内藤陽介 Yosuke NAITO
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 秋田犬80年
2011-07-31 Sun 20:47
 1931年7月31日に秋田犬が、日本件としては初めて国の天然記念物に指定されてから、きょうでちょうど80年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        秋田犬

 これは、1953年(昭和28)8月25日に発行された“秋田犬”を描く2円切手で、わが国初の本格的な犬切手としても知られる1枚です。

 国の天然記念物に指定されている6つの日本犬種のうち、唯一の大型犬種で、忠犬ハチ公のエピソードでも有名です。

 秋田犬の祖先犬は秋田犬は秋田マタギと呼ばれるマタギ犬で、江戸時代には佐竹氏支配下の久保田藩で闘犬が奨励されたこともあり、マタギ犬と土着犬などの交配により、体が大きく強い犬として、現在の秋田犬の原種が作られました。しかし、明治末の1911年に秋田県内で闘犬が禁止されたほか、洋犬の人気が高まったこと、そして、そうした洋犬との雑種が進んだことから、1945年の終戦の時点では、血統の正しい秋田犬は十数頭しか残っていませんでした。その後、占領中に米兵が好んだことや戦後の混乱期に番犬の需要が高まったことなどから復活しました。ちなみに、1937年に来日したヘレン・ケラーは秋田犬を気に入り、彼女に贈られた「神風号」がアメリカに渡った最初の秋田犬となったというエピソードがあります。どうやら、秋田犬の風貌というのはアメリカ人好みということのようすな。

 さて、切手が発行された1953年の郵便料金体系(書状の基本料金は10円、葉書料金は5円)では、第5種郵便の植物種子等の基本料金(100グラムまで)が2円という項目がありますが、あまり利用者が多いとはいえません。このほか、第3種郵便(定期刊行物)のうち月3回以上発行される新聞・雑誌の基本料金(100グラムまで)が1円となっており、2円というのは2倍重量の100-200グラムに相当しています。さらに1961年(昭和36)には、第3種郵便物のうち月3回以上発行のものの基本料金が値上げされ、2円になっている。

 しかし、この切手の用途としては、重量便の増料金や書留便の保険料などによって端数が生じた場合の調整用に用いられることが多く、数回にわたる郵便料金の改正にもかかわらず、昭和末まで、秋田犬の2円切手は長年にわたって製造・使用が続けられました。なお、1966年に万国郵便連合の規定で切手上にローマ字で国名を表示することが決められた後も、1953年以来のローマ字の入らないデザインのものがそのまま製造されました。

 なお、1989年4月、消費税導入に伴い、書状の基本料金が62円(本体料金は60円のまま消費税相当の2円が上乗せされた)となると、端数の2円切手の需要が急増。これにあわせて、基本的なデザインはそのままに、刷色を変更し、“NIPPON”の文字を入れた切手が発行されています。


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 昆虫シリーズ25年
2011-07-30 Sat 20:39
 1986年7月30日に「昆虫シリーズ」の発行が始まってから、きょうでちょうど25年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        昆虫シリーズ第1集

 これは、1986年7月30日に発行の「昆虫シリーズ」第1集のうち、ルリボシカミキリとムカシトンボを取り上げた切手です。

 “特殊鳥類” 、“高山植物”に続き、自然保護思想普及のためのシリーズとして、昭和61年度の新シリーズの題材として取り上げられたのは“昆虫”でした。

 シリーズ発行の趣旨について、郵政省郵務局切手室長の小椋嘉昭は以下のように説明しています。

  我が国では、森林の開発、市街地の拡大が急速に進んだ結果、自然が少なくなり、現在の子供達は、昔のように“チョウ”を追い、“カブト虫”と遊ぶ楽しさを知らなくなっています。このような状況にあって今回の「昆虫シリーズ」は、子供の夢を育てるとともに、自然保護思想を普及する一環として意義深いものと思います。

 切手に取り上げる具体的な昆虫については、環境庁自然保護局や国立科学博物館などとも打ち合わせの上、①日本の固有種またはそれに近いものの中で色、形が美しく変化に富んでいるもの、②日本の固有種として貴重であり、天然記念物等の指定を受けているか、又はそれに近いもの、などの基準によって選定されています。

 シリーズ第1集に取り上げられたのは、ウスバキチョウ、アカスジキンカメムシ、ルリボシカミキリ、ムカシトンボの4種ですが、このうち、ルリボシカミキリ(瑠璃星天牛または瑠璃星髪切・学名Rosalia batesi)は、鞘翅目カミキリムシ科の一種で、鮮やかなブルーの体色が特徴です。わが国の固有種で、北海道、本州全土、隠岐諸島、四国、九州から屋久島まで広く分布しており、ブナやナラ、クルミ、シラカバ、カエデなどの広葉樹の雑木林に生息しています。

 一方、ムカシトンボ(昔蜻蛉・学名Epiophlebia superstes)は、蜻蛉目ムカシトンボ科に分類されるトンボです。トンボの系統は均翅亜目から不均翅亜目が分岐したと考えられていますが、ムカシトンボは両方の特徴を持っており、二つの亜目のつながりを示す原始的なトンボとして“生きている化石”とよばれています。わが国の固有種で北海道から九州までほぼ全国に分布していますが、日本以外では近縁種のヒマラヤムカシトンボがヒマラヤ山脈周辺に分布するのみで、他の地域には分布していません。

 なお、この切手を含む昆虫シリーズについては、拙著『昭和終焉の時代』でも開設しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 国内最高齢のアフリカゾウ死ぬ
2011-07-29 Fri 23:38
 東京都日野市の多摩動物公園で飼育されていた国内最高齢のアフリカゾウ“マコ”(雌、推定46歳)が今朝、亡くなりました。死因は、自分の体重で肺を押しつぶしたことによる呼吸不全だそうです。というわけで、きょうはアフリカゾウの切手です(画像はクリックで拡大されます)

        ソマリア1番切手

 これは、1903年10月12日に発行されたイタリア領ソマリアランド最初の切手です。

 アフリカの角の東端に位置するソマリアは、紀元後40年から70年ごろのインド洋海域の貿易について記された『エリュトゥラー海案内記』にも登場しますが、900年ごろ、アラビア半島からアラブ系の商人たちが住み着き、以後、海上貿易のみならず、内陸との交易の拠点としても発展し、12世紀初頭にはアフリカ東海岸を代表する商業都市に成長しました。14世紀のイブン・バトゥータや15世紀の鄭和もこの地を訪れています。

 1871年、ソマリアの中心都市であったモガディシュはザンジバルのスルターンによって征服されますが、1890年にザンジバルがイギリスの保護領となると、1892年、モガディシュはイタリアの租借地となり、イタリア語風にモガディシオと改称されました。その後、イタリアは1905年にモガディシュを買収。1908年に現在のソマリアの南部に相当するイタリア領ソマリランドを植民地化し(ちなみに、北部は英領ソマリランドとなりました)、モガディシオをその首都としました。

 今回ご紹介の切手は、そうしたイタリア領ソマリランドの成立過程で、1903年にイタリアが、モガディシュを含む沿岸部のべナディールでの郵便のために発行したものです。なお、切手の通貨単位となっているベサは、4ベサで1アンナ、4アンナで1ルピーという勘定になります。


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 <PHILANIPPON 2011>開幕
2011-07-28 Thu 20:24
 きょう(28日)から、パシフィコ横浜で世界切手展<PHILANIPPON 2011>がスタートしました。今回の切手展はわが国の郵便創業140周年記念ということですので、やはり“日本切手発行140周年”と銘打った拙著『切手百撰 昭和戦後』のなかから、横浜がらみの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        気球揚がる

 これは、1972年の“切手趣味週間(以下、趣味週間)”の切手で、中村岳陵の「気球揚る」が取り上げられています。オリジナルの絵画では、当然のことながら、画面の上方に気球が描かれているのですが、切手ではその部分はトリミングでカットされています。したがって、本来の画題からすると、このようなトリミングは邪道なのかもしれませんが、見方を変えると、絵画作品をもとに原作とは別のコンセプトで新たな美人画切手を構成したと考えるのなら、それなりに成功した1枚といえるでしょう。僕が“百撰”の1枚として取り上げた理由も、そこにあります。

 さて、「気球揚がる」の作者、中村岳陵は、1890年、静岡県下田市に生まれました。10歳のときに上京し、12歳で江戸琳派の流れを汲む野沢提雨に入門。さらに、14歳で土佐派の川辺御楯に師事しました。1908年に東京美術学校に入学し、1912年、同校を主席で卒業。さらに、同年の第6回文展に「乳糜供養」を出品して初入選しました。

 その後は、1914年、第1回再興院展に「緑陰の饗宴」を出品したのを皮切りに、1915年以降は日本美術院同人として、院展で活躍。1930年には福田平八郎・山口蓬春らと六潮会を創立しました。戦後の1950年には日本美術院を脱退して日展に移り、1962年に文化勲章を受章。1969年に亡くなりました。

 切手に取り上げられた「気球揚る」は、日展への移動後初の本格的な作品として、1950年の第6回日展に出品されたもので、国立近代美術館の所蔵品です。

 作品は、岳陵が生まれた1890年の10月12日、イギリス人のスペンサーが横浜公園で軽気球に乗り、落下傘で降下するパフォーマンスを行った際に、それを見物する貴婦人を題材としたものです。オリジナルの画面には気球が描かれていますが、切手ではその部分がトリミングで省かれています。中央の貴婦人は歌舞伎俳優の3代目市川左団次の娘、荒川朝子が高島屋から借りた衣裳を身につけてモデルを務めました。なお、背後の背中を向けた和装の女性も同じく荒川がモデルを務めています。

 郵政省では、当初、1971年の郵便創始百年を契機に「切手趣味週間」を廃止して、別途、欧米諸国に倣った「切手の日」を設定して、その日に大型美術切手を発行するという計画を立てていたようです。このため、1972年の趣味週間切手がどのようになるのか、郵趣界は注目していましたが、結局、従来どおり「切手趣味週間」が続行されています。

