内藤陽介 Yosuke NAITO
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 世界漫郵記:ハバロフスク⑨
2011-08-31 Wed 20:55
 ご報告が遅くなりましたが、『キュリオマガジン』2011年9月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、極東ロシア・ハバロフスク篇の9回目。前回に続き、シェフチェンコ通りの博物館について取り上げましたが、その中から、この切手をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      戦車の日     赤軍博物館・戦車

 切手は1948年にソ連で発行された「戦車の日」の1枚で、背後に描かれているのは、ソ連を代表する戦車T-34/85です。右側の画像は、極東ロシア軍歴史博物館(通称:赤軍博物館)の戦車の屋外展示で、右から2番目がT-34/85の実物です。

 シェフチェンコ通りを挟んで極東美術館の反対側にある赤軍博物館は、もとはハバロフスクで最も大きな銀行だった建物を利用し、ロシア人によるシベリアと極東の開拓の歴史からはじまり、10月革命とその後の内戦、シベリア出兵やノモンハン事件、“大祖国戦争”と対日戦争、さらには現在のロシア軍に関する資料やジオラマなどを展示しています。

 博物館は、館内の展示を一通り見終わると、屋外に出て、陳列されている戦車や野砲、軍用トラックなどの実物に直接触れられるようになっていますが、僕が特に注目したのは、ソ連を代表する戦車として名高いT-34でした。

 T-34は、第二次大戦期から冷戦時代初期にかけてのソ連を代表する戦車で、1940年初頭からの量産が開始されました。

 従来の戦車に比べて機動力の大幅な向上をもたらした幅広のキャタピラや大型転輪、砲塔や車体の装甲を斜めに配した傾斜装甲のシステム(砲弾が命中しても直撃せずに滑ってしまうため、防御性能が飛躍的に向上しました)、世界に先駆けたディーゼルエンジンの採用など、当時としては画期的な傑作車両として、対独戦争の勝利に大いに貢献しています。

 当初、主砲は76mm砲でしたが、1943年末には主砲を85mm砲に載せ替えた改良型が導入されたため、旧モデルをT-34/76、新モデルをT-34/85と呼んで区別します。

 1945年までに累計で5万7000両以上が生産され、新たな主力戦車として1950年にT-54が採用された後も、各国に輸出され続けました。たとえば、19506月に勃発した朝鮮戦争では、38度線を越えて南進した朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が、ソ連から供与されたT-34/85を駆使し、米国製軽戦車と旧日本軍の戦車しかなかった韓国軍を蹴散らしたのはよく知られていますし(ちなみに、朝鮮戦争時に北朝鮮が発行した“方虎山将軍”の切手に描かれている戦車もT-34/85です)、ヴェトナム戦争でも北ヴェトナム軍は多くのT-34/85を所持し、アフリカ諸国の内戦では1980年代以降も現役として使われています。

 最終的に、T-34/85は、ソ連を含め39ヵ国が採用し、そのうちの27ヵ国では1990年代半ばまで使用され、全世界の戦場を駆け巡ることになりました。

 今回の記事では、このほか、郷土誌博物館についてもご紹介しております。こちらは、シベリアの動物や少数民族についての展示について取り上げていますので、機会がありましたら。ぜひご覧いただけると幸いです。


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 湛山以来
2011-08-30 Tue 23:58
 きのう(29日)行われた民主党の代表選挙で、決選投票の末、第1回投票で2位だった野田佳彦財務相が、海江田万里経産相を逆転で破って党代表に当選し、きょう(30日)の国会で内閣総理大臣に指名されました。与党党首選挙の決選投票で逆転当選し、総理大臣になったのは、石橋湛山以来55年ぶりのことだそうです。というわけで、きょうはこのマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)

        石橋湛山・表       石橋湛山・裏

 これは、1953年のいわゆるバカヤロー解散に際して、石橋湛山の陣営が差し出した選挙葉書です。

 石橋湛山は、1884年、日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三として東京で生まれました。石橋は母方の姓で、湛山は1902年に山梨県立第一中学校を卒業する頃に改名した名です。

 早稲田大学卒業後、1908年12月に島村抱月の紹介で毎日新聞社(現在の毎日新聞社とは無関係)に入社。その後、兵役を経て東洋経済新報社に入社し、大正デモクラシーの論客として活躍したほか、昭和初期の金解禁に際しては1円=金2分の旧平価での金本位制復帰に反対して、実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価金海禁)を主張して政府を批判。いわゆる支那事変以降は、『東洋経済新報』誌上にてリベラリストとして軍部批判の論陣を張りました。

 戦後は、1946年に日本自由党から総選挙に出馬して落選しましたが、第1次吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣。蔵相在任時にはデフレーションを制えるためのインフレーションを進めて、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進。アメリカに対して進駐軍経費の削減を求めて日本の負担額を2割削減することに成功しましたが、この結果、アメリカに忌避され、1947年の総選挙で当選したものの、公職追放の憂き目にあっています。

 1951年の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山一郎派の幹部として打倒吉田に尽力し、1954年に第1次鳩山内閣が発足すると通商産業大臣に就任。中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張しました。

 1955年の保守合同による自由民主党結成を経て、1956年の国連加盟を花道に鳩山内閣が退陣すると、その後継を決める自民党総裁選挙に立候補。第1回投票では岸信介に次ぐ第2位でしたが、決選投票では第1回投票時に第3位だった石井光次郎と2位・3位連合で岸を逆転し、総裁に当選。1956年12月、内閣総理大臣に指名されました。

 しかし、翌1957年1月、軽い脳梗塞で倒れ、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると「私の政治的良心に従う」と潔く退陣しました。首相在任期間はわずか65日で、東久邇宮稔彦王・羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短命政権です。

 さて、石橋湛山と野田新総理は、党首選挙で逆転勝利を収めたということ以外にも、早稲田大学卒業で初入閣は蔵相という共通点があります。前総理のように“退陣偽装”までして意地汚く政権にしがみつくのはどうかと思いますが、ここ数年、猫の目のように日本の総理が後退して海外からの信用を損ねていることを考えると、在任期間の短さも湛山以来となることがないよう、健康に留意して職務に精励していただきたいものですな。


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 セントクリストファーかセントキッツか
2011-08-29 Mon 13:57
 まずはお知らせです。

        週刊ポスト9月9日号表紙       週刊ポスト・特集扉

 本日(29日)発売の『週刊ポスト』9月9日号(小学館 税込み定価400円)は、巻頭グラビアで「懐かしの切手大全」と題して8頁の大特集を組んでいます。内容は、拙著『切手百撰 昭和戦後』の同じコンセプトで、懐かしの昭和の切手を通覧してみようというもので、僕のインタビューも掲載されています。。全国書店はもとより、駅売店・コンビニなどでも実物をお手に取っていただけますので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

 さて、韓国の大邱で行われている陸上の第13回世界選手権では、きのう(28日)の男子100メートル決勝で、世界記録保持者のウサイン・ボルト(ジャマイカ)がまさかのフライングで失格となったことが大いに話題となりましたが、個人的には、セントキッツ・ネイヴィスのキム・コリンズが銅メダルを獲得したことが興味を引きました。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        セントキッツ・KGVI戴冠

 これは、1937年5月に英領時代のセントキッツ・ネイヴィスで発行された英国王ジョージ6世戴冠式の記念切手の初日カバーです。切手上の国名表記は、セントクリストファー・アンド・ネイヴィスとなっていますが、首都のバセテールの消印の局名表示はセントキッツになっています。

 セントキッツ・ネイビス連邦は、西インド諸島の小アンティル諸島内のリーワード諸島に位置するセントキッツ(セントクリストファー)島とネイビス島の2つの島から構成されており、1983年9月、英連邦加盟国として独立しました。

 首都バセテールのある島は、島の発見者であるクリストファー・コロンブスにちなみ、セントクリストファー島と命名されましたが、クリストファーの愛称(略称)がキッツであるため、セントキッツ島とも呼ばれるようになりました。

 現在、日本の外務省では、セントクリストファーを採用しており、マスコミ各社もこれに倣っているようですが、肝心の同国外務省は、セントクリストファーでもセントキッツでもどちらも正式名称という立場をとっており、切手の国名表示はセントキッツになっています。じっさい、コリンズ選手の画像をネットでいくつか探してみたら、下のように、いずれもセントキッツとなっていました。

        キムコリンズA     キムコリンズB

 ちなみに、きのうの決勝でも、コリンズ選手のユニフォームの表示はセントキッツでしたが、報道各社は選手の国籍をセントクリストファーと報じていました。

 もちろん、同国外務省がどちらも正式名称としている以上、メディアがどちらの名称を使おうと間違いではないのですが、実際に流れている映像がセントキッツとなっている以上、セントクリストファー(セントキッツ)というような説明の仕方があった方が親切だろうと思います。かつて、北朝鮮報道に際しては、少なくとも初出時には、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と必ず言っていたことを考えると、決して無理なことではないと思うんですが…。それとも、北朝鮮に対しては配慮できても、カリブ海のマイナー国のことなんて知ったことか、ということなんでしょうか。

 もっとも、当の御本人たちはセントクリストファーでもセントキッツでもどっちでも良いという姿勢で、1通のカバーで切手と消印の表示が違っているというありさまですからねぇ。僕がぶつくさ言ってみても、しょうがないのかもしれませんな。

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 隅田川の花火
2011-08-28 Sun 10:40
 きのう(27日)は隅田川花火大会がありました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        隅田川の花火     隅田川の花火(実物)

 左は、1999年7月1日に発行されたふるさと切手(東京都)の「隅田川花火大会」で、右は、きのう僕が実際に撮影した花火です。実は、昨年末から使っている僕の仕事場は両国から徒歩圏内の場所にありますので、昨日は散歩がてら花火の近くまで行ってみたのですが、予想通り大変な混雑で、花火はでちょっと見ただけで逃げ帰って来たというのが正直なところです。もっとも、切手のようなオーソドックスな花火の風景も良いのですが、ビルの背後に輝く花火というのも、案外、悪くはありませんな。

