内藤陽介 Yosuke NAITO
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 田沢型切手100年
2013-08-31 Sat 10:37
 1913年8月31日に、いわゆる田沢型切手(昔は“田沢切手”と呼んでましたな)が発行されて、今日でちょうど100年です。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       大白初日印

 これは、大正天皇の御真影が印刷された絵葉書に、田沢型の1銭5厘および3銭切手を貼り、発行初日の大阪中央局の消印を押して作った記念品です。

 1912年7月30日、重度の尿毒症で危篤状態にあった明治天皇が崩御。ただちに皇位継承のための践祚の儀が行われ、皇太子・嘉仁親王が新天皇として即位され、元号は「大正」と改められました

 強烈なカリスマ性を持った明治天皇が亡くなり、その大葬に際して、学習院院長・乃木希典が夫人とともに殉死したことで、多くの国民は、一つの時代の終焉が強烈に印象づけられましたが、同時に、政府の側では、この代替わりに際して、いかにして明治天皇の権威を損なうことなく、新天皇としての大正天皇のイメージを国民に速やかに浸透させていくか、という問題を抱え込むことになりました。

 新天皇の即位を内外に誇示するための公式の行事としては、即位礼と大嘗祭をあわせた大礼がありますが、大礼は諒闇(服喪期間)が明けた後でなければ行うことはできません。しかも、大正天皇の場合には、1914年4月に明治天皇の皇后であった昭憲皇太后が崩御されたため、即位の礼の実施時期は1915年までずれ込んでいます。これは、新天皇の即位を宣伝する国家的イベントとしては、あまりにタイミングが遅すぎるといえましょう。

 このため、政府としては、大礼とは別に、大正新時代の到来を国民に対して印象づける措置を取る必要に迫られました。その一つとして目をつけられたのが、日常的に用いられる通常切手です。

 元号が明治から大正に変わった頃の通常切手は菊切手でした。

 菊切手は、日露戦争を間近に控えた1899年、いわゆる“臥薪嘗胆”の時代背景の下で産み落とされました。その後も、菊切手は、日露戦争を経て日本が朝鮮を併合し、関税自主権を回復して悲願の不平等条約撤廃をなしとげた明治の末年にいたるまで、10年余にわたって国民生活に深く浸透し使用されていました。良くも悪くも、時代を象徴する切手として国民の間に定着していたといえましょう。

 したがって、切手を発行している大日本帝国の側に、新天皇の即位にあわせて人心を一新する意図があるなら、明治天皇のイメージが染み付いた菊切手に代わる新しいデザインの切手を発行することを計画するのが自然な発想といえましょう。

 こうしたことから、逓信省は、1913年1月23日から3月15日までの期間で新通常切手のデザインを一般から懸賞公募。577点の応募作品の中から、一等に選ばれた田沢昌言(印刷局職員)の手になるアール・ヌーヴォー調の作品を新通常切手の図案として採用することになりました。ちなみに、田沢がこのとき受け取った賞金は200円(当時の葉書料金は1銭5厘)です。田沢のデザインした切手は、彼の名にちなみ“田沢型切手”と呼ばれており、額面によっては、昭和十年代半ば頃まで使用されました。

 菊切手のデザインが、菊花紋章を強調するあまりに、料金前納の証紙という切手本来の性質からすれば、主役であるべき額面を示す数字を脇役の位置に追いやっていたのに対して、田沢型切手は額面の数字が格段に目立つようになっているのが最大の特徴です。ややうがった見方かもしれませんが、田沢型のデザインは、実用性を重視することで切手上における菊花紋章の地位を相対的に低下させ、結果として、偉大なる明治の重圧から解放された新時代の到来を象徴するものとして受け入れられたのかもしれません。

 さて、田沢型切手の第1号として、書状基本料金用の3銭と葉書料金用の1銭5厘の2種類が発行されたのは、1913年8月31日、すなわち、大正天皇の誕生日(天長節)のことでした。

 ここで、大正時代の天長節について若干の補足的な説明をしておくと、大正天皇の実際の誕生日は1879年8月31日でしたが、この日は、学校の夏休み期間中と重なるなど時期的に不都合が多くあったため、1913年7月16日に発せられた勅令第259号により、2ヵ月後の10月31日を“天長節祝日”と定め、各種の記念行事は実際の天長節ではなく、天長節祝日に行うこととしました。ただし、1913年に関しては、この勅令が発せられたのが、天長節の直前であったため、各種の記念行事は8月31日に行われています。この結果、大正時代の天長節関連行事は、1912-13年には8月31日に、1914-26年は10月31日に行われるという変則的な状況となりました。

 さて、切手の発行日に話を戻すと、最も需要の見込まれる1銭5厘と3銭の切手が本来の天長節である8月31日に発行されたことで、他の額面の切手が出揃わなくとも、政府サイドとしては、とりあえず、新たな天長節にあわせて“新切手”が発行されたという体裁を整えたことになります。

 さらに、この2種につづき、5厘、1銭、2銭、4銭、5銭、10銭、20銭、25銭、1円の9種類の切手は、2ヵ月後の10月31日、すなわち、翌年から天長節祝日となる日に発行されています。

 このような日程が組まれた背景には、新たに発行される田沢切手を大正天皇と結び付けることで、日常の身近なところで、新時代の到来を国民に実感させるという政府の意図があったことはいうまでもありません。その意味では、装飾的で、それじたいは何の意味も持たないかのように見える田沢切手もまた、国家のメディアとして、新天皇の存在を国民に浸透させる役割を付与されていたとみなすことができましょう。

 なお、このあたりの事情については、拙著『皇室切手』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
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 世界漫郵記:ドバイ①
2013-08-30 Fri 13:43
 『キュリオマガジン』2013年9月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は、今回からドバイ篇に突入。まずはドバイの玄関口にあたるドバイ国際空港について取り上げましたが、その記事の中から、この切手をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

       ドバイ国際空港

 これは、1971年5月15日、アラブ首長国連邦(UAE)発足以前のドバイで発行されたドバイ国際空港開港の記念切手です。

 19世紀後半以降、ドバイはペルシャ湾南岸の港湾都市として、ペルシャ湾岸とインドを結ぶ中継貿易の拠点となっていましたが、航空路線の到達は遅れ、まずはシャルジャに空港が設置されます。

 すなわち、1929年3月30日に就航した英国インペリアル航空のロンドン=カラチ(現パキスタン)線は、当初、エジプトのアレクサンドリア以東は、ガザ(パレスチナ)=ルトゥバ(イラク)=バグダード(同)=バスラ(同)=ブシェール(イラン)=リンゲ(同)=ジャスク(同)=グワダル(現パキスタン)を経由してカラチにいたるというルートを取っていました。ところが、1932年、イラン政府は、ロンドン=カラチ便の航空機が自国の領空を通過することにクレームをつけたため、インペリアル航空は、バスラ以東のルートを、同年10月以降、ペルシャ湾対岸のバハレーン=シャルジャ経由に変更して運航されることになりました。

 この時期、すでにドバイはペルシャ湾岸の港湾都市としてそれなりに繁栄していたため、本来であれば、バハレーン=ドバイ経由という路線の方が実用的であったはずなのですが、そうならなかったのは、おそらく、バハレーンはドバイのライバルであるアブダビとの関係が深く、ドバイとは必ずしも良好な関係ではなかったからではないかと思われます。

 いずれにせよ、英国側はシャルジャには簡易空港を開設。これに伴い、1932年10月1日からシャルジャ発着の航空便の運航が始まりました。

 ただし、現在のUAE国家に相当する地域では、当時はドバイにしか郵便局がなかったため、シャルジャ空港に到着したエアメールは、そこから18キロ弱の距離にあったドバイ局が取り扱うという変則的なスタイルが取られています。現在のUAE域内から諸外国宛のエアメールは、これとは逆に、いったんドバイに集められ、そこからシャルジャ空港に運ばれるという逆のルートをたどりました。

 その後も、ドバイ発着の航空便はシャルジャを経由していましたが、1960年にドバイ空港が開港し、ようやく、シャルジャ経由の変則的なエアメールのやり取りも終了しました。

 その後、1971年12月にドバイを含む7首長国でUAEが結成されることになると、それに先立ちドバイ空港は“ドバイ国際空港”に格上げとなり、UAE全体の空の玄関口となりました。

 ただし、UAEが発足した時点では、UAEとしての自前のエアラインはまだ就航しておらず、ドバイを拠点に2機の飛行機(ボーイング737とエアバスA300)でエミレーツ航空が就航を開始したのは、1985年のことでした。

 さて、今回の記事では、ドバイやシャルジャーの初期のエアメールなどもご紹介しつつ、ドバイ国際空港とその周辺の様子などを取り上げています。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 
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 パルミラから後漢女性の人骨
2013-08-29 Thu 13:40
 シルクロード沿いにあるシリアの世界遺産・パルミラ遺跡の地下墓で出土した人骨に、後漢時代の中国の女性とみられる骨があったことが、奈良県立橿原考古学研究所などの調査でわかったそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       シリア・中国国交50年

 これは、2006年にシリアが発行した“シリア・中国外交関係樹立50年”の記念切手で、両国の象徴として万里の長城とパルミラ遺跡が並べて取り上げられています。

 パルミラは、シリアの首都ダマスカスの北東約215kmのシリア砂漠の中にあり、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで、シルクロードの中継都市として繁栄しました。西暦2世紀、ローマがペトラを吸収すると、パルミラはその通商権を引き継ぎ絶頂期を迎え、市内には数多くのローマ建築が建てられました。一時は、その支配はエジプトの一部にも及んでいましたが、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスの攻撃を受けて273年に陥落。以後は放置されて旧市街地は廃墟となりました。その文化的な価値が再認識されるようになったのは、1751年にこの地を訪れた英国の探検隊が1753年に報告書を出版してからのことで、1980年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。

 パルミラでは紀元前3世紀頃から多数の地下墓地が建設されましたが、これまで、シリア政府の要請で奈良県などが調査し、160体余の人骨が出土しています。そのうち、1991-92年に発掘された1体の特徴が、石器時代から中国にいた東アジア系の人々のモノと一致したというのが、今回のニュースです。

 『後漢書』には、後漢の将軍・班超が“大秦(ローマ帝国)”と国交を開くため紀元後97年、甘英を使節として派遣。使節団は“安息(パルティア=イラン周辺)”を経て“条支(シリア)”に至ったが引き返したとの記述がありますので、今回話題となった人骨もその関係者のモノではないかと見られています。

 さて、アサド政権が自国の反政府誠意力に対して化学兵器を使用したとされる問題をめぐって、近々、米国が軍事攻撃(地中海に停泊している米軍艦からの艦砲射撃でしょうかね)を行う可能性もささやかれているシリアですが、これまでのところ、中国は一貫してシリアに対する制裁に反対しています。

 もともと、シリアの政権政党であったバアス党は(疑似)社会主義政党で、東西冷戦時代には、ソ連から巨額の援助を受けていましたし(その代償として、地中海に面したタルトゥースには、現在なおロシア海軍の吉が置かれています)、秘密警察の創設にあたっては、北朝鮮の制度がほとんどそのまま移入されたといわれています。

 こうした過去の経緯に加え、チベットやウイグルでの人権弾圧に対する批判を“内政干渉”として退けるため、世界中のいかなる第3国に対する制裁も阻止しようとするという中国外交の基本方針ゆえ、中国はこれまで一貫してシリア・アサド政権に対する制裁に反対し続けてきました。もちろん、シリアの側も台湾問題に関しては中国政府を完全に支持し、2008年春の中国政府によるチベット大弾圧の際にはいちはやく中国支持を表明するなど、中国との友好関係を重視しています。その結果として、中国はシリアにとってのきわめて重要な貿易相手国となっており、(ちょっと古い数字ですが)2009年には中国からシリアへの輸出額は約22億ドルを計上しました。

 現在、米国のオバマ政権は、軍事攻撃を行うとしても、それは、アサド政権を転覆させるためにではなく、化学兵器の使用を止めさせるためのものだと説明していますが、アサド政権が化学兵器を使用したという物的証拠がは提示されていないわけですし、まぁ、これまでの経緯からして、フツーに考えれば、シリアの友好国である中国は納得しないでしょうな。

 ところで、国連事務総長の潘基文が、シリア情勢が緊迫する中で、わざわざニューヨークを離れて韓国にお国入りし、日本の“右傾化”と憲法改正論を批判を行いましたが、このことについて、きのう(28日)、中国外務省の副報道局長、洪磊は「積極的に評価する。歴史の正義を擁護し、日本に侵略の歴史を直視して反省するよう促すことは、国際社会共通の要望だ」との談話を発表したそうです。一見、シリア問題とは何の関係もなさそうなニュースですが、案外、潘が国連事務総長としての中立性を冒してまで(下手すりゃ、辞任に追い込まれても文句を言えないでしょう)日本に対する内政干渉まがいの発言(憲法を改正するかしないかは、それこそ、その国の国民が決めることです)をした背景には、アサド政権に化学兵器の使用を止めさせるという“国際社会共通の要望”を黙認してもらうため、自分の本音を語って中国の歓心を買ったという面もあるのかもしれませんな。

