内藤陽介 Yosuke NAITO
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 3度目の正直
2011-09-30 Fri 23:22
 1961年9月30日に愛知用水の通水が始まってから、きょうでちょうど50年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        愛知用水通水

 これは、1961年7月7日に発行された愛知用水通水の記念切手です。

 名古屋市の北側ならびに東側から知多半島の先端までは大きな河川がないため、かつては、農業用水の確保が困難で、住民は井戸や溜池をつくって渇水に備えていたものの、慢性的な水不足に悩んでいました。

 特に、1947年は、この地方で日照りが長く続いたため、溜池の水も枯れ、農作物にも大きな被害がでました。このため、地元では、篤農家の久野庄太郎を中心に、木曽川から水が引く用水路の建設を強く望み、同年六月、国の事業としての愛知用水計画実現の運動が開始されました。

 地元の粘り強い運動の末、1955年、愛知用水公団が設立され、事業が開始されます。事業資金は、国庫補助金・余剰農産物見返円資金 ・資金運用部資金・国際復興開発銀行(世界銀行)借入金など423億円が投じられましたが、世界銀行からの借入に際しては、「5ヶ年で事業を完成させること」「海外専門家の技術援助を求めること」等の条件が付されていました。このため、公団は、1957年、アメリカからEFA(エリックフロア社)の技術者を招聘。同年11月から牧尾ダムと三好池ダムの工事を開始し、当時最新の技術・機械を用いて、1961年6月までに、総延長112.2キロの幹線水路と岐阜・愛知の2県にまたがる約1135キロの支線水路を完成させました。

 これにより、知多半島一帯の約3万ヘクタールが農業受益地となり、5万7000戸が新たに灌漑を受けるようになったほか、名古屋市・刈谷市・半田市とその周辺地域が工業用水の補給を受け、春日井市をはじめ7市15町の約28万人に対して上下水が給水されるようになりました。

 こうして、通水式を待つばかりとなっていた愛知用水でしたが、1961年6月の集中豪雨で知多半島一帯は大きな被害を受けてしまいます。このため、式典はいったん、9月19日に延期されたものの、その日には、またもや第二室戸台風の影響で式典が再延期されてしまいました。結局、2度の延期を経て通水式が行われたのは、9月30日のことで、これにより、木曽川の水が愛知用水を流れて知多半島へ届くという住民の悲願もようやく達せられました。

 さて、当時としてはきわめて大きな国家プロジェクトであった愛知用水の完成に合わせて、記念切手を発行して欲しいとの要望は、1960年11月25日、農林事務次官から郵政事務次官宛の公文書で提出されました。これに対して、当初、愛知用水公団としては記念切手発行の申請を行う予定はなかったようで、地元の有力収集家であった今井修は「当の愛知用水公団側はさして乗り気でなく――むしろ有難迷惑のように見受けた」と証言しています。また、今回の記念切手発行に関して、農林省(現・農林水産省)が地元の名古屋郵政局の頭越しにアクションを起こしたことに対して、地元では、不快感を持つ向きも少なくなかったようです。

 その後、1961年1月23日に開かれた郵政審議会の専門委員会では、愛知用水通水の記念切手が正式に決定されたのを受け、2月14日、愛知用水公団東京事務所長が郵政省を訪問。原画について最初の具体的な協議が行われました。

 ただし、この段階では、工事の関係から、通水式の正式な日程が決まっていなかったため、現場の作業としては、とりあえず、2月25日までに原画を完成させるというスケジュールを立てています。その後、3月2日までに三種類の原画が出揃い、愛知用水の4つの目的である上水・発電用水・農業用水・工業用水をあらわす蛇口・碍子・麦・歯車を並べた木村勝の作品が採用となりました。

 発行日に関しては、4月末の段階で、7月7日に通水式が行われることは内定していましたが、5月19日、愛知用水公団副総裁名の公文書が郵政省に届けられるのを待って、正式の決定となりました。

 ところで、集中豪雨の影響で、通水式が当初の予定通りに行われなかったことはすでに述べたとおりですが、記念切手は当初の予定通り、7月7日に発行され、稲穂と用水をイメージした木村勝デザインの特印も同日から用いられています。

 こうした郵政の対応に対しては、式典が延期になった以上、記念切手の発行も延期すべきではなかったかとの批判する声が圧倒的で、発行の中止さえ求める強硬意見を主張する収集家も少なくありませんでした。

 また、1959年10月に名古屋開府350年ならびに国際文通週間(桑名)の切手が発行された直前、東海地方が伊勢湾台風で大きな被害を被った記憶が生々しかっただけに、この地域の切手をめぐって因縁を感じた収集家も少なくなかったようです。

 ちなみに、発行日当日(1961年7月7日)付の朝日新聞(中部版)「青鉛筆」欄には次のようなコラムが掲載されています。

 ▼愛知用水の通水記念切手(十円)がきょう七日から発売されるが、かんじんの愛知用水は豪雨で通水式もお流れ。目下工事関係者が、分団去れた水路の復旧に思案投げ首のまっさいちゅう。
 ▼名古屋郵政局は先月末、売り出し発表の直後に水路決壊を知ったが、時すでに遅く、八百万枚の切手は全国の郵便局に配給ずみ。二年前、名古屋城の復旧を記念して「名古屋開府三百五十年」切手を出したときも発売直前、伊勢湾台風に水をさされて売れ足がバッタリ。
 ▼紫、青の地色に麦の穂や機械の歯車をあしらい、用水の効果を派手に描いた切手を前に、郵政局の係りも「二度も水にたたられるとは・・・」と、浮かぬ顔である。


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 伊土戦争100年
2011-09-29 Thu 23:55
 現在のリビアの地域がオスマン帝国からイタリアに割譲される原因となった伊土戦争が1911年9月29日に勃発してから、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        リビア加刷(紫)

 これは1912年に発行された“(イタリア領)リビア”加刷の15サンチーム切手です。

 列強諸国によるアフリカ分割が進む中で、イタリアは当初、対岸のテュニジアの植民地化を狙っていました。しかし、1883年、テュニジアはフランスによって保護国化され、イタリアの目論見は潰えてしまいます。

 当然のことながら、イタリアはフランスによるテュニジア独占に不満を持っていましたが、フランスはイタリアに対して「代わりに隣のトリポリタニアを占領すればよい」と提案。これを受けて、1902年、イタリア・フランス間でトリポリタニアとテュニジアに関する協力協定が交わされました。

 協定の調印後もしばらくイタリア政府はトリポリタニア進出に慎重な姿勢を示していましたが、しだいに、植民地の拡大を求める国民世論が高揚。1908年にオスマン帝国で青年トルコ党革命が起こると、イタリアはその混乱に乗じてトリポリタニアを獲得することを決断し、1911年9月29日、トリポリタニア割譲を求める最後通牒をオスマン帝国の「統一と進歩委員会」政府につきつけます。オスマン帝国はイタリアに対してトリポリタニアの形式的宗主権を認めてくれれば、実効支配を委ねてもよいと返答しましたが、イタリアはこれを不服として宣戦布告。いわゆる伊土戦争を起こしました。

 戦争の結果、1912年10月18日、オスマン帝国はローザンヌで開かれた講和会議でイタリアの要求を認め、トリポリタニア・フェザーン・キレナイカの宗主権をイタリアに譲渡。トブルクとベンガジの太守制度については形式的に維持されるものの、太守の任命にはイタリア王の裁可を必要とすること等が決められました。

 今回ご紹介の切手は、これにあわせてイタリア本国の切手に“LIBIA”の文字を加刷して発行された1枚です。このとき発行されたリビア加刷切手の大半は加刷文字が“Libia”となっていますが、今回ご紹介の15サンチームだけはすべて大文字表示となっています。また、加刷の色も、他は黒色ですが、15サンチームだけが紫色となっており、ちょっと異質な1枚といえます。

 ことしは伊土戦争から100周年ということで、リビアのカダフィ政権はリビアの民族主義を題材にしたロングセットの記念切手を発行したのですが、そのカダフィ政権も崩壊してしまいましたからねぇ。20年後の2031年あたりには、伊土戦争120周年とカダフィ政権崩壊20周年の切手が並んで発行されるようになるかもしれませんな。


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 世界漫郵記:ハバロフスク⑩
2011-09-28 Wed 22:14
 『キュリオマガジン』2011年10月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、極東ロシア・ハバロフスク篇の10回目。今回は、ハバロフスクのメイン・ストリートに当たるムラヴィヨフ=アムールスキー通りを取り上げましたが、その中から、こんなモノをご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      ムラヴィヨフ=アムールスキー通り     ムラヴィヨフ=アムールスキー通り(裏面)

 これは、20世紀初頭のムラヴィヨフ=アムールスキー通りを取り上げた絵葉書です。雑誌ではスペースの都合上、絵面しか取り上げられませんでしたので、今回は裏面の画像をお見せします。貼られている切手は帝政ロシアの3コペイカ切手で、1911年8月13日のハバロフスクの消印が押されています。

 ムラヴィヨフ=アムールスキー通りは、アムール川にも近い大聖堂広場からレーニン像の鎮座するレーニン広場まで東北方向に延び、ゴーゴリ通りとぶつかると、その先はカール・マルクス通りと名前を変えています。

 絵葉書の画面中央、左右に伸びるイストミナ通りとの交差点に面して、屋根を飾る女神像が印象的な建物が写っていますが、これは、ドイツ系商社“クンスト・ウント・アルベルス商会”で、外観の塗装などは変わっていますが、建物自体は現存しており、ラ・ヴィータというカフェが入っています。

 その奥(アムール川方向)、ウスペンスキー大聖堂との間には、1910年にハバロフスク在留日本人の拠点として竹内一次が建設した大日本帝国極東貿易の玉ねぎ屋根の建物があるのですが、絵葉書には写っていません。このことから、この絵葉書の写真は1910年以前に撮影されたものであることがわかります。

 さて、10月21日に切手紀行シリーズの第4巻として刊行予定の拙著『ハバロフスク』では、ムラヴィヨフ=アムールスキー通りについても1章を設け、絵葉書に取り上げられたかつての風景と、その現状を対比させてご紹介しております。発売予定日はまだ少し先なのですが、どこかで実物をご覧になりましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 今度は上海で地下鉄事故
2011-09-27 Tue 23:52
 ことし7月、浙江省温州市で死者40人を出す高速鉄道事故を起こしたばかりの中国で、きょう(27日)、上海市の市営地下鉄10号線、豫園-老西門駅間で追突事故が発生。死者こそ出なかったものの、市営地下鉄によると271人が負傷したそうです。というわけで、きょうは上海ネタのこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

        上海S1消

 これは、上海のイギリス郵便局で使用された香港切手です。

 アヘン戦争の結果、1842年に結ばれた南京条約により、広州・厦門・福州・寧波・上海の5ヵ所が開港地となり、各地に設けられた領事館内には郵便取扱所が置かれて、極東とヨーロッパを結ぶ本格的な郵便業務が行われるようになりました。

 その後、この5ヵ所に加えて、1858年には日本の開港に伴い、箱館(函館)、兵庫(神戸)、長崎、新潟、横浜が、1860年にはアロー戦争の結果として、牛荘、芝罘、漢口、九江、鎮江、台湾府、淡水、汕頭、瓊州、南京、天津が開港され、これらの地域にもイギリスの郵便局が置かれ、各種条約に基づく開港地は21ヵ所にまで膨らみます。

 これらの郵便局でも、香港同様、1858年5月1日以降は郵便料金の前納が義務づけられ、1864年10月15日以降は、そのために香港切手が用いられることになりました。

 ところで、これらの開港地から差し出される郵便物は、1858年5月以前は、その大半が着払いの扱いで、経由地の香港を通過する際に、香港郵便局で料金などのチェックを受けるというシステムになっていました。