 さて、隅田川の花火は、1732年の享保の大飢餓で多くの餓死者が出たことに加え、疫病が流行したことから、翌1733年、江戸幕府が犠牲者の慰霊と悪病退散を祈り、旧暦5月28日の両国の川開きにあわせて隅田川で水神祭りを行った際、両国橋周辺の料理屋が花火を上げたのがルーツといわれています。その後は、“両国の川開き”にあわせて花火が打ち上げられるようになりましたが、1962年以降、交通事情の悪化に伴い中断。1978年に「隅田川花火大会」と名を改めて再開され、現在にいたっています。

 隅田川の花火のもともとの趣旨を考えると、多くの方が犠牲になった3月の大震災があった今年こそ、花火大会を開催すべき年は近年なかったと言ってよいでしょう。それだけに、例年より1ヶ月遅れになったとはいえ、成功裏に大会を終了させた関係者の方々の御努力には、あらためて、深く敬意を表したいと思います。


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 大邱からの葉書
2011-08-27 Sat 17:15
 陸上の第13回世界選手権が、きょう(27日)、韓国第3の都市・大邱で始まりました。というわけで、きょうは大邱がらみのこんなマテリアルを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        大邱発の葉書

 これは、朝鮮戦争中の1951年5月に大邱から日本宛てに差し出された航空便の葉書です。

 使用されているはがきは、大韓民国成立以前、米軍政下の南朝鮮で発行された解放葉書です。当初、解放葉書は解放切手と同時に1946年5月1日に発行される予定でしたが、用紙の手配などに手間取り、実際に葉書が納品された時には葉書料金は25チョンに値上げされ、額面5チョンの葉書はそのままでは使えなくなっていました。このため、葉書はお蔵入りになっていたのですが、1947年4月1日に葉書料金が50チョンに値上げされると、5月1日から差額分の45チョンについては料金別納の印を押して、50チョン葉書として発売されました。以後、朝鮮戦争勃発以前の切手・葉書が1951年末かぎりで使用禁止となるまで、料金が値上げされるたびに差額分の収納印を押したものが発行され、使用されています。(ただし、その後も印面部分は無効となりましたが、“滅共統一”葉書の用紙としては利用されました)

 今回ご紹介の葉書には、大邱の“195錢別納”の赤い印が押された上から紫色の“料金別納郵便”の印が押されています。“195銭別納”の印は大韓民国発足直前の1948年8月1日に葉書料金が2ウォン(1ウォン=100チョン)に値上げされたことに伴って押されたもので、紫の印はその後の料金改正に応じて差額分(1951年5月時点での国内葉書の料金は50ウォン)を徴収するために押されたものと思われます。

 葉書の中央上部の印は、局名が潰れていて見づらいのですが、差出人の住所から大邱砧山洞と推測されます。印面にかかっている日付は5月18日で、差出人の書き込みんいよる5月17日と照らし合わせても妥当な日付です。航空便を示す漢字の角印と英語の赤印を差出人が持っているとは考えにくいので、郵便局の窓口に差し出した際、日本宛航空葉書料金200ウォンとの差額を支払った後、局員が航空便の表示とともに、葉書の上部に“料金収納”の印を押したものと考えられます。

 その後、この葉書は、釜山経由で日本まで運ばれましたが、大邱砧山洞局での受け付け後、横型の切手が印面に貼られ、中継地の釜山局で欧文印が押されたようです。横型の切手が大邱砧山洞局出の受付時に貼られたのなら、同局の消印の跡が残っていてもよさそうなものですが、何の痕跡もありません。なお、脱落した横型の切手は、日本宛航空葉書料金が200ウォンだったことと併せて考えると、朝鮮半島と国連旗ならびに太極旗を描いた国土統一記念の200ウォン切手だったんじゃないかと思います。

 貼られていた切手はただ単純に脱落しただけという可能性が高いのですが、中継の釜山局でいったん切手を貼り消印を押した後になって、やはり料金収納印だけで十分だろうということになり、切手を剥がしてしまったということもありうるかもしれません。その場合、剥がした切手は別納用などに紛れ込ませて処理してしまったんでしょうな。

 いずれにせよ、日本到着後、那加局で押された到着印の日付は、差出から10日以上たった5月29日のことで、差出人からすれば、割高な航空料金を払った効果はあまりなかったということになりそうです。


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 ダイヤモンドの星
2011-08-26 Fri 23:46
 地球から約4000光年離れた銀河系内に、ダイヤモンドでできているとみられる小惑星が存在することが分かり、オーストラリアの天文学者らでつくるチームが、きのう(25日)発行の米科学誌サイエンスで発表したそうです。というわけで、ダイヤモンドの切手といえば、やはりこの1枚でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

        シエラレオネ・ダイヤモンド

 これは、1970年に西アフリカ大西洋岸のシエラレオネが発行したダイヤモンド型の切手です。

 シエラレオネは15世紀にポルトガル人がこの地に上陸し“ライオン山脈”と命名したのが国名の由来で、1808年、解放奴隷の移住地として英領植民地となりました。

 英領時代の1931年にダイヤモンドの鉱脈が発見され、いちやくダイヤモンドの輸出国となりましたが、ダイヤモンドの意r権をめぐる対立も激化。1961年の独立後もクーデターが頻発して政情は安定せず、1991年から2002年にかけては、ダイアモンドの鉱山の支配権をめぐり、政府軍と反政府勢力・革命統一戦線(RUF)の間で、隣国リベリアをも巻き込んだ大規模な内戦が発生し、7万5000人以上が犠牲となりました。

 内戦の過程で、両陣営はダイヤモンドの密輸出により内戦継続の資金を得ていたため、それらのダイヤモンドが“紛争ダイヤモンド”として国際市場から忌避されたことは、映画『ブラック・ダイヤモンド』などでも取り上げられましたから、ご存じの方も多いかと思われます。

 ちなみに、今回ご紹介の切手が発行された1970年は、1968年のクーデターで成立した軍事政権がダイヤモンド産業を国有化した年で、この切手にも自国の主力輸出商品を広く世界にアピールする意図が込められていたことはいうまでもありません。

 ただし、セルフ糊つきの変形シール切手というアイディアを思いついたのは、シエラレオネ郵政の人間ではなく、切手の輸出による外貨獲得を目指す国々のエージェントとして幅広く事業を展開しているインター・ガバメンタル・フィラテリック・コーポレーション(IGPC)で、彼らの“営業努力”により、この切手は変形切手の中でも最も有名なものの一つとなりました。

 なお、IGPCやその切手ビジネスについては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも1章を設けてまとめております。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 核武装の正しさ
2011-08-25 Thu 23:55
 きのう(24日)は、リビアでカダフィ政権が事実上崩壊したほか、シベリアのウラン・ウデで金正日とメドベージェフの北朝鮮・ロシア首脳会談が9年ぶりに行われるなど、ニュースの多い1日でした。それらのニュースを聞きながら、僕なりに考えることがあったので、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        パキスタン・核実験成功

 これは、1999年5月28日にパキスタンが核実験の成功1周年を祝して発行した「独立独歩を求めるパキスタンの戦い」と題する切手です。

 パキスタンは、核保有国である隣国インドの脅威に対抗するため、1998年5月28日と同30日に核実験を行いました。当時、多くの国々はパキスタンを非難しましたが、核保有国となったがゆえに国際社会がパキスタンに武力制裁を発動したり、圧力をかけて政権を転覆させたりすることはなく(核実験を行ったナワズ・シャリフ政権は1999年に陸軍参謀総長だったパルヴェーズ・ムシャラフのクーデターにより政権を追われていますが、これは、シャリフ政権の腐敗・汚職が原因で、核の問題とは無関係です)、現在なお、パキスタンは核保有国であり続けています。

 これに対して、リビアのカダフィ政権は、2003年にアメリカがイラク戦争を起こし、サダム・フセイン政権が崩壊すると、“次の標的”にされるのを恐れたためか、核放棄を宣言。さらに、2009年にアメリカでオバマ政権が発足すると、パンナム機爆破事件などの遺族補償として15億ドルをアメリカに支払い、アメリカとの国交正常化を実現するなどの柔軟路線をとりましたが、カダフィ独裁に反対する民主化運動がおこると、欧米諸国は反政府組織を露骨に支援し、NATOによる空爆まで行って、政権を事実上の崩壊に追い込みました。

 また、イラクのサダム・フセイン政権も核兵器の開発が疑われたことがありましたが、イラン・イラク戦争中の1982年にイスラエルの空爆を受けてイラクのタムーズにあった原子力施設は壊滅状態に陥り、戦争の影響もあって核開発計画は完全に頓挫。「大量破壊兵器保有の疑い」を大義名分としてはじめられた2003年のイラク戦争でも、フセイン政権の崩壊後、イラクには核兵器はなかったことが明らかとなっています。

 一方、核保有国となった北朝鮮に対しては、国際社会は現状を事実上追認しつつあるのが実情で、金正日体制が近々崩壊する可能性はきわめて低いとみられています。実際、きのうの会談でロシア側は北朝鮮に核兵器の放棄を強く求めたわけではありませんし、飛行機での移動を嫌う金正日に配慮して、メドベージェフがわざわざモスクワからシベリアのウラン・ウデの軍施設まで出向いていることを考えると、今回の会談は北朝鮮側にとって外交的に大きな成果を上げたと評価してもよいでしょう。

 こうした状況を単純素朴に眺めてみると「核兵器を持たない独裁国家が欧米と対立した場合にその存続が危うくなるのに対して、いちど核兵器を持ってしまえば欧米といえどもそれを排除できない。それゆえ、政権安定のためには何が何でも核武装をすべきである」との結論を導き出す国が少なからず存在したとしても、なんら不思議ではありません。すくなくとも、北朝鮮は、核武装を途中で止めたカダフィ政権の崩壊という現実を踏まえ、絶対に核兵器を放棄しないというスタンスをとるでしょうし、核兵器開発疑惑を持たれているイランが、この際、急ぎ核武装の実現を目指すことも十分に考えられます。