 
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 安倍首相、ジブチで海自視察
2013-08-28 Wed 12:20
 安倍首相は、きのう(27日)、わが国の歴代総理として初めてアフリカのジブチを訪れ、ソマリア沖の海賊対策で派遣されている自衛隊の拠点(基地)を視察しました。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ジブチ・2フラン(1894)

 これは、1894年に仏領時代のジブチで発行された2フラン切手で、現地兵を描く枠の中に、当時のジブチ港周辺の風景が取り上げられています。

 19世紀後半、スエズ運河の建設が始まると、フランスは紅海に連なるタジュラ湾のオボック港を租借。あわせて、周辺への勢力拡大を図ります。その過程で、1888年、ジブチ港の建設を開始。オボックが紅海を通過するフランス船の寄港地として重要視されていたのに対して、ジブチはエチオピア進出への拠点とみなされていました。

 ジブチで最初の切手が発行されたのは1894年のことで、当初は、オボック切手(1892年から発行開始)に加刷したものでしたが、次いで、今回ご紹介のモノを含む正刷切手の発行がスタートします。

 ジブチ初期の切手は無目打なのですが、周囲に目打状の印刷が施されているのが特徴で、素朴なデザインとあわせていい味を出しています。時間とお金に余裕があれば、個人の趣味として、単純素朴に集めてみたい切手ですな。

 なお、その後、ジブチとオボックを含むアデン湾奥の西岸地域はフランス領ソマリ・コーストとして統合され、1967年にフランス領アファル・イッサと改称されるまで、ソマリ・コースト名義の切手が発行・使用されていました。このフランス領アファル・イッサが1977年に独立して誕生したのが現在のジブチです。

 さて、今回、安倍首相が視察した自衛隊の拠点は、2011年7月、ジブチ市郊外のジブチ国際空港の北側に開設され、空港を挟んで東側にはフランス軍の第188空軍基地があります。米軍のキャンプ・レモニエ(アフリカの角共同統合任務部隊の司令部と陸海空軍航空部隊が駐留)は、空港の南側、ジブチ空軍の基地に隣接した場所にあり、かつては自衛隊もその一部を間借りしていました。

 ジブチ市内は、ソマリア湾の海賊対策として各国の部隊が駐留するようになってから、基地周辺の開発が急速に進み、西洋風のホテルも少なからず建てられているということで、今回ご紹介したような切手の風景はもはや見られなくなっているのかもしれませんが、印象的な切手の土地だけに、一度は自分の目で実際の風景を拝んでみたいものです。
 
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 泰国郵便学(27)
2013-08-27 Tue 22:39
 ご報告が遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第47巻第4号ができあがりました。僕の連載「泰国郵便学」では、今回は、1966年12月9日から20日まで、バンコクで開催された第5回アジア競技大会(以下、アジア大会)について取り上げました。その中から、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       第5回アジア大会・標語印

 これは、1966年にタイが発行された“こどもの日”の切手で、第5回アジア大会を宣伝する標語印が押され手いるのがミソです。

 タイでの大規模な国際スポーツ競技会は、1959年12月12日から17日まで、バンコクで開催された第1回東南アジア半島競技大会についで2回目のことで、アジアオリンピック評議会(OCA)の主催によるアジア大会の開催は初めてのことでした。

 バンコクでの大会は、1962年8月、インドネシアのジャカルタで開催された前回の第4回大会を機に、アジアにおけるスポーツと政治の問題がクローズアップされた後の開催だけに、主催国であるタイの苦労も相当に大きかったものと思われます。

 事の発端は、“第三世界の盟主”を標榜していたインドネシアのスカルノ政権が、第4回大会の開催に先立ち、アラブ諸国と中華人民共和国(以下、中国)との連携を重視して、参加資格を有するはずのイスラエルと中華民国(以下、台湾)の選手団に対してビザを発給しなかった(=入国を認めなかった)ことにあります。

 これに対して、国際オリンピック委員会(IOC)、国際陸上競技連盟、国際ウエイトリフティング連盟は、参加資格がある国の参加を認めないことを理由に、第4回アジア大会を正規の競技大会とは認めないとの方針を表明。さらに、翌1963年4月にIOCがインドネシアのIOC加盟国としての資格停止(オリンピック出場停止)を決議すると、これに対抗しアラブ諸国12ヶ国が1964年の東京五輪のボイコットを示唆して、対立が深まりました。

 このため、1963年4月28日、インドネシアはIOCからの脱退を表明し(ただし、実際には脱退しませんでした)、中国を含む共産諸国、新興アジア・アフリカ諸国と同調して1963年11月にジャカルタで新興国競技大会(GANEFO)を開催。51ヶ国2700人が参加しました。その中には、タイ選手も含まれています。

 もっとも、IOCをはじめ既存の国際競技連盟はGANEFOに出場する選手は五輪参加資格を失うと宣言していたため(JOCは日本人選手が参加した場合は国体への参加資格も剥奪するとしていた)、IOCに参加していなかった中国以外は有力選手を出場させず、スポーツの競技大会としては、一部を除き低調に終わりました。

 その後もスカルノ政権とIOC(のみならず西側世界全般)の対立は続きましたが、1965年にいわゆる“9・30事件”が発生しスカルノが失脚すると、後継のスハルト政権の下、インドネシアは対外関係の修復に乗り出します。ちなみに、GANEFOの第2回大会は1967年にエジプトのカイロで開催が予定されていましたが、同年6月の第3次中東戦争によりエジプトを含むアラブ諸国が壊滅的な敗北を喫したため、沙汰止みとなりました。

 こうした経緯があっただけに、1966年のバンコクでのアジア大会の成否はそのままアジア大会の存続にもかかわるものとみなされており、タイとしても事前の準備には相当、気を使っていました。

 このため、12月9日からの会期に先立ち、タイ郵政は、今回ご紹介のように、大会を宣伝するスローガンの入った消印を使用したほか、会期4カ月前の8月4日には大会の周知宣伝を兼ねた記念切手8種、12月9日の大会初日に合わせて「タイの伝統競技」の切手4種を発行しています。
 
 なお、大会の競技会場は、①メインスタジアムのスパチャラサイ国立競技場ならびにその周辺、②フアマーク室内競技場とその周辺、③チュラーロンコーン大学の施設、④その他バンコク都内の会場、の大きく4ヵ所に分かれており、切手に取り上げられた競技のうち、陸上競技、サッカー(の一部)、バスケットボール、テニス、水泳が①、ボクシングと自転車競技が②、サッカー(の一部)が③、重量挙げが④(バンコク文化センター)で、それぞれ行われました。

 メイン会場となったスパチャラサイ国立競技場は1935年の開設。バンコクでただ単に“国立競技場”というと、ここを指すのが一般的です。もともとは陸上競技が主な用途でしたが、現在では主としてサッカーの試合に用いられています。

 これに対して、フアマーク室内競技場は、1966年のアジア大会のため、スワンルワン区に新設された競技場で、チュラーロンコーン大学建築学部が設計を担当しました。

 さて、今回の記事では、こうした大会の概要に加え、当時のアジアの国際政治とスポーツの関係についてもまとめていますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 おかげさまで125万PV
2013-08-26 Mon 15:03
 きのう(25日)、カウンターが125万PVを超えました。いつも、遊びに来ていただいている皆様には、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。というわけで、“125”にまつわる切手のなかから、こんな1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       インドネシア切手125年

 これは、1989年にインドネシアで発行された切手125周年の記念切手です。

 現在のインドネシア共和国の地域における最初の切手は、オランダ領東インド(蘭印)時代の1864年4月1日に発行されました。切手は当時のオランダ国王ウィレム3世の肖像を描く10セント切手で(ただし、当時のオランダ本国の切手とは図案が異なります)、ユトレヒトで印刷されました。原画作者はT.W.カイザーです。その後、1920年まで、蘭印切手の図案は国王(1892年以降はウィルヘルミナ女王)ないしは額面数字を大きく描くものだけでしたが、1921年、浮き輪とカモメなどを描く海運保証切手(船便を送る際に郵便物が水濡しないよう、防水の鉄の箱に入れるための追加料金を支払うための切手)が発行されてから、さまざまなデザインの切手が発行されるようになりました。

 さて、今月刊行したばかりの拙著『蘭印戦跡紀行』では、残念ながら、蘭印最初の切手は掲載していませんが、1881年以降の蘭印ないしはインドネシアの切手をいろいろとご紹介しつつ、かの国の歴史と社会についてご説明しておりますので、機会がありましたら、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 
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 安倍首相、バハレーン訪問
2013-08-25 Sun 14:42
 中東など4か国を訪問中の安倍首相は、きのう(24日))、最初の訪問国であるバーレーンでハリーファ首相と会談し、外務・防衛当局間の安全保障対話の実施などを盛り込んだ共同声明を発表しました。わが国の歴代首相がバハレーンを訪問したのは、今回が最初のことだそうです。というわけで、きょうはこの切手です。

       バハレーン・2ルピー(1933年)

 これは、1933年にバハレーンで英領インド切手に加刷して発行された2ルピー切手です。

 バハレーンという語は、“海”を意味するバハル(bahr)の双数形で、島国バハレーンを取り巻く海と、豊富に湧き出す地下水の二つの海を持つという意味で、この地域の呼称となりました。

 ペルシャ湾の中央に位置するバハレーンの地は、紀元前2500年ごろのメソポタミアの記録にもディルムンとして登場し、聖書に登場する“エデンの園”のモデルとも言われています。ただし、現在の首都であるマナーマが歴史上にはじめて登場するのは1345年のことです。

 ペルシャ湾における交通の要衝ゆえに、バハレーンはさまざまな勢力が侵入し、16世紀から17世紀にかけて、ポルトガルやペルシャなど、外来勢力による支配を受けました。現在のバハレーン王家(2002年に立憲君主国になり、国家元首の称号がそれまでの首長(シャイフ)から国王(マリク)に変更になりました)のハリーファ家も、もともとはアラビア半島の遊牧民で、1783年、この地を征服。いったんは、オマーンによってバハレーンから追われたものの、1820年にこの地の支配権を回復するという歴史を歩んでいます。

 19世紀に入ると、インドへのルートを確保するため、イギリスは湾岸地域の首長国を次々に保護国化していきます。バハレーンも例外ではなく、イギリスがペルシャ(イラン)の軍事的な脅威からバハレーンを防衛する代わりに、バーレーンは外交権をイギリスにゆだねることになりました。

 バハレーンを保護国化したイギリスは、この地域とインドや本国との間の通信を確保するため、1884年8月1日、首都マナーマに郵便局を開設。これが、バハレーンにおける近代郵便の原点で、当初は、英領インドの切手が持ち込まれ、無加刷のまま使われていました

 バハレーンとして独自の切手が発行されたのは1933年のことで、今回ご紹介の切手のように、英領インド切手に“BAHARAIN”との加刷が施されたものでした。なお、今回ご紹介の切手が発行された時点では、バハレーン域内にはマナーマの郵便局が一局あるだけで、2番目の郵便局がムハッラク(現在の国際空港の所在地)に開局したのは、1946年6月1日のことでした。

 現在、我々がイメージする産油国としての歴史は、1925年、アラブ世界で最初に石油が発見されてからのことで、経済成長を背景に、1958年、マナーマは自由港に指定され、1971年の独立時には新生バハレーン国家の首都となりました。

 独立後のバハレーン政府は、中東のビジネスの拠点、金融センターを目指したインフラ整を進め、石油精製やアルミ精製、貿易、観光などの新規事業も積極的に展開したため、外国資本が多数進出。マナーマは、ドバイとともに、湾岸地域の重要な経済都市に成長しました。また、豪華スポーツ施設を建設し、世界大会を招致することも行われ、2004年から、首都マナーマ近郊、サキールのバハレーン・インターナショナル・サーキットでF1世界選手権のレースも開催されています。

 ただし、F1世界選手権に関しては、「F1開催は皇太子の個人的趣味」「(バーレーン王家の)ハリーファ家の権力を誇示する手段に過ぎない」として、国民の多数を占めるシーア派系住民の間に開催反対の世論が根強く、2011年には、反政府デモによる混乱のため中止に追い込まれています。(2012・13年は予定通り開催)

 なお、余談ですが、1960年代後半から1970年代初めにかけて、マナーマの名前でいわゆるアラブ土侯国切手が発行されていたことがありましたが、こちらは、現在のアラブ首長国連邦を構成している首長国のひとつ、アジュマーンに属する飛び地で、今回ご紹介したバハレーンの首都とは全く別の土地なので、注意が必要です。


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 インドネシア伝統武術と日本
2013-08-24 Sat 22:51
 大相撲のジャカルタ巡業が、きょう・あす(24・25日)の2日間、行われます。東南アジアおよびイスラム世界での大相撲の巡業は、今回が初めてだそうです。というわけで、きょうは日本とのかの国の武術ないしは格闘技を通じての交流ということに絡んで、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       シラット

