として、映画『男と女』やスコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』の舞台となったことでも知られています。

 震災以来、原発事故直後に東電本社に乗り込んで担当者を怒鳴りつけ、結果的に事故の処理を邪魔したり、呼ばれもしない被災地を訪問したかと思えば誠意の欠片も見えない態度ですぐに帰ろうとして被災者から「もう帰るんですか」と問われたり、さらには、誰がどう見ても無意味な会議・委員会を乱立させ、挙句の果てにその委員たちが失言を繰り返したりと、菅総理はやることなすことボロが出て、一刻も早く辞職してほしいが、それも無理なら、いっそ何もしないでいてほしいというのが多くの国民の声だろうと思います。

 そういうことなら、どうでしょうかねぇ。せっかく、フランスを代表するリゾート地に来たのですから、フランス人のバカンス並みに、このまま一ヵ月くらい逗留してもらっては。震災ならびに原発事故対策は、すくなくとも現在よりは、順調に進むんじゃないかなぁ。


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 スイス脱原発へ
2011-05-26 Thu 23:57
 スイス連邦政府は、きのう(25日)、国内にある原子力発電所の原子炉5基について、今後、耐用年数の切れた順に廃炉としていき、2034年までに国内のすべての原子炉を廃炉とする“脱原発”政策を発表しました。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

      スイス・第2回原子力会議

 これは、1958年にジュネーブで開催された第2回国際原子力会議の記念切手です。

 スイスの原子炉の研究開発は、同会議の翌年(1959年)、原子力法が制定されたことで具体的にスタートします。その背景には、1950年代末から1960年代にかけて水力発電開発が頭打ちとなり、大型火力も燃料輸送や環境問題から建設が難しくなったという事情がありました。

 同法に基づき、1962年、パウル・シェラー研究所を中心に加圧管実験炉が着工。その研究成果を踏まえ、1965年、国内最大の電力会社である北東スイス電力会社(NOK)がウェスチングハウス(WH)社にベツナウ1号機を発注したのを皮切りに、翌1966年にはベルン電力会社がゼネラル・エレクトリック(GE)社にミューレベルク原子力発電所を、さらに1967年にはNOKがWHにベツナウ2号機を発注しています。その後、1973年には、ゲスゲン・デニケン共同原子力発電会社がゲスゲン発電所をシーメンスKWU社に、またライプシュタット共同原子力発電会社がライプシュタット発電所をGEへ発注。5基の原発が出そろい、総発電量の約40%を原子力でまかなう体制が整いました。

 1970年代後半まで、スイス国内では原発に対する国民の支持も高かったのですが、1979年のスリーマイル島事故や1986年のチェルノブイリ事故を経て国内で反原発派が台頭。このため、カイザーアウクストとグラーベンでの発電所の新規建設は連邦政府の許可を受けたものの、地元住民の強い反対をうけて計画は頓挫。さらに、1990年には、国民投票で新規の原子力発電所建設を10年間凍結することが採択されています。

 しかし、そもそも、水力・火力発電の不足を補うために原子力発電を行っているという基本構造は全く改善されていないため、原発が設計寿命を迎える2020年以降、深刻な電力不足が懸念されていました。そこで、2005年2月、原子力法が改正され、1990年以来凍結されていた新規の原子力発電所建設は、計画の是非を別途、国民投票に委ねるとの条件の下、原子力開発の再開が決定されました。

 これを受けて、スイス国内では、原子力設備の建替えに向けた動きが活発化していたのですが、今回の福島の事故を受けて世論の風向きが再び変わり、今回の“脱原発”政策の表明となりました。

 今回の件に関して、スイス政府は、水力発電などの開発をさらに進めることで原発廃炉以降の電力不足を補う方針だそうですが、そもそも、水力発電の開発が限界に達したがゆえに原子力発電を始めたのではないかという根本的な疑問はぬぐえませんな。まぁ、1990年の国民投票で10年間の原発の新規建設を凍結すると決めたものの、実際に21世紀になってみれば、原子力開発を再開せざるを得ないと国民が判断した先例がありますからねぇ。連邦政府としても、ここはしばらく、世論をクールダウンさせるためにも“脱原発”を表明しておき、2020年になったら、あらためて国民投票を行って開発を再開すればいいと考えているのかもしれません。

 ところで、原子力開発は、軍事利用・平和利用を問わず、国家にとっての一大プロジェクトですから、その事績はさまざまなかたちで切手にも表れています。その一端として、イランや北朝鮮の事例については、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも取り上げてみたのですが、そのほかの国の例もまとめて、切手を通して各国の原子力政策とそのプロパガンダを読み解いてみたら面白そうだなぁ…と、漠然と考えています。どこか、この企画(というよりも、現時点では“思いつき”のレベルですが)に乗ってくれそうな版元さん、ありませんかねぇ。


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 地図で読む戦争の時代
2011-05-25 Wed 23:58
 ご報告が遅くなりましたが、5月15日付の地方紙各紙に、共同通信の配信で、今尾恵介さんの『地図で読む戦争の時代:描かれた日本、描かれなかった日本』についての僕の書評が掲載されました。書評では切手のことは何も書かなかったのですが、同書には、「東京に広大な空き地?--皇室用地の空白」という1章があって、明治42年の地図には赤坂離宮の詳細が記載されているのに、大正10年の地図では赤坂離宮の内部が空白になっていることが紹介されています。

 というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        赤坂離宮

 これは、1935年4月2日に発行された「満洲国皇帝陛下御来訪記念」の切手のうち、赤坂離宮を取り上げた10銭切手です。

 満洲事変から間もない1931年11月、満洲国の建国に向けて溥儀を担ぎ出すにあたって、関東軍は溥儀に対して新国家が帝政となることを約束していました。しかし、実際に建国された満洲国は、共和国の形態を取り、溥儀に与えられた肩書きは“皇帝”ではなく“執政”でしたから、清朝を復活させて復辟し、再び皇帝の玉座に座ることを夢見ていた彼は、当然のことながら、この処遇に不満を持っていました。

 このため、1933年、満洲国(実質的には関東軍)と中国側との間で曲がりなりにも満洲事変の停戦協定が成立すると、かねてからの溥儀との約束どおり、関東軍は満洲国で帝政を施行することになり、1934年1月20日、国務総理・鄭孝胥の名で帝政実施の声明が発表され、同年3月1日から帝政が実施されることになります。

 さて、皇帝となった溥儀の、外交上の最初の大仕事は、自分を皇帝にしてくれた“宗主国”の日本に感謝の意を表して、日本を訪問し、昭和天皇に拝謁することでした。もちろん、これは、彼自身の発意というより、“日満友好”を演出するため、関東軍が周到にお膳立てした結果ですが、訪日の目的として、そうした事情がストレートに表明されたわけではなく、登極の大典に際して昭和天皇の名代として日本から秩父宮が参列したことへの答礼というのが建前となっていました。

 こうして溥儀は1935年4月2日、日本の租借地であった関東州の中心都市、大連から日本軍の軍艦「比叡」に乗り込んで訪日の旅に出発。以後、同月27日に帰国するまでのスケジュールは、以下の通りでした。

 2日 大連を出発。
 3日 神武天皇祭、遥拝式、夜間照射演習参観。
 6日 横浜到着。臨時列車で東京に向かい入京。宿舎(赤坂離宮)に入った後、皇居を訪問して昭和天皇と対面。宮中晩餐会。
 7日 大宮御所に皇太后を訪問。明治神宮、聖徳記念絵画館、靖国神社訪問。溥儀主催の晩餐会(皇族を招待)。
 8日 在日満洲国人奉迎会に参加。日本政府主催の晩餐会。
 9日 観兵式場訪問。溥儀主催の晩餐会(総理大臣以下を招待)。 
 10日 秩父宮ほか五皇族の招宴。東京市奉迎式。
 11日 多摩御陵参拝。
 13日 湯島聖堂、陸軍衛戌病院訪問。
 14日 皇居訪問。昭和天皇に別れの挨拶と会食。
 15日 東京発・京都到着。宿舎は都ホテル。
 16日 桃山御陵参拝。
 17日 京都御所参観。
 18日 二条離宮、金閣寺参観。
 19日 京都発・奈良着。宿舎は奈良ホテル。
 20日 帝室博物館・正倉院・春日大社・東大寺参観。
 21日 奈良発・大阪着。中央公会堂での府市および商工会議所主催の奉迎式に参加。その後、神戸へ移動。宿舎は武庫離宮。
 23日 神戸港から比叡に乗って出港
 24日 宮島に立ち寄り、厳島神社参拝
 27日 大連埠頭に帰着

 今回ご紹介の切手は、こうした府議の訪日にあわせて、彼の東京滞在中の宿舎であった赤坂離宮を取り上げたものです。印面上部の唐草模様は離宮正門の装飾から取られており、印面の下部には、日本の代表的な農作物である稲と、満洲国の代表的な農産物の高粱がそれぞれ描かれ、両国の友好親善がアピールされています。

 『地図で読む戦争の時代:描かれた日本、描かれなかった日本』によれば、当時の国民は国家の統制により地図を通しては赤坂離宮の敷地内のことをうかがい知ることができないことになっていたわけですが、ほかならぬ大日本帝国の名において発行された切手では、ストレートに離宮とその敷地内のようす(まぁ、ごく一部ではありますが)が取り上げられており、そのあたりのちぐはぐさが興味深いですな。やはり、官僚の縦割り行政が、こんな所でも顔をのぞかせているということなのかもしれません。

 なお、溥儀の訪日については、拙著『満洲切手』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら。ぜひ、ご覧いただけると幸いです。 

 PS ちなみに、共同通信から配信された書評は以下のとおりです。

*****以下、転載

 隠された情報あぶり出す
 「地図で読む戦争の時代」(今尾恵介著)

 以前、「地図が読めない女」というフレーズが表題に入った本がベストセラーになった。だが、「地図を読む」ことを、眼光紙背に徹し、地図に隠された情報をあぶり出していく作業と定義するなら、男女を問わず、それができる人間は限られてくる。