 核兵器のない世界という理想論は、理念としては御立派なものなのでしょうが、どうやら、現実の世界はそれとは逆の方向に向かいつつあるのではないかと僕は思っています。そうであるなら、わが国も、現実に核武装するか否かはともかく、その気になれば(少なくとも技術的には)すぐにでも核武装が可能であることを内外に示しておく必要があるはずです。その点からも、中国や北朝鮮の核兵器に対してはほとんど批判をしないまま、“脱原発”のお祭り騒ぎに興じている人たちに対しては、どうにも胡散臭さを感じずにはいられませんな。
 

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 泰国郵便学(15)
2011-08-24 Wed 20:28
 財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第45巻第4号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は、大東亜戦争の終結についてまとめてみました。その中から、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        トレンガヌ・戦後使用

 これは、終戦直後の1945年9月9日、“タイ領トレンガヌ”で使用された切手です。戦時中の1943年10月、日本軍占領下のマライ北部、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスの4州をタイに割譲し、これらの地域ではタイの切手が使われていました。戦後、これらの地域には英印軍が進駐しますが、英国側がマレー4州の郵政を接収するまでの間は、従前通り、タイ側がこの地域の郵便実務を担当しています。今回ご紹介のモノも、そうした過渡期の使用例です。

 さて、「大東亜戦争」での日本の敗戦を受けて、1945年8月16日、タイは、1941年の米英に対する宣戦布告に摂政プリーディーが署名しなかったことを根拠として、連合諸国への宣戦布告はタイの意図に反して日本に強制されたものであり、法的にも無効であると宣言しました。同時に、戦争中、日本との同盟により回復した、ケダー、ケランタン、トレンガヌ、ペルリスのマラヤ4州とモンパンとケントンのビルマ2州の“失地”を英国に返還することを明らかにします。

 これに対して、米国は、8月21日、この無効宣言をいち早く受け入れました。その背景には、英仏の国力が衰退し、東南アジアにおける戦後の国際秩序の再編成が避けられない以上、曲がりなりにも第二次大戦以前から長きにわたって独立を維持していた唯一の国であるタイを戦後の東南アジア戦略の要として取り込んでおくのが得策であり、そのためには、タイのすみやかな戦後復興を促す必要があるとの米国の情勢判断がありました。

 一方、英国は日本との同盟により、マレー4州とビルマ2州を奪い、泰緬鉄道の建設工事で多くの英豪兵士の命が失われたこともあり、タイをあくまでも敵国、すなわち敗戦国とみなして強硬な姿勢を取っていました。

 このように、タイの戦後処理をめぐって米英の思惑が食い違う中、9月2日、東京湾に停泊中の米戦艦・ミズーリ号上で降伏文書が調印されます。ついで、連合国軍最高司令官(ダグラス・マッカーサー)の名前で発せられた「一般命令第一号」では、東南アジア連合国軍最高司令官(ルイス・マウントバッテン)とオーストラリア軍総司令官(トマス・ブレイミー)が、インドのアンダマン・ニコバル諸島、ビルマ、タイ、北緯16度以南の仏印、マラヤ、ボルネオ、蘭領インドネシア、ニューギニア、ビスマルク、ソロモンの日本軍の降伏を受理することになりました。その具体的な分担は、ボルネオ、英領ニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島がオーストラリア軍総司令官の管轄、それ以外は東南アジア連合国軍最高司令官の管轄です。

 これを受けて、2万7000人の英印軍がタイに進駐し、タイに駐留していた日本軍将兵は武装解除され、ナコーンナーヨックの収容所で引き揚げを待つことになりました。

 タイとの和平交渉において、当初、英国は、マラヤ4州とビルマ2州の英領復帰のみならず、連合国によるタイ国軍の管理、連合国資産の原状回復、コメ150万トンの供出などの21カ条をタイ側に要求していました。連合国による国連合国による国軍の管理は明らかにタイを敗戦国として扱うもので、タイの独立を危うくするものでしたし、コメの供出も、戦争で疲弊したタイ経済にとっては大きな負担でした。

 しかし、結局、タイに好意的な米国のとりなしにより、1946年1月、タイによる宣戦布告の無効確認、英国資産の原状復帰、コメ150万トンの供与などを骨子とする平和条約が調印され、タイと英国との戦争状態も終結しました。

 今回の連載記事では、このほか、終戦後の連合国の元捕虜たちの通信等もご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 アイツタキ島で初の銀行強盗
2011-08-23 Tue 20:29
 南太平洋クック諸島にあるアイツタキ島で、有史以来初めてという銀行強盗が発生し、話題となっているそうです。というわけで、こういう機会でもないとなかなか取り上げる機会のないアイツタキの切手を持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        アイツタキ加刷

 これは、1903年、ニュージーランド切手に加刷して発行されたアイツタキ最初の切手の1枚です。

 アイツタキは南太平洋のニュージーランド領クック諸島にある環礁の島で、行政的にはアイツタキ島と周囲の21の小島から構成されています。面積は18.3平方キロで、人口は約2300人です。

 アイツタキにおいては、1892年からクック諸島の切手を用いた郵便が行われていましたが、1903年6月12日、ニュージーランドはアイツタキ用の加刷切手をオークランドで発行し、同月29日からアイツタキ島での加刷切手の使用を開始しました。

 その後しばらくは加刷切手の時代が続きましたが、1920年、ニュージーランドはクック諸島で使うオムニバス形式の正刷切手を発行。これに伴い、アイツタキでもアイツタキ表示の正刷切手が使用されるようになります。

 しかし、利用者が少なかったためか、1932年3月15日以降はアイツタキ切手の使用は中止され、再びクック諸島の切手が使われるようになりました。

 その後、1972年にアイツタキでは独自の郵政を発足させ、アイツタキ切手の発行も復活します。ただし、アイツタキ切手の発行は、実質的にインター・ガバメンタル・フィラテリック・コーポレーション(IGPC。いわゆる“インガバ”です)が仕切っており、島民の実用に供するというよりは、収集家向けに輸出して外貨を稼ぐための“いかがわしい切手”が主流を占めているのが実情です。

 さて、今回の事件は、島に3つある銀行のひとつで、保管していた20万ニュージーランドドル(約1250万円)が無くなっているのを職員が発見したことであきらかになったもので、地元警察によると、犯人は8月10日から11日にかけて侵入したと見られているようです。これまで、アイツタキ島では、ほぼ全員が顔見知りということもあって、警察沙汰の事件等はほとんど起きてこなかったため、島内では、サンゴ礁目当てに島にやってきた観光客の犯行ではないかとの見方も根強いようです。

 なお、アイツタキの切手を仕切っているIGPCやその切手ビジネスについては、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でも1章を設けてまとめております。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 金剛山の韓国側資産処分開始
2011-08-22 Mon 23:48
 朝鮮中央通信によると、北朝鮮の金剛山国際観光特区指導局は、きょう(22日)、金剛山にある韓国側財産の「法的処分を断行する」との報道官談話を発表するとともに、21日午前0時以降の韓国側の財産搬出を禁止し、同地区の韓国人に72時間以内の退去を通告したことを明らかにしました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        金剛山(無目打)カバー

 これは、朝鮮戦争開戦後の1950年8月4日に咸鏡南道南部の永興(現・金野)宛に差し出されたカバーで、1950年に発行された金剛山50チョンの無目打切手2枚が貼られています。消印の局名が読めないのですが、裏面の差出人名は“北朝鮮共通労働者職業同盟・咸鏡南道陸海運委員会”となっていますので、道内のビジネス便であることは間違いなさそうです。

 さて、北朝鮮最初の切手は、1946年3月12日に発行されたムクゲの20チョン切手と金剛山の50チョン切手ですが、このうちの50チョン切手にはさまざまなバラエティがあり、刷色違いだけでも黄緑・赤・紫の3種に大別(さらに細かいシェード違いもありますが)されます。このうち、紫色で無目打のものは、1950年頃に出現したと考えられています。

 さて、金剛山の観光開発は、この地域出身の鄭周永(現代財閥の創業者)が北朝鮮側に働きかけたことで1998年11月から始まり、現代グループが巨額の投資を行うことで進められてきました。しかし、現代側が投資に見合う利益を確保することができないまま、ことし4月、北朝鮮側は現代グループが持つ事業の独占権の無効を通告。先月末には韓国側財産の処分手続きに着手したと発表し、現代などに対し今月19日までに同地区を訪れ、財産の処分方法についての考えを明らかにするよう求めていました。今回の措置はそれを淡々と実行に移したというのが北朝鮮側の主張です。

 まぁ、第二次大戦後、日本人・日本企業が朝鮮半島から撤退した際、朝鮮半島に残してきた日本資産については結局うやむやになりましたし、韓国には、旧日本資産に対する補償どころか、日本に対して賠償を請求してきたという過去がありますから、自分たちの“在外資産”が不測の事態により失われても、また、北朝鮮側が今回の一件で“謝罪と賠償を求めてきても、それはそれで仕方ないとあきらめることができるんでしょうね。きっと。

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 トリポリ攻防戦はじまる
2011-08-21 Sun 23:13
 きのう(20日)、リビア反体制派による首都トリポリの攻略作戦が開始されました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        イタリア・トリポリ加刷

 これは、1909年にイタリアの在トリポリ局で使用するために発行された切手で、“Tripoli di Barberia”の文字が加刷されています。加刷文字が単に“Tripoli”となっていないのは、レバノンの同名の都市との混同を防ぐためです。

 列強諸国によるアフリカ分割が進む中で、イタリアは当初、対岸のテュニジアの植民地化を狙っていました。しかし、1883年、テュニジアはフランスによって保護国化され、イタリアの目論見は潰えてしまいます。