 また、今回の切手に関しては、郵政省は「近代美人画シリーズの第8集」と発表していますが、シリーズの第一集にあたる1965年の「序の舞」 から第7集にあたる1971年の「築地明石町」 までは「近代美人画シリーズ」との呼称が公式には用いられていなかったため、突然の発表に戸惑う収集家も少なくなかったようです。

 今回の切手の発行に先立ち、郵政省は中村岳陵の遺族であった中村渓男には連絡を取り、作品全体を切手に収めると貴婦人の顔が小さくなりすぎるので気球部分をトリミングでカットすることについて許諾を得ています。その反面、郵政省は、モデルの荒川には連絡を取らなかったようです。このため、郵趣ジャーナリスト京葉義雅の調査で、荒川が当時45歳で東京・北品川の市川左団次の旧宅に住んでいることが明らかになると、彼女のことが一般紙にも取り上げられるようになりました。1972年3月28日付の『夕刊フジ』には、自分がモデルとなった絵が切手に取り上げられたことに関して、「ただもうビックリ。これも中村先生のおかげです。ほんとうに人さまになめられるほど愛されるなんてシアワセですわ」との荒川の談話も掲載されました。

 なお、この切手が発行された直後の4月26日、参議院予算委員会第3分科会で、社会党議員の竹田現照 の質問に応えるかたちで、郵務局長の溝呂木繁は、今回の切手の製造原価が1枚あたり70銭4厘2毛であったことを明らかにしています。


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 捏造された細菌兵器
2011-07-27 Wed 23:52
 きょう(7月27日)は、1953年に朝鮮戦争の休戦協定が調印された日です。というわけで、最近入手した朝鮮戦争関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        チェコスロヴァキア・プロパガンダ葉書(朝鮮戦争)

 これは、朝鮮戦争の時代に“米軍による細菌兵器の使用”を非難するためにチェコスロヴァキアが発行したプロパガンダ葉書です。

 朝鮮戦争中の1952年2月、中国・北朝鮮・ソ連は、米軍が朝鮮の戦線でコレラやペストなどの細菌に感染したハエやノミ、ダニ等を航空機で大量に投下し、最近被害が中国東北部にまで及んだと大々的に宣伝しました。今回ご紹介の葉書も、そうした文脈に沿って、東側陣営の一員だったチェコスロヴァキアが制作・発行したものです。

 これに対して、米軍側は細菌戦は事実無根と全面的に否定し、双方の主張は平行線をたどりましたが、最終的に、米軍が細菌兵器を使った事実はなかったことが確認され、この一件は共産側による完全な虚偽捏造であったことが明らかになりました。

 なお、朝鮮戦争と切手や郵便については、拙著『韓国現代史:切手でたどる60年』でもそれなりのページを割いてまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 作品搬入しました
2011-07-26 Tue 23:58
 いよいよ木曜日(28日)から、パシフィコ横浜で世界切手展<PHILANIPPON 2011>がスタートします。わが国では2001年以来10年ぶりの世界切手展開催ということで、僕も、自分のメインのコレクションである JAPAN AND THE 15YEARS WAR 1931-1945 を出品しますが、きょうはその作品を会場に搬入してきました。というわけで、今回の出品作品の中からこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        三国の兵士

 これは、第二次大戦中のイタリアの軍事絵葉書で、日独伊三国同盟の兵士がともに突撃している場面が描かれています。日独伊三国同盟関連のマテリアルというと米英の船をぶった切る鎧武者の絵葉書が有名ですが、きょうは、これから始まる切手展に「いざ出陣」というつもりで、この葉書を持ってきました。

 今回の出品作品は、1931年の満洲事変から1945年の終戦までの“昭和の戦争”のあらましを各種の郵趣マテリアルを用いて再構成したもので、今年2月のインド展に出品した作品を大幅に手直ししています。時節柄、“戦争”の話題がメディアでも取り上げられることが多くなっておりますが、僕の作品も、切手や郵便物などを通して語る“昭和の戦争”の歴史絵巻として、ぜひ、会場にてご覧いただけると幸いです。


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 切手に描かれたソウル:蚕室総合運動場
2011-07-25 Mon 23:53
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』7月22日号ができあがりました。僕の連載「切手に描かれたソウル」では、今回は蚕室総合運動場を取り上げましたが、きょうはその中からこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        蚕室総合運動場

 これは、1986年に韓国が発行した“アジア競技大会成功”の記念切手で、蚕室総合運動場での大会の模様が取り上げられています。

 蚕室総合運動場は、1988年のソウル五輪のメイン・スタジアムとして使われ、“オリンピック・スタジアム”とも呼ばれていることから、ソウル五輪のために建設されたものと思われがちですが、運動場の建設が始まった1977時点では、ソウルでの五輪開催が実現すると考えていた韓国国民は、ほとんどいなかったのではないかと思われます。

 むしろ、1975年完成の汝矣島の国会議事堂や1978年完成の総合展示場としてのKOEX(現COEX)などと同様、“漢江の奇跡”を踏まえたソウルの大規模再開発の一環として、それまでの東大門運動場に代わる大型屋外競技場として企画・建設されたと見る方が妥当でしょう。

 蚕室総合運動場の設計を担当した金壽根は、1931年、現在は北朝鮮領内にある清津の出身で、解放後、ソウル大学に進学したものの、韓国戦争で中退を余儀なくされ、日本に渡って東京芸術大学、東京大学で学びました。東大修士課程の院政だった1959年には国会議事堂建設設計のコンペに当選しましたが、1961年の“5・16革命”で計画そのものが流れてしまったため、彼の設計した議事堂が日の目を見ることはありませんでした。

 1961年の帰国後は、金壽根建築研究所(現・空間社) を創設。以後、1986年に亡くなるまで、韓国の現代建築を代表する建築家として活躍しましたが、蚕室総合運動場の建設が始まる前年の1976年には韓国文化勲章を受賞しています。

 総合運動場の建設が進められていた1980年に発足した全斗煥政権は、1979年の朴正熙暗殺以来の政治的・社会的混乱と、それに伴う経済の低迷を一挙に解決するための秘策として、1988年のソウル五輪招致に心血を注ぎ、その結果、1981年9月30日に西ドイツ(当時)のバーデンバーデンで開催されたIOC総会では、決戦投票の末、52対27でソウルが最有力候補と目されていた名古屋を下して五輪の開催地となり、建設中だった運動場がオリンピックのメイン・スタジアムとして使われることになったのです。

 運動場の完成は1984年のことで、9月30日にはそのこけら落としのイベントとしてサッカーの日韓戦が行われています。その後、運動場は、1986年にアジア競技大会で使われ、1988年のソウル五輪では陸上競技とサッカー決勝、馬術競技個人障害馬術決勝の会場となりました。
 

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 被災3県を除きアナログTV放送が停波
2011-07-24 Sun 22:54
 1953年の白黒放送開始以来、約60年にわたって続けられてきた地上波およびBSのアナログテレビ放送が、きょう(24日)正午、東日本大震災の被災地となった東北3県を除き、終了しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        テレビ50年(鳩)

 これは、2003年1月31日に発行された「テレビ50年」の記念切手のうち、“テレビ局タイトルの鳩と街頭テレビ”の切手です。

 わが国のテレビ放送は、1953年2月に日本放送協会(NHK)が放送を開始し、ついで、同年8月に正力松太郎ひきいる日本テレビ放送網株式会社(日本テレビ)が民放初の放送を開始しました。

 日本テレビは1952年7月にテレビジョン放送局予備免許第1号を取得し、翌1953年8月に開局。切手に描かれた街頭テレビは、同社がテレビ放送普及のため、駅や公園、繁華街などに街頭テレビを設置したもので、切手ではテレビ局のタイトル(放送の局名を知らせる映像)が描かれていますが、一般には、プロレスの力道山の試合やプロ野球などのスポーツ中継放送に群がる群衆を取り上げた方が“街頭テレビ”のイメージとしては良かったのではないかという気もします。ちなみに、前面に大きく描かれているハトは、タイトル映像の一部で、巣箱から羽ばたく姿だそうです。

 通常、この手の記念切手は“50年”ではなく”50周年”とされることが多いのですが、この点について、郵政事業庁(当時)は、①切手発行の2003年は地上デジタルテレビ放送が開始され、テレビ放送にとって将来へ向けて大きな意義を有する年となるので、過去に限定される“50周年”ではなく“50年”がふさわしい、②“50年”とすると全体の字句が端的なものとなる、と説明しています。

 なお、いわゆる地デジ関連に関しては、ことし(2011年)4月に「地上テレビ放送の完全デジタル化」の記念切手も発行されているのですが、冒頭にも少し書いたように、岩手・宮城・福島の3県では地上波のアナログ放送が当面続いていますので(来年3月までに終了する予定)、そのことを脇において“完全デジタル化”の記念切手を持ってくるのは、なんとなく、被災3県をないがしろにしているような気がしましましたので、今回は、この切手にしました。「地上テレビ放送の完全デジタル化」の切手は、東北3県でも地デジへの移行が完了した時に取り上げたいと思います。


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 きょうから相馬野馬追
2011-07-23 Sat 22:28
 福島県相馬市で、1000年の伝統を受け継ぐ“相馬野馬追”がきょう(23日)から始まりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        相馬野馬追

 これは、1965年7月16日、お祭りシリーズの第3集として発行された“相馬野馬追”の切手です。

 相馬野馬追は、福島県の旧相馬藩領地域をあげて開催される国の重要無形民俗文化財で、甲胃に身をかためた600余騎の騎馬武者が、太刀を腰に、伝来の旗差物を背につけて夏の野原を疾駆します。かつては旧暦5月の行事でしたが、現在では毎年7月23-25日の3日間にわたって開催されます。