 これは、1979年にインドネシアで発行された第10回東南アジア競技大会の記念切手のうち、インドネシアの伝統的な武術のシラットを取り上げた1枚です。

 シラットは、その原型は西暦6世紀にまでさかのぼるとされる伝統的な武術で、13-15世紀のマジャパヒト王国の時代に東南アジア一帯に広まったと考えられています。民族衣装を着用してガムランを伴奏に演武を行うジュルス(それゆえ民族舞踊の一種とみなされることもあります)と、組手で対戦するオララガに大別されますが、とくに後者は、ブルース・リーの弟子、ダン・イノサントが学び、リーの創設したジークンドーにも取り入れられました。

 さて、オランダ統治時代の蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)では、オランダ当局はシラットが独立運動の手段として用いられることを恐れて、シラットを禁止しました。これに対して、1942年に蘭印を占領した日本軍は、独立運動(日本軍の理解では反オランダ闘争と同義語)を支援するという観点から、逆に、シラットを奨励。その際、シラットを体系化して近代スポーツないしは武道として整備すべく、ジャカルタに各流派の師範を集め、近代スポーツとしての基本テキストに相当する“プンチャック”を編纂しました。

 もともと、シラットは各地でそれぞれ独自の発展を遂げていたため、日本軍によるシラットの統一・体系化については、当初、反発もあったようですが、日本の敗戦後、オランダに対する独立戦争が勃発すると、日本の占領時代のまとめられた近代シラット(の教本)は、共和国兵士の戦闘能力を高めるうえで非常に効果があったといわれています。

 今回のジャカルタ巡業に際しては、武道ないしは格闘技を通じて日本とインドネシアとの交流が深まることが期待されているわけですが、歴史的に見れば、インドネシアの伝統的な武術であるシラットが日本との交流の重要なチャンネルとなっていたということも記憶にとどめておいてもよいように思います。

 なお、そうした日本占領時代の遺産が現代のインドネシアでどのように残っているかという点については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろとご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 100歳になった人魚姫
2013-08-23 Fri 15:59
 1913年8月23日にデンマーク・コペンハーゲンで人魚姫の像が公開されてから、きょうでちょうど100年です。というわけで、きょうはストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       デンマーク・人魚姫

 これは、1989年にデンマークが発行した観光宣伝の切手で、コペンハーゲンの人魚姫の像が取り上げられています。

 コペンハーゲンの人魚姫の像は、彫刻家エドヴァルド・エリクセンが、アンデルセンの童話『人魚姫』のバレエの主役を演じていたエレン・プリースの頭部と、妻エリーネの肢体をモデルに制作したもので、1913年8月23日に公開されました。ただし、エリクセンの像は、腰から下が魚になっているわけではなく、足首あたりからヒレになっています。

 ちなみに、スカンジナビア政府観光局は、人魚姫の像100周年の記念日にあたるきょう、世界12カ国14都市で一斉に、モデルが扮する“コスプレ人魚姫”撮影会イベントを同時開催しましたが、その報道写真(下の画像です)をみると、モデルの女性は一般にイメージされる人魚の姿というより、銅像をリアルに再現して脚がしっかりわかるスタイルで、身体の色も銅像っぽくペイントされています。

        すみだ水族館・人魚姫

 人魚姫の像は高さ1メートル25センチと小ぶりなうえ、港湾地域にあり周辺の景色も風光明媚とは言い難いため、実際に訪れた日本人観光客の中には「期待外れ」と感じる人も少なくないようで、シンガポールのマーライオン、ブリュッセルの小便小僧と並んで、“世界三大がっかり”の一つに数えられることもあります。切手で見る限りは良い感じなんですけどねぇ…。


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 切手の帝国:エジプト駐留英軍
2013-08-22 Thu 08:35
 報告が遅くなりましたが、大修館書店の雑誌『英語教育』2013年9月号が発売になりました。僕の連載「切手の帝国:ブリタニアは世界を駆けめぐる」は、今回はここのところ混迷が続き、連日メディアに登場しているエジプトを取り上げました。その記事の中から、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      エジプト駐留軍用割引切手カバー・切手部分     エジプト駐留軍用割引切手カバー

 これは、エジプト駐留の英軍関係者用の割引切手の使用例です。

 1869年にスエズ運河が開通した当時のエジプトは、名目的にはオスマン帝国の宗主権を認めつつも、実質的にはムハンマド・アリー朝として独立していました。

 ところが、運河の建設は当時のエジプトの国力をはるかに超える大事業で、1876年に国家財政は破綻し、英仏など列強諸国の管理下に置かれることになります。これに対して、1881年、外国人による経済支配への抵抗としてウラービー運動が発生すると、1882年、英国は軍隊を派遣してこれを鎮圧し、エジプトを占領しました。

 1914年、第一次大戦が勃発し、オスマン帝国がドイツ側に立って参戦すると、英国はエジプトをオスマン帝国から完全に分離させるため保護国化してしまいます。このため、第一次大戦が終わると、エジプトの民族主義者は、英国のエジプト支配を終了させ、講和会議にエジプト代表を派遣することを認めるよう、英国当局に要求しました。しかし、英国がこれを認めなかったため、憤慨した市民は激しい反英独立運動を展開。そこで、1922年2月22日、英国はエジプトの直接支配を断念し、独立を承認する代わり、親英政権を育成して、英軍の駐留を継続させ、実質的に権益を確保する方針に転換しました。

 エジプト駐留英軍に関しては、切手や郵便に関してもいろいろと興味深いモノが残されているのだが、中でもユニークなのが、今回ご紹介の駐留英軍の関係者を対象にした割引郵便とその切手でしょう。

 この制度は、1932年から開始され、利用者は駐屯地のNAAFI(Navy, Army, Air Force Institute。英軍の福利厚生を担当する機関)で専用の“切手”を貼って郵便を差し出すと、通常よりも割引料金で送ることができるというもの。切手は横長で、当初はNAAFIの紋章を描くものでしたが、後に、今回ご紹介のモノのように、エジプトらしくスフィンクスを描くデザインに変更されています。また1935年には、国王ジョージ5世の在位25年を記念した“ジュビリー(Jubilee)”加刷の切手やクリスマス加刷の切手も発行されています。

 切手は郵便物の裏側に貼り、英軍駐屯地の軍事郵便局に差し出し、英軍の担当者が菱形の消印を押すことになっていました。左側の画像は、その切手と消印の部分です。その後、軍事郵便局では、封筒の表面に王冠をあしらった“郵便料金前納済”の印を押してから、郵便物をエジプト郵政に引き渡し、そこから先は通常の郵便物と同様の扱いで処理されます。英軍関係者が家族・関係者との連絡用に使うためのサービスという建前のため、原則として、英国およびアイルランド宛のみの取扱でした。

 こうした駐留英軍の割引郵便制度は、1936年に両国間で新たな同盟条約が結ばれ、駐留英軍の規模が縮小されたことで、エジプト郵政の制度に吸収され、同年2月29日(閏年)限りで“BRITISH”の文字が入った切手は発売停止となり、3月15日以降は切手として無効とされました。

 なお、その後も英軍はエジプトに駐留を続けたため、軍事郵便局も維持されましたが、ナセルによる革命後の1954年10月、英軍の完全撤退に伴い、その役割を完全に終えています。


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 インドネシアルピア4年ぶり安値
2013-08-21 Wed 11:16
 先週16日、インドネシア中央銀行が第2・四半期の経常赤字が国内総生産(GDP)比で4.4%と、前四半期の2.4%から拡大したと発表したことを受けて、週明けからインドネシアでは株価と通貨インドネシアルピア(以下、ルピア)が急落。きのう(20日)は、2009年4月30日以来の安値となる1ドル=1万0700ルピアまで下落しました。というわけで、きょうは、こんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       ジャワ占領1ルピア

 これは、1945年1月20日に日本占領時代のジャワで発行された1ルピア切手で、現地の棚田が描かれています。前身のオランダ領インドネシア(蘭印)時代も含めて、“ルピア”という額面の切手としては、これが最初の1枚となります。なお、ルピアのスペルが、現在の“RUPIAH”とは異なり“ROEPIAH”となっていますが、これは、現地語のラテン文字(いわゆるローマ字です)への転写方法がオランダ語式になっていたためです。

 大東亜戦争開戦以前の蘭印の通貨は、本国のオランダ・ギルダーと連動した蘭印ギルダーでした。1942年3月、蘭印を占領した日本軍は旧蘭印ギルダーを接収して、新たに、ギルダー表示の南方開発金庫券(開発券、南発券)を発行します。

 当初、開発券ギルダーは、旧蘭印ギルダーと等価とされていましたが、占領費用調達のために開発券が濫発されたこともあり(ちなみに、開戦以前の蘭印ギルダーの発行残高は2億3000万ギルダーでしたが、終戦時の開発券の発行残高は数十億ギルダー規模に膨らんでいます)、急激なインフレが進行。あわせて、オランダを含む連合国との戦争への理解と協力を得るためには、現地のナショナリズムにも配慮したほうが良いとの判断もあって、1944年、インドの通貨ルピーを語源とする新通貨として“蘭印ルピア”が創設されました。今回ご紹介の切手は、こうした通貨改革に伴って発行されたものです。

 1945年8月17日、日本の敗戦を受けてスカルノら民族主義者はインドネシア共和国の独立を宣言。これに対して、蘭印支配の復活をもくろむオランダが干渉し、インドネシア独立戦争が勃発します。

 その際、当然のことながら、オランダ側は日本占領時代の蘭印ルピアを廃して蘭印ギルダーの復活を主張しましたが、共和国側はこれを拒否。このため、当初、共和国側の支配地域では蘭印ルピアがそのまま流通していました。日本軍の武装解除のために現地に駐留していた英軍当局は、共和国側に対して、国際的な信用のない独自通貨の発行は政治的・経済的に自殺行為であると強く忠告していましたが、1946年7月、共和国側は彼らの中央銀行としてインドネシア銀行(BNI)を創設。同年10月3日から、独自通貨としてインドネシア・ルピーの発行を開始しました。なお、これにより、蘭印ルピーの流通は停止され、公衆手持ち分の紙幣は同年10月30日までに両替することとされます。ちなみにこの時の交換レートは、1インドネシアルピー=50蘭印ルピーでした。

 その後、独立戦争を経て、1949年末にインドネシア共和国の独立が国際的に承認されると、インドネシアルピアも国際為替市場での交換が可能となり、1ドル=3.8ルピアの固定相場が導入されます。これが、現在のインドネシアルピアの直接的なルーツとなりました。

 なお、今回ご紹介の切手に取り上げられている棚田の風景ですが、現在のジャワ島でも、下の画像のような棚田の風景はいたるところで見ることができます。

       ジャワ・棚田

 このように、かつての蘭印時代を髣髴とさせる風景については、拙著『蘭印戦跡紀行』でもいろいろとご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。


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 ジブラルタルをめぐる英西対立
2013-08-20 Tue 10:45
 ジブラルタルの領有権をめぐり英国とスペインの緊張が高まる中、英海軍のフリゲート艦「ウェストミンスター」が、きのう(19日)、ジブラルタルに寄港。スペインの反発は必至な情勢です。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ジブラルタル(1886)

 これは、1886年に発行されたジブラルタル最初の切手のうちの2ペンス切手です。

 イベリア半島南端、ジブラルタルの地は、スペイン継承戦争中の1704年8月、英蘭墺連合軍がスペインの守備隊を破って占領。戦後の1713年に締結されたユトレヒト条約では、スペイン王位の継承権を主張していたオーストリアのカール大公が王位を断念し、フェリペ5世の王位を承認する見返りとして、ジブラルタルは英国に割譲されました。

 郵便に関しては、1857年、英国の郵便局が開設され、同年9月からは英本国の切手が発売されています。ただし、スペイン領内の飛び地という性質上、利用者からの要望に応じて、ジブラルタル局では英国切手に加えてスペイン切手も売られていました。

 今回ご紹介のジブラルタルとしての最初の切手は、1886年1月、バミューダ切手に“GIBRALTAR”加刷を施したもので、同年12月には正刷切手が登場しました。なお、英領ジブラルタル切手は、1898年までは、英本国のスターリング・ポンドと等価のジブラルタル・ポンドのほか、実際にはペセタ(スペインの通貨)もかなり流通していたことから、ジブラルタル・ポンド額面の切手と並行して、ペセタ額面の切手も発行されていました。また、1907年まで、モロッコにおける英国の郵便活動はジブラルタル局が管轄していました。

 1704年の占領以来、スペインはジブラルタルの奪還をたびたび試みていますが、すべて失敗。現在、スペイン本土とジブラルタルとの境界には非武装中立状態が設定されています。