 1864年に、開港地の郵便局で切手を貼った郵便物を受け付けることになった後も、その慣習を踏襲するかたちで、しばらくの間、郵便物への消印は香港で行われていましたが、こうした状況を悪用して、香港へ郵便物を運ぶ途中で中国人の係員が郵便物に貼られている切手(この段階では消印は押されていません)を剥ぎ取り、換金する例が後を絶ちませんでした。

 このため、1865年11月、香港郵政局は、本国に対して、厦門、広州、福州、寧波、上海、汕頭、横浜、長崎の各局に対しても、香港同様、抹消印と日付印を支給するよう要請します。開港地の郵便局が郵便物を引き受けた時点で切手に消印を押し、中国人係員による“横領”を防ぐとともに、逓送途中で切手が脱落しても引受時には切手が貼られていたことを示すためです。なお、上海と厦門では、すでに日付印が用いられていたため、抹消印のみの支給が求められました。

 こうして、1866年2月17日、ロンドンの中央郵便局は開港地の各局に抹消印と日付印を支給することを決定。その際、各局に割り当てられたコード番号は、厦門がA1、広州がC1、福州がF1、寧波がN1、上海がS1、汕頭がS2、横浜がY1、長崎がN2、でした。今回ご紹介の切手は、そのうちの上海を意味するS1の消印が押されています。

 なお、香港切手はイギリスが中国各地に設けた他の郵便局でも使用されていますが、それらについては、拙著『香港歴史漫郵記』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。 


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 サウジで女性参政権容認へ
2011-09-26 Mon 23:53
 サウジアラビアのアブドラ国王が、きのう(25日)、将来の地方選挙で女性に参政権を認めるとの方針を明らかにしました。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

        サウジアラビア・社会福祉協会25周年

 これは、1987年にサウジアラビアで発行された社会福祉協会25周年の記念切手で、掌の上で保護される女性と子供たちが図案化されて描かれています。同国の切手で、女性がそれとわかるようにはっきりと描かれているケースは非常に少ないのですが、これはその例外的な1枚といえます。

 コーランでは、女性は保護されるべき存在であるとされています。この“保護”の考え方は、たとえば、戦争などで男女の人口バランスが崩れた場合などに経済的に余裕のある男性が“平等に愛する”との前提で複数の妻をめとることが認められるというロジックや、未婚女性の純潔を守ることが一族の名誉となるという考え方に結びついています。

 ただし、現実には“保護”の名の下に男性が女性を恣意的に扱ったり、女性の権利が著しく制限されていたりすることも珍しくありません。たとえば、未婚女性の純潔を守ることが一族の名誉であるということは、裏を返せば、未婚女性がセックスを体験したことが明らかになると一族の名誉が失墜するという発想につながります。このため、かつてのエジプトの農村では、新婚初夜に花嫁が処女でなかったことが判明すると、翌朝、ナイル川にウェディング・ドレス姿の死体が浮かんでいるという悲劇も少なからずあったようで、そうしたことを防ぐためと称して、未婚女性を男性の目の届かない環境に置く、すなわち、一般社会から隔離して、学校にも行かせなければ、町への買い物にも行かせない、それゆえ、お金もほとんど渡さないというようなことも珍しくありませんでした。

 かつてアフガニスタンのほぼ全域を支配していたタリバン政権下で、女性の権利や教育、社会進出が極端に制限されていたのは、こうした発想によるものです。

 当然のことながら、こうした女性の“保護”は西側世界の人権感覚からすると非難の対象となるわけですが、それでは、イスラム社会のすべての女性が抑圧の下で苦しんでいるとみなしうるかというと、ことはそう単純ではありません。

 たとえば、イスラム教徒の女性が公衆の面前で髪を隠すのは、髪を男性に見せると男性の劣情を刺激し、貞操の危機につながりかねないとの考えによるものですが、ベールの着用を疎ましくいる女性がいる半面、イスラム教徒であることを強く自覚し、公衆の面前で髪を見せることを“恥ずかしい”と感じているがゆえに、自らの意思でベールを着用したいと考える女性も少なくありません。こうした状況を無視して、一方的にベールの着用=女性の人権侵害と短絡的に非難しても、結果的に、いわゆる人権屋さんの自己満足にしかならないということも十分にあり得ます。

 ただし、世界の多くの国や地域において男女に等しく認められている権利を、“保護”を理由に女性には与えないままにしておいてもよいということにはならないのは当然で、そのあたりをどのように伝統的な価値観と折り合いをつけて行くかはなかなか難しい問題です。

 今回のサウジ国王の方針については、諸外国からも「女性の権利拡大へ向けた重要な一歩」として歓迎されているようです。

 ただ、サウジアラビアにおける地方選挙は1963年に初めて実施されてから2005年まで行われず、当初2009年に予定されていた3回目の選挙も延期が繰り返され、近々、ようやく実施にこぎ着けるというありさまで、女性の参加が実現する4回目以降の選挙がいつになったら行われるのか、現時点では全く先が見えない状況です。

 まぁ、サウジアラビアの国名は、アラビア語の正式国号を直訳すると“サウード家のアラブ王国”ですからねぇ。“将軍様”の支配する独裁国家でさえ、表向きは金王朝ではなく朝鮮民主主義人民共和国という立派な名前を名乗っていることを考えると、まさに、かまどの下の灰までサウード家のモノと堂々とうたっている国ですから、女性の参政権がどうのこうという以前の問題として、国民の政治参加が制度的に保証され、民意がきちんと反映されるシステムが確立されるには、まだまだ相当の時間がかかるんでしょうな。


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 皇帝の復活
2011-09-25 Sun 23:53
 きのう(24日)開かれたロシアの政権与党「統一ロシア」の党大会で、連続3期の大統領就任を禁じた憲法の規定に従って2008年から首相を務めていたウラジミール・プーチンが次期大統領選挙の与党候補となり、現職大統領のドミトリー・メドベージェフは首相に回る方針が確定しました。まさに、現代ロシアのツァーリとしてのプーチンの復辟というわけですな。そこで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ニコライ2世(1998)

 これは、ロシア・ロマノフ王朝最後の皇帝、ニコライ2世の没後80年を記念して1998年にロシアが発行した記念切手で、タブの部分にはありし日の皇帝一家の肖像画取り上げられています。

 1917年のロシア2月革命により、ニコライ2世は3月15日(ユリウス暦3月2日)に退位を余儀なくされ、皇位継承者として指名された弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公は即位を拒否したため、ロマノフ朝は滅亡します。

 その後、元皇帝一家は3月20日に臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁され、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流されました。さらに、10月革命によってボリシェヴィキが政権を掌握すると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、資産家イパチェフの家に監禁されましたが、チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、白軍により元皇帝が奪回されることをおそれたボリシェヴィキ政権は、1918年7月17日、元皇帝一家7人のほか、侍医、料理人、従僕などを銃殺しました。

 ソ連時代、皇帝一家の処刑は革命のハイライトとされていましたが、ソ連崩壊後はボリシェヴィキ政権の残虐さを象徴する出来事としてネガティヴに語られるようになり、2000年8月、ニコライ2世はロシア正教会において家族や他のロシア革命時の犠牲者とともに列聖され、完全に名誉回復を果たしました。今回ご紹介の切手も、そうした皇帝一家の名誉回復の過程で発行されたものです。

 さて、近日刊行の拙著『ハバロフスク』でも、ロマノフ朝ならびにニコライ2世関連の場所や、ロマノフ朝の名誉回復をうかがわせるモノをいろいろとご紹介しております。書店発売予定日は10月21日とまだ少し先なのですが、そこかで実物をご覧になりましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。

 * 本日(25日)午前中、カウンターが91万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。
       
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 パレスチナ、国連加盟を申請
2011-09-24 Sat 23:18
 パレスチナ自治政府のアッバス議長が日本時間のきょう(ニューヨーク時間で23日)、国連への加盟申請書を潘基文事務総長に提出しました。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

        パレスチナ自治政府・国連参加

 これは、1998年にパレスチナ自治政府が発行した“国連参加”の記念切手です。

 国連におけるアラブ系パレスチナ人の代表としては、1974年にパレスチナ解放機構(PLO)が議決権を持たないオブザーバーとして参加を認められたのが最初のことです。

 1993年9月、イスラエルとPLOの相互承認とガザならびにイェリコ(ヨルダン側西岸地区の重要都市)でのパレスチナ人の自治を骨子とするオスロ合意が調印され、パレスチナ自治政府が発足すると、1998年にはパレスチナに、一般討論への参加、反論権、ほかの加盟国が作成するパレスチナなど中東問題に関する決議案を共同提案する権利などが認められました。これによりパレスチナ自治政府は、議決権を持たない以外は、他の独立国とほぼ同格に扱われることになりました。今回ご紹介の切手は、これを記念して発行されたものです。

 今回の加盟申請は、昨年9月の国連総会での演説でオバマ米大統領が「2011年9月までに国連に加盟したパレスチナ国家を見たい」と中東和平に意欲を見せたことが発端となっていますが、皮肉なことに、オバマ演説の直後にパレスチナとイスラエルとの和平交渉が頓挫。パレスチナ自治政府は、イスラエル側が第3次中東戦争での“占領地”への入植を凍結することを交渉再開の条件としたものの、イスラエル側はこれを無視して入植を継続したため、交渉が再開しない場合は単独の行動をとり、国連に正式加盟を申請すると宣言していたパレスチナ側も加盟を申請せざるを得なくなったという面があります。

 今回の国連加盟申請に関して、すでにアメリカは拒否権を行使することを明らかにしており、パレスチナ自治政府もそのことを織り込み済みですが、国連加盟国のうち、126ヵ国がパレスチナを国家承認しているという現状を踏まえ、国際世論の圧力を背景に、今後の対イスラエル交渉を有利に進めたいとの狙いがあるものと思われます。

 もっとも、肝心のパレスチナの足元では、アッバス議長率いる穏健派政府が掌握しているヨルダン川西岸(の一部)と、強硬派のハマスが実効支配しているガザ地区とが事実上の分裂状態に陥っていることもあり、イスラエルを相手にはたしてまともな交渉を展開することができるかどうかは心もとないのが実情です。

 いずれにせよ、1948年のイスラエル建国からだと60年以上、1967年の第3次中東戦争からでも40年以上(余談ですが、僕自身が1967年生まれですから、オギャーと生まれた赤ん坊が、現在の中年男になる年月、といえば、その長さがわかろうというものです)も解決できなかった問題が、そうそう簡単に解決できるはずもないのですが、現在のパレスチナ問題の出発点ともいうべきバルフォア宣言から100年となる2017年までには、多少なりとも、事態が進展していてほしいものですな。


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 イエメン、サレハ大統領が帰国
2011-09-23 Fri 23:46
 ことし6月の暗殺未遂事件で重傷を負い、サウジアラビアで治療していたイエメンのサレハ大統領が、きょう(23日)、およそ3ヶ月半ぶりに首都サヌアに帰国しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

         イエメン王党派・国際協力年

 これは、1965年にイエメン王党派政府が発行した国際協力年の記念切手で、国際協力年のシンボルマークを挟んで、左上にサウジアラビアのファイサル国王の、右上にイエメンのイマーム(君主)ムハンマドの肖像が掲げられています。

 1962年9月、イエメンでは、イマーム・アフマドの死に伴う政権交代の隙をつくかたちでクーデタが発生。伝統的なザイド派(シーア派の一派)イスラムに基づく王朝が倒れ、革命政権が樹立されたものの、王党派はサウジアラビアとの国境を越えた山岳地帯に逃れて抵抗を続けました。いわゆるイエメン内戦の勃発です。

 両派はともに自分たちがイエメンの正統政府であることを主張し、その一環として、それぞれ独自の切手を発行していましたが、このうち、王党派は、従来どおり“イエメン王国”と表示された切手を発行しつづけます。ただし、現実には彼らは事実上の亡命政権で、その根拠地となっている山岳地帯では郵便の利用者はほとんどなかったため、彼らの「切手」は、実際に郵便に利用するためのものというよりも、政治宣伝のための媒体としての色彩が強いものでした。