 本書の著者は、そうした「地図を読む」第一人者で、膨大なコレクションを縦横に駆使して語る独自の世界観には根強い人気がある。

 そんな著者が、最新作の本書で、昭和の戦争を中心とした「戦争の時代」にフォーカスを合わせた。

 戦争が地図に及ぼした影響として、誰もが思い浮かべるのは、軍事施設や軍需工場、発電所などの位置情報が敵側に漏れることを防ぐため、その部分を、空白にしたり、あるいは、意図的に事実と異なる表示をしたりするケースであろう。

 「軍事極秘」扱いの地図で描かれている三津(現在の東広島市安芸津町)の大久野島が、毒ガス工場の所在地であるがゆえに、一般向けの地図では空白にされているのは、その典型である。なお、軍事極秘の地図を取り上げた表紙カバーを外すと、本体表紙に、大久野島が省略された一般向けの地図が出てくる装丁の仕掛けも楽しい。

 その逆で、事実をありのままに地図上に記録した結果、戦争のなまなましい痕跡が地図上にとどめられるケースもある。

 金属類回収令によりレールが供出された横須賀線逗子駅周辺や建物疎開が行われた東京・蒲田などの地図に現れた「空白」地帯、空襲で焼失した名古屋城のあった場所に記載された「名古屋城趾」の文字、さらに、原爆投下後の広島市街に広がる戦災地域などは、いずれも、雄弁な時代の証言者となっている。

 ウェブの連載をまとめた短編集なので、どこからでも手軽に読める体裁となっているが、情報の積載量が多く、見かけよりもはるかに読み応えがある重量級の一書に仕上がっている。(内藤陽介・郵便学者)(白水社・1890円)


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 ソマリランド≠ソマリア
2011-05-24 Tue 16:17
 1991年5月24日にソマリランド共和国が独立を宣言してから、きょうで20年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ソマリランド加刷(1998)

 これは、1998年にソマリランドで発行された暫定加刷切手です。

 いわゆるアフリカの角の北側、アデン湾に面したソマリランドの地域は、1870年代までエジプトのムハンマド・アリー朝が支配しており、1876年にはエジプトの郵便局も開設されました。しかし、1884年、アデン駐留のイギリス軍が駐屯するようになり、エジプトはソマリランドから撤退。イギリスはソマリランドの各部族と協定を締結し、1887年には同国を保護領化します。これに伴い、1884年にイギリス局が開局し、英領インド切手が用いられるようになりました。その後、ソマリランドを管轄したのは、英領インド帝国→イギリス外務省→イギリス植民地省と変遷。英領ソマリランドとしての切手も、1903年から発行されています。

 一方、現在のソマリアの南部(内陸部)に相当する地域は1908年にイタリア領ソマリランドとなり、現在、ソマリア人の居住地域は英領とイタリア領に分割された状態が続きましたが、第2次大戦中の1941年2月16日、イギリス軍はイタリア領ソマリランドの首都であったモガディシオを占領。その後、1950年まで、この地はイギリスの占領下に置かれます。

 第2次大戦後の1947年、連合諸国とイタリアの講和条約が結ばれ、イタリアはイタリア領ソマリランドを含むアフリカの全植民地を放棄させられましたが、イタリア撤退後の旧イタリア領ソマリランドの帰属については連合国の間でも合意が成立しなかったため、1949年11月、10年以内にこの地域を独立させることを条件に、この地域を国連の信託統治下に置き、その間、イタリアが統治権を行使することが決定されます。

 こうして、1950年4月1日、イタリア信託統治領ソマリアが成立。イタリアによる南部ソマリアの信託統治期限が切れる直前の1960年6月26日、北部の英領地域がソマリランド共和国として独立。7月1日には南部のイタリア領地域も独立し、この両者が統合されて、現在、国際社会が認知している“ソマリア国家”が誕生しました。

 しかし、独立後のモガディシオ中央政府は旧イタリア領出身者が主導権を掌握し、南部優遇の経済政策などを推し進めた結果、旧英領地域ではソマリア中央政府および南部地域への反感が強くなり、ソマリアからの脱退を求める声も高まっていきます、そして、1991年1月にモハメド・シアド・バーレ独裁政権が崩壊した後、それまでの南部優遇政策と混迷を極めるソマリア情勢に失望したソマリ国民運動が、同年5月に北部の旧英領ソマリランド地域の分離・再独立を宣言。新生ソマリランド共和国を発足させました。

 今回ご紹介の切手は、そのソマリランドで1998年に暫定的に発行されたものです。
 
 当時、ソマリランド政府は、切手の印刷をイギリスの印刷会社、ハリソン&サンに発注しましたが、ハリソン社が印刷に必要な用紙を十分に手配できなかったため、応急措置として、同社の倉庫にあったイギリスの1ペニー切手に「ソマリランド共和国 500シリング」と加刷した切手がソマリランド側に納品されました。今回ご紹介のものは、イギリスの額面1ペニーが★で抹消されていますが、加刷切手の中には、★がないものもあります。

 当然のことながら、植民地時代を連想させる切手を受け取ったソマリランド側は不快感を隠さず、この切手は、ごく短期間販売されただけで、すぐに廃棄されたということです。

 アフリカ諸国の中には、ソマリランドのソマリアからの分離独立が、自国の民族問題に火をつけることになりかねないとして、これに強く反対している国も少なくないことにくわえ、一方の当事者であるソマリアが無政府状態に陥り、ソマリランドの独立を正式に協議できない状況にあることもあって、現在、国際社会では、ソマリランドはあくまでもソマリアの一部であるいうのが建前です。この結果、事実上、国家としては崩壊して実体がない“ソマリア”が国際的に承認されているにもかかわらず、事実上、独立国家として機能し、観光客を受け入れるほどに治安のよいソマリランドが承認されていないというねじれ現象が生じています。

 昨年(2010年)、日本ユニセフ協会の“大使”を名乗るアグネス・チャンは、こうした状況を逆手にとって、実際の訪問地はソマリランドだったにもかかわらず、“ソマリア”に訪問したと主張し、“戦乱と貧困に苦しむ子どもたち”(本当にそのことを語るのなら、ソマリランドではなくソマリアへ行くのが筋だと思いますが…)についての講演活動などを行っています。

 それだけなら、単なるデタラメ芸能人の戯言で済むのかもしれませんが、彼女を広告塔として使っている日本ユニセフ協会は、集めたお金の2割程度を経費として使用することを募金者には秘匿したまま、現在なお「ソマリア教育募金」と称して募金活動を継続しています。ちなみに、同協会は、36の国と地域にある“ユニセフ国内委員会”のうちの1つではあるものの、ユニセフの日本事務所ではなく、募金ビジネスを通じて得られた“収益”により、東京都港区高輪の一等地に豪奢なビルを構えている団体で、当然のことながら、彼らの活動には詐欺まがいとの批判も少なくありません。

 こうした弊害をなくすためにも、実態にあわせて、国際社会がソマリランドの独立を早急に承認すべきではないかと僕は思います。

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 チベット“平和解放”60年
2011-05-23 Mon 23:16
 1951年5月23日に中国共産党政権とチベット政府の間で、「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(いわゆる17条協定)が署名され、“平和解放”の名の下にチベットが中国に併吞されてから、きょうでちょうど60年です、というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        チベット平和解放(1000円)

 これは、1952年3月15日に中国が発行した「チベット平和解放」の記念切手のうち、チベットの農耕風景を描いた1000円切手です。

 辛亥革命によって清朝が崩壊してから、1951年に中国人民解放軍がチベットに武力進駐するまでの間、チベットは独立を宣言し、独自の通貨や切手も発行していました。もちろん、中国側は国民党・共産党を問わず、チベットの独立を一貫して否定していましたが、実際には、チベットには中国中央政府の統制は及んでおらず、チベットは実質的に(半)独立国のような存在となっていました。

 その後、1949年10月に中華人民共和国の建国が宣言されると、1951年4月、共産党政権とチベット政府との関係を規定するための交渉が北京で始まり、5月23日、「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」(いわゆる17条協定)が署名されます。現在、中国側は同協定を根拠にチベット支配の正当性を主張しているわけですが、この協定は、もともと、代表団が個人の資格でサインしたもので、チベット政府やダライラマの承認・批准は受けていません。じっさい、中国側も署名に際しては、同協定には国際法上の効力はないとチベット代表団に説明していながら、チベット側の印璽を偽造するなどして、同協定の既成事実化を図っていきました。

 そして、同年12月、人民解放軍が“平和解放”の名の下にチベットに軍事進駐。以後、半世紀近くにわたって中国共産党政権はこの地域を支配し続けています。この間、漢族の急激な流入により、チベットの伝統的な社会構造が破壊され続けていることもあって、強圧的な共産党の支配と強引な中国化・社会主義化への抵抗運動が続けられています。また、中国政府は、チベットの独立運動家やその支援者(とみなされた人々)に対しては容赦のない人権抑圧を日常的に行っており、そのことが国際社会から厳しく指弾されているのは周知のとおりです。

 そういえば、先日、上野動物園にパンダがやってきましたが、パンダの生息地域はもともとはチベット人の居住地域ですから、本来、パンダは中国のものではなくチベットのものということになります。それにもかかわらず、パンダは“日中友好”のシンボルと無邪気に語ることは、実は、中国によるチベット支配を間接的に支持することにもつながるのだということは、もっと多くの日本人が自覚してもよいのではないかと思います。

 なお、チベット問題に関しては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも1章を設けてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 約5ヵ月ぶりの大統領就任式
2011-05-22 Sun 22:55
 昨年11月に行われた大統領選挙の結果をめぐり内戦状態にあったアフリカのコート・ディヴォワールで、きのう(21日)、選挙で勝利していたワタラ新大統領の就任式がようやく開かれました。というわけで、きょうはコート・ディヴォワールのネタです。(画像はクリックで拡大されます)

        コート・ディヴォワール軍事切手

 これは、1967年にコート・ディヴォワールで発行された“軍事切手”です。デザインは、国旗と同じ並びの三色のストライプを背景に、太陽と月桂樹に象(やはり“象牙海岸”ですからね)を組み合わせたコート・ディヴォワール国軍の徽章を配し、その上に軍事切手であることを示す“Franchise Militaire”の文字もしっかりと入っています。