 祭りの由来は、相馬家の始祖・平小次郎将門が、相馬御厨の官職にあった頃、下総国葛飾郡小金ヶ原(現・千葉県流山付近)の牧に野馬を放牧し、集めた兵に馬を捕える軍事訓練を実施し、捕えた馬を神前に奉じ妙見の祭礼を行ったことに端を発すると伝えられています。その後、野馬追は軍事訓練の一環として続けられましたが、江戸時代に入ると、相馬の氏神の祭事としての性格が強まりました。

 祭りのハイライトは、あす7月24日の神旗争奪戦です。かつては陣容を整え、敵兵に見立てた野馬を狩ったといわれますが、現在では赤・青・黄に染め分けた三妙見社の旗が花火とともに空中に上げられ、それを追って武装した騎馬武者600余が人馬一体の妙技を披露。夕刻には武者たちが小高町の旧城に集まり、盛大な火祭りが催されます。

 地元福島県出身の木村勝がデザインした切手にも、この神旗争奪戦が取り上げられています。なお、今回の切手は、単片としては日本初のグラビア5色刷(これ以前に、東京オリンピックの小型シートが実験的にグラビア5色刷の輪転機で印刷されたことがあります)で、木村の原画も出来が良かったことから、切手そのものは収集家の間でも人気を集めたようです。

 今年は東日本大震災や福島第一原子力発電所事故の影響で開催が危ぶまれていましたが、神旗争奪戦や甲冑競馬を中止して規模を縮小し、きょうの出陣式では、武者たちは鎮魂と復興の思いを込めて喪章をつけて参加したのだとか。祭りは、例年同様、25日までの日程で行われます。


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 スペースシャトル計画終了
2011-07-22 Fri 22:25
 きのう(21日)、スペースシャトル“アトランティス”が最後のフライトを終えてケネディ宇宙センターに帰還。これにより、1981年4月に“コロンビア”が初飛行に成功して以来、30年間のスペースシャトル計画が幕を閉じました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        スペースシャトル

 これは、1995年6月22日にアメリカが発行したスペースシャトル“チャレンジャー”の切手で、1983年6月の任務STS-7の際に撮影された写真が使われています。

 スペースシャトルは、アメリカ航空宇宙局(NASA)が開発した世界初の再利用可能な有翼型有人宇宙船で、機体本体は全長37メートルの最大7人乗りです。1981年4月に打ち上げられた“コロンビア”を皮切りに、5機のシャトルが運用されましたが、1986年1月28日、今回ご紹介の切手に取り上げられた“チャレンジャー”が打ち上げ直後の爆発事故を起こし、2003年には“コロンビア”が帰還時の空中分解事故を起こしており、2011年初の時点では3機のみが残っていました。そのうちの、“ディスカバリー”と“エンデバー”は今年に入ってから退役しており、最後に残った“アトランティス”も今回でお役御免になったというわけです。

 スペースシャトル計画は、30年間で約1137億ドルという巨額の費用がかかり、アメリカ政府の財政圧迫要因の一つとなっていたことは事実ですから、今回の計画終了もやむを得ないことかもしれません。ただ、かつての米ソの宇宙開発競争時代のことを思うと、ロシアが依然として宇宙開発を進めているだけに、ちょっとさびしい気もしますな。

 なお、今年(2011年)はガガーリン50年にしてスペースシャトル計画終了という節目の年なので、これにあわせてなにか宇宙切手の本を作りたいなぁと漠然と考えていたことがあります。現在、雑誌『ハッカージャパン』で連載中の「切手が語る宇宙開発史」も、2009年5月にスタートさせたときは、2011年中にはスペースシャトルまでたどり着けるかと思っていたのですが、実際に書き始めてみると、書きたいことが山のように出てきて、連載開始から2年以上が経過した2011年7月の時点で、まだ1958年の国際地球観測年が終わったところまでしか到達できていません。

 現在のペースだと、スペースシャトルが登場するのは果たしていつのことになるやら…。ひょっとすると、その間に一般人も宇宙旅行に行ける時代が来てしまって、宇宙切手の本を出すよりも、「切手紀行シリーズ」で宇宙ネタをやるのが先になっているかもしれません。


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 ラトビアのヤツメウナギ
2011-07-21 Thu 21:31
 きょう(21日)は土用の丑の日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ラトビアのウナギ

 これは、2005年にバルト3国のラトビアで発行されたヤツメウナギの切手です。ヤツメウナギはいわゆるウナギの仲間ではないのですが、まぁ、気の利いた“ウナギ”の外国切手が見つからなかったので、取りあえず苦し紛れに持ってきました。来年は、ちゃんとしたウナギ切手をお見せできるように頑張りたいと思います。

 さて、我々が蒲焼として食べているのは、いわゆるニホンウナギですが、ウナギ属全体としては、世界中の熱帯から温帯にかけて18種(内3亜種)が生息しています。このうち、主としてヨーロッパで食されているヨーロッパ・ウナギについては、以前にもこのブログでもスウェーデンボスニアのウナギ切手をご紹介したことがあります。

 さて、日本ではウナギの調理法といえば、蒲焼か白焼にほぼ限定されていますが、世界各国ではさまざまな調理法があります。ちなみに、ラトビアでは燻製、ゼリー寄せ、またはソテーで食べるとのことで、スーパーなどではゼリー寄せの真空パックも売られているそうです。この3種の調理法の中で、燻製やソテーはなんとなく味の想像がつきますが、ゼリー寄せってのはどんな感じなんでしょうかねぇ。おそらく、実際に食べてみたら、やっぱり蒲焼の方が良いということになるのでしょうけれど、“怖いもの見たさ”(と言ったら失礼でしょうか)で、一度、トライしてみたいですな。


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 世界漫郵記:ハバロフスク⑧
2011-07-20 Wed 23:58
 『キュリオマガジン』2011年8月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、極東ロシア・ハバロフスク篇の8回目。今回と次回の2回に分けて、シェフチェンコ通りの3つの博物館について取り上げますが、その前編にあたる今回の記事の中から、こんなモノをご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

        チェーホフ・サハリン旅行100年

 これは、1990年にソ連で発行された“チェーホフのサハリン旅行100年記念”の切手つき封筒です。

 ロシア文学を代表する文豪、アントン・チェーホフは1860年生まれで、1884年にモスクワ大学医学部を卒業して医師の資格を得た後、医師と作家の二足のわらじの生活を送っていました。当初、彼は生活費を稼ぐために短篇のユーモア小説を量産していましたが、1886年に老作家ドミートリイ・グリゴローヴィチの忠告を受けて本格的な長篇に取り組み、1887年、初の本格的な長編戯曲『イワーノフ』を発表。その成功により、一躍、文壇の寵児となりました。

 その後、チェーホフは1890年4月から12月まで、サハリン(当時は全島がロシア領)での流刑囚の実態調査のため、モスクワから9000キロの大旅行を行うのですが、その過程でハバロフスクにも立ち寄っています。その際、彼は、帝政ロシアの駐屯軍の将校集会所が置かれていた建物の特別室に宿泊しましたが、その建物は、現在、極東ロシアでも有数の美術館とされている極東美術館として利用されています。下はその画像です。

        極東美術館

 さて、サハリンから戻った彼は、道中の記録や調査の結果を『シベリアの旅』、『サハリン島』として順次発表しましたが、この『サハリン島』が作家チェーホフの転機になったとする専門家は多いようです。ただし、『シベリアの旅』は『サハリン島』の序文ともいうべき、ごく短い文章で、残念ながら、ハバロフスクについての記述はありません。

 ちなみに、チェーホフが泊った極東美術館の前の通りに名を残したタラース・シェフチェンコは、ウクライナ出身の詩人・画家で、ロシア皇帝とその妻を非難する詩を書いたことが露見してカザフスタンなどに流刑された人物です。チェーホフが生まれて間もない1861年に亡くなりましたが、チェーホフがハバロフスクを訪れた1890年の時点では、この通りは、“アレクセイ通り(1873年に極東総督アレクセイ・アレクサンドロヴィッチ大公がこの地を訪れたことを記念して命名)”と呼ばれていました。流刑囚の悲惨な暮らしを抑えた筆致で淡々と記録したチェーホフも、まさか、自分の宿泊先の通りが流刑囚にちなんだ名前になるとは思いもしなかったでしょうね。

 今回の記事では、チェーホフゆかりの極東美術館とあわせて、通りを挟んで反対側の赤軍博物館についてもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 9年ぶりの出席
2011-07-19 Tue 23:33
 きょう(19日)は、“ビルマ建国の父”アウン・サン将軍を含む8人の独立運動家が1947年7月19日に暗殺されたことにちなみ、ビルマ(ミャンマー)では“殉教者の日”となっており、ラングーン(ヤンゴン)では、例年同様、追悼式典が行われました。その追悼式典には、将軍の娘でビルマ民主化運動指導者のアウン・サン・スー・チーさんも9年ぶりに民族服姿で出席したということなので、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ビルマ正刷(女性)

 これは、1943年10月1日、ビルマで発行された“風物図案切手”(通常切手)の1枚で、伝統的な民族服姿の女性が描かれています。

 1941年12月の日英開戦後、1942年5月末までにビルマ全土をほぼ制圧した日本軍は、イギリスの支配下で投獄されていた独立運動の闘士、バーモ(バモオ)を行政府長官兼内務部長官として、8月1日、ビルマ中央行政府を樹立します。その際、日本軍は戦勝後のビルマ独立を予定し、即時独立を認めませんでした。また、ビルマ国民には軍政への協力を要求する一方で、批判的な民族主義者や若いタキン党員の政治参加を抑圧したこともあって、ビルマ側の不満が鬱積。

