内藤陽介 Yosuke NAITO
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World Wide Weblog
 ピシュペク・フルンゼ・ビシュケク
2016-08-31 Wed 10:08
 中央アジアのキルギスが1991年8月30日に旧ソ連から独立して、きょうでちょうど25年ですが、その節目を狙うかのように、きのう(29日)、首都ビシュケク(ビシケクとも)の中国大使館で門を突き破った車が敷地内で爆発してキルギス人の職員3人が負傷する自爆テロが発生しました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ロシア・ピシュペク消

 これは、1922年、ビシュケクで使用されたロシア切手で、当時のロシア語の地名“ピシュペク”表示の消印が押されています。この切手が使用された時点では、すでに、1917年の革命によりロシア帝国は崩壊していますが、ピシュペクでは郵便物の取扱量が少なかったこともあり、1922年のソ連成立までは、帝政時代の切手もそのまま有効とされていました。

 ビシュケクは、キルギス北部、カザフスタンとの国境にも近いアラ・トー山地の麓、チュイ川の流れる標高750mのチュイ峡谷に位置しています。

 もともと、この地は天山山脈を通るキャラバンの停泊地としてソグド人が築いたものと考えられており、キルギス人の進出は15世紀以降のことです。また、ビシュケクの地名の由来には諸説あり、①キルギスの国民酒である馬乳酒 を作る際の攪拌器の名前、②18世紀にこの地を支配していたキルギス人の名、③“山の下の地”を意味するソグド語またはペルシャ語、などが挙げられています。

 1825年、ウズベク系のコーカンド・ハン国が要塞を建設したのが都市としての原点で、1845年以降、ロシア帝国が侵攻を開始。その後、ロシアとコーカンド・ハン国による争奪戦の後、1862年、ロシア軍が占領し、この地をピシュペクと命名した。これを機に、ロシア各地から農民の入植がはじまり、キルギス人はパミール高原やアフガニスタンに脱出していくことになります。

 1917年のロシア革命を経て、1922年末にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立すると、中央アジアでは民族別の領域区分が導入されることになり、1924年、民族・共和国境界画定が行われます。これにより、キルギス人の居住地域は、ロシア共和国に帰属するカラ・キルギス自治州とされました。カラ・キルギス自治州は、1925年にはキルギス自治州に改称され、1926年にキルギス社会主義自治共和国となります。これに伴い、同地出身でロシア革命時の赤軍司令官、ミハイル・フルンゼ(1925年没)にちなんで、ピシュペクはフルンゼと改名され、自治共和国の首都となったフルンゼはキルギスの政治・経済・文化の中心となります。なお、1936年、自治共和国は、ソ連邦の構成共和国として、キルギス・ソヴィエト社会主義共和国に昇格しました。

 ソ連末期、ペレストロイカの進展により各地で民族対立が噴出しますが、キルギス南部のオシュでは、1990年6月4日、キルギス人とウズベク人の衝突により、600人以上の死者・行方不明者と4000人以上の負傷者が発生。これを機に、既存の共産党体制に対する住民の不満が高まり、同年10月に行われた共和国最高会議では、キルギスタン共産党第一書記のアブサマト・マサリエフを破って、民主派の支持を受けたキルギス科学アカデミー総裁のアスカル・アカエフが当選します。

 こうした中で、1991年2月、キルギス民族主義の高揚に伴い、フルンゼはビシュケクの旧称に戻り、同年8月のソ連保守派によるクーデターに反対し、8月31日、キルギスタン共和国のソ連からの独立が宣言されました。これが、現在のキルギス国家の直接のルーツとなります。

 なお、ソ連時代のフルンゼはロシア人が多数を占めていたが、現在のビシュケクは人口の大半はキルギス人で、その他、ロシア人、高麗人やウイグル人、タタール人、ドンガン人、ウクライナ人などが混在する多民族都市となっています。


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 世界漫郵記:リオデジャネイロ⑦
2016-08-30 Tue 15:15
 『キュリオマガジン』2016年9月号が発行されました。僕の連載「郵便学者の世界漫郵記」は前回に続き、リオデジャネイロ篇の第7回目。今回は、フラメンゴ公園の戦没者慰霊施設にフォーカスをあてました。その記事の中から、この1点をご紹介します。(以下、画像はクリックで拡大されます)

      フラメンゴ公園(1960)  フラメンゴ公園・実物

 左は、1960年12月22日に発行された“英霊再埋葬”の記念切手で、フラメンゴ公園の戦没者慰霊塔が描かれています。ご参考までに、右側には、実際の慰霊塔の写真を貼っておきました。

 リオデジャネイロ・フラメンゴ地区の海岸に面したエドゥアルド・ゴメス公園は、1965年、ホベウト・ブーレ・マウクスの設計により造成されました。これに先立ち、慰霊塔本体は、公募で選ばれた建築家、マルク・ネット・コンデルとヘリオ・リバス・マリーニョの2人の設計によって1956年から着工し、1960年に完成しています。慰霊塔は、主として、第二次大戦で亡くなったブラジル軍将兵の慰霊のために建てられ、その足下には戦没者の埋葬施設もあります。また、第二次大戦以外にも、第二次中東戦争後のシナイ半島で国連平和維持活動に参加し、殉職したブラジル関係者も祀られています。

 さて、1939年9月に第二次大戦が勃発した当初、ブラジル国内では、陸軍の上層部はドイツに好意的でしたが、ヴァルガス政権は中立を維持していました。

 ところが、1941年12月、日本軍による真珠湾攻撃を受けて大戦に参戦した米国は、ブラジル北東部の戦略的な位置を重視し、ブラジルを自陣営に取り込もうとします。その一環として、米国は、ヴァルガス政権の経済政策の目玉の一つであったヴォルタ・レドンダ国立製鉄所の建設資金として2000億ドルを供与し、その代償として、レシーフェに米軍基地を設置。一方、ヴァルガス政権も、中立を掲げながらも、明らかに米国寄りの外交路線に舵を切るようになっていきました。

 一方、米国と戦闘状態に突入したドイツは大西洋戦線で潜水艦Uボートを用いた連合国の通商破壊作戦を展開していましたが、その結果、1942年1月から7月までの間に13隻のブラジル商船がドイツの潜水艦攻撃によって沈められます。さらに、同年8月には、潜水艦U-507により、2日間で5隻のブラジル船が沈められ、600人以上が犠牲になりました。この8月のUボート攻撃に対して、ブラジル国内の反独世論が沸騰。ヴァルガスは陸軍内の反対論を抑え込んで、8月22日、ドイツに対して宣戦を布告しました。

 その後、大戦末期の1944年になると、ブラジルは連合国の一員として、ラテンアメリカ諸国として唯一、米軍の指揮下に2万5000名余の遠征軍(FEB:Força Expedicionária Brasileira)をイタリア戦線に派遣し、ドイツ軍と戦いましたが、イタリアで戦死したFEBの将兵466名の遺体は、戦後長らく、イタリア北部トスカーナ州ピストイアのブラジル軍墓地に埋葬されていました。これらの遺体は、1960年、慰霊塔の完成に合わせて、祖国に帰還し、慰霊塔の下の墓廟に埋葬されています。今回ご紹介の記念切手は、これに合わせて発行されたもので、当時の慰霊塔周辺の風景が描かれています。

 現在、慰霊塔の傍らには、陸海空三軍の戦士を讃える三体の群像彫刻(造形作家アウフレッド・セシアッチの作品)と、空軍を讃える金属のオブジェ(彫刻家ジュリオ・カテッリ・フィーリョの作品)が設置されていますが、切手を見ると、ポン・ヂ・アスーカルを背景に、慰霊塔本体と空軍を讃えるオブジェは見えるものの、群像彫刻が描かれていません。

 ちなみに、ブラジルと第二次大戦の関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。なお、雑誌『キュリオマガジン』の「郵便学者の世界漫郵記:リオデジャネイロ篇」も、同書に収録しきれなかった内容を加えて、年内いっぱい連載を続けていく予定ですので、こちらもよろしくお願いいたします。


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 切手に見るソウルと韓国:韓伯関係
2016-08-29 Mon 15:38
 ご報告が遅くなりましたが、 『東洋経済日報』8月19日号が発行されました。僕の月一連載「切手に見るソウルと韓国」は、今回は、リオデジャネイロ五輪開催中というタイミングでの掲載でしたので、ブラジルがらみの韓国切手ということで、この切手をご紹介しました。(画像はクリックで拡大されます)

      韓国ブラジル修好50周年(韓国)

 これは、2009年に韓国で発行された韓国ブラジル修好50周年の記念切手です。

 第二次大戦中に途絶した日本とブラジルの国交は1951年に回復しましたが、朝鮮戦争の影響もあって、1948年に独立した韓国とブラジルとの正式な国交樹立は先延ばしにされていました。

 また、日本とブラジルの国交回復に伴い、1953年以降、日本からブラジルへの移民の送り出しも再開され、日本政府の支援もあって、1959年には年間7000人もの日本人移民がブラジルに渡ることになりましたがが、これと伴走するかたちで韓国からブラジルへも小規模ながら移民が渡っていくことになります。こうした事態を受けて、1959年、ようやく韓国とブラジルは正式に国交を樹立しました。

 韓国政府は、人口の抑制、失業の解消、移民による外貨送金を期待して移民を奨励するため、1962年、海外移民法を制定するとともに、保険社会部(現保健福祉部)内に移民課を設けるなど体制を整えたうえで、ブラジル政府と移民協定を結び、同年12月、17家族92人をブラジルに送り出します。これが、ブラジルにおけるコリアン・コミュニティのルーツとなりました。

 現在、ブラジル国内には、サンパウロとフォス・ド・イグアス(パラグアイ、アルゼンチンとの国境地帯に位置する西部の都市で、世界遺産のイグアスの瀧にも近い国際観光都市)を中心に約5万人の韓国系人口があると推定されています。ただし、これ以外にも、当初はパラグアイに移住した韓国人とその子孫が国境を越えてブラジルに渡り、定着しているケースもかなりあるので(彼らはブラジル国内では“韓国出身”ではなく“パラグアイ出身”に分類されるので、統計上は“韓国系”にはカウントされません)、実際には“韓国系ブラジル人”の数は10万人を超えるともいわれています。

 なお、1980年代後半、ブラジル経済の停滞が始まると、ブラジルに移住した韓国人の帰国が出始めました。韓国系ブラジル人は、現地でも、家庭内では韓国語を話し、食事をはじめ韓国の生活様式を維持しているケースが多かったため、第一世代(韓国生まれ)の帰国者の多くは、問題なく帰国後の韓国での生活に順応しましたが、現地で生まれ育った第二世代の中には、言葉や習慣の違いから、親とともに韓国に渡ったものの、韓国社会になじめないケースも少なくないと奉公されています。

 さて、2009年、韓国とブラジルは国交樹立50周年にあわせて、両国の代表的な橋を描く同図案の記念切手を同時に発行しました。今回ご紹介の切手は、そのうちの韓国側で発行したものです。

 韓国側の題材として取り上げられ仁川大橋は、仁川国際空港のある永宗島と対岸の松島新都市を結ぶ総延長21・27キロ(うち橋梁は18・2キロ)の斜張橋で、2005年に着工しました。斜張橋部分の設計は、日本の建設コンサルタント会社・長大が受注し、斜張橋のケーブルは日本製のものが納入されています。完成は2009年10月16日で、2日後の18日に開通しました。

 一方、ブラジル側の橋として取り上げられたオクタヴィオ・フリアス・ジ・オリヴェイラ橋は、サンパウロのピニェイロス川に架かる斜張橋で、二車線の道路がX字型に立体交差し、それを一本の主塔で支えるユニークな構造で、観光名所にもなっています。全長は1600メートル、主塔の高さは138メートル。2005年に着工し、2008年に完成。同年5月10日に開通しました。


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 ケニアで TICAD VI 開催
2016-08-28 Sun 12:02
 日本とアフリカ諸国の首脳が繁栄の道を探る第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)が、きのう・きょう(現地時間27・28日)の日程で、ケニアのナイロビで開催されています。TICADの日本以外での開催は今回が初めてで、きのうの安倍首相の基調講演では、日本が官民を挙げて質の高いインフラ整備を行うなど、今後3年間で総額3兆円規模をアフリカに投資するとともに、およそ1000万人の人材育成に取り組むことが表明されました。というわけで、きょうはこの切手です。

      ケニア・モンバサ港(1963)

 これは、1963年12月12日、ケニア独立に際して発行された同国最初の普通切手で、当時のモンバサ港の風景が取り上げられています。

 モンバサは、ケニア第2の人口を有する港湾都市で、首都ナイロビの南東約500キロメートル、南アフリカ、紅海および中東の主要港の中間地点に位置しており、東アフリカ地域の最大の商業港として、ケニアのみならず、ウガンダルワンダブルンディなどの“北部回廊”でつながる後背内陸国の玄関港となっています。

 モンバサの国営製油所で精製された石油はパイプラインでナイロビとその先へ輸送されているほか、鉄・鋼材製品、肥料、食料品のほか、日本や第三国からの日本車(中古車)の輸入貨物などがモンバサ港での主な取扱品目ですが、同港におけるコンテナ貨物取扱量は、2002年の30万TEU(TEUは貨物取扱量を示す単位で、20フィートコンテナ換算を意味します)から、2012年には90万TEUに急増しており、2025年には260万TEUを超える需要が見込まれています。