 コート・ディヴォワールの軍事切手については、その詳細はよくわからないのですが、旧宗主国のフランスでは、部隊に勤務している兵・下士官に対して1人1ヵ月2通分の軍事切手が無償配布され、その“切手”を貼れば郵便物料金は免除で取り扱われるということになっていましたから、おそらく、それがそのまま踏襲されていたのではないかと思います。

 第二次大戦後、いわゆる軍事切手の利用は世界的に少なくなりましたが、コート・ディヴォワールに関しては、1967年発行の切手を貼った1970年代のカバーというのを何通か見たことがあります。ちょうど、初代大統領のフェリックス・ウフェ=ボワニの開発独裁政策が順調に進められ、年平均8パーセントの驚異的な経済成長を達成し、“イヴォワールの奇跡”と称賛されていたころのことですな。

 さて、コート・ディヴォワールでは、昨年11月の大統領選決選投票後、ワタラ新大統領が国際社会の承認を得て勝利宣言を行い、一度は就任式を行ったものの、バグボ前大統領側がこれを認めず、内戦に突入。ことし4月11日に前大統領の身柄が拘束されるまで、約4カ月にわたる内戦で、推計3000人が犠牲になり、敵対勢力の襲撃を恐れ避難生活を続ける住民も全土で3万人近いといわれています。また、その余波で、現地の日本大使公邸が襲撃され、岡村善文大使がフランス軍に救出され命からがらパリに逃げ出すということもありましたな。

 前大統領の拘束を受け、新大統領は、今月5日に旧バグボ派の憲法評議会に当選を改めて認定させ、翌日には就任宣誓もやり直し、手順を踏んだ上で、今回の就任式となったわけですが、虐殺疑惑の真相解明、国民和解などの重い課題を抱え、新政権にとっては前途多難の船出となりそうです。


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 1967年の境界線
2011-05-21 Sat 23:29
 イスラエルのネタニヤフ首相が、きょう、オバマ米大統領とホワイトハウスで会談し、オバマ大統領が1967年の第3次中東戦争直前の境界線を前提にしたパレスチナとの交渉再開を求めたのに対し、ネタニヤフ首相は「1967年の境界線に戻ることはできない」と述べ、大統領提案を明確に拒否しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        スエズ自由通行カバー

 これは、第3次中東戦争直後の1967年7月19日、イスラエルによるスエズ運河の自由通行が開始された際に作られた記念カバーです。カシェに描かれている地図のうち、白い部分が第3次中東戦争後のイスラエルの支配地域ですが、戦前のイスラエル領はその中に破線で示されている部分の内側だけです。これを見ていただくと、第3次中東戦争でのイスラエル占領地域がいかに広大なものであったか、お分かりいただけるものと思われます。なお、今回ご紹介のカバーは、第3次中東戦争の結果、イスラエルがスエズ運河以東のシナイ半島全域を占領したことにより、スエズ運河を自由に通行できるようになったことを記念して作られました。

 第3次中東戦争は、イスラエル側の先制奇襲攻撃によって開始されたこともあり、イスラエルによる占領地拡大の正統性については、アラブ諸国はもとより、社会主義諸国や中立諸国なども懐疑的で、1967年11月の国連安保理では、占領地域からのイスラエル軍の撤退を要求する決議が採択されました。
 
 その後、1974年にはゴラン高原のクネイトラがシリアに返還されたほか、1982年にはシナイ半島がエジプトに返還され、ガザ地区とヨルダン川西岸の一部地域はパレスチナ自治政府の管轄下に置かれることになりましたが、東エルサレム(ユダヤ教・キリスト教・イスラムの3宗教の聖地がある旧市街)を含むヨルダン川西岸の大半は、そのまま実効支配を続けています。

 アラブ世界などで、クウェートからの撤退を決めた国連決議に従わなかったがゆえに湾岸戦争でイラクが多国籍軍の攻撃を受けたのに対して、イスラエルが占領地から撤退しないにもかかわらず軍事制裁はおろか経済制裁さえも受けることがないのはダブル・スタンダードであるとのリンケージ論が一定の支持を集めたのもこのためで、その意味では、イスラエルの占領地からの完全撤退を求めたオバマ大統領の提案は理にかなったものともいえます。

 もっとも、そもそもイスラエル国家は、エレツ・シオンと呼ばれたエルサレムとその周辺の地域にユダヤ人の民族的郷土を作るという、シオニズムの運動から出発していますから、彼らにとって、東エルサレムを喪失するということは国家の根本的な存在意義を危うくすることを意味しており、到底、受け入れることができないのも当然といえましょう。

 いずれにせよ、1948年のイスラエル建国からだと60年以上、1967年の第3次中東戦争からでも40年以上(余談ですが、僕自身が1967年生まれですから、オギャーと生まれた赤ん坊が、現在の中年男になる年月、といえば、その長さがわかろうというものです)も解決できなかった問題が、そうそう簡単に解決できるはずもありません。とはいえ、問題解決のための妙案があるわけでもなし、今回の一件は、提案を一蹴された大統領の面目が潰れただけ、ということで終わりそうですな。


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 「ヒトラーに共感」でカンヌ追放
2011-05-20 Fri 09:42
 きのう(19日)、カンヌ国際映画祭は、アドルフ・ヒトラーに共鳴する発言をしたとして、コンペティション部門に「メランコリア」を出品していたデンマークのラース・フォン・トリアー監督を“好ましからざる人物”として映画祭から追放すると発表しました。というわけで、きょうはこの“切手”です。(画像はクリックで拡大されます)

        デンマーク義勇軍

 これは、1944年に発行された、デンマーク義勇軍の義損証紙で、ユトレヒト半島南東部コリング城(ルネサンス時代のデンマーク王室の居城)が描かれています。

 第二次大戦中、デンマークはナチス・ドイツによって軍事占領されましたが、デンマーク人は“ゲルマン民族”とされたため、その占領政策は当初は比較的穏健で、国王クリスチャン10世とデンマーク政府は国外に亡命せず、コペンハーゲンにとどまっていました。

 こうした中で、1941年6月22日、独ソ戦が勃発すると、ドイツは占領下および同盟中のヨーロッパ諸国に対し、共産主義と戦う義勇兵部隊の創設を許可。これに応じて、デンマークでは“デンマーク義勇軍(Freikorps Danmark”が結成されます。

 デンマーク義勇軍は、各国の反共義勇軍とともに、1943年にSS装甲師団「ノルトラント」の装甲擲弾兵連隊「ダンマルク」となり、クロアチアやナルヴァ(エストニア)の戦い、オーデル川の攻防戦、ベルリン市街戦などでソ連軍と戦いました。

 義勇軍の発足に先立ち、1941年5月22日、デンマーク郵政は義勇軍ならびにドイツ軍の将兵を対象に、デンマーク国内宛の“軍事郵便”制度を発足させます。この制度では、250グラムまでの郵便物は料金が無料でしたが、250グラムから1キロまでの小包に関しては、デンマーク在住のドイツ人は20ペニヒ、デンマーク人は25オーレの料金を受け取り時に支払うこととされました。また、デンマーク人がドイツ軍の将兵に郵便を送る場合の料金は、当初、葉書が15オーレ、250グラムまでの封書が20オーレでしたが、1942年以降、封書基本料金は50グラムまでが20オーレとなり、50グラムから1キロまでの書状ないしは小包は30オーレとなりました。なお、これらの郵便物は、すべて、ドイツの占領当局によって検閲されています。

 こうした“軍事郵便”制度とあわせて、1944年、デンマーク義勇軍への義援金を募るために発行されたのが、今回ご紹介の義損証紙です。義損証紙は、今回ご紹介のモノのほか、ロスキレ大聖堂を描いた25オーレ、クロンベルク城を描いた1クローネの計3種があります。いずれも、郵便料金に相当する額面はゼロですが、郵便物に貼付することで、寄付金相当額が義援金になるという仕組みです。

 ちなみに、今回問題になったトリアー監督の発言は「彼(ヒトラー)はいわゆるまともなやつではないが、私は彼の多くを理解する。少し、彼に共鳴するところもある」、「オーケー、おれはナチだ」などというものだそうです。この前半部分ですでに怒り心頭という人もいるのでしょうが(ちなみに、僕はナチス・ドイツによる“侵略戦争”やユダヤ人迫害等を支持するつもりはありませんが、ナチス時代のドイツのすべてが悪だったという論調に与するつもりもありません)、現在なお自分がナチであるとした後半部分になると、欧米の言論空間では、まぁ弁護の余地はないということになるでしょうな。

 もっとも、監督の発言は、失言というよりも、ある種の確信犯的なものでしょうから、いっそ、今回の騒動を逆手にとって、次回作では“デンマーク義勇軍”をテーマとした作品をるくらいのことをやってほしいものです。


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 イラン・ブシェール原発が稼働
2011-05-19 Thu 12:16
 イラン国営通信によると、きのう(18日)、イラン南西部のブシェール原発が稼働し、近く電力供給が始まるのだそうです。中東での原発稼働はこれが最初のケースです。というわけで、“ブシェール”といえば、やはりこの切手でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

        ブシェール占領加刷

 これは、第一次大戦中の1915年、イギリス占領下のブシェールで発行された加刷切手です。

 イラン南西部、ペルシャ湾に面したブシェールには、1856-57年のアングロ=ペルシャ戦争を経て、1864年5月1日に英領インド局が設置され、以後、ペルシャ領内でありながら、英領インド局が活動を展開していました。

 第一次大戦が勃発すると、イギリスはペルシャ湾からインド洋への制海権を確保するため、1915年8月8日、ブシェールを占領下に置き、同月15日、今回ご紹介しているような、イラン切手に“イギリス占領下ブシェール(BUSHIRE Under British Occupation)”と加刷した切手を発行し、使用しました。なお、第一次大戦以降、ブシェールは初期のインド行き航空路の中継地点となり、多くの飛行機がブシェールを経由しています。ちなみに、ブシェールの英領インド局が閉鎖され、ペルシャ郵政が業務を引き継いだのは、1923年4月1日のことでした。