 当然のことながら、イタリアはフランスによるテュニジア独占に不満を持っていましたが、フランスはイタリアに対して「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と提案。これを受けて、1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとテュニジアに関する協力協定が交わされました。

 協定の調印後もしばらくイタリア政府はトリポリタニア進出に慎重な姿勢を示していましたが、しだいに、植民地の拡大を求める国民世論が高揚。1908年にオスマン帝国で青年トルコ党革命が起こると、イタリアはその混乱に乗じてトリポリタニアを獲得することを決断します。その準備の一環として、1909年にはトリポリに置かれたイタリアの郵便局で、加刷切手を持ち込んでの郵便が開始されました。

 その後、1911年9月29日、イタリアはトリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府につきつけます。オスマン帝国はイタリアに対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答しましたが、イタリアはこれを不服として宣戦布告。いわゆる伊土戦争を起こして、リビアを獲得することになります。

 さて、しばらく膠着状態が続いていたリビア情勢ですが、今回のトリポリ攻防戦の結果次第では状況が大きく動くかもしれません。このブログでも、折を見てリビアがらみのマテリアルをいろいろとご紹介していければ…と思っております。


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 エストニア独立回復記念日
2011-08-20 Sat 23:54
 1991年8月20日、ソ連8月クーデターの混乱の中で、エストニアが独立を回復してから、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはエストニア切手の中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        エストニア最初の切手

 これは、1918年11月に発行されたエストニア最初の正刷切手です。

 ロシア10月革命で誕生したボリシェヴィキ政権はドイツと単独講和を締結。この結果、ロシアはエストニアから撤退し、代わりに、エストニアにはドイツ軍が進駐することになります。これに対して、エストニアのナショナリストは1918年2月、独立を宣言。その後、同年11月11日にドイツが降伏すると、エストニアは名実ともに独立国となりました。

 ロシア撤退後のエストニアでは、暫時、ドイツ占領当局が郵便を担当していましたが、1918年11月13日、首都タリンでエストニア側が郵便電信局を掌握してエストニア郵政が発足。エストニア最初の切手として、花模様の5コペイカならびに15コペイカの切手が発行されました。今回ご紹介のものは、そのうちの5コペイカ切手です。

 その後、1939年に第2次大戦が勃発すると、1940年にソ連はエストニアを再占領。1941年に独ソ戦が始まると、一時的にエストニアはドイツの占領下に置かれましたが、最終的には、ソ連が奪還し、第2次大戦後は1991年8月まで、ソ連を構成する15の共和国の一つとされていました。

 エストニアを含むバルト三国に関しては、その複雑な歴史を反映して郵便史的にもいろいろと興味深いマテリアルがあるのですが、エストニアでは2007年施行の法律で公の場での“鎌と槌”ならびに“ハーケン・クロイツ”の使用と掲揚が禁じられているのだとか。ということは、かの国の国内展では、たとえば「エストニア郵便史 1940-1945」なんて作品は展示できないんでしょうかねぇ。ちょっと気になりますな。

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 ソ連8月クーデターから20年
2011-08-19 Fri 21:03
 ソ連崩壊の直接のきっかけとなった1991年8月19日のクーデターから、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        8月クーデター失敗

 こては、1991年10月11日にソ連が発行した“8月クーデター失敗”の記念切手で、ロシア最高会議ビル(通称ホワイトハウス)を取り囲む市民が描かれています。

 1985年にソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、いわゆるペレストロイカとグラスノスチを推進し、東西冷戦に終止符を打ちましたが、彼の改革路線に対しては国内の守旧派の反発も強く、経済再建は事実上とん挫してしまいました。

 こうした中で、ゴルバチョフは事態を打開するための方策として、ソ連を構成する各主権共和国は独立した共和国として共通の大統領、外交、軍事政策下に連合するという新連邦条約を締結することを決断しました。

 これに対して、守旧派は新連邦条約によって、いわゆるバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の完全独立が促進され、ソ連の解体が進むことを恐れた保守派は、条約への大統領の署名予定日前日の1991年8月19日、クリミア半島フォロスの別荘で休暇中のゴルバチョフに対して、副大統領ヤナーエフへの全権委譲と非常事態宣言の受入れ、大統領辞任を要求。ゴルバチョフがこれを拒否すると、彼を別荘に軟禁しました。

 一方、モスクワでは、同日早朝、クーデター側の組織した国家非常事態委員会の名義で「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となりヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ」との声明が発表されるとともに、クーデター側が全権を掌握し、モスクワ中心部に戦車が出動しモスクワ放送は占拠されました。

 これに対して、ロシア共和国大統領で急進改革派のエリツィンは「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」との声明を発表。連邦大統領のゴルバチョフが国民の前に姿を見せること、臨時人民代議員大会の招集などを要求し、自ら戦車の上で旗を振りゼネラル・ストライキを呼掛け戦車兵を説得しました。また、市民はこれに呼応してロシア共和国最高会議ビル周辺にバリケードを構築し、銃や火炎瓶を手に、クーデター側との戦闘に備えました。今回ご紹介の切手は、その場面を描いたものです。

 結局、守旧派のクーデターは国民の猛反発を招き、軍も早々に離反。国際社会の非難もあって、20日には一部で流血があり3人が犠牲となったものの、8月21日にはクーデターは完全な失敗に終わり、ゴルバチョフが復活しました。この事件をきっかけに、ソ連共産党の権威は完全に失墜し、8月28日には活動停止に追い込まれました。なお、ソ連そのものが完全に解体されたのは、同年12月25日のことでした。


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 切手が語る宇宙開発史(15)
2011-08-18 Thu 22:58
 御報告が遅くなりましたが、 雑誌『ハッカージャパン』の2011年9月号が出来上がりました。僕が担当している連載「切手が語る宇宙開発史」では、今回は、この切手を取り上げました。(画像はクリックで拡大されます)

        ソ連・1959年党大会

 これは、1959年1月、ソ連共産党第21回大会にあわせて発行された「ソヴィエト人民による宇宙征服」の切手です。

 1958年末に国際地球観測年の期間が終了した直後の1959年1月27日から2月3日にかけて、ソ連共産党第21回大会が開催されました。

 ソ連の共産党大会は原則として5年に1度の開催で、前回の第20回大会は1956年2月に開催され、フルシチョフがスターリン批判演説を行ったことで知られています。したがって、第21回大会は、本来であれば1961年の開催となるはずでしたが、1959年から1965年にかけてのソ連邦国民経済発展7ヵ年計画(以下、7ヵ年計画)に対する承認を得る必要もあって、臨時党大会として1959年に開催されたというわけです。

 このときの党大会に際して、ソ連は3種の記念切手を発行しましたが、そのうちの1ルーブル切手には、「ソヴィエト人民による宇宙征服」の題目の下、クレムリンを背景に、1958年までにソ連が打ち上げに成功していた3機の人工衛星とロケットが描かれています。ちなみに、このとき同時に発行された40コペイカ切手はレーニンの肖像とクレムリンを描き、60コペイカ切手はヴォルガ河畔のレーニン発電所と労働者を描いており、いかにも“共産党大会”風のデザインでした。

 さて、第21回臨時党大会では、フルシチョフが「1970年ごろには、ソ連は工業生産でも、人口1人あたりの生産高でも世界第1位となり、資本主義との平和な競争において社会主義が勝利するであろう」と演説し、7ヵ年計画の主要な課題は「共産主義の物質的・技術的土台をつくりだすこと、ソ連邦の経済力と国防力をさらにいっそう強化すること、同時に、国民の増大する物質的、精神的欲求を、ますます完全にみたすこと」とされましたが、そうした目標を実現するためには、米国に比べて圧倒的に劣る経済力でありながら、第3次世界大戦を想定して米国と張り合うような、過重な軍事負担を軽減しなければなりません。

 しかし、自国の利益のために米国に妥協し、東側陣営の安全保障をないがしろにしたと見なされれば、社会主義陣営の盟主としてのソ連の国際的な権威は一挙に失墜してしまいます。

 そこで、ソ連は、1957年のスプートニク1号の打ち上げ以降、戦略爆撃機や戦略ミサイルの数においてソ連が米国を凌駕しているのではないかとの西側社会の誤解を最大限に活用し、米ソ両国の軍縮という形式をとって米国により多くの核兵器を削減させることで、自国の軍縮が可能となる状況をつくりだそうとしました。共産党大会にあわせて発行された切手もまた、そうしたソ連の外交戦略の一環として、歴代の人工衛星とロケットを華々しく取り上げらたと理解してよいでしょう。

 ところで、人工衛星の手前に大きく描かれているのは、党大会直前の1959年1月2日、ソ連による月探査の先鞭をつけたルナ1号を打ち上げたロケットです。このルナ計画とルナ1号については、次回以降の連載記事の中で触れて行く予定です。


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 天竜川の川下りで転覆事故
2011-08-17 Wed 23:53
 きょう(17日)の午後、静岡県浜松市天竜区二俣町二俣の天竜川で、川下りをしていた船が転覆し、乗っていた23人全員が川に流され、20人が救助され、うち7人は病院に搬送されたものの、1人が亡くなり、1人が重体となったほか男児を含む3人が行方不明となる事故が起こりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        天竜峡

 これは、1973年9月18日に発行された「天竜奥三河国定公園」のうち、天竜峡の川下りを取り上げた切手の“みほん”加刷です。

 天竜奥三河国定公園は、長野県・静岡県・愛知県にまたがる国定公園で、天竜峡を中心とした天竜川上流域と愛知県の茶臼山高原一帯、新城市の鳳来寺山近辺が含まれています。国定公園としての指定は1969年1月のことでした。