 このため、ケニア政府はコンテナターミナルの新設を計画し、JICAの支援(円借款「モンバサ港開発事業フェーズ1」、2007年11月貸付契約調印)を得て、新ターミナルの建設工事が進められています。この建設工事は軟弱地盤での作業のため、まさに、きのうの首相の基調講演にあった“質の高いインフラ整備”の代表例といえましょう。ただし、この新ターミナルの取り扱い能力(約58万TEU)を加えても、伸び続ける需要には対応しきれず、2016年中には物流が停滞する恐れがあると指摘されています。

 そこで、昨年(2015年)3月9日、JICAとケニア港湾公社との間で「モンバサ港開発事業フェーズ2」を対象として、タイケニア支援としては過去最大規模の321億1600万円を限度とする円借款貸付契約が調印され、コンテナターミナルの建設と荷役機械の整備とあわせて、港湾運営の効率化への支援が行われ、現在、プロジェクトが進行中です。

 なお、TICAD VIは、日本時間の28日夜、資源輸出などに偏ってきたアフリカ経済の多角化を図ることや、テロの根絶に向けて社会の安定化を進めること、それにエボラ出血熱の感染拡大などを受け、医療・保健体制を強化することなどが盛り込んだ「ナイロビ宣言」を採択して、閉幕する予定となっています。


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 きょうから浅草サンバ・カーニヴァル
2016-08-27 Sat 11:28
 きょう・あす(27・28日)、毎年恒例の浅草サンバカーニバルが開催されます。というわけで、きょうは、この切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・カーニヴァル(1991)

 これは、1991年にブラジルで発行された“ブラジル各地のカーニヴァル”の切手のうち、リオのカーニヴァルに繰り出したサンバチーム、“エスコーラ・ヂ・サンバ”が取り上げられています。

 もともと、カーニヴァルは、西方キリスト教会で、四旬節(復活祭の46日=日曜日を除く40日前)から復活祭前日までの期間は、イエス・キリストの受難を思って肉や卵などの食事制限を行うことから、その直前に肉に別れを告げる“謝肉祭”のことで、本来は、パレードもその一環として行われるものです。それゆえ、リオのカーニヴァルは、本来の趣旨に沿って、現在でも毎年2-3月に行われています。

 ところが、1970年代以降、カーニヴァルのパレードが多くの観光客を集めることが注目され、本来の宗教的な意味とは無関係に、参加者が仮装して踊りながら行う大規模なパレードのことを“カーニヴァル”として、観光客の集まりやすい時期を選んでカーニヴァルを行う国や地域が現れるようになります。1981年から始まった浅草サンバカーニバルも、世界的にみれば、そうした潮流の中に位置づけることも可能かもしれません。

 さて、“サンバカーニバル”という名称にみられるように、現在の日本ではサンバとカーニヴァルは一体のものとみられることが多いのですが、リオデジャネイロでサンバとカーニヴァルが結びつくのは1930年代以降のことで、それ以前は、カーニヴァルのパレードで用いられる音楽は、音楽はゆっくりとしたマーチの“マルシャ”が主流でした。

 音楽としてのサンバは、公式には、1916年12月16日に楽曲として登録された「電話で(Pelo Telephone)」が最初の1曲とされていますが、サンバの原型となった舞踏と音楽は、すでに19世紀初めにアフリカのアンゴラ出身の黒人奴隷たちによって、奴隷貿易の集積地であった北東部のバイーア州に持ち込まれていたと考えられています。ちなみに、サンバという語の由来についても諸説あり、アンゴラで用いられていたバントゥ系諸語で“ダンスに誘う”を意味する“Zamba”、“Zambo”、“Zambra”、“Semba”などではないかと推測されています。

 その後、1871年の新生児解放令(同法の施行以降に生まれた者は、両親が奴隷であっても自由人となる)、1888年の奴隷制を完全に廃止する黄金法の施行を経て、“解放”された奴隷たちが職を求めてリオとその周辺に集まるようになると、しぜんと、アフリカ系の音楽とダンスもリオに持ち込まれました。

 リオに流入した黒人たちが主に演奏していたのは、バトゥカーダ(打楽器のみの構成による2拍子の音楽)、ショーロ(管楽器と弦楽器のバンドリン+、カヴァキーニョ、ギター、打楽器のパンデイロを基本構成とし、即興演奏を重視した三部形式の音楽)、ルンドゥー(アフリカ系の軽快な舞踏音楽)などで、ここに、ヨーロッパの舞曲であるポルカやマズルカ要素が入り込み、舞踏音楽としてのサンバが生まれました。

 前述の「電話で」はその1曲で、1917年、バイアーノとバンダ・ヂ・オデオンの2ヴァージョンのレコードが発売されてヒットしました。この結果、「電話で」は当時の舞踏音楽の最高の名誉として、翌1918年のカーニヴァルのテーマ曲の一つとなり、さらなる大ヒットを記録。これが、サンバとカーニヴァルの最初の接点となりました。

 なお、1920年代以降、レコード産業が発展すると、サンバのリズムやスタイルは多様化し、音楽として聴かせることに重きを置く歌謡サンバの“サンバ・カンサォン”等も誕生します。また、サンバが広く浸透することで、カーニヴァルとは無関係に、サロンやダンスホールで行われるペアダンスとしての“サンバ・ヂ・ガフィエイラ”が白人たちの間で流行し、定着していきました。

 ところで、20世紀初頭、サンバとカーニヴァルが結び付く以前のリオでは、カーニヴァルの公式なパレードには中流以上の白人しか参加が認められておらず、黒人や貧しい地域の人々は、自分たちで独自のグループを作り、カーニヴァルに勝手に参加していました。

 この小さなグループは“ブロコ”と呼ばれていますが、そうしたブロコが合併して規模を拡大していき、1928年以降、“エスコーラ・ヂ・サンバ”と呼ばれる巨大組織が生まれます。

 エスコーラというのは、本来、“学校”の意味ですが、この場合は、1928年にイズマエル・シルヴァらが組織した最初の団体の近くに学校があったため、冗談で“エスコーラ・ジ・サンバ・デイシャ・ファラール(Escola de Samba Deixa Falar=「言わせておけ」サンバ学校)”と名乗ったことに由来するもので、サンバの技能訓練施設という意味ではありません。

 1930年、リオではカーニヴァルのパレードにコンテスト制度が導入され、5つのエスコーラが参加。これが好評だったため、1932年からはリオの大手スポーツ紙「ムンド・スポルチーヴォ」が、翌1933年からは大手紙の「ウ・グロボ」が、それぞれコンテストのスポンサーとなり、メディアを通じて、“リオのカーニヴァル”の注目度もあがったことで、優れた演出、楽曲が次々に誕生するという結果をもたらしました。

 この結果、ブラジルの他の地域に比べて“リオのカーニヴァル”は次第に突出した存在になり、ブラジル・ナショナリズムの高揚を目指していたヴァルガス政権の下、政治が介入し始めます。

 すなわち、1935年にはリオ市長のペドロ・エルネストが、コンテスト上位4位のエスコーラへの賞金の支給を開始。あわせて、出し物にテーマやナショナルイベントを選択させるようにしたことで、民族的なテーマを持った出し物が登場しました。さらに、1937年以降、カーニヴァルのテーマにも“ブラジルらしさ”が強く求められるようになりましたが、その際、サンバとカーニヴァルの組み合わせは、(当時の)ヨーロッパにはなかった“黒人”という要素を全面的に取り込んでいるものとして、ヨーロッパに対するブラジルの独自性や国家アイデンティティを強調するうえで格好の素材として認識されるようになりました。1939年のカーニヴァルで、白雪姫をテーマに参加しようとしたエスコーラが、“国際的にすぎる(=ブラジルらしくない)”との理由から、参加を拒否されたのはその象徴的な出来事といえましょう。

 浅草サンバカーニバルは、当初は、“サンバ”の様式にとらわれず、さまざまなスタイルのチームが参加していましたが、現在では、リオのエスコーラに倣ったチーム対抗の本格的なコンテストになっています。

 なお、リオとカーニヴァル、サンバの関係については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 ナミビアの日
2016-08-26 Fri 10:44
 きょう(26日)は、1958年8月26日に南西アフリカ人民機構 (SWAPO) が結成され、1966年8月26日にナミビア解放闘争が始まったことにちなんで、国連が制定した“ナミビアの日(ナミビア国内では“英雄の日”)です。というわけで、今年はナミビア解放闘争50周年でもありますし、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      国連・ナミビア(1975)

 これは、1975年に国連が発行した“ナミビア支援”の切手です。

 現在のナミビア国家の領域は、第一次大戦以前はドイツ領南西アフリカとしてドイツの統治下に置かれていましたが、第一次大戦中の1915年3月、英連邦の一員として参戦した6万7000の南アフリカ連邦軍が進攻し、7月9日にはその全域を占領。これにより、ドイツ領南西アフリカは崩壊し、戦後、この地域は国際連盟によって南アフリカ連邦(以下、1961年以降の南アフリカ共和国も含めて南アと略)の委任統治領となります。

 1946年に国際連盟が解散すると、南アは国際連合への引き継ぎ期間の隙をついて南西アフリカの併合を宣言。しかし、国際社会はこれを認めず、南アによる南西アフリカの併合は不法占領であると非難します。

 1960年の国連総会では、南西アフリカを、南アを施政権者とする信託統治領(委任統治領と異なり、国連信託統治理事会が、3年に1度、現地を視察して住民に対する人権侵害や搾取がないか、自治・独立に向けた施政が行われているかを調査するほか、地域住民から国際連合への請願が認められます)とすることを決議したが、南アはこれを無視して、国連の“干渉”を排した実効支配を継続しました。

 これに対して、1962年、南西アフリカでは民族解放組織としてSWAPO が形成され、独立運動が展開されましたが、1966年、南アは本国に倣って南西アフリカでも“自治国”としてバントゥースタンを設置し、アパルトヘイト政策を強行。独立運動を徹底的に弾圧しました。

 このため、同年8月26日、SWAPOは武装闘争を開始し、いわゆるナミビア独立戦争が勃発します。

 国際社会はSWAPOを支持し、1968年には国連総会で南西アフリカをナミブ砂漠に由来する“ナミビア”と改称した上で、国連ナミビア委員会の統治下におく決議が採択されたほか、1973年の国連総会ではSWAPOがナミビアの正統政府として承認されました。今回ご紹介の切手は、そうした状況の下で、ナミビアが国連ナミビア委員会の管理下にあることを訴えるために発行されたものです。

 しかし、南ア政府はその後も“南西アフリカ”の支配をつづけ、1975年に隣国アンゴラでの内戦が勃発すると、反アパルトヘイトを掲げる左派勢力、アンゴラ解放人民運動 (MPLA)による政権樹立を阻止するため、ナミビアを拠点としてアンゴラ内戦に介入。内戦には東西冷戦の代理戦争として米ソ両国も関与したため、ナミビアとアンゴラの国境付近では南ア軍とMPLAおよび彼らを支援するキューバ軍が対峙する状況が延々と続きました。

 その後、1988年のクイト・クアナヴァレの戦いを機に、南アはアンゴラからの撤退を表明。同年12月のニューヨーク協定で、南アは、キューバ軍のアンゴラからの撤退を条件にナミビアの独立を承認し、翌1989年、国連監視下で行われたナミビアの選挙ではSWAPOが過半数を制し、1990年3月、ようやく、ナミビアは完全独立を達成することになりました。


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 ミャンマーで大地震
2016-08-25 Thu 10:40
 きのう(24日)、イタリア中部ペルージャ付近でマグニテュード6.2、ミャンマーでもマグニテュード6.8の大地震が発生し、いずれも大きな被害が出ています。このうち、イタリアに関しては日本のメディアでも盛んに報じられていますが、ミャンマーについては報道があまりないようですので、きょうはこの1枚を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ミャンマー・パガン遺跡(2012)

 これは、2012年10月1日、ミャンマーが発行した第2回TELSOM-ATRC指導者研修の記念切手で、今回の地震で大きな被害が出たバガン(パガンとも)遺跡が取り上げられています。ちなみに、切手の発行名目となったTELSOMは“電気通信・情報産業高級実務者会合”、ATRCは“ASEANテレコム規制委員会”の欧文略称です。

 切手に取り上げられたバガン遺跡は、ミャンマー中央部、マンダレー地方域のエーヤワディー川(イラワジ川)中流域の東岸の平野部一帯にあり、カンボジアのアンコール遺跡、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつとされています。

 ビルマ最初の統一王朝とされるバガン朝のアノーヤター王は、1057年、南方のモン族のタトゥン王国の都モッタマを制圧し、パーリ語で書かれた三蔵の経典を取り戻したほか、仏教僧や職人を王都バガンに招来して上座部仏教の国教化を進めました。この結果、バガンは仏教研究の国際的な中心地となり、1287年にフビライと対立して王朝が滅ぼされるまでの間に、3000を超える仏塔のほか、数多くの寺院等が建立されました。

 さて、今回のミャンマーの地震ですが、震源はバガンの約30キロ南にある町チャウク近郊で、震源の深さは84キロで、タイのバンコクやインドのコルカタでも揺れが確認されたそうです。また、この記事を書いている時点で、少なくとも3人の死亡が確認され、200基近くの仏塔が損壊したとミャンマー政府は発表しています。今回ご紹介の切手には、バガン遺跡中最大の寺院とされるダマヤンヂー寺院が大きく取り上げられていますが、同寺院を含め、切手に描かれている仏塔などにも被害が出ているかもしれません。

