内藤陽介 Yosuke NAITO
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 さよなら国立競技場
2014-05-31 Sat 17:26
 2020年東京五輪に向けて、7月から解体工事が始まる東京・国立競技場で、きょう(31日)、最後のイベントとなる「SAYONARA 国立競技場 FINAL “FOR THE FUTURE”」が行われました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      第3回アジア競技大会・国立競技場

 これは、1958年5月24日に発行された「第3回アジア競技大会」の記念切手のうち、会場となった国立競技場を取り上げた5円切手です。

 4年に1度開かれるアジア競技大会は、戦前の極東選手権競技大会と西アジア競技会が合併するかたちでスタートしました。

 このうち、前者は、1913年、“東洋オリンピック大会”の名の下にフィリピンで第1回の大会が開催されたのが最初で、以後、日本・中国・フィリピンの3ヶ国が持ち回りで主催者となり、1927年の第8回までは、2年ごとに開催されていました。その後は、オリンピックの中間年に行われることになり、第9回大会は1930年に東京で開催されました。なお、この大会からインドが参加国に加わったほか、1934年にマニラで開催された第10回大会からはオランダ領東インド(現インドネシア)も参加しています。しかし、いわゆる日中戦争(支那事変)の影響で、1938年に予定されていた第11回大会は中止とされてしまいました。

 一方、西アジア競技大会は、第1回大会が、1934年にニューデリーで、インド、アフガニスタン、セイロン(現スリランカ)、パレスチナ(英委任統治領)の4ヶ国が参加して行われましたが、こちらも、1938年に予定されていた第2回大会は欧州情勢の緊迫に伴い、中止に追い込まれています。

 こうして、戦争の影響で中断されていたアジア諸国のスポーツ交流ですが、1948年、アジア競技連盟が結成され、1951年3月、戦前の両大会を統合して第1回アジア競技大会がニューデリーで開催されました。このときの参加国は、アフガニスタン、ビルマ(現ミャンマー)、インド、フィリピン、セイロン、インドネシア、ネパール、タイ、シンガポール、イラン、日本の11ヶ国で、日本が優勝しています。

 第2回大会は、1954年5月、マニラで開催され、このときも日本が優勝しました。

 そして、1958年の第3回大会は、アジア競技連盟、東京都、日本体育協会の共催により、5月24日から6月1日まで、東京・明治神宮外苑の国立競技場 で開催されました。

 参加国は、アフガニスタン、ビルマ、カンボジア、セイロン、台湾、香港、インド、インドネシア、イラン、イスラエル、日本、韓国、マラヤ連邦(現マレーシア)、ネパール、北ボルネオ、パキスタン、フィリピン、シンガポール、タイ、南ベトナムの21ヶ国で、選手・役員2000名以上が参加しました。ちなみに、大会の総裁は皇太子殿下(今上陛下)でした。

 さて、会場となった国立競技場(正式名称は国立霞ヶ丘競技場・陸上競技場)の前身は、1924年10月にアジア初の本格的な陸上競技場として、青山練兵場跡地に建設された“明治神宮外苑競技場”で、陸上競技やサッカー、ラグビー等を行う総合競技場として利用されたほか、戦時中には学徒出陣の壮行会が行われたことでも知られています。

 神宮競技場は、東京オリンピックの招致をにらんでアジア競技大会が招致されると、1957年に取り壊され、その跡地に、建設省関東地方建設局(当時)の角田栄と設計・デザインの片山光生の二人を中心として国際大会にふさわしい競技場の建設が進められ、1958年の第3回アジア競技大会の開会にあわせて完成したのが、今回の切手に取り上げられている国立競技場です。

 なお、国立競技場は、第3回アジア競技大会の後、1959年5月26日にミュンヘンで開催されたIOC総会で、1964年の東京五輪開催が決まると、1962年3月から拡張工事が行われ、収容人員増のためのバックスタンドの増設、正面スタンドから見て右側にあった聖火台のバックスタンド中央への移設、グラウンド地下道の新設、電光掲示盤や夜間照明設備の改修などが行われ、現在の姿(と言っても、それも今日までのことですが…)となりました。


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 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は講座のポスター、右は講座の内容を紹介した5月20日付『中日新聞』夕刊の記事です。どちらもクリックで拡大されますので、よろしかったらご覧ください。
 

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 トリニダードのガンジー
2014-05-30 Fri 13:39
 今日(30日)は、カリブ海のトリニダード・トバゴでは、1845年にインド系移民が最初に到着したことを祝う“インド人到達の日”の祝日だそうです。以前、ガイアナの“インド人到達の日”について取り上げましたので、トリニダード・トバゴについても無視するわけにはいかないでしょう。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      トリニダードトバゴ・ガンジー像

  これは、1970年3月2日にトリニダード・トバゴで発行されたガンジー100年の記念切手のうち、トリニダード島サンフェルナンドのガンジー像を取り上げた1枚です。ガンジーが生まれたのは1869年10月2日のことで、生誕100周年は1969年のはずですが、切手はそれから5ヶ月遅れの発行となりました。

 さて、1834年、英国の支配下で奴隷制が廃止されたことを受けて、サトウキビやカカオのプランテーションが行われていたトリニダード島でも、労働者の不足を補うため、インドからの移民を受け入れることになりました。その第一陣がトリニダード島に上陸したのが1845年5月30日のことで、以後、1917年のまで間に、約14万8000人のインド人が、主にウッタル・プラデーシュ州とビハール州からトリニダード島およびトバゴ島に渡り、農場での過酷な労働に従事しました。ちなみに、現在のトリニダード・トバゴのうち、彼らの子孫を含むインド系は人口の約4割を占めています。

 トリニダード・トバゴが“インド人到達の日”を始めて祝ったのは、1845年から100周年にあたる1945年のことで、サン・フェルナンド(首都ポート・オブ・スペインの南42キロの地点にあるトリニダード・トバゴ最大の都市)のスキナー公園で植民地総督臨席のもとで行われた記念式典には、“インド”を代表する名士として、ガンジーも祝賀のメッセージを寄せています。

 その後、1948年にガンジーが暗殺されると、トリニダード・トバゴのインド系社会は彼を悼み、インドからガンジーの銅像を取り寄せ、1845年に式典が行われたスキニー公園に銅像を設置しました。今回ご紹介の切手に取り上げられているのが、その銅像です。

 なお、トリニダード島内には、首都のポート・オブ・スペインにもガンジー像があるのですが、こちらは杖をついて歩いている姿ですので、切手に取り上げられたスキニー公園の像とは容易に区別することができます。

 さて、ことし(2014年)は、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。トリニダード・トバゴも加盟国です)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。

 8月1-3日、東京・墨田区で開催が予定されている<全日本切手展2014>でも、これにちなみ、外務省の認定を受けた“日・カリブ交流年”の行事として“カリブ切手展”を併催の予定です。今後も、同展の事前プロモーションを兼ね、機会を見つけてカリブ共同体加盟諸国・地域の切手をご紹介していきたいと考えておりますので、よろしくお付き合いください。

 *本日午前中、カウンターが137万PVを越えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。  


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 国連平和維持要員の国際デー
2014-05-29 Thu 14:38
 今日(29日)は、国連平和維持活動 (PKO) にかかわった全ての人の献身と勇気を称え、PKOで命を失った人々を追悼する“国連平和維持要員の国際デー”です。というわけで、PKOがらみのマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハイチ・国連PKO

 これは、1995年4月、PKOとしてハイチに展開された国際連合ハイチ・ミッション(UNMIH)に参加のバングラデシュ軍の中佐が差し出したカバーです。料金無料のため切手は貼られておらず、UNMIHの封筒が使われています。

 1986年、長年にわたってハイチを支配してきたデュバリエ独裁政権が崩壊。以後、ハイチの政情は不安定化しますが、1990年12月、国連の選挙監視の下で史上初の民主的選挙が実施され、ジャン・ベルトラン・アリスティッドが大統領に当選しました。しかし、翌1991年9月、ラウル・セドラひきいる軍事クーデターによりアリスティッドが国外に退避するとともに、多くの難民が国外に脱出しました。

 当然のことながら、国際社会はハイチの軍事クーデターを非難し、米州機構は経済制裁を発動。さらに、1993年6月には国連による経済制裁も開始されました。

 このため、同年7月、米国の仲介により軍事政権とアリスティドとの交渉が行なわれ、軍事政権は10月をもって退陣するとの合意が成立。これをうけて、9月23日、安保理決議867号でUNMIHが設立され、民政復帰を支援することになりました。しかし、実際に10月に入っても軍事政権は退陣を拒否したため、国連は経済制裁を再開しました。

 それでも、軍事政権は退陣しなかったため、国連は、1994年7月31日に採択された安保理決議940号で、ハイチの正統政権(=アリスティッド派)支援のために多国籍軍を派遣。さらに、9月14日には米軍が介入することで、ようやく、軍事政権は退陣し、10月15日にアリスティドが帰国して、民政復帰を果たしました。

 その後、アリスティッド政権の下で事態は徐々に安定し、1995年6月の国会議員選挙と12月の大統領選挙ではアリスティッド派が勝利。これを受けて、UNMIHは徐々に規模を縮小し、1996年6月30日をもって国際連合ハイチ支援団(UNSMIH)に改編されました。

 しかし、その後もアリスティッド派と反アリスティッド派の対立から政治的混乱は続き、1999年1月以降、国会議員の任期切れにより国会は事実上の機能を停止。また、2000年の大統領選挙ではアリスティッドが当選したものの、野党側は選挙の無効を主張し、大統領退陣運動が激化します。そして、2004年に入ると、反政府武装勢力による主要都市の占拠が相次ぎ、2月29日、アリスティッドは亡命しました。

 このため、国連安保理は、ふたたび、ハイチ情勢安定化のための暫定多国籍軍を派遣。2004年6月1日には国連ハイチ安定化ミッションが発足し、2006年の大統領選挙ではルネ・ガルシア・プレヴァルが当選。プレヴァル政権下で治安情勢は徐々に安定しつつありましたが、2008年4月には国際的な食糧の高騰の影響で物価が暴騰したことをめぐり、大規模なデモが発生。またもや情勢が不安定しつつある中で、2010年に大地震が発生し、ハイチ社会は壊滅的な打撃を受けることになりました。ちなみに、2010年の大地震後には、わが国から陸上自衛隊もハイチに派遣され、首都ポルトープランスを宿営地とし、仮設住宅の建設に必要ながれきの除去や整地作業などを行っています。

 このあたりの事情については、拙著『事情のある国の切手ほど面白い』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。

 さて、ことし(2014年)は、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。ハイチも加盟国です)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。

 8月1-3日、東京・墨田区で開催が予定されている<全日本切手展2014>でも、これにちなみ、外務省の認定を受けた“日・カリブ交流年”の行事として“カリブ切手展”を併催の予定です。今後も、同展の事前プロモーションを兼ね、機会を見つけてカリブ共同体加盟諸国・地域の切手をご紹介していきたいと考えておりますので、よろしくお付き合いください。


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 ペニーブラック物語(2)
2014-05-28 Wed 18:45
 雑誌『キュリオマガジン』2014年6月号ができあがりました。僕の連載「ペニーブラック物語」は、前回に続き、今回も“前史”の話として、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      1ペニー郵便

 これは、1840年にスタートした“1ペニー郵便”で運ばれた郵便物の実例です。

 19世紀英国の郵便改革の具体的な第一歩は、ウィリアム4世統治下の1833年8月、庶民院(いわゆる下院)の新人議員、ロバート・ウォーラスが郵便制度改革の必要性を議会で訴えたことから始まりました。

 ウォーラスの提案を受けて1835年、ダンキャノン卿を長とする“郵政省に関する管理運営調査委員会”が院内に設置されると、郵便馬車の供給契約を公開入札にさせるなど、改革は一定の成果を挙げます。また、彼の努力により、1837年までに100以上もあった郵便関係の法律が5本に整理され、郵便改革に対する国民の関心も急速に高まりました。

 こうした時代背景の下で、“近代郵便の父”ローランド・ヒルが登場します。

 1837年、ヒルは『郵便制度の改革――その重要性と実行可能性』と題するパンフレットを刊行。郵便料金が高いため、人口の増加や産業の発展の度合いに比べて郵便の利用が増えない現状を指摘した上で、次のような提案を行いました。

 ①郵便料金を大幅に引き下げ、書状の基本料金を1ペニーとする。(料金引き下げによる需要の拡大)
 ②距離別の郵便料金制度をやめ、全国均一料金とする。
 ③手紙の用紙の枚数ではなく、重量別の料金体系を導入する。
 ④郵便料金は、受取人ではなく、差出人が支払う前納制とする。

 これらのうち、最後の提案が最終的にペニー・ブラックの発行につながるのですが、当初、ヒルは料金の前納方法として、①料金支払済みの印を郵便局の窓口で押す、②郵便料金込みのレターシート(便箋を折り曲げて封筒状にできるようにしたもの)を発売する、③裏にノリを引いた証紙を発売する、という3種類の方法を考えていたといわれています。

 ヒルの提案は、商工業者や一般大衆をはじめ、有力紙『タイムズ』でも支持され、1837年11月から、庶民院に「郵便料金に関する特別委員会」が設けられ、1839年8月、ヒルの提案を盛り込んだ1ペニー郵便料金法が公布されました。

 その結果、1840年1月10日から、2分の1オンス以下の書状基本料金を原則として全国一律1ペニーとする1ペニー郵便(ロンドン市内に限定されていた旧ペニー・ポストと区別するため、こう呼ばれる)がスタートします。