 このため、戦況が悪化する中で、ビルマにより一層の戦争協力を求めるための見返りを用意する必要に迫られた日本政府はビルマ独立の方針を具体化し、1943年3月10日に『緬甸独立指導要綱』を決定。同年8月1日、軍政を廃止し、バーモを首班とするビルマ国としての独立を承認しました。ただし、独立と同時に、日本ビルマ同盟条約が締結され、ビルマは連合国へ宣戦布告することになり、日本軍の駐留はその後も終戦まで続けられることになります。
 
 今回ご紹介の切手は、こうしたビルマの独立に伴って1943年10月1日から発行されたもので、旧蘭印・バタビアのコルフ印刷会社で製造されました。

 切手に描かれている女性の民族衣装は、“ロンジー”(伝統的な巻きスカート)です。

 ロンジーは1枚の布の両端を縫い合わせて輪にしたもので、その端を腰のところで折り込むようにして着用します。男女ともに着用しますが、その着方は、男性は前であわせ、女性は横であわせるという違いがあります。このため、男性の着方では足を大きく広げられますが、女性の着方では足はあまり広がりません。

 ビルマでは、このロンジー・スタイルにサンダルを履けば、とりあえず、どこへ出ても恥ずかしくなのだそうです。風通しがよいのでビルマの気候にぴったりの民族衣装ということなので、猛暑の中で節電を強いられている今年の夏などは、クール・ビズの一つのスタイルとして、ロンジーとサンダルで出かけるのも悪くないかもしれません。ただ、僕がこの格好で地下鉄に乗ったりしたら、ほぼ確実に、スカートを履いた変質者としかみられないでしょうねぇ。そういうことなら、むしろ、おじさんとしては、スカートの丈を短くしていながら、パンツも見えそうなほどに足を広げて座っている女子高生に、姿勢を矯正するための服装としてお勧めするほうが無難でしょうな。
 

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 なでしこジャパン優勝
2011-07-18 Mon 11:07
 サッカーの女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会は、現地時間の17日(日本時間18日未明)、フランクフルトで決勝を行い、“なでしこジャパン”の愛称で知られる日本代表が米国を下し、初優勝を果たしました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        サッカー女子W杯(2011)

 これは、今年6月9日にドイツで発行された“スポーツ振興”の寄附金付切手のうち、今回のW杯を題材とした2枚です。

 ドイツでは、毎年、国内で行われる国際大会を題材にした“スポーツ振興”の寄附金付切手を発行していますが、今年に関しては、今回ご紹介の2種に加え、ホッケーと体操のヨーロッパ選手権の切手各1種の計4種が発行されました。

 さて、サッカーの女子W杯は、1991年に中国で開催された第1回大会以来、4年に1度開催されており、今回のドイツ大会は第6回となります。日本代表はこれまでに6大会連続で出場し、通算成績は22試合で7勝12敗3分けです。

 2011年の大会開催地としては、当初、ドイツ、カナダ、フランス、スイス、ペルー、オーストラリアが立候補を表明していましたが、1995年のスウェーデン大会以来となる2度目のヨーロッパ開催を実現させるために、2007年夏にフランスとスイスが立候補を辞退。2007年の中国大会終了後の10月にはオーストラリア、ペルーが相次いで立候補を取り下げ、最終的にカナダとドイツの2ヶ国のうちドイツが2011年の大会の開催地となりました。ちなみに、次回2015年の大会の開催地はすでにカナダで決まっています。

 アジアでは、1991年と2007年の大会が中国で開催されているだけですが、せっかく、今回は日本代表が優勝したことですし、東日本大震災の復興事業の一環として、(間に合うのなら)2019年の大会招致に名乗りを上げてもいいんじゃないでしょうか。少なくとも、東京でのオリンピック開催よりは、よっぽど、大義名分が立ちそうな気がしますが…。

 いずれにせよ、久しぶりの明るいニュースで、本当に良かったですな。


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 ISAFが権限移譲を開始
2011-07-17 Sun 22:58
 アフガニスタン中部のバーミヤーンで、きょう(17日)、現地駐留の国際治安支援部隊(ISAF)からアフガニスタン政府に治安権限を移譲する式典が開かれました。というわけで、久しぶりに、バーミヤーンのネタです。(画像はクリックで拡大されます)

        バーミヤーン葉書

 これは、1980年代にアフガニスタンで発行された観光絵葉書(絵面にはアフガニスタン各地の風景写真が取り上げられています)の1枚で、印面部分に、ありし日のバーミヤーンの大仏が取り上げられています。アフガニスタンで発行されたバーミヤーンの大仏の切手といえば、1951年の切手1985年の切手がありますが、どちらも大仏の部分のみを取り上げた縦型の切手です。これに対して、今回ご紹介の葉書の印面は横型のデザインですので、大仏が彫られていた石窟の全体像がよくわかるのが良いですな。

 さて、今回の権限移譲式典を皮切りに、来週24日頃までには、バーミヤーン州と共に最初の対象地に選ばれた6地域でも治安権限がアフガニスタン政府に移譲される予定で、ISAF側は2014年までに国内全域での権限移譲を目標としています。治安権限が移譲された地域では、アフガニスタンの警察や国軍が治安維持を主導し、ISAFは後方支援に回ることになっていますが、現実の問題としては、ターリバーンなど反政府勢力の攻勢が続く中で治安は全く改善されていません。したがって、今後、カルザイ政権が真に自立して、国内の治安維持という責任を果たしうるのか否かは大いに疑わしいのが実情です。

 なお、カルザイ政権は、ターリバーンの蛮行を非難するため、バーミヤーンの大仏が破壊された後の岩窟を取り上げた切手も発行しています。拙著『事情のある国の切手ほど面白い』では、バーミヤーンの破壊前・破壊後の切手を並べながら、ターリバーンとアフガニスタンの話についてもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。
  
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 無錫展の出品作品決定
2011-07-16 Sat 23:49
        毛沢東・無錫消

 本年11月11日から15日まで、中国・無錫の无锡太湖国际会展中心でアジア国際切手展 <China 2011>が開催されます。僕はその日本コミッショナーを仰せつかっていますが、日本からの出品作品は以下のように決定したとの連絡が主催者側から入りましたので、速報としてお伝えいたします。(以下、リストは文献を除く展示作品のみで、出品者名・作品名はリスト記載のとおりです)

・Kazuyuki Inoue:Japan Definitives: Koban 1883-1892

・Nobuhiro Sudani:Japan Definitives: Vocational Series

・Ota Yasuki:Romania “King Ferdinand” Series 1920-1926

・Fumiaki Wada:Post Office Forms, Including Envelopes Created for Conducting the Registered Mail Process, 1842-1929

・Kiyoshi Emura:The History of Painter's Portraits

・Ryoji Murayama:How Wonderful C. Slania Engraved his stamps!

 展覧会本番では、以上6名の方々のすばらしい作品を拝見できることを、今から楽しみにしております。

 ちなみに、記事の冒頭に掲げた画像は、北京で中華人民共和国の成立が宣言されて間もない1949年10月14日、無錫で使われた“三一版毛沢東主席像郵票”の100円切手です。切手を発行したのは、中共支配下の華東解放区の郵政を管轄していた華東郵政管理総局で、“三一印刷公司”で製造されたため、この呼び名がつけられました。

 今後とも、無錫展の情報については、このブログでも逐一ご案内していく予定ですが、その際には、今回同様、なんらかの形で無錫に関係するマテリアルをご紹介していければ…と思っております。

 * 昨晩、カウンターが88万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。

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 汕頭
2011-07-15 Fri 20:42
 中国・広東省の汕頭で、きのう(14日)、中国政府公認のカトリック団体“中国天主教愛国会”が、ローマ法王の承認を得ないまま、黃炳章神父を司教に任じる任命式を行いました。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        汕頭消印

 これは、汕頭で使用された香港切手です。消印の年号が読めないのが残念ですが、このタイプの消印は1900年から1922年まで使用されたもので、切手はヴィクトリア女王の10セントですから、20世紀初頭のものと考えてよいと思います。

 汕頭は広東省の東部に位置し、元代に漁村として発展。清代には砲台が設置されました。アロー戦争の影響で南の潮州の治安が悪化すると、その代替地として開港。翌1861年にはイギリス局が設置され、1922年まで香港切手が持ち込まれ、使用されました。有名な汕頭刺繍は、1860年代、布教のため訪れたキリスト教の宣教師がヨーロッパの手刺繍の技術を中国に伝えたことから始まったとされています。

 さて、1929年に正式に発足したバチカン国家が中国政府と初めて正式な国交を樹立したのは、第二次大戦中の1942年のことでした。

 大戦後の1949年、国共内戦を経て中国共産党が中国対立を制圧し、蒋介石率いる国民党政府が台湾に逃れた後も、バチカンは国民党政府との関係を維持しつづけました。このため、1951年、共産党政府は国内のカトリック信者に対し、ローマ法王との決別を命じ、中国とバチカンの関係は事実上断絶します。

 その後、中国政府は、キリスト教会の公認制度を導入し、カトリックの信者に対して、政府公認の教会のみでの礼拝を認めていました。

 しかし、1966年にはじまる文化大革命の10年間には“宗教は人民のアヘンである”との認識の下、カトリックを含む諸宗教は激しい迫害を受け、公認教会も閉鎖されてしまいます。曲がりなりにも、中国各地の公認教会が復活したのは、小平による改革開放路線が本格化した1980年代以降のことでした。ただし、現在も、中国政府にではなく教皇に対して忠誠を誓うカトリック信者(数百万人いると推定されている)は、非公認の“地下教会”での礼拝を余儀なくされ、当局による活動の妨害や、関係者の逮捕などが続いています。

 中国の公認カトリック団体・天主教愛国会は、バチカンが世界各地の新司教を任命するタイミングにあわせて、国内の新司教の任命を一方的に行っていますが、これは、教皇の持っている司教の任命権を“内政干渉”として排除する中国側の姿勢を改めて示したもので、当然のことながら、バチカンは不快感を表明しています。