 さて、革命政権から支援の要請を受けたエジプトのナセルはイエメン内戦への介入を決断。エジプト軍を派遣し、革命政権への全面的支援を約束します。これに対して、保守派君主国の雄サウジアラビアは、エジプトに始まるアラブ民族主義の共和革命がついにアラビア半島へと上陸したことで深刻な脅威を感じ、王党派を支援。こうして、イエメン内戦はエジプトとサウジアラビアの代理戦争の様相を呈するようになります。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で、イエメン王党派が発行したもので、彼らの後ろ盾となっていたサウジアラビアの“国際協力”に感謝する意図が込められています。

 さて、今年1月のテュニジア・ジャスミン革命以来のアラブ民主化の流れのなかで、イエメンでも、ことし1月から反体制デモが続いており、大統領の帰国説が浮上した今月18日からは、治安部隊とデモ隊の衝突が再燃して約100人が死亡しています。今回の大統領の帰国により、辞任を求める反体制派のデモ激化など国内対立が深刻化するのは必至で、内戦突入の危機さえささやかれています。

 仮に内戦突入となった場合、今回もまた、両派がそれぞれ別個に切手を発行するようになるのかどうか、個人的にはそのあたりが気になりますな。


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 ダゲスタンで連続テロ
2011-09-22 Thu 23:51
 ロシア南部ダゲスタン共和国で、きのう(21日)からきょう(22日)にかけ、首都マハチカラなどでテロとみられる爆破や狙撃が相次ぎ、少なくとも7人が死亡し、60人以上が負傷したそうです。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはこの切手です(画像はクリックで拡大されます)

        マハチカラ

 これは、1960年にソ連が発行した“自治共和国の首都”の切手の1枚で、ダゲスタン自治共和国の首都、マハチカラ中心部の部位なく通り周辺の景観が描かれています。

 ダゲスタンはカスピ海西岸、チェチェン共和国、グルジアアゼルバイジャンなどと隣接しており、国土の4分の3を山岳・丘陵地帯が占めています。ちなみに、ダゲスタンというのは民族名ではなく、テュルク語で“山の国”の意味です。

 山岳地帯で人々の自由な往来が困難だったこともあって、世界でも有数の多言語・多民族地域として知られ、約5万平方キロの面積に30以上の民族が住んでいます。そのうちの主要10民族とされているのが、民族とされる10の民族は、コーカサス諸語の民族であるアグル人、アヴァール人、ダルギン人、ラク人、レズギ人、ルトゥル人、タバサラン人、ツァフル人、およびテュルク系民族のクムク人とノガイ人で、住民のほとんどはスンナ派のムスリムです。

 このうち、レズギ人とノガイ人には、それぞれ、周辺国に居住する同一民族による統一と独立を求める勢力があり、クムク人には母語による教育・文化の保護を理由としたダゲスタン内での自治国家創設を求める動きがありますが、ダゲスタン全体としては、諸民族の関係は比較的安定しているとされています。

 ただし、この地域は、伝統的に北カフカスにおけるイスラム文化の中心地となっており、1859年にチェチェンとともに帝政ロシアに併合されるまでロシアに対する抵抗運動の拠点となっていたという歴史的背景があります。このため、チェチェン系のテロ組織による反ロシア活動の拠点となっているともいわれ、1999年にシャミル・バサエフが率いるチェチェンのイスラム原理主義グループがダゲスタンで行ったテロは、ロシアによるチェチェン侵攻の一因ともなりました。

 今回のテロ事件がいかなる勢力の犯行によるものなのか、現時点ではまだ明らかになっていませんが、2014年のソチ冬季五輪を無事に開催するにはカフカス地方の安定が不可欠なだけに、ダゲスタンを含むこの地域の情勢はフォローしていこうと思っています。


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 ラッバーニー元大統領暗殺
2011-09-21 Wed 22:57
 きのう(20日)、アフガニスタンのブルハーヌッディン・ラッバーニー元大統領が首都カブールの自宅でタリバンによる自爆攻撃を受けて暗殺されました。というわけで、きょうはアフガニスタン関連のネタの中からこの1点です。(画像はクリックで拡大されます)

        アフガニスタン航空書簡・30アフガニ加刷

 これは、1992年3月28日、カブールからアメリカ宛てに差し出されたアフガニスタンの航空書簡で、もともとの額面は12アフガニですが、30アフガニ料金への改値加捺のうえで使用されています。

 1979年12月にアフガニスタンに侵攻したソ連軍は、国際社会の非難とムジャーヒディーンの頑強な抵抗により、1989年2月15日をもって、なんら得るところなく、アフガニスタンからの完全撤退を余儀なくされました。ソ連軍撤退を受けて、ムジャーヒディーン諸派は暫定政権の樹立に合意。カブールの人民民主党政権(共産党政権)打倒に向けて本格的な攻勢を開始します。

 ムジャーヒディーン諸派の攻勢が続く中、1991年5月、国連事務総長は和平提案を行い、7月から、ムジャーヒディーン諸派とパキスタン、イランの三者会談が始まります。さらに、同年8月のソ連保守派のクーデター失敗でアフガニスタン問題にしがらみのないボリス・エリツィンがロシアの実権を掌握すると、人民民主党政権に対するソ連の直接援助も大幅に削減。9月には米ソ両国がアフガニスタンへの武器供給の停止で合意し、翌11月にはムジャーヒディーンとソ連との交渉でアフガニスタンの全権を(新設予定の)イスラム暫定評議会に移管することが決定されました。

 1991年末のソ連崩壊を経て、1992年3月18日、人民民主党政権の大統領だったムハンマド・ナジーブッラーは辞任。4月10日には、国連の仲介によりイスラム暫定評議会の設立が正式に決定されます。これに対して、ナジーブッラーはインドへ亡命しようとしたしましたが、4月16日に捕えられ、カブールの国連ビルに軟禁されました。

 こうして人民民主党政権は完全に崩壊。政府崩壊を知ったムジャーヒディーン諸派がカーブルに殺到し、首都は混乱状態に陥ります。今回ご紹介のカバーは、まさに、人民民主党政権最末期の混乱の中でアメリカ宛てに差し出されたものということになります。

 人民民主党政権の崩壊を受けて、4月28日、ムジャーヒディーン諸派はシブガトゥッラー・ムジャッディディーを暫定国家元首として新政府作りを進めます。その過程で、イスラム協会の最高指導者であったラッバーニーが亡命先のペシャワールから帰国し、暫定評議会議長に就任。翌1993年1月、ラッバーニーを初代大統領とするアフガニスタン・イスラム国が誕生しました。

 もっとも、このイスラム国はあくまでも旧反ソ勢力諸派の妥協的な連合政権であったため、成立後まもなく新政権内部の主導権をめぐる内戦が勃発ます。内戦は、周辺諸国がそれぞれの思惑から各勢力を支援したことから泥沼化し、ふたたび大量の難民が発生。その過程で既存の旧ムジャーヒディーン諸派はすべて堕落しているとすターリバーンが生まれ、勢力を拡大していくことになります。

 ターリバーンという共通の敵を前に、反ターリバーン諸派は“北部同盟”を結成して戦いましたが、1996年9月、州都カブールは陥落し、大統領のラッバーニーもカーブルから脱出します。2001年、アメリカ同時多発テロ事件後の米軍のターリバーン攻撃に協力したラッバーニーは、ターリバーン政権崩壊後、カブールに戻りましたが、アフガニスタン暫定行政機構の発足に伴い、暫定行政機構の議長に選出されたハーミド・カルザイに権限を移譲。大統領職を退きました。

 その後、ラッバーニーは新政府の主要ポストには就かず、2007年3月、野党同盟「国民戦線」の党首となり、昨年10月からはターリバーンとの和解交渉担当の高等和平評議会の議長を務めていました。もっとも、ラッバーニーといえば反ターリバーン派のシンボルともいうべき人物ですから、彼がターリバーンとの和解交渉をまとめられるか否かという点を疑問視する声も少なからずあったようです。

 今回の暗殺事件は、不幸にしてそうした見方が正しかったことを証明してしまったわけですが、群雄割拠のアフガニスタンで首都周辺にしか威令が届いていないとされるカルザイ政権が、その首都の治安さえも満足に維持できないという現状もあらためて明らかになりました。現在、かの国では2014年までに現地駐留の国際治安支援部隊からアフガニスタン政府への治安権限の移譲を完了すべく準備が進められていますが、これも、アフガニスタン情勢が落ち着いてきたからではなく、これ以上、国際社会もアフガニスタンの混乱には付き合いきれなくなったため、と理解するのが妥当なんでしょうな。


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 空の日
2011-09-20 Tue 23:53
 きょう(20日)は空の日です。というわけで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ソ連飛行士Tシャツ     ソ連飛行士(1939)

 左の画像は、今年(2011年)8月、ハバロフスクに取材旅行に行った際、極東美術館の売店で購入したTシャツです。プリントされている絵柄は、上部に飛行士を意味するロシア語の表題が、下部に1938の年号が入っており、もとはポスターの類だったのではないかと思われます。

 右の画像は、1939年にソ連が発行した30コペイカ切手ですが、Tシャツに取り上げられたポスター(?)をトリミングした図案になっています。この切手と同じシリーズとしては、工場労働者を描く5コペイカ切手と兵士を描く15コペイカ切手がありますが、それらも、30コペイカ同様、なにか元ネタがあるのかもしれません。

 さて、以前からご案内しておりました拙著『(切手紀行シリーズ④)ハバロフスク』ですが、奥付上の刊行日が11月5日に決まりました。実際には、10月下旬より、ネット書店などでの販売がスタートすることと思われます。体裁は192頁のオールカラーで、本体定価が、シリーズ前作の『マカオ紀行』よりは少しだけ安い2800円の予定です。

 なお、『ハバロフスク』の刊行を記念して、11月5日には、東京・池袋で開催の全国切手展<JAPEX'11>会場内でトーク・イベントを開催する予定です。

 今後、このブログでも機会をとらえて詳細をご案内してまいりますので、よろしくお願いいたします。


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 シッキムで大地震
2011-09-19 Mon 23:12
 昨晩(18日)、インド北東部、シッキムの州都ガントクの北西68キロの地点を震源とする強い地震があり、インド、ネパール、チベットの3国にまたがり、多数の死傷者が出ている模様です。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。さて、シッキムといえば、この“切手”でしょうか。(画像はクリックで拡大されます)

        シッキム・ロケット郵便用切手

 これは、1935年4月にシッキムで試験的に行われたロケット郵便用の“切手”です。

 シッキムは、ヒマラヤ南麓のネパールとブータンのあいだに位置しており、かつてはチベットから逃れてきたチベット仏教ニンマ派の建国したシッキム王国が支配していましたが、1861年、イギリスの保護国となりました。

 1935年4月、ステファン・ヘクター・スミスは、山がちのシッキムの地形に着目し、シッキム宮廷の許可を得て、ロケットに郵便物を搭載して発射するロケット郵便の実験を行います。

 時あたかも、英国王ジョージ5世の即位25周年にあたっていたため、スミスは英国王夫妻の肖像と、ロケット郵便があらゆる運搬手段よりも早いことを示すイラストを描いた“切手”を制作。シッキム宮廷の許可を得たうえで、“ロケット郵便試験 シッキム宮廷認可”と加刷し、ロケットに搭載する郵便物に貼付しました。切手は、今回ご紹介のものを含め、同図案で色違いの4種各2000枚が発行されています。

 実験は区間を変えて合計9回行われましたが、最初のロケット郵便は、1935年4月7日午前10時30分に、ガントク郵便局から発射され、シッキム王立高校まで200通の郵便物を運びました。