 今回ご紹介の郵便物は、1ペニー郵便開始後の1840年4月15日、イングランド南部イースト・サセックスのバトルから同中部ウェスト・ミッドランズのストールブリッジ宛に差し出された1ペニー郵便の実例で、料金支払い済みを示す“PAID”の文字の入った印と、1ペニーの郵便料金を示す“P1”の文字が赤で大きく書き込まれています。1840年5月のペニー・ブラック発行後も、切手を貼らない1ペニー郵便はしばらく継続されますが、今回は、ペニー・ブラック発行以前のものを持ってきたというのがミソです。

 さて、雑誌『キュリオマガジン』の今月号は、「シルクロードのコイン」を特集しています。「西洋と東洋が交わる道、古の栄華を極めた国々への誘い」と銘打ち、古代史のロマンあふれる内容となっておりますので、機会がありましたら、ぜひ雑誌を手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 バマコに行った東郷元帥
2014-05-27 Tue 16:33
 今日(27日)は、1905年の日本海海戦での勝利を記念した旧海軍記念日です。というわけで、東郷元帥がらみのマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      日本発バマコ宛カバー

 これは、1937年11月15日、神戸から、当時の仏領スーダン(現在のマリの前身)の首府バマコ宛のカバーで、外信印刷物の料金として、東郷元帥の4銭切手が1枚貼られています。カバーを運んだ英国船“ランチ”は、P&Oの所有で1925年1月24日に進水し、当初は英本国とボンベイ(ムンバイ)の間を就航していましたが、後に極東まで路線を伸ばしています。また、第二次大戦中は英国海軍に徴用され、仮装巡洋艦として用いられました。

 宛先のバマコはニジェール川沿岸の都市で、旧首府のカイからは517キロ南東に位置しています。市域は5つの丘に囲まれており、丘の麓の洞窟からは先史時代の岩画も発見されています。中世のマリ帝国の時代には交易の中心地との一つとして繁栄したこともありましたが、19世紀までにはすっかり衰退し、人口も数百人規模にまで落ち込んでいました。しかし、1880年、ジョゼフ・シモン・ガリエニひきいるフランス軍によって占領され、1883年以降、フランス支配下でのインフラ整備が進められてフランス風の建物が建ち並ぶ新市街が形成され、1908年、カイに代わって仏領オート・セネガル・ニジェールの首都となります。

 その後、第一次大戦後の仏領西アフリカ植民地の再編成の過程で、1921年12月1日、仏領オート・セネガル・ニジェールを改変して誕生したのが、今回のカバーの宛先国となっている仏領スーダンで、これが、現在のマリ共和国の直接のルーツとなりました。

 ちなみに、マリでは、今月17日から北部の砂漠地帯で、トゥアレグ分離独立勢力を含む複数の武装集団の連合組織と政府軍との間で激しい衝突が発生しており、反政府側組織のアザワド解放全国運動(MNLA)によれば、反政府側は政府軍の40人を殺害、70人を捕虜にし、政府軍から数十台の車両と数トンにのぼる武器・弾薬を奪ったとされています。

 これに対して、アフリカ連合の議長を務めるモーリタニアのアブドルアジズ大統領は、ルワンダ訪問を途中で切り上げ、MNLAをはじめ反政府勢力側と会談。これを受けて、23日に停戦合意が成立したばかりです。
 
 なお、マリとその近現代史については、拙著『マリ近現代史』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ガイアナ独立記念日
2014-05-26 Mon 10:16
 きょう(26日)は、南米のカリブ共同体加盟国、ガイアナの独立記念日です。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ガイアナ・独立加刷

 これは、1966年のガイアナ独立に伴い、英領ギアナ時代の地図を描く切手に、英領ギアナ改めガイアナの新国名と“独立”の文字、1966年の年号を加刷して発行された切手です。

 南米大陸北部の大西洋に面したギアナ(先住民の言語では“水の多い土地”を意味するガイアナ)地方は、オランダ、フランス、英国の3国によって分割されていました。1621年以降、オランダ西インド会社の管轄下にあった地域のうち、エセキボ・デメララ・バービスの3植民地が、ナポレオン戦争を経て1814年にそれぞれ個別に英領となり、1831年、英領ギアナとして統合されました。今回ご紹介の切手の地図は、この英領ギアナの範囲を示したもので、現在のガイアナ国家は、基本的に、これを踏襲しています。

 さて、第二次大戦後の英領ギアナでは、大幅な自治を認めた憲法が制定され、1953年に最初の総選挙が行われました。その結果、インド系のチェディ・ジェーガンを党首としてスターリン主義を掲げる人民進歩党(PPP)(PPP)が勝利。このため、英領ギアナの社会主義化を恐れた英国は、同年10月、4隻の軍艦と1600名の兵士を派遣し、憲法を停止して暫定政府による統治がスタートします。

 一方、インド系を中心とする急進左派政党であったPPPの躍進に危機感を持ったアフリカ系は、PPPから分裂するというかたちをとって、弁護士のフォーブス・バーナムを党首として穏健左派政党の人民国民会議(PNC)を結成して、対抗し。南米に社会主義政権が誕生することを恐れた宗主国の英国や南米を自国の裏庭と考える米国はPNCを暗に支援し、CIAはアフリカ系住民に対して「このままではインド系に支配される」というウワサを流し、“民族対立”をあおっていました。

 その後、1961年に新憲法が制定され、英領ギアナは完全な自治を獲得。これを受けて、同年1961年8月に行われた総選挙ではPPPが第1党となり、同年9月、首相に就任したジェーガンは、砂糖産業(アフリカ系労働者が多数を占めていました)や電力会社の国営化などの社会主義的政策を進めたため、1962年4月5日にはゼネストが宣言され、英領ギアナ全土で暴動が発生。混乱は1964年まで続き、この間、職場や住宅が放火されて約180名が犠牲になり、英領ギアナ知事サー・ラルフ・グレイの要請により英軍が派遣され、暴動は鎮圧されました。

 混乱が収束した後、1964年12月に行われた総選挙では、PNCが白人とも連携して勝利を収め、PNCのバーナムが首相に就任しました。これに対して、ジェーガンは選挙の無効を主張しましたが、バーナム政権は憲法改正によって、ジェーガンを追放します。

 ジェーガンの追放により、とりあえず、英領ギアナの社会主義化が阻止されたと判断した英国は、1966年5月26日、英領ギニアに対して英連邦内の自治領として独立することを承認。国名は先住民の言語でるガイアナと改称され、新国家の首相にはバーナムが就任しました。

 さて、ことし(2014年)は、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。ガイアナも加盟国です)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。

 8月1-3日、東京・墨田区で開催が予定されている<全日本切手展2014>でも、これにちなみ、外務省の認定を受けた“日・カリブ交流年”の行事として“カリブ切手展”を併催の予定です。今後も、同展の事前プロモーションを兼ね、機会を見つけてカリブ共同体加盟諸国・地域の切手をご紹介していきたいと考えておりますので、よろしくお付き合いください。


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 7月18日・8月29日・9月19日の3回、愛知県名古屋市の栄中日文化センターで、第一次大戦100年の企画として、「切手を通して学ぶ世界史」と題する講座を行います。

 講座では、ヨーロッパ、中東、日本とアジアの3つの地域に分けて、切手や絵葉書という具体的なモノの手触りを感じながら、フツーとはちょっと違った視点で第一次世界大戦の歴史とその現代における意味を読み解きます。

 詳細は、こちらをご覧ください。

 * 左の画像は第一次世界大戦のきっかけとなったサライェヴォ事件で暗殺されたオーストリア=エステ大公のフランツ・フェルディナンドと妃のゾフィーを描いた切手です。
 

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 ロバート・キャパ没後60年
2014-05-25 Sun 16:06
 1954年5月25日、第一次インドシナ戦争を取材中だった写真家ロバート・キャパが、北ヴェトナム・タイビン省のドアイタン近郊で地雷に抵触し、殉職してから、ちょうど60年になりました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ロバート・キャパ生誕100年

 これは、昨年(2013年)10月2日、キャパの祖国ハンガリーで発行されたキャパの生誕100周年の記念切手で、彼の作品の中から、「集団農場における干し草の収穫」が取り上げられています。

 20世紀を代表する報道写真家、ロバート・キャパは、1913年10月22日、ハプスブルク帝国支配下のブダペストでユダヤ系の家に生まれました。本名はフリードマン・エンドレ・エルネーです。

 ギムナジウム卒業後の1931年、共産党の活動に関与した容疑で逮捕されましたが、釈放後、ベルリンで写真通信社デフォトの暗室係に就職。しかし、1933年、反ユダヤ主義を掲げるナチス政権が発足したためベルリンを脱出してブダペストに逃れ、ヴェレシュ旅行社のカメラマンとなりました。

 貧しく無名の写真家であったフリードマンは、パートナーのゲルダ・タローとともに、架空の大物写真家“ロバート・キャパ”に成りすまして、自らの写真を通信社に売り込むことを計画。1936年に内戦が勃発したスペインを取材して撮影した写真のうち、「死の瞬間の人民戦線兵士(崩れ落ちる兵士)」の写真がフランスの『VU』誌、ついで米国の『LIFE』誌に掲載されたことで、ロバート・キャパの名は世界的な知名度を獲得しました。ただし、件の問題の写真は、戦場ではなく、訓練に参加した男が足を滑らせて後ろに転んだ場面を、フリードマンではなくゲルダが撮影したものであったことが、現在の研究ではほぼ確定されています。

 当初、“ロバート・キャパ”は、漫画の藤子不二雄のように、フリードマンとゲルダの共同のペンネームでしたが、その事実は明らかにされぬまま、1937年7月26日、タローがスペイン内戦の取材中に殉職したため、以後、フリードマン単独のペンネームとして定着することになりました。

 スペイン内戦の後、キャパは日中戦争の取材を経て、1939年に渡米。第二次大戦の勃発後は北アフリカ戦線、イタリア戦線の取材を経て、1944年にはノルマンディー上陸作戦に参加し、連合国上陸の場面をとらえた臨場感あふれる写真のほか、同年のパリ解放に際して対独協力者として頭髪を剃る辱めを受けたフランス人女性の写真など、写真史に残る傑作を相次いで発表し、戦争写真の第一人者としての地位を確立します。

 第二次大戦後の1947年には国際写真家集団「マグナム」の結成に参加し、1948年には第一次中東戦争を取材。ついで、1954年4月、日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念企画で来日し、人々の日常生活を取材していましたが、東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受けてヴェトナムに渡り、現地での取材中、いまから60年前の1954年5月25日に殉職しました。

 切手に取り上げられた「集団農場における干し草の収穫」は、1947年、作家のスタインベックとともにソ連を取材していた際、当時はソ連の一部だったウクライナの集団農場で撮影されたものです。

 ちなみに、当時のソ連国内は、“大祖国戦争”の終結から間もなく、多くの男性が戦死こともあり、農場で働く女性の多くは女性でした。こうした時代を反映して、農場で作業をしていた女性にキャパがカメラを向けると、彼女が「私は2度も夫を亡くしたんだよ」と言ったため、キャパは「じゃぁ、こんどは僕と結婚するかい?」と応え、彼女が大笑いしたというエピソードも残っています。


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 マンデラ 自由への長い道
2014-05-24 Sat 16:21
 南アフリカのアパルトヘイト撤廃に人生をささげた故ネルソン・マンデラ元大統領の自伝を映画化した「マンデラ 自由への長い道」が、きょう(24日)から全国公開されています。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ロベン島

 これは、2000年に南アフリカが発行したロベン島の切手です。

 ロベン島はケープタウン沖合およそ12キロの地点にある島で、面積は5.47平方キロ。名前の“ロベン”は、もともとはアザラシを意味するオランダ語です。

 周囲は海流が強いことから、脱出困難な監獄やハンセン氏病患者の隔離病棟などとして用いられてきた歴史があり、1959年以降は、マンデラをはじめ、アパルトヘイト体制に異議を唱える政治犯の収容所として使われていました。ちなみに、マンデラは1963年に逮捕されてから1990年に釈放されるまで27年間収監されていましたが、そのうち、1963年から1982年までロベン島で過ごしています。

 さて、アパルトヘイト撤廃後の1996年、ロベン島の監獄はすべて閉鎖され、現在では島全体が博物館として観光名所になっています。さらに、1999年12月、ロベン島はアパルトヘイトの記憶を伝える“負の世界遺産”として、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。

 当初、世界遺産に収録される物件の指定をユネスコと世界遺産委員会に対して答申する国際記念物遺跡会議は、ロベン島の登録に対して否定的な評価を下していたといわれています。アパルトヘイトほど極端ではないにせよ、多少なりとも、有色人種に対する差別の歴史を持つ欧米の委員の中には、出身国に対する批判のとばっちりを恐れる者もいたのかもしれません。

 これに対して、当時、ユネスコの事務局長で世界遺産委員会議長を兼任していた松浦晃一郎が世界遺産への登録を提案。これが受け入れられ、1999年の世界遺産委員会で登録が認められました。

 ところで、第一次大戦後の1919年2月13日、パリ講和会議において、日本全権の牧野伸顕は、新たに設立される国際連盟規の規約に、「人種あるいは国籍如何により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す」という人種差別撤廃の条項を入れるように提案しました。国際会議において人種差別撤廃が明確に主張されたのは、これが最初のことです。

 この時の日本の提案は、残念ながら、オーストラリアや米国上院の強硬な反対に遭い、米大統領ウッドロー・ウィルソンの裁定によって葬り去られましたが、それから80年後、ふたたび日本の代表が、人種差別の愚かさを後世に伝えるべく、“負の世界遺産”登録に尽力したということは、もっと日本国内でも知られていていいのではないかと思います。

 なお、このあたりの事情については、拙著『喜望峰』でも解説しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手に取ってご覧いただけると幸いです。


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 ジャマイカ・労働者の日
2014-05-23 Fri 22:19
 きょう(23日)は、ジャマイカでは“労働者の日”の祝日です。というわけで、この切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ジャマイカ・労働者の日