 また、台湾の陳水扁総統がヨハネ・パウロ2世の葬儀に出席した際には、中国はバチカンとビザを発給したイタリアに抗議しています。しかし、1929年のラテラノ条約では、バチカン訪問を希望するいかなる者に対してもイタリアは入国を拒否しないことが明確にうたわれており、バチカンからみれば、中国側の抗議は理不尽なものでしかありません。

 今回の一件に関して、香港を教区とする湯漢司教は「つらい状況に直面しても、信仰を保つために戦っている仲間のために祈ろう」と信徒に呼びかけたそうですが、中共政府の圧倒的なパワーの前に、現実の問題として祈ることしかできないというのは、なんとも辛い話ですな。


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 大韓航空機の利用自粛
2011-07-14 Thu 20:30
 先月(6月)16日、大韓航空が成田―仁川便の新型旅客機「エアバスA380」導入にあたり、竹島上空でデモフライトを実施したことに抗議して、日本の日本外務省は、週明けの18日から1カ月間、大韓航空機の利用を自粛するよう全職員に指示したそうです。というわけで、きょうは、韓国の航空ネタの中からこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        韓国・国内航空郵便開始

 これは、1950年1月1日に韓国で発行された「国内航空郵便開始」の記念切手で、地図を背景に当時の飛行機が描かれています。

 韓国の航空事業は、米軍政下の1946年に民間企業の韓国国民航空が設立されたところから始まります。同社は、1948年に法人化され、本格的な営業を開始しますが、これに伴い、今回ご紹介の切手に示すように、国内の航空郵便も取り扱うようになりました。切手の地図ではソウル=釜山間の路線が線で結ばれていますが、そのほかの主要都市としては、飛行機の尾翼に近い場所、平壌と思しき場所にも印がつけられているのが興味深いですな。

 1961年の“5・16革命”で誕生した朴正熙政権は、韓国経済再建のため、重要産業を国家の統制下に置きますが、その一環として、1962年に国営会社として設立されたのが大韓航空公社です。航空行政一元化のためとして、公社への統合を強く求める政府に対して、韓国国民航空は当初、これに強く抵抗しましたが、最終的には公社へ統合されてしまいました。

 その後、大韓航空公社は、1969年に趙重勲ひきいる韓進グループの主導で民営化され、株式会社となります。これが、現在の大韓航空の直接のルーツです。

 さて、大韓航空機に乗ったことのある方はご存じだと思いますが、機内で流されている航路の地図では、竹島(韓国名:独島)は韓国領として描かれ、日本海は東海と記されています。まぁ、そのことじたいは、彼らが常々主張していることですから、彼らが自分たちのホームグラウンドである大韓航空機の機内でそのように主張しているのも当然といえましょう。

 ただし、わが国としては、彼らのそうした主張を是認できないというのが基本的な立場ですから、そうした主張を目にしてしまえば抗議しないわけにはいきません。したがって、本来であれば、わが外務省は(彼らがそれを受け入れないことがわかっていても)大韓航空の機内におけるそうした地図の表示を止めるよう求めなければなりませんし、少なくとも、そうした表示を外さない限り大韓航空機のわが国への乗り入れを拒否するくらいのことをいって、わが国の姿勢をきちんとアピールしなければなりません。国益がぶつかりあう外交の世界においては、“善意”なるものは存在しませんし、相手の主張に反駁しないということはそれを是認したと取られ、結果的に国益を損なってしまうことは、僕たちは嫌というほど体験してきたところです。

 その意味では、今回の外務省の措置は至極当然のことだといえます。それだけに、一部のマスコミなどが外務省たたきをして、委縮した彼らが毅然とした態度を取れなくなるようなことがないよう、僕たちは注視していく必要があるでしょう。


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 韓国が鬱陵島の基地を拡張
2011-07-13 Wed 23:54
 韓国国会の国防委員会に所属する宋永仙議員によると、韓国海軍は彼らが不法占拠する日本領・竹島(韓国名・独島)の北西にある鬱陵島で、2013年4月までに、現在1860平方メートルの海軍基地の面積を約3倍に拡張し、多目的ヘリのUH60(通称ブラックホーク)などを追加配備し、基地機能を強化するそうです。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

        鬱陵島

 これは、1977年9月28日、「世界観光の日」の1枚として韓国が発行した鬱陵島の切手です。

 鬱陵島は朝鮮半島から約130キロの沖合いに位置する、直径10キロほどの火山島で、『三国史記』によると、もともとは于山国として独立していましたが、512年に新羅に服属させられたとされています。

 13世紀以降は、いわゆる“倭寇”の拠点となっていたため、1417年、李氏朝鮮は同島の居住者に本土への移住を命じ、その後、鬱陵島は460年以上に渡って無人島となりました。こうした状況の下で、日本の江戸幕府の許可を得た隠岐の漁師などが鬱陵島で海産物や竹などを採取していましたが、自国領だとする朝鮮がこれに反発。最終的に、日本から同島へは渡航させない旨を李氏朝鮮に伝え、両酷寒の対立は収まりました。

 鬱陵島は竹島から約90キロの地点にあり、毎日、道洞港から竹島行きの船が運航されています。港や船には「独島は我が領土」と書かれた巨大な看板が並び、“独島”の名を冠した食堂や土産物店などが林立。さらに、道洞港から徒歩約15分の道洞薬水公園内には独島博物館があって、ここからケーブルカーで登った展望台(標高317メートル)からは、晴天で空気が澄んでいれば、肉眼で竹島を見ることもできます。

 このように、鬱陵島は、韓国による“独島”領有を韓国国民にアピールするための場所という色彩が濃いのですが、今回明らかになった基地の拡張と新たなヘリ配備が実行されれば、韓国軍は30分以内に竹島への到着が可能となります。現在、日本の艦艇が隠岐から出動すれば2時間50分、島根県恵曇港からなら3時間18分で竹島に到着できるのに対して、韓国の海軍艦艇が慶尚北道蔚珍の竹辺港や東海港から出発した場合、竹島までの到着時間は4時間以上かかっていますが、これが一挙に逆転され、韓国による“独島”の実効支配はさらに強化されることになります。

 韓国側としては、今回の基地拡張により「独島で緊急状況が発生した場合、速かに対処する」ことを目的としているわけですが、たしかに、国内の政治状況が不安定になれば領土問題を持ち出して体制の立て直しを図ろうとする国の発想としては、現在の菅政権が一発逆転を狙って竹島問題で攻勢に出るのではないかと考えるでしょうな。

 まぁ、菅首相の思想信条からすれば、そもそも“愛国心”はお嫌いでしょうから、領土問題を持ち出して国民の団結を訴えるという方向にはおそらく行かないでしょうけれど、原発問題を政争の具として政権の延命をはかるくらいなら、この機会に、竹島問題にまじめに取り組んだ方がよっぽど支持率回復につながるような気がするんですがねぇ。


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 12日か13日か
2011-07-12 Tue 23:52
 1961年7月12日に“日本標準時制定75年”の切手が発行されてから、きょうでちょうど50年です。というわけで、今日はその切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        日本標準時制定75年

 近代以前の世界では、それぞれの地域でその土地固有の地方時が用いられていましたが、交通・通信の発達に伴い、さまざまな不都合が生じてきました。このため、1884年、ワシントンで世界標準時についての国際会議が開催され、イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線を本初子午線(経度0度の子午線)とし、これを基準に東西に経度が15度ずつ離れるたびに1時間ずつ異なる地域ごとの標準時を置くことが決定されました。

 わが国では、1886年7月、「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」と題する勅令第51号が出され、東経135度の子午線の“時”をもって日本標準時とすることが定められ、1888年1月1日から明石地方時が日本標準時として用いられることになり、現在にいたっています。

 ところで、「本初子午線経度計算方及標準時ノ件」の勅令が出された日付については、『大日本法令集』では7月13日となっており、現在の「標準時制定記念日」はこれに基づいて7月13日とされています。これに対して、『法規分類大全』や『天文月報』に記されている7月12日こそが標準時制定記念日として正しいとする見解も少なからずあり、今回ご紹介の記念切手を発行した郵政省も巧者の立場を取っています。

 記念切手の発行に関しては、明石市長・丸尾儀兵衛が、前年の1960年9月2日、大阪郵政局長を通して郵政大臣・鈴木善幸宛に記念切手発行の申請書を提出し、同8日、上京して郵政省郵務局を訪問しています。ついで、11月8日には、天文科学館の芦田館長も陳情のために上京。さらに、12月2日には、文部省大学学術局長名で郵務局長宛の申請書も提出されています。

 こうしたことから、1961年1月23日の郵政審議会専門委員会では、記念切手の発行はすんなり了承され、3月2日までに作られた3枚の原画のうち、“太陽と日本標準時子午線を示した地球”を表現した渡辺三郎の作品を修正の上、採用とすることが決まりました。

 渡辺の当初案では、明石の文字が入っていませんでしたが、最終的な原画では、しかるべき位置に地名の表示が入れられています。また、当初案では、“無限の宇宙”を表現することを意図して、バックは目打部分まで青味黒で印刷するというプランになっていましたが、“印面”の解釈をめぐり、現場の郵便局で混乱が生じることが危惧されたため、通常どおり、ガッター部分は白地のものとし、バックはうす黄茶とすることとされました。この結果、当初、赤味橙と青味黒の2色刷で製造するはずだった切手は3色刷へと変更されることになり、印刷局では、グラビア4色機を用いて3色刷を行うよう、予定を変更しています。

 最終的に原画が印刷局に渡ったのは3月6日のことで、印刷局は4月24日と5月16日の2回にわたって試刷を回校しています。なお、正式な試刷ができあがったのは6月13日のことで、見本切手の配布は6月29日のことでした。

 こうして、7月12日、当初の予定通り記念切手が発行されました。発行当日は、天文科学館で、文部省・兵庫県・兵庫県教育委員会・明石市・明石市教育委員会の主催による“日本標準時制定75年記念式典”が行われ、そのプログラムの一つとして、郵政政務次官・森山欽司(郵政大臣・小金義照の代理として出席)から明石市長・丸尾儀兵衛宛に、大臣の署名入りの記念切手1シートと贈呈状が贈られています。