 イタリア・ミャンマー両国の地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被災者の方には心よりお見舞い申し上げるとともに、被災地の復旧・復興が一日も早く進むことをお祈りしております。


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 世界の国々:ルーマニア
2016-08-24 Wed 11:55
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年8月24日号が先週発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はルーマニア(2回目)の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      ルーマニア・ブラン城(1929)

 これは、1929年に発行されたブラン城の切手です。

 “ドラキュラ城”と知られるブラン城は、ルーマニアのほぼ中央に位置するブラショヴの南西28km、ブチェジ山麓に位置しています。

 現在のブラン城の直接の起源は、1377年11月、ワラキア平原から侵入するオスマン帝国軍に備えて築かれた城塞で、14世紀末、ワラキア公ヴラド1世(ミルチャ老公)がここを居城としました。“吸血鬼ドラキュラ”のモデルとされるヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)は、その孫です。

 1462年、ヴラド3世はワラキアに侵入したオスマン帝国軍を撃退しましたが、捕虜や敵に対して木杭を肛門から口に抜けるまで差し込み、地面に突き立てて野ざらしにする串刺し刑を容赦なく行い、“串刺し”を意味する“ツェペシュ”の名で恐れられました。その一方、ヴラド3世は、父のヴラド2世が神聖ローマ帝国から龍騎士団の騎士に叙任され、龍(ドラコ)にちなんだ“ドラクル”を名乗っていました。

 これらのエピソードをつなぎ合わせて、1897年、アイルランドの作家ブラム・ストーカーは小説『吸血鬼ドラキュラ』を発表し、ブラン城を主人公ドラキュラ伯爵の居城と設定したのです。ただし、歴史的事実をいえば、ヴラド3世は、ハンガリー王の招きにより、この城に数日間、滞在した可能性は高いのですが、決してここに住んでいたわけではありません。

 その後、ブラン城はハンガリー王の所有になっていましたが、1513年、クローンシュタット市(現ブラショヴ市)が城の所有権を獲得します。

 1918年、第一次大戦の戦勝国となったルーマニアは、オーストリア=ハンガリーの支配からトランシルヴァニアを奪還し、悲願の“大ルーマニア”を実現しました。これに伴い、クローンシュタットはブラショヴと改称され、同市はルーマニア王室に城を寄進。以後、ブラン城は王妃マリアが手を入れて王室の離宮の一つとして利用されました。当然、城の内部も王妃好みに改修され、現在の姿になっています。

 1944年以降、ブラン城は国王カロル2世の妹、イレアナの居城となりましたが、第二次大戦後の1947年、ルーマニアの王制は崩壊し、共産主義政権が発足すると、ブラン城は共産党政権に接収されてしまいました。

 共産党支配下のルーマニアでは、その独自の民族主義路線ゆえに、小説としてのドラキュラのイメージをヴラド3世と混同することはタブー視され、小説『ドラキュラ』は発禁とされます。その一方で、オスマン帝国と戦った民族の英雄であるヴラド3世は国民統合の象徴として最大限に活用され、彼にまつわる(とされた)ブラン城も、ルーマニア民族の誇るべき文化遺産として称揚されました。

 さらに、反対派を容赦なく串刺しの刑に処したというヴラド3世の恐怖政治は、同じく、反対派や不満分子を徹底的に弾圧していたチャウシェスクにとって格好のお手本でした。チャウシェスクが「ヴラドの恐怖支配のおかげでワラキアには犯罪者がいなかった。ヴラッドは社会革命の指導者である」と称賛していたというエピソードは、現在となってはブラックジョークでしかありません。

 さて、1989年、チャウシェスクの独裁政権は崩壊しましたが、その後を継いだルーマニア政府はブラン城を決して手放しませんでした。ドラキュラ城としてのイメージが世界的に定着しているブラン城は、民主化後のルーマニアに莫大な外貨をもたらす観光資源として、重要な意味を持っていたからです。

 じっさい、ルーマニア政府はストーカーの小説発表から100周年にあたる1997年を“ドラキュラ年”として、(歴史的事実とは異なるが)ブラン城はヴラド3世ゆかりの城であり、『吸血鬼ドラキュラ』の舞台であるとの観光キャンペーンを大々的に展開しています。

 ところが、2006年末、ルーマニア政府は、ルーマニア王家の末裔(イレアナ王女と、夫でハプスブルク家につながるトスカーナ大公家出身のアントンの子)でニューヨーク在住の建築家、ドミニク・フォン・ハプスブルクに3年間は博物館としての用途を変更できないという条件を付けて、返還しました。2007年、EUに加盟することになったルーマニアは、旧東欧共産圏の一員であった自分たちが、スラブ・ロシアよりも、ハプスブルク家のヨーロッパとの関係が深かったことを示すため、あえて、“フォン・ハプスブルク”にブラン城を返還するというパフォーマンスを行ったわけです。

 なお、2014年以降、城の現所有者たちは、高齢を理由に、ルーマニア政府に城の買い取りを求めて交渉を続けています。

 さて、『世界の切手コレクション』8月24日号の「世界の国々」では、ブラン城についてまとめた長文コラムのほか、ルーマニア人の心の故郷とされるプトナ寺院、プロイェシュティ油田、ヴラド3世の生家、カーサ・ヴラド・ドラクル2007年の欧州文化都市シビウ、ルーマニア・ワインの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。また、ルーマニアについては、機会がありましたら、拙著『トランシルヴァニア/モルダヴィア歴史紀行』も、ぜひ、ご覧ください。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、次回は、本日(24日)発売の8月31日号でのメキシコ(2回目)の特集になります。こちらについては、発行日以降、このブログでもご紹介する予定です。


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 泰国郵便学(44)
2016-08-23 Tue 10:57
 リオ五輪関係のスポーツ切手特集をやっていた関係でご報告が大変遅くなりましたが、財団法人・日本タイ協会発行の『タイ国情報』第50巻第4号ができあがりました。そこで、僕の連載「泰国郵便学」の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      タイ宛・世界人口年着印カバー(裏)  タイ宛・世界人口年着印カバー

 これは、1974年8月2日、中国・広東省からタイ・バンコクのペッチャガセム通り宛の郵便物で、バンコク到着時に“世界人口年”の機械標語印が押されています。裏面の印がクリアなので、画像としては、カバーの裏面を先にご紹介しました。なお、タイは1974年の世界人口年に際して記念切手も発行しています。

 1972年、ローマ・クラブの委嘱によるD.L.メドウズの『成長の限界』が発表されました。同書は「人は幾何学級数的に増加するが、食料は算術級数的にしか増加しない」として、「人口増加や環境汚染などの現在の傾向が続けば、100年以内に地球上の成長は限界に達する」と警鐘を鳴らしていましたが、これを受けて、国連総会は1974年を“世界人口年”に指定し、加盟各国が人口問題についての関心と対策の緊急性についての国民の認識を高めるための努力を行うものとします。

 世界人口年のメイン行事は、1974年8月19-30日、ルーマニアの首都ブカレストにおいて、世界135の国と地域の代表を集めて開催された第3回国連世界人口会議で、冒頭、ワルトハイム国際連合事務総長が、「より進歩した天然資源の使用と社会的公正の実現を図るため緊急に行動を必要とする6つの基本問題」として、①大衆貧困、②食糧供給、③エネルギー利用、④軍事支出、⑤国際通貨制度、⑥,前例のない人口増加、を指摘。これに基づいて、主として発展途上国の開発との関連において人口対策が議論され、先進国も発展途上国も人口増加の抑制目標を定めて人口対策を実施するという「世界人口行動計画」が満場一致で採択されました。

 世界人口会議の初日にあたる8月19日、タイでは啓発活動の一環として、「子供が増えれば貧困も増える」とのスローガンの入った記念切手を発行しましたが、これに先立ち、バンコク中央郵便局などでは、世界人口年を宣伝する標語入りの機械印も使用されました。今回ご紹介のカバーは、その印が着印として押されたもので、世界人口年を機に、タイ政府が人口抑制キャンペーンの手段として郵便を積極的に活用していたことがわかります。

 タイの人口は、経済成長が本格的に始まった1960年には2739万人でしたが、1965年には3182万人、1970年には3688万人、1975年には4233万人となっており、15年間で約1.5倍に拡大しました。その結果、経済成長の恩恵にあずかれない貧困層の拡大が深刻な社会問題となっており、そのことが「子供が増えれば貧困も増える」とのスローガンにつながったのでしょう。

 ただし、1人の女性が一生のうちで産む子供の平均人数を指す合計特殊出生率に関しては、1960年の6.15人と1965年の6.13人はほぼ同じですが、1970年には5.6人に、1975年には4.49人に減少。1965年から1970年の5年間での出生率の減少が0.53人であるのに対して、1970年から1975年の5年間での減少は1.11人と倍増していますから、あるいは、上述のスローガンによる世界人口年のキャンペーンが効果を挙げたと見ることも可能かもしれません。


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 リオ五輪閉幕
2016-08-22 Mon 12:07
 今月5日から行われていたリオデジャネイロ五輪は、現地時間の21日夜(日本時間22日午前)、閉会式が行われ、次回開催都市の東京へ五輪旗引き継ぎの“フラッグ・ハンド・オーヴァー”のセレモニーが行われました。というわけで、きょうはこんなモノを持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・五輪旗引継

 これは、前回のロンドン五輪から今回のリオ五輪への五輪旗の引き継ぎを題材にブラジルが発行した切手です。切手上の年号表示は、ロンドン五輪閉会式で引き継ぎのセレモニーが行われた2012年となっていますが、実際に切手が発行されたのは2015年2月2日のことです。

 切手は、ロンドンの象徴として、ウェストミンスター地区とタワーブリッジを、リオデジャネイロの象徴としてポン・ヂ・アスーカル巨大なキリスト像のあるコルコヴァードの丘を、左から順にシルエットで描くことによって、2012年のロンドンから2016年のリオデジャネイロへの変遷を表現しています。

 五輪の開催にあたって開催国が記念切手を発行することは、1896年の第1回アテネ大会の時から行われてきましたが、2大会での引き継ぎを題材とした切手が発行されたのは、1996年のアトランタ大会から2000年のシドニー大会への引き継ぎの切手をシドニー大会の開催国、オーストリアが発行したのが最初ではないかと思われます。ただし、この時のオーストリア切手は、大会最終日の1996年8月4日ではなく、会期真只中の7月22日に発行されました。なお、ソウル大会閉会式翌日の1988年10月3日、1992年のバルセロナ大会開催国のスペインがバルセロナ大会の事前周知の切手を発行していますが、この切手にはソウル大会のことは何も触れられていませんので、“引き継ぎ”を題材とした切手とは言い難いでしょう。

 その後、2000年のシドニー大会から2004年のアテネ大会への引き継ぎに関しては、2000年9月15日(シドニー五輪開会式の日)、オーストラリアとギリシャで同図案で同時に発行されています。2004年のアテネ大会から北京大会への引き継ぎに関してもこれに倣い、8月13日(大会開催中)、中国とギリシャで同図案で同時に記念切手が発行され、2008年の北京大会方ロンドン大会への引き継ぎに関しても、同年8月22日(閉会式の24日が日曜日のため、直近の金曜日)に英国が、24日(閉会式の日)に中国が同図案の切手を発行しました。

 これに対して、2012年のロンドン大会からリオ大会への引き継ぎに関しては、パラリンピック終了(9月9日)後の9月27日、英国が切手を発行していますが、ブラジルでの切手発行は上述のように2015年までずれ込んでおり、両者の図案もまったく異なっています。

 今回のリオ大会から東京大会への引き継ぎに関しては、現時点では、ブラジル・日本ともに切手の発行はありません。まぁ、大会が終了してしまったブラジルはともかく、2020年の東京大会を盛り上げるという点では、日本も過去の先例に倣い、リオ大会から東京大会への引き継ぎの切手を発行して「次は東京」をアピールしたらよかったのに…と僕などは思ってしまいます。

 なお、今回ご紹介の切手に取り上げられたポン・ヂ・アスーカルやコルコヴァードの丘を含むリオの名所旧跡については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』で詳しく取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。
 

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 マラカナンの歓喜
2016-08-21 Sun 15:33
 リオデジャネイロ五輪16日目(現地時間20日)は、日本選手のメダル獲得はありませんでしたが、マラカナン競技場でサッカー男子の決勝が行われ、PK戦の末、ブラジルがドイツを下し、悲願の金メダルを獲得しました。というわけで、きょうはこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・ペレ1000ゴール  マラカナン・ロッカールーム

 これは、1969年11月28日にブラジルが発行した“ペレ1000ゴール”の記念切手で、マラカナン競技場でゴールを決めるペレの後ろ姿が描かれています。ちなみに、実際にペレが前人未到の通算1000得点を達成したのは、1969年11月19日のマラカナン競技場での対CRヴァスコ・ダ・ガマ戦でした。

 なお、今回、決勝のPKを決めたネイマールも、切手に描かれたペレ同様、背番号10ですが(ついでですので、切手の隣に、マラカナン競技場のロッカールームでネイマールのユニフォームと一緒に撮った写真を並べておきます)、優勝ゴールを決めた瞬間は、切手のペレのように飛び上がって喜ぶのではなく、ひざまずいて涙を流し、その後はピッチに顔を伏せたまま動かなかったのが印象的でした。いずれ、その場面がブラジルの切手に取り上げられる日がくるかもしれません。