 さて、今回の地震では、インド政府が被災地に軍や警察の部隊を派遣していますが、土砂崩れなどで道路が寸断され、連絡が取れない所も少なからずあるそうです。こういうときこそ、ロケット郵便を復活させてみたら良いのでは…と、ふと考えてしまいました。


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 満洲事変80年
2011-09-18 Sun 22:18
 いわゆる満洲事変の発端となった柳条湖事件が1931年9月18日に起きてから、きょうでちょうど80年です。というわけで、きょうは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        関東庁葉書・撫順     関東庁葉書・撫順(裏)

 これは、満州事変勃発直後の1931年10月、撫順の満鉄付属地から日本宛に差し出された葉書です。

 第一次大戦後の9ヵ国条約により、列強諸国は、1922年末限りで、中国各地に設けていた郵便局を閉鎖することが決められ、わが国は65の郵便局、93の切手類売捌所、148の郵便ポストを中国から撤廃しました。ただし、その後も、同条約では列強諸国の租借地については、従来どおり、列強の実質的な支配下に置かれるものとされていたため、関東州の租借地とそれに準じる満鉄付属地は、日露戦争で日本が獲得した正当な権益であるとして、日本の郵便局は活動を続けていました。

 ところで、もともと、満鉄付属地内の日本の郵便局は、満鉄付属地間相互の郵便物に関しては(日本円の1円と中国円の1円を等価として)中国側の料金よりも低くすることができませんでした。ただし、日本と清朝ならびに中華民国の郵便料金は長らく同額の時代が続いていたため、そのことが問題となることは実際にはなかったのですが、1925年11月1日、中国側が国内宛封書の基本料金を3分から4分に、葉書料金を1分5厘から2分に値上げすると、日本側も満鉄付属地間の郵便料金を値上げせざるを得なくなりました。

 このため、関東庁は新料金に対応した新たな額面の葉書(印面のデザインは従来のものと同じだが、下方に“関東庁発行”の文字が入っています)を発行しました。今回ご紹介のものも、そうした関東庁が発行した葉書の使用例のひとつです。

 なお、1925年11月以降、満鉄付属地相互の郵便料金は値上げされたものの、付属地から日本国内宛の郵便物は、中国との約定による制約を受けないため、旧料金のままで郵便を差し出すことができたのですが、現実には、この葉書の差出人のように、日本国内宛の郵便物にも関東庁が発行した“割高”な葉書を使用するケースが少なからずありました。

 さて、この葉書は、1931年9月18日の事変から日も浅い同年10月、満鉄附属地の撫順から差し立てられた葉書です。文面から察するに、心配して手紙をくれた知人に現状を報告したもののようで、「撫順は在郷軍人と防備隊の働きニより何事も無く・・・」、「(九月)一九日夜わ家族わ永安台之守備隊ニ行(く)準備(を)致し(ました。)御蔭様で守備隊にも行(か)ず早ク済デ只今安心(して)居ます」など、当時の状況を生々しく伝える文面が記載されています。

 なお、この葉書を含め、満洲ないしは満洲国の切手と郵便については、拙著『満洲切手』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 デンマーク初の女性首相誕生へ
2011-09-17 Sat 16:50
 おととい(15日)行われたデンマークの総選挙で、最大野党・社会民主党のヘレ・トニングスミット党首率いる中道左派連合が勝利。これにより、昨日(16日)、ラスムセン内閣が総辞職し、トニングスミットがデンマーク初の女性首相となる見通しです。というわけで、デンマークの女性といえば、やはりこの切手でしょうか(画像はクリックで拡大されます)

        人魚姫

 これは、1935年デンマークが発行した“アンデルセン童話集100年”の記念切手のうち、人魚姫を取り上げた10オーレ切手です。

 アンデルセンは1835年にデビュー作の『即興詩人』を発表し、ついで、同年、『童話集』を発表しましたが、『人魚姫』はこの『童話集』には収録されておらず、翌1836年に発表されました。ちなみに、1935年に発行された“アンデルセン童話集100年”には、このほかに『みにくいアヒルの子』も取り上げられていますが、こちらも1843年に発表された作品ですから、『童話集』には収録されていません。まぁ、どちらもアンデルセンの代表作であることには変わりないのですが、どうせなら、1835年の『童話集』の中から題材を選べばよかったのに…と思ってしま宇野は、僕だけではないでしょう。

 ちなみに、コペンハーゲンの有名な人魚姫の像は、彫刻家エドヴァルド・エリクセンが、バレエの主役を演じていたエレン・プリースの頭部と、妻エリーネの肢体をモデルに制作したもので、1913年8月23日に公開されています。ただし、エリクセンの像は、腰から下が魚になっているわけではなく、足首あたりからヒレになっています。その意味では、切手の方が“人魚姫”のデザインとしては原作に忠実だといえそうです。

 コペンハーゲンの人魚姫の像といえば、これまでにも何度も破壊され、その度に修復されていることでも有名です。デンマークの新首相も、不死身の銅像のように困難を乗り越えて政権を維持していけるか、それとも、原作の人魚姫同様、思いを遂げずに泡と消えていくのか、まさにこれからが正念場というところでしょうな。


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 無理に改名しなくても…
2011-09-16 Fri 22:40
 東京・渋谷センター街のメーンストリートが“バスケットボールストリート”(通称:バスケ通り)と命名されることになったそうです。渋谷センター商店街振興組合によると、センター街は若者が集まり、流行を生み出す一方で、街のモラルが指摘されるケースもあり、今回の命名でイメージアップを狙うのだとか。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきてみました(画像はクリックで拡大されます)

        スターリン市宛はがき

 これは、1952年、共産主義政権下のルーマニアで“スターリン市”宛てに差し出された葉書ですが、ここでいう“スターリン市”は、ルーマニア第2の都市ブラショフのことです。

 1947年の共産革命後、権力を掌握したルーマニア共産党書記長のゲオルゲ・ゲオルギュ=デジは戦前からの土着の共産主義者でしたが、スターリンの支持を得て、モスクワ帰りのライバルたちを粛清し“小スターリン”としての地歩を固めていきました。1951一年からスタートした第1次5ヵ年計画や“富農一掃”のスローガンの下に行われた農村の集団化などは、まさに、スターリン時代のソ連の経済政策に倣ったもので、そうした“向ソ一辺倒”の時代の産物として、ブラショフ市もスターリン市と改名されたというわけです。

 スターリンが1953年に亡くなると、軍事力増強のために、国民生活に必要な農産物や消費財の生産を犠牲にしてでも重工業を重視する生産力至上主義に対する国内の不満が高まり、デジは自己批判を迫られます。そして1954年、一時的に、党書記長の座をゲオルゲ・アポストルに譲らざるを得なくなりました。しかし、翌1955年にソ連で重工業優先政策が復活すると、それにあわせてデジも党書記長に返り咲き、ルーマニアの“社会主義経済建設”も旧に復することになりました。

 1956年、いわゆるハンガリー事件が起こると、隣接するルーマニアにもソ連軍が進駐します。デジ政権は率先してソ連軍の介入を支持するなど、表向きはソ連の“忠臣”として行動しましたが、内心は次第にソ連離れを志向。事件後、ソ連が社会主義陣営のタガを締め直すため、コメコンによる国際分業体制の構築に本格的に乗り出すと、“農業国”のままに据え置かれることを嫌ったルーマニアはこれに強く反発。さらに、この頃から始まった中ソ論争でも中立の立場を取ったほか、1964年以降は、西側世界との独自の交流を開始しています。

 こうした時流に合わせて、スターリン市もまた、ブラショフ市の名前を取り戻すことになりますが、公式にはこの地が“スターリン市”と呼ばれていた時代でさえ、地元の住民は日常会話ではブラショフの地名を使い続けていたといわれています。

 このほかにも、たとえば、日本占領下の香港で輔道(デボー・ロード)を昭和通と改名しても現地住民の間では定着しなかったことや、現在なお、ベトナム人の間ではホーチミンよりも旧称のサイゴンの方がよいことなど、上から強引に解明しても人々の意識までは変えることはできないケースは無数にあります。

 今回の“バスケ通り”が定着するかどうかは現時点では未知数ですが、この件を取り上げたブログやツイッターなどを見る限り、旧国電をE電としたのと同様、エライ人の自己満足だけで、結局は定着せずに終わる可能性が高いとみている人が多いようです。たしかに、センター街をバスケ通りにすればイメージが改善されるという主張は、少なくとも、僕の理解を超えた発想ですな。

 なお、今回の記事で取り上げたブラショフについては、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら。ぜひご覧いただけると幸いです。


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 釧路のタンチョウ、台湾へ
2011-09-15 Thu 19:57
 釧路市動物園で飼育されていたつがいのタンチョウが、きのう(14日)、学術交流を目的とした無償貸与のため、新千歳空港から台湾の台北市立動物園に輸送されました。北海道のタンチョウが海外へ輸送されるのは初めてだそうです。というわけで、きょうはタンチョウの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ご帰朝(タンチョウ)

 これは、1953年10月12日に発行された「皇太子殿下御帰朝」の記念切手のうち、タンチョウを描いた10円切手です。

 皇太子明仁親王は、1953年6月2日、ロンドンのウェストミンスター寺院で行われるイギリスのエリザベス女王の戴冠式に、昭和天皇の名代として出席するため、同年3月30日、アメリカン・プレジデント・ラインズ社のプレジデント・ウィルソン号で横浜を出航。いったん、サンフランシスコへ入り、カナダを経由してニューヨークへ寄った後、海路、イギリスに渡りました。

 皇太子の旅程がわざわざアメリカ経由で設定されたのは、おそらく、最初の寄港地をアメリカとすることで、現実の外交関係のうえで日英関係よりも日米関係を重視していることを示す意図が政府部内にあったためでしょう。あるいは、実現しなかったものの、皇太子をアメリカに留学させたかったという昭和天皇夫妻の意向が反映された結果かもしれません。

 さて、この時期のイギリスは、日本を敵国として戦った第二次大戦の終結からまだ日も浅く、一般国民の対日感情は、決して良好とはいえず、皇太子も、エリザベス女王に謁見するために1週間以上も待たされたり、戦争捕虜協会や労働組合の抗議により予定されていた歓迎行事が中止に追い込まれたりする等の体験をしています。

 それでも、無難に公務をこなし、日本の若きプリンスとして国際デビューを果した皇太子は、戴冠式への出席後、ヨーロッパ諸国を歴訪。それから、今度は空路、アメリカへ渡り、約1ヶ月間、アメリカに留まった後、パン・アメリカン航空で10月12日に帰国しています。

 皇太子の外遊が発表されると、郵政省は、これを、宮内庁の妨害により立太子礼の際に皇太子の肖像切手を発行できなかった雪辱を果たす絶好の機会ととらえ、“ご外遊”の記念切手を発行することを計画。1952年12月18日の郵政審議会・郵便切手図案審査専門委員会(以下、図案審査専門委員会)において、外遊の最大の目的であるエリザベス2世の戴冠式が行われる6月2日に、記念切手を発行することを決定します。

 もっとも、前回同様、切手に皇太子の肖像を入れることの是非をストレートに宮内庁に問えば、今回も拒否の回答が帰ってくることは目に見えていました。このため、郵政サイドは一計を案じ、外遊の記念切手を発行することを決定した上で、そのデザインに関しては、一般からの公募を行うという方式がとられています。

 当時の一般国民の認識では、皇太子外遊の記念切手が発行されるとしたら、皇太子の肖像が切手上に描かれるのは当然で、それがどのようなものとなるのか、といった点に関心が集まっていました。それゆえ、図案を公募すれば、応募作品の多くは皇太子の肖像を取り上げることであろうことは、ほぼ確実でした。そして、郵政省は、その中の優秀作品を切手の原画として採用することによって、“国民世論”の反映という錦の御旗を掲げ、宮内庁の反対を押し切って肖像切手を発行することができると考えたのです。