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 ヒトラーの“名誉市民”取り消し
2011-07-11 Mon 23:58
 ナチス・ドイツの総統ヒトラーが生まれたオーストリア北部のブラウナウ市が、先週8日、今もヒトラーに名誉市民の称号を与えたままだとの疑惑を受け、称号を取り消したと発表したそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ヒトラーと生家

 これは、1939年4月13日にドイツで発行された“ヒトラー生誕50年”の記念切手で、1938年3月12日、ドイツ国防軍のオーストリアへの進駐の日に、生家の前にたたずむヒトラーが描かれています。切手は、額面12ペニヒに対して、ヒトラー国家文化基金への寄附金、38ペニヒを上乗せして、50ペニヒで販売されました。

 アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日、オーストリアとドイツとの国境にあるオーストリア側の都市ブラウナウで税関吏の子として生まれました。厳密にいうと、彼の出生地は、1889年の時点ではランスホーフェン市の域内にあり、彼がドイツの首相となった1933年にはランスホーフェン市が彼に“名誉市民”の称号を与えています。ただし、ランスホーフェン市は、1939年にブラウナウ市と合併したため、現在では、ヒトラーはブラウナウの出身とするのが一般的です。

 ところで、ヒトラーはもともとオーストリア生まれのオーストリア人でしたが、多民族から構成されるオーストリア軍の兵士となることを嫌い、第一次大戦がはじまると、バイエルン軍の志願兵として前線に赴きました。大戦後の1923年、いわゆるミュンヘン一揆を起こして逮捕されると、バイエルンは、ヒットラーをオーストリアに強制送還しようとしましたが、オーストリア側は身柄の引き取りを拒否。このため、ドイツでの服役生活を終えたヒトラーは、1925年4月 「受入れを拒否するような国の国籍などこちらから願い下げだ」として領事館にオーストリア国籍抹消を申請してしまいました。

 この時点では、ヒトラーは第一次大戦での従軍体験を理由に、ドイツ国籍が容易に取得できるものと考えていたようですが、現実には、“前科者”の彼がドイツ国籍を取得するのは容易ではありませんでした。

 そこで、彼は、当時のドイツの国籍法では、外国人であっても公務員になると国籍が得られるとの規定を利用し、1932年2月25日 ブラウンシュヴァイク市のベルリン代表部経済担当のポストを得て、ドイツ国籍を取得。正式に、オーストリア国籍を離脱しました。

 その後、1933年の総選挙でヒトラー率いるナチスが第1党となり、ヒトラーがドイツの首相となると、オーストリア側の彼に対する態度は豹変。生まれ故郷のランスホーフェン市は彼を名誉市民としたというわけです。

 第二次大戦戦後、ヒトラーとナチスが全面的に否定されると、オーストリアはまたもや手のひらを返し、1989年には、ブラウナウ市長のゲアハルト・シーバが、ヒトラーの生家の前に“戦争とファシズムに反対する石碑”を建てています。

 今回の一件は、ことし5月に別の都市がヒトラーに贈った名誉市民の称号を剥奪したのをきっかけに、メディアが称号を付与したままとなっている自治体探しを開始し、ブラウナウ市にも疑いの目が向けられていたため、ブラウナウ市側が“念のため”として称号取り消しを発表したものですが、長年にわたり放置してきたものを、外部から指摘され、あわてて泥縄式に対応したというのが見え見えで、なんともご都合主義的な印象はぬぐえませんねぇ。もっとも、洋の東西を問わず、保身が第一のお役所というのはそういうものだと言ってしまえば、それまででしょうが。


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 切手で訪ねるふるさとの旅:北海道
2011-07-10 Sun 20:21
 ご報告が遅くなりましたが、『(郵便局を旅する地域活性マガジン)散歩人』第10号(2011年7月号)ができあがりました。僕の連載「切手で訪ねるふるさとの旅」では、今回は北海道を取り上げました。そのなかから、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        富良野・ラベンダー畑

 これは、1999年5月25日に発行された「ふるさと切手(北海道):北の大地」のうち、富良野のラベンダー畑を取り上げた1枚です。切手の原画となった写真は前田真三が撮影したものですが、右上の北海道のロゴの組み合わせは、そのまま観光ポスターになりそうですね。

 わが国のラベンダー栽培は、1942年に札幌市南区南沢で始まりましたが、現在では富良野地方のラベンダー畑が全国的に有名になっています。もともと、香料の原料として栽培がはじまりましたが、筒井康隆の小説『時をかける少女』やその映画に取り上げられたことで一般に知名度が高まり、現在では観賞用、食用としても栽培されています。

 富良野では、毎年7月中旬ごろから下旬がラベンダーの花の見ごろとなりますが、ふらの観光協会のHPによると、「今年は気温も高く穏やかな日が続くと思いますので、例年より開花が早いかもしれません」とのことで、現在まさに、この切手のような景色が一面に広がっているのかもしれません。

 今回の記事では、地図をバックに、ラベンダー畑のほか、函館の夜景札幌時計台、羊ヶ丘展望台、摩周湖、昭和新山、霧多布湿原の切手を取り上げ、北海道の代表的な観光地を紹介する構成となっております。掲載誌の『散歩人』は各地の郵便局などで入手が可能ですので、御近所でお見かけになりましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 南スーダン共和国独立
2011-07-09 Sat 22:48
 アフリカのスーダン南部が、きょう(9日)付でスーダンから分離し、南スーダン共和国(以下、南スーダン)として独立しました。アフリカ大陸での新国家誕生は1993年のエリトリア独立以来です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        南部スーダン自治政府

 これは、昨年(2010年)、今回独立した南スーダンの前身にあたる南部スーダン自治政府の支配地域で発行されたとされる切手(?)で、南スーダンの地域に居住する各民族が取り上げられています。南スーダンの英文名称は“South Sudan”ですが、この切手では自治政府時代の“Southern Sudan”が使われているのがミソです。

 1983年、当時のヌメイリ政権が国政にイスラム法を導入したことに、南部の非アラブ系住民(大半がアニミズム、一部キリスト教徒)が反発し勃発したスーダンの第二次内戦は、21年間で約190万人が死亡し、400万人以上の難民が発生するという甚大な被害を出した後、2004年、スーダン政府と、非アラブ系黒人主体で“新スーダン”建設を掲げる反政府組織スーダン人民解放軍/運動 (SPLA/M) との間に包括和平協定が調印され、終息しました。

 和平協定では、6年間の北部と南部の合体による暫定統一政権の下、南部に自治政府を設置したうえで、5年後の暫定統一政権の首長(大統領)選挙、6年後に南部の独立の是非を問う住民投票を行うこととされていました。ただし、協定の実施が予定より遅れたことから、大統領選挙の実施は2010年4月南部での住民投票の実施は2011年1月となりました。

 今回ご紹介マテリアルは、その自治政府の支配地域で使用するために発行された切手ということになっているのですが、真偽のほどは定かではありません。ただし、アフガニスタンやソマリアのマリリン・モンロー切手のように、中央政府が機能していない状況で、誰かが勝手に郵政を名乗って外貨稼ぎのためにバチモン切手を作って売りさばいたにしては、取り上げられている題材は、いたって真面目なものです。はたして、これが実際に外貨稼ぎのための商品となりうるのかどうかという点では大いに疑問ですから、あるいは、まっとうな切手なのかもしれませんが、結局、いろいろ調べてもよくわかりませんでした。とりあえず、こんなモノも世の中にはあるという程度のつもりでご覧ください。

 まぁ、南スーダンでも新たな切手が発行される(された)でしょうから、いずれ、新国家最初の切手が入手できたら、機会を見つけて、このブログでもご紹介したいところです。

 なお、アフガニスタンやソマリアのマリリン・モンロー切手に代表される“いかがわしい切手”に関しては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも1章を設けて解説しておりますので、機会がありましたら。ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 日豪戦争⑫
2011-07-08 Fri 20:36
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第433号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回からは何回かに分けてオーストラリアの捕虜の話を書きますが、そのなかから、まずは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        豪POW:善通寺宛

 これは、第二次大戦中の1944年12月、オーストラリアのシドニーから善通寺の捕虜収容所宛てに差し出された航空便で、航空料金相当の5ペンス分の切手が貼られています。

 先の大戦で日本軍の捕虜となったオーストラリア人は約2万2000人、そのうち、8301人が亡くなったとされています。当時のオーストラリアの人口は約700万人ですから、35人に1人(小中学校の1クラスに1人というほどの割合となりましょうか)で日本軍占領下での捕虜生活を過ごしたことになります。

 一方、大戦でのオーストラリアの戦死者の合計は約1万9000人。このうち、パプア・ニューギニアでの戦死者が2165人、マレー・シンガポールでの戦死者は約1800人、北アフリカの激戦地、エル・アラメインの戦いでの死者が1225人、その他の地中海戦線での死者が3366人だったことを考えると、日本軍の捕虜として亡くなったのが8301人というのは、きわめて大きな数字です。

 オーストラリア人が対日戦争の記憶を語る際に、「捕虜」が避けて通ることのできないファクターであり、その犠牲の大きさゆえに、彼らが日本軍による「虐待」を声高に指弾するという構図も理解できないことではありません。

 これに対して、オーストラリア軍の捕虜となり、オーストラリア国内の収容所に収容されていた日本人の捕虜は、1944年8月の時点で2223名(うち、544名は海運業者)。日本軍の捕虜となったオーストラリア人捕虜の1割ほどです。

 この点に関しては、日本軍将兵には、『戦陣訓』に記された「生きて虜囚の辱めを受けず」の1節が骨の髄まで沁みついていたため、捕虜とならずに死ぬまで戦う者が大半だったからだという説明されることが多いようです。