 天竜川は諏訪湖に源を発し、長野・静岡・愛知の3県、約216キロにわたって流れる川で、天竜峡や南宮峡などの渓谷美で知られています。このうち、天竜峡は、一般には長野県飯田市の峡谷を指しています。ただし、切手発行時の郵政省の報道資料には「天竜峡は、長野県飯田市の天竜川下流部にある時又から、中部、満島をへて川口に近い二俣にいたる間の急流で、天竜川の船下りとして有名な船路であり、明治時代以前には物資の輸送が盛んに行なわれました」との説明文があります。

 さて、報道によると、今回の事故は船頭の操船ミスにより、船が岸壁にぶつかって転覆したという見方が有力なようですが、このあたりについては、いずれ、運輸安全委員会の調査により原因が明らかになることでしょう。また、船を運航する天竜浜名湖鉄道によると、12歳未満の子どもはライフジャケットを着用させ、大人には座布団状の浮袋「救命クッション」に座るよう勧め、有事の際はクッションにつかまるよう指示していたとのことですが、連日の猛暑の中、暑さのためライフジャケットを着ていない乗客もいたようです。

 とまれ、亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、行方不明の方の捜索が一刻も早く進むことを願うばかりです。

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 ナイアガラの滝
2011-08-16 Tue 20:18
 きのう(日本時間15日午前、現地時間14日夕)、アメリカとカナダの国境にあるナイアガラの滝のカナダ側で、カナダに短期留学している日本人女子学生が記念撮影中に滝つぼに転落し、行方不明になったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ナイアガラ(カナダ)

 これは、1935年にカナダで発行されたナイアガラの滝の20セント切手です。

 ナイアガラの滝は、エリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川にあり、カナダ滝、アメリカ滝、ブライダルベール滝の3つから構成されており、カナダのオンタリオ州とアメリカのニューヨーク州とを分ける国境になっています。このうち、最大の滝がカナダ沢にあるカナダ滝で、馬蹄形をしていることから“ホースシュー・フォールズ”とも呼ばれることもあります。切手に取り上げられているのもこの滝で、滝の幅は671m、高さは53mですが、滝壺の深さは滝の高さよりも高く約56mだそうです。

 さて、報道によると、行方不明になった女性は、滝の近くで記念撮影のため、傘をさしたまま(滝の周囲にはかなりの飛沫が飛んできます)、柵に上がり、降りる際にバランスを崩して転落したのだとか。できるだけよいアングルで写真を撮りたいという気持ちはわかるのですが、くれぐれも安全には注意したうえでの撮影を楽しんでいただきたいものです。

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 ニクソンショックから40年
2011-08-15 Mon 23:00
 1971年8月15日にアメリカ大統領リチャード・ニクソンが金とドルの交換を一時停止し、10%の輸入課徴金を実施するなどのドル防衛策を発表した“ニクソン・ショック”から、きょうでちょうど40年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        沖縄・西表証紙

 これは、復帰直前の沖縄で円ドル交換作業に際して用いられた通貨確認申請書です。

 ニクソン・ショックを契機として、1ドル360円の為替相場は、1971年12月のスミソニアン協定で、1ドル308円とされましたが、ドルの下落は止まらず、1973年2月、わが国は変動相場制に移行しました。

 この結果、実質的な円安の恩恵を受けて輸出を極端に伸ばしていた日本経済は大きな打撃を受けることになりましたが、翌1972年5月に本土復帰を控えた沖縄では、それまで住民が日常的に使用していた米ドルの価値が一挙に下落することで、復帰後の住民生活に大きな打撃を与えることが予想されました。

 このため、琉球政府は琉球内で流通していたドル通貨を確定し、その分については特別レートでの交換を行うことを提案。その作業に際して、1971年8月30日に発行予定だった西表政府立公園の切手を、切手としては不発行とし、通貨確認証紙として使用されました。

 この結果、1971年10月から沖縄内の金融機関窓口で始まった通貨確認申請遺書には、この“証紙”を貼り、“1972 祝復帰 琉球政府”の文字が入ったゴム印を押すことになりました。今回ご紹介のものは、そのうちの大道郵便局での使用例です。なお、本来、ゴム印の文字は“祝復帰”のはずでしたが、人民党の議員団が「復帰については賛否両論があり、“祝”というのは県民の総意ではない」とのクレームがつけられたため、ゴム印の祝の字が削られて使われたそうです。ったく、サヨクってやつは…。

 さて、きょうは終戦記念日ですが、ここのところ、急激なドル安が進行していることもあって、ことしはニクソン・ショックから40年ということを話題にしたメディアも散見されました。まぁ、終戦ネタは来年でもできますので、僕も今回は、こちらを持ってきたという次第です。

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 大連で1万人を超えるデモ
2011-08-14 Sun 00:57
 中国・大連市で、きょう(14日)、化学工場の撤退を求めて市民1万人以上が抗議デモを行い、大連市政府も問題の工場に対して即時操業停止を命じ、工場の移転を確約せざるをえなくなるという事件がありました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        旅大・メーデー

 これは、1949年5月1日、中国共産党支配下の旅大(=旅順・大連)解放区で発行されたメーデーの記念切手で、気勢を上げる工場労働者が描かれています。ちなみに、印刷は大連日報社です。

 さて、大連では、先週8日の台風の影響により、問題となった化学工場の海側にある長さ600mほどの防波堤が決壊。工場から50mの地点にまで水が流れ込み、有毒物質が漏れ出す恐れがあったため周辺住民が避難を余儀なくされていました。

 今回のデモはこうした事態に対して抗議するためのもので、大連市庁舎前で午前中に始まり、午後になると参加者は若者を中心に1万人以上に膨れ上がったそうです。参加者たちは「工場はすぐに出て行け」などと叫び、工場を認可した当時の大連市トップの責任を追及し、動員された警官隊数百人とにらみ合いが続き、騒然となりました。

 おりしも、きょうは、中国が改修している旧ソ連製空母「ワリャーグ」が初めての試験航行を終え、母港・大連港に戻った日でもあり、市政府としては、市民らの抗議が地元政府を公然と批判するまでに発展した現実を踏まえ、秩序回復のため早期の事態収拾を図る必要に迫られ、異例の即時操業停止命令となったということのようです。

 いずれにせよ、中国国内では、急激な経済発展の陰で、共産党の一党独裁体制に対する潜在的な不満も高まってきていることは事実ですから、今回のデモが、今後、ほかの都市に波及することも十分に考えられます。それが、中国の民主化につながっていくのかどうかという点も含め、今後の動きに注目したいですな。


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 ハバロフスクから戻りました
2011-08-13 Sat 23:59
 きのう(12日)の午後、予定通り、ハバロフスクから無事に戻ってきました。というわけで、きょうは、ハバロフスクから戻ってきたマテリアルです。(画像はクリックで拡大されます)

        ハバロフスク宛て・差出人戻し

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、ハバロフスク近郊で強制労働に従事させられていた日本人抑留者宛に差し出されたものの、抑留者がすでに帰還していたため、差出人に返送された葉書です。

 いわゆるシベリア抑留者と日本との通信に使われた専用往復葉書(捕虜郵便用の料金無料葉書)については、さまざまタイプがあることが知られていますが、これはそのうちのタイプ4と分類されているモノの復片です。

 タイプ4は抑留末期の1954-56年に使用されたと考えられており、その往片については、以前の記事でもご紹介したことがあります。ただし、今回ご紹介のモノとは紙質が違いますが…。

 シベリア抑留関連の郵便物は、その性質上、抑留者発信の往片よりも抑留者宛の復片の方がはるかに少ないのですが、その中では、タイプ4の復片は比較的残されている方ではないかと思います。もっとも、タイプ4など、後期の復片の中には、航空料金相当の航空切手や普通切手を貼ったものがごく少数あり、それらは、そうした分野の専門収集家も鵜の目鷹の目で狙っているため、オークションに出品されればかなりの高値になることは確実で、僕自身もまだ入手できずにいます。

 さて、今回のハバロフスク取材では、ハバロフスク市内中心部に残る、日本人抑留者ゆかりの場所もいろいろとまわってきました。それらについては、今秋、<切手紀行シリーズ>の第4巻として刊行予定の『ハバロフスク』(仮題)で御紹介するつもりです。なお、同書の刊行予定日やページ数、価格など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご報告してまいりますので、よろしくお願いいたします。

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 これから帰国します
2011-08-12 Fri 07:46
 早いもので、今回のハバロフスク滞在も最終日となりました。きょうは、現地時間12時25分の便でこちらを発ち、日本時間の13時05分には成田へ到着の見込みです。というわけで、無事の帰国を祈って、ハバロフスクから日本宛のカバーを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ハバロフスク→横浜

 これは、帝政時代の1916年11月5日にハバロフスクから差し出され、同月28日に横浜に到着したカバーです。ハバロフスクの消印の11月5日はユリウス暦で、グレゴリオ暦に換算すると11月18日に相当しますから、所要日数は10日。第一次大戦中のことゆえ、途中のウラジオストクで検閲を受けていることを考えると、順調な逓送だったと言ってよいでしょう。

 さて、今回の取材旅行の成果は、昨年3月に見聞きしたこととあわせて、今週刊行予定の『切手紀行シリーズ④ ハバロフスク』(仮題)としてまとめる予定です。刊行日や価格、ページ数などの詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内しますので、よろしくお願いいたします。


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 ビロビジャンへ行ってきました
2011-08-11 Thu 08:55
 ハバロフスク滞在もきょうで4日目。実質的な最終日です。きのうは、ちょっと足を延ばして、ユダヤ自治州の州都、ビロビジャンまで行っきました。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ビロビジャン消印     ビロビジャン駅


 これは、1935年4月3日のビロビジャンの消印が押されたソ連切手のオンピースです。ロシア語とヘブライ語のバイリンガルの消印が押されていますが、鉄道の駅の表示がやはりバイリンガルでしたので、参考までに、きのう(10日)撮影した写真を隣に貼っておきます。