 こうして、全日本切手展の開催などを通じて、郵政省との協力体制が整っていた毎日新聞社が、1953年1月から、毎日新聞社主催・郵政省協賛という形式で切手図案の公募を開始。6月2日の切手発行予定日から逆算して、3月10日が応募の〆切とされました。

 はたして、『毎日新聞』紙上で告知された募集要項には、図案の内容については「大英帝國の戴冠式に御參列の皇太子殿下の御渡歐を慶祝するにふさわしい圖案(または寫真)で新かつ迫力あるもの」との文言しかありませんでしたが、寄せられた2611点もの作品のうち、8割以上がなんらかのかたちで皇太子の肖像を取り上げたものでした。

 このなかから、3月20日に行われた審査の結果、ロンドン塔や自由の女神など、訪問地の建物をバックに皇太子の肖像を描いた山野内孝夫の作品と、世界地図をバックにした皇太子の肖像を描いた大野射水の作品の2点が特選(賞金10万円)に選ばれ、郵政省はこの両作品を元にした切手の制作を開始。また、これと前後して、印刷局では、早くも郵政省から原画が回ってこないうちから、3人の凹版彫刻家が皇太子の肖像部分の彫刻を始めています。

 当然、郵政省はこの2作品を原画として記念切手を発行する予定で、宮内庁との交渉を開始しました。

 しかし、なんとしても肖像切手の発行実現を阻止したい宮内庁は、郵政省との交渉で時間を稼ぎ、肖像切手の発行を時間切れに追い込もうとする戦術を取ります。実際、郵政大臣・高瀬荘太郎が宮内庁長官・田島道治を訪ねた際も、宮内庁側は言を左右にして、高瀬との交渉にまともに応じようとはしなかったといわれています。

 こうして、6月上旬の切手発行に間に合わせるためのデッドラインとなった4月上旬になると、しびれを切らした郵政省は、ついに、宮内庁に対して公文書で期限付きの回答を要求。これに対して、宮内庁側は、従前通り、“拒否”の回答を郵政省に送付します。その文面は非公開のため、詳細は不明ですが、実質的には恫喝といってよいほどのものだったようです。4月10日に開かれた図案審査専門委員会では、それまでとは雰囲気が一転し、ただちに、切手への肖像の使用を見合わせることが決定されているのは、宮内庁側の対応が相当に強硬だったことの状況証拠と見てよいでしょう。

 ちなみに、郵政省と毎日新聞社による切手図案募集の企画を聞いた秩父宮は、「(非常に良いアイディアだが)宮内庁がなかなか難かしいだろうな」と語っており、皇族でさえも宮内庁の頑迷固陋さには頭を抱えていたことがうかがわれます。

 なお、切手図案の懸賞公募を取り仕切った毎日新聞社は、当初こそ、肖像切手を発行しないという郵政省の決定に不満を示していたものの、ある時期から、突如、この件について完全に沈黙してしまいます。関係方面からのさまざまな圧力があったのか、あるいは、今後の皇室取材に関して支障が出ることを怖れた会社の上層部が“自粛”を関係部署に命じたのか、現在となっては、真相は薮の中ですが、このこともまた、今回の切手に関して後味の悪い印象を残すことになりました。
 
 こうして、肖像切手の発行が中止となって緊張の意図が途切れた郵政省に対して、宮内庁は追い討ちをかけ、立太子礼の記念切手同様、今回の記念切手に関しても発行までの主導権を握ろうとします。

 すなわち、宮内庁側は、エリザベス女王の戴冠式にあわせて記念切手を発行することは、女王の戴冠式を記念するような印象を与えるので好ましくない、と強硬に主張。そのうえで、“皇太子”にまつわる記念切手である限り、発行の名目を“ご外遊”とすることも認められないとして、記念名称の変更まで要求したのです。

 結局、郵政省側は、宮内庁に押し切られるかたちで、彼らの主張をことごとく受け入れ、皇太子欧米歴訪を終えて日本に帰国する10月12日に“ご帰朝”の記念切手を発行することで決着がはかられました。

 また、これに伴い、山野内孝夫と大野射水の作品は切手の原画としてはお蔵入りとなり、代わって、“ご外遊”記念切手の図案として毎日新聞社に寄せられた作品の中から、中尾龍作の「鳳凰」と前川治朗の「鶴」が切手の原画として採用されることになりました。

 あいつぐ宮内庁からの無理難題に対して、すっかり今回の記念切手発行への意欲を失った郵政省は、その後、暑中見舞葉書や通常切手の制作に追われていたこともあって、しばらく作業を中断。その後、6月中旬になって、「鳳凰」を久野実が、「鶴」を渡辺三郎が、それぞれ、切手の原画として構成しています。

 このうち、今回ご紹介の「鶴」に関しては、前川の作品の元になった『ライフ』誌の写真が日本の鶴としては不自然であるとの指摘が図案専門委員会で出されたため、渡辺は明治神宮宮司・鷹司信輔(鳥の専門家として知られていた)に相談したり、上野動物園で取材したりするなどして、前川の作品を修正。こちらの原画が最終的に完成し、所定の手続きを経て印刷局に渡されたのは7月24日のことでした。

 以上のような経緯を経て、皇太子が日本に帰国した当日の10月12日、“ご帰朝”の記念切手は発行されました。

 今回は、当初、皇太子の肖像が入った切手が発行されるものとの期待が大きかっただけに、それが裏切られたことに対する失望感は相当なもので、著名な収集家であった荒井国太郎が『切手趣味』誌に「皇太子殿下御帰朝記念切手に失望す」と題する文章を寄せたのをはじめ、多数の収集家がさまざまな郵趣誌(紙)上で不満と失望を述べています。

 特に、鶴の10円切手は構図の関係から、上下逆にして郵便物に貼る利用者が続出し、この点でも疑問を投げかける声が少なくありませんでした。

 ちなみに、雑誌『切手趣味』の1954年1月号は、読者の投票による1953年に発行された切手のベスト5とワースト3を発表していますが、ワースト1位は「皇太子殿下御帰朝」の10円切手、2位は同5円切手になっており、この切手の不評ぶりが数字の上でも証明される結果となりました。

 なお、「皇太子殿下御帰朝」の切手については、拙著『皇室切手』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 切手で訪ねるふるさとの旅:高知県
2011-09-14 Wed 16:58
  ご報告が遅くなりましたが、『(郵便局を旅する地域活性マガジン)散歩人』第11号(2011年9月号)ができあがりました。僕の連載「切手で訪ねるふるさとの旅」では、今回は高知県を取り上げました。そのなかから、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        室戸岬

 これは、1966年3月22日に発行された「室戸阿南海岸国定公園」の切手のうち、室戸岬を取り上げた1枚です。

 安芸山地が太平洋に落ち込む南端に位置する室戸岬は、紀伊水道と土佐湾の境界に位置し、岩礁と奇岩に亜熱帯植物が繁茂する景勝地です。今回ご紹介のの切手にも小さく描かれた燈台は、実効光度と光達距離で日本一を誇るものとしても知られています。

 なお、室戸阿南海岸国定公園は高知県と徳島県にまたがっており、両県が熱心に発行運動を展開したため、室戸岬とあわせて徳島県の阿南海岸の切手も同時に発行されました。

 さて、今回の『散歩人』の記事では、地図をバックに、このほか、足摺岬、はりまや橋、尾長鶏、桂浜、高知城の切手を取り上げ、高知県の代表的な観光地を紹介する構成となっております。掲載誌の『散歩人』は各地の郵便局などで入手が可能ですので、御近所でお見かけになりましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 スズキ、VWと提携解消へ
2011-09-13 Tue 23:52
 きのう(12日)、自動車メーカーのスズキがフォルクスワーゲン(VW)との資本・業務提携を解消を発表。これにより、世界最大の自動車連合は解体される見通しとなりました。というわけで、きょうはフォルクスワーゲンの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        フォルクスワーゲン

 これは、1939年、ベルリン・モーターショーに際してドイツが発行した寄附金つき切手の1枚で、フォルクスワーゲンのビートル(タイプ1)が描かれています。

 フォルクスワーゲンは、1934年、ヒトラーがベルリンモーターショウで提唱した“国民車(フォルクスワーゲン)”計画に従い、フェルディナント・ポルシェが開発した小型車で、1936年の試作車を経て、1938年に第1号車が発表されました。

 自動車メーカーとしては、1937年5月にフォルクスワーゲン準備会社がベルリンに本社を置いて設立され(1938年9月にフォルクスワーゲン製造会社と改称)、購入希望者は事前に開設された口座に週5マルク振り込んで積立金制度を設立し、生産が行われています。

 しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発したため、フォルクスワーゲン製造会社は軍用車の生産を行うこととなり、民間向けのフォルクスワーゲンは実際には生産されませんでした。ちなみに、戦時中のフォルクスワーゲン製造会社の生産ラインには連合国の捕虜やアウシュヴィッツ強制収容所の収容者など約2万人が動員されました。

 第二次大戦後、ドイツが連合国によって占領されると、フォルクスワーゲンの工場は、当初はソ連軍の、後にイギリス軍の管理下に置かれ、官営のフォルクスワーゲン社として再出発。1960年に株式会社化され、現在にいたっています。

 ちなみに、昨年(2010年)のフォルクスワーゲンの販売台数は全世界で714万台、これにスズキの259万台をあわせて、VW=スズキ連合の販売台数は973万台でした。これは、2位のトヨタ自動車グループの841万台を大きく引き離しての1位です。2018年に1000万台超の販売を目指して拡大路線をとってきたフォルクスワーゲンは、2009年12月にスズキ株の19.9%を取得して以来、スズキの経営に対する関与を強め、そのことがスズキ側の反発を招いて今回の提携解消となりましたが、世界的な資本・業務提携の進む自動車業界で、スズキが単独路線を貫くのも容易ではなさそうです。


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 シベリアの月
2011-09-12 Mon 21:50
 きょう(12日)は十五夜です。というわけで、現在制作中の『(切手紀行シリーズ④)ハバロフスク』の中から、“月”に絡めて、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        シベリア抑留葉書(タイプ1)

 これは、第二次大戦後、ソ連によってシベリアに連行され、強制労働に従事させられていた日本人抑留者が差し出した専用の往復葉書で、往片・復片の上部には赤十字と赤新月のマークが入ったタイプ1と呼ばれる形式のものです。シベリア抑留の日本人用の往復葉書は、大きく4つのタイプに分けられますが、赤十字・赤新月が入っているのはタイプ1のみです。

 今回ご紹介の葉書の上部には、上下さかさまになった最上段の文字の一部が見えます。このことから、(少なくとも1ヶ所は)上下頭合わせの状態となった複数の葉書を何面か組み合わせて印刷した後、裁断して作られたことがわかります。

 葉書が書かれた日時は不明ですが、ウラジオストクの中継印は1948年1月17日で、日本到着後、検閲を受けた後、宛先に配達されたものの、返信部は使用されないまま残されています。この時期になると、日本人抑留者の帰国もそれなりに進んでいましたので、あるいは、葉書よりも先に差出人本人が帰国していたということなのかもしれません。

 さて、第二次大戦後のハバロフスクには多くの日本人が抑留されており、日本人が建設・改修に動員された建物も数多く残されています。11月に刊行予定の拙著『(切手紀行シリーズ④)ハバロフスク』では、いわゆるシベリア抑留についても相応のスペースを割くとともに、抑留者用の往復はがきのタイプ1~4とそのバラエティなども示しながら、抑留者の郵便についての概説も書いてみました。

 正式な発売日や定価など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお願いします。


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 911から10年
2011-09-11 Sun 23:59
 2001年のアメリカ同時多発テロ事件からちょうど10年が過ぎました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        グルジア・911

 これは、2001年の同時多発テロ事件の後、グルジアが発行した寄附金つき切手で、切手部分にはアメリカとグルジアの国旗が、小型シートの時の部分にはありし日のニューヨーク世界貿易センタービルと「我々はアメリカを信頼する」との文言が入っています。