 これは、1968年にジャマイカで発行された“労働者の日”の記念切手で、独立後のジャマイカの初代首相を務めたウィリアム・アレクサンダー・クラーク・バスタマンテ夫妻の肖像が描かれています。

 1670年、ジャマイカの支配者はスペインから英国に変わりましたが、黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションを基本とする経済には変化はありませんでした、その後、プランテーションを逃げ出した逃亡奴隷とその子孫は自由を求めてイギリス植民地政府に対する反乱を繰り返したため、1838年までに、奴隷制度やそれに準じる徒弟制度は廃止されました。このため、1840年代から1910年代にかけて、ジャマイカではインド、アフリカ、中国、ポルトガル領マデイラ諸島から年季奉公の契約労働者が流入するようになります。

 1870年、米国資本によるバナナのプランテーションが本格的に行われるようになると、それまでのサトウキビに代わってバナナがジャマイカの主要な輸出品となりましたが、その結果、サトウキビのプランテーションで働いていた多くの労働者が失業。このため、多くの黒人労働者が職を求めて、ジャマイカから米国、キューバ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、パナマ地峡などのカリブ海沿岸に移住することになります。

 1920年代になると、ジャマイカの砂糖産業はますます衰退しましたが、1930年代になると世界恐慌の影響をまともに受けて労働者に対する給料の遅配や未払いが相次ぎ、暴動やストライキが多発するようになりました。こうした中で、1938年5月23日、ウェストモアランド教区フロームの製糖工場で大規模なストライキが発生。これを機に、ジャマイカ全土に暴動が拡大し、以後、ジャマイカの独立運動が本格化することになりました。

 大暴動発生前年の1937年、ジャマイカではアラン・クームスがジャマイカ労働組合(JWU)を結成していましたが、その会計係だったバスタマンテは、1938年のストライキに際して労働者のスポークスマンとして活躍。カリスマ的指導者として急速に台頭してJWUの実権を掌握し、JWUをバスタマンテ産業労働組合(BITU)へと改組するまでになりました。その後、1940年には破壊活動のために投獄されるものの、1942年に釈放され、1943年にジャマイカ労働党(JLP)を設立します。すでに、ジャマイカでは、バスタマンテの従弟にあたるノーマン・マンリーによって、1938年、人民国家党(PNP)が設立されており、これによって、JLPとPNPというジャマイカ2大政党制の基礎ができあがりました。

 その後、JLPとPNPの両党による英本国議会への働きかけもあり、1944年の「ジャマイカに関する勅令」により、ジャマイカでも普通選挙による議会が設置され、同時に総選挙が実施されると、JLPは最初の下院における32の席のうち22を獲得。1953年に植民地行政長官のポストが創設されるまで、バスタマンテはJLPの党首として、事実上のジャマイカ政府の指導者になりました。

 なお、バスタマンテは、1947-48年には首都キングストン市長を務めたほか、1962年にジャマイカが独立すると、初代首相に就任し、1967年まで政権を担当しています。

 ところで、独立以前のジャマイカでは、他の英連邦諸国・地域同様、ヴィクトリア女王の誕生日にあたる5月24日を“大英帝国の日”としていましたが、独立前年の1961年、英領ジャマイカの首相だったノーマン・マンリーが、大英帝国の日に代えて、独立運動の画期となった1938年5月23日の暴動の記念日を“労働者の日”として、“大英帝国の日”に代わる祝日とすることを提案。これが受け入れられて、1962年以降、5月23日がジャマイカの“労働者の日”の祝日となりました。

 今回ご紹介の切手は、1938年の暴動から30周年になるのを記念して発行されたものですが、切手に取り上げられたバスタマンテは、切手発行前年の1967年に首相を退陣しており、今回の切手にはその慰労の意味が込められていたとみることも可能かもしれません。
 
 さて、ことしは、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。ジャマイカも加盟国です)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。

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 竹富町には届かず
2014-05-22 Thu 22:25
 沖縄県の八重山地区(石垣市、竹富町、与那国町)で竹富町が独自に選んだリベラル色の強い中学公民教科書を使い続け、保守的な内容とされる教科書の採択を決めた八重山採択地区協議会からの離脱を表明している問題で、同県教育委員会はきのう(21日)、同町の八重山採択地区からの離脱を認め、町単独で採択地区を設けることを決めました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      沖縄・UHF回線開通

 これは、1969年7月1日、米施政権下の沖縄で発行された“沖縄本島・先島間UHF回線開通記念”の切手です。角型アンテナと(東から順に)沖縄本島、宮古島、石垣島、西表島の地図が描かれています。

 ここでいう先島とは、琉球諸島のうち、南西部に位置する宮古列島・八重山列島の総称で、尖閣諸島を含めることもあります。このうち、今回問題となった八重山地区で人が住んでいる島に関しては、行政的には、石垣島が沖縄県石垣市、与那国島が与那国町にそれぞれ属しているほかは、西表島を含む他の8島はすべて竹富町に属しています。

 さて、今回ご紹介の切手のUHF回線は、沖縄本島南部から宮古島を経て石垣島を結ぶ無線通信回線で、2000メガヘルツ帯のUHF電波を使用し、見通し外伝搬 によっています。700ワットの大出力送信機と16×16メートルの大口径アンテナから電波を発射し、対流圏で散乱した微弱な電波を相手局の同型の大口径アンテナと4重ダイバシティ方式の高感度受信機で受信する仕組みになっています。

 さて、今回の教科書採択の問題に関しては、八重山採択地区協議会からの離脱を求める竹富町と、「八重山地区の行政は一体」として現行の枠組み維持を希望する石垣市・与那国町とが対立していましたが、きのうの県教育委員会では、宮城奈々委員長が「3市町はそれぞれに独自性を有しており、一体性があるとは一概に言いがたい。竹富独自の教科書に対するニーズはある」として、竹富町の離脱に理解を示し、他の委員からも異論は出なかったそうです。

 今回ご紹介の切手では、純粋に電波の届く範囲を示すものとして、沖縄本島から宮古島を経て石垣島まではラインが通じているものの、石垣島と西表島の間にはラインが引かれていないデザインとなったわけですが、今回のような出来事があると、八重山地区とはいっても現在の行政区域でいう石垣市と竹富町の間には目に得ない溝があるような印象を受けてしまいます。まぁ、竹富町としても、行政全般に関して八重山地区からの分離独立を求めているということではないのでしょうが、中国の息がかかっていると思しき連中が琉球独立論を主張し始めている昨今、ちょっと気になる出来事ではありますな。


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 尾瀬で山開き
2014-05-21 Wed 11:31
 きのう(21日)、群馬、福島など4県にまたがる尾瀬国立公園で山開きがあり、尾瀬の本格的な登山シーズンが始まりました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      尾瀬

 これは、1962年9月1日に発行された“日光国立公園”の切手のうち、尾瀬ヶ原と至仏山を取り上げた1枚です。

 尾瀬は燧ケ岳の噴火活動によってできた湿原で、ミズバショウやミズゴケなど湿原特有の貴重な植物群落が見られることから、ほぼ全域が国立公園特別保護地域および特別天然記念物に指定されています。また、今回ご紹介の切手が発行されてから10年後の1972年、わが国の“ごみ持ち帰り運動”が始まった場所としても知られています。

 もともと、尾瀬地域は1934年12月4日に指定された“日光国立公園”の一部でしたが(このため、切手も“日光国立公園”の1種として発行されています)、2007年8月30日、日光国立公園から分割され、会津駒ヶ岳、田代山、帝釈山など周辺地域とともに“尾瀬国立公園”が新たに作られ、現在に至っています。

 さて、僕の通っていた小学校では修学旅行の行先が日光でしたが、その日程には尾瀬でのハイキングも含まれていました。すでに切手小僧だった僕は、尾瀬といえば水芭蕉というイメージから、45円切手のような水芭蕉が見られないものかと足元ばかりに目を凝らしていましたが、修学旅行の時期は夏休み中の8月で、すでに水芭蕉の開花時期(低地では4-5月、高地では融雪後の5-7月)は過ぎていたため、結局、花を見ることができす、大いにがっかりしました。おまけに、ずっと足元ばかり見ていたせいか、肝心の風景についてはほとんど印象に残っておらず、いまにして思えば、一体何しに尾瀬に行ったのやら…と思ってしまいますな。まぁ、子供なんてそんなものだといえば、それまでなんでしょうが。


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 タイ全土に戒厳令
2014-05-20 Tue 17:38
 昨年から政治混乱が続いているタイで、けさ(現地時間20日午前3時)、プラユット・チャンオチャ陸軍司令官が全土に戒厳令を発令し、国軍がすべての治安権限を掌握しました。タイでの戒厳令の発令は2006年にタクシン元首相を失脚させた軍事クーデター以来のことです。というわけで、今日はタイの国軍がらみということでこんなものを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      タイの砲兵

 これは、第一次大戦後の1920年12月にバンコクからエリトリア(アフリカ北東部、エチオピアの北側にある紅海沿岸の国で、当時はイタリア領でした)宛に差し出された絵葉書の絵面で、第一次大戦当時のタイの砲兵が取り上げられています。ちなみに、葉書に貼られている切手などについては、以前の記事でもご紹介したことがあるのですが、その時は絵面の話を書きませんでしたので、今回は絵面の方をご紹介します。

 タイにおける近代軍隊のルーツは、1852年、第2次英緬戦争でイギリスが海に面した下ビルマを併合したことに衝撃を受けたラーマ4世が軍制改革に乗り出し、歩兵・砲兵・海兵隊からなる常備軍を組織したことに求められます。

 その後、軍制改革はラーマ5世の時代にも引き継がれ、制度改革を経て、1874年には現在のタイ陸軍が創設されましたが、ラーマ6世の時代になると、それまで使用されていた旧式の大砲に代わって、新式の大砲が導入されることになります。これに伴い、1915年に陸軍士官学校を卒業し、見習士官として任官した軍の少壮エリートたちのうち、成績優秀な者は有無を言わさずに砲兵連隊に配属されました。後に、首相として絶大な権力をふるうことになるピブーンソンクラームもまた、このとき、中北部の第7砲兵連隊に配属された1人です。ちなみに、現在でも、タイの士官学校生の間では砲兵はエリートコースに直結する兵種として人気が高いそうですが、そのルーツはこうしたところにあるのかもしれません。

 さて、“大東亜戦争(タイでの第二次世界大戦の呼称)”後のタイでは、ヴェトナム戦争を含むインドシナ紛争の影響もあって、陸軍が政治的・社会的に大きな力を持っていました。しかし、1980年代に入り、インドシナ情勢が比較的安定してくると、外国からの投資が増え、陸軍に対する財界の依存度は相対的に低下していきました。

 こうした中で、1991年に陸軍によるクーデターが発生。クーデターの首謀者であったスチンダー・クラープラユーン(クーデター発生時は陸軍司令官)が1992年に首相に就任すると、これに反発し、民主化を求めた国民は、同年5月17日、元バンコク都知事のチャムロン・シームアンを指導者として、バンコクを中心に大規模な抗議デモを展開。これに対して、軍がデモ隊を武力で弾圧し、300名以上の死者が出る“血の5月事件”が発生しました。

 結局、事件は国王の仲裁により沈静化され、スチンダー・率いる軍事政権は退陣。元外交官で1991年3月から1992年3月まで首相を務めたアーナン・パンヤーラチュンが首相として再登板し、次期総選挙までの暫定政権を組織します。アーナン政権は、軍の政治介入に対する国民の不満を背景に、国営企業役員への軍人就任を制限するなど、軍の政治への影響力を低下させる政策を行いました。そして、1992年9月の下院総選挙を経て誕生したチュアン・リークパイの文民政権もまた、そうしたアーナン政権以来の路線を継承し、以後、軍の政治的影響力は大きく減じられることになりました。

 とはいえ、その後も国軍の政治的影響力は隠然たるものがあり、2006年9月20日には、タクシン派と反タクシン派の正装が激しさを増す中で、ソンティ・ブンヤラットカリン陸軍司令官を中心とする「民主改革評議会」がクーデターを起こしてタイ全土を掌握。憲法及び憲法裁判所と上下議会は停止され、国王を評議会の議長に、またソンティ自身を暫定首相に据えた暫定政権を発足させるなど、政治勢力としての国軍の影響力を見せつけています。

 プラユット司令官の声明によれば、今回の戒厳令は「(政権側と反政府デモ隊の政治対立により)暴力行為が激化する恐れがあり、平和と秩序の回復を図る」ためのものであり、クーデターではないとされています。実際、プラユット司令官本人は今年9月の退任を間近に控えてクーデターには否定的であるといわれていることに加え、今月15日には反政府デモ隊の集会拠点が襲撃され、デモ参加者ら3人が死亡、20人以上が負傷するなど、衝突による死者はこれまでに約30人にも上っており、プラユット司令官みずから、暴力が続けば「軍が行動を起こす」と警告していたという経緯もありますから、少なくとも現時点では、司令官の声明は額面通りに受け取ってよさそうです。

 現在、国軍は政権側と反政府デモ隊側双方に対し、事態打開に向けて早急に対話するよう促しているということですが、両者の話し合いがまとまらず、政治的空白が長期化するようであれば、今度こそ本当のクーデターに発展する可能性もあり、今後の推移からは目が離せませんな。


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 韓国・海洋警察庁解体へ
2014-05-19 Mon 15:08
 韓国の朴槿恵大統領は、今日(19日)、旅客船セウォル号の沈没事故への対応を巡って改めて謝罪し、事故への対応で批判の的となっている海洋警察庁を解体すると発表しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国・海洋警察60年