 さて、マラカナン競技場は、1950年に行われたサッカーW杯のために建設されたスタジアムで、開設当初の正式名称は“リオデジャネイロ市営スタジアム”でした。1966年、ブラジルのサッカー振興に貢献したジャーナリスト、マリオ・フィーリョの功績をたたえて正式名称は“エスタジオ・マリオ・フィーリョ”と改称されましたが、一般には、マラカナン地区にあることから“エスタジオ・ド・マラカナン(マラカナン競技場)”と呼ばれています。

 地名の“マラカナン”とは、もともとは、先住民トゥピー族の言葉で“鈴のような”を意味する単語で、そこから、鈴のような声で鳴く小鳥の名前となり、その鳥が数多く棲息するリオ郊外の沼地も“マラカナン”と呼ばれるようになったといわれています。

 1855年、競馬の運営会社だった“デルビー・クルービ(英語風の発音ではダービー・クラブ)”は、マラカナンの沼地を買い取って競馬場を建設しましたが、この競馬場はほどなくして経営難から閉鎖されてしまいます。

 その跡地に巨大サッカー・スタジアムを建設しようというプランが持ち上がったのは、ブラジルにサッカーが伝来してから半世紀以上が過ぎた1940年代後半のことでした。

 現在でこそ、ブラジルは質量ともに世界一のサッカー大国ですが、20世紀前半までは、必ずしもそうではありませんでした。

 すなわち、1916年にアルゼンチンの独立100周年を記念して開催された第1回南米選手権では、ブラジルは参加4ヵ国(アルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイ)中の3位。翌1917年の第2回南米選手権でも同じく3位という成績です。その後も、南米選手権に関しては、1919年の第3回大会と1922年の第6回大会では優勝したものの、この間の1920年の第4回大会では、ウルグアイに0-6(現在にいたるまで、南米選手権での最多得失点差での敗戦)を記録しています。

 さらに、1930年7月13-30日、独立100周年を迎えたウルグアイで開催された第1回FIFAワールドカップでは、グループ2初戦のユーゴスラヴィア戦に1-2で敗れ、続くボリヴィア戦には4-0で勝利したもののグループリーグ敗退しています。

 しかし、1930年の第1回W杯で開催国のウルグアイが優勝したことは、1932年の“護憲革命”以降、州を越えた“ブラジル国民”としてのアイデンティティを養い、国民の団結を訴える必要に迫られていたヴァルガス政権を大いに刺激しました。

 すなわち、ヴァルガス以前のブラジルでは、広大な連邦国土を構成する各州の自立傾向が強かっただけでなく、先住民のインディオ、欧州系の白人、黒人(アフリカ系、カリブ系)、日本人・中国人などアジア系、さらにはそれらの混血など、多種多様な民族が集っており、ブラジル国民としての共通項は、ポルトガル語とカトリックくらいしかありませんでした。

 このため、政権はナショナリズムを高揚させる手段としてスポーツを重視しましたが、特に、サッカーが重視されたのは

 ①南米の国でも世界一になれるW杯という具体的な目標がある
 ②サンバ、カポエイラなどの黒人のリズム感覚や身体能力を取り入れた独特の動きがサッカーにとって有効であり、それゆえ、サッカーに勝つという目標の下に人種間の宥和を促進できる
 ③かつてのポルトガル植民地時代以来、多くの国民の間には“マランドラージェン(主人や相手の目をごまかして上手に怠けることが生き残る術であり、上手な生き方であるという価値観)”の気風が染みついていたが、サッカーを通して、彼らが規律や努力を学ぶ教育効果が期待できる

 などの理由をあげることができます。

 かくして、ヴァルガス政権がサッカー振興に熱心に取り組んだ結果、人種や経済階層を問わずにボールさえあればどこでも誰でもできるスポーツとして、サッカーはブラジル国民の間でサッカーが急速に普及し、直線的で素早いパス回しをする欧州勢に対して、“ジンガ”(もともとは“ふらふら歩く、揺れる”という意味のポルトガル語ですが、サッカーでは“しなやかでリズミカルな動き・ステップ”を意味しています)を含む黒人のリズムや身体能力を取り入れた“ブラジル式”サッカーのスタイルが徐々に確立されていくことになりました。

 その結果、1934年のW杯イタリア大会で1回戦敗退だったブラジル代表は、1938年のフランス大会では堂々の3位となります。

 その次の大会は、本来であれば、1942年に開催の予定でしたが、1939年9月に第2次大戦が勃発したことで欧州での開催は不可能となります。さらに終戦直後の1946年の大会も戦争の傷跡が癒えずに見送られてしまいました。

 この間、ヴァルガスは1945年10月の軍事クーデターで大統領の座を追われましたが、彼がレールを引いたサッカーとナショナリズムを結びつける路線はその後も継承され、ブラジル政府は、1950年の大会開催国として立候補し、無競争で1950年6月24日から7月16日にかけてのW杯開催権を獲得しました。

 W杯の開催が決まると、大型スタジアムの建設が必要となります。

 当初の案では、名門クラブ“ヴァスコ・ダ・ガマ”の本拠地だったサン・ジャヌアリオ・スタジアム(1927年建設。収容人員4万)の増築も検討されましたが、1947年11月、作曲家でリオデジャネイロ市議のアリ・バホーゾらがダウンタウンにも近いマラカナン地区の競馬場跡地(デルビー)を市が買い取って新スタジアムを建設する法案を市議会に提出。これが可決され、マラカナン競技場が建設されました。

 完成当初のスタジアムは、ピッチを円形のスタンドが取り囲むという当時では斬新なデザインで、1階席3万、2階席2万5000、3階席10万という巨大なものだったこともあり、“デルビーの巨人”と称されました。また、3階席スタンドの3/4を幅30mの屋根で覆う設計だったが、観客の視界を遮らないよう柱を外側に立てることにしたため、100トンもの重みを支える強度を確保するため、工事も大幅に遅れ、6月24日の開幕に何とか間に合っています。

 開催国として悲願の初優勝を目指していたブラジルは、1次リーグを2勝1分で突破。決勝リーグにはブラジルの他、ウルグアイ、スウェーデン、スペインが進出しましたが、ブラジルは同リーグでスウェーデンを7-1、スペインを6-1の大差で破ってウルグアイとの試合に望みます。

 一方、ウルグアイは、スウェーデンに勝ち、スペインには引き分けて1勝1分の成績でブラジルとの対戦を迎えました。

 運命の1950年7月16日、19万9854人の観客が見守る中、マラカナン競技場で行われたブラジル対ウルグアイの試合では、後半開始2分にフリアカのゴールでブラジルが先制。この時点で、多くのブラジル国民はブラジルの優勝を確信していましたが、ウルグアイは後半21分にスキアフィーノが同点ゴール、後半34分にギジャが逆転ゴールを決め、そのまま試合終了。この結果、ウルグアイが3大会ぶり2回目の優勝を達成しました。

 これが、いわゆる“マラカナンの悲劇”です。

 あと一歩で悲願の初優勝を逃したブラジル国民の落胆は大きく、2人がその場で自殺したほか、2人がショック死、20人以上が失神したといわれています。また、当時9歳だったペレは、落ち込む父親に「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と励ましていましたが、はたして、8年後、1958年のスウェーデン大会では、ペレは17歳で代表メンバーに抜擢され、6得点を挙げてブラジルのワールドカップ初優勝に大きく貢献しています。

 その後、ブラジルはサッカー王国として世界に君臨し、W杯5回、南米選手権8回もの優勝を果たしていますが、なぜか、五輪の金メダルだけはこれまで獲得できませんでした。

 また、1950年の“マラカナンの悲劇”の雪辱を期して臨んだ2014年のW杯では、ブラジルははただ準決勝でドイツに1―7で惨敗しており、開催国としてマラカナン競技場で、宿敵ドイツを破ってサッカーの金メダルを獲得することは、今大会での絶対的な使命とされていました。それだけに、今回の優勝は、今後、“マラカナンの歓喜”としてブラジルの歴史に名を残すことになるのではないかと思われます。

 なお、マラカナン競技場とブラジルのサッカーの歴史については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもまとめておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 男子4×100mリレーで銀
2016-08-20 Sat 14:39
 リオデジャネイロ五輪15日目(現地時間19日)は、レスリング・フリースタイル男子57kg級の樋口黎と陸上男子4×100mリレーが銀、男子50km競歩の荒井広宙、シンクロナイズドスイミング団体、バドミントン女子シングルスの奥原希望が銅のメダルを獲得しました。というわけで、きょうは陸上のリレーを描いた切手の中から、この1点です。(画像はクリックで拡大されます)

      ベルギー・ヨーロッパ陸上(1950)

 これは、1950年7月1日、ベルギーが発行した1950年ヨーロッパ陸上競技選手権大会の寄附金つき切手の小型シートで、リレーのバトンの受け渡し場面を描く切手1枚が収められています。1950年のヨーロッパ陸上競技選手権大会は、同年8月23-27日、ブリュッセル近郊のエゼル競技場(現ボードゥアン国王競技場)で行われました。

 大会の開催に先立ち、ベルギー郵政は費用捻出の一手段として5種セットの寄附金つき切手を発行。今回ご紹介のシートに収められているのはそのうちの1枚で、単片切手としては額面1フラン75サンチームに対して25フランの寄附金が上乗せして2フランで販売されましたが、シートの状態では、さらなる寄付金をえるために20フランで販売されました。

 しかし、さすがに単片切手の10倍もの販売価格であったため、シートは大量に売れ残ってしまいます。このため、1951年4月、周囲の文字部分を切り落とし、黒枠内に“25フラン スポーツ基金のために/ 第25回ブリュッセル国際フェア”と加刷したシートが作られ、4月21日から5月6日までの会期中、国際フェアの会場で販売されました。この時の加刷文字にはフランス語版とフラマン語(オランダ語)版がありますが、とりあえず、下にはフランス語版の画像を貼っておきました。

      ベルギー・ヨーロッパ陸上切り取り
 
 ちなみに、今回ご紹介のシートが発行されたのは、ベルギー国内が国王の処遇をめぐって騒然とした状況にあった時期です。

 第二次大戦中のベルギーはナチス・ドイツに全土を占領され、政府はロンドンに亡命していましたが、国王レオポルド3世は首都ブリュッセルに残り、ドイツ、オーストリアでの軟禁生活を経て、終戦後はスイスで亡命生活を送っていました。国王は対独協力者ではありませんでしたが、亡命政府に同行しなかったことで反逆罪を問う声が上がり、ベルギーへは帰国できない状況が続いていました。

 1946年、ベルギー政府の査問委員会は国王を反逆罪に問わないと決定しましたが、異論が続出したため、1950年に国民投票が実施されます。投票はベルギー国内の南部・フラマン語地域のワロン(復帰反対)と北部・フランス語地域のフランデレン(復帰支持)の地域間対立も絡んで、復帰支持は57%にとどまりましたが、ともかくも、国民投票で過半数が復帰を支持したことで、1950年末、国王は帰国します。
 
 ところが、国王の帰国に際して、反対派は抗議のストライキを敢行し、暴徒化したスト参加者と憲兵隊の衝突で死傷者が発生。このため、国家の分裂を避けるため、1951年7月16日、国王は退位し、息子のボードゥアンが新国王となりました。

 こうした中で、当時の首相ジョゼフ・フォリアンは、国王復帰反対運動には少なからぬ共産主義者がかかわっていたこともあって、東西冷戦下での共産主義の台頭に強い警戒感を抱き、西側陣営としての旗幟を鮮明にするとともに、戦後復興のための支援を米国から獲得するためにも、朝鮮戦争への国連軍の派遣が決定されると、直ちにベルギー国連部隊の派遣を表明しています。このあたりの事情については、拙著『朝鮮戦争』でも詳しくご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 バドミントン女子複で金
2016-08-19 Fri 09:37
 リオデジャネイロ五輪14日目(現地時間18日)は、バドミントン女子ダブルスの高橋礼華・松友美佐紀ペア、女子レスリング・フリースタイル女子63kg級の川井梨紗子が金、レスリング・フリースタイル女子53kg級の吉田沙保里が銀のメダルを獲得しました。女子レスリングについては、きのうの記事でも取り上げましたので、 きょうはバドミントン切手の中から1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      デンマーク・バドミントン世界選手権(1983)

 これは、1983年のバドミントン世界選手権に際して、開催国のデンマークが発行した記念切手で、デンマークを代表するバドミントン選手だったリーネ・コペンが取り上げられています。今回のバドミントン女子ダブルスの決勝は、日本とデンマークとの対戦でしたので、デンマーク切手の中からバドミントンの女子選手を描いたものということで取り上げてみました。

 現在のバドミントン競技は、英国の伝統的な羽根つき遊びである“バトルドー・アンド・シャトルコック”が、19世紀中頃、ボーフォート公爵家の邸宅、バドミントン・ハウスでの試合を通じてルールなどが整備されて生まれたもので、1893年に英国で協会が設立され、1899年には当時の事実上の世界選手権として全英オープンが始まりました。

 わが国のバドミントンは、1921年、横浜Y.M.C.A.の広田兼敏がバドミントンの道具の寄贈を受けて、横浜の欧米人が運営するスポーツクラブを訪ねて、手ほどきを受けたのが始まりとされています。終戦直後の1946年には日本バドミントン協会が創立され、国民体育大会では、1949年の第4回大会から正式競技となりました。また、1966年には日本の女子チームが国別世界選手権で初出場・初優勝を飾り、その後の発展の基礎を築いたとされています。