 さて、ブシェール原発の計画は、パーレビ王政時代の1974年、ドイツ企業により建設が始まりました。しかし、計画は、1979年のイスラム革命で中断を余儀なくされ、1980年からのイラン・イラク戦争で建設途中の施設は壊滅的な打撃を受けます。

 イラン・イラク戦争後の戦後復興がある程度進むとともに、1991年の湾岸戦争で仮想敵国のイラクが敗北し、原発建設の障害がなくなると、1995年、イラン政府は中断していた原発建設をロシアの協力を得て再開します。当初、ブシェール原発は1999年に稼働開始の予定でしたが、再三延期され、今回、ようやく稼働開始にこぎつけたというわけです。

 ちなみに、先日の福島原発の事故を受けて、イランの宿敵であるイスラエルは原発建設計画の見直しを発表しましたが、イラン政府は、ブシェール原発を「最新の技術で建設されたもので全く問題はない」、「世界一安全な原発の一つ」と強調し、“脱原発”など一顧だにしていないようです。

 とはいえ、ブシェール周辺には活断層もありますから、原子炉がチェルノブイリのイメージが抜けないロシア製ということとあわせて、アラブ首長国連邦(UAE)をはじめ近隣諸国は、やはり、気が気じゃないでしょうな。


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 英女王のアイルランド訪問
2011-05-18 Wed 17:21
 イギリスのエリザベス女王がきのう(17日)、イギリスの君主としては1911年以来およそ100年ぶり、1937年のアイルランド独立後としては初めて、アイルランドを訪問しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ペニーレッド・ダブリン消

 これは、1841年にイギリスで発行されたペニー・レッドの切手で、アイルランドのダブリンの消印が押されているのがミソです。イギリス初期の消印(抹消印)はその形状からマルタ十字と呼ばれますが、このマルタ十字は各局ごとに微妙に形が違うので、このサイトのリストなどと対照させれば、どの局で使われたものか識別することが可能です。ちなみに、ダブリンで使われたマルタ十字には、ふたつのタイプがありますが、今回ご紹介の消印はタイプ2と呼ばれているものです。

 1801年、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立すると、アイルランドは国外植民地としての自主性も失い、完全にイギリスに併合され、イギリスによるアイルランドの同化政策が進みました。これを不満として、アイルランドではイギリスからの分離・自治運動が激化。このため、1912年、アイルランド自治法案がイギリス下院に提出され、1914年9月に成立します。

 しかし、第一次世界大戦の勃発によりアイルランドの自治が凍結されたため、これを不満とする独立派は1916年の復活祭に“アイルランド共和国”の樹立を宣言し、武装蜂起しました。いわゆるイースター蜂起です。

 イースター蜂起はまもなく鎮圧されましたが、1918年の総選挙では独立派のシン・フェイン党が勝利し、1919年にアイルランド共和国の独立が宣言され、アイルランド独立戦争が勃発します。この結果、1921年、独立派とイギリスは英愛条約を結び、南部26州(南アイルランド)はイギリス国王を元首とする同君連合国家(ドミニオン)アイルランド自由国として分離することになりました。

 これに伴い、1922年2月17日、イギリス切手に“アイルランド臨時政府(Rialtas Sealadach na hEireann) 1922”と加刷した切手が発行され、無加刷のイギリス切手は、1922年3月31日限りでアイルランドでの使用が禁止されました。なお、アイルランドは1937年にはイギリスから完全に独立し、アイルランド(エール)と改称して共和制に移行。1949年にはイギリス連邦も離脱しています。

 アイルランドといえば、去年11月、深刻な財政難から、自力再建を断念し、欧州連合(EU)と国際通貨基金(IMF)に財政支援を要請したことが記憶に新しいところですが、おととい(16日)、IMFによる財政・金融再建策の進捗状況の調査が終了し、IMFによる15億8000万ユーロ(約1800億円)の融資が実行可能となったとの発表がありましたな。イギリスとの歴史的和解を演出する前に、まずは、経済再生への道筋がついたところで、関係者としてはホッと一息というところでしょうか。

 なお、昨年刊行の拙著『事情のある国の切手ほど面白い』では、ユーロ圏での経済破綻の最初の国としてギリシャを取り上げましたが、いずれ、アイルランドやポルトガルの状況についても概観した続編を作りたいものです。


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 香港から震災後初の団体客
2011-05-17 Tue 16:23
 きのう(16日)午後、首都圏の空港を利用した海外からの団体旅行客としては東日本大震災後初めて、香港のツアー客が成田に到着しました。これを契機に海外からの観光客が回復し、7-8月に横浜で開催予定の国際展には、海外からも多くのお客さんが参加してほしいものです。というわけで、きょうは香港から日本宛てのカバーの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        省港スト・カバー

 これは、1926年1月18日、香港・西半山の西摩道から東京宛に差し出された書留便です。それだけなら、だからどうしたという話なのですが、このカバーが差し出された時期、香港ではいわゆる“省港スト”の最中であったというのがミソです。

 1925年5月14日、上海の日系企業・内外綿で、従業員の解雇問題をめぐる騒動から発砲事件が起こり、1人が死亡。さらに同月28日、青島で、日本の要請で出動した軍閥系の兵士が数名を射殺する事件が発生しました。

 このため、5月30日、上海でこれらの事件に抗議する学生デモが発生しましたが、租界の警察はデモ隊に対して一斉射撃を行い、死者13名、負傷者数十名、逮捕者53名が出ました。いわゆる五・三〇事件です。

 ときあたかも、翌5月31日には中国の全国的な労働組織である中華全国総工会の地域組織として上海総工会が成立。総工会の呼びかけに呼応して、上海全市はゼネストに突入し、労働側は列強諸国や北京政府に対して17ヵ条の要求を突きつけました。

 その後、事件は南京、北京、天津などへと飛び火しましたが、中でも凄まじいまでの勢いを示したのが、広州と香港の省港ストでした。ちなみに、省港の省とは広東省ないしはその省都である広州、港は香港の意味です。

 1925年6月19日、香港の労働者十数万人は、共産党の劉少奇、蘇兆徴、李立三らの指導の下、大規模なストライキに突入。上海での17ヵ条に加え、香港政庁に対して、政治的自由、法律上の平等、普通選挙の実施、労働立法、家賃引き下げ、居住の自由の六項目をつきつけ、さらには不平等条約撤廃の運動も展開しました。

 これに対して、香港政庁は戒厳令を実施。このため、労働者は国共合作の拠点であった広州に走り、6月23日には、国民党も党大会を開いて胡漢民、汪兆銘、廖仲らが反英を訴えます。しかし、集会後、デモ隊が広州の外国人居留地、沙面の対岸、沙基に差し掛かったとき、イギリスとフランスの両軍が群集に向かって機関銃を連射。このため、多数の死者が発生しました。いわゆる沙基惨案です。

 このニュースは瞬く間に中国全土に伝わり、広東政府は香港に対する経済封鎖とイギリスに対する経済断交を宣言。香港の労働者は次々と広州に引き上げ、6月28日までにほとんどの業種で香港と広州の労働者はストライキに突入しました。

 広東政府による香港の封鎖は厳重で、労働者側は糾察隊をつくってスト破りを防いだほか、イギリス商品のボイコットも徹底して行われたといわれています。
 
 その後、ストライキは翌1926年10月まで1年4ヵ月にわたって続き、香港経済は壊滅的な打撃を受けました。また、清掃業者のストライキにより、ゴミや屎尿の回収も行われなかったため、街中は悪臭が満ち溢れ、香港は臭港になったとまで呼ばれました。文革中、香港のことを、帝国主義の腐臭漂う都市として“臭港”と呼ぶ者がありましたが、そのルーツは、案外、こんな所にあったのかもしれません。

 ちなみに、省港ストについて書かれた文献では、たいてい、「香港はゼネスト状態になり…」といった類の記述があるのですが、郵便に関しては、今回ご紹介のカバーを見ると、なんとか“ゼネスト”の対象外として機能していたようですな。

 その後、1926年7月、蒋介石が孫文の遺志を継いで北伐を開始すると、国民政府はこれに力を注ぐようになって、ストライキを顧みる余裕を失います。このため、後ろ盾を失った罷工委員会は、10月10日、民衆大会を開いて、イギリスに対して一方的にストライキの終息を宣言。その後も、香港海員工会によるストライキが散発的に続けられていましたが、最終的に、香港政庁と罷工委員会によって、ストライキ期間中の16ヵ月間に対して、労働者には10ヵ月分相当の賃金が支払われることで省港ストは最終的に決着しました。

 なお、省港スト前後の香港の状況については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しく解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 “516革命”50年
2011-05-16 Mon 16:01
 韓国で朴正熙時代の幕開けとなった1961年5月16日の軍事クーデター(516革命)から、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        516革命1周年(漢江を渡る兵士)

 これは、1962年5月16日、“516革命”の1周年を記念して発行された韓国切手のうち、漢江を渡る兵士を描いた1枚です。

 1960年4月の学生革命で李承晩政権が崩壊した後、1960年8月に発足した張勉政権は、混乱を収拾して社会的安定を回復する必要に迫られていました。

 しかし、与党・民主党は新派・旧派の対立から、旧派が脱党して新民党を結成。両者の泥仕合により政治は機能不全に陥っていました。また、李承晩時代の清算に伴い、多くの財界人が不正蓄財法違反の対象者とされましたが、このことは経済活動の停滞をもたらしました。そうした中で政府が行った通貨切り下げと公共料金引き上げは、物価の高騰をもたらし、労働運動を激化させました。

 さらに、1961年になると、慶尚北道と全羅南道を中心に食糧難が深刻化し、3月には救済を必要とする農家が90万戸(全農家の4割)に達する見込みとの報道が韓国各紙でなされるようになります。完全失業者は政府発表でさえ130万人(米経済援助機構USOMの発表では300万人)にも達しており、韓国経済は危機的な状況に陥りました。