 これは、昨年(2013年)9月10日、韓国が発行した“海洋警察創設60周年”の記念切手で、海洋警察庁の徽章と3005トン級および3000トン級の警備艇が描かれています。切手が発行された当時の海洋警察は、海上での国民の生命と安全を守る組織として尊敬を集めており、それゆえ、こうした記念切手も発行されたのでしょうが、それから1年も経たぬ間に、本業である海難救助の不手際を理由に、組織として解体の憂き目に遭うとは、予想だにしなかったことでしょうな。

 さて、日本の海上保安庁に相当する韓国の海洋警察は、朝鮮戦争休戦後の1953年12月23日、内務部治安局に所属する海洋警察隊として釜山で発足しました。当初の主な任務は、韓国側が勝手に設定した李承晩ラインを越えた日本漁船の襲撃と船員の拿捕で、現在に至るまで韓国側が不法占拠する竹島周辺の警備を担当しています。

 その他の任務は、海上犯罪取締り、密輸・密入国の監視と取締まり、海難救助、領海警備、海洋環境保全、海上交通安全などで、機構としては、本庁の下に西海・南海・東海・済州の4つの地方海洋警察庁と仁川直轄海洋警察署があり、さらに、地方海洋警察庁の下に平沢・泰安・保寧・群山・木浦・莞島・麗水・済州・西帰浦・統営・昌原・釜山・蔚山・浦項・東海・束草の16海洋警察署が置かれています。

 組織上の所属は、内務部→商工部海務庁→内務部を経て、1991年に治安本部が警察庁として内務部の外庁(外局)となったことに伴い、海洋警察隊から現在の海洋警察庁と改称され、警察庁の所属機関となりました。その後、1996年には海洋水産部の外庁として独立しましたが、2008年、李明博政権による政府組織の改編により海洋水産部が廃止されたことで新設の国土海洋部に移管。ところが、昨年3月、朴槿恵政権下で海洋水産部が復活したため、ふたたび、その外庁となりました。

 ところで、韓国の海洋警察庁の現在の英文名称は“Coast Guard”で、直訳すると沿岸警備隊となります。この名称は、現在の韓国海軍の前身として1945年11月11日に発足した“沿岸警備隊”と同じです。このため、1953年の海洋警察隊発足に際しては、当初、旧沿岸警備隊(現海軍)と区別するため、英文名称は“National Maritime Police Agency”となっていました。その後、英文名称は“Coast Guard”に変更されたものの、韓国語名称は海洋警察のまま変更されませんでした。

 さて、今回の海洋警察庁の解体により、これまで海洋警察が担当してきた捜査・情報収集の業務は警察へ、救助・海上保安業務は新たに設ける国家安全対策機関へ移管されるとのことです。僕としては、この際ですから、韓国も竹島の不法占拠も止めて、竹島に関わっていた海洋警察のスタッフは海難救助や犯罪捜査など、本来の警察業務に専念すればいいじゃないかと言いたいところなんですが…。
 

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 国旗の日(ハイチ)
2014-05-18 Sun 12:16
 今日(18日)は、ハイチでは“国旗の日”の祝日だそうです。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ハイチ・五輪

 これは、首都ポルトープランスでのスタジアム建設のため、1940年にハイチで発行された寄附金つき切手で、近代五輪の父とされるピエール・ド・クーベルタン男爵を中心にハイチの国旗(市民旗)と五輪旗が描かれています。切手上にある1900年の年号は、同年のパリ五輪にハイチ選手1名が参加したことがハイチ選手団の五輪初参加だったことにちなむものです。なお、1900年のパリ五輪以降、1924年のパリ五輪までハイチ人選手の五輪参加は途絶え、その後は参加と不参加を繰り返しています。

 さて、ハイチの国旗は、フランスからの独立戦争さなかの1803年5月18日、首都ポルトープランスの北方30キロの地点に位置するアーカイェで、独立運動の指導者で独立後の1805年に“ハイチ皇帝”となるジャン=ジャック・デサリーヌによって制定されました。国旗のデザインは、旧宗主国のフランス国旗から、白人を連想させる白を除いて赤と青の二色旗としたものです。

 なお、ハイチではデュヴァリエ父子による独裁体制下では、国旗のデザインも赤と黒の垂直二色旗(政府旗は中央に紋章入り)が採用されていましたが、独裁政権の崩壊後、赤・青の二色旗が復活しました。

 なお、ハイチのみならず、中南米などでは国旗を政府機関によって公的機関にのみ掲げられるの掲げる政府旗(公用旗)と、政府とは無関係の一般市民などでも自由に掲げられる市民旗を区別している国があります。その場合、多くの国では、政府旗は市民旗の中央に国章を置いたデザインとするのが一般的で、ハイチの場合も、今回ご紹介の切手に描かれた市民旗の中央に国章を配したものが政府旗となっています。

 ところで、この切手が発行された1940年のオリンピックは第2次世界大戦のために中止となりましたが、その前の1936年のベルリン五輪では、ハイチ国旗として競技場に掲揚されていたのは市民旗でした。ベルリンの競技場はハイチ政府の公的機関でないためです。ところが、そのデザインが当時のルクセンブルク国旗と全く同一だったことが問題となったため、最終的に、ルクセンブルク側が国旗の中央に王冠を入れることで決着が図られました。

 さて、ことしは、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。ハイチも加盟国です)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。8月1-3日、東京・墨田区で開催が予定されている<全日本切手展2014>でも、これにちなみ、特別企画としてカリブ切手展を併催の予定です。今後も、同展の事前プロモーションを兼ね、機会を見つけてカリブ共同体加盟諸国・地域の切手をご紹介していきたいと考えておりますので、よろしくお付き合いください。


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 ラオスで軍用機墜落
2014-05-17 Sat 16:49
 ラオス北東部のシエンクワーン県で、けさ(現地時間17日06時15分頃)、ドゥアンチャイ・ピチット副首相兼国防相夫妻や国会議長ら少なくとも18人を乗せたラオス空軍機(アントノフ74型)が墜落。副首相兼国防相ら少なくとも5人の死亡が確認され、女性1人を含む3人の生存者が見つかったものの、現時点では詳細は不明だそうです。というわけで、シエンクワーン県にちなんでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      パテートラーオ・ジャール平原

 これは、1961年にパテート・ラーオが発行した切手で、ジャール平原で国旗を掲げるパテート・ラーオの兵士が描かれています。

 ラオス北東部、ヴェトナムのゲアン省と接するシエンクワーン県のうち、アンナン山脈の北端に位置する平原には、紀元前500-後800年に古代モン・クメール族が使っていた石壺 が散らばって埋められています。1930年代にこの地を発掘調査したフランス人考古学者は、石壺(jars)にちなんで、この地を“ジャール平原”と命名。後に、この地名は平原全体を指す言葉としても使われるようになりました。

  旧仏領インドシナのうち、現在のラオスの地では、第2次大戦末期の1945年3月、日本軍によっていわゆる明号作戦が発動され、同年4月、日本の影響下でシーサワーンウォン王がラオス独立を宣言しました。

 ところが、戦後、インドシナ支配の復活をもくろむフランスが再進駐して第一次インドシナ戦争が勃発すると、国王シーサワーン・ウォンは独立を撤回。これに不満を持つ民族主義者はラオ・イサラ(自由ラオス)を結成しましたが、フランスはシーサワーン・ウォンに内政の自治権を与えて懐柔するとともに、ラオ・イサラを攻撃。このため、ラオ・イサラの指導者たちはタイに亡命政府を樹立して抵抗を続けました。

 その後、ラオ・イサラの指導者はシーサワーン・ウォンと妥協し帰国する者と、あくまでも妥協を拒否する強硬派に分裂し、後者のスパーヌウォン王子らは1950年8月、北東部のサムヌア省を拠点に左派のネオ・ラオ・イサラ政府を樹立。1951年にはホー・チ・ミン率いるヴェトミン等とインドシナ合同民族統一戦線を結成し、抗仏闘争を展開しました。

 シーサワーン・ウォンのラオス王国は、1953年11月に完全独立を達成しますが、ネオ・ラオ・イサラも、ラオス北東部のサムヌア省を拠点に、ヴェトミンと連携してラオス北部をほぼ支配。そして、翌1954年にジュネーヴでインドシナ停戦協定が調停されると、①全外国軍隊はラオス領内から撤退する、②ネオ・ラオ・イサラ軍は中南部10県から撤収し北部2県に結集する(=北部2県の実効支配は認める)、③国際休戦監視委員会による停戦監視を行う、ことが決められました。

 その後、1957年にはシーサワーン・ウォン政府とパテート・ラーオ(1956年にネオ・ラオ・イサラが改称)、さらに中立派の3派による統一政府が樹立されましたが、1958年に発足した親米右派のプイ・サナニコーン政権は左派系の政治家を追放したため、パテート・ラーオ派の兵士が王国軍から集団脱走。1959年にはスパーヌウォン自身が一時政府に軟禁され、パテート・ラーオ軍と政府軍の間で内戦が勃発します。

 その後、1960年8月9日、落下傘部隊の司令官コン・レーが、右派政権に対するクーデターを起こして首都ヴィエンチャンを制圧。スワンナ・プーマを首班とする中立派政権を樹立します。

 しかし、プーマは政権にパテート・ラーオを取り込もうとしたため、ノーサヴァン率いる軍の親米派が米国とタイの支援を受けて反攻。タイがラオスへの物資輸送を凍結したこともあって、プーマ政権は1960年12月には崩壊し、プーマ自身もカンボジアに亡命し、親米派のブン・ウムが首相となりました。ただし、プーマは首相辞任を拒否し、1961年2月にはカンボジアから帰国してジャール平原のカンカーイでコン・レー軍と合流して抵抗。3月9日からの戦闘では、パテート・ラーオと中立派の連合軍がノーサヴァン率いる親米派に大打撃を与え、首都ヴィエンチャンは陥落寸前に追い込まれた。

 今回ご紹介の切手は、こうした状況の下で、パテート・ラーオ側が発行した切手で、ジャール平原の兵士たちを描き、同地での勝利を表現したものです。ちなみに、内戦の勃発に伴い、パテート・ラーオ側は王国政府の正統性を認めないという立場から従来の切手の使用を拒否し、自らの支配地域においては独自の切手を発行していましたが、指導者のスパーヌウォンが王族であったこともあり、自分たちこそが“ラオス王国”の正統な後継者であるとの意を込めて、切手の国名表示は“ラオス王国”を意味する“ROYAUME DU LAOS”としていました。

 さて、親米派が危機に陥ったことで、1961年1月に発足したばかりの米ケネディ政権は、「もしラオスが共産主義者の手に落ちたら、タイ、カンボジア、南ヴェトナムに信じられないほどの大きな圧力をもたらすであろう」との“ドミノ理論”のアドヴァイスを前任者のアイゼンハワーから受けていたこともあって、米軍のラオス出動準備を発令。第7艦隊がシャム湾に急派され、ヴィエンチャンからも近いタイ国内のウドーン空軍基地内に秘密裏にヘリコプター部隊用の基地が設置されました。その上で、3月23日、ケネディは「ソ連や北ヴェトナムに支援されたラオス共産軍の大攻勢に対して、米国はラオスの中立を守るため何らかの対応策を取る」と述べ、ラオスへの軍事介入を示唆します。

 4月に入ると、ラオスの隣国、タイのサリット政権から「航空管制システムを確立するために」との要請を受けたことを理由に米空軍の先遣隊がドーンムアンに到着。さらに、フィリピンのクラーク空軍基地から第509要撃飛行隊からF-102戦闘機もドンムアンに派遣され、自力での防空が難しかったタイ空軍の防衛力を補完しています。

 米国の強硬姿勢を受けて、1961年5月3日、ラオス国内では3派の停戦合意が成立。同月6日から、タイを含む関係14ヵ国会議がジュネーヴで開かれ、米ソ両国が“ラオス人により選ばれた政府の下での、中立で独立したラオス”を支援することで合意し、6月23日、中立派のプーマを首班とする連合政府が発足し、内戦はいったん収束しました。

 しかし、翌1962年5月には、パテート・ラーオが、ラオス北西部の親米派5000の軍が駐留していたナムターを攻略。このため、5月11日、米国が第7艦隊をシャム湾に派遣し、5月15日には海兵隊1800人をタイに派遣すると、パテート・ラーオが攻撃を止めて親米派と妥協するなど、その後も、ラオスの内戦は1975年まで間欠的に続いていくことになります。
 
 なお、ジャール平原といえば、日本では、1961年に謎の失踪を遂げた辻政信が最後に確認された場所と行った方が通りが良いかもしれません。ノモンハンやガダルカナルなどで陸軍の参謀だった辻は、敗戦後の数年間を国内外で潜伏したのち、戦記を発表してベストセラー作家となり、1952年以降、衆議院議員(4期)、参議院議員(1期)を歴任しました。参議院議員在任中の1961年4月、北ヴェトナムでホーチミンと会うことを目的として東南アジアを外遊。ラオス入りした後、仏教の僧侶に扮してラオス北部のジャール平原へ単身向かった後、行方不明となり、1968年7月20日付で死亡宣告が出されています。

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 岩のドームの郵便学(17)
2014-05-16 Fri 14:56
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『本のメルマガ』535号が先月25日に配信となりました。僕の連載「岩のドームの郵便学」では、今回は、第3次および第4次中東戦争の戦間期のアラブ世界の状況のうち、リビアにスポットをあてました。その中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      リビア・岩のドーム(1973)

 これは、1973年1月10日、リビアで発行された岩のドームの切手です。

 1969年9月1日、エジプトの西隣に位置するリビアでムアンマル・カッザーフィー(以下、カダフィ)陸軍大尉がクーデターを起こし、政権を掌握しました。

 現在のリビア国家の枠組は、1949年にサヌーシー家のイドリース1世が独立を宣言したキレナイカ(現在のリビア国家のほぼ東半分に相当)と、イタリアの植民地だったトリポリタニア(西北沿岸部)およびフェザーン(西南内陸部)が連合し、1951年にイドリース1世を元首とするリビア連合王国を結成して独立したことによってできあがりました。