 1955年、国連に加盟したスペインは、ジブラルタルは英国の“植民地”であるとして、1957年にジブラルタルの返還を求めて国連に提訴。1964年には国連の非植民地化委員会へ返還要求を提出しました。これに対して、1967年、英国は住民投票により英国の統治を正当化することで対抗。このため、スペインは1969年にジブラルタルとの国境を封鎖する経済封鎖を行っています。この封鎖は、1982年に部分的に解除されるまで続きました。(完全な封鎖解除は1985年)

 その後、ジブラルタルの帰属をめぐっては、ジブラルタル独立論も浮上したことから、英西両国にジブラルタル自治政府を加えた3者の協議が行われるようになり、2006年12月、ジブラルタルの自治権拡大を盛り込んだ新憲法が成立しました。

 今回の英西対立は、今年(2013年)7月下旬、英領ジブラルタル自治政府が魚礁用コンクリートブロックを近くの海底に沈めたところ、スペイン側が「ここはわが国の領海だ」として激しく反発したのが発端です。その後、スペイン側は、ジブラルタルから麻薬が流入している疑いがあるとの名目で国境での車両検問強化に乗り出し、経済的な締め付けを強化。これに対抗して、宗主国の英国がフリゲート艦を派遣し、スペインに圧力をかけたというのが昨日の出来事で、この問題に関して、EUは近々調査団を派遣することを明らかにするなど、この問題はしばらく尾を引くことになりそうです。
 

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 岩のドームの郵便学(8)
2013-08-19 Mon 11:07
 ご報告が遅くなりましたが、『本のメルマガ』508号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」は、今回は1948年の第一次中東戦争の結果、岩のドームを含むエルサレムがトランスヨルダンの支配下に入り、その結果、トランスヨルダンが現在のヨルダン・ハシミテ王国になったという話を取り上げました。その中から、きょうはこんなモノをご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       トランスヨルダン・強制貼付切手

 これは、1947年5月31日、トランスヨルダンが発行したパレスチナ救援のための強制貼付切手で、エルサレムの岩のドームが描かれています。

 1948年5月の第一次中東戦争開戦当時、アラブ側は兵員・装備ともにイスラエルを圧倒しており、緒戦の戦局はアラブ側有利で推移していました。特に、トランスヨルダンの精鋭部隊、アラブ軍団は、イラク軍とともに、“岩のドーム”があるエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区を占領。終戦までこの地を保持しています。

 エルサレム旧市街を占領したトランスヨルダンは、第一次大戦後の旧オスマン帝国領の分割の過程で、1921年、イギリスがヨルダン川東岸地域に委任統治領として設定した区域です。トランスヨルダンという名は、もともとは“ヨルダン川の向こう”という意味で、英国を基準に見ればヨルダン川東岸を意味しています。

 第一次大戦中、英国はメッカの太守であったシャリーフ・フサインに対して、英国と組んでオスマン帝国と戦えば、戦後、“アラブ国家”を樹立するとの密約を結びました。これに応えて、アラブ叛乱を起こしてオスマン帝国と戦い、アラブの英雄となったのが、フサインの息子のファイサルとアブドゥッラーです。

 しかし、大戦後、旧オスマン帝国領は英仏の密約であったサイクス=ピコ協定に沿った形で両国の委任統治領というかたちで分割されてしまったうえ、ファイサルがダマスカスに樹立したアラブ王国はフランスによって解体されてしまいます。当然、ファイサルとアブドゥッラーは大いに不満で、アブドゥッラーは手勢を率いてフランス委任統治領のシリアに攻撃を仕掛けようとしました。

 そこで、兄弟を慰撫する必要に迫られた英国は、ファイサルをイラク王として擁立し、ヨルダン川東岸の地域を“トランスヨルダン”としてパレスチナから切り離して、アブドゥッラーをトランスヨルダンのアミール(首長)として、アンマンに政府を樹立させました。

 その後、トランスヨルダンは1946年にイギリスから独立しますが、時あたかも、隣接するパレスチナではシオニストとアラブ系の対立が激化し、多数のアラブ系難民がトランスヨルダン領内へと押し寄せてくるようになります。こうした状況の下で、1947年5月31日、トランスヨルダンが発行したのが、今回ご紹介の強制貼付切手です。

 日本ではこうした事例はありませんが、諸外国では、戦争や災害などへの義捐金を集めるため、一定の期間、郵便物を差し出す際には、郵便料金とは別に、一定の額面の切手を添付することを義務づけることがあります。そのために用いられるのが強制貼付切手で、1947年のトランスヨルダンの場合は、郵便料金の半額相当の強制貼付切手を郵便物に貼ることが義務づけられていました。

 この時発行された強制貼付切手は、1ミリームから1ポンド(=1000ミリーム)までの12額面。いずれも、英国のトマス・デ・ラ・ルー社製で、デザイナーのヤークーブ・スッカルの制作した図案は、低額面の1、2、3、5ミリーム切手がヘブロンのモスク、中額面の10、15、20、50ミリーム切手がエルサレムの岩のドーム、高額面の100、200、500ミリームおよび1ポンド切手がアッカ(アッコ)の風景、です。

 これら強制貼付切手に取り上げられた風景のうち、地中海に面したアッコは別として、ヘブロンと岩のドーム(があるエルサレム旧市街)は、いずれも、1948年5月に第一次中東戦争が勃発するや否や、トランスヨルダンのアラブ軍団が進駐し、占領しているのは興味深いといえましょう。

 そもそも、第一次中東戦争に参戦したアラブ諸国の大義名分は、ユダヤ人国家イスラエルの建国を阻止し、パレスチナを解放することでした。しかし、現実には、ガザ地区を占領したエジプトと同様、ヨルダン川西岸を占領したトランスヨルダンは、混乱に乗じ、パレスチナの犠牲の上に自国の権益を拡大しようという意図をもって参戦していました。

 彼らが、いつから英国撤退後のパレスチナ(の一部)を占領してしまおうと企図していたかは、定かではありません。しかし、強制貼付切手に取り上げられたヘブロンと岩のドームが、切手の発行からわずか1年後にはトランスヨルダンによって占領されたという事実を見ると、すでに、1947年5月の時点では、トランスヨルダン政府には英国撤退後のパレスチナに進攻して、ヨルダン川西岸地区を占領してしまおうという目論見があったのではないかと思えてなりません。

 その場合、「シオニストの暴虐からパレスチナのアラブ同胞を救え」というスローガンは、自国の領土拡張の戦争にトランスヨルダンの国民を動員するうえで、一定以上の説得力を有することになるでしょう。また、戦争の結果として、パレスチナに独自のアラブ国家が建国されなければ、トランスヨルダンが“同胞のために”パレスチナの占領地を管理するのは正当な行為であるというロジックも導き出されることになります。1947年の強制貼付切手は、まさに、トランスヨルダンによるヨルダン川西岸地区占領を準備するためのプロパガンダの一環として発行されたとみるのが自然でしょう。

 さて、第一次中東戦争は、最終的にイスラエル有利の戦局が確定。1949年2月23日、イスラエルとエジプトの間で休戦条約が調印されたのを皮切りに、3月23日にはレバノンが、4月3日にはトランスヨルダンが、7月20日にはシリアが、それぞれ、休戦条約を調印します。これら各国とイスラエルとの停戦ラインは事実上の「国境」としてイスラエル国家の存在が認知され、同年5月、イスラエルは国連に加盟します。

 エルサレムに関しては、すでに述べたように、旧市街を含む東エルサレムはトランスヨルダンの支配下に置かれ、20世紀以降に建設された新市街の広がる西エルサレムがイスラエルの領土となりました。

 すでに1948年12月1日、アラブ軍団の占領下に置かれていたヨルダン川西岸地区では、現地の親ヨルダン派のパレスチナ人指導者が死海北西岸のイェリコで「パレスチナ・アラブ評議会」を開催し、トランスヨルダン国王アブドゥッラーを「全パレスチナ人の王」とし、同国王に対して西岸地区のトランスヨルダンへの併合を要請する決議を採択。これを受けて、同月13日、トランスヨルダン議会はイェリコでの評議会の決議を全会一致で承認するなど、トランスヨルダン川は西岸地区の併合に向けて着々と準備を進めます。

 そして、イスラエルとの休戦協定成立後の1949年6月、トランスヨルダンはヨルダン川西岸地区と東エルサレムを併合し、新国家「ヨルダン・ハシミテ王国」の建国を宣言しました。これが現在のヨルダン国家です。

 しかし、パレスチナ人の中には、ヨルダンへの併合を潔しとしない者も少なくなかったうえ、戦争を通じて一人大幅に版図を拡大したヨルダンに対して周辺アラブ諸国は大いに反発。1951年7月には、国王アブドゥッラーがパレスチナ人青年に暗殺される事件まで起こりました。

 いずれにせよ、第1次中東戦争の結末は、その契機となった1947年11月の国連決議第181号と比べて、パレスチナのアラブに対して、はるかに大きな犠牲を強いるものでした。

 すなわち、国連決議ではパレスチナを分割し、アラブ国家とユダヤ国家を創設することになっていましたが、アラブ国家は実際には創設されず、国家として成立したのはイスラエルのみでした。また、エルサレムを国連の信託統治下に置くというプランも、東西エルサレムがイスラエルとヨルダンによって分割されることにより、実現されないままに終っています。

 その後、アラブとイスラエルは4次にわたる中東戦争を展開することになりますが、アラブ側が掲げていた“パレスチナ解放”の大義を当初から踏みにじっていたのは、ほかならぬアラブ諸国の側であったことは、しっかりと記憶にとどめておくべきでしょう。
 

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 ルーマニアの元王女(?)逮捕
2013-08-18 Sun 16:25
 1947年に退位したルーマニアのミハイ元国王(ルーマニア王国最後の国王)の三女、イリーナ(英語読み)・ウォーカーが、夫で地元保安官事務所の元幹部ジョン・ウォーカーらと、今年春までの約1年で少なくとも10回、闘鶏賭博を開設した疑いで、現地時間の16日までに逮捕されていたそうです。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        ミハイ・郵税免除証紙(航空)

 これは、1947年12月1日にルーマニアで発行された航空郵便用の郵税免除証紙です。郵税免除証紙は、この証紙が貼られた郵便物は料金無料で運ばれることを示すためのモノで、切手の下部にある“SCUTIT DE TAXA POSTALA”は郵便料金無料の意味です。なお、航空郵便用を示す“PRIN AVION”の加刷のない証紙は1947年9月に発行されました。

 ルーマニア最後の国王となったミハイ元国王は、1921年に皇太子カロル(後のカロル2世)の長子として生まれました。当時の国王は祖父のフェルディナンド1世でしたが、国王は1927年に崩御。このため、本来であれば、父のカロルがカロル2世として即位するはずでしたが、父親は恋愛関係のもつれから王位継承権を放棄して愛妾とともに国外へ逃亡。このため、孫のミハイが6歳で王位を継承しました。

 ところが、3年後の1930年、カロルは突如帰国し、息子を退位させて自分が国王カロル2世として玉座に収まってしまいます。その後、カロル2世は独裁体制を強化していきましたが、1939年に始まった第二次大戦でルーマニアは多くの領土を失ったため、1940年に退位を余儀なくされました。これを受けて、ミハイが父親のしりぬぐいをするかたちで復位するという経緯をたどっています。

 1941年6月、いわゆる独ソ戦が始まると、ルーマニアはソ連に奪われた給料の回復をめざし、枢軸国側に立って参戦。しかし、次第に戦況はドイツ降りに傾いていったことから、1944年8月23日、国王ミハイは宮廷クーデターを起こして、親独派のアントネスク政権を追放するとともに、一転してドイツに対して宣戦を布告し、同年9月には連合諸国との休戦協定を締結しています。

 戦後、ルーマニアは敗戦国となることはなんとか免れたものの、国土にはソ連軍が進駐し、ルーマニア軍兵士13万人が捕虜としてソ連に抑留されました。ソ連占領当局は、国王に対して親共産党政府の任命を強要しましたが、国王はこれをかたくなに拒否。このため、1947年12月30日、国王は共産主義者たちに銃口を突きつけられ退位文書に署名し、スイスへ亡命しています。今回ご紹介の証紙は、まさに国王退位の直前の1947年12月1日に発行されたもので、国王の肖像を描く王制時代の切手類としては、最後の1枚となりました。

 さて、スイス亡命後の元国王は、一時、ホーエンツォレルン公を名乗ったものの、基本的にはルーマニア国王を名乗り続けました。今回逮捕された三女は、亡命後の1953年の生まれですから、元国王ご本人からすれば“王女”ということになるのでしょうが、それをすんなりルーマニア国民が受け入れたいたかどうかは、ちょっと微妙なところかもしれません。ちなみに、元国王は現在なおご存命で、王族のウェブサイト上の声明で元王女の逮捕に対し「深い悲しみ」を表明したそうです。