 切手を発行したグルジアは旧ソ連を構成していた共和国の一つで、黒海の東岸に位置し、ソ連末期の1991年4月に連邦からの離脱を宣言しました。

 ソ連崩壊後のグルジアは、アブハジアや南オセチアの分離・独立問題などもあって、一貫してロシアとは距離を置き、欧米との関係強化に努めていました。同時多発テロ事件への報復として、アメリカは、首謀者とされるオサマ・ビン・ラディンをかくまっているとの理由でアフガニスタンのタリバン政権に対する軍事攻撃を行うとともに、旧ソ連の中央アジア諸国に米軍を駐留させました。このことは、結果的に、ロシアの勢力拡大を牽制することになりますから、ロシア離れを加速させたいグルジアにとっては歓迎すべき事態でした。今回ご紹介の切手も、そうした背景の下で、アメリカによる“テロとの戦争”への積極的な支持を表明するために発行されたものといえます。

 同時多発テロ事件当時のグルジアは、元ソ連外相のエドゥアルド・シェワルナゼが大統領でしたが、シュワルナゼは2003年のいわゆるバラ革命で退陣を余儀なくされます。その後、2004年に大統領となったミヘイル・サアカシュヴィリは、ソ連崩壊翌年の1992年にウクライナのキエフ国立大学国際法学部を卒業して渡米し、コロンビア大学で法学修士号を取得した後、ニューヨークで弁護士をしていたというキャリアの持ち主。1994年の帰国後はシュワルナゼ政権与党のグルジア市民連合の国会議員となり、2000年には法務大臣にもなりましたが、後、シュワルナゼに反旗を翻して、バラ革命を経て大統領に就任したというわけです。

 サアカシュヴィリ政権は、大統領個人のキャリアもあって、アメリカの後ろ盾の下、親米・反露路線をより徹底させ、いわゆるイラク戦争では米英に次ぐ規模の兵士を派遣しました。また、2008年には、北京五輪でロシア大統領のプーチンが訪中している隙を狙って南オセチアへの軍事侵攻を行ったものの(ただし、さすがにアメリカも、この軍事侵攻はアメリカも支持しませんでしたが)、ロシア軍に撃退されてしまったことは、記憶に新しいところです。さらに、その直後にはリーマン・ショックも起きて、対米依存を強めていたグルジア経済も深刻な打撃を受けています。

 2009年に発足したオバマ政権は、ブッシュ前政権の外交政策を転換して、対露協調路線をとるようになっており、サアカシュヴィリ政権は完全にはしごを外された格好となり、国内の支持率も低迷を続けているようです。それでも、政権としては、「アメリカを信頼する」としか言えないところに、なんとも悲哀を感じますな。まぁ、対米従属という点では、わが国もあまり偉そうなことは言えないのですがね。
 

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 ザンジバル沖で大沈没事故
2011-09-10 Sat 23:53
 きょう(10日)未明、アフリカ東部、インド洋のザンジバルのウングジャ島からペンバ島へ向け、約600人を乗せて航行していた船が沈没。60人の子どもを含む325人が救助されたものの、200人以上が死亡する大惨事となりました。亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。というわけで、きょうはザンジバル切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        ザンジバル・共和加刷

 これは、1964年にザンジバルで発行された共和加刷の切手です。

 19世紀以前のザンジバルは、アラブ系のオマーンの支配下に置かれており、1832年にはオマーンのスルタンがザンジバルに遷都したほどでした。その後、1861年にザンジバルはオマーン本土と分離した独立のスルタン国となります。

 1875年10月1日、イギリスは英領インド切手をザンジバルに持ち込み、この地に最初の近代郵便制度を導入しました。その後、1889年1月にはフランスが、1890年9月27日にはドイツが、それぞれ、ザンジバルに郵便局を設けますが、1890年、ザンジバル・スルタン国がイギリスの保護国となったため、両国の郵便局はザンジバルからの撤退を要求されます。このため、ドイツ局は1891年7月31日限りで撤退しましたが、フランス局は既得権を理由に1904年7月31日まで活動を続けました。

 第二次大戦後の1963年、ザンジバル・スルタン国は英連邦加盟の立憲君主国として独立しましたが、アラブ系のスルタンに不満を持つアフリカ系住民は、翌1964年1月、ザンジバル革命を起こしてスルタンを追放。ザンジバル人民共和国を樹立します。今回ご紹介の切手は、これに伴い発行されたものです。

 さて、革命政府は露骨な報復政策をとり、アラブ系やアジア系が所有していた土地や産業を強引に国有化したほか、アラブ系・アジア系の大量虐殺を行い、革命政府に対して批判的な国の大使を追放するなどしたため、社会状況は大いに混乱します。このため、革命政府の大統領カルメは、1964年4月、治安回復のためと称して対岸の隣国タンガニーカに警官隊投入を要請。さらに、タンガニーカとの合併により、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国を成立させ、ザンジバル国家を消滅させてしまいました。

 ちなみに、このタンガニーカ・ザンジバル連合共和国が現在のタンザニア連合共和国の直接の前身で、今回のニュースがタンザニアの出来事として扱われていたのもこのためです。


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 重陽の節句
2011-09-09 Fri 23:59
 きょう(9月9日)は重陽の節句です。というわけで、菊を取り上げた切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

        平和条約調印2円

 これは、いまからちょうど60年前の1951年9月9日に発行された“平和条約調印”の記念切手のうち、菊の花を取り上げた2円切手です。

 第二次大戦後の講和条約調印に際して記念切手を発行することは、すでに1947年の段階で企画されていましたが、条約がいつ、どのような内容で調印されるかという点については、全く白紙の状態であったため、「講和条約成立」記念切手を発行も、あくまでも「期日未定」の仮定の話の域を出ていませんでした。

 講和条約の記念切手発行が正式に決定され、具体的な実務作業が開始されるようになったのは、1951年7月になって、講和会議が9月上旬に行われることが確定してからのことで、期間が限られていることから、記念切手の版式はグラビアを用いられること、また、セットとしての構成も国内用の葉書と書状基本料金、外信用の書状基本料金(船便)の3種とすることが決められました。その後、関係者の昼夜を問わない奮闘の結果、9月5日までに、2色刷の8円を含む3種の切手、計1200万枚が郵政省に納品されています。

 今回の記念切手に関しては、製作期間が短かったことにくわえ、講和会議の結果いかんによっては条約の調印が行われないこともありえたため、発行日の設定に関しては郵政省も相当苦労したようです。

 ちなみに、8月25日付の「郵政省切手普及係発表」は、そうした郵政の苦衷を極めて率直に表現しています。

 來る九月上旬と期待される、サンフランシスコにおける平和條約調印にちなみ、次の三種の記念切手を発行の豫定です 発行日は調印当日若しくはその翌日の見込みですが、詳細は最寄の郵便局にお問合せ下さい なお郵政局所在地の中央局並に当係以外では、印刷の関係上右期日に間に合わない場合が豫想されますから、初日に御希望の方は右の各局へ直接お申込下さい

 一方、収集家の側も、講和会議の成り行きに不安を抱きながら、記念切手の発行を待っていたようで、切手の発行後、『京都寸葉』の武田修は次のように述べています。

 今度の平和條約調印が不成立に終ることを願つたようなものは、恐らくわが國民には一人もなかつたことと思う 稀にあればそれは共産党員位であつたろう しかしあの平和記念切手が未発行に終れば面白いなと思つた人は、郵趣界の中にはかなりにあつたらしい 奇を追い珍を貴ぶ趣味人としては無理からぬことかも知れず、出來上つてしまつていたあの記念切手が、かつての大震災当時の東京御成婚 とおなじような未發行ともなれば珍品になるんだがナアと心の一隅で考えたことは良識の有無如何に拘らず一應尤もと考えられる 事実今度の平和記念切手には当初一縷の危機がからんでいた 記念切手にスリルが伴うなどいうことは、これ迄のものには一寸前例のなかつたことだ というのは最初会議不参加が殆ど決定的と信じられていた世界の二大対立國家群の一方、鉄のカーテンの彼方のソ連が突如会議参加を発表したことに初まる 何かこれは一悶着起こるゾ、スラスラと予定通りに事は運ばぬぞ、といつた感じは誰しも一應抱いたことだつた 最惡の場合には條約調印も不成立に終るのではないかという一抹の危惧が生じたことが、記念切手の未発行の場合もあり得るということを考えさせるに至つた要因と思う

 こうした状況であったため、郵政省では、記念切手の発行は条約調印を確認してから行うものとし、調印終了が日本時間で郵便局の窓口受付時間内であれば当日発行とするが、午後5時以降または日曜で午前10時以降であった場合にはその翌日発行とするよう準備していました。

 結局、講和条約は、サンフランシスコの現地時間で9月8日午前10時42分(日本時間では9日の午前3時42分)に調印されたため、記念切手は9日に発行となりました。もっとも、9日は日曜日であったため、実際に同日から発売されたのは普通局以上、しかも、午前中に限られていました。また、記念切手発行の告示は、9月11日に訴求告示の形式をとって出されています。

 ちなみに、一般の歴史年表などでは講和条約の調印はサンフランシスコ時間(署名に記載の日)をとって9月8日とされていることが多いのですが、日本時間をとれば、上述のように、9月9日が調印日ということになります。僕の個人的な気分としては、重陽の節句に菊を取り上げた記念切手が発行されたということとあわせて、日本時間の9月9日を記念日としても悪くないかな、とも思います。

 なお、今回ご紹介した2円切手と同時に発行された他の2種については、拙著『切手百撰 昭和戦後』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 マケドニア共和国独立20年
2011-09-08 Thu 23:58
 1991年9月8日にマケドニアがユーゴスラビアからの独立を宣言してから、きょうでちょうど20年です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        マケドニア独立20年

 これは、2011年9月5日に発行されたばかりのマケドニア独立20年の記念切手です。

 現在のマケドニア共和国は、旧ユーゴスラビア連邦を構成していたマケドニア(社会主義)共和国が連邦から分離・独立するかたちで誕生しましたが、本来の地域概念でいう“マケドニア”の範囲は、古代のアレクサンダー大王の故地として、同国のみならず、ギリシャ、ブルガリアの3ヵ国にまたがり、さらに、アルバニア領マラ・プレスパおよびゴロ・ブルド、コソボ領ゴーラ」、セルビア領プロホル・プチニスキをも含むものとされています。

 この広義のマケドニアの南部、面積にして約50%がギリシャ領であり(ちなみに、マケドニア共和国の領域は広義のマケドニアの北西部の40%ほどです)、中心都市がギリシャのテッサロニキであることにくわえ、古代マケドニア王国がギリシャ系の国であったのに対して現在のマケドニア共和国の多数派民族がスラブ系であることもあり、ギリシャ側は、本来のマケドニアはギリシャであると主張。マケドニア共和国に対して“マケドニア”の国名を変更するように求め続けています。

 特に、1993年の国連加盟申請の際には、ギリシャの強い反発により、マケドニア共和国は“マケドニア旧ユーゴスラビア共和国”という暫定名で加盟するということで妥協が図られました。しかし、これに納得しないギリシャは、1994年2月にマケドニアに対する経済封鎖を実施。海を持たない内陸のマケドニア共和国は大きな打撃を受け、国旗のデザインを変更(1991年の独立時に定められた国旗は、古代マケドニアのヴェルギナの星を用いていました)するとともに、憲法を改正してギリシャ領のマケドニアに対する領土的野心がないことを明言するなどして、1995年に経済制裁を解除させました。

 しかし、その後も、ギリシャは“マケドニア”の国名変更を求め続けており、マケドニア共和国がこれに抵抗するという構図が続いており、EUやNATOへの加盟も国名問題の解決までは保留という状態となっています。