 親西側政策を採ったイドリース1世の治世下では、1955年から国際石油資本によって石油開発が進められ、産油国として莫大な石油収入が流入しましたが、一部の特権階級に富が集中し、多くの国民はその恩恵にあずかることはできず、生活は貧しいままでした。

 そうした国民の不満を背景に、イドリース1世の外遊中にクーデターを起こしたカダフィは、思想的にはエジプト革命に感化されたナセル主義者でした。ちなみに、クーデター当時のカダフィの実際の階級は大尉でしたが、尊敬するナセルが大佐を自称(実際は少佐)していたのを真似て、“大佐”を自称するようになったのが“カダフィ大佐”という呼称のもとになったといわれています。

 イドリース1世時代のリビアは、一般の国民感情としてはともかく、現実の政策としてパレスチナ問題に対してなんら積極的なアクションを起こしていませんでしたが、カダフィは、1970年にナセルが亡くなると、その衣鉢を継いで汎アラブ主義の後継者を自認し、PLO やその傘下のテロ組織を支援して反イスラエルの旗印の下でアラブ諸国を糾合しようとします。

 当時、ファタハPFLPのテロ活動の背後にはリビアの影が見え隠れすることも珍しくはありませんでした。その典型的な事例が、いわゆるミュンヘン五輪事件です。

 ミュンヘン五輪開催中の1972年9月5日、ファタハが組織した秘密テロ組織の“ブラック・セプテンバー”は、五輪選手村でイスラエル選手団を人質にとって、イスラエル国内に収監されているパレスチナ人200人の解放を要求。銃撃戦の末、人質9名全員と警察官1名が死亡し、犯人側は8名のうちリーダーを含む5名が死亡し、残りの3名が逮捕されました。

 ところが、同年10月29日、ブラック・セプテンバーのメンバー2人が、パルマ・デ・マリョルカ発フランクフルト行きのルフトハンザ615便をハイジャックし、人質となった乗客と交換に、ミュンヘン五輪事件で逮捕された3人の釈放を要求。これに対して、当時の西ドイツ政府は、イスラエル政府と協議することなく、即座にハイジャック犯の要求に応じ、収監中のブラック・セプテンバーのメンバー3人を釈放してしまいます。

 釈放された3人は、その後、“アラブの英雄”として堂々とリビア入りを果たしており、一連の事件にカダフィ政権が関与していることが明らかになりました。

 今回ご紹介の切手は、そうした“英雄”たちの凱旋を受けて、1973年1月10日に発行されたものです。さすがに、テロ行為を直接的に称揚するような文言はありませんが、アラブ世界において、岩のドームが“(シオニスト国家イスラエルの占領から)解放されるべきエルサレム”のシンボルとなっている以上、この時期にこうした切手を発行するのは、イスラエルに対する一種の勝利宣言と見ることも可能かもしれません。

 これに対して、切手発行から1ヶ月後の1973年2月21日、トリポリ発カイロ行きのリビアン・アラブ航空114便が悪天候のため既定のルートを外れ、イスラエル占領下のシナイ半島上空を通過した際、イスラエル空軍機は容赦なく同機を撃墜。乗員8名、乗客105名のうち副操縦士と乗客4名を除く108名が死亡する大惨事となりました。

 イスラエル当局は、イスラエル空軍による114便の撃墜は“不幸な偶然が重なった事故”として犠牲者の家族に対する賠償金の支払いを約束したものの、アラブ世界ではこれを額面通りに受け取る者は少なく、事実上、イスラエルによる報復措置と理解する者が大半でした。

 こうした経緯を経て、“事故”から7ヶ月余りが過ぎた1973年10月6日、第4次中東戦争が勃発すると、カダフィ政権は、リビア国家として初めて、アラブ遠征軍に加わり、イスラエル軍と直接刃を交えることになります。

 * 昨日(15日)、よみうりカルチャー北千住にて行った「切手が語る台湾の歴史」は、無事、盛況のうち終了いたしました。ご参加いただいた皆様には、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 “化外の地”台湾と琉球
2014-05-15 Thu 10:26
 きょう(15日)は、沖縄の祖国復帰記念日です。くわえて、かねてご案内の通り、僕自身は、13:00からよみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。というわけで、沖縄と台湾の双方に関わるモノとして、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      台湾総督府第13回始政記念絵葉書(記念碑)

 これは、1908年6月17日、日本統治地代の台湾総督府が発行した“台湾総督府第13回始政紀念”の絵葉書で、1874年の“台湾出兵”の舞台となった石門(地名)の風景と琉球藩民の碑が描かれています。また、左上には、1銭5厘の菊切手を貼って、発行日の淡水局の記念印が押されています。
 
 1871年11月、琉球の宮古島から首里への年貢を運んで帰る途中の御用船が台風による暴風で遭難し、台湾南部の八瑤湾に漂着しました。漂着した乗員は先住民のパイワン(排湾)族牡丹社に救助を求めたものの、逆に牡丹社にあった彼らの集落へ拉致されてしまいます。乗員と排湾族の間では言語の壁もあってコミュニケーションがうまく取れず、乗員が逃げ出すと、排湾族はこれを敵対行為とみなして54名が殺害されました。その後、生き残った12名は現地在住の漢人の移民により救助され、福州経由で宮古島へ送り返されました。

 さらに、翌1872年にも、備中国浅口郡柏島村(現在の岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が発生。このため、1873年、日本の外務卿・副島種臣が清朝に対して賠償を求めると、清朝側の交渉窓口となっていた吏部尚書・毛昶熙は「台湾生蕃の地は化外に置き政教逮はず」などと返答し、清国の領土ではないことを主張して責任を逃れようとしました。

 そこで、1874年5月6日、西郷従道ひきいる3000名が台湾南部・屏東車城に上陸して、事件の発生した地域を制圧しました。これがいわゆる台湾出兵です。

 台湾出兵は、日本側から清朝に対して事前の通告が行われなかったこともあり、清朝側はこれに抗議して撤兵を要求。このため、英国公使ウェードの斡旋で和議が進められ、10月31日に調印された「日清両国互換条款」により、清朝が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、 遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両、戦費賠償金40万両の計50万両を日本側に支払い、生蕃(先住民)取締を保証するということで、日本側は1874年12月20日までに撤兵することで決着しました。なお、この条款により、結果的に清朝は日本軍の行動を承認したことになり、琉球民は日本人であり、琉球は日清両属ではなく日本にのみ帰属することが国際法上も明らかにされました。

 今回ご紹介の絵葉書は、戦場となった石門の風景と西郷従道が建立した“琉球藩民の碑”裏面の碑文を取り上げたもので、碑文には、台湾出兵に至る経緯が漢文で記されています。ちなみに、日本統治時代、石門を含む“牡丹社”の地域は高雄州恒春郡の管轄とされていましたが、戦後は“牡丹郷”と改称されて高雄県牡丹郷となり、国府台湾遷移後の1950年以降は屏東県の管轄となっています。日本の文献で“恒春の石門”という記述がみられるのは、こうした事情によるものです。なお、周囲に描かれている花は恒春の胡蝶蘭で、背景には、先住民の作る織物の柄がデザインされています。


 ★★★ 切手が語る台湾の歴史 ★★★

 5月15日13:00から、よみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。

 切手と郵便はその地域の実効支配者を示すシンボルでした。この点において、台湾は非常に興味深い対象です。それは、最初に近代郵便制度が導入された清末から現在に至るまで、台湾では一貫して、中国本土とは別の切手が用いられてきたからです。今回の講演では、こうした視点から、“中国”の外に置かれてきた台湾(史)の視点について、切手や郵便物を題材にお話しする予定です。

 参加費は無料ですが、事前に、北千住センター(03-3870-2061)まで、電話でのご予約が必要となります。よろしかったら、ぜひ、1人でも多くの方にご来駕いただけると幸いです。


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 サンタ・マリア号の残骸?
2014-05-14 Wed 23:00
 カリブ海の島国ハイチ沖で2003年に発見された沈没船の残骸が、1492年のコロンブスの航海(いわゆる“新大陸発見”の航海です)で旗艦として用いられた“サンタ・マリア号”である可能性があると、昨日(13日)、米国の海洋研究者が発表しました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       ハイチ・ナヴィダー砦

 これは、1971年にハイチで発行されたクリスマス切手で、サンタ・マリア号の残骸で作られたとされるナヴィダー砦の絵が取り上げられています。ちなみに、この絵はコロンブス自身の手によるスケッチだそうです。

 サンタ・マリア号は、1492年、コロンブスが最初に行った大西洋横断航海のときに使われた3隻の帆船のうちの最大の船で、長さは約18メートルです。

 1492年8月3日、パロス港を出航したコロンブスの艦隊は、同年10月12日、サン・サルバドル島に到達。その後、キューバ島を経て、同年12月6日、イスパニョーラ島(当時の現地名はキスケーヤ)のサン・ニコラス岬(現ハイチ領)に到達します。その後、一行は島の北岸を東に向かい、探検を続けたものの、12月24日、サンタ・マリア号は強風を受けて座礁しました。

 ちょうどクリスマスの日だったことから、これを神の啓示と考えたコロンブスは、サンタ・マリア号の残骸を用いて砦を建設。スペイン語で“クリスマス”を意味するナヴィダー砦と命名し、ここをアメリカ大陸における最初の“入植地”として39名の守備隊を残し、残りの2隻で本国に戻りました。

 翌1493年9月、コロンブスは17隻1500名の大船団で2回目の航海に出発。11月にドミニカ島に到着し、その後、ナヴィダー砦に向かいます。しかし、ディエゴ・デ・アラーナ司令官以下守備隊の39名は、黄金を求めて現地で略奪を繰り返した末に、カオナボ首長との戦闘に敗れて殺害され、コロンブスが戻ってきたときには砦も焼き払われていたそうです。

 さて、ことしは、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。ハイチも加盟国です)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。8月1-3日、東京・墨田区で開催が予定されている<全日本切手展2014>でも、これにちなみ、特別企画としてカリブ切手展を併催の予定です。今後も、同展の事前プロモーションを兼ね、機会を見つけてカリブ共同体加盟諸国・地域の切手をご紹介していきたいと考えておりますので、よろしくお付き合いください。

 
 ★★★ 切手が語る台湾の歴史 ★★★

 5月15日13:00から、よみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。

 切手と郵便はその地域の実効支配者を示すシンボルでした。この点において、台湾は非常に興味深い対象です。それは、最初に近代郵便制度が導入された清末から現在に至るまで、台湾では一貫して、中国本土とは別の切手が用いられてきたからです。今回の講演では、こうした視点から、“中国”の外に置かれてきた台湾(史)の視点について、切手や郵便物を題材にお話しする予定です。

 参加費は無料ですが、事前に、北千住センター(03-3870-2061)まで、電話でのご予約が必要となります。よろしかったら、ぜひ、1人でも多くの方にご来駕いただけると幸いです。


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 四川省でバス放火事件
2014-05-13 Tue 15:19
 きのう(12日)、中国・四川省宜賓市で漢族の男による放火で路線バスが爆発し、1人が死亡、77人が負傷する事件がありました。というわけで、今日は“四川省”に絡んでこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       限四川貼用

 これは、1933年に発行された“限四川貼用”の加刷切手です。

 辛亥革命後の中国は、各地に軍閥が割拠し四分五裂状態になっており、通貨も各地の軍閥が独自に発行していました。このため、各地の通貨間には為替差が存在しましたが、なかでも、新疆東北、雲南、四川などでは北京や上海、南京など都市部との為替差が大きかったため、為替差損・差益を防ぐため、使用地域を限定した加刷切手が発行されています。ちなみに、今回ご紹介の切手は四川省でのみ有効という意味で“限四川貼用”との加刷がなされたものです。切手が発行された翌年の1934年、四川省では官営の四川省銀行が設立され、当時の中国国民政府の1銀元を1.6元とする四川省銀行券が発行されています。

 切手が発行された1933年当時の四川省の領域は、現在の中華人民共和国四川省の領域から、カンゼ・チベット族自治州を除いた領域に相当していました。カンゼ・チベット族自治州は、1933年の時点では、国民政府の支配は県城と主要街道にしか及ばず、大半はチベットのカム諸侯が実効支配する川辺特別地区でした。その後、いわゆる日中戦争の勃発にともない、国民政府は国内の戦時統制を強化する必要から、川辺特別地区の領域を“西康省(“康”はカムのことです)”に再編したものの、その実効支配はディチュ河東岸に限られていました。しかし、1950年、西康省はこの地に侵攻した人民解放軍によって占領され、東部地域が西康省蔵族自治区として分割された後、さらに、カンゼ・チベット族自治州に格下げされ、1955年、四川省に吸収合併されて消滅。現在の四川省ができあがりました。

 さて、中国では、近年、社会に対する不満や絶望感から無差別に一般市民を殺傷する事件が多発しています。今回の事件に関しては、犯行の動機は明らかになっていませんが、そうした傾向と結びつけて考える向きが多いようです。報道によれば、中国全土では毎日500件以上もの暴動や大規模デモが発生しているとのことで、なにやら、王朝末期を思わせるような状況ですな。


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 在日ヴェトナム人、都内でデモ
2014-05-12 Mon 15:23
 南シナ海・パラセル諸島(中国名:西沙諸島)のヴェトナムの排他的経済水域で中国が勝手に石油掘削を行い、ヴェトナム艦船に体当たり攻撃をするなど乱暴狼藉の限りを尽くしている問題で、きのう(11日)、都内でも在日ヴェトナム人ら300人以上による抗議デモが行われました。というわけで、久しぶりのヴェトナム応援企画として、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       バクダンの戦い