 一方、今回ご紹介の切手を発行したデンマークでは、英国に次いで、古くからバドミントンの愛好家が多く、1935年からは、デンマークバドミントン協会の主催による国際大会として“デンマーク・オープン”が原則毎年開催されています。

 オリンピックに関しては、1972年のミュンヘン大会と1988年のソウル大会で公開競技として採用され、1992年のバルセロナ大会から正式競技となりましたが、この間、1977年には世界選手権がスタートしました。バドミントンの世界選手権は、1977年に第1回大会がスウェーデンのマルメで、1980年の第2回大会がインドネシアのジャカルタで、1983年の第3回大会がコペンハーゲンで開催された後、2005年までは奇数年の開催、2006年以降はオリンピック開催年を除く毎年の開催です。

 切手に取り上げられたコペンは、1953年生まれ。1977年の第1回世界選手権で混合ダブルスと女子シングルスの金メダル、1979-80年の全英選手権で女子シングルスの連覇、1980年の第2回世界選手権で混合ダブルスと女子シングルスの銅メダルを獲得した名選手で、1982年に欧州チャンピオン(1978年に次いで2度目)となった後、現役チャンピオンのまま引退しました。

 * 昨晩、アクセスカウンターが169万PVを超えました。いつも閲覧していただいている皆様には、あらためてお礼申し上げます。

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 女子レスリング、3階級制覇
2016-08-18 Thu 11:13
 リオデジャネイロ五輪13日目(現地時間17日)は、女子レスリング・フリースタイル女子48kg級の登坂絵莉、同58kg級の伊調馨、同69kg級の土性沙羅が金、卓球の男子団体が銀のメダルを獲得しました。というわけで、 きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブルガリア・女子レスリング(2007)

 これは、2007年9月17-23日、アゼルバイジャンの首都、バクーのヘイダル・アリエフ・スポーツ&エキシビション・コンプレックスで開催された2007年レスリング世界選手権の女子72kg級で優勝したスタンカ・ズラテヴァを称えてブルガリアが発行した切手です。レスリング切手の大半は男子選手を描いており、女子選手、それも試合風景を描いた切手はほとんどありません。

 女子レスリング競技の正確な起源は不明ですが、1970年後半から1980年代初頭にかけて、フランスや北欧で自然発生的に始まったとされています。1983年、国際レスリング連盟(FILA)は女子レスリング部門を認定。これを受けて、1985年にフランスのクレルモンフェランで、FILA認定の初の女子国際大会“ロジャークーロン大会”が開催され、日本からも柔道選手の大島和子が出場しています。

 続いて、1985年1月には、世界規模の大会としては初となる“世界女子フェスティバル”が開催され、1987年からは世界選手権も開催されるようになりました。オリンピックでは、2004年のアテネ大会から女子種目が採用され、48kg級、55kg級、63kg級、72kg級の4階級で競技が行われています。したがって、金メダルを獲得した伊調の4大会連覇というのは、オリンピックに女子レスリングが採用されて以来、金メダルは彼女が独占していることを意味しているわけで、あらためて、そのすごさがわかろうというものです。ちなみに、今回ご紹介の切手が発行されるきっかけになった2007年の世界選手権でも、もちろん、伊調は優勝しています。

 さて、切手に取り上げられたスタンカ・ズラテヴァは、1983年、ブルガリアのスリヴェン州生まれ。元々は七種競技の選手でしたが、レスリングに転向して2004年のアテネ五輪に参加しましたが、出場12選手中最下位の12位で敗退しました。

 2006年、元世界チャンピオンのシメオン・ステレフをコーチに迎えると急成長し、2006-08、2010-11年の世界選手権で優勝しています。ただし、2006年の決勝では浜口京子に故意と思われる頭突きを食らわせて、浜口の鼻骨3ヶ所、頬骨1ヶ所を骨折させて勝利しているほか(当然、反則行為で、後にFILAはこれを見逃した審判を降格処分にしています)、2007年にはやはり2回戦で浜口と対戦し、誤審により判定勝ちを収めているなど、日本にとっては因縁のある選手です。

 2008年の北京五輪では決勝で中国の王嬌に敗れて銀メダル、2012年のロンドン五輪でも決勝でロシアのナタリア・ボロベワに逆転フォール負けを喫して銀メダルでした。ロンドン五輪後は、しばらく休養したのち、アゼルバイジャンを本拠地としてリオ五輪への出場を目指していましたが、昨年(2015年)8月、現役引退を発表しました。
 

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 卓球・女子団体で銅
2016-08-17 Wed 11:06
 リオデジャネイロ五輪12日目(現地時間16日)は、卓球の女子団体の日本代表とシンクロナイズドスイミング・デュエットの乾友紀子 ・三井梨紗子が銅メダルを獲得しました。というわけで、 きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      マレーシア・世界卓球選手権団体戦(2000)

 これは、2000年にマレーシア・クアラルンプールで発行された第45回世界卓球選手権団体戦の小型シートです。卓球そのものの切手は、1949年にニカラグアで発行された最初の切手以来、数多く発行されていますが、団体戦にフォーカスをあてた切手というのはなかなかないので、取り上げてみました。

 国際卓球連盟の主催する世界卓球選手権は、1926年にロンドンで第1回大会が開催されて以来、途中、1940-46年に第二次世界大戦による中断をはさんで、1957年の第24回ストックホルム大会(その前年、1956年の第23回大会は東京での開催です)までは原則毎年、1959年の第25回ドルトムント大会以降は隔年で行われていました。

 その第45回大会は、当初、1999年4月26日から5月9日までの日程で“ユーゴスラヴィア連邦共和国(新ユーゴ)”のベオグラードで個人戦と団体戦の両方が開催される予定でした。ところが、当時は、ユーゴスラヴィア軍およびセルビア人勢力と、コソヴォの独立を求めるアルバニア人組織コソヴォ解放軍とのコソヴォ紛争は泥沼の様相を呈しており、1999年3月24日には北大西洋条約機構(NATO)がユーゴ空爆を行うなど事態が緊迫。このため、当時、ヨルゲン・パーソンをはじめ有力選手を抱えていたスウェーデンの卓球協会が大会への不参加を表明します。

 事態を重くみた国際卓球連盟では、選手の安全を考慮して中止を決定。代替措置として、個人戦と団体戦を分割開催することを決定し、とりあえず、1999年8月2-9日、オランダのアイントホーフェンで個人戦を開催することとしました。そして、団体戦に関しては、翌2000年2月19-26日にクアラルンプールで開催するという分離開催の方式が採られました。今回ご紹介の切手は、これを記念して開催国のマレーシアが発行したものです。

 これを機に、世界卓球選手権の運営が見直されることになり、すでに2001年に大阪での開催準備が進められていた第46回世界卓球選手権に関しては団体戦と個人戦を同時に行うものの、2003年の第47回パリ大会以降は、奇数年は個人戦、偶数年は団体戦が行われるようになっています。


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 体操・跳馬で白井が銅
2016-08-16 Tue 12:53
 リオデジャネイロ五輪11日目(現地時間15日)は、体操・男子種目別の跳馬で白井健三が銅メダルを獲得しました。日本男子の跳馬のメダル獲得は、1984年のロサンゼルス大会で銀メダルの森末慎二と具志堅幸司(同点で4人が銀メダルでした)以来、32年ぶりのことです。というわけで、 きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      モナコ・ヘルシンキ五輪(跳馬)

 これは、1953年2月23日にモナコが発行したヘルシンキ五輪参加の記念切手のうち、跳馬を描いた1枚です。今回ご紹介の切手に見られるように、かつての跳馬は鞍馬の把手を取ったような形状をしており、手前側が低く、あごが下がったような現在の跳馬とは形状が異なっています。

 ヘルシンキでの夏季五輪の開催は、もともとは、いわゆる日中戦争(支那事変)の影響で返上となった東京大会の代替として1940年に開催の予定でしたが、1939年に第二次大戦が勃発したためにこちらも中止となり、12年後の1952年に開催されたという経緯があります。ただし、夏季五輪については、開催されなかった年も回次をつけて“みなし開催”の扱いになっているため、記録上は、1952年のヘルシンキ五輪は同地での2度目の開催ということになっています。

 なお、ヘルシンキ五輪の会期は1952年7月19日から8月3日までで、今回ご紹介の切手を発行したモナコも選手団を派遣しています。その4年前のロンドン五輪(1948年)の際には、7月29日からの会期に先立ち、モナコは同年7月1日に五輪参加の記念切手を発行しているのですが、ヘルシンキ大会に際しては、なぜ、記念切手の発行が大会終了から半年近くも遅れたのか、その理由は調べきれませんでした。

 一方、わが国にとっては、ヘルシンキ五輪は、第二次世界大戦後初(16年ぶり)の夏季五輪の参加となりました。また、同大会は日本の体操選手がメダルを獲得した最初のオリンピックで、現在の床に相当する徒手で上迫忠夫が銀、跳馬で竹本正男が銀、上迫忠夫と小野喬が銅のメダルを獲得しています。ちなみに、当時21歳で銅メダルを獲得した小野は、後に、“鬼に金棒、小野に鉄棒”と呼ばれることになりますが、彼が鉄棒で五輪メダルを得たのは、ヘルシンキから4年後、1956年のメルボルン大会での金が最初のことでした。
 

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 テニスの錦織が銅
2016-08-15 Mon 17:56
 リオデジャネイロ五輪10日目(現地時間14日)は、レスリング・グレコローマン男子59kg級で太田忍が銀、テニス・男子シングルスで錦織圭が銅のメダルを獲得しました。日本勢のメダルは、1920年のアントワープ五輪での熊谷一弥が男子シングルスで、熊谷と柏尾誠一郎組がダブルスでともに銀メダルを獲得して以来96年ぶりのことです。というわけで、 きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      フィリピン・極東選手権(テニス・1934)

 これは、1934年に米領時代のフィリピンで発行された第10回極東選手権大会の記念切手で、テニスが描かれています。

 極東選手権大会は、現在のアジア競技大会の前身で、1913年、“東洋オリンピック大会”の名の下にフィリピンで第1回の大会が開催されました。

 以後、日本・中国・フィリピンの3ヶ国が持ち回りで主催者となり、1927年の第8回までは、2年ごとの開催でした。その後は、オリンピックの中間年に行われることになり、第9回大会は1930年に東京で開催され、この大会からインドが参加国に加わりました。ついで、1934年にマニラで開催された第10回大会からはオランダ領東インド(現インドネシア)も参加しましたが、いわゆる日中戦争(支那事変)の影響で、1938年に予定されていた第11回大会は中止とされます。ちなみに、1940年に開催が予定されていた東京五輪の返上が決定されたのも1938年のことでした。

 以後、戦争の影響で中断されていたアジア諸国のスポーツ交流は、1948年、アジア競技連盟の結成により再開され、1951年3月、戦前の極東選手権大会に西アジア競技大会を統合するかたちで、第1回アジア競技大会がニューデリーで開催されました。このときの参加国は、アフガニスタン、ビルマ(現ミャンマー)、インド、フィリピン、セイロン、インドネシア、ネパール、タイ、シンガポール、イラン、日本の11ヶ国で、日本が優勝しています。

 ちなみに、1929-32年に米国のフィリピン総督を務めたドワイト・フィリー・デイヴィスは、1899-1901年にかけてテニスの全米選手権の男子ダブルスで3連覇、1901年にウィンブルドン選手権で男子ダブルス準優勝を果たした名選手で、男子テニスの国別対抗戦・デヴィスカップを創設したことでも知られています。

 後に、テニスを引退したデービスは、故郷のセントルイスで政治に関わるようになり、第一次大戦中は第69歩兵連隊の参謀長として従軍。フランスでの戦闘を評価されて、レジオンドヌール勲章を授与されました。大戦後は、ワシントンD.C.で戦時金融公社の取締役、陸軍次官補、陸軍長官を経て、フィリピン総督に就任しましたが、往年の名選手が総督として着任したことで、フィリピンでもテニスが本格的に行われるようになり、彼の退任後、今回ご紹介の切手が発行されることになりました。


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 世界の国々:アジュマーン
2016-08-14 Sun 11:52
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年8月10日号が先週発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はアラブ首長国連邦(UAE)のうちアジュマーンの特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      アジュマーン・日本宛カバー

 これは、UAE発足後の1972年、移行期間として暫定的に有効だったアジュマーン切手を貼って差し出された日本宛の書留便です。宛先は大阪の著名な切手商ですから、フィラテリック・カバーであることは明らかなのですが、“アジュマーン国”表示の切手に“アジュマーン UAE”の消印が押されているところが、移行期間内のカバーであることをはっきり示しており、良い感じです。

 UAEの構成国であるアジュマーン首長国(以下、アジュマーン)は、ペルシャ湾に面して三方をシャルジャに囲まれており、2008年の人口は約36万人。面積は、UAEを構成する首長国のうち最小の260平方キロで、都市国家に近いといえます。年間平均気温は25.5℃ですが、30℃を越える6-9月と、20℃弱の12-3月で寒暖の差があり、年間降水量は101ミリです。

 現在のアジュマーンに相当する地域には5000年以上前から人間が生活していたことを示す遺跡が見つかっていますが、首長国としての歴史は、1810年、アラビア半島東北部のシャムス族の内紛を経て、ラーシド・ビン・フマイド・ヌアイミー(ラーシド1世、在位1810-16年)がシャルジャから自立してペルシャ湾岸に建国したのが原点とされています。