 それにもかかわらず、張勉政権は、2月8日、米側の一方的判断で援助を打ち切ることを盛り込んだ韓米経済および技術援助協定を調印してしまいます。

 くわえて、北朝鮮の宣伝攻勢に影響された学生たちを中心とした“自主統一運動”は、1961年に入るとさらなる盛り上がりを見せ、3月22日には、ソウル市庁舎前で約1万5000名が集会を行って反共法とデモ規正法の制定反対、張勉内閣の即時退陣を要求。デモ隊が首相官邸と国会に押し寄せ多数の逮捕者を出す騒擾事件が発生しました。さらに、5月に入ると、学生による「民族統一全国連盟発起人会」が南北学生会談を決議するなど、運動は急進化していきます。

 こうした状況の中で、文民政権のあまりの無能ぶりに不信感を募らせた軍内では、朴正熙少将(後の大統領)を中心とする少壮将校がクーデターの謀議を進め、1961年5月16日、ついに計画を実行に移したというわけです。

 かくして、1961年5月16日午前3時、朴正煕少将らのひきいる約3600名の兵力(空挺団、海兵第一旅団、第五砲兵団)が、海兵隊を先鋒として漢江大橋(当時の名称は漢江人道橋)を渡り、ソウル市内に侵入。ただちに陸軍本部と放送局を制圧しました。今回ご紹介の切手には、このときの“革命軍”が漢江を渡る様子が取り上げられています。

 それにしても、時代や国情が違うとはいえ、無能で内紛ばかりの民主党政権の失策により国民経済が疲弊しているにもかかわらず、政府がそれを無視して事態をさらに悪化させようとしているという構図だけ要約してみると、とても、半世紀前の外国の話とは思えませんな。心情的には、“516”の先例に倣って、ここらでクーデターが起こって“民主党政権”が崩壊し、経済状況が好転するというシナリオになってほしいところですが…。

 なお、“516革命”とその前後の韓国の状況については、拙著『韓国現代史』でもいろいろと解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 『たんぶるぽすと』5月号
2011-05-15 Sun 23:26
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『たんぶるぽすと』の5月号ができあがりました。今月の同誌は、2月に行われた世界切手展<INDIPEX>の特集号で、僕も、同展に出品した作品のことなどについて短いエッセーを書いています。その記事の中から、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)
        
        京奉空中郵運開航

 これは、1924年5月に中国で発行予定だったものの、結局は発行されずに終わった“京奉空中郵運開航”の記念切手のうち、最高額の45分の田型です。

 1923年9月、奉天派軍閥の幹部であった張学良(張作霖の息子)は、翌1924年5月に北京=奉天間の航空路を開設し、それにあわせて記念切手を発行することを企画しました。

 しかし、前年(1922年)4月28日から5月5日にかけて、直隷派軍閥の曹錕、呉佩孚と奉天派の張作霖との間で第1次奉直戦争が勃発し、直隷派が勝利を収めて張作霖は山海関の外に退却を余儀なくされました。

 その後、1922年6月には停戦が成立したことを受けて、張学良は航空路線開設を計画したわけですが、1923年10月、直隷派の曹錕は賄賂を使って中華民国大総統に当選し、中華民国憲法を制定しました。このため、奉天派のみならず、孫文らの南方勢力(余談ですが、当時、中華民国の正式な政府として正式に承認されていたのは北京政府であって、孫文らの南方勢力ではありません)もこれに強く反発し、翌1924年9月には第2次奉直戦争が勃発することになります。

 こうした情勢の変化により、結局、北京=奉天間の航空路は開設されず、準備された記念切手も不発行に終わってしまいました。

 不発行に終わった切手のうち、45分切手の田型は、今回ご紹介のモノを含め、現在までに2点が報告されているのみですが、2009年の香港展の後、首尾よく入手することができましたので、今回の展示でさっそく、満洲事変以前の軍閥割拠の状況を説明するリーフで使いました。

 なお、『たんぶるぽすと』誌の記事では、今回のインド展の出品作品の中から、この切手を張ったリーフを含め、前回の香港展とは内容を変えたリーフを中心にリーフのご紹介しましたので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 信楽高原鐵道事故から20年
2011-05-14 Sat 22:48
 42人が死亡し、614人以上が負傷した信楽高原鐵道(以下、高原鐵道)列車衝突事故が1991年5月14日に発生してから、ちょうど20年となりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        世界陶芸祭

 これは、1991年4月19日に発行された「世界陶芸祭」(以下、陶芸祭)の記念切手です。

 世界陶芸祭は、滋賀県甲賀郡信楽町の「県立陶芸の森」が完成記念イベントして、1991年4月20日から、「語り、創り、燃える。陶芸ルネッサンスをめざして。」をテーマに開催され、内外20ヵ国以上の陶芸を中心とした展示・シンポジウムなどが行われました。

 切手に取り上げられたのは、陶芸祭に置いて開催された「土をうたう―ちえおくれの人達の世界展」に出品された戸次公明(第二びわこ学園)の作品で、背景の虹は“友愛の情”を表現しています。なお、陶芸祭の会期初日にあたる4月20日は土曜日でしたので、切手は前日の19日に発行されました。

 さて、陶芸祭は開催前から非常な人気を呼んでいたため、観光客を輸送する対策として、高原鐵道とJR西日本との直通快速列車が運行されることになり、高原鐵道線の中間地点に列車が行き違うための信号所が設置されました。しかし、高原鐵道とJR西日本の双方が互いに無断で信号の改造工事をしていたことにくわえ、事故前にも不具合が発生していたにもかかわらず、十分な対策が講じまられないままになっていました。

 こうした状況の下で、1991年5月14日10時35分頃、高原鐵道信楽線の小野谷信号場=紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車と京都発信楽行きのJR西日本直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」が正面衝突。「世界陶芸祭しがらき号」は超満員の状態(通常の約2.5倍)であったこともあり、42名が死亡(JR側乗客30名、高原鐵道側乗客12名、職員5名)、614名が重軽傷を負う大惨事となりました。事故の直接の原因は、高原鐵道が、信楽駅での信号が赤にもかかわらず上り列車を発車させてしまったにもかかわらず、小野谷信号場の信号の誤出発検知装置が機能せず、同信号が赤信号にならなかったこと、「世界陶芸祭しがらき号」が同信号場で青信号のまま進入したためことによります。

 事故を受け、陶芸祭は会期を10日あまり残して中止されましたが、すでに発売された記念切手に関しては、その後も使用禁止などの措置が取られることはなく、現在でも有効です。

 事故を機に、鉄道事故としては初めての事故調査委員会が設置されました。その後、長年にわたる裁判を経て、今年4月27日、事故の責任割合を大阪地裁判決が「高原鐵道が7割、JR西が3割」と認定。両社が判決を受け入れ、事故から20年を経て、ようやく全訴訟が終結しました。きょうは、事故現場近くにある慰霊碑前で追悼法要が行われ、参加者は犠牲者の冥福を祈るとともに、事故の再発防止と公共交通の安全を願ったとのことです。

 さて、人間のやることに一定の割合で失敗や事故が発生するのは避けられません。しかし、それを教訓に、さまざまな改善策が講じられ、安全性が向上していくのであれば、事故の経験は決して無駄にはならないと思います。逆に、事故の教訓をその後に全く生かすことができなければ、事故の被害者・犠牲者は全く浮かばれません。

 福島原発の事故は、きっかけこそ地震による津波という自然災害でしたが、その後の政府や東京電力の対応のまずさから、結果的に人災という側面が強くなっていることは周知のとおりです。今後、原子力発電を続けるにせよ、徐々に止めていくにせよ、その教訓がどのように活かされていくのか、注目していかねばなりますまい。


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 強制収容所の元看守に禁固5年
2011-05-13 Fri 09:51
 きのう(12日)、ドイツ・ミュンヘンの裁判所は、第2次世界大戦中の1943年3月から9月まで、ナチス・ドイツ占領下のポーランドのソビブル強制収容所で看守を務めていた、ジョン・デムヤンユク被告(現在91歳)に禁錮5年の判決(ただし、逃亡の恐れや社会への脅威はないとして、即時釈放)を下しました。というわけで、ソブビルではないのですが、ナチスの強制収容所関連ということで、きょうはこんなモノを持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        アウシュヴィッツ・青色封筒

 これは、1941年6月27日、アウシュヴィッツ強制収容所から差し出されたカバーで、収容者専用の青色封筒が使われています。

 1939年9月、ポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、1940年5月、ポーランド南部のオシフイエンチム(ドイツ語名アウシュヴィッツ)郊外の旧ポーランド軍兵営をアウシュヴィッツ第1強制収容所として、犯罪常習者とポーランド人政治犯の収容を始めました。その後、ブジェジンカ(ドイツ語名ビルケナウ)に第2、モノヴィッツに第3収容所が設置され、1945年1月にソ連軍が解放するまでの間に、100万人のユダヤ人と、25万人以上の非ユダヤ人が計3ヶ所の“アウシュヴィッツ強制収容所”で犠牲になりました。

 収容者の通信には専用の封筒・便箋・葉書が使用されていましたが、外部から差し入れられるなどして、通常の葉書等が用いられることもありました。その後、戦況の悪化に伴い、封筒と便箋が一体となったレターシートが使われるようになります。

 今回ご紹介のモノは、その初期の専用封筒で、青色の用紙で、左側には7項目の注意書きが印刷されています。なお、この頃のアウシュヴィッツでは、収容者の手紙は専用の便箋に書かれ、この封筒に入れて送られました。貼られているのはヒンデンブルクの12ペニヒ切手で、赤い角型の検閲印が押されています。

 アウシュヴィッツ関連のステーショナリーには、さまざまなヴァリエーションがあり、収集対象としてもなかなか興味深いので、いずれ、なんらかの形できちんとまとめてみたいと思っています。


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 スペイン・ロルカで大地震
2011-05-12 Thu 18:28
 スペイン南東部ロルカで、きょう未明(現地時間では11日夜)、マグニチュード5.1と4.4の強い地震が2度起こり、市内の中心部が壊滅状態になったほか、現在までに少なくとも10人の死亡が確認されたそうです。亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々にお見舞い申し上げます。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ロルカ・難民救済