 これは、1988年にヴェトナムで発行された“バクダン(白藤江)の戦い800年”の記念切手です。

 1258年以来、2度にわたるヴェトナム(陳朝)侵攻に失敗していた元朝は、1287年、トゴン(脱驩)を総司令官として9万の兵力と数百隻の船団(張文虎ひきいる数十万石の糧食を運ぶ船団を含む)を送り込み、3度目の出兵を行いました。
 
 元軍は、1287年12月末、国境を越えて諒山、北江に侵攻し、萬劫(ハイズオン省チーリン)を占領しました。これに対して、陳国峻ひきいるヴェトナム軍は焦土作戦を展開するとともに、海から白藤江を遡って元軍の補給に向かう船団を攻撃し、糧船の多くを沈没または強奪することで抵抗しました。

 このため、1288年1月末、トゴンは王都・昇龍(ハノイ)を占領したものの、すでに焦土作戦により都城はもぬけの殻になっていました。そこで、元軍は萬劫に兵を引き、そこから水路と陸路の二手に分かれて本国へ退却しようとしましたが、同年4月、陳国峻は白藤江の川底に杭を打ちこんで伏兵を配し、川の水が引いて船が杭に引っ掛かる時間を見計らって元軍の船団に総攻撃をかけ、元の水軍を全滅させました。

 今回ご紹介の切手は、陳朝の旗を掲げて戦う陳国峻の船団が、元の水軍を撃退している場面が描かれています。
 
 さて、かつて、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、“大国の横暴に屈せず戦うヴェトナム”を支持・支援してきたエセ左翼の方々は、どういうわけか、中国の覇権主義に抵抗する現在のヴェトナムについては、見て見ぬふりをすることが多いようです。そうであればこそ、僕のブログでは、今後も機会を見つけて、ヴェトナム応援企画として、ヴェトナムの反中切手を取り上げていこうかと思っています。


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 ボブ・マーリーの命日
2014-05-11 Sun 12:51
 きょう(11日)は、1981年5月11日に36歳の若さで亡くなった“レゲエの神様”ボブ・マーリーの命日です。というわけで、今日はこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       ボブ・マーリー追悼

 これは、1981年10月20日にジャマイカが発行したボブ・マーリーの追悼切手です。

 ボブ・マーリー(本名:ロバート・ネスタ・マーリー)は、1945年2月6日、ジャマイカ島の北岸にあるセント・アン教区のナイン・マイルズで、白人の英海軍大尉でジャマイカ最大の建設会社マーリー・アンド・カンパニーの経営社だったノーヴァル・マーリーと、ジャマイカ人(黒人)のセデラ・ブッカーとの間に生まれました。当時61歳の父親は、ボブが生まれると、18歳の母親を捨て、以後、母子は父親からの養育費の仕送りを受けてナイン・マイルズで過ごしました。

 1955年、父親が亡くなり養育費が途絶えると、セデラは職を求めて首都キングストン郊外のスラム、トレンチタウンに移住。ここで、バニー・ウェイラーらと音楽活動を開始し、1959年、音楽に専念するため14歳で学校を中退しました。

 この時期のトレンチタウンには“Manny Oh”のヒット曲で後にレゲエの父”と呼ばれたジョー・ヒッグスが住んでおり、ボブ・マーリーは彼から音楽のみならず、ラスタファリ運動の教えを受けています。

 プロ・ミュージシャンとしてのレコード・デビューは1962年のことで、翌1963年、ティーネイジャーズ(ウェイラーズの前身)を結成。1972年にはアイランド・レコードと契約し、翌1973年、アルバム“Catch a Fire”でメジャー・デビューを果たし、1974年、エリック・クラプトンがカヴァーした“I Shot The Sheriff”が全米ビルボードチャート1位を獲得したことで、マーリーと彼のレゲエ・ミュージックは世界的な知名度を獲得しました。

 ところで、当時のジャマイカは、保守・中道路線のジャマイカ労働党(JLP)と、社会主義インターナショナル加盟の人民国家党(PNP)の2大政党が激しく対立し、しばしば流血事件が発生していました。特に、1976年1月、選挙戦を前に大規模な暴動が発生したため、同年6月、当時のマイケル・マンリー政権(PNP)は非常事態宣言を発令。JLP党員を含む約500名が国家転覆の容疑で起訴され、ジャマイカ駐留英軍の基地であるアップパーク・キャンプ内の特設刑務所に収容されています。

 こうした中で、マイケル・マンリーの支持者でもあったマーリーはプロデューサーのクランシー・エクルズらと共にPNP の選挙キャンペーンに参加。このことがJLP支持者の憤激を買い、同年12月3日、コンサート“スマイル・ジャマイカ”のリハーサル中に狙撃されて重傷を負い、1年ほど、バハマとロンドンで亡命生活を余儀なくされました。なお、選挙は狙撃事件後の12月15日に行われ、PNPが与党となったため、非常事態宣言は翌年まで繪院長されています。また、マーリーの狙撃事件に関して、組織としてのJLPは共犯として起訴されています。

 みずからの狙撃体験と亡命生活から、祖国の分裂に深く心を痛めたマーリーは、1978年に帰国してコンサート“One Love”を開催。ステージ上でPNP党首のマイケル・マンリー(1972-80年、1989-92年の首相)とJLP党首のエドワード・シアガ(1980-89年の首相)に握手をさせ、両者の和解を演出しようとしました。しかし、その後も暴力の応酬は収まらず、1980年の選挙では、800人のジャマイカ人が殺害されています。

 一方、マーリーはその後、世界各国での演奏活動(1979年には来日もしています)とアルバムの制作を行っていましたが、持病の癌が悪化。医師からは癌に侵された足の親指の切断を勧められましたが、宗教上の理由から部分切除に留めたため、主要が全身に転移。1981年5月11日、療養先のドイツから帰国の途のつく途中で容態が悪化し、米フロリダ州の病院で亡くなりました。その後、同月21日には首都キングストンで国葬が営まれ、10月には今回ご紹介の切手も発行されたというわけです。

 さて、ことしは、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。ジャマイカも加盟国です)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。8月1-3日、東京・墨田区で開催が予定されている<全日本切手展2014>でも、これにちなみ、特別企画としてカリブ切手展を併催の予定です。今後も、同展の事前プロモーションを兼ね、機会を見つけてカリブ共同体加盟諸国・地域の切手をご紹介していきたいと考えておりますので、よろしくお付き合いください。


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 切手に描かれたソウル:KTX
2014-05-10 Sat 23:07
 ご報告がすっかり遅くなりましたが、『東洋経済日報』4月18日号が刊行されました。僕の月1連載「切手に描かれたソウル」では、今回は、今年4月で開業10周年を迎えたKTX(韓国高速鉄道)について取り上げました。その中から、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       KTX開業

 これは、KTXの開業に合わせて、2004年4月1日に発行された記念切手で、ソウル駅を出発するKTX-Iの車両が描かれています。原画作者はパクウンギョンです。

 朴正煕政権時代の1970年6月に京釜高速道路が開通して以来、韓国政府は“全国の1日生活圏化(全国を1日で往復できるようにする)”を進めていました。当初、1日生活圏化は高速道路の建設を中心に進められていましたが、2度の石油危機や自動車の急増による渋滞の悪化などもあり、全斗煥政権下の1983年頃から、京釜高速鉄道建設にむけた調査が開始されます。

 この時点では、韓国の土木建設は1988年の五輪関連のものが優先されていましたが、五輪後の1989年、韓国政府は京釜高速鉄道建設方針を正式に決定します。

 具体的な建設作業を進めるための韓国高速鉄道建設公団が発足したのは1992年3月のことで、同年6月に着工。翌1993年にはフランスTGVを基本とした車両KTX-Iが決定されます。KTX-Iは、TGV車両の韓国仕様ですが、先頭部のデザインがフランスのものよりもやや丸みを帯びているほか、車両構造が強化されているなどの点が異なっています。

 車両には、フランス・アルストム社の製品をそのまま輸入したものと、同社から主要部品を輸入して、韓国メーカーのロテム(現・現代ロテム)が組み立てるノックダウン方式で車両がつくられたものの2種類あり、2002年7月、忠清南道の天安=鳥致院間での試験運行で時速309キロを記録しました。

 在来線直通運転区間での試運転が開始されたのは、翌2003年5月のことで、2004年4月1日、京釜高速線(ソウル=釜山間)、湖南高速線(龍山=木浦間)、京義線(ソウル=幸信間:車両基地への引込線として使われている路線)が開業しました。ちなみに、東大邱=釜山間の開業により、ソウル=釜山間の京釜線が全線開通したのは、2010年11月1日のことです。

 開業当時のKTXは、全区間において専用路線は一部に限られており、大部分は在来線と線路を共有していましたが、それでも、この開業によりソウル=釜山間の移動時間はそれまでの4時間20分から2時間40分にまで短縮されるなど、大きな成果を上げています。

 KTXの営業開始に合わせてソウル駅では大規模な改修工事が行われ、開業前年の2003年、現在のガラス張りの新駅舎が竣工しました。なお、以前はソウル発の長距離列車はソウル駅を始発としていましたが、KTXの開通により、湖南線(京釜線の大田から分岐して木浦へ)・全羅線(益山で湖南線から分岐して麗水まで)・長項線(京釜線の天安から分岐して益山まで)への直通列車は龍山駅始発に変更されています。
 
 ちなみに、開業直前の3月12日、大統領選挙における不正資金疑惑により、国会で大統領への弾劾訴追が可決されたことを受けて、盧武鉉は5月14日まで大統領職務を停止され、この間、国務総理(首相)だった高健が大統領代行になった。高はソウル駅で行われた開業式典にも主賓として招かれ、盧に代わってテープカットなどのセレモニーを行っています。

 ところで、KTXといえば、昨年(2013年)10月、通関書類や検査機関の認証書を偽造して、基準に達しない韓国製のブレーキ系統の部品を“フランス製純正部品”と偽り、韓国鉄道公社に納入していた不正が明らかになっています。この時は、「11月以降、フランスの専門家が参加して点検する」ということで幕引きが図られたように記憶していますが、昨今の旅客船「セウォル号」沈没事故や地下鉄2号線の衝突事故のニュースなどを見ると、KTXも本当に大丈夫なのかなという疑念がぬぐえないのは僕だけではないと思います。

 * 本日、カウンターが136万PVを越えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。  


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 ナスカの地上絵
2014-05-09 Fri 15:14
 ペルー・ナスカの地上絵の研究を行っている山形大学人文学部付属ナスカ研究所は、きのう(8日)、ナスカ市の市街地近郊で新たに現地の家畜リャマ5体をかたどった地上絵を発見したと発表しました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ペルー移住100年

 これは、1999年5月18日に発行された「日本人ペルー移住100年」の記念切手で、ナスカの地上絵の「ハチドリ」とリャマ、それにマチュピチュ遺跡を組み合わせたデザインです。ナスカの地上絵の切手は、もちろん、ペルーからも発行されているのですが、今回のニュースにちなんで、リャマと地上絵の双方が1枚に同居しているモノということでこの1枚を選びました。

 ナスカの地上絵は、ペルーのナスカ川とインヘニオ川に囲まれた乾燥した盆地状の高原の地表面に描かれた幾何学文様や動植物の絵で、1939年6月22日、米国人考古学者のポール・コソックによって発見されました。

 翌1940年、第二次大戦が勃発したため、ペルーにとどまることになったドイツ人数学者・考古学者のマリア・ライヒェがコソックの助手となり、この二人を中心に地上絵の研究が進められることになりました。地上絵の地図作成が始まったのは大戦後の1946年頃からですが、コソックは1948年に帰国し、以後は、ライヒェが研究の中心となります。

 ライヒェは生涯ペルーを拠点に地上絵の研究を進めるとともに、私財をなげうって地上絵の保護にも尽力しました。その生涯は、まさに、地上絵にささげたものといっても過言ではなく、その功績に報いるため、1993年、ペルー政府は彼女に功労十字勲章を授与しています。

 さて、今回、山形大学のチームが発見した地上絵は、いずれも紀元前400-200年ごろに作られたものだとか。これは、今回ご紹介の切手に取り上げられているハチドリの絵よりも古い時代のもので、市街地近郊に位置し、周辺で宅地開発なども進んでいるため、今後、ペルー政府に対して保存を急ぐよう働きかけていく方針だということです。


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 ボコ・ハラームの拠点
2014-05-08 Thu 20:57
 ナイジェリア北東部ボルノ州で、ことし4月以降、西洋式の教育を全面的に否定するイスラム過激派ボコ・ハラームによって女子生徒や少女ら270人以上が相次いで拉致され、“奴隷”として売り飛ばすと脅迫されている問題で、米国やフランス、英国はきょう(8日)までに生徒の捜索と救出を支援するため、専門家チームを派遣することを決めました。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ナイジェリア・ボルノの騎兵

 これは、1953年、英領時代のナイジェリアで発行された普通切手のうち、ボルノ(ボルヌ)の騎士を描いた1ペニー切手です。

 現在のボルノ州は、1976年に北東部州の分割により誕生した旧ボルノ州から、1991年に西部の地域をヨベ州として分割した残りの地域で、ナイジェリア北東部、チャドおよびカメルーンと国境を接する位置にあります。この地域は、1893年までボルヌ帝国の支配下に置かれていましたが、同帝国の滅亡後も首長家は存続し、現在でも、地域政府の顧問という立場を維持しています。また、1960年にナイジェリアが独立した後も、1967年までは自治が行われているなど、中央政府からは自立傾向の強い地域として知られています。

 一方、ボコ・ハラームは、2002年、ボルノ州の州都マイドゥグリで、地元のイスラム神学生を母体に結成された組織で、「(現地語で西洋式の教育を意味する)“ボコ”を禁じる(アラビア語の“ハラーム”は禁止・禁忌の意味)」を名前の由来としています。