 1823年、アジュマーンが英国と休戦協定を結んでその保護下に入った当時の状況について、現地を視察した英国人は、①ペルシャ湾岸でも有数の良港だが、首長の邸宅しか大きな建物はない、②他の湾岸首長国同様、人口は季節ごとの変動が大きく、毎年4-9月の真珠取りの季節には1400-1700人の人がいるが、それ以外の季節はナツメヤシの収穫のために域外に出稼ぎに出てしまい、コアな人口は750人程度である、③住民の大半は厳格なワッハーブ派のムスリムである、との報告を残しています。

 アジュマーンにおける近代国家建設は、1928年に即位した第9代首長、ラーシド4世の時代によって急速に進められました。1902年生まれのラーシド4世は、1981年に亡くなるまで、53年の長きにわたって首長の座に君臨。この間、1947年にマスフート城を、1961年にマスフート門を、1976年にハッサ・ブワイド城を建設しただけでなく、1967年には、アジュマーンに近代警察制度を導入しました。また、アジュマーンとして最初の切手が発行されたの、彼の治世下のことです。

 すなわち、1963年、英国がアジュマーンを含む休戦協定諸国に現地の郵政権を移譲すると、米国の切手商フィンバー・ケニーは、この機会をとらえて、翌1964年、アジュマーン政府に対して、一定の金額を納入する代わりにアジュマーン名義の切手を制作し、全世界に販売する独占権を獲得。その後、ケニーは休戦協定諸国のフジャイラ首長とも同様の契約を結んでおり、その他の首長国も他のエージェントを使うなどして、輸出商品としての切手を続々と発行し始めました。

 さらに、1966年7月5日にマナーマに郵便局が開設されると、この地域の人口はきわめてわずかで郵便の需要もほとんど認めなかったにもかかわらず、アジュマーン本土とは別に、“アジュマーン属領マナーマ(バハレーンの首都と同名ですが、シャルジャ本土とフジャイラ本土の境界地帯に位置する別の土地です)”名義の切手も発行されています。

 ケニーの制作した切手は、首長国域内で使うためというよりも、諸外国のコレクター向けに輸出して外貨を稼ぐことを第一の目的としていたため、宇宙探検や東京オリンピック(1964年)など、アジュマーンやフジャイラとはほとんど無関係の内容のものが大半を占めており、ラベルまがいの“いかがわしい切手”として多くのコレクターからは敬遠されました。なお、1971年末にUAEが発足し、アジュマーンもそれに加盟すると、各首長国の郵政は統合され、連邦としての統一切手が発行されることになり、各首長国による“いかがわしい切手”の発行も停止されることになります。

 さて、『世界の切手コレクション』8月10日号の「世界の国々」では、アジュマーンの歴史をまとめた長文コラムのほか、鷹狩文化、ナツメヤシ、ハジャル山脈、現首長フマイド5世の切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、次回は、1週お休みをいただいて、8月24日号でのルーマニアの特集になります。こちらについては、発行日以降、このブログでもご紹介する予定です。

 *  リオデジャネイロ五輪9日目(現地時間13日)は、残念ながら、日本選手のメダル獲得はありませんでしたので、メダル獲得競技の切手のご紹介はお休みです。


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 柔道の原沢が銀、山部が銅
2016-08-13 Sat 10:34
 リオデジャネイロ五輪8日目(現地時間12日)は、柔道男子100kg超級の原沢久喜が銀、同女子78kg超級の山部佳苗が銅のメダルを獲得しました。金メダルはどちらもフランスのテディ・リネール(男子)とエミリ・アンデオル(女子)ということで、 きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス・柔道世界選手権(2011)

 これは、2011年8月23-28日にフランス・パリで開催された2011年世界柔道選手権大会(第29回世界柔道選手権大会)に際して、開催国のフランスが発行した記念切手で、男女それぞれの試合風景が取り上げられているのがミソです。ちなみに、今回、金メダルを獲得したリネールは、2010年の世界選手権無差別決勝で日本の上川大樹に敗れて以来(ただし、同大会でも100kg超級では優勝)、現在まで連勝記録を続けており、この切手の題材となった大会でも優勝しています。

 フランスに柔道が紹介されたのは、1895年、雑誌『両世界評論』に柔術に関する記事が掲載されたのが最初とされており、1905年にはエドモン・デボネがフランス最初の道場を開設しました。

 フランス柔道の歴史に決定的な影響を与えたのは、1935年、パリで日仏柔道倶楽部を創立した川石酒造之助です。

 川石は、フランスでの指導に際して、技の名前を日本語ではなく、技毎に番号をつけ記号化したものとして外国人にも理解しやすいようにしたほか、指導内容の中にピストルやナイフなどで攻撃を受けた時の反撃方法や護身術も含めることで、外国人が柔道を学びやすくする“川石メソッド”を開発。その後の、柔道の国際化の基礎を築きました。

 第二次大戦がはじまると、1940年6月にフランスは降伏し、パリを含む北部はドイツの占領下に置かれますが、日独の同盟関係の影響もあったためか、フランスの柔道は発展し、1942年にはフランス格闘技連盟の1部門としてフランス柔道柔術連盟が設立され、翌1943年5月30日にはドイツ占領下のパリで第1回フランス柔道選手権も開催されました。
  
 第二次大戦後の1946年、フランス柔道連盟は格闘技連盟から独立。その後もフランスの柔道人口は順調に増加し、1936年に50人程度であった練習生の数は1956年に2万人を超え、2011年までに約56万人が連盟から免許を受けています。

 ちなみに、柔道が五輪の正式種目となったのは1964年の東京大会ですが、フランス選手が初めてメダルを獲得したのは1972年のミュンヘン大会(結果は銅3)でした。以来、今回のリオ大会までに、フランスが獲得した柔道の五輪メダルは、男女合わせて金14、銀10、銅25の計49で、これは、日本の計82(内訳は、37、銀19、26)に次ぐ第2位の記録です。


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 卓球男子単で水谷が銅
2016-08-12 Fri 12:18
 リオデジャネイロ五輪7日目(現地時間11日)は、競泳女子200m平泳ぎの金藤理絵が金、競泳男子200m個人メドレーの萩野公介が銀、柔道男子100kg級の羽賀龍之介と卓球男子シングルスの水谷隼が銅のメダルを獲得しました。このうち、水谷は、卓球日本男子初というだけでなく、男女通じても日本初となる卓球の個人メダリストとなりました。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ニカラグア・卓球(1949)

 これは、1949年にニカラグアが発行した“第10回アマテュア野球ワールド・シリーズ”の切手のうち卓球を取り上げた1枚で、卓球を取り上げた切手としては世界最初の1枚です。日本初の快挙ということで、日本初の卓球切手を持ってこようかとも思ったのですが、そちらは団体女子がロンドンで銀を獲得したときにご紹介してしまいましたので、今回は世界初の方を持ってきました。

 切手の題材となったアマテュア野球ワールドシリーズは、1938年8月に英国で英米のティームを集めて開催されたのが最初で、後に、国際野球連盟(IBAF:International Baseball Federation )の認可を受けて“IBAFワールドカップ”となり、そこから現在のWBCにつながるというのが歴史的な流れです。

 英国の参加は1938年の第1回のみで、翌1939年の第2回大会には米国、キューバ、ニカラグアの3国が参加。以後、米州を中心に第二次大戦中も中断されることなく1945年まで毎年開催されましたが、1946年の大会が行われなかったため、1948年にニカラグアのマナグアで行われた大会が第10回となりました。

 なお、大会は1948年の開催ですが、ウォータールー・アンド・サン社製の記念切手が発行されたのは1949年7月のことでした。また、切手は、今回ご紹介の卓球を含め、野球以外のスポーツを含めて13のデザインがあり、それぞれ刷色と大きさ、額面を変えて、普通の記念切手と航空切手の計26種が発行されたほか、小型シートも発行されています。まぁ、ニカラグアとしては、国際的なスポーツイベントの開催に合わせて、とにかく、スポーツ切手を大量に発行して、全世界のコレクターに向けて輸出してしまおうという魂胆だったのでしょうが、野球のワールドシリーズと銘打った切手に卓球が描かれているというのも妙な感じです。

 ちなみに、切手が発行された1949年には“アマテュア野球ワールド・シリーズ”は開催されておらず、翌1950年に第11回の大会が、やはり、マナグアで開催されていますが、1950年の大会の記念切手は発行されていません。なんだかなぁ。

 
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 内村が体操個人総合連覇
2016-08-11 Thu 12:18
 リオデジャネイロ五輪6日目(現地時間10日)は、体操男子個人総合の内村航平、柔道男子90kg級のベイカー茉秋、同女子70kg級の田知本遥が金、競泳女子200mバタフライの星奈津美が銅のメダルを獲得しました。このうち、内村はロンドン五輪に続いての連覇で、これは、1968年メキシコ、72年ミュンヘンを制した加藤沢男以来44年ぶり、史上4人目の快挙です。というわけで、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ウクライナ・アトランタ五輪(体操)

 これは、1996年7月19日にウクライナが発行したアトランタ五輪の記念切手で、コマ送りで表現した鉄棒の回転と着地が取り上げられています。

 今回の内村は、最終種目の鉄棒で、それまで1位だったウクライナのオレグ・ベルニャエフを逆転して金メダルを獲得しましたが、試合後のベルニャエフは、内村に「審判に好かれているのでは?」と質問した記者に対して、「審判も個人のフィーリングは持っているが、スコアに対してはフェアで神聖。航平さんはキャリアの中でいつも高い得点をとっている。無駄な質問だ」と不快感をあらわにしたとか。体操の技能だけでなく、人格的にも一流の人物なんですね。そこで、ベルニャエフへの敬意も込めて、今回は、ウクライナの鉄棒切手を選んでみました。

 さて、ウクライナが独立したのは1991年8月24日のことで、ソ連が崩壊したのは同年12月25日のことでした。このため、1992年の五輪に関しては冬季のアルベールビル、夏季のバルセロナともに、バルト三国を除く旧ソ連諸国に関しては、IOCによる各国の国内五輪委員会の承認が間に合わず、旧ソ連諸国統一チームとして EUN(Équipe Unifiée)が結成され、各国の選手はEUNの一員として参加する形式が採られました。

 なお、1994年のリレハンメル五輪以降は、ウクライナを含む旧ソ連諸国は各国がそれぞれ代表選手を派遣するようになりましたので、夏季大会としては、今回ご紹介の切手の題材となった1996年のアトランタ大会が最初となりました。ちなみに、アトランタ五輪でのウクライナの獲得メダル数は金9、銀2、銅12で、体操競技では、ラスタム・シャリポフが男子平行棒で金、リリア・ポドコパエワが女子個人総合および床で金、女子平均台で銀、男子団体総合が銅、新体操ではエカテリーナ・セレブリアンスカヤが金、エレーナ・ビトリチェンコが銅という結果でした。

 
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 カヌーの羽根田が銅
2016-08-10 Wed 12:22
 リオデジャネイロ五輪5日目(現地時間9日)は、競泳男子200mバタフライの坂井聖人が銀、カヌー・スラローム男子カナディアンシングルの羽根田卓也、柔道男子81kg級の永瀬貴規、 競泳男子4×200mリレーの日本チームが銅のメダルを獲得しました。 すでに水泳柔道は取り上げましたし、日本勢のカヌーでのメダル獲得は今回が初めてということなので、きょうはこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・リオ+20

 これは、2012年6月1日にブラジルで発行された“リオ+20”の記念切手で、右側にカヌーを楽しむ人が描かれています。

 切手の題材となった“リオ+20”は、1992年のリオ地球サミットから20周年にあたる2012年6月20-22日にリオデジャネイロで開催された「国連持続可能な開発会議」の略称です。

 会議では、①現在70億人を数える世界人口は2050年までに90億人に達する、②世界の5人に1人にあたる14億人が1日1ドル25セント以下で生活している、③世界で電気を利用できない人々は約15億人、④トイレがない人々は約25億人、⑤日々飢えに苦しんでいる人は約10億人、⑥温室効果ガス排出量は増え続けており、気候変動に歯止めがかからなければ、これまで確認されている生物種全体のうち、3分の1以上が絶滅する恐れがある、という現実を踏まえ、世界の指導者が民間企業、NGOなどのグループを代表する参加者と一堂に会し、どのように貧困を削減し、社会的公正を高め、環境保護を確保できるかについての討議が行われました。

 今回ご紹介の切手は、そうしたリオ+20の趣旨を踏まえ、会議に先立ち20連刷シートの形式で発行された切手の1枚で、「自然環境や歴史文化を対象とし、それらを体験し、学ぶとともに、対象となる地域の自然環境や歴史文化の保全に責任を持つ観光のありかた」の“エコツーリズム”を題材に、ガイドとともにオニオオハシの写真を撮っている人たちも描かれています。
 
 
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 体操男子団体総合で金
2016-08-09 Tue 12:47
 現在開催中のリオデジャネイロ五輪4日目(現地時間8日)は、体操男子団体総合と柔道男子73kg 級の大野将平が金、女子女子57kg 級の松本薫 が銅のメダルを獲得しました。 というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