 たしかに、戦陣訓の呪縛は事実ですし、1944年8月5日、1104人の日本人捕虜のうち545人が脱走を企て、231人の死者と108人の負傷者を出したニューサウスウェールズ州カラウ収容所の事件でも、戦陣訓の1節が事件の重要な動機となっていたといわれています。

 しかし、その一方で、1942年1-2月のマレー・シンガポール攻防戦で、追い詰められたオーストラリア軍が「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」という原則の下で動いていたという事実も見逃してはなりません。要するに、彼らは負傷した日本兵を見つけると、捕虜として収容し、治療を施すのではなく、その場で容赦なく殺害したのです。

 この「捕虜をとるな、負傷兵をそのままにするな」という原則が、オーストラリア軍による正規の命令であったことを証明する公的な文書はありませんが、戦後になって刊行された元オーストラリア兵の体験記などによると、負傷した日本兵は殺害するというのは、当時、その場に居合わせた将兵が異議なく合意していたことであり、軍上層部による「指示」であると信じていた者が多かったようです。もちろん、その背景には、白豪主義というパラダイムの下、有色人種である日本人への露骨な差別感情があったでしょうし、なによりも、伝統的にオーストラリア人が抱き続けてきた大日本帝国のにたいする恐怖感もあったでしょう。

 いずれにせよ、捕虜にする前に殺してしまったのだから「捕虜虐待」には当たらないといわれればそれまでですが、こうした事情を無視して、日本軍の非道を一方的に責める日本人がときどきいることに、僕は強烈な違和感を覚えます。

 さて、日豪開戦後、オーストラリア国内に残された家族は将兵の安否を案じる日々が続いていましたが、ようやく、1942年7月23日になって、一部の兵士の家族に対して、その兵士が“行方不明”であるとの公式の報告が届けられ、それからほどなくして、行方不明者の名簿が発表されました。その後、1942年10月になって、オーストラリア赤十字社は日本との戦闘で行方不明になったオーストラリア軍将兵宛の通信の受け付けを開始しますが、行方不明者のうち、捕虜として日本軍の収容所での生存が確認された者の家族へその旨の連絡が届いたのは1943年2月、さらに、捕虜本人から家族宛の手紙が到着したのは同年9月頃のことだったそうです。

 捕虜との通信は確実に先方に届とは限らず、無事に届いたとしても、所要日数は概して半年以上でしたが、それでも、家族にとっては、捕虜の生存を確認し、捕虜と連絡を取る唯一の手段は郵便しかありませんでした。

 今回ご紹介のカバーに関していうと、オーストラリアを出る時に、開封・検閲された後に、オーストラリア当局によってあらためて封をされ、検閲済みであることを示す菱形の印が押されており、宛先の善通寺収容所に到着したときには、収容所側の検閲を受け、そのことを示す「善俘 検閲済」(“善俘”は善通寺俘虜収容所の略)の角型の印を押されていますので、ともかくも、無事に名宛人に渡されたのでしょう。

 また、到着日や受取日を示す書き込みなどはありませんが、シドニーで差し出されたのが1944年12月だったことから推測すると、名宛人はこの郵便物を受け取って間もなく、終戦を迎え、解放されたのではないかと思われます。

 なお、今回は捕虜宛のカバーをご紹介しましたが、今月25日配信予定の次回記事では捕虜差出の郵便物をご紹介する予定です。


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 2018年冬季五輪は平昌で開催
2011-07-07 Thu 22:41
 2018年冬季五輪開催地を選ぶ第123回IOC総会が、きのう(6日)、南アフリカのダーバンで行われ、韓国の平昌が1回目の投票で過半数の票を獲得して開催地に選ばれました。というわけで、平昌にちなむ切手がなにかないかと探してみたら、こんなモノがありました。(画像はクリックで拡大されます)

        月精寺八角九層石塔

 これは、1978年7月20日、韓国で「石塔シリーズ」第4集の1枚として発行された“月精寺八角九層石塔”の切手です。

 月精寺は、韓国・江原道平昌郡珍富面の五台山中にあり、新羅時代の644年(643年説もあり)、戒律宗の開祖である慈蔵律師によって創建されたと伝えられています。朝鮮戦争時には戦闘の場所となったため、主要な建物は全焼しましたが、寺の中心に位置していた石塔は難を逃れました。

 切手に取り上げられた石塔は高さ約15メートル。高麗時代のもの(ただし、上部の青銅製相輪は後代のものと考えられています)で、ほぼ完全な形の残った優美な石塔として韓国の国宝に指定されています。

 おそらく、今後、2018年冬季五輪のPRが行われていく過程で、この石塔も平昌のシンボルとしてメディアに登場する機会が増えるのではないかと思いますので、この機会をとらえて、ご紹介してみたという次第です。


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 現代版“御冠船”の危うさ
2011-07-06 Wed 23:46
 中国人“富裕層”の個人観光客を対象に、初回訪問時に沖縄県に1泊以上することを条件とし、3年間何度でも日本を訪問できる数次査証(数次ビザ)の発給が1日から始まり、きょう(6日)、観光客約20人が上海と北京の空港から出発しました。一行は、羽田、関西空港経由であす(7日)に沖縄入りするそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        琉球・1次50銭(白紙)

 これは、アメリカ施政権下の琉球で1949年に発行された50銭切手で、唐船(御冠船)が描かれています。

 アメリカ施政権下の沖縄では、日米両国の本土とは異なる“琉球切手”が発行・使用されていましたが、その最初の正刷切手が発行されたのは1948年7月1日のことです。このとき発行された切手は全7種で、すべて灰白紙に印刷されていましたが、翌1949年、図案は変えずに白紙に印刷したものが発行されました。今回ご紹介の切手は、その白紙のモノで、額面の50銭は当時の沖縄で使用されていた通貨、B円によるものです。

 切手に描かれた御冠船は、中国皇帝から派遣された冊封使が乗ってくる船のことで、王冠や王服などの下賜品を乗せてやってくるところから“お冠の船”と呼ばれて歓待を受けました。御冠船は2隻からなり、一度に約500人を乗せ、夏、南風にのって来琉し、秋から冬にかけて北からの季節風を利用して帰国したそうです。

 今回の中国人富裕層へのビザ緩和は、沖縄の観光振興と、東日本大震災で激減した日本への観光客誘致が狙いだそうで、日本側でも観光業界では経済効果に期待する向きも多いのだとか。そうした人たちからすれば、あす、上海と北京から沖縄入りする中国人御一行様は、まさに、“現代の御冠船”ともいうべきものなのでしょう。

 しかし、日本にやってくる中国人の中には、観光ないしは留学ビザでわが国に入国しながら不法就労に従事し、ビザが切れた後は不法滞在となるケースが少なからずあり、そうした不法滞在者がより悪質な犯罪に手を染めるケースも珍しくありません。もちろん、僕は在日中国人のすべてが悪いと言っているわけではありませんし、日本社会のルールを守って真面目に生活している中国人も大勢知っています。しかし、現実の問題として、中国人による犯罪が多発しており、結果的にわが国の治安に不安を感じる人が少なからずいる以上、中国人に対するビザの発給に対しては慎重さが求められるべきではないでしょうか。

 また、昨年9月の尖閣諸島沖の日本領海内での侵略行為の記憶も生々しい中で、東日本大震災の復旧・復興支援で自衛隊の戦力が手薄になったすきを突くかのように、中国側はわが国の領海を脅かす行動を繰り返しています。したがって、まっとうな国防意識があれば、自衛隊や米軍の基地が集中し、尖閣のほか離島も多く抱える沖縄県内への中国人の立ち入りを禁止ないしは厳しく制限するのが当然のはずなのですが、今回の措置では、沖縄県内に1泊することを数次ビザ発給の条件とするというのですから、なんとも倒錯した話です。

 また、“観光”の名目で沖縄入りした不特定多数の中国人の中には、当然のことながら、軍関係者・諜報関係者が含まれていることが予想されますが、スパイ活動を取り締まる法律のないわが国では、彼らの活動は事実上野放しです。じっさい、震災の復旧支援として来日した中国人“ボランティア”の中には、情報収集のためにやってきた軍・諜報関係者が少なからず含まれていたことが確認されています。(まぁ、朝鮮戦争時の中国人民志願軍も英語に直せば“ボランティア”でしたが…)

 さらに、昨年7月1日に施行された中国の国防動員法では、中国政府がいったん“有事”と判断すると、全世界の中国人の全財産没収のみならず、中国にいる外資系企業ならびに個人の全財産没収が可能となるほか、中国人全員には兵役が課され、海外在住の中国人はその場で兵士として活動することが求められています。したがって、お気楽な観光客として来日したはずの中国人が、国家の命により、突如、日本国内で反日活動に従事するようになるということも十分にあり得るのです。

 震災当日、在日韓国人から菅直人首相への違法献金の事実が明るみに出ましたが、震災の影響で、その後なんとなくうやむやになってしまいました。また、菅首相と鳩山由紀夫前首相の資金管理団体が、森大志氏(よど号グループのリーダー田宮高麿と、北朝鮮による日本人拉致の実行犯として指名手配中の森順子の間に生まれた人物。20歳まで北朝鮮で教育を受けて帰国)が所属する政治団体「市民の党」から派生した政治団体に、巨額の政治献金を行っていたことも、先日、明らかになったばかりです。

 東日本大震災の復興政策が遅々として進まない中、今回のビザの件も含めて、こういうニュースばかり聞かされると、現政権の日本人に対する冷淡さばかりが際立ち、実に暗澹たる思いにさせられます。


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 最後の皇太子亡くなる
2011-07-05 Tue 21:47
 オーストリア・ハンガリー二重帝国を支配したハウスブルク家の最後の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルク氏が、きのう(4日)、98歳で亡くなりました。というわけで、きょうは、ハプスブルク帝国ネタの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        オーストリア・新聞切手使用例