 ボコ・ハラームは2004年にボルノ州から隣接するヨベ州に本部を移し、隣国ニジェールとの国境付近に軍事訓練キャンプ“アフガニスタン”を設置。ここを拠点にナイジェリア政府の警察署の襲撃などを繰り返していました。このため、2009年以降、ナイジェリア政府は本格的にボコ・ハラームの摘発に乗り出しましたが、その結果、同年7月、バウチ州、ヨベ州、カノ州、カツィナ州で大規模な戦闘が発生し、700人以上が亡くなりました。

 以後、ボコ・ハラームはナイジェリア政府に対するテロ行為を先鋭化させ、刑務所の襲撃や爆弾テロを繰り返しています。このため、昨年(2013年)、グッドラック・ジョナサン大統領は、ボコ・ハラームの攻撃は宣戦布告に該当するとして、ボルノ州、ヨベ州、アダマワ州の3州で非常事態宣言を発令。米国政府も、11月にはボコ・ハラームをテロ組織に指定しています。また、この間の政府軍とボコ・ハラームによる戦闘を逃れ、3万7000人以上の難民が国境を越えてニジェールに逃れる事態となっています。

 今年(2014年)に入ってからでも、2月にはボルノ州内でキリスト教徒が多数を占める村が襲撃され、100人以上が犠牲となったほか、4月14日には、ボルノ州の学校を襲撃し、16-18歳の女子生徒を拉致。指導者のアブバカル・シェカウは生徒を「奴隷」として売り飛ばすと脅迫しています。さらに、今月5日には、カメルーンとの国境に近いガンボル・ヌガラの町で、この地に駐留していた政府軍兵士が女子学生救出のためにチャド湖側に再配置された隙をつき、ボコ・ハラームと見られる武装勢力による大規模な住民襲撃事件が発生。最低でも125人以上、関係者の証言などによると、おそらく数百人規模の死者が出た模様です。

 ボコ・ハラームによる女子学生の拉致事件は決して許されざることで、一刻も早い被害者の無事解放と犯人の逮捕をお祈りしております。


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 切手で訪ねるふるさとの旅:東京都
2014-05-07 Wed 18:50
 ご報告が遅くなりましたが、『(郵便局を旅する地域活性マガジン)散歩人』第27号(2014年4月号)ができあがりました。僕の連載「切手で訪ねるふるさとの旅」は、今回は巻頭特集の東京五輪50年にあわせて、東京五輪の寄附金つき切手を特集しました。そのなかから、きょうはこの切手をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

       東京五輪募金・近代五種

 これは、1964年6月23日に発行された東京五輪の第6次寄附金つき切手のうち“近代五種”を取り上げた1枚です。

 古代オリンピックでは、紀元前708年の第18回大会から、走幅跳、円盤投げ、スタディオン走(古代ギリシャ式の短距離走)、やり投げ、レスリングの5種目を1人の競技者が1日で行うペンタスロン(古代5種)が行われていました。

 近代オリンピックでは、ペンタスロンは、走幅跳、円盤投げ、200m走、1500m走、やり投げの5種目を1日でこなす“5種競技”へと姿を変えましたが、これとは別に、馬術・射撃・フェンシング・水泳・ランニングの5種をこなす“近代五種”が考案されます。

 近代五種は、ナポレオン戦争時代のフランス兵が戦果報告のために馬を駆り、銃と剣で敵と戦い、泳いで海を渡った上、走って丘を越えたというエピソードをスポーツの世界で再現しようとするもので、1912年のストックホルム・オリンピックから採用されました。推定競技人口が、日本で約100人、世界でも48ヶ国3万人程度しかいないマイナー競技ですが、近代オリンピックの父とされるクーベルタン男爵の肝いりで正式種目に入れられたこともあり、しばしばオリンピック種目からの除外が取り沙汰されるも、そのたびに生き残っています。

 なお、今回ご紹介の切手については、馬術の専門家であった渡辺進が、以下のように図案上の問題点を指摘しています。

 遠景に馬術(障害飛越と想像される)が画かれているが、そうとするとこの騎手の姿勢が何とも情けないのである。馬の体勢からして障害物を飛越せんとして踏切つた(ママ)ところと思えるのだが、この馬の尾が力なく垂れているのも変だが、更にこの騎手の姿勢は悪い。落第的であると思う。障害を飛越する時は、騎座を堅くし従つて(ママ)膝から下は鐙をふんでむしろ後の方へひかれていなければならない。上体は自然に前傾して尻は鞍から離れ、手綱を握る拳は午の首へのばしたのに自然について行かねばならない。この切手に画かれた騎手は、馬の踏切に騎座がゆるんで旗手の体が馬におくれ軽うじて(ママ)両手をのばしているといつた、馬術的に見て情けない姿勢であると思う。競馬における大障害飛越では馬の速力が極めて疾いため旗手は鐙をふんばり脚を前にのばし上体を反らして両手をのばすことがあるが、これはむしろ変格で、馬術としての障害飛越姿勢ではない。

 渡辺の指摘通りに描かれた切手としては、たとえば、第25回国体の記念切手などがありますが、たしかに、これと比べると今回ご紹介の切手の馬術は貧弱に見えてしまいますな。

 さて、今回の記事では、東京五輪の募金切手全20種をすべてご紹介しましたが、掲載誌の『散歩人』は各地の郵便局などで入手が可能ですので、御近所でお見かけになりましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
        

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 廣州駅前で無差別襲撃
2014-05-06 Tue 21:34
 中国南部の大都市・廣東省廣州市の廣州駅前で、きょう(6日)、刃物を持った4人組が通行人に切りつける事件が発生し、6人が負傷したそうです。というわけで、廣州関連のマテリアルの中から、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       廣州解放・試刷

 これは、1949年11月4日、中国共産党(以下、中共)支配下の廣東郵政管理局が発行した“廣州解放”の記念切手の試刷シートで、異なる額面の切手(図案はすべて海珠橋ですが)5種類が1枚のシートに黒一色で印刷されています。

 1949年10月1日、毛沢東が北京で中華人民共和国の成立を宣言した時点では、共産党政権は中国大陸の大半を征圧していたものの、重慶や廣州には依然として国民党の勢力が残っており、人民解放軍第4野戦軍が廣州に進駐し、香港との境界にまで迫ってきたのは10月15日のことです。

 切手に取り上げられた海珠橋は廣州市内の珠江に掛かる橋で、今回の事件現場からはほぼ真南に5キロほどの場所にあります。現在の行政区域でいうと、越秀區の起義路と海珠區の江南大道北を結んでいます。開通は1929年ですが、人民解放軍の進駐前日の10月14日、国民党が廣州を撤退する際に爆破されました。現在の橋は1950年に再建された後、2012年
2月からの改修工事を経て昨年(2013年)9月1日に再開通したものです。当然のことながら、切手には1949年の爆破前の姿が取り上げられています。なお、切手の原画は廣州在住の画家・馬次航が作成し、香港の永発印刷所で印刷されました。

 当時、香港では中共は国境を越えて進駐してくるのではないかとの懸念が広がっていました。しかし、中共は、大陸での政治と香港でのビジネスを別の次元のものと割り切っており、香港が英領であり、自由港であるがゆえに、彼らの資金源になりうることを十分に理解していました。

 すなわち、1949年7月、中共は“向ソ一辺倒”を表明し、ソ連への忠誠を誓って1950年2月には中ソ友好同盟相互援助条約を調印しました。中共側の目論見では、条約によりソ連から多額の援助を引き出すことが期待されましたが、実際に彼らがソ連から得られたのは3億米ドルの借款でしかありませんでした。このため、中共としては、ソ連以外に自らがコントロールできる資金源として香港との貿易に期待を寄せており、そのためにも、香港をあえて英領にとどめておくことで、西側陣営に楔を打ち込み、東南アジアにおける政治工作の拠点として活用しようと考えたのです。

 なお、このあたりの事情については、拙著『香港歴史漫郵記』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 インド人到達の日
2014-05-05 Mon 12:02
 今日(5日)は、日本では“こどもの日”ですが、南米のガイアナでは1838年にインド系移民が最初に到着したことを祝う“インド人到達の日”だそうです。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       ガイアナ・ホーリー祭

 これは、1969年にガイアナで発行された“ホーリー祭”の切手で、ホーリー祭で色水を掛け合う男女が描かれています。男性には光背が描かれていますので、あるいは、クリシュナとラーダーをイメージしたデザインなのかもしれません。ただし、クリシュナは青い肌で描かれるのが一般的ですが…。ちなみに、切手の題材となったホーリー祭は、ヒンドゥー世界で、春の訪れを祝い、インド暦第11月の満月の日(太陽暦ではおおむね3月)の午前中、誰彼無く色粉や色水を掛け合ったりしてお祝いします。

 さて、南米大陸北部の大西洋に面したギアナ地方は、オランダ、フランス、英国の3国によって分割されていました。1621年以降、オランダ西インド会社の管轄下にあった地域のうち、エセキボ・デメララ・バービスの3植民地が、ナポレオン戦争を経て1814年にそれぞれ個別に英領となり、1831年、英領ギアナとして統合されました。

 英国の支配下では、1834年、奴隷制が廃止されましたが、これに伴い、英領ギアナでも、砂糖工場の労働力として、英本国のみならずアイルランド、マルタ、ドイツ、ポルトガルなどからの移民がその欠を補っていましたが、1838年5月5日、インドからの移民が到達。以後、1917年までに34万人ものインド系移民が英領ギニアに流入します。当初、インド系移民とその子孫は農業に従事していましたが、次第に、首都ジョージタウンをはじめ都市部に出て商業などで財を成すようになりました。

 現在、ガイアナの人口は約76万人ですが、インド系はそのうちの43.5%を占めており、今回ご紹介の切手も、そうした社会構造を反映して発行されたものです。

 さて、ことしは、わが国とカリブ共同体(旧英領を中心にカリブの14か国1地域が加盟。ガイアナも加盟国です)の事務レベル協議開始後20年が経過した年であるとともに、ジャマイカならびにトリニダード・トバゴとの国交樹立50周年にもあたることから、“日・カリブ交流年”とされています。8月1-3日、東京・墨田区で開催が予定されている<全日本切手展2014>でも、これにちなみ、特別企画としてカリブ切手展を併催の予定です。今後も、同展の事前プロモーションを兼ね、機会を見つけてカリブ共同体加盟諸国・地域の切手をご紹介していきたいと考えておりますので、よろしくお付き合いください。
 

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 “五四運動70年”から25年
2014-05-04 Sun 15:52
 今日(4日)は、1919年の“五四運動”にちなんで、台湾では文藝節、中国では青年節の記念日となっています。というわけで、今日はこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

       五四運動70年

 これは、1989年に中国で発行された“五四運動70年”の記念切手です。

 いわゆる“五四運動”は、第一次大戦中、ドイツに宣戦布告した中華民国は“戦勝国”であるにもかかわらず、パリ講和会議において山東省の旧ドイツ権益が中国側に返還されず、大戦中の既成事実をもとに日本に譲渡することが認められたことに対して、北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場から講和条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をしたり、曹汝霖宅を焼き討ちにしたりした事件です。

 現在の中国共産政府は、中国共産党が五四運動の影響から誕生したこともあって、この事件をナショナリズムが真に大衆化した転機として高く評価しています。しかし、実際に五四運動のときのように、学生たちの矛先が体制批判に向かうことに対しては容赦のない弾圧が繰り返されています。

 その典型が、今回ご紹介の切手の題材となった“五四運動70周年”の際の事例です。

 すなわち、1989年4月8日、胡耀邦(中国共産党の総書記として言論の自由化を推進し、国民からは「開明的指導者」として支持を集めていたものの、保守派との権力闘争に敗れて失脚した)が亡くなると、その死を悼むかたちで、民主化を求める学生運動が北京を中心に発生します。運動の背景には、政府・党幹部の腐敗と汚職、鄧小平による人治(超法規的な君臨)への不満がありました。

 学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも拡大。西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と学生との衝突が発生します。これに対して、首相の趙紫陽は5月3日の“五四運動”70周年記念式典で、学生・市民の改革要求(この日、北京では約10万人が民主化を求めるデモと集会を行っていました)を“愛国的”であると評価し、事態は沈静化の方向に向かうかと思われました。

 ところが、5月13日、民主化を求める学生側がハンガーストライキに突入したことから当局側は態度を硬化。これに反発するかたちで、中国全土から天安門広場に学生・労働者などのデモ隊の数は50万人近くに膨れ上がっていきます。

 両者のにらみ合いが続く中で、5月15日、ゴルバチョフが中ソ対立の終結を表明するために訪中。世界のマスコミは自国の民主化を進めるゴルバチョフの訪中と中国における一連の民主化運動を絡めた報道を行い、天安門広場をはじめ北京市内の要所要所が民主化を求めるデモ隊で溢れ、当局による交通規制さえ不可能となった状況が世界に配信されました。

 このため、メンツを完全につぶされたと考えた当局側は、ゴルバチョフ帰国後の5月19日、北京に戒厳令を布告。23日には戒厳令布告に抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われ、30日には天安門広場の中心に、ニューヨークの自由の女神を模した“民主の女神”像が作られるなど、緊張が高まっていく中で、ついに6月3日深夜から4日未明にかけて、北京の天安門広場前に集まっていた学生・市民に対して人民解放軍が無差別に発砲。民主化運動を力ずくで鎮圧されることになりました。