 これは、スペイン内戦期の1937年、共和国支配下のロルカでローカルに発行された難民救済の戦時税切手です。

 1936年7月に始まったスペイン内戦では、共和国側フランコ側がそれぞれ独自の切手を発行し、支配下の住民に使用させていましたが、それとは別に、地方ごとに、それぞれの中央政府が発行するものとは別に、戦時税を集めるためのローカル切手(戦時税切手)やラベルが独自に発行され、郵便物にも貼られることがありました。

 共和国政府の郵政は、こうしたローカル・ラベルの発行を表向きには認めていませんでしたし、それを“戦時税切手”のようなかたちで強制的に郵便物に貼らせるということはなかったのですが、各地の指導者たちは戦意高揚と義捐金集めの意味を込めてこうしたラベルを盛んに発行しました。

 今回ご紹介しているモノもその一例で、戦時難民救済の資金を集めるために発行され、郵便物に貼付されまていました。なお、今回ご紹介のモノには“ロルカ”の地名が入っていないのですが、ロルカの地名が入った難民救済のローカル戦時税切手も発行されています。また、“反ファシスト人民戦線”の名前で発行された戦費調達のための戦時切手もあります。

 それにしても、今年に入ってから、2月22日のニュージーランド大地震、3月11日の東日本大震災、3月24日のシャン州大地震、そして今回のロルカ大地震と、大きな地震が続きますねぇ。僕は、オカルトの類は全く信じないのですが、それでも地球全体がどうにかなっちゃったんじゃないかと、さすがに心配になりますな。


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 ウィリアム王子夫妻、セーシェルへ
2011-05-11 Wed 11:48
 先月末に結婚式を挙げたイギリスのウィリアム王子とキャサリン妃が、9日夜(現地時間)、極秘でインド洋西部のセーシェル諸島のデロッシュ島に10日間の新婚旅行に出かけていたことが分かりました。というわけで、セーシェルがらみでこの切手です。

        モーリシャス・セーシェル消し

 これは、1890年以前のセーシェルで使用されたモーリシャス切手です。

 セーシェル諸島は古くからアラブ商人の寄港地となっていましたが、1742年にフランスが探検隊を派遣し、当時の首相の名から、セーシェル諸島と命名しました。1756年、フランスはセーシェルの領有権を主張しましたが、ナポレオン戦争中の1794年にはイギリス海軍が同諸島を占領。ナポレオン戦争後、セーシェルはモーリシャスの一部として正式に英領となりました。

 切手に関していうと、1861年からモーリシャス切手が使用されるようになり、今回ご紹介のように、B64と表示された消印が使用されました。

 その後、1872年にセーシェル独自の行政審議会、立法審議会が設立され、1903年にセーシェルは行政組織上も正式にモーリシャスから分離されます。この間、1890年からはセーシェル独自の切手が発行され、使用されるようになりました。なお、現在のように、英連邦加盟の独立国となったのは、1976年6月のことです。

 まぁ、こういう機会でもないと、なかなかセーシェルが日本のニュースで話題になることもありませんので、ちょっとご紹介してみました。

 * 昨日(10日)の午後、カウンターが85万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。


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 切手で訪ねるふるさとの旅:東京
2011-05-10 Tue 16:45
 ご報告が遅くなりましたが、『(郵便局を旅する地域活性マガジン)散歩人』第9号(2011年5月号)ができあがりました。僕の連載「切手で訪ねるふるさとの旅」では、今回は東京を取り上げました。そのなかから、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        皇居・二重橋

 これは、1974年1月に発行された昭和天皇の“大婚50年”の記念切手の1枚で、皇居の二重橋が取り上げられています。

 1974年1月26日、昭和天皇と香淳皇后は、一般の金婚式にあたる大婚(天皇の結婚)50年を迎えました。当時、天皇は72歳、皇后は70歳です。ちなみに、金婚式当日の天皇・皇后のスケジュールは以下の通りでした。

 09:00 宮中三殿での拝礼(侍従が代拝)
 10:20 表御座所で宮内庁長官(宇佐美毅)から祝辞を受ける
 11:00 竹之間で内閣総理大臣(田中角栄)以下の閣僚、衆参両院議長、最高裁判事、皇太子夫妻以下の皇族ならびに元皇族からの祝辞を受ける
 12:00 豊明殿で内宴
 14:00 桃華楽堂での舞楽(万歳楽と衲曾利)の観覧
 15:40 連翠間での宮内庁関係者を招いての茶会
 夜   吹上御所での祝いの膳

 なお、当日は宮内庁正面玄関前に記帳所が設けられ、午前9時から午後3時30分までの間に約2000名が一般記帳を行いました。

 大婚50年の記念切手は、当初、昭和48年度の発行計画が発表された際は公表されておらず、10月になって、急遽、発行が発表されました。この間の経緯については良くわかっていませんが、天皇と皇后は、大婚50年に関しては公的な祝賀行事は辞退したいとの意向を明らかにしていたため、記念切手が当初の発行計画から外されていたのではないかともいわれています。

 今回ご紹介の切手に取り上げられた二重橋は、本来、皇居正門の鉄橋(正式名称は西丸下乗橋)のことです。もともと、この場所には江戸時代に江戸城西丸が改修された際に、木造橋が架けられていました。この木造橋は、橋の下に足場のための橋が架かっており、二段構造になっていたため、「二重橋」と呼ばれていました。その橋が、1888年に鉄橋として架け替えられ、さらに、1964年、新宮殿建設の際に現在の橋に架け替えられたというわけです。

 なお、鉄橋の手前には1887年に完工の石橋(西丸大手橋)があるため、石橋と鉄橋の二つの橋をあわせて「二重橋」と呼ばれることも少なくありませんが、これは、本来の用語からすると誤用です。ただし、郵政省は、この誤用に基づいて、今回の切手のデザインを「二重橋(石橋・鉄橋)」と説明しています。

 さて、今回の記事では、地図をバックに、皇居・二重橋のほか、雷門、東京駅、国会議事堂御、東京タワー、小笠原、高尾山の切手を取り上げ、東京都の代表的な観光地を紹介する構成となっております。掲載誌の『散歩人』は各地の郵便局などで入手が可能ですので、御近所でお見かけになりましたら、ぜひお手にとってご覧ください。


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 中国にサンリオのテーマパーク
2011-05-09 Mon 12:36
 “ハローキティ”などをメインにしたサンリオのテーマパークが浙江省安吉県に建設されることになり、きのう(8日)、同省の観光開発企業とサンリオによるテーマパークプロジェクト調印式が行なわれました。計画によると、60ヘクタールの敷地にレジャー、飲食、ホテルなどの複合施設が入居する予定で、長江デルタ地域では現在建設が進んでいる上海ディズニーランドに続く目玉レジャー施設プロジェクトと目されているのだそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        キティ(上海万博50円)

 これは、昨年(2010年)発行されたグリーティング切手の1枚で、中国風の服装をしたキティが描かれています。キティのシール式グリーティング切手は、これまでにも何度か発行されていますが、昨年は上海万博の都市ということで、シートの上部に“祝・上海万博”の文字が入り、上海をイメージしたデザインのモノが発行されました。

 かつては、カリブ海の小国などがジャパン・マネーをあてにして、“日本”を題材としたジャポニカ切手を濫発していましたが、現在では、彼らのターゲットも、もはや、完全にチャイナ・マネー目当てにシフトしています。名義上の発行国のエージェントとして、実際の郵便使用を想定せず、ひたすら“売れる切手”さえ作ればいいのだという発想の人たちは、ある意味で非常にドライですから、彼らの関心の所在は、そのまま、現実の国際社会の力学を反映したものとなります。それゆえ、いわゆる“いかがわしい切手”のなかに中国ネタのモノがどれほど増えようと、そのことじたいは構わないのですが、曲がりなりにも先進国の一角を占めているはずの日本までもが、中国に媚び、チャイナ・マネーを目当てにしていると取られかねない切手を発行したことに、当時、衝撃を覚えた収集家は少なくなかったのではないかと思います。

 まぁ、今回の建設計画が発表されると、株式市場ではサンリオの株価が急上昇したそうですが、身ぐるみはがされて放り出されたヤオハンの例を持ち出すまでもなく、対中ビジネスというのは一筋縄ではいきませんからねぇ。気が付いたら、サンリオもヤオハンの二の舞となり、日本を代表するキャラクターの一つであるキティが中国資本によって買収されていたなんて、ことになったら、洒落になりませんな。

 なお、いわゆる“いかがわしい切手”については、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも1章を設けて解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 切手に描かれたソウル:大韓赤十字社
2011-05-08 Sun 16:25
 きょう(8日)は、“赤十字の父”アンリ・デュナンの誕生日にちなむ世界赤十字デーです。ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』の先月の僕の僕の連載「切手に描かれたソウル」では大韓赤十字社(以下、韓赤)の本社ビルのことを取り上げましたので、その記事の中から、きょうはこんなモノを持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        韓赤絵葉書     韓赤絵葉書(裏面)

 これは、韓赤が作成した軍事郵便用の絵葉書で、絵面には、当時の韓赤本社ビルの写真が取り上げられています。葉書が制作された正確な時期はわからないのですが、後述するように、写真の風景等から、1953年の朝鮮戦争休戦前後のものではないかと思います。

 韓国における赤十字の歴史は、旧大韓帝国政府が1903にジュネーヴ第1並びに第2条約を調印し、1905年に高宗が赤十字の創立を宣言したことに始まります。

 日本統治下では、一国一組織の原則により、朝鮮の赤十字は日本赤十字社に吸収され、その支部扱いとなりましたが、1919年に上海で組織された“大韓民国臨時政府”は独自の赤十字組織を有していたそうです。

 解放後、米軍政時代を経て1948年に大韓民国が正式に発足すると、翌1949年、新たに大韓赤十字社が発足しました。これが現在の韓赤の直接的なルーツとなります。1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、韓赤はさまざまな救援活動を行い、休戦直後の1953年8月1日には、その活動資金を集めるための寄付金つき切手も発行されました。