     ブラジル・体育教育世界会議

 これは、1991年1月7日にブラジルが発行した体育教育世界会議の記念切手で、鞍馬や床などの体操競技の男女あわせて5場面が取り上げられています。
 
 体操競技を取り上げた切手は世界各国から数多く発行されていますが、大半は単独の競技を取り上げたものばかりで(じっさい、どの競技も一流選手の演技はそれ単独で十分に美しいから仕方ないのですが)、今回ご紹介の切手のように、複数の競技は1枚の切手に並べられているのは稀です。また、団体総合でのメダル獲得を称えるマテリアルも少なからず存在していますが、その場合は、その国の代表チームの姿を取り上げたものばかりで、日本チームの金メダルの話題に関連して取り上げるのは…。というわけで、最終的に、この1枚を選んでみました。

 1889年6月、近代五輪の祖とされるピエール・ドゥ・クーベルタンがパリ万博に合わせて体育教育に関する国際会議を開催したのがルーツとされています。

 1900年9月、パリで体育教育に関する国際会議が開催されると、これを機に、体育教育に関する常設の国際組織をつくろうとの機運が高まり、1911年、国際体育教育研究所("Institute Internationale d'Education Physique)が設立されます。研究所の活動は第一次大戦で中断を余儀なくされますが、1923年7月には、ブリュッセルに本部を置く国際教育スポーツ連盟(Fédération Internationale de Gymnastique Educative)が創設され、その活動を引き継いで発展させました。その後、1958年にトルコ・イスタンブルで開催の連盟の総会で、国際体育教育連盟(FIEP: Fédération Internationale d’Education Physique)と改称され、現在に至っています。その総会である体育教育世界会議は各国持ち回りで開催されていますが、今回ご紹介の切手は、1991年にブラジルでの会議を記念して発行されたものです。

 
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 柔道の海老沼と中村が銅
2016-08-08 Mon 16:15
 現在開催中のリオデジャネイロ五輪3日目(現地時間7日)は、柔道男子66kg 級海老沼匡と女子52kg 級の中村美里がともに銅メダルを獲得しました。 というわけで、きょうは柔道の切手の中からこの1枚です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・柔道(1976)

 これは、1976年のモントリオール五輪に際してブラジルが発行した記念切手の1枚で、柔道が描かれています。リオ五輪開催国のブラジルでも柔道の切手は何度か発行されていますが、今回ご紹介の切手はその最初の1枚です。

 ブラジルにおける日系社会の歴史は1908年6月の笠戸丸移民から始まりますが、すでにこの時の移民の中にも小中学校で柔道を学んだ人が少なからずおり、移民とともに自然発生的に柔道がブラジルに持ち込まれることになりました。また、1908年12月には、香港からブラジル海軍のベンジャミン・コンスタント号に乗船した三浦鑿が船内で柔道を教えたのがきっかけで、リオの海軍兵学校で柔道を教えることになったとの記録も残されています。

 一方、1906年、講道館は柔道の国際的な普及のため柔道使節団を米国に派遣していましたが、その一員であった前田光世五段は、使節団の帰国後も米国にとどまり、米国人に本物の柔道を見せることで柔道の実践における有効性を宣伝すべく、新聞に広告を出し、積極的に公開試合を行っていました。しかし、普及活動の成果があがらなかったことから、前田は米国に見切りをつけて、1907年に渡英。さらに欧州大陸に渡って、ベルギーやフランス、スペインなどを行脚した後、キューバ、メキシコ、グァテマラ、パナマ、ペルー、ボリヴィア、チリ、アルゼンチン、ウルグアイを経て、1914年、サントス港からブラジルに上陸。しばらくリオの海軍兵学校で柔道を教えた後、翌1915年には北上してアマゾン河口の都市ベレンに到着し、以後、この地に定着することになりました。

 ベレンでの前田は、飛び入りで“アマゾン1の勇者”を決めるレスリング大会に参加して優勝。その強さと礼儀正しい振る舞いでベレン市民に感銘を与え、警察や兵学校で柔道を教える傍ら、道場を開設し、1922年、40歳で格闘家として引退するまで、多くの門弟を育てました。

 その後、1924年には大河内辰夫四段がサンパウロに移住し、大河内製薬会社を立ち上げたほか、1928年にはパリ五輪でレスリング選手として銅メダルを獲得した内藤克俊三段が農業技師としてアマゾンに入植。彼らは、サンパウロ近郊の柔道関係者の取りまとめに尽力し、その後の日系人柔道を隆盛に導くことになります。

 また、1930年代に入ると、前田光世の教えを受けたグレイシー家のエリオが、柔道にレスリングなどの技を組み合わせた柔術をさらに改良し、誰にでも使いこなせる技術体系として“グレイシー柔術”を生み出します。グレイシー柔術の祖としてのエリオは、1930年代から、“何でもアリ”を意味する総合格闘技のバーリトゥードに参戦し、日系人柔道家を次々に破るなど、約20年間無敗を誇り、ブラジル格闘界に君臨する存在となりました。1951年、サンパウロの新聞社の招待で来伯した木村政彦と戦ったマラカナン競技場での試合は、柔道史上最強と謳われていた木村が大外刈からのキムラロック(腕がらみ)を極め、エリオの腕の骨を折るという“マラカナンの屈辱”として、格闘技史上の重大事件とされています。

 なお、“マラカナンの屈辱”の詳しい経緯については、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもご説明しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 萩野、個人メドレーで金
2016-08-07 Sun 16:16
 現在開催中のリオデジャネイロ五輪は、競泳男子400m 個人メドレーで萩野公介が金、同じく瀬戸大也が銅、柔道男子60 kg級の高藤直寿と柔道女子48kg 級の近藤亜美、重量挙げ女子48kg 級で三宅宏実がそれぞれ銅メダルを獲得しました。なかでも、萩野は今大会の日本勢の金メダル第1号で、個人メドレーでの日本勢の金メダルは初めて。競泳の日本勢のダブル表彰台は1956年メルボルン大会男子200m 平泳ぎ金の古川勝、銀の吉村昌弘以来、60年ぶりだそうです。というわけで、きょうはこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・世界短水路選手権(1995)

 これは、1995年11月30日にブラジルが発行した“第2回世界短水路選手権”の記念切手で、水泳の個人メドレーで行われる自由形(上段左)、背泳ぎ(上段右)、バタフライ(下段左)、平泳ぎ(下段右)の4種の泳法が網羅されているのがミソです。

 競泳用のプールでは、短水路と呼ばれる長さ25m のものと、長水路と呼ばれる長さ50m ものがあり、ターンの回数の違いから、タイムは水路によって別々に扱われています。

 短水路の世界選手権としては、2014年まではFINA(国際水泳連盟)競泳ワールドカップが毎年、各都市持ち回りで開催されていましたが(2015年以降、長水路で実施)、それとは別に、1993年以降、短水路の専門大会として、隔年1都市で行われる短水路の世界選手権として短水路世界選手権が開催されています。

 今回ご紹介の切手の題材となったその第2回大会は、1995年11月30日から12月3日まで、リオデジャネイロのコパカバーナ特設水泳場 で、 57の国・地域から 350名が参加して行われました。 ちなみに、今回のリオ五輪の競泳競技は、コパカバーナ地区ではなく、市内中心部から西へ約 20km のバラ・ダ・チジュッカ(バーハ)地区に設けられたオリンピック・アクアティック・スタジアムで行われています。

 さて、このブログでは、毎回、五輪開催期間中の日本選手応援企画として、日本選手がメダルを獲得すると、原則として、その競技の切手を紹介することにしています。今回のリオ五輪期間中も、その先例に従って、これからしばらく、スポーツ切手を取り上げることは多くなるとおもいますが、よろしくお付き合いください。 

 なお、五輪開催都市のリオデジャネイロについては、拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でもいろいろご紹介しておりますので、機会がありましたら、ぜひご覧いただけると幸いです。


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 2004年のブラジル人ランナー
2016-08-06 Sat 22:40
 リオデジャネイロ五輪が現地時間の5日に開幕し、2004年のアテネ五輪のマラソン競技で、レース途中で暴漢に襲われつつも銅メダルを獲得したバンデルレイ・デリマが聖火リレーの最終走者として聖火台に点火しました。というわけで、きょうはこんな切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      ブラジル・アテネ五輪(聖火ランナー)

 これは、2004年6月12日にブラジルが発行したアテネ五輪の記念切手で、ポン・ヂ・アスーカルを背景にした聖火ランナーが描かれています。

 2004年アテネ五輪の聖火リレーは、2004年6月から開会式(8月13日)までに、過去の開催地を中心とした世界5大陸の全てをめぐるルートが設定され、オリンピアでの採火後、シドニー→メルボルン→東京→ソウル→北京→デリー→カイロ→ケープタウン→リオ・デ・ジャネイロ→メキシコシティ→ロサンゼルス→セントルイス→アトランタ→ニューヨーク→モントリオール→アントワープ→ブリュッセル→アムステルダム→ジュネーヴ→ローザンヌ→パリ→ロンドン→マドリード→バルセロナ→ローマ→ミュンヘン→ベルリン→ストックホルム→ヘルシンキ→モスクワ→キエフ→イスタンブル→ソフィア→ニコシア→アテネというルートで運ばれました。

 上記の都市の中で、ラテンアメリカで経由地に選ばれたのは、1968年夏季五輪の開催地であるメキシコシティとリオのみです。単純に南米最大の都市ということであれば、リオではなくサンパウロが選ばれてもおかしくはないのですが、リオに関しては、2012年の夏季五輪開催地に立候補していたために経由地となったのではないかと思われます。

 すなわち、2012年夏季五輪開催地への立候補申請は2003年7月15日に締め切られ、リオを含む9都市が2004年1月15日までに申請ファイルをIOCに提出しています。その後、IOCの作業部会がこれを精査して各都市を11項目(政府の支援・世論、インフラ、競技会場、選手村、環境、宿泊施設、交通、治安、過去の国際大会開催実績、財政、遺産)ごとに点数評価(各項目10点満点で総合平均を弾き出す)を行い、聖火リレー開始直前の5月18日にその結果を発表しています。それによると、リオは5.1点で下から3番目。総合平均が6を下回り、1次選考で落選しました。

 このため、雪辱を期するリオは、2007年9月13日までに2016年夏季五輪の開催地に立候補申請を行い、2008年6月4日に行われた1次選考では6.4点を獲得して1次選考を突破。正式立候補都市として、2009年10月2日、コペンハーゲンで開かれた第121次IOC総会において、シカゴ、東京、マドリードを破って、2016年の夏季五輪開催地となりました。

 さて、今回のリオ五輪開催に合わせて刊行の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』では、リオデジャネイロの歴史や文化、その魅力をさまざまな角度からご紹介しております。機会がありましたら、五輪観戦のお供として、ぜひご覧いただけると幸いです。

 * 本日の切手市場での行商は無事、盛況のうちに終了いたしました。お集まりいただいた皆様、就中、拙著をお買い上げいただきました皆様、そして運営スタッフの皆様に、この場をお借りして、あらためてお礼申し上げます。


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 8月6日付『東京新聞』「この人」欄で、内藤が『リオデジャネイロ歴史紀行』の著者として取り上げられました!

       リオデジャネイロ歴史紀行(東京新聞)


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 きょうからリオデジャネイロ五輪
2016-08-05 Fri 12:06
 リオデジャネイロ五輪(以下、リオ五輪)の開会式が、現地時間の5日夜(日本時間6日朝)、行われます。というわけで、きょうはストレートにこの切手を持ってきました。(画像はクリックで拡大されます)

      リオ五輪・ヴィニシウス

 これは、今回のリオ五輪のマスコットは“ヴィニシウス”を取り上げた2015年のブラジル切手です。

 ヴィニシウスは、黄色いネコ科の動物で、ネコのような外観にサルのような跳躍力を備え、ブラジルの代表色である黄色をメーンに青や緑をあしらうことで、ブラジルの豊かな動物相と野生生物を表現しています。

 今回のオリンピックおよびパラリンピックのマスコットは、主催者側が24社からアイディアを募集し、9ヶ月にわたる選考を経て、2014年の11月20日に発表されました。なお、関連商品の製造は、地元ブラジル企業ではなく、2008年の北京五輪2012年のロンドン五輪に続いて、中国の華江文化社が独占的に行うそうです。
 
 マスコットを制作したアニメーション会社、“バードスタジオ(Birdo Producoes)”は、2005年、サンパウロ大学建築学科を卒業したエグチ・ルシアナ(日系3世)とパウロ・ムペが、サンパウロ市内で、2台のパソコン、1台のファックス機で起業した新しい会社です。2017年には、米国を拠点に世界展開しているアニメ専門チャンネルのカートゥーンネットワークで、同社のオリジナル作品『オズワルド』が放送の予定だそうです。

 マスコットの名前としては、当初、同社内ではオバ、エバの名で呼ばれていたそうですが、最終的に、「イパネマの娘」などで知られるブラジル音楽の巨匠、ヴィニシウス・ヂ・モライスとアントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)にちなんで、オリンピックのマスコットが“ヴィニシウス”、パラリンピックのマスコットが“トム”と命名されました。

 2人のうち、今回ご紹介の切手のマスコットの名前の由来となったヴィニシウスは、1913年、リオデジャネイロ生まれ。リオデジャネイロ州立大学を卒業後、教育・保険部門のキャリア官僚となり、英国留学を経て1943年以降は外交官として米国、フランス、ウルグアイに赴任しました。その傍ら、学生時代から続けていた詩作・評論活動でも一目置かれる存在で、ブラジル政府の文化政策にも深く関わっています。