 軍隊によって民主化運動を圧殺した天安門事件については、国際世論が厳しくこれを指弾し、中国は国際的な孤立に追い込まれます。しかし、中国国内では、事件については徹底した報道管制が敷かれており、現在なお、その実態は明らかにされておらず、タブーになっています。ちなみに、僕は以前、某大手メディアの媒体で中国モノの原稿を書いた際に、天安門事件の影響について触れたところ、担当の編集者から「“3つのT(台湾・チベット・天安門)”には触れないようにお願いします」と言われて書き直しを命じられたことがあります。まぁ、ともかくも中韓をたたくと本や雑誌が売れるという昨今の状況からすると、まさに隔世の感がありますな。

 なお、このあたりの事情については、1997年の“香港返還”をめぐる英中関係に絡めて、拙著『香港歴史漫郵記』でもまとめてみたことがあるので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ 切手が語る台湾の歴史 ★★★

 5月15日13:00から、よみうりカルチャー北千住にて、よみうりカルチャーと台湾文化部の共催による“台湾文化を学ぶ講座”の一コマとして、「切手が語る台湾の歴史」という講演をやります。

 切手と郵便はその地域の実効支配者を示すシンボルでした。この点において、台湾は非常に興味深い対象です。それは、最初に近代郵便制度が導入された清末から現在に至るまで、台湾では一貫して、中国本土とは別の切手が用いられてきたからです。今回の講演では、こうした視点から、“中国”の外に置かれてきた台湾(史)の視点について、切手や郵便物を題材にお話しする予定です。

 参加費は無料ですが、事前に、北千住センター(03-3870-2061)まで、電話でのご予約が必要となります。よろしかったら、ぜひ、1人でも多くの方にご来駕いただけると幸いです。


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 安倍首相、ポルトガル訪問
2014-05-03 Sat 10:53
 安倍首相が、2日(日本時間3日未明)、日本の首相として初めてポルトガルを訪問し、コエリョ首相と会談しました。というわけで、日葡交流がらみの切手ということで、この1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

       ルイス・フロイス400年(マカオ・信長)

 これは、1997年、ポルトガル領時代のマカオで発行された“ルイス・フロイス神父没後四百記念”の切手のうち、信長に謁見するフロイスのイメージを取り上げた1枚です。

 フロイスは1532年、リスボン生まれ。9歳でポルトガルの宮廷に仕えましたが、1548年、16歳でイエズス会に入会し、インドのゴアで聖職者としての訓練を受けました。語学と文筆の際に恵まれており、1561年に司祭に叙せられると、各地からの通信を扱う仕事に従事しました。

 1563年、日本に上陸して布教活動を開始し、1565年に入京。戦乱の中でも撤退せずに奮闘し、1569年、新たに入京した織田信長に謁見し、その信任を得て機内での布教を許されました。今回ご紹介の切手は、その時のイメージを表現したものです。

 その後、フロイスは活動の拠点を九州に移しましたが、1583年からはイエズス会総長の命を受けて、以後、布教で日本を訪れる宣教師のためのハンドブックとして、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念しました。その結果としてまとめられたのが、いわゆる『日本史』です。

 フロイスの『日本史』は、目次のみが存在する第1巻の「日本総記」(序文・日本六十六国誌・日本総論)についで、フランシスコ・ザビエルが日本を訪れてキリスト教の布教が開始された1549年から1578年までを扱った第1部、1578年から1589年までを扱った第2部、1590年から1594年の26聖人の殉教までの第3部で構成されており、単なるキリスト教布教史のみならず、織田信長・豊臣秀吉をはじめとする戦国大名の動向や庶民の生活実態、同時代の災害や重要事件などについて詳細に記述されています。

 フロイスは、1583年から1597年に長崎で亡くなるまで、『日本史』の執筆に心血を注ぎ、300章を越える大部な著書を著しましたが、その分量があまりに膨大であることがかえって災いすることになります。

 すなわち、1592年、イエズス会東インド管区巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、フロイスをマカオに呼び、イエズス会が制作を命じた“ハンドブック”の原稿をチェックしようとしました。ところが、フロイスの原稿があまりに膨大な分量であったため、ヴァリニャーノはフロイスに対して原稿の大幅な要約・圧縮を要求。フロイスはこれに納得しなかったため、彼の原稿が出版のためにヨーロッパへ送られることはありませんでした。

 失意のフロイスは原稿を携えて1595年に長崎に戻り、1597年に同地で亡くなるまで『日本史』の執筆を続けました。

 彼の死後、『日本史』の原稿は日本に留め置かれていたが、日本でのキリシタン弾圧が強まると、他の文書類とともにマカオに移され、聖ポール天主堂(大三巴)の学院の文書館に保管されました。

 その後、1720年にポルトガル本国で王立史学士院が設立され、ポルトガル関連文書の収集が本格的に開始されると、『日本史』についても写本がつくられるようになります。こうした文書の収集と写本の筆耕作業は、1759年、ポルトガル本国で宰相ボンパル侯がイエズス会を追放し、1762年に大三巴も本国の司教直轄とされ、併設の学院がマカオ市議会の管理下に置かれるようになると、中断されました。しかし、身の危険を察知したイエズス会士が『日本史』を含む重要写本はマニラに持ち出したため、1835年、大三巴が前壁と石段のみを残して全焼した際、『日本史』の原本も焼失したものの、写本は被害を免れ、それによって現在の我々も『日本史』の内容を知ることができるというわけです。

 なお、このあたりの事情については、拙著『マカオ紀行』でもいろいろご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ペニーブラック物語(1)
2014-05-02 Fri 07:12
 ご報告が遅くなりましたが、雑誌『キュリオマガジン』2014年5月号ができあがりました。今月号から、「ペニーブラック物語」という新連載を担当することになりました。初回の今回は、“前史”の話として、こんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

       コーヒーハウスカバー(1756)

 これは、1756年、プリマスからロンドン経由でエジンバラのコーヒーハウス宛に差し出された書簡です。

 王室や政府高官、軍隊などが公用の書簡をやり取りするための駅逓制度は、近代国家成立の以前から自然発生的に行われていたのでしょうが、それらは一般大衆には開放されていませんでした。もっとも、近代以前の英国では(じつは英国に限りませんが)、識字率そのものが非常に低く、一般庶民が手紙を出すという需要も多くはありませんでしたが…。

 ただ、遅くとも15世紀のロンドンでは、すでに、ヨーロッパ大陸から渡ってきた外国商人たちがロンドンと大陸諸都市を結ぶ通信網を確保していたことが確認されています。
 
 駅逓制度が王室などの公用便に限られていた時代には、郵便料金を徴収するという発想はありません。ところが、17世紀前半、国王チャールズ1世(在位1625-49。いわゆる清教徒革命でオリヴァー・クロムウェルに処刑された王様です)の時代になると、国家財政が苦しくなってきたことで、王室は、既存の王室駅逓(ロイヤル・ポスト)を活用し、料金を徴収して民間の手紙を運ぶことで収入を得ようと考えました。

 かくして、1635年、ロイヤル・ポストは“官営郵便”として民間人でも利用が可能となり、それに伴って郵便料金が設定されることになります。

 郵便料金というものが設定されると、次に問題となるのは、その納入方法と、料金徴収済みであることを示す方法です。その最終形が切手というわけなのですが、切手の誕生は19世紀の話。それまでの約200年間は、封筒の上に手書きで料金や支払済み(paid)の文字などを書いたり、スタンプを押したりするなどして処理されていました。

 ところで、民間に開放された当初の官営郵便は、ロンドンと主要都市間を結ぶネットワークとして機能していたものの、ロンドン市内の郵便は取り扱っておらず、ロンドン市民はそのことに不満を持っていました。

 そこで、1680年、税官吏のウィリアム・ドクラが出資者を募り、ロンドン市内での戸別配達、ペニー・ポストのサービスを開始します。

 ドクラのペニー・ポストは、料金は前納で一律1ペニー(それがペニー・ポストの名前の由来となります)。重さ1ポンド(約453.6グラム)以下、価格10ポンド以下のものに限って受け付けるということになっていました。書状の受付場所は、カフェやホテル、商店などで、現在の感覚でいえば、コンビニが宅配便を受け付けるのと近いのかもしれません。

 さて、ドクラのペニー・ポストは創業から2年後の1682年には軌道に乗り、利益も出始めますが、同年、政府は「官営郵便の独占を犯した」との理由(というよりも、ほとんど難癖に近いものと言っていいと思いますが)をつけ、ペニー・ポストを強引に国有化してしまいました。

 こうして、一応は国内の郵便ネットワークを構築した英国政府でしたが、その経営は次第に逼迫し、19世紀に入ると、その赤字は莫大な額に膨れ上がってしまいました。

 その理由はいくつかあげられます。

 まずは、無料で配達される郵便物が膨大な量にのぼっていたことが挙げられるでしょう。

 当時、国会議員や政府高官は、無料で郵便を受け取ることができました。

 日本では、なにかのサービスを受ける際に料金前払いということが珍しくありません。これは、まともな店であれば、料金に見合う真っ当なサービスが受けられるのが当たり前だという信頼関係が社会の前提になっているからですが、残念ながら、こうした日本の常識は、世界的に見れば極めて例外的なケースでしかありません。

 このため、多くの国では、“やらずぶったくり”を防ぐためにも、納得のできるサービスを受けた後で、初めて、そのサービスに対する対価を支払う(=サービスに不満があれば満額払う必要はない)というシステムになっています。いわゆるチップの習慣は、この発想によるもので、多くの日本人が海外旅行などの際に面喰うのもそのためです。近代以前の郵便配達も同様で、ロンドン市内のペニー・ポストのような例外を除くと、郵便物がきちんと宛先に届けられたことを確認したうえで、受取人が料金を支払うという仕組みになっていました。

 ところが、相手が国会議員や政府高官のような権力者だったりすると、手紙が無事に届かなければ、国家権力を使って配達人を処罰することが可能です。このため、彼ら宛の郵便物は無料であっても無事に配達される仕組みになっていました。

 とはいえ、相手がだれであろうと、郵便物を運ぶためには一定のコストがかかるわけで、その分は有料郵便の収入によって賄わなければなりません。当然のことながら、一般庶民の利用する郵便料金は割高になります。

 実は、こうした特権を見直そうという動きはヴィクトリア女王の即位以前にも何度かあったのですが、ことごとく失敗しています。それどころか、地位や立場を利用して無料郵便を濫用しようとする輩は増えるばかりでした。

 ついで、新聞の郵送料が無料であったことも、経営を圧迫する要因となっていました。

 日本人の感覚では、新聞は毎朝自宅に配達されるもの、もしくは、駅やコンビニで買うものということになっていますが、かつての欧米社会では、郵便で送られるものというイメージも強かったのです。たとえば、英国の『デイリー・メール』や米国の『ワシントン・ポスト』といった新聞の名前を聞いたことがある方は多いと思いますが、それらはいずれも、新聞が郵便で送られることに由来した命名です。

 英国は、17世紀の清教徒革命(1641-49)や名誉革命(1688-89)などの社会の大変革の時期にニュースの需要が高まり、新聞が盛んに発行されるようになりました。さらに、18世紀から19世紀にかけて、産業革命が進むと、富を蓄えたブルジョアジーが続々と誕生し、新聞の読者も急速に拡大していきます。

 ところで、当時の英国では新聞には新聞税が課されていましたが、その代わり、官営郵便で新聞を送る場合の郵送料は無料とされていました。したがって、新聞の読者が増えれば増えるほど、国家に入る新聞税は増加していきますが、その一方で、官営郵便の経営は圧迫されてしまうのです。

 さらに、当時の英国政府は郵便料金を税金の一種として扱っていたため、財政事情が悪化すると、政府は打ち出の小槌のように郵便料金を値上げしており、このことが、さらなる料金高騰の原因となっていました。

 たとえば、1812年のシングル・レター(1枚の紙を折って封筒と便箋を兼ねたもの)の料金は最高1シリング5ペンスでしたが、これは、当時の日雇い労働者一日分の労賃に匹敵する金額です。現在(2014年)の日本に置き換えてみると、平日昼間のコンビニの時給は全国平均で800円前後ですから、8時間働いたとして6400円。この値段を払ってまで手紙を出したい(出さなければならない)用事など、そう滅多にあるはずがありません。

 このように現実離れした高額の料金が設定されていれば、不正利用や不正ギリギリの方法で料金の支払いを免れようとする者が続出するのは当然です。その一例として、たとえば、古い新聞の余白に手紙を書いて無料の新聞郵便として差し出すことなどは、当たり前のように行われていました。

 今回ご紹介の書簡も、まさに、そうした不正な郵便の実例で、本来は料金無料ではない民間人の通信なのですが、政治家のコネでも利用したのか、料金無料の特権(Privilege)を示す“P”の文字が封書の中央に大きく書き込まれています。なお、当時の英国は喫茶の風習がさかんになりつつある時代で、各地のコーヒーハウスを郵便物の受け取り場所に指定する常連客も少なくありませんでした。

 また、料金が受取人払いになっていることを利用して、届けられた手紙を開封せずに配達人に返し、料金の支払を免れることも横行しています。

 中学校や高校の英語の教科書で、「封筒をかざして丸い紙が入っているのがわかれば息子が元気な証拠だから、手紙を受け取る必要はない」と言った老女のエピソード(物語の細部にはさまざまなヴァリエーションがあるようですが)を読まされた記憶があるという方も多いのではないかと思います。

 いずれにせよ、1837年にヴィクトリア女王が即位した頃には、こうした要因がいくつも積み重なって、英国の官営郵便事業は危機的な状況に陥っていたのです。

 さて、雑誌『キュリオマガジン』は、先月号(4月号)から紙面が大幅にリニューアルされ、僕も「郵便学者の世界漫郵記」に代わって「日本切手の名品」と「ペニーブラック物語」の2本の新連載を担当することになりました。ちなみに、今月号の「日本切手の名品」では見返り美人の切手をご紹介しています。機会がありましたら、ぜひ雑誌を手に取ってご覧いただけると幸いです。
 

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