 なお、王制時代を含むルーマニアの近現代史については、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』でも、現地のカラー写真を交えてご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 おかげさまで3000回
2013-08-17 Sat 15:34
 2005年6月からスタートしたこのブログですが、毎日1回ずつ更新していたら、今日の記事でちょうど3000回目になりました。日頃、このブログを応援していただいている皆様には、あらためて、この場をお借りしてお礼申し上げます。というわけで、きょうは“3000”に絡めて、こんなモノを持ってきてみました。(画像はクリックで拡大されます)

        インドネシア(エーデルワイス、赤とんぼ)

 これは、2003年にインドネシアが発行した“花と動物”の小型シートで、ジャワ・エーデルワイス(アナファリス・ジャワニカ)とウスアカシオカラトンボ(orthetrum testaceumの和名)を描く3000ルピア切手が1枚ずつ収められています。きょう(17日)はインドネシアの独立記念日ですし、僕自身も拙著『蘭印戦跡紀行』を刊行したばかりですもありますので、インドネシア切手の中から額面“3000ルピア”の切手を選んでみたという次第です。

 切手に取り上げられたジャワエーデルワイスは、キク科ヤマハハコ属に属するインドネシア固有の植物で、ジャワ島、スマトラ島南部、スラウェシ島(セレベス島)、ロンボク島の山地・高原に生息しており、ジャワ島西部、首都ジャカルタ型車で2時間ほどのところにあるグヌン・グデ・パンランゴ国立公園は、この花の群生地として知られています。成長すると、最大で8メートル近くの大きさになるものもありますが、多くは、1メートル以下で、4月から8月にかけて花を咲かせます。インドネシア語では“永遠の花”を意味するブンガ・アバディの名で呼ばれており、ドライ・フラワーは観光客相手の土産物として人気がありますが、近年は野生種は数が減少しているそうです。

 一方、もう一つの切手に取り上げられたウスアカシオカラトンボは、いわゆる赤トンボのなかでは最大のモノのひとつで、体長は37ミリ、羽を広げた大きさは83ミリほどです。インドネシアのみならず、中国、ミャンマー、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、台湾、ヴェトナムなどに広く分布しています。

 早いもので、8月も後半に突入し、本来であればそろそろ少しずつ秋の気配が感じられ、赤トンボが似合う気候になっても良いころですが、異常な暑さはまだまだ続きそうです。皆様、どうぞご自愛ください。

 * トンボの和名については、貴志俊彦先生にご教示いただきました。どうもありがとうございます!

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 コンゴへ捜査員派遣
2013-08-16 Fri 16:56
 今年6月、コンゴ民主共和国の首都・キンシャサで、日本大使館が入る建物から火が出て、大使館が半焼した事件で、警視庁は、放火の疑いがあるとして、きょう(16日)、捜査1課や鑑識課の捜査員15人を現地へ派遣しました。日本の警察が在外公館の事件を捜査するのは異例のことだそうです。というわけで、きょうは、コンゴ民主共和国がらみのマテリアルということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       コンゴ民主共和国初期混貼カバー

 これは、現在のコンゴ民主共和国がコンゴ共和国として独立した当初の1960年10月20日、同国東部のブカヴからベルギー宛に差し出された航空便で、旧ベルギー領時代の切手(メガネザルの50サンチーム)、旧ベルギー領時代の切手にコンゴ加刷の暫定切手(ハイビスカスの1F切手)、コンゴ独立後の正刷切手(独立記念の地図1フラン切手)が貼られており、独立初期の過渡的な使用例となっています。

 19世紀のアフリカ分割の過程で、ベルギーは探検家スタンレーをコンゴに派遣し、多数の基地を設けて現地勢力の長たちと様々な取り決めを結んでいました。これに対して、以前から沿岸部の権益拡大を進めていたポルトガルが反発し、1882年にはコンゴ川河口地域における主権を宣言。イギリスはポルトガルを支持しましたが、フランスはベルギーを支持する一方で、自ら探検家ピエール・ド・ブラザをアフリカ内陸部に派遣。ドイツもポルトガル支持を見送りました。このように、各国の思惑が錯綜する中で問題解決のためのベルリン会議が1884年11月15日から1885年2月26日まで開催され、コンゴ盆地はベルギー国家でなくベルギー王の私財となり、フランスが権益を築いたコンゴ盆地北西端は“中央コンゴ”としてフランス領とされました。

 その後、1908年、ベルギー政府は国王からコンゴ盆地を買い取り、同国の植民地としてベルギー領コンゴが発足。1950年代後以降、ジョゼフ・カサブブのコンゴ人同盟(アバコ党)やパトリス・ルムンバのコンゴ国民運動などが独立闘争を展開し、1960年6月30日、コンゴ共和国(旧仏領の隣国も正式な国名が“コンゴ共和国”だったため、区別するため、旧仏領=コンゴ・レオポルドビル、旧白領=コンゴ・キンシャサなど呼んで区別されることもあります)として独立しました。独立後の新政府では、コンゴ族同盟(アバコ党)の指導者であったカサヴブが初代大統領に、コンゴ国民運動を率いたルムンバが初代首相に就任しています。

 しかし、コンゴ駐留のベルギー軍撤退問題をめぐり、急進左派のルムンバにベルギー軍が反発。コンゴ在住のベルギー国民への攻撃も相次いだため、7月8日、自国民保護のため、ベルギー軍が首相官邸を襲撃し、首都キンシャサの国際空港を占領すると、ルムンバはベルギーとの国交断絶を表明します。

 混乱の中で、地下資源の豊かなカタンガ州(たとえば、カタンガの銅生産量は当時の世界総生産量の70%を占めていたほか、いわゆるレアメタルも豊富でした)を地盤とするモイーズ・チョンベは、7月11日、ベルギーの支援を受けて、カタンガの独立を宣言。親西側のカサヴブと急進民族主義路線を掲げるルムンバの路線対立もあり、独立間もないコンゴは政府が機能不全に陥り、四分五裂の状態に陥りました。いわゆる第1次コンゴ動乱です。
 
 第1次コンゴ動乱は1965年に米国の支援を受けたモブツ・セセ・セコの独裁政権が樹立されるまで続きましたが、この間、1964年には国号がコンゴ民主共和国に改称されています。その後、モブツ政権は1971年に国号をザイール共和国と改称し、長期独裁体制を維持しました。

 これに対して、1996年11月、ルワンダ、ウガンダ、ブルンジなどに支援されたバニャムレンゲやコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)などが武装蜂起。周辺諸国をも巻き込んだ第1次コンゴ戦争が勃発し、1997年5月17日、首都キンシャサが陥落してモブツ政権は崩壊しました。

 モブツ政権の崩壊後、大統領に就任したローラン・カビラは、国名をザイール共和国からコンゴ民主共和国に変更した後、AFDLの幹部を追放し、司法権を除く全権を大統領に付与すると発表するなど強権支配体制を敷いたため、これに反発する勢力はコンゴ民主連合を結成。1998年8月2日に蜂起し、いわゆる第2次コンゴ戦争が勃発しました。

 第2次コンゴ戦争は、国内の民族対立に加え、ダイヤモンドやコバルトなどの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、ウガンダとルワンダが反政府勢力のコンゴ民主連合 (RCD) を、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラが政府軍を支援したことで泥沼化。2003年に和平合意が成立するまでに、戦闘などで住民20万人以上が死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が死亡したといわれています。

 しかし、その後も東部地域(イトゥリ州、南キヴ州、北キヴ州)では情勢が安定せず、2012年4月には北キブ州において、国軍を離脱した元反政府勢力が国軍と軍事衝突を起こして、以後、他の武装勢力も活発化しているようです。

 このように、旧ベルギー領以来のコンゴ民主共和国の情勢はかなり複雑で、それらを切手や郵便物を通じて追いかけてみるとかなり面白いコレクションができそうです。そのごく一部については、拙著『喜望峰』でもご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 アジア萬歳
2013-08-15 Thu 14:24
 きょう(15日)は“終戦の日”です。というわけで、何を持ってこようかいろいろ迷ったのですが、とりあえず僕の最新作『蘭印戦跡紀行』の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       アジア萬歳     アジア萬歳・裏面

 これは、先の大戦中、ジャワ駐留の日本兵が差し出した軍事絵葉書で、裏面には「アジア萬歳」と題された戦争画が取り上げられています。葉書の日本兵と母子がとても良い雰囲気で気に入っているので、拙著の表紙にも使った1枚です。

 大戦中の3年強におよんだ日本占領時代の蘭印(オランダ領東インド、現インドネシア)については、人によって評価はさまざまだろうと思います。ただし、当初、現地の非オランダ人の多くが日本軍の進駐を熱烈に歓迎したことは厳然たる事実で、今回ご紹介の絵葉書にみられるような光景はいたるところで見られた現象でした。

 そもそも、大航海時代から数世紀にわたるオランダの植民地支配下では、現地の非オランダ系住民はほとんど無権利状態に置かれ、奴隷同然の扱いを受けていました。そうした中で、彼らの間には、かつてジャワ島東部を支配していたクディリ王国のジャヤバヤ王(ジョヨボヨ王とも。在位1135-57年)が、晩年、詩人のムプ=セダーとムプ=パヌルに命じて書かせた叙事詩『バラッダユダ』の次のような“予言”を心のよりどころとする人も少なくありませんでした。

 第5の時代、北方から黄色い人たちがやってきて、白い人を追い払う。
 黄色い人もインドネシアを支配するが、トウモロコシの花の咲く前に去っていく。
 
 蘭印の人びとにとって、北方からやってきてオランダ人を追い払った大日本帝国は、まさしく、この詩に出てくる“黄色い人”のイメージとぴったり重なっていましたから、非オランダ系の人々は日本軍の進駐を受け入れることにほとんど心理的な抵抗を感じなかったといわれています。もっとも、日本の占領時代がわずか3年強しか続かなかったという点で、後半部分の“トウモロコシの花の咲く前に去っていく”という予言も、ある意味では正しかったわけですが…。

 ちなみに、今回ご紹介の絵葉書には「アジア萬歳」の解説として以下のような文章が記されています。

 土民は皇軍を心から迎へた。
 空にはHIDOEP ASIA RAJA(アジア萬歳)のアドバルーンが悠々と浮かんでゐた空は涯しなくひろかつた。

 現在の視点、特に、「戦前の大日本帝国はとにかくすべて悪だった」という歴史観からすれば、この文章を“土民”に対する上から目線のプロパガンダに過ぎないと切って捨てることは簡単でしょう。しかし、それが仮にプロパガンダに過ぎなかったにせよ、当時の状況下では、現地の非オランダ人はオランダ人を駆逐した日本人に賭けるしかなかったこともまた事実です。実際、僕自身、インドネシア各地で、「日本人は厳しかったけど、とにかくいろいろなことを教えてくれたよ。わしがこれまでやってこれたのも、みんな日本時代に受けた教育や訓練のおかげだ」といった類の話をしてくれた老人に何人もお会いしています。本の帯にある「日本の兵隊さん、本当に良い仕事をしてくれたよ」というのも、ロンボク島の老婆から僕が実際に聞いた言葉です。

 もちろん、インドネシア共和国が最終的に独立を達成したのは、インドネシア国民(になった人々)がみずから血を流し、熾烈な対蘭独立戦争を戦った結果です。そのことは大前提として絶対に忘れてはなりません。その意味において、僕は、彼らの尊い犠牲を無視して「日本がインドネシアを独立させてやった」という類の議論をする人たちには絶対に与しません。ただ、その一方で、日本による占領という体験が触媒となって、結果的にそれが彼らの独立につながったということを、彼ら自身がポジティヴに語ってくれるのであれば、その気持ちは素直に、ありがたく受け入れるべきだろうと思います。そうした彼らの友情を無視して“日本軍によるアジア侵略”を嬉々として糾弾する日本人が少なからずいますが、そうした連中に対しては、心の底から軽蔑するという以外の感情しか沸いてきませんな。

 先日刊行されたばかりの拙著『蘭印戦跡紀行』は、そんな思いから、僕がインドネシア各地で実際に見聞した“日本”の痕跡について、切手や郵便物、絵葉書などを交えながらまとめてみたものです。機会がありましたら、ぜひ、お手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 マリ新大統領はケイタ元首相
2013-08-14 Wed 17:03
 マリの大統領選挙は、第1回投票で首位だったイブラヒーム・ケイタ元首相の初当選が確実となりました。これにより、近々、現在のディオンクンダ・トラオレ暫定大統領は退陣し、ケイタ新政権が発足することになりました。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       マリ国民議会議事堂

 これは、1980年にマリで発行された独立20周年の記念切手のうち、マリ国民議会の議事堂を取り上げた1枚です。左上の肖像は、切手発行時の大統領、ムーサ・トラオレです。

 マリの憲法によれば、マリの国会は国民議会のみの一院制で、国家唯一の立法機関とされています。定数は147議席で、議員はマリを構成する8州と1特別区の人口比に基づき、国民の直接選挙で選出され、任期は5年です。