 今回ご紹介の葉書ですが、絵面の左手前には戦争で被害を受けたと思しき壁の一部が映っています。ただし、韓赤本社の社屋や隣の建物、道路や電柱などは復旧されているようにみえますので、ソウルの状況が落ち着いた1952年以降、あるいは、1953年7月の休戦後間もない時期の風景ではないかと推測されます。

 また、絵面右側の説明文を見ると、韓赤本社ビルの所在地はソウル南山洞となっています。おそらく、地下鉄4号線の明洞駅からも近い現在の社屋の所在地、中区南山洞3街17番地と同じ場所ではないかと思います。

 ちなみに、韓赤が国際赤十字から正式な承認を受けたのは休戦後の1955年5月25日のことでした。
 

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 平泉と小笠原、世界遺産へ
2011-05-07 Sat 22:14
 文化庁と環境省によると、岩手県平泉町の中尊寺などから成る文化遺産「平泉」と、東京都小笠原村の自然遺産「小笠原諸島」について、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関が世界遺産登録を勧告したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。

        金色堂30円     金色堂の模型

 これは、1968年5月1日に発行された30円の普通切手で、中尊寺の金色堂が描かれています。残念ながら、僕は金色堂の実物を見たことがないのですが、一昨年(2009年)、世田谷美術館で開催された“平泉~みちのくの浄土”展を見に行ったとき、会場に展示されていた金色堂の模型の写真を撮ってきましたので、その画像を右側に貼っておきます。

 金色堂は、奥州藤原氏初代の藤原清衡が1124年に建立しました。堂の内外に金箔を押してある“皆金色”の阿弥陀堂(ただし、屋根の部分は解体修理の際に金箔の痕跡が発見できなかったために箔補てんは見送られました)で、平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例として国宝に指定されています。堂内は4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、螺鈿、透かし彫りの金具、漆の蒔絵など、平安時代後期の工芸技術を結集した装飾が施されており、堂全体があたかも一つの美術工芸品となっています。

 平泉は2008年にも世界遺産への登録が期待されていましたが、このときは見送られており、今回が再挑戦でした。6月19-29日にパリのユネスコ本部で開かれる世界遺産委員会で、世界遺産への登録が正式に決定されれば、東北初の世界文化遺産となります。

 平泉が世界遺産となれば、今後、世界各国から多くの観光客が訪れるようになると思います。“世界遺産”の看板は、単なる名誉だけでなく、経済的にも被災地の復興を後押しすることになるでしょう。久しぶりに気分が明るくなるニュースですな。

 * 本日の切手市場は無事、終了いたしました。ご来場いただきました皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 Philatelic Jouranal
2011-05-06 Fri 11:55
 ご報告が遅くなりましたが、4月20日付で Stampedia Proroject による『Philatelic Journal』が刊行となりました。僕も、「テーマティク・コレクションとその要素」と題して、競争展におけるテーマティク作品の基本的な考え方について説明する一文を寄稿していますが、きょうはその中から、こんなマテリアルをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        ビルマ・開戦後カバー

 これは、1942年2月17日、在ラングーン(ヤンゴン)の英軍基地局からインド宛に差し出されたカバーです。

 日中戦争下において、いわゆるビルマ・ロードが蒋介石政権にとって重要な物資補給路となっていたため、日本側はビルマ・ロードによる米英の対中支援を遮断するためにさまざまな策を講じました。その一環として、ビルマの独立運動を支援することが計画され、1941年2月、陸軍大佐・鈴木敬司を長とする“南機関”が樹立され、独立の志士、アウンサンらとともに、ビルマ独立計画が動きだすことになります。

 同年12月8日、日本がイギリスに宣戦を布告すると、同月28日、アウンサンを中心とする140名のビルマ独立義勇軍が(BIA)がバンコクで編成されました。BIAは日本軍とともにビルマに進撃し、彼らが前進していくにつれ、多くの義勇兵たちがこれに参加しました。

 こうして日本軍とBIAは1942年3月7日、ヤンゴン(ラングーン)を占領し、4月末までに、ペグー、トングー、レパダウン、アラウンミョー、イェナンジョン、ロイコー、ラシオ、及びマンダレーの各地を占領しました。

 今回ご紹介のカバーは、日英開戦後、日本軍がビルマを占領するまでの間にイギリス側から差し出されたもので、僕のコレクションでは、日本軍占領後のカバーと対比して並べることで、日英開戦と日本軍によるビルマ占領を表現しています。

 競争展示における“テーマティク・コレクション”とは、「十分に計画されたプランに沿って、適切な郵趣材料を万遍なく集め、論理的に展開したコレクション」と定義されています。このため、テーマティク・コレクションで「知識と研究」という場合、いわゆる製造面や使用面などの一般的な郵趣知識にくわえ、できるだけ多種多様なマテリアルを作品中の適切な場所において展示することも評価の重要なポイントとなります。換言するなら、出品者の郵趣知識(の一端)は、展示されているマテリアルの多様性をもって評価されるということです。

 したがって、“昭和の戦争”を扱った僕のコレクションの場合、日本やその占領地のマテリアルと同等に、連合国側のマテリアルや、さらには、アフリカ中南米など、一見、日本の戦争とは無関係に見える地域の、当時のマテリアルも展示することによって、マテリアルの“多様性”をアピールするようにしています。

 今回刊行された『Philatelic Journal』では、テーマティク・コレクションの基本的な考え方について、自分のコレクションを素材としながら、その概略をご説明しました。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 なお、同書の詳細や入手方法についてはこちらをご覧ください。また、あすの切手市場でも、僕のテーブルで同書を販売する予定ですので、お手に取っていただけると幸いです。


  ★★★ イベントのご案内 あす(7日)開催! ★★★

 ・5月7日(土) 10:15- 切手市場
 於 東京・池袋 東京セミナー学院
 詳細は主催者HPをご覧ください。最新作の『切手百撰 昭和戦後』を中心に、拙著を担いで行商に行きます。

 会場ならではの特典もご用意しておりますので、ぜひ、遊びに来てください。


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 こいのぼり
2011-05-05 Thu 09:26
 きょう(5日)は端午の節句(ただし、中華世界では現在でも旧暦の5月5日)です。というわけで、こいのぼりの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        こいのぼり

 これは、1955年5月16日に発行された「第15回国際商業会議所総会」の記念切手で、こいのぼりが描かれています。

 国際商業会議所(ICC:International Chamber of Commerce)は、①国際貿易、サービス、投資の促進、②企業間の自由かつ公正な競争の原理に基づく市場経済システムの発展、③世界経済を取り巻く様々な問題(環境、社会問題等)への提言、を目的に、各種の国際機関や各国政府への政策提言と国際取引慣習に関する共通のルール作りを行う国際機関で、1946年10月、国連の経済社会理事会において、世界ビジネス機構として国連のA級諮問機関の指定を受けています。

 そのルーツは、第一次世界大戦後の1919年10月、アメリカのアトランティック・シティで開催された「アトランティック国際通商会議」で、同会議にはヨーロッパの産業・経済の復興と自由な国際通商の実現を目指して、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・ベルギーなどの産業人約4000名が参加しました。この会議の結果、翌1920年5-6月、パリで開かれた創立総会で正式にICCとして発足。以来、民間企業の世界ビジネス機構として活動を続けています。ちなみに、わが国の正式な加盟は1923年7月のことでした。

 ICCの総会は、1921年にロンドンで第1回が開催され、以後、第二次大戦中による中断はあったものの、2年に1度ずつ開催されています。

 その第15回総会は、1955年5月17日から21日まで東京で開催され、45ヶ国から1500名が参加しました。このICC総会は、当時としては戦後のわが国最大の国際会議であったため、記念切手が発行されたというわけです。

 ところで、この切手は、日本最初のグラビア四色刷の切手として知られています。

 前年の1954年10月、経済成長に伴い、郵便物の量も急増し、その結果、切手の需要も飛躍的に増加したことから、印刷局は西ドイツ(当時)から、ゲーベル社製の最新鋭グラビア印刷機を輸入していました。

 この印刷機は、4色までのグラビア多色刷の切手を製造できる能力を備えており、以後、日本の切手印刷はモノクロからカラーの時代に移行することになります。ただ、機械の導入当初は、印刷局は、いわば試運転を兼ねて、カモシカを描く、単色の通常8円切手を製造していました。

 その後、新型印刷機の性能に合わせた用紙や裏糊などの開発・改良作業が進んだことで、印刷局は、まず、年賀切手(加賀起き上がり)の切手でグラビア2色刷を行い、今回の記念切手から4色刷の切手を製造していくことになります。今回の記念切手の図案に、会議の内容よりも、会議の時期に合わせて、こいのぼりが採用されている背景には、こうした、新型機のお披露目という意味あいがあったことは間違いありません。なお、目打に関しては、今回の切手では穿孔装置の関係から、別個に櫛型機でおこなわれました。

 さて、今回の記念切手は、世界の切手印刷関係者に大きなインパクトを与え、それまで世界的には無名だった印刷局の名を一挙に高める役割を果たしています。

 ただし、日本国内では、この切手の評判はあまり芳しいものではなく、“シールみたいだ”、“4色の機械があるからと云つて強いて4色使う必要はない”(以上、『切手趣味』が再録した収集家の声)、“子供だましのシール”、“これが切手だろうか”、“採點は乙の下”(以上、『郵趣』が再録した収集家の声)など、多くの収集家が酷評しています。これは、おそらく、2色刷の年賀切手の出来栄えが非常によかったために、それと比べると、今回の4色刷の切手がデザインや配色の面で見劣りするものとなってしまったためと思われます。

 1950年代後半以降、ゲーベル印刷機を用いたグラビア多色刷の切手は、日本の印刷局のお家芸として世界各国から高い評価を得ることになるのですが、今回ご紹介の切手は、まさに、そのほろ苦いデビュー作といったところでしょうか。

 なお、拙著『切手百撰 昭和戦後』でも、この切手をカラーで取り上げて解説しております。機会がありましたら、ぜひ、こちらもご覧いただけると幸いです。
 

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 日豪戦争⑩
2011-05-04 Wed 22:04
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第427号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は、マッカーサーがフィリピンからオーストラリアへ退却してきた話を書きましたが、そのなかから、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        在豪・米野戦局