 ちなみに、わが国の外務省は、国連加盟の国名に倣い“マケドニア旧ユーゴスラビア共和国”を正式名称としており、“マケドニア共和国”との故障は認めていません。ただし、メディアでは、この正式名称ではなく、“マケドニア(共和国)”ないしは“旧ユーゴ・マケドニア共和国”などと呼ばれることが多いようです。これに対して、在京のギリシャ大使館がそのたびに抗議をしているかどうかは定かではありません。もっとも、“マケドニア旧ユーゴスラビア共和国”の話題が日本のメディアで取り上げられることはめったにないのですがね。


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 ロシアのアイスホッケー切手
2011-09-07 Wed 23:57
 ロシア北西部のヤロスラブリで、きょう(7日)、地元のプロ・アイスホッケーチーム“ロコモティブ”の選手らを乗せた旅客機が離陸直後に墜落、乗客・乗員45人のうち43が亡くなったそうです。謹んでご冥福をお祈りします。というわけで、きょうはロシアのアイスホッケーに絡んでこんなモノを持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        アイスホッケー世界選手権(1981)

 これは、1981年1月にハバロフスクで行われたアイスホッケーの世界選手権を記念して発行された切手つき封筒に、世界選手権の記念切手を貼り、記念印を押したモノです。

 ハバロフスクには、ロシアでも最大規模の7100人という収容人員を誇るアイスホッケー・スタジアム“プラチナ・アリーナ”がありますが、このスタジアムは2003年8月30日のオープンなので、今回ご紹介のマテリアルの世界選手権とは無関係です。

 おそらく、今回ご紹介のマテリアルの世界選手権は、アムール川沿いのレーニン・スタジアムの一角で行われたものと考えられます。

 ソ連時代、レーニンの名を冠したスポーツ施設は各地に建てられましたが、ハバロフスクのレーニン・スタジアムは1957年に完成したスポーツ・コンプレックスで、広々として公園の中に6000人収容の体育館、2万5000人収容の競技場、テニスコート、ヨットクラブなどを備え、極東ロシアのスポーツ施設としては最大の規模を誇っていました。

 このうち、スケート競技が行われていたのは体育館で、下の画像のように、正面には男子の砲丸投げと女子のフィギュア・スケートの像が正面に立てられています。

        レーニンスタジアム(体育館)

 さて、今秋、<切手紀行シリーズ>の第4巻として刊行予定の『ハバロフスク』では、今回の記事に登場したプラチナ・アリーナとレーニン・スタジアムの双方を取り上げ、その背後にある歴史的な事情についてもいろいろとご説明しております。現在、本文の原稿は8-9割方、書き上がっており、並行して編集作業を進めているところですので、11月の<JAPEX>では、実物をご覧いただけるのではないかと思います。正式な発売日や定価など、詳細が決まりましたら、逐次、このブログでもご案内してまいりますので、どうかよろしくお願いします。


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 ワニの切手
2011-09-06 Tue 23:54
 フィリピン南部の南アグサン州ブナワンで、体長6.4メートル、体重600キロのワニが発見されたそうです。というわけで、きょうはワニの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ノーズボルネオ・ワニ

 これは、1894年、英領ノースボルネオで発行された12セント切手でワニが描かれています。

 ボルネオ島北部、現在のマレーシア・サバ州の地域は、かつては、フィリピン諸島とボルネオ島の間に連なるスールー諸島を領土とするスールー王国の支配下にありました。

 1865年、ブルネイ駐在のアメリカ領事クロード・リー・モーゼズはノースボルネオの10年間の租借権を獲得しましたが、南北戦争の直後ということもあって、アメリカ政府には植民地経営の余裕がなく、租借権はアメリカ・ボルネオ貿易会社に売却されます。しかし、同社はボルネオ経営に失敗し、租借権はオーストリア・ハンガリー二重帝国の香港領事フォン・オーバーベックに売却されます。フォン・オーバーベックは、当初、本国政府にボルネオ経営を持ちかけたものの失敗し、さらに、イタリアへの売却交渉も不調に終わったため、1880年、ボルネオから撤退します。

 こうした事態を受けて、デント商会の係累に当たるアルフレッド・デントが、イギリスの外交官、ラザフォード・オールコックらの支援を受けて、1881年7月、英国ノースボルネオ会社を設立。翌1882年、ヴィクトリア女王の勅許を得て北ボルネオの統治を始め、1888年7月、ノースボルネオをイギリスの保護領とし、英国ノースボルネオ会社がこれを統治する体制を確立しました。これが、いわゆる英領ノースボルネオです。

 ただし、フォン・オーバーベックとスールー王国のスルタンとの間で結ばれた条約は、あくまでもノースボルネオの賃貸契約であり、売買契約ではないため、その後も、1898年にスールー王国が米領フィリピンの一部に組み込まれるまで、同国がノースボルネオの主権者というのが建前でした。したがって、今回ご紹介の切手が発行された1894年の時点では、一応、スールー王国は存続していましたので、フィリピンのワニの話でノースボルネオの切手を持ってきても、あながち的外れではないと強弁できそうです。

 ところが、第二次大戦中、ノースボルネオを含むボルネオ島北部の英領地域が“北ボルネオ”として日本軍に占領されると、戦後、日本軍の撤退を受けてノースボルネオは1946年にイギリスの直轄植民地となり、1963年、マレーシア連邦に編入されます。これに対して、スールーのスルタンの末裔はノースボルネオのスールーへの返還を要求。さらに、スールー王国を継承したとするフィリピン政府もこの立場を支持したため、旧ノースボルネオの帰属をめぐって、フィリピンとマレーシアが対立しました。
 
 なお、英領ノースボルネオの切手は、今回のものも含めて、デザイン・印刷ともに実に素晴らしいものが多く、単純に集めてみたら楽しいだろうなぁと思うのですが、いかんせん、お金のかかるマテリアルが多く、僕の財力では気軽に手を出せないのが辛いところです。

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 日豪戦争⑭
2011-09-05 Mon 21:03
 ご報告が遅くなりましたが、先月25日、本のメルマガ第439号が配信となりました。僕の連載「日豪戦争」では、今回は日本降伏の話を書きましたが、そのなかから、まずは、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        シュロップシャー・カバー

 これは、1945年9月2日、降伏文書調印の日に東京湾に停泊していたオーストラリア海軍のシュロップシャー艦内の郵便局から差し出されたカバーです。

 連合国側が対日戦争の戦後処理に関する基本方針を決めたのは、1943年11月、ローズヴェルト、チャーチル、蒋介石の3者によるカイロ会談だったことは良く知られています。

 カイロ会談の内容は、同年12月1日、日本の無条件降伏要求と降伏後の日本領土の縮小などをうたった「カイロ宣言」として発表され、米英ソのテヘラン会談、ヤルタ会談を経て、ポツダム宣言の基礎となりましたが、この重要な会談に際して、オーストラリア代表は参加していません。

 1941年12月に日本と米英蘭との戦争が勃発したことを受けて、1942年1月1日付で発せられた「連合国宣言」には、最終的に26ヵ国が署名しましたが、その序列は米英中ソの4ヵ国を主要国とし、それ以外の国は同格としてアルファベット順になっていました。オーストラリアは、アルファベット順では最初の国となったものの、あくまでも“その他大勢”の一員でしかなく、連合国全体の意思決定に関与できるメンバーとはみなされていません。

 しかし、ダーウィン空襲など国土が直接の攻撃を受け、日本軍との戦闘で多大な犠牲を払ってきたオーストラリアは、対日戦争に関しては、米英中ソの後、オーストラリアまでが主要国であり、アルファベット順のベルギー以下が同格であるとひそかに自負していました。

 したがって、カイロ宣言の決定(その内容に対する賛否は別として)に自分たちが関与できなかったことについて、大いに不満です。

 そこで、オーストラリアは、1944年、ニュージーランドとともにキャンベラ協定(第一次世界大戦時に編成されたオーストラリア・ニュージーランド軍団 :Australian and New Zealand Army Corpsにちなみ、オーストラリア・ニュージーランド合同の軍事組織を意味する“アンザック協定”とよばれることもある)を締結。独自に、対日戦の戦後処理や南ならびに南西太平洋での安全保障、南太平洋政策での両国の協同をニュージーランドと約しています。主要国の決定に無条件で唯々諾々と従うわけではないとのアピールでした。

 その後も、ヤルタ会談やポツダム会談などにオーストラリアが直接関与することはありませんでしたが、そうしている間にも連合国による日本包囲網は次第に狭められていき、日本の敗戦を既定方針として日本占領の具体的な計画が策定されるようになります。

 その過程において、1945年7月、オーストラリア海軍のコルヴェット艦ゴーラーならびに駆逐艦のネイピア、ネパール、ニザーム、ノーマン、キベロン、クイックマーチが日本近海に派遣されました。

 8月15日正午、昭和天皇が玉音放送で国民に対して「終戦」を告げ、降伏の意思を明らかにした日本に対しては連合国の軍隊が進駐することになりますが、英国およびオーストラリア海軍の人員は米国第3艦隊上陸部隊の一員という形式を取って、日本海軍の横須賀鎮守府を接収するとともに、連合軍の東京上陸を補佐する任務を与えられ、8月30日、横須賀に上陸します。マッカーサーがコーンパイプを咥えて篤次の飛行場に降り立った、まさにその日でした。

 9月2日、日本と連合国との降伏文書が米戦艦ミズーリ上で調印され、オーストラリアからは豪州軍総司令のトマス・ブレイミーが署名しました。

 ちなみに、ブレイミーは、戦時中、部下に対して「諸君らが闘っているのは奇妙な人種である。人間と猿の中間にあると言っていい。文明存続のために我々は最後まで戦いぬかねばならない。日本人を根絶しなければならない。」と訓示していた人物です。オーストラリア国家を代表して“ジャップ”の降伏を受理したことは、さぞや痛快な出来事だったんでしょうな。

 降伏文書調印の当日、湾内に停泊していた連合国の艦船は258隻にも上ったそうですが、オーストラリア海軍からは、上述の艦船に加え、重巡洋艦のシュロップシャーとホバート、駆逐艦のバターン、セスノック、イプスウィッチなどが湾内に停泊していました。今回ご紹介のカバーは、そのうちのシュロップシャーから差し出されたものです。

 シュロップシャーはもともとは英国海軍の重巡洋艦として1926年2月に起工し、1928年7月に進水、1929年9月に就役し、地中海艦隊に所属していました。第2次大戦が勃発すると、大西洋やインド洋で活動していましたが、1942年8月、第一次ソロモン海戦でオーストラリア海軍の重巡洋艦キャンベラが撃沈されたため、その不足を補うため、同年12月、英国海軍を退役し、翌1943年4月、オーストラリア海軍に移管されています。

 オーストラリア海軍への移管後は、1943年12月のダイレクター作戦(ニューブリテン島・アラウェ上陸作戦)ならびにグロスター岬上陸作戦、1944年3月のアドミラルティ諸島の戦い、同4月のニューギニア・ホーランディアならびにアイタペ上陸作戦、同5月のビアク島上陸作戦、同7月のアイタペの戦いおよびサンサポール上陸作戦、同9月のモロタイ島上陸作戦、同年10月のレイテ沖海戦以降のフィリピンの戦いなど、日豪戦争の主要な戦いに参加しました。

 降伏文書調印の当日、シュロップシャーの艦内郵便局では、“TOKYO BAY/JAPAN”の文字が入った日付印と、降伏文書調印を祝う“Official Signing Of Japanese Surrender(日本降伏の公式調印)”の文字の入った記念スタンプが使われています。

 こうした記念印の類は、降伏文書調印の場となった米戦艦ミズーリ号をはじめさまざまな艦船でさまざまなタイプのものが使われていますが、オーストラリア海軍に関しては、シュロップシャーのほかホバート、ワラムンガでも使われました。