 ちなみに、ディオンクンダ・トラオレは、2012年3月にクーデターが発生した際の国民議会議長で、大統領が不在もしくは執務不能の場合は国民議会議長がその職務を代行するという憲法の規定により、暫定大統領に就任していました。

 さて、今回当選したケイタは、1945年1月29日、南部のクティアラ生まれ。ダカール大学、パリ第1大学、近代国際関係研究所等に留学し、歴史学、政治学、国際関係論などを学んだ後、パリ第1大学で第3世界政治の授業を担当していたという経歴を持つ人物で、1992年、ムーサ・トラオレ軍事独裁政権を打倒する民主化運動に加わり、民主化後は政権与党マリ民主同盟(ADEMA:Alliance pour la Démocratie en Mali)の幹部として、アルファ・ウマル・コナレ政権下の1994年2月から2000年2月まで、首相を務め、ポスト・コナレの最有力候補と目されていました。

 しかし、党内対立から、2000年2月に首相を持して離党し、新政党“マリのための結集(RPM)”を組織。2002年および2003年の大統領選挙に立候補したものの、アマドゥ・トゥマニ・トゥーレに敗れています。ちなみに、2002年の大統領選挙でのケイタの得票数は3位(2位で決選投票に臨んだのは、今回、ケイタに敗れたシセです)で、前回2007年の大統領選挙では2位でした。

 トゥーレ政権発足後の2002年9月から2007年9月まで、ケイタは国民議会議長を務めています。したがって、彼の経歴としては、元首相の他に元国民議会議長と紹介するメディアがあってもよさそうなものなのですが、どういうわけか、そうした紹介の仕方はほとんどされていませんな。なお、ケイタの後任として2007年から国民議会の議長を務めていたのが現在の暫定大統領、ディオンクンダ・トラオレで、ケイタが大統領職を彼から引き継ぐことになったのも、何かの因縁かもしれません

 今後のマリ情勢については、依然として先の読めない状況が続いていますが、ともかくも、今年4月までのかの国の事情については、拙著『マリ近現代史』で詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 無事帰国しました
2013-08-13 Tue 09:34
 昨日(12日)夕方、無事、バンコクから帰国いたしました。世界切手展<Thailand 2013>の会期中、現地では、コミッショナーの山崎好是さんをはじめ、多くの方々にいろいろとお世話になりました。この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。(冒頭の画像は、会場入口でキンナリー姿の女性と一緒に撮影したものです)

       <Thailand 2013>会場にて

 今回の切手展は、キンナリーがマスコット・キャラクターになっていて、会場内にはいたるところにキンナリーのイラストが掲げられていました。下の画像のうち、左はカタログの表紙で、右は今回の出品に対して頂戴したメダル(賞のランクに関わらず、全員“銅メダル”でした)ですが、そのいずれにも、キンナリーのキャラクターが描かれています。

       バンコク展カタログ     バンコク展メダル

 というわけで、このキャラクターの切手があればぜひとも買ってきたかったのですが、残念ながら、キャラクターそのものの切手は発行されませんでしたので、次善の策として、会期中、会場内の郵便局で入手した切手のなかから、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       タイ郵政130年シート

 これは、8月4日に発行された“タイ郵政130年”の記念切手のシートです。

 タイにおける近代郵便制度は、英国領事館が、バンコク駐在の外国人商人や宣教師の要請に応えて“郵便局”を開設し、1858年からタイと英本国やインド、シンガポールなどとの通信を取り扱ったのが最初ですが、タイ国家としての自前の郵便制度の導入が計画されるようになったのは、1881年のことでした。ただし、当時のタイには切手を製造するための設備がなかったため、切手の製造はイギリスのウォータールー・アンド・サン社に委託されました。
 
 このとき準備された切手は、ラーマ5世の横顔を描く凹版印刷のもので、1ソロト、1アット(=2ソロト)、1シロ(=2アット)、1シク(=2シロ)、1サルン(=4シク)の5種類。国号の“シャム”の表示はなく、額面はタイ語のみの表示でアラビア数字も記されていません。これら切手は1883年に入ってからバンコクに到着し、同年8月4日の郵便創業から使用されています。

 今回ご紹介の切手の“タイ郵政130年”というのはここから起算した年回りで、今回の切手展や中央郵便局の改装なども、その記念事業の一つとして行われました。今回ご紹介の切手は、中央郵便局の局舎を背景に、1883年の最初の切手のうちの1ソロ切手をそれを拡大するルーペを組み合わせたデザインです。背景の郵便局がトリミングで一部隠れていますが、これは、デザイン制作の時点では改修工事が終わっていなかったためでしょう。改修後の局舎には、ちょうど切手では隠れている部分に、シート上部のガルーダ像が新たに取り付けられています。(参考までに、下に、実際の郵便局外壁のガルーダの装飾の写真を貼っておきましょう)

       バンコク中郵・ガルーダ

 なお、今年はこの後11月にリオデジャネイロで世界展が予定されています。僕自身は、コミッショナー兼審査員見習いとして参加を予定しております。今後とも、皆様にはいろいろとお世話になることがあるかと思われますが、よろしくお願いいたします。


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 きょう帰国します
2013-08-12 Mon 02:06
 早いもので、今回のタイ滞在も今日で最終日となりました。帰国のフライトは早朝7時35分の予定ですので、きょうは取りあえず、記事をアップしたらいったん寝ます。というわけで、無事に帰国できるよう、今回、<Thailand 2013>に出品した作品“Korea and the Cold War 1945-1953”の中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       中国人民志願軍歓送(無目打)

 これは、1958年9月10日、北朝鮮が発行した“中国人民志願軍歓送”の切手の無目打(実際に発行された切手とは用紙が若干違うので、あるいはプルーフの類ではないかと思います)で、帰還列車を背景にした志願軍の兵士が描かれています。

 1950年6月25日に始まった朝鮮戦争は、当初、朝鮮人民軍が優勢でしたが、同年9月の仁川上陸作戦により形成は逆転。韓国・国連軍は38度線を越えて北進し、北朝鮮は国家壊滅の危機にさらされます。このため、中国は「唇滅べば歯寒し」として北朝鮮を支えるための“人民志願軍”を派遣します。

 1950年10月19日以降、朝鮮に派兵された人民志願軍は、結果的に韓国・国連軍をほぼ38度線以南に押し戻し、1953年7月27日、現在の軍事境界線での休戦を実現。ともかくも北朝鮮国家を存続させることには成功しました。

 休戦時、120万人にも達していた志願軍の撤退に関しては、休戦協定では「朝鮮駐留の外国軍の撤退は休戦後の政治協議に委ねる」と規定していましたが、中国側とはこれと関係なく、まず、休戦直後から歩兵6個軍、砲兵・高射砲兵、鉄道兵20個師団を秘密裏に撤退させ、ついで、1954年4月からのジュネーヴ会談で米国との撤退問題の協議に臨んでいます。しかし、米中協議は不調に終わったため、同年9月6日、中国は人民志願軍の撤退を発表。撤退は、1954年から1955年の第1期と、1958年の第2期に分けて段階的に実行され、1958年10月26日に全軍の撤退が完了しました。

 今回ご紹介の切手は、9月10日、1958年の第2期撤退が始まったことを受けて、中国に対する感謝の意を表するために北朝鮮側が発行したもので、今回の作品では最終リーフで使いました。

 さて、僕の方は、順調にいけば、本日午後4時前には成田に到着の予定です。この切手の兵士のように、鉄道に乗るのは成田に着いてからですが、彼のように無事笑顔での帰国となりたいものですな。
 

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 ケイタちがいですが…
2013-08-11 Sun 05:52
 7月28日に投票が行われたマリの大統領選挙は、イブラヒーム・ケイタ元首相が39.2%の得票率で1位となったものの、過半数の票を獲得できなかったため、きょう(11日)、19.4%の得票率で2位となったスーマイラ・シセ元財務相との決選投票が行われます。というわけで、大統領候補とは別人ですが、マリの“ケイタ”を取り上げた切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       サリフ・ケイタ

 これは、1974年のFIFAワールドカップに際して、マリの隣国オート・ヴォルタ(現ブルキナ・ファソ)が発行した記念切手のうち、マリ・サッカー界の英雄、サリフ・ケイタを取り上げた1枚です。

 現在のマリ国家の領域に相当する地域では、“ケイタ”というのはかなりポピュラーな名前で、とっさに思いつくだけでも、今回のケイタ候補の他に、初代大統領のモディボ・ケイタや、今回ご紹介のサリフ・ケイタ、さらにはその甥で同じくサッカー選手のセイドゥ・ケイタなどの名前が上がります。今回、仮にケイタ候補が当選するとなると、新大統領を他のケイタと区別するための愛称のようなものが必要になるかもしれません。

 さて、今回ご紹介の切手に取り上げられたサリフ・ケイタは、1946年12月12日、バマコ生まれ。1963年、16歳の時、国内のプロチーム、レアル・バマコへ入団を果たすと同時にマリ代表に招集され、アフリカ・クラブ選手権に出場しています。そして、8試合で14得点を挙げる活躍を見せて注目を集め、1967年からフランス1部リーグのASサンテティエンヌで活躍しました。

 特に、1970-71年のシーズンでは38試合で42得点を挙げ、1970年のアフリカ最優秀選手に選出。翌1972年2-3月にカメルーンで開かれたアフリカ・ネイションズ・カップでは、ケイタはマリ代表として参加し、祖国を準優勝に導きました。ちなみに、同大会での優勝はコンゴ人民共和国でした。

 カメルーン大会の後、フランスに戻ったケイタは、1972年夏、ASサンテティエンヌからオリンピック・ドゥ・マルセイユに移籍します。

 当時のトラオレ軍事独裁政権を正式に承認したフランス政府は、1972年4月28日、マリ国家元首としてのトラオレのパリ公式訪問を受け入れましたが、フランス国内では独裁政権の人権弾圧についても知られるようになっていました。このため、チームはケイタに対して、亡命してフランス国籍を取得することを強く勧めたものの、彼はこれを拒否してマリの国籍を維持しています。

 アフリカ選手権での準優勝に加えて、その立役者であるケイタがフランス亡命を拒否したことは、独裁政権にとっては、国威発揚の格好の材料となり、トラオレ政権は彼を祖国の英雄と称賛します。しかし、そのことによって、かえってフランス国内に居づらくなった彼は、1973年のオフシーズン、スペインのヴァレンシアCFに移籍しました。

 この移籍に対して、地元のローカル紙『エル・ヴァレンシア』は「ヴァレンシアはドイツ人選手獲得のために出かけたのに、黒人を連れて帰ってきた」と人種差別むき出しの見出しを掲げていましたが、チームやファンは彼を温かく迎え入れ、ケイタは、1976年までヴァレンシアでプレイします。その後、スポルティング・リスボンを経て、1979年に渡米し、1980年のシーズンを最後に引退しましたが、1973年以降はマリ代表チームに加わりませんでした。マリの国籍を保ち、祖国を愛する気持ちは常に持ち続けていても、トラオレ政権に利用されることは避けたかったのでしょう。

 なお、引退後の彼は大学で経営学を学び、その知識を活かしてホテルや不動産事業を展開するかたわら、最初にプロ契約を結んだマリ国内のチーム、レアル・バマコを資金的に援助していました。そして、1989年のトラオレ政権崩壊を経て、1993年、若手選手の育成機関“サリフ・ケイタ・センター”を設立。1997年にはチームをマリ1部リーグに昇格させたほか、2005年から2009年まではマリサッカー協会の会長も務めています。

 こうしたキャリアを見ると、じつは、サリフ・ケイタもまた、マリを代表する人物として大統領にふさわしい人物だったと言えるのかもしれませんな。

 なお、このあたりの事情については、拙著『マリ近現代史』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ルアン・パバーンに来ています
2013-08-10 Sat 07:04
 世界切手展<BANGKOK 2013>も無事に終了しましたので、きのう(9日)からバンコクを離れ、ラオスの世界遺産都市ルアン・パバーン(ルアン・プラバーンとも)に来ています。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       シサワンウォン(仏印時代)

 これは、1943年に仏領インドシナで発行されたルアンパバーン国王シーサワーンウォンの切手です。

 現在のラオス国家の領域に相当するメコン川中流域は、歴史的には“百万頭の象の王国”を意味するラーンサーンと呼ばれており、ルアンパバーン王国、ヴィエンチャン王国、チャンパーサック王国、シエンクアーン王国が分立していました。その後、これらのラーンサーン諸王国はシャム(現タイ)のトンブリー王朝に征服され、その属領となりましたが、1893年のいわゆる“シャム危機”の結果、ラオス全領域はフランスの保護国となりました。

 このため、タイにとっては、ラオスなど“失地”の回復は国民国家としての悲願となっていました。こうした中で、1939年9月、ヨーロッパで第二次大戦が勃発し、翌1940年6月、ラオスの宗主国フランスがドイツに降伏。さらに、アジアでは日中戦争を戦っていた日本が、同年9月、中国との国境封鎖を求めて仏印の北部に軍事進駐すると、その機会をとらえて、タイは仏印に対して国境紛争を挑みます。この結果、タイは大きな犠牲を出しながらも、翌1941年1月28日、日本の調停により、ラオスの一部とカンボジアの北西部を領土として回復しました。