 これは、1851年6月30日、ヘルマンシュタット(現ルーマニア領シビウ)から差し出されたオーストリアの新聞切手の使用例です。

 新聞というと、日本では各家に配達されるか駅やコンビニで買うものというイメージが強いのですが、19世紀以前のヨーロッパでは、郵便で送られるものでもありました。現在でも『XXポスト』と題する新聞がいくつかありますが、それらはいずれも、もともと郵送されるものでした。一方、郵政当局の側からすれば、まとまった部数の新聞を定期的に郵送してくれる新聞社は上得意ですから、一般の利用者に比べて料金を割安に設定するなどの優遇措置が講じられます。その結果、新聞を送るための専用切手(新聞切手)を発行する国も少なからずありました。

 さて、今回ご紹介の郵便物は、1851年にオーストリアで発行された世界最初の新聞切手の使用例で、切手に描かれているのは、ローマ神話の商業神・マーキュリーです。マーキュリーは、ラテン語読みではメルクリウスで、ギリシャ神話のヘルメス(日本ではフランス語読みの“エルメス”といった方が通りが良いかもしれません)と同一視されています。ヘルメスは、ゼウスとマイアの子でオリュンポス12神の1柱で、 旅人、泥棒、商業、羊飼いの守護神にして神々の伝令役であることから通信の象徴ともされており、ヨーロッパの切手にはしばしば取り上げられています。

 切手には額面の表示はありませんが、刷色によって額面が決まっており、青色は0.6クロイツァーに相当します。切手の上部には“新聞”を、下部には“切手”を意味するドイツ語が印刷されており、国名の表示はないものの、左側にはドイツ語の“Kaiserlich-Koeniglich”の頭文字に相当する“KK”の表示も見られます。

 “Kaiserlich-Koeniglich”は直訳すると“帝国にして王国(の)”という意味で、オーストリア皇帝とボヘミア王、ハンガリー・クロアチア王を兼ねる君主としてのハプスブルク家の支配体制をあらわします。この場合、トランシルヴァニアのヘルマンシュタットは、ハンガリー王としてのハプスブルク家の支配下にある地域という位置づけです。

 その後、ハプスブルク家は、1853年にバルカン半島での権益をめぐってロシアと対立してからは坂道を転げ落ちるかのごとく衰退の一途をたどり、1859年にはイタリア統一を目指すサルディニャとの戦争に敗れてロンバルディアを失い、1866年にはプロイセンとの戦争に大敗を喫し、KK体制の維持もおぼつかなくなってしまいました。

 そこで、彼らが起死回生の策として打ち出したのが、KKの人口の2割を占めるハンガリー人と友好を結び、ドイツ人とハンガリー人によって体制を維持しようとする“二重帝国”のプランでした。

 かくして、1867年、オーストリア・ハンガリー二重帝国が発足。これに伴い、“Kaiserlich-Koeniglich”のKaiserlich(帝国)とKoeniglich(王国)は同格に並立するものとなり、英語のandに相当するundを間に入れた“Kaiserlich und Koeniglich”の略称“K.u.K.”が使われるようになります。

 そして、二重帝国体制の下では、オーストリア皇帝にしてハンガリー国王にであるハプスブルク家の人物の下、軍事・外交および財政のみは中央政府が担当するものの、その他はオーストリアとハンガリーの両政府がそれぞれ独自に担当することになりました。このため、ハンガリー政府の担当地域では従来のオーストリア切手に代わって独自のハンガリー切手が発行・使用されることになりました。

 今回ご紹介のマテリアルの差出地であるヘルマンシュタットは、二重帝国の発足に伴い、ハンガリーの領域とされ、消印の表示もドイツ語のヘルマンシュタットからハンガリー語のナジセベンに改められました。そして、第一次大戦によりハプスブルク帝国が崩壊し、トランシルヴァニアがルーマニア領となると、ヘルマンシュタットないしはナジセベンと呼ばれていた地名もルーマニア語でシビウと呼ばれるようになりました。

 なお、シビウを含むトランシルヴァニア地方の過去と現在については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 終わるのはお前たちの方だ!
2011-07-04 Mon 23:57
 きのう(3日)、松本龍・復興相が震災復興に関して岩手、宮城両県知事と会談し、暴言・放言を繰り返した揚句、同行した記者団に向かって「今の言葉はオフレコだ。書いたらその社は終わりだ」と恫喝したようすが、東北放送で放送され、You Tube 等でも配信されています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        報道の自由

 これは、1958年にアメリカが発行した“報道の自由(freedom of the press)”の切手です。“報道の自由”を題材とした切手は各国から発行されていますが、きょう(4日)はアメリカの独立記念日でもありますので、アメリカ発行の1枚を持ってきました。

 さて、報道された動画を見ると、復興相は、達増拓也・岩手県知事との会談で「(国は)知恵を出したところは助け、知恵を出さないところは助けない、そのくらいの気持ちを持って(ほしい)」、「九州の人間だから東北の何市がどこの県か分からん」などと述べたほか、村井嘉浩・宮城県知事との会談では「県で(漁港再編問題の)コンセンサスを得ろよ。そうしないとわれわれは何もしないぞ。ちゃんとやれ」と語っています。その態度は非常に横柄・尊大で、見ていて不快感を感じる人が多いというのもうなずけるところですが、その内容については、まだ“言葉足らず”ないしは表現や言い方が不適切だったという弁明も成り立つ余地があるかもしれません。

 しかし、宮城県庁を訪れた際、先に応接室に通され、後から知事が入ってきたことに腹を立て(そのことじたいが僕などには理解に苦しむのですが)「お客さんが来るときは、自分が入ってからお客さんを呼べ。長幼の序が分かっている自衛隊(村井知事がかつて所属)ならやるぞ」と発言した点については、少なくとも、自治体の首長に対して記者団の面前でそうしたことを言うのは非礼であるというのが社会的な常識でしょう。本人もそのことを自覚していたからこそ“オフレコ”としたのでしょうが、さらに「書いたらその社は終わりだ」と記者団を恫喝したのは、言論の自由が保障されている民主国家の閣僚としては、著しく、適格性を欠いているとしか言いようがありません。

 復興相が、今後、いかなる権限をもって、また、いかなる手段を用いて、今回の一件を報じたメディアを“終わり”にするのか、非常に興味があるところです。もちろん、このブログでも今回の件をしっかりと話題にしているわけですから、僕も“終わり”ということなんでしょう。

 もっとも、実際に“終わり”なのは復興相であり、その復興相を任命したお遍路総理だというのが、圧倒的多数の国民の声なんじゃないかと思いますがね。

 
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 モナコ大公の結婚
2011-07-03 Sun 22:46
 モナコ大公アルベール2世と、南アフリカの元五輪水泳選手、シャルレーヌ妃(シャーリーン・ウィットストック)の結婚式が、きのう・おととい(1・2日)の両日、行われました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        グレース・ケリー母子

 これは、1958年5月15日にモナコで発行されたアルベール公子(現大公)誕生の記念切手で、母親でモナコ大公妃のグレース・ケリーに抱かれた公子が描かれています。切手に記載された1958年3月14日の日付は、公子の誕生日です。

 アルベール2世はスポーツマンとして知られ、冬季オリンピック大会にボブスレー選手として出場した経験があるほか、柔道では初段の腕前。さらに、国家元首として初めて、北極点(2006年)と南極点(2009年)に到達しました。シャルレーヌ妃とは、2000年にモナコで行われた水泳大会がきっかけで交際がスタートしたとのことで、同年のシドニー五輪に出場した彼女に対して大公がIOC委員の職権を利用して近づいたということではないようです。

 僕なんかは、アルベール2世というと、どうしてもこの切手の赤ん坊のイメージが強いのですが、考えてみれば、御年53ですからねぇ。認知した非嫡出子が2人いるとはいえ、やはり、妃がお世継ぎを生み、記念切手が発行される日が来ると良いですね。


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 小さな世界のお菓子たち:キャンディーの切手
2011-07-02 Sat 20:27
 大手製菓メーカー(株)ロッテの季刊広報誌『Shall we Lotte(シャル ウィ ロッテ)』の第12号(2011年夏号)ができあがりました。僕の連載「小さな世界のお菓子たち」では、今回は、こんな切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

        ファッツェル社100年

 これは、1991年にフィンランドが発行したファッツェル社100年の記念切手です。

 フィンランドを代表する製菓会社、ファッツェル社の創業者、カール・ファッツェルは1866年、ヘルシンキで生まれました。ベルリン、パリ、サンクト・ペテルスブルクで修業した後、ヘルシンキに戻り、1891年9月17日、フランス=ロシア菓子の店をオープン。その製品は評判を呼び、創業からほどなくして北欧諸国の皇族御用達となり、事業は急速に拡大していきました。現在、同社は、フィンランド国内のみならず、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、バルト諸国、英国、ロシアなどに従業員1万人以上を抱える巨大企業にまで成長しています。

 そんなファッツェル社の創業100年を記念して、1991年、フィンランド郵政は記念切手を発行しました。

 切手は青色のバックに同社のキャンディ“KISS-KISS”と3匹の猫を描いた可愛らしいモノ。フィンランド語では猫を“KISSA”ということにひっかけて、“KISS-KISS”の包み紙には猫が描かれています。ただし、包み紙が巻かれた状態ではせっかくの猫の顔も歪んでしまい、わかり行くいので、切手では包み紙から抜け出した猫がキャンディの周りを取り囲む構図がとられています。ちなみに、中身のキャンディは、チョコレート味のソフトキャンディをピンク色のベリー味のキャンディでコーティングしたものだそうです。

 また、ファッツェル社には、1922年以来変わらぬレシピで作られ続けている“ファッツェル・ブルー”というミルク・チョコレートの定番商品があり、同社のロゴマークにも青色が使われています。フィンランド人にとって、切手の青色はまさにファッツェル・ブルーということなのでしょう。


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