 ハバロフスクの西約150キロの地点にあるビロビジャンは、中国との国境近くのビラ川、ビジャン川沿いにあることが地名の由来です。

 ロシア革命後の内戦期、極東地域には、緩衝国家として極東共和国が樹立されていましたが、列強による干渉出兵の最後の兵力であった日本軍が1922年10月にシベリアから撤退すると、ボルシェビキ政権にとって同国の存在意義もなくなり、同年12月のソヴィエト社会主義共和国連邦(以下、ソ連)の成立にあわせて、同国はソ連に吸収され、消滅してしまいます。

 しかし、その後も、ソ連にとって極東情勢は必ずしも安泰とは言いがたい状況でしたから、スターリンは満洲からの脅威に備えるための緩衝地域を極東に復活させようと考え始めます。

 一方、ソ連領内のユダヤ系に関しては、当初、黒海沿岸のクリミア半島の一部に彼らを入植させた民族区を作る構想がありましたが、ユダヤ系を信用していなかったスターリンは、モスクワはもとより中央ロシアやウクライナから彼らを事実上追放し、極東における防波堤として活用することを考えました。この結果、1927年、クリミア半島でのユダヤ民族区創設のプランは破棄され、翌1928年、「社会主義的な枠組みのなかでユダヤ人の文化的自治をめざす」との名目で、極東の国境地帯にユダヤ民族区が創設されました。

 ユダヤ民族区は1935年にユダヤ自治州に昇格し、ソ連政府は「ユダヤ人の歴史上初めて自分の故郷の建設、自らの民族国家の成就への燃えるような要望が満たされた」と喧伝しましたが、国境地帯の過酷な自然環境もあってユダヤ系の移住者はなかなか定着せず、1939年の時点でさえ、ユダヤ人自治州の名前とは裏腹に、同州の人口10万9000人のうち、ユダヤ人は16%の1万7695人しかいませんでした。ちなみに、現在のユダヤ自治州の人口19万人弱のうち、ユダヤ系はわずか4%ほどで、ロシア人が87%と人口の圧倒的多数を占めています。

 なお、今回のビロビジャン日帰り旅行の顛末は、今秋、<切手紀行シリーズ>の第4巻として刊行予定の『ハバロフスク』(仮題)で、詳しくご報告するつもりです。同書の刊行予定日やページ数、価格など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご報告してまいりますので、よろしくお願いいたします。


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 夏のアムール川
2011-08-10 Wed 08:34
 ハバロフスク滞在も折り返し地点に来ました。やはり、ハバロフスクといえばアムール川ですから、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

     夏のアムール川     ハバロフスク・夏のアムール川

 これは1954年にソ連が発行した切手つき封筒で、カシェには、ハバロフスク市内から眺めた夏のアムール川の風景が描かれています。ちなみに、右はきのう(9日)、アムール川の船着き場のあたりから展望台とムラヴィヨフ=アムールスキー像の方向を撮影した画像です。ソ連時代の切手つき封筒に銅像が描かれてないのは、1929年に“帝政ロシアの英雄”であるとの理由で銅像が撤去されたためです。

 黒龍江という名でも知られるアムール川は満洲語では“黒い河”を意味する“サハリアン・ウラ”と呼ばれていました。ちなみに、サハリン(樺太)の地名は、この川の対岸にある島というのがその由来です。なお、“アムール川”という地名は、中国語ではなく、モンゴル語でのこの川の呼び名であった“ハラムレン”がその語源だとされています。

 1858年、帝政ロシアと清朝の間で結ばれたアイグン条約により、アムール川左岸はロシア領とされ、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地となったほか、清朝はロシアにアムール川の航行権を認めました。これと前後して、アムール川を東進してきたロシアはアムール川とウスリー川の合流地点に監視所を設置。これが現在のハバロフスクの始まりとされています。

 当初、この地は探検家のエロフェイ・ハバロフにちなんで、“ハバロフカ”と命名されました。アムール川の探検で知られるハバロフが、1651年9月、現在のハバロフスク市の近郊、アムール川とウスリー川の合流地点である“アチャンスク”に要塞を築いたことにちなむものです。

 その後、1860年に清朝とロシアの間で北京条約が結ばれると、ハバロフカを含むアムール川東岸は正式にロシア領となりました。ハバロフスクへと改称されたのは1895年のことでした。

 さて、雑誌『キュリオマガジン』の連載、「郵便学者の世界漫郵記:極東ロシア・ハバロフスク篇」では、凍結したアムール川を歩いて渡ったときの話を書きましたが、今秋、<切手紀行シリーズ>の第4巻として刊行予定の『ハバロフスク』(仮題)では、滔々と流れる夏のアムール川についても対照させて御紹介するつもりです。同書の刊行予定日やページ数、価格など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご報告してまいりますので、よろしくお願いいたします。


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 ハバロフスクに来ています
2011-08-09 Tue 08:10
 きのう(8日)の記事にも少し書きましたが、現在、極東ロシアのハバロフスクに来ています。今回の旅行の目的は、切手紀行シリーズの第4巻として現在制作中の『ハバロフスク』(仮題)の追加取材で、帰国は12日の予定です。というわけで、せっかくハバロフスクにいるということで、ハバロフスクからのこんな葉書をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

        シベリア抑留葉書(ハバロフスク・1954)

 これは、1954年9月に日本人シベリア抑留者が日本宛に差し出した葉書で、差出人の住所は“ソ同盟ハバロフスク市郵便函5120-41”となっています。裏面の書き込みによると、葉書が書かれたのは9月6日のことで、収容所での検閲を経てウラジオストクに持ち込まれたのが9月29日、そして、日本到着は(押されている私印によれば)10月22日となっています。

 この葉書が日本に到着して間もない12月10日には、日ソ国交回復を公約として掲げる鳩山一郎内閣が発足しましたが、その日ソ交渉で領土問題と並ぶ最優先課題が日本人抑留者の帰国問題でした。

 周知のように、1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し、満洲国内に侵攻。強盗・略奪・強姦の限りを尽くしたほか、捕虜とした多数の日本人をシベリアに抑留し、過酷な強制労働を課しました。いわゆる北方領土問題や中国残留孤児・婦人問題などとあわせて、ソ連という国家が終戦のどさくさに日本と日本人に対して何をやったのか、僕たちは民族の記憶として決して忘れてはなりません。

 きょうは、奇しくも、その8月9日。この地で無念の死を遂げた方々のご冥福をお祈りしつつ、“日本人抑留者の痕跡”のうち、昨年3月のハバロフスク訪問時には回り切れなかった場所をいろいろと訪ねて歩いてくるつもりです。

 おまけ
      ハバロフスク中郵外観     ハバロフスク中郵内部

 本日撮影したハバロフスクの中央郵便局の外観(左)と内部の様子(右)です。いかにも社会主義時代の雰囲気を感じさせる局舎は、シベリア抑留の時代とほとんど変わっていないのかもしれません。“郵便函”(私書箱)は入口の近くにありました。もちろん、シベリア抑留者用の“郵便函”は、一般向けのものとは異なっていたとは思いますが、かの国の“郵便函”の写真というのもなかなかないのではないかと思い、アップしてみました。なにかのご参考になれば幸いです。

 * 昨日、カウンターが89万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。


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 タイ初の女性首相誕生
2011-08-08 Mon 08:51
 7月3日に総選挙が行われたタイで、タクシン元首相の妹で、第一党となったタイ貢献党のインラック・シナワトラが、今月5日の国会での首班指名を経て、きょう(8日)、プミポン国王の認証を受けて正式に首相に就任します。というわけで、きょうは、彼女の出身地、チェンマイにちなむ女性の切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      フォーン・ティヤン     フォーン・ティヤン(実物)

 左は、1969年にタイで発行された民俗芸能の切手の1枚で、キャンドル・ダンスとして知られる“フォーン・ティヤン”が取り上げられています。切手のフォーン・ティヤンは群舞ですが、右側には、チェンマイに行ったときに見たソロの演技の写真を貼っておきます。

 チェンマイを中心とした北部タイのラーンナー地域には、バンコクとは違った独自の文化的伝統がありますが、フォーンと呼ばれる舞踊もその一つです。その代表的なものが、ロウソクを持って踊るフォーン・ティヤンと、長い爪をつけて踊るフォーン・レップで、このうち、フォーン・ティヤンは、もともとは、賓客をもてなすためのものだそうです。

 さて、今回、タイ初の女性首相となるインラックの兄、タクシンは際立った親中外交を展開した人物でしたが、タクシンの傀儡ともいわれるインラックもその路線を継承して、就任早々、中国の要人をフォーン・ティヤンで迎えることになるのでしょうか。彼女が国会で首班指名を受けるや否や、いちはやく、温家宝が祝電を送っているというのも、なんだか気になりますな。

 なお、フォーン・ティヤンを含むラーンナーの文化については、拙著『タイ三都周郵記』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 本日午後から12日まで、取材のため、ハバロフスクへ行ってきます。ホテルはインターネットの利用が可能で、パソコンも持参しますので、現地からも毎日ブログの更新は続ける予定ですし、電子メールでのやり取りも通常通り行えるはずです。ただ、なにぶんにも、海外のことゆえ、ネットに接続できず、ブログが更新できなかったり、メールでの通信ができなくなったりする可能性もないわけではありません。その場合には、帰国後に対応いたしますので、あしからず、ご了承ください。


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 鼻の日
2011-08-07 Sun 23:21
 きょう(8月7日)は、語呂合わせで“鼻の日”です。今年は、1961年に日本耳鼻咽喉科学会が“鼻の日”を制定してから50周年でもありますし、きょうはストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ドイツ・鼻

 これは、1986年に西ドイツが発行したヨーロッパ切手のうち、ミケランジェロのダビデ像の鼻の部分を大きく取り上げた切手です。

 ヨーロッパ切手というのは、毎年、ヨーロッパ各国が統一テーマの下、それぞれ趣向を凝らして発行している切手のことで、1986年のテーマは“環境”でした。このとき、西ドイツの切手は“鼻”を大胆に取り上げることで、大気汚染のない清浄な空気の大切さをアピールしたというわけです。