 これに対して、フランスは、仏印防衛のための拠点として、自らの支配下に残ったルアンパバーン王国を強化することで対抗しようとし、ルアンパバーン域内各地に小学校を新設。ヴィシー政権のスローガンでもある「勤勉・家族・祖国」を掲げて、ルアンパバーンの住民に対して“母なる祖国・フランス”への奉仕を強調しました。このことは、結果的に、現在の“ラオス”という枠組みでのナショナリズムを生み出すこととなります。

 その象徴的な存在となったのが、ルアンパバーン王であったシーサワーンウォンで、今回ご紹介の切手が発行されたのも、そうした事情を反映してのことです。

 さて、シーサワーンウォンは、1885年6月14日生まれ。1904年に仏領保護国としてのルアンパバーン王として即位した人物ですが、1945年3月9日、日本軍が明号作戦を発動し、仏印を軍事占領すると、4月8日、ラオス王国の独立を宣言しています。しかし、もともと(最大の敵であるタイに対抗するために)親仏的な傾向が強かったこともあって、王は日本の敗戦後に独立を撤回。その後、フランスは1949年に改めて立憲君主国としてのラオス王国を建国し、シーサワーンウォンはその初代国王として即位しました。

 現在、僕が滞在しているルアンパバーンは、そうしたルアンパバーン王国ないしはラオス王国のゆかりの地で、シーサワーンウォン王の旧王宮は、現在、ルアンパバーン国立博物館として玉座などはそのまま展示・公開されています。また、敷地内にはラオス最初の立憲君主として、憲法典を手にする王の巨大な銅像が建てられています。ヴィエンチャン市内にも、これと同じと思われる銅像がありました。下の画像の、左がルアンパバーンの国立博物館内の像、右がヴィエンチャン市内の像です。
     
       ヴィエンチャンのシーサワーンウォン像     ルアンパバーンのシーサワーンウォン像

 このほかにも、町全体が世界遺産に指定されているだけあって、ルアンパバーン市内は半日歩いてみただけでも、いろいろと興味深い風景に出会うことができました。それらについても、いずれ機会を作ってご紹介していければ…と思っております。


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 <Thailand 2013>終了
2013-08-09 Fri 03:23
 2日に始まった世界切手展<Thailand 2013>は、きのう(8日)、無事終了しました。次の世界切手展は、11月にブラジル・リオデジャネイロで開催予定の<Brasiliana 2013>ですので、きょうはバンコクとリオを結ぶ切手ということで、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       タイ・ブラジル修好100年

 これは、2009年4月17日にブラジルで発行されたブラジル・タイ修好100周年の記念切手です。このときは、タイでも同日・同図案の切手2種が発行されていますが、今回は将来に目を向けるという意味でブラジル側の切手をご紹介しました。

 切手は2種連刷で、両国を代表する建造物として、バンコクのワット・ベンチャマボーピットとリオデジャネイロ州ペトロポリスのサン・ペドロ・デ・アルカンタラ大聖堂(通称ペトロポリス大聖堂)がそれぞれ取り上げられています。

 ワット・ベンチャマボーピットは、国王ラーマ5世(チュラーロンコーン)の異母兄弟で、同時代を代表する芸術家としても有名なナリット・サーラーヌワッティウォンが設計しました。十字型で左右対称の本堂はレンガ積みの上にイタリア・カララ産の大理石を貼り付けているため、“大理石寺院”とも呼ばれています。また、四層になっている屋根瓦は通常のタイの寺院とは焼き方の異なるオレンジ色のものが使用され、金張りの窓にはステンドグラスがはめ込まれているなど、既存の仏教寺院の枠にとらわれない斬新な発想が随所に見られ、タイでも最も洗練された寺院建築といわれています。

 ついでですから、2010年10月、僕が撮影したワット・ベンチャマボーピットの実物の写真を貼っておきましょう。右側の写真は、当日行われていた、ラーマ5世崩御100周年の記念イベントの一つとして、本堂の前で古典音楽のパフォーマンスのようすで、ライトアップのために大理石が青色に染まっています。

      ワット・ベンチャマボーピット(実物)     大理石寺院・パフォーマンス

 一方、ペトロポリス大聖堂は、リオデジャネイロ州の高原都市で、帝政時代の夏の離宮が置かれていたペトロポリス(ちなみに、地名は皇帝ペドロ2世に由来するものです)の司教座がおかれている大聖堂で、聖堂内には旧ブラジル皇室の霊廟があります。前身は夏の離宮前にあったマトリス・デ・ペトロポリス教会で、現在のネオ・ゴシック様式の建物は、1884年に建築家フランシスコ・カミニョアが建て始めたもので、ファサードは1930年代に、塔は1960年代に完成しました。11月のリオ訪問時には、ぜひ、現地を訪れて実物を拝んできたいものです。

 さて、今回の世界切手展<Thailand 2013>に関しては、コミッショナーの山崎好是さんをはじめ、多くの方々にお世話になりました。末筆ながら、この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。なお、僕自身は、きょうから2泊3日の予定で取材のための小旅行に出かけ、帰国は12日の予定です。関係者の皆様には、引き続きご不便・ご面倒をおかけいたしますが、なにとぞご容赦いただきますよう、よろしくお願いいたします。


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 切手の帝国:北アイルランド
2013-08-08 Thu 08:51
 ご報告が遅くなりましたが、大修館書店の雑誌『英語教育』2013年8月号が発売になりました。僕の連載「切手の帝国:ブリタニアは世界を駆けめぐる」は、今回は先日のサミット開催地にちなんで北アイルランドを取り上げました。その記事の中から、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

        北アイルランド地方切手(1958)

 これは、1958年に発行された北アイルランドの地方切手です。

 英国の地方切手は、もともと、第二次大戦後、ドイツによる占領から解放されたチャンネル諸島の観光宣伝のため、1940年代後半に提案された企画でしたが、その時点では実現せず、1958年になって、同諸島の他、マン島、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの各地で、エリザベス女王の肖像に各地の紋章やシンボルマークなどを入れた、その地域専用の切手として実現しました。

 このうち、北アイルランドの地方切手には、①アルスターの赤い手、②アルスターの赤い手と王冠、③亜麻、④アルスターの門柱、などがシンボルマークとして女王の脇に描かれている。今回ご紹介の6ペンス切手には、このうちの①と③が取り上げられています。

 切手に取り上げられた“アルスターの赤い手”は、かつてのアルスター王国(現在の英国北アイルランドの地域にほぼ相当)で王位継承をめぐるボートレースが行われた際、王位を望んでいた男が自らの左腕を切り落として岸に投げ、王位を勝ち取ったとの伝説に由来するもので、もとは、アルスター地方の族長だったオニール家の紋章として用いられていました。なお、切手に描かれている紋章は右手ですが、紋章としては、左手のヴァージョンや親指が開いているヴァージョンなどもあります。

 今回の記事では、このほかにも、IRAのテロの直後にセキュリティ・チェックを受けた郵便物などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 おかげさまでLV受賞しました
2013-08-07 Wed 02:56
 今月2日からバンコクで開催中の世界切手展<Thailand 2013>ですが、きのう(6日)、授賞式があり、正式な受賞結果が発表となりました。おかげさまで、僕の出品作品“Korea and the Cold War 1945-1953”は、5フレーム・初回の出品としてはほぼ最高レベルの大金銀賞(LV)を獲得することができました。(下はメダルを拝領した時の写真です)

      バンコク展授賞風景

 というわけで、きょうはこの切手です。

      韓国・国連軍参戦小型シート(タイ)

 これは、1951年に韓国が発行した国連軍参戦感謝切手の小型シートのうち、タイを取り上げた1枚です。タイでの切手展に朝鮮戦争のコレクションを出品して、目標を達成することができたことへの“感謝”の意味をこめて持ってきました。

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発すると、7月7日、国連安保理は北朝鮮の南侵を食い止めるべく、国連軍の創設を決議。翌8日、マッカーサーが国連軍司令官に就任しました。

 すでに1946年12月、“敗戦国”としては最初に国連への加盟を実現していたタイも、国連軍の一員として朝鮮に派兵。1950年9月、陸軍の第21歩兵連隊の第1大隊がまず朝鮮に到着します。

 開戦以来、朝鮮人民軍は奇襲攻撃の利を生かして破竹の勢いで南侵を続け、韓国・国連軍は朝鮮半島島南端の釜山周辺、いわゆる釜山橋頭堡にまで追い詰められ、北朝鮮による半島統一は目前に迫ったかのように思われていました。しかし、北朝鮮側の補給路が伸びきったところを見計らい、マッカーサーは9月15日に仁川上陸作戦を敢行。さらにソウルを奪還して朝鮮人民軍の補給路を断ち、南北からこれを挟撃します。その結果、朝鮮人民軍は北緯38度線以北へと退却を余儀なくされますが、退却できなかった将兵は韓国内の山中を拠点にゲリラ戦を展開しました。

 タイの第21歩兵連隊は、こうしたタイミングで朝鮮に到着しましたが、小規模の兵力しかなかったため、北朝鮮を殲滅するために韓国軍と国連軍主力(実質的には米軍)が38度線を越えて中朝国境の鴨緑江まで進撃を続ける間、主として38度線以南の地域で北朝鮮側の残地ゲリラの掃討戦に従事していました。

 その後、1950年10月、中国人民志願軍が参戦すると朝鮮戦争は実質的に米中戦争となり、戦況は膠着状態。こうした状況の下で、1951年7月31日から9月9日にかけて、朝鮮に派遣されたタイ軍は北緯38度線に近い漣川地区での防衛線に参加しています。タイ軍は、米第一騎兵師団とともに最前線に配置され、偵察任務を行いました。その後、パトロール中の8月18日、中国人民志願軍の2個中隊を発見して奇襲攻撃。敵に打撃を与え、9月7日、帰還しています。

 今回ご紹介の切手は、タイ軍が38度線以南に帰還した直後の9月15日に発行された1枚で、9月15日から10月14日までの1カ月間、ソウル中心部の光化門郵便局のほか、各道庁所在地の郵便局で発売されました。なお、切手発行後の1951年12月には、タイ軍は38度線を越えてすぐの港湾都市、海州付近で中国人民志願軍と戦っています。

 その後、朝鮮戦争は、1953年7月25日に板門店休戦協定が調印され、ひとまず戦闘は終結します。その直前の1953年3月23日から7月8日にかけて、タイ軍は高原道の漣川北西、板門店にも近いポークチョップ・ヒルでの戦闘にも参加しました。なお、休戦間際のポークチョップ・ヒルの戦いは、1959年にルイス・マイルストーン監督、グレゴリー・ペック主演の戦争映画『勝利なき戦い』の舞台となっているので、映画を見てご記憶の方もあるかもしれません。

 ポークチョップ・ヒルの戦いは、米第2師団とタイ第2歩兵連隊が中国人民志願軍第113師と戦った戦闘で、第2歩兵連隊は中国側の進撃を食い止め、その功績により“リトル・タイガー”の称号を与えられました。さらに、7月14日から休戦協定が調印された27日までは、軍事境界線に接する激戦の“鉄の三角地帯”(鉄原=平康=金化を結ぶ地域)内の、金化と平康の間に位置する第351高地での戦闘に参加し、接近戦でも中国人民志願軍に大きな打撃を与えています。

 なお、この時の防衛線が現在の軍事境界線となっており、平康郡の南面の一部分が韓国に、残る大部分は北朝鮮の統治区域となり、金化郡に関しては、南部の1邑7面(金化邑・西面・近北面の一部・近東面・近南面・遠東面の一部・遠南面・任南面の一部)が韓国の実行支配下に入ることになりました。平康・金化両郡は、北朝鮮側の当地区郁に入るものと想定されていただけに、タイ軍の活躍は韓国の支配地域をわずかとはいえ広げるものとなりました。

 こうして、タイ軍にとっての朝鮮戦争は終わります。タイ軍の兵員は陸海軍合わせてのべ1万9000名が参戦し、125名が戦死しました。その遺体は、当初は韓国・釜山のUN記念墓地に収容されましたが、のちに大半が祖国へ送り届けられたそうです。

 休戦に伴い、1955年1月にタイ海軍のコルベット艦は本国に帰還しましたが、その後も、1970年代まで地上部隊は韓国駐留を継続。そして、彼らの存在ゆえに、韓国に駐留していた国連軍部隊は、米軍以外の人員も含まれるという意味で、“国連軍”としての体裁を保つことになりました。

 さて、今回の結果を受けて、今後、僕が世界切手展に出品する“朝鮮戦争”のコレクションは、規模を8フレームに拡大して、金賞以上を目指していきます。これからも引き続き、皆様の御指導・御支援を頂戴できると幸いです。