 なお、シュロップシャーは降伏文書の調印後もしばらく日本にとどまっていましたが、1945年11月18日、シドニーに向けて日本を出港しています。


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 ジャマイカのランナー
2011-09-04 Sun 23:48
 韓国の大邱で行われていた陸上の第13回世界選手権はきょう(5日)が最終日。大会最終種目の男子400メートルリレーでは、ジャマイカ・チームが、最終ランナーで登場したボルトの力走もあり、37秒04の世界新記録で優勝しました。今大会での世界新は、これが最初で最後だとか。というわけで、彼らに敬意を表してジャマイカのランナーを描いた切手を持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        コモンウェルス・ゲームズ1966

 これは、1966年8月4日、ジャマイカが発行した“英連邦競技大会”の記念切手で、イギリス、ジャマイカの両国旗と大会旗を背景に、首都キングストンの国立競技場内にあるランナーの像が描かれています。

 英連邦競技大会は、1928年のアムステルダム五輪に刺激をうけたカナダ人のメルヴィル・ロビンソンを中心に、
大英帝国域内の国際親善を目的とする競技会として計画されたもので、1930年、カナダのハミルトンで“大英帝国競技大会”として第1回大会が開催されました。以後、第2次大戦中の中断を除き、4年に1度、英連邦内の各国持ち回りで開催されています。

 その後、英連邦の変遷とともに大会の名称も変更され、1954年には大英帝国ならびに英連邦競技大会(British Empire and Commonwealth Games)に、1966年には英連邦競技大会(British Commonwealth Games)となりました。今回ご紹介の切手は、その1966年8月4日から13日まで、ジャマイカの首都・キングストンで開催された大会を記念して開催国のジャマイカが発行したものですが、切手の記念名は前回までの“大英帝国ならびに英連邦競技大会”となっています。なお、1978年以降、現在の名称は、それ以前の名称から“British”を落とした“Commonwealth Games”となりましたが、日本の報道などでは、むりに“コモンウェルス・ゲームズ”とはせず、英連邦競技大会のままということも多いようです。

 僕の個人的なイメージでは、ジャマイカ人といえばレゲエのボブ・マーレーなのですが、現状では、ボルトをあげる人の方が多数派だろうと思います。ということは、いずれ、ボブ・マーレー並みに、国民的英雄としてのボルトの切手も何度か発行されることになるのでしょうが、“ボブ・マーレーとラスタ・カルチャー”というテーマに比べると、ボルトを軸にしたコレクションというのは、ちょっと作りにくいなぁ。

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 孫文×香港×日本
2011-09-03 Sat 23:53
 中国の辛亥革命100周年を記念し、孫文と彼のスポンサーだった実業家の梅屋庄吉の交流を紹介する「温故創新-孫文と梅屋庄吉展」が、きょう(3日)から、香港で始まりました。というわけで、孫文と香港と日本の3つに関係する切手ということで、こんなモノを持ってきました(画像はクリックで拡大されます)

        香港大東版

 これは1940年1月から登場した“香港大東版”の孫文切手で耳紙には“大東書局香港印刷廠印製”の銘版が入っています。

 1928年に国民革命(北伐)が完了したことを受けて、中国郵政は1931年11月から新しいデザインの切手を発行します。このとき発行された新切手は、中山服姿の孫文の肖像を描き、国民政府の徽章である青天白日章を配したもので、ロンドンのトマス・デ・ラ・ルー社に製造が委託されたため、“ロンドン版孫文”と呼ばれています。

 一方、ロンドン版孫文と併行して、1932年8月13日からは、革命の英雄(烈士)たちの肖像を描いた切手も発行されるようになりました。こちらは、ロンドンのトマス・デ・ラ・ルー社で原版を制作したものを、北平(国民革命の完了後、北京から改称されました)の政府印刷廠で印刷されたため、“北京版烈士”と呼ばれています。

 こうして、ロンドン版孫文と北京版烈士は1930年代の中国を代表する切手として日常的に使われることになりましたが、1937年7月、いわゆる支那事変がはじまると、北京(日本軍の占領により、旧称の“北京”に戻されました)や上海、南京など、中国の主要都市や工業地帯は、たちまち、日本軍によって占領されてしまいます。その後、国民政府は南京から漢口、重慶へと逃げ延びて抵抗を継続しますが、戦前のように、中華郵政がロンドンや北京から直接切手を調達することは困難となりました。

 このため、国民政府の財務部は、南京陥落から間もない1938年早々に、英領であるがゆえに戦争に巻き込まれていなかった香港の印刷所に切手を発注します。

 ところで、日中戦争の勃発以前から、香港には中国の主要な出版・印刷会社が工場を設けていました。清末以来、中国における出版・印刷の拠点は上海でしたが、上海は1932年の第1次上海事変での市街戦により大きな被害を受けました。特に、当時中国最大の出版社であった商務印書館とその付属図書館である東方図書館(多数の稀覯本を含む50万部の蔵書がありました)が日本軍の攻撃で破壊されたことは、事変による最大の文化的損失ともいわれています。こうしたことから、商務印書館以下、中華書局、世界書局、大東書局、開明書店の五大書店は、事変後、あいついで香港にも工場を設立していました。

 このうち、中華郵政が最初に切手の製造を委託したのは香港の中華書局でした。切手の製造を受注した中華書局は、ロンドン版孫文切手の枠のデザインを若干変更した“(香港)中華版”とよばれる切手を制作。中華版の切手は、1938年11月から発行され、中国全土で流通するようになります。

 ところが、1939年には香港・中華書局の工場で労働者のストライキがあり、切手の供給が遅れることが懸念されました。このため、一部の切手に関しては、大東書局の工場で目打の穿孔作業が行われることもあったほか、印刷から目打作業まで大東書局で行われた“(香港)大東版”の切手も1940年1月から発行されています。ちなみに、中華版の切手と大東版の切手は同じデザインですが、額面数字(漢数字)の部分の字体が異なるので、単片でも識別は可能です。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

  ★★★ 『週刊ポスト』巻頭特集「切手大全」の御案内 ★★★

        週刊ポスト9月9日号表紙      週刊ポスト・特集扉

 現在発売中の『週刊ポスト』9月9日号(小学館 税込み定価400円)は、巻頭グラビアで「懐かしの切手大全」と題して8頁の大特集を組んでいます。内容は、拙著『切手百撰 昭和戦後』と同じコンセプトで、懐かしの昭和の切手を通覧してみようというもので、僕のインタビューも掲載されています。全国書店はもとより、駅売店・コンビニなどでも実物をお手に取っていただけますので、ぜひ、ご覧いただけると幸いです。


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 切手に描かれたソウル:地下鉄1号線
2011-09-02 Fri 21:07
 ご報告が遅くなりましたが、『東洋経済日報』8月26日号が刊行されました。僕の連載「切手に描かれたソウル」では、今回は地下鉄1号線を取り上げましたが、きょうはその中からこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

        ソウル地下鉄開通

 これは、1974年8月15日に発行されたソウル地下鉄開通の記念切手です。

 ソウル市の地下鉄建設計画は、1969年10月、交通部長官に就任した白善の下でスタートしました。

 朝鮮戦争の英雄であった白は1960年に退役し、台湾・フランス・カナダの大使を歴任した後、ほぼ10年ぶりに帰国して交通部長官に就任しましたが、帰国早々、ソウル市内のバスの殺人的な混雑を体験して、交通事情の改善に本気で取り組む決意をしたそうです。

 白は、日本をモデルにした地下鉄建設を考えたものの、長官就任当初は1965年の日韓国交正常化から日も浅く、韓国側から日本に技術協力を要請しづらい雰囲気がありました。

 ところが、1970年3月、いわゆる「よど号」事件が起こり、白も現場で無血解決にむけて尽力したことで、白と日本政府関係者との間で個人的な友情が生まれました。そして、事件処理のために訪韓していた日本の運輸大臣・橋本登美三郎が帰国に際して「お返しと言ってはなんですが、なにかお手伝いできることがあれば申し付けてください」と挨拶したのをとらえて、白は、地下鉄建設への協力を要請。橋本の快諾を得ています。

 1970年7月に日韓経済閣僚会議が開催されると、橋本は白との“約束”どおり、鉄建公団の角本良平を団長とする地下鉄建設のための調査団をソウルに派遣。建設計画の策定に向けて具体的な作業が開始され、1971年4月、工事が開始されました。もっとも、白じしんは、1970年末に済州島からミカンを運んできた船舶が過積載で沈没したことの責任をとって辞職してしまったため、地下鉄工事そのものには関与していません。

 さて、ソウルの地下鉄1号線は、当初、ソウル西郊の清涼里駅(国鉄の中央線、京春線などの始発駅)から東大門=鐘路を経てソウル駅にいたる区間で開業しました。

 当時は、現在と比べるとソウル市内の交通量も少なかったため(バスの殺人的な混雑の要因は、運行本数の少なさにもありました)、工事は道路を地面から掘り下げ、後からフタをする箱型後方で進められています。このため、トンネルを掘り進めるスタイルに比べて、低コストの工事となりました。

 その一方で、総額272億円の地下鉄車両(186両)の導入をめぐっては、1973年、三菱商事・丸紅・三井物産・日商岩井の日本商社連合が、岸信介をはじめ日韓両国の実力者にリベートを支払うため、輸出価格を1両につき3000万円以上も水増しして納入したとのスキャンダルも起きています。もっとも、このスキャンダルは、1977年2月、アメリカに亡命した元KCIA部長の金炯旭の発言によって明るみに出たもので、1号線の開通時には、このことを知るものはごくわずかでした。

 ともあれ、地下鉄工事は順調に進み、1974年8月15日の光復説を期して、鷺梁津(当時は国鉄との相互乗り入れ駅でした)で開通記念式典が行われ、これにあわせて、今回ご紹介の記念切手も発行されています。

 当日は、大統領の朴正煕も、南山の国立劇場で開催された光復説記念式典に出席した後、開通式典に出席する予定となっていましたが、朝鮮総連の指令を受けた在日韓国人、文世光による狙撃事件で大統領夫人が亡くなったこともあり、大統領が式典に出席することはありませんでした。

 なお、このあたりの事情については、拙著『韓国現代史』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら。ぜひご覧いただけると幸いです。


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 90万PV
2011-09-01 Thu 22:26
 本日(1日)午後、カウンターが90万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。というわけで、拙著『切手百撰 昭和戦後』の中から、額面“90”のこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        風神1966

 これは、1966年12月20日に発行された90円の普通切手で、俵屋宗達の最高傑作とされる『風神雷神図屏風』のうち、風神の部分が取り上げられています。

 『風神雷神図屏風』は17世紀前半の作品で、京都の豪商で歌人であった打它公軌が、応仁の乱で荒廃した妙光寺(臨済宗建仁寺派)再興の際に製作を依頼し、その後、建仁寺に渡ったとされています。現在は、建仁寺の所蔵ですが、京都国立博物館に寄託されています。

 『風神雷神図屏』の風神部分を取り上げた90円の普通切手は3回発行されており、このうち、1962年7月2日に発行の青味緑色一色での切手は“青色風神”として人気があります。今回ご紹介の切手は、1966年以降の切手にローマ字で“NIPPON”の国名表示を入れることになったのに伴い、刷色を変えて発行された2番目のものです。

 拙著『切手百撰 昭和戦後』では、3種の風神90円切手のうち、青色風神を百撰のうちのひとつとして挙げましたが、同時に、比較のために今回ご紹介の茶色のモノと、速達用のオレンジ色の色検知枠がついた1971年の切手もあわせて掲載しました。個人的には、青色風神に比べるとイマイチという印象が強かった茶色風神ですが、あらためて見てみると、そんなに悪くはないかな、という気もします。

 さて、カウンターが80万PVを超えたのは、7ヶ月半前のことし1月17日でした。したがって、同じペースで行くと、100万PVの大台到達は、来年の3-4月頃になりそうです。引き続きのご愛顧・ご支援賜りますよう、よろしくお願いいたします。


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