 ところで、ダビデ像の鼻といえば、こんなエピソードがあります。

 ダビデ像の制作中、ミケランジェロは作業現場に関係者以外が立ち入ることを固く禁じていましたが、フィレンツェ市長が視察に訪れた時は、これを拒むことはできませんでした。市長は制作中の像を見ると、「ダビデの鼻が高すぎるようだから少し削るように」とミケランジェロの要求。ミケランジェロはこの要求を無視しようとしたのですが、市長が執拗に迫ったため、槌音を響かせつつも鼻は削らず、隠し持っていた大理石の欠片を落として「このくらいでいかがでしょう?」と応じました。真相を知らない市長は、自分の要求が容れられたと思いこんで満足し、その場を立ち去って行ったそうです。

 まぁ、政治家の視察なんてのは、洋の東西を問わず、そんなものなんでしょう。ただ、フィレンツェ市長のエピソードは笑い話ですみますが、某総理のように、原発事故の直後に混乱する現場に乗り込んで、専門家たちの必死の作業の邪魔をしたというのは洒落になりません。そういう方は、素直に職を辞してお遍路を再開し、金輪際、視察なんてものを止めていただきたいものですな。


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 仙台七夕まつり
2011-08-06 Sat 22:40
 東日本大震災を受け、「復興と鎮魂」をテーマとした“仙台七夕まつり”が、きょう(6日)から仙台市ではじまりました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        たなばた

 これは、1962年7月7日、「季節の行事切手」の第2集として発行された“たなばた”です。

 七夕は、桃の節句と同様、五節句の一つで、節句としての読みかたは“シチセキ”で、本来は旧暦7月7日の行事です。ちなみに、ことしは、きょうがまさに旧暦7月7日ですから、仙台七夕のふるさと切手ではなく、一般的な七夕の切手を持ってきても、まぁ、許されるでしょう。

 現在の七夕は、①中国の牽牛・織女伝説、②同じく中国の乞巧奠、③日本の“棚機つ女”の行事、の三種が混合して現在のような形式になったといわれています。

 このうち、乞巧奠とは、天上で機を織る織女は女子の手芸の神様でもあることにちなみ、これに祈ることで手芸(裁縫や習字、和歌なども含まれる)の上達を祈った行事で、日本では、織女星がのぼるころ、供え物や和歌を詠んだ短冊などを捧げたといわれています。

 ところで、日本には、古来、先祖の霊を祀るため、機織りをして織りあがった布を祖先の霊に捧げる行事がありました。このとき先祖に捧げる布を織る女性を“棚機つ女”と呼んだことから、“たなばた”の呼び名が生まれ、織女の伝説と結び付けられたものと考えられています。

 これらの要素のうち、中国起源の伝説・行事が、まず、宮廷の貴族間に広がり、それが庶民にも広がるという経路をたどりました。その過程で、日本古来の“棚機つ女”の行事がミックスされ、江戸時代以降、寺子屋の普及に伴い、習字などの手芸の上達を願った乞巧奠の意味合いを強調する行事として盛んになっています。笹竹に短冊を飾り、家の軒下などに飾る習俗も、この頃から盛んになったもので、飾った笹竹を翌日川に流すのは、日本古来の汚れを祓う行事の名残と考えられています。

 仙台七夕は伊達政宗の時代から始まり、1783年には、天明の大飢饉発生による荒廃した世俗の世直しを目的に藩内で盛大に行われました。

 明治以降、新暦の採用を境にして、旧暦をもとにした七夕の風習は廃れていきましたが、1927年、これを憂えた地元商店街の有志らによって大規模に七夕飾りが飾られ、大勢の見物客で商店街は賑わうと、翌1928年以降、旧暦開催を新暦日付の月遅れ(8月6-8日)で大規模な飾りつけの七夕祭りが開催されるようになりました。

 第二次大戦中、仙台七夕は一時的に中断を余儀なくされましたが、終戦翌年の1946年には仙台空襲で焼け野原となった街に52本の竹飾りが飾られ、翌1947年の昭和天皇巡幸の際には沿道に5000本の竹飾りを並べて本格的な復活を遂げています。なお、現在のように“東北三大祭り”の一つとして日本各地から観光客が集まるようになったのは、高度成長期以降のことです。

 ちなみに、今回ご紹介の切手発行にあわせて、仙台局では新たな図案の風景印を使い始めたため、この切手の初日カバーには、仙台局の風景印を押したものが多いようです。


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 日豪戦争⑬
2011-08-05 Fri 20:47
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第436号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、前回に続き、オーストラリアの捕虜の話を書きましたが、そのなかから、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      モールメンから豪宛捕虜郵便     モールメンから豪宛捕虜郵便(裏面)

 これは、1943年5月31日、いわゆる泰緬鉄道とも深くかかわっているモールメン(モーラミャイン)収容所のオーストラリア人捕虜が本国の妻に宛てて差し出したものです。裏面に印刷された文章については、以前の記事でも取り上げたことがありますので、そちらをご覧いただけると幸いです。

 日本軍との戦闘で捕虜となったオーストラリア人は約2万2000人ですが、そのうちの約1万3000人が泰緬鉄道の建設工事に動員されています。

 泰緬鉄道の建設に際して、日本軍は、鉄道隊と旧国鉄職員の軍属およそ1万2500名を派遣し、6万人を越える連合軍捕虜(英国3万、オランダ1万8000、オーストラリア1万3000、米国700)を労働者として投入。さらに、少なくとも20万人を越えるアジア各国の労働者を動員して、突貫作業の末に、同年10月25日、工事を完成させました。

 このうち、最も早い時期から鉄道建設に動員されたのが、1942年5月、マレー半島で捕虜となり、シンガポールのチャンギ収容所からビルマのモールメン(モーラミャイン)移送された3000名のオーストラリア人たちです。

 彼らは当初、ビルマ域内での空港建設を行っていましたが、後にタイ側に移送され、バーンポーンとカーンチャナブリーでの捕虜収容所の建設に従事しました。その後、1942年秋から多数の連合軍捕虜がスマトラ、ジャワ、シンガポールから動員されると、彼らもビルマ側のタンビュザヤとタイ側のバーンポーンの二手に分かれて工事を開始しています。

 ちなみに、鉄道建設のために動員された捕虜たちは、まず、各地の収容所からチャンギ収容所を経てモールメンに集められ、それぞれの建設現場に移送されるというのが、一般的な移送のルートだったようです。

 さて、日本の収容所における捕虜給料、糧食、被服の貸与、補修費、薪炭、埋葬料、労働賃金などは捕虜給与規則によって決められており、1945年の大阪俘虜収容所における糧食配給の比較表を見ると、捕虜と日本兵はともに、1日3000キロカロリー相当の食糧を支給されることになっていました。その内訳は、主食705グラム、魚30 グラム、野菜400 グラム、味噌50 グラムは捕虜・日本兵ともに共通で、肉は捕虜5グラムに対して日本兵10グラムですが、油は日本兵10グラムに対して捕虜が15グラム、砂糖は日本兵5グラムに対して捕虜7グラムとなっており、さらに、捕虜に対しては日本兵には支給されない牛骨100グラムが支給されたことになっています。

 これを見ると、日本側は捕虜を客人扱いしていたわけではないにせよ、日本兵と同程度の待遇で扱おうとしていたことがわかります。したがって、葉書の文面にある“捕虜たちを丁重に扱うべく誠実に努力”という文言も、まったくの虚言とはいえないでしょう。

 しかし、当時の日本と欧米諸国では国民の生活水準に大きな開きがあり、欧米人にとってのごく普通の生活は、日本人にとってはとてつもない贅沢でしかなく、そもそも、現地の日本兵と同じ処遇にすることじたい“虐待”と感じる捕虜たちも少なくありませんでした。もちろん、戦況が悪化し、日本人でさえ日々の食事に事欠くようになってくると、それと連動して捕虜の待遇もさらに悪化するのも避けられません。

 また、生活習慣の違いも深刻な問題でした。たとえば、ベッドで寝ることを当然と考えていた捕虜たちが、日本兵と同じように床の上に寝かされることを“虐待”と感じていたという事例は数多く報告されていますし、日本の軍隊では“教育”のためと称して日常的に行われていたビンタは、捕虜にとっては単なる暴行でしかありませんでした。食料の不足を補うため、牛蒡を提供した収容所では、終戦後、「木の根を食わせた」として捕虜虐待に問われたというのも同種の事例といえましょう。

 さらに、泰緬鉄道に関していえば、工事の期間中、コレラやマラリアが蔓延して多数の捕虜や労働者が命を落としていることからも明らかなように、日本側は予想を超える大量の捕虜に対して必要量の医薬品を調達できていませんでしたし、無理な作業日程に起因する重労働や過酷な気象条件もあって、結果的に、枕木1本に人1人といわれた膨大な数の犠牲者が生じたことは紛れもない事実です。

 こうした悲惨な実情は、1944年9月12日、英・豪の捕虜を乗せてシンガポールから日本へ向かっていた勝鬨丸と楽洋丸が南シナ海・海南島沖で米潜水艦の攻撃を受けて撃沈された際、からくも救助されたオーストラリア人捕虜の証言により連合国側に広く知られるようになりました。

 当然のことながら、連合国側は泰緬鉄道を“死の鉄道”と呼び、日本軍による“捕虜虐待”を非難します。敵国に対する敵愾心を煽り、極悪非道な敵国を征伐することこそが正義の戦争であるとのロジックが戦時下のプロパガンダ政策の基本中の基本であることは、あらためていうまでもありません。

 日本軍の支配地域で多くのオーストラリア人捕虜が命を落としたのは、日本側が明らかにみずからの管理能力を越える捕虜を抱え込み、その結果としてさまざまな過失を重ねた結果であって、日本軍が組織として意図的に捕虜を虐待・虐殺したからではないと考えるのが妥当です。しかし、それをあえて“虐待”と断じることによって、戦勝国は敗戦国に全ての責任を押し付け、みずからの歴史観を正当化しようとするものです。