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 世界漫郵記:アンペナン
2013-08-06 Tue 11:33
 ご報告が遅くなりましたが、『キュリオマガジン』2013年8月号が出来上がりました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」の“蘭印戦跡めぐり”は今回が最終回です。今回は〆として太陽加刷切手で有名なロンボク島のアンペナンにスポットを当てました。その記事で使ったモノの中から、この切手をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

       ロンボク・はがき

 これは、オランダ領時代の1894年にロンボクからスマラン宛に差し出された葉書です。

 もともと、ロンボク島にはササク人が住んでいましたが、17世紀に入ると、島の西部はバリ人の、東部はスラウェシ(セレベス)のマカッサル人の支配下に入り、18世紀中ごろまでにはバリ人がマカッサル人を駆逐して全島を支配するようになっていました。

 ロンボク西部はバリに隣接していることもあって、バリとの交流も盛んだったことから、バリ人の支配者とササク人は比較的良好な関係にありましたが、東部ではバリ人に対する反感が根強く、しばしば反バリ人の反乱も起きています。

 1891年、バリ島内での抗争の余波で、ロンボクのバリ人支配者であったアナック・アグン・グデ・ヌグラ・カランガスンがササク人に対して数千人の兵士を提供するよう求めたところ、ロンボク東部で反バリの反乱が発生。このため、バリのカランガスン王朝はロンボクに1万を超える大軍を送り込み、バリ人とササク人の間で激しい戦闘が行われました。

 ロンボクでの反乱が起きる以前から、オランダはバリ島への進出を加速させており、すでに、1846年には、前年(1845年)に島内のブレレン王とカランガスン王が同盟を結んでオランダに対決する姿勢を見せたため、難破船の引き上げを口実に、バリ北部に軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧。その後もバリを攻撃し、1849年、バリ北部を制圧しシンガラジャに植民地政庁を設置するなど、バリの植民地化を進めていました。ちなみに、オランダがバリ島を完全に制圧したのは、1908年のことです。

 こうした背景を踏まえて、1894年2月、ロンボクのササク人はバリ人と戦うため、“敵の敵”であるオランダに支援を要請。これを受けて、バリ以東への進出を進めていたオランダはササク人を支援してバリ人を制圧することを決定し、シンガポールからバリ側への武器の輸入をストップさせます。

 しかし、武器の禁輸措置は徹底されず、マタラムのバリ人はオランダの降伏勧告を受け入れなかったため、1894年7月、オランダはマタラムに出兵しました。

 今回ご紹介の葉書は、1894年8月3日、こうした戦闘の時期にロンボクからジャワ島のスマラン宛に差し出された葉書で、8月25日にスラバヤに経由して、翌26日、宛先地のスマランに届けられています。スラバヤ=スマラン間は1日で運ばれていることから考えると、通常なら、ロンボク=スラバヤ間は3-4日もあれば十分なのでしょうが、それにもかかわらず、ロンボクからスラバヤまで10日以上かかっています。戦闘の影響でアンペナンの港を出るのが遅れたからということなのかもしれません。また、葉書に押されている消印の表示は“ロンボク”となっていますが、これは、現在のアンペナン中央郵便局です。当時は島内には郵便局が1ヶ所しかありませんでした。

 さて、オランダ=ササク連合軍に対して、マタラムのバリ人は激しく抵抗し、8月25日に行われたタマン・マユラの攻防戦では、連合軍側に500名を超える戦死者が生じ、P.P.H.ファン・ハム将軍も捕えられて処刑されました。その後、オランダ軍はいったん撤退し、兵員・装備を増強したうえで11月にマタラムを再攻撃。同月末までにバリ人側勢力を殲滅し、ロンボク全島を制圧して、オランダ領東インドに編入しました。

 なお、ロンボク島の中心都市であるアンペナンについては、拙著『蘭印戦跡紀行』でも1章を設けて降りますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

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 ヴィエンチャンに来ています
2013-08-05 Mon 08:29
 世界切手展<Thailand 2013>も後半戦に突入ですが、僕は今回、コミッショナーでもなければ審査にタッチしているわけでもありませんので、比較的、時間に余裕があります。そこで、パルマレスまでの合間を利用して、思い切ってバンコクを抜け出し、現在、ラオスの首都ヴィエンチャンに来ています。バンコクへは今夜の夜行列車で戻りますので、せっかくなら現地にいるうちにと思い、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       タート・ルアン

 これは、王制時代のラオスで1959年に発行されたタート・ルアンの切手です。ちなみに、きのう(4日)、僕が実際に見てきたタートルアンはこんな感じでした。

       タートルアン・実物(塀の外から)

 タート・ルアンは、ラオスの国章にも描かれている仏塔で、ヴィエンチャンの、というよりもラオスのシンボルとして、切手にも何度か取り上げられています。もともと13世紀初頭に建てられたクメール様式の仏塔で、その後、廃墟になっていたものを、ルアンパバーンからヴィエンチャンに遷都したラーンサーン王国のセーターティラート王の命で1566年に改修したのが直接のルーツです。

 度重なる戦乱で何度も破壊され、現在の塔は1930年代の大修復後のもので、外壁の一辺は85mの正方形、その中に60mの正方形の土台があり、その上に塔が立っているという構造です。あいにく、塔の内部に入ることができず、周辺から外観を眺めるだけでした。実物のタート・ルアンは前身これすべて金ぴかという感じでしたが、切手を見ると中心となる大仏塔の周囲の塔は金色ではありませんので、金ぴかになったのは最近のことなのかもしれません。そういえば、タイ・チェンマイの古刹ワット・スワンドークも、1973年の切手では石肌が見える渋いつくりなのに、現在は金ぴかですからねぇ。日本人の感覚としては、時代を経て少しくすんで来たり、色が落ちて素材の地肌が自然と出ていたりする方が、味があって良いと思うのですが、そのあたりは美意識の差ということなんでしょう。

 なお、ワット・スワンドークに関しては、拙著『タイ三都周郵記』でも取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 橋の日
2013-08-04 Sun 13:36
 きょう(4日)は“橋の日”です。というわけで、橋を描く切手の中からこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       アンペラ橋

 これは、2009年にインドネシアで発行された南スマトラ州の紋章を取り上げた切手のシートです。南スマトラ州の紋章は、シートの余白に大きく取り上げられたパレンバンのアンペラ橋を図案化したデザインとなっており、この橋が南スマトラ州のランドマークになっていることがわかります。ちなみに、実際のアンペラ橋の風景はこんな感じです。(夜景スポットとしても知られているので、昼・夜両方の写真を貼っておきます)

       アンペラ橋(昼)     アンペラ橋(夜)

 アンペラ橋は、橋長1117m、幅員22で、水面からの高さは11.5m 、橋脚基礎からの塔の高さは78m という大型の橋で、インドネシアの初代大統領、スカルノの希望により、ロンドンのタワー・ブリッジに倣った跳ね橋として設計・建造されました。このため、開通当時、スカルノにちなんで“ブン・カルノ橋”と命名されています。建設資金は、1958年1月20日に調印された「日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定」に基づき、日本の戦争賠償としてインドネシア政府に供与された2億2308万ドル(当時のレートで803億880万円)から賄われています。

 橋の完成式典は1965年9月30日に行われ、スカルノ政権の陸軍司令官だったアフマド・ヤニが来賓として招かれましたが、ヤニは式典が終わってジャカルタに戻ったところ、いわゆる“9・30事件”に巻き込まれて殺害されてしまいました。その後、9月30日事件を経てスカルノが失脚すると、翌1966年、現在のアンペラ橋に改称され、現在にいたっています。

 なお、このあたりの事情については、拙著『蘭印歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 メコン川の“ウナギ”
2013-08-03 Sat 10:01
 きょうは土用の丑の日(二の丑)です。現在、世界切手展<Thailand 2013>に参加のため、バンコクにいる僕としては、当地の日本料理屋に行けば、もちろん、日本風のウナギの蒲焼なりうな重なりを食べることができるわけですが、それでは、ちょっと芸がないので、なにかこちらで“ウナギ(の仲間)”でも探してみようかと思っています。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       スパイニー・イール

 これは、1967年にラオスで発行された“スパイニー・イール”の切手です。

 スパイニー・イールは和名では“トゲウナギ”と訳されます。これは、外見がウナギのように見えることからつけられた名前ですが、生物学的にはウナギ目ではなく、ウナギに似た体型の熱帯魚という位置づけです。切手に描かれているのは、スパイニー・イールのうち、“タイヤトラック・スパイニーイール”と呼ばれるもので、これは黒褐色の網目模様がタイヤの跡のように見えることに由来しています。

 スパイニー・イールの棲息地は一般にはタイとされていますが、タイ=ラオス国境のメコン川にも棲息しているわけで、ラオスの切手に取り上げられたのもそうした事情を反映したものと思われます。

 さて、世界切手展<Thailand 2013>も、昨日(2日)、無事にスタートしました。今回は純然たる出品者としての参加ですので、6日のパルマレスまでは特にこれといった用事もありませんので、きょうは夕方から、寝台列車でタイ=ラオス国境のノンカイ駅まで行き、明朝、メコン川を越えてラオスに行ってこようかと思っています。川を渡るとき、橋の上から今回ご紹介して切手の魚が見られればラッキーですが、まぁ、難しいでしょうね。

 <オマケ>
 せっかく、土用の丑の日にタイにいるのですから、切手とは関係ないのですが、タイのウナギネタということで、こんな写真もご紹介します。

      タンブンのウナギ     ウナギを放す

 これは、2007年にチェンマイのワット・チャイモンコンを訪れた際、寺院に面したピン川でタンブン用のウナギ(左)を買って、川に放してやったところを撮影してもらったものです。

 タンブンとはタイ語で“徳を積むこと”の意味で、寺院や僧侶への寄進や喜捨が代表的な行いですが、寺院などでとらわれの小動物を買って、解放してやっても良いとされています。このため、タイではそれなりの規模の寺院には、タンブン用の鳥やウサギなどを売っている人たちもいます。

 こうした習慣を見ると、「捕らえられた小動物を放しても、すぐにそうした“商売人”が捕まえてきて、また別の人に売るのだから意味がないじゃないか」とか「彼らの行為は動物虐待なのだから彼らから小動物を買うのは悪事に加担することだ」といった批判をする外国人が時々いるようです。まぁ、理屈としては正しいのかもしれませんが、そもそも信仰心なんて常に不条理かつ非合理的なわけで、あんまり“正論”を振り回すのは野暮というものではないでしょうか。なにより、地元の人たちは、何百年も前から、タンブンとして小動物を放すことで心の平安を得ているのですから、そうした上から目線のエセ動物愛護主義者の連中には、余計なお世話だと言ってやりたいですな。

 さて、僕は子供の頃から鰻の蒲焼が大好物で(なにせ、誕生日にはケーキよりも蒲焼が良いという変なガキでした)、これまでに食べてきた蒲焼の枚数は、軽く数百枚にはなるのではないかと思います。そこで、タンブン用のウナギが売られているのを見つけた時には、おもわず、いままでの罪滅ぼしを兼ねて、売られていたウナギを買って放してやったというわけです。

 ちなみに、タンブンでは放してやる動物によって“ご利益”の質が違うのですが、ウナギを放してやると健康面でのご利益があるのだそうです。いままで、生死に関わる大病・大怪我をしたことがないのは、この時のタンブンのおかげなのかもしれません。

 なお、2007年にチェンマイを訪れた漫郵記は、拙著『タイ三都周郵記』でも詳しくまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 <Thailand 2013>開幕
2013-08-02 Fri 09:36
 きょう(2日)からタイの首都、バンコクのサイアム・パラゴンで世界切手展<Thailand 2013>がスタートします。というわけで、きょうはストレートにこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       <Thailand2013>小型シート

 これは、2013年3月22日、今回の切手展の事前周知を兼ねて発行された記念の小型シートで、タイの伝統工芸を取り上げた切手8点が収められています。取り上げられているのは、上段左から、沈金(漆芸の一種)の収納家具、漆喰工芸の獅子、伝統演劇コーンの仮面、螺鈿の壺、下段左から鍛金の象、鋳造のガルーダ、木彫の仏像、鏡面ガラスを埋め込んだヤックです。

 さて、今回の切手展は、1883年のタイ最初の切手発行から130年になるのを記念して開催されるもので、タイでの世界展の開催は1983年、1993年、2003年に次いで4回目のことです。

 今回、日本からは20点の作品が出品される予定で、僕も、(公財)韓昌祐・哲文化財団の研究助成を受けたプロジェクト「郵便学的視点による韓国戦争史の再構成」による成果発表の一部として、昨年の<JAPEX>で金賞を受賞した『冷戦と朝鮮』を国際展仕様に作り直した“Korea and the Cold War 1945-1953”を出品しています。昨日、バンコク到着後、コミッショナーの山崎好是さんのお世話で無事、作品の搬入も済ませましたので、今日はこれから、無事に作品が展示されているかどうか、まずはチェックしに行かねば。


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