 1956年、彼はミュージカル『オルフェウ・ダ・コンセイサォン』(1959年に『黒いオルフェ』としてフランス・イタリア・ブラジル合作で映画化され、カンヌのパルム・ドールなどを受賞)をプロデュースしますが、その音楽を新進気鋭の作曲家として売り出し中のアントニオ・カルロス・ジョビン(通称トム・ジョビン)に依頼。以後、ヴィニシウスとジョビンはコンビを組んで数々の曲を発表するようになり、1958年には、“サンバ・カンサォンの女王”、“ブラジル音楽の至宝”などと呼ばれていた当代一の女性歌手、エリゼッチ・カルドーゾのアルバム『愛しすぎた者の歌』の全収録曲を手がけるようになりました。

 このアルバム収録曲のうち、「想いあふれて」は、現在にいたるボサノヴァの歴史の原点とされており、ヴィニシウスとジョビンのコンビは次々にヒット曲を生み出していくことになります。

 なお、このあたりの事情につきましては、新刊の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』でも取り上げておりますので、機会がありましたら、ぜひお手にとってご覧いただけると幸いです。
 

 ★★★ 新作 『リオデジャネイロ歴史紀行』 初売りのご案内 ★★★ 

 ・8月6日(土) 09:00- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。

 新作『リオデジャネイロ歴史紀行』の奥付上の刊行日は8月9日ですが、8月3日頃には現物ができあがってくるとの連絡がありました。そこで、さっそく、同書を中心に拙著を担いで行商に行きます。実物の販売は、この日が初売りとなる予定です。ぜひ遊びに来てください。


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 リオデジャネイロ歴史紀行
2016-08-04 Thu 10:31
 かねてご案内のとおり、えにし書房から発売予定(奥付上の刊行日は8月9日)の拙著『リオデジャネイロ歴史紀行』の現物ができあがりましたので、ご挨拶申し上げます。(画像は表紙カバーのイメージ。クリックで拡大されます)

      リオデジャネイロ歴史紀行

 切手は“小さな外交官”と呼ばれることもあって、多くの国では自国を代表する文化遺産や名所旧跡をさかんに切手に取り上げています。そうであれば、切手や絵葉書をガイドブック代わりに、そこに描かれた風景などを訪ねて歩いて行ったら楽しいのではないか。そんなことを考えて、僕はこれまで、切手と歴史と旅を組み合わせた漫遊記ならぬ漫郵記の本を何冊か作ってきました。

 今回の拙著はその最新作で、2013年にリオデジャネイロで開催された世界切手展<Brasiliana 2013>にあわせて行った現地取材をもとに、切手や絵葉書を手掛かりに、南米の随一の巨大都市、リオデジャネイロがたどってきた16世紀以来の歴史と文化を読み解こうとしたもので、雑誌『月刊 キュリオマガジン』で連載中の「郵便学者の世界漫郵記 リオデジャネイロ篇」をベースに、大幅に加筆して書籍に仕上げました。(なお、連載そのものは、次号以降も、年内いっぱいは、本書に収めきれなかったトピックを組み込んで続けていく予定です)

 その中には、こんなエピソードや画像も含まれています。

 ・コルコヴァードのキリスト像建設途中の貴重な画像
 ・世界有数のリゾート、コパカバーナ・ビーチのルーツはボリヴィアにあり
 ・名曲「イパネマの娘」が生まれたのはこんな場所
 ・第二次大戦に参戦したブラジル兵と“若大将”加山雄三の意外な関係
 ・リオ五輪の開閉会式が行われるマラカナン競技場の物語
 ・カーニヴァルとサンバと切手はどうつながるか?

 また、本書は、リオデジャネイロの歴史紀行という体裁をとりつつも、一読していただけると、ブラジル近現代史のアウトラインもご理解いただけるような構成になっています。

 あす(5日)から開幕のオリンピックの開催地として脚光を浴びているリオデジャネイロですが、日本からは遠く、治安も悪化しているという現下の状況では、現地には行きたくても二の足を踏んでおられる方も多いのではないかと思います。そこで、本書は、豊富な図版とともにオールカラーで、日本に居ながらにして、現地に行った氣分になっていただけるような内容を目指して制作しました。また、大統領の弾劾問題など、五輪以外にも、ブラジルをめぐる話題がニュースをにぎわせる中で、本書は、その歴史的・社会的背景をご理解いただくガイドブックの役割も果たせるのではないかと自負しております。

 つきましては、今後、書店の店頭などで実物をご覧になりましたら、ぜひ、お手にとってご覧いただけると幸いです。

 なお、本書をご自身の関係するメディアで取り上げたい、または、取り上げることを検討したいという方は、ご連絡いただければ資料をお送りいたしますので、よろしくお願いいたします。


 ★★★ 新作 『リオデジャネイロ歴史紀行』 初売りのご案内 ★★★ 

 ・8月6日(土) 09:00- 切手市場
 於 東京・日本橋富沢町8番地 綿商会館
 詳細は主催者HPをご覧ください。

 新作『リオデジャネイロ歴史紀行』の奥付上の刊行日は8月9日ですが、8月3日頃には現物ができあがってくるとの連絡がありました。そこで、さっそく、同書を中心に拙著を担いで行商に行きます。実物の販売は、この日が初売りとなる予定です。ぜひ遊びに来てください。


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 世界の国々:フランス植民地帝国
2016-08-03 Wed 08:34
 アシェット・コレクションズ・ジャパンの週刊『世界の切手コレクション』2016年8月3日号が先週発行されました。僕が担当したメイン特集「世界の国々」のコーナーは、今回はフランス植民地帝国の特集です。その記事の中から、この1点をご紹介します。(画像はクリックで拡大されます)

      フランス植民地帝国(1862)

 これは、1862年に発行されたフランス植民地共通の1サンチーム切手です。

 日本語の“帝国”は、もともとはオランダ語で神聖ローマ帝国を意味する“Keizerdom”に対して江戸時代の蘭学者があてた訳語で、この語では、皇帝を国家元首としていただく国という意味になります。

 これに対して、明治以降、英語の“Empire”などに対しても“帝国”の訳語があてられましたが、こちらは、必ずしも、国家元首が“皇帝”を称している国ということではなく、本国とは別に、通常であれば一国を形成しうるレベルの他民族・領域を支配している国家を意味しています。したがって、本国の政治体制としては、君主制に限定されず、共和制もありうるわけです。いわゆる“帝国主義”というのは、後者の用例で、共和国であるフランスがその植民地・海外領土を含めて“フランス植民地帝国”と呼ばれるのはこのためです。

 フランス人の海外進出は、1534年、フランソワ1世の命によりジャック・カルティエが北米・セントローレンス川を探検したのが最初で、17世紀初にはカナダのアカディアとケベックに植民地が建設されました。さらに、1699年にミシシッピ川流域にルイジアナ植民地が樹立されたほか、カリブ海や南米にも植民地が建設されました。一方、1673年のシャンデルナゴル植民地の創設以降、フランスはインドにも進出。しかし、1756年に始まる7年戦争から19世紀にいたるナポレオン戦争を経て、フランスは海上覇権を英国に奪われ、南北アメリカの植民地の大半を喪失しました。

 19世紀に入ると、フランスはアルジェリアを皮切りにアフリカ進出を本格化。こうした状況の中で、1859年から、右向きの鷲を描くフランス植民地共通切手の発行が開始されます。今回ご紹介の切手はそのうちの1862年に発行された1サンチーム切手です。

 ヨーロッパの伝統では、鳥の王である鷲は“皇帝”の象徴として、ローマ帝国以来、しばしば紋章のデザインに用いられており、紋章学の世界では動物は左向きに描くのが原則でしたが、フランス革命を経て1804年にフランス皇帝となったナポレオン1世は既成概念を打破するため、あえて右向きの鷲を帝国の紋章として採用しました。1852-70年の第2帝政の皇帝、ナポレオン3世は、偉大なる叔父の威光に倣い、右向きの鷲を帝国の紋章として踏襲したため、1859年から発行が開始されたフランス植民地共通の切手でも、このデザインとなりました。

 その後、1871年の普仏戦争敗戦を経て、フランスはインドシナへの進出を本格化するとともに、アフリカ北部・西部・中部の横断政策を進め、第一次大戦後はシリアとレバノンも獲得しました。しかし、第二次大戦後はインドシナ戦争アルジェリアの独立闘争を経て、1960年にはアフリカの植民地の大半が独立。現在では、海外県5、海外準県4、海外領土2が残るのみとなっています。

 さて、『世界の切手コレクション』8月3日号の「世界の国々」では、アフリカを中心としたフランス植民地帝国の歴史をまとめた長文コラムのほか、フランコフォニー、仏印の米作プランテーション、サハラ南部のサヘル地域、探検家ルネ・カイエの切手などもご紹介しております。機会がありましたら、ぜひ、書店などで実物を手に取ってご覧いただけると幸いです。

 なお、「世界の国々」の僕の担当回ですが、次回は、本日発売の8月10日号でのアジュマーンの特集になります。こちらについては、発行日以降、このブログでもご紹介する予定です。
 

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 拳銃は見せないように
2016-08-02 Tue 13:36
 米テキサス州で、きのう(1日)、一定の学生に対して大学の教室への銃の持ち込みを認める新法“キャンパスキャリー法”が施行されました。というわけで、きょうは、テキサスがらみでこの切手です。(画像はクリックで拡大されます)

      テキサス州併合150年

 これは、1995年に米国で発行されたテキサス州150年の記念切手で、テキサス州旗を掲げて馬にまたがる男性が描かれています。カウボーイ風に描かれている男性は、フツーに考えれば、腰に拳銃をぶら下げていると思われますが、切手上ではそのことは確認できません。まぁ、今回施行されたキャンパスキャリー法でも、公立大学の教室などに拳銃を持ち込むためには、“拳銃を他人に見えないように所持するためのライセンス”が必要とされていますので、銃社会の米国と言えども、拳銃を見せないように描くというのが一つのポイントということなのかもしれません。

 かつて、スペインは北米にも広大な副王領“ヌエヴァ・エスパーニャ”を有していました。

 “新スペイン”を意味するヌエヴァ・エスパーニャは、もともとは、パナマ地峡以北の新大陸のスペイン領全てを指す概念で、大陸部分では、現在のメキシコの領域に加えて米国南西部(カリフォルニア、ネヴァダ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アリゾナ、ニューメキシコ、テキサスの各州)とフロリダ半島にまで広がり、カリブ海諸島や、さらには、フィリピンとマリアナ諸島をも含んでいました。

 1776年、大西洋岸の東部13州で独立を宣言した米国は、1803年にはフランスからルイジアを購入。この結果、米国とヌエヴァ・エスパーニャとの国境を画定する必要が生じることにります。

 当時のスペイン側の認識では、ルイジアナのうち、ミシシッピ川西岸とニューオーリンズ市はスペイン領となっていましたが、アメリカ合衆国側はロッキー山脈の稜線までが自分たちの購入した土地だと考えていました。このため、東西はカルカシュー川(アロヨ・オンド)とサビーン川の間、南北はメキシコ湾から北緯32度近辺までは、当面、どちらにも属さない中立地帯(ルイジアナ中立地)とすることで決着が図られます。

 また、米国はスペインからフロリダを購入したいと希望していましたが、スペイン側はこれを拒否し続けていました。

 ところが、19世紀初頭のナポレオン戦争と、その余波としてのラテン・アメリカ諸国の独立運動により、スペインは疲弊し、本国から遠く離れたフロリダの維持が困難になります。そこで、1819年、両国間でアダムズ・オニス条約が結ばれ、米国がフロリダとルイジアナを得て、それ以西のテハス(英語名:テキサス)からカリフォルニアまでをスペインの領土とする形で、国境が確定されました。この境界線は、1821年にメキシコが独立すると、基本的には米墨間でも継承されています。

 ところが、1821年のメキシコ独立の前後から、米国からテハスへのアングロサクソンの移民が大量に流入。メキシコ政府は1830年には米国人の新規移住を禁止したものの、その後も米国からの“不法移民”の流入は止まず、1832年の時点では、テハスの人口のうち、独立以前からのメキシコ人住民の人口比率は14%にまで落ち込んでしまいます。

 こうした状況の下で、1835年、メキシコ大統領アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナが1824年憲法を廃止して、中央政府の権限が強い憲法を宣言すると、メキシコ各地でこれに反対する叛乱が発生。テハスでも、米国からの移住者たちがメキシコ中央政府からの分離独立を唱えて叛乱を起こしました。

 叛乱側は、1836年2-3月のアラモ砦の攻防戦で守備隊が全滅する敗北を喫したものの、3月21日のサン・ハシントの戦いでは、大統領を辞しメキシコ軍総司令官となっていたサンタ・アナを捕虜とし、ベラスコ条約を結んで“テキサス共和国”の独立を承認させます。

 ところで、新たに発足したテキサス共和国はリオ・グランデをメキシコとの国境と主張していましたが、メキシコ側はより北側のヌエセス川を国境と主張しており、対立がありました。

 また、テキサス共和国内では独立当初から米国との統合を求める声が強かったものの、米議会では併合慎重派が多数を占めていました。ところが、1844年の米大統領選挙で、テキサス併合を公約に掲げるジェイムズ・ポークが当選。これを受けて1845年2月、米議会は「1846年1月1日までにテキサス共和国が併合を承認すれば、州として連邦への加盟を認める」とする決議を採択します。

 これを受けて、テキサス議会は米国への併合に同意。1845年12月、米大統領ポークはテキサスを合衆国の州として受け入れる法案に署名。こうして、現在の米テキサス州が発足することになりました。


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