 こうした現象は、古今東西、広く観察されるものですから、僕は彼らがそうした歴史観に基づく主義主張を展開したとしても、決して賛同はしませんが、それはそれとして否定もしません。むしろ、そうした勝者の尻馬に乗って、日本軍による“捕虜虐待”をことさらに非難する日本人が少なからずいることの方に、なんとも暗澹たる思いにさせられてしまうのです。


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 橋の日
2011-08-04 Thu 23:57
 きょう(8月4日)は、語呂合わせで“橋の日”だそうです。というわけで、きょうはこんな橋の切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        京師

 これは、1958年10月に発行された「国際文通週間」の切手で、歌川(安藤)広重の『東海道五十三次』のうち、京都の三条大橋を中心に描いた「京師」が取り上げられています。

 1957年8月、カナダ・オタワで開かれた万国郵便連合・第18回大会議で、各加盟国がそれぞれの国情に合わせ、10月9日(万国郵便連合の前身、一般郵便連合条約の調印記念日)を含む一週間に「国際文通週間(以下、文通週間)」を開催することが決議されました。

 文通週間の趣旨は、国境を越えて交換される郵便物を利用することで各国の相互理解を深め、世界平和の実現に貢献するとともに自らの教養を高めようというもので、1950年代半ばより断続的にはじまった東西の緊張緩和(デタント)の流れに沿ったものでした。

 もっとも、1957年の第1回文通週間は、この趣旨に賛同したベルギー、オランダ、台湾、デンマーク、フィリピンなどで記念行事が行われたものの、8月の大会議から10月の文通週間までの期間が短かったこともあり、実際に記念切手を発行したのは西ドイツ、アルゼンチン、シリア、ソビエトの各国に留まりました。

 わが国の場合も、NHK国際放送による各国への呼びかけ、海外文通差出運動、作文コンクールの実施、国際青少年の集い(東京・大阪・仙台)、国際文通と世界の切手展の開催(灘郵便局)、などが行われたものの、記念切手はおろか、特印さえ使用されず(ただし、“第1回国際文通週間記念”の文字の入った小型印が、仙台・山形・福島・秋田・青森・盛岡の各局で試用された)、総じて、第一回の文通週間は低調に終わりました。

 そこで、翌1958年の第2回文通週間に際しては、「郵便友の会」 を主催者として、郵政省、文部省、外務省などの後援と各マスコミの協賛により、盛大に記念行事を開催し、あわせて記念切手も発行されることになりました。
なお、このように記念切手の発行も含め文通週間の記念行事を秋に大々的に行うことになった結果、前年まで11月初旬に行われていた切手趣味週間は、1958年から4月20日の逓信記念日を中心に展開されるように日程が変更されています。

 さて、当初、文通週間切手の発行を決めた郵政審議会・郵便切手図案審査専門委員会の計画では、文通週間の切手は1回限りの発行とし、日本のザンメル凹版(凹版の一種で、複数の刷色を同時に印刷するもの)切手第1号をこれにあてることとしていました。ちなみに、印刷局でザンメル凹版の第一号印刷機が完成したのは第1回の文通週間から2ヵ月後の1957年12月のことで、この機械で最初に印刷されたのはフィリピンのマニラ寺院再建の記念切手(発行は1958年)です。

 これに対して、郵政省の内部では、郵務局長の板野学を中心に、広重の浮世絵版画『東海道五十三次』のうちの1枚をグラビア多色刷で再現した切手を発行したらよいのではないかとの意見も根強く、ザンメル凹版派に対抗していました。

 このため、ザンメル凹版によるオリジナル・デザインの下図と、浮世絵を用いたグラビアの下図をつくり、両者を比較した上で最終決定を行うということで決着。新技術の導入という点を考慮し、時間的な余裕を見て、ザンメル凹版の下図作成が先に開始されました。

 このとき、ザンメル凹版用の下図を担当したのは、郵政省のデザイナー、久野実と渡辺三郎でしたが、最終的に切手の原画候補となったのは、封筒をくわえた鳩と地球を描く久野の作品でした。この原画を元に、同年6月、印刷局の押切勝造が原版を彫刻。7月9日に3種の試刷が完成します。

 一方、グラビア用の題材は、逓信博物館所蔵の『東海道五十三次』(保永堂・初版)の中から、「京師」、「四日市」、「坂之下」、「庄野」の4作品が候補として取り上げられ、6月23日、このうちの「京師」を採用することが決定されました。その際、グラビアが採用となった場合には、文通週間切手を特殊切手として毎年継続した発行するのが良いのではないか、という意見が部内では有力なものとなりました。

 結局、7月21日になって、ザンメル凹版、グラビア、それぞれの候補作品が検討され、最終的に「京師」が切手として採用されます。そして、これに伴い、文通週間切手は毎年恒例のシリーズ切手となり、切手趣味週間の切手とともに、日本のグラビア多色刷切手の成果を内外に高めるものとなりました。

 なお、今回ご紹介の「京師」を含む初期の文通週間切手のいくつかは、拙著『切手百撰 昭和戦後』でもカラーで取り上げてご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。

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 秋田竿燈まつり
2011-08-03 Wed 23:34
 秋田の夏の風物詩“秋田竿燈まつり”が、きょう(3日)から秋田市中心部で始まりました。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

        竿燈となまはげ

 これは、2004年6月1日、ふるさと切手(秋田県)として発行された“秋田市建都400年”の記念切手で、竿燈となまはげが2種連刷で取り上げられています。

 現在の秋田市中心部は、江戸時代初期の1604年、久保田藩佐竹氏の城下町・久保田としてその原型が築かれましたが、今回ご紹介の切手はその400年を記念して発行されたものです。なお、竿燈まつりは毎年8月3日-6日の日程で秋田市で行われる祭りですが、なまはげは、もともとは男鹿市と三種町、潟上市の伝統行事なので、後者を“秋田市建都400年”の題材としたことについては、賛否が分かれるかもしれません。

 今年の竿燈まつりでは、6日までの期間中、岩手・宮城両県の被災者と、秋田県内への避難者計1640人が招待され、255本の竿燈に飾られた約1万個の提灯の中には、東日本大震災からの復興を願う「がんばろう東北」の文字が入ったものも登場したそうです。

 現実には、今回ご紹介の切手のように、竿燈となまはげが並ぶ光景というのはなかなかないのでしょうが、竿燈が復興を願うシンボルとなるのなら、なまはげには(切手のように御幣ではなく)出刃包丁持参のうえ、永田町あたりに行って「復興の足を引っ張る悪い奴はいねぇが?」とやっていただきたいものですな。

 追記
 切手に描かれたなまはげの持ち物について、若干補足します。

 なまはげというと、出刃包丁を持っているのが一般的なイメージだと思うのですが、切手では御幣を持っています。この点については、1980年用の年賀はがきの印面になまはげが取り上げられた時の先例が現在でも生きていると考えるのがよさそうです。

 すなわち、1980年用の年賀はがきでは、なまはげが鍬を持つ姿で描かれていたことから、発行当時、その是非をめぐって議論が起こってりました。

 原画作成のモデルとなったのは、秋田市の人形制作会社・樋渡カツコ(個人名ではなく社名)の制作した“首ふりなまはげ”ですが、オリジナルの人形では出刃包丁を手にしています。同社の佐藤政義によると、切手図案への採用の打診があった時点で、郵政省からは「手に持つものは適当なものを使わせてくれ」との要望が出されたそうです。

 この点について、郵政省郵務局切手室長の安藤博之は、「包丁持参が一般的なことは十分承知しております。ただ、おめでたい正月早々に出刃包丁でもあるまいというわけで縁起を担いでクワにしたしだいです。地元のみなさまはご不満もおありでしょうが、ここは全国的な視野でご理解をいただき…」と説明しています。

 また、地元の男鹿市役所商工観光課の坂本金善は「主流は出刃や御幣、おけなどですがクワでもよいんです。昔は船越、若美、脇本など農村部では、クワでドンドンたたいてなまはげが訪れた。漁村部は包丁が多かった。だから決してまちがいじゃない」と郵政省の判断を擁護しています。

 おそらく、このときの先例に従って、切手のなまはげには出刃包丁を描かないという方針が決められたのではないかと思います。

 このあたりの事情については、拙著『年賀切手』でも開設しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 <PHILANIPPON 2011>終了
2011-08-02 Tue 22:32
 7月28日からパシフィコ横浜で開催されていた世界切手展<PHILANIPPON 2011>は、本日(2日)午後3時、すべての日程を終了しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        横浜・停車場印

 これは、1876年、横浜から東京宛に差し出された葉書で、少し見づらいのですが、葉書の下部に“横濱”の朱色の停車場印が押されています。

 停車場印は、明治時代に鉄道の停車場に置かれた郵便函に投函された郵便物の余白に押された印で、1875年ころから使われ、1889年に廃止されました。この印が押された郵便物は鉄道に搭載されて運ばれ、鉄道から降ろされた後に郵便局に持ち込まれて切手葉書の印面に消印が押され、最終目的地まで配達されました。

 今回ご紹介の葉書の場合は、横浜駅で投函された後、新橋まで運ばれ、“東京”の消印が押されて配達されています。僕も、きょうは作品を担いで横浜駅から新橋駅を超えて都内の自宅に戻ってきましたので、まぁ似たようなルートをたどってきたというわけですな。

 さて、今回の切手展では、さまざまな方々にお世話になりました。この場をお借りして、あらためて皆様にお礼申し上げます。

 今年はこの後、秋の<JAPEX>に続き、中国・無錫でのアジア展が控えています。特に、無錫展に関しては、日本コミッショナーを仰せつかっていることもあり、関係の皆様にはこれまで以上に御面倒をおかけするかとおもわれますが、引き続き、どうかよろしくお願いいたします。


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