 これは、1942年4月11日、オーストラリアのメルボルンに置かれていた米軍の軍事郵便局から差し立てられたカバーです。

 1941年12月8日、日米開戦と同時に日本軍は米国の保護領であったフィリピンへの攻撃を開始。その後も先制攻撃の利を活かして進撃を続ける日本軍に対して、米比軍はバターン半島とコレヒドール要塞を拠点として持久戦を展開しようとしましたが、米本国からの援軍は来らず、1942年2月22日、大統領のローズヴェルトはマッカーサーに対して、コレヒドールを脱出してオーストラリアに向かうよう命じました。

 日米開戦直後から、米軍はメルボルンに米極東軍の補給担当の司令部を置いていましたが、これに伴い今回ご紹介のカバーの“501”局も1942年1月に設置されていました。これは、太平洋における米軍の戦いにとって、オーストラリアが重要な後方基地として位置付けられていたことの証であり、オーストラリアにいったん退避して反攻のための戦略を練り直すという発想もここに由来するといってよいでしょう。

 かくして、3月11日深夜、マッカーサーは妻子、サザーランド参謀長、マーシャル参謀副長、ロックウェル提督ら40名とともに4隻の高速魚雷艇に分乗してコレヒドール島を脱出し、キューヨー諸島の無人島を経て、14日未明、ミンダナオ島北部の中央海岸に到着。デルモンテ飛行場からB-17に乗り、17日、オーストラリア北部準州(ノーザンテリトリー)のバチェラー空軍基地(余談ですが、同基地は1942年10月24日に日本軍の空襲を受けています)に到着した。

 一行はそこから、そこからさらに北部準州内のアリススプリングスに飛び、そこからアデレード行の鉄道で南へ向かいましたが、途中、車両交換のために下車したテロウィーの駅で、マッカーサーが記者団を前に発したのが有名な“アイ・シャル・リターン”の演説です。

 オーストラリアに到着したマッカーサーは、ローズヴェルトがそこに反攻のための兵力と武器弾薬を用意していると期待していましたが、実際には反攻のための兵力は確保されていませんでした。結果的に、フィリピンの米兵を見捨てて自分たちだけオーストラリアへ逃走した格好となったマッカーサーはすっかり面目をつぶされて激怒しましたが、米本国では彼を“リンカーン以来の英雄”に祭り上げる空気が醸成されていきます。

 すなわち、破竹の進撃を続ける日本軍に対して連合国の敗北が続く中、孤立無援の抵抗を続けてきたマッカーサーの姿は、それだけで、米国民に強い共感をあたえていましたが、さらに、コレヒドールからの退却を“戦略的撤退”と称し、“アイ・シャル・リターン”の名文句を効果的に新聞記者の前で語ったことで、米国民のマッカーサー人気は急上昇。じっさい、当時のアメリカでは、男の子が生まれるとダグラスと名づける親が続出し、マッカーサーの名を冠した郵便局も開局されています。

 もともと、米国内の政治的・思想的スタンスからするとマッカーサーとローズヴェルトは水と油の関係でしたが、天才的なポピュリストでもあったローズヴェルトはマッカーサーの大衆的な人気を有効に活用することを考え始めます。

 その結果、長年のフィリピン勤務の経験により“米軍一のアジア通”ということになっていたマッカーサーは、1942年4月18日、海軍首脳の反対を押し切るかたちで、南西太平洋方面連合軍(以下、南西太平洋軍)司令官に任命され、太平洋戦線における連合軍の最高指揮官という立場を確保しました。

 さて、南西太平洋軍の総司令部は、メルボルンで発足した後、1942年7月21日以降、クイーンズランド州の州都ブリスベンの中心部、クイーン・ストリートとエドワード・ストリートの角にあったAMPビルに置かれています。AMPビルは、1930年から1934年にかけて建設され、戦前はオーストラリア相互年金協会の本部が入っていました。1944年までマッカーサーが執務室として使っていた9階の部屋は、現在、“マッカーサー博物館”として毎週、火・木・日曜日に公開されています。

 南西太平洋軍の設置により、オーストラリアは日本に対する反攻の前線基地として100万の米軍部隊が駐屯することになりました。日本との戦いにおいて頼りにならない英国に代わり、オーストラリアに駐留した米軍は、以後、ニューギニアから島伝いに北西へと反攻の兵を進めていきます。そして、オーストラリアは米軍とともに日本軍と戦うことになりました。

 なお、マッカーサーとその生涯については、拙著『大統領になりそこなった男たち』でも1章を設けて説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ビンラディン殺害
2011-05-03 Tue 11:22
 きのう(2日)、2001年のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされるオサマ・ビンラディンが、パキスタンのアボタバードで米軍により射殺されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        アゼルバイジャン・テロとの戦い

 これは、2002年、アゼルバイジャンが発行した「テロとの戦い」の小型シートで、同時多発テロで炎上する世界貿易センタービルを背景にアゼルバイジャン国旗と星条旗、それに、反テロを示す握りこぶし状の地球が描く切手が収められています。

 同時多発テロ事件に関しては、事件発生当初からアメリカはビンラディンを容疑者と断定し、ビンラディンの身柄引き渡しを拒否したことを理由に、彼の潜伏先であったアフガニスタンを空爆し、タリバン政権を崩壊に追い込みました。

 僕はビンラディンの主義主張や行動を支持するわけではありませんし、一部の人たちが主張するように同時多発テロ事件がアメリカの自作自演だったという陰謀説に与することもありません。ただ、ビンラディンが同時多発テロの首謀者であるとアメリカが主張するのであれば、やはり、彼を殺害するのではなく、身柄を拘束したうえで裁判にかけ、物証をもとに、テロ事件において彼が果たした役割をきちんと立証し、しかるべき判決を下すべきだったと思います。

 事件直後にアメリカが“証拠”として公開したビデオテープでは、実は、ビンラディンは事件を事前に知っていたわけではなく、飛行機がビルに突っ込んだらどうなるかという仮定の話をしているだけですから、証拠としては決定的なものとはなりませんし、事件から3年後の2004年に公開された本人と思しき人物による“犯行声明”も所詮は“声明”ですから、証拠としては弱いでしょう。ビンラディンが事件の首謀者であることは、僕も間違いないと思いますが、そうであればこそ、一点の疑念も生じさせない確実さと慎重さが求められるのではないでしょうか。

 その意味では、今回の一件は事件の真相を明らかにする機会が永遠に失われたのは誠に残念なことです。特に、約40分間続いた銃撃戦では、オサマと彼の息子、身の回りの世話をする男性2人、「盾」になった女性1人の計5人が死亡し、女性2人が負傷したものの、米側には負傷者がなかったというのですから、少なくともビンラディンを生きて拘束することは十分に可能だったのではないかと考えずにはいられません。

 また、ビンラディンが殺害されたとして、いわゆるイスラム原理主義者たちによる反米テロの根本的な要因が解決されたわけではありませんから(たとえば、現在でも、イスラムの聖地メッカ・メディナがあるアラビア半島に米軍が駐留していますし、イスラム世界の人々が欧米のダブルスタンダードに対して抱いている不信感は払拭されていません)、これで各地の反米テロが収まるということは、とうてい考えられません。むしろ、彼らの認識では、欧米でテロと呼ばれている行為は“侵略者に対する自衛のための抵抗運動”ということになるわけですから、ビンラディンが殉教者に祭り上げられ、かえって報復テロを激化させる可能性があることは十分に留意しておくべきでしょう。

 さらに、今回の急襲作戦では、アメリカ政府は機密保持を徹底し、パキスタン政府には作戦終了後に説明したということですが、そうなると、米軍は主権国家であるパキスタンに勝手に乗りこんで、パキスタンの主権を無視して軍事・警察活動を行ったということになりますな。パキスタンも、政府はともかく、国民の間には潜在的に反米感情が根強いですからねぇ。結果的に、パキスタン政府も米軍の行動を追認せざるを得ないでしょうが、今後の動向がちょっと気になるところです。

 いずれにせよ、アフガニスタン空爆やイラク戦争、今回の一件に見られるような強引さが、結果的に、各国の反米感情を醸成する素地となっている面があるのは間違いありません。いい加減、アメリカ自身もそのことに気がついてほしいものです。


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 八十八夜
2011-05-02 Mon 10:12
 きょう(2日)は八十八夜です。というわけで、ストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        日本平(茶摘み)

 これは、“観光地百選”切手の第二集として、1951年4月2日に発行された「日本平」の切手のうち、茶摘み風景を取り上げた8円切手です。

 日本平は静岡県清水市の南方約5キロメートルの地点にある高台で、東征中の日本武尊が、この地で敵方の放った火難にあった際、剣で草をなぎ払って危機を脱したとの伝説にちなんでこの名がつけられました。茶とみかんの香り高いパノラマ台として知られ、その北東からは三保松原と清見潟の俯瞰から富士の大観を、東側からは黒潮の流れに浮かぶ伊豆箱根の連峰を、北から西にかけては南アルプス、大井川、御前崎にいたる遠望を、それぞれ眺めることができます。山麓には日本武尊の故事にちなんだ草薙神社があるほか、付近には久能山東照宮、三保松原、鉄舟寺、竜華寺、登呂遺跡などの名所があります。

 切手の元になった写真は、国立公園切手で収集家にもなじみの深い岡田紅葉が撮影したもので、印刷庁の丹後昭が原図の版下を作成しました。郵政省から印刷庁への発注は2月6日でしたが、刷色に関して試刷が何回かやり直された結果、校了は3月12日までずれ込んでいます。

 切手発行日の4月2日には静岡県庁で贈呈式が行われ、郵政大臣の代理から静岡県知事、清水市長、清水商工会議所会頭、静岡市長、静岡商工会議所会頭、安倍郡有土山村長に、それぞれ、特別封包の切手一シートが贈呈されました。

 なお、「日本平」の切手については、新刊の拙著『切手百撰 昭和戦後』でも現在のようすを取り上げたカラー写真とともにご紹介しておりますので、機会がありましたら、ご覧いただけると幸いです。


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